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両手に嫉妬の華を

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1

「うぅ…寒ッ………」
  曇り空の下、独りきりの見慣れない土手の砂利をを踏みしめながら、
正面から吹きつける冷たい風に身震いして思わず声を漏らす。
  いつもの通学路とは違う道だからかは分からないが周りには俺以外誰もいない、
  しかし今は独りになりたいという俺の心境からすれば、
  風の音だけが虚しく空回りしより一層寂寥感を沁み込ませているこの空気は非常に心地良い…
  というのは単なる強がりでしかない。
  …ふと横目で自分の左右を確認し、”望んだ姿”がそこにはいない事を理解して
  大袈裟に肩を落とす。
  肩を落とした事に関して人目を気にする必要がないという安心感と、
  人目がないとする意味がないだろという呆れた自覚が歪に頭の中で混ざり合った…
  その二つの感情が格闘する事寸秒、『援軍』の助けもあり後者によって前者は打ち消された。
『援軍』というのは要は今俺は自分に呆れているという事だ…何故なら俺が
”左右を確認した”というのは一度ではない、つまり自分で独りになる道を選んでおきながら
  独りだという事を認めたくなく、何度も何度もキョロキョロしているからだ。
  溜息混じりの吐息を溢しながら重い足取りで自宅までの帰路を歩んで行く。
  両手に持っているいかにも女の子が喜びそうな可愛らしい装飾の施された袋の存在が、
  それを渡せなかった自分への後悔の引き金になるが、
  不貞腐れた今の自分にはそれ程強く心に響かなかった。
「どうせフラレたよ、俺は………」
  そう呟きながらもその袋を土手のすぐ傍に細長く横たわっている川に捨て去る事が出来ない
  未練たらたらな自分に自己嫌悪を感じた。

 今思い起こせば明らかにおかしい事だった、
  そんな事に何で気付けなかったのかと自分の頭の悪さを呪った。
  何があったかというと、生まれてから交友関係にあるのは男友達だけで
  小学生の頃から続けている野球でも目立った活躍は出来ない、
  そんな極々普通な俺が今日から一ヶ月前の二月十四日、つまりバレンタインの日に
  学園一の美人であると目される佐藤早苗に、男にとっては勝利者の証、『チョコ』を貰ったのだ。
  当然”チョコ貰ったない暦=年齢”尚且つ自分が平凡を絵に描いたような男だという
  自覚があった故、貰った当初は何かの悪戯かと疑ったが、
  家に帰って箱の中身を開けてみてだらしなく頬が緩んでしまった…そのチョコの中央には
『To Singo Nakagawa』、つまり俺の名前が書かれていたのだ。
  箱の中身は冷やかしの手紙でも入っているのかと思っていた、心の隅では義理チョコである事を
  期待した、そんな俺の予想を二重にも飛び越えて本命チョコをもらえたという事実に
  俺は飛び上がりたくなる程喜んだ。
  その日は興奮と熱気に魘されて一睡も出来なかった。
  佐藤早苗とは面識がなかったが容姿端麗なその外見故彼女を知らない者はいない、
  当然俺も知っていた。
  その上同じクラスだった事もあって、毎日アイドルを見る時のような憧れに近い感情を宿した目線で
  彼女を見続けていた。
  若干茶味がかったショートヘアー、ガラス玉のように透き通った黒い瞳、
  どこにも文句の付けようのない整った顔立ち、何もかもが人を魅了するには足る、
『人間美』という形容がぴったりな存在だった。
  そのあまりの美貌が眩し過ぎ、恋心を抱く事はなかったが時々目線が合った時なんかは
  顔を真っ赤にして喜んだ。
  そんな彼女からの告白とも取れる行為、それによって彼女が遠過ぎる存在から
  一気に自分の手の届く射程圏内の存在となり、柄にもなく淡い恋心を募らせた。
  それはそうだ、今まで女の子に興味を持った事は幾度となくあるが
  それは全て自分とは違うという事への好奇心に近い感情であって、
  具体的に特定の一人の女の子を好きだと感じたのはこの時が初めてなのだ。
  だからこの恋を何としてでも成就する為に、俺は一ヵ月後のホワイトデーに
”正式に”彼女に告白する事を決意した。
  皆無の経験と貧相な想像力を駆使して必死に当日何をお返ししようか考え、
  結局近くのデパートのホワイトデープレゼントコーナーとかいうところで
  わざわざ一番高いクッキーを購入した。
  本当は手作りな物を渡したかったが当然料理や刺繍なんて出来ない、
  そんな男からの出来損ないの品物を貰ったって喜ぶはずがない事は目に見えていたので
  最大の譲歩をした。
  ホワイトデー前日は告白に何を言おうかなとか雑念が頭の中を支配し、
  バレンタインの時のように一睡も出来なかった。
  意気揚々とクッキーを入れた子袋を大事に抱えながらうかれていたホワイトデー当日、
  俺はようやく自分の『勘違い』に気付いた。

 最初は目を疑った、だって彼女がチョコを与えたのは俺だけのはず、だから彼女が今日
『お返し』を受け取れるのは俺からだけのはず…なのに何で?
  もしかしたら普通にホワイトデーとか関係なしに物を貰っているだけなのかもしれないとも思った、
  彼女は当然男を始め女からも好かれるから別に物を貰うなんて日常茶飯事だ、
  一年近くクラスメートだった俺が言うんだから間違いない。
  しかし、彼女がそのクラスメートからの物を”当たり前のように”受け取っている様を見て、
  一気に気持ちが沈んだ。
  それは、彼女がそのクラスメートにもチョコを与えた、だからお返しがくるのは当然なんだ
  という何よりの証明だった。
  そこでようやく理解した、彼女は、”佐藤早苗は俺に好意なんて欠片もない”という事を。
  きっとクラスが同じだったという些細な理由で渡したんだと思う、
  その行為が俺の恋心に火を点けたなんて事知る由もなく。
  俺が呆然としている中他のクラスメートも寄って掛かって彼女を取り囲み
『お返し』を譲渡している、その光景を見て一ヶ月も彼女が俺の事を好きだと勘違いしていた事を
  恥ずかしく思い顔面が紅潮するのを感じ、同時にやり場のない怒りが込み上げた。
  それは明らかに不当な怒りだ、だって俺が勝手に勘違いして勝手に現実をつきつけられて
  傷付いているだけ、要は俺の一人相撲だった訳だ。
  だからこんな事思うのは悪い事なんだとは思いつつ、彼女が俺の事を見ていないのを確認して
  俺は思い切り彼女を扉の傍から睨みつけ、心の中で罵ってしまった、
「”あんな事”されたら勘違いしちまうだろ」と。
  口には出せない臆病な自分の心を悟りそれが更に今の怒りに油を注いでしまったから
  なのだろうけど、俺はそのまま教室の扉を閉め学校を飛び出した。
  無我夢中で走った、耐え難い現実の重みを少しでも軽減したくて、
  直視したくない現実から逃げるように息を荒げながら走った。
  学生服の男が登校時間に学校側とは反対に逆走している、
  その不自然な光景に周りから奇異なものを見るような視線で見られているのが横目で確認出来たが
  全く気にならなかった。
  目的地もないまま息が切れるまで走り続けた。
  本当に夢中で走っていたからだろうが、普段とは違う見慣れない土手の麓に俺は立っていた。
  そこには人っ子一人いなく、その静寂が俺の心に沁み渡り、
  同時に非常な現実を再確認させるには十分過ぎる程の孤独感を突きつけてきた。
  こうして俺の初恋は俺の空回りで幕を閉じた。

 呆気なさ過ぎる俺の初恋に反して、視界に広がる土手は何にも遮られる事なく無駄に長い。
  その奔放さが羨ましく憎らしく、転がっている小石を微かな抵抗の意思として爪先で蹴飛ばした。
  こんな事しても虚しくなるだけなのに…つくづく自分の馬鹿さに呆れてしまう。
  それでもやはり見てしまう…何度も思い描いた光景、本当ならば今自分の隣には佐藤早苗がいて、
  お互いに楽しく語らう光景への望みを捨て切る事が出来ず。
  今日何度目か分からない溜息をつきながら、今度こそ決心を付けたい一心で
  もう一度川の方向を眺めてみる。
  どうせ捨てるなんて出来る訳ないと手に持っている袋を握り締めながら半ば諦め気味に
  視線を向けると、そこにはさっきまでの土手には確認出来なかった一つの『存在』があった。
  その姿はちっぽけなもので、目を瞑ろうと思えば”いなかった”事に出来る程微量なものだった、
  それでも俺が目を背ける事が出来なかったのはその『存在』から僅かに発せられる姿同様
  消え入りそうな程小さな嗚咽を聞いてしまったからだろう。
  今の状況を一言で表せば、”女の子が泣いている”。 

 女の子だと分かったのは、今はその子が体育座りをしている為
  その長い黒髪が地面に接しているからだ。
  制服を着ている事から学生であると推測出来る。
  遠くからでも肩の震えが察知出来る、それ程彼女は悲嘆に頬を濡らしているのだろう。
  一瞬見過ごそうかと思ったが、俺と同じく学校をサボってまで悲しみに浸って
  目の前で泣かれている女の子を放っておける程俺は酷い人間ではないと思っている。
  それに彼女は慟哭している、俺は呆然としている、
『仕方』こそ違えどお互い今悲しんでいるという共通点がある。
  同類意識とまではいかなくても彼女に興味を持つには十分過ぎる理由だ、
  それに話し掛ける際の自然な理由にもなる。
  少々キツい斜面を勢い良く下り降り、川に近い方にいる彼女へと獲物を狙う捕食者のように
  気付かれないよう近付いて行く。
  彼女の背に近付くにつれて、微かだった嘆声が現実味を帯びて俺に訴えかけるように
  はっきりと聞こえてくる。
  それを聞いて微妙に声を掛ける事が憚れたが、どうせ後戻り出来ないし、
  何か罵られてももう嫌という程傷付いているので今更心が揺れるような事はないだろうと
  防衛線を張っておき、俺は彼女の肩を自分でも驚く程馴れ馴れしく叩いた。
「ひぇ!?」
「え!?す、すみませんっ!」
  驚かれるとは予想していたが、悲鳴に近い声から滲み出る驚き様に、
  思わず俺は彼女に頭を下げて謝った。
  頭を上げると首だけこちらへと振り向いている彼女の顔が眼前にあった。
  垂れ気味の瞳が、赤く染め上げられている頬が、今は涙でびちょびちょに濡れていた。
  それでも長い黒髪が全体的に整っている小顔全体を包容している様を見て、
  素直に可愛いと俺は思った。
  未だに虚ろな目線を向けながら状況を必死に整理しようとしているように見える彼女を
  直視しないように遠方へと目線を逸らせながら訊いた。
「泣いてるからつい………何かあったんですか?」
  俺の言葉の意味を理解したのか、視線を俺へと向ける彼女、
  相変わらずその表情には悲しみが露骨に沁み込んでいる。
  しかし表情とは相反し黒々と濡れている瞳は何かを媚びるように生き生きとしている。
  そんな瞳に俺が目も心も奪われる中、彼女が初めて俺に口を開いた。
「…聞いて、下さるんですか…?」
  疑問形だが明らかに聞いて欲しそうな口調だ。
  余計なお世話だよと拒絶される事を多少恐怖していたが、それはいらぬ心配だったようだ。
  悲しみに明け暮れている彼女を前にして当初の目的を達成出来る不謹慎事に不謹慎ながらも
  喜びながら、俺は彼女と目線を合わせるように座り込んだ。
「聞かせて下さい」
  その一言で、笑顔ではないが彼女の口元が僅かに柔らかく緩むのを感じた。
  数秒俯いた後、再び視線を俺の方に戻した彼女の目からは、既に涙は流れていなかった。
「ありがとうございます…」
  そう言うと彼女は俺と顔を合わせたまま目を泳がせていた。
  口元から微かに漏れる躊躇の意思を感じさせる声から、
  彼女がまだ勇気を振り絞りきれない事を悟った俺はそれを後押しする。
「安心して下さい、聞いても馬鹿にしないし、話している間は何も言いませんから」
  勿論それは俺自身が彼女が”何について”悲しんでいるのか知りたい興味本位から出た言葉だが、
  同時に素直に彼女を可愛いと思い、そんな彼女を気遣いたいと思う
  下心とも取れる俺の本心の表れだ。
  そんな俺の言葉に救われたように初めて彼女は俺にぎこちない笑顔を向けてきた、
  無理をしている事が分かるから心の奥底で棘が刺さったような痛々しい感情を覚えた。
  俺の心中を察してか、彼女はとうとうその重い口を開いた。
「本当はこんな事無関係の方に話すのは失礼だとは思うんですけど………
  今日、私フラレたんですよ…」

 もし”何も言わない”と彼女と約束していなかったら俺は速攻で驚きの声を張り上げていただろう。
  彼女は確かに言った、”フラレた”と………それは同じ、俺の悲しみの根源と全く同じだったから。
  驚く俺をよそに話を続けようとしている彼女を横目で見て、慌てて彼女の言葉に耳を傾ける。
「私、好きな男の人がいたんですよ。
  その人は私がマネージャーを務めている部活の同級生なんですけど、
  ドジで失敗ばかりする私に優しく微笑んでくれました。
  時々デートに誘ったりもしてくれましたし、…一度ですが、
  その………キ、キスもしてくれたんですよ。
  だから私、本当に恥ずかしいんですが…てっきり彼が私の事好きなんじゃないかと
『勘違い』しちゃったんですよね、はは…。
  自分で言うのも変ですが引っ込み思案な性格でしたので、男の人とは遊ぶのは彼が初めてでして、
  だからこれが初恋だったんですよ…。
  初めてこんなにも異性を想う事の出来る悦びを知ったんですよ…。
  何とかこの恋を実らせたくて、とうとう一ヶ月前のバレンタインの日に告白したんです。
  わざわざ手作りまでして作って浮かれていたのに、渡した時面と向かうのが恥ずかしくて
  結論を今日まで先延ばししてもらったんです。
  当然了承してくれると信じていました、だから今日『付き合えない』ってはっきり言われて
  相当ショックを受けたんです…。
  キスまでしてくれたのに何故かって訊いたら、『キス位で勘違いするな』って怒られてしまって…。
  多分バレンタインの日に言われたならまだ良かったんですが、
  一ヶ月間ずっと彼との幸せな日々の事で頭が一杯だった分、
  現実を思い知った時のショックがかなり響いたというか………。
  もうどうしたらいいか分からず学校抜けてきちゃったんですよ………
  勝手に勘違いしといて、私馬鹿ですよね?
  話したら随分楽になりました、本当にありがとうございます。
  もう好きなだけ馬鹿にして下さい、そうでもしないと懲りないと思いますので………」
「…馬鹿じゃないですよ………」
「え?」
「全ッ然ッ!馬鹿なんかじゃないですよっ!!!」
  思わず彼女に向かって叫んだ叫び声が、静寂を切り裂いて土手に響き渡った。
  突然大声を出した俺に彼女は一瞬肩をビクつかせて、驚きを隠せない、
  隠そうともしない目線で俺の事を見上げてきた。
  でも叫んだ事に羞恥心もなければ欠片の後悔もない、叫びでもしなければ気が済まない。
  だって、細かい事を抜きにして考えると、彼女の置かれている立場は俺と全く同じなのだ。
  相手に好意を模したような態度を取られ、勘違い”させられ”、心を打ち砕かれた、
  同じ種類の傷を背負った者同士なのだ。
  彼女の話は自暴自棄に陥っていた俺を冷静に事態を客観視させるに至った、そして同時にさっきまで
『不当』だと思っていた怒りが筋の通ったものだという事を気付かせる事にまで導いてくれた。
  今感じている彼女の悲劇に対しての怒りは、同時に俺の悲劇への怒りにも繋がるものなのだ。
  心の奥底で燻られていた本心を掘り起こしてくれた彼女に心から感謝し、
  俺は有りっ丈の思いをぶつけた。
「だってそうでしょ!?勘違いしたのは確かに俺たちの責任かもしれませんけど、
  するような態度を取ってきたのはあいつらですよ!?
  好意がないなら優しくしてくるなって話ですよ!そうすれば傷付く事もなかったのにっ!!!」
  息を荒げながら感情的になる自分を抑え切れずにいる、
  そんな俺を彼女が不思議そうな目線で見つめてくる。
  俺何かおかしな事言ったかなと自分の言葉を整理しようとした刹那、
  ひたすら俺の叫び声に圧倒させられていた彼女が俺に顔を近付けてきた。
  まじまじと見ると気恥ずかしくなり、思わず目を伏せた俺に彼女が言い放った。
「『あいつ”ら”』って…どういう事ですか?」
「あ…」
  俺は情けない声を漏らしてしまった。

 一瞬誤魔化そうかと思ったが、彼女の真剣な眼差しが言うべきだと俺に決断させた。
  彼女になら、俺と同じ傷を抱えた彼女になら言っても恥ずかしくなんかない、そう思った。
「つまり、俺も似たようなもんっていうか…要は俺も今日フラレちまったんですよ。
  簡単に説明すると、バレンタインの日にある女の子からチョコ貰ったんですよ、俺。
  最初は悪戯かなと疑っていたんですが、
  そのチョコには俺の名前が綺麗な字で書かれていたんですよ。
  普通好きでもない人間に手作りで名前まで書いてチョコをあげると思いますか?
  だから俺その子が俺を好きなんじゃないかと思ってしまって、今日告白しようと思ったんですよ。
  でもその子は俺以外の人にもチョコ渡しているって事を知ってしまって………。
  そりゃ勘違いする俺も悪いですけど…」
「いえ」
「はい?」
「私は恋愛経験が浅いですけど、普通手作りしてまで渡すチョコは本命だってのが暗黙の了解ですよ。
  勘違い”させられ”るのが当然だと思います、あなたは何も悪くありません。
  根拠はありませんが絶対ですよ!」
  彼女の確固たる口調を前にして、俺は喜びに打ち震えていた。
  自分の”今までの”悲しみを理解し、共に癒し合える存在に俺は嬉しくなった。
  見てみると、彼女の顔には既に悲しみの色は見えなかった、
  多分俺の顔もこんな感じなんだと思った。
「すいません、あなたの話聞くはずだったのにいつの間に俺の愚痴になってしまって…」
「いえ、全然問題ありません。逆に感謝している位ですよ、
  同じ痛みを持った人がいるって分かって…」
  そう言うと、彼女はまた瞳を潤わせながら俺の事を伺うように横目で見つめてきた。
  その目は子犬が主人に媚びる時のような目で、でも全く不快感を感じないものだった。
  胸の鼓動が速くなるのを、思考回路がおかしくなるのを、
  心の中で何か熱いものが込み上げるのを感じながら、
  俺は自然な手つきでさっきまで握っていた事すら忘れていた袋を彼女の胸に押し付けた。
  俺が何をしたいのか分からない様子なので言ってやった。
「”これ”、あげます」
  そう言っても尚状況を呑み込めていないのは何故かと考えて、
  この袋の事を説明していない事に気付いた。
  本当に俺は馬鹿だなと呆れながら、目線を彼女の方から逸らす。
「本当は”その子”にあげる物だったんですよ、いや冷やかしって訳じゃありませんよ!?
  これは何というか…感謝の印です。あなたに会えて、柄にもなくうじうじしてたんですけど
  吹っ切る事が出来ました。
  だから、受け取って下さい!」
  俺が適当な想いで渡していると勘違いされないように慎重に言葉を選んで言ったつもりだ。
  いつの間にか寂しい場所だとは到底思えなくなった土手の中央で彼女からの反応を待つ事数秒、
  彼女は微笑んでくれた。
「ありがとうございます…!」
  その笑顔は決して取繕ったものではない、自然な笑顔。
  その笑顔を見て、俺の中の微妙な隙間に散らばっていた蟠りは完全に風化していった。
  言葉には出さなかったが、俺も心の中で何度も彼女にお礼を言った、
  今日彼女に会えて本当に良かった。
「あ、あの、私、佑子っていいます!お名前は?」
  顔を真っ赤にしながらそれでもしがみつくように俺から視線を外さない佑子さんの顔を直視し、
  俺まで赤面してしまう。
「な、仲川信悟っていいます!じゃっ!」
  その表情を悟られたくなくて俺は早口で伝えた後佑子さんに背を向け、一目散に走り去っていった。
  また走っている、でも朝の時とは違う、汗がこんなに爽快なものだなんて
  佑子さんと会わなかったら分からなかった。
  俺の心と同じく、暗雲垂れ込めていた空模様は既に太陽の照りつける快晴になっていた。

―――――――――――――――――――――――――

「仲川くん…」
  あぁ…何て心地良い響きなんでしょう…。
「仲川くん…仲川くん…仲川くん………」
  その名前を聞く度に、あの笑顔が脳裏に刻まれていきます…。
「仲川くん仲川くん仲川くん仲川くん仲川くん仲川くん仲川くん仲川くん仲川くん仲川くん」
  私はその名前を忘れないよう、何度も口ずさみました。

―――――――――――――――――――――――――

2

「”今朝も”何ニヤついてるの? 気持ち悪い子ねぇ」
「気にすんなって。それよりおかわりっ!」
  母の悪態を軽く受け流し、代わりに少々ご飯粒が付着している茶碗を差し出す。
  朝は滅法弱い俺が自分より早く起きていたという奇跡を不審に思ってか、
  母は複雑な表情を浮かべながら渋々茶碗を受け取った。
  そんな露骨過ぎる母の態度も今の俺には全く気に掛からない。
  昨日の事を思い起こせばどんな事も取るに足らない、そう思える程今の俺の心中は穏やかだ。

 昨日佑子さんと別れた後、俺の心臓はしばらく音をたてるのを止めてくれなかった。
  人は自分と共通点を持つ者に惹かれるというが、それは本当だったようだ。
  俺と同じ傷みを味わった彼女の存在は、淡い初恋への未練をかき消すには十分過ぎた。
  簡単に気持ちを捨てられるなんて結局その程度の想いだったに過ぎないと落ち込みかけたが、
  彼女への想いが初恋を越える程大きかったのだと都合良く解釈した。
  ”同病相憐れむ”、ふとそんな言葉が浮かんだがそれは俺の本心を表し切ってはいない。
  確かに昨日俺は彼女との対話を通じて、傷の舐め合いに近い狭窄的な快楽を覚えた。
  同じ傷の傷みを分かち合いたいと内向的な欲望を微かに感じたのも事実だ。
  しかし、それ以上に俺の中では彼女の傷を癒してやりたいという一歩的な欲求の方が強かった。
  決して”俺だけが理解してやれる”という歪んだ自己満足に浸る為の手段としてではない。
  純粋に彼女を一人の女性として意識し、守ってあげたいという庇護欲が俺を支配した。
  そしてそこまで認識してようやく気付いた、”俺が佑子さんを好きになっている”という事に。
  それを知って、もう彼女とは会えないという事に多少悔しさが込み上げた。
  時間としては短いが、反比例するようにその想いは初恋以上に肥大化していたから当然だ。
  それでも今日清々しい朝を迎える事が出来たのは、昨晩見た夢が原因だろう。
  その夢は、”俺と佑子さんが話し合っている”、ただそれだけの内容だった。
  しかし、微かに残る佑子さんとの楽しい空気が、俺に今までに感じた事のない安らぎを与えた。
  その安らぎが俺を吹っ切れさせたからこそ、この体験と思い出は大切に胸にしまっておこうと、
  柄にもない事を俺に考えさせるに至ったのだ。

「ごちそうさんっ! んじゃ行って来るわ!」
  久しぶりに心から美味いと思える朝食を食べ終えた俺は、そのまま椅子の背凭れに掛けてあった
  鞄を持ち意気揚々と玄関へと向かった。
  鼻歌を歌いながら革靴を履いている最中に、母が遠くから大声で訊ねてきた。
「あんた、何か良い事でもあったの?」
  靴を履き終え玄関の扉を半開きにした状態で、俺は振り向き満面の笑みで答えた。
「まぁな! 行って来まぁ〜すっ!」
  扉を開けると、その先には雲ひとつない青空が広がっていた。
  今日は何だか良い事が起こりそうな予感がした。

「お早うっ!」
  俺は教室の扉を勢い良く開け、いつもは友達にしか言わない挨拶を教室全体に響かせた。
  皆一瞬驚いたそぶりを見せ俺に注目し、その後友人の数人が俺の方へと歩み寄って来た。
「お前昨日何で休んだんだよ?」
  そして予想していた質問が最初にきた。
  正直この質問をしてくれると、自然と昨日の情景が思い浮かばれるから嬉しい。
  勿論あの思い出は俺の心の中だけの宝物にしようと決めているので、ちょっと困ったフリを
  しながら友人を軽くあしらう。
「男には、誰にも侵入させまいとする『砦』ってもんがあるだろ?」
  自分でもその意味が分からない意味不明な応対、当然友人も神妙な面持ちで首を傾けている。
  勿論わざわざ痛い人だと思われたいが為にそんな事を言った訳じゃない。
  こんな何かを感じさせる言葉を言われたら誰だってするであろう対応を期待しているのだ。
「意味わかんねぇよ、詳しく教えろよ!」
  友人が期待通りの反応をしてくれた事に、相手を手の内で弄んでいるような優越感を感じる。
  つまり俺は、”言うともりはないが訊かれはしたい”、という事なのだ。
  訊かれる度に自分に関心を持ってくれている人がいるという安心感を味わえるし、
  何より昨日の思い出を一人占めしているという奇妙な満足感を覚えるのだ。
「まぁまぁ、落ち着きなよ?」
  俺は昼食の為に用意しておいたメロンパンを鞄から取り出し、悠々と席へと向かう。
  メロンパンを口に咥えながら椅子に座ろうした瞬間、変な違和感を感じた。
  幾ら腰を下ろしても体全体に安定感を感じないのだ。
  何だか嫌な予感がした…と思ったその時には既に遅かった。
  俺は豪快な音と共に、間抜けに地面に尻餅をついてしまったのだ。
「痛ッ…」
  尻を擦りながら何でこんな事になってしまったのかと冷静に分析しようと周りを見渡す。
  そして後ろを振り向き理解した、座る直前まで確認出来た椅子が今は後ろに引かれているのだ。
  何もない空間に腰を下ろしたのだから、地面に無様に座り込んでしまうのは当然の結果だ。
  問題はこの椅子を”誰が”引いたかという事だ。
  俺は低い視線を持ち上げ、引いた椅子の両脇を掴んでいる人物を見上げる。
  そして一瞬目を疑った、その人物は俺が予想だにしなかった人物だったのだ。
「ヤッホー、仲川信悟”くん”」
「随分な挨拶だな、佐藤早苗”さん”?」
  相変わらず透き通った黒い瞳で俺を見下ろしてきたのは、佐藤早苗だった。
  昨日までの俺なら悪態をつきながらも頬が緩むのを止められなかっただろう。
  事実今もその”美貌には”目線が奪われそうになるが、昨日の行動を考えれば逆に
  目を逸らしたくなった。
  この状況でそれは佐藤早苗に対する敗北のような気がしたので、しっかりと目線は離さないが。
「さて、まずこの行動の真意について訊こうか…」
「それについてはあたしからの質問に答えてくれたら答えるから」
  有無を言わさぬ口調でそう言うと、彼女は座り込んでいる俺の手を強引に引っ張り上げ、
  そのままほとんど拉致に近い状態で俺は連れて行かれた。
  周りから聞こえてくる冷やかしの声はとりあえず無視しておこう。

「ここでいいかな」
  佐藤早苗は辺りを見渡し、他に誰もいない事に満足したのか笑顔を浮かべている。
  他の男子生徒が見たら発狂するであろう殺人スマイルを向けられても俺の心が微動だにしない事に、
  自分の事を思わず褒めたくなった。
  佑子さんへの想いの強さを再確認させてくれた佐藤早苗に密かに感謝する。
  今この場にいるのは俺と佐藤早苗だけだから、彼女以外の事を考えるのは失礼かもしれないが、
  それは昨日彼女が俺にしてきた事と同義だから別に構わないと高を括った。

 俺たちがいるのは飼育小屋の裏だ。
  学校で飼っている動物に餌を与える時には飼育係の生徒数名が立ち入る事はあるが、
  その時以外は動物本体から発せられる不快な野生の臭いを毛嫌いし誰も立ち入らない。
  俺が咥えたままのメロンパンの味も台無しになってしまう程酷い臭いだが、
  その分他の人間が立ち寄ってこないという確証はどこよりも強い。

「さて、お前の質問とやらは何だ?」
  正直早くこの場から立ち退きたかったので俺は早急に話を切り上げる為先手を取った。
  もう吹っ切ったとはいえ、やはり彼女を見ていると微かにだが胸の傷が沁みる。
  昨日感じた絶望的なまでの生々しい痛みが蒸しかえそうになる。
  男は過去を引きずる生き物だと勝手に解釈をしつつ、彼女と目線を合わせたまま返答を待つ。
「あたし、君に一ヶ月前何してあげたかなぁ?ん?」
  その言葉を聞いて思わず眉間に皺を寄せてしまった事を感じる。
  わざわざ思い出したくない事を強制的に脳裏に焼き付けようとするとは、
  可愛い顔して中身は腹黒いなと怒りが先行しそうになった。
  このまま怒りに任せて胸の内のモヤモヤをぶつけてやりたかったが、貰った時は嬉しかったし、
  ”一時的には”いい思いをさせてもらった事を考え踏み止まる。
  それに、ここで感情的になっては彼女に過去の自分の想いに気付かれてしまう。
  それは避けたかったので、余計な事は言わない事にした。
「チョコを下さりましたね」
「だよね?」
  佐藤早苗は言葉同様、確認を要するように俺を見つめてくる。
  俺の瞳の奥にある思考を盗み見するように、じっくりねっとりと見つめてくる。
  その瞳は異様に厭らしく濡れており、何かを懇願するようにすら見えた。
  正直不快に思った。
  こんな視線を佑子さんにも向けられたが、する人間が違うとこうも感じ方が違うのかと驚いた。
  そんな俺の心中を察そうともせず、佐藤早苗は俺に視線を向けたまま続ける。
「で、昨日が何の日だったか知ってる?」
「知ってるさ。『ホワイトデー』だろ?」
「大正解ィ〜!」
  彼女は笑いながら嬉しそうに手をパチパチと叩いた。
  俺がこの誘導尋問に医等苛ついている事も知らずに呑気なものだなと溜息をつきたくなった。
「それじゃ、その日が何をする日かは知ってる?」
  徐々に彼女の術中に嵌っている事に気付きながらも、俺は受けて立つと言わんばかりに続ける。
「バレンタインの勝利者が、勝利するまでに導いてくれた案内屋にお礼を返す日だ」
「そこまで分かってるなら、あたしが何でこんな事訊いてるのか分かるよね?」
  さっきから佐藤早苗が俺に尋ねてばかりだという現状からいい加減逃げ出したくなった。
  だから俺は、敢えて彼女が期待しているであろう言葉で答えてやった。
「『お返し』だろ?」

「分かってんじゃん!」
  満面の笑みの佐藤早苗。
  本当は昨日その笑顔が見たかった、そうすれば今の俺の心境も百八十度変わっていただろう。
  まぁ彼女の行動が佑子さんと俺を引き合わせる助け舟になったと思えば、感謝すべきではある。
  とはいってもやはりちょっと憎い。
  自覚がないにしろ、人の事傷付けておいてその上見返りを求めるんだから当然だ。
  だから、俺は彼女の下へと歩み寄りながら少々皮肉めいた口調で言ってのけた。
「”綺麗な『義理チョコ』”、ありがとよ。ほれ」
  そして口に咥えていたメロンパンを口から離すと、勢い良く彼女の口へと押し込んでやった。
  俺の言葉に一瞬「え?」と一声漏らした瞬間に開いた僅かな口の隙間を俺は見逃さなかった。
「ふぇ?」
  佐藤早苗は俺の食いかけのメロンパンを咥えたまま間の抜けた声を漏らした。
  てっきり俺の悪戯に反抗してくるものと思っていたから、何故かは分からないが彼女が
  顔を真っ赤にさせながら口を動かしているのを見てドキっとしてしまった。
  その表情は俺を誘導尋問していた時の裏に何かあるような図ったものではない。
  全く取繕う事なく、無防備に晒された純真な素顔…そんな気がした。
  心の中で頭を振りその思いを断ち切る。
  一瞬でも佐藤早苗に、自分を裏切った相手に心臓が高鳴った事に自己嫌悪しつつ、
  俺は踵を返して彼女に背を向けたまま手を振った。
「じゃあな」
  そう言い残し、そろそろ馴れてきた悪臭漂う飼育小屋を俺は後にした。
  走り去って行く途中、結局彼女の一方的な質問攻めに遭っただけでここに来た意味がない事に
  今更ながら気付いた。
  勿論振り向きはしなかったが。

「じゃあな」
  俺は友人にそう言い残し教室を後にした。
  今は下校時間、廊下には生徒たちの談笑が響き渡っている。
  その中を俺は縫うように歩いて行き、下駄箱を目指す。
  下駄箱につき、やっと長い一日が終わったなと安堵しロッカーを開けようとした瞬間、
  誰かに肩を掴まれている感触を覚えた。
  反射的に後ろを振り向くと、そこには佐藤早苗の姿があった。
  朝別れる直前に見た赤く染まったままの顔で、俺の事を伺うように見つめてくる。
「何か用?」
  その視線を見続ける事に耐えられなくなり、俺は素っ気無く話題を切り出した。
  なのに彼女は視線を泳がせたまま何か言おうとしてそれを躊躇っている。
  そのはっきりとしない態度を不審には思いつつ、彼女といるのは辛いので置いていこうとする。
「あっ、待って!」
  靴を履き替え、校舎内を出て行こうとする俺に向かって佐藤早苗が声を張り上げてくる。
  廊下内だったのでその声は反響し、何度も俺に言い聞かせるように耳に焼き付けてきた。
  人前という事もあって恥ずかしくなった俺は、一応振り向き彼女を手招きする。
  「ごめん」と手を合わせながら靴を履き替える彼女を見てとりあえず安心した俺は、
  再び視線を校舎外へと向けた。
  そこで俺は信じ難い姿を見つけた。
「ごめんね!ちょっと確認したい事があって………仲川?」
  佐藤早苗が何か言っているような気がしたが、そんな事よりも俺は何十メートルか先にいる
  揺れるシルエットに目も心も奪われていた。
「あっ、仲川く〜ん!」
  笑顔で手を振りながらその長い黒髪を揺らす可憐な少女…見間違える訳がない。
「ゆ、佑子さん!?」
  その姿を見て心の底から熱い感動が込み上げてきた。
  どうやら、朝感じた『予感』は的中していたようだ。

3

 一瞬目の前に広がっている光景は、俺の彼女への想いが作り出した幻想なのではないかと疑ったが、
  生々しく耳に響く彼女の甘い声が夢に近い現実の何よりの証明だった。
  あの夢の続きが手の届く先に転がっている、その現実に俺は歓喜し叫びたくなった。
  俺は一目散に彼女の下へと駆け寄った。
  何度も口ずさんだはずの彼女の名前が、吐息によってかき消される程走り続けた。
  昨日あの夢を見るまで感じていた、彼女という大切な存在を取りこぼした事による激しい後悔、
  それが俺の原動力となり、二度と同じ過ちは繰り返さないように彼女の両肩を掴んだ。
「佑子さん、どうしてここにいるんですか!?」
「キャッ!」
  一歩後退りし、体をビクつかせる佑子さんの怯えた姿に罪悪感を感じ、すぐに肩を離す。
  肩を離して尚走って来た俺以上に呼吸を荒げている佑子さんを見て、
  男友達がいないという昨日の発言は本当だったんだなと確信した。
「ご、ごめんなさいっ! いきなり肩掴むなんて失礼でしたよね!?」
「いえぇ、わ、私もちょっとビックリし過ぎちゃいましたし…いえいえ!
  決して仲川くんの事を恐いだなんて失礼な事を思っている訳じゃないんですよ!
  本当です! 信じて下さいっ!!!」
  凄い剣幕で迫ってくる佑子さん、しかしその表情を見ても嫌悪感は欠片も湧き上がらない。
  その表情からは必死さが滲み出ていて、こんな例えは何となく気が引けるが、
  おねしょした事を必死に隠そうとしている少女のような、いじらしい可愛さがあった。
  その可愛さと、俺が無断で肩を掴んでしまった事を許してくれた事も勿論嬉しかった。
  しかし何よりも今の俺の頭の中を支配しているのは、佑子さんの『仲川くん』という一言だ。
  さっき一度聞いたがあの時は遠くにいて、佑子さんの存在を確認するまでにしか至らなかった。
  しかし佑子さんは今、俺という存在を”認識した上で”その名前を呼んでくれた…
  その事実が背筋を気持ち良く伝わった。
  周りの奇異な物を見るような目線と、疑問や冷やかし混じりの騒音がなければ、
  俺はこの甘美な現実に一人で浸って感涙していただろう。
「謝るべきは俺なのになんかすみません…。それより、どうしてここに?」
「仲川くんの制服を覚えていたんで、ここの学校の生徒だと分かったんですよ。
  やっぱり来ては、マズかったですか………?」
  沈み込む佑子さんに慌てて訂正する。
「とんでもありませんよ! 俺、佑子さんにまた会いたかったんですよっ!だから…」
  そこまで言って饒舌になっている口を慌てて両手で塞ぎ込む。
  今朝の”思い出を大切に胸にしまっておこう”という自分の決心の脆さへの驚きと、そして
  思わず佑子さんに本音を漏らしてしまった事への羞恥で俺は自分でも分かる位、顔を赤くした。
  若干顔を伏せながら下から佑子さんの顔を覗き込むと、俺と同じように頬を赤く染めながら
  クスクス笑っていた。
  その態度が気品溢れるお嬢様のように見えたのは、口元に添えてある手が原因だろう。
  そんな些細な動作にも反応してしまう程、今の俺は佑子さんに惚れ込んでいるようだ。
  そう自覚すると余計に恥ずかしくなり、無茶苦茶惜しいが佑子さんから視線を外す。
  あたふたしている俺をよそに、低い俺の視線から佑子さんが鞄から何かを取り出すのが見える。
「勝手に来てごめんなさい。今日は『お返し』がしたくて…その………」
  最後の方は発音し切れていない佑子さんが差し出してきたのは、適度なサイズの袋だった。

「…、『お返し』?」
  佑子さんその言葉を聞くと、瞬間的に俺の脳内では甘い妄想劇が広がった。
  こういう時だけは想像力豊かになるなと自分の男としての自覚に呆れながらも、
  ”他の”可能性を必死に捻り出そうとしたが全く思い浮かばなかった。
  昨日初めて会った佑子さんが俺に『お返し』と称して何かは分からないが物をくれる理由…。
  笑われてもいい、俺の頭の中には”たった一つ”しか考えられなかった。
「昨日、あたしだけ仲川くんにクッキー貰っちゃったじゃないですか…?
  あっ、クッキーありがとうございますっ!凄くおいしかったです!
  だからという訳ではないのですが…その………『お返し』がしたくて…」
  そう言いながら佑子さんは不器用に揺れる指先で袋を締めている紐を丁寧に解きほぐしていく。
  解いた瞬間その紐を地面に落としてしまった事を無視し、佑子さんは袋の中から
  一回り小さい袋を取り出した。
  その透明な袋の中に収まっている物体を見た瞬間………甘い妄想は現実のものとなった。
「その…一ヶ月と一日遅いですが………受け取ってくれますか?」
  佑子さんが震えながら自分の胸に押さえ込んでいるその袋の中身…見間違えるはずがない。
  それは、昨日遠回しに俺と佑子さんを引き合わせる事になった要因、『絆』の代名詞だ。
「それってまさか…」
「チョコは嫌いでしたか…?」
  今にも壊れそうな表情を浮かべながら見上げてくる佑子さんが握っている袋の中身、
  それは綺麗にハート型に揃えられたチョコレートだった。
  それを見た瞬間、一ヶ月前に佐藤早苗からチョコを貰った時の感動に似たものを感じた。
  しかし今感じている感動の度量が明らかに今の方が大きいのは、貰っている状況が原因だろう。
  佐藤早苗に貰った時も確かに嬉しかったが、その時俺は彼女にまだ恋心を抱いていなかった。
  そして今俺がチョコを貰っているのは、一日間とはいえ本当に恋焦がれている佑子さんからだ。
  二つのケースを比べれば、差は歴然としている。
  この状況に目頭が熱くなるのを堪える事が出来ない自分に驚いた。
「まさかっ! 好きですよ大好きっ! 『超』がつく位大好きです!」
  佑子さんの落ち込みかけの暗い表情を明るくしたい一心で、ムキになったように言ってしまった事に
  恥ずかしさを覚える。
  見てみると佑子さんも困ったように俯いている。
  子供っぽいって思われたかと不安になる俺をよそに、佑子さんが下を向いたまま袋を差し出す。
  小刻みに震える佑子さんの両手を愛しく思いながら、俺がその袋を受け取った瞬間………
「なっ!?」
  俺の背中に物凄い衝撃が奔った。
  情けない声と共に俺は持っていた袋ごとそのままその場に前のめりに倒れ込んでしまった。
  我ながら何て情けない…そう思う暇もなく袋を持っていた右手に鈍い痛みを感じた。
  右手を確認してみると、その先には何者かの足がある…どうやら蹴られたようだ。
  だがその痛みよりも、俺は何者かによって同時に蹴飛ばされていった袋の方の心配をしていた。
  倒れ込んだ無様な体勢をすぐさま立て直し、俺は袋の蹴飛ばされた方向へと走る。
  若干砂に塗れた袋の中身を確認して、とりあえずチョコが軽く皹が入っているだけで
  済んでいて安心した。
  勿論安心したというのは”蹴られた割には”という話に過ぎず、俺は佑子さんの俺への感謝の印を
  ゴミ屑のように蹴飛ばした人物への怒りで頭が一杯だった。
  袋を赤ん坊を抱くように両手で守りながら、視線を後ろへと戻すと、
「勝手に行っちゃうなんて酷いなぁ〜。人の話は最後まで聞くもんだよ?」
  悪びれた様子が欠片もない佐藤早苗の姿があった。

 当たり前のように、”何もしてませんよ?”と言わんばかりの白々しい表情に虫唾が奔った。
  俺に対しての暴行の事ではない、佐藤早苗が佑子さんのチョコを蹴飛ばした事に関してだ。
  佐藤早苗とは一年間同じクラスだったが、俺の中での佐藤早苗は少なくとも、
  自分の過失を認めない非常識な人間ではなかったはずだ。
  その微かな記憶を信じ、”蹴飛ばした事に気付いていないだけだ”と自分に言い聞かせる事で
  何とか怒りを抑えながら佐藤早苗を睨みつける。
「おい…”これ”彼女からの物なんだが」
  佑子さんの事を指差しながら依然視線を佐藤早苗に合わせたままにする。
  それを聞くと佐藤早苗は一瞬俺の抱えている袋を流し見した後驚いた素振りを見せてきた。
「あっ、もしかしてあたしが蹴っちゃったのか?」
  その発言を聞いて一安心する。
  彼女は俺の右手を蹴ろうとして間違えて袋も蹴ってしまってそれに”気付かなかった”だけだ。
  そう確認すると俺の心の中の不快感が僅かに失せた。
  しかしその刹那、彼女は手を合わせ言い放った。
「仲川、ごめんねー!」
  この一言が起爆剤となって、溜め込んでいた苛立ちが爆発した。
「ふざけるなっ!!!」
  俺の怒声が校庭内に何度も響き渡った。
  その声の大きさは佐藤早苗だけでなく周りの無関係の人間をもビクつかせる程のものだった。
  勿論そんな事無視して、俺は徐に佐藤早苗の下へと近付く。
  近付いてみると佐藤早苗の目が震えているのが分かったが、そんな事で躊躇する気は起きない。
「佐藤………何で”俺に”謝るんだ?」
「えっ…だって………」
「謝るべきは”彼女へ”だろっ!」
  俺は視線を佐藤早苗から外さないまま佑子さんがいるであろう方向を指差した。
  そう、何で俺がこんなにも激情に駆られているのかといえば、その答えは至極簡単。
  俺は佐藤早苗に佑子さんに謝って欲しかった、でも佐藤早苗が謝ったのは俺だった。
  佐藤早苗がチョコを作ってくれた佑子さんに対して罪悪感を覚えていないから怒ったのだ。
  勿論こんなのは佐藤早苗からしてみれば理不尽な態度なのかもしれない。
  彼女は俺が佑子さんを好きだという事を知らないし、そもそも俺の言葉を聞けば
  誰だってチョコを蹴ってしまった事に対して謝らなければならないと思うはずだ。
  それでも俺が怒りを抑えようとしなかったのは、佐藤早苗が昨日した事を思い出したからだ。
  こんな風に、いつまでも昨日の事を彼女に対して敵意を向ける事を正当化する為の道具として
  使うのには多少なり罪悪感を感じた。
  だから俺は僅かだけ猶予を与えた。
「彼女に…佑子さんに謝れよ」
「え…?」
  俺の一言を聞いて、驚いたような表情を見せてくる佐藤早苗。
  この表情が物語っているのは、”何で謝んなきゃいけないの?”という疑念だけだった。
  それを見て、俺は諦めるように佐藤早苗に背を向ける。
「もういいっ!!!」
  そう吐き捨てると、事態についていけていない様子の佑子さんの下へと歩み寄る。
  自然な動作で肩に手を乗せながら、俺は足早に走り去ろうとする。
「待ってよ仲川っ!」
  後ろから聞こえてくる佐藤早苗の懇願、それは俺の思考のループに入る前に遮られる。
「仲川くん…後ろの人が………」
「いいんです、”あんな奴”放っておいて行きましょう!」
  俺は半ば強引にその場から立ち去って行った。

「さっきは失礼しました。嫌な思いさせてしまって…」
  俺は隣に座っている佑子さんに深々と頭を下げた。
「私はいいんです。それより怪我しませんでした?」
  佐藤早苗に蹴られた右手を心配している佑子さんの心遣いに感謝しながら罪悪感に心が軋んだ。

 あの後、俺は佑子さんと共に、昨日佑子さんと出会ったあの土手へと向かった。
  別に意識的に行った訳ではない、無意識下の行動だった。
  土手までは佐藤早苗への怒りで熱くなって冷静さを失っていたが、いざ土手に着いて気付いた。
  何で土手に来てしまったのか、答えは簡単、俺と佑子さんの接点はこの土手しかないからだ。
  それ程なまでに俺たちの関係は浅いという事を理解した瞬間、急速に頭が冷えるのを感じた。
  いや、浅いとか以前の問題として、俺たちの間に『関係』なんて皆無だ。
  俺が佑子さんとの仲を『関係』だと錯覚したのは、俺の佑子さんへの一方的な想いを、
”同じ傷を持った者同士”という接点を利用して相思相愛に置き換えようとした醜い意識の表れだ。
  それが一人歩きした結果が、先程までの佐藤早苗への怒りだ。
  俺は先程までの怒りを”彼女の為”のものだと思っていたが、本当は”自分の為”なんだ。
  ”彼女の為”に怒っていると思う事で、自分は彼女を想う資格のある人間と信じたかったんだ。
  そんな利己的な欲望の為に佐藤早苗を傷付けてしまった事、そして佑子さんに居心地の悪い想いを
  させてしまった事、その二つが俺の心を支配しているのだ。

「この右手ですか?蹴られただけで何ともありませんよ」
「そうですか、良かった…」
  右手を佑子さんの眼前でブラブラ振ってやると、佑子さんは安心したように胸に両手を添えた。
  こんな俺の事を心配してくれている佑子さんに、こんな醜い心の内を晒せる訳がない。
  佑子さんと会うのは今日が最後だから正直に打ち明けてしまいたいとも思ったが、
  佑子さんは俺に対して少なからず好印象だ。
  でなければ、押し付けに近い形で渡した物へのお礼なんかしてくれるはずがない。
  そんな佑子さんを裏切る事に近い行為は避けなければならない。
  だから、俺はせめてこの場だけでも佑子さんに最善を尽くせるよう心掛ける事にした。
「それより、”これ”今食っていいですか?」
「えぇ!?」
  チョコの入った袋を差し出すと、佑子さんは大袈裟のようにすら思える驚き様を見せた。
  さっきまで安堵の表情を浮かべていた小顔がみるみる内に赤くなっていくのが分かる。
「も、もしかしたら仲川くんのお口に合わないかもしれませんよ!?
  勿論最善は尽くして作ったんですけど仲川くんの好みが分からなかったもので………。
  不味かったら無理しないで下さいね! 市販の物を買ってきますからっ!」
  顔を接近させながら、良く噛まないなと思う位の早口で喋る佑子さん。
  その喋り様からは先程から痛感し続けている俺への気遣いの念を感じた。
  しかし、それよりも俺は今の話の中で一つ不可解な言葉を聞いた気がした。
  空耳の可能性もあるが、確かめておかないとすっきりしないので恥を忍んで佑子さんに訊ねた。
「佑子さん、…今、”作った”って言いました…?」
  俺の言葉を聞いて佑子さんは俺に迫っていた顔を引っ込める。
  数秒の静寂が俺の思考を円滑にしていく。
  様々な憶測が頭の中を流れる事数秒、
「…は、はい…」
  その憶測は決着したが、俺の頭の中では未だに疑問符が消えてくれなかった。

 頭の中で昨日の佑子さんの言葉が何度も反響している。

 ―――『手作りしてまで渡すチョコは本命だってのが暗黙の了解ですよ』

 昨日はその言葉が俺に安心を齎したのに、今はその言葉のせいで鼓動音が聞こえそうな程
  心臓が高鳴っている。
  その言葉の適用範囲はあくまでバレンタインの日限定という制約を設ければ、
  それで佑子さんの行動の真意は完結してしまうのかもしれないだろう。
  だけど、佑子さんと俺の共通点を考えれば、そんな事で納得出来る訳がない。
  佑子さんと俺はどちらも”『勘違い』させられた末に傷付いた”者同士だ。
  共に、他人が自分に向ける意味のない好意に対して憎しみを抱いているのだ。
  そんな佑子さんが、俺にを『勘違い』させて傷付けようと思っているだなんて信じられない。
  するとやはりこの手作りチョコに隠れている真意というのは、”俺への好意”と捉える他ない。
  都合のいい解釈をしたいという思いもないという訳ではないのだが、
  それ以上に佑子さんが相手の傷を抉るようなマネするとは到底思えない。
  そう考えるとどうしても選択肢は先の一つしか残らなくなってしまうのだ。

「仲川くん…?」
  心配そうに顔を覗き込みながら声をかけてきた佑子さんに気付きやっと我に返る。
  慌てて袋にかかっている紐を解いていく。
「いえいえ、全然問題ありませんよ! 『手作り』だなんて嬉しいなぁ、なんて………」
  鎌を掛けるように『手作り』の部分だけ大きく発音して佑子さんの顔を横目で確認してみる。
  その顔は相変わらず熱に絆されているのではと思う位耳まで真っ赤に染まってる。
  表情に変化はないので真意は読み取れないが、その瞳は勘違いしてしまいそうな程濡れている。
  胸の高鳴りが一層強くなるのを感じながら、俺は袋の中からハート型のチョコを取り出す。
  佐藤早苗によって蹴られてはしまったが形が崩れてはいない。
「そ、それじゃ…いいですか…?」
  自分でも阿呆らしいと思う位神妙に確認を取る。
  そんな俺の心境が飛び火したように真剣にこちらを見つめてくる佑子さん。
「ど、どうぞ………」
  舞台上の主人公さながらの緊張感に包まれる中、俺は掌サイズのチョコを口に含んだ。
  甘過ぎない独特の風味が口の中に広がっていく。
  その味に俺は驚きを隠し切れなかった。
「これって…ビターチョコですよね?」
「はい…あっ、もしかして苦手でしたか…?」
「とんでもない! 俺の中ではチョコはビターが一番なんですよっ!」
  これは本当の事だ。
  元々甘い物が嫌いって訳じゃないが、やはり普通のチョコは俺の口には甘過ぎて合わない。
  勿論佐藤早苗に貰ったチョコは、貰えた喜びがあったのですんなり完食出来た。
  しかし、時々食べる市販のチョコはやはり甘さ控え目のビターを選ぶ。
  別にそれを理解した上で佑子さんがビターを選んだ訳じゃないのは分かっている。
  これは単なる偶然だ。
  それでも、佑子さんが俺の好みを当てたという事実は素直に嬉しかった。

「本当に美味いです!」
  そう言いながらがっつくようにチョコを頬張る。
  かなり汚い食べ方かもしれないがそんな事を気にさせない程美味しかった。
  俺が食べる事に集中していると、佑子さんが立ち上がった。
「今日はありがとうございました。美味しいと言って頂けて本当に良かったです。
  もうそろそろ帰らなければならないので、これで失礼しますね」
  佑子さんの発言を受けて辺りを見渡すと、既に橙色の夕日が沈みかけている時間帯だった。
  その夕日が、立っている佑子さんの黒髪を微妙に真紅に見せている。
  その姿は見惚れてしまう程美しく、同時にもうこの人と会えないという事実に寂しさを覚えた。
  去ってしまう前にチョコの真意を訊きたかったが、はっきり意味がないと断言される事を恐れ
  訊く事は出来ない。
  佐藤早苗との事もあってどうやら俺はかなり恋愛に慎重な性格になってしまったようだ。
  そんな自分に嘆きながら、せめて最後は笑顔で見送ろうと俺は最高の笑顔をしてみせる。
「チョコありがとうございます。それでは」
  俺が佑子さんに礼をしようとした瞬間、何か思い出したように佑子さんが鞄を漁り出した。
  その鞄の中から一枚の紙切れを取り出し、その内容を確認している。
  そして十数秒独り言を呟きながら躊躇うようにその紙切れを前後に動かした後、
  覚悟を決めた感じでその紙切れを俺に差し出してきた。
「い、いらないなら捨てて下さって構いませんので、じゃ!」
  俺と目線を合わせないまま紙切れを俺の手に握らせると佑子さんは一目散に走り去っていった。
  手に残る佑子さんの柔らかく温かい温もりを噛み締めながら、佑子さんの背中を見つめる。
  その姿を見ていると、何だか昨日無性に恥ずかしくなり走り去っていった俺と重なった。
  佑子さんの姿が見えなくなるまでその背中を見送った後、その紙切れを開いてみる。
  その紙切れを読んで、俺の頭の中で何かが弾けた気がした。

 『私のメールアドレスです。よろしければメール下さい。』

 綺麗な字で書かれたその文字一つ一つを凝視しながら、俺は歓喜に打ち震えた。
  佑子さんとの繋がりが途切れていない事に安心感を覚えた。
  そして手作りチョコとこの紙から、俺が彼女を想う資格のある人間になったという確信を得た。
  何でかは分からないがこの際理由なんてどうでもいい。
  ”彼女が俺を好きでいる”、それを口で言われた訳ではないから確かではない。
  それでも俺は、この行為から佑子さんからの精一杯の気持ちを感じ取った。
  男とほとんど付き合った事がないと言っていた佑子さんがこんなに気持ちを示しているんだ。
  後は俺の役目だ。
  俺は決意を胸に秘めながら、佑子さんからのチョコの最後の一欠片を口に放り込んだ。

―――――――――――――――――――――――――

 仲川があたし以外の女に笑顔を向けている…。
  あたしには向けてくれなかったくせに…。
  唇を噛み締めながら、あたしは最後まで”あの女”が何かしないか見守る事しか出来なかった。
  今行ったらまた怒鳴られそうな気がして恐かったから…。
  仲川に何か妙な紙切れを渡して去って行った”あの女”を遠くから睨みつけながら、
  ”あの女”からのチョコを嬉しそうに食べ切った仲川を見て泣きたくなった。
  仲川があたしから以外のチョコを喜んで食べるなんて絶対におかしい…。
  きっと”あの女”が何か吹き込んだんだ。
  あたしがずっと好きでいた仲川に、何をしたんだあの女………。

 でもそれよりまず仲川のとこに行かないと。
  何か誤解しているようだったから、ちゃんと説明してやらないと。
  ついでにあの女についても訊かないとね………。

4

 あたしが…佐藤早苗が仲川信悟に出会ったのは中三の時だ。

 自意識過剰と思われるかもしれないが、あたしは結構モテる部類の人間らしい。
  小さい頃から親を始めとした周りの人間から「可愛い」と言われ持て囃されてきた。
  その時はまだ幼かったから、ただ漠然と褒められているという事を嬉しいと感じる位だった。
  周りの女の子より少し容姿が良いだけ、その程度に捉えていた。
  その意識に大きな変化が訪れたのは中学に入ってからだ。
  いわゆる思春期というその時期に、他の女子同様あたしの体つきは急速に発達していった。
  今まで絶壁に近かった胸が数ヶ月で山形になった時には驚きを通り越して戸惑いすら感じた。
  体だけでなく、顔からも自然と昔の幼さは綺麗さっぱり抜け落ちていった。
  中学生ながらも街中を歩いていると時々芸能プロダクションのようなものに誘われていた事を
  考えると、既にその時あたしの容貌は大人の雰囲気を醸し出すまでになっていたようだ。
  周りからの羨望の眼差しを受けていく内、あたしは段々と自信を持つようになっていった。
  傲慢にも自分は『特別』な存在なのだと思うようになっていった。
  勿論嫌な人間だと思われないようにそれを友達には隠していた。
  友達と表面上は対等目線で付き合いながらも、心の内では今思えば自分でも信じられない程
  汚い言葉を吐いていた。
  そんな風に女子を見下していたあたしが男子を見下すようになるのにそう時間は要さなかった。
  信じられないかもしれないが、あたしの通う中学にはあたしのファンクラブが存在していた。
  勿論正規のクラブではなく、有志が勝手に集まって談義する同好会のようなものだ。
  それでも、有頂天になっていたあたしの自尊心を満たすには十分過ぎる事態だった。
  何も言わないのに男子が勝手に昼飯を奢ってくれる、何も言わないのに男子が勝手に荷物持ちに
  なってくれる、そんな漫画でしか見た事のないような限りなく非日常に近い日常の連鎖は、
  あたしの心を占める唯我独尊の思いを決定付ける事になった。
  男子は全員”あたしの”虜、今聞いたら恥ずかし過ぎるような事も平気で考えていた。
  この頃からあたしは男子と積極的に付き合い始めるようにもなった。
  自分の言う事なら何でも聞いてくれる存在は、お姫様気分にしてくれる最高の玩具だったのだ。
  適当に遊んで適当に捨てる、そんな親が聞いたら泣くような事を平気で幾度となく続けてきた。
  そういった事をする事に関して罪悪感は欠片もなかった。
  だって、当時のあたしからすれば、自分はそういう事をしても許される『特別』なのだから。

 そんなあたしが自分の馬鹿さを思い知らされるようになるのは中学生最後の年だった。
  受験シーズンも乗り越え、無事志望校に受かったあたしは、当時の彼氏の下へと遊びに行った。
  しかしその彼の家の前で見たのは、彼が見知らぬ別の女と熱いキスを交わしている場面だった。
  この時あたしは腹の底から怒りが込み上げた。
  その怒りが彼氏へのものだった事から推測するに、嫉妬という感情を抱いていた訳ではない。
  多分その怒りは、自分の掌の上で踊っていなければならないはずの人間が自分以外の者に愛を
  囁いているという事実に、根底にあった自尊心を傷付けられた故のものだろう。
  その場であたしは烈火の如く怒声を上げた。
  近所迷惑なんて考えず、彼に罵声を浴びせ続けた。
  最初はあたしが一方的に攻勢態度を取っていたが、あたしが彼にその場での土下座を要求すると
  次第に彼の表情は曇り、反論してくるようになったのだ。
  自分が浮気したくせに逆ギレしている彼に憤りを感じたあたしは何度も汚い言葉を言い続けた。
  そんな近寄り難い雰囲気を発している口論の最中、彼は決定的な事を言いつけてきた。

 「お前の女王様気取りの態度うぜぇんだよっ!!!
   そのくせヤラせてくれねぇしよ! うんざりなんだよっ!!!!!」

 その一言は、今まで築いてきた『自信』を粉々に打ち砕いた。
  初めて男子に裏切られたという事実、そして、”ヤラせてくれない”という一言が
  あたしの胸に悲しみの雨を降らせた。
  あたしは気付いていなかったのだ、男子の本心に。
  少し考えればすぐに分かるその真実に気付けなかったのは、あたしが慢心していたからだろう。
  つまり、男子は『あたし』ではなく、”あたしという『像』”に興味があっただけなのだ。
  あたしの『心』には毎日肩をぶつけ合う通勤者のように目を向けようともしていなかったのだ。
  思春期真っ盛りの男子が、自分とは違う体つきの女子に性的魅力を感じるなんて当然の事だ。
  それに、内心で相手を罵るような卑怯者の心を好くような者なんている訳がない。
  そんな当たり前の事にようやく気付き、更に自分の心の醜さを再認識するというダブルパンチを
  受けたあたしは、その場で今の心模様を体言化するように泣き叫ぶ事しか出来なかった。

 その後、あたしは泣いているところを数人の友達に発見された。
  カラオケボックスへと移動し、そこで泣いている理由について静かに問われた。
  その友達たちが真剣な眼差しで心配してくれている事が分かれば分かる程あたしは辛くなった。
  こんなに親身に、さも自分の事のように接してくれている友達を自分は見下していたのだ。
  自分を『特別』な存在だと妄信し、心の内で卑下し続けていたのだ。
  そんな自分が気遣いを受ける資格なんてないと自覚していたからあたしは頑なに開口を拒んだ。
  しかし、友達があたしに掛けてくる優しい言葉は残酷にあたしの心の堤防を崩していった。
  どんなに高圧的な態度を取っても文句一つ言わず心配してくれている友達を見て、
  こんな友達を裏切るような事をしてはいけないんだとやっと理解した。
  だからあたしは、嫌われるのを厭わず自分の心の内を全て話した。
  今まで自分たちが馬鹿にされてきた事を知ったらきっと皆離れていってしまう、それでも
  話さなければならない、今まで皆を騙し続けてきた事への『ツケ』なんだと言い聞かせ話した。
  軽蔑されると思った、しかし友達皆はあたしの話を遮る事なく最後まで黙って聞いてくれた。
  そして、目が腫れ上がっても尚泣き止まないあたしにそっとマイクを添えてくれた。
  この時あたしは、自分の愚かさを痛感すると共に、友達の温かみを思い出した。
  小さい頃は確認しなくても根底に『基本』として根付いていた人間としての華の手入れを、
  いつの間にか奢りで怠ってしまっていた事を深く反省した。
  そして、こんなにも優しい友達たちに心から感謝した。
  あたしの醜い心の内を知って尚あたしと付き合ってくれる意思を示してくれた事に感動した。
  あたしは忘れかけていた大切な想いを取り戻す事が出来た。
  その後、あたしたちは皆で喉が潰れるまで歌い続けた。

 その日の夜、皆と別れたあたしは駅のホームで呆然としていた。
  歌っている間は皆の温もりを感じていたし、熱中していたから他の事は考えられなかった。
  しかし、駅のホームでいざ一人になってその寂れた空気が再びあたしの心に寂寥感を齎した。
  忘れようとしても忘れられない事実、そう、あたしは今日フラれたのだ。
  先程まで感じていたのは自信の喪失感と自己嫌悪だったが、フラれた事を再確認した途端
  急に気分が悪くなった。
  別にそこまで思い入れのある男でもなかったが、やはりその事実は純粋に悲しい。
  友達の一人がこっそり持ってきたアルコールが回った事も助けて、あたしはその場で嘔吐した。
  胃の中から物が抜け落ちていく度、その状態を表すように虚しさが増大していった。
  自分が恋愛の敗北者になるなんて思っていなかったからその事実を受け入れたくなかったのだ。
  時折通勤帰りの人の見下した視線が気になったが、自暴自棄に陥っていたので気にしなかった。
  どうせあたしは姿が悪かったら人から愛されないような人間なんだと心の中で自虐した。
  もう嘔吐物の広がるこの場でそのまま寝てしまおうかとすら考えた時、視界に何かが広がった。
  吐いたショックで思考が上手く回らず、肉体的な疲労から目も虚ろになっていたあたしはそれが
  ”何なのか”を判別するのに多くの時間を要した。
  目線の先にあるものが『ハンカチ』だと理解したと同時に、

 「大丈夫ですか…?」

 見知らぬ人間の、どこか心地良い声が耳に響いた。

 あたしはその時驚きのあまり動く事が出来なくなった。
  だって、あたしの周りは今あたしの嘔吐物で汚れ、その上そこから激臭が漂っているのだ。
  知人ならとも考えたが、あたしはずっと俯いたままで顔は確認出来ないからそれも違う。
  知り合いでもない汚い人間の下へと歩み寄るなんて、とても普通とは思えない。
  あたしはその人に対して奇異と共に驚愕に近い好意を感じた。
  この人は汚れる事を厭わずあたしに近付き、親切にもハンカチを渡してくれるというのだ。
  勿論それは『あたし』だからではなく、”あたしが困っている人”だからした行為だ。
  自分の自惚れを深く痛感した今では、当たり前のようにそれが理解出来る。
  それでも、この人の行為はあたしの心を温かくした。
  この人は姿形だけで人を判断するような人間ではなくしっかり相手の心の内を汲み取った上で
  優しさを向けてくれる、その事実は外見の魅力だけを求められた事に関して傷付いたあたしの心
  を癒すには十分過ぎる薬だった。
  お礼を言いたかったが、目元は赤く腫れ上がっていて尚且つ口元が嘔吐物で汚れているような
  素顔は見せたくなかったのだ、あたしは小さく「ありがとう」を呟きハンカチを受け取った。
  あたしの様子を確認して、低い視界から見えていた彼の足が踵を返そうとしているのが見えた。
  あたしは慌てて顔は下げたまま上目で彼の顔を確認した。
  その顔はどこにでもいる極々普通の学生のものだった。
  しかしあたしはその顔を見て、思わず赤面してしまった。
  この程度の事でだなんて思うかもしれないが、傷付いた時に掛けられる優しさは麻薬だ。
  どん底に陥れられた状態で、『唯一無二』の存在と出会えたと思わせる魔法だ。
  赤面したのはあたしが初めて真剣に人を愛した証………『初恋』の証だった。

 その後あたしは掛け替えのない存在となった友達との別れを惜しみ再開を誓いながら卒業した。
  手には失恋の日に渡されたハンカチを握り締めて。
  あたしは”あの思い出”を胸に秘めながら、新しい恋を求める事にした。
  中学の時に自分を見失い本当の恋の意義を理解出来なかった分の時間を取り戻す為に。
  もう道を踏み間違えないように、あたしは心意気を新たに高校へと入学した。
  相変わらず周りからの羨望な眼差しは変わらない、しかしあたしの中での意識は変わった。
  今までは自尊心を満たしてくれた男子からの視線が物凄く気持ち悪くなったのだ。
  その目線が『あたし』ではなく”あたしの『体』”を見ていると思うと全身に寒気が奔った。
  自分は『特別』なんかじゃない、ちょっと男子の目を刺激するような体をしているだけだ。
  それを改めて自分に言い聞かせながら、嫌悪感を何とか笑顔で塗り潰し無事入学式を終える。
  まだ新しい学生生活は始まったばかりだが、出だしからこんな調子で新しい恋なんて
  見つけられるのかと不安になった。
  それに、”新しい”恋という事を意識しているのは、まだあの時の光景が忘れられないからだ。
  初めてあたしの心に踏み込んできてくれた存在が心に染み付いているのだ。
  出来るなら名前も知らない彼に恋焦がれ続けていたかった。
  しかし、それは叶わぬ恋だし、そんな事をしていたって前には進めない。
  自分はあの人に感謝し、思い出を糧にあの人のような心優しい人間を見つけなければならない。
  そう言い聞かせながら、あたしは自分のクラスへと向かった。
  そして、教室に入ろうとした瞬間、驚愕した。
  「失礼」と言いながらあたしが入ろうとしたドアから体を押し込んできたのは、
  まさしくあの日あたしに初恋を教えてくれた彼本人だったのだ。
  後に、あたしは彼の名前…『仲川信悟』という名前を知った。

 最初は驚きを隠せなかった。
  だって、まさか名前も知らない初恋の相手が自分と同じ高校に入学したんだ。
  こんな奇跡が起こるなんて、勝手な解釈だがこれは『運命』としか言いようがない。
  きっと神があたしと仲川は結ばれるべきだと引き合わせた因果ある偶然なんだと思った。
  しかし、やはり中学の大半を罪で潰したあたしを、神は簡単には幸せにしようとはしなかった。
  何があったかというと、つまり仲川”も”他の男子と同じだという事を思い知らされたのだ。
  時々仲川があたしを見つめているのが分かり、いざ目を合わしてみると慌てて目を逸らす。
  その行動は、あたしの外見だけを目的としている男子の視線と全く同じだったのだ。
  さすがにこれにはショックを受けた。
  自分の好きな人が自分が嫌悪している人間と同類だなんて普通誰だって信じたくはない。
  本当なら仲川の名前なんか覚える事もなく、クラスメートに位しか捉えないはずだった。
  しかし、あたしは仲川の性根に根付いている相手を労わる優しさを知ってしまった。
  仲川はあたしが傷付いている時にその傷を癒してしまった。
  見知らぬ相手に姿形を問わず心気遣うその姿勢に、惚れるなという方が無理だ。
  仲川はあたしを惚れさせた、だから仲川には責任を取ってもらわなければならない。
  そう、あたしを好きになるという形で。

 しかし、仲川にあたしだけを見てもらう為にどうすればいいのかという答えは中々出なかった。
  ”あたしの『体』”ではなく『あたし』を見てもらう為にはどうすればいいのかは分からない。
  あたしが今まで何人もの男と付き合ってきたが、全員『あたし』を見てはいなかったから。
  あたしの事をチラチラ覗いてくる事から考えて、仲川があたしを気にしているのは明白だ。
  そのまま「付き合って」と言えば仲川が了承してくれる事も期待は出来る。
  だが、その了承では何の意味もないのだ。
  仲川が『あたし』を見ていない状況で付き合いをしても何の意味もないのだ。
  どうすればいいのか思案する内、あたしは一つの結論を導き出した。
  ”仲川の『心』を手に入れる為には、あたしの『心』を示さなければならない”という結論を。
  あたしが表面上ではなく心底仲川に惚れているという事を分からせられれば、
  きっと仲川もあたしの『心』に興味を持ってくれるようになる、そう考えたのだ。
  この策は興味を『体』から『心』に移す為の強引な手段だが、順序を踏まなければ成功はない。
  あたしの『心』に興味を持たせた後は、飽きないように幾らでも尽くせばいいだけの話。
  皮肉にもあたしが毛嫌いしている男子との複数の付き合いで、男子のツボは良く心得ている。
  一度捕まえてしまえばもうこちらのものだ。
  後はどうやってあたしの『心』を示すかが問題となった。
  一番手っ取り早いものとして、失恋した日に貰ったハンカチを見せるという考えがあった。
  仲川はあたしがあの時の女とは思っていないから、多分知った時の衝撃は大きいと思う。
  しかし、それは仲川の親切を利用して振り向かせようとしているような感じがして気が引けた。
  それに、駅で吐くようなおっさん臭い事をしているような子だと思われるのも御免だったし。
  あたしだけの力で仲川を振り向かせる為にはどうしたらいいか、必死にあたしは頭を捻った。
  そうして月日はあっという間に流れ、間もなく一年が経過しようとしていた時、
  あたしはふと見上げたカレンダー上の『バレンタイン』というイベントに目をつけた。
  その考えは単純ながらもかなり有効的な策だと思った。
  想いを告げる理由を『バレンタイン』という日が勝手に作ってくれるのだ。
  その上、自分の想いを相手に示すにはこの日程絶好の機会はそうない。
  あたしは策を固めると、善は急げと言わんばかりにすぐに行動を開始した。
  そして、高一の二月十四日、あたしは初恋の人に産まれて初めての『本命チョコ』を渡した。

 今まで渡してきた義理チョコや友チョコと違い、本命チョコとあってあたしは気合を入れた。
  料理はそこそこ出来るがチョコは作った事がなく、料理本と格闘しながら徹夜で孤軍奮闘した。
  出来は我ながら中々であり、何だかこのまま渡すのも勿体無く感じたあたしは、何を思ったのか
  そのチョコにと『To Singo Nakagawa』とホワイトソースで書いてしまった。
  一瞬作り直そうか迷った程恥ずかしかったが、ここまでしたら後には退けまいと覚悟を決め、
  学校内ではほとんど会話をした事のない仲川に一世一代の大勝負を嗾けた。
  何から何まで初めて尽くしで不安はあったが、結果は大成功だった。
  次の日から、仲川のあたしを見る視線が大きく変わったのだ。
  あたしと目が合うと今までなら申し訳なさそうに目を逸らすだけだったが、その日からは
  可愛いと思う位顔を真っ赤にして恥ずかしそうに目を逸らし始めたのだ。
  それは仲川が『あたし』に興味関心を示した事の何よりの証と言えた。
  あたしは心の中で勝利を確信した、後は一ヵ月後のホワイトデーを一日千秋の想いで待つだけ。
  その日に仲川はお返しと一緒に自分の想いを告げてくれるはずだと信じて疑わなかった。

 しかし、ホワイトデー当日に仲川は現れなかった。
  多分風邪だとは思ったが、何でこんな日に嫌なタイミングで重なるんだと偶然を呪った。
  その『偶然』が仲川とあたしを引き合わせる要因になったんだから文句は言えないのだけれど。
  結局その日は一日中機嫌が悪いまま、仲川一人にだけあげたらは周りから自分の気持ちに
  気付かれるのでそれの隠蔽工作の為にあげた義理チョコのお返しを貰い続けた。
  仲川以外からのお返しなんて欲しくもなかったけど、相手の気持ちを無下には出来ないので
  笑顔で受け取ってやった。
  勿論心中は仲川の事で一杯だった。
  焦らされるのは嫌なので家に乗り込もうとさえしたが、風邪だったら迷惑だと踏み止まった。
  永遠にも感じられた長い一夜の後にやってきた次の日、あたしは学校に一番に登校し
  教室内で仲川を待ち続けた。
  さながら恋人を駅前で待つ彼女のように、相手の事を想い焦がれながら待ち続けた。
  そんな妄想をしていると心が自然と温かくなるのを感じ改めて仲川が好きなんだと再確認した。
  ニヤニヤして頬の緩んだ顔を正しながら待つ事数時間、大きな挨拶と共に仲川はやってきた。
  妙に笑顔なところを見て、思わずあたしも笑顔になってしまう。
  明らかに何か”いい事”があった事を暗示しているその笑顔はあたしの心を温かく包み込んだ。
  だって、この時期で”いい事”といえば『バレンタイン』の事が絶対に絡んでいる。
  そして、『バレンタイン』の日に仲川にチョコを渡したのはあたしだけだとも確認している。
  授業中問わずずっと仲川の様子を監視していたんだから絶対に間違いない。
  つまり、”いい事”というのはあたし絡みで、間接的にあたしが仲川を笑顔にしている訳だ。
  その事実が嬉しくなり、ついついあたしは仲川に悪戯してしまう。
  でもそれは愛情の裏返しなんだよ?と言葉に出来ない事を思いながら、見上げてくる仲川の視線を
  愛しく想い、あたしは思わず強引に仲川を連れ出して二人きりにしてしまった。
  内心は死にそうな程ドキドキしていたが、自分から誘っておいて恥ずかしがっていては
  阿呆らしいので、何とか平生を装いながら『お返し』をせがんだ。
  自分から要求するのは傲慢と思われそうな気もしたけど、そんな事考えていられない程あたしは
  仲川からの愛に飢えていた。
  あたしが何とか誘導して仲川から『お返し』を貰うところまで嗅ぎ付けると、何を思ったのか
  仲川はあたしの方へと歩み寄り、徐に自分が食べていたパンをあたしの口に押し込んだのだ。
  戸惑うあたしをよそに仲川は当たり前のように去っていった。
  その背中が普段より大きく見え、あたしは自分の状況を理解したと同時に赤面してしまった。
  だって、仲川がしてきた事が、俗に言う『間接キス』だったから…。
  今時小学生でもそんな事で恥ずかしがらないと嘲たいのなら好きにすればいい。
  あたしは、仲川が”こんな事”を当然のようにしてきてくれた事に驚きと喜びを感じた。
  普通こんな事好きな相手にじゃなきゃ出来っこない、あたしの確信は確固たるものとなった。
  しかし、仲川とのやり取りの中で一つだけ気になる言葉があった。

 ―――「”綺麗な『義理チョコ』”、ありがとよ。ほれ」

 仲川ははっきりと、あたしから貰ったチョコの事を『義理チョコ』と言ったのだ。
  最初は何かの冗談かと思ったが、よくよく考えれば明らかにおかしい。
  普通手作りチョコを渡されてそれを義理だなんて思う男子がいるはずがない。
  おまけにあたしはあのチョコに名前の装飾まで施してやっているのだ。
  そこまでされて『義理チョコ』だと思っているのは一体どういう事なのか非常に気になった。
  だから、あたしは考え抜いた末一緒に帰るという大義名分の下、その真意を訊く事にした。
  ところが仲川と一緒に帰れる事を喜びながら下駄箱で靴を履いていた時、急に仲川が
  校庭の間を切り裂き走り出したのだ。
  何事かと思い見上げてみると、そこには一人”浮いた『女』”がいた。
  あたしたちの高校とは違う制服を着て、妙な袋を持ちながら笑顔で手を振っているその女。
  その見据える瞳の先にいるのが仲川だと分かった瞬間胸に重い不快感が波のように押し寄せた。
  かつて味わった事のない感覚に戸惑う中、仲川とその女が見ている方が恥ずかしくなるような
  夫婦漫才に近い光景を繰り広げているのを見て、あたしの中に負の感情が渦巻いた。
  だって、仲川が好きなのはあたしで、あたしが好きなのも仲川。
  相思相愛の二人の間に割って入るように仲川に汚い笑顔を媚びるあの女が猛烈に憎くなった。
  下駄箱で一人取り残されているあたしをよそに、あの女は持っていた袋の中身を取り出した。
  そしてあろう事か、何とそれを仲川に差し出そうとしているではないか。
  相手がフリーならともかく、仲川には既に『あたし』という想い人がいるのだ。
  そんな相手に物を差し出すだなんて、あたしたちの仲を壊そうとしているとしか思えない。
  だからこれからする事は”悪い事”じゃないんだと自分に言い聞かせ、あたしは疾走した。
  校庭の真ん中を自分でも信じられない程の速さで駆け抜け、仲川の背中に飛びつく。
  これで仲川の手に持っている汚らわしい物は落ちると思ったが、予想に反してその汚い物は
  仲川の手から縋るように離れようとしなかった。
  その事に腹の底から怒りが込み上げた。
  仲川も仲川だ、あたしという彼女がいながら他の女の物なんて貰わないで欲しい。
  まぁ嫌でも他の人からの好意を無下に出来ないところにあたしは惚れた訳だけどね。
  でも…やっぱり『駄目』。
  その優しさは”あたしにだけ”向けてくれないと、恋人という関係が根底から覆されちゃう。
  その僅かな隙間を縫うようにして、道端の蝿に集られるのがお似合いな雌豚が付け狙うんだよ?
  だから、あたしはあたし”たち”の為に仲川の持っているその袋を力の限り蹴飛ばしてやった。
  その時一緒に仲川の右手まで蹴ってしまう事になってしまう事に罪悪感を感じている中、
  信じられない事に仲川はその袋を瞬間的に拾った。
  思わず「触らないで!」と叫びそうになる口を何とか閉じつつ、仲川の顔を見つめる。
  その顔を見てあたしは反射的に目を逸らしてしまった。
  だって、その顔に満ちている感情は明らかな『怒り』、しかもそれはあたしに向けられている。
  あたしは一年間仲川を見続けてきたが、一度だってこんな顔をした仲川を見た事はない。
  戸惑うあたしをよそに、仲川は袋を蹴った事に関して遠回しに謝罪を要求する発言をしてきた。
  その口ぶりがやけに落ち着いていたものだったから、あたしは安心し切ってしまった。
  仲川が怒っているのは”手を蹴られた”事に関してだと勘違いしてしまった。
  だからあたしは”『仲川』に”謝った。
  あたしが自分の勘違いに気付いたのは次の瞬間………

 「ふざけるなっ!!!」

 かつてない程の大きな怒声をあたしに向かって浴びせた時だった。
  あまりの迫力に思わず後退りしてしまう。
  こんなに凄い剣幕を相手に向ける事が出来る事に驚いた。
  普段おとなしい人が怒ると恐いというが、仲川の今の状況は正にそれだ。
  信じたくない現実を突き付けて来る仲川があたしに近付き、目線を離さないまま声を荒げる。
  そしてあたしたちの仲を引き裂こうとしていた魔性の女を指差し、その女への謝罪を要求した。
  その時理解した、仲川が怒っているのは”自分が蹴られた”事なんかじゃない。
  仲川が自分本意の怒りで相手を罵る訳がないという考えに至らなかった事が不思議だった。
  仲川が怒っているのは”その女の気持ちを踏み躙られた”と感じているからなのだ。

 そうだ、仲川は優し過ぎる。
  たとえあたしたちの仲を壊そうとしている女といえどその気持ちを無駄になんか出来ないのだ。
  いや、そもそも仲川はその女の本性にすら気付いていないんだと思う、純粋だから。
  そういったあたしの好いている『理由』が、今はあたしに対して牙を向いている。
  本当ならすぐにここで仲川の言う通りにするべきだったのかもしれない。
  でも出来なかったのは、今なら認識出来るがあの女に嫉妬していたからだろう。
  あたしが一年掛けてやっと手に入れた仲川の笑顔を、平然と掻っ攫おうとしていたからだろう。
  「何であたしたちの仲を壊そうとしている女に謝らなきゃならないの!?」と、言葉にならない
  想いが口から溢れそうになる。
  口篭っているあたしへの厳しい視線をより強くしながら、仲川はもう一度謝罪を求めてきた。
  それでもあたしは頑なに口を開けなかった。
  悔しかったのだ、あの女が。
  狂おしい程妬ましいあの女に謝ったらそれは『敗北』だと思ったからあたしは謝罪しなかった。
  そんなあたしを見かねて、仲川は背を向けてきた。
  その背中があたしに『諦め』の念を告げてきて、あたしは慌てて制止する事を求めた。
  そんなあたしの叫び声も無視して、仲川はあの女の肩を押しながら去っていこうとした。
  何度も何度も言葉を繋げ続けるあたしに、仲川は視線を合わせずあの女に言い放った。

 「いいんです、”あんな奴”放っておいて行きましょう!」

 冗談にしてはキツ過ぎるその内容、いや冗談だとしたらあたしは仲川に幻滅している。
  相手を傷付けるような事を言うような人だったらあたしは始めから仲川を好きにならなかった。
  だからこそ、この言葉は仲川の『真意』であり、同時にその言葉の重みをも感じ取った。
  去っていく仲川を呆然と見据えながらあたしは足の震えを堪えられないまま立ち尽くしていた。

 二人の背中が遠く彼方へと移行し確認出来なくなりそうになる寸前であたしは我に返った。
  このままではいけない、このままでは仲川に嫌われてしまう。
  その恐怖があたしの背筋を冷たく冷やし、その悲しい想像に目から涙も零れた。
  その涙を拭おうとしたところで、右手が触れた所からぬめっとした気持ち悪い感覚を覚えた。
  涙を拭った手を確認してみると、その右手には深い爪痕と底から流れる血で赤く染まっていた。
  どうやらあたしは呆然と悲嘆に明け暮れながらも、尚あの女に嫉妬していたようだ。
  自分の嫉妬深さに驚きながら、あたしは急いで二人の後を追い掛けた。
  このままではなし崩し的に関係が壊れてしまう気がしたから。
  そして何より、あの女の思う壺のような気がしたから。

 二人との距離はかなり開いていたようで、走っても中々追いつかず、息を切らしながらようやく
  見慣れない土手に辿り着いところで二人に追いついた。
  そこに仲川とあの女はいた、あたかも恋人同士のように談笑しながら楽しい空気を作って。
  さっきから痛んでいた右手を再び握り締めようとしたところで慌てて踏み止まる。
  だが、眉間に皺が寄るのを感じるのはどうしようもなかった。
  彼女であるあたしが苦しんでいる間に、あの女は仲川の彼女気分を一人満喫しているのだ。
  もし仲川がその場にいなかったら、あたしは周りの目も気にせず罵声を浴びせているだろう。
  しかし、仲川のあの態度からして今あの女に突っ掛かったらまた怒られてしまう。
  だからあたしは必死に堪えた。
  あの女が、”あたしだけ”があげていいはずの『チョコ』を図々しくも仲川に渡しても、
  そのチョコを仲川が嫌々食べていてもしっかり我慢した。
  だって、仲川は優しいから今はあの女の妄言に惑わされてを労わりたいだけなんだ。
  自分の心に言い聞かせながら、あたしはあの女が満足気に去っていくまでちゃんと我慢した。
  だから、これからは”あたしたちの時間”だ。
  まずはあの女についてしっかり言い聞かせてあげないといけない。
  いつ仲川の優しさを突く卑しい雌豚が現れるとも限らない、だからしっかり忠告してあげないと。
  それに、まだ『義理チョコ』という発言に関しては疑問があるしね…。

          ―――――――――――――――――――――――――         

 仄かに広がる甘い風味をたっぷり堪能しながら爽やかな風を感じて俺はその場を去ろうとした。
  すると後ろから突如誰かの声がした。
「仲川ァ〜!」
  振り向いてみると、遠くの方から佐藤早苗がこちらに向かって走って来ているではないか。
  一瞬驚きながらも自分の事だけを考えて佐藤早苗を罵ってしまった事に改めて罪悪感を感じた。
  視線を逸らしたくなるのを堪えながら佐藤早苗がこちらへと向かう様子を見守る。
  必死の形相で走ってくる佐藤早苗の表情は固まっていた。
  いつも皆に元気を振り撒いていた笑顔は欠片も感じ取れず、その表情をさせているのが自分だと
  理解すればする程、俺は”しなければならない”事で頭が一杯になる。
  息を切らせながら佐藤早苗が俺と胸一個分まで近付いてくる。
  この『距離』では”しなければならない”事が出来ないので一歩下がる。
  そして俺はすぐさま頭を下げて佐藤早苗に叫び掛ける。
「「さっきはごめんっ!!!」」
  ん…?
  何だか今、別の誰かの声が重なったような気がした…と思ったのも束の間、『ゴツン』という
  聞くからにいたそうな擬音と共に、俺は頭に猛烈な痛みを感じた。
「痛ゥ………ッ」
  頭を両手で抱えながら涙目で前方に目をやると、おかしな事に佐藤早苗も同じ動作をしていた。
  まるで写し鏡のように俺とそっくりそのままの動作をする佐藤早苗を見て、ようやく重なった声
  の主が目の前にいる佐藤早苗自身のものである事を悟った。
  上辺の状況しか呑み込めていない俺をよそに、佐藤早苗は頭を抱えながらもう一度頭を下げた。
  頭を抱えながらだから、物凄く不恰好に見えた。
「本当にさっきはごめん! 勿論これはあの人の物を蹴っちゃった事に関してのあれだから…。
  悪ふざけにしちゃ度が過ぎてた、本当にごめん。
  仲川にも謝るけど、あたしが謝っている事をさっきの人にも伝えて欲しいの」
  ようやく痛みから解放されたらしく手を頭から離した佐藤早苗は、低い姿勢を保持したまま
  俺に涙目で懇願してきた。
  女の子にそんな仕草を取られたんじゃ男が勝てる見込みはゼロである。
  それに俺の方にもかなり負い目があるから、俺ももう一度素直に謝罪した。
「俺の方こそ悪かった。あんな言い方なかったよな…。もう気にしてないからいいよ」
  そう言ってやると、涙目のまま佐藤早苗は花のような笑顔で微笑んできた。
  その笑顔を一人の奴にだけ向けてやれよと未だに相手を少しだけ皮肉る事の出来る自分の
  根性に心底呆れながら、俺は鞄を持ってもう一度この場を去ろうとする。
「そんじゃ、行こうぜ?」
「あっ、ちょっと待って」
  背を向けた俺の腕を佐藤早苗が控え目に掴んできた。
  そういえば今日下駄箱で何か話があるといって呼び止められた事を思い出した。
  その事についてなんだろうなと思いながら、俺は振り返る。
「一つ訊きたいんだけど…”あの女の人”って誰なの?」
  ”あの女”…佐藤早苗と俺の間で代名詞で十分理解出来る存在といえば佑子さんしかいない。
  まぁ佑子さんとの間で生じたトラブルなんだから誰か位は知りたいはずだ。
  しかし妙な気がした、何かおかしい。
  だって今佐藤早苗が訊きたがっている事と下駄箱で訊きたがっていた事は一致しないのだ。
  何故なら、下駄箱で俺に訊いてきた時点では佐藤早苗は佑子さんの事を知らない。
  だから訊いてくる訳がない、じゃあ下駄箱で訊きたがっていた事って一体何なんだ…?
  数秒考え込んですぐに思考をストップさせた。
  そんな事考えても埒が明かないと判断した、それより今は佐藤早苗に素直に真実を言うべきだ。
  それが、俺が佐藤早苗を一時的に傷付けてしまった事へのせめてもの贖罪。
  だから、俺は佐藤早苗に言い放った。
「俺の…”好きな”人だ」
「え…?」
  腑抜けた声を漏らす佐藤早苗をよそに、風は既にに止んでいた。

5

 沈黙……ただ沈黙が広がっていく。
  小鳥の囀りも、風が草木を揺らす音も、人が砂利を踏み締める音も、何も聞こえてこない。
  重苦しいほどの静寂の中に、俺と佐藤早苗の二人だけが取り残されたように佇んでいる。
  さっきまで佑子さんと至福の時間を共有していた場所とは到底思えないほど、
  今のこの空間には言い表し様のない圧迫感が存在している。
  おかしい……何かがおかしい。
  正直俺の予想とは百八十度真逆側に滞在していると言っても過言ではない今の状況に、
  俺は生唾を飲み込んでしまった。
  俺の予想図としては、俺の告白を受けて佐藤早苗が更に俺と佑子さんの関係に興味を持ち、
  それについて色々訊かれ、
  俺が表面上は嫌々を装いながら一つ一つ答えるという図式が存在していた。
  そうでなくても、少なくとも今のように黙り込むなんて事は考えもしなかった光景だ。
  もしかして他人の惚気話なんか全く興味なかったのかなと心配になってくる。
  人は他人の恋愛話には特別に関心を抱くものだと思っていたが、佐藤早苗はモテる女だ。
  自分の日常そのものが一つの恋愛話と言っても過言じゃない状況に慣れて、
  その手の話に飽きたとか言ってきても十分納得出来る、そんな女だ。
  どう切り返そうか何パターンか頭の中で構想を練っていると、突然妙な笑い声が聞こえてきた。
「あっ、はっ、はっ、はっ……っ」
  その声の主が佐藤早苗だと気付いたのは、声のした方向を向いた先に”ぎこちなく”笑っている
佐藤早苗を確認したからだ。
  妙だと思ったのは、その笑い声が本当に”ぎこちなかった”からだ。
  普通に笑うのではなく、お嬢様のように気品を漂せながら慎ましく笑うのでもなく、
  遠慮なしに大声を上げて下品に笑うのでもなく、
  露骨に『作為感』を感じさせるように笑っているのだ。
  無理をしているなというのが痛々しいほど分かる。
  だからこそ、その理由に皆目見当がつかないことが非常に歯痒い。
  俺の言葉を受けて佐藤早苗が笑顔を作っているのならば、彼女に無理をさせているのは俺だ。
  故意的でないにしろ、俺の言葉に何か佐藤早苗を不快にさせるようなニュアンスが
あったのかもしれない。
  だが、どれだけ模索しても「好きな人がいる」という言葉のどこに、
  聞かされた人間の気持ちを害する要素があるのか全く分からない。
  もし佐藤早苗が本当に他人の恋愛に興味のない人間だったとしても、
  それならはっきり興味ないと言ってくれるはずだ。
  さすがに、興味ないのに俺を気遣いそれを素直に言い出せないだなんて
  他人行儀な態度を取ってくるほど、俺と佐藤早苗の関係は疎遠なものではないと信じたい。
  佐藤早苗にとって俺は、義理とはいえバレンタインにチョコをあげた内の一人なのだからな。
  危うく悩み過ぎて本当に首を捻りかけた時、佐藤早苗が聞いているほうが恥ずかしくなるような
下手な作り笑いを止めた。
  一瞬再び浸透しかけた静寂を阻止せんとばかりに、佐藤早苗はすぐに口を開いた。
「面白いね……。”詳しく”聞かせてくれない?」
  その言葉を聞いて、安心と困惑、対極に位置する二つの感情が格闘を始めてしまった。
  人の心をかき回すのが上手いなと佐藤早苗の話術を賞賛しながら、俺は慎重に目線を流す。
  佐藤早苗は「面白い」と言いながら、能面のように表情が固まっていた。
  それを見て、微かに見え隠れしていた安心が瞬間的に打ちのめされてしまう。
  佐藤早苗の発言は当初俺が考えていた、”佐藤早苗が俺と佑子さんの関係について興味を持つ”
というシナリオ通りの展開の中に組み込まれている一コマである。
  だから俺は安心感を感じたが、その台詞もまだ自身の感情を隠しているように聞こえた。
  沈んだような声で言われたら、気持ちと言葉が一致しているだなんて誰も信じらる訳がない。
  そしてさっき見た感情が感じられない無表情が確信させる、まだ佐藤早苗が無理していると。
  理由が分からないのに罪悪感を感じるというかなり気持ち悪い感情下に今の俺はいる。
  どうせなら何も包み隠さず正直に言って欲しい。
  心の蟠りを取る為、そして佐藤早苗との友達としての絆の証明の為にも。
「分かった……」
  だからとりあえず、俺も包み隠さず全てを言うことにした。

 

「駄目だよ……仲川、あんた頭おかしくなっちゃったんじゃないの?
  あたしが凄くいい精神科医を紹介してあげるから一度診てもらおうよ。
  うん、それがいい。それじゃ早く」
「勝手に話を進めるな。後、俺は異常者なんかじゃない。成績以外なら常識を持ち合わせている、
その辺に五万と転がっている平凡な一般人と全く同じだ」
  何でお前が凄腕の精神科医なんか知っているんだというツッコミをあえて引っ込め、
俺は自分で言っておきながら少し悲しくなるような事実で、
全く量が減っていないコーヒーの入ったカップの中身を一心に凝視している佐藤早苗を説得する。
  カップを持った手は何故か小刻みに震えていて、コーヒーの表面がその動きに連動して揺れる。
  下を向いている為表情は読み取れないが、コーヒーを見つめながら震えている姿は、
バラエティ番組でゲームに負け一人だけ料理を食べさせてもらえず
指を咥えているアイドルのように見えた。
  他の出演者が笑顔で料理を頬張っている時にそれを恨めしそうに見つめる、そんな姿に。
  容姿も相まって、不謹慎ながらも素直に可愛いなと思ってしまう。
  別に未練がある訳ではないが、かつて自分が恋した少女としては充分過ぎるほど納得できる。
  男にモテる女が他の女たちの醜い嫉妬から仲間外れにされるなんて話は良く目にしたりするが、
寧ろ佐藤早苗は女子から憧れの対象にされているし、女子全員が友達と言っても過言ではない。
  容姿端麗で人望は厚い、おまけに定期テストでの順位は一桁以外ありえない――完璧過ぎる。
  ”神は二物を与えず”とか言うがどんなことにも必ず例外はあるもんだなと勝手に納得しつつ、
完璧さ故に生じる疑問を俺は頭の中に抱えていた。
「だって、会ってまだ二日なんでしょ? 相手は……佑子さんだっけ? 彼女はあんたのこと
何も知らないのに付き合ってくれる訳がないじゃない。やめときなよ、叶わない恋なんて意味ないよ」
  ”俺が佑子さんを好きだということに意味があるんだよ”、意味が傲慢にも謙虚にも転がれそうな
歯の浮いたそんな台詞を言いかけて俺は慌てて下唇を噛み締める。
  またまた明らかに論点がずれたことを言い出す佐藤早苗を説得するのが先決だ。

 『説得』というのが何かというと、それは数十分前に遡る。
  土手で佐藤早苗の奇妙な笑いに若干不信感を覚えつつ、罪滅ぼしの意味も込めて俺は彼女に
全てを話す為、適当に近くの喫茶店に寄った。
  勿論代金は俺持ち、男として当然だ。
  彼女じゃないにしろ初めて女の子を店に誘い、飯――コーヒーだけどな――を奢るなんて
夢体験を前にして、明日とことんクラスメートに自慢してやろうなんて考えつつ席に着くと、
佐藤早苗は速攻で本題へと話を切り替えてきた。
  案外せっかちなのと、そんなに早く聞きたいと思うほど佐藤早苗は恋愛沙汰に
興味津々だということに驚きながら、どんなに特別に可愛くても中身はやはり普通の女の子だなと
俺は安心した。
  少なくともその時の俺の頭の中には、土手での会話中に感じた異様な空気は存在してなかった。
  というより記憶の隅の隅、とことん隅の方に追いやられていた。
  だから俺は考えもなしに、大したことのない豆知識をいかにも自分が第一発見者なんだと
言わんばかりに力説するうんちく野郎のように、恥ずかし気もなく説明してやった。
  佑子さんとの出会いや佑子さんの魅力について、テストの解答でも絶対書かないような
小難しい言い回しを多用して、噂話好きのおばさんのように早口で捲くし立てていった。
  そういう類の人間が喋る理由が喋ることが好きだからという単純なものであることと同様、
俺もただ佑子さんのことについて喋っているという事実が嬉しかったからか、
つい会話とはとても言い難いような一人喋り場を展開してしまった。
  小学校の頃とかに、自分に好きな子ができたことを「絶対に言うなよ?」と前置きを置いた上で
やたら自慢したがるような奴がいて、当時の俺は「バラされたくないなら話さなきゃいいだろ」
と結構真っ当なことを常々思っていたのだが、今ならそういう奴らの気持ちが物凄く分かる。
  要は、好きな子について話すことは普通に楽しいのだ。
  話している間は自分の頭の物語における主人公は自分で、ヒロインは好きな子にできるからな。
  好きな子と少しでも近づけたというような妄想に入り浸ることができるのだ。

 勿論そんなことは計算せずに、俺は佐藤早苗に自分の惚気話をひたすら刷り込んでいった。
  俺が正しく”自分だけの世界”から店員が、居場所を失って何とかどっかの集団に入ろうと
努力しているか弱い女の子のような寂し気な視線を向けて注文を取ってきて、
休憩がてら長旅から帰還した後佐藤早苗の言葉を待っていると、第一声は予想していないものだった。

 ――「『駄目』」

 その後から、今度は佐藤早苗の一方的な話が始まった。
  俺は最初、誰が見ても不機嫌だと明白な佐藤早苗の笑顔を保とうとしている痛々しい表情を見て
”またしても”利己的な欲望の捌け口に彼女を利用したことで彼女を傷付けてしまったと思った。

 ――”佑子さんのことを話す”のは佐藤早苗への『贖罪』の意も勿論あったが、
俺が佑子さんと親しい仲にあると感じる為の手段でもあったのだ。
  それは、チョコを蹴飛ばしたという行為を利用して佐藤早苗を叱ることで
”佑子さんの為に怒る資格のある人間”だと自分のことを過大評価しようとした放課後と
全く同じ行為だ。
  自惚れなんかじゃなく、佑子さんの言動や行動からいって俺は佑子さんと親しくなることを
許可されたようなものだから、そのことに浮かれてちょっと箍が緩んでいたんだろう。
  そう、よくよく考えれば、俺が佑子さんに認められようがそれは佐藤早苗には関係ないことだ。
  たとえ佑子さんから距離を縮めることを許されたという事実が佑子さんの為に
感情的になってもいいという理由になっても、”佑子さんの為に感情的になる”為に
佐藤早苗を利用していいという理由には決してなりえない。
  そんなことを失念するほど、どうやら俺は浮かれていたようだ。
  まずはそのことについて土下座する覚悟で謝らなければならないな……――

 こんな風に俺は考えた。
  しかし、どうも俺の予想は”またしても”外れていたようだ。
  俺の考えから推測すれば、佐藤早苗は俺が自分を利用して自己満足に浸ろうとしてたということに
気付いていなければならないはずなのだ。
  ”それ故に”怒り、その矛先を俺に向けてくるというのであれば単純で分かりやすい。

 だが確信して言える――”佐藤早苗は『そのこと』に気付いていない”。

 佐藤早苗の発言は表現が多種多様で且つ、一見して論理的に話を進めているように見える。
  しかし、注意深く聞くと、その発言の全てに”一つの『共通点』”がある。

 ――『仲川と”あの子”が付き合うのは絶対に”間違っている”』

 それはどの発言に於いても、佐藤早苗が”俺と佑子さんが付き合うこと”を止めようとしている
ニュアンスが含まれているということだ。
  しかも、”俺が佑子さんと付き合うことはない確固たる『自信』”を前提に諭してくるのだ。
  それは俺に腹を立ててやった反抗とでも取ればそれで解決してしまうのだが、
どうも佐藤早苗が俺に対して向けてくる表情に悪意は欠片も感じられず、
むしろ俺のことを本気で心配するように眉を歪ませているのだ。
  佐藤早苗が俺を心配するような態度を取るということは、少なくとも俺に嫌悪感を抱いている
というのは絶対にありえない。
  嫌いな相手を気遣うほど、佐藤早苗が馬鹿だとは思えない。
  だとしたら、佐藤早苗が自身が俺に利用されただなんて気付いていることはない。
  自分が利用されていただなんて知って「はいそういですか」で済ませる奴、いる訳ないからだ。
  そして、その事実を知らないのだとしたら――どうして佐藤早苗が俺が佑子さんに告白することを
頑なに禁止しようとしているのかが全く分からない。

 確かに会って間もないような相手にいきなり告白だなんて無謀なことではあるが、
俺と佑子さんの間には確かな絆がある、そう信じたい。
  それに、それだけの理由で俺の希望を潰そうとしているというのも何だか納得がいかない。
  大体、”俺と佑子さんが付き合うことはない”という絶対の自信は
一体どこから湧いて出てきたものなのかも、聞いては口篭るだけで教えてはくれない。
  最後に、俺は佑子さんが好きだとは言ったが、別に告白するだんて一言も発していない。
  それなのに、佐藤早苗はどうやら自分の頭の中で勝手に話を脚色して進めているようだ。
  俺が佑子さんを好きなことを伝えるだけで「駄目」の一言で全てを終わらせようとしてくる。
  全く話が噛み合わない。
  正直言って、佐藤早苗の話には腑に落ちない点が多過ぎるのだ。

「大体、仲川の話に腑に落ちない点があるんだけど」
  依然として態度を改めない佐藤早苗が、唐突に質問してきた。
  それはこっちの台詞だと言いたくなったが、とりあえず何故佐藤早苗が腑に落ちないような話を
してくるのか、その一因が分かるかもしれないという一縷の願いを胸に秘めながら返事をする。
「何が、腑に落ちないんだよ?」
「仲川はさ、昨日あの子が土手で泣いているの見て、それで持ってたクッキーを渡したって
言ったよね? でも、あんたは昨日学校休んでたんじゃん。
泣いているとはいえ、怪我してる訳でもない人にいきなり近づくのも変だし、
クッキーって何の為の物よ? ねぇ、仲川聞いてるの?」
  佐藤早苗が俺の深層心理の奥の奥を覗き込もうとするように目線を合わせてくる。
  だが俺は、真正面に学校一の美少女の顔があるという嬉し恥ずかなシチュエーションを
前にしているのに、喜ぶ余裕をなくしていた。
  今、俺は『大馬鹿者』の烙印を自らに押した。
  それくらいしないと体の隅々にまで染み渡った馬鹿さを浄化できないような気がしたから。
  ――俺は、佐藤早苗が口にした疑問視していることを一つも説明していなかった。
  佐藤早苗への『贖罪』だとか格好つけておきながら、佑子さんに関するの惚気話に
花を咲かせて伝えるべき”最も重要なこと”を言っていなかった。
  俺がどうして佑子さんを好きになったのか、その理由をぼかしてしまっていた。
  それが分からない以上、佐藤早苗は俺が佑子さんを好きになった理由を、『一目惚れ』だとか、
『同情』といったものに脳内補完して話を進めていたのだろう。
  それならば確かに、そんな弱い理由では付き合うことに納得がいかないというのも頷ける。
  佐藤早苗の一連のおかしな発言の理由を理解し心の底からすっきりとしたと同時に、
俺は今日で三度目となる自己嫌悪に陥る。
  何故、俺が佐藤早苗に”伝えるべきこと”を忘れてしまっていたのか――その答えは簡単だ。
  俺は佑子さんを好きになった最大の理由である『同族視』の過程にある、佐藤早苗にフラれたという
苦い事実を思い出したくなかったから、無意識の内に俺はその記憶を封印していたんだ。
  佑子さんとの”これから”に集中することで、佐藤早苗によって付けられた傷の要因となった、
『過去』から目を背けていたんだ。
  確かに俺の佑子さんへの想いは、嘘偽りの一切ない正真正銘本物だ。
  だが、その想いすらも『利用』して自分の傷をなかったことにしようとするだなんて、
どうやらこの二日で俺は人間として腐るところまで腐ってしまったようだ。
  失恋で人は変わるだなんて良く聞くが、俺は間違いなくマイナス方面にそれが働いているな。
  このままでは俺は人としての最低限の尊厳すら失いかねない。
  だが、佐藤早苗が気付かせてくれたんだ。
  俺の中で徐々に肥大化し、且つ自分でも気付けないほどにまで巧妙に隠れていた『愚かさ』を。
  俺が他人を『利用』して自分だけ楽になろうとしている、典型的なクズだということを。
  しかもその他人というのは、元・自分が好きだった人と、現・自分が好きだった人のことだ。
  そんな特別といっていい人たちを物のように扱おうとした俺は、
『クズ』を三乗しても足りないくらいの最低野郎だ。
  このままどん底まで堕ちていくのか俺は……、そんなの絶対に拒否させてもらう。
  さっきまでは自覚のないタチの悪い『クズ』だったが、今俺ははっきりと深い闇の落とし穴から
吊るされた一本の『綱』の在り処を知っている。
  にも関わらず、その『綱』を掴む度胸すらないんじゃ、最早俺は人を愛す資格なんてない。

 俺の佑子さんへの想いだけは、死んでも嘘なんかにはしたくない。
  何より、こんな俺の為にわざわざ『綱』を垂らしてくれた佐藤早苗に対して申し訳が立たない。
  俺にだってプライドはある。
  このまま佑子さんと佐藤早苗、二人の気持ちを利用するだなんて暗闇の深層に
心を堕としていくような真似をして、自尊心を傷付けるだなんて馬鹿なことはしたくない、
してはならない。
  結局俺は相手に自覚がないにしろ、佐藤早苗を傷付けた上彼女に『道』を示してもらったのだ。
  何て図々しいんだろうという自己嫌悪と、佐藤早苗への感謝の意が混ざり合っていく。
  しかし、今すべきことは、後者の気持ちを素直に伝えることだ。
  そうしなければ、俺は『クズ』のままだ。
「悪かった。言い忘れてたな」
  俺は意を決すと、今まで背けていた目線を佐藤早苗一直線へと向ける。
「まぁなんだ、結果から言えばお前がくれた『義理チョコ』が俺と佑子さんを――」
「”義理”チョコッ!?」
  突如、佐藤早苗のはちきれんばかりの声が、穏やかな店の空気を切り裂いた。
  その大声を後押しするように、佐藤早苗が立ち上がるやいなや叩いたテーブルから鈍い音が
店内に響き渡った。
  重苦しい沈黙が一瞬だけ店内を支配した後、俺は自身の状況に思わず声を漏らしてしまった。
「マジかよ!」
  周りの客の「空気読めよ」と言わんばかりの視線が痛いが、俺がこう言うのも納得して欲しい。
  何せ佐藤早苗がテーブルを叩いたせいで、まだ一口も手をつけていない彼女のコーヒーのカップ
が派手にひっくり返って、その中身のほとんどが俺の制服に掛かってしまったのだからな。
「あっ! 仲川ごめん……」
「気にすんな、ちょっと店員さんに雑巾でも貸してもらうから」
  そう言いながら、コーヒーが戦争で優勢な軍が劣勢な軍の領地に攻め込んでいる様子を
地図上で眺めたように確実に制服に染み渡る光景を見て、俺は慌てて席を立った。
  当然制服から雫が滴り落ちるのでそれを止めようとハンカチがないか探したが、
ポケットに手を突っ込んでも中には何も入っていなかった。
  俺は余程のことがない限りハンカチを使わないから入れたままになってると思っていたが、
残念ながらその推測は大外れだった。
  この時ばかりは、自分の怠慢な管理状況を呪った。
  安っぽさそうに派手に光る店の床を汚している雫の点々を尻目に、俺は適当に店員を捕まえる。
  事実を伝えると、店員は心底申し訳なさそうに頭を下げながら謝罪し、急ぎ足で俺を誘導した。
  明らかに俺の過失なのに、客という立場を前にするとペコペコしてなきゃならないなんて、
随分ストレスの溜まるアルバイトに就いたなと店員を哀れみながら俺は店員の後に続く。
  案内されたカウンターで手渡された真っ白なタオルを、制服の染みの部分に押さえつける。
  たちまち純白のタオルが茶色に汚されていくのを眺めながら、
クリーニングをどうしようかなと俺は、どうでもよさそうで結構重要なことを思った。
  母親に見つかれば大目玉だし、ここはまた転んでズボンを破ってしまった時に愚痴を溢しながら
渋々それを縫ってくれた姉にでも頼むとするかな。
  それよりも気になるのは、さっきの佐藤早苗の驚き様だ。
  俺の説明を中断して思わずテーブルを叩いてしまうほど、
佐藤早苗を動揺させてしまった要因は一体何なんだ……?
  言ったことを振り返ってみても、何かおかしな点があったとも思えない。
  となると、俺は何か重大な”何か”を見落としているのか……。
「馬鹿馬鹿しい」
  俺は考えることを止め、すっかり茶色に染まったタオルを店員に返した。
  黒の学ランだということが幸いして、染みは目だっていなかった。
  後は、半径十メートル以内なら多分感知できるであろうコーヒーの匂いだけが懸案事項だなと、
不幸中の幸いに心から感謝しながら俺は佐藤早苗を待たせているテーブルへと向かった。
  歩きながら、多分罪悪感に表情を曇らせているだろう佐藤早苗にどういった対応を
してやろうかということを面白半分に考えながら、テーブルを見据えた。
  そして驚愕した。
「はぁ……はぁ……」
  俺の目線の先にいたのは、肩を落としている人物でなければ、俺が来たことを察知すると
すぐにまた謝ってくるような常識的な人物でもなかった。
  そこにいたのは、目を大きく見開かせ、しきりに何かブツブツ呟きながら
息遣いを荒々しくしている、『獣』という形容がぴったりな空気を纏っている佐藤早苗だった。

 一瞬その非現実さに言い様のない恐怖を覚えた。
  いつも笑顔を絶やさない少女が、数分の後にホラー映画に出てきそうな女幽霊のような
雰囲気を醸し出しているんだから、当然のことだ。
  しかし俺は佐藤早苗が凝視している先にある物を見て、瞬間的に俊敏な動きで彼女に近づく。
「お前……ッ! 何してるんだよ!?」
  俺の覇気溢れる声に圧倒されたからかは分からないが、表情に恐怖の色を滲ませながら俺に
子犬のような弱々しい視線を向けてくる佐藤早苗を無視して、俺は彼女の手にあるものを取り上げる。
  それは俺の『携帯電話』と、そして――佑子さんの気持ちを凝縮しているであろう、
彼女の携帯電話のメールアドレスの書かれた紙だ。
  佐藤早苗がこの二つで何をやっていたのか思考する間も惜しく、俺はすぐに携帯の中を覗く。
  『愛』と妙な自体で書かれた自分でもセンスを疑う待ち受け画像が表示されるはずの画面上にて
俺を待っていたのは、何故か『メールアドレス入力欄』だった。
  そこに記されているのは見慣れないアドレスの途中までだったが、佐藤早苗が持っていた
”もう一つの物”のことを考えれば、そのアドレスの主が一体誰のものなのか容易に想像ついた。
  念の為佐藤早苗から奪った紙に記されているものと比較して、確信を得る。
  佐藤早苗が、俺が近づいているのにも気付かず一心不乱に打ち込んでいた文字列は、
”佑子さんのメールアドレス”だということを。
  しかし、それだけでは当然その真意が分からないので、俺は一つだけ画面を前に戻した。

 ――そして表示されたのは、『着信拒否設定』の六文字だった。

 何してやがるんだ、と短絡的に佐藤早苗に言おうとした俺の怒りを無理矢理制止したのは、
俺の携帯電話の着信音だった。
  マナーモードは解除されていた為、マックスの音量でうるさ過ぎる着メロが店内に響く。
  羞恥心混じりのビクつきで俺は慌ててボタンを押してその音を止める。
  寸秒耳を煩わせた大音量がなくなり、またしても店内に急な沈黙が広がる。
  その冷たい空気の中で、俺は着信音を鳴らした根源のメールの本文を見て、凍りついた。

 『ごめんなさい仲川さん私が悪かったですですから許して下さい本当にごめんなさいこれからは
なるべく話しかけませんから許して下さいどうしたら許してくれますか私何でもしますからどうか
会わないというのだけはやめて下さいお願いしますごめんなさいどうしてもお話したいので私
土手で待ってますから来て下さいお願いします二度と馴れ馴れしくなんかしませんからごめんなさい』

6

「……ッ!」
  多分店内の客の半数が俺に奇異の視線を向けているんだろうが、
そんなこと気に掛けていられるほどの余裕は欠片もなかった。
  つい数秒前に送られてきた、改行も句読点もないのに律儀に漢字変換だけはしっかりされてある
奇怪なメールの文面が頭にこべりついて離れてくれない。
正直最初は何かの悪戯メールだと思ったし、その方が良かった。
しかしそのメールには俺の名前が書いてあるから、知らない誰かが間違えてしまった
というケースはありえない。
知り合いにしたって俺の友達にこんなに手の込んだ気色悪いドッキリを仕掛けてくる奴はいない。
  それにそんなに考えなくても、決定的なことがある。簡単なことだ、送信者の欄を見ればいい。
しかし、俺はそこを見るのを躊躇っている。だって、俺はその人物に心当たりがあるからだ。
全くの赤の他人ではなく且つ友達と言えるほど過ごした期間は長くない相手――、一人しかいない。
  店内の静寂と同化しそうなほどの微妙な動きで、俺は視線を送信者の欄へと向ける。
そこには、意味を理解し難い半角英数字の羅列が記されていた。
だが、それを見て俺はデジャビュに似たものを覚えた。当然だ。
俺はこのメールアドレスを見たことがあるんだからな。
  あの土手でこのメールアドレスを教えてもらえて喜んだ分だけ、
その体験が容赦なく俺に現実の重みを伝えてくる。
  俺は僅かに”そうでない”ことを祈りながら、携帯電話に映し出されているメールアドレスと、
別の手に持っているメモに記されているそれとを見比べる。そして俺の願いは儚く崩れ去る。
  二つのアドレスは、一方は冷たく機械的なのに対し、
もう片方は見ているだけで微笑ましくなってくるような愛らしい丸びを帯びた文字である
という違いを除いて、一文字も違うことはなかった。
  愛しき佑子さんのアドレスと、悪戯一歩手前の迷惑メールもどきを
俺の携帯に送りつけてきた主のアドレスが同じということが示す事実は一つ――
このメールの送信者が佑子さんだということだ。
  こうも回りくどい道筋でこの結論を導き出したのは、
俺が無意識の内に現実を受け入れることを拒んでいたからなんだろう。
素直にすぐに送信者の欄を見ればいいものを。自分でも呆れる。
  何で佑子さんが俺のメールアドレスを知っているのだとか、俺への呼称が”くん”から”さん”
になっていたりと不可解な点はあるが、
それでも佑子さんが俺にメールを送ってきたという事実が揺らぐことはない。
  意味もなく暴れたい衝動を何とか抑え俺はもう一度佑子さんからのメールに視線を向ける。
  理由はわからないが切羽詰った状況だということは一目瞭然。
「ごめんなさい」を四回も書いている辺りから推測するに、情緒不安定でもあるようだ。
俺は謝られるようなことはしていないし。
  そのことについては直接佑子さんに訊くとして、
今注目すべきは「私土手で待ってますから」という一言だ。
佑子さんの置かれている具体的な状態は俺には計り知れないが、
とりあえずあの土手にいるということだけは確定事項なようだ。
助けてくれといった内容は書かれていないから、
危機的状況だという訳ではないことだけが安心の拠り所だ。
  携帯を閉じメモと一緒に乱暴に鞄の中に押し込めるとそれを肩に掛ける。よし出発準備完了。
  とりあえずは佑子さんとコンタクトを取れないと話が見えてこない。
まさか佑子さんがこの俺に『実はドッキリでした』と言いたいが為に
こんなメールを送りつけてきたとは到底思えないし、思いたくもない。
仮に本当にこの二日間の佑子さんとの体験が全て仕組まれていたものだとしたら、
俺はその場で笑った後、家に戻って自室で枕を三つほど涙で濡らしてやる。
そして一生女性不信症者として余生を過ごしてやるさ。
  たとえ佑子さんが相手からの想いを面白がるような人だったとしてもだ、
それでも許せてしまうほど俺は彼女のことを好きになっちまってるようだからな。
  行く末わからぬ決意を抱きつつ、俺は店を出ようとする――ところで思い出した。
「仲川……どこ行く気なの? ねぇ?」
  朝は悪戯っぽく笑い、昼は俺に怒鳴られて地に足が着いていないかの如く不安定に視線を泳がせて、
一度俺が謝るとまた笑顔が復活して、そうかと思ったら今度は露骨なまでな作り笑いを浮かべて、
意味不明なことを真剣染みて言った後俺にコーヒーぶっかけるとまた恐いほど悲しそうに瞳を震わせ、
挙句の果てには近寄り難い雰囲気を醸し出しながら目を見開かせつつ俺の携帯を弄る――
そんな風に表情がコロコロ変わる、佐藤早苗が目の前にいることを。

「まだ話は終わってないのよ? ねぇ?」
  スカートの裾を掴みながら俺に視線を向けてくる佐藤早苗の今の表情は、
言動こそ強気だが非常に不安定なものだ。
自身に滞在する不安や恐怖を強気で隠しているような感じだ。
  今日で随分とこいつの表情を見たなと思いつつ、俺は佐藤早苗から視線を逸らす。
「佑子さんとこ」
  短く簡潔な言葉を投げやりにぶつけてやる。
これだけ言えば伝わるだろという無言のメッセージを乗せながら。
  素っ気無い態度で接してしまうのは、佑子さんからのメールを見て早く行かねばと
焦りが生じているというのもあるが、本音を言えば佐藤早苗に対し怒りを感じているから
というのが最大の理由だ。
自己正当化という面を含めても俺が激しい憤りに駆られるのは仕方のないことだと思う。
別に義理チョコのことに関してはもう何も感じていない……と言えば嘘になるが、
少なくとも憎しみの業火が燃えているとかいったことはない。
佐藤早苗にチョコについて確認をしなかった俺にも非があったと今なら思える。
ちなみにこれは佑子さんの件については全く当てはまらない。
佑子さんが好きだった男は愛しの彼女にキスした上に、
『キスくらいで勘違いするな』とか、どこぞのインチキ占い師も裸足で逃げ出すような妄言を
吐いたらしいからな。是非ともその男に一度会ってみたい。
勿論有無を言わさずそいつの顔面の形を趣味の悪いものになるまで叩っ壊す為にな。
  それはまた別の機会にするとして、今の問題要素は寒くもない喫茶店内で何故か震えている
目の前にいる佐藤早苗だ。
こいつは俺が土手で佑子さんへの想いを教えてやってから
色々と挙動が露骨に不審なものになっている。
作り笑いを取り繕ったと思ったら、次は執拗に佑子さんとの付き合いを止めさせようとして、
挙句の果てには俺の携帯を勝手に弄りだしやがった。
しかも佑子さんから貰ったメールアドレスを着信拒否設定にしようとしやがるなんて……!
  ――つまり、それが俺がさっきから佐藤早苗と目を合わせようとしない理由だ。
  多分今の俺は結構酷い顔をしていると思う。
逸る気持ちと心底に沸々と煮滾っている怒りを抑え込む為に、
かなり表情が歪んでいるのではないかと。そんな醜い顔を見られたくないし、
それに何より――もし佐藤早苗と目を合わせたら俺はまた最低な行為をしてしまうかもしれない。
それが、一番恐かった。
佐藤早苗を佑子さんとの距離を錯覚させる為の目晦ましに利用してしまったことを
散々悔いて謝ったばかりなのに、また彼女を傷付けてしまうのではないかと
自分自身に疑心暗鬼になってしまっているのだ。
今の俺はそれを自覚できるほど情緒不安定だ。何をするかわからない。
「俺が金持つから、今日はこれで」
  明日友達に自慢しようと意気込んでいたはずの代金払いだって暗澹たる心持のまま、
乱暴に机の上に数枚の硬貨を置くだけになってしまった。
  物事が上手く進まないことが更に俺の中に焦燥感を生むのを感じつつ、
それらを振り払うように駆け出そうとする――がしかし。
「待って」
  腕に温かみを感じたと同時に、急激に体の重みが増した気がした。
何事かと振り向いてみると、佐藤早苗が俺の腕に自分の両腕を絡めていた。
いつもなら赤面もののラッキーイベントなのだが、
足が勝手に歩き出しそうなほど急いでいる今では煩わしくしか感じられない。
それに、正直言うと今俺のことを見上げてくる佐藤早苗の視線が鬱陶しい。
俺がそう感じたのは佐藤早苗のその媚びるような瞳が佑子さんにそっくりに見えてしまったからだ。
  ――佐藤早苗、お前が佑子さんと同じような目線を俺にくれてくんじゃねぇ。
  すぐに餌を逃がすまいとする大蛇のように、気持ち悪く絡み付いてくる佐藤早苗の腕を
振り払ってやりたい衝動を理性でどうにか抑え込み、なるべく穏やかな口調で言う。
「佐藤、急いでるんだ。離してくれ」
「嫌よ……。あたしの話聞いた後でもいいじゃない……」
「話ってのは、佑子さんと俺は付き合わないほうがいいってのだろ?
  耳に蛸ができそうなくらい聞いたよ。この際だから言っておくが、
  俺が佑子さんを好きだって気持ちは変わらねぇ」
  徐々に荒くなりかけてきた声に沈静化を図りつつ腕を動かそうとするが、
その細い腕からは想像もつかないほどの力で俺の腕を掴んでくる佐藤早苗を前にして、
それは無駄に終わった。
  そのあまりのしつこさに、そろそろ限界を感じる。
「離せ」
「嫌……! だって、離したら仲川は”あの女”のとこへ行くんでしょ!?」
「当たり前だろうがっ!!」
  そして心の箍(たが)は音を立てて外れた。

 さっきまでの心の葛藤が嘘のように、俺は何の躊躇いもなく佐藤早苗の腕を乱暴に振り払う。
「きゃっ!」
  小さな悲鳴を上げた佐藤早苗は俺が振り払ってやった方向に抵抗の余地も示さずに、
まるで何か紐のようなもので引っ張られるように床に吸い込まれていった。
その悲鳴とは対照的に佐藤早苗は派手な音を立てながら床に尻餅を着いた。
痛そうに尻を押さえている佐藤早苗を一瞥しつつ、
俺は振り払った時に感じた佐藤早苗の体の軽さに驚きを隠せなかった。
俺の腕を”藁にも縋る思い”という言葉がぴったりなほど強く離すまいとしていた
あの腕の力が偽りだったのではないかと疑ってしまうくらい軽かった。
その壊れ物のような脆さを感じた時俺は佐藤早苗の『女』を再認識した。
  思わず佐藤早苗を振り払ってしまった腕を見つめる。俺はこの腕で乱暴を働いてしまったのだ。
あんなに弱々しい『女』の面を持った佐藤早苗を、『男』の俺が傷付けてしまったのだ。
佐藤早苗に対して申し訳ないという気持ちは欠片も感じていないが、
我を失って女の子を傷付けてしまったことは男として恥ずかしい。いや、恥ずべきことだ。
  俺が羞恥心から戸惑って立ち尽くしている中、佐藤早苗は腰を上げないまま俺を見つめてくる。
その視線に現実に引き戻された俺は、一瞬佐藤早苗を流し見た後、交錯させまいと
再び視線を逸らし両の拳を握力測定でもするかのように強く握り締める。
「佑子さんのことを”あの女”だなんて呼ぶんじゃねぇ!
  お前は佑子さんのことを知らねぇからうだうだ言えるんだ!
  佑子さんは綺麗で律儀で笑顔が素敵でっ、そんで優しいんだよ。お前とは違って優しいんだよっ!!」
  佐藤早苗は本当に佑子さんのことを知らないんだから、
こんなこと言ったって理解してもらえる訳ないとわかっていても叫ばずにはいられなかった。
いや、知らないからこそ俺は腹の底から大声を張り上げているのだ。
佐藤早苗は佑子さんのことを何一つ知らない。
濁りなどどこにもない黒い瞳は一日中見ていても飽きないだろうとか、
長く垂れている黒髪から漂うシャンプーの匂いは鼻腔を刺激し思考回路を鈍らせるほど甘いだとか、
小さい両肩は握り潰せてしまいそうなほど柔らかいだとか、
――笑った顔は可愛いだとか、何も知らないんだ。
  ――なのに、佑子さんのことを悪く言うんじゃねぇ。
「他人のチョコは平気で蹴り飛ばし、俺の携帯も当たり前のように使って、
見知らぬ相手に陰口を叩くようなお前なんかがっ! 佑子さんのことを悪く言うんじゃねぇー!!」
  俺の激昂の怒声と共に、胸の中の靄が全部吐き出された。
今まで溜め込んでいた、我慢していたものが全て漏れてしまった。
幾ら好きな相手を侮辱されたからといって、短絡的過ぎる。
  荒い息を何とか落ち着かせようとしながら、徐々に冷静になっていく思考を前提に、
佐藤早苗をもう一度だけ見る。
「あっ、ちがっ……なかが……わ……」
  佐藤早苗は瞳を小刻みに震わしながら、尚俺へ向ける視線をそのままに、
呻きに近い声を上げていた。その様は迷子になった子供のようだ。
目線だけを俺に固定し、両手が何かを手探りするかのように動いている。
そのあまりの動揺ぶりに、さすがの俺でも少々罪悪感を覚えてしまう。
だが、悪いのは佐藤早苗だ。こいつは佑子さんを馬鹿にしたんだ。
ここで場の空気に流されて謝罪したりしたら、佐藤早苗の為にもならないし、
それに佑子さんを裏切ったような気分になる。
  ――下らない同情は、相手の傷を抉るだけだ。
  そう自分に言い聞かせながら、俺は佐藤早苗を尻目に走り出す。
今すべきことはこんなことではない。
こんなところで佐藤早苗なんかと時間を割いている暇はなかったんだ。
  今佑子さんが一体どんな表情をしているのかを考えながら、俺は自動ドアに近付く。
そこで俺はようやくここが喫茶店内だったことを思い出した。
佐藤早苗と俺の口論――というか俺の一方的な罵声だが――は当たり前のように
周りの客や店員に筒抜けだっただろうな。
  急に気恥ずかしくなり、俺は慌てて開いた自動ドアに身を滑らす。
「仲川! 仲川! な、なか、がわぁ……」
  佐藤早苗の嗚咽が耳にこびりついてしまったが、聞かなかったことにして俺は走る。
  今はただ佑子さんのことが心配だ。
メールを送れるんだから、最悪の想像はしなくても良さそうだが、
それでも何かあったら俺は自分を許せないだろう。
「無事でいてくれ」
  佑子さんにでも、俺自身にでもなく、ただ誰に向けたものでもない呟き声が
激しく行き来してる自動車の機械音の喧騒でかき消された。

 傾きかけてきた太陽が橙色に染め上げている砂利道をひたすら突き進む。
わざと爪先から地面を捉えて更に足を後ろに思い切り流しているのは、
それによって生じる砂利が擦れる音を耳に響かせ『雑念』を振り払おうとしているからだ。
それが単なる逃避に過ぎないとわかっていても、それが不誠実なことだとしても、
今優先すべきは佑子さんの下へ行くことだけだ。他はどうでもいい。
  その間だけでいいから、何の蟠りも抜きにして一つの目的に執着させて下さいと祈りながら、
俺はさっきまでの佐藤早苗とのやり取りを思い返し、本日四度目の自己嫌悪を覚える。
一日にそんなに感じていたんじゃ、一回の自己嫌悪が秘める反省の意の重みが薄れてしまうな、
とは思いつつも、今さっきの行動を省みなかったら最低男確定だという自覚の下、
心中で佐藤早苗に謝る。

 俺は危惧していた通り、また佐藤早苗を”利用する”ことで傷付けてしまった。
こうも同じ過ちを何度も繰り返していると、俺が今まで佐藤早苗に対して感じていた罪悪感というのは
全て、反省している自分に陶酔する為の手段なんじゃないかという最悪の考えすら浮かんでしまう。
だって、子供だって一度叱られたら悔いて同じ間違いをしまいと努力するだろう。
しかも俺は既に高校生であり、更に言えば佐藤早苗と佑子さんの二人合わせて
三度も彼女らを利用するという非行を犯している。
だからこそ反省すべき機会はこんなにもあった。
なのに、――その時は反省した気でいたが――、結果として俺はまた佐藤早苗を傷付けてしまった。
  確かに佐藤早苗の行動は許せないものだ。
然程親しくもない相手にいきなりプライバシーの宝庫である携帯を弄られちゃ堪ったものじゃない。
そのことについては良かった。だが、俺はそのこと以外にも別のことで怒っていた。
俺が佐藤早苗に言った言葉は何だった?

 ――『佑子さんのことを”あの女”だなんて呼ぶんじゃねぇ!』

 その後怒涛の罵声で佐藤早苗を震え上がらせてしまった。
それも一見悪いことのようにはとても見えなかった。
自分が好きだと伝えているはずの人物を冒涜されるのは単純に嫌だからな。
勿論、俺は佐藤早苗が然るべき報いを受けている、と言い訳染みたことで自分を納得させ店を出た。
だが、もう少しで春とは思えないほど冷え切っていた空気が、
思考を瞬間冷却させた時気付いてしまった。
冷静になった頭が見たくもない自身の醜い部分を態々と見せ付けてきた。

 俺の佐藤早苗に対する怒りの目的は佑子さんのことをわかりきっていると思いたかったからだ。

 つまり多少は佑子さんを労わる気持ちもあったが、本音ではただ佑子さんのこと
全部を知った気でいたかっただけなのだ。
俺が佐藤早苗に”佑子さんのいいところ”を言ったのは、
俺は佑子さんのことをこれだけ知っていると主張したかった子供染みた幼さ故なんだ。
  そしてその過ちの引き金となったのは、俺の奥底で心を震わすほど叫んでいる不安だ。
  ――俺は佑子さんのことを全然知らない。
  当然のことと言えばそれで片付く。俺と佑子さんは会ってまだ二日なんだし、
お互いに知らないことがあるのは当たり前だ。これから知っていけばいい。
  だが俺は待てなかった。正直焦っていた。
佐藤早苗とのバレンタインからホワイトデーまでの例の一件で、俺はかなり女性不審に陥っていた。
佑子さんを信用してないという訳ではないのだが、どうしても確信が欲しかったんだ。
俺と佑子さんは”どこかで”繋がっているはずという確信を。
  だから、その為に佐藤早苗を利用したんだ。
佑子さんのことを”何一つ知らない”佐藤早苗と、”少しは知っている”俺――、
その二つを天秤に掛けることで安心を得ようとしていたんだ。
二つを比較すれば五十歩百歩と言えども俺の方が優勢であることはわかる。
そんな虚しい自己満足だけでは飽き足らず、更に俺はその天秤の傾きを強制的に大きくする為に
佐藤早苗に怒声を浴びせた。
今佐藤早苗に怒っているのは、”何一つ知らない”佐藤早苗に”佑子さんのことを全て知ってる”
俺が教えてやらなければならないからなんだ、と真実を暈す為に。
  佐藤早苗への説得の意も、佑子さんへの労わりも、そんなものはどうでもよくて、
俺は自分がしていることへの正当性が欲しかっただけだったんだ。
自分は他者に説明できるほど佑子さんのことを知っているんだとアピールすることによる満足感と、
それを言い聞かせることで得られるであろう安心感欲しさ故に。
  誰か、こんな愚かで馬鹿でクズな俺を叱ってくれ。それで変われるなら喜んで受けるから……。

 風は吹いていない。こんな時こそあの煩わしい音で何も考えられないようにして欲しいのにだ。
それをあたかも俺に対して自省を求めているかのように感じるのは、少々自意識過剰かな。
  一瞬、”今俺が思っている反省も結局は自分の為なのではないか”
という恐ろしい考えが過ったのと同時に、俺は足を止めた。
  心臓が今にも飛び出しそうなほど体内で暴れ回っているのは、
さっきまでの全力疾走だけが全ての要因じゃないだろう。
頼んでもいないのに勝手に呼吸する両肩を放っておき、
俺は視界に捉えた人物の背中を一心に凝視する。
スカートが汚れることを厭わずに土手に座り込んでいる後姿を見て、
俺が既視感を覚えたのは言うまでもない。
奇しくも昨日とほとんど変わらない場所で、
しかし昨日とは違い俺と会う為に待っている人影を見下ろしながら、
俺はとりあえずの安堵に息をつく。
  予想通り――というか期待通り無事でいてくれたことに心底でホッとしつつ、
人気のまるでない土手の真ん中で、存在感をこれでもかというくらい見せ付けている
小さい体に向かって叫ぶ。
「佑子さーん!!」
  俺の声が土手に二、三度反響した後、座り込んでいた佑子さんは、
居心地の悪い沈黙の中で静かに首だけをこちらに向けてきた。
そのスローモーションに等しい動きは、襖の奥を見ないで下さいと
念押しされたにも拘らず好奇心に負け、「ちょっとだけ」と言い聞かせながら
その先に何があるのか知る由もなくそっと障子に手を掛けた、
『鶴の恩返し』のあのおじさんの様をイメージとして彷彿させた。
  遠くからだからはっきりとはわからないが、
とりあえず佑子さんと目が合っていることだけは確認する。
続いて俺の存在にようやく気付いたらしい佑子さんが、神速の域に達しそうなスピードで立ち上がる。
それに驚きつつ、引き続いて目を凝らす。
  しばらくそのまま”見ている”ことだけの認識で目を合わせ続ける。
佑子さんが一体どんな表情で、そしてどんな胸中で俺のことを見ているのかを考えると
不安が心中に一気に広がっていくのがわかる。
佑子さんが無事でいるということは、あの意味不明なメールを、
佑子さんは何者かに強制的に送らされたんじゃなくて自発的に送ってきたということだ。
だから恐いんだ。
少なくとも、今の佑子さんの挙動を見る度別段不審な点は見受けられない。
とてもあんな非常識なものを送りつけてくるような人には見えない。
決して知ったかなんかじゃなく、そんなことはわかっている。
問題は今は落ち着いている佑子さんがメールを送ってきた時どんな状態だったかということだ。
あれだけのものを常識的な思考を持ち合わせているはずの佑子さんが作ってしまうということは、
それだけの理由が何か存在するはずなのだ。その”何か”はきっと大きいものだと思う。
それを知って俺は受け止めることができるのあろうか?
  それだけの覚悟があるのだろうか?
  立ち尽くしたまま考えること数秒、俺は余計な推測を全て打ち切ることにした。
そもそもこの場に来たのは、その『理由』を訊く為に佑子さんと話したかったからだ。
もっと言えば、佑子さんが来てくれと言ってきたからだ。
ならば俺の胸の漂うモヤモヤを吹き払う為にすべき手段は、焼け石に水な推測ではなく、
佑子さんに直接質問することだ。
確かに、佑子さんに異変が起こったことに対して相当な理由があるのは事実だ。
だがその理由は俺がどう足掻いたってわかることではない。
わからないことにビビっていたってしょうがない。
わからないから恐いというのもあるが、そんなことに臆していて、
何故佑子さんを好きだと言えるのだろうか?
  佑子さんを好きだというなら、彼女の奇行の引き金となった”何か”を排除するのが
愛への証明になるはずだ。その為にはまず知らなければならない。
そして知ってからその後は考えればいい。
もしそれを知って尚佑子さんを好きでい続けるなら良し。
その”何か”に恐怖し、そこから逃げる為に愛想を尽かしてしまうというなら、
それは俺の佑子さんへの愛情がその程度だったということだ。
後悔しようが仕方ない。要は、”せずに後悔するより、して後悔しろ”、だ。
  決心を固めると、さっきまで縛られている時のガリバーの気分を存分に味わっていた足が、
嘘のように軽くなる。今なら行けると波に乗った俺は、急な坂を転びそうなほどの速さで下っていき、
再び平坦な地面に足を降ろしたことを確認して、
懸念事項だった佑子さんの表情を伺う為に視線を上げる。
「こんにちは」
  佑子さんは笑顔で言った。その様子は、”あの時”の佐藤早苗にそっくりだった。

 俺が佑子さんを好きだということを、今いるこの土手で伝えた時に、
佐藤早苗が作為感漂う笑い声を発した、正にあの時に似通っていた。
だって、佑子さんが俺に向けてくる笑顔は”ぎこちなさ”という点で言えば、
あの時の佐藤早苗の笑い声を遥かに凌駕していたから。
パズルが一ピースだけ足りないからといって、他のパズルのピースをその空いた空間に
埋め込んだ時の不自然さ、というとわかり辛く聞こえるがそんな感じだ。
本当の顔を笑顔で塗り潰していると露骨に感じられる。
  姉の髪型がロングからショートに変わった時に言われるまで気付かなかった鈍感な俺ですから、
手に取るようにわかってしまうその異様さに思わず息を呑みながら、
佑子さんとの距離を埋める為に一歩近付く。
  そしてそれと同時に、佑子さんが俺のより短い歩幅で一歩後ずさりした。
「佑子さん?」
  何かの間違いかと思い訊いてみるが、佑子さんは「はは」とお茶を濁す時専用の作り笑いで
俺の発言を流そうとしてくる。何の冗談かと言いたくなるのを堪え、もう一歩踏み出す。
当然のように佑子さんはまた一歩後ろに下がる。真意の読めないその行動に、俺は寂しくなる。
  今の俺と佑子さんの心の遠隔を表すかのように伸びている十歩ほどの距離が、
どうしようもなく胸に突き刺さる。
”俺が佑子さんの全てを知っているという訳ではない”という受け入れ難いほど重い現実が
そこにはあるのだから。だが、そこから逃避してはいけない。
その為にさっき佐藤早苗を傷付けてしまったことを忘れるな。
利己的な欲望で他人を傷付けて、その後”自己満足の為の”自己嫌悪に陥るなんていう
負の無限ループを辿るのはもう御免だ。少しは自分が傷付く覚悟で行動しなければならない。
それが”本当の意味での”贖罪に当たるのは明白だからな。
  ――佑子さんの全てを俺は知らないから、これから知っていこう。
  そう言い聞かせ、その為に罠があることがわかっているダンジョンに乗り込むような面持ちで
俺はもう一歩近付く。遅れて佑子さんが一歩下がる。改めてその事実を目で再確認した後、
ようやく俺は初めて傷付くかもしれないことを覚悟した上で訊ねる。
「何で逃げるんですか?」
  ビクリと肩を震わした後、佑子さんはさっきまでの笑顔のまま両手を振る。
「に、逃げてる訳じゃないんですよ。ただ……」
  口篭ったと同時に佑子さんは俯いた。
胸が裂けん想いだったが、ここで堪えられなければ今までの決意がやはり”自己満足の為の”産物だと
認めてしまう。それの方がよっぽど耐えられないね。
強がりだとわかっていても関係ない。俺が佑子さんを好きだという気持ちを否定されることだけは
何があっても避けなければならない。
  佐藤早苗は、「会って二日なのにおかしい」と言っていた。確かにそうなのかもしれない。
一目惚れが大抵途中で冷めてしまうのは一瞬の緊張を恋愛感情だと取り違えてしまうから。
それと同じで、俺も自分の『痛み』を理解してくれる佑子さんという『存在』の登場に驚いて
妄信的にそれに甘えているのかもしれない。
それを恋心と間違えていているだけであって、
しばらくしたら今までどうして好きだったのか思い出せないほど冷めてしまうのかもしれない。
  だが、『今』俺は佑子さんを好きだということは『確信』を以って宣言できる。
なら、『確信』のない不安定な未来の機嫌伺いをしながら行動するだなんてのはただの杞憂だ。
  俺は一体いつから、こんな出世だけを考えているゴマ擦り会社員のようになってしまったのかと
呆れながら、もう一歩近付く。しかし、今度は佑子さんは動かなかった。
代わりに佑子さんは、
「あ……あれ?」
  自分の眼を拭った指に付着している涙を見て心底驚いている素振りを見せてきた。
  俺が”佑子さんが泣いている”と理解したのと同タイミングで佑子さんの口から嗚咽が漏れた。
「え!?」
  その姿に狼狽してしまう。
そんな俺をよそに、佑子さんは途切れ途切れに発せられている嗚咽を押さえようと手で口を覆う。
そうするとさっきまで濡れていた瞳から堰を切ったように涙が零れてくる。
それを拭おうとすると震える唇から声が漏れてしまう。
「あっ、あっ、止まっ、てく……どうし、て、あっ……」
  信じられないと主張するかの如く見開かれた瞳をしきりに瞬かせながら、
今度は片方の手でそれぞれを押さえる。
安定したかに見えたがどんなに押さえても震える体だけは誤魔化せず、
佑子さんは手で口と眼を隠したまま、膝を折り畳んでしまった。
「なっ! 仲川さん、これはち、違うんです! ご、ごめんなさい……!」
「どうしたんですか!?」
  やっとの思いで声を搾り出す。佑子さんの異変ぶりを『目』で目の当たりにし、
その衝撃に半ば放心状態だった意識を無理矢理連れ戻したことで、余計に現実を直視してしまう。
  「ごめんなさい」だけをうわ言のように繰り返す佑子さんを見て、
あのメールの送り主がやはり彼女だったということを確認しつつ一歩近付く。佑子さんは動かない。
  距離を詰めながら、今までなら自分の中で思案するだけに終わっていた疑問を素直に訊く。
「佑子さん……何で謝るんですか? 俺、何かしました?」
「ごめんなさい! 嬉しくてつい……。泣いたら鬱陶しいですよね!? す、すぐに止めます!」
  俺の質問も聞こえていない様子の佑子さんは片手で口を押さえるのを既に止めて、
消え入りそうな嗚咽を溢しながら両手で目を擦っている。
目隠しされた状態で道を歩く時壁を闇雲に手探りするように、
顔の近くで両手を右往左往させている佑子さんの様子ははっきり言って異状だったが、
耐性が付いたようでもう動揺することはなかった。
とにかく今は、下手したらそのまま目を抉りそうな勢いで、
愛らしい瞳を弄っている佑子さんをどうにかしなければならない。
  一度決めるとブレーキの壊れた車の如く体は止まることなく真っ直ぐ佑子さんに向かって進む。
さっきまで果てしないほど遠くに見えた”近くて遠い”距離を一瞬で埋めて、
俺のことすら眼中に入っていない佑子さんの両手を掴む。
その呆気なさに拍子抜けしつつ佑子さんの瞳を捉える。
「謝らないで下さいっ!」
  相手の目を見て話すという会話の基本を一方的にこなした上ではっきとした口調で告げる。
佑子さんが謝るのには絶対に理由があるのはわかり切っている。
二日間佑子さんを見た記憶と、今俺の前で涙を流し続けている佑子さんの様子がそれを物語っている。
だけど俺はその理由を知らない。
理由も知らずに謝罪を繰り返されても戸惑うしかない。だからまずそれを知らなければならない。
たとえ知った後後悔するようなものだったとしても、俺はそれを知る為にここに来たんだ。
  佑子さんの両手を話した後、今日の放課後触れてしまったことを恥ずかしく思ってしまった肩を
躊躇なく強く掴む。その肩は柔らかかった。『女』を感じさせる温かみと弾力が掌に伝わる。
それは佐藤早苗の細々とした腕の感触にそっくりだった。
  自らの過去の愚行を真摯に受け止めつつ更に言葉を紡ぐ。
「俺には心当たりが全くないけど……何で、どうして佑子さんは謝るんですか? この俺に?」
  肩を僅かにだけ引き寄せながら、佑子さんの耳から直接脳に叩き込むようにじっくりと言った。
  今度こそちゃんと俺の言ったことを理解してくれたようで、
まだ涙の雫で濡れている瞳を静かに向けてきた。その目は何か言いたげな感じで、
表情も狐に抓まれたようにポカンとしている。
その様子を見て数秒、俺はその理由の片鱗に少しだけ触れた気がした。
  同時に押さえ込んでいた不安がぶり返してきた。嫌な想像が頭を駆け巡り、
佑子さんの肩を未だに掴んでいる両手の掌から気持ち悪い汗が噴出すのを感じる。
  視線が交わるだけの沈黙が余計に最悪な想像を刺激し体が固まる。
  息遣いが聞こえてくるほどの距離にある佑子さんの小顔に、
ドキドキしている余裕もないくらいに俺の心が荒れている中、
佑子さんは危うく聞き流しそうなほどの小声で言った。
「だって、”仲川さんが”……」
  その発言を俺はすぐに受け入れることはできなかった。
  瞬時に逃避経路を確保しようとする自分を必死に叱咤した後、改めてその発言の真意を探って、
そして項垂れかける。本当なら今この場で何度も地面に頭を打ち付けたい気分だ。
  佑子さんは確かに言った、”俺の名前”を。ということは佑子さんが俺に謝る理由として、
少なからず”俺が”関係していることは明白だ。

 ――それはつまり、佑子さんの今までの不可解な行動は全て”俺が”原因だということだ。

 佑子さんが、あんなメールを送ったのも笑顔の仮面を貼り付かせていたのも、
突然泣き出したのも急に”さん”付けでよそよそしくなったのも――全部俺のせいだったのか。
  いや、薄々は気付いていたさ。佑子さんは俺に謝るのを当然だと思っているが
俺にその心当たりはない。それは佑子さんが”俺に絡むことで”何か勘違いしていることの
何より証明じゃないか。
気付かなかった……いや、気付かないフリをしていただけだな。
自分のせいで好きな人を泣かしてしまっているだなんてことは誰だって信じたくない。
俺は結局また逃げてたのか……。
  でも――。
  自省は後回しだ。俺の自己満足に佑子さんを巻き込むなんて事態に発展させる訳にはいかない。
自分を卑下するのは佑子さんの涙を止めて、そしてあのような花の笑顔をもう一度拝んでからだ。
俺は佑子さんの泣き顔を見る為に、今までの愚行を反省していたんじゃない。
無意識下での逃避に勝手な自己嫌悪を感じている暇があるなら、すぐにでも佑子さんを宥めるべきだ。
  マイナス思考に急直下しそうだった気持ちに修正を施し、
ようやく十数秒間の心ここにあらずな感覚の浮遊旅から目覚める。
明確な意志を以って佑子さんを見ると、一度は収まったかに見えた涙の波が再び押し寄せていた。
顔がびちょびちょに濡らしながら、縋るような声を発してくる。
「だって……仲川”さん”が……」
「俺が何を?」
「メールで……」
「メールで?」
「…………」
  またもや押し黙ってしまった佑子さんの様子に重くなる心を隠して次の言葉を待つ。
チラチラと何度か視線を合わせては逸らしを繰り返す佑子さん。
その様子からは露骨に躊躇の意が込められていた。
  佑子さんが躊躇うほどの理由――それに身震いしてしまいそうな自分を抑えていると、
佑子さんは徐にスカートのポケットに手を入れた。
探すという動作もなく、滑らかにポケットに滑り込んだ手は、そのまま佑子さんのものと思われる
携帯電話を取り出していた。装飾の施されていない真っ白な携帯電話。
女の子にしては質素だなと思いつつ眺めていると、
佑子さんは微かに震えてはいるが馴れた手つきで携帯を操作する。
画面だけにしっかりと視線を投げ掛けている佑子さんの姿はそれはとても微笑ましいもので。
こんなことにも一生懸命だなあと少しだけ穏やかな気分になる自分に
僅かばかりの呆れを感じつつ見守ること数秒、手の動きを止めた佑子さんが、
視線を斜め下に向けた上で、操作し終えた携帯電話の画面を控え目な動作で見せてきた。

 ――『あんた馴れ馴れしい近付くな』

 それだけ書かれたメールを見て、俺は生唾を飲み込んだ。途端に全身の毛が逆立った気がした。
何だか口からも汗が出てるんじゃないかと思うくらいの不快感が背中を燻っている。
  ――誰が送った?
  こんなふざけたメールを佑子さんに送ったのは誰だ? それを確かめるのは簡単だ。
送信者の欄を見ればいい。だが、俺は躊躇してしまった。恐かったから。
  あの時――佑子さんから来たあのメールの送信者を確認した後に感じた絶望感を、
また味わうかもしれないという恐怖が俺の顔を動けなくさせてしまう。
これこそ杞憂だ。確定してすらいない未来の先を伺うのは無駄だしもう止めようと決意したのに、
それでも恐い。きっと俺が視線を”そこ”へと向けたら、辛い現実が待っている。まず間違いなく。
上手く考えられないが、今までの経験が無意識の内に合体やら何やらを繰り返し弾き出した
”絶対的な”結論……。
  それでも――!
  見なければ話は進まないし、俺は現実を見つめなければならない。

贖罪の為にも。

佑子さんが俺が原因で悲しんでいるというのであれば、
佑子さんから笑顔を取り戻すことが最大の罪滅ぼしだ。
その為にも、俺が自己中心的な身勝手な行動を取ることは許されない。覚悟を決めたじゃないか。
佐藤早苗を傷付けてしまった時に、もう二度と後悔するようなことはしないと。
  今ここで逃げたら、確実に俺は後悔する。過去の弱い自分の呪い殺そうとする。
俺はずっと過去の自分に対して呪詛を唱え続けていたからわかる。もう”間違えては”いけないんだ。
  少しだけ目を閉じて心を落ち着かせた後、俺はゆっくりと首を動かした。そして自身の視線で、
その先の『現実』を見つめる。

 送信者は、俺だった。

 高校生になってようやく買ってもらい、設定の仕方がわからないということで
姉に無理を言って設定してもらった、名前と誕生日という今時誰もしないだろうメールアドレスが
しっかりと送信者の欄に記されていた。
  俺の名前がローマ字で書いてあったからメールの送り主が”俺の携帯から”だってわかったんだなと
理解しつつ脳が捩れそうな不安定さを覚える。
  だって俺はこんなメールを送った覚えはない。
  ――なのにどうして?
  だが俺はすぐに疑問追求を後回しにすることにした。
”俺が”送ったか送ってないかなんてことは些細なことだ。
問題は佑子さんの立場からのことだ。
佑子さんから見れば、俺のメールアドレスでこんなメールが来たら、
俺が送ったとしか思えないだろう。どんなに信頼しているとしても。
  結論――佑子さんは俺が”このメール”を送ったと思い込んでいる。

 頭の中で歪に渦巻いていた疑問の数々が居場所を見つけ、
それらの全てががっちりと歯車に噛み合うような感覚を覚えた。
そのことに関して、何日も暗い部屋に監禁された後に外の空気を吸ったら、
こんな爽やかな気分になるんだろうなと思いながら、今までの状況を整理する。
  佑子さんの行動は全て、俺に「近付くな」と言われたと思い違いをしているが故だ。
きっとあのメールを送ってきた時の佑子さんは、
俺が自分を鬱陶しく思っていると勘違いしていただろうから、かなり切羽詰っていたんだ。
そう考えると、急にあのメールが可愛らしいものに思えてくる。
俺に近付こうとしなかったのだってこれ以上俺を不快にさせたくないからだろう。
俺のことを”さん”付けに変えたのだって、距離を置こうとする為だ。
  そしてそれら行動の全てには、――”俺に嫌われたくない”という想いが滲み出ている。
  普通会って間もないような相手に煙たがられたら、
不快になるかその相手のことを嫌いになるかのどちらかだ。
しかし、佑子さんはその逆で、”俺との関係が切れる”のを恐れた。
  それはつまり――。
  今までの自分なら都合良過ぎと笑い飛ばしていたであろう憶測が現実味を帯びて脳裏に過ぎる。
佑子さんを悲しませてしまったことに罪悪感はあるが、それ以上に今は嬉しい。
今ならメジャーのスーパーピッチャーが投げる超剛速球も鼻歌を歌いながら場外まで飛ばせるだろう。
「私……仲川さんの邪魔にならないようにしますから……だから、これからも会って下さい……」
  佑子さんはもう涙を止めることもせずそれを垂れ流し続けている瞳で俺のことを見上げてくる。
その目は、昨日佑子さんが自分の悲恋話を俺に聞いて欲しさそうにしてきた時の目、そのままだ。
自己を抑えながらも溢れかけている”主張したい”という想いが溢れている媚びた瞳。
はっきりと綺麗だと思った。この美しい瞳をずっと見続けていたい。見つめられていたい。
  そして、この瞳の輝きを彩るように添えられている涙――
それがもし嬉し涙だったらどうなるのだろう? させたい。
  佑子さんの幸せな笑顔から一筋流れる涙――想像しただけで抱き締めたくなる。
  そして、それを成し遂げる為にすべきことは簡単なことだ。
  俺はその言葉を言えばいい。
「佑子さん、俺、あなたをウザいだなんて思ったことは一度もありませんよ」
「え?」
  腑抜けた声を漏らしながら目を丸くする佑子さん。
「神に誓って、あのメールは俺が送ったもんじゃありません」
  その言葉に佑子さんは、何とも言えない表情を浮かべた。
不安のような期待のような緊張のような呆れのような……色々な感情が混ざっているような、
そんな複雑な表情を。
  今度は打って変って佑子さんが思考の旅へと出掛けているその様を楽しむこと数秒、
我に返った佑子さんは改めて俺を見上げ直す。申し訳なさそうに。
しかし、期待を込めているのがわかった。
「本当……ですか? 仲川”くん”?」
  俺が言うことは一つ。
「だって、俺は――」
「仲川ッ!!」
  と、俺の一大決心を乗せた言葉は呑みこまざろ得なくなってしまった。
大事な時に誰だと不服な感じを含ませながら振り向く。
「な、仲川……」
  そこに、息を荒げた佐藤早苗が、胸を押さえながら立っていた。
  その表情を見た瞬間、和やかな俺の中の空気は一変し、再び負の感情が胸を蠢いた。
さっきまで佑子さんとのことで舞い上がっていたが、忘れてはならなかった。
佐藤早苗の行動、佑子さんから届いたメール、そして佑子さんに届いていたメール――
知りたくもない憶測が、心を蝕んだ。

 佐藤早苗が佑子さんに”あのメール”を送った。

 瞬間的に沸騰石がないと弾けそうな怒りに苛まれる俺をよそに佐藤早苗は佑子さんを見ていた。
  佑子さん”だけ”を、一途に。
「……離れて……」

7

「佐藤、お前何言って――」
「――言うね」
「え?」
「離れて……言う、って言ったのよ……」
  視線を佑子さんの方へと固定したまま、ゆらりと佐藤早苗は数歩下がった。
どこからか風でも吹いたら、そのまま薙ぎ倒されてしまうのではないかと思うほど不安定な足取りで。
その危なっかしさは、一瞬とはいえ”離れて”の意味を早合点して迸る激情に絆されていた俺ですら、
支えてやりたいと思ったほどだ。
  佐藤早苗の前言の意味を再確認し、それを俺と佑子さんに向けたものと勘違いしたという事実に、
羞恥心が臨界点突破を果たしそうになる。
悟られないように平常心を保とうとするが、
努力虚しく頬は紅潮し切ってしまっているのが自分でもわかる。
ばつが悪いので顔をやや俯かせつつ、目線だけを上げて佐藤早苗を見据える。
相変わらず佑子さんを舐るように凝視している佐藤早苗は、
意図の読めない距離を十数歩置くと、その場で立ち止まった。
時折吹く風に靡く髪を気に掛ける様子もなく見つめ続ける佐藤早苗に対し、
それに応えるように佑子さんも熱な眼差しを送っている。
お互いのことをあまり知らないであろう二人が視覚の糸電話を繰り広げるこの光景は、
非常に奇妙に見えた。
そこに存在するのは理性から来る感情ではなく、
知りたいという欲求を露わにした純然たる本能――こんな状況、初めてだ。
  きっかけもなくここまで相互理解を求め合う二人を前に、
恐怖とも不安とも似つかないむず痒い気分になる。
何かに毒されのかと疑ってしまいそうなほど早鐘を打つ心臓が、余計にそれを助長させる。
はっきりと認識しているのにその全貌がわからないというのは、
予想以上に気持ち悪いことだとわかった。
思わず脳内で、誰かの声だけが響く真っ暗闇というホラー映画さながらの情景が再生された。
  オリンピックの金メダリストが流すような爽やかな汗とは対極に位置するそれが
首筋から滴り落ちている。
だが腕で拭い去るのを億劫に感じるほど俺は、
目でコミュニケーションを行う二人に心を囚われていた。

 呆然と傍観者に徹していること十数秒、
当事者たる二人の瞳によって支えられていた意思疎通用の橋は、突如崩れ――。

「ごめんなさい!!」

 佐藤早苗の叫び声が空気を切り裂いたのと同時に、
今までの緊迫感は全て忘却の彼方へと追いやられてしまった。
  今俺の頭の中を支配しているのは、佐藤早苗が――土下座しているという事実だけだ。
躊躇の気を一片も見せることなく、俺たちの前に跪きそして、地面に額を擦り付けている。
  予期せぬその行動の周りに蝿のように集る純粋な異質さを感じ取り、
俺は巣食う畏怖から逃げるように一歩下がってしまった。
「な、何してんだよ佐藤お前!? 自分のしてること……わかってんのかよ」
  か細くて震えた、とても男のものとは思えない声を搾り出すのがやっとだった。
「わかってるからやってるのよ!」
  それも、怒気を含んでいるのかとさえ錯覚してしまいそうなほど
切迫した佐藤早苗の声によって吹き飛ばされた。
勢いに押され、生唾を嚥下してしまう。
俺より低い位置で身を縮こまらせているはずの佐藤早苗が、
どうしようもないほど圧倒的な存在に見える。
  方向性の違う小さな巨人を連想しつつ、
必要不必要の区別なく様々な物が入っている俺の机のような頭で状況を整理すようとする。

「あれを……あのメールを、仲川の携帯から送ったのは――あたしだから」

 しかし俺の脳内整頓を一瞬で遮った佐藤早苗の言葉が、
受け入れる以外に道が残されていない現実を突きつける。
  ――あのメール。
  記憶の書斎から引っ張り出す努力をしなくても、それが意味することは鮮明に頭に刻まれている。
送った覚えがなくても、事実として俺の携帯電話から送信されていた、
佑子さんを拒絶したメールのことだ。
その具体的な文面を思い出すのも憚れるほど、反吐が出そうになる文字の羅列。
自分が送っている訳がないという確信があっても、
精神的衝撃の被害者である佑子さんに対して罪悪感を感じてしまった、最低の戯言。
  俺はその存在を確認したものの、佑子さんに誠意を見せる為に理由やら経緯やらの追及を
後回しにしていた。
だがあのメールの背景について状況を確認するだけで、確信まで目と鼻の先にある推測が生まれる。
そして佐藤早苗の告白が「ひらけごま」となって、俺の中にいる優柔不断な裁判長に判決を下らせた。

 ――佑子さんにあのメールを送ったのは、佐藤早苗だ。

 佐藤早苗の顔を見た時から、薄々勘付いてはいた。
なのに結論を導くのが遅くなったのは、勿論佑子さんの誤解を解くのを優先したが為だ。
それは断言できるが……理由が他にあることも俺は自覚している。
単純なこと――認めたくなかっただけだ。
自分が好きだった女の子が、三百六十度どの方向から見ても非としか取れない行いを
働いたという事実が気に入らず、真相リストにそれが侵入してくるのを拒絶していただけだ。
いつの日かドラマの中に出てきた、意中の女の子が犯人だとも知らずに
その娘の無実を証明しようとして結局彼女に裏切られてしまった主人公を
冷めた視線で刺し殺していた、恋愛感覚皆無の俺がまさかそんな心理状態に陥るとはね……
笑うしかないな。
  気恥ずかしさのせいで佐藤早苗から目を逸らしつつ、無理に自嘲的な笑いをしようとする。
しかし、移動した視界の先に広がっていた、
佐藤早苗に土下座されてあたふたしている佑子さんの姿が、空笑いを喉下で飲み込ませた。
それを更に肺の奥へと追いやるように息を大きく吸い込みつつ、再び佐藤早苗を見る。
「佐藤、お前が何で謝っているのかはわかったよ」
  そして、佑子さんが困っているということが、俺の次に口にする言葉を決定させた。

「でも謝るくらいなら、何で俺の携帯を使ってまで佑子さんにあんなメール送っちまったんだよ?」

 佑子さんの戸惑っている様子なんてもう見ていられない。
俺が見たいのは、笑顔の佑子さんだ。
陰り一つない、暗澹としていた俺の心を明るく照らしてくれた、澄み切った太陽のような微笑みだ。
  あれをもう一度拝む為にしなければならないのは、佑子さんの蟠りを取り除いてやることだ。
だからこそ、俺は佐藤早苗に今のような問い掛けをした。
話についていけていないであろう佑子さんに全てを説明することで、思考の大海原から救う為に。
「まさか悪戯でしただなんてことないだろ? 何か理由があんだろ」
  子供に軽い尋問をしている親の心境はこんな感じなのかなと思いつつ、
なるべく穏便な口調で言った……つもりだ。
「……それは……」
  俺の言葉を受け地面から頭を離しはしたが、
顔を上げることはせずに未だ地面を睨みつけたまま佐藤早苗は硬直している。
それに、小さく「あの」や「えと」を繰り返すだけで中々俺の質問に答えてくれない。
刻々と経過する静寂の時間が、徐々に不安を積み上げているのを感じる。
焦燥感が増大し、貧乏揺すりが止まらなくなっている。
  正直、俺はまだ佐藤早苗のことを信じたいと思っている。
佐藤早苗の行為には何かやむを得ない事情があり、仕方がなくやってしまったのではないかと。
もしそうなのであればそのことを佐藤早苗がしっかり佑子さんに言って、
理解を得た上で許しを請い、それを佑子さんが許す――そんな風になるのがベストなのだと。
  ついさっき佐藤早苗を感情に任せて怒鳴りつけた俺が言うにはあまりに傲慢なことだが、
俺はやはり誰にも傷付いて欲しくない。
  だから――。

「佐藤、早く言ってくれ……」
「…………」
「言ってくれないと、何もわからないんだ……」
「……、……」
「……佐藤……」
  段々と俺の声まで萎縮してきている。
このままでは気まずい沈黙に飲み込まれてしまうのを本能的に感知しつつも、
佐藤早苗への催促以外の言葉を言う勇気はない。
昨日今日と何故かやけに感情的になっている俺の口から、
再び佐藤早苗が出てしまうという可能性を恐れているから。
全く……こんな臆病者が、ちょっと好きな子との仲が良好に向かっているってだけで有頂天になって、
覚悟のない格好だけの解決策を提唱するとは。
今の俺の姿は、きっと失笑にすら値しないだろうな。
  ただ待つことしかできないことに嫌気が差し、誰にも聞こえない程度の歯軋りをする。
こんな時に突っ立っているだけの自分を心の中で卑下しながら、
全ての感覚を封じ込められたら幸せだなんてことを考えてしまっている。
「…………」
  俺と佐藤早苗両方の無言が重なり合い、
とうとうサイレントタイムへ足を突っ込んだなとぼんやりと考えていた。

「あの……」

 その寂寞は寸でのところで掻き消された。
砂漠の女神であるオアシスのような、コンクリートを突き破って咲き誇っている花のような……
何とも形容し難い澄んだ声が俺の鼓膜を震わした。
すぐに聞こえてきた方向を向くとそこにはやはり――佑子さんがいた。
こちらを伺うかのように控え目な視線を送ってくる佑子さんを見て、
何だか言葉を紡ぐ勇気が少しだけ湧いた気がした。
何とも都合のいい男だな、俺は。

「どうしたんですか?」
「あのですね、間違ってたら申し訳ないんですが……」
  何とも言いにくそうにしている佑子さんを前にして、
俺は釣りかかった魚を逃すまいとする貪欲さで以って尋ねる。
「いえいえ、もう何でも訊いちゃって下さい。
今なら俺の生きてきた十六年の中の最高羞恥体験まで言っちゃいますから、どうぞどうぞ」
  よっぽど無言の世界を嫌がっているのだろう。
阿呆みたいに饒舌になっている自分に呆れつつ、笑顔を佑子さんに向け平生を装う。
それが効いたのか、ほんの少しだけ佑子さんが表情を緩ましたのを
俺はしっかりと目に焼き付けておいた。
「その、彼女って……仲川くんのお友達ですよね?」
  さっき俺に向けていたものよりも謙遜した目線を佐藤早苗へと注いでいる佑子さんの姿を見て、
即答する。
「佐藤はまぁ、俺の友達ですよ。佐藤が何か?」
「えぇと、本当に失礼なんですが、お話を聞いていると、私にあのメールを送ったのって、その……」
  そこまで言うと佑子さんは目を伏せてしまった。
そうしたくなる気持ちは物凄くわかる。
自分の過ちはすぐに認められるけど、案外他人の過ちは気を遣ってしまって指摘し難いものだ。
その思いを汲み取って、俺は腹を据える。
「俺の方からも謝ります、本当にすいません」
  佑子さんに向かって頭を下げる。
俺のクラスを受け持っている熱血体育教員の『頭を下げる時は四十五度以上でも以下でも失礼』
だとかいう教えを完全に無視して、背中がほぼ地面と平行になるまで。
そういえばその体育教員は『男が頭を下げるべき時は素直にしろ』とも言っていたが、
少なくともそれは守れているな。
「いえ、別に仲川くんが謝ることじゃ、あっ、それは佐藤さんに謝れって言っている訳でもなくて、
つまりですね……」
  言葉を頭の中で整理しているであろう最中の佑子さんの様子を見ていると何とも和む。
ずっと両手で口を押さえているが、きっとそれは癖なのかもしれないな。
そういう小さな発見をすると、ちょっと『俺だけが知ってるんだぜ』的優越感と共に
微笑ましい気分になる。
  一人で飯を食いながら昼ドラを見ている母親のような気持ちを満喫しつつ、
頬が緩みそうになるのを感じる。
「もしかしてですけどね、仲川さんって」
「はい! 何でしょう!」
  とりあえず自重します。
明らかな夢心地とまで呼べてしまいそうな俺の心境とは正反対な語気を含んだ佑子さんの言葉が、
表情を引き締めさせた。
シリアスなこの場で俺は何を考えていたのだろうか……。
後で本当に自分のことを殴っておこうと思う。
  心中で話に一応の決着を着けて、今は佑子さんの言動に気を払うことにする。
「佐藤さんに、詳しく話してないんじゃないかな、なんて思って……」
「え?」
「いえですね。佐藤さんが私にあんなメールを送ったということは、
とりあえず方向性は別にして私に関心を持っていたということですよね?」
「ま、まぁ、そういうことになるんじゃないんですかね……」
  何だか急に何も言いたくなってきている自分がいる。
誓って佑子さんにそんな気がないのは断言できるのだが、
何と言うか佑子さんに問い詰められているような錯覚に陥ってしまうのだ。
ヤバイな、とうとう被害妄想の毛まで出てきてしまっているのかもしれない。
ちょっと今日は家に帰ったら姉に殴られてこようかな……やっぱ止めとこ。
  雑念を払拭する為に軽く頭を振ってから、再び佑子さんに視線の先を定める。
「多分、佐藤さんは誤解してるだけだと思うんですよ」
「誤解って、どんな?」
「私なら――」
  一拍置いてから、言葉は続けられた。

「――自分の友達が見知らぬ人と仲良くしているのを見たら、不安になると思います」

 客観性抜群のその発言が、俺の中で蠢いてた釈然としない感情を吹き払い、全てを繋げた。
  何だ……俺が勘違いしてただけじゃないか。
俺は今まで佐藤早苗の佑子さんへの行為を、佐藤早苗の悪ふざけだと思っていた。
実際佐藤早苗自身も悪ふざけだと認めてたから、それ以上深く考えはしなかった。
だが、佑子さんの言葉で気付かされた。
佐藤早苗がどんな心境でいたのかということを。
  つまり、佐藤早苗から見たら、俺と佑子さんの関係は物凄く怪しく映っていたのだ。
そりゃそうだ、自分の友達である俺が他校生徒なんかと親密にしてたら、不審に思うのも頷ける。
だから、佑子さんのチョコを蹴飛ばしたのも、
俺にしつこく佑子さんとの付き合いを止めさせようとしたのも、
あのメールを俺に送ったのも……全部俺を心配してのことだ。

 ――結局佐藤早苗は、友達思いだったってだけだ。

 少々そのやり方は過激だったが、佐藤早苗の行為には一片の悪意もなく、寧ろ誠意が溢れている。
それに俺を気遣うあまり佑子さんに強く当たってしまったことに関しても、
土下座してまで謝っている。
ということは、既に事態の半分は綺麗さっぱり解決しているってことじゃないか。
  後の半分は――俺の役目だ。
そもそもこんなにややこしい状況になってしまった要因は一つ、
佐藤早苗が俺と佑子さんの関係を表層的にしか知らないからだ。
佐藤早苗からすれば、俺は道端にたまたまいただけの娘に一目惚れして
好きになったみたいに解釈されているのだろう。
事実、俺はどのような経緯で佑子さんを想うようになったのかをまだ伝えられていない。
喫茶店で話していた時だって、いざ言おうとしたところでコーヒー溢したり何かして
うやむやになってしまったしな。
だから俺は佐藤早苗に理解させなければならない――俺たちがどれだけ”深い”のかということを。
言葉よりももっと単純で正確なやり方で。
「佐藤、もういいから顔を上げてくれ」
  そう言いながらしゃがみこみ、佐藤早苗に手を差し伸べる。
「ありがと……仲川……」
  まだ引け目を感じてるのか遠慮がちに目を伏せたままだが、
それでも自身の左手でしっかり俺の手は掴んできた。
掌に伝わる弱々しい力に揺れかける心を隠しつつ、一気に佐藤早苗の体を持ち上げる。
両の手と足を砂や土で汚している佐藤早苗の姿は、外観に反してとても神聖に見えた。
その汚れが友情の為だと知っているからだろうが、純粋に格好良いと思った。
こいつとはこれからも友達……都合良く行けば親友くらいの関係でいたいな。
  穏やかな気分が自然に表情を柔らかくした。
佐藤早苗に微笑を見せながら、そんな笑顔とは全然合わない言葉を口にする。
「今まで悪かった。しっかり伝えときゃ良かったのに。ごめんな、佐藤」
  一瞬で呆けた顔になる佐藤早苗を見て、俺の言葉が今度はしっかり伝わっていることを確認する。
すぐに続ける。
「今から”教えてやる”から、見といてくれ」
  言い終わった後体の向きを佑子さんへと向ける。
今まで蚊帳の外だったのに突然話へと引き込まれたからだろう、佑子さんは若干体を震わした。
構うことなく佑子さんとの間にあった数歩の距離を即座に詰める。
互いの胸の間にあるのは拳一つ分だけの間隔……って、ちょっと近付き過ぎたな。
ほら、いきなりそんなに迫るから佑子さんが不安げな目でこちらを見上げてるじゃないか。
一歩下がろうかと考えたが、ここまで来て退いたら男じゃない。
  覚悟を決め、咳払い一つ。
「佑子さん、お願いです。”あの続き”、聞いて下さい」
「あの続きって?」
「説明してなかったですよね。俺が佑子さんを煙たがる訳がないって根拠を」
「あっ……それって……」
  瞬間的に顔をりんごのように真っ赤に染める佑子さん。
女の全てをわかった気でいるようにしか見えない少女漫画の男じゃないが、
今の俺には佑子さんが何を期待しているのかが手に取るようにわかる。
もし間違ってたとしても、俺一人が笑い者になるだけで済む。
  自分の言葉によってどのような未来になるのかを幾度となくシュミレーションしながら、
納得を得たところで口を開ける。

「俺は――佑子さんが好きですから」

 これで、言うべきことは言った。
もし俺の告白を佑子さんが受けなかったら、それで何もかもがお終い。
佐藤早苗に『あたしの言った通りじゃん』とか罵られながら泣き寝入りするだけだ。
逆に俺の告白を受けたとしても、それで全ては完結する。
俺と佑子さんは晴れて結ばれるし、佐藤早苗にも自然にこの事実を受け入れさせることができる。
まさか佐藤早苗も、会って二日”だけ”の男の告白を受け入れるだなんていう風に
佑子さんのことを軽視してはいないだろう。
そうなると、佑子さんが俺の告白を受けるというのは、
俺たちが即興の関係じゃないことを示すことに繋がる。
  まぁそれにしても……本当に言ってしまったんだな。
覚悟を決めていたつもりだったが、やはり軽い後悔の波が心を濡らしている。
正直フラれたらどうしようかってマイナス思考ばかりが先走ってしまっている。
こんなに格好付けておいて俺の勘違いだったら、多分完治不能の女性不審症に陥るだろうな。
そうなったら「男の世界」の住人になって一生友情に生きていくことにしよう……
うわっ、想像したら吐き気してきたよ。
  一生に一度のお願いを神に捧ぐこと数秒。
「……私も……」
  完全思考停止。

「私も、仲川くんが好きです……。他の誰よりも……」

 数秒後現実を飲み込んだ瞬間に体を包み込んだのは、穏やかな多幸感だった。
何だか不思議な感じだ。
思い切りガッツポーズ作ってもっと喜んでもいいくらいの奇跡なのに、今はただ呆然としていたい。
心に蓄積されていくかつて味わったことのない温かみを全身で感じていたい、
というのが妥当な表現かな。
もっと直接的に言えば――俺が知っているどの表情をも凌駕した佑子さんの最高の笑顔を
ずっと見続けていたいってところだ。
  絶対に俺は今日で一生分の幸せを使い切ってしまったな。
無論それで構わない。
たとえそうだったとしても、それ以上に大切なものを俺は手に入れたのだから。
「それってつまり、俺の――」
「はい、仲川くんの彼女にして下さい」
  未だに現実を虚ろにしか理解できない小心者な俺が今更なことを訊こうとしたところを、
佑子さんの言葉と――差し出された右手が遮った。
この右手を掴めば俺と佑子さんは恋人になる。
ならば、選択肢は一つしかない。
あぁないとも……だけど、大丈夫かな。
恋愛を含めて何事も出だしがかなり肝心だよな。
いや手は洗ってるけど、さっきまで緊張状態の真っ只中にいたことを考えると、
今の俺って汗ばんだりしてないだろうか。
万が一にでも気持ち悪いとか思われたらいきなりビリでレーススタートになっちゃう訳であって、
ここは一旦ハンカチで拭いた方が……ってそんなもんは持ってないしどうしよう…………。
「佑子さん!」
  いざとなるとうだうだ小言ばっかり言うようになるチキン根性に喝を入れる為、雄叫び一発。
うん、何だか佑子さんの名前を呼んだら物凄く自信がついた。
「は、はい! 何でしょう……」
  耳まで真っ赤にした佑子さんが俯いた状態で尋ねてきた。
その佑子さんが空に投げ出している右手を、俺は両手で強く握り締める。
あまりの柔らかさに驚き、手繋いだままでいたいななんて煩悩に支配されそうになる心を叱咤する。
そして――。

「俺、佑子さんの彼氏になります! てかならせて下さい! よろしくお願いします!」

 さっきまでの不気味なまでの落ち着きはどこへやら、俺の頭の中は酷くざわついている。
本当に、土手の真ん中で俺は何大声でこんなこと言ってるんだろ……。
これをクラスの連中に聞かれてたら明日から登校拒否起こしそうだな。
まぁ断られてはいない訳だから別にいいんだが……
て、逆に断られてないと、彼女なし同盟の連中共に何されるかわからんな。
きっとあいつらとの友情もそこまでになってしまうのかな。
ごめんな皆、仲川信悟会員番号二十八番は今日を以って同盟を脱退します。
天の上から皆に彼女ができることを願いつつ、佑子さんとラブライフを共有するよ。
「こちらこそ、ありがとうございます」
  気付けば顔を上げていた佑子さんが、微笑みの爆弾を投げかけてきた。
あれ、何で滅茶苦茶苦しい壁だってぶち壊す勇気とパワー沸いてきてんだろ?
まぁいいや、とにかく今はこの幻想とさえ思える甘美な事実をたっぱり堪能させてもらおう。
「何だか、恥ずかしいですね」
「そうですね、佑子さん」

「へー……。良かったね仲川。おめでとう……」

 妄想ワールドの玄関口まで来たところで、一気に現実へと引き戻される。
声のした方を向くと、佐藤早苗が両手を小さくパチパチと叩いていた。
そういえばこいつのことをすっかり忘れていたが、元々は佐藤早苗の為にやったことだったんだよな。
祝辞を述べてくれるところから察するに、
佐藤早苗にはちゃんと俺と佑子さんの関係について理解してもらえたようだ。
  これで一件落着。
一時はどうなるかとヒヤヒヤしたが、ちょっと勇気を出せば怖いくらい簡単に済む話だったな。
「おう、サンキューな」
  意気地なしの俺が結果として佑子さんに告白できたのは佐藤早苗のおかげでもあろうから、
そのことに関して感謝の意を示す。
つい前は怒鳴ってたくせに心変わりの激しい奴だな俺は、なんて思った時――
「それじゃあね……」
  ――結局終始俯き気味だった佐藤早苗は最後も俺に顔を見せることなく、
俺と佑子さんの間を抜けて走って行ってしまった。
佐藤早苗が通る際に佑子さんの手から離された俺の手が宙を虚しく泳いでいる。
再び自分から繋ぐのは恥ずかしかったので仕方なくポケットにその右手を仕舞いながら、
手でメガホンを作る。
そして、既にかなり遠くに見える佐藤早苗の背中に向かって叫ぶ。
「佐藤ォー! これからも友達でいてくれよなぁ!」
  生憎その声は届かなかったのか佐藤早苗が止まることはなかったが、
俺の心は九月一日に夏休みの宿題を終わらせた時のような達成感に満ち溢れていた。

「それじゃ帰りましょうか、佑子さん」
「そうですね。もう暗いですもんね」
  いつの間にか夕陽は沈んでいて、
この時季ではまだ空の受付担当時間が長い月が地面を照らしていた。
携帯電話で確認してみると、もう時間は六時を裕に超していた。
別に俺は男だし、門限もないから日付が変わりさえしなければ誰にも心配されることはないのだが、
心配なのは佑子さんだ。
夜道をこんな可憐な女性が歩いていたらやりたい盛りの男子生徒や、
人生に疲れたおっさんやらに絡まれるかもしれない。
こんな時間まで残すきっかけを作ってしまった訳だし、
そこら辺の責任はしっかり果たさないといけないな。
……とかいうのは勿論、佑子さんと一緒に帰る為の口実な訳だが。
  とりあえず、それとなく聞いてみることにする。
「そういえば暗いですね。何かこんなに暗いと一人じゃ不安になりません?」
「そうですね、暗いとことか狭いとことか私苦手ですし」
  おっ、結構いい方向に話が進んでいる。
もしかしたら本当に、夢の「ナイトツアー、ウィズ佑子さん」が実現するかもしれない。
「ですよね。あの、よければ……」
「でも、迎えが来るから恐くないです」
  良かった、これで佑子さんの安全は守られた……って、迎え?
「あの、答えられる範囲でいいんですが、迎えって一体?」
「それはですね……」
  そう言うと、佑子さんはスカートのポケットから携帯電話を取り出した。
これを見てるとどうしても未だにあのメールのことを思い出してしまう自分がいることに気付き、
嫌な気分になる。
”あれ”は佐藤早苗の過度な心配が生んだ悲劇の爪痕なんだから、早く忘れないとな。
  複雑な心境な俺をよそに、佑子さんは少し携帯を指先で弄った後、画面を突きつけてきた。
「この番号に掛けると、迎えが来るんですよ。便利ですよね」
  笑顔な佑子さんが持っている携帯の画面に映っているのは、
「迎え専用」の文字と普通の携帯電話の番号だった。
「佑子さん? ……その迎えって、黒くて凄く長い車だったりしません?」
「リムジンっていうんですよね、あれ。どうやって駐車してるのか不思議でなりません」
  物凄く普通に、物凄くおかしなことを言ってる気がするのですが……
と言いたいのを寸でのところで思い止まる。
「そうですね……。ところで、佑子さんの家には、ご家族以外にどなたかいたりしますか?」
「父が雇っている使用人が何人かいるくらいで、後は妹と両親だけですよ?」
  使用人か……物凄くいい響きですね。
貧民に片足突っ込みかけの俺の家じゃ数光年待っても縁のない存在ですよ、本当に。
それにしても使用人が迎えに来るんじゃ、俺が誘ったって嫌がるだろうな。
下手したら、『夜道は危ないから一緒に帰ろうね』とか鼻息荒くしながら言うおっさんと
同じように見られるかもしれない。
惜しいが、ここは我慢だ。
大丈夫、まだまだ俺たちの恋人生活は始まったばかりだ。
焦らず、これから徐々に距離を詰めていけばいいんだ。
「ありがとうございます……。そんじゃ俺はこれで失礼しますね」
「え、帰っちゃうんですか?」
「はい、姉に用事がありますので」
  そう言いながら、気持ち良く別れられるように笑顔を向ける。
「これから絶対に佑子さんを幸せにしますんで、今後ともお願いします! では」
  そして、そのまま全速力で駆け抜けて行く。
恥ずかしいことを言った後ってのは妙に走りたくなるなとぼんやり思いつつ、
俺は土手の真ん中をどこまでも突っ切っていった。

 ――数分後。
「ぜぇ……ぜぇ……ぶはっ……」
  そこには、土手の真ん中で無様に息切れした俺の姿が。
うん、ここ一ヶ月佐藤早苗のことで浮かれまくって部活出てなかったのをすっかり忘れてた。
物凄く体力が落ちてる。
ヤバイな、このままじゃ今年のマラソン大会は三桁突入かもしれないな。
  額に浮かぶ汗を袖で拭いつつ辺りを見渡し、人が他に誰もいないことを確認しておく。
正直に言うと、ここまで走ってきたのは佑子さんに対する恥ずかしさもあるが、
もっと別の理由があるのだ。
誰もいないここならうってつけだなと何度も人がいないことを見渡しながら確かめ、
自分で納得できたところで鞄を適当なところへ放り投げる。
そして、天を仰ぎながら、両の拳を握り締める。

「よっしゃぁあああああ!!!!」

 心の中に積もりに積もった嬉しさを声に乗せ一気に吐露する。
俺の雄叫び木霊する土手の真ん中で、俺は自然に佑子さんの顔を浮かべていた。
あの人とこれから恋人として接すことができると思うと……
頬が緩むのを止められない自分がいるのに気付いた。

「ただいまぁ! 母さん、姉ちゃんどこ?」
「沖美なら自分の部屋だけど」
「サンキュ」
  一人土手で咆哮の花火を上げた後、俺は家に帰ってきた。
そのまま台所で晩飯を作ってる母親に変に思われないように、
自然な流れで姉の部屋がある二階へと向かう。
そして姉の部屋の扉を軽くノックする。
「姉ちゃん、俺だけど入っていい?」
「どうぞ〜」
  腑抜けた姉の声に安堵しながら、俺は静かに扉を開ける。
何故か既にパジャマ姿の姉はまだ湯気の立っている黒いショートヘアをそのままにして、
物が散乱したベッドの真ん中で嬉しそうに漫画を読んでいた。
「おい、それ前も読んでなかった?」
「いいの、三部は何度読んでも飽きないんだから」
  漫画から目を離さないまま姉は返答してきた。
てか人と会話する時は相手の目を見て話そうぜ、姉弟なんだかさ。
「まぁそれはいいんだ。姉ちゃん、悪いんだけどこれ洗ってくれない」
  そう言いながら、俺はあらかじめベルトを外しておいた制服のズボンを脱ぎ、姉に差し出す。
「えぇー、嫌だ。何で高校男子のむさ苦しいくて汗臭いズボンをわざわざ洗わなくちゃならない訳?」
「そう言わないでくれ。俺は洗濯機の使い方をしらないんだ。それにだな……」
  俺はズボンの一部分を強調するように姉に見せ付ける。
勿論、見せているのは佐藤早苗との一件でコーヒーを溢して染みになってしまった箇所だ。
黒に対しての茶色だからそれほど目立ってはいないが、
やはり近くから見ればわかってしまうし、何よりコーヒー臭い。
これをどうにかしたいね。
「うわっ、やっちゃったね。おとなしくクリーニングに出せば」
「そんな金掛かることできるかよ」
「自業自得でしょ」
  うっ……そこを突かれたら何とも言えない。
いちいちことの顛末を説明するのも面倒臭いし、かといって僅かな小遣いで
細々とやりくりしている高校生一般男子の俺にクリーニング代なんてとんでもない。
それだけで一ヶ月ピンチだ。
  しょうがないな、奥の手を使うとするか。
「頼む姉ちゃん。『俺は今すごーく機嫌がいいんだ。
俺の今の気分と同じくらい晴れた空が映りこむぐらいピカピカに磨いてくれ』」
「”つけ”は高くつくよ?」
  そう言いながら姉は喜んで俺のズボンを受け取った。
ふぅ、一昨日三部読んでといて正解だったな。
それにしても、自分の好きな漫画のネタに反応するなんて、姉もまだまだ子供だな。
「よろしくね」
  俺より三つ上の姉にそう思いながら部屋を出ようとする。
「待って、信悟。私の部屋から出て行く時は……」
  しかし不意に止められる。
何か忘れ物したかなと考えながら振り向くと、姉が物欲しそうな目で俺を見つめていた。
……というより、”言って欲しそうな目”だな。
ま、クリーニング代浮くんだし、それくらいいいかな。
  額に手をかざしながら、姉曰く『流暢な感じ』で言う。
「アリーヴェデルチ(さよならだ)!」
「うん、六十点だな」
  妙に厳しい姉の採点基準を別に恨むことなく、俺は揚々と姉の部屋を出た。
  そして、その足でそのまま自分の部屋へと入る。
さっき姉のベッドの上の有様を見てちょっと引いてたが、俺の部屋はそれ以上だった。
というか足の踏み場が殆どない。
いつか整理しようという永遠に達成されることのないであろう約束を自分に取り付けながら、
ベッドへとダイブする。
ちょっと固いベッドの感触に包まれながら、
佑子さんの手はもっと柔らかかったなんて変態じみたことを夢想してみる。
これからはあの手に自分の手を絡めることが許される訳か……いいな、それ。
小鳥の囀り響く通学路を一緒に歩いている時にふと手を繋ぐと
顔を真っ赤にしながら繋ぎ返してきたりとか。
電車の中で吊り革の代わりにお互いの手を握り合ってそこから伝わる体温に
心臓を高鳴らせるなんてのもシチュエーション的にいいかもしれない。
後は佑子さんの命令の赴くままに自分の精液のついた指を舐め取るとか……
って俺何でこんなキモい妄想しちまったんだろ。
  ベッドに頭を叩きつけるが、ただ反発するだけ。
阿呆らしくなり、ベッドに横になりながらこれからのことを思う。
佑子さんと甘い生活を送り、そのことを佐藤早苗に冷やかされつつも楽しく笑い合ったり……ん?
  「佑子さん」……「佐藤早苗」……この二人を同時に思い浮かべた時、
ふとこんなことを口ずさんでいた。
「あの二人……今日何で一言も会話しなかったんだろ」
  他人同士なんだから当たり前かと自問自答を完結させながら、
俺は母親の「ご飯よー」の声に誘われて呑気にリビングへと向かった。

―――――――――――――――――――――――――

 ――『佐藤はまぁ、俺の友達ですよ』
  ――『これからも友達でいてくれよなぁ!』

 ――『友達』……『友達』……『友達』……『友達』……。

「違う!!」
  昂ぶった感情を抑え切れず、手元にあった枕を壁に力の限り投げつける。
そこまで派手な音を立てることもなく、叩きつけられた枕はすぐに床へと落下した。
何も抵抗せず流れに従うその様は、まるであたしを嘲笑しているようで余計に腹が立った。
  何……このまま現実を受け入れろっての!? あたしは仲川の友達? 冗談じゃないっ!
あたしは仲川の彼女だ! 友達なんて枠に収まるほど小さい関係じゃないんだ!
  だって、あたしたちには”絆”がある……。
”あの日”のことを思い出しながら、毎日ポケットに入れている”あのハンカチ”を手に取る。
デザインも何もないこの質素なハンカチに、一体どれだけの想いが詰まっていることか。
そう、これはこの世で唯一仲川の優しさを具現化しているもの……。
仲川が持っている、人を上辺だけで判断しない何よりも澄んだ心を顕著に示しているんだ。
そしてそれを持たされているのはあたし……そのあたしが、どうして仲川の彼女じゃないんだ!?
どうしてあんな訳のわかんない女に仲川の彼女の席を奪われなければならないんだっ!? おかしいっ!
  ……そうよ、わかっていた。最近の仲川、ちょっと変だったもんね。
何故かあたしがあげたチョコが義理だとか言い出したり、
どこから湧いてきたのかわからないような女に関わったりするし……。
でも全部、あの女のせいだよね。絶対に仲川に何か吹き込んだに違いない。
  全く……調子に乗るな。何が『誰よりも仲川くんが好きです』よっ!
あたしは仲川のことを一年も想い続けて続けて……それでやっと結ばれようとしたというのに。
たった二日しか仲川と接していないようなあの女が、仲川と付き合っていいはずがない。
どうせ仲川の優しさに惚れ込んだんでしょうけど……既に仲川の”隣”はあたしが貰ってるの。
あんな仲川の上辺だけを見て好きになっただなんて勘違いしてる馬鹿女に……仲川は渡さない!
  ……渡さない? 何を言ってるのかしら、あたしもちょっと頭を冷やさないとね。
仲川はあの女のものなんかじゃない。仲川はずっとあたしのものだ。
昔を思い出すんだ。あたしが勇気を出せず告白できない間の一年間、
あたしが仲川を忘れたことがあった?
逆に、仲川があたし以外の女を見たことがあった?
  確かにその関心が外面的なものだとはわかっている。
だけどあたしと仲川は形式として結ばれなくても、
その間に割って入れる者は誰一人としていなかった。
それは、あたしたちが結ばれるべきだということの証明だ……絶対だ!
  だから、あの女もあたしと仲川の関係を壊すことなんてできない。だけど、今は引いといてあげる。
今回は”初めてのこと”で取り乱し過ぎて、仲川からの信用を著しく低下させてしまったから。
まずは、今まで通りの関係を継続できるようにおとなしくしていることにしよう……。
そういえば、あの時はあの女に助けられたな。
あの女に謝ったのなんて建前だけで、
理由もなかったから仲川にそれを聞かれた時はどうしようかと思った。
そしたらあの女、間抜けにも適当な理由を勝手に作ってくれちゃった。
おかげで好感度が少しだけ上がった……”友達”というベクトルの方へとねッ!
  えぇ、そのことに関して、物凄く感謝してるわよ。
でも、すぐに返してもらうから……何倍もの利子をつけて、絶対に返してもらうから。
あの女にも、自分の好きな人が盗られていく苦しみをしっかり教えてあげる。
その為にも、せいぜいしばらくの間仲川と過ごして、仲川のことをもっと好きになるがいいわ。
  ――嵌れば嵌るほど、抜け出す時は大変だけどね……。
「ばーか」

 

「早苗、ご飯できたわよ……。って、どうしたの?」
「どうしたって? お母さん」
「何だか、嬉しそうに見えるわよ。いいことでもあった?」
「ううん、ないよ」
「そう、じゃあ何で?」

「これから、いいことがあるから」

―――――――――――――――――――――――――

 三月の冷たい夜風が、興奮し切った心を気持ち良く冷やしています。
これだけ気持ちに抑揚があった日は初めてです。
悲しい、辛い、死にたい、そんな負の感情も沢山経験しました。
でも最後にはやっぱり最高のハッピーエンドが待っていました。
  私にとっての初めての恋人――仲川信悟くん。
仲川くんとはたった二日間しか時間を共有していません。それだけ関係が浅いということも認めます。
でも、それでもこんなに想いが通じ合ったというのは――
私と仲川くんが結ばれる運命だったということなんですよね。
”同じ傷”は私と仲川くんが会う為のきっかけであり、
二人三脚で生きて行く為のリボンなのでしょう。
そしてそれは同時に、これからもそれは私たちを確固たるものとして結びつける為の
”絆”として存在し続けます。
”傷”は事実として消えませんが、それ故の永遠……何て素晴らしいのでしょう。
  ……それにしても、今日は今後のお付き合いについて、反省点を見出しましたね。
私はまだまだ仲川くんのことを知りませんし、それはこれから知っていけばいいだけです。
でも、”これ”だけは忘れてはいけませんね。

 ――仲川くんが私を嫌うことは絶対にない。

 私は”あんなメール”一つに惑わされて、仲川くんに醜い一面を見せてしまいました。
これについては今後も気をつけておかなければなりませんね。
今回のことについても、もしかしたらあれで仲川くんから愛想を尽かされていたかもしれませんしね。
  とにかく私はこれから仲川くんの彼女として頑張っていけばいい。
そうすれば、自ずと仲川くんとの幸せへの道は切り開かれていきます。必ず。
そのことに気付かせたのは確か……佐藤さんでしたっけね。
非常に可愛らしい容姿をされた方でしたね、彼女。
男の方なら殆どの方はあぁいうのがタイプなんじゃないかと思いますよ、本気で。
それに仲川くんが友達でいたいと言っていたほど人格的にも優れている方なのでしょうから、
私も仲良くなりたいですね。
  ……まさか、仲川くんのことを好きな訳ないでしょうからね。
万が一にでも佐藤さんが仲川くんを好きだとするなら……
言い方が悪いですが、それは非常に滑稽なことですね。
たとえば私のチョコを蹴っちゃった時ありましたけど、
もし”そうであるのであれば”あれはわざとだということになります。
それをあたかも事故のように装っていたってことになりますけど……
正直、わざとにしか見えませんでした。
あのメールだって「仲川くんが心配」だなんてのはただの口実で、
結局は醜い嫉妬に狂っただけということですよね……
て、それは私が咄嗟に考えてあげた言い訳でしたね。
何だか仲川くんがやけに佐藤さんに関心を払うので、
離れさせたい一心でやってしまった感情的な行動でした。
そこも反省しないといけませんね。
  いずれにせよ、佐藤さんは自分がしてることによってどんどん状況を悪くしているんですから……
馬鹿としか言い様が……。
あっ、勿論”仮の話”ですから。好きでないなら全然問題ありませんからね。
これからも仲川くんの大切なお友達として高校生活を謳歌して下さいね。
  ――そう、お友達としてね……。

 

 気付けば、迎えの車がやって来ていました。
「お待たせしました」
  中から出てきた使用人の一人の男性が運転席から出てきて、助手席へと私を案内してきます。
ドアが開けられ、中に入るように促され、そのまま助手席へと座ります。
この幼少の頃から繰り返されてきた形式的で無感動な行いも仲川くんが行ってくれたら
どれだけいいことか……。
「それでは」
  運転席に戻った使用人が、車のエンジンをかけます。
その姿を隣から眺めながら、口を開きます。
「すみませんが、二学期からは送り迎えはいりませんので」
「良いのですか? どうかされました?」

「いいことがありましたので」

―――――――――――――――――――――――――

8

 これは現実か? いや、ありえない。こんなことがある筈がない。
だって、常識的に考えておかしい過ぎるだろこれは。
誰か嘘だって言ってくれ。
満面の笑みで「ドッキリでしたぁ〜!」とか愉快な声発しながら否定してくれ。
今なら許してやるから。寧ろ謹んで感謝させて頂きますからお願い……。
「うわ、何これ。」
  後ろの席から、侮蔑をこれでもかという位込めた声が飛んできた。
その声の大きさに驚き、半ば反射的に答案用紙をくしゃくしゃに握り潰して懐に隠したが時既に遅し。
俺の席を起点として、どよめきの波紋が坂道を転がる球の如き速さで周りに広がっていく。
そして反論の余地も許されないまま、気付けばクラスメートの殆どから
痛々しい視線攻撃を一身に浴びせられていた。
ここまで凄惨な対応を取られると、何だか逆に清々しさすら覚えてしまった。
いいや、もうどうだっていい。
「0点って嘘だろ!?」
  教室の隅々にまで響き渡るような大きな声を、悲壮感漂わせながら俺は叫んだ。
そうさ、悲しいことは笑いの種にしてしまって、その場だけでも笑い者になってしまった方が楽だ。
予想通り、近辺にいる奴らに止まらず、クラスの殆どの連中が俺の席に群がってきた。
その皆が揃いも揃って、バーゲンセールス会場内のおばさんのように
俺の答案を奪い取ろうとしている。
抵抗する気など始めからなかったので、あっさりそれは生徒の波へと消えていってしまった。
一瞬の沈黙の後、口々に言葉が飛び交った。「馬鹿だ」「仲川って馬鹿だったんだ」
「仲川は馬鹿」……おい、さすがに言い過ぎだろ。
勿論こんな点数――といっても点なんかないんだが――取ってしまった俺が悪いんだから、
言い返すことなんて出来る訳もない。
だって0点って何だよ……。一問も合ってないんだぜ。“○”なしの解答用紙なんて初めて見たよ。
今まで漫画の世界でしかありえない非現実的過ぎることだと思っていたのに、
まさかそれを取ってしまう日が来るなんて……。
そりゃ確かに今回は本当の意味で何も勉強しなかったさ。ノー勉だったよ。仕方ないだろ。
バレンタインで浮かれて、ホワイトデーで沈んだと思ったらやっぱり浮かれて……
なんていう風な気持ちの緩急の激しい日々を送ってたら、
学年末考査のことなんて忘れちまうだろ誰だって。
いや、この際言い訳はどうでもいい。素直に俺がやらなかったのがいけない。
でもさ、普通何かしら当たるもんじゃないのか?
だって、この英語のテスト、マークシートなんだぞ。
全部記号の問題で0点取るなんて、運が悪かったとか言い様がない。
いや、ある意味運が良くなければこんな点数取れないか……。
「補習は確実ね。勉強しなかったんでしょ? ばーか」
  言われなくても分かっている。一々言うな、俺の傷跡を抉って楽しいか?
見苦しい言い訳をしそうな口を真一文字に結び、睨みつける準備を整えながら俺は振り向いた。
先程クラス中に醜態を晒すきっかけとなった大声が発せられた場所には、
当然のことながら――或いは当然のようにあいつがいた。
今となっては彼女持ちとなった俺ですら、思わず再確認させられてしまう程の美貌を有する女子――
佐藤早苗だ。
こいつとは一悶着あったが、今では当たり前のように接している。
かつては話し掛けることはおろか、見つめることすら憚れた雲の上の存在だったというのに、
気付けば良き友達となっている。
その起点とも言えるホワイトデーを振り返ってみて、今更ながら、
俺は佐藤早苗にフられて――勿論佐藤早苗自身は俺に義理チョコをあげた、
という認識しかないだろうから、フったとは自覚していないだろうが――良かったと思っている。
仮にあの日から俺と佐藤早苗が付き合い始めたとして、
果たしてどこまで砕けた関係になれただろうか?
少なくとも緊張が先走ってしまい、
俺が佐藤早苗をリードするなんて展開はありえなかったに違いない。
もっと極端に言えば、学園一の美人と付き合えているという優越感に浸るばかりで、
彼女を愛すことを疎かにしてしまっていたかもしれない。
要は俗に言う、“恋をしている自分に酔う”という状況に陥っていた可能性が高いってことだ。
つまり、フられたことである意味で吹っ切れられたのは、
真の意味で佐藤早苗という人物を理解する為のきっかけになったという意味において正解だったのだ。
そして何より、そのおかげで――佑子さんに会えた。
だから、佐藤早苗には感謝してもし切れないくらいだ。

 だが、それと“これ”とは話が別だ。佐藤早苗のせいで、俺は恥をかいてしまった。
俺が0点を取ったことが悪いという事実を棚に上げてはいるものの、
実際佐藤早苗が言わなければ、俺には可能性があった。
補習を受ける程に悪い点数だということは知られていても、その悪い点数というのにも幅はある。
それこそ、「後一点で赤点抜け出せたのに」だとか、クラスの連中には幾らでも言い訳は利いた。
その可能性を完膚なきまでに叩き潰されてしまったのだ。……この恨み、どう晴らしてくれようか。
視線にありったけの呪怨を込めながら佐藤早苗をしばらく睨んでいると、
突然顔を真っ赤にして目を逸らされてしまった。
睨めっこで勝ったみたいな微妙な優越感を感じた。
思わず笑みが溢れそうになった途端、隣の席から、
最早瀕死状態といっていい程ボロボロの答案用紙が返ってきたのだが、
それを受け取ろうとした刹那、隣の奴の視線が憐れみを含んでいることを俺ははっきり理解した。
苦笑いするしかなかった。
「そういうお前はどうなんだよ」
  未だに耳まで赤く染めながら俯いている佐藤早苗の、
隙だらけの机に積まれている答案用紙の数々から一枚を抜き取る。
俺の希望としては、是非赤点辺りを取ってくれていると嬉しい。
そして佐藤早苗の肩を叩きながらこう言うのだ、「同じ穴の狢だな」と。
うん、そうすればこのやり切れない俺の思いも少しは救われる。
ということで、そんな淡い期待を抱きながら、俺は佐藤早苗の答案用紙を引っ繰り返して点数を見た。
「あっ、仲川それあたしの!?」
  佐藤早苗の驚愕を露わにした声が聞こえてきた時には、
既に俺の目には更に驚愕すべき事実が映し出されていた。
俺は確か赤点であって欲しいと願った筈だ。そして佐藤早苗の点数はというと……。
「お前、これ俺と同じ――」
「それ以上言うな馬鹿ァ!」
  もう沸騰するんじゃないかと杞憂してしまいそうな程真っ赤になった顔面を隠そうともせず、
佐藤早苗は一目散に俺の手から答案用紙を奪い返した。
周りに聞いてくれと言わんばかりに喚いているのと、強引なその仕草が災いし、
先まで俺に集まっていた奇異の視線は一瞬で佐藤早苗へと移って行った。
荒くなった息をゆっくり整えている内に、ようやくそのことに気付いたのか、
佐藤早苗はグシャグシャに丸めた答案用紙をそのままに、机に突っ伏してしまった。
うん、その気持ちは痛い程分かるぞ。同士よ。
俺の時とは違い、佐藤早苗のその慌て様に何となく“事態”を察したのか、
クラスの皆は何も追及しようとはしなかった。
その、暗黙の了解ですよ的空気が余計に相手を追い詰めるんだということは、
同じ宿命の下に生きる俺にしか分からないだろうな。
そうさ、誰だって辛いよ。0点取っちゃねぇ……。
悪い点数を冗談半分で茶化してやりたいな位の気持ちだったが、
自分と同じ――しかも最低点となると、責める気も露の如く失せてしまう。
自分がされて嫌なことは他人にはするなってことだ。
「……仕方なかったのよ」
  しばし再起不能だった佐藤早苗が急に机からむくっと起き上がり、
引き攣った笑顔で訴えかけていた。
その割り切った感の伝わる痛々しい表情……。
俺ならお前の気持ちを分かってやれるから、そんな顔をするな。
俺は佐藤早苗の両肩を掴む。
「そうだよな、仕方ないさ。努力だけじゃどうにもならないことはある。
でもな、人にはその能力を活かせる場面があってだな――」
「変な勘違いしないでね。今回は何も勉強しなかっただけなのよ」
「失敗した奴は得てしてそう言うよ。事実俺も心の中ではそう思っている。
だがな、努力も才能の内でな――」
「だからっ! すればあたしは出来るの!」
「はいはい、分かったよ。佐藤早苗ちゃんは出来る子だな」
「何よ! 信じてな――あ」
  頬を膨らまして俺を粘っこい視線で見つめていた佐藤早苗の表情が突然固まった。
だがすぐに、それは閃いたと言いたげな悪戯っ子さながらのものへと変貌していった。
前にも思ったが、こいつは本当に表情がコロコロ変わるな。気分屋か。
まぁそれは置いとくとして、こういう時って大抵いいことないんだよな。
何だか非常に嫌な予感がするな。
「ねぇ、あたしは“出来る子”なんだよね」
「え、いや、その――」
「ということで出来る私が、出来ない仲川に勉強を教えてあげましょう。文句ある?」
  やられた。幾らなんでもここから「お前馬鹿だろ」なんて言える訳がない。
そりゃ佐藤早苗だって冗談混じりに言っているんだろうけど、
それでもこんな笑顔な彼女の自尊心を傷付けるなんて、男としてやってはいけない。
「ありませんよ、佐藤先生」
「任せてね」

 まぁ“−”を二回(偶数回)掛けりゃ“+”になる。
それに二人いれば、文殊とまではいかなくても一般高校生並の知恵程度は捻り出せるかもしれない。
限りなく可能性は零に近いだろうが。
「それじゃ今日から早速仲川の家でやるからね」
「はい?」
  おいおい、それは初耳だ。寝耳に氷柱をぶち込まれた気分だぜ全く。唐突過ぎる。
どういう風に考えればそういう風に話を持っていけるんだ。
思考回路がショートしているんじゃないのか?
「幾らなんでも急過ぎるだろ。どれだけやる気満々なんだよ」
  さすがに直球で拒絶するのは可哀想だから、少しやんわりと拒否してみる。
頼む佐藤早苗、ここは空気を読んでくれ。
「何言っているの。どうせ仲川もあたしも英語の補習課題貰うんだから、
早目にやっちゃった方がいいでしょ」
  無駄だったようだ。俺の意志なんて汲み取るに値しないよな、どうせ……。
だが、現実問題として補習課題は厄介だ。
何度か赤点になったことはあるが、その全ての時に於いて、
俺はとんでもない量の補習課題を出された。
しかも今回は時期が悪かった。
学年末という節目での失敗、春休みには宿題がない分それだけ暇があるという事実、
そして何より酷いのは0点だということ……。
ほぼ確実に、恐ろしい量の課題が出されるだろう。
だが俺は、自分が危機感を感じても体は動かない人間だと自覚している。
大抵夏休みの宿題も9月1日の日の出を見るまで終わらないような男だ。
そんな俺が、本来遊ぶ為にあるような春休みに課題を早目にしようだなんて思う訳がない。
おもけに、その課題は夏休み以上のものだと推測される。危険だ。
それに今回はもう一つ――佑子さんの存在が背景にある。
俺の初めての彼女である佑子さんと春休み中に命一杯楽しむ為には、この課題は邪魔過ぎる。
俺はデートしている時に、課題という雑念に支配されるのは真っ平ごめんだ。
それなら――俺を監督してくれる人なら誰でもいいが――
佐藤早苗と勉強を共にするというのは悪くない選択だ。良し、決めた。
「それもそうだな」
「やけに素直ね」
「俺にもやりたいことがあるんだ。てことで、課題が終わるまで宜しく頼む」
  俺は佐藤早苗の両手を掴み、決意表明を握りしめる力によって示してみせた。
「え? 課題が終わるまでってことは……終わるまでずっと仲川の家に行けってこと?」
「あ、悪い。嫌だった?」
「いやいや、全然気にしてないよ!」
「フリじゃないだろうな」
「とんでもない! 是非家に上がらせて頂きます!」
  あれ、何か立場がごちゃごちゃになってないか? まぁ、細かいことは気にしないで良いや。
「そんじゃ、帰りは一緒に帰ろうな」
「う、うん……」
  喜怒哀楽を絵に描いたように多種多様な表情を見せてくれた佐藤早苗だったが、
最終的には真っ赤な顔に落ち着いた。
リンゴみたいで可愛いな、やっぱり。
なんて呑気に思いつつ周りを見渡すと、クラス中の視線が俺と佐藤早苗に集中していることに、
今更ながら気付いた。
どうやら今までの会話、全部聞かれていたらしい。ご丁寧に先生まで興味津々なご様子だ。
口元が厭らしく釣り上がっている。
しくじったな、変な噂立たないといいな。まぁ、どうでもいいことだけどな。

「本当に行っちゃっていいの?」
「良いんだよ。何だよ、俺の家がダンボール箱だとか妙な杞憂してないか?」
「そうじゃないんだけど……」
  全く、さっきからずっとこの調子だ。
先生から笑顔でテキスト(英語)五冊を貰ってから、色々な意味で重い足取りで、
家路を歩いて売るのだが、隣にいる佐藤早苗は終始俺と目を合わせようとしない。
何だか後ろめたいことでもあるのかと邪推してしまいそうな程緊張でガチガチの様子を見ていると、
今更になって自分の言葉を後悔しているのではないかと疑ってしまう。
誰しも自分の言葉の重みを知るのは言った後だけだ。
とは言っても、別に佐藤早苗に勉強を教えて貰おうだとかいう気はない。
あくまで二人でやれば少しは効率が上がるかなという期待を込めての行動だ。
勿論そんなことを言って、佐藤早苗のプライドを切り裂くことも出来ないので、
結局佐藤早苗自身は不安に駆られるしかないのだろう。
……ちょっと申し訳ないことしたな。謝ろうかなという考えが浮かんだ刹那――。

『BooBooBooBooBoo』

 ポケットからくぐもった音が聞こえたと同時に、バイブレーターの振動が伝わってきた。
マナーモードにしておいた携帯をゆっくり開く。宛先人の名前を見て、瞬時に応答する。

『もしも――』
「どうも佑子さん! 仲川です!」
『ふふ、元気そうで何よりです』
  あぁ、このエンジェルボイス……堪んないね。まさか佑子さんから電話をもらえるとは。
そういえばこれって佑子さんからもらう初めての電話なんだよな。
メールは一通だけ、『勉強頑張って下さいね』って来ただけだしな。
そういえば確かあの時は学年末考査一日前だった筈。
物凄くタイミング良く来たのに、何であのメール見て試験のこと思い出さなかったんだ俺は……。
まぁとりあえず佑子さんとの話に集中だ。今の俺は最高に幸せの時間を満喫出来ているんだからな。
「それで、どうしたんですか?」
『あのですね、今日仲川くんの学校では学年末考査が終わりましたよね』
「はい、そうですよ」
  何で佑子さんそのこと知っているんだろ?
『ですから、宜しければ会ってお話とか出来れば嬉しいなって思って』
  そんな些細な疑問は、この佑子さんの言葉によって簡単に脳内で淘汰されてしまった。
やばい、彼女ってこういうものなんだ。
こうやって自分を求めてくれるものなんだ。
今まで“求める”ことしか知らなかった俺にとっては、
“求められる”というこの経験は非常に貴重且つ頬が攣りそうなほど緩む嬉しいことなのだ。
やっぱり佑子さん、あなたに会えて良かった。これからもっと佑子さんのことを俺は知りたい。
もっと佑子さんと同じ時間を共有したい。
だから――早く課題を終わらせないと、うん。
「……ごめんなさい」
『え?』
「一週間……いや、三日間ッ! 三日間待って下さい! 三日で終わらせますから」
『終わらせるって何をですか?』
  うっ、痛いとこを突かれてしまった。
まさか0点取っちゃって課題出たんですよなんて言える訳がない。というか言いたくない。
頭が良いと思われたい訳ではないが(それに越したことはないけど)、
でも馬鹿だとも思われたくない。ここは意地を賭けた男の勝負だ。
「……宿題ですよ。春休みの宿題。それを早目に終わらせて、
その分佑子さんと過ごしたいんですよ」
  前半は超嘘、後半は超本音だ。
我ながら恥ずかしい台詞だが、俺は佑子さんの恋人なんだからいいよな。
自分を勇気付けるように自信を奮い立たせる。うん、何だか格好いいぞ俺。
不言実行を体言化するかのようなこの行動。
これには密かに、佑子さんに釣り合う男を目指すという意味も込められていたりする。
それこそ誰にも言わないが。
「てことなんで、申し訳ありません」
『いえ、仲川くんが私と過ごしたいと言ってくれて凄く嬉しいです』
「何言っているんですか、俺佑子さんの彼氏ですよ」
『ありがとうございます。でも……仲川くん、嘘ついていません?』
  へ?
『仲川くんの学校に、春休みの宿題は確かない筈ですが……どういうことなんですか?』
「いや、それはですねその……」
『仲川くんを信用しない訳じゃないんですが、一応確認だけはしておきたいなって思っただけです』
  やばい、嘘が露呈したら印象が下がってしまう。それだけは避けたい。
その一心で、俺は泳ぎそうな思考の中にある単語を掻い摘んで羅列していった。
「そういうこともあるんですよ。と、とにかく、三日後に電話しますからそれじゃ!」
『あ――』
  切ってしまった。何か物凄い間違いをした気がする。これって結構ヤバイんじゃないか、実は。
普段は鈍感な俺の危機察知能力も、今回ばかりは鋭敏に俺に信号を送って来ている。
どうしよう、電話掛け直して謝ろうかな……。
「“やりたいこと”って、そういうことだったんだ」
  思考の海で溺れかけていた俺の背中に衝撃が走る。
叩かれたなと咄嗟に理解し振り向くと、さっきまでのモジモジした様子など欠片も見受けられない、
明らかに不機嫌な佐藤早苗がいた。
「どうせ今だけなんだから」
  そう言い残して、佐藤早苗は俺を通り過ぎて先へと行ってしまった。
お前俺の家行ったことがないだろう、と注意しようとしたが、
気付けば佐藤早苗の先導によって俺はしっかり自分の家へと到着していた。

 どうなってんだ?

9

「ただいま」
  後ろにいる佐藤早苗から感じる妙な威圧感に気圧され、
若干萎縮してしまった声で帰宅の挨拶を済ませながら、俺は見慣れた家の扉を開けた。
結局あの電話を切った後から終始不機嫌を絵に描いたような態度であった佐藤早苗は、
今尚自ら口を開こうとはしない。
だからといってその存在感が希薄になるようなことはなく、
寧ろより一層深く俺の心の中に刻み込まれているような気がする。
現代文の授業は殆ど起きていないから上手く説明出来ないが、
佐藤早苗からは常に“沈黙の声”が聞こえてくるのだ。
それは本音と言うには不明瞭過ぎるし、雰囲気と呼ぶには意味を含み過ぎている。
俺が考え得る最もそれを明確に表現した言葉は、イメージだ。
受け手に伝えようという意志は感じ取れるが、どこかに必ず曖昧さを持ち合わせている不安定なもの。
受け手側の感情やら経験やらと総合化されることで初めて“声”に為り得、
且つその過程にある様々な抵抗物のおかげで千差万別に姿を変える、可能性の塊。
勿論“沈黙の声”は沈黙という性質故に現象的には存在し得ないものだから、
その可能性を開花させる為には受け手側の能動的態度が必要不可欠だ。
しかし俺は、単純に佐藤早苗の“沈黙の声”に漂う不穏な空気に
不審感を隠し切れないという理由の下、その努力を放棄している。
  少々回り口説くなってしまったが、要は俺と佐藤早苗との間を隔てている重苦しい壁は、
理解しようとしない俺と、理解させようとしない佐藤早苗とが二人で作り上げたものだということだ。
確かに俺も悪いが、言いたいことを言おうとしない佐藤早苗もどうにかして欲しい。
佐藤早苗が素直に腹の内を全て言ってしまえば、
佐藤早苗も俺もこのモヤモヤとした気分から解放される。
その言葉によって俺が傷付くか否かという問題を除けば、それでお互いに蟠りなく終わるというのに。
いや、佐藤早苗からすれば自分の思っていることを洗い浚い言ってしまうことによって
俺が傷付くのが居た堪れなく、それで躊躇しているという風に解釈することも出来るか。
しかしだとすれば、やはり佐藤早苗は決して俺にとって都合の良くないことを
言おうとしているということになる。
そしてそのことに俺が不審感を抱いて、ますます泥沼に嵌っていく……なんて最悪な負の連鎖だ。
半分は自業自得とは言え、嘆きたくなる。
  気付かれない程度に溜息を吐きながら、丁寧な動作で靴を脱ぐ。
「上がって。俺の部屋まで案内するから」
「……」
  目は伏せたまま、小さく佐藤早苗は頷いた。あくまでも口を利く気はないらしい。
いつになったらこの膠着状態は幕を閉じるのかと途方もないことを考えながら、
頭が痛いのを我慢して二階に続く階段へと早足で向かう。
「おかえり……って」
  間もなく階段へと足を掛けようとした正にその時、リビングの入口からスナック菓子の袋片手に、
パジャマ姿の姉が覗き込んできた。
いくら大学が休校日だと言っても、
寝起きのまんまってのは変だろだなんて休日は午前中起きない俺が思っている中、
姉は俺と佐藤早苗の方向を目を丸くしながら凝視している。
露骨に虚を突かれた感が伝わってくる。
確かに今まで自分の家に女友達を連れてきたことなんてなかったからな。
俺が説明しようか迷っていると、姉は突然呆けて開きっぱなしになっていた口はそのまま、
しかし驚きに満ちていた目をニヤリと細めた。
そして何故か忍び足で俺の下へ駆け寄ると、勢い良く俺の肩を掴み縮こまった。
一瞬で姉との顔面距離が狭まり、そこでようやく俺は姉の目が、
初めて遊園地に連れて来られた子供のように好奇心に溢れていることに気付いた。
「おほけなし、って感じね」
「姉ちゃん何言ってんだ。日本語を喋ってくれ」
「身分不相応にも程があるでしょってことよ」
  そう言うと、姉は更に満員電車に無理矢理体を捻じ込むように俺に密着し、
それに反比例するかのようなひそひそ声で続ける。
「彼女出来たなんて嬉しそうに喚くからどんな物好きかと思いきや、ど
うやってあんな可愛い子ゲットしたのよ」
  姉は小指を立てながら輝いた目線を浴びせてくる。いや、そんなに期待されても困る。
確かに姉には彼女が出来たって耳に蛸を作ってやろうって意気込んでいるのではないかと
誤解されそうなくらい言った。
その後に家に女連れてきたら、そりゃそいつが彼女なんだって勘違いしてしまうだろう。
「違う違う。あいつはただの友達だよ。
考えてみろよ、俺があんなレベル高いのと付き合える訳ないだろ」
  でも、俺の彼女はただ一人――佑子さんだけだ。

「何自分のこと卑下してんのよ」
「いや、姉ちゃんが最初に釣り合わないって言ったんじゃんか」
「そりゃそうだけど、あんたってそんなに卑屈だったっけ」
  卑屈……それは違う。
別に俺は悲観的になっている訳ではないし、
まして過小評価された自分と現実との間に生じるギャップに酔おうなどというつもりもない。
俺が今自分を冷静に客観視出来ているのは、余裕があるからだ。
佑子さんという一人の女性――それこそ俺の彼女でいるには勿体無さ過ぎる程の人――
と付き合っているという事実が、俺に男としてのかつてない自信を与えているのだ。
念の為だが、当然俺は自尊心を満たす為なんて下劣な理由で
佑子さんと付き合っている訳じゃないことを断っておく。
「まぁいいわ。じゃあ、何で彼女でもない女の子をあんたは部屋に上がらそうとしてるの」
  さっきまでの物腰の柔らかい語調が一変して、疑念に満ちた強めの口調で姉に訊ねられた。
細めていた目も先程とは逆の方向に弧を描いているし、眉まで顰めている。
その様子から察するに、姉が俺にとって危ない誤解をしているのは火を見るよりも明らかであった。
自分で思っておいて悲しくなるが、
俺のような男が二股掛けるようなスキルの持ち主だとでも思っているのかこの姉は。
それは俺のことを買い被り過ぎだろ――というか過小評価し過ぎだろ。
もう少し実の弟を信用して欲しいものだ。
まぁ肉親だからこそ疑わずにはいられないっていう風な好意的解釈も出来なくはいないが、
漫画が全てのこの姉がそんな心配をする筈がない。負の興味本位で訊いているだけだろう、確実に。
「変な誤解のないよう言っておくが、あいつとは勉強するだけだからな。
というかそれ以外にどんな理由があるってんだよ」
「あのあんたが勉強ねぇ……。テスト前日も彼女彼女って頬緩ませてたあんたが勉強ねぇ……。
しかもわざわざ友達呼んでまで」
  あ、駄目だ。余計疑われているよ。そりゃ今まで家では勉強はおろか、
机に向かうことさえ殆ど無いに等しかったからな。
でも今は歴とした動機がある。
まぁ好きな子と過ごす時間をなるべく多くしたいなんていう
一見しなくてもいかにも不純なものだけどね。
それでも結果として勉強をする気になっている訳だから良しとしようじゃないか。
それにたとえ姉に引かれる恐れがあるとはいえ、
何も言わないままでいる方が間違った憶測を余計に浸透させてしまうだけでより危険だからな。
「これにはちょっと複雑な事情が絡んでいるんだがな――」
「早く行こ」
  姉から遠い目で見られない為にも経緯を長々と説明しようとした矢先、突然首下に圧迫感が奔った。
襟首を掴まれたらしい。
そのまま思い切り引っ張られ尻もちをついてしまい、更には立ち上がる暇もなく咳き込んでしまう。
喉下を押さえながら何事かと振り向くと、
不機嫌を通り越して怒りに満ち満ちているご様子の佐藤早苗がいた。
眉を吊り上げていて物凄い剣幕だ。
せっかくの美人面が台無しだぜとか俺が冗談を言う暇も与えず、
佐藤早苗は俺の襟首を掴んだまま躊躇なく階段を上り始めようとした。
おいおい、何のプレイのつもりだよ。
「おい、赤ん坊じゃないんだから自分で歩ける。とりあえず離せ」
  対抗意識剥き出しにして俺も精一杯の般若面を作ってみるが、
佐藤早苗の鋭い一瞥に完全に制されてしまった。
何なんだ、何がここまで佐藤早苗を怒りに駆り立てているんだ。
女って奴は本当に男の理解を超えた生き物だ。
  そうは言っても一応言葉は通じたようで、佐藤早苗は渋々といった感じで俺の襟首から手を離した。
それでも視線は俺を捕らえて離さない。
そんなに目の仇にされても、その理由がわからないんだから応え様がない。
俺にどうしろと言うんだ。
「彼女さんとの楽しい春休みを謳歌する為にもさっさと終わらせないといけないからね。
友達だからって容赦しないよ」
「あぁ……」
  何でそんなに棒読みなんだよ。後さりげなく怖い。
  友達なだけの佐藤早苗とさえこんなギクシャクした関係なのに、
これから佑子さんと上手くやっていけるのかと若干自信喪失してしまった。
暗く淀んだ気分のまま、俺は重い足取りで階段を上って行く。
その途中で一旦立ち止まり、姉の方へと振り返る。
「後で説明するから」
「うん、いいよ。というか何となくわかった気がするから大丈夫……」
  そんな冷たい目線で俺を見るな。
あぁ、姉からは侮蔑の、佐藤早苗からは憤怒の視線をそれぞれ浴びせられ、
完全に挟み撃ち状態になってしまった。何だこの仕打ちは。
0点を取ると運気もなくなるのか。心の中で項垂れながら、俺は自分の部屋へと向かって行った。

 いつもは家族という集合体の中で個別化を図る為の具体性を持った手段に過ぎない部屋の扉の前で、
俺は後ろに佐藤早苗がいるという緊張状態の真っ只中で何故か何となしに一度止まってみた。
そして、年季は感じられるが目立った傷の見当たらない扉を見据える。
それそのものには意味が無く、それがあることこそが重要である存在。
解釈としてそれは、人が理想としてきた愛の形を端的に示しているものだとも取れるし、
はたまたどんな個々も根源的には同種であるという皮肉の縮図だとも理解され得る。
普段注意していないことに少し目を向けてみると、
そこには自分が想像だにしていなかった世界が広がっているということの認識が深まる。
更にそのことは同時に、人が未知の世界への扉に触れないどころか、
それを見ようとすらしていないということの裏返しであることをも意味している。
扉という何気ないものが、見方一つでこれだけのことを教えてくれる。
この現実を目の当たりにして、俺は静かな感動と共に愕然ともした。
今まで自分がどれだけ実感を伴わない雰囲気に依存した生活をしていたのかということを、
はっきりと突きつけられて。
こういう時って何か虚しくなる――。
「仲川、何ボーッと突っ立ってんの。部屋に見られたくないものでもあるとか?」
「あっ……悪い。ちょっと考え事してただけだ」
  不意に背後から聞こえてきた佐藤早苗の声によって、意識が外交的な方向へと軌道修正された。
慌ててドアノブに手を掛けながら、最近考え事が多くなったことを自覚して苦笑した。
その最たる要因はホワイトデーのあの一件以外にあり得ない。
あの経験がなかったら、大袈裟かもしれないが今でも俺は流されるまま
地に足の着いていない浮遊感に支配された人生を送っていただろう。
自身の無知を内省することすら出来ない最大級の不幸。
その終わりなき一本道から新たな道程を内示してくれたのは、やはり佐藤早苗だ。
佐藤早苗の無意識の辛辣な仕打ち――俺が勝手に勘違いしただけだが――を受けていなければ、
俺は思考することを知らない感情剥き出しの子供のままだっただろう。
理不尽に対して反発し、原因を追究し、その末に辿り着いた結論を素直に認める――
たとえそれが自分の耳に痛いものだとしても。
生きていく過程で少しずつ蓄えていかなければならない倫理的義務を
俺は無視してきたのだろうと思う。
そしてそのツケがあのホワイトデーに集約された。
そのおかげで俺は思考の肝要さを初めて知った。人は思考しなければ動物と同じだ。
そのことを啓発してくれた佐藤早苗には感謝しなければならない。傷付かなければ痛みは分からない。
痛みが分からなければ、大人にはなれない。
  しかし我を忘れる程というのも宜しくない。
何事も限度を弁えなければと自分の中で相槌を打ち、俺は扉を開けた。
「これが、仲川の部屋……」
  佐藤早苗が口ずさんだ当たり前の言葉に諧謔さを感じて、
思わず笑いそうになってしまうのを堪える。
これ以上機嫌悪くされたらもう俺の力ではどうにかする自信はない。
しばらく呆気に取られた様子で俺の部屋を見渡している佐藤早苗を恐る恐る見守る。
宛ら評論家に作品を吟味してもらっている作家のように。
「案外綺麗な部屋ね。漫画とかゲームとかで足の踏み場もないかと思ってたのに」
  一先ず安堵した。客観的に――それも男子よりは清潔さを重んずるであろう女子から見て――
俺の部屋は綺麗な部屋なようである。
少しでも佑子さんに相応しい男になろうという意気込みの下、
わざわざ試験前に部屋を綺麗にした甲斐があった。
それは良かったが、一つ蟠りが残った。佐藤早苗は“案外”と口にした。
それは発言者の頭の中にある一定の予想が固まっていて、それを凌駕された時に用いる言葉。
では、その予想というのは何を根拠にして生まれたものなのか?
勿論様々な方面から発せられるメディア情報のイメージの所産と捉えてもいいだろう。
だが佐藤早苗という人物像を了解すれば、自ずと別の確答が浮かんでくる。それは――。
「お前が今まで見てきた男の部屋がどうなのかは知らないが、
別に男の部屋が全部ゴキブリが湧いてきそうなゴミ屋敷って訳じゃないぞ」
  かなり皮肉めいて吐いてやった。
別にホワイトデーのことを根に持っている訳じゃないが、
勘違いしてしまった身としては遠回しにでも指摘せずにはいられなかった。
佐藤早苗、お前は警戒心も害意も微塵もなく男と接しているのだろう。
汚い男の部屋へ足を踏み入れてきたんだろう。
しかし男は宿命としてその部屋以上に汚い欲望を持っている。それを煽るお前の端麗さは、罪だ。

 当然最も悪いのは自身の欲求を知らず知らずの内に正当化しようと勘違いする男の方だが、
それを僅かながらも後押ししている側にも気を配って欲しい。
要するに、男側を醜い解釈へと奮い立たせるような原因の種を撒かないでくれってことだ。
財布を人目につくような盗難防止機能の薄い場所に放置して、それを盗まれたとする。
悪質なのは勿論盗んだ人間だが、そいつの理性の箍を緩ませたのは“盗めそうな場所に財布がある”
という事実に他ならない。
そういう状況がなければ、そいつは盗もうという気なんて起きなかったかもしれない。
だから、そういう細部のことにまで気を遣って自分の行動の善悪を確かめる。
些細なそういった意識一つで、傷付く人間は減るんだ。
まぁ今回は傷付いたおかげで成長の糧を手に入れられた訳なんだがな。
「それどういう意味で言ってんのよ」
「そのまんまの意味だよ」
  虚勢を張ってわざと語気を鋭くしてみたが、正直かなり落ち着かない。
さっき思考に熱中するのは程々にしておけと肝に銘じたばっかりだったというのに、
またしても思惟の海に溺れてしまって肝心なことを失念していた。
佐藤早苗は何故か知らないが物凄く機嫌悪いってことをだ。
だからなるべく佐藤早苗の気に障るようなことを言わないよう言葉を選んでいたというのに、
ここでまさか本音を断然と語ってしまうとは何たる失態。
かと言って、ここから話の方向性を逆転させる自信は俺にはない。
万策尽きてしまった。
だが折角築き上げた佐藤早苗との友好関係をこんな微細なことで振り出しに戻すなんて御免だ。
引き返せないとこから来てしまったのなら、進むだけだ。
佐藤早苗に冷静な見解を示して、少しでいいから彼女自身の落ち度を納得させるのだ。
成功する確証なんてどこにもないが、もうやらざるを得ないんだ。
大丈夫、俺にだって論理的思考は常人程度にはある筈。
それを余すことなく駆使すれば丸め込めることくらい可能だ……多分。
「佐藤、俺が思うにだな。まず男って生き物はな――」
「仲川」
「はい」
  声が上擦った。ペースを――主導権を完全に佐藤早苗に握られている。
諦めるつもりはないが、今は佐藤早苗に流れを任せるしかないようだ。
その主張の中で活路を導き出すしかない。
やってやるさ、やってやるとも。言葉にはしないが、俺はお前が好きだからな。
「お願い。あたしのこと誤解しないでね」
  耳を聖徳太子のように研ぎ澄ませようと集中しようとした正にその時、
意表を突く程温厚な肉声が聞こえてきた。
我知らず佐藤早苗の方へ向き直ると、
敵意とすら曲解してしまいそうなその瞳は既に穏健さに溢れていた。
というか普通を通り越して、何だか余裕すら感じ取れる緩んだ表情はどう理解したらいいんだろう。
今までの短いやり取りのどこに佐藤早苗の斜めな機嫌を変える要素があったのか。
まぁとりあえず不都合な展開へと発展しなかったことを素直に喜ぼう。
「確かにあたし中学の頃は遊んでた。でも、高校生になる前にあたしは変わったの。何でか分かる?」
  うん、喜ぶべきなんだろうけど……。ここまで態度を真逆にされてもそれはそれで結構怖い。
無邪気な女神の称号を与えていい程の笑顔の佐藤早苗の考えが全く読めない。
相手の姿が見えていてもその内面世界がわからなければ意味がない――
“もの”ではなく“こと”にこそ価値はあることを立証するその事実を、
身を以ってまたお前に学ばされたよ。全く、佐藤早苗――お前は凄い奴だよ。
「そんな唐突に質問されてもなぁ……。まともな回答は期待するなよ」
「いいからいいから、言ってみて」
「恋は女を変えるっていうやつか?」
「大正解!」
  うわ、何てベタな。一秒掛けずに出した答えが当たっているのかよ。
お前は単純なのか複雑なのか良く分からない奴だな。
まぁその魔性さというか神秘性に、俺も一時期惹かれていたんだがな。
自分の単純さに呆れながら、俺は改めて佐藤早苗を見やる。
喜色満面なその顔は、やはり男を魅了して離さないに値するものだ。
それは特定の人物へと収まっていない――誰にでも手に入れられるという可能性のある――
という状態でいるには残酷過ぎる美貌だ。
だが、佐藤早苗は今断言してみせた。恋をしていると。
「お前、好きな奴いたんだ」
「うん。小学生がするような御飯事じゃなく、本当の大恋愛をしているの」
「おう、言うじゃないか。お前に好かれるたぁ、さぞかし幸せ者だなそいつは」
  俺の言葉に、佐藤早苗は声を出して笑った。友達と他愛も無いことで談笑し合える。
幸せはこうした身近に転がっているものなんだよな、本当に。

「ありがとな、佐藤」
「どうしたの突然。改まって」
「いやさ、同姓の友達はいるの当たり前って感じなんだけど、
異性の友達の大切さってのは特別なんだよね」
  当たり前のことだが、自分とは外面的構造から内面的思考まで何もかもが懸け離れている存在と
円滑に交流出来ているというのは、
陳腐な表現だがそれだけで嬉しいものだ。
本来存在させることすら難しいものを維持出来ているということは、それだけ希少で素敵なのだ。
「友達ねぇ……」
  俺の言葉の意味を完全には汲み取れなかったのだろう。
佐藤早苗は複雑そうな表情で俺の顔を凝視してくる。
そんなに目を凝らしても、お前には分からないだろうな。
女も男も等しく友達として見てきたお前には。
まぁそれは悪いことじゃないから恥じなくていいと思う。
それに佐藤早苗は既に恋をしていると言っているんだ。
ならいつか自然と同姓と異性の様々な意味での違いに気付き、次第に俺と同じ考えと至るだろうから。
「ま、いいや。あたしは知っているから」
「知っているって、何を?」
  俺は興味本位で訊いてみた。
それに、何となく佐藤早苗の顔に「訊いてくれ」って書いてあるような気がしたから。

「本当の恋はね、仮初の恋に傷付いて初めて知るものなのよ。
だから、私の恋はすぐ実る。焦る必要なんてないのよ」

 佐藤早苗のその言葉の意味を何度も何度も確認してから、俺はゆっくり頷いた。
俺にだって分かる。実際に体験したから。痛い程分かる。
「“仮初”ってのは少々オーバーだが、俺もそう思うよ」
「え……?」
  続けてこれまた興味本位で佐藤早苗の好きな人を問い質してやろうと試みようとした時――。

 呼び出し鈴が鳴った。

 反射的に玄関へと向かおうとする。
「悪い。すぐ戻ってくる」
  佐藤早苗に小さく告げながら、俺は部屋を出る。
駆け足で玄関までの階段を駆け下り、スリッパを履いて家の扉を開ける。
「ただいま〜」
  扉の先には、母がいた。今にもはちきれんばかりの買い物袋を三つ抱えている様は、
正に近所のおばさんというに相応しい姿だった。
言ったら何されるかわからないんで口には出さないが。
それはそれとして、自分の家の呼び鈴をわざわざ鳴らすとか、俺の母は何を考えているんだ。
「おかえり。てか何で呼び鈴を――」
「信悟。あんたにお客さんよ」
  俺の言葉を遮って、気色悪くもニヤケながら母は横にずれた。
遮断するものがなくなかったことで、俺は母の後ろにいた人物の姿をしっかり見ることが出来た。
瞬間、動悸を感じた。

「何で――」
「信悟、誰が来たの……って」
「仲川、遅い、よ……え?」

 母、姉、佐藤早苗――三者三様のリアクションを見せながらも、
その三人の視線は全員一点に注がれていた。

「ごめんなさい、来ちゃいました」

 佑子さんが、笑っていた。

10

「佑子さん……何でここに……?」
佑子さんへのこの質問に、本質的な意味はない。
この期に及んでまだ白を切ろうとしている見苦しい抵抗――時間稼ぎという目的の下に発せられた
“もの”に過ぎない。
偏な俺のプライドが、言い訳しようのない事態を招いてしまった。
自尊心を持つことに対して、俺は否定どころか寧ろ肯定している。
もしそれを放棄したなら、“自分”を愛でる機会を無くし、ゆとりを失ってしまう。
そしてその先に待っているのは、操り人形に成り果て、アイデンティティーを失った非人間的日常。
捨てることによって人間性が薄れていくという点に於いて、
思考は自尊心を濃密に含有しているのかもしれない。
だが、今は自己満足な論証ごっこをしている時ではない。
とにかく、傲慢へと先走りしないように注意してさえいれば、
誇りは胸に秘めておくべきものなのだと思う。
この考えを曲げるつもりは露程もない。
そう明言は出来るのだが……正直、状況を弁えるべきではあったなとかなり後悔している。
理由はどうあれ、俺は彼女に嘘をついてしまった。
今になって冷静に考えてみれば、その行為の余りの愚かさに、過去を塗り潰したくなった。
より長く佑子さんと一緒に恋人としての生活を楽しみたいから、
俺は数日間を勉強時間に割くことにした。
にも関わらず、どうして俺は佑子さんとの関係に
亀裂が生じかねないようなことをしてしまったんだ。
本来の目的を達成する為の一つの手段に過ぎないことに執着して、
肝心の本命を見失う――目的と手段を取り違えるだなんて愚の骨頂としか
言い様のないことをまさか自分が犯すとは、全く以って不覚の一言。
「電話が話の途中で切れてしまったので」
俺が能動的に会話を拒絶したという裏切りに等しい事実を佑子さんに伝えたくない――
だが、しなくてはならない。
少なくとも、ここから嘘を再三再四上塗りしていったところで、
状況が好転することはあり得ないと言っていい。
佑子さんは、俺が出来る最もらしい言い訳の中の違和感を警察犬並の嗅覚で察知し、
わざわざ追及までしに来たんだ。
そんな相手に対して、どんな口先の理由が通用するというのか。
それに何よりも――佑子さんの彼氏たる俺が、佑子さんの気持ちを無下になんて出来る筈がない。
佑子さんが俺を訪ねたのは、当然ながら俺との対話で生じた不審感を拭う為に違いない。
完璧な信頼関係が俺と佑子さんの間に築かれていないという事実がその行動にはあるが、
そんなことは百も承知だ。
初対面から恋人に至るまでに要した時間は僅か二日で、
しかも付き合い始めてから一週間と少ししか経過していないんだから、浅い関係なのは当然だ。
寧ろ佑子さんがそんな短期間で俺のことは全て理解した気でいたとしたら、逆に不気味だ。
今注目しなければならないのはそんなことではない。
佑子さんが俺との間の陰りを払拭しようと決断する為には、
彼女自身が俺との繋がりを失いたくないと思っていなければならない。
つまり――佑子さんは今でも俺を好きだということだ。
未だに俺の心中に漂う女性不審症と、短い付き合い期間が、その当たり前の事実すら霞ませていた。
正直それに怯えていた節があるが、佑子さんの確固たる態度に勇気付けられた。
迷いはない。
全てを話そう。
今の俺に、そうすることが正しいという自信がある内に。
「佑子さん、俺……佑子さんに謝らなければならないことがあります」
「私に、ですか?」
「はい。俺、佑子さんに嘘つきました。しかも、滅茶苦茶格好悪い理由でです。
許してくれるか分かりませんが、それでもこれ以上佑子さんを騙せません」
首を傾げている佑子さんの目を、俺は睨み付けるかのように離さないでいる。
視線を逸らすことで後ろめたいことがあるのかという疑いを掛けられることは避けたいし、
これ以上佑子さんに不審感を募らせて欲しくないから。
俺なりの、小さな意地だ。
「仲川くんが私に嘘をついていたってことはショックです」
少しの間考え事に没頭していたからか、口を閉ざしていた佑子さんからの言葉は
心に重いものだった。
だが、これで良い。
お互いが正直であることが出来ている今の状況こそが、俺たちが目指すべきものなのだから。
「でもこれから正直に話すというのは、嬉しいです」
佑子さんの笑顔が、俺の信じてきたことを全て肯定してくれたような気がした。
「その際には是非……」
「是非?」
だから……。
「彼女についてもしっかりお聞かせ下さい。ねぇ、佐藤さん?」
俺たちを二階から見下ろしている佐藤早苗を見つめる佑子さんの表情に、俺は心底驚いた。

 素人目からでも分かる程の、愛想笑い……いや、これはそう呼べるものですらない。
愛想笑いにだってその場を凌ごうという意志は感じ取れる。
だが、佐藤早苗に視線を向けている佑子さんの表情からそんなものは微塵も伝わってこない。
笑顔の仮面をただ被っているだけ。
その目的が何か他の感情を隠す為なのか、はたまたまだ二回しか対面していない相手への
よそよそしさを払拭する為の牽制なのかはこの際どうでもいい。
問題は、佐藤早苗がこれをどう受け止めているかということだ。
彼氏という立場上美化フィルター越しにしか佑子さんを見れていないであろう俺ですら
感じ取った違和感――彼氏だからこそ彼女の異変に気づいたという見方もあるが――を、
何の変換能力も持っていない佐藤早苗が察知しない筈がない。
下手すれば、その違和感を不快感と誇張してしまっているとすら推量出来る。
元々佑子さんとの付き合いに対して何かと文句を垂れていたことも考慮すれば、
十分有り得る事態だ。
そうなってしまったら、あのホワイトデーの翌日のような面倒ないざこざが起こりかねない。
それだけは避けたい。
その為には、とりあえず佐藤早苗の気を佑子さんから反らす。
この一番シンプルで簡単な方法を採ることに決めた。
雰囲気的に佑子さんの表情を変えさせるのが容易ではないことは分かるし、
仮に出来たとしてもそうする際に佐藤早苗が佑子さんを見てしまう可能性があるから。
「佐藤!」
「わっ、びっくりした。何急に大声出してんの?」
さっき佑子さんに名指しされたのだから多少なりとも彼女に気が行った筈なのだが、
佐藤早苗は特筆すべき挙動を見せない。
ただ――笑っているということを除いて。
それも佑子さんの作為感溢れるようなものではない、心の底からの笑顔のようだ。
そう推測するに至った最たる要因は、佑子さんとは違って目も笑っているからだ。
喜色満面を体言化したかのように、
佐藤早苗の表情からは眩いばかりの光が放たれている……ような気がする。
少なくとも、佐藤早苗が不快感を覚えているようにはとても見えない。
それが逆に不気味でしょうがなかった。
大体「驚いた」って言うなら、もう少しそれらしい顔をしたらどうなんだよ……。
そう思いながら、さりげなく佑子さんの前に自分の立ち位置を変えておく。
「先に俺の部屋行っててくれ」
「うん、戻ってるね。なるべく早く、ね?」
「わかったよ」
踵を返す佐藤早苗を確認して、自然と溜息が漏れた。
佑子さんへと目を向けてみると、笑みで返事をしてくれた。
それは先程までの佑子さんの作り物臭いものでもなく、佐藤早苗の甘ったるいものでもない、
俺の好意の居場所そのもので、今度こそ本当に俺は胸を撫で下ろせた。

「佑子さんにちゃんと説明してあげてね。仲川、わかった?」

 一瞬心臓が止まるかと思った。
佑子さんの笑顔に心が和んでいたから、余計に今の佐藤早苗の不意打ちに驚いてしまったのだろう。
一瞬静止したかとすら思われた心臓は既に暴れまくっていて、
はっきりと冷静さを失いかけていることを実感出来る。
逸る気持ちと説明不可能な恐怖とが激突して、体が硬直している。
指一本動かしたらその隙に殺されるんじゃないかという被害妄想に心が囚われている。
そんなことあり得る訳がないと確信しているにも関わらずだ。
子供の頃にも似たような経験はした。
“横断歩道で白線以外を踏むと落ちる”とか、
“家まで一つの小石を蹴り続けられなければ死ぬ”なんていう下らないゲームのことだ。
確かにあの時もある種の催眠状態に陥っていたと言って良いだろう。
だけど、今と決定的に違うことがある。
そしてそれこそが一番の問題なのだ。
――自覚の有無。
ガキの頃の他愛もない遊びは、完全に信じていることを前提に行われていた。
当時の俺の世界では、白線以外を踏めば本当に落ちるし、石を家まで運べなかっただけで死ぬ。
そんなことは青二才の一言で済ませてしまえる。
しかし、今はどうだ。
まさか俺は自分が四六時中誰かに命を狙われているなんて
考える程頭の螺が何本も外れている訳ではない。
なのに頭で理解していても、現在の心中は深遠な不安に覆い尽くされている。
つまり今の俺は、本能を抑えるだけの理性を持ちながらも、
その能力をほとんど発揮出来ずにいるのだ。
この状況を端的に表現するなら、「狂っている」が相応しい。
理性の傍観と本能の暴走を許してしまっている無防備な状態に俺はある。
このままでは、本能に――恐怖に飲み込まれる。

 そう感じた時には既に俺は振り返っていた。
さっきまで自分ルールによって拘束されていたことが嘘のように、俺の肉体は簡単に動いてくれた。
このことは、今の俺の狂気性を如実に示している。
何故ならそこには、“動くな”という本能と、それが引き起こす恐怖の実感から来る“動け”
という逃避的本能が混在しているからだ。
理性で処理し切れていないことで、様々な本能が俺の中を縦横無尽に交錯している。
抑え切れない程に膨張していく自分という存在を垂れ流したまま、
視線の先に佐藤早苗の姿を捉えた。
俺の言葉通りに、佐藤早苗は俺たちに背を向けて歩き出していた。
その後姿に何ら異変はないし、その足取りも至って普通と言っていいだろう。
――だから、怖い。
小刻みに震える足を止めることが出来ないのは、
先程の佐藤早苗の声を聞いたからだということは疑いようがない。
何故佐藤早苗の声なんかに怯えているのかは定かではない。
単にびっくりしただけなのか、それとも未だに微かに残っている女性不信が
引き起こしたことなのか――いずれにせよ、理性が介入出来ない世界の話だ。
とは言っても、佐藤早苗の声の中に俺が心の奥底で恐怖する何かがあったのは確実だ。
この部分的異常が示すことはつまり――あくまでも俺の推測だが――
佐藤早苗も不安定な状況下にあるということ。
佐藤早苗から漂う、挙動からは決して確認出来ない雰囲気とでも言うべき曖昧なものが、
俺を震えるほどの不安に駆り立てているのだ。
勿論俺がただそう感じているだけだという可能性も十分に有り得る。
だが、そんな結論で終わりにしてしまってもいいのだろうか?
今、この場には、“おかしい”人間が二人もいる。
だったら、佐藤早苗に“おかしさ”は伝播していないと言い切れるのか?。

 それとも――。

「……仲川くん?」
振り向くと、佑子さんが居心地悪そうに目線を右往左往させていた。
落ち着きなく不揃いに動いている指先が可愛らしい。
うん、本当に好きな人のことなら枝葉末節まで愛せるものなんだろうね。
「すみません、ボーっとしちゃって。お構いなく上がっちゃって下さい。大した場所じゃないんで」
「いえ、仲川くんと一緒のところならどこでも問題ありませんよ」
佑子さんは靴を脱いで家に上がった後、しゃがみこんでわざわざ靴の向きを直した。
家に上がるだけなのにこんなことをするとこに、お嬢様の片鱗が見受けられる。
悪いとは思うが、やっぱり佐藤早苗と比べると……ねぇ……。
いや佐藤、お前が悪いんじゃないんだよ。
罪深きは、こんな仕草でですら俺の心を魅了してしまう可憐なる佑子さんなんだから。
あぁもう、佑子さん最高。
「これはご丁寧にどうも」
当然こんな気持ち悪いこと口が裂けても言えないがな。
「まさか、こんなに早く実際に見ることになるとは思っていませんでしたよ。仲川くんの部屋を」
「俺の部屋なんて没個性もいいところですよ。幻滅しても知りませんよ?」
「まさか、ふふ……」
今の俺たちって凄く恋人らしい会話してないか、客観的に見て。
ちょっと期待混じりに姉に目配せしてみる。
俺の視線の意図に気付いたのか、一瞬考え事をするように顔をしかめた後、
姉がゆっくりと近付いてきた。
そして肩をポンと置くかのように弱く叩くと、薄気味悪いニヤケ顔をこちらに晒してきた。
時差ボケしているのかと問いたくなる服装も相俟って、無茶苦茶だらしない。
「ま、頑張りな。姉として、色々な意味で応援しとくからさ」
そんな意味不明なこと言っても、その格好じゃ全然締まってないぞ。
そう言ってやろうか迷っていると、姉は俺の横を通り抜けていってしまった。
何だか物足りないが、とりあえず今はいいか。
優先度でいったら姉と佑子さんじゃ勝負にならないし。
「そんじゃ佑子さん、案内します。案内するなんて言う程広くはないんですけどね」
「お邪魔しますね」
佑子さんを先導しながら、そろそろ気を引き締めないとなと頬を両手で軽く二回叩く。
こんな和やかに佑子さんとの時間を楽しんでいるけど、これから俺は謝らなきゃいけないんだ。
今後も佑子さんとこうして笑い合う為には、清算しなければいけないことがあるから。
ここが男としての、佑子さんの彼氏としての正念場だぞ、仲川信悟ッ!
「何々!? 信悟もとうとう彼女持ち?」
「それがね母さん、そう単純じゃないみたいでね……」
「昼ドラ? まさか昼ドラ的展開なの!? 母さんそういうの大好物よ!」
……だから、後ろの雑音は無視しておこう。

 階段を上がり自分部屋の前に着き、無遠慮にドアノブを捻ろうとしたところで一旦思い留まる。
そういえば、このドアの向こうには佐藤早苗がいるんだった。
いくら自分の部屋とはいえ、中に人がいるんだったら一応は礼儀を示さなきゃならないよな。
別に佑子さんが見てるから点数稼ぎしたいとかそういう邪まな感情は抜きにして……ね。
何気なく首を回して後ろで佑子さんがこちらを見ていることを確かめると、
俺は自分の部屋のドアにノックを二回する。
「佐藤、入るぞ」
「ちょっと待って仲川ッ!」
ドア越しに聞こえてきた予想外の言葉と反応に、少々虚を衝かれてしまった。
まさか一時的に自分の部屋への入出禁止を食らうことになろうとは。
しかし冷静に考えれば佐藤早苗だって女の子なんだから、
何か見られたくないものがあっても不思議じゃない。
俺だって見られたくない物の隠蔽の為に佑子さんに嘘をついて今に至るんだから、
他人のこと言える立場じゃないさ。
……でも、くどいけどここって俺の部屋だよね?
佐藤早苗自身の部屋ならいざ知らず、
彼女にとっては他人である俺の部屋で取り繕う必要のあるものなんて思いつきもしない。
中で立っている慌しさを物語る物音に困惑しつつ、もう一度佑子さんの方を盗み見してみる。
佑子さんは絶賛笑顔開放中な訳なんだが、彼氏としてはあまり彼女を待たせたくない。
それも自分の部屋の前でって……こんな稀有な体験今後あるんだろうか。
出来ることなら御免願いたいが。
「もういいか?」
「後もうちょい!」
何がもうちょいだよお前……。
もし佑子さんが本当は苛立っていて、
最終的に痺れを切らしてしまったら今の俺じゃ抵抗なんて出来ないぞ。
ただでさえ見た目とは裏腹に俺たちの関係は綱渡り状態なんだ。
頼みますよ佐藤さん。
「もういいよ仲川!」
かくれんぼでもしている気でいるのかと疑いたくなる返事が来た。
実際の時間としては十数秒しか経過していないんだろうが、
かなりお預けされたような気がしてならない。
駄目だ、こんなことで神経磨り減らしていたら佑子さんとの関係を修復するなんて叶わない。
気合を入れる為にドアノブを潰そうとするかのように強く握り締めた。
勿論四十キロしかないような俺の握力じゃびくともしないんだが、そんなことはどうでもいい。
とにかく、ここからは多分俺が一生で一番意味を込めるであろう謝罪の時間が待っている。
絶対に成功させてみせるっ!
心の中でそう叫んだ後、俺はゆっくり且つ力強くドアを開けた。
「ここが生の仲川くんの部屋……!」
中々に恥ずかしいがそれ以上に――俺の傲慢かもしれないが――
心から喜んでいるように弾んでいる佑子さんの声が嬉しかった。
とは言うものの、一般的水準を重なっていく可も不可もない俺の部屋に対して
こんな感想をくれたのは佑子さんが初めてだ。
佐藤早苗も同じようなことを言っていた気がするが、
あれはただ驚いた拍子に漏れたって感じだったしな。
「仲川ごめんね、待たしちゃって。はは」
斜め横を向くと、笑いながら何故か正座している佐藤早苗の姿があった。
本当にお前の行動と存在は謎そのものだな。
まぁさっきまでに比べれば、今の佐藤早苗にめぼしい様子はない。
そのことに一安心しながら、ベッドの方に手を差し伸べる。
「座布団ないんで、どうぞあちらに。佐藤もベッドに座って」
二人にそれぞれ視線を送る。
正座していた佐藤早苗は相変わらず笑いながらすっと立ち上がった。
一方の佑子さんはというと、俺のベッドを凝視している。
眼鏡忘れた奴が黒板を見るときのように目を細めているその様子は、
一見すると睨み付けているようにすら見えてしまう。
脳裏に先程佑子さんが佐藤早苗を見ていた時の光景が過ぎったが、すぐにそれを掻き消した。
深く考えたら、良くない結論が待ち伏せしていそうな気がしてならなかったから。
やがて佑子さんは俺のベッドから視線を外すと、
何を思ったかその辺の絨毯が敷いてあるだけの床に座り込んだ。
座るまでには目では確認し切れなかった程細かな動きがあったが、今はそんなことはどうでもいい。
「佑子さん、そこは……」
「あんな綺麗なベッドには、座れません」
褒められている筈なのにそうされた気が全くしない言い方でそう発した後、
佑子さんは身体一つ分横に移動した。
俺のベッドは綺麗なんかじゃないとツッこむ間もない程迷いのない速さだった。
「私の隣は、仲川くんだけですから。ね?」
そんな殺人スマイルでそんなこと言われると何も言えなくなってしまう訳で。
俺はフリスビーを追い掛ける犬のように一目散に佑子さんの隣を陣取った。

「失礼します」
これから謝るって時にこの近距離はふざけているって思われるのか少々不安だが、
一生懸命さは存分に伝わるだろう。
それに中途半端に離れているよりも、ここなら勢いで押し倒せそうな気がする。
勿論真面目にするつもりだからそんな気はないんだが、手は幾つもあった方がいいだろう。
あくまでも念の為だ。
右耳に佑子さんの呼吸を感じながら、落ち着く為に深呼吸しながら部屋を見渡す。
「……」
あれ、何でお前がそこにいるんだ?
「佐藤」
「……何?」
「俺の左側になんかいて、むさ苦しくないか?」
「右側の人は全然余裕そうだけど」
俺と佑子さんとの距離をそのまま俺から置いた位置に座っている佐藤早苗が、
佑子さんを一瞥した後、鋭い眼光で俺を見つめてきた。
いや、それは佑子さんは俺の彼女なんだから、嫌な顔されたらいくらなんでも傷付くよ。
しかも佑子さんから誘導してきたんだし、別に……そんなことしてたか彼女?
確かに身体一つ分横に動いていたけど、もしかしてあれは単に座り心地が悪かったから
少し移動しただけだったりして……。
だとしたら、今の俺ってもしかしなくても壮絶に気持ち悪過ぎるよね。
さっきの佑子さんの台詞を深読みして、明らかに行き過ぎた行動を取ってしまっているよな。
これって結構なマイナスポイントになっちゃうよね、絶対に……。
申し訳なさから、俺は瞬時に手で体を滑らせてさっきまでの距離は保ったまま
佑子さんと向かい合った。
今の佑子さんの表情を伺ってこの行動の正否を確かめようかと思ったが、ふと思った
――これは謝罪のチャンスだ。
俺はただ位置を変えただけだ。
だが、きっかけなんてものは些細なものでいい。
きっかけから謝罪に至るまでの流れが重要なんだ。
何もないところから唐突に謝られても、
その唐突さに意識が持っていかれて誠実さは上手く伝わらない。
どんなことでもいいから、謝罪しても不自然ではないと思えるような下地が必要だ。
今俺はそれを偶然にも捕まえることが出来た。
作為感ゼロのそれを踏み台にすれば、佑子さんに与える違和感も
限りなくゼロに近付けることが出来る筈。

 今しかない!

 決断すると、俺は一瞬で佑子さんに向かって土下座した。
「ごめんなさい!
佑子さんを繋ぎ止めたいと願う今の俺では下手に順序良く説明しようとしたら
言い訳まがいなことを口にしてしまうかもしれないんでこのまま聞いていて下さい!
お願いします!」
「え!? は、はい……どうぞ……」
見事に引かれているようだけど、お許しは出た。
不必要な物事で散らかっている頭の中を一旦真っ白にする。
これで余計なことは言わずに済む。
「俺って奴は不覚にも学年末試験をほとんど事前準備なしで臨んでしまって
見事に打ちのめされてしまった訳ですよ。
早い話が赤点のバーゲンセールを展開してしまったってことです。
そんでその赤点を取った時についてくるおまけってのがいわゆる補習課題って奴でして、
これが俺にとってでかいんですよ!
チョコレートウエハースに付いてくるカードのおまけだけ欲しがる子供っているじゃないですか?
それとベクトルは違えど似たような心境で、とにかくこいつに気を取られちまって
どうしようもないんです。
こんな蟠りを残したままじゃ佑子さんと会ってもつまらない思いさせてしまいそうで、
それが気掛かりでっ!
だから俺と同じ境遇の佐藤と一緒にやってさっさと片付けちゃおうって話になったんですよ。
その時佑子さんから電話が掛かってきて、このことを追及してきましたよね?
素直に本当のこと言うべきだったんですけど、
佑子さんに馬鹿さを露呈したくないと俺は咄嗟に宿題なんて嘘ついっちゃったんですよ。
つまり結論を言いますと、これは俺のガラスのプライドがもたらした
アホらしい事件だったということで本当にすいませんでした!」
……噛まずに言い切れた。
内容はともかくとして、頼る予定はなかった勢いでごり押しした感があるのは心残りだ。
それでも、やれるだけのことはやった。
後はもう人事を尽くし天命を待つって奴だ。
俺は土下座の格好のまま、神頼みを何度も繰り返す。
格好が格好なだけに神も哀れに思って見捨てないかもしれない。
いや、“かも”なんて希望的憶測じゃ幸せは手繰り寄せられない。
一生分の幸運使ってもいいからもう一度だけ心から叫ぶ。
お願いですから俺と佑子さんを引き剥がさないで下さいっ!!

「それってつまり……」
佑子さんの言葉が今はとても怖い。
聞きたいけど聞きたくないというジレンマを久しぶりに味わう。
それでも俺の中の天秤はあくまで「聞く」方へと傾いていた。
今の俺の心境は未来への希望を捨てた玉砕覚悟――つまりは諦めに近い。
やり切ったことに自己満足しているのではなく、
これだけの前提を与えられた上での佑子さんの決定を尊重したいという純粋な気持ち。
佑子さんの彼氏としての意地なんだろう。
「凄く驕った言い方になって申し訳ないんですが……」
もう心の準備は出来ている。
どんな言葉が来ても、今の俺なら多分笑い返すことが出来る。
下を向いたまま、怯えを顕著に示している震える指先を無視して、
佑子さんの言葉を聞くことだけに集中する。
幸いにも度を超えた緊張のおかげで、制御不能だった心臓は今は静まっていて、
邪魔するものは何もない。
……佑子さん……。
「私に嫌われたくないから、あんな嘘を吐いたってことですか?」
「はい」
さっき心の内を思う存分言い切ってしまったので、
ボキャブラリーの貧困な回答しか出来ていない自分が情けない。
もう少し気の利いた言葉もあったろうに、こんな捻りもないことをぶっきら棒に言ってしまうとは。
ただこの余裕のなさは俺が全力を出し切ったことの証であり、
それだけが今の俺にとっての救いだった。
「……分かっていたんですよ」
「何を?」
「仲川くんが私を嫌うなんてことは有り得ないって」
佑子さんの今の言葉は先程の発言よりよっぽど傲慢な言い草である筈なのに、
全くそう感じさせないのが凄い。
実際佑子さんの言う通りだからかもしれないが、
俺の心を全て見通しているのかと疑ってしまう程に説得力がある。
こんな人をを騙そうとしていたなんて、改めて自分の馬鹿さを呪う他なかった。
「だから今回の嘘の件に関して、私は仲川くんを注意する気でここに来ました。
嫌われたくない相手に嫌われるようなことするなんて変ですからね」
一番痛いところを突かれた。
頭の悪さを知られたくないからしたことだったのに、結局はこの様だ。
だけどこれが佑子さんへの報いで、そして僅かながらでも嘘を吐いたことに対する償いになるなら
もっと非難してくれて構わない。
愚かさは体臭みたいなもので、自分では中々気付けないからな。
「でも……気付いちゃいました」
「何に?」
「仲川くんより私の方がもっと変だってことに」
佑子さんは何を言っているんだ?
「だって私……嬉しいんです」
また反射的に意味の薄い問い掛けが漏れそうになったが、
その出だしが佑子さんの言葉と重なって掻き消された。
そして自分の耳を疑う。
学校の聴覚検査はいつも異常なしだし、耳掃除は毎日してるし、何の問題もないことは確かだ。
さて、佑子さんは今何と言った?
……佑子さんの言葉を反芻する。
段々と芯から体が熱を帯びていく感覚がはっきりと理解出来る。
「嘘吐かれたんですから本当なら怒るべきところなのに、
仲川くんが私に嫌われたくない一心でやったことって分かったら、どうでもよくなっちゃいました」
「それって……」
「どうやら、仲川くんが私を好きな以上に、私は仲川くんを愛しているようです」
辛抱堪らず俺は顔を上げた。
目の前には、いつものように笑っている佑子さんが――
愚かな俺の罪を慈悲深い心で許してくれた俺だけの彼女がいる。
そうか、佑子さんは常に素だったんだ。
真剣に且つ全力で俺と向き合ってくれていたんだ。
そうでなければ、“いつも”こんな屈折のない笑顔を浮かべられる訳がない。
それなのに俺ときたら、女々しく隠し事なんかしようとしていたなんて……。
目頭が熱くなる。
視界がぼやけていく。
「仲川くん、泣いているんですか?」
「佑子さんが泣かしたんですよ。……格好悪いですね、俺」
佑子さんと別れずに済んだという安心感と、
彼女の優しさを再認識したことで生じた愛おしさとで、俺の涙腺は完全に決壊してしまった。
一度緩んだそれを締め直すなんて出来る筈もなく、
俺は頬に伝う涙を隠さずに佑子さんを見つめ続けている。
客観的に見れば男らしさの欠片もない光景に違いない。
でも、もう誰に何を言われようともどうでもいい。
プライドは既に粉々に打ち砕いてくれてしまったし、
そもそも格好悪いなんてことを気にしている余裕もない。
今はただホッとしている。
佑子さんを――こんなに素敵な人を失わずに済んだことに、心から安堵している。

「それじゃあ、これは仲川くんを泣かせてしまったことへの贖罪とお受け取り下さい」
そう言うと佑子さんは膝立ちのまま数歩歩み寄り、俺の身体を抱きしめてきた。
本来ならきっと頭が沸騰する程に恥ずかしくて嬉しいことなんだろうが、
今佑子さんの腕の中で俺は心地良さを感じている。
正直抱擁は肉欲を美化したもの位に捉えていたが、佑子さんのそれはもっと高尚な気がする。
首に回された細い腕の白さも、若干押し付けられている感のある胸も、
綺麗な黒髪から漂ういい匂いも、全てが俺を穏やかな気持ちにしてくれている。
この感覚は、幼少の頃に母親に抱っこされている時のそれに似ている。
異性に抱く一般的な好意とは違った、異性という枠を逸脱した純粋な“人”への愛情。
勿論前者と後者の間には共に相手との繋がりを求めるという点に於いて、
善と悪といった違いは存在しない。
俺だってバレンタインから一ヶ月もの間、
佐藤早苗という一人の女子に前者のような熱情を抱いて悶々としていた。
あの時の胸が痛くなる程に燃え上がっていた想いは、
恋をしていたという否定しようもない証である。
同様に、今俺の胸中で燻っている後者のような安らぎも間違いなく恋愛感情だ。
ただ二つの間の差異を挙げるなら、それはどれだけ情熱的であるかということ。
同時にこの相違は、どれだけ信頼し合っているかということにも通じる。
そう、積極的に相互理解を求め合う前者とは異なり、後者には「確かめる」必要性が皆無だ。
そして、その前提には絶対的な信頼関係が必須。
信頼による安心した関係――これこそが、一度失恋を経験した俺が求めていた最たるもの。
「やっと気付けましたよ、佑子さん」
「何にですか」
「佑子さんが俺のことをずっと好きでい続けてくれていたってことにです」
こんな恥ずかしい台詞も平気で言える。
佑子さんを優しく抱きしめ返しながら、俺は幸せを噛み締めた。
「これからも、仲川くんの彼女は私だけですよ」
佑子さんの言葉に答える代わりにもっと強く抱きしめた。
もっと、もっと……。

「いい加減にしてくんない? キモい」

 冷たい声。
さっきまでの幸せな時間を夢だと否定しているのかと疑ってしまうほどに、
そこに思いやりは欠片も感じられなかった。
現実の厳しさを主張してでもいるのかと問い掛けたくなるその声を発した人物を、
俺は一瞬で理解した。
不快感のせいで緩慢にならざるを得ない動きで、首を若干右に回した。
予想通り、佐藤早苗はその端麗な顔を露骨に歪めてこちらを睨みつけていた。
握り締められている両の拳がしきりに震えているのは、怒っているということなのだろうか?
「あたしは課題終わらせにきたのよ。
あんたのそんなベタベタのヘラヘラの姿を見にきたんじゃない!」
「怒鳴ることないだろ? お前がいるのにちょっとこっちの話が行き過ぎちゃったけどさ」
「“こっち”の話ってどういうことよっ!?」
突然立ち上がって息を荒げている佐藤早苗を前に、
さっきまでの穏やかな気分が完全に萎えてしまった。
いや、寧ろ再び部屋に来るまでの緊張状態が蘇ってしまったと言っていい。
あの時とは違い今は明確に敵意を向けられているから恐怖はないが、
その分俺は明瞭な不条理さを覚えている。
正直佐藤早苗がここまで怒っている理由が分からない。
そりゃ俺だって別の恋人同士がイチャついているようなところを見せられても反応に困るさ。
だけどここまで苛立つこともないだろうし、ましてそれを露わにするなんてどうかしている。
それとも佐藤早苗の言う通り、さっきまでの俺って想像を絶する程気持ち悪かったのか?
確かにあんな臭い台詞を聞いたら身の毛も弥立つのかもしれないけどさ、
俺にどうしろっていうんだよ……。
「ごめん」
「何に謝ってんのよ?」
「もしかしたら俺の言動がお前に吐き気を催させてしまったのかもしれないから、それに対して」
「そんなことどうでもいいっ!!」
唯一の可能性の余地も捻り潰されてしまった。
徐々に自分を取り巻いている状況が分からなくなっている。
お前は何が言いたいんだよ、佐藤早苗?
「“こっち”って何よ? 随分と他校の生徒と親しげなようね。そういう言い方、気に入らない」
「言っている意味がわかんねぇよ。てか俺と佑子さんはだな――」
「うるさいっ!!!!」
佐藤早苗の怒号が、静寂の幕開けを告げた。
俺と佑子さんで築いていた穏やかなものでもなく、
佐藤早苗が一方的に作り上げた騒がしいものでもない、ただ気まずいだけの空気が漂う。

 発言することが悪だとでも言わんばかりの張り詰めた雰囲気が俺の部屋を支配している。
教師に怒鳴られた後の教室みたいだ。
誰もが他の人間がいつかこの状況を打開してくれることに期待して、
あるいは時間の経過による状況の好転を望んで黙秘権を乱用している空間。
こんなところで誰が臆面もなく言葉を発せるというのか。
もし何かアクションを起こせばそれだけで全ての罪を擦り付けられてしまう
という危機感があるのだから。
そうでなくてもさっきから俺は佐藤早苗に何故か責められ続けていた。
そんな俺に出来ることなんてある筈がない。
もしかしたら本当に自分に落ち度があったのかもしれないのに他人の叱咤を
不条理だと決め付けそれを言い訳にしていることに自己嫌悪が走る。
それが個人的沈黙に拍車を掛ける。
最早俺は発言権を奪われたも同然。
時計の秒針が動く音を感じ取りながら、何かを待つだけのただの受動者に成り果てている。
情けない……。

「私と仲川くんは恋人同士なんですから、当然ですよ」

 もうしばらく続くだろうと思われていた無言の叱責の時間は、意外にも早く打ち止めとなった。
まさかと思って左に目をやる。
さっきまで俺だけに注いでいた視線を今は佐藤早苗に向けている佑子さんがいた。
その発言の裏付けとしてか、彼女の口の端は上がっていて自信を如実に感じさせた。
何だか、凄く好戦的な笑顔に見える。
そんな佑子さんも可愛いけどさ。
「ごめんなさい佑子さん。これはあたしと仲川の問題だから」
「だから?」
「……皆まで言わせないで下さい。とにかくあたしは仲川に勉強を――」
「勉強? 佐藤さん、あなたが? 仲川くんに?」
無表情に佑子さんをあしらおうとしている佐藤早苗の発言に、
佑子さんは驚きの色を含んだ声で答えた。
言外に「有り得ない」という言葉が読み取れそうなその声に、今度は俺が驚いた。
佑子さんの佐藤早苗への態度は少々行き過ぎている気がする。
「失礼ですけど、仲川くんの話を聞く限りではあなたの成績は芳しくなかったようで」
「……だったら何? だから一緒に勉強して高め合うのよ」
「本気で言っているんですか?」
佑子さんの語調は露骨に佐藤早苗を蔑んでいる感じで、
今にも嘲笑が聞こえてきてもおかしくない程である。
凄く嫌な予感が胸の中で沸々と湧き上がる。
佐藤早苗のいつでも準備万端と言わんばかりに固められた拳と、
佑子さんのかつてない程自信に満ち溢れた態度が、俺の中の焦燥をかきたてる。
マズい、このままではかなり宜しくない展開になりかねない。
止めないと、二人を。
「どんなに“−”を足しても“−”にしかなりません。
“−”にはそれを相殺出来る“+”の支えが必要なんです。わかります?」
俺が危機感を覚えた時には、佑子さんは点火済みの爆弾を佐藤早苗に放り投げてしまっていた。
ただの傍観者の立場から見ても今が一触即発の状態になってしまったことは理解出来る。
佑子さんの言わんとしていることを、俺が理解しているのに佐藤早苗が理解していない筈がない。
その証拠に先程までの佐藤早苗の無表情は既に崩れ、
俺に向けていた敵意剥き出しの面構えへと変わっていた。
俺と佐藤早苗との問題に佑子さんを巻き込む訳にはいかない。
佑子さんの彼氏だからとかいうことを抜きに、一人の人間として最低限の倫理は貫き通したい。
「佑子さん――」
「仲川くん、ちょっといいですか?」
無視された。
それだけで今が本当に抜差しならない状況であることが分かる。
自省するフリをして逃避したがっている本音を必死に押さえ込んで、
何でもいいからものを言おうとする。
だが、口から漏れるのは湿っぽい息だけ。
俺は今の佑子さんみたいに、あからさまな敵意を向けられることを恐れている。
畜生、俺はこんなに臆病者だったのかよ……。
「仲川くんは、普段あのベッドの上で何か作業したりするんですか?」
自らの弱さに打ちひしがれている俺は、力ない瞳で佑子さんが指差した方向を見る。
その先にあるのは、綺麗に整えられた俺のベッドだけだ。
「そうですよ」
深く考えた上での発言を否定されることで人格をも否定されることを恐れた俺は、
ほとんど反射的に返答をした。
「だそうですよ、佐藤さん?」
佑子さんは得意そうに佐藤早苗に投げ掛けた。
佐藤早苗に俺が普段ベッドの上で作業しているというその事実を伝えることに
意味なんてないと俺は思っていた。
だが、恐る恐る覗き込んだ佐藤早苗の顔は驚くことに青ざめていた。

「仲川……ごめん。あたし帰るわ」
急過ぎる。
話に全くついていけず呆然としている俺をよそに、
佐藤早苗は自分の鞄を持ってそそくさと部屋のドアへと早足で向かった。
ドアの目の前で立ち止まると、体を百八十度回転してこちらに向き直った。
「今日は本当にごめん。取り乱しちゃって」
「あ、あぁ……うん」
状況を全然把握出来ていない俺には、愛想笑いと曖昧な返事をする位が関の山であった。
それでも佐藤早苗はさっきまでの怯えたようなものでなく、少しだけ柔らかい表情を見せてくれた。
「それじゃ。これで……」
そう言い残すと、佐藤早苗は静かにドアを開けて俺の部屋から出て行った。
取り残された感バリバリの俺の隣では、いつものように笑っている佑子さんがいるだけだ。
さっきまでの好戦的表情はなりを潜め、若干お嬢様の気品溢れる以外は
普通の女の子の顔になっている。
どうやらさっきまでの目に見えぬ争いは、いつの間にか終結していたらしい。
とりあえずさっきまでの状況を整理してみると、佐藤早苗が怒って、
佑子さんが油に火を注いで、突然佐藤早苗が青ざめて終わり。
見事なまでに支離滅裂だ。
前後を繋ぐものが何一つない、バラバラの事柄を無理矢理ひっつけただけの展開だ。
結局どういうことだったんだよ……。
「ごめんなさい。仲川くん、私も用事があるのでこれで失礼します」
「そうですか」
ま、佑子さんの笑顔が見れたんだし、もういいか。
済んだことだし、とりあえず佐藤早苗とも喧嘩したままって訳じゃない。
しこりは若干残るかもしれないが、友達なんだしすぐに元通りになるさ。
後は、少しだけ佑子さんに注意を促すだけだ。
今日の佐藤早苗への挑発的態度は、幾ら彼氏といえども見逃せないものがある。
安全が保障された途端に強気になる辺り、やっぱり俺はまだまだ男として出来てないな。
それでも俺と佑子さんは切れない信頼関係で結ばれている筈だから、焦る必要はない。
いつか俺も佑子さんと同じように“+”になれるように努力すればいい。
「佑子さん、俺は自分の友達と佑子さんに仲良くなって欲しいとは思っていません。
でも、少なくとも犬猿の仲っていうのは避けたい」
「佐藤さんのことですか?」
「はい。ちょっと今日は佐藤を馬鹿にし過ぎだったかと思います」
「そう仲川くんが受け取られたなら、申し訳ありませんでした。今度、佐藤さんにも謝ります」
「それでいいです」
気持ち良い位に会話の流れがスムーズだ。
やっぱり俺と佑子さんって相性が抜群なのかもしれないな。
こんな風に自惚れるのも仕方ないと思える程に、佑子さんとの会話は心が安らぐ。
「ただ、一つ誤解されていると思いますが、私は別に佐藤さんを馬鹿にしたつもりはないんですよ」
「え? あの“+”“−”がどうのこうのって話のことですよ?」
「はい。あれは単に、年齢的なことを言っただけです」
「年齢?」
「私の方が仲川くんと佐藤さんより一つ年が上ですから、
その分知識量は多いのは当然ってそれだけのことなんです」
あ、そういうことだったんですか……何が一つ上ですって?
「あの……失礼ですが、学年は次の始業式で高二になるんですよね……?」
「いえ、高三で受験生になります」
ということは……。
「佑子さんって、先輩だったんですか!?」
「そういうことになりますね、後輩くん。誤解が解けて良かったです」
何と、俺が今お付き合いさせて頂いている女性は、俺より一つ年上だったらしい。
確かに佑子さんと会う機会が少なかったとはいえ、見た目だけで同級生と決め付ける俺って……。
何だか佑子さんがより俺なんかには勿体無い存在になった気がした。
というか年齢も確認せずに付き合いを申し込んだ俺って、相当行き当たりばったりな男なんだな。
行動的という風に良解釈しておこうとは思うが。
「それでは仲川くん、また会いましょう」
「はい、それじゃ……あっ!!」
佑子さんについて知らないことはまだまだ沢山あるが、
絶対に聞いておかなければならないことがあった。
「俺の名前は仲川信悟っていいます、佑子さん!」
これ一つ知ることで、新密度はグッと上がるような気がする。
佑子さんは俺の言葉を吟味するように数秒目を閉じて、
やがて俺の意図したことを理解したのか、微笑を浮かべた。
「今井佑子といいます。以後、お見知りおきを」
今井佑子さん――俺の生まれて初めての彼女で、きっと一生を添い遂げるであろう女性。
俺は彼女に出来得る限りの笑顔を向けた。

―――――――――――――――――――――――――

 あんなに格好良い仲川くんを見ることが出来るなんて……!
私は世界で一番の幸せ者に違いありません。
それに、まだ残っている仲川くんの匂いと感触……。
まさかこんなに早く関係を進展させられるなんて、正直嬉しい誤算でしたね。
その立役者を、今私は探しています。
「そこに隠れているんですか?」
仲川くんの家を出て右手にある電柱が怪しいと踏んで、そこに向かって声を掛けました。
返答はありません。
そこにいようがいまいが当然の反応だとは思いますが、
もしいるのだしたら正直頭の悪い対応だと思います。
だって――。
「どうせ私はそちらに向かいます。
いるのだとしたら、隠れようとして私に見つけられるのは屈辱だと思いませんか?」
少し挑発してみると案の定、電柱から出てきました。
やっぱり馬鹿ですね。
「……」
「佐藤さん、忘れ物ですよ」
俯いている佐藤さん目掛けて、仲川くんが貰ったのと同じ課題が入った紙袋を投げつけました。
紙袋から数冊のテキストが道路に散らかりました。
佐藤さんは一瞬それに目をくれた後、すぐに私に憎しみを込めた視線を射してきます。
「その様子ですと、やっぱり私が出て行った後それをダシに仲川くんの家に
上がろうとしていたようですね」
馬鹿の割に悪知恵だけは働く辺り、典型的な恋する女子って奴ですね。
本当に醜い。
でも、馬鹿とはいっても馬鹿の中でも上級の馬鹿だとは認めていますから安心して下さい。
「ベッドにこべりついていた仲川くんの匂いの感想、聞かせて貰えます?」
「っ!」
「そんなに露骨に慌てなくても大丈夫ですよ。
どうせ仲川くんに言うつもりはさらさらありませんから」
普段ベッドで作業していると仲川くんは言いました。
だったら、ベッドは多少なりともたるんでいたり皺がよっていたりするのが普通。
にも関わらず、今日見た仲川くんのベッドはいつもとは違い使用人でもいるのかと思うほど
綺麗になっていました。
このことと、仲川くんの部屋に入る時の佐藤さんの慌て様から察するに――。
「仲川くんのベッドで一人で戯れている時に突然やって来られて、
慌ててベッドを直したなんてこと」
だけど、冷静じゃなかったが為に、
佐藤さんは不自然に綺麗にし過ぎてしまったってところでしょう。
中途半端に頭が回るから、重大なところを見落とすんですよ。
まぁ、馬鹿につける薬はありませんがね。
「それに、私はもっと身近に仲川くんを感じることが出来ますから」
あ、今佐藤さん物凄く女の顔しています。
仲川くんにはとても見せられないような、歪んだ表情を。
せっかくの美貌が台無しですよ、佐藤さん。
それじゃ頭が空っぽの男も寄ってきませんよ?
「後、仲川くん、あなたのこと心配していましたよ。
『友達だから仲悪くなって欲しくない』ってね。ごめんなさい」
それだけ言ったので、私は踵を返します。
「あなたは“友達”って立場でも仲川くんにすがりたいんですよね」
本当は私を引き摺り下ろしてでも仲川くんと相思相愛になりたいんでしょうに。
私がベッドのことを仲川くんに仄めかした時の慌て様から考えるに、
佐藤さん、あなたは酷く臆病な人間なようですね。
そんな覚悟の人に、仲川くんを取られるとは毛頭思っていませんから。
だから、安心して下さい。
別にあなたから友達としての仲川くんを取り上げるなんて惨いことはしませんよ。
「どうぞ、友達としてこれからも仲川くんと接して結構ですよ」

 彼女は私ですから。

―――――――――――――――――――――――――

死ね。

―――――――――――――――――――――――――

To be continued.....

 

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