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アンビエイト・ダンス

第1章
第2章


1-1

 私は車庫に車を置いて外に出ました。
降りてすぐさま車の後ろへと回るとハンドルを引っ張りトランクを開けました。
中には明日のために私が高級スーパーで購入した食材がぎっしり詰まっています。
大きなビニール袋が四つ。それとお米の袋。
日用品や買いだめしておくモノなども一緒に買っていたら予想外の量となってしまいました。
やはり、今日は車で買い物したのは正解でした。
  トランクの手前に詰め込んだ野菜や肉・魚・果物などの明日の食材のビニール袋を掴みました。
二回に分けて買い物したものを家の中へと運びます。トランクから引き上げた食材の山は
鉛のように重く私の両手は地面に向かって引っ張られました。
  私は平静を装いつつも歯を噛みしめてトランクから持ち上げるとなるべくゆっくりと
玄関前まで運んできます。ここで一旦袋を置いて、私はインターフォンを鳴らしました。
  ピンポン、と鳴る音。すぐにインターフォンのスピーカーがジジジとノイズ音を吐き、
リビングのドアホンと繋がりました。
『どなたでーすか?』
  ドアホンに出たのはこの家のもうひとりの使用人……メイドことラッテでした。
「エリィです。買い出しから戻りました」
  私はインターフォンのカメラレンズに顔を向ける。こうやって映して顔を確認してもらいます。
『はーい、エリィさん。いま開けるわ』
  すぐさま、どんどんどんっとドアの向こうで廊下を走る音が聞こえました。
直さまもお家にいらっしゃるというのに、乱暴な歩き方です。
直さまに仕えて半年になるというのに相変わらずラッテにはメイドとしての自覚がありません。
  ドア越しの摺りガラスに見える人影がうつり、ドアノブがガチャリと回りました。
「おかえり。エリィさん」
  ドアから顔をだしたラッテはにんまりとした顔で、私を出迎えました。
  ゲルマン民族系の血が混じった顔にちょこんと乗った綺麗な青の瞳が
楽しそうに私に向けられています。
「直さまは?」
  私は彼女のツーサイドアップの金髪の上を見るように視線を向け玄関の向こうを見たあと、
開口一番に訊きます。
「んー、直やんはゲームしてる。いまあたしたち対戦中」
「そう、ではここにある買い物袋とトランクにある袋を台所まで持って、
  しかるべき場所に置いてきてください」
  そう言って私が買い物袋を指差すとラッテは露骨にいやそうな顔を向けます。
「えー、めんどくさい」
「持っていきなさい」
「今ちょうどいいところなのよ。ボス戦手前っ」
「それは私がやるわ。いいからあなたはしかるべき仕事をしなさい」
「私がやるって……エリィさん、ゲームやらないでしょ」
「黙って持ってきなさい」
「……わかったわよ。まったくいつもよりピリピリしてるわね」
  私が語気を強めると、ラッテはしぶしぶながらも素直にドアを開けて私の横を通り過ぎると、
車庫の方へ周っていきました。
  リビングに入ると、直さまは珍しくカッターシャツにGパンというカジュアルな服装で
ロングソファに座ってらっしゃいました。小さなテーブルの上には白のゲーム機が鎮座し、
直さまはそこからコードが延びたコントローラを両手で握って画面を眺めていました。
「直さま」
  私が声をかけると、直さま画面から目を離し私の方向に顔を向きました。
「ただいまもどりました。直さま」
「おかえり、エリィ」
  そう言うと直さまはそのかわいらしいお顔でにっこりと私に笑いかけてくださいます。
私にとっては直さまの笑顔は、天使の微笑みです。
直さまが私に笑いかけてくださるごとに、私の心は幸福感で満たされるのです。
  こういうように笑顔を向けられると私もラッテのように直さまに笑顔を返そうと思うのですが、
私の性格上、あまり直さまに良い顔はできませんでした。
「起き上がって……、気分はよろしいのですか?」
  どうしても、まずは直さまのお体の心配をしてしまいます。
そんな私に直さまは困ったように眉を寄せました。
「大丈夫。昨日から体調はいいし。それに元気なときはいろんなことしたほうが、気分も晴れるよ」
  そう言うと、直さまはううんと伸びをしました。
カッターシャツの首もとの間から覗く白い肌の鎖骨が私の心に軽いときめきをあたえます。
  しかし、そんなことはおくびにも出さず私は直さまの隣へ
「失礼します」と言ってゆっくり座ります。
「ゲームですか?」
「うん。ラッテとやってたんだ。ラッテは?」
「ラッテはいま手が離せません」
  私が用件を押し付けたからなのですが。
「ふぅん、そっか」

 そう言うと、直さまは暇そうにコントローラをテーブルに置きます。ゲームを中断するようです。
テレビ画面を見てみますとなにやら二機の青と赤の戦闘機がまるで内臓のような毒々しい色をした
管の中を進んでいる画面で静止していました。
  あまり体調の良くない直さまにこんなグロテクスなゲームを選ぶラッテのゲームのチョイスに、
私は疑問を持たざるを得ません。これでまた直さまの気分が悪くなったらどうするのかと、思います。
  しかし、直さまが楽しんでる手前、そんな文句を言うわけにはいけません。
いないラッテの愚痴を言われても直さまは困るだけですし。そもそも言うべきではありません。
「ゲームの途中ですね」
「うん。もうすぐやめるよ」
  直さまは、自分がゲームをするところを私に見られるのが苦手のようで、
私が言うとすこし肩身が狭そうに答えました。私がこういったゲームをあまり好意的に見ていない
ということを直さまは感じているのかもしれません。
別に、私は直さまが健康でいてくれたら何をしても構いませんのに。
そう言おうとして、一旦言い留まります。
そんな甘いセリフは教育係として軽く口に出すべきではありません。価値も下がります。
私の目を気にして、コントローラーを両手で右へ左へキャッチボールしている直さまは
画面をぼぅっと眺めていました。
私はそんな直さまを見ると、直さまのご遊戯をラッテの仕事で待たせるのが
なんだか苦痛に感じてきます。
「よろしければ、私とやりましょう」
「え、できるの?」
  私の口から発せられた言葉に直さまは目をまるくしました。本当に予想外だったのでしょう。
「簡単です」
  私は不安そうに見る直さまにそう言い張ると、ラッテが使っていたと思われる
コントローラーを掴むと両手で握り、直さまの隣へ正座して座りました。
両脇を閉めて水平にコントローラを持ち画面に視線を向けます。
  ゲーム画面の上方を見ますとアルファベットで左上方に青色で『NAO』、
右上方に赤色で『LATTE』と表示されています。
ということは青の戦闘機が直さま、赤の戦闘機が私なのですね。
  次にコントローラに視点を落としますと、左に十字架の形をしたボタンがあり、
右にAやBなど表示されたプラスチックのボタンが四種類。
さらに真ん中には灰色でSTARTというゴム製のでっぱりがあります。
どのボタンを押せばいいのでしょうか。
  簡単ですと言い切った手前、直さまにあれこれ聞くわけにはいきません。
マニュアルでもあればいいのですが。
「いい? はじめるよ」
「お願いします」
  不安そうに聞く直さまにもう一度言い放つとピロリンという音とともに画面が動き出しました。
右から左へ、内臓の背景が動き出し直さまの動かす青の戦闘機が機敏に上下へ反応します。
私も倣って左の十字キーを押してみると、そのとおりに赤の戦闘機も動き出しました。
  動かし方はこれで正解のようです。
上昇も下降も思いのまま、実際の戦闘機もこれぐらい機敏に動いてくれれば空軍も楽なのですが。
と、そのとき。突然右方向からエネミーらしき物体が飛来してきました。
昆虫の卵のようなものが糸を吐くようにこちらに向かって一直線に白い棒を飛ばしてきます。
私はその棒をよけてみました。
直さまの動かす青い戦闘機を見ると、同じように白い棒を掠めるようによけています。
そして、戦闘機の先端から小さなバルカンのような玉が何十発も飛び出したかと思うと、
昆虫の卵に被弾。卵は派手に爆発し消滅しました。
  なるほど。やはりあれはエネミーのようです。
こういった敵軍をミサイルで撃墜するゲームなのですね。単純です。
  私は内容を理解すると、右の四つのボタンのひとつを押してみました。
  ずがががががっっ!!
  突然、私の機体から赤い炎の玉が飛び出したかと思うと、
画面全体にその弾が飛び散っていきました。
次の瞬間、画面上のいたるところにいたエネミーはすべて綺麗さっぱり消滅していました。
「おおっ」
  私は思わず感嘆の声を上げてしまいます。
この機体はどうやら抜群の攻撃性能を持っているようです。
一撃で前方後方上下全てのエネミーを滅殺するとは。
この戦闘機を作った軍は攻撃だけの技術だけが異常に発達しているのですね。
私は、先ほど押したボタンをもう一度押してみました。
  ずがががががっ!!
  また、炎が飛び出します。もう一度押してみます。
  ずががががっ!!
  もう一度。
  ずがががっ!!
  どんなエネミーもコレ一発で全て消滅してしまいます。なんでしょう、楽なゲームですね。これは。
こんな簡単なゲームならラッテが得意なのも頷けますね。ボタンを押すだけでいいのですから。
「え、えっと。エリィ」

 ピロリンと音を立てて、画面が静止しました。
直さまのほうを向くと、直さまは眉を八の字にしてなにか言おうとしています。
「なんですか? 直さま」
「一応、これの説明なんだけど……」
  ゲームですか?
「このボタンを押せばいいんですよね? 私だってゲームぐらいできるのです」
「いや、だから……」
「ふぅー、重すぎぃ!」
  直さまが言いづらそうに言葉を続けようとしたとき、
リビングにビニール袋を四つすべて持ったラッテが戻ってきました。
  丈の短いエプロンドレスを揺らして、よろりよろりとビニール袋を両手に持って歩くと、
直さまの座るソファによいしょと言って置きました。直さまの横にビニール袋が四つ並びます。
「そんなところに置かないでください。ちゃんと所定の位置にしまえと言いましたでしょう?」
「ちょっと休憩だって。だいいちこんなにも買ってどうする気……」
  ラッテはそう言うとちらと私が動かしていたテレビ画面を見ました。
すると途端にラッテの顔が真っ青に変化します。
「あーーっ! あたしが最終面に備えて貯めまくったボムをーー!!」

 後で聞くところによると、私が押していたのはいわゆる『全体攻撃ボタン』らしく、
これが少ないとゲームを全て終わらせることが極端に難しくなる重要なボタンだったらしいです。
  まあ、そんなこと私の知ったこっちゃありませんが。

 私の仕えるご主人様こと、紅行院直さまは紅行院家の直系の
今年の十一月に十五歳になる長男さまです。
直さまは色素が薄い肌をした、背の低いお坊ちゃまです。
一日のほとんどをベッドでお過ごしになられており、
いつしか正装よりもパジャマ姿のほうが似合う男の子になられました。
本来ならば、紅行院のような大きな財閥の直系男子は跡取りとして幼い頃からの英才教育を受け、
病気の療養も最新の医療技術と何人もの医師が常駐する施設で行われれるものなのですが、
直さまがお住みになられているのはとある高級住宅地の一角にある小さな一軒家で、
常駐する医師も設備も無く、居るのは使用人である私とラッテの二人だけでした。
何故、直さまがこのような立場にあるかというと少し説明が長くなります。
ややこしいのでいくらか省略しますが、要点だけ言えば紅行院という家系は代々女が取りしきる
特殊な形態をしておりまして、生まれた女を頭首として教育し、男子は財閥を大きくするための
駒のようなものとして扱われます。
直さまは本家からしてみれば、紅行院の長男でありながら病弱であるせいで駒にもならない……
といった不遇な扱いを受けられている方でした。
さらに、跡取りはとても優秀でらっしゃる長女のしずるお嬢様がすでにいらっしゃる上、
直さまの立場はかなり弱く現在は本家とは切り離されたようにこのような住宅地に
押し込められてらっしゃるのでした。
しかし、だからこそ、私がここで直さまのお世話をしているのですが。

私、美祢野エリィはこのお家で直さまの幼少期の頃からずっと仕える、
お世話係兼教育係のメイドです。
この紅葉のような赤い髪と碧い瞳から察するように体には日本人とドイツ人の血が混じっております。
  年は20歳。直さまとは6歳ほど年が離れていまして、
直さまは年の離れた私をまるで母親のように慕ってくれます。
  私は直さまに忠誠を誓う、ナイトのような女でした。男女は逆ですが。

 先ほども話したとおり紅行院という家系は代々女が取り仕切り、
生まれた女子は英才教育を受けてお家の舵をとります。では、生まれた男子はどうするか。
紅行院家の男子に課せられる使命はふたつ。
男子は他の貴族の娘の婿となり政界や各財閥へのパイプ役として努めるのがひとつ。
もうひとつは能力のある長けた女を嫁にとり、
紅行院の家系に取り込みて紅行院家を増強するための駒となる。
  前者は直さまのその病弱なお体のため、
パイプ役として必要な交流にこれまで一度も参加できませんでした。
パーティや儀式全てにおいて直さまは紅行院家の力になれません。
ゆえに、直さまのできうる使命は後者の方となります。
  長けた女を嫁にとる。

 そう、それが私です。

 メイドという身分ながら、私のような年頃の女ともうすぐ思春期を迎える直さまが
一つ屋根の下で過ごしているのは理由はこれなのです。
  本家は私を紅行院家へ取り込もうと画作しているのでした。

 あ、これは別に私の妄想ではありません。
  じきじきに紅行院家頭首様から、しずるお嬢様を通じて言われたことなのです。

「直がちゃんと精通したら襲ってしまっていいぞ。つーか、むしろ襲え」

 と。しずるお嬢様は頭首様の小難しい命文を一行でまとめてくださるので大変好感が持てます。
説明が短くて楽ですね。

 ただ、宣言します。私にとって、紅行院のお家はあまり関係ありません。
直さまは直さまです。それは幼少期の頃から見ていた私だからこそ、言える言葉です。
  本家から認められた叩き上げの婚約者。私、美祢野エリィ。20歳
(年なんて飾りです、言いよどむ人が理解できません)。
  私は家や血筋関係なく直さまを愛していました。
幼少期の頃、本家にお世話役としてあてがわれてから、そして現在になるまで。
  私はこのお家で直さまの手となり足となりながら、直さまの成長を見守り、
いつか私を妻として娶っていただくのをずっと心待ちにしていました。

 しかし、頭首様は直さまが14歳になったある日。私にこう言い放ったのです。
  直さまに許婚を当てると。
  お相手は、最近急成長してきた、とあるライバルの会社社長のお嬢様でした。

「直やん、ついに明日はお友達が来る日だねぇ」
「そうだね。どんな子が来るのかなぁ」
  直さまはサラダのトマトをぱくりと口へ運びながら、楽しみだなと言って笑いました。
そんな直さまと話すラッテはいつものようににやにやと笑い、その顔をこちらへ向けてきます。
  まるで、私を挑発するような顔です。
「明日になってみないとわかりません」
「ねぇ、エリィ。いつごろ来るのかな?」
  遠いところからやってくる友達が本当に楽しみなのでしょう。直さまは目を輝かせて私に聞きます。
「さぁ、朝かもしれませんし夕方かもしれませんね。いつごろ来られるかは伺っていません」
そんな輝かしい顔を向けられて、私はあえてそっけなく答えました。
興味が無いといった風にお茶碗のごはんを箸でつまみ口に運びます。
  私の返答に直さまはそっか、と言ってしゅんと顔を手に持ったお茶碗に戻しました。
直さまは私のお顔を伺うような聞き方をなされますが、
これも私が母親代わりといった気持ちがあるからかもしれません。
  テーブルを囲んでの食事。
  本来なら、ご主人様と同じように食事するべきではありません。
しかし、直さまの「食事はいつもみんなで一緒に」というご希望により、
このお家では食事は主人とメイドたちで同じテーブルについて頂くという決まりができていました。
  実の家族とは切り離され、お一人でご療養を続けている直さまにとって、
一緒に住みお世話や教育係を努める我々は、血が繋がらなくても
まさに家族のような存在なのでしょう。
だからこそ、直さまは一緒にお食事をとることを希望されたのです。
  しかし、あえて難を言うならば、「食事はいつもみんなで一緒に」と言った直さま本人が寝込んで、
直さまのみ自分のお部屋でのお食事……ということが何回かあります。しかたがないことなのですが。
  とにかく。台所のテーブルで直さまと私とラッテの使用人二人は、
まるで家族のように集まい寄り添って夕食を食べていました。
長方形のテーブルのリビングに近い一辺が直さまの席です、
そして対面するもう一辺の流し場に近い方が私とラッテの二人の席です。
  今日の夕食は麻婆豆腐。テーブルの真ん中の中華風の大皿に盛られ、
その周りを彩るかのようにシュウマイや中華サラダのお皿が並んでいます。今日は中華でした。
麻婆豆腐はついさっきまで私の手によって熱い中華なべで挽肉と豆腐のランバダを
踊っていましたので、まだほかほかと湯気が立っています。
冷めても美味しいように作ってありますので残業帰りのお兄様にもチンせずに有効です。
  私にお兄様なんていませんけど。
「でも直やん。楽しみだよね? やっぱり会ったら何するの?」
  ラッテは全て食べ終わったらしく、湯飲みにお茶を注ぐと自分でぴちゃりと口をつけながら
直さまに楽しげに聞きます。
この娘はいつも頬を緩めてにたにたとしながら喋ります。
口をつぐんで真面目に前を向いていれば私も認めるほどの美少女なのにと私はいつも思うのですが、
彼女はその笑みを一向にやめません。
しずるお嬢様のやり方でも真似ているのでしょうか。
あなたはしずるお嬢様には決してなれませんのに。
しずるお嬢様はニヤついた顔も一級品の彫刻のように美しいのですよ?
「えっとね……何するかまだよくわかんないよ。でも、友達になれればいいなぁ」
「そうですね。いいお友達になれればいいですね」
「うんっ」
  直さまは心底明日が楽しみだというように私に微笑むと、がつがつとご飯を口にかきこみました。
本当に調子の良いようです。
  茶碗のはしっこについたご飯粒までぺろりと平らげると空になった直さまの青いお茶碗が
テーブルに置かれました。珍しく、おかずとご飯を残すことなく食べられました。
「ごちそうさま」
「お粗末様です」
「ごっちゃん」

 

 直さまが手を合わせてそう言うと、我々二人も手を合わせて続けます。
じつは直さまよりも10分も早く食べ終わっているのですが
(直さまは一回の食事に二〇分費やします)こうやってご馳走様と言う時も私たちは一緒でした。
  同じようにメイドが食事するわけには行かないですが、
同じようにメイドもご主人様より先に立つわけにはいかないのです。
ちなみに、これが正しいかどうかは民明書房完全メイドマニュアルには書かれていません。
私が独自に実行しているやり方ですのであしからず。
  それはさておき。
  食べ終わると、直さまはいつものようにお茶碗やお皿を重ねて流しまで持って行こうとします。
しかしそんなお手伝いを私は許すわけもなく、積み上げたお皿は私がすぐに掴みとります。
掴んだお皿は私の食べ終わったお皿に手際よく重ねていきます。
「エリィ」
「直さま、私がやりますので」
  直さまには何度か言っていますけど、やっぱりいつでも直さまは私たちの力になろうと
なにかお手伝いしようとしてくれます。私はその気持ちはとても嬉しいものですが。
メイドにはメイドの仕事があります。
ご主人様である直さまにそういうことをやらせるわけにはいきません。
しかし、直さまは当然のように私にお手伝いを拒否されるようにお皿タワーをとられても、
爽やかな可愛い笑顔を向けて、
「うん、ありがとう。エリィ」
  と感謝の言葉を言ってくれます。
そんなお言葉よろしいのですのに、直さま。私はそう直さまのお世話をするのと、
直さまに笑顔を向けていただくのがなによりもの幸せなのですから。
「もったいないお言葉です」
  そんな笑顔に私は心は熱く萌えつつも、私はきわめて冷静に返しました。
冷静沈着が私のモットーですので。
「さてと……、直さま。午後八時にはご入浴の時間ですのでそれまで楽にしてください」
「うん。テレビでも見てるよ」
  直さまは素直に頷いて、台所から出ていきました。
「じゃあ、あたしもテレビテレビ……」
  そのまま直さまに続いて同じように台所から逃げようとするラッテの襟首を掴みます。
  首元にいきなりストップをかけられてラッテはぐえっと変な声を出して足を止めます。
後ろでつかまれたことが分かると、ぶうたれた顔で振り向いてきました。頬にご飯粒がついています。
おべんとう持ってどこへ行く気ですか?
「なによぅ。言っとくけどあたし七時半からは自由時間のはずよぅ?」
「明日の下ごしらえがあります」
  明日はおもてなしなのです。並の料理を出すわけにはいきません。
直さまの喜ぶような豪華絢爛な料理を並べないといけないのです。
「豚肉と鶏肉を糸で縛って煮込んでください。味付けはいつもの直さま好みにします。
一時間ごとに調味料を入れて味が逃げないように。これを午前2時まで続けてください」
「なにそれ、まるで残業じゃない」
「残業です。手当ては当然でません」
「ふん、横暴ねぇ。直やん以外は人間扱いしてないんじゃないの?」
「身分証明もお金もない家出小娘がどの口で言うのですか?
  それとも、ここを追い出されたらどこか行くあてはあるのですか?」
「……直やんの許可無くあたしを切る気?
  そんなことしたら、あたしを友達だと言い張る直やんがどう思うかねぇ?」
  にたにた笑いの表情のまま私の目をラッテが挑発的に直視する。
私はひるむことなくおべんとつけたラッテを睨み返します。
直さまはテレビのお笑い番組に夢中でこちらを見ていないのが幸いでした。
こんなガン付けあいなぞ直さまに見られるわけには行きません。
  視線が交錯したまま、しばらく沈黙。
  さすがに言い過ぎたのか、ラッテは諦めたように私の瞳から目をそらします。
「冗談よ。やるわよ、やるって」
  ラッテはため息をつき、私の襟を掴んだ手を振りほどくと、
ぶつくさと文句を言いながら台所奥の床下の食材置き場へ歩いていきました。
正方形の板の蓋をきぃっと開けて中の様子を見ています。
彼女はちょうどお尻を突き出しながら、猫が背伸びをするようなポーズで探していました。
ああいうのを誘う女豹のポーズと言うのでしょうか、
私はすぐに興味をなくしさっさと台所を出ました。

1-2

 ラッテはもともとはこの家の人間ではありません。
  半年前、小川の土手の道端の段ボール箱の中で子猫と一緒に寝ていたところを、
  散歩中の直さまが発見したのでした。
  トワトワ座と呼ばれる古い映画館の近く、あまり人通りの無い土手のはずれの廃品の山とともに、
  それはありました。
  ちょうどそのとき、私は直さまの2歩後ろに控えていたのですが、直さまが段ボール箱を指差して
「飼いたい!」
と言った先に子猫数匹が居るのを発見し、私はすぐさま段ボール箱を川へ投げ捨てようとしました。
女の子も入っていたため、持ち上げることは無理でした。直さまも怖がります。私に。
  捨てられた子猫を拾うことに関して、私は直さまのわくわくした顔にはっきりと「NO」を
叩き付けました。もし直さまに猫アレルギーが着いていたら、心配だからです。
  問題は女の子のほうです。
  私は直さまに
「飼いたいのですか?」
と言って女の子を指さすと、直さまは違う違う、飼わない飼わない、とふるふると首を振りました。
  私はそれを聞いて安心すると、直さまの手をとり、その場から離れようとしました。
  直さまに止められました。なんででしょうか。
  直さまは女の子が心配なようです。
私も目を凝らしてよく観察してみます。日本だと言うのに、髪の毛は金色、
顔立ちから見るに女はイギリス人のようでした。
体もおおきく、直さまよりすこし年上……16歳ぐらいの年齢のようです。
来ている服は柄物のワンピースで、そのまま寝ているためかいたるところがしわくちゃです。
しかし、不思議と汚れていません。子猫が女の脇に寄り添ってにゃぁにゃぁ鳴いていました。
確かに、こんな段ボール箱の中に女が入っているとは変です。直さまは不安そうに眺めていました。
  しかし、私にとってはこんなもの関係ありません。
今日の直さまの夕食の献立を考えるほうが大事です。
私は直さまに無視するように忠言しようとしましたが。
「おねぇさんっ。おねぇさん」
  あろうことか、直さまは女の子の肩を揺らしてしまいました。
当然のごとく、段ボール箱で眠っていた女は眠りが浅かったためか、目を覚ましてしまいます。
女は起き上がると不機嫌そうな顔で直さまを睨みました。
「んー……ん。ふぇ、なによ」
「おねえさん。なにしてるの? ハロー?」
「うっさい。死ねガキ」
  心配そうに聞く直さまに、女は流暢な日本語で暴言を吐くとまたダンボールの中へ寝転がりました。
「あなた、自分の名前はわかりますか?」
  直さまが起こしてしまった以上、無視するわけにもいかなくなります。
私は段ボール箱の前の彼女に視線を合わせるように膝を折って屈むと、彼女に質問します。
家出少女だったら公安へ連絡しないといけません。
外人で日本語流暢なら珍しいですし、親御さんもすぐ見つかるでしょう。
  しかし、そんな私の考えもこの女の前では無駄でした。
「名前ぇ? さぁね。風にでも聞いて」
  寝転がりながら視線を合わせようともせず、答えます。
親の顔が見てみたい典型例ですね。まったく。
「家出ですか? 親御さんが心配していますよ」
「うるさい。親なんて知らないわっ」
「お母さんいないの? お父さんも?」
「どっかいきなさい。ガキ」
  なんとかコミニケーションをとろうとする直さまに女は素っ気無く言い放つと、
  直さまはしょぼんとなって不安げな表情になられました。
  先ほどの暴言といい、直さまに対する態度といい、私の怒りに触れる行動ばかりですね。
できることならこの娘の首根っこを掴みあげて一秒間に16ほどラッシュを入れたいところですが、
さすがに直さまの前ではやりません。あと、できません。
  私は直さまの腕をとると、ぐいと引っ張ります。
「直さま。行きましょう。時間の無駄です」
「でも……」
「直さま。そろそろ帰らないとお勉強の時間に間に合いません」
「うん……。わかったよ。じゃあね、おねえさん。猫ちゃん」
  直さまは名残惜しげに、残念そうに言うと立ち上がって、私に片手を引っ張られながら、
もう片方の手でばいばいと手を振りました。猫が寂しそうににゃあにゃあと鳴く声がします。
  そんな直さまの表情に私はすこし心がちくりと痛みました。
しかたありません、今日は私がネコミミでもつけて直さまをお慰めしようかと思案したそのとき。
「待って!!」
  いきなり、段ボール箱で寝ていたはずの女が物凄い勢いで起き上がりました。
ぐしゃぐしゃの金色の髪の毛を振り回し、直さまに掴みかかりました。
「わっ!」
「……!」

 不意をつかれ、私は即座に反応できませんでした。しかし、すぐに直さまの腕を引っ張ると
自分の胸元まで直さまを引き寄せます。女の手が直さまからはずれ、
直さまの体が私の力によって引っ張られ、
私のエプロンドレスの胸元に直さまの顔が押し付けられました。
「直さまになにをするのですか!!」
  私は直さまに叱るときよりも大きな怒号で叫ぶと、太腿のガーターベルトに隠した警棒を掴み、
しゅっと伸ばすと警棒の尖った先を女へ突き出します。
直さまは紅行院家直系の長男で、私がお守りするべき最愛のご主人様。
こんなわけの分からない女が簡単に触れていいものではありません!
  しかし、起き上がった女は、何故か次の瞬間。
「お願い!」
  土下座をしていました。アスファルトの地面に頭をこすり付けるように、
私たち二人にむかって頭を下げています。
「私を雇って! なんでもするから!!」
  突然のことに、直さまはぽかんと口が開いたままになってしまいました。
直さまはもしかしたら土下座というものを初めてみたかもしれません。
  私も、予想外のことに警棒を女に向けたまま「はぁ?」と眉を寄せます。
「あなたたち二人はメイドとどこかの坊ちゃまだよね!?
  お願い、理由は聞かないであたしを雇って! どんな汚い仕事でもやるから!
  あたしを雇ってくださいぃぃ!」
  頭を下げた女は私たちの表情が見えないまままくし立てるように喋ります。あまりにも必死。
そう、必死すぎます。
「さっきの暴言は謝るわ! このとおり! なんでもするからぁぁぁぁ!」
  必死すぎて、危ない。
私は直さまが段ボール箱を見つけた瞬間に、お姫様抱っこでかついで逃げればよかったと
心から後悔しました。
  人通りのまったく無いトワトワ座の前だったということが幸いです。あたりには誰も居ません。
私は直さまを抱いたまま逃げようと、後ずさりします。
間合いを取って隙を見て脱兎するつもりでした。
  が、
「待って! 待って! お金もいらない! お給金も! ただご飯と……寝るところだけあれば
  いいから! 犬小屋でもいいの! だから、だからぁ! あたしを雇ってよぉ!!」
  私の足を掴むな! 直さまの手前、乱暴に振りほどけないでしょうが!
  あとうちに犬小屋はありません!
  女にぎゅうっと足を抱かれ、私が対応に困っていると、胸元に顔を押し付けられた直様が
  ぐぅぐぅとくぐもった声を出します。視線を移してみると可愛いお顔が真っ赤です。
  苦しいのでしょうか。私は直さまを抱きしめる腕を緩めてあげました。
  ぷはっと空気を吸い込むように直さまが顔を上げます。
「直さま、大丈夫ですか?」
  足をつかまれたまま、私は聞きます。
「大丈夫だけど……。ちょっと……」
  私に見つめられた直さまはピンク色の頬をさらに赤く染めてごにょごにょと
なにか言いづらそうにします。
「なんですか?」
「お、おっぱいが……」
  そう言うとさらに真っ赤にしてお顔を俯かれました。
ふむ。私の胸が直さまの顔に押し付けられていた形は、どうやら直さまには刺激が強かったようです。
「これはこれは、失礼しました」
実はわざとですけど。
「さて、問題はこの女です」
  私の足を掴む女。わめき散らす女に向かって右手を振り上げました。
言葉のキャッチボールができない方には拳で会話しましょうということで(警棒ですが)、
えぐえぐとえづく女に一撃を喰らわせようと、振り上げた警棒を握り締めました。
「待って! エリィ」
  そのとき、直さまの突然の静止の言葉。
私はすでに振り落としていた警棒を女の頭の直前で見事止めてみせます。華麗なる寸止めです。
「なんですか? 直さま」
「雇ってあげようよ。この人……」
  ……なにを言い出すのですか。直さま。
「ほら、かわいそうだし……。こんなに必死な人僕見たこと無いよ?」
「直さま。猫を飼うのと人を雇うのはわけが違います」
「で、でも……」
「同情はいりません。直さま」
「でもさ、メイドさんとして雇うだけだよ! それに、お給料だっていらないって言ってるし!」
「直さま、メイドというものは簡単になれます。大きな家で家政婦を探しているところに派遣されれば
その方はメイドになれます。他にも秋葉原に行ってカフェで面接を通ればすぐにメイドになって
接客ができることでしょう。
しかし、『直さまのメイド』となると話は別です」
「別に僕はかまわないっ」
「ご自分の立場を考えてください」
「立場?」
  女の前で、直さまの立場を明かすことは私にとって好ましくないことですが、
何故というように聞き返す直さまを説得するにはきちんと自覚してもらわなければなりません。

「直さまは紅行院家のご長男様なのです。そのような方にこの素性も分からない女を
  仕えさすなんてことはできません」
「………」
  俯いて黙りこくる直さま。
「わかりましたか? 直さま」
  私は口調を和らげて、言い聞かします。これでこの話はおしまいにするつもりでした。
「……いつもいつもいつも」
  しかし。直さまは顔をすぐさまあげて、私をキッとにらみつけると……。
「いつもいつもそればっかりだ! 僕が何をしようとしても、エリィはそうやってなんでも
  僕の行動を制限するんだ!」
  私に向かって、普段出されないような耳を突く大きな大きな声で、叫んだのです。
  いつもはこのまま納得してくださると思っていたところの突然の怒声。
……いつもおとなしい直さまが。あろうことに私に向かって罵声を浴びせるとは。
「そんなことありませんっ」
  すぐに私は否定の言葉を口にします。
「私は頭首様より教育係、世話係を仰せつかっております。
  これは制限ではなく、あくまで直さまのお体を案じての対処とお考えください」
「学校のことだってそうだ! 僕はもう元気なんだよ?!
  いい加減、学校ぐらい行かせてくれたっていいじゃないか!」
「いいえ、なりません。体調が万全でない限り。直さまにもしものことがあれば、
  どうするおつもりですか。学校では私は直さまをお助けすることはできないのですよ?」
「かまわないっ! 僕は一人でできるって言ってるんだ!」
「一昨日に突然倒れ、昨日まで起き上がれなかった方が言う台詞ですか。
  その間、四六時中看病したのは誰だと思っておられるのですか?」
  昨日、私は徹夜で直さまのお傍に着いていましたよ? 寝てらっしゃる間の額のタオルのお水を
  何度も替えましたよ? おかゆだってふーふーして食べさせてあげましたよ?
  ぐっと、直さまは表情を詰まらせます。これで終わり……。ではありませんでした。
「エリィのわからずや!」
  まるで、ずっとためていた不満をぶちまけるように、
  これまで聞いたことも無いような大声で訴えかけてきます。
「そのせいで、学校に行けないせいで、僕は一人も友達が居ないじゃないか!」
「私が居ます! 私は直さまのお友達です!」
「違うよ。エリィはただの、ただの『おせっかいな』メイドだろ!」
  ああ、なんてことでしょう。いつも私を「家族」と言って慕ってくださる直さまが、
  私に向かって「メイド」とはっきりと言い切りました。言い切ってしまわれました。
私を、直さまの未来の奥方を、幼少期の頃からずっとずっとお世話をしてきた母親代わりの私を。
ただの下女と、言い切ったのです。
直さまが怒って思わず言ってしまったであろう言葉です。本心ではないことは今では十分わかります。
しかしその時の私は直さまに激昂されて言い放たれた瞬間。
  自分でもわけがわからず、私は警棒を握る手を離し、ご本の指をもみじの葉のようにひろげ、

 ピシィッ!

 気がつけば直さまの頬を、あの可愛らしい頬を、喜んだときは笑窪ができるあの頬を、
照れるとはにかんでりんごのように染まる頬を、平手で大きく叩いてしまったのです。
「……っっ!」
  軽い音が響き、直さまのお顔が私の平手が通った方向へ少しだけ向きます。
  ……やってしまった。私はじんじんと響く手のひらの痛みの感触で我に返りました。痛む手。
しかし、それよりも痛いのは直さま。直さまの心。
  だって、だって。
  直さまは叩かれる理由が無いのですから。私がただ直さまの言葉に大きく反応してしまって、
  手を出してしまったのです。
直さまは私に叩かれたことが良く理解できなかったようで、呆然とした表情のまま、
腕の中で立っていました。片方の頬が、痛みを伴ってさらに赤く朱色になっていっています。
  直さまにとっては、理不尽な痛み。そうです、私は直さまの本音を受け止めてあげなければ
  ならないのに。激昂してしまってはいけないのに。
  すぐさま謝罪しなければならない。私は呆然とする直さまに向かって、
「…………も、もぅし……わ、け、あり……ま、せ、ん、ん、ん……」
  ダメです。声になりません。もう一度、私は心臓を落ち着かせて、
「もうしわけありません」
  直さまに、謝罪の言葉を言います。
  しかし、直さまは痛む頬の熱さに我に返ったように私に顔を向けました。
  目元に浮かぶうるうるとした涙。私は後悔の念で胸が張り裂けそうになりました。
「……直さ、ま」
「僕は、僕は駒だろ。わかってるよ。僕は紅行院の家を大きくするだけのただの駒……。
  友達なんて必要ないよね……」
  直さまはしずかにそれだけ呟くように、その口で自虐の言葉を紡ぐと、私の腕を振り切り、
  私のそばから走り去ってしまいました。
  土手を降りて、トワトワ座の横を通る道を走っていき……姿が見えなくなります。
  私は、あろうことか。それを追いかけることなく、呆然としたまま走り去る後姿を見ていました。
  十秒もたったころでしょうか。私は急速にあることに気付きます。
「直さま!」
  直さまは、直さまはここから家に帰るまでの道のりはわかるのか?
  いや、ここは何度も通った散歩道。いくら直さまでもわかるはずだ。
  それよりも家に帰るまでに直さまの身に何かあったら。感情が高ぶりながらわき目も振らず走って、
  四つ角を横断歩道を飛び出して交通事故にでもあったら。
  サァーっと私の頭から血の気が引いてゆきます。直さまが危ない!!
  私はすぐさま走り出そうとして。

 女に足をつかまれたことを忘れていて見事にコケました。

1-3

 不覚です。私がこんな情けないコケかたをするとは。
足を見ると、相変わらず金髪の女が私の足を掴んで離そうとしていませんでした。
  これでは直さまの後を追えません。女に向かって声を荒げます。
「邪魔です。離しなさい!」
「嫌だね!」
  先ほどの土下座のような勢いとはうってかわって、女は足をさらに強く握り締め、
高圧的な目線で私を見据えています。
  そうやって足止めされている間に、直さまはどんどんと離れていっているのです。
私は直さまが居なくなったので、足を大きく振り出して女を振り落とそうとします。
地面へ女を叩きつけますがそれでも離しません。
「あたしを雇うと言うまで、絶対離さないよ!」
「雇いません!」
「じゃあ離してたまるか!」
  私は落とした警棒を掴みとると、女の首の下をめがけて振り落とします。
ぴしりっと鋭い音がしました。
「離しなさい! 離せ!」
  ぴしりっぴしりっと川原土手に響く警棒の音。
  ダメージは届いているはずなのに、女は痛みを受けたような表情を一切作らず、
必死な形相のまま私の足に喰らいついている。やっぱり、ここまで必死な女は危険だった。
「雇え! 雇ってさ!」
「くぅぅ…!!」
  何度も叩きますが、女は「雇え」という一点張り。
ふと気付きます。この現場を公安に見られたら私は正当防衛で済まされるのでしょうか。
いや、済まされないですね。警棒しばきもやりすぎると人間を死に至らしめます。
  私は警棒を振る腕を止め、しゅるっと胸元に隠します。
将来、直さまに前科持った妻が居るとなると後の障害に繋がりますものね。
「あたしを雇う気になったのかしら?」
  違う。こうなったら泣かぬなら泣かせてみようホトトギス。力づくで離さないのでしたら、
離させてやりましょう。私は足をつかまれ倒れた体を大きく反らせます。
  てぃっと掛け声を上げて、私は体の伸びの力だけで立ち上がりました。
ちょうど中学生体育の授業でもやったと思われます。ネックスプリングというやつです。
「うわっと」
  女は私の身体能力に慌てたように声を上げますが、手はゆるむことなく私の足に掴まれています。
執念深い女です。
  私は女に足を引っ付けたまま、
「直さま!」
「きゃあっ」
  直さまの後を追って、全速力で走り出したのです。
「ちょ、ちょちょちょ! 無茶無茶無茶!!」
  ずりずりと引きずられている女は視界や意識から完全にシャットアウトします。
女の叫び声など聞こえてきません。本当です。
  女一人分の体重が増えた足を動かして、トワトワ座の横を走り抜けます。
ぼうぼうと雑草が生えた空き地を抜けて、住宅地の道路へとでてきました。
  ブロック塀が建ち並ぶ住宅街。アスファルトで舗装された道路。
ここは直さまのお家から100メートル離れたところにある中流住宅街です。
あたりを見渡しますが、直さまのお姿は見られません。
  もし私が犬ならば、直さまの芳醇な匂いをたどっていくことができるのに。
私はとりあえず、あっちのほうに居ると見当つけて、また走り出します。
「直さまっ。直さまっ!」
  私はうわ言のように直さまのお名前を呼びながらお姿を探していました。
「ねぇ、あんた!」
  足から声が聞こえますが、無視です。聞こえません。聞こえていますが、聞こえていません。
「あんたは、あの子に仕える一番偉いメイドじゃないの?」
  察しがいい女も嫌いです。なるべく掴まれている右足を電信柱や壁にかするようにして
私は直さまを探します。
「無視ぃ? ふふん、あたしはこれを離さないよ。と、いうよりあんた!」
  右を見て、左を見て、もしくは空!? 私は首をぐるぐる回します。
「あの子にはあたしが必要だってことに気付かないのかしら?」
  ぴくり。
  何故か。私は女のその言葉で、足を止めてしまいました。
  足元を睨みつけると……泥だらけで顔や腕は擦り傷、
しかししっかりと私の足に腕を巻きつけた女が、にたぁと笑ってこちらを見ていました。
  何故笑う? 嫌悪感が湧きそうな笑い方に、私は思わず身じろぎしてしまいます。
無視すればよいのに、私は聞き返してしまいました。
「……あなたが必要?」
「ふふん。そうよ。あの子は友達がいないんでしょ?
  じゃあ私がその友達になってあげるって言ってるの」
「直さまのお友達は私です」
「いや、あんたがどう思っているか知らないけど、あの子の言うとおり、あんたは友達じゃないわ。
  友達にもなれないわ」
「何故!」

「だってあなたの目は……迷子になった子供を捕まえて太らせて食べようとしている
  魔女の目と同じだもの」
  突然の威圧感。私を見据える女の目が鈍く光る。蛇のような目。じとりと私の額に汗が落ちた。
「そんなことありません……!」
「そんなわけない。私にはわかるわ。あなたは、あの子を大事そうにしながら、
  あの子のためといいながら……自分に都合の良くなるように育てているでしょう?」
「そんなこと……!」
「自覚はしているはずよ」
「くっ……」
  戯言だ! そんなのはただのくだらない戯言です! 私はそう言い切ろうとするが、言葉が出ない。
口から出したい文章が、口元で止まってしまっている。
  ……この女はただの家出少女ではない。こんな日本の誰も居ない人通りの中、
このような綺麗な身だしなみを残した外国人が倒れている時点で、警戒すべきだったのに……!
泥だらけの汚いダンボールの中で寝ていたような女に、私は今。心を見透かされる。
直さまに「友達ではない」と言い切られた自分。直さまが感情が高ぶった上での言葉ですが。
その言葉の中には直さまの本音が滲み出ているのです。
  それを、今ここで接触したばかりの女に悟られた……?
「ふふふ」
  くっ、この女を蹴りたい。しかし、できない。
「そこで、私を雇ってみないかしら?」
「どうして、そこに話が行き着くのです」
「私なら、あなたと違ってあの子と友達になれるもの」
「……」
「私なら、あなたの思惑と関係なく、あの子と接することができるわ。
  あの子ともあなたとも初対面だから。ゼロだから。」
  ぺろりと女が唇を舐める。
「もし私を雇ってくれたら、私はメイドだけどあの子と同等の立場で接してあげるわ。
  あなたと違って」
  そう言って、女は目を細め、もう一度私を強くまるで挑発するように見据えました。
自分の言葉に自信を持って言っている……そう感じ取ることができます。
  こいつは……、何者なのでしょうか。私がもう走り出さないと踏んだのか、
女は私の足から腕を離します。私は女を置いて逃げ出すことはしませんでした。
女は地面にはいつくばったまま、私ににたにたとした笑顔を向けます。
「……あなた、名前は?」
「お、いいわね。食いついてきたわね」
「……名前を言いなさい」
「そうね……。じゃあラッテで」
「じゃあ?」
「いろいろと複雑なの。別の名前でもあたしは構わないのよ。」
  女と私の視線が交錯します。
  素性か分からない女。しかし、私は秒針が数周回ったほどの数分の時間で、
この女の本質を見抜かされました。
「……分かりました。では、ラッテ。あなたは直さまに忠誠を誓いますか?」
  私が他人にこの言葉を使うのは初めてです。メイドの誓い。
「ええ、誓うわよ」
  女はあっさりと頷きます。
「お給金はいっさい出しませんがよいのですか?」
「かまわないわ。最低限の食事と寝床で十分生きていけるわ」
「直さまのためなら命を投げ出す覚悟もおありですか?」
「あるわ。命なんていつ無くなってもいいもの」
「直さまのかけがえの無いお友達として、節度ある関係を保てますか?」
「やってやるわよ。もしできなかったらその時は捨ててくれてもいい」
「直さまのために……」
「ねぇあんた、友達って言うのは相手に尽くしてあげるだけじゃないのよ。
  私が直さまのために働くように、直さまも私のために行動してこそ……友達じゃない?」
「……それはメイドとして失格ですね」
「あら、ご主人様の寂しさを紛らわせてあげるのもメイドのお仕事では?」
「……ふん」
  私はラッテに向かって手を伸ばします。ラッテは差し出した私の手をじっと見つめました。
「なに?」
「掴みなさい」
「掴むとどうなるってわけ?」
  この女は私の口から『雇う』という言葉が出るまで、自分から動かないつもりのようです。
空気をあえて読んで返答しない。確実なところまで上げる。
まったく、家出のクセに手代です。……ふん。まあ、いいでしょう。言ってあげましょう。
「先ほど言った条件を全てクリアできるなら……」
  一拍置いて、ラッテの瞳の奥の脳に伝えるように。
「あなたを雇いましょう」
「できるに決まっているわ」
  そう言うと、ラッテはすぐに私の手を掴みかかるように握りました。冷たい手でした。
  私は倒れていたラッテを起こします。

 ラッテは引きずられ擦り切れた洋服をパッパッと手で払います。
そんな様子を見ながら、私はこの女に最後の質問を放ちました。
「友達になれますか? 直さまと、直さまのお心をあなたが癒すことはできるのですか?」
「少なくとも、あんたよりかはできるわ」
  ……。生意気な口をききます。しかし、そうかもしれません。私は静かに口を開きました。
「あなたは今から私の部下です。上司である私をあんた呼ばわりすることは許しません」
「じゃあエリィでいいわね」
「呼び捨てですか……」
「エリィさん」
「……いいでしょう」
  この生意気な女は一度、その捻くれた性根を正してメイドとしての教えを
  教育する必要がありますね。私を呼び捨てしていいのは直さまだけです。
  直さまの見えないところでラッテにムチを振るう(二つの意味で)自分を想像して、
私はすこし笑みがこぼれてしまいます。
私の秘蔵の生皮ムチがついに3年の沈黙を破り封印がとかれる日が来るかもしれません……。
「なに笑ってんの?」
  自分のほくそ笑みを目ざとく見つけたラッテに、呆れたように言われ、
私はいまだにたにた笑っているラッテをきつく睨みつけました。
ラッテがおお怖いと言いたそうに肩をすくめました。
  思考が別の方向へ行っていましたが、私は頭を振ると最初の目的を思い出します。直さまです。
  この女のせいで時間を喰ってしまいました。もし遠くに行って迷子になっていたら……。
責任はラッテにとってもらいます。それはもう残酷な方法でね。生皮ムチ。
「直さまをお探ししなければなりません。ラッテ、最初の仕事です。直さまを捜索しなさい」
「あの子なら家に帰ってるわ。家に案内してよ」
  何故断言できるのですか……?
「ふん。勘よ勘」
  そういってまたにたにたと笑うラッテに私は嫌悪感を覚えながらも、
走り出す足は自らのお家へ向かっていました。

 悔しいですがラッテの勘は見事的中しました。
  直さまはご自分のお家の前で鍵が無くて入れなず、玄関の前で体育座りをして不貞腐れていました。
  私が慰めようと直さまに近づこうとすると、それよりも早くラッテが大きな声を出して
直さまに駆け寄りました。

「おっす、直やん!」

 段ボール箱の中の時とは、まるで180度違う明るく友好的でなおかつ煌びやかな声。
  ラッテと直さまのお年は私よりも近く、まるで本当に仲の良い幼馴染のよう。
ラッテの物言いはメイドとはまったく違う上下関係の無いものでした。
ずっと私のような忠実で実直なるメイドに囲まれた直さまにとって、
家族以外で対等の立場で話してくださる他人というものはとても新鮮であったのでしょう。
  たちまち直さまの沈んでいたお顔に笑顔が戻ってきました。
爽やかなで煌びやかで心の感情をすべて顔と言う窓から開放したような、素敵な笑顔。

 ……私がいままで見たことの無い、素直な笑顔……。

 私がいままで直さまに受けた笑顔はすべて、すべて感謝の笑顔でした。
こんな自分にかまって奉仕してくれると言う、後ろ向きな感謝。ネガティブである喜び。
  私はその笑顔だけを見ていて、直さまの全てを知った気になっていたのですね。
その分、直さまが自分の情けなさに悩まされると言うのに……。
直さまの本音を押さえつけている原因な筈なのに……。

 友達。

 住宅地のなにも変哲の無い玄関の前で、直さまとラッテの会話の花が咲き誇っていました。
  それを傍でじっと眺めながら、一人で自問します。
  私は、直さまの母親代わりであり、直さまの一番の忠実なるメイドである私は、
そして、秘密の婚約者である私は、直さまの友達と言う立場にはなれないのでしょうか?


 そんなラッテも半年経った今はこの家を我が物顔で闊歩し、直さまに対しては常にタメ語。
態度も極悪で面倒くさがり、あげくには上司である私を何度となく脅すという最悪な使用人に
なってしまいました。
  もともと、何不自由ない家庭で育ち家事もしたことが無い我侭少女だったのでしょう。
地はきついものがあります。
  それ以前に。このラッテと言う女が一体どこの誰なのか。私も直さまも知りません。
  それでも私はこのラッテと言う女を評価していました。
メイドとしては落第生ですが、直さまの友達としては彼女はとても優秀でした。
  彼女は私に約束しました。友達以上の関係には絶対にならない。

 しかし。そんなの、いつでも破れる約束です。

 私は今、恐れていることがあります。
  彼女と私の間でかわされた約束なんて、所詮口約束。すぐにでも破棄してしまえる、
所詮ちり紙ほど薄さの契約書。
  そのせいでしょうか。ラッテと楽しそうに喋る直さまを見ていると、
私の心の中で直さまがラッテに恋をしてしまうという可能性をいつも考えてしまうのです。

 ですから、私は毎朝目を覚まし仕事を始めようとするラッテに、
いつも脅しのような忠告をしていました。

「もし万が一、直さまに手を出したら、私はお前に対して、髪の毛を一本一本ゴムの糸で
引き抜きながら、瞼を拘束し瞳には一切の瞬きを与えまず。同時に口からは煮え湯を注ぎ、
  体中には胸・腹・下腹部にいたるまで害虫の好きな腐乱食材を塗りたくり常に害虫を這わせ、
耳元にはトランジスタラジオほどの音声クオリティのスピーカーでピアノ曲『ヴェクサシオン』を
延々と流し、 その状態のあなたの尻にフランスパンを挟み淹れ、
左手にボクシンググローブをつけさせて右手の指は鼻の穴に差し込みます。
  そしてこのまま、秘密の聖地である木崎湖の船着場に放置しあなたが口で『命を大事に』と
2万回言えるまで続ける罰を施行します。わかっていますね? ラッテ」

 私は若い芽を摘み取るほどの嫉妬深い女のようです。

1-4

 食事を終えて、リビングにてしらばくの間、直さまのお相手をした後。
私は明日の客人のため、仕事を始めました。
ティッシュから蛍光灯、消耗品の在庫の有無。さらにはリビングのソファの位置から
玄関に咲く植木鉢の茎の状態に至るまで、家の中の全てをひとつひとつチェックしていきます。
  あるべきものは最高の形へ。ないものは必ずそこにあるべきのように。
昨日、一昨日と何度もチェックしましたが、最後にもう一度見回ります。
ぶつぶつと文句を垂れながら、素直に肉の鍋に調味料を足していくラッテを横目に、
私は家中を歩き回っていました。
  そんな風にできることを全て片付けていきます。ふと、時間を確認しようと時計を見ると、
長針と短針が11のところで重なっていました。そろそろ午後11時を回るところです。
  私は家事を止めて、玄関前の二階へ続く階段を昇りました。
  このお家の二階は直さまのお部屋である八畳の洋室と、しずるお嬢様が来た時のみ使う六畳の和室。
そして私が寝泊りをする四畳半の小さな小部屋があります。
直さまのお部屋と私の部屋は隣り合っておりまして、私がお休みのときでも、
直さまの身に何かあればいつでもすぐに参上できるようになっています。
  階段を昇りきります。フローリングの廊下をすっすっと音を立てずに歩き、直さまのお部屋の前へ。
直さまのお部屋の前にはアルファベットで『NAO』と書かれたドアプレートがかかっています。
  これはラッテが作ったものでした。
  中指で軽く木製のドアをノックします。かつんかつんと鈍い音。
「直さま、起きていますか?」
  私はドア越しに聞く。すぐに返答が返ってきました。
「うん。起きてる」
「お入りになってもよろしいでしょうか?」
  ドアの向こうでごそりと音がしました。
「うん、いいよ」
「失礼します」
  私はドアノブを握ると軽く回し、直さまの部屋をあけました。
  いつもの見慣れたお部屋の中で、直さまはベッドに入り上半身を外に出して
  文庫本をお読みになっておられました。
  黄色いカバーがつけられた本は、先日駅前の紀伊国屋で私が購入してきたライトノベルでしょう。
  内容は確認しましたがそれなりに面白いファンタジィアクションでした。
  最近は清純そうなアニメ調の女の子が表紙を飾っているくせに、
  開いてみれば挿絵で剛直を咥えながらいやんいやんしている成人向け小説が多いので
  こういったチェックはかかせません。
  ベッドにつけられた間接照明の明かりで本を読んでいた直さまに私は近づき、
  ベッドの前でひざまずきます。直さまと私の目線が同じ高さになりました。
直さまは開いていた本に青いしおりを挟んで静かに閉じます。
「まだお眠りになってないのですか?」
  普段なら夜11時は直さまがお休みになっているお時間です。
「うん、やっぱり少し眠れなくて……」
  直さまは明日のことがやはり気になっておられるようでした。無理もありません。
「で、本、読んでたよ」
「よっぽど明日が楽しみのようですね」
  直さまが恥ずかしそうに微笑みます。私もつられて直さまに微笑みました。
「ですが、夜更かしは体を壊します。そろそろお休みになられては?」
  そういうと、直さまは素直に頷きました。
「うん、そうだよね。……でもやっぱりなんだか興奮しちゃうなぁ」
「では、私が添い寝して差し上げましょうか?」
「あはは。冗談はよしてよ。ちゃんと眠れるからさ」
  直さまはくすくすと笑いました。
私は半分本気でしたが、そこは黙って直さまと笑いあうことにしておきます。
「じゃあ、そろそろ寝よっと……」
「あ、おまちください」
  暖かい羽毛布団に入ろうとした直さまを私は制止します。直さまの青と白のストライブのパジャマの
胸元のボタンが外れていました。私は腰を落としたまま、直さまに近づくとボタンに手を伸ばします。
  ちょうど、胸元の鎖骨の下あたりのボタンが外れていました。
  私は顔を近づけて、小指の先ほどの小さなボタンを穴へ挿し込みいれます。
ふと、私が顔を上げると直さまのお顔が目の前にありました。
  私の鼻先数センチ向こうに直さまのかわいらしいお顔。押せばくっついてしまうような距離。
いま、私がここで直さまをキスしたら、私の唇と直さまの唇を重ねましたら、
  直さまはどんな顔をするのでしょうか。
私にキスをされたことを喜ぶお顔?
はにかんでしまって照れたお顔?
あともう15秒で負けたら35連敗というバスケ試合で
  ロングシュートを決めた時のような驚きのお顔?
  私の想像の中の直さまはキスした私を軽蔑しませんが、実際はどうなるのでしょうか。
試してみたい。そんな思いが私の胸の中に溢れます。

「え、えっと。どうしたのエリィ?」
「あ、いえ」
  直さまのお言葉に私は我に返りました。顔を近づけたまましばらく固まっていたようです。
妙に顔を赤くしている直さまがぽりぽりと頭を掻きます。
「ボタンを留めさせていただきました」
  私は場を取り繕うように言います。直さまは赤い顔のまま「ありがとう」とおしゃいます。
  そのお礼の言葉を私は笑顔で受け立ち上がります。
  直さまから読みかけのライトノベルを渡してもらい、学習机に備え付けてある本棚へ
  ライトノベルを戻しました。
  シリーズモノでしたので同じ作品列の一番右端におきます。
「それでは、直さま。私はこれで」
「うん」
「おやすみなさいませ。直さま」
「おやすみ。エリィ」
  私は出入り口につけられた蛍光灯のスイッチをOFFにしました。
  明るい直さまのお部屋の白い明かりが落ちて、消えたと同時に転倒するの夜行ランプが
  あたりをオレンジ色に染めます。
  直さまが枕に頭を押し付けられたのを確認すると、私は音を立てず静かにドアを閉めました。

 階段を下りて玄関に飾ってあるサボテンの位置を2ミリ横へ修正し、
  台所へ戻るとラッテは椅子に足を組んで座っていました。
私が入ってくるのをにたにたとした顔を向けて見ています。
  鶏肉はできたのですか? と私は視線で聞くと、ラッテははいはいと言った風に頷きます。
「なにが可笑しいのですか?」
  いつもにたにた笑いをやめないラッテですが、付き合いも半年も過ぎれば彼女が普段どおりなのか、
  それとも本当に笑っているのかわかってきます。
  私が彼女を睨みつけると、彼女は肩をすくめました。
「直やんはどうだった? やっぱり起きてた?」
「ええ」
「ふーん。こんな時間まで起きてるなんて相当明日のことが楽しみなのね」
「ええ」
「……ふん」
  頷首する私に、ラッテは鼻を鳴らして笑います。その態度に私は少し不機嫌になりました。
  もう一度きつく睨みつけます。
「なにか?」
「エリィさんにとっては面白くない話でしょ?」
「……」
  ラッテは組んでいた足を戻して、椅子から立ち上がりました。
  彼女のエプロンドレスのスカートがすこし浮き上がります。
「明日は友達なんて来ないじゃない」
「……」
「来るのはあんたの大好きな直やんの『許婚』でしょう?」
  私はラッテの顔面に向けて、拳を突き上げました。その行動を分かっていたのかラッテは
  軽く首を動かして避けます。にたにた顔を粉砕することはできませんでした。
「……すみません。手元が狂いました」
「ふふん。激昂して手が出た?」
「次は当てますよ?」
「私の身に何かあったら、直やんが許さないわよ?」
  やはり、この女は嫌いです。なまじ直さまと仲が良いだけに家からつまみ出すこともできません。
  この女を傷つけると、直さまは悲しまれる。
  私は彼女の笑い顔を眺めてストレスをためていくしかありません。
  私は常にラッテを警戒していました。ラッテにはすでにこの家に住む条件として
  いくつかの誓いを立たせています。
一、『直さまの挨拶はすべて私の後に行うこと』
一、『直さまのお部屋に入らないこと』
一、『直さまと喋るときは私の監督が届いてあるところでのみとする。
  なお、直さまから話されたときは例外であるが、これも節度を守るものとする』
一、『上記の誓いを直さまに悟られないこと』
  全て、ラッテが必要以上に。私以上に直さまに近づかないようにするため。
  直さまが、ラッテのような素性の分からない女に全てを信頼させないようにするため。
  ラッテがもしかしたら直さまを狙った暗殺者だという可能性も否定できないのですよ?
  それを直さまにもわかってほしいと常に思います。
  いまのところラッテは全ての誓いを守っていますが、この誓いを彼女が守ってなかったとしたら、
  彼女はどんな行動をとるのでしょうか……?
  私は伸ばしていた拳を引っ込めます。しかし、もう一度ラッテの顔を睨みつけます。
  それで話は終わりだというように、私はラッテに向けていた意識を食器乾燥機に移しました。
  食器乾燥機を開けて中から直さまのお茶碗を取り出します。
「ねぇ、エリィさん」
「……なんですか?」
  背中で私は返事をします。
「いくらエリィさんが直やんのことを独占したくても、嘘はいけないんじゃないかしら?」
「と、いいますと?」
「とぼけないでよ。直やんに明日来る客が許婚って言ってないでしょう。なに?
『新しいお友達が住みに来る』って」
  そう言ってエリィは立ち上がり、やれやれといった風にもう一度肩をすくめると、
  まるで何かを私に教えるように呟いて台所を出て行きました。

「直やんも、知りもしない友達がどうしてこの家で住むことになったのか、
  考えてほしいものよねぇ?」
  そんな捨てセリフを残して。

 私は直さまに明日来る客が、本家頭首様からご命令されて宛がわれた許婚だという事実を
  隠していました。
  直さまが将来、結婚すべき相手。私のように暗黙の婚約者ではなく。正式な婚約者。
その婚約者が明日から、直さま、そして私たちと同じ屋根の下で住む事になっているのです。
  そんなこと、私が認めると思いでしょうか?
  いえ、私の意見なんて気持ちなんて関係はありません。
  いくら私が一度本家にも認められていた世継ぎだったとはいえ、
  政治的にも潤う許婚が現れた今では、私は直さまに仕えるただの教育係のいちメイド。

発言力なぞ皆無。

 ただ、上の命令に従うだけ。

 そうして、

 私は直さまと許婚の女の交際を心から祝福しなければならない立場になってしまいました。
  直さまと許婚の女の関係を良いものにして、
  本家の利益となるように動かなければならなくなりました。
  直さまは幼い頃から一緒だった私ではなく、いきなり現れた初対面の許婚を選ぶように……
  直さまの心を仕向けるという、
  大事な大事な、大儀を……負うことになってしまいました。
 
  それは、とても仕方の無いことです……。

 しかし、
  しかしです。そんな利益だけを追求して、直さまのお気持ちを無視した命令を、
  私がほいほいと頷いてたまりますかっ!
  直さまはあなたの駒ではありません! 自分で考えて行動できる立派な人間なのです!
  言いたい! あの利益と権力の固持しか考えておらず、直系の孫である直さまを可愛がりもせず
  このような庶民の住宅地に押し込める頭首の耳元に向けて、ヤツの鼓膜が千切れるまで叫びたい!
  直さまの幸せを考えろと!
  直さまのお気持ちを考えてくれと!

 直さまを一番大事にしている私は、時代錯誤のまま政略結婚される直さまが不憫で不憫で
  とても悲しいのです。
  だから、私は抵抗します。
  客を、許婚と呼ばず。ただの友達として紹介して。抵抗します。
  頭首様のご命令に真っ向から抵抗してみせます。
  直さまを汚らしい俗者の手から、全て私がこの身ひとつで守って差し上げます。
  直さまと許婚を添い遂げてやりません。 私の力で、全力で阻止します。

 ……それに、だいいち。

 だいいち、直さまは、直さまはずっと一緒だった私と添い遂げることが
  直さまにとって一番幸せなのです。
  私は直さまが、怖くて夜中に一人でトイレに行けなかった頃から一緒で、
  幼少期の頃から現在に至るまで、直さまにずっとずぅっと慕われていた、いわば家族以上の存在。
  そして直さまは私を一番に信頼して下さり、私の全てを受け入れてくださる素晴らしいお方です。
  そんな可愛い可愛い直さまをどこの馬の骨(いや、一応大企業のご令嬢ですが)だかわからない女に
  むざむざと盗られてたまるものですか。
  直さまは私のものです。 直さまの笑顔も優しさも唇も爪の垢も全て私のものです。
  ポっと出の許婚なんぞ、直さまの髪の毛一本も渡すかっっ!!

「…………」
  一人きりとなった台所。
私は右手で愛用の出刃包丁、『井上』を握り締めて私は決意に燃えていました。
「……直さま」
  明日からこの家は戦場になります。直さまのおそばから、全力で許婚を離してみせます。
  戦争です。まったくもって、これは戦争。
  ……この戦争が終わったら、私は直さまを襲ってもよいですよね……?

1-5

 りりりりりん。りりりりりん。
  ちょうど、廊下に居たあたしの目の前でアンティークの電話機が昔特有の甲高いベルを鳴らした。
  いま現在この家にはあたしと直やんしか居ない。家事をすべて済ませるあのあたしの先輩メイド
  エリィは今は居ない。必然的に受話器を取るのはあたしである。
  受話器をあげる。いつも、エリィとあたしが全ての家事をやっちゃうから、
  直やんが受話器取るチャンスはめったに無い。
「はい、紅行院です」
  受話器を耳元まで持ってくると、声のトーンを上げてあたしは格調高く応対する。
  いわゆるあたしのヨソ向けの声だ。
『ラッテですか?』
「エリィさん?」
  電話の主はエリィだ。
  このお小言メイド(ひろってもらった手前こんなこと言うのは酷いけどね)は
  許婚を迎えに朝早くに空港まで車を走らせている。
メイド服のまま、空港のロビーで許婚を迎えるらしい。コスプレと間違われないかな。
  どうなることやら。まあそれ故、今家にはあたしと直やんだけの二人っきりなのだ。
  エリィは許婚のことを快く思っていない。そんな彼女がどうして迎えなんて面倒くさい真似を
  するのかと思ったけど、よく聞けば今日は許婚の付き添いとして、
  直やんの姉であるしずるお嬢様も今日はこちらに来るよう。
  そのしずるお嬢様の命により、エリィはしぶしぶながら自分の車に乗って、
  あたしと直やん二人を置いて隣の駅まで走ってたのだ。
  その間、あたしは新たの追加されたしずるお嬢様の分の料理の下ごしらえの準備をしていた。
  ちょうどたった今、すべての準備が終わったところで受話器を取ったわけだ。
「なに。電話してきて」
『直さまに手は出していないでしょうね?』
「してないわよ」
  開口一番でそれかい。あたしの声のトーンをすぐにいつもの状態に戻した。
  エリィにヨソ向けの声はもったいない。あたしは自分のこのヨソ向けの声が嫌いなのだ。
  やらなきゃいけないときにはやるけど。
『やるべきことはすべて終わりました?』
  エリィの声は受話器の向こうのエリィの声がこのアンティーク電話特有のノイズ音にまじって
  聞こえづらい。しかし、言ってることは理解できるわ。
「たった今終わったわ」
『遅いですね。もう一時間はやく済ませるようにしなさい』
  むかりとした。電話してまで小言を言いたいのかとあたしは文句をたれそうになる。
  ご主人様である直やんにはとてつもなく甘いくせに。
  例えるならザッハトルテに生クリームを添えるぐらい甘い。
  ザッハトルテに生クリームを添えるのは本場ウィーン風の食べ方だけど。
  でも、主人に甘いのは当然だよね。でも、あたしとしてはあまりに甘すぎないかと思う。
  それはやっぱり彼女の境遇のせいなんだろうけどさ。まあ、あたしには関係ない。
  しかしこういった小言は全て日常茶飯事なので、一言返すことは今はしない。
  あたしは普通に流して電話越しのエリィに用件を聞く。
「で、何さ?」
  エリィから電話するときは、大抵面倒くさい仕事の命令が常だわ。
『私達が帰るまでにわらび餅を作っておきなさい』
「はぁ?」
  なんでわざわざそんな手間かかるもん作らなきゃならないのよ!
  わらび餅といえば蕨粉(甘藷澱粉っていうヤツね。かんしょでんぷんって読む)を水で溶かして、
  かなり手間かけて混ぜ込み煮込んで冷やして作る、日本の茶菓子だ。
  スーパーにでも売ってる春の和菓子で黄な粉をかけて食べるのが一般的。
  あたし日本人じゃないくせに、よく知ってたな作り方。
  前にウィキペディアで見てたので覚えていたのね。
『作り方はわかりますね』
そんな断定口調で言わないでよさ。あんたのその口調じゃ「メイドの常識です」って
  言っているみたいに聞こえるわよ。すべてのメイドはわらび餅の作り方を
  熟知しているわけじゃないでしょ?
「わかるけど……。でも、なんでいきなりわらび餅?」
  アレ、作るの結構体力居るんだけど。
  あと冷えるのに時間かかるし、確実に帰ってくるまでに間に合わないし。
それだったら、あんたが近くのセブンイレブンにでも寄って買ってくるのが一番じゃない。
  買ったほうが手間少ないしね。
  あたしがそう言うと、エリィは淡々と返す。
『しずるお嬢様が所望しているのです。あなたが作りなさい』
  いやいやいや、確実に買ったほうが手間少ないわよ!
  しかし、あたしがもういちど反論しようとすると、
『あ、信号が青になりました。切ります』
「切るな! いや、というか運転中に電話を……」
  がちゃん。つーつーつー。
  むぅ、あたしは突然命じられた無理難題に頭を抱えた。

 ふと、時計を見ると時刻は午前八時。そろそろ直やんを起こす時刻である。
  直やんを起こすのはいつもエリィの一番の仕事だったわ。
  朝起きて直やんが最初に見るのは必ずエリィの顔で、
  夜眠るときに直やんが最後に見るのがエリィの顔。そんな生活をずっと続けていたよう。
  だから、あたしがメイドとしてここへ来たときも、頑固としてその仕事はあたしにやらせなかった。
  料理を作っていても直やんを起こす時間になれば全てほっぽりだして
  二階の部屋へと駆け上がっていく。
  あれは一種の刷り込みだよ。絶対……。直やんはまったく、エリィ漬けである。
  ごはんには合わないほど甘い。ザッハトルテに生クリームを添えるぐらい甘い。
  それが本場ウィーンの食べ方なんだけど。
  しかし、今日だけはその大役をあたしに譲った。
  あたしは直やんに呼ばれた場合でしか昇ることの許されない、
  二階への階段を一歩一歩踏みしめて昇る。
  なんか聖域に向かっている気分がする。
  エリィは直やんには自分以外誰者も近づけないという独善的なヤツだから、
  なんかその空間を私が犯している感じかな。
  直やんのドアの前までやって来た。ここから先は未知の領域。入るのは初めてだ。
  直やんの寝るだけの部屋だからこの半年間はいる用事も無かったし、
  エリィが絶対踏み入れさせてくれないし。
  どんな部屋なのか。あたしはちょっと楽しみだった。
  ドアノブを掴んでゆっくりと回す。軽く引くとすこしドアが開き、
  聖域の中心地である直やんの部屋が覗けた。落ち着いた印象を受ける薄青の壁紙、
  エリィが選んだと思われる間接照明が部屋の隅を柔らかく照らしている。
  さらにドアを開くと、部屋の奥にはあたしの使っている煎餅布団とはかけ離れたほどの
  豪華な木目調のアンティークベッドが備え付けられていた。
  天蓋付きとまではいかないけど、高級感漂うベッド。
  ここで寝たらさぞかし気持ちいいんでしょうね。
  あとで、エリィの部屋にも侵入してベッドを見てみよう。
  もしあたしと同じ煎餅布団で寝ていたら、すこしエリィのことを見直すわ。
  部屋を見渡すと、しかし質素な部屋ね。あるものといえば、ベッドと本棚と勉強机。
  本棚はいろいろとライトノベルや新書がシリーズごとにならべてしまってある。
  高さ順や色順ではなく、ブックオフの本棚のように作者の名前のあいうえお順にして
  左上から右下までぎっしり綺麗に収まっている。この仕舞いかたは確実にエリィだね。
  机の上はノートが数冊、分類わけして置かれていた。あとは和英辞典や国語字典がいくつか。
  教科書やテキストといったものは一切無いので机の上はすっきりとしている。
  そりゃそうか、直やん学校行ってないしな。
  ここぞとばかり部屋を見渡していて、ふとあたしはノックをしてなかったことに気付いた。
  あちゃ、ノックもなしなんて失礼千万だわね。
  エリィはこれだけでも鬼のようにキレるから徹底してたけれど……。
  その鬼が居ないから油断してた。思春期の直やんの部屋にノック無しではいるなんて
  まるで空気の読めない母親だわね。
  もし、直やんがエロ本読んでいた時だったら気まずかったなぁ。
  その時はあたしは全力で直やんと笑いながら一緒に見るけどね!
  エロ本なんてエリィがいるから絶対持ち込めないけどさ。
  まあいいや。どうせ、この時間は直やん寝てるし。
  あたしはエプロンドレスを翻して、ベッドに近づいた。
  ベッドの羽毛布団はこんもりと丘を作っていて、直やんの顔はあったかそうな布団に包まれ
  埋まっていた。
  そこで初めて、あたしは直やんの寝顔というものは見た。
  白い糸で編みこんだように決め細やかな肌の少年。くしゃくしゃとしたねぐせと
  半開きですぅすぅと静かに呼吸を繰り返し、十四歳のくせに年齢よりもずっと童顔な顔つきで
  幸せそうに無防備で眠る顔。
  あの可愛い天使が成長してクラスチェンジしたらこんな感じになるのかしら……。
「か、可愛い……」
  あたしの心臓がどきんと鳴った。いやいやいや、あたしにショタ属性は無いぞ。
しかし、あのエリィは何年もの間、この寝顔をずっと独占していたのか……。
確かに独占したくなる寝顔だわ。エリィがあたしを目覚ましの任に任せなかったのが少し理解できる。
もうすこしの間、眺めてみようかと思ったが、あんまり眺めすぎて本格的にショタ属性に目覚めたら
  取り返しの付かないことになるわ。エリィと一緒になってしまう。
  それにしてもすやすやと眠っているわね……。直後、あたしの頭の中に、
  なぜか直やんのほっぺたをつんつんしてみたいという欲求がこみあがってきた。
  ぷにぷにほっぺをつんつんしたらどうなるか、メチャクチャ興味がある。
いけないいけない。あたしはふるふると頭を振って、頭の中の煩悩を振り払う。

 しかし、一度こみ上げた欲求は簡単には収まらない。
「よし、じゃあほっぺをつんつんさせて起こすことにしようっ」
  誰も聞いていないのに、あたしは口でそう宣言するように理由づける。
  エリィが居ない今のうちに、鬼の居ぬ間に普段できないことをやってみたいの!
「直やん、起きてる?」
  念のため、直やんの耳元で小声で確認してみる。
  しかし直やんは平和そうな顔で静かに寝息を立てたままだ。
  あたしは期待に胸膨らませながら、直やんのほっぺたに人差し指を伸ばしていく。
  エリィめ、こんな起こし方、試したこと無いでしょうと、今居ないお小言メイドに
  あたしはすこし優越感をもってにやりと笑う。
  あたしの人差し指が、ぷにんと直やんのほっぺたに触れた。
  そのまま圧力をかけて、ぷにんぷにんとほっぺたの上を人差し指で弄っていく。
  これってある意味夜這いなのかしら。朝だけど。
  二十秒ほど、ほっぺをぷにぷにして、あたしはふと我に返った。
「……なにやってんの、あたし」
  あたしのショタ属性ブームは2分で終了した。
  普通に起こしましょ。あたしは直やんの包まっている羽毛布団をひっぺがした。
  ここで下が全裸だったら酷いが、普通に直やんは灰色のスウェット姿で寝息を立てていた。
  いきなり布団がはがされ、暖かさを失った体が寒さにううんとよがる。
  体育座りのように体を丸めようとした直やんの耳元に、
  あたしは用意していたフライパンとお玉杓子を近づけて、
「おっき! おっき! おっきしなさい!」
  そう大声で叫びながら、カンカンカンカンカンカンとフライパンにお玉杓子を打ち付けて
  音を鳴らした。古典的。この起こしかた、実は結構憧れてたのよねぇ。
  ちなみに、この「おっき!」は「起きる」の意味。別に意味に聞こえたら……変態っ!
  あ、でも朝だからおっきはしてるね。あたしはオヤジか。
「う、ううん……」
「おっき! おっき! おっきなさい!」
  直やんの目が薄く開いた。
「……あれ? ラッテ?」
  薄めのまま戸惑ったように声をあげた。
  そうか、あたしが初めて直やんの寝顔を見たように、
  直やんも起きて最初に見る顔がエリィ以外なのは初めてなのね。
「おはろぅー」
  あたしはいつもの笑顔で直やんに笑いかけて朝の挨拶をした。
「お、おはよう」
  寝癖の付いた髪の毛をぼりぼり掻きながら、寝ぼけ眼のまま直やんはあたしに向けて
  挨拶の言葉を返した。
  とんとんと耳元を押さえて、なにか納得でき無そうな顔であたしを見る。
「なんか、物凄い耳鳴りがするんだけど……」
「気のせいじゃない?」
「えっと、上手くいえないけど……なんだか、漫画的な耳鳴り……」
  それは多分、あたしがフライパンお玉杓子カンカン起こしをやったせいだと思う。
  ちなみにフライパンとお玉杓子は直やんにバレないように、背中のリボンに挿している。
  今後ろ向いたらフライパンが丸見えだったりする。
「なにそれ。漫画的って」
  とぼけるあたし。直やんは頭をひねっていろいろと考えてたけど、答えは上手く出ないよう。
「え、いや……。よくわからないけど……」
  いろいろと説明しづらそうに直やんは首をかしげながら、ベッドから立ち上がる。
  ふあぁと小さな欠伸をして伸びをした。
  その横であたしは剥ぎ取った布団を元のベッドに戻す。
「そういえば、エリィは?」
「お客さんの迎え。朝から空港まで車を走らせてったわ」
「そっか。だからラッテが起こしに来たんだ」
  直やんは合点が言ったように頷く。
「そ。じゃあ朝食作るから着替えて下来てね」
  あたしがそう言うと、直やんはもう一度うんと頷いた。素直な子だ。
  その直後、直やんがあたしに構わず上着に手をかけてスウェットを脱ぎだした。
  スウェットの下はシャツを着ておらず、細くて綺麗な上半身が露わになる。
ちょ、あんたいくらあたしがメイドだからって、女の子の前で躊躇なく脱ぐなよ!
「直やん。普通、男の子は女の子の前で脱ぐもんじゃないわよ?」
  あたしがやんわりと注意すると、直やんはきょとんとした様子であたしを見つめた。
「そうなの?」
「そうよ。直やんもあたしがここでいきなり脱ぎ出したら困るでしょ?」
「え、あ……………う、うん。困るね」
  顔が一気にもみじのように赤くなった。一瞬だけあたしが脱ぎだしたところを想像したかしらね。
  思春期だからたぶんナイスバディに想像したようだけど実際はあたしのは結構貧相よん。Bだし。
  そんなところがガキっぽくて可愛いとでもかしらね。世の中のおねーさんたちは。特にエリィとか。
「まったく。こういうところに無頓着だと今日来るお客さんにも嫌われるわよ」
  あたしの言葉に直やんは「え」と声を上げた。

「今日、来る人。やっぱり女の子……?」
  へ。あたしは眉をひそめる。
  やっぱりエリィは直やんに対して、来たる訪問者に関する説明はほとんどしていないようだ。
  今日来る子が許婚なんて、絶対知らないんでしょうね。
「そーよ。女の子、今日から女の子と暮らすことになるんだからしっかりしなきゃ」
「……やっぱり今日から住み込むの? エリィは一週間泊まるだけって言ってたけど……」
  エリィ……まさか許婚を一週間で追い出すつもりだったのか? 嫁姑問題のごとく、
  もしかしたらいびっていびっていびり散らして追い込むつもりだったのかもしれないわ。
  と、いうか。
「なんか、直やん。あまり驚いてないわね」
  あたしは直やんの態度が少し気になっていた。なんというか、あたしの言う真実を聞いて、
  驚くというよりまるで予想通りといいたそうな表情なの。
やっぱりとか言ってるし。あたしが疑問に感じてストレートに訊くと直やんはゆっくりと頷いた。
「うん。なんか、ほら。予想、できてたから」
「予想?」
「うん」
  直やんは脱いだスウェットの上着を律儀にもう一度着込みながらさらに頷く。
「どういうことかしら?」
「エリィの口ぶりとか、表情とかからさ。なんとなく女の子が来るんだって、わかる」
  あたしには鉄仮面を被っているようにしか見えないエリィでも、幼い頃から一緒に暮らしている
  直やんには、エリィの表情や態度から内面の思惑が読み取れたとしても不思議じゃない。
「エリィ。僕が女の人と話してるの好きじゃないんだ。舞子先生と喋っているだけでも、
  エリィすっごくピリピリしてるし」
  舞子先生……、あの清楚な女医か。しずるお嬢様以外で唯一エリィが敬語で話している
  本家のかかりつけの医者ね。隔週に一度の診察の時のエリィはあたしから見ても分かるほど
  めちゃくちゃ機嫌わるいわねぇ。
直やんには隠してるんだろうケド……でも、きちんと気付いてる。
「最近のエリィってさ。舞子先生が来るときとかみたいに、イライラしてることが多いんだ」
「そうね。あたしから見てもムカつくぐらいイライラしてるわ。
  そのせいかあたしに当たってくるしぃ」
「ラッテに当たるのはサボってるからじゃないの?」
「あたしの仕事は直やんと遊ぶことだからいいのっ」
「でも、たまに洗濯機の陰でアイス食べてたりするよね?」
  ちっ。あたしが隠れて本気でサボってることも気付いてのね。
「そ、それは……ともかく」
「でさ、エリィのイライラがずっと続いてたそんな時、いきなりお客さんが来るって言うんだ」
  ……ほぉ。
「エリィのイライラはお客さんが原因なんだろうなって気付いたよ。
  だから、お客さんって女の子だろうなって……」
「そう」
  そこまで言って、直やんは部屋の中をふらりふらりと歩く。
  歩きながら、なにか言いづらそうに口をもごもごさせていた。表情が硬い。
「まだ、なにか……?」
  うん、直やんが頷く。直やんは「これは多分の話だよ?」と念を押して、続けた。
「僕ももうすぐ十五歳だし……、そろそろ本家からなにか縁談が来ると思うんだ。
  だから……、だから。今日来る女の子って……もしかしたら……」
  直やんは一旦息を整え、核心を突いた。
「もしかしたら。僕の許婚……」
「いいなずけ……?」
「うん。本家にとって僕はただの駒だから……。たぶん、その子もどこかの大きな会社の
  偉い人の女の子なのかもしれないね」
  それでも、いきなり一緒にすむことになるとは思わなかったけど……と自嘲気味に言う直やんの姿。
  あたしはすこしこの子のことを見直していた。
なんだ、エリィにLIONのごとく超絶に甘く甘く甘く甘く甘く甘やかされているから、
  あんまり深く考えない単純なお坊ちゃん……と思っていた。けど、実は違う。
  甘やかされているからこそ、その甘やかしているエリィの態度の裏を如実に感じるように
  なったみたい。そのせいか、勘も鋭くなったよう。
  あ、関係ないけどLIONはフランスで食べたチョコバーの中で一番美味しかったから、
  もしフランスに行ってみたら買ってみてね。自販機の単品売りのほかにスーパーで4本
(たまに5本)ぐらいのお得パックもあるから。
  それはともかく。
  それに、直やんは隔離されつつも紅行院家の直系の息子だ。
  本家(あたしにはさっぱりわかんないけど)のやり方というものを熟知している。

 

 あたしは口元がさらにニヤ付くのを抑え切れなかった。
  可笑しい、可笑しい。いつもニヤ付くような笑顔で居るのはこのため、いつも不快に笑っていれば、
  こうやって本当に滑稽なものを見た時に、薄笑いを浮かべても誤魔化せるから。
  本当に本当に、笑いたくなる。あのお小言鉄仮面エリィの隠していることなんて、
  直やんにとっては全てお見通しだということに。
  エリィ、あんたが囲った大事な大事な坊ちゃんは、どうやらあんたが思っている以上に
  優秀に成長しているわよ?
  さて、どうするのかね? エリィ。あなた、このまま直やんを無知だと思って、
  嘘を突き通していくと……、
  いつか絶対直やんの信頼を無くすことになるわよ。
  それでもいいのかしら?
  今、車の中で許婚と一緒にこちらへ向かっているだろうエリィ。
  あいつは開口一番に、許婚のことをどう紹介するのかしら? 許婚だと正直に紹介するのかしら?
  それとも……嘘をついて誤魔化す?
  ふふふふふふふ。さぁて、どうするのかしらね。

「でも、ひとつわからないんだ」
「なにが?」
  あたしがくすりくすりと音を忍ばせて笑っているところに、直やんは腑に落ちない顔で呟いた。
「なんで、エリィが僕が女の子と話していると嫌がるんだろう……」
  ………。
  本当にわからないといった風な顔ではぁとため息をつく直やんを見て、

――いや、そこは悟れよ……。
 
  あたしは大幅にプラス修正していた直やんの評価を半分ぐらいマイナス補正したのであった。

To be continued....

 

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