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The Princess and Marionette(仮)



前編

第一大陸の北西部に位置する小国ブランホールは、背後に霊峰トロワゾォを抱えるほかに
大した観光名所や産出資源もなく、時折訪れる熱心な山岳家を除けば大した入国者もない
寂れた所である。
ここ数百年、大した戦火にも見舞われず、文化や国力も大して変動がないブランホールは
万物に精霊が宿るというアミニズム的な地域信仰の根強い、どちらかといえば極東に浮かぶ
島国に似た国風を有している。
国民の半分は老年層に偏り農耕従事者や土着の技術者に労働人口が多い所為か、情には篤いものの、
どこか封建的で閉鎖的な雰囲気が漂う、田舎を思わせる町並みが霊峰の麓まで繋がっている。
平穏であることに越したことはないが、ここ数代王家は賢君に恵まれていない。
橋を架けようとすれば半ばで崩れ、新たな国家事業を興せば、王が病没する。
ここまで来ると呪いと疑わずにはいられない家系だが、現ブランホール王ゼテマも例外ではなかった。

彼が二十歳を迎える頃、吟遊詩人が歌う英雄譚に憧れて出奔したが、
城下で身包み剥がされた挙句町人の娘に助けられて一目ぼれ。
そのまま后にするという武勇伝を持った男である。
当然その後は妻の尻に敷かれ、その冴えなさはより鋭を失ったと噂されるほどであった。
だがそんなブランホール国王ゼテマにも、愛娘がいる。
今年で齢十六を迎える王女―――クローディア。
早くに病没してしまった亡后ジュリアに瓜二つの、この地方特有の蜂蜜に薔薇が差したような
豊かなブロンドの美しい王女である。
だが美しき薔薇には当然、棘がある。
見事に亡后ジュリアの遺伝子を引き継いだ見事なまで美しく鋭い、棘が―――

「ねぇお父様、説明してくださらない?このお触れ、いったいどういう理由で出したのかしら?
  一晩かかってもいいわ、一文字一文字“こども”のわたしにもわかるくらい、丁寧に説明して?」

「あぁ、それは、その…」

熟練の造詣師が全霊を賭して作り上げたような秀麗な面に、絹をそのまま貼り付けたような白磁の肌。
深く、沈みこむような光を含んだ大きなエメラルドに、綺麗な桜色をした小さな唇。
見事な艶と張りで綺麗にカールした長い睫毛は、薔薇の蜂蜜と同色―――若々しさと瑞々しさに溢れ、
今にも零れ落ちそうな可憐さを発している。
少し切れ上がった目じりも現実離れした彼女の可憐さに拍車を駆け、
精神的マゾヒストな人間にはたまらない魅力を有していた。

だが、遠目に見上げる谷間の百合が如く涼しげで、侵しがたい美貌を持った彼女の額には、
赤龍もかくやという太い血管が浮かんでいる。
風が吹けば舞ってしまいそうなほど透明で薄い、クローディアの肌を青白い血管が生々しく押し上げ、
零れ落ちそうなエメラルドはナイフのように炯炯と不穏な光を放つ。
綺麗な三日月を描く唇から覗く小さな八重歯は―――
今にもゼテマに喰らいつきそうなほど剣呑であった。

「いいから、せ・つ・め・い、して!!」

怒気も露。

鼻面に寄った皺をそのまま父王に押し付けるようにしてにじり寄ったクローディアは、
腰に両拳を当てて、ご立腹だ。
怒り狂う王女を諌めることも出来ずにひたすらオロオロする大臣達は、
クローディアの背後に亡き后の影を見る。
その映像に激しくデジャヴを感じたのだろうか、ゼテマも最近老いの翳りが見え始めた額に
大量の脂汗を浮かせた。

「お、お前が何度もお見合いを台無しにするから、しかたな―――ひっ」

カモシカを思わせる華奢でしなやかなクローディアの脚が、壁を蹴り砕く。
一瞬地震でも起きたかのように、城全体が激しく左右にぶれた。

「そ、そうだ!!元はといえば、クローディア、お前がいけないんじゃぞ!!
  十六を迎えるのに想い人の一人も作らず、毎晩武術の訓練に明け暮れているなんて!!」

一閃。

 

―――中天に煌く白刃は、流星だった。

見事な手刀がゼテマの背後を切り裂く。

「……?」

がらん…どすん、がつんっっ!!!…と、遅れて展示品の鎧が砕け散る。

「……」

青白いゼテマの表情から、更に血の気が引いていく。
死人と見紛うほど顔面を蒼白にして、彼はようやく観念したのだろう。
ずるずると玉座から尻餅をつき、クローディアに跪くように話し始めた。

『御前における武道大会の優勝者を、今年齢十六を迎える王女の婿とする』

という、なんとも間抜けた勅令の弁解を。

ちなみに賢明なる国民の諸兄はそのお触れを見た瞬間、即座に箪笥から喪服を引っ張り出したらしい。

“ゼテマ王の国葬は何時だ”、と各々に呟いて。







小国ブランホールの目抜き通りは、百年に一度あるかないかの盛り上がりを見せていた。
決して広いとはいえない歩道には、商人ギルドの名だたる面々が露天を開き、
少し奥に入った―――普段老婦が洗濯に使う古井戸の周りは、即席の賭博場に変わっている。

一言にするならば、“オトコクサイ”

それもそのはず。
ゼテマが国内に発したお触れは、気まぐれな風の精にでも運ばれたのだろう。
現在エレハイムと有事真っ最中の第二大陸―――
神聖帝国ジェラールにまで響き渡ってしまったからだ。
津々浦々の若い男は、“百合のように可憐で咲き誇る薔薇のように美しい王女”
の婿になろうと一念発起し、わざわざ霊峰を越えてここまでやってきたのだ。
片手に斧を携えたもの、腰に長物を挿したもの、背中に巨大な鎚を括りつけたもの…
誰も一様にその実力を信じ、王女を娶って一国の王を夢見ている。

あふれ出る野心は霊峰や山脈一つに搾り取れるものではない。
滾り、延焼した欲望は、飛び散った残りカスまで燃やし尽くそうとそこら中で燻っている。
どこか退廃的な空気を発していた国風は一瞬して塗り替えられ、
今や若きリビドーの立ち込める異空間と化していた。

そんな野郎臭立ち込める通りの脇を、羽根つきの帽子を目深に被った少女が歩いている。
ブランホール地方伝統の木靴のヒールをカツカツと乱暴に鳴らし、岩の精を逆撫でるような大股で。
一目に、彼女は怒っている。と正常な人間なら理解できる。
だが、それでも空気を読めない悲しい人間は存在するのだろう。

「お姉さん、今時間だいじょう―――ぶっ!!!」

このように軟派目的で声をかければ、即座に脛を砕かれる。

 

 

無意識に男の骨を砕いたことなど歯牙にもかけず、少女は額に手を当てる。

(あぁ…最後の望みを探して城下に来てみれば、暑苦しい男ばかり…)

少女―――他ならぬブランホール第一王女クローディアは怒りながらも内心憂鬱という、
なんとも器用な精神状態であった。

(せめて詩人が唄う様な、白馬の王子様は現れないかしら…)

呟いて、停止。暫し深い溜息を吐く。
なんとも聴く者を脱力させる、気の抜けた溜息だ。
この賑わいに便乗して大繁盛の屋台のオヤジも、商品を取り落とすほど。
まるで林檎の傍に置いた薔薇の花が高速再生で萎れていくように、少女の歩みは緩慢になる。

(はぁ、お父様は外国から来た客員の剣士にお願いしたみたいだけど…どこまで勝てるかしら、
  あの人…)

彼女の脳内に思い起こされるのは散々ぶちキレまくって城内を粗方破壊した後、
父王が連れてきた城の別塔に滞在させていた女剣士と武道家の姿だった。

(武道家のほうはダメね…まるで気迫が感じられない。そもそもなんでお父様は
  あんな男を囲ったのかしら。雰囲気からしてだめなのに…)

頭の中の男に、再び苛つく。
武道家は許してもいないのにクローディアの手を取って、あろうことかキスをした。
反射的に顔面を叩き割ってやろうとしたが、隣の剣士が発する闘気に弾かれたのだ。
正直身構えるのを押さえるのに必死だったクローディアは、思わず剣士をガン睨みしてしまった。
しかし、“龍をも退ける”と国中で有名な彼女の殺気にも眉一つ動かさない女剣士は、
悠長にも自己紹介までして見せた。

『わたくしは、シャルロット=イェクト=ラナ。帝国の聖騎士です。
  現在は密命でとある男を捜している最中でございます。
  街道で暴漢に襲われていた大臣殿をお助けしたところ、このようにご厚遇をいただいている所存』

目と目を合わせ、可視の火花が散りそうなほど緊迫した空気。
その中でも堂々と腰を折って礼をし、それで視線を外すことなくクローディアを見上げる。
丁寧に結い上げられた蒼銀の御髪に、神が作り上げたような完璧の造詣を誇る面立ち。
宝玉を切り出してそのままはめ込んだようなアイスブルーの瞳は、
涼やかなのに冷たさを感じさせない。
反身の刃のように研ぎ澄まされた存在感の中にも言い様のないほどの静謐さが隠れている。
そのまま固唾を飲み込むのを忘れて、クローディアは女剣士と視線を合わせ続けていた。

『厚遇のお礼として、わたくしが武道大会に出場して優勝を納めて見せましょう。
  先に城下の様子を見に行きましたが、所詮欲に目が眩んだ下衆ばかり。
  大した使い手は数えるほどもおりませんでした』

鈴が鳴るように流麗で、仄かに揺らめきたつ湖面のような声色。
クローディアの甲にキスを落としたまま、武道家は聞き惚れていた。
やはり、あの時顔面を窪ませてやればよかった…とクローディアはこめかみを揉み解しながら思う。

 

『仮にも、聖騎士団で隊一つを率いていた身。そう容易く敗退することはないと思われますが』

跪いた姿勢からも解る。
オリーヴ色の行軍外套の下に隠れたしなやかな肉体が。
しかしそれでいて女性的な丸みは一切失われていない。
プレートの奥に押し込められた肉感と、綺麗なラインを描く脚線をより長く見せる引き締まった臀部は
どれほどなのだろうか。
思わず、年にしては平坦な自分の体と較べて、クローディアは二重の憂鬱に浸った。

(はぁ…あれだけの存在感があっても、世界最強の帝国聖騎士様が、この気迫に呑まれないかしら…)

再度場面を移して、ブランホール城下の目抜きを見渡す。

スキンヘッドの大男。
酒場のウェイトレスに絡む下卑た目つきの男。
見るからに武人だとわかる、屈強な男…

(あ、やば…眩暈してきた…)

そもそも考えるよりは、拳を振るうほうが得意な彼女だ。
長考の果てに軽い立ちくらみを覚え、脚が縺れるまま小さなバーに入り込んでしまった。

途端、ぐしゃり―――と見ず知らずの男の顔面に肘を呉れてしまう。
逆境に不運なのは親譲りか、クローディアの一撃をモロに受けた男は、
酒がなみなみ注がれたロックグラスを握り砕きながら立ち上がる。
取り巻きを含めると、六人。

クローディアの唇が不適に吊り上る。

「おう、姉ちゃん、俺様に肘呉れといて詫び一つなしかぁ?」
「五月蝿い、ゴミクズ。そんなところにお前の頭があるのが悪い。その前に、しゃべるな息吸うな。
  ブランホールの空気が淀む」

どう見ても、悪いのは彼女のほうだ。
しかし、長い王宮生活と一人娘として甘露の海に沈みこむような教育をされた彼女に、
侘びという選択肢はない。
恨むなら、そんな風に彼女を仕立てた父王と、武術の基礎を叩き込んだ流浪の格闘家を恨むしかない。
まぁどちらも、そう易々掴まる者ではないが。

「嬢ちゃん、元気なのはかまわないんだけどよ…世の中にゃあ、手を出しちゃいけねぇヤツってのが
  いるんだよ。それは―――――――――ぶっ」

一人目…

綺麗な弧を描いた回し蹴りは、男を酒場の反対側まで吹き飛ばしただけでは飽き足らず、
お世辞にも頑丈とはいえない壁を打ち砕き、柱をへし折ってようやく停止する。

俄かに降りた沈黙。

吹き飛んだ男は首を奇妙な方向に曲げたまま俯き、完全に白目を剥いている。
死んではいないだろうが、重症なのは間違いない。早く看護を。

 

(二人目…)

心の中で数えるのと同時に、彼女は呼吸を整える。
幼少時に師匠から受け継いだ呼吸法にオリジナルを加えた格闘術だ。
あまりにも恵まれた才能がそれを殺人拳にまで昇華させてしまったが、
彼女はまだスポーツだと信じて疑わない。
そこは触れないで遣って欲しい。

(しっ―――)

息を抜くと共に、二人目の鳩尾に大砲がめり込む。
肝を完全に破壊し、背中から抜ける衝撃が三人がけの丸テーブルを紙のように破り割る。
散った木片が地に付くより早く、三人目が蹲った。
鷹のように跳躍したクローディアの踵が音もなく項に降り立ったからだ。
そいつは言葉を発することもなく崩れ落ち、床に赤黒い染みを広げる。
たぶん死んではいない。いや、そう信じたい。

(あと三人…)

蛇のような細い呼吸音とともに、彼女の構えが変わる。
腰をゆっくりと落としながら左手を脇腹まで引き、逆の手を開いたまま正面に突き出す。
彼女が生み出した最速必殺の構え。
名づけて、“鴉”。

四人目、懐に投げナイフ。

五人目、背中に棍棒。

六人目、袖に…鉄棒だろうか。不自然な金属の塊。

(余裕…)

小悪魔のような笑みを浮かべ、クローディアは再度目を配らせる。
城下には大した男はいなかったけど、これはこれでスリルを味わえた。
最早武術大会と婿取りのことなど微塵も思い浮かべずに、
彼女はひたすらにこの緊迫感を楽しんでいる。
荒らされた店の外には幾多の野次馬、気づけば黒い人だかり。
職務怠慢な官警は暫くやって来ないだろう。
なら…

と、薄く細く鞣した呼吸を集め、正拳突きを正面の男に見舞おうとして―――

横から現れた赤い風に、攫われる。

瞬間、床が轟音と共に爆ぜた。
落雷したようにすさまじい衝撃が全身を駆け抜け、
恐ろしい速度で横に流れていく視界の端に微塵に砕けた木片が映りこむ。

―――

―――

 

 

「は…?」

「危なかった」

がたん…と、床に投げ出されてみると腰が抜けていた。
そして恐る恐る辺りを見渡すと、自分が片付けるはずだった男たちが音もなく倒れている。
神速の業。
自分でも視認することが叶わなかった光景に、クローディアはひたすら呆気に取られている。

「こいつが持っていたのは、鉄棒じゃない。よく似ているが、帝国製の新型銃だ。
  まさかこんな田舎で見られるとは思わなかったが…」

見上げると、印象的な赤い外套を纏った男がいた。
赤い烈風の正体、そして自分が瞬きをしているうちに三人の暴漢を片付けた手腕。
クローディアは興味と半ば畏敬が混ざり合った視線を男に向ける。

「助けは要らなかったかな?まぁ、怪我をするよりはましだろ」

低く、よく通る声で男は続ける。
褐色の肌にそぐわない彫りの深い顔立ち、笑みの形に細められた鳶色の瞳。
そして何より印象的な、複雑な印の絡み合った真紅の刺青。
差し出す左手にも及んでいることから察するに、左側面を全て覆っているのだろう。
痛々しいまでに精巧なそれを見ていると、思わず吸い込まれそうな感覚に陥る。

「あ…」

まだ呆けたまま手を取ってクローディアは立ち上がり、再び転びそうになる。
それを支える男と、再び視線が交錯した。
一見粗野に見える面立ち。
しかし、伏せられて鳶色にかかる長い睫毛と、
顎から頬にかけてのラインは貴族にも珍しいほど整っている。
刺青の所為で表情がよく見えないが、悪い印象は一切感じられない。
クローディアは見開いたままのエメラルドを男に固定したまま、魅入られるようにしている。

「あ、りが、とう…」
「大丈夫とは思うが、ああいう連中には手を出さないほうがいい」

クローディアが礼を言い終わる前に、男は踵を返す。
翻る赤く染め上げられた鹿革のマント、腰に刺さった二本の剣。

――――――剣士。

 

「待って!!!」

予想以上の大声に、クローディアは思わず自分の口を手で塞ぐ。
男も足を止めて、ゆっくりと振り返る。
この角度からは刺青が邪魔をしてどんな顔をしているかわからないが、
きっと呆気に取られているのだろう。

「あなたは、剣士、よね…?」

何故か心拍数が上がる。
動いたせいだろうか?いや違う。そんな柔な鍛え方はしていない。
じゃあどうして…

「まぁ、一応」

男は一瞬腰の剣に視線を落とすと、どこか寂しそうな表情をしたように見える。

「あの、わたしの、話を、聞いて…」

集まった野次馬の中、遅れてやってくる官警が踏み込む音を背景に、クローディアは言った。









「なるほど」

苦めのお茶を啜って、その品のなさにクローディアは眉を顰める。
彼女の上品な舌に庶民の味は合わなかったのだろう。

「それで、あなたの名前は…?」
「リカル…いや、リコだ」

何か含むところがあったのか、男は言いよどみながらカップに残った茶を飲み干した。
彼の舌にも合わなかったのだろうか、苦虫を噛み潰したような表情でカップの底をにらみつけている。

「恰好から見ると、剣士みたいだけど…」
「あぁ、元・剣士だ。今は事情があって廃業中さ」

ところは変わって、ここは町外れにある小さな喫茶店。
先の騒動はこのリコと名乗る男が冷静に処理をした。
そのあたりの手際といい、只者ではない雰囲気を発している。
外套の上からも見て取れる屈強な体つき。しかし、それでいてしなやかな筋肉のつき方は、
並の鍛錬では得られない。
確実に高度な戦闘訓練を受けた証。
それに、一瞬だけ見た足の運び方。
尋常じゃない。経験と実力、全てが混ざり合った理想とも言える戦闘スタイルだった。
クローディアは言葉を見失って、ついリコの顔を見つめてしまう。

顔半分を覆う刺青。腰に挿した二本の剣、赤い革の外套…
全てが新鮮な情報としてクローディアの脳に飛び込み、彼女の思考を乱していく。

 

(この人なら、優勝できるかも…)

だが、この場所で身分を明かすのか?と自問する。
もしリコが姫であることを知った途端、豹変したらどうする?
下らない不安が浮かんでは消えて行き、彼女はまた憂鬱に浸った。

(でも、悪い人には見えないし…)

一瞬にして危険を見破った熟練の目、まるで盗賊“ローグ”のような出で立ちだが、
貴族を思わせるほど品のある面立ち。
この地方には珍しい黒髪が警戒心を掻き立てるが、クローディアはその気持ちが
どんどん解れていくのを胸の奥に感じていた。

「刺青がうす気味悪いか?」

自分の顔を見つめられていることに気づいたのか、リコは指先を左顔面に走らせる。
無骨な指がなぞるのは、このまま動き出して喰らいつきそうなほど精巧な蛇の牙。
複雑に絡み合う二対の蛇は、互いを貪るように混ざり合っている。

「いや、そんなことは……ない、けど…」
「気を使わなくてもいい。この赤い蛇は、罪。緑の蛇は、罰の象徴だ。
  だから気味悪がられても仕方がない」

リコはカップを煽って中身がないことに気づき、苦笑した。
クローディアは何も言えなくなった。

「遠い、第二大陸。そこで剣士をやっていた。まぁ、すぐさまクビになっちまったが」

自分の頸部を掻き切るような動作を見せ、リコは再度口の端を歪める。
差し込む午後の光に映し出される彼の横顔は、男らしさの中にも、
打ち消しがたい気品と美しさを備えている。
今まで何度も父王が設定したお見合いに従事したクローディアは、
貴族連中にもこんな顔つきが出来る者はいなかったと思い起こす。
そして、何よりも興味が沸いた。
帝国出身の刺青の剣士。
黄色人種と白色人種が混ざり合ったような顔立ち。
立ち振る舞いに覗える打ち消しようのない、高貴な印象…

静寂が降りて、遠くむさ苦しい男たちの野音が響く。
しかしそんな喧騒の中でも、クローディアはリコから視線を外すことが出来なかった。







まるで龍が通り過ぎた後のような惨状だった。
小国にしては豪奢な絨毯は破れ、地方特有の観葉植物は半ばで折れている。
ずらりと廊下の端に並んだ展示用の装飾鎧は無残にも破壊され、
繊細な刺繍の施された天井は痛々しい骨格を曝している。

なるほど大した戦闘能力だ。と、細身の長身をオリーヴ色のマントに包んだ女性が呟く。
一見すると男性に見まがうほど堂々とした空気を持ち、
まっすぐに伸びた背筋は一本の剣を思わせるほど。
先住民族にしか伝わらない魔法の糸を丹念に織り上げたような、蒼銀の髪が背中に流れていなければ、
性別を持たない天原の戦士と錯覚してしまう。

(ひょっとしたら、自分で武道大会に出場したほうが早いのではないか?)

第一大陸の北西部の小国、ブランホールの王女クローディアの顔を思い起こして長身の女性―――
シャルロットは呟いた。
あの疑いを孕んだ瞳。私の実力は認めてもらえたようだが、帝国出身という経歴もあってか
完全な信用には至らなかったようだ。
姫の手の甲に口付けしたもう一人の武道家は、自分を口説こうとした瞬間に殺気を当ててやった。
すぐさま飛びのいてそのまま姿を見せないが、果たしてあの後どうなったのだろう。

 

(彼を見つけ出すまで、私に立ち止まることは赦されないのだが…)

二年前、帝国を揺るがしたクーデター。
穏健派を次々と暗殺した聖アーマーニの枢機卿たちは、自らの教皇までもその手に掛け、
ジェラールの政権と教団そのものの実権を握った。
その際行われた宗教改革による、“悪魔狩り”と名づけられた異端審問。
思い出すだけでも気分が重くなり、足元が沈みこむような感覚に襲われる。

業火に包まれた町並み、絶え間なく夜空を染め上げる真っ赤な悲鳴…

(どうして彼が、騎士団を追われなくてはならなかったのだ…!)

今でも納得いかない罪状だった。
彼女が頭に思い描く男は、父を大陸北東部の少数民族に持ったことによって
騎士の資格と“悪魔”の烙印を押されて都を追放された。
そしてまもなく、自分は聖騎士として別命を受けることとなる。

『“悪魔狩り”によって追放された男、何を間違ったか聖騎士団に所属していたようだが、
  彼奴はとんでもない災厄だ。
  あの男は汚らわしい異教徒と、聖女ヒルダとの間に生まれた悪魔の子じゃ!!
  我々“箱舟の民”の皮を被っているが、見たか??あの褐色の肌!!
  間違いなく穢れを孕んだ証!!我らの粛清にも屈しなかった“風の民”の汚らわしき血液が
  脈々流れている証じゃ!!』

口角に泡を浮かべ、発火しそうな怒りを浮かべていた枢機卿。
間違いなく盲目の信仰に心を侵された者の瞳だった。
シャルロットはぶり返す吐き気をこらえきれず、思わず穴の開いた壁に肘を着く。

『シャルロット!!貴様は確かあの男と同じ孤児院の出身だったな…ならば、貴様に命じる。
  咎人の証を背負い、滅びの烙印が刻まれたあの男を見つけ出し、殺せ…!!
  さすれば貴様の罪は贖われるだろう。悪魔の子と、同じ糧を戴いた貴様の穢れもな…』

皺の拠った鷲鼻と、濁った瞳。
シャルロットは抗議することも出来ず、追い払われた。
突然神罰の代行者という任務を背負った自分を、呪うことも出来ずに。

 

(彼は、とても温かい人間だった…偏見の目にも負けず、ひたすらまっすぐな心を持っていた…)

同じ孤児として、物心つく頃から施設で共に過ごした彼。
幼馴染にして、手のかかる弟のような存在だった彼…

その彼が、悪魔の子であるなど、シャルロットは毛頭ほども考えたことはなかった。
下らない宗教論争の果て、エゴの元に切り捨てられた人々…
その犠牲者が、彼なのだ。
信じられなかった。まさか、自分が討手に選ばれるとは。
だが同時に、チャンスだとシャルロットは確信していた。

(私が討手ならば、彼の存在を見つけられるのは、この私以外にいない)

遠く第一大陸にまで逃げ延びたといわれる彼を、異国の大地で知っているのは私だけ。
彼の存在を認めて、優しく包んで上げられるのも私だけなのだ。

遠い日の思い出に心を馳せる。

幼いころから目立つ外見をしていた彼は、当然イジメの対象になった。
だがそんな彼を庇い、一つ年上であるが故、
姉のように振舞うことが出来たのはほかでもないこの私!!

彼が聖騎士団に入ったのも、剣術を習ったのも、全て才能を見込まれてスカウトされた私の影響。
そして討手として彼の命を握り、圧倒的な盲信がもたらした孤独から救って上げられるのも、
私しかいない…!!

汚濁のような視線を向けられながらも、枢機卿の命令に一言の異もなく従うことが出来たのは、
それが故だった。

たった一人の彼の、たった一人の討手となれば、ずっと二人だけでいられる。

 

(ならば、一刻も早く彼を見つけ出さねばならぬ…)

彼女の暗い愉悦。
それは二年を経て、どうしようもないほどに美しく―――歪んでいる。

(早く、見つけなくちゃ…謂われのない罪を、この爪でこすり落として、優しく抱きしめてあげる。
  あなたは少しも悪くない、悪いのは腐れた体制の帝国…
  あぁ、早く抱きしめたい…!!赤子のようにこの腕に抱きとめて、氷のように冷え切った魂を
  暖かく溶かしてやりたい…!!
  心を読んで、静かにそのまま一つになり、二年の放浪で刃みたいに尖ってしまった私の魂も、体も、
  混ざり合うように抱いて欲しい…!!!)

だから、こんな小国に長く留まることなどできない。
朝一番で城下に逃げた姫をさっさと見つけ出し、明後日に執り行われる武道大会で優勝しなくては…

気づけば、決して広いとは言えないバルコニーに来ていた。

漆黒の帳に真円の大穴を開け、白く微笑む。
不吉なほど美しい月を見て、彼女は女神のような慈愛を浮かべた。

片翼では上手に羽ばたけない。

遠い異国に堕ちた、愛しく孤独な対がなければ―――

2

気づけば、クローディアは涙していた。
寝宿にまで押しかけて問い詰めたリコの素性、経歴。
そのあまりもの不遇さと、それを少しも悲観していない彼の強さに胸が軋む。
その光景は、彼女の心に焼き付いて離れない。

謂われのない罪の証、殺されるために流れ続ける宿命―――

日が完全に落ちきっても、彼女の涙が止まることは無かった。
粗末なベッドに綿が抜けて薄っぺらい毛布。
それだけでも、リコの視線に射抜かれているとどこか温かい。

彼女がこれまで感じたことがない、不思議な感情が洪水となってあふれ出る。

正面で困った顔をするリコを見つめても、涙はとめどなく零れ落ちる。

「クレア、そろそろ帰らなくて平気か?」

クレアとは、彼女が素性を隠すために名乗った偽名だった。
まさかリコが、こんなにも簡単に自分の素性を話すとは思ってもいなかったから、
つい軽口でそう名乗ってしまった。
今はそのことに、後悔しかない。
して同時に、激しい羞恥心を覚える。
自分の小ささ。強いと感じていたのは表面だけ、中身はとても脆いことに。

「人間なんて、みんなそんなものだ。どんなに頑丈な鎧を纏って、体を鍛え上げたって、
  芯はいつまでたっても柔らかい。
  みんな心にでっかい穴を開けてる。そしてその穴を埋めようとして、もがくんだ」

がしがしと彼女の髪を撫で、リコが立ち上がる。
彼はお茶の代わりを淹れただけだったが、クローディアはリコがどこかにいってしまう気がして、
反射的に服の裾を引っ張ってしまった。

「………」

鳶色と正面から交わる。

僅かなランプの光に浮かび上がった、溶け落ちるように沈んだ刺青の暖色。
横顔は思ったとおり、とても優しい。

「リコは、悔しくないの…?自分の生い立ちだけで差別されて、謂われの無い罪を着せられて…」
「悔しいさ。とても悔しい。だがおれが悔しいと思う以上に、情けない。
  おれという存在の為だけに討手をとらせてしまったんだから。
  だからおれは、この命に悔いが残らないように世界中を廻って、真っ赤な外套と刺青に
  相応しい死に方をする。この赤い外套は血の赤、炎の赤、怨嗟の赤、地獄の赤…
  片方の剣は、闇を祓うため。もう一つは、決闘のために用意された剣だ。おれは戦って、死ぬ。
  いや、おれは死ななくてならない。
  おれを殺さなくてはならない悲しい運命を背負った人のためにも」

鳶色を見開いて、リコは刺青に覆われた顔面を鷲掴みにする。
爪が褐色の肌を割って、鮮血を頬に伝えた。

 

まるで泣いているかのように、ゆっくりと伝う真っ赤な血。

ふと立ち消えそうなほど儚い存在感に、クローディアはリコを抱きしめる。
今日初めて出会った男。
それなのにずっと傍にいたような…昔日の思いと優しい鼓動に、彼女は深い安息を覚えた。
顔面に食い込んだ指をゆっくりと剥がし、胸に掻き擁く。
冷たく、凍りつくような指先。
孤独に震えて、折れてしまいそうな指先。

この人は、とても強い。
でもそれは、外側だけ。
中身は酷く脆い。
皮肉にもリコ自身が言っていたように、穏やかな人柄にそぐわない運命を背負ってしまったのだ。

自分には関係の無い罪を着て、何の怨みも持たない人によって殺される。
それも、この世で一番惨たらしい死に方を選んで。
それが唯一の贖罪の方法だと信じて、彼はどこまでも流れて行く。

「リコ…」

不思議なことに、リコはクローディアの腕を払いのけることが出来なかった。
自分を包む掌が、あまりにも温かすぎただろうか。
見ず知らずの少女に、子供のように甘えてしまっている。
信じられないように鳶色の瞳を大きく震わすと、そのまま彼は長い睫毛を伏せた。

もう少しだけ、このままでいよう。
これまで一箇所に留まることを知らなかった彼は、
まるで母に抱かれるような安堵感をクローディアに覚えていた。
しかし温かい心の裏側には、鋭い不安がある。

―――去らなくてはならない。

こんな優しい少女を、いつか自分は傷つけることになってしまうから。

―――去らなくてはならない。

かつて自分を弟のように可愛がってくれた、彼女の元から去ったときのように―――
この鮮血色をした背中と体中に絡みついた蛇が、この幼い少女を傷つけてしまう前に。

だから、神様もうすこしだけ…

リコは自分を拒絶した神(モノ)に、縋るような嗚咽を漏らした。

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

姫が帰らない。

この世の終わりが来たような顔をして、ゼテマはとうとう泡を吹いた。
それは今朝の未明。
姫が見知らぬ男と共に安宿へ消えたという情報を町人から得たときだった。

ここまで来ると、シャルロットはゼテマに哀れみさえ覚えた。

まったく、どうしようもない姫様だ。
表情に現すことはしないが、内心溜息を吐いて彼女は瞳を閉じる。

どうやら本格的に自分が捜索に出なくてはならないようだった。
侍女が寝室を調べてみたところ、先日の武道家は姿を消していた。
おそらく自分が当てた殺気にとうとう耐え切れなくなったらしい。

ますます情けない。
シャルロットは半ば諦めたように二本の剣へ視線を落とす。

彼女が何よりも愛する罪人に一瞬思いを馳せると、静かにシャルロットは言い放った。

「明日に武道大会が迫っている状況で、商品の姫が不在とあらば町中に集った連中が
  どんな暴動を起こすか解りません。
  私が本格的に城下を洗いましょう。これでもとある自分を追って第一大陸までやってきた身。
  探し人には慣れているつもりですので」

「こ、これは頼もしい」

なぜ早く言い出さなかったのだ、と大臣は暗に示唆するような眼をする。
しかしそんな空気など微塵も察すことなく、彼女は踵を返した。

「今日中に私が戻らなければ、割腹してもいい。元より急がなくてはならない身。
  そう長くは留まれない。
  そもそも軽い覚悟で追っているわけではないのだからな」

力が、漲った。
昨夜久しぶりに決意を確認したためだろうか?
切れ上がった彼女の印象は、より角度を増しているように見える。

一本の剣。
それが、二対に増えたようなオーラを振りまいて城を後にした。






 

ブランホール城下は愈々押さえの利かない熱気をあちこちで持て余しているものたちの喧騒で、
蜃気楼のように揺らめいていた。
可視に値するほど燃え上がる闘気に、混ざり合う人々の思念。

どこか宗教的な気概を感じさせるほどに濃い空気が、
シャルロットの半鐘を先ほどから鳴らし続けている。

(ほう、やはり先日とは違う。また異質な空気に変わっている)

前に彼女が散策したときは、どこかお祭り騒ぎ的な雰囲気が残っていたものの、
さすがに明日に武道大会の期日が迫るとそうはいかないらしい。

シャルロットは具足の踵を石畳に鳴らしながら、報告があった安宿街へ足を向ける。
白銀のプレートと行軍外套に身を包んだ彼女は、物騒な人種で溢れるこの区画でも
不思議なほど浮き立っていた。

(王女だが、まさかほかに思い人がいたとはな)

そう思うと、自然に笑みがこぼれる。
成る程、道理で怒り狂うわけだ。
思い人がいて、勝手に婚約者を決められては適わない。
私とて、同じ行動にでるだろう。

妙なシンパシーを覚え、地図に書かれた宿にやってくると、シャルロットは静かに抜剣する。
闇を払う、白の剣。

(相手の男だが…死んでもらうしかないかな。
  王の下へ連れて行っても、おそらく事を荒立てる原因になるだけだろう)

クローディアと宿に消えた男は、赤い服を着た長身だったらしい。
酒場で大立ち回りを演じた王女らしき人物を鮮やかに助けた手腕といい、並の使い手ではないが、
おそらく彼女は自分の敵ではないと判断したようだ。

静かにフロントの人物に事情を話し、音も立てずに部屋へ向かう。

隙を突くような真似になるが、踏み込んで三秒、いや二秒か?
痛みも無く頸を撥ねてやろう。それが相手の男に用意したせめてもの慈悲。

シャルロットは扉の奥の相手に気取られぬよう、慎重に殺気を研ぎ澄ます。
右手で剣の型を作り、左を慎重にドアのノブへ…

(出来る。いや、この程度のこと。出来なくてどうする。
  出来なくては、彼を優しく救い上げてやることなど…!!!)

開け放ち、視界に入った男に斬りかかろうとして―――

 

剣を取り落とした。

 

 

―――
―――
―――

不意に訪れた殺気。
糸のように細く、空気のように薄く研ぎ澄ませてあるが、この男のセンサーは見逃さない。
彼を優しく抱きしめたまま眠りに落ちたクローディアを引き剥がすと、修羅の表情をする。

もとよりこの姿が本来であるように面から感情が消え、禍々しいほどの存在感を放つ刺青が、
朝日に浮かび上がる。

落ち着いた動作で腰から抜剣する。
二本目、黒の剣。

とうとうこのときがやってきた。

覚悟と半ば諦めたような瞳をして、リコは構えを取る。

長すぎた。

彼にとっては長すぎた安息だった。
偶然であった少女はあまりにも温かく、柔らかい。
自分を抱く腕、触れる唇、絡みつく足腰。

全てが自分には相応しくない温かさ。

(これが、自分への最後の罰か)

自答して、最期の後悔をする。

これ以上ないほどの罰。

初めて自分に安らぎをくれた少女に、深い心の傷を与えてしまうこと。

ままごとでもいい、一度でも自分を愛しいといってくれた少女に深い傷跡を残してしまう。

――――――観念する。

 

 

相応しい幕切れではないか。
罪と罰の証を負った、穢らわしい悪魔の子には。

相応しい“罪”が与えられたではないか―――
最期に甘すぎる禁断の果実を貪った自分に。

相応しい“罰”が与えられたではないか―――
最期に、こんなにも優しい少女を、破壊してしまうなんて…!!!

諦念に歪んだ作り笑い。
その切れ端を頬に残したまま、彼はもう一度少女を振り返る。

「――――――」

無邪気な寝顔だ。
せめて、自分の腕の中などではなく、もっとよい男の胸で浮かべさせてやりたかった。

さてその罰、受け入れよう。

天を仰いで構えを解いたリコは、ゆっくりと入り口へ歩み寄る。

細い殺気を放つ人物が、せめて一撃で逝かせてくれることを願いながら、

最期に繋がったときの少女の面を思い浮かべ―――

 

瞳を閉じた。

* * * * * * * *

幕切れは訪れなかった。

正確にはリコが瞳を閉じて数秒。

暗く沈んでいくはずの世界は、未だ原型をとどめたままだった。

からぁぁぁ―――ん、と。

その代わり、床に剣を取りこぼす音がする。

乾いた音を立て、死を告げる凶刃とは正反対の弱弱しい声が耳朶を侵す。

 

 

「リカ、ルド…、いや、リ…コ…、リコぉぉぉぉぉ!!!!!!」

悲哀を切り刻んだような声。

その声色の儚さに驚いてクローディアが目を醒ますと、リコが一人の女に抱きすくめられていた。

咄嗟のことに思考が上手く働かない。
寝ぼけとあまりにも唐突過ぎる風景に、彼女は周囲を見渡して言い知れない感情を覚えた。

胸の奥、分厚く仕切られた心の壁が真っ黒に焦げ付いて、
じっとりとした悪臭を放ちながら溶け堕ちるような感覚。
指先から血の気が失せ、変わりに腹の底が煮えくり返るような不快感を覚える。
強烈に喉が水分を欲し、掠れた呼吸が薄く開いた唇から漏れる。

「あ――――――」

意図せず発した一言。それがきっかけとなり、感情が暴走した。

なんだこの女よく見たらお父様が連れてきた女剣士ではないか気持ち悪いから
あんたの顔で泣き顔なんでつくらないでようそくさいよ
どうしてリコはそんなおんなに抱きつかれて呆けているのはやく払いのけてよ
ていうかその女リコを追ってきた討手じゃないのどうしてそんな女に抱きすくめられてるの
おかしいよちゃんと説明してよリコを抱きしめていいのはわたしだけなんだよ
それに昨日はわたしの初めてをあんなに情熱的に奪ってくれたじゃないこんなのおかしいよ
リコの罪をわかってあげて優しく罰を払いのけてあげられるのはこのわたしだけなのに
あれぇおかしいなぁ夢でも見てるのかな胸が燃え上がるみたいに熱いこんな感情わたしはしらない
感じたこともないありえないよ信じられないよどう考えてもおかしいよ
リコ、リコ、リコッ――――――!!

気づけば二人の間に割って入り、力任せに振りほどいた。
女がリコに抱きついた力は予想以上に強く、苦労した。
リコはといえば、未だに呆気に取られたまま、口を半開きにしている。

扉から現れた相手が、あまりにも予想外の存在だったためだろうか。

「シャル…シャル、姉さん…どうして、あなたが…」

尻餅をついて、力なくシャルロットを見上げるリコ。
反対にシャルロットは涙をぬぐおうともせず、リコを慈愛の表情で射抜いている。

そのまなざしの色。

リコの全てを知っているみたいに優しくて、どうしようもなくクローディアは苛ついた。

「リコっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

耳を劈いて切り裂かんばかりの怒声。

慈愛の表情を消して、クローディアに向き直るシャルロットの表情は般若のように歪んでいる。

 

「どうして、貴様が、彼を、リコなどと呼ぶ…?それは、私だけが、ゆるされた、呼び名、なのに…」

立ち消えたはずの殺気が、膨れ上がる。
その密度といったら、ない。
龍三匹を正面だって相手するような、絶望とも言える量。

しかしそれにも怖じず、クローディアはシャルロットに視線をぶつけ返す。

「彼の罪は全部わたしが払い落としてあげたから。彼の罰も全部わたしが分かち合ったから。
  優しく抱き合って、燃えるようなキスを交わして…!!!」

シャルロットの表情が更に凄絶なものに変化する。
整った面立ちに女神の名残はない。
ひたすら殺気に塗り固められた表情は、筆舌にし難いほど。

「…私の大切な片割れ、大事な片翼、愛しい左半身…受け入れられるのは、
  私だけだったはずなのにっ!!…」

空気を震撼させ肝を直接握りつぶすような低い声は、猛る様な唸りを上げる。

シャルロットはリコに詰め寄り、激しく鼻腔を膨らませた。

「やっぱり、女の匂いだ…そうか…このメスに、穢されたのね…」
「姉さん…何を…??」
「私だけのリコ…こんなメスガキに誑かされるなんてね…」

まっすぐにリコを射抜くシャルロットの眼差しは、深く沈んでいる。
曇り一つないアイスブルーは嫉妬という濃い霧に飲まれ、淀んでいた。

「リコっ!!!」

不意にクローディアはリコを手繰り寄せ、その唇を奪う。

「約束。明日の武道大会、必ず優勝して。そしてこの薄気味悪い女をバラバラに切り刻んで!!!
  そしてブランホール王女であるこのクローディアを、攫いなさい!!」

「…?クローディア?…きみは、クレアじゃあ…?それにどうして姉さんがおれの、討手に…?」

一人の男を置き去りに、熱気に滾るブランホールへ重い暗雲が立ち込める。

各々の願いを背負って、漆黒の舞踏が始まる。

罪と罰を釜の底で存分に煮詰めながら、死神が控った。

2007/03/04 完結

 

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