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僕と姉さんの日常ごっこ



1

「そーちゃん、ただいまぁ」
玄関の方から聞きなれた声がする。時計を見て、もうこんな時間かと思った。
「おかえり。姉さん」
玄関まで行くと、両手にスーパーの袋を抱えて重そうにしている姉さんに手を貸す。
いいよ、と遠慮する声を無視して奪い取るように袋を持つと、
姉さんは「もうっ」と言って頬を膨らませる。いつものこと、と台所まで歩くと案の定、
姉さんは後ろからトコトコとついてきた。
「ふふ」
「なに?」
「んー? そーちゃんも大きくなったんだなーって」
「そう」
適当な相槌に不満を憶えたのか、えいっという掛け声と共にそのまま背中に
何やら柔らかいものがくっつく。やめてよ、という間もなく姉さんは続ける。
「ちょっと前までお姉ちゃんの傍をずっと離れないでベソかいてたのに、
こーんなに大きくなっちゃって。そーちゃんも大人になっちゃったのかなー」
「僕はまだまだ子供だよ」
姉の言葉に少しだけ頭がぼんやりとする。ぼんやりとして、いつのまにか台所についてしまった。
姉さんは未だにひっついている。
「姉さん」
「もうちょっとこのままでいさせて。そしたらお姉ちゃん。
またいつものそーちゃんのお姉ちゃんになれるから」
最後に、ね?と付け加えてそのまま固まる僕と姉さん。
真っ赤に部屋を照らす夕日が少し目に眩しかった。

「それじゃあご飯作るから待っててね、そーちゃん」
いつものようにヒヨコのエプロンを着けた姉さんが台所へと消えていく。
ここで手伝いでもするのが弟としての務めなんだろうけれど、姉さんと生活を始めてからこの方、
手伝うという僕の言葉は姉さんの前で幾度も玉砕してきたわけで。
なんでも弟の僕には健康的な食生活を送って欲しいらしく、
たまにコンビニ弁当でも買ってこようものならそれはもう酷いものだ。

ねえ、そーちゃん。こういうのって体に悪いものが一杯入ってるんだよ?
そーちゃん、それ分かってるの?お姉ちゃんがせっかくそーちゃんの体を考えてご飯作ってるのに、
こんなの食べちゃ全然意味ないんだよ? それともお姉ちゃんのご飯不味い? 
不味かったら遠慮なく言っていいんだよ? 何も言わずにゴミ箱に捨てて、
そしたらお姉ちゃん何度でも作り直してあげるからこのお鍋の中にあるもの全部ひっくり返して
お姉ちゃんにかけていいからそーちゃんのお口に合うように何度でも何度でも作ってあげるから
だからこういうのはもう買ってきちゃダメだし食べるなんてもっての外だからね……分かった? 
分かったそーちゃん?

というわけで一般庶民にも関わらずコンビニ弁当の味をここしばらく知らない僕は、
今夜もまた姉さんの奮う料理を胃に収めるのだ。別に姉さんの料理が不味いわけでは全くない。
毎朝、渡される弁当一つとっても、クラスメートの中には羨望の眼差しを送る奴もいれば、
料理を教えて欲しいと頼み込む女子生徒までいる始末だ。

だから、でも、なんだかなあと思ってしまうのが最近の僕だ。

台所から姉さんのリズムの良い鼻歌が聞こえる。どうやら今夜の料理は殊更上手くいってるようだ。
話を戻そう。
発端など些細なもので、そんな誰にでも自慢できる姉の事をクラスメートに話した時だった。

それ、ブラコンだよ。
ブラコン。公園によくある遊具でもなければ、最近売れている少女漫画でもない。
確かに、姉さんは悪く言えば過保護だ。毎朝、僕の部屋に来ては起こしに来るし、
食事の用意は勿論のこと、洗濯も僕の下着まで洗ってくれる始末だ。
このマンションにしたって姉さん名義のものだし、
云わば衣食住全てを姉さんに任せてるといって過言ではない。
だからといって、それだけでブラコンと決め付けるのはちょっと判断が甘いとも思う。
朝起こされることにしたって、目覚ましに全く反応しない自分が悪いわけだし、
洗濯だって後ろ暗いようなことをしてるわけでもない。
一人暮らしをしたいはずなのに私立の高校に通うことになった僕と両親を慮って、
自分のマンションに愚弟を住まわせてくれる姉さんは、出来た姉と言われはするのが筋であって、
ブラコンなどという言葉は姉さんを貶めているだけに過ぎない。
そうだ、きっとそうだ。うん。
「出来たよ。そーちゃん」
「ああ、うん」
台所と居間の境からひょいっと顔だけを出して姉さんが僕を呼ぶ。
ついついぼぉっと考える癖があるのは数少ない姉弟共通のものらしい。
予想通り、姉さんの料理は素晴らしかった。僕が食べている間も姉さんは、おかわりいる? 美味しい?
と、ひっきりなしに聞いてくる。食べている僕の顔を見れば分かるのに、姉さんは心配しすぎだ。
「心配しすぎだよ」
「そう? だって、そーちゃんが美味しいって言ってくれるの嬉しいから」
「うん。美味しいよ」
「ふふ。ありがとう」
ああそうそう。クラスメートの呆れ顔でさっきの話は終わるわけなんだけど、
僕だけの中でこの話は続きがある。
「まだ一杯あるから。もっと食べてね。そーちゃん」
でもまあ、それはまた後にしよう。

2

「―――というわけだから、寄り道せずに早く帰ること。それじゃあ日直」
先生の声に日直が号令を出す。緩々と帰る準備をする生徒達の中、僕もご多分に漏れず、
鞄を手に教室を出た。
騒々しい放課後の廊下を、ぼんやりと今晩の姉さんの料理でも考えていると背後から呼び止められた。
「皆川くん、ちょっと良い?」
振り返ると、うちのクラスの委員長である如月さんがこちらに近づいてくる途中だった。
世間一般で言う友人という間柄にしては少々近いのではないか、という距離で彼女は止まると、
いつものようにこちらを見上げてくる。
クールビューティとは彼女のことを言うのだろう。
あまり感情の振幅を感じさせない瞳は相変わらず慣れそうにない。
そんな僕に構うことなく彼女は続ける。
「少し手伝って欲しいことがあるの。気づいたら副委員長も帰っちゃってたし、
  どちらかといえば男手が必要だから。それとも忙しい?」
淀みなく出てくる言葉に僕は首を横に振る。僕の返答に彼女はそう、とだけ言うと
クルリと踵を返してスタスタと歩いていってしまう。どうやらついて来いということらしい。
僕も承諾した以上、ついていくほかに選択肢はない。いつ見ても背筋をピンと伸ばしている彼女と
猫背気味の僕とでは、こうして歩いている世界もどこかずれているのだろうなんて思ってしまう。
その背中に、思えば如月さんとは長い付き合いなんだなと、準備室までの道のりでハタと思う。
いや、付き合いというほど親密であったわけではないが小学校に中学校、
おまけに幼稚園とクラスは違えど同じだったと、初めて同じクラスになった最近になって
彼女の方から教えられた。もちろん、ずっと地元の学校を選んできたわけだから
たいした偶然ではないかもしれないけど、年を経るにつれて共有した時間を持った友人が
少なくなっていく中、それでも彼女の存在は僕の中で嬉しいものだった。
そのことを正直に伝えた時の彼女の笑顔は、今の所、僕の確認した中の彼女の一番の笑顔だと思う。
準備室についた如月さんと僕は、一人でも頑張れば持てそうな荷物を二つに分けて運んだ。
大丈夫?とあんまり心配してなさそうな彼女に、僕はうん、とだけ答えた。

「今日はありがとうね。今度、なにかお礼するわ」
「いや、そこまでしなくていいよ」
校舎から出て校門へと続く道を如月さんと僕は歩いていた。
校庭からは部活動の生徒達が元気に活動している。
僕は言わずもがなだけど、如月さんも帰宅部だったことには驚いた。
「無趣味なのよ。休日もあまり出かけたりしないし」
確かに活発な印象ではないけれど、ストイックに何かに打ち込む彼女の姿を思い浮かべていただけに、
無趣味という言葉まで出てくると彼女のイメージを少しばかり変えなければいけないのかしれない。
だからといって印象が悪くなった、というわけでは全くないことは付け足しておく。
「でも、一度熱中すると周りが見えなくなることもあるわね」
あんまり喋ったことがないせいか、簡単に引き出しを開けてくれる彼女に少し戸惑いを感じながらも、
どんなことに?と続けようとする僕の言葉はあっけなく次の瞬間には締め出されることになった。
「あ、そーちゃん来た来た」
校門を出てすぐ、姉さんが校門に寄りかかって待っていた。仕事帰りから直接来たのだろう。
朝に見かけたのと同じスーツ姿に僕は慌てる。
「姉さん。今日、何か約束してたっけ?」
ブラコンと言われている姉さんでも流石に僕の学校まで来る事は滅多にない。
もしや約束の一つでもすっぽかしてしまったのではないだろうかと思ったのだが、
姉さんはううん、と首を横に振った。
「仕事が早く終わったから。何となく来ただけだよ、そーちゃん」
ニコニコと浮かべる笑みにそうなんだ、と僕はホッとする。

一度、放課後に買い物の約束をしていたのだがどうも間が悪く大遅刻してしまった時、
姉さんは雨の中、傘もささずに待っていたことがある。
「だってそーちゃんがここに来るって言ったから、待ってないといけないから。だよね? そーちゃん」
寒さで震え、それでも微笑む姉さんを見て以来、
約束事は必ず守ろうと人間として当然のことを学んだわけで。

「で、そーちゃん。その隣の子、だれ?」

いつのまにか飛んでしまった思考が急に戻される。またやってしまったと密かに戒めていると、
如月さんが一歩前に出る。
「申し遅れました。私、皆川くんと一緒のクラスの如月千鶴と申します。皆川くんのお姉さんですね?
いつも皆川くんにはお世話になっております」
「いえいえ。いつも弟がお世話になっています」
深々とお辞儀をする二人。僕はそのまま見ていることにした。
「それじゃあ皆川くん。私、先に帰るわね」
「ああ、うん。さよなら」
顔を上げた如月さんはそう言うと、
最後にまたお辞儀をしてスタスタといつものように行ってしまった。
どこかであっけなさを感じたけれど、普段の彼女を考えれば別段、気にすることでもないだろう。
「それじゃ帰ろうね。そーちゃん」
出された右手に戸惑いながらも、僕は姉さんの手をしっかりと握り返す。
「うん」
最後に、一度だけ後ろを振り返った姉さんは僕の手を引いて一歩を踏み出した。

「ねえ、そーちゃん。お節介かもしれないけど、良い?」
それはスーパーでの買い物も済んで商店街から家に帰る道の途中だった。
こう言う時の姉さんは大抵、僕に対して不満のある時だ。

「あのねそーちゃん。今日、クラスの女の子と出てきたじゃない?
……でもね、ああいうのってお姉ちゃん、あんまり関心しないな。
だって、そーちゃんとあの子、別に恋人でもなければそんなに親しい関係でもないでしょ?
それなのにああいう風に一緒に帰ると、その、あの子が迷惑しちゃうんじゃない?
周りから付き合ってるかもって噂されるかもしれないし、
やっぱりそういうのってどうしてもあの子ぐらいの年齢の女の子には重荷になっちゃうし。
あの子と仲良くしちゃダメってことじゃないよ? でも、あの子のことを考えれば、
もうちょっと距離を取ってあげた方が良いんじゃないかな。ね? そーちゃん?」

さきほどよりも左手は強く握られている。こちらを見上げてくる姉さんの瞳はどこまでも真っ直ぐだ。
この瞳にいつも支えられてきた。守られてきた。だから僕の答えも決まっている。
「……うん。分かったよ、姉さん」
「そっか。そーちゃんは偉いね。帰ったらそーちゃんの好きなもの作ってあげる」
姉さんは手を放すと、袋の中の卵も気にせずに大手を振って先に行ってしまう。
僕はその背中を夕日に目を細めながらずっと眺めていた。

3

如月さんが僕にチョコをくれたのは放課後の教室だった。
「はい。この前のお礼も込めて」
生徒もまばらになった教室で、それでもでもその残った数人にバッチリと見られて少々恥ずかしい。
おまけに僕は甘いものが苦手だ。
よくモテない奴が肉親にしかもらえないと自嘲しているが、僕はその肉親にすら貰わないほどだ。
もちろん、学校の女の子なんて論外だ。
だから、といっては何だけれど、正直に嬉しかった。
「うん。ありがとう」
本当に久しぶりにチョコを貰った僕は、同時に浮かぶ姉さんの笑顔がちょっとだけ煩く感じた。

 

家に帰り、リビングに入ると僕の背後に姉さんが抱きついてきた。そして、早速耳元で呟くのだ。
「ねえ、そーちゃん。チョコ、貰ったでしょ?」
まるでエスパーのように言い当てる姉さん。
いや、これはまだ僕と姉さんが実家で暮らしていた時に毎年繰り返していたこと。
つまり僕を試す言葉。
「うん。貰ったよ」
首を回し片目だけを合わせる。姉さんは少しだけ目を見開くと、背中からパッと離れる。
そうして右の掌を僕に差し出した。
「そう。じゃあ、そーちゃん。そのチョコちょうだい」
これも珍しくチョコを貰った時にいつも言ってくること。当然、僕は首を横に振る。

「どうして、そーちゃん? だってそーちゃん、甘いもの苦手でしょ?
  だからお姉ちゃんが美味しく食べてあげる。そーちゃんが苦しい思いをして食べるより、
  お姉ちゃんが美味しくオイシク食べてあげた方がそのチョコも喜ぶでしょ?
  それともその子の気持ちを考えてるの?
  そしたらお姉ちゃんの方がそーちゃんのことをずっとずっと考えてるよ。
  だって、そーちゃん甘いもの苦手だからそーちゃんにわざわざ食べさせるよりあげたいけど
  そーちゃんの為を思って作らないほうがずっとずっとずっとそーちゃんのこと考えてるでしょ
  そもそもそーちゃんの好みも知らずにそーちゃんの重荷になるような子なんて
  そーちゃんの為にならないよだからほらお姉ちゃんにちょうだい。ね?
  ほら、今すぐちょうだいそーちゃん?」

見上げる姉さんの顔はいつまでも笑みを浮かべている。でも、僕は首を横に振る。
「ダメだよ。それでも、チョコをくれた気持ちは受け取らないと」
言い切る。姉さんは笑みを保っている。
ずっと同じ笑み。
「……そう。分かった。そーちゃんは偉いね。でも、辛かったら言ってね? そーちゃん」
そうして姉さんは自室へと引っ込んだ。
直後にどこかで大きい音がしたけれど、特に気に留めなかった。

風呂上りの僕の鼻腔をくすぐったのは甘ったるいチョコの匂いだ。
髪を乾かすのもほどほどに台所を覗くと、夕食も終わったのに姉さんがサッシに立っていた。
「どうしたの? ねえさん?」
「あ、そーちゃん。もうあがったの?」
僕の質問を置いて、姉さんは僕に近づくと
「ちゃんと髪乾かさないとダメだよ、そーちゃん」と洗面所へ押し戻そうと
する。僕は体重を入れて無理やり立ち止まると、姉さんに向き直る。
「すごいチョコの匂いがするけど、どうしたの?」
流石に今度はスルー出来ないと思ったのか、フフ、と笑みを浮かべるとガスコンロを指差す。
指差す先には鍋が見えた。鍋の中のお湯には、浮かんだボールが茶色い何かを茹でている。
「チョコ?」
「当たりぃ。フフ、そーちゃんの為にチョコを作ってるの」
やんちゃな子供を思わせる笑みに僕は怪訝な顔でしか返せない。
言わずとも僕の疑問は通じたのか、姉さんは続ける。
「うん。そーちゃん、チョコ苦手だよね。でも、お姉ちゃんもチョコあげたいの。
  ダメかな? そーちゃん」
「いや、ダメじゃないけど」
「良かった。でも、そーちゃんはこれ以上、チョコが増えちゃったら困るでしょ?
  だから、お姉ちゃん考えたの」
やんちゃな笑み。
いつだったか、高校の教師が言っていた気がする。

「今日、貰ってきたチョコを溶かして作ってるの。そしたらこれ以上チョコが増えないし、
  お姉ちゃんの気持ちも伝わるでしょ? だから出来るまで待っててね、そーちゃん」

悪意がないからこそ、最大の悪だと。

4

「姉さん、今日は手つだ」
「そーちゃんはなーんにもしなくていいの。はい、あっちで座ってて」
今日もまた申し出は見事玉砕され、僕は一人、姉さんの料理が出来るまで待っていることになった。
大抵、雑誌かテレビでも見て時間を潰しているのだが、今日はなぜだか何にも手がつかなかった。
だから、と言ってはなんだけれど。
「もうっ、どうしたの、そーちゃん。お姉ちゃんのことジロジロ見て」
姉さんは恥ずかしそうに言いながら、ヒヨコのエプロンを僅かに揺らして台所を動き回る。
その手際は良く、素人の自分でも姉さんの料理の腕がどれほどのものか、
普段食べている実績からも窺い知ることが出来る。
もう姉さんはこちらが気にならないのか、こちらを振り返ることなく料理に集中している。
元々、僕とは違いここぞという時の集中力がずば抜けている姉さんは、
学業もずば抜けていたらしく某有名難関大に一発合格。
就職難の時代にすんなりと大手企業に就職してしまうなど、“出がらし”の僕にとっては
お月様のような存在だ。おまけにそのスッポンまで養うとまで言い出すのだから、
姉弟の愛云々以前に尊敬の念すら湧いている。
そのことをクラスの連中に話したら、案の定、シスコンという称号を貰ったわけで。
「きゃっ」
「え?」
姉さんの声に戻される。その時になってやっと、床が不自然に揺れているのを感じた。
トラックが傍を通るのとはまた違う、人の根源的な不安を煽る振動。
「地震だよっ、そーちゃん! 大丈夫っ!? お姉ちゃんすぐそっちに」
姉さんの声に反応してそちらに顔を向ける。
姉さんの頭上の棚も揺れていた。
そして見てしまう。半身を乗り出している空の鍋が揺れて、バランスを崩しているところを。
真下には、姉さん。
「危ないっ」
声が先か、僕は渾身の力で姉さんに飛び掛る。
耳に響くのはガラスか何かが割れるような大きな音。僕の意識も同時に暗転した。

そーちゃん! そーちゃん!
そうたいして気を失っていなかったのだろう。壁に掛けてある時計の針が三つに見えて
まだぶれているのかと思ったけれど、最後の一つが秒針だと思い直した時には
意識はハッキリとしていた。
大丈夫だよ、姉さん。そう開こうとした口が、ふいの頭痛に止まる。
「あ……ああ……」
目の前には、きっと僕以上に血の気の失せた顔をしている姉さん。
まずい。頭に血を流していたからなのかは、今となっては判別できそうにない。
「ごめんなさい……ごめんなさいそーちゃん……おねえ……わた、わたしをかばって……かばって」
「姉さんのせいじゃないから。落ち着いて」
「だって……そーちゃん……頭、ケガして……血……血が……いっぱい……」
「姉さん」
「ごめんねそーちゃんっ、許して。ねえっ」
「大丈夫だから」
「ごめんなさいそーちゃん。許して、許し……ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい
  ごめんなさいごめんなさい」
「姉さん」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「姉さん……」
姉さんの謝罪はその後もずっと続いていた。

 

結局、夜間の病院に無理やり連れて行かれた僕は包帯を巻かれただけで済む事になった。
姉さんの勧めで、あと少しで入院するハメになりそうだったけれど、
こうして家に帰ることが出来たから良しとしよう。
自室のベッドに寝転ぶ。随分、久しぶりのような気がした。
未だに頭部の痛みは治まっていないが、医者も苦笑いするほどだったから一日眠れば大丈夫だろう。
もう時計の針も0時を回っていることもあって、すぐ眠ることも出来そうだった。

ぼんやりとした意識で目を開くと、窓から見える月が綺麗だった。
月明かりを眩しいと思ったのか、寝返りを打とうと体を捩るものの押し返されてしまった。
誰かがいる。分かっていたはずなのに僕はそのまま黙っていた。
「そーちゃん……お姉ちゃんだけのそーちゃん……」
いつの間に脱がされたのか、裸の背中にぴったりとくっついている所は既に熱を帯びていた。
それだけずっとそこにいたのだろう。
「誰にも渡さない……お姉ちゃんだけのそーちゃん……苦しい思いなんてさせない。
  ずっとお姉ちゃんが傍にいてあげるから。ぜんぶお姉ちゃんが面倒を見てあげるからね……
  そーちゃん、フフ……」
指先が背中をなぞる感触に、思わず体が固まる。そのままお尻の方まで伸びて、そしてまた上に戻る。
それのずっと繰り返し。
「痛い事も苦しい事も辛い事もぜーんぶお姉ちゃんが背負ってあげる、
  ぜーんぶそーちゃんの代わりに受け止めてあげる……だってそーちゃんはもうお姉ちゃんの分を、
  ぜんぶぜーんぶ受け止めてくれたもんねー……」
「痛い痛いはもうお姉ちゃんがぜんぶしてあげるからね。
  だからそーちゃんはなんにもしなくていいんだよー……」
「フフ……お姉ちゃんだけのそーちゃん……お姉ちゃんのイタイイタイしてくれたそーちゃん……」
僕の背中を、見るに耐えないその部分をなぞる姉さん。
その行為は、また僕が意識を落とすまで続けられた。

「お姉ちゃんの分イタイイタイしてくれたそーちゃん……今度はそーちゃんの分のイタイイタイ、
  ぜーんぶどかしてあげるからね?」

5

「ああ、今日って」
桜もピークを過ぎ始めた頃、居間でダラダラとテレビを眺めていると騒がしいだけの芸人が
そう喚いていた。
「嘘をついていい日か」
つまりエプリルフール。どういう日かはともかく、もう高校生にもなってそういうもので
はしゃぐのもバカらしい。
だから僕はそのままソファに身をうずめ、テレビの続きを何とはなしに観ることにする。
別段変わるようなこともな
い。いつもの高校生の春休みだ。
ふと、春休みなど関係のない社会人のことを思う。そういえば姉さんはどうしたんだろう。
そう思ったときには、元からぼんやりとしていた意識は既に底の方へと沈んでいた。

意識が覚醒して瞼を開けると姉さんの顔が目前に迫っていた。
「フフ。そーちゃん、ただいまぁ」
「もう姉さん、近いってば」
ラブコメの主人公ならばここで慌ててみせるのが常であろうけれど、
悲しいかな、慣れてしまった僕は不満そうな姉さんを避けて体を起こす。
少し体が重い。ちょっと寝すぎたみたいだ。

「そーちゃんって結構ボーっとしたり居眠りとかするのが悪いんだよ?」
何が悪いのかよく分からないけど、言い返すのも何なので台所の方へと歩く。
けれどその一歩目で後ろから姉さんに袖を引っ張られた。
「お水でしょ? はい、用意したから。どうぞ」
「うん。ありがと」
コップを受け取り一口飲む。ぼんやりとした頭に冷水がよくしみた。
そこでやっと姉さんが仕事着のままに気づいた。既にテレビは消されている。
「姉さん、仕事から帰ったばっか?」
「うん。ちょっと今日はバタバタしてたから」
ふぅん、と残りの水を飲み干しながら頷く。
飲み干したのを見届けた姉さんは僕の手からすぐにコップを取ってしまう。
本当に僕は姉さんにおんぶで抱っこな状態だ。
しかも、なんだかんだ言ってその状態に甘えきっている。
そうして少し自己嫌悪に浸っていると、ああそうそう、と流しでコップを洗い終えた姉さんが
こちらに振り向く。
疲れているはずなのに満面の笑みを浮かべて、まるで今日の仕事の疲れなどなかったかのように。
「どうしたの? ねーさん」
「フフ」

「あのね、そーちゃん。さっきね、如月さんって子、うん、あの女の子だよね?
  その子から電話がかかってきてね。そーちゃんの携帯だから悪いかなと思ったけど出ちゃったの。
  そしたらねそーちゃん、あの子、早くそーちゃんを出せってすっごい態度だったの。
  女の子なのに乱暴な言葉遣いだったし。あのねそーちゃん、そーちゃんがどんな友達と仲良くしても
  お姉ちゃんは別に良いと思うけど、それでもああいう女の子と一緒にいるのはお姉ちゃん、
  そーちゃんのこと心配になっちゃうな。うん。うん、それでね。
  ちょっとお姉ちゃんも頭にきちゃったから、今日ってエイプリルフールじゃない?
  だから、だからね、如月さんにこう言ったの。じゃあそーちゃんを起こしますから
  いつものキスしますねって。そしたらあの子ったらおかしいんだよ?
  いきなり黙っちゃって。何にも言わずに切っちゃった。なんか変な子なんだね。ね?
  そーちゃんもそう思うでしょ?」

カチリと、姉さんの背後で時を進めた壁掛けの時計に目が行く。
既に午前二時を回っていた。

2007/04/01 To be continued.....

 

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