第一大陸の北西部に位置する小国ブランホールは、背後に霊峰トロワゾォを抱えるほかに
大した観光名所や産出資源もなく、時折訪れる熱心な山岳家を除けば大した入国者もない
寂れた所である。
ここ数百年、大した戦火にも見舞われず、文化や国力も大して変動がないブランホールは
万物に精霊が宿るというアミニズム的な地域信仰の根強い、どちらかといえば極東に浮かぶ
島国に似た国風を有している。
国民の半分は老年層に偏り農耕従事者や土着の技術者に労働人口が多い所為か、情には篤いものの、
どこか封建的で閉鎖的な雰囲気が漂う、田舎を思わせる町並みが霊峰の麓まで繋がっている。
平穏であることに越したことはないが、ここ数代王家は賢君に恵まれていない。
橋を架けようとすれば半ばで崩れ、新たな国家事業を興せば、王が病没する。
ここまで来ると呪いと疑わずにはいられない家系だが、現ブランホール王ゼテマも例外ではなかった。
彼が二十歳を迎える頃、吟遊詩人が歌う英雄譚に憧れて出奔したが、
城下で身包み剥がされた挙句町人の娘に助けられて一目ぼれ。
そのまま后にするという武勇伝を持った男である。
当然その後は妻の尻に敷かれ、その冴えなさはより鋭を失ったと噂されるほどであった。
だがそんなブランホール国王ゼテマにも、愛娘がいる。
今年で齢十六を迎える王女―――クローディア。
早くに病没してしまった亡后ジュリアに瓜二つの、この地方特有の蜂蜜に薔薇が差したような
豊かなブロンドの美しい王女である。
だが美しき薔薇には当然、棘がある。
見事に亡后ジュリアの遺伝子を引き継いだ見事なまで美しく鋭い、棘が―――
「ねぇお父様、説明してくださらない?このお触れ、いったいどういう理由で出したのかしら?
一晩かかってもいいわ、一文字一文字“こども”のわたしにもわかるくらい、丁寧に説明して?」
「あぁ、それは、その…」
熟練の造詣師が全霊を賭して作り上げたような秀麗な面に、絹をそのまま貼り付けたような白磁の肌。
深く、沈みこむような光を含んだ大きなエメラルドに、綺麗な桜色をした小さな唇。
見事な艶と張りで綺麗にカールした長い睫毛は、薔薇の蜂蜜と同色―――若々しさと瑞々しさに溢れ、
今にも零れ落ちそうな可憐さを発している。
少し切れ上がった目じりも現実離れした彼女の可憐さに拍車を駆け、
精神的マゾヒストな人間にはたまらない魅力を有していた。
だが、遠目に見上げる谷間の百合が如く涼しげで、侵しがたい美貌を持った彼女の額には、
赤龍もかくやという太い血管が浮かんでいる。
風が吹けば舞ってしまいそうなほど透明で薄い、クローディアの肌を青白い血管が生々しく押し上げ、
零れ落ちそうなエメラルドはナイフのように炯炯と不穏な光を放つ。
綺麗な三日月を描く唇から覗く小さな八重歯は―――
今にもゼテマに喰らいつきそうなほど剣呑であった。
「いいから、せ・つ・め・い、して!!」
怒気も露。
鼻面に寄った皺をそのまま父王に押し付けるようにしてにじり寄ったクローディアは、
腰に両拳を当てて、ご立腹だ。
怒り狂う王女を諌めることも出来ずにひたすらオロオロする大臣達は、
クローディアの背後に亡き后の影を見る。
その映像に激しくデジャヴを感じたのだろうか、ゼテマも最近老いの翳りが見え始めた額に
大量の脂汗を浮かせた。
「お、お前が何度もお見合いを台無しにするから、しかたな―――ひっ」
カモシカを思わせる華奢でしなやかなクローディアの脚が、壁を蹴り砕く。
一瞬地震でも起きたかのように、城全体が激しく左右にぶれた。
「そ、そうだ!!元はといえば、クローディア、お前がいけないんじゃぞ!!
十六を迎えるのに想い人の一人も作らず、毎晩武術の訓練に明け暮れているなんて!!」
一閃。
―――中天に煌く白刃は、流星だった。
見事な手刀がゼテマの背後を切り裂く。
「……?」
がらん…どすん、がつんっっ!!!…と、遅れて展示品の鎧が砕け散る。
「……」
青白いゼテマの表情から、更に血の気が引いていく。
死人と見紛うほど顔面を蒼白にして、彼はようやく観念したのだろう。
ずるずると玉座から尻餅をつき、クローディアに跪くように話し始めた。
『御前における武道大会の優勝者を、今年齢十六を迎える王女の婿とする』
という、なんとも間抜けた勅令の弁解を。
ちなみに賢明なる国民の諸兄はそのお触れを見た瞬間、即座に箪笥から喪服を引っ張り出したらしい。
“ゼテマ王の国葬は何時だ”、と各々に呟いて。
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小国ブランホールの目抜き通りは、百年に一度あるかないかの盛り上がりを見せていた。
決して広いとはいえない歩道には、商人ギルドの名だたる面々が露天を開き、
少し奥に入った―――普段老婦が洗濯に使う古井戸の周りは、即席の賭博場に変わっている。
一言にするならば、“オトコクサイ”
それもそのはず。
ゼテマが国内に発したお触れは、気まぐれな風の精にでも運ばれたのだろう。
現在エレハイムと有事真っ最中の第二大陸―――
神聖帝国ジェラールにまで響き渡ってしまったからだ。
津々浦々の若い男は、“百合のように可憐で咲き誇る薔薇のように美しい王女”
の婿になろうと一念発起し、わざわざ霊峰を越えてここまでやってきたのだ。
片手に斧を携えたもの、腰に長物を挿したもの、背中に巨大な鎚を括りつけたもの…
誰も一様にその実力を信じ、王女を娶って一国の王を夢見ている。
あふれ出る野心は霊峰や山脈一つに搾り取れるものではない。
滾り、延焼した欲望は、飛び散った残りカスまで燃やし尽くそうとそこら中で燻っている。
どこか退廃的な空気を発していた国風は一瞬して塗り替えられ、
今や若きリビドーの立ち込める異空間と化していた。
そんな野郎臭立ち込める通りの脇を、羽根つきの帽子を目深に被った少女が歩いている。
ブランホール地方伝統の木靴のヒールをカツカツと乱暴に鳴らし、岩の精を逆撫でるような大股で。
一目に、彼女は怒っている。と正常な人間なら理解できる。
だが、それでも空気を読めない悲しい人間は存在するのだろう。
「お姉さん、今時間だいじょう―――ぶっ!!!」
このように軟派目的で声をかければ、即座に脛を砕かれる。
無意識に男の骨を砕いたことなど歯牙にもかけず、少女は額に手を当てる。
(あぁ…最後の望みを探して城下に来てみれば、暑苦しい男ばかり…)
少女―――他ならぬブランホール第一王女クローディアは怒りながらも内心憂鬱という、
なんとも器用な精神状態であった。
(せめて詩人が唄う様な、白馬の王子様は現れないかしら…)
呟いて、停止。暫し深い溜息を吐く。
なんとも聴く者を脱力させる、気の抜けた溜息だ。
この賑わいに便乗して大繁盛の屋台のオヤジも、商品を取り落とすほど。
まるで林檎の傍に置いた薔薇の花が高速再生で萎れていくように、少女の歩みは緩慢になる。
(はぁ、お父様は外国から来た客員の剣士にお願いしたみたいだけど…どこまで勝てるかしら、
あの人…)
彼女の脳内に思い起こされるのは散々ぶちキレまくって城内を粗方破壊した後、
父王が連れてきた城の別塔に滞在させていた女剣士と武道家の姿だった。
(武道家のほうはダメね…まるで気迫が感じられない。そもそもなんでお父様は
あんな男を囲ったのかしら。雰囲気からしてだめなのに…)
頭の中の男に、再び苛つく。
武道家は許してもいないのにクローディアの手を取って、あろうことかキスをした。
反射的に顔面を叩き割ってやろうとしたが、隣の剣士が発する闘気に弾かれたのだ。
正直身構えるのを押さえるのに必死だったクローディアは、思わず剣士をガン睨みしてしまった。
しかし、“龍をも退ける”と国中で有名な彼女の殺気にも眉一つ動かさない女剣士は、
悠長にも自己紹介までして見せた。
『わたくしは、シャルロット=イェクト=ラナ。帝国の聖騎士です。
現在は密命でとある男を捜している最中でございます。
街道で暴漢に襲われていた大臣殿をお助けしたところ、このようにご厚遇をいただいている所存』
目と目を合わせ、可視の火花が散りそうなほど緊迫した空気。
その中でも堂々と腰を折って礼をし、それで視線を外すことなくクローディアを見上げる。
丁寧に結い上げられた蒼銀の御髪に、神が作り上げたような完璧の造詣を誇る面立ち。
宝玉を切り出してそのままはめ込んだようなアイスブルーの瞳は、
涼やかなのに冷たさを感じさせない。
反身の刃のように研ぎ澄まされた存在感の中にも言い様のないほどの静謐さが隠れている。
そのまま固唾を飲み込むのを忘れて、クローディアは女剣士と視線を合わせ続けていた。
『厚遇のお礼として、わたくしが武道大会に出場して優勝を納めて見せましょう。
先に城下の様子を見に行きましたが、所詮欲に目が眩んだ下衆ばかり。
大した使い手は数えるほどもおりませんでした』
鈴が鳴るように流麗で、仄かに揺らめきたつ湖面のような声色。
クローディアの甲にキスを落としたまま、武道家は聞き惚れていた。
やはり、あの時顔面を窪ませてやればよかった…とクローディアはこめかみを揉み解しながら思う。
『仮にも、聖騎士団で隊一つを率いていた身。そう容易く敗退することはないと思われますが』
跪いた姿勢からも解る。
オリーヴ色の行軍外套の下に隠れたしなやかな肉体が。
しかしそれでいて女性的な丸みは一切失われていない。
プレートの奥に押し込められた肉感と、綺麗なラインを描く脚線をより長く見せる引き締まった臀部は
どれほどなのだろうか。
思わず、年にしては平坦な自分の体と較べて、クローディアは二重の憂鬱に浸った。
(はぁ…あれだけの存在感があっても、世界最強の帝国聖騎士様が、この気迫に呑まれないかしら…)
再度場面を移して、ブランホール城下の目抜きを見渡す。
スキンヘッドの大男。
酒場のウェイトレスに絡む下卑た目つきの男。
見るからに武人だとわかる、屈強な男…
(あ、やば…眩暈してきた…)
そもそも考えるよりは、拳を振るうほうが得意な彼女だ。
長考の果てに軽い立ちくらみを覚え、脚が縺れるまま小さなバーに入り込んでしまった。
途端、ぐしゃり―――と見ず知らずの男の顔面に肘を呉れてしまう。
逆境に不運なのは親譲りか、クローディアの一撃をモロに受けた男は、
酒がなみなみ注がれたロックグラスを握り砕きながら立ち上がる。
取り巻きを含めると、六人。
クローディアの唇が不適に吊り上る。
「おう、姉ちゃん、俺様に肘呉れといて詫び一つなしかぁ?」
「五月蝿い、ゴミクズ。そんなところにお前の頭があるのが悪い。その前に、しゃべるな息吸うな。
ブランホールの空気が淀む」
どう見ても、悪いのは彼女のほうだ。
しかし、長い王宮生活と一人娘として甘露の海に沈みこむような教育をされた彼女に、
侘びという選択肢はない。
恨むなら、そんな風に彼女を仕立てた父王と、武術の基礎を叩き込んだ流浪の格闘家を恨むしかない。
まぁどちらも、そう易々掴まる者ではないが。
「嬢ちゃん、元気なのはかまわないんだけどよ…世の中にゃあ、手を出しちゃいけねぇヤツってのが
いるんだよ。それは―――――――――ぶっ」
一人目…
綺麗な弧を描いた回し蹴りは、男を酒場の反対側まで吹き飛ばしただけでは飽き足らず、
お世辞にも頑丈とはいえない壁を打ち砕き、柱をへし折ってようやく停止する。
俄かに降りた沈黙。
吹き飛んだ男は首を奇妙な方向に曲げたまま俯き、完全に白目を剥いている。
死んではいないだろうが、重症なのは間違いない。早く看護を。
(二人目…)
心の中で数えるのと同時に、彼女は呼吸を整える。
幼少時に師匠から受け継いだ呼吸法にオリジナルを加えた格闘術だ。
あまりにも恵まれた才能がそれを殺人拳にまで昇華させてしまったが、
彼女はまだスポーツだと信じて疑わない。
そこは触れないで遣って欲しい。
(しっ―――)
息を抜くと共に、二人目の鳩尾に大砲がめり込む。
肝を完全に破壊し、背中から抜ける衝撃が三人がけの丸テーブルを紙のように破り割る。
散った木片が地に付くより早く、三人目が蹲った。
鷹のように跳躍したクローディアの踵が音もなく項に降り立ったからだ。
そいつは言葉を発することもなく崩れ落ち、床に赤黒い染みを広げる。
たぶん死んではいない。いや、そう信じたい。
(あと三人…)
蛇のような細い呼吸音とともに、彼女の構えが変わる。
腰をゆっくりと落としながら左手を脇腹まで引き、逆の手を開いたまま正面に突き出す。
彼女が生み出した最速必殺の構え。
名づけて、“鴉”。
四人目、懐に投げナイフ。
五人目、背中に棍棒。
六人目、袖に…鉄棒だろうか。不自然な金属の塊。
(余裕…)
小悪魔のような笑みを浮かべ、クローディアは再度目を配らせる。
城下には大した男はいなかったけど、これはこれでスリルを味わえた。
最早武術大会と婿取りのことなど微塵も思い浮かべずに、
彼女はひたすらにこの緊迫感を楽しんでいる。
荒らされた店の外には幾多の野次馬、気づけば黒い人だかり。
職務怠慢な官警は暫くやって来ないだろう。
なら…
と、薄く細く鞣した呼吸を集め、正拳突きを正面の男に見舞おうとして―――
横から現れた赤い風に、攫われる。
瞬間、床が轟音と共に爆ぜた。
落雷したようにすさまじい衝撃が全身を駆け抜け、
恐ろしい速度で横に流れていく視界の端に微塵に砕けた木片が映りこむ。
―――
―――
「は…?」
「危なかった」
がたん…と、床に投げ出されてみると腰が抜けていた。
そして恐る恐る辺りを見渡すと、自分が片付けるはずだった男たちが音もなく倒れている。
神速の業。
自分でも視認することが叶わなかった光景に、クローディアはひたすら呆気に取られている。
「こいつが持っていたのは、鉄棒じゃない。よく似ているが、帝国製の新型銃だ。
まさかこんな田舎で見られるとは思わなかったが…」
見上げると、印象的な赤い外套を纏った男がいた。
赤い烈風の正体、そして自分が瞬きをしているうちに三人の暴漢を片付けた手腕。
クローディアは興味と半ば畏敬が混ざり合った視線を男に向ける。
「助けは要らなかったかな?まぁ、怪我をするよりはましだろ」
低く、よく通る声で男は続ける。
褐色の肌にそぐわない彫りの深い顔立ち、笑みの形に細められた鳶色の瞳。
そして何より印象的な、複雑な印の絡み合った真紅の刺青。
差し出す左手にも及んでいることから察するに、左側面を全て覆っているのだろう。
痛々しいまでに精巧なそれを見ていると、思わず吸い込まれそうな感覚に陥る。
「あ…」
まだ呆けたまま手を取ってクローディアは立ち上がり、再び転びそうになる。
それを支える男と、再び視線が交錯した。
一見粗野に見える面立ち。
しかし、伏せられて鳶色にかかる長い睫毛と、
顎から頬にかけてのラインは貴族にも珍しいほど整っている。
刺青の所為で表情がよく見えないが、悪い印象は一切感じられない。
クローディアは見開いたままのエメラルドを男に固定したまま、魅入られるようにしている。
「あ、りが、とう…」
「大丈夫とは思うが、ああいう連中には手を出さないほうがいい」
クローディアが礼を言い終わる前に、男は踵を返す。
翻る赤く染め上げられた鹿革のマント、腰に刺さった二本の剣。
――――――剣士。
「待って!!!」
予想以上の大声に、クローディアは思わず自分の口を手で塞ぐ。
男も足を止めて、ゆっくりと振り返る。
この角度からは刺青が邪魔をしてどんな顔をしているかわからないが、
きっと呆気に取られているのだろう。
「あなたは、剣士、よね…?」
何故か心拍数が上がる。
動いたせいだろうか?いや違う。そんな柔な鍛え方はしていない。
じゃあどうして…
「まぁ、一応」
男は一瞬腰の剣に視線を落とすと、どこか寂しそうな表情をしたように見える。
「あの、わたしの、話を、聞いて…」
集まった野次馬の中、遅れてやってくる官警が踏み込む音を背景に、クローディアは言った。
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「なるほど」
苦めのお茶を啜って、その品のなさにクローディアは眉を顰める。
彼女の上品な舌に庶民の味は合わなかったのだろう。
「それで、あなたの名前は…?」
「リカル…いや、リコだ」
何か含むところがあったのか、男は言いよどみながらカップに残った茶を飲み干した。
彼の舌にも合わなかったのだろうか、苦虫を噛み潰したような表情でカップの底をにらみつけている。
「恰好から見ると、剣士みたいだけど…」
「あぁ、元・剣士だ。今は事情があって廃業中さ」
ところは変わって、ここは町外れにある小さな喫茶店。
先の騒動はこのリコと名乗る男が冷静に処理をした。
そのあたりの手際といい、只者ではない雰囲気を発している。
外套の上からも見て取れる屈強な体つき。しかし、それでいてしなやかな筋肉のつき方は、
並の鍛錬では得られない。
確実に高度な戦闘訓練を受けた証。
それに、一瞬だけ見た足の運び方。
尋常じゃない。経験と実力、全てが混ざり合った理想とも言える戦闘スタイルだった。
クローディアは言葉を見失って、ついリコの顔を見つめてしまう。
顔半分を覆う刺青。腰に挿した二本の剣、赤い革の外套…
全てが新鮮な情報としてクローディアの脳に飛び込み、彼女の思考を乱していく。
(この人なら、優勝できるかも…)
だが、この場所で身分を明かすのか?と自問する。
もしリコが姫であることを知った途端、豹変したらどうする?
下らない不安が浮かんでは消えて行き、彼女はまた憂鬱に浸った。
(でも、悪い人には見えないし…)
一瞬にして危険を見破った熟練の目、まるで盗賊“ローグ”のような出で立ちだが、
貴族を思わせるほど品のある面立ち。
この地方には珍しい黒髪が警戒心を掻き立てるが、クローディアはその気持ちが
どんどん解れていくのを胸の奥に感じていた。
「刺青がうす気味悪いか?」
自分の顔を見つめられていることに気づいたのか、リコは指先を左顔面に走らせる。
無骨な指がなぞるのは、このまま動き出して喰らいつきそうなほど精巧な蛇の牙。
複雑に絡み合う二対の蛇は、互いを貪るように混ざり合っている。
「いや、そんなことは……ない、けど…」
「気を使わなくてもいい。この赤い蛇は、罪。緑の蛇は、罰の象徴だ。
だから気味悪がられても仕方がない」
リコはカップを煽って中身がないことに気づき、苦笑した。
クローディアは何も言えなくなった。
「遠い、第二大陸。そこで剣士をやっていた。まぁ、すぐさまクビになっちまったが」
自分の頸部を掻き切るような動作を見せ、リコは再度口の端を歪める。
差し込む午後の光に映し出される彼の横顔は、男らしさの中にも、
打ち消しがたい気品と美しさを備えている。
今まで何度も父王が設定したお見合いに従事したクローディアは、
貴族連中にもこんな顔つきが出来る者はいなかったと思い起こす。
そして、何よりも興味が沸いた。
帝国出身の刺青の剣士。
黄色人種と白色人種が混ざり合ったような顔立ち。
立ち振る舞いに覗える打ち消しようのない、高貴な印象…
静寂が降りて、遠くむさ苦しい男たちの野音が響く。
しかしそんな喧騒の中でも、クローディアはリコから視線を外すことが出来なかった。
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まるで龍が通り過ぎた後のような惨状だった。
小国にしては豪奢な絨毯は破れ、地方特有の観葉植物は半ばで折れている。
ずらりと廊下の端に並んだ展示用の装飾鎧は無残にも破壊され、
繊細な刺繍の施された天井は痛々しい骨格を曝している。
なるほど大した戦闘能力だ。と、細身の長身をオリーヴ色のマントに包んだ女性が呟く。
一見すると男性に見まがうほど堂々とした空気を持ち、
まっすぐに伸びた背筋は一本の剣を思わせるほど。
先住民族にしか伝わらない魔法の糸を丹念に織り上げたような、蒼銀の髪が背中に流れていなければ、
性別を持たない天原の戦士と錯覚してしまう。
(ひょっとしたら、自分で武道大会に出場したほうが早いのではないか?)
第一大陸の北西部の小国、ブランホールの王女クローディアの顔を思い起こして長身の女性―――
シャルロットは呟いた。
あの疑いを孕んだ瞳。私の実力は認めてもらえたようだが、帝国出身という経歴もあってか
完全な信用には至らなかったようだ。
姫の手の甲に口付けしたもう一人の武道家は、自分を口説こうとした瞬間に殺気を当ててやった。
すぐさま飛びのいてそのまま姿を見せないが、果たしてあの後どうなったのだろう。
(彼を見つけ出すまで、私に立ち止まることは赦されないのだが…)
二年前、帝国を揺るがしたクーデター。
穏健派を次々と暗殺した聖アーマーニの枢機卿たちは、自らの教皇までもその手に掛け、
ジェラールの政権と教団そのものの実権を握った。
その際行われた宗教改革による、“悪魔狩り”と名づけられた異端審問。
思い出すだけでも気分が重くなり、足元が沈みこむような感覚に襲われる。
業火に包まれた町並み、絶え間なく夜空を染め上げる真っ赤な悲鳴…
(どうして彼が、騎士団を追われなくてはならなかったのだ…!)
今でも納得いかない罪状だった。
彼女が頭に思い描く男は、父を大陸北東部の少数民族に持ったことによって
騎士の資格と“悪魔”の烙印を押されて都を追放された。
そしてまもなく、自分は聖騎士として別命を受けることとなる。
『“悪魔狩り”によって追放された男、何を間違ったか聖騎士団に所属していたようだが、
彼奴はとんでもない災厄だ。
あの男は汚らわしい異教徒と、聖女ヒルダとの間に生まれた悪魔の子じゃ!!
我々“箱舟の民”の皮を被っているが、見たか??あの褐色の肌!!
間違いなく穢れを孕んだ証!!我らの粛清にも屈しなかった“風の民”の汚らわしき血液が
脈々流れている証じゃ!!』
口角に泡を浮かべ、発火しそうな怒りを浮かべていた枢機卿。
間違いなく盲目の信仰に心を侵された者の瞳だった。
シャルロットはぶり返す吐き気をこらえきれず、思わず穴の開いた壁に肘を着く。
『シャルロット!!貴様は確かあの男と同じ孤児院の出身だったな…ならば、貴様に命じる。
咎人の証を背負い、滅びの烙印が刻まれたあの男を見つけ出し、殺せ…!!
さすれば貴様の罪は贖われるだろう。悪魔の子と、同じ糧を戴いた貴様の穢れもな…』
皺の拠った鷲鼻と、濁った瞳。
シャルロットは抗議することも出来ず、追い払われた。
突然神罰の代行者という任務を背負った自分を、呪うことも出来ずに。
(彼は、とても温かい人間だった…偏見の目にも負けず、ひたすらまっすぐな心を持っていた…)
同じ孤児として、物心つく頃から施設で共に過ごした彼。
幼馴染にして、手のかかる弟のような存在だった彼…
その彼が、悪魔の子であるなど、シャルロットは毛頭ほども考えたことはなかった。
下らない宗教論争の果て、エゴの元に切り捨てられた人々…
その犠牲者が、彼なのだ。
信じられなかった。まさか、自分が討手に選ばれるとは。
だが同時に、チャンスだとシャルロットは確信していた。
(私が討手ならば、彼の存在を見つけられるのは、この私以外にいない)
遠く第一大陸にまで逃げ延びたといわれる彼を、異国の大地で知っているのは私だけ。
彼の存在を認めて、優しく包んで上げられるのも私だけなのだ。
遠い日の思い出に心を馳せる。
幼いころから目立つ外見をしていた彼は、当然イジメの対象になった。
だがそんな彼を庇い、一つ年上であるが故、
姉のように振舞うことが出来たのはほかでもないこの私!!
彼が聖騎士団に入ったのも、剣術を習ったのも、全て才能を見込まれてスカウトされた私の影響。
そして討手として彼の命を握り、圧倒的な盲信がもたらした孤独から救って上げられるのも、
私しかいない…!!
汚濁のような視線を向けられながらも、枢機卿の命令に一言の異もなく従うことが出来たのは、
それが故だった。
たった一人の彼の、たった一人の討手となれば、ずっと二人だけでいられる。
(ならば、一刻も早く彼を見つけ出さねばならぬ…)
彼女の暗い愉悦。
それは二年を経て、どうしようもないほどに美しく―――歪んでいる。
(早く、見つけなくちゃ…謂われのない罪を、この爪でこすり落として、優しく抱きしめてあげる。
あなたは少しも悪くない、悪いのは腐れた体制の帝国…
あぁ、早く抱きしめたい…!!赤子のようにこの腕に抱きとめて、氷のように冷え切った魂を
暖かく溶かしてやりたい…!!
心を読んで、静かにそのまま一つになり、二年の放浪で刃みたいに尖ってしまった私の魂も、体も、
混ざり合うように抱いて欲しい…!!!)
だから、こんな小国に長く留まることなどできない。
朝一番で城下に逃げた姫をさっさと見つけ出し、明後日に執り行われる武道大会で優勝しなくては…
気づけば、決して広いとは言えないバルコニーに来ていた。
漆黒の帳に真円の大穴を開け、白く微笑む。
不吉なほど美しい月を見て、彼女は女神のような慈愛を浮かべた。
片翼では上手に羽ばたけない。
遠い異国に堕ちた、愛しく孤独な対がなければ――― |