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雨の音



1

「さあ、ここが今日から君の家だ。
  遠慮は要らないからね、自分の家だと思って、のんびりしておくれな」
上品そうなスーツを着こなした男性にそう言われた、
ヴァイオリンケースを持った少年は、戸惑っていた。
「自分の家みたいにって、これは…」
少年と男性が居るのは、映画の世界のような立派なお屋敷だ。
「ああ、そうか、響君はずっとホテルで暮らしていたんだっけ。
  自分の家って言う感覚が無いのかもな」
「…いえ、そうでなく、この豪華さが…」
そう言って、響と呼ばれた少年はキョロキョロと屋敷を見回す。

本当に立派なお屋敷だ。
今日からここでお世話になるのか。
…まだ信じられない。

この冬、九歳になったばかりの響は天涯孤独になった。
両親は、日本よりも海外で名が通っていた音楽家の夫婦だった。
その両親が、事故で亡くなった。
両親以外に血縁関係者が居ない響の身の振り方に、周りの人間全てが頭を悩ましていると、
響の父親のパトロンが、名乗りを上げた。
そのパトロンは、響の父がまだ無名だった頃から、その音楽にほれ込み、親身になってくれ、
親友ともいえる人間だった。
また、彼が響の家族と同じ日本人だった事もあり、響はその男性に引き取られる事となった。
そうして、響は、その男性、清涼院幸一の屋敷で暮らす事になった。

 

「あら、お父様。ひょっとして、その人が、話をしていた…
  …ええと、響、でしたっけ?]
とても可愛らしい声が聞こえ、響が振り返ると、そこにはとても可愛らしい女の子が居た。
その愛らしさに、響は眼を奪われた。
長い栗色の髪。同じく栗色の瞳をいろどる長いまつげ。
白い陶器のような肌と、桜色の唇。

絵画で見た天使が現れたのかと響は思った。
呆然としていると、その子が微笑みながら近づいてきた。

「響君、紹介しよう。
  こいつは、私の娘で、シヲンという。
  君と同じ、九歳だよ.
  仲良くしてやってくれな。」
シヲンを抱っこしながら、幸一はそう言った。
「それから、シヲン。
  この子は、響君。急から新しい友達で、家族だ。
  なかよくするんだぞ」

幸一の腕の中から、響を見つめると、シヲンは
「ええ。新しいトモダチね。
  いいわ。きっと私、なかよく出来るわ」
天使のように微笑みながら、そう言った。
「ところで、お父様。さっきから古泉が探してましたよ。
  なんでも、研究所で成功した、とかいって騒いでましたよ」
シヲンがそう言うと、
「何、ほんとうか!? すまない、響君。
  私は研究所の方に行かなくてはならなくなってしまった。
  シヲン、すまないが、響君に屋敷を案内してやってくれ
  じゃあ、すまないが二人とも、いってくるよ」
慌しく、幸一は出て行った。

シヲンと二人きりになってしまい、饗は落ち着かなくなってしまった。
とびきりに可愛らしい女の子が側に居るのだ。
こんな可愛らしい子は、見たことが無い。

…いや、そう言えば、ピアノの上手だったあの子も一緒ぐらい可愛かった気がする。
たしか、大きくなったら、一緒に演奏してくれるって約束したっけ。
……あの頃は、父さんと母さんがいたんだよな…

両親の事を思い出してしまい、響がうなだれていると、
「ねえ、あなた、父も母も死んじゃったんだったって?」
いつの間に近づいたのか、シヲンが耳元で囁いた。

あまりに遠慮も無く、しかも微笑みながらそんなことを聞かれて、郷は気分が悪くなった。
「…そうだよ」
顔をそらしながら、響が呟くと、
「あはっ!だから私の家に上がりこんできたの?」
「だって、幸一おじさんが、来てもいいって言ってくれたから…」
「私は良いって言ってない!!」

シヲンがニヤニヤと笑いながら響を睨みつける。
「でも、でも、この屋敷に来たいなんて、僕から言ってない…」
「ふーん?じゃあ、出てく?」
天使のような顔に、悪魔みたいな表情をのせて、シヲンが尋ねた。

自分みたいな子供が、一人で生きていけるはずが無い。
じゃあ、この屋敷から追い出されたら自分はどうなってしまうんだろう?
そんなことを考えると、怖くなってきた。

「ふふ、冗談に決まってるでしょ?
  せっかく新しいトモダチをお父様が連れて来てくれたんですもの。
  仲良くしてあげるに決まってるでしょう?」

先程までの、悪意を感じさせる口調と一転して、優しく話し掛け、響の手を取った。
「それにね、私、ほんとはあなたが来てくれて嬉しいの。
  今までお父様が連れて来てくれたオトモダチって、犬とか猫ばっかだったから。
  そりゃ、犬も猫も、可愛いけど、やっぱり、人のオトモダチが欲しかったの」

握られた手の柔らかさと暖かさに、響はホッとしていた。
「だって、あいつら、私が何しても、ワンとかニャーとかしか言えないいんですもの」
え、と思うまもなく、響の腕にシヲンが爪を引っ掻いた。

「…っだ…」
反射的に立ち上がり、腕を見る。
血が滲んできた。

「あはははは!」
心底楽しそうにシヲンが笑う。
「痛い?痛い?」
「痛いに決まってるだろ!」

涙まで浮かべて、シヲンは喜んでいる。

その様子が余りにも憎たらしかったので、響はヴァイオリンケースを手に取り、
部屋から出て行こうとする。
響がドアの取っ手に手をかけたとこで、
「ああ、それから、響。
  言っておくけど、あなた、この事お父様に言っちゃ駄目よ?
  言えば…どうなちゃうのかしら?
  解ってるわよね?」
シヲンが声をかけてきた。
 
用意されていた自分の個室にまで戻り、響はベッドに倒れこんだ。
これからの、自分はどうなってしまうのか。
シヲンに引っかかれた腕の痛みが、これからの自分を暗示している気がしてならなかった。

2

 響が清涼院の屋敷に来た翌朝。
起きてしばらく、響は自分がどこに居るのか解らなかった。
天井が高い。
部屋が広い。
しばらくぼんやりしていたが、左腕の鈍い痛みで意識が立ち上がってきた。

 そうか、僕は幸一おじさんのお屋敷でお世話になる事になったんだっけ。

 そして、左腕の痛みからシヲンとの出会いを思い出した。
あの女の子、キライだ。
あんなに可愛いけど、性格はサイアクじゃないか。
昨日、逃げるように部屋から出て行った自分に腹が立ってきた。
よし、今日、シヲンに会ったら謝らせてやる!
胸に決意を秘め、部屋のドアを開けようとすると、

「おそいわよ!ヒビキ!!」
シヲンが入ってきた。

「イソウロウの癖に、アルジより遅起きだなんて、いいミブンね!」
嬉しそうにそう叫ぶと、右手に持っていた三十センチ定規で、響を
思いっきり叩いた。
「オシオキよ!オシオキ!」
全くの無邪気な笑顔でシヲンは響を叩き続ける。

 

「この、やめろよ、バカッ!」
定規を持つシヲンの手をとめ、シヲンを睨みつけ、突き放した。
キャッ、と悲鳴を上げ、尻餅をつくシヲン。

 さらに、シヲンの手から落ちた定規を拾い上げ、彼女を叩こうと、
定規を振り上げた瞬間、
「追い出すわよ」
シヲンが涙目で響を睨みながら、言った。

 その一言で、響は定規を振り下ろせなくなった。

「…もういい。出てってよ」
定規を放り投げると、響はシヲンに背を向けた。

「ダメよ。イソウロウの分際で私を叩こうとしたおバカさんに
  おしおきしなくっちゃ。
  …そうね。
  あなた、朝御飯抜き。
  メイド達には私から言っといてあげる」
それだけ言うと、シヲンは響の部屋から出て行った。

 部屋に一人きりになると、響は着替えるためにパジャマを脱ぎだした。
シャツだけになると、体中に叩かれた後が残っていた。
これから先、この屋敷から出られる位の大人になるまで、あの女の子に
いじめられ続けるんだろうか。 
  そう思うと、起きたばかりだと言うのに、疲れた気がしてきた。

3

響が屋敷に来てから一週間がたった。
響の体には、無数の痣があった。
それらは全て、シオンが付けたものだった。

 まだ痛む傷跡に触れないように気をつけながら、パジャマから
普段着に着替えると、響はバイオリンケースを手に取り、部屋から出た。

 今朝もまた、シヲンに叩かれた。
何故ぶたれたかは解らなかった。色々とシヲンは言っていたが、
結局は響を痛めつける事が好きなだけなんだろう。
  それだけでなく、今日は朝御飯も抜かれた。

気分はサイアクだったが、バイオリンの練習は日課だったし、こんな時こそ、
バイオリンを弾く事で気分を紛らわせたかった。

 幸一から、離れにあるホールはいつでも使っていいと言われていたので、
そこに向かおうと思っていたが、庭を歩いている内に気分が変わった。 
  今日はぽかぽかと暖かく、久しぶりに春が近づいてきたことを実感できる日だ。
こんな日は、外で演奏したい。

 どこかいい場所は無いかな、そう思ってあたりをキョロキョロ見る。
すると、少し離れた所に日当たりの良さそうな、花壇に囲まれた大きな木があった。
あそこにしよう、そう思い、木の下に向うと―――――

 すでに、先客が気持ち良さそうに寝ていた。
 

 その先客は、メイド服を着ていた。
と、言う事は、この女の人はメイドさんなんだろうか。
だが、他のメイドさん達は皆忙しそうに働いていた。
……サボってるのかな、この人?
だったら、起こした方がイイのかなあ…

……けど、ホントに気持ち良さそうに寝ている。
起こしたら悪いな、そう思って、立ち去ろうとしたが、その拍子に落ちてた枯れ枝を踏み、
パキンッ!と音を立ててしまった。

「あああああっ!いえ、違うんです!サボってません!寝てません!
  決して、洗濯物干してる途中で陽気に誘われてお昼寝してる訳じゃあ…!!」
早口でまくし立てながら、そのメイドさんは起き上がった。
「そういう訳ですので、お給料カットはやめて…
  ……って、あれ?」
目の前に居るのが、同僚でも、清涼院家の人間でもない事に気が付き
怪訝そうな顔をするメイドさん。
「…ええと、君、誰?」
「…あ、はい、僕は、先週からこの屋敷でお世話になる事になった…」
そこまで響が言うと、
「ああ!聞いてる聞いてる!
  たしか、響君、だよね。
  私はね、このお屋敷でメイドやってる清華ちゃんって言うから。
  ヨロシクねー」
ポヤポヤした笑顔で、自己紹介する清華。

「ところで…ここに私が居た事、言っちゃあ嫌よ。
  OK?]
「…やっぱ、さやかさん、サボってたの?」
「シャラップ!
  ……ほら、これあげるからさ」
そういって、襟首から手を突っ込み、ごそごそと胸元をまさぐると、
そこからシュークリーム二つ取り出し、一つを響に渡した。
「あたしのおやつ。
  十時と三時に食べるつもりだったけど、あげる」

 美味しそうなシュークリームを見ると、急にお腹が減ってきた。
シヲンが朝御飯を食べさしてくれなかったので、起きてからまだ何も食べていないのだ。
  貪るようにして、シュークリームを食べた。
 

 シュークリームを食べ終わり、清華にお礼を言う。
そして、手に付いたクリームを舐め、ハンカチで手を綺麗にし、バイオリンをケースから出す。
バイオリンを構え、呼吸を整え、いざ弾こう…

としても、清華からの視線が気になった。
「…そんなにじろじろ見ないでください」
少し照れながら、響が言った。
「いーじゃん、気にしないでよ」
「…働かなくて、いいの?」
「ばれなきゃいいのよ。 
  それに、観客が気になるようじゃあ、大成しないわよ。
  さ、早く弾いてよ。リクエストは、穏やかな曲で」
  
  どうせ、途中で寝るんじゃないか。そう思っていたが、清華は最後まで聴いてくれ、
さらには演奏が終わると拍手までしてくれた。
 
「ねえ、ヒビ君。君、明日もここで練習するの?」
スカートに付いた埃を払いながら、清華が尋ねた。
「んー。べつに、決めてないけど?」
バイオリンを仕舞いながら、響は答える。
「じゃあ、明日もここに来てよ。  
  また、バイオリン聴きたいな。
  そうだ。ちゃんとお菓子も用意しといたげるから」
  ニコニコとした笑顔で清華は響を見つめた。

明日も、木の下で会うことを約束して清華は仕事に戻っていった。

 

練習も終わり、庭を後にし、部屋に戻る。
自分の部屋に続く階段の途中、降りてきたシオンとばったり出会ってしまった。
シヲンは一瞬驚いた顔を見せ、ついで不機嫌な顔になった。
  嫌な予感がした響は、そ知らぬ顔で通り過ぎ様としたが、

 「まちなさい、ヒビキ」
薄く笑ったシヲンに呼び止められた。
 
  また、叩かれるのか。
ウンザリしながら振り返り、これから来る痛みに備えて響は身を硬くした。
 
  が、シヲンがとった行動は予想に反するものだった。
シオンは両手で響の頬を挟み、まるでキスをするかの様に、顔を近づけてきた。
  何をされているのか解らないまま、響が眼を白黒させていると、

ぺろ。
 
  響の唇の端にシヲンの舌があたる。

「…甘い……
  ねえ、何なのかしら、これ?」
舌の上に、白いものを付けたまま、シヲンが尋ねた。
シュークリームの中身だ。

「私言ったわよねえ?朝御飯抜きだって?
  それなのに何?何か食べたの?」
「…それは、その…」
「言いなさい!誰にもらったの!」

この様子では、自分だけでなく、さやかさんにまでとばっちりが行くかも。
響はだんまりを決め込んだ。
  反抗しなければ、すぐに飽きて、やり過ごせるだろう。

 だが、今回のいじめは異様にしつこかった。
何時も楽しみながら響を叩いていたが、今回は本気で怒っている様だった。
散々に叩き、爪で引っ掻き、響が座り込むとさらに足まで使って来た。
「言いなさい!誰にもらったの!
  今まで誰と居たの!」

これほど痛めつけても、響は何も言わない。
そのことがさらにシヲンをいらだたせる。
そもそも、響が自分の言いつけを守らなかった事が腹立たしい。
しかも今回は、誰かが勝手に響に餌を与えていた。
誰かが響に優しくしてやっている。
そのことが頭が熱くなるほどに気に食わなかった。
 
疲れるほどに響を叩いても、不快感は取れなかった。
ああ、そうか、と気づく。
この不快感は、ヒビキに餌を与えた奴にもぶつけてやらなくちゃいけないのね。
何処のどいつだろうか。うちの屋敷の者には間違いない。
いいわ。見つけてやる。
待ってなさい。

4

「…専属メイド?ヒビキに?
  ……必要ないわね。却下よ」
朝、髪を整えにやってきたメイドから、響に専属のメイドがつくことになった事を聞いたシオンは、
強い口調でそう言った。
「でも、お嬢様、これはだんな様がおしゃられた事ですので…」
「お父様が?
  …そう」
ぎっり、と爪を噛む。
お父様の意見じゃ、変えられないわね…

 シオンの頭に思い浮かんだのは、今自分がされているように、
メイドに甲斐甲斐しく髪のセットをされている響だった。
猛烈に気に入らない。
響も、想像の中の響の専属メイドも気に入らなかった。

「…へ?専属メイド?僕に?
要らないよそんなの」
クッキーをほうばりながら、響は答えた。
「でもねー、これ、旦那様の言いつけなのよ。
  君はうちの大事な客人なんだから、最上級のおもてなしを、だって」
清華はお茶を煎れながら返事をする。

 二人が話をしてるのは、清涼院宅の庭の片隅。
響のバイオリンの時間に合わせて、清華はお菓子を持って現れる。
そしてバイオリンの練習が時間が終わると、二人で喋りながらお菓子を食べる。
持って来てくれるお菓子はいつも手作りのようだ。おいしい。

「良いじゃない。折角だからつけて貰いなさいよ。
  きっといい気分よー。
  ああ、でも、いくらうちのメイドさん達、皆可愛い子だからって、手を付けちゃあダメよー?」
ニヤニヤと、清華。
しかし響は、
「……?テヲツケル?
  ……って、何」
「あはは、その内わかるよ」

その後、しばらく談笑した後、清華は仕事に戻り、響は部屋に戻る。
自分の部屋に戻るまで、響はさっきの話を思い返していた。
最高のおもてなし、か…
それならメイドをつけるより、シヲンのほうをどうにかして欲しかった。

その日の夕方。
久しぶりに屋敷に幸一が帰ってきた。
幸一とシヲンと響、三人で夕食をとり、寝るために自室に戻ろうとする響に、
「ああ、待ってくれ。ちょっと話があるんだ」
と声をかけた。

「そろそろ、新しい年度に入るからね。響君も新しい学校にいく事になるんだが…
  まあ、そのための手続きやら何やらをしなくちゃ駄目なんだがね、本来なら保護者になった
  私がそう言ったことをすべきなんだが、悪いんだが、今研究所の方が立て込んでてね。
  そこで、そう言ったことを任せれる、君用の使用人をつけることにしたんだ」

響の専属メイドの話とわかると、
それまで眠そうにソファー寄りかかっていたシヲンの顔が急に曇った。
それに気が付いた響は、
「あんたの面倒を見させるために、メイドを雇ってるんじゃない!」
とか言って突っかかってくるんだろうな、と思い、気分が重くなった。

「おおい!こっち来てくれ!響君に挨拶してくれ」
幸一が声を上げると、ドアの向こうから返事が聞こえた。
その声に、聞き覚えがあった。
…ひょっとして…

「では、改めて自己紹介させて頂きます。
  わたくし、本日付で響様の専属メイドに任命された、清華、でございます。
  至らぬ所も多く、ご迷惑をお掛けしてしまうと思いますが、何卒、宜しくお願いいたします」
そういって、ニコリと営業スマイルを響に向ける。
何時ものテキト−な様子とは違い、何処に出しても恥ずかしくない振る舞いだった。

ポカンと響がしていると、
「だんな様。
  響様は、どうやらもう眠気が来ているようです。
  よろしければ、もうお部屋の方にお連れしときますが?」
きびきびした様子で幸一に尋ねる。
「ん、そうか。すまなかったね、響君。
  じゃあ、清華、響君を頼む」

おやすみなさい、と幸一に言って、リビングを出、清華の後ろについていく。
静々と歩く様子も何時とちがう。
どうしちゃったんだろ、と思っていると、部屋の前に着く。
清華がドアを開けてくれ、中に入るように促す。
響が部屋に入った後、清華も入り、ドアを閉める。

その瞬間、
「はー――、肩こった」
と、清華はズルズルとその場に座り込んだ。

 

「…で、なんであのメイドが専属になった訳?」
響がリビングを後にしてすぐ、シヲンも自室に引き上げた。
そこで、自分の専属メイドを呼び出し、清華がどういった経緯で響の専属メイドに選ばれたのか
問いただしていた。

シヲンは響と清華が毎日会っている事は知らなかったが、もし響からの要請というのなら
許せない、と思った。
「いえ、私たちメイドが集まって、誰がいいかと話し合っていたんですけど、そのとき清華が
  立候補したもので」
「立候補!?……自分から言い出したの?」
…あのメイド、どういうつもり?
専属になる、という事は四六時中、主と一緒にいる、という事だ。
それを、自分から希望したなんて…

我知らず、シヲンは爪を噛んでいた。

「…まあ、清華が言うには、お給料を増やしたいから、といってましたが」
  専属になれば、手当てがつきますから…」
シヲンの機嫌が悪くなっている事に気が付いたメイドが、恐る恐る、といった感じでつけたした。
「…それ、本当?」

…だとしたら、特に他意は無いのかしら?
……それもそうよね。誰が、ヒビキなんかに構おうって言うのかしら。
そんなオロカモノ、いるはずが無いじゃない。

そう思えば、胸にあったイラつきが少し減った。
だが、皆無にはならなかった。

「まあ、専属手当てが欲しかった、てのもあるけど…」
ベッドの横に座って、清華は話していた。
「実はね、私、弟がいるのよ」
そういって、清華は彼女の弟の写真をみせてくれた。
「ほら、君と年も近いの。
  だからかな、なんとなく、君を可愛がってあげたいの」
そういって、清華は優しく響の頭を撫でてくれた。

どうして、専属になってくれたのか?
そう尋ねたら、清華はこう答えてくれた。
撫でてもらった頭に、まだ暖かさが残っている気がする。
清華のことを考えると、なんだか暖かくなってくる。

その想いが、初恋であった事に気が付くのは、響がもう少し成長したときだった。

5

 清涼院家の庭園の片隅。
そこは屋敷のどの窓からも死角となる場所だ。
そこで、横たわった響の上にシヲンが馬乗りになっていた。
外でバイオリンを弾いていた響を見つけたシオンが彼を押し倒し、
その上に跨り、座り込んだのだ。

「ヒビキ、あなた、楽でいいわねえ。
  そうやって、暇を見つけてはバイオリン弾いていればいいんだもの。
  イソウロウのくせに、気楽だ事。
  少しは、役に立つ事でもしてみせなさいよ」
響を見下ろし、彼のシャツをまくり上げると、そのお腹に爪を立てた。

そこには、すでに彼女がつけた傷跡が無数にあった。
それを見ると、シヲンはいつも気分が良くなる。
もっと気分を良くする為、彼女は新しい傷を刻み込む。
苦痛の声を懸命にこらえる響。
シヲンはこれ以上は無い、と言うほど愉快になる。

 最近、シヲンは響の事を考えると、苛苛する自分に気がついていた。
だったら、あんなイソウロウの事なんか気にしなければいい、と思ってるのだが、
ふと気がつくと、響の事を考え、その姿を探している自分に気がつくのだ。

なんで、あんなイソウロウが気になってしまうのか?
何度か自問したが、結局、
「目障りだからね」
そう思うことにした。

「ほら!どうしたの!痛かったら痛いっていなさい!」
シヲンが何度も響のお腹を引っ掻いているが、響は顔を歪ませこそするが、
悲鳴や泣き言を口にする事は無かった。

響から許しを請うような声が聞こえないのが残念だったが、
今日は沢山の傷を新しくつけてやった。中には血が滲むほどの傷もあった。

ヒビキの体は、自分がつけた傷だらけ。
その考えは、鳥肌が立つほどの陶酔感があった。
傷跡だらけのヒビキを想像したら、なぜかおしっこをするところが
うずうずしてきた。

その夜。
シオンはベッドで、ヒビキを痛めつけた事をおもいだしながら、初めての自慰を行った。
その意味を知らないままに。
  そしてこれから先も、それをする時の想像の相手は響のみだった。

6

「あーあ。やな天気」
窓越しに空を見上げる清華。
もう三月の半ばも過ぎたというのに、天気は雨で、肌寒い。

掃除をしに響の部屋を訪れたが、こんな天気ではすっきりしない。
布団を干すのは諦めて、床に掃除機をかけるだけにする。
「さって、はじめましょうか」
掃除機のスイッチをオンにする。

「ヒビキ!ちょっと来なさい!」
「きゃあ!?」
ノックも無く、ドアを開けると同時にシヲンは声を張り上げた。
「お、お嬢様!?
  どうしました?」
それに答えず、シヲンは清華をきつく睨んだ後、部屋を見渡し、
響がいない事に気がつくと、
「ヒビキは何処!?」
怒気もあらわなシヲンに清華は
「ええと、今は、先生のところでバイオリンの練習中ですが…」
と、ちょっと後ずさりながら答えた。

4日前から、響にバイオリンの先生がつけられた。
その初老のフランス人は、本来は音大の特別講師で、
響の様な子供相手にレッスンをする様な事はしないのだが、
幸一の頼みと言うこともあり、また響自身のセンスに興味を覚え、
特別に個別レッスンをつけてくれるようになった。

邪魔しに行ってやりたいが、幸一から、先生の邪魔はしちゃいけないよ、
と厳重に注意されていたのでそれもままならない。
ふん、とつまならそうに鼻を鳴らし、シヲンは部屋に入る。
「あの、お嬢様、今お掃除中ですが・・・」
「邪魔よ」

響がいないならば、と、はたきを持った清華の横を通り過ぎ、
響の机に向い、引き出しを開ける。
何か面白いものでも隠してないかと、ごそごそと中をあさる。
日記でも出てくれば面白いんだけど。

何も言わずに引き出しを検索し始めたシヲンに慌てて
「ちょ、お嬢様。駄目ですよ、そんなことしちゃ」
なおもゴソゴソと引き出しをかき回している手を握ったが、
シヲンはまるで清華の手が汚らわしい物であるかのように、
彼女の手を振りほどき、一言、
「邪魔よ」
とだけ言い、再び引き出しの中をチェックし始めた。

…最近、私、お嬢様に嫌われてるわよね…
何かしちゃったけ?

元々シヲンはメイドを空気のように考え、メイドのうち、誰が好き誰が嫌いとか、
そんなことを言った事は無かった。
しかし最近、清華は、自分は嫌われている、
と感じるようになっている。

いくら考えても、シヲン相手に粗相をした覚えは無かった。
最近変わった事と言えば、響の専属になったぐらいだ。
それが原因?
お嬢様は、ヒビちゃんのこと、嫌いなのかしら?
だから、彼の専属になった私も嫌になったのかしら?
…だとしたら、ヒビちゃん、なんて可哀想なのかしら。
居候先の娘とうまく行かないなんて、肩身が狭いでしょうに。
…いいわ!だったら、私だけは貴方の味方になるから!

そんな決意を固めていると、
「清華!ちょっと来なさい!!」
シオンの怒鳴り声に我に返された。
慌ててシオンの元に駆け寄ると、シオンは一枚の写真と指輪を手に取り、ブルブルと震えていた。
それらには見覚えがあった。響が見せてくれた事があったからだ。

「ほら、この子!
  この子ね、凄くピアノがうまいんだよ!」
響は嬉しそうに、写真の女の子を指差しながらそう言った。

少し前、清華と響の話の中で、まだ響が外国にいた頃、感動したコンサート、
と言う話題になったときだ。
響は清華の知らない楽器演奏者の名前を次々あげて言った。
あのチェロ奏者のあの曲は凄い、とかあのオーケストラの交響曲は忘れられない、
と、興奮気味に語られても清華はチンプンカンプンだった。

なおも、音楽について語ろうとする響を押しとどめ、
今度は同い年位で上手だった子は居なかったのかと聴くと、
「えー?そんなの全然居なかったよ。
  あっちの子、全員僕より下手だったもの」
さらりと傲慢な事を言う響。
「あ、でも…一人、とんでもなく上手な子が居たよ。
  ちょっと待ってて」
そう言って取り出してきたのが、あの写真と指輪だった。

写真には、タキシードを着た響と、ドレスを着た、金髪で響と同じぐらいの年の女の子が写っていた。
「これね、向こうで政治家さんのパーティーに呼ばれたときのだけど、
  その時この子と一緒に演奏したんだ。
  そのときの写真」
写真を渡された清華はタキシード姿の響にちょっと萌えていた。

「そこで好評だったから、何回かその子と一緒にコンサートに呼ばれたこともあったっけ」
「ふーん、ところで…
  なんで、この写真、そんなに大切に持ってるのかなあ?」
ニヤニヤと笑いながら清華が尋ねた。

「ひょっとして、アレかな?
  ヒビちゃんにとって、忘れられない娘?」
とたん、顔を赤くして
「違う違う!
  これ持ってたのは、あっちが大事に持ってて、っていったからだよ!
  それに、約束したからだよ!
  大きくなるまで、この写真持ってたら、一緒に演奏してくれるって」
「演奏?」
「そう、
  『大きくなって、またで会えたら、私たち、一緒になりましょう』
  っていてくれたんだもん!
  それでこれは、再開した時に交換する指輪!」
そういって見せてくれた指輪は、どう見ても安物ではなかった。
写真の女の子が二つセットの指輪を持ってきて、一つを自分に、
一つを響に渡してくれたらしい。
何でも、再開のおまじないらしい。

……日本と外国の文化の違いかしら?
私にはそれ、どうしても演奏の約束には聞こえないんだけど…
むしろ、婚約って感じじゃ…

「清華!聞いてるの!?
  これ、だれなのよっ!!」
シヲンの怒鳴り声で我に返る。
「ええと、ヒビちゃんが言ってましたけど、ここに来る前に
  一緒に演奏のした事がある子だそうですよ」
「なんでこんな大事そうにしまってるのよ」

それは、ヒビちゃんがその子が好きだからですよ、
と言おうと思ったが、あれぐらいの年の男の子が
そんな事言いふらされるのは嫌がるだろう、と思い、
「まあ、その子、可愛らしいですからねえ」
と、お茶を濁しておいた。

実際、その写真の子は可愛らしかった。
シヲンも、まるで天使のように可愛らしいが、
その子もまた、同じほど可愛らしい。
清華はシヲンほど整った顔立ちの子供は居ないだろうと
おもっていたが、写真の子も神様に愛されて生まれてきたのだろうと
思えるほど、可愛らしかった。

 気に入らない。
全然気に入らない。
ヒビキが女の子の写真を大事そうに持っているのが気に入らない。
その上、どういうつもりか、あのイソウロウはその写真と一緒に指輪まで
隠していた。
ユビワ。なにやら意味深じゃない。

シオンは清華のほうを盗み見た。
幸い、壁の方を向いて掃除していた。
シヲンは指輪を手に取ると、窓から放り投げた。

これで少しは気が晴れるかと思ったが、不快感は一向に取れなかった。
本当に、あのイソウロウが来てから私は苛苛させられる。
ああ、本当に目障り。
私の前から消えればいいのに。
苛苛する。苛めてやりたい。
今日はお腹だけじゃなく、背中も腕にも足にも傷を刻んでやる。
だから、さあ、早く帰ってきなさい。
そしたらまた、いたぶってあげるから。
だから、さあ、早く。
どうせ、逃げられないんでしょ?
行くところなんかないんでしょ?
この屋敷以外の居場所、ないんでしょ?
だから早く、ここに、私のとこに、帰ってきなさい。
窓から、冷たい雨が降る外を見ながら、シヲンは響の帰りを待った。

 

なぜ、自分がこんなに響を意識するのか。
その理由を自問する事は無かった。

彼女の前に、金髪の少女が現れるまでは。
その時初めて気づくのだ。
自分が、響を、どんなに、どれほどに――――――……・・・

7

外はまだ、冷たい雨が降っていた。
その雨の中、響は傘もささず、地面を見ながら彷徨っていた。
指輪を、探しているのである。

バイオリンの練習が終わり、屋敷に戻る時、響は自分の部屋の窓から
シヲンが何か放り投げる様な動きがするのが見えた。
猛烈に嫌な予感がし、大急ぎで自分の部屋に戻った。

部屋にはもうシヲンは居なかったが、清華はまだ掃除をしていた。
清華に、シヲンがここに来なかったか、と聴くと、
ついさっきまでここに居た、との事。
「あいつ、ここで何してたの?
  なにか、触ったりしてなかった?」
「うん…ごめんなさい、お嬢様、あなたの机、勝手に開けたりしてた。
  ゴメンね、止めさせられなくて」

机の中。もしかして。
引き出しを開けて、便箋を開ける。

……そこにあった写真は折り潰されていた。
さらに、指輪が、無くなっていた。
部屋から捨てていたのは、指輪だったのだろう。

……もういやだ。
なんで、こんなひどい事ばかりして来るんだ。
涙がジワっと出てくるのが解った。
もういやだ。これ以上、この屋敷に我慢できない。

「ヒビちゃん?
  どうかしたの?」
後ろから心配そうな清華の声。
一瞬、清華に泣き付きたい衝動が溢れた。
しかし、その衝動と涙をこらえ、
「ううん、なんでもない」
笑顔で答えた。

その後、清華にお部屋の掃除ありがとう、と伝え、
清華を部屋から見送ると、窓の外を見た。
まだ、雨は降っていた。
それでも傘を持ち、響は庭へ出た。

指輪を探し始めてすぐ、傘があっては足元が暗くなり、
探しにくくなるので、傘を差すのを止めた。
たちまち、体中が濡れる。
十分もしないうちに、体が芯まで冷え、震えが止まらなくなった。
それでもなお、響は指輪を探し続けた。

「…バカなのかしら、あの子」
傘も差さずにウロウロしている響を、自分の部屋から見下ろしながら、シヲンは呟いた。
恐らく、ヒビキは自分が放り投げた指輪を探しているのだろう。
こんなスグに、指輪が無くなったことに気づくなんて、清華がばらしたのかしら?
ううん、清華は見ていなかった。
第一、気づいていたらあの目障りなヒビキの専属メイドは何かしら言ってきただろう。
そうなれば、私が放り投げたとこを見られたのかしら。
ふん、私に文句でも言いに来ればいいのに。
そんな気も起きないようになっちゃったのかしら。
とんだ意気地なしね。

ずぶ濡れになっていくヒビキを見るのは楽しいだろうとシヲンは思っていた。
だが、彼女の顔に笑みが浮かぶ事は無く、その表情は、むしろ気弱な表情が
見え隠れした。

こんな雨の中探そうとするなんて馬鹿げてるわ。
どうせ探すなら、もう少し待って、晴れたときに探せばいいのに。
本当にバカなのかしら?

―――それとも、あの写真の女との思い出とやらが、そんなに大事なのかしら?

そう思うことで、シオンは胸の中の後ろめたさを消してやろうと思ったが、
どういうわけだが、出来なかった。

もうこれ以上、響の姿を見ることが耐えられなくなり、シヲンは窓際から離れ、
頭から布団にくるまった。

もういや。どうしてあいつは私をこんなにイライラさせ、苦しめるのか。
このまま、雨に打たれて風邪をひいて死んでしまえばいいのに。

指輪を探し始めてすでに一時間が経過していた。
まだ指輪は見つかってない。
当然だろう、あんな小さなものを、この広い庭から探し出すのだ。
それでも、響は探し続けた。雨に打たれながら、諦めもせず。

花壇の花を一本ずつ調べ、レンガとレンガの隙間を調べ終え、
次に池の方を調べに行こうと思ったとき、
「ヒビちゃん!?
  何やってるの!!??」
清華に呼び止められた。
自分が濡れる事も構わず、清華が庭に飛び出し、響を抱きしめた。
響の体の冷たさに愕然となり、急いでお風呂にいれに行こうと抱っこしたが、
響は暴れ、言う事を聴いてくれなかった。
「どうしたのよ、そんな体じゃ、風邪引いちゃうわよ!」
「いやだ!ほっといてよ!
  指輪、探さなきゃダメなんだよ!」
「指輪?あの指輪?
  あれがどうしたの?」
「あの指輪、さっき」 
シヲンが放り投げたんだ。
そう口が滑りそうになり、慌てて口をふさぐ。
「…さっき、落としちゃったんだ。
  だから、探さないと」
響は清華から目を逸らしながら言った。
「じゃあ、後で探しましょ? 
  こんな天気じゃ見つけにくいし、何よりあなた、
  このままじゃ風邪引いちゃうわよ!」
「いやだ!
  あれは、あれは…大切なものなんだ」
地面に眼を落としながら響は言った。
「解ってるわよ、女の子に貰ったものなんでしょう、
  だけどね」
「あれだけなんだよ、
  …みんなの、思い出は…」
ポロポロと、響の目から涙がこぼれた。
「あれだけしか、残ってないんだ。父さんと母さんがいた頃の物って。
  あれだけなんだ。写真も、あれだけしか残ってないんだ。
  どっちも、父さんも母さんも、関係ない物だけど、
  それでも、あれを見れば、思い出せたんだ。
  父さんがいて、母さんがいて、僕も一緒に演奏できた頃を」
それだけを一気に言うと、響はまた指輪を探しに、庭の方へ戻っていった。

…ああ、そうか。
あの指輪は、形見なんだね。
だから、そんなに必死なのね。
広い庭の中、幼い背を屈めながら指輪を探してる響を見ていると、
清華は泣きそうになってきた。
今まで、あまりにもシッカリした子だから気づけなかったが、響は両親をなくし、
今まで知らない所で繰らす破目になった、可哀想な子だったのだ。
それに気づけなかった自分は、なんてオロカモノなのだろうか?

「ねえ、何処から探し始めたの?」
芝生の草を一本一本掻き分けている響に、清華が尋ねた。
「私も手伝うから。
  二人でやった方が効率もいいでしょ?」
「いいよ、さやかさん、ぬれちゃうよ!」
「気にしない、気にしない。
  ね、手伝わせてよ」
そう言って、清華は微笑んでくれた。

 

響とは逆方向から清華は指輪を探し始めた。
彼女も、響と同じく傘を差さなかったため、すぐにびしょ濡れになった。
メイド服もすぐに泥がつき始めた。
それを気にする事もなく、清華は指輪を探してくれた。

清華の優しさが嬉しかった。
自分のためにずぶ濡れになる事を厭わず、頑張ってくれる人が
いることが、嬉しかった。
シヲンに刻まれた、心への傷跡がゆっくりとふさがり始めるのが解った。
清華を、美しい、と感じていた。
この人がいてくれたら、僕はここで頑張れる、とおもった。

響の心に感応したように、一瞬、雲が途切れ、太陽が顔を覗かせた。
清華が顔を上げ、眩しそうに空を見上げた。
そして自分を見つめる響に気がつき、微笑んでくれた。
その時、

「あ――――っ!
  今、今光ったあ!!」
清華が勢い良く立ち上がり、響のほうに駆け寄ってきた。
そして響のいるところから1メートルぐらいのところにしゃがみこむと、
「はっけーーん!!」
指輪を拾い上げ、頭上にかざした。

「ほらほら、これだよね、君の指輪」
「うん、うん、これだよ。
  良かったあ、良かったあ」
二人とも、泣き笑いながら指輪を見つめた。

次の瞬間。
グラリ、と響が倒れた。
慌てて響を支える清華。
抱きかかえると、さっきはあんなに冷たかった響の体が、
驚くほど熱い。
「ヒビ君!!ねえ!ヒビ君!!」
呼びかけても、返事は無かった。
ぐったりしたままの響を抱っこし、清華は屋敷の方に
大慌てでかけていった。

8

ゼッ、ゼッ、と苦しげな呼吸をしながら響はまどろんでいた。
体の表面は熱いのに、芯の方は冷えた感じがする。
全身がだるい。
頭がぼんやりする。

そのまま、まぶたが重くなり始めた時、頭にひんやりとした物が
乗せられた。
その心地良さに、意識が戻ってくる。
目を開けると、清華が心配そうな顔で覗き込んでいた。

「さ、やか、さ、ん…?」
響がよびかけると、
「ヒビ君!?よかった、気がついたの?
  …ああ、良かったあ」

ぐすん、と鼻を鳴らし涙を拭う清華。
「そうだ、ヒビ君、お腹は空いてない?
  何か食べない?
  モモ缶?おかゆ?オートミールは?果物もあるよ?」
清華が色々と進めてくれるが、正直、食欲は全く無い。

「でもでも、何かおなかに入れとかないと、治りが遅いよ?
  …せめて、オレンジジュースだけでも飲んでよ、ね?」
響が、それ位なら何とか、と思い頷くと清華は響を抱き起こし、
オレンジジュースを入れたコップを渡してくれた。
が、今の響にはコップを持つことさえ億劫だった。

コップを口元まで運んでも、響は飲もうとしない。
「ほら、しんどいのは解るけど、頑張って!」
声をかけても響は、うー、だとか、あー、といった返事しかしない。

溜息をつき、清華は響からコップを取り、もう一度横にならせた。
そして、
(この子、ファーストキスは済ませてるかしら?)
そんな事を思いながら、オレンジジュースを口に含み、
響の唇に自分の唇を近づけていった。

 

「風邪?ヒビキが?」
響が風邪で寝込んでしまった事を、シヲンは自分の専属のメイドから聞かされた。
「ええ、なんでも、昨日の雨に当たられてしまったようで、熱が引かなくなって
  しまわれたそうです。
  昨日からずっと清華が付きっ切りでいますが、一向に良くなってくれなくて…」
メイドが自分の髪を梳かしながら話し続けるのを無視し、シヲンは爪を噛んだ。
爪を噛む癖が、行儀が悪いと叱るメイドの声が聞こえたが、それも無視する。

…ふん、やっぱりあの子、バカだったみたいね。
あんな雨の中、ずっと庭に出てたら当然風邪もひくわよ。
あんな指輪一つ、どうして必死になって探す価値があるもんか。
バカの報いよ。
そのままこじらせて死ねばいいのに。
死ねばいいのに。
そうすれば、このイライラも治まるのかしら。

シヲンは、響が来てから湧き上がるようになった、このイライラが嫌いだった。
このイライラは、これまで彼女が経験した事のない不快感だった。
妙に粘度があり、ズグズグになった傷口のように、彼女を苦しめた。

しかも、ただの怒りの感情のように、発散させれば治まるものでもなかった。
いくら、このイライラの発生源の響を痛めつけ、一時的にスッキリしても、
何かあれば、すぐに彼女の心を侵食してくるのだ。
響をたたく以外に、もっと根源的な解決法があるような気がするのだが、
それが何なのかは解らなかった。

とにかく、シヲンはそのイライラを発生させる響のことが、嫌いだった。

―――嫌いなのに、
「お、お嬢様!
  まだ御髪、梳き終えてません!」
「もういい、後にして」
頭の左だけにリボンをつけ、もう半分はまだ何もされてない中途半端の
状態のまま、シヲンは部屋から出て行った。
向かうのは、響の部屋。

イソウロウの癖して、屋敷の皆に心配かけるなんて、ホント、迷惑なヤツ。
ここじゃ皆、あいつがお客さんだからって遠慮してるからダメなんだ。
ここで、少しオシオキが必要ね。
風邪ひいてようが無かろうが関係あるもんか。
いたぶって、叩いて、引っ掻いて。
そう考えると、口端が少し吊り上るのがわかった。

 

「ヒビキっ!!!」
どうやって響を痛めつけようか、と考えながら勢い良く響の部屋のドアをあけ、
部屋の中を見やる。
幸い、清華の姿は見当たらなかった。

響のベッドに近づき、手を振りかざす。
何処を叩いてやろうかしら?
顔?
おなか?
手?足?

決めた。顔。決定。
勢い良く手を振り下ろす。

つもりだった。
しかしシヲンの腕は途中で止まっていた。
何故止めてしまったのか、自分でも解らなかった。

「…反応しないんじゃ詰まんないわね」
シヲンは響のベットに腰掛け、寝ている響の顔を覗き込んだ。
汗で髪が瞼に張り付き、鬱陶しそうだ。
何で私が、と毒づきながら、髪を払ってやった。
そのまま、シヲンは何となく髪を撫で続けた。

飽きることなく、響の顔を見つめ続けた。

9

「お嬢様、お嬢様。
  病人の近くでお昼寝してたら風邪移されちゃいますよ?」
清華は響のベットで横になっている少女に声をかけた。
その少女は、起こすのを躊躇うほど穏やかな寝顔をしていた。

最近、清華はこの少女―――シヲンの不機嫌な顔しか見ていなかったが、
こうやって体を丸めて無垢な表情で寝ているシヲンを見ると、
彼女の可憐さに思わず見とれてしまった。

決め細やかな肌。
桜色のくちびる。
長いまつげ。
すらりときれいな形の手足。
そして、闇夜に浮かぶ、月の光を閉じ込めた様な黒髪。
ああ、きっとこの子は美人になる。

このまま寝かせてあげたいな、
そう思ったが、やはり風邪を移されるとまずいだろうし、
何より、シヲンは響を抱きかかえるように寝ている。
響の胸の辺りに頭を乗せ、片足は響のおなかの上に乗っている。
響を見れば、明らかに表情がうなされている。

「ほら、お嬢様、起きてください。
  起きてーくーだーさーいーよー」
シヲンの体を揺すりながら声をかける。

体を揺すられ、シヲンは眼を覚ました。
どうやら、響の顔を見ているうちに眠ってしまったらしい。
「う…ん…」
むくり、と体を起こす。

「あ、起きられました?
  ダメですよー、病人の側でお昼寝なんて。
  風邪移されちゃ、つまんないですよ?」
シヲンを起こすと、清華はベッドから離れ、机の上に置いてあったオレンジをむき始める。

オレンジを剥きながら、シヲンのほうを見ると、
「ふふ、お嬢様、ヒビ君と仲よろしいんですね」
と嬉しそうに言った。

私が?この子と?冗談じゃないわ。
私はこの子のこと、大嫌いよ。

声を出さずに毒づき、ベッドから降りる。
すると、妙に右手が重い。
何かしら、と思い右手を見れば、響の手を握っていた。
全くの無意識だった。
恐らく、寝てる間からずっと握っていたのだろう。

 

何だか顔が赤くなるのを感じ、慌てて清華を見れば、
彼女はオレンジに目を落とし気付かなかった。
響を見ると、こちらは相変わらず眠り続けている。

繋いでいる手を掛け布団に隠し、シヲンはベッドにもう一度腰掛けた。
繋いだ手が清華にばれないか、もう一度確認。
…これなら解らないわよね。

なぜ、響と手を繋いでいるところを見られたくないのか、
いや、そもそも何故響と手を繋ぎ続けていたいのかは解らなかった。
ただ、そうしたかった。
響の事、嫌いだと思っているのに。

握った響の手をモゾモゾと触りながら清華を見ていると、
彼女はオレンジの皮を剥き終えるとジューサーにかけ、ジュースにした。
オレンジを何個か使ってようやくコップ一杯分が出来上がった。
それを小型冷蔵庫に入れる。
こうしておけば、響が起きたとき、すぐにオレンジジュースを飲ませてあげる事が出来る。

「さ、そろそろお嬢様はお部屋にお戻りくださいな。
  これ以上ココに居て風邪引かれたら、私が怒られちゃいますよ」
「…勝手に怒られとけば?」
そっけない態度でシヲンは返事を返す。

「もう、そんなこと言ってほんとに風邪引かれたらどうするんですか。
  ヒビ君がやっと直った頃に今度はお嬢様が寝込んでたら、一緒に遊べませんよ?」
…一緒に遊ぶ?
その言葉を聞き、シヲンはフフッと笑った。
この鬱陶しいヒビキのメイドは何も知らないのか。
何も聞かされていないのか。
偉いじゃない、ヒビキ。誰にも言ってないようね。
私があなたにやってる仕打ち。
あなたの体につけた傷。
あれは私たちの秘密ね?
そうね、早く風邪治しなさい。
そしたら私、またあなたあそんであげるから。
だから…早く、良く、なりなさい。

最後に響の頬から首筋にかけてゆっくりと撫でると、シヲンはベットから
立ち上がり、
「清華、ヒビキの事頼むわね」
それだけ言うと、振り向きもせず部屋から出て行った。

「ふう、お嬢様にも困ったものねえ」
シヲンが居座ったおかげでヨレヨレになったベットをシーツを清華が直していると
「あら、これ、お嬢様の落し物かしら?」
赤いリボンが落ちていた。
どうしようか、届けようかな、と思ったが、
まあ外に行ったときのついでに渡しとけばいいか、
と思い、リボンをテーブルの上に置いた。

そのリボンの赤は、まるで血のように鮮やかな赤色だった。

10

「あら?お嬢様、リボン、どうなされましたか?」
今朝、髪をセットしたメイドにそう言われたシヲンが頭に手をやると、
確かに片方にだけついていたリボンが無かった。

どこかで落としたのかしら?
どこかしら?
……考えるまでも無いか、ヒビキの部屋だ。
お昼寝した時に外れてしまったんだろう。

時計を見る。
ヒビキの部屋を出てから数時間たっていた。
…今ならヒビキ、眼を覚ましているかしら?
リボンを取りに行くついでにヒビキの様子も見に行こうかしら。
あくまで、ついで、よ。
勘違いしないように。

「あっ、お嬢様どちらに?」
メイドの問いかけを無視し、シヲンは部屋を出る。
ぱたぱたと少し駆け足で響の部屋に向かう。
顔に抑えきれない笑みが浮かんでいる。

「さ、ヒビちゃん、お薬の時間ですよー」
清華が響を抱き起こす。
相変わらず響は意識がはっきりしてない。
「ほら、お薬。しんどいのは解るけど、
  頑張って飲むの!
  のみなさい!」
語気を強めに言っても、それでも響はちゃんとした
返事をよこさなかった。
口元に子供用ドリスタンのはいったカップを持っていっても、
響は飲もうとしない。

はあ、と清華の溜息。

「ごめんね、ヒビちゃん。
  こーゆーのは、カウントに入れなくてもいいと思うの。
  まあ、女の子のそれとは重みが違うから、いいよね?」
清華は子供用ドリスタンを口にふくみ、響の唇に自分の唇を重ねた。
そして、ゆっくりと口移しで薬を響に飲ませた。

響の部屋に向かう途中、シヲンは調理場によってコックにメロンを切らせた。
メロンは響の好きな食べ物だった。
もし響が起きているなら、恵んであげてもいいだろう。
清華が持っていたのはオレンジだったが、こっちのが絶対にヒビキは感謝するだろう。
そう思うと、清華に対し勝ち誇るような気分が沸いてきた。
器に盛られたメロンをこぼさない様に気をつけながら、シヲンは響の部屋へと向かう。
我知らず、早歩きになっていた。

清華が口移しで薬を含ませると、響は少しづつ薬を飲み込んでいく。
ホッとしつつ、二口、三口と飲ませ続け、ようやく最後、というところで、
部屋のドアがノックもなしに開けられた。
「ヒビキ!感謝しなさい!
  特別にメロン持って来てあげ――――」

シヲンが言葉をつまらす。
ドアを開け、目に映った光景に言葉を失う。

清華が、ヒビキに、キスしていた。

……え?
………え?何?
…え?
何、何してるの?
え?
…何よ、これ…

シヲンが呆然としていると、清華がヒビキに口付けしたまま、シヲンをみた。
清華と目が合うと、シヲンは
「ひうっ」
と変な声を上げた。
そのまま固まる。
眼は見開く。
清華が、響の唇から自分の唇を離し、響の唇に付けてしまった口紅を拭い、
その後やっと、
「お嬢様?」
と声をかけても、シヲンは動けなかった。
清華がシヲンを見ると、顔色が見る見るうちに青くなっていった。

再度、「お嬢様?」と話しかけると、シヲンはブルブルと震えだし、
持っていたメロンの乗った器を床に叩きつけた。
ガシャン!
と大きな音を立て、食器は割れた。

そしてゆっくりとシヲンは顔を清華に向ける。
その形相に清華はヒッと怯えた声を上げた。
シヲンの顔に、ハッキリと、自分に対する怒りが見て取れた。
あの愛らしい顔が、怒るとここまで恐ろしいものになると、清華は始めて知った。
そして、このわずか九歳の少女を、心底怖い、と思った。

To be continued....

 

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