平日昼間の電車はすいている。車内はガランとしていて、椅子に座る人さえまばらだ。
座る事も出来たが、翔はあえて座らず、閉じられたドアに体を預け、
車窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
灰色の街が、なす術なく流れていく。目的地まで、あと十分ほど。二つ駅を通過する。
そこまでの間、少しだけ感傷に浸っていよう。そう思いつつ、見上げた青空は、
白い飛行機雲で二つに別れていた。
確か、最後はプラモデルだった。
ふとそんな事を思い出す。まだ物心ついたばかりの頃だから、幼稚園の年長くらいだった。
あの時は、妙に母親が優しくて、ずっと欲しかったプラモデルは高くて買ってもらえなくて、
代わりに少し値段の落ちるプラモデルを買ってもらった。
デパートのレストランでお子様ランチを食べて、母親と手を繋いで屋上に行って、
ヒーローショーを見た。ヒーローが蛸みたいな怪人に追い詰められて、
手に汗握って声を枯らした事をよく覚えている。
ショーも終わり帰り道。
危機から見事に脱出し、怪人を薙ぎ倒したヒーローの姿が瞼に焼き付いて興奮覚めやらぬ翔が、
夕焼けに向かってうきうき歩いていると、手を繋ぐ母親が確かに言ったんだ。
「今度デパートに行く時は、何でも欲しいものを買ってあげる」って。
その時は、馬鹿みたいにはしゃいで喜んだ。
結局、その約束は守られていない。
三日後、綺麗に着飾って出ていった姿を最後に、母親を見ていない。
何処にいるかも分からなかった。
五日後、警察の人にその名前を知らされるまでは。
母は、翔と夫を捨てて男と共に逃げた。そして、その男と共にこの世から消えた。
母親はもう帰ってこない。ようやくその事が理解出来たのは、翔が小学三年生の時であった。
その時から、翔は言葉を信じていない。言葉は、人を簡単に裏切るのだ。
車内アナウンス。くぐもった声が、スピーカーを通じて車内に降り注ぐ。
窓の外には相変わらずの灰色の街。しかしいつの間にか、目的地は目前にまで迫っていた。
肘まで落ちた鞄を肩にかけなおす。ポケットの中の財布を取り出す。
電車が速度を落として、ホームに滑り込む。停車しドアが開くと、素早く電車から降り、
改札を抜けて、小さな繁華街に入る。寂れた地方都市に、行き交う人の数は少ない。
碁盤目の住宅街をずんずん進む。空き家と空き地の目立つそこは、少しだけ寂しい。
やがて、澄香の家の前まで辿りつき、翔は歩を止めた。
彼女の家は、辺りのひっそりとした雰囲気を吸い込み、まるで辺りに溶けるように紛れ込んでいた。
雨戸が閉じられ、電気もついていなく、人の気配さえ感じられない。
以前、確かに感じた生活の匂いは、消え去っていた。
それが不気味で、翔は慌ててインターフォンを鳴らす。
ひっそりと静まり返った水樹家の中に、機械的な音が響いた。
その音が消えた後、沈黙。声はもちろん、物音さえ聞こえない。
もう一度、インターフォンを押してみても、やはり沈黙しか返ってこなかった。
不安が、胸の中でどんどん膨れ上がっていく。
「おいっ!!澄香いるんだろ?」
ドアを乱暴に叩きつつ、声を張り上げる。しかし、返事はない。
まさか、ここではないのだろうか。そんな疑惑がジワジワとにじみよる。
考えてみれば、澄香がここにいる保証はない。あったのは、直感だけだ。
焦りが募る。
焦藻が、少しだけ翔の理性を奪う。
ノブをつかみ、ガチャガチャと強引に回す。すると、存外あっさりとドアは開いた。
翔は肩透かしを食った気分だった。
軋みながら開く漆黒の扉。その内部が抱えこんだ深淵に、帯状の光が広がっていく。
ゆっくりと広がる光の中。上がり端で膝を抱いて蹲る澄香の姿が写し出された。
膝を抱いた両腕に、顔を押し付けるその姿は、母の中に宿る胎児を思わせる。
しかし、胎児ほど温かさや優しさに内包されているわけではない。
むしろ、まるで絶望の海をさ迷うかのように、彼女は細かく震えていた。
「すみ、か……?」
戸惑いがちな声が出た。石のように固く重いその声は、
すぐに闇の中に消えていき、後には静寂が残る。返事はなかった。
不安がはね上がる。
「澄香っ」
今度は、はっきりとした声が出た。慌てて澄香に駆け寄り、彼女のすぐ側に腰を屈める。
相手の息遣いさえ聞こえてきそうな距離、それでも、澄香は翔に気付かない。
まるで光を失ったように、音を失ったように、彼女はただ震えている。
ふと、静寂を震わす小さな声に気付く。小さく早口なその音は、うずもれた澄香から漏れている。
耳をすまし、その音を拾おうとする。
しかし、その音が声となるにはあまりに小さ過ぎて、はっきりと聞き取る事ができなかった。
その音が止む事はなかった。
まるで呪文を唱えるように、まるで悪魔に魂を持っていかれてしまったように、
まるで狂った時計のように、澄香はその音を放ち続けている。
不安が、爆発した。
「おい、澄香っ!どうした?大丈夫か?」
澄香の両肩を掴み、大きな声をかける。すると、彼女は体を大きく震わせ、身を固くした。
それからいかにも恐る恐るといった様子で、ゆっくりと顔をあげた。
翔は思わず息を飲む。その顔は、翔の知っている澄香ではなかった。
疲弊しきった頬は痩けている。もう目を開ける事さえ出来なくなったように、
彼女の瞼は半開きで、その奥に隠された瞳が、死んだ魚のように澱んだ光を放っている。
まるで冬山の死人のように青くなった顔色は、彼女をより凄惨に彩っていた。
やがてその凍えたように青紫色に変色した唇が、ゆっくりと動き出す。
「せん、ぱい……?」
集点の合わない瞳が、翔を見つめる。澱んだ瞳が、鏡のように翔を写し出している。
その狂った瞳は、人間のそれとは思えなかった。
背中に冷たい何かが走り、翔は声を失う。
狂った光を放つ彼女は、自分の声を確認するように再び唇を動かした。
「せん、ぱい」
そして、それが、契機だった。まるで春になり、蕾が開くように彼女の瞳が急速に色味を帯ていき、
やがて笑顔の花がさく。瞳に光が宿り、キラキラとガラスのように輝く涙が蓄積されていく。
羽化する蛹を見ている気分だった。
その、生が躍動を開始するような澄香の変化に見とれていると、
いきなり彼女の全身が、翔の体に絡み付いた。両腕が背中に回され、彼女の顔が胸に押し付けられる。
その勢いに飲み込まれ、翔は後ろに手を着き、尻餅をついた。
澄香のしゃくりあげるような息遣いが、胸を擽る。
「う、嬉しいです」
しゃくりあげる息遣いに声を乗せて、澄香が懸命に言葉を紡ぎはじめた。
「来て、くれないかと、思って、ずっと、ずっと、怖くて、だけど、センパイが、
私を、選んでくれて、本当に、本当に、嬉しい。ああ、せんぱい、すき、だいすきです」
澄香の絡み付く腕にいっそうの力がこもり、彼女の顔が強く胸に押し付けられる。
その予想外の歓迎と変貌に翔は呆気に取られて、胸の中の少女を、呆然と眺めていた。
その後、澄香は胸の中でこしょこしょと擽るように動き回り、
ようやく恥ずかしそうに顔をあげた時には、涙と鼻水と唾液でベトベトで、
もちろん翔のワイシャツも涙と鼻水と唾液でベトベトだった。
そのベトベトを拭いもせず、澄香はえへへと照れたように笑う。
そこでようやく、翔は我に帰った。
そして、メールでたすけを求めてきた少女の姿をマジマジと観察する。
見たところ、澄香は元気そうである。顔色は悪いが病気のようではない、怪我をしている様子もない。
つまり、そこには大学進学絶望の事実だけが残ったわけだが、
それでも怒ったり、説教する気は沸いてこなかった。
彼女のあまりの変身ぶりに、翔の毒気はすっかり抜けてしまっていた。
翔は溜め息を付きつつ立ち上がり、
「少し、話をしようか」
怒ったり説教する気はないが、聞きたい事は山ほどあるのだ。
そのとき、ふとシャツの裾が引っ張られた。
「ん?どうした?」
「センパイに、聞きたい事があるんです」
未だ立ち上がろうとしない澄香に視線を落とす。
うつ向いた顔に髪がかかり、表情は見えなかった。
「なに」
一寸後、ためらいがちな声が来る。
「センパイは、私の事、好きですか?」
「え?」
「嫌い、なんですか?」
いや、そうじゃないけど。と翔は言葉を濁す。
二択で考えられる質問ではなかった。
しかし、澄香は違ったようで、
「じゃあ、好きなんでですね」
嫌いでなければ好き。彼女は心底安心したように一つ息をつき、顔をあげニッコリと笑った。
それから、急に体をくねらせて、言いにくそうに、
「それで、あの、センパイにお願いがあるんです」
「お願い?」
「はい、そうです」と、澄香は頬をほんのりと染めつつ、上目遣いで、
「私の事、好きって言って下さい」
期待と不安が入り混じった瞳で見つめられ、思わず翔は眉根を潜める。
それはどこかで見た事のある顔だった。
「ダメ、ですか?」
澄香が悲しそうな顔をする。駄目だ。そう言いたい。
自分の気持ちを言葉で偽るのは、翔の主義に反する。
しかし、澄香の悲しそうな顔を見せられると、その要求を無下に却下する気にはなれなかった。
しばらくして翔は溜め息をつきつつ、「──分かった」と言い、苦笑いを浮かべつつ、「言うよ」
「ほ、本当ですか!?えへへ、嬉しいです」
まるで念願の玩具を手に入れた幼児のように、瞳を爛々と輝かせる澄香。
それは嘘ではなく、心の底から喜んでいるように見えた。
その表情が、これから嘘を吐く翔の心に、罪悪感を降り積もらせる。
これから言う事は嘘である。翔はまだ、好きと言えるほどの気持ちを抱いていない。
しかしそうと分かっていても、面と向かって告白するのは恥ずかしくて、
照れ隠しに澄香から視線を反らし、「好き」と言った。
視界の隅に写った澄香は、とろけたように幸せそうな顔をしていた。
彼女は、翔の本当の気持ちを知らない。その事を思うと、降り積もった罪悪感に、潰されそうになる。
やはり、言葉は感情を裏切った。だったら、いっそ本当の嘘つきになりたかった。
そうすれば、もっと楽だったのかもしれない。
この時が、境目だった。何かが水面下で狂い始めていた。
狂った歯車は戻らない。歯車が精密であればあるほど、たった一個の狂いが、全てを狂わせてしまう。
それでも狂った歯車は回り続ける。全てが壊れてしまうまで。 |