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あなたと笑顔で…(仮)



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 今の心境を一言で表すなら、それは『緊張』だろう。
  勿論”純粋な”意味での『緊張』かと問われれば、すぐさま「NO」と答えるだろう。
  『期待』と『不安』が憎らしい程絶妙なバランスで融合し、中性的な立場を取る感情。
  重さの殆ど変わらない錘を乗せられた天秤のように不安定に横幅大きく揺れ動く”それ”は、
私の心を掻き回すだけに止まらず行動にまで大きな影響を与えている。
  さっきから意味もなく部屋の中を縦横無尽に歩き回りながら唸っているのが何よりの証拠だ。
  誰の目から見ても分かるように、私は今かなり落ち着きを失っている。
  ”誰の目から”と言ってもこの部屋の中には自分一人しかいない、他に人がいる訳がない。
  それなのに誰かに監視されているような気がして、背筋を気持ち悪く冷す不快感が伝わった。
  そんな被害妄想に入り浸りそうになる程、今の私は未来の『来訪者』の事で頭が一杯なのだ。
  その未来の『来訪者』のせいで、先程ソースと醤油を間違えてしまいひどく和食風味の豚カツを
食べてしまったり、心を落ち着かせようと思って飲もうとした茶の入ったコップを持つ手が
震えてしまい盛大に床にぶちまけてしまったりと、とにかく散々な目に合っている。
  人が来る位でと笑うかもしれないが、決して『普通』の人が来る訳ではない。
  これからの生活を左右する、言わば『特別』と断言して良いキーマンがやって来るのだ。
  だから、私は非常にそわそわしている。
  こんな中途半端極まりない、釈然としない感情を抱き続けるのが嫌だから早く来て欲しいと
思う反面、未来の生活模様が決定されるのが怖くて来て欲しくないという矛盾した気分に支配される。
  人並程度はある…と思う胸に手を押し当てるとそこからかなり速い周期で鼓動が伝わってくる。
  こんなにも胸が高鳴るのは、親に”あの事”を頼み込んだ時以来だ。
「何をそんなに緊張してんだか…」
  声にならない程の大きさでそっと呟き、それが時計の音しか聞こえない不気味な静寂を演出していた
  部屋に僅かに響き、改めてこの部屋には自分一人しかいない事を再確認する。
  こんな事をしなければ平生を装えない今の自分に半ば呆れながら、尿意を催したのでトイレへと
  向かおうと腰を上げた瞬間、
  『ピーン…ポーン…』
  ようやく聞き慣れてきたインターホンの音が部屋の静寂を切り裂くように鳴り響いた。
  この音を聞いた途端、私の頭は先程までの慌て様が嘘のように、一気に冷静になっていった。
  心の片隅ではその『来訪者』が来た事を告げる音が鳴ったら自分は緊張で卒倒してしまうのでは
とさえ思っていたが、逆にそれが私の心に諦めに近い『決心』をつけさせたようだ。
  そう、もう”来てしまった”のだ。
  今更慌ててみたところで時間は止まってはくれない。
  それと同じように、『来訪者』が目前に迫っているという事実も否定する事など出来ないのだ。
  何かの漫画のキャラが言っていた、「現実は受け入れる以外ないわ……」という素敵な台詞の
有難味をひしひしと感じながら、私は覚悟を決め玄関へと向かう。
  一度決心を固めてしまうと不思議なもので、足取りは物凄く軽くなっていた。
  まるで早く会いたいのかと思わせる位、私は早足でフローリングの上を闊歩していく。
  気分はさながら単身赴任で何年も会えなかった夫の帰宅を喜ぶ妻のように爽やかだった。
  さっきまでの慌て様は一体何だったんだと思いながら、私は玄関の前へと立つ。
  そして扉のドアノブに手を掛けようとした時、一瞬落ち着こうと胸に手を当てたその部位から、
さっきまでと変わらず心臓の鼓動音が連続しているのを感じ取って悟った。
  インターホンが鳴ってから今までの『空元気』に近い感情は、今朝から内在していた『緊張』を
振り払おうとする為の無意識下の手段に過ぎないという事を。
  それはそうだ、人間頭で理解したって簡単には心がついていかないのが常だ。
  自分の滑稽さに笑いそうになるのを堪えながら、私はもう一度身形を確認してみる。
  着ているのはまだ真新しい制服だ。
  部屋で制服というのも変だが誰の目にも簡単に受け入れ安い服と言えばこれ以上の物はない。
  自分の選択の正当性を再三再四確認しながら、扉の前で大きく深呼吸をする。
  これからの生活を楽しく過ごす為には『来訪者』からの第一印象は重要な役割を担っている。
  どこにもおかしなところはないとしつこく念を押した上で、私はドアノブを静かに捻った―――

 私の名前は、卜部愛子(うらべ あいこ)という。
  田舎の地方に住んでいた極々普通の女の子だ。
  まだ染めた事のない黒髪を背中に掛かるまで伸ばしている事以外は本当に平凡な存在だ。
  そのおかげと言って良いのかは分からないが、目立ったトラブルに遭遇する事もなく、
  田舎の町で田舎の友達と遊ぶという『普通』の生活を送り続けてきた。
  それ自体には何の不満もなかった。
  傍目から見れば同じ事の繰り返しに過ぎない日常も、私にとっては大切な一時だったから。
  幼いながらもこんな生意気な事を思えたのは、自分が多くを望まない人間だからと思っていた。
  実際両親や友達に対する態度も謙虚とまではいかなくても反感を買うような事は絶対にしない、
良い意味でも悪い意味でも主体性のない人間だった。
  そんな私を大きく変えたのは、中学二年最後の修学旅行の時だ。
  初めて田舎から離れて、初めて『都会』の空気を味わった。
  行くまでは未知なる場所への興味程度の感情だったが、都会に一歩足を踏み入れて思った。
  ”ここは凄い所だ”と。
  稚拙な表現だが、それ以外の言葉が浮かんではこなかった。
  それ程都会の色鮮やかな模様は田舎しか知らない私にとっては衝撃的過ぎた。
  勿論煙い排気ガスや息苦しい人口密度のように不快にしか感じないものもなかった訳ではない。
  肩が触れただけで柄の悪そうな男に睨まれた時は冷汗が流れる程怖くてどうしようかと思った、
その後私の姿を見て露骨にニヤついていたのは気持ち悪いながらも栄誉ある体験だったが。
  しかし、そんな不快感を凌いで私が感じた事、それは”道行く人皆輝いている”という事だ。
  同じ学生にしたって、私たちが着ているような膝より下以上の長くてダサいスカートではなく、
自分の足を誇示しているかのような短いスカートを綺麗に着こなしていた。
  中にはパンツが見えてしまいそうな程の、最早役割を果たしていないようなミニスカを穿いて、
堂々と我が物顔で友達と一緒に談笑し道を独占する集団までいた。
  さすがにそれには引いたけど、その他にも派手な私服を着て路上パフォーマンスする男子集団、
綺麗に化粧を固め悠々と男をあしらっている女の人、夜消灯時間になってもホテルから覗く景色は
明るいままの街中………何もかもが私の想像の範疇を遥かに越えていたのだ。
  都会での僅かな日数の体験は、私に一つの感情を抱かせた…『憧れ』だ。
  眩いばかりの都会の風景は、田舎っ子の地味を体言化したような私にとって羨望の対象だった。
  ”あの場所に住みたい”、その想いは日に日に増していった。
  自分でも抑え切れない程にまで増長した気持ちを感じた時、私は初めて理解した。
  私は多くを望まなかった訳ではない、その多くの『範囲』を”知らなかった”だけなのだ。
  しかし、私は都会の波に一瞬でも揉まれる事で今の現状以上の幸せの可能性を知ってしまった。
  確かに田舎での生活も楽しい。
  田舎の空気は排気ガスまみれの都会の空気の数百倍はおいしい。
  昔馴染みの友達との日々から離れなければならないのは本当に辛い。
  そして何より、今まで育ててくれた両親との別れが最も障害になってくる。
  今まで大きな要求はしてこなかった、その代わりに身の回りの事の全てを親に委託してきた。
  親あってこその今の自分、そんな私がいきなり都会に行って一人暮らしなんて出来るだろうか?
  それは家事は其れなりには出来るが、一日三食全てを料理出来る程の実力と言えるのだろうか?
  洗濯物だって、億劫がらずに毎日毎日洗濯する事が果たして出来るのだろうか?
  その他にも不安要素を挙げればキリがない、それ程私は今まで親に依存し切っていたのだ。
  そんな自分を不甲斐なく思いつつも、それでも都会への想いは止められなかった。
  その想いの中には、一種の『焦燥感』も含まれていたんだと思う。
  都会の人と違って自分は地味な服を着て、化粧もせず、世間知らずのレッテルを貼られるのだ。
  その事に関して周りから”置いて行かれたくない”という想いが強かったんだと思う。

 だから私は都会の方に一つの全寮制の高校を見つけると、想いに同調するように足早に頼んだ。
  「お父さん、お母さん、私…都会の高校に行きたいっ!」
  前置きもなく、食卓でいつもの食後の穏やかな雰囲気を満喫している両親に言った。
  私の一大決心を受けて、一瞬驚いた素振りを見せた二人だったが、すぐに答えてくれた。
  「愛子の…好きにするといい」

 正直、肩透かしを食らった気分だった。
  即答してくれた事は確かに嬉しかったが、こんなにも簡単に承諾してくれるとは思わなかった。
  両親を説得する為の文句を多く考え、頭の中でそれらを何度も構築してイメージしてきたのに、
これでは無駄な努力だったと言わざるを得ない、勿論いい意味で。
  一瞬信じられなかったからだと思うが、私は思わず両親に尋ねてしまった。
  「本当にいいの? 私一人でやっていけるかなとか不安じゃないの?」
  こんな訊き方では否定して欲しかったと思われるかもしれないが、訊かずにはいられなかった。
  いや、実際少し位は否定して欲しかったのかもしれない。
  否定してくれなかったという事は、私が遠くへと行ってもそこまで悲しくないので勝手にどうぞ
と思っている心の表れなのかもしれないと悲観的に考えてしまったから。
  自分から頼んでおいてある程度は否定して欲しいだなんて、「教えない」と言いながら心中では
周りから注目される事を喜び秘密を教えたいと思っている小学生みたいだなと思い苦笑が零れる。
  私が自分の幼稚さに呆れていると、父親は淡々と語り始めた。
  「確かに不安さ。愛子は昔から私たちにベッタリだったからな」
  真顔で自分の幼稚さを指摘されて恥ずかしさで顔面が紅潮してしまったが、それ以上にちゃんと
両親が自分を心配してくれていた事に安心感を覚えホッと胸を撫で下ろす。
  一息つくと、また新たな疑問が速攻で思い浮かぶ。
  …”私の事を心配しているなら、何故両親は私と離れるという決断を下せたのか?”
  言っている事としている事が矛盾しているではないか、と思ったがそれは私の勘違いだった。
  その矛盾を解く鍵は、私が既に自覚していた状況の奥底にひっそりと埋まっていたのだ。
  「しかしな、今まで私たちに従ってきただけのお前が自ら何かを”したい”と言い出したんだ。
   私たちは、それを応援したいんだよ。なぁ、母さん?」
  父親と父親の問い掛けに笑顔で頷く母親を見て、両親が承諾してくれた理由が分かった。
  つまり両親”も”、私の主体性のなさを心配していたのだ。
  私は今まで両親の前で半ば『いい子』を演じようとしていたが、それは逆効果だったようだ。
  私の今までの態度が両親の心配の種になっていた事を悟り罪悪感を感じる一方で、二人がずっと
私の事を心配してくれていた事を素直に嬉しいと思い笑顔になる。
  二人にこれ以上心配はかけたくない、そう思ったから…
  「勿論一人暮らししようって事は、それ相応の『目的』と『覚悟』はあっての事だな?」
  「はい。二人共、ありがとう!」
  いつになく真剣にこちらを見つめてきた両親に、私も真剣に返事をした。

 それから、私は猛勉強に励んだ。
  私が見つけた都内の全寮制の高校は思った以上に偏差値が高く、それまでは田舎の適当な高校に
適当に進学しようとしていた私にとっては遠く及ばないレベルだった。
  この時は今までの自分の不勉強さをとことん呪った。
  自分が”何となく”日々を過ごして来た事を改めて痛感しながら死に物狂いで問題と格闘した。
  そのあまりの変貌振りは、周りから異状視される程のものだったらしい。
  まぁ中三という時期だから、周りも勉強に勤しんでいたので特別何かを言われはしなかったが。
  そうやって私の今までの一生の内で最も勉強…最も努力した一年の後、私はその『成果』得た。
  そう、私の第一志望校…あの全寮制の高校に見事受かったのだ。
  合格者掲示板に受験番号が載っていた時の感動は言葉ではとても言い表せない程のものだった。
  あまりの嬉しさに私は一緒に来てくれた両親の前で大声で泣きながら喜んだものだ。
  父親の胸の中で抱かれながら感じていたのは産まれて初めて感じた感情…『達成感』だった。
  初めて明確な『目標』の下最大限の努力をし、最高の結果が返ってきたのだから当然だろう。
  実のところ合格しているという確信は殆どなかった為、自分の努力が最高の形で報われたという
事実は私の中で感動の嵐を巻き起こした。
  良く努力は必ず報われるというが、報われるか分からないから報われた時の感動が新鮮なものに
なるんだなと、柄にもない事を悟ってしまった程嬉しかった。
  そして、私は別れを惜しみながら最高の笑顔で送り出してくれた友達、そして両親に感謝しつつ
その想いを胸の内に大切にしまっておき、憧れの土地への第一歩を歩み出した。

 しかし、意気揚々と高校へと足を踏み入れた私に、思わぬ『落とし穴』が待ち受けていた。
  そう、本当に『落とし穴』と呼ぶに相応しい、予期出来ない理不尽な仕打ちだった。
  何があったかというと、高校へ行った日私は寮生活について詳しく知る為理事長室へと行った。
  そこでの第一声はなんと、「申し訳ありません」だった。
  深く刻み込まれた皺が年の功を感じさせる初老の理事長が深々と頭を下げてくるのに驚きながら
私は何事かと訊ねた。
  すると、その理事長が低い姿勢のまま言い放ったのだ。
  「実は………卜部さん、あなたは定員漏れで…部屋がないんですよ…」
  その言葉を聞いて、一瞬絶望しそうになった。
  だって、今まであれだけの努力をしてきて、最後の最後でこんな掌返しは辛過ぎる。
  折角憧れの都会へと来れたのにまた逆戻りさせられてしまうのかという不安に駆られた。
  暗闇の中で見つけた僅かばかりの光を手が届きそうな所で失うような恐ろしい寒気に襲われた。
  しかし、とりあえず私の過度な恐怖はいらぬ心配だったようだ。
  定員漏れになったのは私の当時の住所があまりにも遠い場所だった為、学校側の役員が悪戯だと
勘違いして私を人数に数えていなかった事が原因らしい。
  つまり学校側の過失、だから学校側はなるべく事態が丸く収まるような処置をし始めた。
  具体的に言うと、金銭面に関して全て学校側が保障する代わりに、寮ではなく別のアパートから
同じ高校に通う”他の『人物』”との共同生活を要求してきたのだ。
  全寮制なのにわざわざアパートを借りる物好きがいるのかと結構不思議に思ったが訊いてみると
諸々の事情で寮で生活しない者は結構いるらしい。
  無論、全寮制なのにそんな我を通すのが許されているのは一部の優等生だけらしい。
  まぁそんな事は正直どうでもよかった。
  当初の予定は狂ったが、学校側が金銭面を全て負担してくれるというのはかなりおいしい話だ。
  両親には金銭的な事であまり迷惑はかけたくなかったし、結果オーライというやつだ。
  だから、私はその要求をほぼ二つ返事で了承した。

 そして、候補の中で該当者が見つかったらすぐに連絡を入れると言われ、
私は一時的に学校側が手配してくれたアパートに住む事になった。
  その翌日、すぐに連絡は入った。
  何でもその『該当者』に生活費を一部負担すると言ったところ、快く引き受けてくれたらしい。
  一つのミスで二人の生徒の金銭的世話をしなければならなくなった学校側を可哀相に想いつつ、
私はその知らせを聞いてかなりそわそわしてしまった。
  だって、これから生活を共にする『同居人』だ。
  もし馬が合わなかったりしたら憧れの都会生活に皹が入ってしまう。
  しかも、その『同居人』は学校側からアパートからの登校を許されている秀才、私みたいな馬鹿
を相手にしないような高飛車な人だったらどうしようかと不安になった。
  趣味が合わないだけでも気まずい空気が出来てしまうだろう。
  その一方で、その不安を払拭しようとするかの如く、もし”その人”がとても優しい人で、常に
相手を気遣うような人だったらいいなとかいう期待感を募らせていた。
  まだ見ぬ『相手』への不安と期待、これが連絡が来た直後の私を支配したのだ。
  生活拠点は『相手』の要望で今私が住んでいるアパートがいいという事なので、私は『相手』が
来たら迎え上げてくれと言われた。
  もう少しでその『相手』が来る………その事実に私は慌てふてめいていた。
  しかし心の奥底ではさっきのような自分が理想とするような人物像の者が来る事を望んでいた。

 ―――だからなのだろう。
「え?」
  私がドアノブを捻って扉を開けた先に、昼間の明るい陽気に照らされ逆光で良く見えない物影を
見て、あまりに期待した光景とは”ずれている”事に驚いたのは。
  そう、決して”期待外れだった”のではなく、”期待とずれていた”だけなのだ。
「あの〜………椿薫(つばき かおる)さん、じゃないですよね…?」
「椿薫は、僕の事ですけど」
  困ったような表情を浮かべながら頭を掻く目の前の人物…私の『同居人』として理事長から名前
を聞かされていた『椿薫』が着ている真っ黒い私の高校の制服…それは紛れもなく『男性服』。
  そう、私の目の前にいる人物は、私の同居人である椿薫は、完璧に『男』だったのだ。

2007/03/24 To be continued.....

 

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