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すみか

第1章
第2章


10

〜〜前回までの簡単なあらすじ〜〜
脅迫まがいのラブレターで、澄香と付き合う事となった翔。すぐに別れるつもりだったのだが、
なぜか別れられず、ダラダラと関係を続けてしまう。
あるとき、彼女の悲惨な過去を知り、同情からまじめに付き合う事にした翔は、
少しづつ過去を乗り越えていく澄香の姿に惹かれはじめるのだが。

奏翔。
主人公。

水樹澄香。
翔の彼女。少女時代からずっと父親に性的な暴力を受けていたため、一度人格が破綻。
何とか人格を取り戻すも、その時には既に父親との関係が周囲にばれて、
周りから蔑まれ孤独に生きてきた。そんな孤独から救いだしてくれた翔にベタ惚れ状態なのだが。

中野早苗。
翔のクラスメート。翔に好意を寄せており、翔と澄香の破局を画策するがあえなく失敗。
だが、彼女の執念が澄香を狂わせはじめる。

水樹由美。
澄香の伯母。澄香を一人で育てている。

 

 

水樹由美はプロだ。
時間を持て甘し気味になったので、じゃあゲームをしようと由美の鶴の一声で、
ゲームをする事とあいなった。
選ばれたゲームは、パワプロ(実況パワフル〇ロ野球の略)だった。
このゲーム持ってこそいるが、普通に対戦するよりサクセスをする時間が長くて、
実はあまり試合をした事がないでやんす。
だから、試合が始まる前に言った。俺は素人ですよ、と。
しかし、残念ながら由美の耳は節穴のようだ。
翔が素人であると分かっているくせに、彼女はバッカンバッカン打ちまくり、
一回の表で七点も取りやがった。早くも抑えの切り札(現在故障中)を投入し、
何とかスリーアウトまでこぎつけ、ようやく攻守交代。
一回表終わって七対ゼロ。実力差は明らかで、さすがの由美も手加減してくれるだろうと、
僅かな希望を持ちつつ、一番バッターをボックスに向かわせたが、甘かった。
もちろん由美は守備でも手を抜かない。現在メジャーリーガー(正確に言うと、少し前)
がマウンドに意気揚々と降臨し、高低左右、変化球とストレートを綺麗に投げわけ、翔を翻弄する。
何より、サークルチェンジは卑怯だ。
おかげで一番のやたらミートカーソルが大きいセンターも、
二番に座るバントと守備のうまいショートも、三番の金に釣られた裏切り者も全員が扇風機だ。
三者三振、チェンジ。
うふふふふふふ、といやらしく笑いながら、大人気なさを全開にする由美に、かなり引いた。
その瞳は嗜虐的快楽に酔っているようにさえ思えた。
そんな風に、楽しく夕方を過ごし、辺りが暗くなりはじめた頃、
今度はサッカーゲームをする事となった。
翔のチョイスは某水色のチーム。対する由美は、まるで翔の神経を逆撫でするかのように、
同じ街にある某王子率いるチームを選択した。元来、その二つのチームはライバル関係にあり、
両チームの対決は世界屈指のダービーマッチ(同じ街にあるチーム同士の対戦の事)
とさえ言われている。
翔の選択の後でわざわざそこを選んだということは、由美は全て分かって喧嘩を打っているのだ。
その証拠に、彼女はチームを選ぶ際、翔を一瞥し挑戦的な笑みを浮かべていた。
おもしろい、返り打ちにしてくれる、貧乏なめんな。
かくして、試合は始まった。

しかし、試合開始数分で、翔は自分の選択を後悔する事となる。
プレーヤーの実力はほぼ互角なのに、守勢に回るケースが多いのだ。
それは明らかに選手の差だった。オランダ代表のミミズも、イタリア代表のバックもいない守備陣が
ズタボロで、イケイケ王子を止められない。
唯一、最近赤と黒に逃げたサイドバックと今年引退するムキムキのキーパーが奮闘したが、
実力差を埋めきれず、健闘虚しくやぶれてしまった。
試合後、リプレイとして由美のゴールシーンが延々と流される画面を見ていると、
沸々と熱い気持ちが渦を巻く。
悔しい。
負けた事はもちろんだが、負けた相手が相手なだけに余計悔しい。
ふと由美に目をやると、彼女は勝ち誇った顔でふふんと鼻で笑いやがった。
その優越に細められた目は、もう一試合くらいやってあげてもいいのよん、と言っている。
そのとき、翔の中で何かが切れた。
「上等だぁぁぁ!次は絶っ対勝つっ!!ただし、チームは変えましょう」
「あら、チームのせいにするの?まぁ、いいけど」
ぬかせ。俺の本気はまだまだこんなもんじゃないんだぜ、とばかりに気合いを入れて、
現在欧州最高の呼び声も少しだけある某青と黒の縦縞チームを選んだ、
そのとき、
「何、やってるの?」
背後から、鉄琴のようによく通る声が聞こえた。
その声は儚く、寂しげですぐに静寂という闇の中に飲み込まれた。
肩越しに振り返る。リビングと廊下を繋ぐドアが開けっぱなしになっていて、
そこから少しだけ肌寒い風が、駆け抜けていく。
その風を背中に受け、澄香がきつく唇を噛み締めて立っていた。
青紫色の唇が震えているが、顔色はずいぶんとよくなっている。
「ああ、澄香起きたのね。おはよう」
と、由美。翔と同じように肩越しに振り返った彼女は、白い歯を見せてニッと笑った。
「何、やってるの?」
由美に挨拶を返しもせず、澄香は繰り返す。
その不気味なまでの静かな声に、少しだけ不穏な空気を感じとり、背中を中心に鳥肌が立ち始める。
何かが、おかしかった。

「何って、ゲームよ」由美は笑いを堪えながら、
「もうさっきから、翔くんってば負け惜しみばかり言ってね」
嵐の前の静けさに気付いていない様子で、由美は楽しそうに語り続ける。
「実は翔くん、前のゲームから六連敗してるの。
もう一試合やりたいんだって、本当に負けず嫌いよね、翔くんって。それでさぁ、
今度の土曜日も翔くんとサカつくで戦う事になったんだけど、きっと翔くんは──」
──嵐は、突然やってきた。
「うるさい……」
澄香の震える体が、肩が、唇が、消えるような言葉を紡ぎだした。
えっ、と由美は目を見開いて唖然とし、二の句を継げないでいる。
やがて、澄香は心が氷つくような嫉妬の炎と、寒気を覚えるほどの憎悪で燃え上がる瞳で、
由美を睨みつけた。それが合図だった。
「気安くセンパイの名前を呼ばないでよっ!!!」
暴風雨が、吹き荒れる。
「どうしてセンパイと楽しそうにゲームしてるのっ!?
どうして楽しそうにセンパイの事を話すの!?」
「ど、どうしてって、私は別に何も……」
「嘘っ!!」澄香は声を張り上げ由美の言葉を掻き消し、
「そんな事言って、本当はおばさん、センパイの事が好きなんでしょっ!?
私からセンパイを奪おうとしてるんでしょっ!?そんな事、絶対に、絶対にさせないからっ!!」
そう怒声を巻き散らすと、澄香は足音粗くソファまで歩みより、
翔の腕を掴んだ。乱暴に、腕が引かれる。
翔が促されるように立ち上がると、澄香はまるで由美に見せつけるように翔の腕を抱きこんで、
由美を真っ直ぐ睨みつけ金切り声をあげた。
「誰にも、センパイは渡さないっ!センパイは、私だけのものなんだからっ!!!」

11

目の前で起こった事が、信じられず澄香のなすがままだった。
ようやく翔が我に返ったのは、澄香に連行される形で彼女の部屋に行き、
彼女が後ろ手でドアを閉める音を聞いた時だった。
瞬時に再生される僅か二、三分前の記憶。
声を張り上げる澄香、呆然とする翔、そして驚き泣きそうな顔をする由美。
沸々と、怒りが沸き上がる。
澄香にとって、由美は恩人である。
本来は親戚の中を盥回しにされてもおかしくない厄介な過去を背負った澄香を、
彼女は一人で養ってきたのだ。その恩人に対し、澄香が取った言動と行動は、
恩を仇で返すような人として最低の行為だ。
何より、澄香にとっての由美の存在。そのありがたさを、翔もよく分かっている分許せなかった。
そして、そのありがたさを、
澄香もよく分かっているはずなのだ。
翔は膨れ上がる怒りを懸命に抑えこみ、出来るだけ静かな声で言った。
「さっきのは、ないんじゃないか?」
「さっきのって、何のことですか?」
澄香は全く反省していない様子で、悪びれる事なく言う。瞬間、怒りで視界が真っ白になった。
振り返り、澄香を真っ直ぐ睨みつけ、
「とぼけんなよっ!!お前のさっきの由美さんへの言動と行動はな、
一番やっちゃいけない事なんだよっ!!
由美さんはお前を世話してくれて、優しくしてくれて、
それに誰より澄香の事を心配してくれてんだぞっ!?
そんな由美さんが、澄香を悲しませるような事をするわけないじゃないか!!
なのに、なのにお前はどうして由美さんを疑ったりするんだ!!」
小さな部屋に反響する怒鳴り声。その声が余韻を残し、静寂に飲み込まれていく中、
澄香の顔が熱を帯び、赤く染まっていく。
きつく噛み締められた唇が鬱血し、青黒く変色していた。
「そんなに、由美さんの事が信じられ──」
──翔の言い終わりをまたずして、驚くほど小さな声が、翔の言葉を打ち消した。
「どうして……」
「……えっ?」
「どうして、どうして……」
蚊の鳴くような小さな声だった。しかしその声は、まるで坂を転がる車輪のように
ゆっくりと勢いを増していく。

「どうして、どうして、どうしてっ!!
センパイは、どうしておばさんの事ばかり気にするんですかっ!?センパイ、
私の事好きって言ってくれたじゃない!!
だったら、もっと、もっとたくさん私を気にかけてよっ!!」
そう叫んだ次の瞬間には、澄香の顔色が信号器のように青くなる。
まるで、知りたくもない真実を知ってしまったかのように目を見開き、
澄香は両手で口をおさえ、
「ま、まさかセンパイ、おばさんの事好きなんですか?」
「なっ……」
翔は絶句した。澄香のあまりの理論の飛躍に思考がついていかない。
呆気にとられると言うより、中場呆れていた翔の目の前で、澄香は膝から崩れ落ち、
頭を抱えてガタガタと震えだした。
「い、嫌だよ、センパイが、おばさんなんか好きになっちゃ、センパイは、センパイは……」
言葉が見つからない。
何がどうなったのかさえ分からない。
ただひとつはっきりしている事は、澄香が正常じゃない事くらいだ。だが、その澄香の異常さが、
逆に怒りで真っ白になった頭に彩りを取り戻させる。
話にならない。澄香はおかしいのだ。
ひとまず、澄香には頭を冷やす時間が必要だと思った。
時間が、きっと彼女に平静を取り戻させてくれるだろう。
そう結論づけたのだ。
翔は溜め息をつきつつ、
「ともかく、俺は行くけど、頭が冷えたら由美さんに謝っておけよ。絶対に、だ。じゃあ」
そう言い残すと、翔は澄香の脇を通り過ぎようとした。
丁度翔が彼女の真横に来た瞬間、シャツの袖がぐいと引かれて、再び溜め息をつく。
「……何だよ」
苛立ちを隠せずに、少し乱暴な口調で言った。
澄香はうつ向いたままだった。短い髪が顔を覆い、隙間から青紫の唇だけが覗いていた。
その唇が、ゆっくりと動きだす。
「……行くって、どこに行くんですか?」
「帰るんだよ、家に。だから、離してくれないか?」
しかし、澄香は手をはなさない。むしろ、袖を引く手に力がこもったような気がした。
うつ向いたままの澄香の手には、信じられないほどの力がこもっている。
まるで万力のように彼女の指がシャツの生地に食い込み、そこから動けなくなった。

「お、おい、はなせって」
と、裾を引っ張ったが、びくともしない。そのとき、虚ろな声が彼女の口から紡ぎ出された。
「本当に、家に帰るんですか?」
はぁ?と、翔は眉をひそめる。当たり前だ。だいたい翔は家に帰るとはっきり言っているではないか。
澄香の質問の意図が分からない。
「本当は、あの女のところに行くんじゃないですか?」
あの女。
あの女とは一体誰の事かと一瞬思ったが、今までの話の流れから、
すぐにそれが由美を差している事が分かった。今度は、
恩人をあの女よばわりか、と唐突に熱い怒りがこみあげてくる。
もう一度怒鳴ってやろうと大きく息を吸い込んだそのとき、
うつ向いたままだった澄香の顔が、ゆっくりと上がり、
ずっと髪の陰に隠されていた顔が姿を現した。その顔を見た瞬間、怒りが急速に熱を失った。
水を浴びせられたと言うより、
そのまま氷付けにされた気分だった。
カタカタカタ。
澄香の瞳は、死んでいた。
まるで死んだ魚のように、光沢を無くし、泥沼のように光を飲み込んでいく。
先に玄関先で見たあの瞳以上に、それは淀んでいた。
頭の中に浮かぶ全ての言葉が、彼女の瞳に吸い込まれていくような錯覚に陥る。
カタカタカタ。
膝が、体が言うことをきかない、まるで木偶になってしまったようだ。
いや、石になってしまったのかもしれない。
さながらメデューサに睨まれた憐れな戦士のように。
カタカタカタ。
先ほどから鳴り続けている壊れたカスタネットのような音。
ふと、それが歯の音が合わない音であると気付いた。
震えているのだ。そして、自分が震えていると自覚したその瞬間、言い知れぬ恐怖が心を蝕んだ。
澄香は狂っている。
初めて、澄香を怖いと思った。
不意に翔を見上げる澄香の目元が歪む。心臓が、破裂しそうな勢いで脈打った。

「センパイは、私のモノなんですよ?」
撫でるような寒気が背筋を駆け抜けた。膝がガクガクと笑い出す。
「センパイはすごく素敵だから、きっとセンパイに気がある人は沢山います。
誰がセンパイを誘惑するか分からないんです。
だから、センパイは私が守ってあげますからね」
えへへ、と照れたように嗤う澄香。翔を見上げる虚ろな瞳が、狂気を孕んでいた。
ふと、掴まれていた袖が解放された。そして、澄香はおもむろに立ち上がり、
翔の右腕に自分の体を絡ませ、
「私が、家まで送っていってあげます。帰るんなら、構わないでしょう?」
もう首を横に振ることなど出来なかった。

12

夜道は暗い。街灯の光も、所々でその明かりを失い、
不気味な静けさと共に闇が翔を深みへと誘っている。
西の空に浮かぶ下弦の月が、瞬く無数の星と、
闇を吸い込み青さを持った雲を従えて銀色の光を放っていた。
夜空の月は、想像以上に明るく闇の中で一人気をはいている。
しかしそれでも影をひくには至らず、辺りは闇のモヤに隠され、
かろうじて自分の周りだけが見えるだけだった。
夏の間は元気に鳴いていた蝉の声もいつの間にか途絶え、時折鈴虫の悲しげな調べを聞く事がある。
秋の冷たい夜気が半袖から顔を出す素肌を撫で、左腕に鳥肌を残していく。
夏服ではもう肌寒い季節、時間になった、と思う。
夏は終わったのだ。それなのに、右腕はウールにつつまれたような暖かい。
その暖かさは、間違いなく人肌のものだった。
翔は、ギョロリと瞳を回し右腕を温める澄香を見る。
白く透き通る澄香の横顔が、雪灯りのように闇の中で映えている。
彼女は翔の腕に体を絡ませ、まるで寄り添うように共に歩いていた。
それが昼間なら、恥ずかしくて絶対に許さなかっただろう。
夜だから、誰もいないから許しているのだ。
と、言うのは理由の半分で、残りの半分は、あのとき見た澄香の淀んだ瞳が、
瞼の裏に残っていたからである。恐怖が体を縛りつけ、振り払う事が出来ないのだ。
不意に、澄香の顔がこちらに向き、彼女を眺めていた翔の視線と視線がぶつかった。
翔の瞳を真っ直ぐ見据え、ニィと瞳を細める澄香。
心の中を覗かれているような気がして、翔は慌てて視線をそらした。
垣間見た彼女の瞳には、既に部屋で見た狂気は消え去っていた。
それでもあの時の恐怖の火種は、まだ心の底でくすぶっている。
腕に体を絡ませ、時折甘えるように頭を擦りつけてくる彼女からは、
既にあの時のような恐怖は感じない。しかし、心と体があの恐怖をしっかりと覚えていて、
ありとあらゆる神経が逆立ち、彼女の異変をすぐにでも感じとろうとしているのだ。
いつ再び澄香に異常が訪れるのか、そんな不安ばかりが翔の中で渦を巻いている。

不安でざらついた足音が、コンクリートを叩き続ける。
闇の向こうの繁華街で、パトカーが何かを追い回す音が聞こえた。
ジワリと、季節外れの蝉の鳴き声が聞こえたような気がした。
澄香の家から一キロほど歩くと、翔の家がある。
辺りはいわゆる高級住宅街で、ひっそりとした静けさと共に、
どこか高貴な雰囲気をかもし出していた。どこもかしこも大きく立派な家ばかりだが、
その中でも我が家は広い、と翔は自覚している。
さすがにテレビに出てくるような豪邸とは言えないが、この住宅街の平均より明らかに広く大きい。
しかし、夜の戸張に覆われ、
自ら瞬く事のないその大家は、まるで星空の中の空白のようにただただ不気味なだけだ。
「センパイのお家って大きいんですね」
澄香が、どこか感心したように呟いた。
その声に、どこか羨望を孕んでいるような気がして、翔はせせら笑う。
大きいから、うらやましい?
それは錯覚もいいとこだ。大きいから、寂しいのだ。
「ここまで来れば、いいだろう?腕、離してくれないか?」
翔は、その寂しさを隠すように言った。
澄香は、翔の腕を力を込めてギュッと抱き、無言で何かを考えているようだったが、
やがて、パッといきなり腕をほどいた。
もっとぐずると思っていたので、いささか肩透かしを食った気分だった。
ようやく解放された右腕には、まだ澄香の熱が残っていて、
冷たい夜気をはねかえしジンジンとうずいている。
向き直り、頭を下げる澄香。彼女の漆黒を宿した短い髪が、宙に舞った。
「それじゃあ、センパイ。私は帰ります。また明日、学校で」
そう言うと、澄香は素早く身を翻し、まるで何かに追われるような早足で、夜の闇に紛れていく。
ゆっくりと溶けるように消えていく澄香の後ろ姿。不意に翔は何かとてつもない胸騒ぎを覚えた。
このまま、澄香を行かしてはいけない気がした。
「ちょ、ちょっと待って」
気が付くと、澄香を呼び止めていた。淀みなく歩いていた澄香の足がピタリと静止する。
「あ、その……」
呼び止めておいて、何一つ言葉を用意してなかった自分に気付く。

何を言おうとしていたのだろう。自分の感情を表す言葉が見つからない。
いやそれ以前に、既に確かに感じた胸騒ぎも消え去り、
本当に自分があのような感覚を感じたかさえ分からなくなっていた。
もしかしたら、本当は気のせいだったのかもしれない。
そんな気さえする。
しかし、それでも何かを言わねばならない。
闇の中に佇む澄香は、もの言わず翔の言葉を待っているのだ。
そして、翔がようやく捻だした言葉は、
「……あのさ、由美さんに謝っとけよ」
深い闇に、静けさが戻る。
闇の向こうで、澄香が小さく頷いた気がした。そして、澄香は今度こそ、闇の中に消えていく。
違う。こんな事を言いたかったわけではないのだ。
もっと別の、澄香を、そして自分の不安を取り除ける何かを言いたかった。
それなのに、その何かを言い表す言葉が見付けられない自分が、たまらなく歯がゆい。
気が付くと、彼女の姿が、闇に飲み込まれて完全に消えていた。
ふと我に返り、翔は無理矢理今までの思いを断ち切る。
わからない事を考えたり、まして後悔しても仕方ないのだ。
そして翔は小さな門を抜け、敷地の中に入った。
玄関先の、パンジーの花瓶の下に隠された鍵を取り出す。
平日の午前中に来訪する家政婦が、鍵をここに隠していくのだ。
もちろん翔もそれとは別の鍵を持っているが、不用心なので、
帰宅の度に回収する。そして、朝は登校前に花瓶の下に忍ばせておくのだ。
それは翔が小学生の頃から、暗黙のルールとなっていた。
鍵をあけ、翔がノブに手をかけた瞬間。
──ゾクリと、
戦慄が背中を駆け抜けた。何かが、背後にいる。
まるで獲物を狙う肉食獣のような湿った視線が、背中に絡み付いていいる。
思わず悲鳴をあげそうになったが、何とか飲み込み、恐る恐る振り返る。
何もない。
そこには、闇を纏った細い道だけが真っ直ぐ延びていた。
気のせいなのだろうか。
そのとき頭によぎったのは、なぜか、やけに嬉しそうに嗤った澄香だった。

13

とんでもなくついていなく、最悪な一日がようやく終わる。
そう安堵の溜め息を漏らしつつ、翔は力なく家の門を開けた。
まだ太陽は高く、空も青い。
しかし、翔はすでにボロボロで、すぐにでも倒れてしまいそうだった。
いや、さっさとベッドに倒れこみたかった。
ともかく、今日はとことん厄日だ、改めてそう思う。
今までの人生を振り返ってみても、ここまで疲れた記憶はない。
それほどの疲労を呼び込む不幸が、雪崩のように翔を飲み込んだのだ。
元々嫌な予感はしていた。
昨日、自分が学校でやらかした事が、どういった困難を呼び込むかくらいは想像できていたし、
覚悟はしていたつもりだった。
しかし現実は想像をはるかに超えていて、覚悟という名の心の壁はいともあっさりと決壊し、
裸にされた一番柔らかい精神をジワジワといたぶられた結果、
肉体的と言うより精神的な疲労でグロッキーになってしまったのである。
今朝、教室につくや否や、いきなり好奇の目に晒された。
昨日の中野とのやりとりが、事実を無視して一人歩きし、様々な憶測がクラスの中で飛び交っていた。
浮気したとか、だから別れるとか、果てには中野をもてあそんだ悪者にまでされていた。
もちろんそれら全ては事実無根であり、翔は必死で噂を否定しようとしたのだが、
間が悪いことに中野が欠席したため、
余計に高まったクラスの好奇心を沈静化させる事は出来なかった。
たっぷりの非難と好奇と、主に男子の嫉妬に晒されつつ迎えたホームルームはさらに地獄だった。
担任はテストを放ったらかしにして、しかも無断で早退した翔にたいそうおかんむりで、
朝っぱらから怒鳴り声をあげた。もう大学進学は絶望だとか、こんな馬鹿ははじめて見たとか、
昨日巨人が負けたのはお前のせいだとか、ここぞとばかりに関係のない事まで持ち出し、
翔の精神をガリガリ削る。
担任は加虐的嗜好を瞳に宿し、そこに快感を見い出したのか、
一時間目の授業まで全て説教で潰しやがった。
そしてようやく辿りついた休み時間。
こってりと絞られ、とってもへろへろな翔は、力なく机に突っ伏していた。
相変わらずクラスは翔の噂で持ちきりだが、もう翔にはそれを否定する力は残っていなかった。
そして、抵抗する力を削がれた晒し者の地獄は、一日中続いたのだった。

思い返すだけで、重い疲労に押し潰された肺から、溜め息ばかりが漏れる。
せめて中野がいてくれれば、噂を沈静化出来たかもしれない、と思うと、
今日に限って欠席しやがった中野に恨めしい気持ちが沸々と煮えたぎる。
もっとも、今日学校に来れなかった中野の心情も分からないでもないが。
そのとき、ふと、今日は澄香の姿を見掛けなかった事を思い出した。
教室の噂を拾い聞きしたかぎり、澄香も今日は欠席らしい。
あくまでそれは噂なのだが、いつもならお昼を誘いにくるはずなのに、
今日は来なかった所から考えると、まんざら噂だけではないようだ。
昨日、夜風に当たり過ぎて風邪でもひいたのだろうか。少し心配だ。後で電話してみよう。
そんな事を考えながら、残された僅かな力を振り絞り、玄関先の花瓶を持ち上げる。
家政婦が残した家の鍵が、ここに隠されているはずなのだ。
が、持ち上げた花瓶の下に、あるべきはずの鍵はなかった。
その事にいささか不審に思いもしたが、それは珍しいことにしても、初めてというわけではなく、
首を傾げどそれ以外に何ら感じる事はなかった。
家に来る家政婦は、まれにそういったミスを犯し、鍵を持って帰ってしまうのだ。
もっとも、それで家に入れないわけではないので、
翔はすぐに思い直し、鞄から鍵を取り出して、玄関のドアを開けた。
後ろ手で鍵を閉め、玄関の上がり端に鞄を放り投げると、
翔はゾンビのような足取りで階段を登っていく。
二階の廊下の突き当たりに翔の部屋がある。
その途中にある部屋は全て空き部屋となっていて、また一階も同じように空き室が多く、
そのため翔のこの家での行動範囲は、自分の部屋と台所、リビング、後はトイレと風呂くらいで、
他の部屋にはほとんど入る事はない。
それでも時々垣間見るそれらの空き室は、奇妙なくらい整然としていて、埃ひとつない。
有能な家政婦が、全ての部屋を平等に掃除してくれているのである。
しかしそれは、悪く言うと画一的であり、生活の匂いのない部屋まで整然としているのは、
より今の状況が目の前につきつけられるような気がして寂しさを助長させている。
一番散らかっている翔の部屋が、妙に落ち着き居心地がいいのも、
その辺りに理由があるのかもしれない。

 

細い廊下、その突き当たりにある自室の前まで歩を進める。
そこにはのっぺりと黙りこんだドアが佇んでいる。部屋と自分を遮るそのドアのノブを回し、
静かにそれを押した。
眼前に、見慣れた自室の光景が飛込んできた。
少しだけ、気が抜けて疲れがドッと体に押し寄せる。
危うくその場にへたりこみそうになったが、そこは気合いで乗り切る。
ベッドは、すぐそこだ。
部屋の中に足を踏み入れる。その時だった。いきなり体に戦慄が走った。

──何かが、おかしい。

見慣れているはずの自分の部屋に妙な違和感を感じる。
それは、心の隅に宿った小さな感情。しかし、その感情はすぐに翔の心全てを飲み込んでいく。
心臓が、早鐘をうつ。
何だ?何がおかしいんだろう。
改めて部屋を見渡す。
今朝見た時と同じ机、同じベッド、同じ本棚、同じテーブル。何も変わっていない。
そのとき、ふとテーブルの上に目が止まった。出した覚えはない、
しかしまた、出していないという確信もない幾冊かのアルバムが、そこに散乱しているのだ。
違和感の正体はこれだろうか。
一番上のアルバムを取り上げる。それは中学時代の、卒業アルバムだった。
何気無く、ページを開く。
一ページ。目次と校歌。
一枚、ページをめくる。校長の顔写真と、訓辞。
ページをめくる。
その瞬間、全身の全ての毛が逆立った。
体の中を脈脈と流れる血液が、その温度を失い体が一気に冷え込んだ。
寒くて、体が震え、全身に鳥肌が立った。違和感の正体は、間違いなくこれだった。
全校生徒の集合写真。そこから、思い出の詰まったアルバムが狂いだしていた。
その集合写真には、顔が、ないのだ。
真っ黒なインクで、顔が塗り潰されている。
そのページからは、鼻をつくような濃厚なインクの匂いが漂っていた。
魂が揺さぶられたかのような驚愕。しかしそれと同時に、おかしな事が一つ頭にモヤを張る。
塗り潰されそこねた顔が、いくつもあるのだ。何故だろう、と首を傾げる。
時間がなかったのか、単純に塗り潰しそこねたのか、はたまたわざと塗り潰さなかったのか。

その答えを求めて、もう一枚ページをめくる。
教員の集合写真。そこで、塗り潰されていない顔がにある共通点が分かった。
塗り潰されているのは、全部女性なのだ。
慌てて、ページをめくる。
次のページも、その次のページも女性の顔だけが、全て塗り潰されている。
一人一人の個人写真も、修学旅行や部活、数ある行事の写真も全て同じように、
女性の顔だけが執拗に黒く塗り潰されている。
たくさんの思い出が、真っ黒なインクと共に狂気に塗り潰されている気がした。
恐怖が、少しづつ心を蝕み始める。
悪戯にしては度が過ぎているし、そこに何か執念のようなものを感じたのだ。
一体誰が、そして何のためにこんな事をやったのだろう。それは分からない。
だが、犯人が狂っている事だけは分かる。犯人は、おかしいのだ。
開いたページから、インクの匂いと共に、その狂気までもが匂い立つような気がして、
翔は思わずアルバムを閉じた。
打ち上げ花火のように、大きな音を立てて閉じられたアルバム。
その後に残る静寂と、寂廖も花火のようだった。その物寂しさに紛れ込んで、
突然津波のように巨大な恐怖が翔の心を飲み込んだ。

静けさが、怖い。

恐怖に足が震えて、立っている事が出来なくなった。
翔はアルバムを胸に抱き、その場にしゃがみこんだ。
体が、狂ったようにガクガクと震える。
怖い。
まさか、他のアルバムも同じようになっているのか。
怖い怖い。
しかし、確認する勇気はなかった。
怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

──そのとき、

「センパイ……」
背中から、消え入りそうな静かな声が聞こえた。
心臓が、止まりそうになった。
「どうしたんですか?センパイ」
澄香の声だった。
振り返る。
そこには、制服姿の澄香が立っていた。

恐怖が、安堵へと急速に変化する。
その地獄から天国の心境の変化に、不覚にも涙腺が緩み、涙が溢れ落ちそうになった。
寂しい時、悲しい時、そして怖い時。誰かが、特に親しい人が近くにいてくれるのは、
とても心強いと改めて認識した。
しかし、それでも涙が溢れ落ちなかったのは、ある事に気付いてしまったからだ。
途端に、その安堵も、まるでジェットコースターのように、
別の感情に変化する。体に寒気が走った。
──何故、澄香がここにいる?
学校を休んだのではないのか。
いや、そもそも澄香はどうやって家に入ったのだ?
確かに鍵は閉められていたし、翔もまた閉めたはずだ。
「……どうして、ここにいるんだ……?」翔は、警戒に身を固めて言った。
すると、澄香はうんざりしたように、
「どうしてって、センパイに会いたいからに決まってるじゃないですか。当たり前の事を、」
「違うっ!!俺が聞きたいのは、澄香がどうやってこの家に──」
──そのとき、ふいに彼女の右手に握られているものが目に入った。
それは、家政婦が持って帰ってしまったはずの家の合鍵だった。

14

「何で、お前がその鍵を持っているんだ?」
「え?ああ、これの事ですか」そう言いつつ、澄香は右手を持ち上げる。
「玄関の花瓶の下にあったのを拝借したんです」
まるで自分のモノを取りあげただけなのに、と言うような平然とした口調だった。
しかし、それは信じられない光景であり、翔は目を剥いた。
何故、澄香が鍵の隠し場所を知っている?家政婦と翔以外に、それを知る者はいないはずだ。
なのに、何故?
疑問が次から次に噴出し、渦を巻く。
「それにしても、驚きましたよ。帰ってきたら、二階から物音がするんだもん。
泥棒さんかなって、すごく怖かったんですよ。でも、センパイでよかったです」
澄香は、無邪気に白い歯を見せて笑みをつくった。まるで、子供のように無邪気な澄香の笑顔。
しかし、その子供のような無邪気さが、翔の背中に冷たいなにかを走らせる。
そのなにかに撫でられた肌から、次々に鳥肌が立ち、それが全身に広がる頃には、
恐怖が、胸を蝕んでいた。
子供は、時折大人が唖然とするような残酷な事を、平気でやるのだ。
それは、無邪気の仮面の下で、正常と異常の区別がついていないから。
好奇心を抑える術をまだ知らないから。
澄香も同じに思えた。彼女も正常と異常の区別がついていないのだ。
翔は思わず澄香から目を反らした。
ジワジワと心を浸食する恐怖に、仔猫のように震えながらも、必死で平静を保とうとする。
しかし、それは押し寄せる波を両手だけでは防げないのと同じ事で、
心が恐怖に侵され続け、やがて飲み込まれ体が大きく震え出した。
翔は肩を抱きながら、体を丸めた。カタカタと歯がなる。
「センパイ、大丈夫ですかっ!!」
いつの間にか駆け寄ってきたらしい澄香の心配そうな声が、すぐ上から聞こえた。彼女が近くにいる。
その事実が、翔の心をよりいっそう冷たくする。
「センパイ、震えてる……」
今度は同情したような声だった。
しかし、騙されてはいけない。澄香は、自分をどこか遠くへ連れ去ろうとしているのだ。

「かわいそう……。センパイ、寂しいんですね」
甘い言葉に乗ってはいけない。耳を傾けてはいけない。そして、翔は、耳をふさいだ。
「……でも、大丈夫です──」
澄香がしゃがむのが、気配で分かった。いよいよだとばかりに翔は身を固くし、
恐怖の大波を堪えようと歯をくいしばった。
しかし、恐怖の大波はいつまでたってもやってこなかった。
代わりに、天使の安らぎが翔を包みこんだ。
「──私が、センパイの側にいますから」
頭が何か柔らかくて暖かいものにくるまれた。
それが、澄香の体であると認識するまでしばらくかかり、また認識した途端に、
胸に巣食った恐怖が、波が引くように小さな余韻を残して消えていく。
後に残ったのは、涙が出るほど暖かな安らぎであった。
澄香が恐怖の原因なのは、頭では分かっている。
しかし、分かっていても、彼女に抱かれていると、不思議と心が落ち着いてく。
次第に頭が、冷静な思考を、気だるい眠気を取り戻していく。
静かな胸の鼓動が、耳に心地いい。
ぺったんこだが、彼女の体からは女性の暖かさ、柔らかさを感じる。
ミルクのように甘い澄香の匂いが、鼻孔をやんわりと擽る。
全てが、乾いた翔の心に、潤いをもたせる。
その中で、やがて平静を取り戻した翔は、そして気付いてしまった。
澄香の体から、微かに香るインクの匂いに。
瞬間、頭の中で今日の出来事がフラッシュバックする。
バラバラの記憶のピースが、各々に意思を持ち、一つの事実を頭の中で作り上げていく。
散らかるアルバム、塗り潰された顔、家に侵入した澄香、そして、微かに香るインクの匂い。
それらが導く、完成図。それは、あってはならない事実だった。
体を覆う安堵感が、急速にその暖かみを失っていく。
心の彼岸が、再び訪れた恐怖という名の荒波に飲み込まれていく。
翔は慌てて澄香の体を、自分から引き剥がした。
突然の事に、澄香は驚いた顔をしたが、構っている余裕はない。
そして、すがるような気持ちで澄香の瞳を見据え、
「澄香が、やったのか?」

キョトンとした顔をする澄香。
「えっ?」
「なぁ、お前じゃないよな?こんな事したりしないよな?」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
意味が分からないといった体裁で、澄香の真意を探るような目が、翔を舐め回す。
全身をはいずり回った澄香の視線はある一点、
すなわち翔の胸に抱えられたアルバムで静止した。
途端に、腑に落ちたと言わんばかりに目を細める澄香。
「ああ、それの事ですか」
「……やっぱり、澄香なんだな」
愕然とした気持ちを隠せず、翔の声は震えていた。本当は、嘘でも、否定してほしかった。
「どうして、こんな事を、するんだよ。何が、したいんだよ……」
澄香のしたい事が、して欲しい事が分からない。
いや、もう既に澄香の行動が、翔の理解を超えつつあった。
何故、こんな事をするのか?澄香に何かメリットがあるのか?
悪戯にしては度が過ぎているし、第一笑えない。もう、ジョークではすまされない。
その疑問に、澄香が答えを提示する。
「だって──」
彼女は無邪気な笑みを浮かべて、事も無げに、サラッと言いのけた。
「──必要ないでしょ?」
「えっ……?」
「女の子の写真なんて、必要ないんですよ。だって、センパイには私がいるんだもん」
何を、言ってるんだ……?
「センパイは私だけを見て、私だけを好きでいてくれればそれでいいんです。
他の女なんて、全部豚なんだから」
言いつつ、澄香は再び翔の頭を抱えこんで、
「私はセンパイのためなら、何でもします。言ってくれれば、エッチだっていつでもしてあげます。
だからね、センパイは他の女なんか見る必要なんてないんですよ」
後頭部に回された彼女の腕に力が篭った。
「大丈夫。怖がらないで。センパイは私が守ってあげるから」
まるで赤子をあやすように、優しく頭を撫でる澄香。
狂ってるとしか思えなかった。

15

頭がおかしくなりそうだ。頭の中に浮かぶ脳が、グシャグシャにかきまわされたような嫌な感覚。
頭痛とも吐気とも違うそれは、確実に翔を狂気の世界へと誘(いざな)っている。
限界が、手の届くところにある。
それは柔らかい皮一枚に覆われ、少し手を伸ばせば簡単に突き破ってしまうほど危うい。
そして、おそらくその薄皮一枚の向こうは、異常の世界。
いわば翔は狂気と正気の境界線に立っているのだ。
憑き物が墜ちるように肩の力が抜けていく。
頭が、体が感覚を失った。もう何も感じない、感じられない。
まるで自分が自分ではなくなったようだ。
ふいに、絡み付いた澄香の腕がほどかれた。
見ると、澄香はその場に座り込み、恥ずかしそうな上目遣いで、
「これから、どうします?」
その瞳は、期待でうるんでいた。
「あの、もう付き合って一週間ですし……」ほんのりと頬が朱に染まり、吐息が妙に熱っぽい。
「だから、その、そろそろしたいなぁって、」
「……今日は、帰ってくれないか」
「え……?」
「今日は、帰ってくれ」
「そ、そんな、まだ会って一時間もたってないで──」
「──帰れっ!!」
ビクっと、澄香の体が震えた。
その瞳は、世界でもっとも信じられないモノを見たように、大きく開かれていた。
「頼むよ。今日は、もう、無理、なんだよ」
翔の体が、ふるふると細かく震える。やがて、唐突に首がガクッと折れた。
「お願い、だから。もう、限界だから」
限界の先に広がる狂気の世界で、悪魔が手招きしている。足先が境界線を超えてしまっている。
そこを超えてはいけない。
何とかしないといけない。狂いたくはない。
忘れていた泣き方が蘇り、ひとりでに波が溢れ落ちた。
「帰れ。帰れよ。頼むから、一人に、してくれ」

しゃくりあげるような吐息に乗せて、何かを口にしようとする。
しかし、そこから先は、言葉にならなかった。
混乱した頭が、より深い混沌へとさ迷い行く。
とにかく、今日は、いろいろな事がありすぎた。
ただでさえ学校で拷問のような一日を過ごし、精神が疲弊しきっていたのだ。
それなのに、さらに追い討ちをかけるような驚愕と恐怖に、
自分を見失ってしまった。
もう何もかもが煩わしくて、早く、一人になりたくて、澄香が邪魔だった。
心の底からそう思う。
同時に、もしも、澄香が今の翔の気持ちをくみとってくれなかったら。
そこには、おそらく破滅が待っている事を、翔は本能的に理解していた。
「……分かりました」
しばらくだんまりだった澄香が、ようやく口にした言葉は、翔にとってまさに僥幸だった。
その僥幸に導かれるように顔をあげると、
仕方なさそうに笑う澄香がいた。
「今日は、帰りますね。センパイ、疲れてるみたいですし……」
残念そうに言いつつ、澄香が立ち上がる。
「鍵、ここに置いて行きますから」
カタリとテーブルの上に鍵がおかれた。
「後でメールします。絶対に返事下さいね。それじゃあセンパイ、また明日」
澄香は部屋の敷居を跨いで、廊下に出ると、翔に向かい頭を下げた。
短い髪が揺らいで、顔を影の中にすっかり覆い隠し、
やがて上げられた顔は少し寂しそうだった。しかし、そんな事はもう気にもならなかった。
規則正しい澄香の足音が、階段を叩く頃、突然押し寄せた激情に耐えきれず、
翔は嗚咽をもらしていた。

それからひと眠りすると、いつの間にか頭が平静さを取り戻していた。
全てが喉もとを過ぎて、落ち着いた気分である。
あらゆる感覚が体に廻帰し、ようやく正常になったようだ。
その証拠に、あの時、身近に感じた異常の世界は、もう遥か彼方である。
時刻は七時を回っていた。澄香が帰ってから眠ったので、だいたい三時間ほど寝ていた事になる。
窓から見える東の空に、紺の空とそれより少しだけ色の薄い雲が漂っている。
ずいぶんと雲が厚い。明日は雨かもしれないと思った。
ベッドから降り、立ち上がると体をうんと伸ばした。
寝ている間に懲り固まった筋肉が、ほぐれていくのを感じる。
しかし、その心地よさも、体を丸めると途端に霧散し、逆に体が縮むような窮屈感にさいなまれた。
さて、今度は体を丸めたまま再びベッドに腰を落とす。
ふと目についたテーブルには、出しっぱなしのアルバムが散らばっていた。
その瞬間、翔は小さな舌打ちとともに、ほぞを噛んだ。
それは、もう思い出したくない記憶として、頭の隅に置かれている。
だから見たくは、思い出したくはなかった。
中学の頃の卒業アルバムは、もう見れたものではなくなっている。
そして、おそらくここに散らばる残りのアルバムの大切な思い出も、
澄香の狂気で真っ黒に塗り潰されてしまっているのだろう。
その事に、激しい憤りを感じる。しかし、不思議とその怒りの温度は高くなかった。
むしろ、氷のように冷たく、怒りとはまた別の感情の胎動を感じている。
溜め息をひとつつくと、怒りはすぐに深い悲しみへと変わっていった。
胎動する感情の正体は、これだったのだ。
「何で、こんな事を……」
閉じられたアルバムを前に、翔は両手で顔を覆い隠し、そう呟いた。
薄い闇の中では、その呟きさえもすぐに消えた。
だが、悲しみが消える事はなかった。

16

翌日、目覚まし時計のやかましい音に叩き起こされた。
ガチャンと時計を乱暴に叩き、その口を黙らせると、ムクリと起き上がり、
寝惚け眼を擦りつつ、欠伸を一つ。
ベッド脇の窓の外から、ポツポツとおとなしい雨音が聞こえている。
体を捻りカーテンを開けると、見慣れた街並みが淀んだ空の色とあいなって、湿って見えた。
灰色の空は、何だか気持ちが悪い。そのうえ、雨か、と思うと少し憂鬱にもなる。
そんな憂鬱を引きずりつつも、いつまでもベッドの上にいるわけにはいかないので、
充電していた携帯を抜き取り、ひとまず立ち上がる準備をする。
立ち上がるためには、覚悟が必要で、その覚悟を充電するにはそれなりの時間が必要で、
だからあくまで準備だ。そして、ぼけっとしたまま何気なく携帯を開いたそのとき、
ビリビリと、夜中は、サイレントモードに設定していた携帯が震動した。
どうやら、寝ている間にメールか、着信があったらしい。考えてみれば、
昨日は普段よりずいぶんと早く就寝したので、それを知らない誰かが普段の調子でメールなり、
電話なりをかけてきたのだろう。
昨日の明日だけに、おおかた森あたりの程度の低い冷やかしに違いない。
そう、だいたいの当たりをつけて、翔は画面に目を落とし、そして、戦慄した。
画面にはこんな表示があった。

新着メール、500件。
不在着信、100件。

体の芯が凍えるような錯覚が、脳髄を駆け抜け、寝惚けた頭がいきなり冴えわたった。
それとほぼ同時に芯から広がる寒気に震え、
思わず携帯をベッドの上に落としてしまった。しかし、そんな事は気にもならない。
翔の思考は、その寒気が孕んだ真実へと、なすすべなく吸い込まれていく。
考える

翔が寝床についた時間が夜十時。それから約九時間。
その間にメールと着信が約六百件もあったというのか。いや、ありえない。
そんな事ありえるわけがない。見間違いではないのか。そうだ、そうに決まっている。
混乱しかけた頭をかろうじて立て直し、落とした携帯を拾いあげて、翔は再び画面に目を落とす。
新着メール、500件。
不在着信、100件。
見間違いではなかった。
その事実に、慄然とする。
それでも同時に、頭の冷静な部分が犯人の割り出しにかかっていた。いったい誰が、こんな事を。
大久保?都築?森?それとも──。
──その思考を遮るように、携帯が再び震えだした。見ると、ランプが緑色に発光している。着信だ。
画面に目を落とす。ディスプレイには着信相手の番号と、登録しておいた名前が写し出されていた。

「水樹澄香」。

ゾッとした。その寒気に押されるように、突然頭の中に浮かび上がる嫌な予感。
──未読メールも、不在着信も全て澄香のものなのでは?
ありえない。
翔はかぶりをふって、その予感を追い払おうとする。
それは、ほとんど悪夢だ。ありえない。だいたい澄香はそんな事をして何の得があるというのだ。
大丈夫、ありえない。
そんな予感が現実になるなんて、絶対にありえない。そう、心にいい聞かせる。
しかし、それでも、その予感は思考を侵食していく。最近、見た澄香の狂気。
その記憶が、予感の侵食を手助けしているのだ。
着信は十五秒ほどで留守電に入り、そしてプツリとあっけなく切れた。
画面は通常画面に戻ったが、不在着信は表示限界を超えていて、
カウンターはもう増えなかった。
その瞬間に、翔は弾かれたようにカーソルを不在着信に合わせる。そして一つ息をつく。
予感の正体。
闇の向こうに転がる事実が、
あと一押しで目の前に姿を見せるのだ。そう思うと指が震える。
たっぷりの時間を費やし覚悟を決めて、翔は指に力をこめた。

途端に画面が暗転し、写し出される五件の不在着信。その全ての差し出し人が、澄香だった。
嫌な予感。ありえない予感が、ゆっくりと現実味を帯ていく。
それでもその予感を否定したくて、震えたままの指で、下ボタンを押した。
ひとつ画面が繰り上がる。
そのスペースに浮かび上がった名前も、やはり「水樹澄香」だった。
今度はめちゃくちゃに連続で下ボタンを押す。画面はリフトのように次々と上へと流れていくのに、
水樹澄香の名前は一向に消えない。
上に上がった分、下からは水樹澄香の名前が現れるのだ。
三十件過ぎたところで、耐えきれなくなって、翔は悲鳴と共に、
携帯を全力で投げ捨てた。携帯は正面の壁に、豪快に激突し、派手な音と共にコナゴナになった。
花火が消えた後、残るのはいつも静寂と寂廖だ。その静けさの中で、雨の音がやけにうるさかった。
ガクガクと体が震える。
たった今、ありえない予感が、悪夢が、現実へと昇華してしまったのだ。
いや、実際のところ、それは分かっていない。
不在着信を三十件開いただけで、
残りの着信履歴も、まるまる五百件の新着メールも確認したわけではない。
しかし、それでも確信はある。あれは、間違いなく全て澄香からだ。
恩人である由美を邪険に扱ったり、勝手に翔の家に忍びこんだり、
アルバムをしかも女性の顔だけを黒く塗り潰したりと、
翔に確信させるだけの材料は、もう揃っている。
「狂っている」。
それだけで、全ての説明がついてしまうのだ。
その現実のおぞましさ、異常さに、翔は頭を抱えた。
脳がぐしゅぐしゅに侵されていく。
どこかへ消えたはずの異常の世界が、
再び目の前まで迫っている。翔を誘う悪魔は、澄香の形をしていた。

逃げ場所が欲しい。
震える体を押さえ付けて、そう願う。
ここではないどこかへ。異常の世界とは無縁な、平穏な場所へ。
もしくは異常の届かない騒がしい日常の溢れた場所へ。心の底からそう願う。
しかし、そんな場所はどこにある?
家?
ありえない。ここは孤独と記憶の廃墟だ。
しかし、それ以外にどこがある?
学校?
そうだ、学校だ。
学校には、たくさんの友達がいる。青木も大久保も寺田も本田も森もいる。
あそこならいつもの喧騒が、恐怖の足跡全てを、
まるでさざ波のように洗い流してくれるはずだ。

──学校へ行こう。

17

朝食は喉を通らなかった。
そのため朝の支度は、いつもよりずっと早く終わり、またいつもより早く登校する事にした。
制服に着替えると鞄を肩にかけて、靴をはく。
玄関に置かれた傘立てに立てられた傘を無造作に一本取り出す。
玄関の扉を開けると、曇り空が太陽を遮って薄暗い。
おまけに雨粒がコンクリートを打ち付けて、霧のようなモヤを、地面スレスレに作り出していた。
そこに朝の爽やかさなど未塵もなく、まるで霧の中に立っているようだった。
翔はポケットから鍵を取り出すと、いつものように、花瓶の下に忍ばせた。
今日は家政婦に向けた置き手紙を、リビングのテーブルの上に置いておいた。
手紙には、家政婦に鍵を持ち帰るよう書いてある。これで今日から、
家政婦が鍵を所有する事になり、そして、澄香が勝手に家に侵入する事はなくなるはずだ。
紺色の花を頭上に指して、降り頻る雨の中へと足を踏み入れた。
家の前でT字に別れている道路を、真っ直ぐ左に進めば、駅がある。
家と道路を遮る塀、その出口たる小さな門を抜けて、外の道路に出ると、そのまま左に体を翻した。
その瞬間、翔は固まった。
誰かが家の塀に背を預け体育座りをしていた。
膝を抱えた腕に、顔を押し当てて、うずくまるように体を縮めている。
見覚えのある制服。それは澄香だった。
ある意味、一番会いたくはなかった相手との遭遇に、翔は驚愕と共に落胆する。
舌うちしたい気分だった。だから、初めは無視してやろうかとも思った。
そもそも、朝から嫌な気分になったのも、いつもより早く登校するのも澄香のせいであり、
これ以上彼女に関わって不快な気分にはなりたくはなかった。
しかし、どうもそういう訳にはいきそうもなかった。
考えるより先に、翔は澄香の様子がおかしいことに気付く。
傘を指していない。
ずぶ濡れもいいところだ。
髪は長い間雨に打たれていたためか、その光沢を失い、
まるで苔のように澄香の頭にへばりついている。
制服はたっぷりの雨を吸い込んで体に張り付き、下着のラインが透けて見えた。
ただてさえ肌寒い秋の雨は、凍えるほど冷たく、
よく見ると彼女は震えていた。

この時間、道路を通る人影は決して少なくない。
しかし、時折行き交う人や車は奇異の目を彼女に向けるが、
それ以上の事を誰もしようとはしない。
まるで捨てられた子猫を見るかのように、憐れみこそにじませている、
しかしそこに暖かみは皆無だ。助けるどころか、皆声をかけようともせず、
ただ、淡々と澄香の前を通りすぎていく。
誰も澄香を助けない。薄情な奴らだ、と思う。
このままでは澄香が死んでしまうかもしれないのに、と。
しかし、それでも澄香を無視するべきだと、翔の冷静な部分が主張する。
もう澄香との関係は終わりにするべきだ。
これ以上彼女と関わりを持つのは止めろ。次はアルバムだけではすまないかもしれないんだぞ、と。
だが、翔が無意識にとった行動は、その冷静な部分とは真逆だった。
慌てて澄香の元に駆け寄ると、翔は傘を自分の体にかけ膝を折る。
それから、震える彼女の紙のように細い肩を掴んで、驚いた。
澄香の体は、氷のように冷たい。途端に不安が津波のように押し寄せて、
「おい、澄香っ!!大丈夫かっ!?」
制服はビショビショで、強く握ると水が絞り出され、翔の腕を伝った。
こんなにずぶ濡れになるなんて、一体いつからここにいたんだ、と思う。
「澄香っ!!おいっ、返事をしろっ!!」
雨音に負けないようにずいぶんと声を張り上げた。
するとその声が届いたのか、ようやく澄香の頭がピクリと動き、
それからゆっくりと顔が上がる。
真っ青を通り越して土気色の顔色。瞳には生気が宿っておらずどんよりと曇っている。
熱にうなされているのか、はたまた寒さに凍えているのか、澄香の吐息は苦しそうだった。
その途絶え途絶えの吐息に乗って、微かに聞き取れるほどの声が聞こえた。
「せん、ぱい……?」
瞬間、翔の体に熱い感情が駆け巡った。
「馬鹿野郎っ!!こんな雨の中、傘もささずに何やってんだよっ!!」
返事はない。彼女の瞳は虚空を見ている。舌打ちしつつ、澄香の額に手を当てる。ひどい熱だ。

このままではまずい。そう思って、慌てて澄香の脇の下に手を入れ、彼女を立たせようとする。
家に入れるつもりだった。しかし、澄香の体は糸の切れたマリオネットのようにグッタリとしていて、
立ち上がらせても、その体を支える力がないように見えた。
仕方なく、立ち上がらせるのを諦め、持ち上げる事にする。
体育座りの格好をしている澄香の膝の下に手をさしこみ、
余った手で腰を支え、いざ立ち上がろうとしたそのとき、
澄香の手が頼りなげに翔のシャツの裾を掴んだ。
「なんだ……」
言葉が消える。澄香が、真っ直ぐ翔を見ていた。
「どう、して、返事、して、くれ、なかった、の?」
苦しそうな息使いで、澄香が口を開いた。
返事?と翔は眉を寄せたが、澄香の馬手に握られた携帯を見て、その疑問は氷解する。
あの、異常な数のメールと電話の事だ。
「私、ずっと、待って、たのに、返事が、なくて、心配に、なって、それで、それで」
ギュッと、裾を掴む澄香の手に力が籠った。
今にも死んでしまいそうな弱々しい吐息からは考えられないほどの、強い力だった。
「約束、した、のに、だから、ね。わたし、は、」
そこで澄香は力つきたようだった。裾を掴む手からフッと力が抜け、
そのままダラリと地面に垂れ下がった。
そして先ほどまで力なく瞬いていた瞳がついに閉じられて、彼女はピクリとも動かなくなった。
焦る。死んでしまったのではないか、と思った。
幸いにも、すぐに澄香の穏やかとは言えない寝息が聞こえてきて、
翔は一応胸を撫で下ろした。
が、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
彼女の額に触れた翔の手には、まだの熱の余韻が尾を引いている。澄香の額は、
信じられないほどの熱を帯ていた。ともかく澄香がまずい状態にいる事は間違いない。
だからひとまず、家の中に運ばなければならない。
すぐに気をとりなおし、翔は全身に力をこめて、澄香を抱き上げた。

それは見てはいけないもの。いや、見るべきではないものだったように思う。
家に澄香を運びこむと、翔は彼女の体を吹き、髪を乾かし、服を着替えさせて、
彼女を自室のベッドに寝かせた。
押し入れに収納された冬用の羽毛布団を引っ張り出し澄香にかけ、
そして翔は現在澄香の携帯と向き合っている。
あれだけの雨に当てられながら、それでも機能が停止しないなんて、最近の携帯はすごいな、
と少しだけ感心した。
ところで、この携帯の中には、たくさんの秘密が入っているはずである。
今朝、気付いた有り得ない数の着信とメール。
それが孕んでいる真実が、全て目の前の携帯に全て入っているのだ。
もちろんそれは翔の携帯にも入っていたのだが、
もう確認出来ない状態になってしまっている。
どうも最近の携帯は耐水性は高いが、衝撃耐性は低く作られているらしい。
だから今となってはこの携帯だけが、あのメールと着信の全てを知っているのだ。
翔は、真実を知りたいと思っている。
しかし同時に、確認などする必要などないのかもしれない、とも思う。
まるで深く突き刺さった杭のような、ゆるぎない確信はあるのだ。
だが、それでもまだ事実だと確認したわけではない。
もしかしたら、あのメールや着信全てが、
森や都築からの頭の悪い悪戯であった可能性だってないわけではない。
もちろんその可能性は、宝くじに当たるよりずっと低いだろう事は分かっている。
それでも、心の奥底がそうなる事を望んでいた。
宝くじだって買わなきゃ当たらないのだ。まだ、決まったわけではない。
そう心に言い聞かせつつ、翔は澄香の携帯のメールボックスを呼び出そうと、
左上のボタンを押してから、自分の失敗に気付いた。
この携帯は自分のとは違うのだ。
いつもの調子でボタンを押してしまったが、それはメールボックスを開くボタンではなく、
アドレス帳を開くボタンだった。

すぐに画面は暗転し、お呼びでないアドレス帳が現れる。
真抜けな自分に、何をやってるんだ、と溜め息をついて、
その画面を再びトップに戻そうと、クリアボタンを押そうとしたそのとき、翔は気付いてしまった。
ここには、メールボックスなんかより、ずっと、ずっと悲しい事実が横たわっていたのだ。
『水樹由美』
『奏翔』
アドレス帳に登録されているのは、そのたった二件だけだった。

18

澄香が見る悪夢といえば、昔から決まっていた。それは過去の記憶の回忌。
以前住んでいたマンションの一室での一夜の事。
あの男が図う図うしくも夢の中にまで出てきて、澄香をボロボロに汚すのだ。
痛くて怖くて、体中が悲鳴を上げて、頭がグシャグシャになって、
狂う寸前で目が覚めて、そして絶望する。現実が、悪夢と地続きである事に。
しかし、そんな悪夢はもう見なくなった。
澄香の中で、悪夢の形が変わっていたのだ。もう過去の記憶が蘇る事はない。あの男も出てこない。
だけど、代わりに見る悪夢は、ある意味それ以上に地獄だった。
それは最愛の翔に自分が捨てられて、再び独りに戻ってしまう夢。
夢の中で誰かが、翔をさらっていくのだ。
そんな過去の記憶の回忌とは違う悪夢を見初めたのは、あの女が澄香の前に現れてから。
そして、夢の中で翔を奪っていくのは、澄香を体育倉庫に呼び出したあの女だった。
あの女が、我がもの顔で翔の横に居座り、当たり前のように手を繋いだり、キスしたり、
あまつさえはセックスまでして、澄香から翔を盗んでいく。
その目の前で繰り広げられる痴態に耐えきれなくて、必死に自分の存在を訴えても、
翔は澄香を見てくれない。
何も出来ない。泣こうがわめこうが、叫びは翔に届かない。
いつもは翔とお弁当を食べていた昼休みも、ふと気付けば独りに逆戻りしている。
昔は何とも思わなかったのに、もうその寂しさに耐えきれなかった。
寂しくて、悔しくて、そしてそのときは目が覚めた。はね起きて、全てが夢であった事に安心した。
だけど、それからというもの、同じ悪夢を毎日見るようになった。
毎日毎日、あの女が翔を奪っていく夢を見るのは、拷問以外の何物でもなく、
いつしか寝るのが怖くなった。

しかし、ある時を境にあの女は出てこなくなった。悪夢の中に現れたのは別の女だったのだ。
信じられなかった。澄香から翔を奪っていったのは、叔母である水樹由美だったのだ。
ずっとずっと信じてた由美が、姪の恋人を寝取っていく。
──お願い、捨てないで。
必死に叫んでも、翔はもう澄香を見てくれない。彼は由美しか見ていない。
そして、澄香はそのときの由美の顔を見て、
恐怖する。翔を見つめるその顔は、澄香が見た事のない「女」の顔だった。
今まで気付かなかった。
由美が、あんなに魅力的な女だったなんて、自分なんかよりずっとずっといい女だったなんて。
しかし、そんな由美も、最近は夢の中に現れなくなった。悪夢を見なくなったわけではない。
ただ単に、女が誰か分からなくなったのだ。
最近では、年上、年下、綺麗、可愛いい、そんな様々な形容詞にピッタリ合う女が、
悪夢を見る度、まるでサイコロの目のように、コロコロ変わっていく。
変わらないのは、必ずその誰かが澄香から翔を奪っていき、
胸が締め付けられるような寂しさで目を覚ます事だった。
そして、今回の女は、少し年上の優しそうな女性だった。
柔らかく涼しげな顔立ちに微笑みを携えて、彼女は見慣れた教室の一角で翔と話している。
──やめてよ。
そんな叫びも彼等には聞こえない。
楽しそうに、彼等は談笑し続ける。やがて、女が恥ずかしそうに、翔の肩に頭を預けた。
そして、二人は見つめあい、次第に顔の距離が近付いていく。
──やめてっ!!!
何なの?あの女は。どうして私の場所を取るの?
どす黒い感情が、胸の中で渦をまく。

許せなかった。あの名前も顔も知らない女が。
許せなかった。馴れ馴れしく翔に触るあの女が。
そして、何より許せなかったのは、楽しそうに女と言葉を交す翔だった。
声にならないのは分かっている。翔に聞こえないのは分かっている。ここは夢の中なのだ。
だけど、叫ばずにはいられなかった。

──私の前で、そんな楽しそうな顔してくれた事ないじゃないっ!!!

To be continued.....

 

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