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すみか

第1章
第2章


1

九月も終わりに近付くと、今までの暑さが嘘のように気温がグッと下がった。
しかし、まだ寒いというわけではなく、むしろ丁度いい気候と言えた。
夏の間、休みなく鳴り響いていた蝉の声もいつの間にか聞こえなくなり、
気のはやい鈴虫が立秋を告げている。
日の出ている時間もだんだんと短くなって、午後五時を回るともう薄暗い。
学校の廊下には白い電灯がともっているが、体育館は気味の悪い赤黒に染まっていた。
そこは当たり前のように静かで、バスケ部やバレー部といった体育館を寝城とする運動部の姿もない。
週明けの附属高統一テストの準備のため部活は全休部となっているのだ。
日が傾き暗くなった館内には、もう影は伸びない。
誰もいない館内に、自分の足音がやけに大きくこだました。
水樹澄香はその事にうっすらとした恐怖を覚える。
誰もいない体育館は、いつもの喧騒を知っている分、その静けさが不気味だった。
いつか翔を待っていた時は、胸の高鳴りが先行し気にもならなかったが、
こうして一人で来てみるとその異様さが引き立つようだ。
澄香は夏用の短いスカートのポケットに触れる。そこにはやんわりとした紙の感触。
折り畳まれたルーズリーフが一枚入っているのだ。それは誰かが澄香に寄越した手紙である。
そしてその手紙に呼び出されて、澄香は体育倉庫まで行くのだ。
しかし、その手紙の送り主が誰なのか、澄香には分からなかった。
下駄箱に入っていたそれを初めて見た時は、翔からの手紙かと思ったのだが、
その手紙に書かれた文字は一目で女性の文字であると分かるもので、明らかに翔の字ではなかった。
そうなると、澄香にはもう見当がつかない。
手紙を寄越してくれそうな人は、翔以外一人もいないのだから。
錆び付いた体育倉庫の鉄扉を、肩ごと突っ込んで開く。
倉庫の中は、ほとんど真っ暗だった。相変わらずカビ臭いし、ジメジメしている。
ここに悪い思い出など一つもないのだが、それを塗り潰すほどの気味悪さを感じた。

「待っていたわ、澄香さん」
闇の向こうで、誰かが澄香の名前を呼んだ。暗くて人の姿は見えないが、女の声だと思った。
澄香はその暗闇の中を覗きこもうと目を細める。
すると、暗闇の向こうで漆黒の長い髪が揺らいでいるのが見えた。
「誰、ですか?」
澄香は警戒に身を固めながら、慎重に問いかける。
すると、闇の中に潜む女が僅かに身をくねらせたのを感じた。
「さぁ?誰だと思う?」
暗闇に紛れた女が嘲るように言った。その話し方が澄香の癪に触る。
「ふざけないでっ!! 呼び出したのは貴方でしょっ!!」
ついつい怒鳴ってしまう。しかし、闇の中の相手はあくまで冷静だった。
「ふざけてなんかいないわ。ただ貴方に名乗るつもりがないだけなの、『藤宮』澄香さん」
瞬間的に、頭の中が沸騰した。
「 そ、その名前で呼ばないで下さいっ!!私は水樹澄香ですっ!!」
あの苗字を聞くと、子供時代の絶望で真っ黒に塗り潰された記憶と共に、
生々しい男の感触が鮮明に蘇る。だからあの苗字は、大嫌いだ。聞くだけで虫酸が走る。
「あら、ごめんなさい。『藤宮』さん」
なおもおどけたように言うこの女に、暴力的な激情が突発的に燃え上がる。
思わず殴りかかりそうになって、二、三歩足を踏み出してしまった。
しかし、その僅かな前進で、闇の中に隠れていた女の姿がぼんやりと照らしだされ、
澄香はすんでの所で押しとどまる。
闇から現れた女を、澄香はどこかで見た事がある気がした。
しかし、その記憶はまるでピントの合わないレンズを覗きこんでいるかの
ように、ボヤけている。それが気持ち悪くて、澄香は過去へ過去へと記憶を遡り、
その女を探してみたが、それでも女の面影の入った引き出しは見当たらなかった。
ただ、しかし確実に記憶にある女だった。
「私はね、貴方にお願いがあって来たの」
女が薄笑いを浮かべつつ言う。やはり、澄香を下に見るような笑みだった。
彼女のしゃべり方はいちいち癪に触る。

「……何を、ですか?」
怒りに身を震わせながら、澄香は低い声を出した。
すると、女は嘲るような表情を引き締めて、命令するように言う。
「率直に言うわ。翔と別れてほしいの」
その瞬間、澄香は絶句し、同時に思考が完全に停止した。それなのに、口だけが勝手に回る。
「そ、そんなの嫌。嫌です。絶対、絶対嫌ですっ!!」
「あら、どうして?」
「だ、だ、だって、私はセンパイが好きだから。だから、だからセンパイは駄目です、
絶対に駄目なんです」
センパイを手放したくない、そんな感情が空回りし、次から次に言葉が飛び出す。
しかし、激情に支配された頭では、自分が何を言っているのか分からなくなっていた。
「ふ〜ん、そうなんだ。でも、翔があなたの事を好きかどうかは分からないんじゃない?」
「そ、そんな事ないですっ。センパイは、センパイはっ」
ふと、思考が感情に追い付いた。そして、澄香は続く言葉を失った。
──翔は、自分を好きなのだろうか。
そんな疑問が、思考に根を生やす。
実際のところ、女の言葉に反論できる確固たる自信が、澄香にはない。
好きだ、と澄香は口癖のように翔に言っている、しかし、逆は一度もなかったのだ。
最近、翔は目に見えて優しくなった。しかし、行動は感情を裏切る事を澄香は知っている。
現に、あの男がそうだった。何も知らない真っ白な純潔も、無邪気で真っ直ぐな子供心も
あの男の不埒な行動で根刮ぎ奪われたのだ。だから行動ではなく言葉で言われないと、
人の気持ちは分からない。好きと翔に言ってもらわないと、澄香は安心出来ない。
「嫌われてるんじゃないの?」
ズキンと。
胸の奥のやわらかい場所がうずくのを感じた。
嫌われてる、そんな言葉が痂(かさぶた)の下に隠れた古い記憶を呼び覚ます。
『俺、お前の事大嫌いなんだ』
あの言葉が、気持ちのいい笑顔を浮かべた翔の顔と共に蘇る。
澄香は翔に好きと言われた事はない。しかし、嫌いと言われた事はあるのだ。

そう思った途端に女に対する怒りが急速に熱を失い、代わりに真っ黒な不安が心に生まれた。
嫌われてるかもしれない、そんな微かな疑惑が、渦のように澄香を飲み込んでいく。
まとわりつく不安を振り払うように、澄香は必死で言葉をつむいだ。
ほとんど叫ぶように大声でその不安を隠そうとした。
「で、でも貴方には関係ないじゃない。それは、わ、私とセンパイの問題ですっ!」
澄香の叫びは暗闇に飲み込まれて消え、代わりに静寂が訪れた。
その静寂の中、やがて、女は不敵に笑い、
「関係あるわ」
澄香は息を飲む。そして、女は平然とそして驚くほど静かに言ってのけた。
「だって、私も翔の事が好きなんだもの」
澄香が驚愕に目を剥くと、何の感情が詰まっているのか分からない涙が一粒こぼれ落ちた。
そして同時に、たった今、この女の正体を思い出した。この女は澄香が初めて翔の教室に行った時、
楽しそうに彼と話していた女だ。
すると、いきなり不安の雨はその強さを増し、ついに心の堤防の傘を越えた。
溢れだした不安が、澄香の足下を洗いはじめる。破滅は近い。
しかし、それでも女は言葉を止めず、澄香を絶望の底へと案内する。
「彼ね、あなたの事が嫌いって言ってたわよ。そして私といる方が楽しいとも、ね」
その瞬間、澄香は世界が色を失うのをはっきりと見た。
視界が雪に覆われたように白くなり、世界に散らばったありとあらゆるもの全てが、
存在の意味を失った気さえした。その狂った世界の中で、嫌われているかもしれないという疑惑が、
いよいよ現実身を増していく。もう、女が嘘を言っている、とも考えられなくなっていた。
不安で、怖くて、悲しくて、許容範囲をはるかに越えた感情で心が爆発しそうになる。
「だから、彼のためにも別れてほしいのよ」
もう限界だった。女の言葉は耳に痛くて、澄香は頭を抱えて震えだす。
いつの間にか溢れだしていた涙は、もう止まりそうもない。
しかし、そんな事は気にもならなかった。心は、翔でいっぱいだった。

彼は、自分に安らぎをもたらしてくれる。心の底から楽しませてくれる。
そして、胸がいっぱいになる甘い幸福で心を満たしてくれる。
だから、ずっと、ずっと一緒にいたい。たとえ嫌われていたとしても、別れたくない。
別れたくない別れたくない別れたくない別れたくない別れたくない別れたくない別れたくない
別れたくない──と、しゃくりあげながら、澄香は呪文のように繰り返す。
「──安心して。私も鬼じゃない。無理矢理別れさせるつもりはないわ」
最大級の恐怖に支配された澄香には、女のその言葉がまるで天国へと続く救いの糸のように思えた。
藁をも掴む気持ちで、澄香は慌てて女の顔を覗き見る。
暗闇の中の女は勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「賭けをしましょう」
「か、け?」
「そう賭けよ」
女は何かを含んだような笑みを浮かべ、その賭けの内容の説明を始める。
女の提案する賭けとはこんな内容だった。
週明けの月曜日に、澄香は学校を休み家で待機し、メールで彼に助けを呼ぶ。
もちろんそれは嘘であるが、彼が心配のあまり学校を早退し、澄香の元へ駆け付けたら澄香の勝ち。
それ以外は、かの女の勝ちとなる。
ルールは大きく分けて三つ。
ひとつ。この賭けの事を翔に匂わせてはいけない。
ひとつ。澄香の送るメールの本文は「助けて」のみ。
ひとつ。賭けに負けた方は翔を諦める事。
「月曜日は統一テストがあるけど、かまわないわよね?」
説明を終えると、最後に女が問いかけてきた。
統一テストとは、附属高内での自分の位置を知るために行われる実力テストだ。
附属高でも下位に属する澄香の学校では、他の附属高とレベルを合わせるために
その結果が内申に響く事もあるが、それは前回の六月のテストであり、
今回は単純に実力を計るためだけのテストである。
澄香はゆっくりと、しかしはっきりとうなずいた。
本来ならこんな賭けを受ける義理はないのだが、混乱した頭はこの賭けを
翔の愛情を受けるための登竜門のように錯覚していた。
勝たなければ、翔に好きになってもらえない、と。
澄香は、どうしても翔に愛されたかった。
いつの間にか、涙は止まっていた。

2

ある所に、一人の男の子がいました。男の子は優しい両親に囲まれてすくすく育っていきました。
だけど、男の子には不思議な事があります。男の子のお母さんに顔がないのです。
お母さんは男の子にいつも優しくしてくれますが、それでも男の子にはお母さんの顔が分かりません。
友達はその事で男の子をからかってきます。それが悔しくて、ある日男の子はお父さんに訪ねました。

「どうして、僕にはお母さんがいないの?」

──悪夢はいつもここで終わる。

今日も悪夢は突然終わりを告げ、それと同時に翔は飛び起きた。
残夢の寂廖感が心臓の辺りに蔓延っていて、とっさに自分の左胸をおさえると、
心を満たしていたその感覚が、波が引くようにスーッと消えていく。
残ったのは、妙な後味の悪さだった。
嫌な夢を見た、と思う。
ふと気づくと、ベッドが寝汗でグッショリと湿っている。
体にかけていたはずのタオルケットは、どこかへ蹴飛ばされていた。少し肌寒い朝である。
それでも、開かれた窓からは優しい風と共に暖かい日の光が指しこみ、部屋を少しずつ暖めていた。
改めて、翔は自分の額を抑えて唇を噛む。最悪だった。
昨日翔は夜遅くまで勉強したため、全てを終え床についたのが午前三時。
いつもは十二時には寝ているのでただでさえ、いつもより睡眠時間が短い。
それなのにあの悪夢だ。頭の中にモヤモヤした何かが残り、ちっとも寝た気がしない。
慌てて枕元の時計を確認すると、時刻は午前六時を指している。
悪いことに、二度寝をする時間はなかった。
翔は起きなければならない。
今日は月曜日で学校がある。そして大切なテストの日でもあった。

 

学校につくと、今朝の悪夢の事などすっかり忘れ、テストの持つ心がかさつく緊張感にさいなまれた。
いつもより早めについた学校はいつもよりずっと静かだったが、
それでも教室には、もう数人の姿があった。
彼等、もしくは彼女等に軽く会釈を交しながら、翔は出席番号順に並び変えられた自分の席につく。
それから鞄を机にかけて、改めて首を回して教室の中を見渡した。
集まった数人が別れ、教室には三つのグループが出来ている。
男子のグループがひとつ、女子のグループがひとつ。
それらは皆クラスでも屈指の優等生であり、いつも朝早くに登校している連中だ。
彼等、或は彼女等とは仲が悪いわけではないのだが、
自分から積極的に話しかけるほどの関係ではなかったので、
翔はその輪に入っていこうとは思わなかった。
そして、その二つのグループに属さない者が、一人。
「おはよう、翔」
その残った一人に背中から話しかけられた。
振り返ると、そこには中野早苗が立っていて、翔は狼狽する。「ああ、おはよう」と、
返事こそしたが、その声は自分でびっくりするほど歯切れが悪い。
そんな翔の様子がよほどおかしかったのか、中野はクスクスと口元を押さえて笑い、
「あんた、鳩が豆鉄砲食った顔してるよ。あ〜、馬鹿みたい」
軽口を叩いた時に見せるどこか高慢な中野の表情を、翔は久しぶりに見た気がした。
事実、澄香が初めて教室に来て以降、中野とは会話がなかった。
だからこそ、こうして中野から話しかけられるのは、ただただ驚きである。
「ところでさぁ、翔は土日にしっかり勉強した?」
突然、中野が話を切りだした。
「え、あ、ああ、もちろんしてきたよ」
そう翔が答えると、中野は訝しむ目になって、
「本当にぃ〜、澄香ちゃんとデートしてたんじゃないの?」
心臓が掴まれた、かと思う。
「い、いや、してない、してない」
慌てて否定する。澄香に「土日は一緒に遊ぼう」と誘われはしたが、翔は難くなに断っていた。
「ふ〜ん、じゃあ何でそんなに慌ててんの?」
「そ、それは……」

そこから先は、言葉が繋がらない。
ある意味、中野との関係がギクシャクしだした原因は澄香にあると言えるので、
中野の口から当然のように澄香の名前が出てくるとは思わなかったのだ。
もちろん、中野に面と向かってそうとは言えない。
しばしの空白の後、やがて中野がその空白をかきけすように明るく口を開いた。
「なーんてね、冗談よ冗談。いくら翔が馬鹿でも、そんな事するわけないわよね?」
翔が答える前に、中野は急にしおらしく身を屈め、翔の瞳を覗きこむようにして、話を続ける。
「でも、翔も大変よね」
真っ直ぐ見据えられ、恥ずかしくて翔は後退る。
「な、何が?」
「だって今日のテスト、翔だけが真面目にやらなくちゃならないんだもん」
なんだ、と思う。そんな事は他の誰より翔が分かっている。今さら言われるまでもない話だ。
「食中毒だっけ? 前回、入院しててテスト受けられなかったんだよね?」
「そうだけど……」
「だから、翔だけ特別に『今回のテストが内申に響くんだよね?』」
「……ああ」
「翔だけだもんね、今日のテストが大事なの」
「……」
「だから、翔は今日頑張らないと駄目なんだからね」
何度も同じような言葉を繰り返す中野に、さすがの翔も疑惑を抱き始めた。
中野はまるで翔の記憶に、今日のテストの大切さを改めて刷りこもうと
しているかのようにさえ思えた。
「なぜ、何度も同じような言葉を繰り返すのか」それが意図するモノが、疑惑という
抽象的な意識で固められ、翔の中で確実に根を生やしていく。
すると、そんな翔の疑惑を察したのか、中野はあからさまに話題を切り換えた。
「澄香ちゃんっていい娘よね。可愛いいし、素直だし、少し熱くなりやすいようだけど」
「どうしてお前が澄香を知ってるんだよ」
まだ、翔の疑惑は消えない。そのため翔の声はいつもより幾分低かった。
「一度だけ、話したのよ。澄香ちゃんと」
「そう、か……」
しばしの沈黙。

その沈黙を撒くように、翔は窓の外へ視線を移した。
そこには透き通るように青い空があって、白い飛行機雲がその空を二つに裂いていた。
気持ちのいい青空だった。
「ねぇ、翔」
いかにも、緊張した様子の中野の声。
翔は改めて中野に視線を戻した。
「何?」
「え、あ、いや、何でもないわ」
今度は中野が慌てた様子で翔から視線をそらし窓の外に目をやった。
それから、彼女はそのままの態勢で、言いにくそうに、
「今日のテストの事さ、澄香ちゃんは知ってるのかな?
ほ、ほら、今日のテストが翔にとって大事だ、って事」
甚だしく、意味の分からない質問に、翔は呆れた。
それが緊張して言う質問なのか、だいたい中野はそんな事を知って何がしたいのか。
抱いた疑問が、勢いのついた車輪のように思考の奥へ奥へと進んでいく。
「答えて、よ。お願い」
まるで哀願するように、中野は胸の前で両手を合わせ、翔に視線を戻して言った。
二人の視線が再び絡み合う。どこか翔の答えを恐れているようで、
それでいて期待しているような中野の瞳。
その瞳の魔力に引き込まれたかのように、翔は溜め息をひとつつき、そして答える。
「……してないよ」
驚いた顔をする中野に、翔は繰り返す。
「してないよ。無駄に心配してほしくなかったから」
驚いた顔が、次第にほぐれていく。
そして。
中野は嗤った。
ひどく、嬉しそうに。

3

中野の嗤いを翔が眺めていた丁度そのころ、水樹澄香は自分の家の玄関先に、
膝を抱いてうずくまっていた。冷たいフローリングの感触が、
夏用制服の薄いスカート越しにひんやりと尻に伝わる。
家の中は薄暗く、そして静かで、居間の時計の針が時間を刻む音さえ耳に届いていた。
右手に握られた携帯は開かれたままであり、そこは送信メール作成のページで固定されている。
白い画面は既に節電されて光を失い、それが長い間携帯を操作していない事を物語っていた。
送信メールの宛名は、奏翔。
本文は「たすけて」の四文字のみ。それ以上は何もなく、また何もしてはいけない。
それがあの女と交わした賭けのルールなのである。
そして、もうすぐ負けの許されない、大事な賭けが始まるのだ。
そのとき、ズキリと、胸の奥が鈍い痛みを放った。
澄香は膝を抱く両腕に力をいれる。膝小僧が胸に食い込み、僅かに痛みがまぎれた。
あの日、あの女の賭けを受けて以降、時折はりさけそうに胸が痛むのだ。
その痛みは食事中でも、学校の授業中でも果てはベットの中でさえ、
悪夢のようにいきなり襲ってきて、澄香の精神を疲弊させ、
そして澄香の頭に不安を残してゆっくりと消えていくのだ。
その不安の正体は、もちろん翔の事である。
結局、澄香には翔の気持ちは分からなかった。
その気持ちが知りたくて、土日もデートに誘ったのにやんわりと断わられた。
デートが無理な理由さえも教えてくれなかった。だから、怖いのだ。怖くてたまらない。
もしかしたら、翔はあの女と逢瀬をしているのではないか。
いや、もしかしたら他の女との可能性もある。そうなると自分は捨てられてしまうのかもしれない。
いつの間にか疑心暗鬼の沼に首までどっぷりつかり、澄香はこの三日間ほとんど眠れていなかった。

そのため慢性化した寝不足でかさついた頬肌がヒリヒリとうずいているが、たいして気にならない。
それより疲弊しきった精神が崩壊しかけ、意識がくしゃくしゃになりそうな事の方が問題だった。
そうなったら自分が自分でなくなり、発狂してしまいそうな気さえしていた。
だから、澄香は意識を手放さないように思考し続けている。
最近急激に増えた楽しい思い出をテープが擦りきれるまで、何度も頭の中で再生する。
しかし、澄香の思い出に、楽しい事は悲しいほど少なかった。
あの男さえいなかったら。そして、思考が行き着く答えはいつもここだ。
あの男さえいなかったら、もっと翔に愛されていたかもしれない。
初めてを翔に捧げる事も出来たし、翔だけに染められる事も出来た。
それに、傷つく事もなかったのだ。
そう思うと、澄香はたまらなくなり、自分の体を強く抱き締めた。
爪が肩にめり込み鋭い痛みを残すが、構いはしなかった。
いくら痛くてもいい。この汚れた体が、澄香は大嫌いだった。
ふと気付くと、賭けのスタートを告げるメールの発信の時刻まで五分を切っていた。
携帯の時計はいつも音もなく時間を削っていく。
澄香のやる事は携帯の送信ボタンを押すだけだ。
後は、待つだけ。
彼が、この嘘のメールを、澄香を信じてくれるか否かが、つまるところ賭けの勝敗を左右するのだ。
大丈夫、きっと翔は来てくれる。
そもそも今日のテストなどどうでもいいはずだ。
内申に響くテストは前回だし、今回は只の実力テストである。
だからきっと、翔は自分を選んでくれる、自分の元に来てくれる。
そして、その時に言ってもらおう、彼の気持ちを。染め直して貰おう、心も体も。
そんな確信のない燃料と、実体のない温かい妄想で心を暖めながら、静かに時を待つ。
ぼんやりと、携帯のディスプレイに写し出された文字を眺めながら澄香は思う。
この嘘の「たすけて」。あながち嘘ではないかもしれない、と。
送信までの時間はもう三分を切っている。

4

妖しく光る瞳を縁取る細められた目元。粉を吹いたように赤く染まる頬。
そして、含みを持ちつつ歪んだ唇。その中野早苗の嗤いの正体を、奏翔は計りかねていた。
何が、そんなに嬉しいのか。今日のテストの重要性を澄香が知らない事が、
それほど有益な情報なのか。そして、何故『嗤う』のか。
疑問が音もなく、雪のように降り積もっていく。
「そっか、よかった」
やがて中野が消えるように呟いた。
「何が、よかったんだ?」
消えていく中野の言葉に、翔が疑問を被せた。すると、彼女は小さく首をふりつつ、
「何でもない」
それから今度は喜びを噛み締めるように、声を殺して笑う。
「ただ、ちょっとだけいい事を思い出してね」
彼女の唇の両端がつり上がり、その隙間から白い歯が覗いた。
「いい事?何だそれ?」
「簡単よ。賭けに勝ったの、まだ確実とはいかないけど、八割方ね」
賭け?と聞き返そうと口を開こうとしたそのとき、
ズボンのポケットに入った携帯が激しい振動と共に、一昔前の歌をくちずさんだ。
その歌はもう活動を休止してしまったバンドの、翔の一番好きな歌である。
「電話?」
中野は少しだけ緊張した様子で尋ねる。
「いや、多分メールだと思う」
そして、この着うたが流れる相手は、澄香だけである。
澄香だけがこの歌が流れるように設定してあるのだ。
悪い、と中野に会釈をして、翔はポケットから携帯を取り出し、ディスプレイを開いた。
ミランの22番が両手を空に掲げている後ろ姿、その壁紙の下の方で、
「未読メールが一件あります」の文字と共にメールの着信を告げるアイコンが浮かび上がっている。
そのアイコンをクリックすると、予想通り水樹澄香の名前がメールボックスの一番上に現れた。
「誰?」
中野は僅かに身を乗り出したようだった。
「ああ、澄香から」
特に気にすることなく、そのまま事実を口にする。
そのとき、中野が息を飲んだような気がしたが、それは気のせいに違いなかった。

メールの本文を開き、そして、翔は眉を潜める。本文はたった四文字だった。
『たすけて』
これだけである。
そこには絵文字や顔文字もなく、シンプルな活字だけが並んでいる。添付や、タイトルもなかった。
非常にシンプルなメールだが、逆にシンプル過ぎて、その意図が翔にはよく分からなかった。
澄香はこの四文字で何をしたいんだろう、と首を捻る。
額面通りにこれを受け取れば、澄香が何らかの危機に陥っているのだろうが、
これだけでは信じるに足らない。
むしろ悪戯の可能性の方がずっと高い、と思う。
だいたいにおいて、それほど緊急を要するならば、翔にメールを打っている時間などないはずなのだ。
しかし、それでも万が一にこのメールが額面通りの意味ならば、と考える。
いきなり心臓発作を起こし、最後の力を振り絞って助けを求めたのが、
たまたま翔であった可能性もなきにしもあらず。
もし本当にそうであれば、早く澄香の元へ駆け付けるべきなのだろう。
澄香に何かあってからでは遅いのだ。
それに、澄香は……。
「ねぇ、翔?どうしたの?」
突然、自分の名前が呼ばれて、翔は我に返った。
「あ、いや、何?」
「聞きたいのは私の方よ。何か考えこんでるようだけど──」
そして中野はジッと翔の瞳を睨みつけ、ポツリとこう言った。
「──何か、悪い内容のメールだったの?」
ドキリ、と心臓が一際強く脈うつ。心の中を覗かれたような気分だった。
「い、いや、そんなんじゃないんだ」
慌てて翔が弁明しても、中野は、ふ〜ん、と探るような瞳で翔を見てくるので、
動悸が一向に収まらない。やがて中野は溜め息を一つつき、子供に言い聞かせる保母の口調で言った。
「あのね、翔。何があったか知らないけど、今日は頑張らなくちゃ駄目なんだよ。
あんたはあんまり成績よくないんだから、今回のテストの成績が悪かったら、大学に行けなくなるわ。
だから、今日は死ぬ気で頑張りなさい。少しくらい体調が悪くても、気合いと根性で乗り切るのよ」

そうだった。今日のテストは重大な意味を持っているのだ、と改めて気付く。
のこのこと澄香の元に駆け付け、結果悪戯でした、ではすまないのだ。
そこに待っているのは、大学進学絶望という最悪の事態であり、
また翔の人生を大きく狂わす事にもなりかねない。
だから、悪戯の可能性を考慮に入れると、澄香の元に駆け付けるのは、
あまりにリスクが高すぎるのである。今は安易な行動は、出来る限り慎むべきなのだ。
「分かってるよ。体調が悪かろうが、最後まで頑張るさ」
翔が薄く笑みを浮かべつつ、小さなガッツポーズを作りつつ言うと、中野は満足そうに、
それでいて安心したようにニッコリと笑い頷いた。
その中野の笑みを見ると、彼女は自分を心配してくれているのだろう、とふと思う。
いつも口うるさく、何かとちょっかいを出してくる中野に心配されるのは、
心の底にむず痒い何かが染みこんでくるような不思議な感じたが、それは決して悪い気分ではなく、
むしろ嬉しかった。
しかし、それでも澄香を思考から完全に除去する事はできなかった。
だから翔は、ひとまず様子を見ようと思っている。もう少し情報を収集してから判断しても
遅くはないだろうというのが、納得できる妥協点だった。
中野に「返信するから」と告げ翔は改めて携帯に向き直り、
「どうした?具合でも悪いのか?」とメールを打つ。
一時間後に、再び携帯を確認し、そこで判断する事にしたのである。
「じゃあ、翔。私、自分の席に戻るけど、試験頑張ってね」
文字を打っている最中に、中野のそんな声が聞こえた。翔は顔をあげずに、生返事を返した。
だから、そのときの中野が、どういう表情をしていたのか知らない。
だけど、多分嗤っていたのだろう。
まばらだった人の姿も、今では大幅に増え、ほとんどのクラスメートが登校してきている。
もうすぐホームルールが始まる。
そして、その先では大口を開けたテストが静かに自分の出番を待っている。

5

一時間目の日本史を無事終えた。
夏休みの余った時間をたっぷり費やし、一から丁寧に覚えていった日本史の手応えは、
いつになくずっしりと重く、回収されていくテストを、翔は自信を持って見送る事が出来た。
その解答用紙に空欄はなく、分からない問題も一問もなく、かなりの高得点が期待できそうだ。
が、いつまでも浮かれているわけにはいかない。この日のテスト最大の山場は、次の英語なのだ。
そもそも日本史は得意な科目であり、普段のテストでも高得点をマークしている。
しかし、英語はそうはいかない。中間テストでも期末テストでも、
赤点スレスレを安定飛行し、少しでも高い山がくるとポシャる。
一学期最後のテストではついに赤点を割り込んでしまった。
そのため、夏休みにみっちりと勉強したつもりなのだが、いかんせん元が低空であるため、
どの程度まで学力が上がったか定かではない。
もちろん、悪くはなってはいない、はずであるが、不安は募るばかりだ。
その不安を抑え込むためにも、最後の悪あがきをしようと、鞄に手を突っ込み、
単行本サイズの英単語帳を引っ張り出して、適当なページを開いてパラパラとめくる。
そこで翔はおかしな事に気付いた。この単語帳は一応、夏休みの間に全部覚えたはずなのに、
なぜかその中に記憶の空白がいくつもあり、知らない単語が結構あったのだ。
英単語は、基礎中の基礎であり、夏休みに一番初めに手をつけたはずである。
それが今さら怪しいとはどう言うことかと愕然とし、同時にまだテストも始まってもいないのに
慄然とし、最後に翔は青くなった。しかし、いくら状況が絶望的でも、
英語だけは落とすわけにはいかない。他の教科なら、例え失敗してもまだ挽回出来る可能性はある。
しかし英語だけは配点が他の教科の倍、つまり二百点満点という明らかに差別としか思えないほど
優遇されていて、英語の失敗を他の教科でカバーする事が出来ないのだ。

英語は翔の前に大きな壁となり立ち塞がっていて、
「越えられる物なら越えてみろ」とせせら笑いつつ、不敵に翔を見下している。
その揺るぎない事実に、態度に、行き場のない怒りがふつふつとこみあげてきた。
ふざけんな、だいたいここは日本だ。それなのに何故、国語や日本史より英語が優遇されるのか、
意味が分からないし、その意味を出題者に問つめてやりたい。
しかし、いくら文句を垂れたところで、事態が好転するわけもなく、
諦めに近い気持ちを抱いて翔は再び単語と格闘を始める。その時だった。
「ようようよう。お前、中野と仲直りしたらしいじゃん」
隣の席に座る寺田宏樹が、椅子に横に座り、ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべつつ話しかけてきた。
「何があったか知らないけどさ、ともかくよかったよ。特に中野は最近元気なかったろ?
だけど、今日は心なしか嬉しそうだもんな」
おかしなテンションの寺田は嬉しそうに一人で話を続ける。
寺田に構っている暇のない翔は時折話に相槌をうちつつ、黙々と単語帳を眺めていた。
その翔の姿を不思議に思ったのか、寺田は単語帳と翔の顔を交互に見比べ、
やがて納得したように頷き、
「そう言えば、翔だけこのテストが内申に響くんだっけ。大変だよなぁ。ところで、どうなんだ?
今日のテストの自信のほどは?」
翔は単語帳のページを一枚めくり、
「俺は今何やってるように見えるよ?」
「単語帳、見てるな」
「そうだ。そんな俺に余裕があるように見えるか?」
翔が答えると、急に寺田は悟りを開いた釈迦のような神妙な顔をつくり、翔の肩を叩いてこう言った。
「仕方ないさ。諦めろ」
「うるせー、そんな事、寺田には言われたくないんだよ」
「だって翔が必死こいてんの、今さら英単語だろ。もう絶対に間に合わないぜ?
いっそ推薦は諦めて、俺と一緒に他の大学受けようぜ」
そう言う寺田は何故か嬉しそうだった。
自分が推薦絶望であるため、同じ境遇に友人を引きずりこもうとしているのだ。
見下げ果てた奴である。

こういう男は無視するに限る。翔は、耳から意識を切り離し、口をつぐんで、単語帳に没頭する。
そんな翔に、なおも寺田は悪魔の囁きを続けた。
「おっ、おっ、頑張るねぇ。まぁ、今さら頑張っても、遅いけどな。夏休みに沢山時間があったのに、
勉強しなかったお前が悪いんだ。もう、誰も助けてくれないぜ?」
そのとき、何かが心の琴線に触れたような気がして、翔は固まった。
それから油の切れたロボットのような動きで、単語帳から寺田に視線を移し、助け、と呟いた。
寺田は翔の不自然な動きに瀧狽した様子で、ああと頷く。それが引き金だった。
テストの重大さや、英語の強大さに押され、いつの間にか頭の奥底で埃を被っていた記憶が、
いきなり白日の元に晒される。もちろん、それは澄香のあのメールの事だ。
どうして忘れていたのだろう。翔は慌てて携帯を取り出すと、テスト中は切っていた電源を入れ、
メール画面からメールセンターに問合せる。
画面の中で、手紙を催したアイコンが小さな地球の周りをくるくる回り、メールを回収していく。
一件、二件と数を数えだしたころ、キョトンとしていた寺田が、
眠りから覚めた獅子のように猛烈な勢いで口を開く。
「何だよ、どうしたんだよ携帯なんか見て。あっ、さてはお前、カンニングするつもりだな」
「寺田」
翔は真っ直ぐ寺田を見据え、
「悪い、ちょっと今マジなんだ」
寺田は目を大きく見開き、小さく口を開く。やがてまるで全てを悟ったように柔らかな微笑を浮かべ、
「そうか」と言った。彼は翔に何も聞いてこなかった。
ただ、代わりに寺田は「頑張れよ」と、最後に口にして、会話から離脱した。
寺田は空気の読める男である。何かを翔から察し、身を退いてくれたのだ。
そして、寺田は中々の友達思いな男でもある。先程の少々軽弾みな発言も、
彼なりに翔をリラックスさせようとしたに違いなく、本気で言ったわけではないだろう。
その証拠に夏休みの間、遠回しに勉強するようにと度々電話してくれたのは、他ではない寺田だった。

少し考えてみれば、寺田にしろ、中野にしろ翔を心配してくれているのである。
自分は恵まれているのかもしれない、と二人に思う。
そんな感傷を切り離して、さて、そろそろ問合せも終わっただろうと、再び携帯に視線を落とす。
やはり問合せは終わっていた。
しかし、その新着メールの件数に、翔は驚嘆の吐息をもらし、同時に全身の毛を逆立てた。
新着メール、21件。
僅か一時間の間に、それほどたまっていた。
しかし、驚愕はそれだけでは終わらない。そのメール全てが澄香からのもので、
そしてその全てが異様だった。
たすけて。
たすけて。
たすけて。
どのメールも、それだけだった。顔文字も絵文字も添付もタイトルもない、
たった四文字のメールが、まるで自らの存在を主張するかのように21通並んでいる。
その中に、ホームルームに翔の送った問いに答えるメールは一通もなかった。
澄香のメールだけでは、具体的に彼女に何があったのかは分からない。
しかし、澄香が今、普通ではないということだけは、その短い文章からでもはっきりと伝わってくる。
ある種、澄香は狂っているのかもしれない、と翔は思う。
体もさすがにその澄香の異常さに気付いたようで、
翔の本能的な部分がジリジリと警報を鳴らしはじめる。
背中から、脂のようにねばついた汗が滴り落ち、肺が縮んでしまったかのように空気が足りなくなる。
血液が温度を失い、それが血管を循回するたび、体が熱を失っていく。
その冷たい体の中で、二つの感情が熱くそして激しくぶつかりあっている。
それは互いに譲らず、やがて胃が捻れるような葛藤を産み出した。
しかし、すでに悩んでいる時間はない。英語のテストはすぐそこまで迫っている。
だからこそ、早急にどちらか一つを選び、気持ちに踏ん切りをつけなければならないのだが、
それが中々決まらない。ジワリジワリと足音なく近付いてきた焦りが空回りし、
解決を求める葛藤が、記憶の底からいくつもの欠片を拾いあげる。
その欠片が、硝子のように光を反射し、記憶を、まるで万華鏡のように映し出した。

翔は思い出す。
初めて澄香に会った時の事を、彼女を藤宮と呼んでもの凄く怒られた事を、
大好きなメロンパンを頬張る彼女の姿を、そしてそのメロンパンを半分分けてくれた時の
照れたように頬を染めた彼女の顔を。
ノートを貸してくれたクラスメートを、緊張を和ませようと背中を押してくれた寺田を、
夏休みにテストに備え勉強した自分を、いつになく心配そうに翔を見つめる中野の姿を。

そして──。

6

今朝のあの悪夢。
その中で、小さな少年が最後に言ったあのセリフを。

「どうして僕にはお母さんがいないの?」

何故、あの時、あんな事を言ったのか。
──そんな事は、分かっている。
誰もいない家が、一人が寂しかったからだ──。
気がつくと、翔は立ち上がっていた。覚悟は決まっていた。澄香の元へ行こう、と。
メールには彼女の居場所を示す手掛りは何もない
。しかし不思議と、直覚的に感じていた。きっと澄香は自分の家にいるのだろう。
机の上に転がっている鉛筆や消しゴムを、そのまま鞄に突っ込み、
持っていた単語帳を上から乱暴に押し込む。
その鞄を肩にかけ、横の席で早くも舟をこきはじめた寺田に一言告げる。
「悪い、俺帰るわ」
いきなり寺田が顔をあげた。
夢の世界を引きずっているのか、目が半開きで、表情がついてきていない。
しかし、それでも驚いているだろう事は分かった。
その寺田が死にかけの金魚のように口をパクパクさせて、何かを言おうとしている。
が、寺田が声を発するより先に翔は地面を蹴っていた。
主のいない教壇の上を駆け抜ける。半開きのドアに体を滑りこませ、廊下に出る。
そのとき、背後から伸びた手に首根が掴まれ前のめりになったところを、
襟首に首を絞めつけられ、翔は綺麗なお花畑を見た。思わず振り返る。
「あんた、どこ行くのよ」
中野だった。彼女は眉を釣り上げ、冷たい瞳で翔を睨んでいる。
「どこって。鞄持って便所に行く奴はいないだろ?帰るんだよ」
翔は喉元をさすりつつ言う。
すると、世界でもっともありえない光景を見たといった顔で、中野が消えるように呟く。
「う、そ……」
しかし、彼女はすぐに態勢を建て直し、翔を鋭い眼光で見据え、
「ばっ、馬鹿じゃないの!?あんたねぇ、今日の試験がどれだけ大事か分かってないんじゃない?
今日の試験は、大学進学がかかっているのよ、何があっても最後まで頑張らなきゃ駄目なのよっ!!」

中野はほとんど叫んでいた。とてつもない迫力で、今にも飛びかかってきそうだった。
しかし、翔は怯まない、決意も変わらない。
「分かってるさ。だけど、どうしても帰んなきゃいけないんだよ」
翔は真っ直ぐ、彼女を見つめ返して言った。自分の意思を、瞳に込める。
その決意が伝わったのか、中野は悔しそうに唇を結び、うつむいた。彼女の肩が、小さく震えている。
「……悪い、じゃあ俺、帰るわ」
そう言い残すと、踵を返し、走り出そうとした。
そのとき、背中から、蚊の鳴き声のように小さく、そして悲痛な呟きが聞こえた。
「そんなに、あの娘が大事なの……?」
走り出せなかった。
彼女の声が、意思が、まるで植物の蔦のように、翔の未練を絡め取り、先へ行く足を止める。
そして思うのは、「あの娘」。
彼女が言ったその言葉が指す人物は、おそらく澄香であろう。
それ以外に、あの娘で思い当たる節がない。
しかし、それは中野の知りえない話であり、またありえない話である。
それなのに何故、中野があの事を知っているのか、その疑問が無意識に口についた。
「どうして、お前……」
「ねぇ、答えてよ。あの娘の何がいいの?」
翔の疑問は中野の涙声にかき消された。
「私じゃ駄目なの?私はまだ綺麗だよ、汚れていないよ。それに翔だったら、汚されてもいいよ」
まるでミルクをねだる仔猫のように甘く、そして、どこか哀れを誘うその声に、
ドキリと、胸がときめいた。普段の中野が見せる強気な態度はすっかり影をひそめ、
しおらしい部分が表に出ている。そのギャップが、翔の心に熱くてむずかゆい感覚を忍ばせる。
しかし、それでも決意は変わらない、いや変えてはならない。
「……何が駄目ってわけじゃないんだよ」
翔は背中を見せたまま、喉から声を絞りだした。
が、決して振り返りはしなかった。
おそらく今の中野は、彼女の中で一番可愛いい顔をしている、と思う。
振り返ったら、その中野の顔を見たら、せっかくの決心が揺らいでしまう気がした。

「じゃあ、どうして?」
心に染みる中野の声。
翔は考える。なぜ、澄香と付き合っているのか。そしてなぜ、中野ではなかったのか。その答えは。
「……何となく似てるんだよ、俺と澄香ってさ。だから、」
「どこがよっ!?全然似てないじゃないっ!!」
翔の言葉を遮り、中野がいきなり声を張り上げた。
溜った鬱憤がついに抑えられなくなってしまったかのように、感情が溢れだし明らかに錯乱していた。
今の刺のつきでた中野に、がさつに触れると怪我をする。
だから、翔はやり方を変える事にした。振り返り、中野の濡れた瞳を真っ直ぐ見つめる。
気丈に涙を溜め込んだ瞳は、気高く、息を飲むほど綺麗だった。
そこから一筋の涙の趾が、ほんのりと染まった頬を通り、薄く紅を指した口許にまで道を作っている。
それは、大人の女性の顔だった。
やはり、中野は美しかった。輝いて見えた。
しかし、決して心を揺るがせてはならなず、逃げてもならず、退いてもならない。
複雑に絡み付いた未練の蔦を、一本一本丁寧にほどいていくように、言葉を選びながら翔は問う。
「中野はさ、学校から家に帰った時、何をする?出来るだけ丁寧に思い出して答えてくれないか」
「何よそれっ!?そんな事、関係ないじゃないっ!!」
「関係、あるんだ。頼むよ、答えてくれ」
翔は中野から目を離さず、ジッと彼女の瞳を見つめる。中野も見つめ返してくる。
しばらくすると、中野は翔から目を反らして、ぶっきらぼうに、
「まず、ドアを開ける」
一つ、蔦がほぐれた。
「次は?」
「……ただいまって言う」
二つ。
「ただいまって言うと、どうなる?」
「どう、って。奥からおかえりって声が返ってくる」
三つ目で、翔は溜め息をもらした。
「それ、だよ」
「え?」
「それなんだ。俺も澄香もさ」
中野は意味が分からないといった様子で、おおげさに髪を振り乱しつつ、
「ちょっと待ってよ!わけわかんないよ!!何がそれなの?何が違うの?
私が言ったのは当たり前の事じゃない!!誰だって同じ事するわ!!」

当たり前。その響きが翔を悲しくさせる。昔から、翔にはその当たり前がなかった。
「その当たり前にさ、俺も澄香も憧れていたんだよ」
しみじみと、肺の空気を吐き出すように言い、翔は目を瞑る。
深い暗闇に包まれ、あの時の孤独感と寂廖感が蘇る。
その感覚をかき乱すように、中野が息を飲むのが分かった。
どうやら、隠された意味を察したようだ。翔は再び語り出す。
「俺は、澄香と同じ境遇だったし同じ経験をしてる、気持ちも分かる。
だからこそ、ほっとけないんだ」
ゆっくりと瞼をあげると、そこには中野の白い顔があって、
彼女は唇をきつく噛みしめ何かを堪えているようだった。やがて、その唇がゆっくりと言を紡いだ。
「じゃあ翔は、あの娘と同じだから、行くの?」
頷く。おかしい、と、か細い声の後、まるで坂道を転がる車輪のように、
中野の言は勢いを増していく。
「おかしい。そんなの、絶対おかしいよ!!そんなの、ただ同情してるだけじゃないっ!!」
中野の震える唇が、唾液で、ヌメヌメとねばついた光を放っていた。
「同情……か。ああ、その通りだよ。俺は多分、澄香に同情しているだけだ。
だけど、それを理由にしちゃいけないのか?」
同情だっていい。寂しい時、苦しい時、誰かが側にいてくれるのであれば、
それがどんな理由であっても構わない。翔はそう思っているし、きっと澄香も同じだ。
それに、同情がその先へと発展する可能性だってある。
現に、澄香は変わりはじめ、翔も初対面の時には考えられないほどの好意を彼女に抱いている。
もちろんそれは、恋と言えるほど成熟した気持ちではないが、まだ先がある。
ゆっくりと、彼女に惹かれつつある。
それは別に中野が嫌いだからでも、ダメだからでもない。ただ、澄香の方が、澄香がいいからだ。
「かわいいとか、優しいとか、処女だからとか、
そんな理由だけで恋に落ちるほど俺は謙虚じゃないんだ」
翔がゆっくり、しかし一つ一つはっきり言う。
中野はうちひしがれたように表情を萎ませた。その言葉が、翔なりの拒絶だと理解したのだろう。

「だけど、だけど、もう少しだけ、様子を見ようよ。
あと、二時間だけなんだし、最後まで頑張ろうよ」
それでも中野は食い下がる。
まるで母親に玩具をねだる幼児のように、彼女の瞳には期待と不安が同じだけ共存していた。
「いたずらだったら、取り返しがつかないよ?」
その言葉を最後に、彼女は声を失った人魚のように押し黙り、
しかし、それでも声にならない声は確かに聞こえてくる。
その唇が、頬が、そして瞳が必死で翔に訴えかけている。それが、彼女の必殺の表情なのだろう。
ずっとおかしな話だと思っていた。メールの内容も、それが誰からのものであるかも、
中野が知っているはずがないのに、知っているように思えてならなかった。
しかし、そんな事はもうどうでもよくなっていた。
未練に絡み付いた蔦は、いつの間にかあと一本にまで数を減らしていた。
弱々しく張り付いたそれを、今なら乱暴に振り払う事も出来る。
しかし、翔は最後の一本を丁寧にほどいた。
「……いたずら、か。まぁ、その時は、澄香が無事でよかったって思う事にするよ」
必殺の表情を浮かべていた中野の顔から、まるで凪のように表情が消えた。
中野は呆然自失といったふうで、口を動かし、視線をさまよわせている。
そんな彼女に、翔はいつものようにおどけて見せた。
「もちろんその後、小一時間たっぷり説教してやるつもりだけど、な」
中野の体から力が抜けた。彼女はまるで枯れ葉のように、フラフラと廊下の壁にもたれかかる。
そこから先は見ずに、翔は踵を返し階段へと向かう。
途中、背中からむせび泣く声が聞こえてきたが、振り返りはしなかった。

7

平日昼間の電車はすいている。車内はガランとしていて、椅子に座る人さえまばらだ。
座る事も出来たが、翔はあえて座らず、閉じられたドアに体を預け、
車窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
灰色の街が、なす術なく流れていく。目的地まで、あと十分ほど。二つ駅を通過する。
そこまでの間、少しだけ感傷に浸っていよう。そう思いつつ、見上げた青空は、
白い飛行機雲で二つに別れていた。

確か、最後はプラモデルだった。
ふとそんな事を思い出す。まだ物心ついたばかりの頃だから、幼稚園の年長くらいだった。
あの時は、妙に母親が優しくて、ずっと欲しかったプラモデルは高くて買ってもらえなくて、
代わりに少し値段の落ちるプラモデルを買ってもらった。
デパートのレストランでお子様ランチを食べて、母親と手を繋いで屋上に行って、
ヒーローショーを見た。ヒーローが蛸みたいな怪人に追い詰められて、
手に汗握って声を枯らした事をよく覚えている。
ショーも終わり帰り道。
危機から見事に脱出し、怪人を薙ぎ倒したヒーローの姿が瞼に焼き付いて興奮覚めやらぬ翔が、
夕焼けに向かってうきうき歩いていると、手を繋ぐ母親が確かに言ったんだ。
「今度デパートに行く時は、何でも欲しいものを買ってあげる」って。
その時は、馬鹿みたいにはしゃいで喜んだ。
結局、その約束は守られていない。
三日後、綺麗に着飾って出ていった姿を最後に、母親を見ていない。
何処にいるかも分からなかった。
五日後、警察の人にその名前を知らされるまでは。
母は、翔と夫を捨てて男と共に逃げた。そして、その男と共にこの世から消えた。
母親はもう帰ってこない。ようやくその事が理解出来たのは、翔が小学三年生の時であった。
その時から、翔は言葉を信じていない。言葉は、人を簡単に裏切るのだ。

車内アナウンス。くぐもった声が、スピーカーを通じて車内に降り注ぐ。
窓の外には相変わらずの灰色の街。しかしいつの間にか、目的地は目前にまで迫っていた。

肘まで落ちた鞄を肩にかけなおす。ポケットの中の財布を取り出す。
電車が速度を落として、ホームに滑り込む。停車しドアが開くと、素早く電車から降り、
改札を抜けて、小さな繁華街に入る。寂れた地方都市に、行き交う人の数は少ない。
碁盤目の住宅街をずんずん進む。空き家と空き地の目立つそこは、少しだけ寂しい。
やがて、澄香の家の前まで辿りつき、翔は歩を止めた。
彼女の家は、辺りのひっそりとした雰囲気を吸い込み、まるで辺りに溶けるように紛れ込んでいた。
雨戸が閉じられ、電気もついていなく、人の気配さえ感じられない。
以前、確かに感じた生活の匂いは、消え去っていた。
それが不気味で、翔は慌ててインターフォンを鳴らす。
ひっそりと静まり返った水樹家の中に、機械的な音が響いた。
その音が消えた後、沈黙。声はもちろん、物音さえ聞こえない。
もう一度、インターフォンを押してみても、やはり沈黙しか返ってこなかった。
不安が、胸の中でどんどん膨れ上がっていく。
「おいっ!!澄香いるんだろ?」
ドアを乱暴に叩きつつ、声を張り上げる。しかし、返事はない。
まさか、ここではないのだろうか。そんな疑惑がジワジワとにじみよる。
考えてみれば、澄香がここにいる保証はない。あったのは、直感だけだ。
焦りが募る。
焦藻が、少しだけ翔の理性を奪う。
ノブをつかみ、ガチャガチャと強引に回す。すると、存外あっさりとドアは開いた。
翔は肩透かしを食った気分だった。
軋みながら開く漆黒の扉。その内部が抱えこんだ深淵に、帯状の光が広がっていく。
ゆっくりと広がる光の中。上がり端で膝を抱いて蹲る澄香の姿が写し出された。
膝を抱いた両腕に、顔を押し付けるその姿は、母の中に宿る胎児を思わせる。
しかし、胎児ほど温かさや優しさに内包されているわけではない。
むしろ、まるで絶望の海をさ迷うかのように、彼女は細かく震えていた。
「すみ、か……?」
戸惑いがちな声が出た。石のように固く重いその声は、
すぐに闇の中に消えていき、後には静寂が残る。返事はなかった。

不安がはね上がる。
「澄香っ」
今度は、はっきりとした声が出た。慌てて澄香に駆け寄り、彼女のすぐ側に腰を屈める。
相手の息遣いさえ聞こえてきそうな距離、それでも、澄香は翔に気付かない。
まるで光を失ったように、音を失ったように、彼女はただ震えている。
ふと、静寂を震わす小さな声に気付く。小さく早口なその音は、うずもれた澄香から漏れている。
耳をすまし、その音を拾おうとする。
しかし、その音が声となるにはあまりに小さ過ぎて、はっきりと聞き取る事ができなかった。
その音が止む事はなかった。
まるで呪文を唱えるように、まるで悪魔に魂を持っていかれてしまったように、
まるで狂った時計のように、澄香はその音を放ち続けている。
不安が、爆発した。
「おい、澄香っ!どうした?大丈夫か?」
澄香の両肩を掴み、大きな声をかける。すると、彼女は体を大きく震わせ、身を固くした。
それからいかにも恐る恐るといった様子で、ゆっくりと顔をあげた。
翔は思わず息を飲む。その顔は、翔の知っている澄香ではなかった。
疲弊しきった頬は痩けている。もう目を開ける事さえ出来なくなったように、
彼女の瞼は半開きで、その奥に隠された瞳が、死んだ魚のように澱んだ光を放っている。
まるで冬山の死人のように青くなった顔色は、彼女をより凄惨に彩っていた。
やがてその凍えたように青紫色に変色した唇が、ゆっくりと動き出す。
「せん、ぱい……?」
集点の合わない瞳が、翔を見つめる。澱んだ瞳が、鏡のように翔を写し出している。
その狂った瞳は、人間のそれとは思えなかった。
背中に冷たい何かが走り、翔は声を失う。
狂った光を放つ彼女は、自分の声を確認するように再び唇を動かした。
「せん、ぱい」
そして、それが、契機だった。まるで春になり、蕾が開くように彼女の瞳が急速に色味を帯ていき、
やがて笑顔の花がさく。瞳に光が宿り、キラキラとガラスのように輝く涙が蓄積されていく。

羽化する蛹を見ている気分だった。
その、生が躍動を開始するような澄香の変化に見とれていると、
いきなり彼女の全身が、翔の体に絡み付いた。両腕が背中に回され、彼女の顔が胸に押し付けられる。
その勢いに飲み込まれ、翔は後ろに手を着き、尻餅をついた。

澄香のしゃくりあげるような息遣いが、胸を擽る。
「う、嬉しいです」
しゃくりあげる息遣いに声を乗せて、澄香が懸命に言葉を紡ぎはじめた。
「来て、くれないかと、思って、ずっと、ずっと、怖くて、だけど、センパイが、
私を、選んでくれて、本当に、本当に、嬉しい。ああ、せんぱい、すき、だいすきです」
澄香の絡み付く腕にいっそうの力がこもり、彼女の顔が強く胸に押し付けられる。
その予想外の歓迎と変貌に翔は呆気に取られて、胸の中の少女を、呆然と眺めていた。
その後、澄香は胸の中でこしょこしょと擽るように動き回り、
ようやく恥ずかしそうに顔をあげた時には、涙と鼻水と唾液でベトベトで、
もちろん翔のワイシャツも涙と鼻水と唾液でベトベトだった。
そのベトベトを拭いもせず、澄香はえへへと照れたように笑う。
そこでようやく、翔は我に帰った。
そして、メールでたすけを求めてきた少女の姿をマジマジと観察する。
見たところ、澄香は元気そうである。顔色は悪いが病気のようではない、怪我をしている様子もない。
つまり、そこには大学進学絶望の事実だけが残ったわけだが、
それでも怒ったり、説教する気は沸いてこなかった。
彼女のあまりの変身ぶりに、翔の毒気はすっかり抜けてしまっていた。
翔は溜め息を付きつつ立ち上がり、
「少し、話をしようか」
怒ったり説教する気はないが、聞きたい事は山ほどあるのだ。
そのとき、ふとシャツの裾が引っ張られた。
「ん?どうした?」
「センパイに、聞きたい事があるんです」
未だ立ち上がろうとしない澄香に視線を落とす。
うつ向いた顔に髪がかかり、表情は見えなかった。
「なに」
一寸後、ためらいがちな声が来る。
「センパイは、私の事、好きですか?」
「え?」

「嫌い、なんですか?」
いや、そうじゃないけど。と翔は言葉を濁す。
二択で考えられる質問ではなかった。
しかし、澄香は違ったようで、
「じゃあ、好きなんでですね」
嫌いでなければ好き。彼女は心底安心したように一つ息をつき、顔をあげニッコリと笑った。
それから、急に体をくねらせて、言いにくそうに、
「それで、あの、センパイにお願いがあるんです」
「お願い?」
「はい、そうです」と、澄香は頬をほんのりと染めつつ、上目遣いで、
「私の事、好きって言って下さい」
期待と不安が入り混じった瞳で見つめられ、思わず翔は眉根を潜める。
それはどこかで見た事のある顔だった。
「ダメ、ですか?」
澄香が悲しそうな顔をする。駄目だ。そう言いたい。
自分の気持ちを言葉で偽るのは、翔の主義に反する。
しかし、澄香の悲しそうな顔を見せられると、その要求を無下に却下する気にはなれなかった。
しばらくして翔は溜め息をつきつつ、「──分かった」と言い、苦笑いを浮かべつつ、「言うよ」
「ほ、本当ですか!?えへへ、嬉しいです」
まるで念願の玩具を手に入れた幼児のように、瞳を爛々と輝かせる澄香。
それは嘘ではなく、心の底から喜んでいるように見えた。
その表情が、これから嘘を吐く翔の心に、罪悪感を降り積もらせる。
これから言う事は嘘である。翔はまだ、好きと言えるほどの気持ちを抱いていない。
しかしそうと分かっていても、面と向かって告白するのは恥ずかしくて、
照れ隠しに澄香から視線を反らし、「好き」と言った。
視界の隅に写った澄香は、とろけたように幸せそうな顔をしていた。
彼女は、翔の本当の気持ちを知らない。その事を思うと、降り積もった罪悪感に、潰されそうになる。
やはり、言葉は感情を裏切った。だったら、いっそ本当の嘘つきになりたかった。
そうすれば、もっと楽だったのかもしれない。

この時が、境目だった。何かが水面下で狂い始めていた。
狂った歯車は戻らない。歯車が精密であればあるほど、たった一個の狂いが、全てを狂わせてしまう。
それでも狂った歯車は回り続ける。全てが壊れてしまうまで。

8

翔が作ったオムライスをペロリと平らげると、向かいの椅子に座る澄香が眠たそうに瞼を擦り始めた。
「眠いのか?」
翔が問うと、澄香はぶんぶん首を降る。しかし、その仕草の側から、彼女は欠伸を噛み殺していた。
まるで大晦日に必死で眠気を堪え
る子供のようなその様子が可愛らしくて、翔は表情を崩した。
「眠いなら、寝た方がいいよ」
「大丈夫です。眠くないです」
「いいや、嘘だな。だってほら、目の下に球磨が出来てる。
顔色だってよくないし、少し休んだ方がいいよ」
優しくなだめる口調で翔が言うと、澄香はうつ向いて、ぶつぶつと小さな声で文句を言う。
「が寝たらセンパイ帰っちゃうんでしょ……」
「は?」
「……だって、帰ってほしくないんだもん」
ふてくされたような顔をする澄香。そのいじらしい言動に、表情に、翔は胸が熱くなるのを感じた。
思わず破顔して、
「大丈夫。帰ったりしないよ」
「本当、ですか?」
澄香は疑うような上目遣いで言った。
「ああ、もちろんだ」
翔はそう言って微笑んだが、澄香はまだ安心出来ない様子で、翔の瞳をジッと見つめて言う。
「約束ですよ。絶対帰っちゃ駄目ですよ?」
「分かってる。約束するよ」
「あと、私が寝るまで手を握っていて下さい」
まるで手のかかる子供のような澄香に苦笑いを浮かべて、翔は頷いた。
すると澄香はようやく納得した表情を浮かべて立ち上がり、
フラフラと翔の元に漂ってきて腕を掴んだ。腕が引かれる。促されるよう
に立ち上がると、翔は、おぼつかない足取りの澄香を支えつつ、二階にある彼女の部屋へと向かった。
ベッドに入っても散々駄駄をこねる澄香は、ついには一緒に寝たいとまで言い出した。
丁寧にそれを断ると、彼女は再びふてくされた
顔をしたが、翔が優しく手を握ってやると安心したのか、存外あっさりと寝息を立てはじめた。
澄香に掛けられたタオルケットの胸部が、小さく上下している。
何があったのかは分からないがよほど疲れていたのだろう、グッスリと眠ったようだ。
それを確認すると、翔は握り締められた手をほどいて、澄香の額を撫でてやる。

こうしてマジマジと眺めてみると、やはり澄香は自分より年下なんだな、と思う。
翔の同級生に比べれば、顔立ちはずっと幼いし、体つきも……だ。
しかし、そのまだまだあどけなさの残る顔も体も、一枚の薄い皮の裏には辛い過去を隠している。
母親の死、実の父親からのレイプ、学校からの孤立、そして堕胎。
それら全てが澄香に暗い陰を落とし、度重なる不幸に反抗する力さえ失った彼女は、
全てを無気力に受け入れてきた。それは、生きる事に絶望していたからなのかもしれない。
しかし最近、澄香は少しづつ変わり始めている。
以前のような感情と行動が逆さになった気持ちの悪い笑顔は見せなくなったし、
年相応の無邪気さを見せるようにもなった。何より、今を心の底から楽しんでいるようにも見える。
そんな澄香の変化を間近で見ていると、一時期は貧乏くじを引かされたと思っていたのに、
今では彼女を守ってやりたいとさえ感じている自分に気付く事がある。
その気持ちの半分は同情であるが、残りの半分は心安らぐ暖かな気持ちだ。
うまく言語化は出来ないが、その気持ちは妹を持つ兄の気持ちに似ていると思う。
今はまだ澄香の事を好きなわけではないかもしれない。
しかし、こういう穏やかな瞬間の度、確実に澄香に心惹かれていく。
今すぐに、というわけにはいかないが、先を感じさせるにはそれで十分だった。
焦る事はないのだ、まだ時間はたくさんあるのだから。

さて、困った事にやる事がない。
澄香は寝てしまっている。鞄の中には今更やる気のおきない参考書のみ。
リビングにはテレビとゲーム機があるが、他人の物を勝手に
いじるのは気がひける。しかし、やる事がないというのは退屈なものだ。
いっそ帰ってしまいたいくらいだが、澄香と約束した手前勝手に帰るわけにはいかない。
仕方なく、何か時間を潰せるものはないかと澄香の部屋の中を見渡して、思う。

びっくりするほど生活の匂いのない部屋だ。六畳ほどの広さの部屋は正方形で、
部屋の北側にドアがあり、南側にはベランダへと繋がる大きな窓、
東側には小さな窓が取りつけられている。
澄香のベッドは朝日がさしこむように、東側の窓の下に置かれている。
その窓を彩るレースのカーテンは、長い年月放置されていたのか、
その純白さを失い茶色く焼けてしまっていた。
ベッドの隣には、勉強机が一つ。机の上には教科書やノート、筆記用具が散らばっていた。
その他にこの部屋にあるものと言えば四角いテーブルが一台、部屋の中央に置かれているくらいで、
それ以外は本棚も、テレビもコンポもない。壁は全て剥き出しでポスターもカレンダーも
貼っていなかった。もちろん女の子らしい小物やぬいぐるみ、写真なども一切なく、
以前訪れた中野の「何となく女の子らしい部屋」にさえ遠く及ばない殺風景だった。
この部屋は勉強して寝るだけしか出来ない空間。あまりに寂しすぎる部屋。
しかし、その寂しさが以前の澄香の生活をありありと教えてくれる。
つまり澄香は、孤独と暗い過去に人間らしさを塗り潰されて、
抜け殻のように淡々と生きてきたのだろう。この部屋の全てが、
彼女のそういった灰色の過去を写す鏡になっているのだ。
そう思うと途端に澄香に対する憐れみと、この部屋に対する居心地の悪さを感じた。
特に、この居心地の悪さがいたたまれない。まるで、下手なホラー映画を見ている気分だった。
出来れば澄香が起きるまでこの部屋で時間を潰したかったのだが、
どうも、借りてきた猫のようにはなれそうもない。
翔は澄香にタオルケットをかけなおすと、おもむろに部屋を後にし、階段を下っていった。
広いリビングには、大きなテーブルが一つある。
まだ澄香の残した食器が散らかっているが、それはまた後で片付けよう。
そのテーブルの向こうには、以前水樹由美と共にサッカーを見たソファがあり、
翔はそこに腰を下ろした。その柔らかすぎず、堅すぎず体を飲み込む感触が心地よく、
思わず溜め息をもらす。
すると、まるでそれを待っていたかのように、体の奥から疲労がジワジワと広がり、
テスト勉強で寝不足であった事を唐突に思い出した。

秋の陽気は暖かく、窓から指し込む柔らかな光が、翔の体を優しく包む。
瞼を閉じてしまえば、すぐにまどろみの中に転がり落ちてしまいそうだった。
しかし、さすがに人の家で勝手に寝るわけにはいかない。
誰かに見られたら、さぞ怪しまれる事だろうし、何より失礼だ。
だから、絶対に眠るわけにはいかないのだが、
それでも、少しくらいはウトウトしても構わないはずである。
だいたいにおいて、仮に自分が失礼なら、
客を放ったらかしにして寝てしまっている澄香だって失礼だ。
それに自分は寝不足であり、起きるまで待っていにゃならんわけであり、
暇を殺さなければならないのだ。
少しくらいなら。
翔は瞳を閉じた。
すぐにまどろみが、意識を刈り取っていく。

9

暑くて目が覚めた。
柔らかだった日の光は、刺々しさをまし、翔の顔を斜めに焙っている。
その光を遮るように手をかざし、ゆっくりと瞼を開けた。
ピントのずれたカメラのようにボンヤリとした視界に、真っ先に飛込んできたのは、
窓の外の茜空だった。西の空で雲を纏う太陽が、黄金色に輝き、翔を照らしている。
少しずつ、輪郭がはっきりしはじめる。
翔は体を起こし、グルリと首を回した。澄香の家である。
リビングに置かれたソファの上である。
首を回した際に、視界の隅で捕えた時計は、五時半を指していた。
「あら、お目覚めかしら?」
背中から、声がした。おもむろに振り返ると、ぼんやりとした視界の中に人の影。
目を擦ると少しだけ輪郭がはっきりして、
エプロン姿の女性がテーブルの上を片付けているのが見えた。
「ずいぶん、ぐっすりと寝ていたようだけど、疲れてたの?」
女性、は口許を押さえてクスクスと笑う。
その女性が水樹由美であると、ぼんやりとしていた頭が認識した途端、急に頭が冴えた。
しまった、と思う。他人の家でうっかり寝入ってしまったわけである。
由美はリビングで寝ていた顔を知っている程度の男の姿に、さぞ驚いた事だろう。
「あ、えっと、すいません。こんなところで寝てしまって」
「いいのよ、気にしなくても」
そう言って貰えると少しだけ気が楽になる。
「あの、それで澄香……さんは、起きましたか?」
今は五時過ぎ。澄香が寝たのは十一時半頃である。もう起きていても、おかしくない時間だ。
しかし、翔の問いに、由美は答えづらそうに眉を寄せた。
「まだ、よ。ぐっすり眠っちゃってるわ。最近、と言ってもここ二、三日だけど、
眠れてなかったみたいなの」そう言いつつ、
由美はエプロンで両手を拭きつつ、翔の隣に腰を下ろした。
「あの娘、最近様子も変だったし、ずっと心配だったのよ。
ようやく眠ったようで、ひとまずは安心だけど、澄香に何があったのか、翔くんは心当たりない?」

由美は、原因はあなたでしょう、とでも言いたげな瞳を翔に向けてくる。
その瞬間、今まで感じていた申し訳なさが霧散し、腹の底に亀裂が走った。
「心当たり、ですか……」
その亀裂を隠すように、翔は澄香についての記憶を辿った。
まず、初めに頭によぎったのは、今日澄香が玄関で見せた澱んだ瞳だった。
あの瞳は、何か狂気を宿していたように思う。次に死人のように青白く変色した彼女の顔。
あれは、明らかにおかしな顔色だったが、
なるほど原因は寝不足のようだ。
しかし、肝心の原因はいくら頭を捻ったところで、何も分からなかった。
そもそも、翔には澄香に何かをした覚えはない。彼女が喜ぶ事はほとんどしてないかもしれないが、
傷付けるような事もしていないはずであり、安眠を妨害するような事などやっていない。
「ないですね」
記憶の裏付けを元に、はっきりと言う。
「本当にない?」
「ええ、ないです」
すると、おかしいわね、と由美は腕を組み、こめかみを指で押さえた。
そして、そのままの態勢で、由美はかまをかけるように言う。
「てっきり、翔くんと喧嘩したものだとばかり思ったわ」
そういう考え方は嫌いだ。今でこそ澄香との関係も喉元を過ぎたが、
当時は貧乏くじを引かされた気分だったのだ。もとはと言えば、
それも全て由美により導かれたわけであり、そもそも沼の底に引きずりこんだ奴が、
真っ先に翔を疑うなどおかしい。
瞬間、腹の底に風穴があき、そこから熱い感情が流れだした。
「そんな事するわけないじゃないですかっ!!」
自分の声に、自分が驚いた。必要以上に大きな声に、熱い感情に水がかけられ、
翔は咳払いをして場の空気を沈める。
由美は驚いた顔をしていた。翔は柔らかな笑みを浮かべ、今度はゆっくりと、静かに言う。
「澄香と喧嘩なんてした事ないですよ」
呆気にとられていた由美は、すぐに取ってつけたようにぎこちなく笑い、
「あ、あら、そうなの。ご、ごめんね、疑ったりして」
「いえ、気にしないで下さい。俺も、少し熱くなってしまって」
沈黙。嫌な空気が辺りに立ち込めた。
その沈黙を、由美がわざとらしい咳払いと共に打ち破る。

「あの娘さ、変わったよね」
由美は遠くの茜空を見ているようだったが、その瞳に写っているのは別のもののように思えた。
「……ええ、そうですね」
しみじみと、意味を噛み締めて呟く。
澄香は変わった。そしてこれからも普通に向かい、どんどん変わっていくだろう。
そういった感慨を、由美が震える一言で振り払う。
「なんか、悔しいな」
「えっ?」
何が悔しいんだろう。
翔がいぶかしげに由美を見ると、彼女は自嘲したように鼻で嗤い、言を繋げる。
「だって、そうじゃない?私はもう二年近く澄香の側にいるのにさ、あの娘を変えられなかったのよ。
だけど、翔くんはたった一週間で澄香を変えちゃったんだもん。だからかな、時々思うのよ、
私は澄香に何もしてあげられていないんじゃないかって、ね」
自嘲が、由美の唇を歪ませる。自分が情けなくて、おかしくてたまらないといった様子であった。
しかし彼女の瞳は夜のヒマワリのように元気を失くし、悲しげに萎んでいる。
きっと、こっちが真の感情なのだろう、と翔は思う。
「そんな事ないですよ」
「あら、慰めなら、いらないわよ」
別に慰めようと思ったわけではない。翔はゆっくりと首を横にふりつつ、
「苦しい時、悲しい時、寂しい時、誰かが側にいてくれるって凄く嬉しい事なんです。
気の利いた言葉なんかよりずっと、気持ちが落ち着くんですよ。
由美さんは、今までそれをやってきたんでしょう?だったらもっと胸を張ってもいいと思います」
驚いた顔をする由美に、翔はさらに話を続ける。
「俺は、たまたま目の前にボールが転がってきたFWのようなものです。
ゴールを決めて目立つかもしれませんが、そのきっかけを作ったのも、守ってきたのも、
支えてきたのも全て由美さんです。目に見える何かは残らないかもしれませんが、
それは記憶には残ります。きっと、澄香も分かっていると思うし、
由美さんに感謝しているはずですよ」
そこに嘘はない。ただ、ひとつ訂正があるとすれば、
ボールがたまたま目の前に転がってきたわけではないという点だ。
ボールが溢れる場所を、翔は知っていたのだ。

そうとも知らず、驚いた顔をしていた由美の顔が、ゆっくりとほぐれていく。
彼女は嬉しそうな、照れたような微笑みを浮かべ、そっか、と言った。
「ありがとね、翔くん。翔くんって、優しいのね。
何だか、澄香があなたに惹かれた理由が分かった気がする」
そう言う彼女の瞳はたまらなく優しい。
それが恥ずかしくて、翔は彼女から視線を反らした。頬が熱い。
それでも由美の言葉は、鼓膜をやわらかく擽り続ける。
「私ね、少しだけあなたの事を誤解してたみたい。
以前はさ、仕方なく澄香に付いてきているって感じだったんだけど、今は違う。
澄香の事、凄く大事にしてくれてるって分かる。
それに不思議なんだけど、あなたは澄香の事を何でも分かっているみたい」
それは同じ経験をしているからだ、という言葉を、喉元のギリギリで飲み込んだ。
それを言ったところで、どうにかなるわけでもないし、同情は、されたくなかった。
だから、翔はこのまま話が続く事を危ぶんだ。どこかで尻尾を出して、それを引っ張り出され、
真実を白実のもとに晒されないとは限らないのだ。何とか話題をそらしたい。
そのとき、ふと視界の隅に綺麗に陳列されたゲームソフトが見えた。
すごい数だ。その中の一つに目が止まり、翔は思わず小さな声をあげた。
「ん?どうしたの?」
「あ、いえ、由美さんもサカつく(Jリーグプロサッカーチームをつくろうの略)やるんだなぁって」
「由美さんもって、じゃあ翔くんもやるの?」
「ええ、まぁ」
すると、由美は新しい玩具を見つけた子供のように瞳を輝かせ、
「じゃあ、今度対戦しない?いい加減新しいモチベーションが欲しいのよ。
ほら、あのゲームって長くやってると飽きちゃうでしょ?」
「いいっすね」
話題をうまく反らせた事にホッとして翔が言うと、由美は嬉喜として身を乗りだした。
顔と顔とが近くて、
彼女の呼吸の音さえ聞こえてきそうで、少しだけドキドキした。

「決まりね、じゃあ、いつ戦う?明日?明後日?」
「い、いや、もう少しまちましょうよ。いろいろ準備も必要ですし……」
すると由美は顔をひっこめ、人指し指で顎を撫でながら、うーんと唸った後、
名案を思い付いたとばかりに手を叩いて、
「じゃあ今週の土曜日なんて、どう?」
「そうですね、それくらいなら……」
「よし、決まり。私、まだ人と対戦した事ないから楽しみだわ」
そう言って笑う由美はひどく嬉しそうで楽しそうだった。
まるで少女のようなみずみずしさを持つその笑顔は、少しだけ澄香に似ていた。

しかし、由美と対戦が実現する事はなかった。

To be continued.....

 

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