とんでもなくついていなく、最悪な一日がようやく終わる。
そう安堵の溜め息を漏らしつつ、翔は力なく家の門を開けた。
まだ太陽は高く、空も青い。
しかし、翔はすでにボロボロで、すぐにでも倒れてしまいそうだった。
いや、さっさとベッドに倒れこみたかった。
ともかく、今日はとことん厄日だ、改めてそう思う。
今までの人生を振り返ってみても、ここまで疲れた記憶はない。
それほどの疲労を呼び込む不幸が、雪崩のように翔を飲み込んだのだ。
元々嫌な予感はしていた。
昨日、自分が学校でやらかした事が、どういった困難を呼び込むかくらいは想像できていたし、
覚悟はしていたつもりだった。
しかし現実は想像をはるかに超えていて、覚悟という名の心の壁はいともあっさりと決壊し、
裸にされた一番柔らかい精神をジワジワといたぶられた結果、
肉体的と言うより精神的な疲労でグロッキーになってしまったのである。
今朝、教室につくや否や、いきなり好奇の目に晒された。
昨日の中野とのやりとりが、事実を無視して一人歩きし、様々な憶測がクラスの中で飛び交っていた。
浮気したとか、だから別れるとか、果てには中野をもてあそんだ悪者にまでされていた。
もちろんそれら全ては事実無根であり、翔は必死で噂を否定しようとしたのだが、
間が悪いことに中野が欠席したため、
余計に高まったクラスの好奇心を沈静化させる事は出来なかった。
たっぷりの非難と好奇と、主に男子の嫉妬に晒されつつ迎えたホームルームはさらに地獄だった。
担任はテストを放ったらかしにして、しかも無断で早退した翔にたいそうおかんむりで、
朝っぱらから怒鳴り声をあげた。もう大学進学は絶望だとか、こんな馬鹿ははじめて見たとか、
昨日巨人が負けたのはお前のせいだとか、ここぞとばかりに関係のない事まで持ち出し、
翔の精神をガリガリ削る。
担任は加虐的嗜好を瞳に宿し、そこに快感を見い出したのか、
一時間目の授業まで全て説教で潰しやがった。
そしてようやく辿りついた休み時間。
こってりと絞られ、とってもへろへろな翔は、力なく机に突っ伏していた。
相変わらずクラスは翔の噂で持ちきりだが、もう翔にはそれを否定する力は残っていなかった。
そして、抵抗する力を削がれた晒し者の地獄は、一日中続いたのだった。
思い返すだけで、重い疲労に押し潰された肺から、溜め息ばかりが漏れる。
せめて中野がいてくれれば、噂を沈静化出来たかもしれない、と思うと、
今日に限って欠席しやがった中野に恨めしい気持ちが沸々と煮えたぎる。
もっとも、今日学校に来れなかった中野の心情も分からないでもないが。
そのとき、ふと、今日は澄香の姿を見掛けなかった事を思い出した。
教室の噂を拾い聞きしたかぎり、澄香も今日は欠席らしい。
あくまでそれは噂なのだが、いつもならお昼を誘いにくるはずなのに、
今日は来なかった所から考えると、まんざら噂だけではないようだ。
昨日、夜風に当たり過ぎて風邪でもひいたのだろうか。少し心配だ。後で電話してみよう。
そんな事を考えながら、残された僅かな力を振り絞り、玄関先の花瓶を持ち上げる。
家政婦が残した家の鍵が、ここに隠されているはずなのだ。
が、持ち上げた花瓶の下に、あるべきはずの鍵はなかった。
その事にいささか不審に思いもしたが、それは珍しいことにしても、初めてというわけではなく、
首を傾げどそれ以外に何ら感じる事はなかった。
家に来る家政婦は、まれにそういったミスを犯し、鍵を持って帰ってしまうのだ。
もっとも、それで家に入れないわけではないので、
翔はすぐに思い直し、鞄から鍵を取り出して、玄関のドアを開けた。
後ろ手で鍵を閉め、玄関の上がり端に鞄を放り投げると、
翔はゾンビのような足取りで階段を登っていく。
二階の廊下の突き当たりに翔の部屋がある。
その途中にある部屋は全て空き部屋となっていて、また一階も同じように空き室が多く、
そのため翔のこの家での行動範囲は、自分の部屋と台所、リビング、後はトイレと風呂くらいで、
他の部屋にはほとんど入る事はない。
それでも時々垣間見るそれらの空き室は、奇妙なくらい整然としていて、埃ひとつない。
有能な家政婦が、全ての部屋を平等に掃除してくれているのである。
しかしそれは、悪く言うと画一的であり、生活の匂いのない部屋まで整然としているのは、
より今の状況が目の前につきつけられるような気がして寂しさを助長させている。
一番散らかっている翔の部屋が、妙に落ち着き居心地がいいのも、
その辺りに理由があるのかもしれない。
細い廊下、その突き当たりにある自室の前まで歩を進める。
そこにはのっぺりと黙りこんだドアが佇んでいる。部屋と自分を遮るそのドアのノブを回し、
静かにそれを押した。
眼前に、見慣れた自室の光景が飛込んできた。
少しだけ、気が抜けて疲れがドッと体に押し寄せる。
危うくその場にへたりこみそうになったが、そこは気合いで乗り切る。
ベッドは、すぐそこだ。
部屋の中に足を踏み入れる。その時だった。いきなり体に戦慄が走った。
──何かが、おかしい。
見慣れているはずの自分の部屋に妙な違和感を感じる。
それは、心の隅に宿った小さな感情。しかし、その感情はすぐに翔の心全てを飲み込んでいく。
心臓が、早鐘をうつ。
何だ?何がおかしいんだろう。
改めて部屋を見渡す。
今朝見た時と同じ机、同じベッド、同じ本棚、同じテーブル。何も変わっていない。
そのとき、ふとテーブルの上に目が止まった。出した覚えはない、
しかしまた、出していないという確信もない幾冊かのアルバムが、そこに散乱しているのだ。
違和感の正体はこれだろうか。
一番上のアルバムを取り上げる。それは中学時代の、卒業アルバムだった。
何気無く、ページを開く。
一ページ。目次と校歌。
一枚、ページをめくる。校長の顔写真と、訓辞。
ページをめくる。
その瞬間、全身の全ての毛が逆立った。
体の中を脈脈と流れる血液が、その温度を失い体が一気に冷え込んだ。
寒くて、体が震え、全身に鳥肌が立った。違和感の正体は、間違いなくこれだった。
全校生徒の集合写真。そこから、思い出の詰まったアルバムが狂いだしていた。
その集合写真には、顔が、ないのだ。
真っ黒なインクで、顔が塗り潰されている。
そのページからは、鼻をつくような濃厚なインクの匂いが漂っていた。
魂が揺さぶられたかのような驚愕。しかしそれと同時に、おかしな事が一つ頭にモヤを張る。
塗り潰されそこねた顔が、いくつもあるのだ。何故だろう、と首を傾げる。
時間がなかったのか、単純に塗り潰しそこねたのか、はたまたわざと塗り潰さなかったのか。
その答えを求めて、もう一枚ページをめくる。
教員の集合写真。そこで、塗り潰されていない顔がにある共通点が分かった。
塗り潰されているのは、全部女性なのだ。
慌てて、ページをめくる。
次のページも、その次のページも女性の顔だけが、全て塗り潰されている。
一人一人の個人写真も、修学旅行や部活、数ある行事の写真も全て同じように、
女性の顔だけが執拗に黒く塗り潰されている。
たくさんの思い出が、真っ黒なインクと共に狂気に塗り潰されている気がした。
恐怖が、少しづつ心を蝕み始める。
悪戯にしては度が過ぎているし、そこに何か執念のようなものを感じたのだ。
一体誰が、そして何のためにこんな事をやったのだろう。それは分からない。
だが、犯人が狂っている事だけは分かる。犯人は、おかしいのだ。
開いたページから、インクの匂いと共に、その狂気までもが匂い立つような気がして、
翔は思わずアルバムを閉じた。
打ち上げ花火のように、大きな音を立てて閉じられたアルバム。
その後に残る静寂と、寂廖も花火のようだった。その物寂しさに紛れ込んで、
突然津波のように巨大な恐怖が翔の心を飲み込んだ。
静けさが、怖い。
恐怖に足が震えて、立っている事が出来なくなった。
翔はアルバムを胸に抱き、その場にしゃがみこんだ。
体が、狂ったようにガクガクと震える。
怖い。
まさか、他のアルバムも同じようになっているのか。
怖い怖い。
しかし、確認する勇気はなかった。
怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
──そのとき、
「センパイ……」
背中から、消え入りそうな静かな声が聞こえた。
心臓が、止まりそうになった。
「どうしたんですか?センパイ」
澄香の声だった。
振り返る。
そこには、制服姿の澄香が立っていた。
恐怖が、安堵へと急速に変化する。
その地獄から天国の心境の変化に、不覚にも涙腺が緩み、涙が溢れ落ちそうになった。
寂しい時、悲しい時、そして怖い時。誰かが、特に親しい人が近くにいてくれるのは、
とても心強いと改めて認識した。
しかし、それでも涙が溢れ落ちなかったのは、ある事に気付いてしまったからだ。
途端に、その安堵も、まるでジェットコースターのように、
別の感情に変化する。体に寒気が走った。
──何故、澄香がここにいる?
学校を休んだのではないのか。
いや、そもそも澄香はどうやって家に入ったのだ?
確かに鍵は閉められていたし、翔もまた閉めたはずだ。
「……どうして、ここにいるんだ……?」翔は、警戒に身を固めて言った。
すると、澄香はうんざりしたように、
「どうしてって、センパイに会いたいからに決まってるじゃないですか。当たり前の事を、」
「違うっ!!俺が聞きたいのは、澄香がどうやってこの家に──」
──そのとき、ふいに彼女の右手に握られているものが目に入った。
それは、家政婦が持って帰ってしまったはずの家の合鍵だった。 |