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七戦姫

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第11話 第12話 第13話 第14話 第15話 第16話        


1

 とある小国。
  人口は100万にも満たない、製鉄技術が外交を支えている王制国家。
  およそ200年前より、大陸の大半を統べる大国の属国となっているため、
  王にはそれほど大きな権限が与えられているわけではない。
  王の仕事は、主国の定めた政治姿勢のもと、国内が無難に動くように務めるだけ。
  それでも仕事は膨大な量となるが、半ば形式化したものも多く、
  はっきり言うと、かなり暇なのが現状である。
 
  さて。
  そんな暇な王には一人の息子がいた。
  名をクチナという。
  幼い頃より体が弱く、一年の半分は床の上も珍しくなかった。
  しかし幸いなことに、近年は体調も良好を保っているため、今後危篤に怯える可能性は低い。
  そんなクチナは今年で齢が20となる。
  近隣諸国の王子であれば、既に嫁を娶っていてもおかしくない年頃である。
 
  ――王子の体調が万全なうちに、嫁を決めておくのも悪くない。
 
  暇な王が、こう考えるのはむしろ当然とも言えるだろう。
  しかし。
 
  ――王子は体が弱いから、嫁は強い娘がいい。
 
  という名目の下、国を挙げての武術大会を企画してしまうのは、
  暇とかそれ以前の問題ではなかろうか、と王子は頭を悩ませる。
 
 
「前々から思っていたのですが」
「なんだ、クチナよ。唐突に」
「父上は馬鹿ですね」
「褒めるなよ」
「更にタチが悪いですね」
「否定してくれ」
「私も体のことで皆には多大な迷惑をかけました。
  ですから皆を安心させるためにも、縁談を組むのは上策だと思います。
  ――ですが、武術大会って何ですか、武術大会って!」
 
  叫んでから咳き込んでしまう。
  控えていた護衛が慌てて駆け寄り、クチナの背中を優しくさする。

 

「無理をするな、クチナ。父としては、お前が怒る理由がさっぱりわからんのだが」
 
  きょとん、と首を傾げながら、高齢親父が訊ねてくる。
  本人が可愛いと信じて止まないこの仕草は、皆が目を逸らしてしまうくらいの威力を誇る。

「……普通、私のような立場の縁談でしたら、損得勘定で決めるのが基本でしょうに。
  これを機に、周辺国とより強固な繋がりを築けるかもしれないというのに。
  よりにもよって、武術大会の優勝者だなんて、国の利益は欠片もないじゃないですか!」
 
「そういったことは貴族連中に任せている。
  むしろ王子の嫁は、何の繋がりもない方が公平性を誇示できて良いのだ。
  我々の国が属国だということを忘れるな。出る杭は打たれるものだからな。
  そこらのご令嬢が、武術大会に出場するなど不可能だろう? 素晴らしい考えではないか」
 
「……百歩譲って、強い女性を選ぶというのは否定しません。
  ですが、大会の内容が極端すぎます!
  厳格なルールに基づいた試合ならともかく、
  此度の大会は『何でもあり』ってどういうことですか!」
 
「つまり、殺し合いだな。女性がお前を取り合って衆人環視の下、命を取り合う、と。
  ……ふむ、これ以上ないくらいの修羅場だな」
 
「何をいけしゃあしゃあと……!」
  王を厳しく睨み付けてから、王子はくるりと踵を返す。
「話は終わりか?」
  父の問いに、息子は振り返らずに、
「話にならないことがわかりました。失礼します」
  そう言って、王座の間を後にした。
 
 
 
 

 * * * * *
 
「……クチナ様。御怒りは仕方ないかもしれませんが、
  どうか気をお鎮めになってください。御身に障ります……」
 
  私室へ戻っても、どこか苛々した様子のクチナに、護衛の少女が恐る恐る進言した。
  それを聞いたクチナは我に返り、済まなさそうに護衛の少女へ微笑んだ。
 
「ごめんね、ユナハ。……別に父上に怒ってるわけじゃないんだ。
  父上に対するアレは演技みたいなものだから気にしなくてもいいよ」
「え? ですが先程はあんな剣幕で……」
「父上は“悪役”になりたがってるみたいだったからね。
  本当に悪いのは、上の連中みたいだし。あの場はアレで収めるしかなかったんだよ」
「上……? えっと……?」
 
  首を傾げる少女の頭を、クチナは優しく撫でた。
 
「ちょっぴり面倒くさい話。父上もすごく迷ったんだと思う。
  だからユナハも、あんまり父上のことを悪く思わないであげてね。
  ――嫁を娶れと言ったのは、きっと主国の貴族だよ。
  僕の結婚をネタに、ひとつ大きなイベントをこなせば、
  中央貴族からの覚えも良くなると踏んだんじゃないかな。
  最近の主国では、闘技場とかで女性を戦わせるのが流行っているみたいだし」
 
  頭を撫でられていて頬を赤く染めていた少女は、
  王子の言葉に色を失い、やがて怒りを露わにした。
 
「そんな……! 酷いです!」
「仕方ないよ。属国としての立場を高めるには、主国の貴族に気に入られないといけないしね」
「ですが……それではクチナ様は」
「僕は別に構わないよ。父上を恨む気もない。
  ……あー、でも、お姫様が筋骨隆々な人だったら、それはそれで悲しくなるかなあ」
 
  冗談を言って、笑い飛ばそうとするクチナ。
  それを、少女は悲しそうに見つめていた。
 
「もう、そんな顔をしないでよ。ユナハは本当に優しい子だね。
  ……ユナハみたいな、優しくて可愛い人が優勝してくれればいいんだけどなあ」
 
  冗談めかしたクチナの言葉に。
  しかし少女は、ひとつの決意を胸に抱いた。

 

 * * * * *
 
「――イクハ」
「……何でしょうか、メイラ王」
 
  王子が去った後の部屋にて。
  王とその護衛が、クチナの出て行った扉を見つめていた。
 
「今の話だがな。出場者は一定数以上をこの国から出さねばならぬのだ」
「募ればそれなりに集まると思われますが、やはり素性のわからぬ者は心配ですか?」
「それもあるがな、やはりクチナの嫁は、権力を欲する者ではなく、
  ――彼奴のことを、誠に好いている者に任せたいのだ」
「クチナ様はお優しいですから、大抵の方には好かれていますが」
「しかしそれらの者が確実に勝つとは限るまい。
  強さと想いを兼ね揃えた者に、出場して欲しいのだよ」
「――思い当たる者が、2名ほど居りますが」
「私が出場して欲しいのは、そのどちらでもない。
  ……はっきり言った方が、いいのか?」
 
「――いえ。王の御心のままに。
  親衛隊隊長イクハ、武術大会に出場いたします」
 
  跪いて頭を垂れる護衛。
  その唇の端には、紛れもない喜びが、浮かんでいた。
 
  王の護衛もまた、王子のそれと同じく、見目麗しき少女だった。
  しかもその容貌は――王子の護衛と、よく似ていた。
 
「すまない。妹と戦うことになるかもしれんな。
  私のことはいくらでも恨んでくれて構わない」
 
「恨むことなどありません、メイラ王。
  私と妹が殺し合うことはありません。
  戦うことになったら、観衆を満足させる殺陣を演じてみせましょう」
 
「なら良いが……。
  ――その殺陣、勝つのはどちらの役目なのだ?」
 
  王の問いに、護衛の少女は自信を湛えた笑みを浮かべ、
 
「――無論、私です。
  王の御心に違えないよう、妹にも良く聞かせておきます」
 
  そう、言った。

 

 * * * * *
 
「――姉さん、私、大会に出ようと思うんだけど」
「……奇遇ね。私も出ることになったの」
 
  官庁用宿舎の一室にて。
  王子護衛隊の隊長を務めるユナハは、親衛隊隊長を務める姉に己の決意を述べていた。
  そして次の瞬間、姉のイクハも己の状況を素直に伝えていた。
 
  部屋の空気が固まった。
 
「…………」
「…………」
  睨み合う少女二人。
  仕事を離れ、鎧を脱いだ二人は、どこから見ても可憐な美少女。
  絹のように滑らかな金髪は、それぞれ長さが違っている。
  腰まで届く長髪は姉のイクハで、肩口で切りそろえられているのは妹のユナハである。
  二人とも生まれたときから鍛えられ、齢10から護衛隊に所属している、生粋の武術家だった。
  故に、ぶつけ合う殺気は、並の姉妹喧嘩の比ではなく。
  心臓の弱い者がその場に居合わせたら、即死してしまいかねない。
 
「姉さんより私の方が近いんだから、いいじゃない。
  ――たまにお零れに与らせてあげるから。ね?」
「ユナハは護衛でいつも一緒にいられるんだからいいじゃない。
  ――妻の私の目を盗んで強姦なんてしたら速攻で縊り殺すけど」
 
  ぎぎぎ、と部屋の空気が軋んでいた。
 
  永遠に続くと思われた睨み合いだが、
  二人は同時に殺気を解き、そのまま冷静に話し合う。
 
「まあ」
「どちらが勝つにしても」
「敵は決まってるわね」
「あいつだよね」
 
  頷き合う。
  この姉妹、両者とも常人離れした戦闘能力を誇る。
  それ故の、親衛隊隊長・護衛隊長であるのだが、
 
  この姉妹をして、無視できない存在が一人、いた。

 

 * * * * *
 
「――大会? それでクチナのお嫁さんが決まるの!?」
 
  がらがっしゃん、と豪勢な音が部屋に響いた。
  部屋の主は、報告に来たメイドを容赦なく睨み付け、あっさりと気絶させてしまう。
 
「って、ちょ!? 気絶しないで! 詳しい話を聞かせて!」
 
  慌てて駆け寄り、メイドの肩をがくがくと揺する。
  目覚めたメイドは、主の顔が目の前にあることに驚き、再度気絶してしまう。
 
「ってこら! また寝るなー! あーもう! この子、普段は優秀なのにー!」
 
  大仰に嘆いてみせる部屋の主。
  齢は17に達したばかり。
  周囲の貴族令嬢連中は花嫁修業をこなす中、
  一人焦らず、剣の修業をこなしていた変人である。
  深紅の長髪は、咲き誇る薔薇を連想させる、そんな豪勢な少女だった。
 
「でも、お嫁さん募集するってことは、クチナの体も良くなったってことだよね!
  やったー! よかったー! 明日早速お見舞いに行こうっと!」
 
  るんるん気分で立ち上がり、明日の予定を全て破棄する算段を立てる。
  少女の立場は、想い人の国を支配する主国の貴族。
  主国と属国という立場から、今までは思うように進展できなかったのだが、
  そんな過去を吹き飛ばすような大ニュースが、少女の下へと飛び込んできた。
 
  ――武術大会で優勝した者が、想い人と結婚できる。
 
  なんて素敵な大会だろう、と少女は思った。
  想い人との仲を公に認めてもらえるだけではなく。
  ――邪魔な泥棒猫どもを、全員排除できるのだから。
 
「特にあの護衛姉妹は、絶対に斬ってやるんだからー!」
 
  奇しくも、その護衛姉妹が警戒を新たにしているのと同時刻に。
  相手の少女――ケスクは、想い人の国がある方向へ、叫んでいた。

2

 時刻はそろそろ正午に達しようかという頃。
  近衛隊隊長と王子護衛隊隊長は、王城の中庭で日課の訓練をこなしていた。
  姉の近衛隊隊長イクハは、足下から胸元までの長さの棒を。
  妹の王子護衛隊隊長ユナハは、己の身長を遙かに超える長大な剛槍を。
  それぞれ手にし、模擬戦闘を行っていた。
 
  模擬戦闘といっても、実戦形式で行うわけではなく、
  予め決めた型を、申し合わせたタイミングで繰り返すといったもので、
  それぞれの技のキレを目で確認し、相互に指摘する作業に近かった。
 
  姉は杖術、妹は槍術。
  それぞれが扱う武器は異なれど、その熟練度は他の兵士を圧倒する。
  昼の休憩時間に行われるそれは、城の名物と化しているため、
  部下の兵士や王直属の臣下らの目を、常に惹き付けていた。
 
  と。
 
「――姉さん」
 
  姉と訓練中だったユナハが、中空を見つめて動きを止めた。
  イクハも妹の行動の意味を悟り、重い溜息をその場で吐く。
 
「……来たのね」
「うん。山間を越えたところだと思う。すぐに着くよね」
「まあ、あのトカゲ女が寄り道するとも思えないし、一直線でしょ」
 
  イクハはやれやれと肩を竦めながら棒を収める。
  相手は、名目上は賓客のため、正装で出迎えなければならない。
  それがたとえ訓練中であろうとも、王の護衛であるイクハは、
  他の全ての用事を切り上げ、王の元へ馳せ参じなければならない。
  普段なら、前もって連絡が寄越されるため、イクハも前もって準備できるのだが――
 
「昨日、大会のことを知って、早朝飛び出したってとこかしら」
「私たちも昨日知ったばかりなのに……」
「伝達の“竜”が来てないってことは、それこそ唐突に飛び立ったってことよね」
「ま、頑張ってね。姉さん、行ってらっしゃい」
「? ユナハはクチナ様のところに行かなくていいの?」
「私はほら、休憩時間中だし」
「トカゲ女がクチナ様のところに寄らないわけがないじゃない」
「んー、でも今はツノニさんがいるし」
「……ああ、あのメイドね。っていうかユナハ、あんたあいつを信用しすぎ。
  もうちょっと危機感を持った方が――」
「ほらほら姉さん、早く準備しないと主国の竜騎士様が着いちゃうよー?」
「ああもう! わかってるわよ! また後でね!」

 

 むくー、と頬を膨らませながら、イクハは城の中へと駆けていった。
  それを見送り、再度空へと視線を向けるユナハ。
  しばしぼんやりと見つめた後、おもむろに重い溜息を吐いた。
 
「あの人にも、勝たなきゃいけないんだよね……」
 
 
  * * * * *
 
 
  王子クチナの朝は遅い。
  常人より睡眠が必要な体質で、起きた後の数刻はまともに思考が働かないことも多い。
  故に、活動を始める時間は、下手すれば正午近くになることも多々あり、
  城に住む他者とは生活サイクルが違うのが常である。
 
  今日もそんな一日だった。
  起床直後にいつも通りの挨拶をユナハと済ませた後、
  ベッドの上で体を起こして、一刻ほどぼんやりしていた。
 
「ご主人様、朝食の準備が出来ましたよ。そろそろ食べられそうですかー?」
 
  と、そんなクチナに明るい声がかけられる。
  ゆっくりとした動作で声のした方に振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
  身を包んでいるのはメイド服。年の頃は17、8といったところか。
  黒髪を後頭部で束ねていて、動くたび元気そうに跳ねている。
  にこにこ笑顔で銀盆を手にしている女性は、クチナ専属のメイドだった。
 
「……ありがとう、ツノニ。……うん、そろそろ食べられそうだ」
「はいはいっと、んじゃ早速――」
「……自分で食べられるよ」
 
  いそいそと食事の準備を進める女性に、クチナは予め断りの言葉を発しておく。
  しかし、メイドのツノニは全くめげず、メイドにあるまじき黒めの笑みをにやりと浮かべ、
 
「そう言って粗相したのは何日前でしたっけ?」
 
  そう、言った。
  それに対しクチナは反論を許されない。
 
「……うぅ」
「もう、最近は特に朝が弱いんですから、無理しないで甘えてくださいよう」
「……でも、やっぱり恥ずかしいし……」
 
  呟き、頬を赤く染めて俯くクチナ。
  それを見て、ツノニは黒い笑みをにへらと緩ませる。

 

 

「ああもう! くっちーったら可愛いなあ!
  誘ってるとしか思えないわー! 頬ずりしちゃうんだからっ!」
 
  ひゃっほう、とクチナに飛び掛かるツノニ。
  使用人の身分では許されない、無礼な振る舞いだが、クチナが叱責することはなかった。
  ただ、おろおろと狼狽えて、辺りを気にするだけである。
 
「ちょ、駄目だってばツノニ! 誰かが見てたらどうするんだよ!?」
「へーきへーき。ユナちゃんはお昼の訓練中だし、
  他のメイドにはこっち来ないようにお願いしてあるし。
  あー、くっちーの肌ってすべすべで気持ちいいにゃー。すりすり」
「で、でも……」
「文句言わずにすりすりされてよう。
  人がいるときはちゃんとメイドのフリする代わりに、
  二人きりのときは好きなだけ甘えていいってくっちー言ったじゃない」
「そ、そうだけど……その」
「んー? それともアレかなー?
  女の子の柔らかいとこが当たって、えっちな気分になっちゃうのかなー?」
「……ち、違うよ」
「ああもう! 真っ赤になっちゃって可愛いんだか――」
 
  クチナの反応に気をよくしたツノニは、
  更にくっつこうとベッドに乗り込もうとして、唐突にその動きをぴたりと止めた。
 
「……ツノニ?」
 
  停滞は一瞬。
  メイドらしからぬ俊敏な動きで、ツノニは寝具や衣類の乱れを直した。
 
「――今日来るって連絡はなかったのに……。
  何か急な用事なのかな? はあ、せっかくの和み時間が……」
 
  ぶつぶつと愚痴を漏らしている。
  誰か来るのかな、とクチナは首を傾げた。
  そして少々の時が流れた後。
  こんこん、とノックの音が部屋に響いた。

 

 どうぞ、と返事をすると、ゆっくりと扉が開かれていき、
 
「し、失礼するわ……」
 
  やや震えた声の少女が、クチナの寝室へと入ってきた。
  深紅の長髪に、蒼い鎧を着込んだ少女。
  クチナにとっては馴染みの深い相手だった。
 
「――ケスク様!? 本日いらっしゃる予定だったのですか!?
  も、申し訳ありません! このような格好で……!」
 
  主国の貴族に、慌てて居住まいを正して頭を下げるクチナ。
  それを見て、少女――ケスクはわたわたと手を振って、
 
「ち、違うのクチナ! 今日は私がいきなり来ちゃっただけだから!
  その、えっと、クチナはちっとも悪くないのよ! だから、頭を上げなさい!」
 
  己の髪よりも赤い顔で、クチナに対して捲し立てた。
  ケスクは「いきなり来てごめんね」「気を遣わせちゃってごめんね」と謝罪を繰り返し、
  クチナとケスクが何度も頭を下げ合った後、ようやく落ち着いて話し合う下地が整えられた。
 
  ちなみにそれらの様子を、後ろに控えていたツノニは、
「またかよ……」といった表情で呆れながら眺めていた。
  まあそれはそれとして。
 
 
「それで、本日はどのようなご用件でいらっしゃったのですか?」
 
  クチナのその問いに、ケスクは赤い顔でもじもじした後、
 
「……その、お見舞いに来たの」
「え? 別に最近は倒れたりはしてませんが──」
「そ、そうじゃなくて! 聞いたの、大会の話!」
「大会? それがお見舞いと何か関係が……?」
「だ、だって、お嫁さん募集するってことは、体の調子も悪くないってことでしょ!?
  だから、その、話を聞いて、えっと、すごく嬉しくなっちゃって……!」
 
  なるほど、とクチナは頷いた。
  要するにケスクは、こちらの体調が芳しいことを祝いに来てくれたのか。
  クチナにとってそれはとても嬉しい気遣いで。
  つい昔の口調で、幼なじみの貴族に微笑みかけていた。
 
「ありがとう、ケスク。とっても嬉しいよ」
 
  ぷしゅー、とケスクの頭から湯気が噴いた。
  各国に勇名を馳せる“竜騎士”も、これではただの少女だな、とクチナは思った。

 

 ──竜騎士。
 
  それは主国の貴族の中で、剣技と騎乗に優れた者に与えられる称号である。
 
  クチナたちの国から、やや離れたところにあるゴジ山脈。
  そこに生息している、飼育しやすい種族の飛竜を、
  主国の貴族は軍事用に躾ているのは、周辺諸国の間でも有名な話である。
  ケスクはその竜騎士の中でも随一の若さと血筋を誇る若手騎士だ。
 
  属国の王子でしかないケスクの身分では、目通りすら叶わないはずの存在なのだが、
  彼女の父がクチナの国の管理担当であることが大きな要因となり、
  属国としては例外的に、クチナとケスクの交友関係は認められていた。
 
  特殊な肉体と不可解な能力を持つ竜を飼育する技術は、各国で様々な研究が進められているが。
  竜騎士はその中でも特に軍事に特化された存在で、称号を与えられることにも、
  高貴な血筋と圧倒的な剣技が求められるようになっている。
  つまり。
  この、クチナの前で赤面してもじもじしている貴族令嬢は。
  外見とは裏腹に、常識外れの戦闘能力を有しているということである。
 
  そんな彼女がどうして自分に執心なのか、全く以て理解できないクチナだったが、
  何はともあれ心配して貰えるのは悪い気分ではなく、
  いけないこととは理解しつつも、昔のように馴れ馴れしい態度で礼を言ってしまった。
 
 
「そそそ、それでね!」
 
  顔を真っ赤にさせて俯いていたケスクだが、
  おもむろに顔を上げて、クチナの方を真剣な表情で見つめてきた。
「な、何でしょうか……?」
  少女の気迫に、思わず一歩引いて応対してしまうクチナ。
  そこへずずいと顔を寄せて、鼻息荒くケスクは宣言した。
 
 
「──わ、私も大会に出場するから!」
 
 
  え? とクチナに首を傾げさせる隙もなく。
  ケスクは真剣な表情で捲し立てた。
 
「さっき、メイラ王に確認してきたけど、全然問題ないって!
  お父様にも剣を使って朝一で了承を貰ったから、クチナが心配することなんて無いんだよ!
  ──あ、別に不正をするつもりはないからね?
  正々堂々お邪魔虫たちをやっつけて、私がクチナのお、お、お嫁さんになるから!」

 

 そこまで言ってから、息を整えるために口を閉じるケスク。
  その目はとても真剣で、有無を言わせぬ迫力があった。
  もともと竜騎士として活躍している剛の者である。
  クチナがその眼力に対抗できるはずはなく、間抜けそうに口を開いて、
  こくこくとカラクリ仕掛けの人形のように頷くだけであった。
 
「……く、クチナは、私がお嫁さんになるのは、いや?」
 
  恐る恐る、ケスクが訊ねてくる。
  そこでようやく、クチナは冷静に考える機会を得た。
 
  ──竜騎士ケスクが大会に優勝し、自分の妃になる。
 
  彼女の実力からいって、出場するとなればまず間違いなく勝ち上がるだろう。
  国同士の利害関係はさておくとして、純粋に個人としてのケスクは、
  クチナにとっても親しみ深い幼なじみなので、結婚することに抵抗は覚えない。
  むしろ、剣に打ち込む実直さと、こちらに向けてくれる純粋な好意は、
  嘘偽りのないもので、とても微笑ましく思っている。
  国同士のいざこざから、素直に祝福はされないであろう組み合わせだが、
  主国を楽しませるための催しにて決まった婚約なら、文句を言う輩も少なくなるだろう。
 
(……あれ?
  これって結構悪くないんじゃ……?)
 
  と、クチナが思ったところで。
 
 
「お話の途中申し訳ありません」
 
 
  いつの間にか。
  メイドのツノニが、すぐ近くまで歩み寄っていた。
  普段のケスクだったら、属国の使用人が話を遮るなど許さなかっただろうが、
  クチナに対して多分な照れを抱いていたのと、
  ツノニが接近する気配を感じ取れなかったことにより、
  大人しく、割り込んできた使用人の言葉を待っていた。
 
「御竜騎士様。ご主人様は朝の服薬を済ませておりません故、
  宜しければ後ほど改めてお時間を取って頂けないでしょうか?」
 
  要は「話に花を咲かせるのは後にしろ」ということである。
  属国の使用人が主国の貴族に言うには無礼すぎる言葉だった。
  しかし、クチナの身体の事情をよく理解しているケスクは、
  はっとした表情を見せた後、クチナに対して申し訳なさそうに、
 
「ご、ごめんねクチナ……。
  私ってば、興奮しちゃってクチナのことも考えなくて……。
  ま、また今度、ちゃんとしたお見舞いの品を持って来るから!
  今日のところはこれで失礼するね! さよならっ!」
 
  そう言うなり、身を翻して部屋から飛び出ていった。
  返事を言いそびれたクチナは、ぼんやりとケスクが出て行った扉を見つめるのみ。
 
 
 

 

 
 
  ──と。
 
「ご主人様」
 
  気のせいだろうか。
  少し部屋の温度が下がった気がして、クチナは身を震わせた。
 
「少々お伺いしたいことがあるのですが」
 
  気のせいだろうか。
  寒気の出所は、すぐ近くのメイドから発せられているように感じた。
 
「──“お嫁さん”って、どういうことですか?
  あと、さっきの問いに『悪くないかも』って思いましたよね?」
 
  何故だろう。
  クチナは、ツノニの方を見ることができなかった。
  見たら、なんというか、とても怖い思いをしそうだった。
  しかし、そんなクチナの思いなどお構いなしに。
  ツノニは再び、ベッドの上に乗り込んできた。
 
「……結婚しちゃうの?」
 
  そう問うツノニの瞳は甘く濡れていた。
  そこに、忠実なメイドの面影は欠片もなく。
  主を愛しく思う一人の少女が、其処にいた。
 
「……貴方が結婚しちゃったら、あの約束は破棄することになっちゃうよね?」
「そ、それは……その……」
「そうなったら……貴方は私のご主人様じゃなくなっちゃうよね?」
「ま、まあ、言葉通りになるんだったら、、確かに続けるのは無理になるけど」
 
「そんなの、いやだ」
 
  呟く少女の瞳は暗く、どこか虚空を見据えていた。
 
「──『私は、クチナ王子の“女”でいる限り、クチナ王子を殺さない』」
 
  昔交わした約束を、一言一句違わずに、ツノニは口にした。
  クチナもはっきりと覚えている。
  5年前、自分を殺しに来た他国の暗殺者。
  約束を守るために祖国を抜け、クチナのメイドとなった少女。
 
「貴方のお嫁さんにはなれなくてもいい。
  でも、貴方が他の女のものになってしまうのは、嫌」
 
  こちらの胸に顔を埋め、染みこませるように呟く少女に。
  クチナは何と返していいかわからず、気まずい沈黙が部屋に残った。

3

 * * * * *
 
  この世界には、多種多様な獣が存在する。
  特異な能力を持つものも珍しくなく、知能が人並みにある獣すら存在する。
  そんな獣たちの中で、大陸最強を誇るのが“竜”である。
  空を縦横無尽に駆け巡り、長い寿命と強靱な体躯、種族毎の特異な能力。
  どれもが一級品の、最強の獣。
  そんな竜にも、様々な種族が存在する。
  飛行に特化されたもの、耐久力に優れたもの、火炎を操れるもの。
 
  そして、人間の姿に変化できるもの。
 
  幻想竜、と人間達に呼ばれる彼らは、竜族の中でもとりわけ位の高い方であり、
  人の姿に転じても尚、竜族高位の能力を発揮できる。
 
  竜族内での位の高さと、単独での戦闘能力の高さ。
  この2点が相俟って、幻想竜にはとある特異な習性が作り上げられていた。
 
  ――人の世の中を、単独で旅すること。
 
  目的は個体によって様々で、世界中の美味い物を食べるつもりの個体もいれば、
  人生(竜生?)の意味は何なのか探しに行くだなどと考えてしまう個体もいる。
 
 
  幻想竜の年若き雌、ヘイカの場合は。
  婿探し、というあまり大っぴらに言えない目的だったりする。
 
 
  とある小国2つの国境付近。
  長髪を腰で括った一人の少女がいた。その髪は薄い蒼で、年の頃は十代前半。
  一人旅をするには不自然すぎる様相だが、周囲に供の姿は見えなかった。
 
「……この国も駄目だったか……」
 
  険しい山道を一人で踏破しながら、少女――ヘイカは重い溜息を吐いてしまう。
  疲れではない。どちらかといえば呆れの溜息。
  先程まで滞在していた国でも、探し物は見つからなかったからである。
 
  幻想竜は人間との間に子を為すことができるため、婿の対象には当然人間も含まれる。
  人間は竜と違い寿命が短いため、きめ細やかな対応をしてくれると評判なのだ。
  ヘイカの友人も、先日人間の雄を婿に迎え、一族総出で祝っていた。
  最近の幻想竜の若い雌の間では、人間と結婚することが一種のステイタスとなっており、
  人間の婿を手に入れたヘイカの友人は、当然の如く自慢してきた。
  それはもう凄い勢いで。
  ヘイカは悔しかった。
  悔しさのあまり山が半壊するほどの大喧嘩をしてしまったが、まあそれはそれとして。
  自分があんな友人に劣ってるはずはない、とヘイカは思った。
  自分だって、人間の婿を迎えられるはずだ。
  人間で、しかも友人が連れてきた奴より立派な婿を。

 

 ヘイカは旅立った。
  素敵な婿を手に入れることを目指して。
  旅を始めてから、もう30年が経つ。
  婿はまだ、見つかっていなかった。
 
 
  ヘイカは現在341歳。
  幻想竜の寿命は長いため、人間の年齢に換算すると13歳程度といったところか。
  まだまだ遊びたい盛りではあるが、そういった欲求は封印して、ひたすら婿探しに励んでいた。
  全ては、友人より立派な婿を手に入れるため。
  具体的な条件を挙げるならば――
 
・容姿端麗であること。
(注:幻想竜のヘイカから見て)
 
・財宝を蓄えていること。
(注:幻想竜は金銀財宝を好む性質がある)
 
・知性に優れていて、気配りが利くこと。
(注:人間を選ぶ醍醐味はここにあるから)
 
・生殖可能な年齢であること。
(注:あくまで子孫を残すための婿選び)
 
・初物であること。
(注:友人の婿は経験者であったため、前の女と比べられた)
(注:幻想竜の雌はそれなりの歳に達していても、人間としての姿は幼く見える)
 
  以上の条件を元に、ヘイカは己に相応しい人間を探して旅を続けていたが、
  既に大陸の半分を探し終えた現段階で、全く以て適合者が見つからない。
  なお、条件に戦闘能力は含まれていない。
  幻想竜のヘイカから見て、人間の戦闘能力など、ほとんどが鼻で笑えるレベルだからである。
  故に、ヘイカの条件を満たす人間は、主に王族や貴族の類に絞られる。
 
「……初物でない者なら幾人かは見かけたが……。
  …………いかんいかん、妥協などしたら、彼奴に笑われるだけだ」
 
  友人の嫌みったらしい鼻笑いを思い浮かべ、
  ついカッとなったヘイカは、腰に手をやる。
 
  手を伸ばした先には、一降りの“刀”が差されていた。
 
  抜刀は一刹那。
  閃光の如き斬撃は、手近な岩を両断した。
  岩が崩れる音が響く頃には、既に刀身は納刀されている。

 

 ――刀。
 
  とある小国にて、偶然見つけた片刃の剣。
  小柄な人種が、彼らの非力を補えるように、軽くても硬軟構わず斬られるように作られた武器。
  武器の重量は、竜であるヘイカにとっては特に拘ることではないが、
  その形状から抜き打ちに適しているところが、ヘイカは気に入っていた。
 
  鞘から刀身を引き抜く動作。
  斬撃のために必要な速度を作り上げる動作。
  この2点が、芸術的なまでに複合された、刀独特の攻撃法。
  それが、ヘイカには、とても美しく感じられたので。
  ヘイカは好んで、刀を振り回すようになっていた。
 
  気付けば、竜のくせに人間の剣術を極めてしまっていた。
  刀を手に諸国を旅し、いい男が見つからなければ憂さ晴らしに魔獣退治。
  旅を始めて15年が過ぎる頃には、ヘイカの名前は傭兵業界に強者として広まっていた。
 
「……まあ、このまま旅を続けるのも悪くないがな」
 
  魔獣を倒して英雄扱いされるのも、それはそれで気分が良かった。
  幻想竜の社会は完全な年功序列であるため、年若きヘイカはかなり身分が低かったりする。
  年寄り連中に馬鹿にされてこき使われるより、人間達の中で英雄視されている方が、
  何倍も気持ちよかった。
  普通の人間に比べて食費は多めにかかるものの、それ以外には頓着しない性格のため、
  ヘイカが生活に困ることはほとんど無かった。
  このままあと50年くらいは旅を続けるのもいいかもしれない。
  その頃には友人の婿もヨボヨボの爺と化しているだろう。
  そこへある程度のレベルの人間を連れて行き、
「我の婿は貴様のとは違ってまだまだ生殖可能だぞフハハ」とでも嗤ってやればいい。
  そもそもよく考えてみたら、婿探しだって友人への対抗意識から始めたもので、
  ヘイカ自身は、べつだん婿が必要とは思っていない。
 
  なんだ、それなら別に、旅の目的は婿探しである必要はなく。
  のんびり気ままに英雄ごっこでもやっていればいい。
 
 
  そう、思っていたのだが。
 
 
 
 
 
  旅の途中。
  とある大国の属国にて。
  ヘイカは、面白い噂話を聞いた。
 
  ――王子が、武道大会の優勝者を妃として迎え入れるらしい。
 
  なんだそれは、とヘイカは驚いた。
  色々な国を見てきたが、そんな素っ頓狂な方法で妃を決める国なんて、何処にもなかった。
  そして同時に、こう思った。
 
  ――自分が出場して優勝すれば、友人に余裕で自慢できる。
 
  婿入りではなく嫁入りであることが少々癪に障るが、
  王家の財宝と王女という立場が手に入るのなら、我慢してやってもいい。
  そして、年に1度くらい、実家に連れて行って友人に自慢するのだ。
  あとは王城で食っちゃ寝の極楽生活。そして飽きたら適当に姿を眩ませる。
 
  ……いいかもしれない。
  そう思ったヘイカは、早速噂の王子がどのようなものか見に行くことにした。
 
 
  * * * * *
 
 
  ユナハはご機嫌だった。
  今日はぽかぽかお天気で風も弱く、クチナの体調も悪くない。
  そんな日の午後は、クチナはユナハを連れて、テラスで景色を眺めるのが常である。
  日傘の下で、のんびり遠くの山を眺めるクチナ。
  その横顔に何度も見とれながら、幸せな時間を噛みしめるユナハだった。
 
  手には剛槍。すぐ近くの通路には部下が控えている。
  それでも、今この瞬間はクチナと二人きり。
  護衛という立場でも、慕う相手の近くにいられるのは、幸せだった。
 
(……もし、クチナ様のお妃様が決まっちゃったら、
  私みたいな若い女を、近くには置かないよね……)
 
  ユナハは、立場上は一応貴族に分類される。
  妃となる女性が、夫の近くに好意を持つ女が置かれることは望まないだろう。
  クチナもそういうことに配慮して、きっとユナハを他の部署へと“栄転”させるに違いない。
 
  クチナの護衛でなくなるということは。
  今のような、穏やかな時間もなくなってしまう。
  ……想像するだけで、涙がこぼれそうになってしまう。

 

 せめて。
  自分が護衛を務めるのを拒まない人が、クチナの妃になるのであれば。
  それなら、身を退いてもいいとさえ、思っている。
  例えば――姉のイクハなら。
  何だかんだと愚痴はこぼそうとも、護衛の任を解くまではしないだろう。
  姉だったら、安心してクチナを任せられる。
 
  しかし――大会には、ケスクも出場する。
 
  大陸最強とも呼ばれる“竜騎士”の称号を持つ少女。
  順当に行けば、優勝するのは彼女だろう。
  イクハもユナハも、常人以上の戦闘能力を誇るが、それでもあの竜騎士には及ばない。
  ケスクだったら、ユナハが近くにいることを許してくれるだろうか。
  否。
  あの女は、決して許さないだろう。
  今でさえ、ユナハがクチナの側にいることを快く思っていないのだ。
  彼女が王妃になったとき、自分がどうなるかは想像に難くない。
  何かにつけては「もっと信用できる護衛を紹介する」などとクチナに提案しているのだ。
  クチナは「ユナハが一番信用できる」と言って断ってくれるのだが、
  そのたびにケスクは、クチナにばれないようにユナハを睨んでくるのだ。
  こちらは毎回、冷や汗を大量にかき、胃が引き絞られるように痛んでしまう。
  ケスクは一見、純情で真摯な貴族令嬢だが、
  実際は、思い込みが激しく執念深いトカゲ女だ。
 
  だめ。
  あんな女に、クチナ様は渡せない。
 
  ――ならば、どうにかして自分か姉が優勝しなければ。
 
(……完全に“何でもあり”だったら、誰もあの人に勝つことはできないよね)
 
  ケスクには“飛竜”がいる。
  竜騎士とは飛竜を使いこなせる騎士のことだ。
  専用の飛竜に乗ったときの戦闘能力は、高位の竜族すら敵ではないといわれている。
 
  では、竜に乗っていないときは?
  これも、勝つのは難しい。
  そもそも竜に乗るには、乗る竜以上の戦闘能力を備えなければならない。
  ケスクは単独でも、竜並みの戦闘能力を持っているのだ。
  その剛剣は頑強な盾すら切断し、阻めるものはこの世にないとまで謳われている。
  技術も生半可なものではなく、木剣を用いた模擬戦闘でも、貴族内では負け無しとのことだ。
 
  対するユナハは、剛槍の使い手と謳われつつも、
  小回りは利かず、技術も未完成な部分が多い。
  ――ケスクに勝つ自信は、はっきりいって皆無だった。
 
(でも、やるしかない。私が頑張って、そして、クチナ様と――)

 

 そんな、幸せな妄想に浸ろうとした瞬間。
 
  気付いたときには、身体が動いていた。
 
  石像のように止まっていたのが嘘のように、疾風より速くテラスを駆ける。
  一呼吸にすら満たない時間で、槍を構え、クチナの前へ出た。
  槍と身体で、クチナの急所を全て隠す。
  前方には、テラスの手すりと山の風景。
  目下の林には目もくれず、ユナハは真っ直ぐ、山間の一角を見据えていた。
 
「……ユナハ?」
 
  背後から、クチナの声。
  その声に驚きはない。己がいつ狙われてもおかしくないことを理解しているからだ。
「……敵? 下がった方がいいかな」
「…………いえ。それには及びません」
  冷静な声でユナハは答え、そして――
 
 
  * * * * *
 
 
「――気付かれた!?」
 
  王城から2里は離れた山の中。
  テラスをこっそり覗いていたヘイカは、思わず驚きの声を上げてしまった。
 
  常人なら、テラスの上の人間どころかテラスの位置すら捉えるのが難しい距離。
  竜族故の突出した視力にて、ヘイカは何とか見ることができたが、
  まさか人間に気付かれるとは思ってもみなかった。
 
「……こっちの姿が見えてるわけじゃなさそうだな。
  あくまで盾になって急所を隠してるだけ、か。
  視線を察知したのかね。だとしても、この距離で道具無しに気付くなんて野生の竜並みだ」
 
  呟く唇は、気付かぬうちに笑みの形に歪められていた。
  人間にも、相当できる奴がいるらしい。
  それがわかっただけでも、覗き見た価値はあった。
 
  ――と。

 

「ん?」
 
  目を凝らす。
  テラスの上。
  王子の前に立った女の護衛。
  そいつが、身体を捻って、
 
「おいおい、何をするつもり――」
 
  目を疑うも、ヘイカの勘ははっきりと危機を知らせていた。
  背中が見えるくらい護衛の身体が捻られて。
  その手には、身長よりも長い剛槍が握られていて。
  そして、
 
 
「ちょっと、待て」
 
 
  護衛が、
  槍を、
 
  投げた。
 
 
  それは、山なりの軌道を描き――
 
「……って、嘘おおおおおおおおおおおおっっっ!!!!?」
 
  叫びながら、ヘイカは慌てて横に跳んだ。
  瞬間。
 
  一瞬前までヘイカが居たところに。
  轟音を響かせて、長大な槍が“着弾”していた。
 
 
  * * * * *
 
 
  槍を投げ終えた姿勢のまま、ユナハは油断無く前方を見据えていた。
  そして、飛び道具の心配がないと悟ると、後方へ向かって「待機班!」と叫んだ。
  ユナハに呼ばれ、通路に待機していた護衛が、替えの槍を持ってテラスへと出てきた。
  万一の可能性を考えて、ユナハは常に部下を近くに配置しているのが常である。
  彼女の戦法のひとつに射槍術があるため、替えの槍も持たせていた。
 
「隊長! 如何為されましたか!?」
「山に監視が一人。急襲の可能性を考えて、周辺の警備を強化」
「了解しました!」

 

 指示を受け、部下が城の中へと駆けていく。
  それを見送ってから、クチナは改めて山の方へと向く。
 
「さっきの槍、あの山に向かって投げたんだよね?」
「はい。この距離ですから、こちらを視認できる相手でしたら容易に避けられるとは思いますが」
「牽制、ってこと?」
「その通りです。護衛が私一人でしたら敢えて隙を見せ待ち受けるのも手でしたが、
  護衛隊には優秀な部下が多数いますので、抑止力を発揮すればそれで充分かと」
 
  淡々と“護衛の顔”で会話するユナハ。
  クチナは、そんな彼女の頭を唐突に撫でた。
 
「なるほど。
  ……やっぱり、ユナハは凄いよね。君が護衛で、本当に良かった」
「え……あ……そのようなお言葉、勿体ないです……はう」
 
  不意打ち気味に頭を撫でられたユナハは、真っ赤になってされるがままに。
  これだけで、ユナハは死んでもいいと本気で思った。
  それくらい、クチナに褒められるのは、心地よかった。
 
(……やっぱり、クチナ様のそばにいたいよ……)
 
  優しく頭を撫でられながら。
  ユナハは、己の気持ちを再確認していた。絶対に、譲れない気持ちを。
 
 
  * * * * *
 
 
  獣道を駆けながら、ヘイカは笑いをこぼしていた。
  ――2里は離れたところから、ああも正確に槍を投擲してくるとは。
  あの護衛、只者ではない。
  竜形態ならいざ知らず、人間形態であそこまでの怪力を有する者は、竜族の雄でも珍しい。
  なるほど、王子の護衛は“異能持ち”であったということか。
  だとしても、あの怪力は異能どころの話ではない。
  あれほどの力で突き出された槍を防げるものが、この世にあるのだろうか。
  甲殻竜の鱗すら容易に突き破ることができるだろう。
  あのような護衛が側付いている王子。興味が湧かないはずが、なかった。

 竜の血が久方ぶりに滾っている。
  それは、明らかな欲求を表していた。
 
  ――戦ってみたい。
 
  例の大会に、あの女も出るのだろうか。
  だとすれば――是非とも、出場してやる。
  幻想竜を驚かせたのだ。礼代わりに、殺して喰らってやろうではないか。
 
  今までの旅で感じたことのない感覚に、ヘイカはひとり、身を震わせていた。

4

 * * * * *
 
  主国には、奴隷闘技場というものが存在する。
  主国における奴隷とは、犯罪者であったり、最底辺の人間であったり、様々である。
  それらの中から戦闘能力に優れたものを選出し、観衆の前で殺し合わせる。
  主国は領土も人口も大陸一のため、そういった人間が不足することはなく、
  奴隷闘技場は公営事業として立派に成り立っていた。
 
  今日はそんな奴隷闘技場のひとつに、クチナたちは訪れていた。
 
  主国の中でも一際大きな闘技場。
  辺境領に位置するものの、奴隷の質は主国一ともいわれている。
  毎日のように試合が組まれ、興行収入は領地予算の1割に達するとのことである。
 
  この闘技場を参考に、此度の妃を決める武道大会の設営を行うからである。
 
  訪れたのは王子クチナと父王メイラ。
  護衛としてユナハとイクハがそれぞれの主の後ろに控えていた。
  そして、もう一人。
  親の代理として、竜騎士ケスクが、闘技場の見学に訪れていた。
 
「――なるほど、それで私の闘技場を参考にしたいと。
  ええ、構いませんよ。メイラ王とそのご子息に観戦して頂けるのであれば、
  うちの奴隷どもも喜び奮戦することでしょう」
「ご協力感謝します、ネキツ公爵。
  突然の申し出を快く受け入れて下さり、父に代わって御礼申し上げます」
「竜騎士殿、頭を上げて下さい。
  貴女の噂は辺境まで届いております。
  飛竜を従える令嬢が我が領地に訪れて下さるのであれば、
  闘技場の一つや二つ、差し出しても惜しくはない」
「そう言って頂けると幸いです。
  ――メイラ王、クチナ王子。ネキツ公の許しが得られましたので、中の見学はご自由に。
  メイラ王には父直属の護衛隊を案内に付けます」
 
  クチナと二人きりの時とは違う、
“小国を管理する貴族”としての顔で、話を進めるケスク。
 
「クチナ王子は……わ、私が案内します。
  護衛の方は、申し訳ありませんが別室で待機していて下さい」
 
  それぞれの国の関係上、この条件は仕方がない。
  主国の領地内で、護衛が提供されるのにも関わらず、手持ちの護衛を連れ歩くことは許されない。
  しかし。
  イクハとユナハは見逃さなかった。
  竜騎士ケスクの口の端。
  僅かに浮かんだ、勝者の笑みを。

 

 * * * * *
 
「……あー、腹立つ。あんのトカゲ女、思いっきり勝ち誇っちゃって」
「まあまあ姉さん。試合を観戦させて貰えるだけでも感謝しなきゃ」
「……ゆーなーはー。アンタは落ち着きすぎ。
  今頃、トカゲ女はクチナ様と試合観戦デートだっていうのに」
「…………私だって、クチナ様と一緒に見たかったけど、でもちゃんと我慢できるもん」
 
  試合場を見下ろせる、賓客用の個室にて。
  イクハとユナハは、クチナとケスクのことが気になって悶々としていた。
  個室の中には彼女ら二人しかいないため、素のままでいられるのは幸いだったが。
  やはり、意中の人物が泥棒猫と一緒というのは、精神衛生上よろしくなかった。
 
  よって、二人は落ち着きなくそわそわと。
  今ひとつ集中できない状態で、闘技場の試合を観戦していた。
 
  が。
 
「――姉さん」
「……ん。あの子……」
 
  ぼんやりと眺めていたひとつの試合。
  観客の盛り上がりは最高潮の中。
  一人の少女が、戦っていた。
 
  女性が戦っていることがおかしいわけではない。
  先程までの試合でも、老若男女問わず、様々な者が戦わされていた。
 
  しかし。
  その少女の戦いは、他の奴隷達とは、どこか違っているように見えた。
 
  鈍色の髪の毛が肩胛骨の辺りまで伸ばされていた。
  手入れは全くされていないようで、伸び放題荒れ放題のぼさぼさ頭。
  瞳は暗闇でも輝きそうな黄金色。野生の光を灯したそれは、どこか肉食の猛鳥を連想させる。
  体には薄汚れた布が巻かれているだけ。服と呼ぶのも烏滸がましい。
  手には革製のグローブが装着され、足には頑強なブーツが履かれている。
  手足の品だけは、高級品と見て取れた。
  衣装は半裸に近いただの布なのに対し、手と足にはしっかり金をかけている。
 
  そんな少女が、屈強な男奴隷と戦っていた。
  相手は岩をも砕きそうな拳を、目にも留まらぬ速度で振るっている。
  一撃で戦闘不能にされてもおかしくない攻撃。
 
  それを、何度も何度も、少女に当てていた。

 

 一見、少女はひたすら殴られてるだけのようである。
  男は一度も攻撃を受けておらず、少女は無抵抗に殴られるがまま。
  ただ何となくその光景を眺める者には、少女がいたぶられているようにしか見えないだろう。
  打撃を殺しているわけでもなく、ただ純粋に“殴られている”。
  一撃に上半身が大きく揺れ、鮮血が飛沫となって辺りに散る。
 
  ただの、なぶり殺しにしか見えない。
  このまま少女は殺されるしかない。
 
  だというのに。
 
  歓声は止まず、対戦相手は殴り続ける。
 
  それは、異様な光景だった。
  常人なら何度死んでもおかしくない打撃の雨に晒されながら。
 
  くすんだ銀髪の少女は。
  一度も倒れず。
  ゆっくりと、腕を、上げ始めた。
 
 
  歓声がより一層大きくなる。
 
 
  男奴隷も目に見えて焦り始め、防御のことなど完全に忘れ、ただひたすら殴り続ける。
  頭蓋を割ろうとして拳を叩き付け、
  鼓膜を破ろうとして平手を放ち、
  鎖骨を折ろうと肘を突き刺し、
  内臓を破壊しようと膝を押し込み、
  とにかく動きを止めようと、滅茶苦茶に蹴る。
 
 
  それでも、少女は、倒れない。
 
 
  腕はゆっくりと上がり続け、
  やがて、少女の頭上でぴたりと止まる。
 
  剥き出しになった脇の下に、男奴隷は全力の拳を叩き込んだ。
  常人なら、肋が折れて肺に突き刺さってしまうだろう。
  しかし、それにも、少女は、
 
 
  唇の端を歪め、耐えていた。

 

 

 少女が耐えに耐えて耐え抜いて、男奴隷の猛攻は終わりを告げた。
  幾度となく叩き込まれた致命的な攻撃は、しかし少女を止めるには足りなかった。
 
  振り上げた拳は後頭部の上。
  肘の角度、肩の開き、体幹の傾き、全身の捻り、全てが理想的なまでに整えられていた。
  それは、まるで大砲に弾が込められたかの如く。
  少女は“構え”を完成させた。
 
  瞬間。
 
  完璧に作り上げられた発射台から。
  鉄よりも硬く握り込まれた渾身の拳が。
  一直線に、相手に向かって。
 
  それを捉えられた人間が、この会場に何人いようか。
  母国随一の腕前を誇る護衛姉妹にすら、それは鮮明ではなかった。
 
 
  拳撃の音には似つかわしくない、
  風船の破裂したような音が、響いた。
 
 
 
 
 
「……ユナハ、今の、見えた?」
「はっきりとは見えなかった。
  上から見てあの速さだから、目の前にいたら閃光にしか見えないんじゃないかな」
「――とんでもない一撃ね。硬い人間の頭蓋が、焼き菓子みたいに砕けてる」
「…………姉さんなら、あれを逸らせる?」
「防御に専念できるなら、何とか。でも、あいつの場合はちょっと難しいわ」
「こっちが攻撃している途中で、撃ってくるもんね。常人の耐久力じゃ不可能な戦法だよ」
 
  試合を見ていた護衛姉妹は。
  見始めたときの浮ついた気分を完全に消し、
  戦闘者として、少女の強さを、冷静に見定めていた。
  主国には、こんな人間もいたのか、と。
  驚き半分、畏れ半分の面持ちで、二人は少女を見下ろしていた。

 

 

 * * * * *
 
  ネキツ主催の奴隷闘技場王者、サラサは勝者への歓声を全身に浴びていた。
 
  大陸一の大国で、最も大きいとされる闘技場。
  その王者を務めるのは、若干21歳の女性だった。
  21歳といっても、身長はそれほど高くなく、幼い顔立ちのため、
  実年齢より5つは若く見られてしまうのが悩みの種だったりする。
  まあそれはそれとして。
 
  サラサは、もとは海賊だった。
 
  中堅の海賊で産まれたらしいが、そこを潰した大手の海賊が、サラサの育ての親である。
  海賊にとって赤子など、邪魔者以外の何者でもないため、
  普通なら拾った赤子は海の神に捧げる名目で魚の餌にするのが習わしなのだが、
  サラサの場合は、拾った首領が信心深い奇特な輩だった。
  その首領の出身地では、処女を犯すと性病が治るという迷信が広まっていたので、
  サラサは首領の常備薬として手元に置かれることになったのだ。
 
  サラサが初めて犯されたのは4歳のとき。
  奇跡的に彼女は死なず、そのまま首領に飼われることになった。
 
  その後は、海賊船の雑用をこなしながら、皆の性欲を受け止める日々。
  殴られた回数も、犯された回数も、数え切れない。
  人間扱いされた記憶など無いため、己の境遇に疑問など覚えず、サラサはひたすら生き続けた。
  人外の血が混じっていたのか、頑丈な血統だったのか、サラサ自身にもわからないが、
  彼女は一度も壊れることなく、12歳まで生き延びることができた。
 
  12歳になり、人並み外れた頑丈さを持つサラサに、戦闘頭が殴り方を教えてくれた。
  彼女が人から何かを教わったのは、それだけだ。
  他は全て、生きるために自然と身に付いたものか、海賊達の生活から自分で学んだものである。
 
  殴り方を教わったが、それ以外は教わっていないので、サラサは戦い方を知らない。
  ただ耐えて、構えて、殴る。
  それだけだ。
 
 
  殴り方を覚えてから一年後。
  サラサを飼っていた海賊達が、大国の海軍に壊滅され、生き残ったサラサは奴隷となった。
  最初は女奴隷として何処かの貴族に遣わされる予定だったのだが、
  言葉遣いどころかナイフの持ち方も知らない小娘は、ひどく物覚えが悪かった。
  船虫の捕まえ方は知っていたが、箒の使い方なんて知らなかった小娘である。
  一から覚え込ませるよりは、一発ネタで楽しむ方が有益だろうと、
  サラサは奴隷闘技場での生贄役に選ばれた。

 

 

 命じられたのは、非常に単純なこと。
 
「真ん中に立って、相手を殴ればいい」
 
  そう言われたサラサは、その通りにした。
  命じた者は、きっとサラサに無駄な抵抗を演出させたかったのだろう。
  少女のか弱い攻撃をものともせず、無慈悲に潰す殺戮者。
  少女はそのための生贄であり、殴っても疵ひとつ負わせることはないだろう、と。
  サラサは同年代の少女と体格こそ同じだが、筋肉は引き絞られ、少なからず厚みを持っていた。
  しかしそれは海賊暮らしが長かったからだろう、と気にされず、
  サラサは言われたとおり相手を殴った。
 
  結果、相手は胃が破裂して死亡した。
 
  戻ってきたサラサを出迎えたときの、主催者の間抜けな表情は、
  あまりにも滑稽だったため、サラサの記憶に鮮明に残っている。
 
  その後、サラサは奴隷闘技場で生活することとなり。
  その名は主国に広く知れ渡り、ネキツ公爵の奴隷闘技場へと移されることになった。
 
 
  そして、いつの間にか、王者になっていた。
 
 
  ひとつしか知らなかった殴り方は、並ぶ者のない破壊力を誇るようになり。
  対戦者の生存率はゼロという、恐るべき大砲へと進化していた。
 
 
 
 
 
「……さて。今日のお勤めも終わり、っと」
 
  控え室に戻るなり、気の抜けるような大きな伸びをしながら、サラサは明るい声を出した。
  全身傷だらけ。数カ所骨にヒビも入っている。
  しかしそれでも、彼女はまるで何事もなかったかのように振る舞っていた。
 
「んー。晩ご飯まですることないんだよなあ。
  今日はメインイベントじゃなかったから結構時間早いし。
  ……ネキツ様は戦いを引き延ばせるならもっと良い扱いにしてくれるって言うけど、
  あれ以上受けてたらボクの体が壊れちゃうしなあ……」
 
  取り留めもないことを呟きながら、てぺてぺと控え室を後にする。
  生来より頑丈にできているサラサは、多少の裂傷と骨折では、医務室に行かないのが常である。
 
「てけとーに散歩でもしようかなー……」
 
  勝率最高の王者には、それなりの権限が与えられているので、
  サラサは闘技場の敷地内を自由に歩き回れる。
  故に、奴隷が歩き回っても咎める者は居らず、逆に敬礼する者までいたりする。

 

 

「――っと、そういえば」
 
  呑気に進めていた足を、ふと止めて。
  サラサは、ひとり思案顔。
 
「上から覗いてたあいつら、何だったんだろ?」
 
  試合中に気になっていたこと。
  普段は貴族連中の特等席として、高級そうな服を着た連中が見下ろす場所に。
  サラサより年下に見える二人の女がいた。
  最初は、何処ぞの貴族の娘かとも思ったが――遠目からでもわかる、
  あの視線は、貴族令嬢のものとは思えなかった。
 
  ――あの視線の鋭さは、正直、戦っていた相手よりも怖かった。
 
  離れた距離からでも、きっと自分を殺せていた。
  そんな怖さが、連中にはあった。
  一体何者なのだろうか。
  普段は食事のメニューしか気にならないサラサだったが、
  あの金髪娘二人組は、何故か気になって仕方なかった。
 
「あいつらは、きっと強い。
  ……それと、なんだか――」
 
  ――ボクに似てる、気がする。
 
  そう、思った。
  思ってから、思わず吹き出してしまった。
  闘技場の特等席に上がれるような人物と奴隷の自分とでは、身分に差がありすぎる。
  まさか貴族の賓客が、自分のように海賊の玩具だったはずがあるまいし。
  きっと錯覚、そう自分に言い聞かせながら、しかし胸の辺りはモヤモヤと。
 
「……あー。せめて有名どころの貴族だったら、ネキツ様が私を紹介してくれると思うんだけど。
  …………。
  …………ゆうめい、どころ?
  ……あれー……なーんか忘れてる気が……」
 
  立ち止まり、サラサはその場で考え込む。

 

「今日は……なんかあったような……。
  ……確か……朝……何か言われたような気がするけど……」
 
  朝。
  ネキツ公爵の使いが個室に来て。
  何か、言伝を――
 
「――ああああああああああああっっっ!!!!?
  しまった! 今日は竜騎士様が来るんだった!!!」
 
  特にやるべきことはないが、非礼の無いように、とのことだった。
 
「やっば、こんなことしてる場合じゃない!」
 
  国の英雄とも言える“竜騎士”は、
  奴隷達の間にもその名は広く伝わっている。
 
  曰く、上位竜すら屠る強者だとか。
  曰く、騎手は竜より強いだとか。
  曰く、その強さは闘技場王者すら足元に及ばない、だとか。
 
  折角、間近で竜騎士を目にすることができるのだから、この好機を逃す手はなかった。
 
 
 
「有名どころを迎えるんだから、普通の応接室じゃないはず。
  最上階の特等席には、さっきの金髪二人がいたから違うし……。
  ……あ、3階の来賓喫茶室かな? あそこ結構豪華だしっ!」
 
  階段を駆け上るのももどかしく、
  壁を蹴って三角跳びの要領でぐんぐん上へと昇っていく。
  流石は闘技場王者といったところか。その運動量は常人の枠を大きく外れていた。
 
  今のサラサは、竜騎士を間近で見る期待に溢れていた。
 
  海賊の間で顔色を窺って生きていたサラサは、人を見る目に自信があった。
  遠目からでもじっくり見られれば、相手がどれくらい強いのかはわかってしまう。
  自分より強いと言われている竜騎士。
  その強さはどれほどのものか、その立ち居振る舞いだけでも見ておきたい。
  そんな風にワクワク気分で、しかも壁を蹴って進んでいたサラサは。
 
  当然の如く前方不注意で。
 
  三階に達し、手すりを飛び越えそのまま廊下へを駆け出そうとしたところで。
  ちょうど、死角から進んできていた人物に、ぶつかりそうになった。

 

 

「――のひゃあっ!?」
「うわっ!?」
 
  間抜けな悲鳴を上げながらも、何とか衝突は免れようとするサラサ。
  しかし、相手は驚いて足をもつれさせてしまったらしく、
  そのままサラサとは逆方向に転ぼうとしていた。
 
「危な――」
 
  咄嗟に手を伸ばし、相手が倒れるのを防ごうとする。
  ――しかし、脳髄を白く染める直感に、サラサは思わず手を引いた。
  刹那。
  サラサの手が伸びようとしていた空間に、目にも留まらぬ剣閃が煌めいた。
  ――速く、そして何より綺麗な剣閃だった。
  己の腕が斬られようとしていたのにもかかわらず、サラサは感嘆の溜息を吐いてしまう。
 
  再び剣閃が煌めこうとして、サラサは慌てて後ろに跳んだ。
  打撃はともかく、斬撃を今の体で受けるのは厳しかった。
  ぶつかりそうになったのはこちらなのだから、平身低頭して、許しを請うほかないだろう。
 
  そう思い、改めて、相手の方を見た。
 
  目の前の女性――貴族らしい華美な衣装と、それに似合わぬ大剣を担いでいる。
  手に持つ小剣は真っ直ぐサラサの方を向いていて、一分の隙も見当たらない。
  紅い髪は剣を振った余韻で揺らめいて、まるで闘志が燃えているようにさえ見えてしまう。
 
  サラサは直感した。
  ――この人が、竜騎士だ。
 
  剣を持たない手は、先程サラサがぶつかりそうになった相手を支えていた。
  ……あの一瞬で、斬撃を放ちながら人――男性を受け止めるとは。
  その技量に、思わず背中が粟立ってしまう。
 
  ――と。
“竜騎士”が、口を開く。
 
「一国の王子に危害を加えようとは――その命、惜しくないのね?」
 
  その瞳には、冷たい炎が燃えていた。サラサは、あれれ、と首を傾げる。
  言ってる意味はさっぱりだが、相手が怒っているのはよくわかった。
 
 
(……ひょっとして、これって、結構やばい状況だったりする?)
 
 
  人気のない通路にて。
  竜騎士と闘技場王者が、対峙していた。

5

 * * * * *
 
  竜騎士ケスクと女奴隷サラサが対峙したのと同時刻。
  闘技場の一角に設けられた応接室にて、メイラはネキツに呼び出されていた。
 
  周囲に護衛の姿はない。
  しかし、ここはネキツの闘技場の中。属国の王としては命を完全に握られている形となる。
 
「――それで、枠が余っているようでしたら、
  是非とも私のサラサを大会に出場させて頂けないでしょうか」
 
  ネキツ公爵はにこやかに、メイラ王に“お願い”をした。
  その笑顔は一分の乱れもない完璧なもので、まるで能面を連想させる。
  管轄の違う貴族なれど、メイラ王に断る権限はない。
  名目上はただのお願いだが、これは強制以外の何ものでもなかった。
 
「私の方としましては、ネキツ様の推薦であるならば、喜んで歓迎いたします。
  主国一の闘技場、その王者ともなれば、優勝候補の一角とみて間違いないでしょう」
「ありがとうございます、メイラ王」
「しかし――よいのですか?」
「? 何のことですか?」
「あの少女……見たところ、武器を使わないようですが。
  当方の大会には、あの御竜騎士様も出場なさりますが……」
 
  メイラ王の、当然といえば当然の配慮に対し。
  ネキツ公爵は、くつくつと可笑しそうに笑いを零した。
 
「構いませんよ。サラサが首を落とされるのであれば、それはそれで。
  私としては、大会を盛り上げる要員さえ提供できればそれで満足ですから。
  ただ――」
 
  ネキツはそこで一旦言葉を切り。
  はじめて、能面のような笑みを外し。
  深く深く、唇の端を吊り上げた。
 
 
「――あの女奴隷なら、竜騎士相手にも良い勝負をするでしょう。
  殺すのは無理かもしれませんが、手傷を負わせられるのは間違いない」
 
 
  それで充分なのですよ、と公爵は嗤った。
  王は何も答えられず、老狐のような深い笑みを、ただ見つめるしかできなかった。

 

 

 * * * * *
 
「――見たところ、ここの囚人のようですが。
  クチナ王子に狼藉を働いた罰、その身に受けて頂きましょうか」
 
  小剣を構えるケスクの口調に迷いはなく。
  目の前の少女を斬り殺すつもりだということが、嫌でもわかった。
 
  ケスクの言葉を聞き、少女はぽかんと口を開いて、
  クチナの方を間の抜けた表情で見つめてきた。
 
「……おうじ、さま?」
 
  ここで「はい、そうです」と答えるべきかクチナは迷い、
  そもそもそんな場合じゃないことを思い出し、改めてケスクの方を見る。
 
  主国随一の戦闘力を誇る竜騎士は、殺気を隠すことなく女奴隷に相対している。
  自ら護衛を名乗り出て、すぐ傍にいたにもかかわらず、接触を許してしまったことが、
  ケスクの自尊心をいたく傷つけ、酷く殺気立っているのだろう、とクチナは判断した。
  実際に相手が此方の命を狙う刺客であれば、ケスクを止める必要なんて欠片もないが、
  ケスクを前に間抜けな表情を晒している少女の場合は、ただぶつかりそうになっただけで、
  クチナには、彼女が殺意や害意を持っているようには見えなかった。
 
  ――要は、こちらの前で良い格好をしたがってるだけなのだ。ケスクは。
 
  溜息混じりに項垂れて、頭を上げたときにはクチナの決心は固まっていた。
  幼馴染みの不手際は、自分が拭うのが筋だろう。
  そう思い、あとで色々言われるんだろうなあ、と覚悟しながら。
 
  クチナは、ケスクと少女との間に割って入った。
 
「――ケスク様。彼女は通りがてら私とぶつかりそうになっただけです。
  それだけで御剣の錆とするのは些か厳しすぎるのではないでしょうか」
 
  あくまで一国の王子として。
  失礼になりすぎないように、かつケスクの体面を汚さぬように。
  気を付けて、そう進言した。
 
「く、クチナ! どいて! 危ないよ!」
「って、こっちが体面気にして丁寧に言ってるそばから……」

 

 

 とにかくケスクを落ち着かせなければ、と思ったクチナは。
  一歩近づき、ケスクの方をじっと見る。
 
「う……」
 
  すると不思議。ケスクは顔を赤らめて、そわそわし始める。
  じーっと見つめ続けるクチナ。
  やがて耐えかねたケスクは、真っ赤な顔を正面から逸らした。
  そこへすかさず声をかける。
 
「ケスク。お願いだから剣を引いて。
  この人は僕を狙ってなんかいない。だから、ケスクが剣を振り回しちゃ、だめ」
「…………ず、ずるいよクチナ……。
  ……わ、私の方が偉いんだからね!」
「……それは重々承知しています。
  ですが、無実の方に罪を着せるのは見過ごせません。
  どうか剣を引いて頂けないでしょうか」
「あ……やめ、だめ……! 言うとおりにするから!
  だからさっきみたいに気さくに話して!」
 
  真っ赤な顔で懇願してくるケスク。
  それに頷き、ケスクの頭を優しく撫でる。
 
「……ありがとう、ケスク」
「こ、こんなこと許すの、クチナだけなんだからね!?
  これだけじゃ誤魔化されないんだからね!?」
「わかってるよ。あとで何でも言うこと聞くから。だから、剣を収めて」
「……うん……」
 
  手を戻すクチナ。
  それをぽーっと見つめながら、ふわふわした挙動で小剣を収めるケスク。
 
  これでもう大丈夫かな、と安心したクチナは。
  振り返り、改めて少女の方に顔を向ける。
 
「――あの」
「は、はいっ!」
 
  何故か背筋をピンと伸ばし、上擦った声で返事をする少女。
 
「すみませんでした。此方の不注意でご迷惑をお掛けしました」
「い、いえ! ごごご迷惑だなんてことは!
  ボクの方こそ、ちちちちゃんと階段を上らずに、
  壁を駆け上がってしまって申し訳ありませんでした!」
 
  鯱張って答える少女。何故にそこまで畏まるのかわからずに、クチナは首を傾げてしまう。

 

「……あの、どうしてそんなに畏れているのですか?
  私のせいで貴女に剣を向けさせてしまったことは本当に申し訳ありませんが、
  それ以外に何か気の障るようなことをしてしまったのでしょうか?」
「い、いえ! そそそんなことはありません!
  こっちこそ、王子様だなんて知らずにぶれーなことをっ!」
「……?」
 
  王子とはいっても属国の王子なので、
  主国の臣民に比べれば、立場は下手すれば下の筈なのに。
  まるで目の前の少女の態度は、主国の王子に対するもののようで――
 
「――あ。勘違いさせてしまったのでしたら申し訳ありません。
  私はこの国の王子ではありませんよ?
  ケスク――御竜騎士様に気安く話しかけられるのは、あくまで個人的な関係があったからで、
  私自身は大したことのない、属国の王子ですので、そんなに畏まらなくても結構ですよ」
「……へ? ……そうなの?」
 
  再び間抜けな顔を晒す少女。
  それに笑顔で頷き返すと、少女はへなへなとその場にへたり込んだ。
 
「……なんだ。驚かせないでよー……。
  不敬罪で死刑になっちゃうんじゃないかって本気で怖かったんだから……。
  今までにないくらい頭使って、丁寧に話したのが馬鹿みたい……」
「あはは。すみません」
「あー、でも、竜騎士様を止めてくれたのはありがとう」
「いえ。私としても彼女が無闇に人を傷つけるのを見たくはありませんので」
 
  先程までの緊張した空気は何処へやら。
  クチナと少女はすっかり和みきった様子で、つい談笑してしまった。
 
  それを気に食わない者が、約一名。
 
 
「――ちょっと! 貴方!
  御子ではないとはいえ、一国の後継者に対してそのような無礼な振る舞い、
  許されると思ってるの!?」
 
  うがー、と食ってかかるケスク。
  先程までの殺気はないが、それでも敵意はてんこ盛りだった。
  ケスクとしては、クチナと仲良く話す女は須く敵、という信念がある。
  故に、斬らないまでも窘めておくつもりだった。
  相手は女奴隷。貴族であるケスクに対して、逆らう権限など何処にもない。
  とりあえず気の済むまで土下座させ、クチナにこの女の惨めな姿を見せつけるつもりだった。
 
  しかし。
 
 
「――あ、ごめんなさい竜騎士様。
  大好きなクチナ王子、しばらく貸して下さいな」
 
 
  あろうことか。
  女奴隷は、ケスクのことを挑発してきた。

 

「……よく、聞こえなかったのですが」
 
  すらり、と自然な動作で背中の剣を抜き放つケスク。
  その瞳は鋭く、挑発してきた女奴隷を見据えている。
  殺気は先程までの比ではない。
  竜騎士ケスクは、れっきとした上位貴族。
  女奴隷が無礼な振る舞いを行える相手では、ない。
  この場で斬り殺しても、誰もケスクを咎めないだろう。
 
「――自己紹介が遅れたね。
  ボクはサラサ。この闘技場で、一番強いよ」
「お山の大将が粋がるのは勝手ですが。
  その結果、首が落ちようとも文句は言わないで下さいね?」
「……言うねえ、竜騎士様。いいよ。斬ってみなよ。
  ただ、一撃で即死させないと――あんたが死んじゃうよ?」
 
  言いながら。
  少女――サラサは、ゆっくりと腕を上げ始めた。
 
  それだけで。
  通路の空気が、変わった。
 
  ぐにゃり、と空間がねじ曲げられたかのような錯覚。
  ケスクは冷たい眼差しで女奴隷を見据え、
  サラサは小馬鹿にした笑いを竜騎士に向けていた。
 
 
  そしてクチナは。
  落ち着いて、ケスクの方に歩み寄り。
  剣を握る手を、優しく、両手で包み込んだ。
 
「……クチナ、離して」
「だめだよケスク。落ち着いて。君らしくもない。
  ――彼女の狙いは君だよ。わざわざ乗る必要なんてない」
「……私?」
「うん。そうでしょ?」
 
  訊ねながら、サラサの方へと視線を送る。
  サラサは、既に腕を上げ終えていた。
 
「王子様。そこ、危ないよ」
 
「ケスクの実力が見たかったんだよね。
  だって君、声が震えてるから。挑発なんて、慣れてないでしょ」
「…………」
「だけど、残念だったね。
  ――竜騎士ケスクは、そんな挑発には乗らないよ。
  彼女は冷静で、常に周りのことを考えられる、僕の自慢の幼馴染みだから」
「…………むー」
 
  自信満々に言い放つクチナを見て。
  サラサは毒気を抜かれたように、構えを解いた。

 

「あーもう、いい機会だと思ったんだけどなあ」
 
  サラサは溜息を吐きながら、肩を竦めて背中を見せる。
  ケスクの方は、クチナにべた褒めされた手前、大人しくせざるをえなかった。
 
「でもまあ、噂の竜騎士様が、まさか男に骨抜きになってるとは思わなかったよ」
「――ほ、骨抜きなんかじゃありませんっ!」
  身を乗り出して、しかしクチナの手を振り払えない状態で、ケスクはサラサに抗議した。
  しかし竜騎士の叫びなどどこ吹く風、サラサは可笑しそうに笑いながら振り返った。
 
「でも、王子様――えっと、クチナ様?」
「うん。君はサラサでいいのかな」
「いいよー。クチナ様、よく、ボクが緊張してたってわかったね。
  これでも一応、怖いのとか辛いのとか隠すのは得意な方なんだけど」
「みたいだね。
  でも、なんだかわかっちゃったから」
 
  あっけらかんと言い放つクチナに。
  サラサは、再びぽかんとした表情に。
 
「――あははははは! クチナ様、面白い人だね!
  また、会えるかな? 私の試合見に来てよ!」
「く、クチナはここから離れた国の者ですから、二度と来ることはありません!」
「竜騎士様には聞いてないよ。
  クチナ様に止められなかったら、今頃酷いことになってたのに」
「――そちらの方こそ、クチナが止めなかったら、首と胴が別れていたのに」
 
  再び、険悪な雰囲気になる二人。
  クチナはもはや、溜息を吐くしかなかった。
 
  しかし。
  サラサの態度には、やはりクチナは首を傾げてしまう。
  ケスクの実力は、クチナもよくわかっている。
  闘技場で一番強いとサラサは自称していたが――言っちゃ悪いが、
“その程度”では相手にもならないだろう。
  なのに、この自信。
  相手の実力を読めない未熟者――ではなさそうだ。
  最初の衝突以後の立ち回りといい、ケスクの挑発の仕方といい、
  サラサは、相手の雰囲気を読むことには長けているように見える。
  なのに――自殺願望があるとしか思えない、この振る舞い。
 
  まさかとは思うが。
 
  間近で竜騎士ケスクを見て。
 
“これなら勝てる”と確信したとでもいうのだろうか?

 

 

 そんなはずはない、とクチナは思った。
  大体、装備からして差がありすぎる。
  防具に関しては、ケスクも今日は華美な軽装のため、大差ないとしても。
  ケスクの大剣に対し、サラサの方は素手である。
  何やら高級そうな革製のグローブを付けているようだが、竜騎士の剣を防ぐのは難しいだろう。
 
  不思議な女性だな、とクチナは思った。
 
  ひょっとしたら、見た目通りの年齢ではないのかもしれない。
  クチナは、見たところ4〜5歳年下と思ったが。
  自分と同じくらいの年齢なのかもしれない、と感じた。
 
  ――単純そうに見えて、なにか読めない歪みがある。
 
  ああ、そうか。と、クチナは唐突に気付いてしまった。
  ――似ているのだ。自分のよく知る少女と。
  気付いてしまったから。
  つい、後先のことを考えずに、訊ねていた。
 
「サラサ。ひとつだけいいかな?」
「んー?」
 
 
「――今は、昔と比べてどうかな?」
 
 
  サラサの動きが、止まった。
  そして、探るような瞳で、クチナのことを見上げてくる。
「クチナ様は、私の過去を知ってるの?」
「知らないよ。でも、少しだけ気になったんだ。
  別に、過去のことは何も言わなくていいから、問いにだけ答えてほしい」
「…………」
 
  クチナの言葉に。
  サラサは真剣に考え込み。
 
 
「わかんない。
  大して、変わらないから」
 
 
  そう、答えた。

 

 その答えは。
  クチナを動かすには充分だった。
  ケスクが止める間もなく、サラサのもとに駆け寄るクチナ。
  そして。
 
「また来るよ。
  そのときも、会ってくれるかな」
 
  サラサの両手を強引に掴み。
  真剣な表情で、そう言った。
 
「え……あ……うん」
 
  サラサの方はわけもわからず。
  ただこくこくと頷くのみ。
 
「いつになるかはわからないけど――絶対。約束する」
「ぼ、ボクとしては別にいいんだけど……どうしていきなり」
「……サラサは、奴隷なんだよね?」
「へ? そうだけど、何を今更」
 
「じゃあ、僕がサラサを買うよ。
  闘技場で一番強いっていうのなら、少し値が張るかもしれないけど……。
  絶対に、いつかお金を貯めて、君を買うよ」
「……? ……?」
 
  サラサの方は大混乱。
  ケスクは後ろで何やら喚いている。
  それを全くもって気にせずに、クチナは。
 
 
「だから、それまで元気でいて」
 
 
  そう、言った。
  サラサは何度目かわからない、間抜けな顔をクチナに晒し、
  ――ふと、得心がいったかのように、大きく頷いてみせた。

 

 * * * * *
 
  クチナたちと別れてからしばらくして。
  ふらふらと彷徨い歩いていたサラサは。
  唐突に、その顔を大きく崩した。
 
「……っ!」
 
  泣いていた。
  ぼろぼろと、涙の粒がこぼれていく。
 
  胸の奥がぎゅうぎゅうに締め付けられ、目から全てか絞り出されていく。
  はじめてだった。
  生まれてから、はじめてのことだった。
 
「……“元気でいて”だって……あはは……」
 
  泣きながら、空笑いが漏れてしまう。
  今までの人生、命令や強制、叱責は数え切れないほど受けてきた。
  ――船の掃除をしろ、股を開け、立って殴れ、試合を盛り上げろ。
  ――やり直しだ、ふざけるな、このくらいのこともできないのか。
  全部、ぜんぶ、“今すること”か“過去にしたこと”に対してだった。
  どうせ奪った赤子だから、と。
  どうせ身寄りのない奴隷だから、と。
“これから先”には欠片も期待せず、道具として機能することだけを求められていた。
  しかし。
 
「はじめて……私の“これから”を心配してくれた……!」
 
  漠然とした未来への気遣い。
  誰にだって、心配してくれる家族や仲間、あるいは利害関係の一致した者がいるはずで。
  それらの者から当たり前のように与えられるものなのかもしれない。
  でも。
  サラサにとっては初めてで、とても、嬉しいものだった。
  それは、21年間、サラサを形作ってきた何かを壊し。
  暖かい何かを、生み出してくれた。
 
 
「……えへへ。ボク、予約されちゃった……」
 
  ひとしきり泣いた後。
  今度は浮き足だってふらふらと。
  サラサは、闘技場の通路を彷徨うことになった。
 
 
 
  浮きに浮かれたサラサが部屋に戻り、ネキツ公爵の出した命令を知るのは。
  ――もう少し、先だった。

6

 * * * * *
 
「……ふむ。やはり、この国も、か」
 
  大通りにて串焼きを頬張りながら、呆れの混じった溜息を吐いたのは。
  幻想竜の年若き雌にして、辺境にその名を轟かせる流れの刀使い、ヘイカである。
 
  彼女が見上げているのは、現在滞在している小国の公的機関、その建物である。
  一月後に開かれることになった武術大会で優勝し、王女になる気満々のヘイカとしては。
  この国はどのような国なのか、色々知っておくべきだと思い、
  国中の様々なところを見て回っていた。
  幸いなことに、前の国である程度稼いでいたので、
  のんびり旅行気分で、各地の美味珍味を味わいながら、ヘイカなりに国の状況を観察していた。
 
  今、ヘイカが見上げているのは。
  小国の、比較的王都に近いところに位置する、主国の技術提携を受けている研究所だった。
  表の看板には『王立難病研究所・フトクロ支部』とある。
  建物の外観は白く染められ、一見すればただの医療施設以外の何物でもない。
 
  しかし。
  ヘイカの嗅覚は、嫌でも“それ”を感じ取ってしまう。
 
「――竜の匂いがだだ漏れだ。近寄るだけで吐き気がするぞ。
  脆弱な人間が我々に憧れるのはわからなくもないが、さりとて容認する気には、なれぬな」
 
  我が王女になったら即刻取り潰させようか、などと考えながら、ヘイカは建物を見上げていた。
「……入ってみるか?」
  ふと、中を見てみたい衝動に駆られてしまう。
  しかし、辺りを見回してからヘイカは思い留まる。
  ――周囲の警備状況が並ではない。
  捕まることこそないにしても、騒動になってしまうのは間違いない。
  雲隠れするのは簡単だが、それでは大会に出場できなくなってしまう。
  重要度としては、武術大会の方が圧倒的に上だ。
  今、無理して覗く必要はないだろう。
 
「……それに、王女になれば、このような処、好きなところに入れるだろうしな」
 
  やはり無茶をするのは止めておこう、と。
  自分にそう言い聞かせたところで、ふとヘイカは、研究所の入り口に、
  一人のメイドが立っているのに気が付いた。
 
「……? 研究所の使用人か?
  しかしそれでは、あんな所に立ちつくしているはずもなかろう」
 
  メイドは誰もが見とれてしまいそうな美しい姿勢で。
  入り口の脇に、まるで完成された彫刻のように突っ立っている。
  ただのメイドではない。少なくとも、それなりに格の高い家に仕えているメイドだろう。
  そんな輩が、何故あんな所に控えているのか、ヘイカはとても気になった。
  彼女はまだ341歳。気になるものを確かめずにはいられない年頃である。
  故に、串焼きを食べながら、呑気に使用人の方へと歩み寄っていった。

 

 * * * * *
 
「――すまん、そこの使用人よ」
 
  王城に仕えるメイドにして、過去にクチナの命を狙っていた暗殺者、ツノニは。
  小さな女の子に突然声を掛けられて、少しばかり驚いた。
  しかもかなり変な口調で。この辺りの方言かしらと、つい首を傾げてしまう。
  建物の入り口に立っているツノニに声を掛けてくるということは、
  この研究所に用があるのだろうか。
  しかし、女の子はどう見ても10代前半。王都に近いこの場所で、一人で歩くには少々危ない。
  見たところ、近くに保護者の姿はない。
  ならば迷子だろうか――そう思い、できるだけ優しい声色で女の子に応対する。
 
「どうしたの、お嬢ちゃん。ひょっとして迷子かな?」
 
「別段道には迷っていない。少々聞きたいことがあるのだが、良いか?」
 
  なんというか、見た目の割には随分と老けた口調である。
  少々面食らいながらも、どうせ暇だから、とツノニは少女に笑顔で答える。
 
「お姉さんに答えられることなら、何でもいいよ。何が聞きたいのかな?」
「助かる。――いやな。お前のような使用人が、何故此のような場所に突っ立っているのだ?
  それがどうしても気になってしまってな。つい聞きに来てしまったのだ」
「ありゃ、やっぱし目立ってたかな……。
  あー、えっとね、お姉ちゃんはご主人様の付き添いでね、ここまで来てるの」
「ならば、共に中に入れば良いではないか」
「んー。お姉ちゃんはあくまで使用人だからねえ。こういう場所には入れないのよ」
 
  ツノニがそう言ったとき。
  少女の瞳が、妖しく輝いた。
 
「――ふむ、それは何故だ?
  ここは普通の医療施設だろう。使用人が立ち入りを禁じられる類のものではないはずだが」
 
  む、と。ツノニは眉をひそめてしまう。
  普通の女の子の言葉とは思えない。
  ――まさか、間者か?
  奇妙な言葉遣いも、言語体系の違う異国から訪れたのであれば、当然のことである。
 
(……んー。でも、潜入調査する輩って大抵、言語は死ぬほど叩き込まれるはずだけどなあ)
 
  間者は疑われないようにするのも仕事のひとつである。
  目の前の女の子の場合、全身からして疑って下さいと言っているようなものだ。
  このような者を間者に使う国はないだろう。
  ――では、いったい何者なのか。

 

 

「えっとね、中では色々怖い病気について研究しているから、一般の人は立ち入り禁止なのよ。
  だから私は、ここでご主人様を待ってるの」
「なるほど。つまりお前の主人は医療関係者ということか?」
 
  ツノニは、ここで何と答えるべきか少しだけ迷った。
  ――中にいるのが王子と知られなければ、問題ないだろう。
  そう判断したツノニは、言葉を選びながら口を開いた。
 
「えっとね、お医者様ってわけじゃないけど、中の患者さんにお知り合いがいるのよ。
  ご主人様はそのお見舞いでここに来てるの」
「患者……? 中には人間がいるのか?」
「? 医療施設なんだから、患者さんだっているわよ?」
「そんなはずは……。……まさか人間も含めた研究を……?
  ……しかし、こんなにきつい匂いの中に、研究者以外の常人が……?」
 
  何やら小声でぶつぶつ女の子は呟くが、
  あまりに小声だったのと、聞き慣れない発音が混じっていたのとで、
  その内容はツノニには届かなかった。
  ――もし、ツノニが女の子の言葉を明瞭に聞き取れていたら。
  きっと、彼女を逃がしはしなかっただろう。
  ツノニの訝しむ気配を察したのか、女の子は呟きを止め、何事もなかったかのように顔を上げた。
 
「色々ありがとう。とりあえず、お前がここに立っている理由はわかった。
  ――時間を取らせてすまなかったな。それでは我はこれで失礼する」
「へ? ああ、別に構わないけど……。
  ……ねえ、私、そんなに目立つかな?」
「我が気に留める程度にはな。
  せめて、近くに椅子でも置いて、座って待てばいいと思うが」
「……あー。確かにメイドさんが立ちっ放しってのは絵的にアレよね……。
  通りがかる人に変な目で見られてたのかなあ、やっぱり……」
「まあ、我からの言及はこれ以上は避けておこう。ではな」
 
  そう言って、女の子はその場を立ち去った。
  変な女の子だったなあ、と。ツノニは彼女の背中を見送った。
  この辺りでは見かけない珍妙な服装に、腰に差していた“刀”。
  女の子の軽い足取りから、おそらく玩具だとツノニは判断したが、それは果たして正しかったのか。
  今から少女を追いかけて、有無を言わさず捕縛した方がいいのではないか。
 
「……ま、間者を見つけるのまでは私の仕事じゃないし。
  今の私はあくまでただのメイドさん。余計なことはしない方がいいか」
 
  そう呟いた後、手近なところで大きめの岩を探し、
  ツノニは立ちっ放しを止めて、その上に腰を下ろすことにした。
 
「んー……今頃くっちー、優しくしてあげてるんだろうなあ……。
  ……いいなあ……。ヌエちゃん、羨ましいなあ……」
 
  空を見上げて溜息を吐く。
  主が帰ってくるまで、ツノニは一人、待つしかなかった。

 

 

 * * * * *
 
  竜の研究は、大陸の各国が挙って力を入れている分野である。
  人間に持ち得ない強大な能力を備え、中には意思疎通な種族まで存在する。
  医療や軍事の分野では、竜の生命力や戦闘能力が特に活かされるため、
  どの国も一番力を入れている。
 
  それは、主国でも同じこと。
  最も有名なのは竜騎士で、大陸一の戦力と言ってもいい。
  それ以外でも、主国は竜の研究に余念が無い。
  属国にも様々な研究施設を建てさせ、多角的な研究を目指している。
  主国が属国に行わせる研究は、主国内では危険とされているものが多い。
  しかし、属国という立場上、何処も断ることができず、
  主国の言うなりに研究所を設立する国が大半である。
 
  クチナの国にも、それは強制された。
  この国で行われている研究は、特に問題のある研究である。
  何処の国も手を出したがらない分野、その中枢を任されている。
  主国内の人権派が嗅ぎつけたら、大問題となってしまう可能性が高い。
 
  しかし――メイラ王は自ら率先して、研究所を設立した。
 
  研究所が設立されたのは15年前。
  王子の体が致命的に弱いと断定され、まともな手段では健常な体になれないとわかった頃。
  当時の王は、藁にも縋る思いで、その研究に手を出した。
  結果として、クチナ王子の治療に役立つことはなかったが。
  特に危険な研究を率先して行ったことにより、何の取り柄もない小国は、
  一躍その評価を上げることとなった。
 
  ――もとは、クチナ王子の健康のため。
  そんな私的な動機により作られた研究所は。
  今では、何処よりも非人道的な研究の最先端として。
  主国の貴族に、高い評価を受けている。
 
  皮肉だなあ、とクチナは来るたびに思ってしまう。
 
  自分のせいで作られた研究所。
  そこに、同情心で通い詰める、自分。
  研究の“成果”を目にするたび、心がざくざくと切り刻まれる。
  しかし、どうしても、目を逸らすことができずに。
  せめて自分にできることを、と。
  痛む心を必死に隠し、クチナは研究所に訪れていた。

 

 

「――くちな、どうしたの? へんなかお」
 
  ぷに、と頬をつつかれた。
  慌ててクチナは笑顔を作る。
  ――安っぽい同情心は隠し通せ。
  自分にそう言い聞かせ、クチナは声を掛けてきた少女に向き直った。
 
「なんでもないよ、ヌエ。ちょっと最近、色々あってさ。疲れてるんだ」
「そーなのかー。じゃあ、いっしょにねよ。ねればつかれもとれるよ、きっと」
 
  そう言って、少女はクチナに抱きついてくる。
  胴に押しつけられる柔らかさには、つい顔を赤らめてしまいそうになるが――
 
「痛い痛い。ヌエ、つの、角が当たってる」
「あ、ごめんー」
 
  頬にぐりぐりと押しつけられていた硬い“角”が、ひょい、とどけられた。
  角。
  人間には持ち得ないはずの、部位。
  それが――目の前の少女から、生えている。
 
  薄い蒼色の中に、やや緑がかった頭髪。
  その額の生え際に、大きな角。
  装飾品の類ではない。角は少女の頭蓋と一体化しており、皮膚も血管も繋がっている。
  完全に少女の“器官”として、存在していた。
 
「くちなー」
 
  角の生えた少女――ヌエは、角がクチナの顔に当たらないよう気を付けながら。
  クチナの胸に耳の後ろをぐりぐりと押しつけている。
  微弱だが臭腺が付いているので、人間には嗅ぎ取れない微かな匂いをクチナに擦り付けているのだ。
  もっとも、本人にそんな意識はなく、ただ本能の赴くままに“好きなもの”
  にくっついているだけなのだが。
 
  ヌエはクチナへ耳の後ろを擦り付けるのに夢中で、
  一緒に寝る、という提案は既に忘却の彼方の模様。
 
「ヌエ。角の方は、最近調子はどう?」
「んー? つのはね、もうびりびりーってしないよ。
  ひっこめるのはまだできないけど、かたくしたりはできるようになったー」
「そう。ヌエは頑張り屋さんだもんね。偉い偉い」
「えへへー。つの、さすってー」
「はいはい。お姫様の望むがままに」
「んー。きもちー」
 
  研究所の一室にて。
  クチナは、研究所の最高傑作――“竜と人間の合いの子”である少女、ヌエと。
  相手の望むがまま、のんびり落ち着ける時間を、過ごしていた。

 

 

 この国における研究所では、主に“竜と人間の融合”について研究が進められていた。
  内容は言葉の通り、竜の能力を宿した人間を作り上げるためのものである。
  竜の有する能力は、どれをとっても人間の科学を凌駕するものであり、
  それを如何に活用するかが、最も重要な課題となっている。
  竜そのものを調教し、思うが侭に操るというのが、現代の主な方向性だが。
  それでは、上位竜の能力を扱うのは難しいため、代わりに考えられたのが、竜と人間の融合である。
 
  竜の能力を人間に宿らせるには、様々な手段が考案されたが。
  どれも実現が難しく、実際は失敗の連続であった。
  そして、研究者達はひとつの手段に辿り着いた。
 
  ――人間に、竜の子を産ませる。
 
  竜と人間のハーフは、竜そのものより遙かに人間への臓器移植が容易であることが判明したのだ。
  あとは、ひたすら産ませて記録を取る作業だった。
  生まれる子の形質は母胎側に強く影響されることが過去の研究で明らかになっていたため、
  人間の女性――様々な条件の者に竜の精子を受精させ、生まれた子を選別した。
  外見が人間と著しく異なる者は、生まれたそばから廃棄し、
  人間に近い外見でも、生存が難しい個体が多く、1年以上生きられない赤子がほとんどだった。
  それでも、数百人に一人の割合で、成長しうる合いの子は生まれてきた。
  合いの子の臓器は、人間のそれと比べ、かなり上質なものなので。
  特に主国の健康志向の貴族に対して大人気となり、
  大抵の子は臓器を移植できる5歳前後で解体されるのが常であった。
 
  実験には人間が必要とされるため、流れの移民や貧困層の人間などを捕らえ、
  献体とすることが多かったが。
  その程度では数は足らず、国内では人身売買が当たり前のように行われるようになってしまった。
  主国では絶対に許されることのない、非人道的な研究である。
  しかし、王自らの積極的な協力により、研究は軌道に乗っていた。乗って、しまっていた。
 
 
  そんな中、生まれてきたのが、ヌエである。
 
 
  彼女は、血中抵抗力の弱い他の合いの子とは違い。
  様々な竜の器官を、その身に移植することができた。
  これは貴重な実験材料になる、と研究者達は判断し、彼女を売買の材料とはせず、
  大事に育てることにした。
  現状では、主国で捕獲可能な12種の竜の器官を移植されている。
  下位竜6種、中位竜5種、上級竜1種の計12種である。
  他にも竜の器官を移植された子どもは大勢いるが、ヌエほどに受け入れられた個体は皆無だった。

 

 今では、より効率的に特定の竜の器官を移植させることが主流となってきたため。
  研究者達にとって、ヌエはもう不要な存在となりつつあった。
  今では戯れ程度に、移植された竜の器官を活用する訓練を受けている。
 
  そして、現段階でヌエは、6種の竜の能力を使えるようになっていた。
 
  もっとも。
  研究者達にとって、ヌエという特殊な個体がどれだけ強くなろうとも、
  それはあくまで例外であり、研究の対象とはなりえないので。
  ヌエは、どれだけ頑張っても、報われない生活が続いていた。
 
 
  そして。
  彼女は、クチナと出会った。
 
 
  クチナの体のために作られた、属国の中でも特に異端としての評価を受ける研究所。
  最初は単なる好奇心で、クチナは研究所を見学した。
  そして、そこで目にした現実に、彼は絶望した。
 
  犠牲となった献体の数は、クチナが初めて見学に訪れた6年目の段階で、2万を超えていた。
  飼い慣らした竜や薬品で操作した竜に人間を犯させ。
  生まれた子供を選別し、不要と判断されたら挽肉にする。
  その挽肉は竜や献体の餌とされ、食育実験まで行われていた。
  献体の女性達は、犯されては異形を産む繰り返しのため、短期間で精神を壊す。
  子どもは人間といえないものが多く、外に出られる者は一体もいない。
 
  クチナは、目を逸らしたかった。
 
  でも、できなかった。
 
  自分のために始まった研究ならば。
  それで国が栄えるのであれば、自分もできる限りのことをしよう。
 
  クチナはそう決心し、勉強がてら、成長した個体の話し相手になっていた。
  そんな中、特に仲良くなったのが、ヌエである。
  彼女は研究所内でも古株なので、最初はおっかなびっくり接していたクチナとも、
  今では親子や兄妹のように、非常に近しい関係となっていた。

 

「――そんなわけで、一ヶ月後に、みんな戦うことになっちゃったんだ」
 
  クチナは、最近の武術大会に関する流れを、愚痴混じりでヌエに聞かせていた。
  彼としても、ヌエの天真爛漫さは、澱みがちな精神に良い影響を与えてくれるため。
  彼女のことを信頼して、様々な話をするようになっていた。
  よって、あまり口外できない内容も、気軽に話してしまうことが多かった。
 
「…………」
「……? ヌエ? どうしたの?」
「……くちな、けっこんするんだよね」
「うん。大会で優勝した人とね。たぶん、ケスクになると思うんだけど――」
 
「――わたしも、でる」
 
  クチナはぽかんと口を開き、間抜けな顔でヌエを見る。
  竜と人間の合いの子は、泣きそうな表情で、クチナを見ていた。
 
「わたしも、くちなのおよめさんに、なりたい」
「だ、駄目だよヌエ! 君も――君まで出るなんて、絶対に、駄目だ!」
 
  慌ててそう言うクチナ。
  主国から出された“自国から一定数の選手を出す”という条件は、現時点で既に満たされている。
  これ以上、自分の近しい人を危険に晒したくはなかった。
  ――しかし、ヌエの決意は固かった。
  普段ならクチナのお願いは何でも聞き入れる少女は、彼に対して、初めて首を横に振った。
 
「やだ! くちなのおよめさんになれば、くちなとまいにちあえるんだよね!?」
「い、いや、結婚したとしても、必ず毎週会いに来るから! だから――」
「まいしゅうじゃ、やだ!
  まいにち! まいにちがいいの! くちなのいないよるはもうやだ!
  くちなと、ずっと、ずっと、ずっと、いっしょにいたい!」
「ヌエ……」
 
 
「くちなは、わたしのいちばんだから。
  わたしも、くちなのいちばんになるの!」
 
 
  そう叫ぶ少女の瞳には。
  迷いは欠片も存在しなかった。

7

 * * * * *
 
  ――何故、こんなことになったのか。
 
  クチナは自室の中央で。
  頭を抱えて悩んでいた。
 
  体調は悪くないはずなのに。
  何故か全身を寒気が襲っていた。
  冷や汗が滴り落ち、時折頭痛がガンガン響く。
 
  風邪でも引いたのかなあ、と現実逃避したくなってしまうが。
  それを許さないのは、周囲の見目麗しき少女たち。
 
 
  右を見る。
  剛槍片手に控える護衛、ユナハ。
  切り揃えられた金髪が美しい少女だが、その顔はへの字口に涙目だった。
  むすーっとしながらクチナの方を見つめている。怖くはないが胸が痛くなる。
 
 
  右前方を見る。
  棒を壁に立てかけ腕を組んでいる親衛隊隊長、イクハ。
  流れるがままの金髪は星の流れを連想させる少女だが、その唇は尖っている。
  こちらも機嫌悪げにクチナの方を見据えている。普段は気さくな少女なだけに、
  思わず背筋が寒くなる。
 
 
  正面を見る。
  しかし、怖くて直視できない。
  下方には突き立てられた大剣。って刺さってるー!?
  ここは一応王子の部屋なので、そんなことができるのは一人しかいない。っていうか怖い。
 
 
  左を見る。
  主国の奴隷闘技場王者、サラサ。
  ほとんど半裸といってもいい格好だが、何故か風格漂う雰囲気を纏っていた。
  客人用に用意された椅子に腰を下ろし、クチナのことをジト目で睨め上げている。
 
 
  左後方を見る。
  扉の傍で静かに控える使用人、ツノニ。
  その表情はどこか冷たく、氷の刃物を連想させる。
  何故かフォークを片手で弄んでいた。くるくる回る銀食器が、妖しい輝きを放っていた。
 
 
  背後にちらりと視線を送る。
  床に胡座をかいている幼き傭兵、ヘイカ。
  この少女だけは、クチナだけではなく、そのすぐ隣を複雑そうな表情で見つめていた。
  ふと目が合うと、何となく背筋が粟立ってしまう。まるで猫の前に置かれた魚のように。

 

 そして。
 
  クチナの隣。
  というか脇にべったり張り付いているのは。
 
 
「くちなー」
 
 
  くるる、と喉を鳴らしながら、至福の表情で微睡んでいる、半人半竜の少女、ヌエ。
  いつもだったら、こんな彼女を見ていると、哀しさと愛おしさが混ざった複雑な感情に
  囚われるのだが。
  今日に限っては、どうしてか、とんでもない恐怖と困惑に囚われていた。
 
 
  どうして、こんなことに、なったのか。
 
 
  * * * * *
 
 
  朝、目覚めたときは、とても爽快な気分だった。
  血の巡りもよく、食欲もあった。
  これならツノニの用意してくれる朝食を、半分は食べられそうだな、と思っていた。
 
  そんなとき。
 
  けたたましい音を響かせて。
 
 
  クチナの寝室の窓が、ぶち破られた。
 
 
「ッ!?」
 
  突然のことに、声にならない悲鳴を上げ、その場に固まってしまうクチナ。
  窓を破った物体は、そのまま部屋の中央を突っ切って、反対側の壁に激突した。
 
「ぐぎゃっ!?」
 
  蛙の潰れたような悲鳴が上がった。
  蒼色の髪が床に広がる。どうやら、年端もいかない少女のよう――
 
「――って、女の子!?」
 
  クチナ、2度目の驚愕。
  寝起きの王子の寝室に、幼い少女が飛び込んでくるだなんて、非常識を通り越している。
  あまりの事態に、呆然とするしかなかった。
  飛び込んできた少女は、頭をさすりながらのっそりと立ち上がる。

 

「痛たたた……。知己の空竜に放り込んでもらうのは、良い手段と思ったのだがな……。
  まったく、加減を知らぬのか、あの馬鹿は……」
 
  何やら愚痴りながら立ち上がったのは。
  クチナは初めて見る、蒼色の髪の少女だった。
 
「……はー。まあ、無事に目的を果たしたから、良しとするか」
 
  少女は朝日に輝く長髪を振り、硝子の破片を床に落とす。
  そして――部屋の主、クチナの方に視線を向ける。
 
「おい、お前」
「え? あ、はい」
「お前が王子だな?」
「えっと――」
 
  クチナが何と答えようか迷った瞬間。
  少女の姿は、クチナの目の前まで移動していた。
 
「なに。別に狼藉を働く気はない。
  少しばかり、頼みたいことがあるのだ」
「いや、っていうか、こんな風に押し入ってる時点で狼藉な気が……」
「気にするな。窓は後で弁償しよう。
  ……妙に高そうな硝子だが、値段は普通のと大して変わらぬよな?」
「えっと……」
 
  突然飛び込んできたくせに。
  妙に深刻そうな表情で訊ねてくる少女に、思わず吹き出しそうになってしまう。
  ふと、硝子の値段を考えようとし、
  そもそもそんな場合じゃないことにクチナが気付いた、瞬間。
 
  壊れそうな勢いで扉が開かれ。
  護衛の少女が、突入してきた。
 
 
「クチナ様、今の音は――」
 
 
  割れた窓。
  不審な少女。
  クチナのすぐ傍に。
 
  ユナハが即断するのに、一刹那もかからなかった。

 

 狭い室内で、しかし何の躊躇いもなく槍を振る。
  半回転した剛槍は、そのまま穂先が少女に向かって流れていく。
  常人なら指先ひとつ動かすのすら困難な時間。
  ユナハは、既に攻撃を放っていた。
 
  空気を切り裂き、少女の首へと穂先が迫る。
  クチナの目には、銀光が瞬いたようにしか映らなかった。
  蒼髪の少女が只の刺客だったのなら、首が千切れ飛んで終わっていただろう。
 
  しかし。
 
  銀光は二条。
  少女の首を狙っていたものと。
  それを跳ね上げる、鋭い一閃。
 
「――なッ!?」
 
  驚きの声を上げるユナハ。
  王子護衛隊隊長の彼女は、その剛力には絶対の自信があった。
  それだけは誰にも負けない。たとえ相手があの竜騎士だとしても、
  純粋な力勝負でなら圧勝する自信があった。
  その剛力で突き出された槍は、どんなものにも阻まれない。そう自負していたのに。
 
  少女の振り上げた刀に、あっさり軌道を変更され、その狙いを外していた。
 
  呆けたのは一瞬。
  しかし、それは度し難い隙だった。
 
  銀光が切り返される。
  頸を狙った一閃に、慌ててユナハは柄頭を合わせた。
  朝日の中、火花が散った。
 
「チッ、鉄製か……!」
 
  少女の舌打ちが響く。
  木製の柄だったら、そのまま斬り通すつもりだったのだろう。
  手に残る感触から、ユナハはそう確信した。
 
  ――何者かはわからないが、強い。
 
  そう確信したユナハは、とにかくクチナを守るべく、
  立ち位置を強引に少女とクチナの間に割り込ませた。
  再び銀閃。柄で防ぐ。
  今度は先程より力が込められ筋が通っていた。黒鉄製の柄に切れ込みが入る。
 
(あんな小さな剣で、この槍を斬るつもり!?)
 
  並の膂力、並の技術では不可能だろう。
  しかし、少女の膂力は見た目通りのものではなく、おそらく技術も一級品。
  先程の防御も、ユナハの力を巧く上に流したのだろう。
  ユナハの知る限り随一の近接戦闘技術を誇るイクハにすら肉薄する。

 

 ――今、私が相手しているのは、姉さんと同格の刺客なんだ。
 
  大会が近いので、怪我をしないようにと慎重に戦うつもりだったが。
  そんな甘っちょろいことを言っていられる相手では、ない。
  そう認識したユナハは、相手が再度攻撃に移る前に、攻め手に転じる。
 
「……せいっ!」
 
  気合い一閃。
  左手だけで、剛槍を一回転。
  手首が砕けそうな勢いで回したそれは、室内の空気をかき回す。
  風圧で、寝室の窓が全て砕けた。
  柄と穂先の軌道に、それぞれ少女の急所があったが、それは難なく避けられる。
 
  そして、少女が剣閃を滑り込ませようとした、瞬間。
 
  ユナハは、強引に槍の回転を止め。
  右手も加えて。
 
  強引に、逆回転させた。
 
  左手の筋が悲鳴を上げる。
  関節の軟骨がガリガリと削られるのが自覚できた。
 
  果たして、剛槍は予想も付かぬ角度・速度で。
 
  ――少女の急所を、狙い打った。
 
 
 
 
  少なくとも。
  クチナには、そう見えた。
  目も開けていられない激戦を、それでも何とか伏せて耐える。
  彼の護衛は、いつも通り、少しの無茶をしながらも、主のことを守っていた。
 
  が。
 
  相手は、そんなユナハを、組み伏せていた。
 
  何が起こったのか、クチナには理解できなかった。

 

「――ふん。手こずらせおって。
  まあ、流石は王子の護衛といったところか。死を覚悟したのは久方ぶりだ」
「……ぎ……ぎぎ……ッ!」
「無駄だ。この極めは、お前の怪力でも外せぬぞ。
  相手の力を利用して、より極まる型だからな。力が強ければ強いほど、外すのは困難となる。
  けったいな爺が教えてくれた技だが、威力は我で実証済みだ」
 
  ユナハの肩が、みしみしと軋みを上げる。
  常人離れした怪力が、強引に少女の極めを外そうとしている。
  しかし、少女の言葉通り、その極めは外れそうもなく。
  ユナハはその場で、震えるのみ。
 
「さて、王子よ」
 
  ユナハを押さえ込んだまま、少女がクチナに顔を向ける。
 
「別に我は、お前に危害を加える気はない。
  もとより、頼みたいことがあって来ただけだ」
「……頼みたい、こと?」
 
  訝しげな視線を、クチナは少女に向けた。
  護衛が倒されてしまった絶望的な状況のはずなのに。
  どうしてか――少女のことを、怖いとは思えなかった。
 
 
「うむ。此度行われる武術大会のことなのだがな――」
 
 
  少女が、更に言葉を続けようとした、瞬間。
  その口が、ぴたりと止まった。
 
 
「――どうしたの? 続きは言わないのかしら?」
 
 
  少女のこめかみに、木製の棒が突き付けられていた。
  棒を持つのは、つい今しがた組み伏せられたユナハの姉。
  王をあらゆる危機から護る、親衛隊隊長、イクハだった。
 
「好きなことを言ってもいいのよ?
  王子の寝室にまで侵入して、言いたいことがあったのでしょう?
  今ならきっと、クチナ様も聞いてくれると思うわ」
 
  イクハの唇の端が。
  きりきりと、吊り上げられる。
 
「――まあ、言い終わったら、殺すけど。
  よくも可愛い妹を虐めてくれたわね。
  ……私、殺すのも得意だから安心してね?」

8

 * * * * *
 
  ヘイカは悩んでいた。
 
  同じ部屋には人間が7人。
  大会の商品であるクチナ王子と。
  どいつもこいつも人間にしては癖のありそうな6人の女。
  下手に動いたら、全員に注目されてしまうそうなこの状況。
  どうすればいいのか、悩んでいた。
 
  当初の目的は、既に達成されている。
  故に、ここに長居する必要などなく。
  さっさと部屋から立ち去って、乱戦の疲れを癒したいところなのだが。
 
  どうしても。
  気になってしまうことが、あった。
 
  クチナ王子の隣。
  幸せそうに微睡んでいる、角の生えた少女。
 
(――竜と人の合いの子、か。
  何処ぞの馬鹿の不始末かとも思ったが、彼奴は違うな)
 
  馬鹿な竜が野の人間を犯して産ませたものではなく。
  おそらく、人間が意図的に“産ませた”合いの子だろう。
  偶発的に生まれる合いの子と比べて、妙に体幹がしっかりしているため、
  成長の段階で、何らかの調整を受けていたことが伺える。
  それに――
 
(――複数の種族の匂いがする。
  雑魚共だけかと思いきや、それなりの奴も含まれているな)
 
  少なくとも3以上。下手したら5〜6種の特性を備えている。
  何より――あの、角。
  あれだけで、幻想竜のヘイカが警戒するに足りてしまう。
  もしあの小娘が、あの角を使いこなすことができるのなら――
 
(……少なくとも我は、戦いたくはないな)
 
  まだ341歳とはいえ、竜族の中でも戦闘能力に優れる幻想竜のヘイカだが。
  少女の“角”から薫る気配には、どうしても背筋が粟立ってしまう。
 
  そんな少女が。
 
  クチナ王子に、べったりと懐ききっている。
 
  それを見ると、どうにも複雑な気分になってしまう。

 ――あの王子は、そんなに良いモノなのだろうか。
 
  ヘイカの目から見て、外見はギリギリ及第点。
  王族として最高級の施しを受けてアレならば、平均以下といえるかもしれない。
  身体は虚弱。まともな戦闘どころか運動すら難しそうだ。
  気質も全く期待できない。ヘイカを含め6人の女性に見つめられ、
  生まれたての子鹿のように震えている。
 
  第一印象は、はっきりいってよろしくなかった。
 
  なのに、あの合いの子は。
  まるで王子が至上の存在であるかのように、身を任せきっている。
  いったい、王子の何があの合いの子を惹き付けているのか。
  気になってしまい、ついつい王子も見てしまう。
 
  見てしまうが、見続けるのは難しかった。
  何故なら。
 
「…………う」
 
  ヘイカが王子を見つめると。
  右前方の二人の少女が。
  これでもか、というくらい、殺気を込めて睨んでくるからである。
 
  剛槍を持つ短髪の護衛と。
  木の棒を持つ長髪の女。
  顔の作りがよく似ているので、おそらく血縁だろう。
 
  まあ、睨んでくるのは仕方ないとは、思う。
  自分は王子の部屋に押し入った不審者であり。
  二人の少女と、本気で戦ってしまったのだから――
 
 
  * * * * *
 
 
  後頭部に突き付けられた殺気に。
  ヘイカはその場を動くことに躊躇した。
 
  突き付けられているのは、ただの棒。
  全力で振り回されるのならともかく。
  大して距離の空いていない状態で強打されても、致命傷にはほど遠いはず。
 
  しかし、ヘイカの第六感は。
  これ以上ないくらい、己が危機に陥っていることを、認識させた。
  下手に動いたら――殺される。

 

(……ふむ。この槍娘が至上の使い手だと思い込んだのが失敗だったな)
 
  今、ヘイカが組み伏せている少女と同格の女。
  棒の長さは、空気の匂いから察するに、ヘイカの刀より少々長い。
  手足の長さも勘案すると、振り返りざまに斬りつけるのは難しそうだ。
 
  それに――
 
「……うぐぐ……姉さん……!」
 
  ヘイカの下から、絞り出されたような声が響く。
  剛槍を片手で回転させ、あろうことかそれを瞬時に逆回転させてみせた怪力の少女。
  この槍娘に勝てたのも、ヘイカとしては幸運としか言い様がない。
  少女はヘイカのことを知らなかったのに対し。
  ヘイカは、少女の武器と特性を事前に知り得ていた。
  故に、少女が強引な攻撃変更を技として組み込んでいることを想像できたのだ。
  初見だったら、先程の攻防では負けていた可能性も高い。
  背後の女をどうにかしても、再びこの少女と戦って勝利を収めるのは難しい。
  最悪、槍娘と棒使いの二人を一度に相手することになるかもしれない。
 
(……この場合は、多少の負傷は覚悟して逃げるのが最善か。
  来た目的は果たされていないが……まあ、やむなしといったところか)
 
  最終手段としては。
  この場で竜の姿に戻って皆殺し、という手もあるが。
  風の噂で聞いた話によると、今日の昼過ぎに竜騎士がこの城を訪れるとのことである。
  そのため、城の内部は少々ごたついていて、ヘイカはその隙を狙って突入したのだったが。
 
(元の身でも、飛竜を自在に繰る達人が相手では、分が悪いな)
 
  竜騎士の恐ろしさは竜族の間でも広まっている。
  まだ年若いヘイカが太刀打ちできるとは思えなかった。
 
(……さて。では、逃げるにはどうするか)
 
  後頭部に突き付けられた棒。
  これがおそらく、女の主力武器だろう。
  後頭部に突き付けた状態から相手を殺すにはどうするか。
  刹那の時間の中、ヘイカは相手になったつもりで想像する。
  瞬間の判断は、ヘイカの最も得意とするところである。
  考え得る棒の攻撃手段を想像し終えたところで。
 
  ――ヘイカは、動いた。

「……ッ!」
 
  ヘイカの気配を察して、背後の女の気配が変わる。
  ただ殺気だけ飛ばしていた状態から――ヘイカを殺すために、攻撃動作に入った。
  しかし、それでは遅いとヘイカはほくそ笑む。
  致命傷さえ避ければいいのだ。
  ならば――頭皮がこそげようとも、問題ない。
 
  ヘイカの動作は、下へ。
  膝を落とし、頭を下げる。
  重力による下降では速度が足りないため、全身の筋肉を総動員して体を丸める。
  これなら、たとえ高速で棒を突き出されようとも、
  せいぜい頭頂部の皮が髪ごと引き裂かれるだけだ。
  そして、空中で反転しながら、背後へ一刀。
  有効な攻撃にならなくとも、牽制になればそれで充分。
 
  そう、思ったのだが。
 
  変則的な宙返りの最中。
  ヘイカは、背後の女の姿を目視し。
  驚愕した。
 
  女は、棒を突き出して、いなかった。
  まるで不動の巌の如く。
  棒を正面に構えた姿勢のまま、ヘイカのことを見下ろしていた。
 
  とはいえ、ヘイカの方も今更止まることなど不可能だ。
  回転の勢いを乗せたまま、刀を振り抜くしか、ない。
  得意の抜き打ちではないが、それでもかなりの速さで斬れるはず。
  女の突きがどれほどのものかはわからないが、速さだけなら、勝つ自信があった。
 
  間合いの都合上、体を狙うのは難しい。
  故に、狙うのは腕。
  棒に添えられた左手を、超高速の一閃で斬り払う……!
 
  銀光が閃く。
  ヘイカの放った逆さ下段は、一分の狂いもなく、女の腕へと吸い込まれる。
 
  瞬間。
 
  鈍い音が、響いた。
 
 
  それは、硬質の木材が肉を打つ音だった。
  続いて、一人の人間が床に落ちる音。
  やや遅れて、壁に金属が当たる音が。
 
「……ッ!」
 
  床に落ちたヘイカの顔は。
  純粋な畏怖で、染められていた。

 

 相手が己より長い得物を振るう場合なら。
  ヘイカのように、持ち手、添え手を狙うのは有効な攻め手である。
  しかし。
 
(――此奴、片手の斬り払いに合わせおった!)
 
  回転の勢いが突き、更に棒より短い刀の持ち手を。
  寸分違わず、打ち据えてきたのだ。
  しかも、握力の抜ける手首の一点を、正確に。
 
  結果、ヘイカの刀はすっぽ抜け、壁の方まで飛ばされてしまった。
 
  短刀や拳で合わせるのとは訳が違う。
  己の手を狙う一閃、その持ち手をこうも正確に捉えるとは。
 
  しかし、呆けている場合ではない。
  刀を失い、しかも頭から床に落ちた今の姿勢。
  逆の立場なら、ヘイカは百回殺せる自信があった。
 
「……糞ッ!」
 
  舌打ちしながら、床を転がろうとするヘイカ。
 
「――馬鹿。逃がすわけないじゃない」
 
  膝の下に棒を突き入れられ。
  反射的に跳び上がろうとしたヘイカの体重を巧く乗せて。
  くるん、と体が回された。
 
「ぐぎっ!?」
 
  再び背中から床に落ちる。
  その反動に合わせるように、女の棒が脇へと滑り込み。
 
「よくも」
 
  ひっくり返され、顔面から床に叩き付けられる。
  咄嗟に手を床に着かせようとしたところで、今度は棒が股の下に。

 

「ユナハを」
 
  全身を捻られながら、引き寄せられて側頭部を思い切り蹴飛ばされる。
  反動で棒がうまい具合に填り込み、股関節が脱臼する。両足から力が抜けるのが自覚できた。
 
「いじめて」
 
  それでも何とか上半身をしならせて逃げようとし。
  こんどは脇腹を強打され、その反動でまたもや体が半回転。
  後頭部が床に叩き付けられ、衝撃で硬直した腕が棒で押さえつけられた。
 
「くれたわね!」
 
  ごきん、と。肘関節の隙間に棒を押し込まれ。右腕があっけなく脱臼させられた。
  残った左腕で、懸命にも抵抗を試みるが――
 
 
「――ちょっとだけ訂正するわ。
  私、殺すのも得意だけど」
 
 
  嵐のような連打だった。
  全身の関節を、寸分違わず狙い打ち、悉く脱臼させてくる。
  すでに外された関節にも、何度も打撃を加えてくる。
  常人なら、激痛で三度は発狂しているだろう。
  それでもなお、女の猛攻は止まらない。
 
 
「一番得意なのは、やっぱり生かさず殺さず、かな」
 
 
  それは、異様な光景だった。
  既に全身の関節を外され、ボロキレのようになった小さな女の子を。
  棒を持った少女が、楽しそうに乱打していた。
 
  その猛攻は、女の子が血肉袋になるまで続けられるかと思われたが――
 
 
「――姉さん!」
 
 
  響いたのは。
  先程まで組み伏せられていた、少女の声だった。

「……なに、ユナハ?」
 
  ぴたり、と。
  棒による嵐が収まった。
  叩かれていたヘイカはぴくぴくと痙攣するだけで、まともに動く気配はない。
 
「――私に、やらせて」
 
  ゆっくりと立ち上がった少女の目には。
  主人の前で敗北を喫した悔しさが、闘志になって燃え上がっていた。
 
「……や。んなこといっても、ほれ、この通りだし」
 
  つんつくつん、と棒でヘイカがつつかれる。
  それに対し、槍の少女は重い溜息を吐いて。
 
「……姉さん、趣味悪すぎだよ」
「えー。だってさあ、なんかこう、死んだフリってかなり滑稽じゃない?」
「演技だっていうのがわかってて、それに気付かないふりして叩き続けるのは酷いと思う……」
「なによう、折角カタキをとってあげ――」
 
 
「――だああああああっっっ!!!
  わかってたのならそう言え小娘どもがあああああああっっっ!!!」
 
 
  叫びながら。
  ヘイカは体を捻り、全身の関節をはめ直しながら立ち上がる。
 
「お、立った。加減してたとはいえそれなりに叩いたはずなんだけどなあ」
「痛みには鈍い人なのかもしれないよ。
  私のさっきの“逆回し”も一撃当たったのに、そのまま極められたから」
「え、嘘!? ユナハ、あれを出したの!?
  なのに五体満足ってことは、やっぱしかなりの使い手みたいね。
  ……ユナハじゃ無理なんじゃない?」
「――うん。そうかもしれないけど……」
 
  槍の少女は、王子の方をちらりと見て。
 
「絶対に、負けないから」
 
  そう、言った。

 

「……闘志を燃やすのは勝手だがな」
 
  立ち上がり、間合いを測りつつ、ヘイカは呟いた。
 
「我の方は、貴様等と戦う気なんて、もう無いぞ?」
「? 逃げるってこと? でも、簡単に逃がす気なんてないわよ」
「いやいや、そうではなくてだな」
 
  仕方ないか、とヘイカは溜息。
  王女という立場には興味があったが。
  まあ、自分の命には替えられまい。
 
  元の姿に戻って、皆殺しだ。
 
「――虫螻のように、潰し」
 
 
 
「こんにちわーっ!
  王子様、お久しぶりーっ!」
「こらっ! 勝手に入るな!
  クチナの部屋に入りたければ、まず私の許可を取ってから……!」
 
 
  ヘイカが変化を解除しようとしたところで。
  二人の女性が、部屋へと飛び込んできた。
 
  一人は、襤褸布を纏った銀髪の少女。
  一人は、大剣を担いだ紅髪の少女。
 
  両者とも、部屋に入るなり、その惨状に一瞬だけ呆然として。
 
「――クチナ王子、大丈夫!?」
 
  銀髪の少女は一足飛びでクチナの側に駆け寄った。
  両足をその場に踏みしめた瞬間、雰囲気が激変する。
  姿形は同じだが、鉄の塊が据え置かれたかのような重圧感を纏っていた。
 
  そして。
 
「――貴女。クチナの部屋で、何をしてるの?」
 
  底冷えのする声が響き。
  まるでそれに呼応するかの如く。
  壊れた窓枠を吹き飛ばして、一匹の飛竜が飛び込んできた。
  紅髪の少女はそれに跳び乗り、背中の大剣を抜き放つ。
 
「奴隷。クチナを護ってなさい。少しばかり、暴れるから」
「うっさいなー。言われなくてもそうしますよ、竜騎士様」

9

 * * * * *
 
  ケスクは歯ぎしりしていた。
 
(……なによなによなによ! クチナの馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!
  あんな小娘のどこがいいのよ!? 胸だってぺたんこで、頭から変なの生えてるじゃない!
  それに素性もよくわからないっていうし、そんなのクチナには相応しくないんだから!
  クチナには、もっと、その、なんというか、私みたいなのが一番なんだから!
  なのに、クチナってば……! ……うう……!)
 
  ケスクの睨み付ける先。
  ――クチナと、彼にまとわりつく羽虫。
  許せない光景を、しかし見るだけしかできないことに、ケスクは心の底から苛立っていた。
  それは、きっとあの姉妹も変わるまい。
  そしておそらくは、あの奴隷娘も同じだろう。
 
  まさか、こんなことになろうとは。
 
  クチナの部屋に女奴隷と訪れて。
  護衛姉妹と戦っていた刀小娘を殺そうとしたときは。
  今のような事態になるなどとは、欠片も想像できなかった。
 
(あいつら……絶対許さない……!
  大会で戦うことになったら、絶対に殺してやるんだから……!)
 
  ケスクは決意を新たに。
  殺すべき相手を、明確に見据えた。
  一人は当然、クチナにべたべたひっついている、角の生えた少女。
  そして、もう一人は――
 
(――あの、腐れ侍女……!
  次は絶対、油断しない。
  どんな小細工を仕掛けようとも、必ず斬り殺してやるんだから!)
 
 
  * * * * *
 
 
  愛竜に跨り、愛剣を抜き放ち、それでもケスクは油断していなかった。
 
  竜に乗った竜騎士は、紛う方無き大陸最強。
  それは誰も疑うことのない、絶対的な事実である。
 
  しかし。
  護衛姉妹が二人揃い、各々の武器を手に、侵入者と相対していた。
  ケスクは、イクハとユナハの実力を、嫌というほど知っている。
  どちらか片方ならともかく、二人揃った状態で。
  侵入者が瞬殺されていないという状況は。
  ――はっきり言って、異常だった。
 
  故にケスクは最大警戒。
  侵入者を上級竜と同等のつもりで、斬り殺す。

 クチナ王子の寝室は、広いといっても人間レベルでの話である。
  竜の中で小柄とはいえ、人間の3倍の大きさの飛竜が飛び回るには、狭すぎる。
 
  だが、飛竜の強みは、名前に表される飛行能力。
  空戦を制する移動速度こそが、飛竜の真髄である。
 
  ならば、どうするか。
  簡単なことだ。
 
 
「――征け!」
 
 
  ケスクは吠えた。
  呼応するのは飛竜の翼。
  竜は、翼の揚力によって飛ぶのではない。
  翼が、空気を掴むのだ。
 
  竜騎士が、空を駆けた。
 
  一直線、敵に向かって。
 
  瞬きすら許されない刹那の合間。
  竜騎士の刃が、蒼髪の少女へ襲いかかる。
  飛竜の突撃に完璧に合わせられた、鋭すぎる一閃。
  それは、あらゆる防御すら切り裂く、必殺の一撃だった。
 
  が。
 
  ケスクの大剣は、虚空を斬った。
 
「――なっ!?」
 
  必中を信じていたケスクは、驚きの声を上げてしまう。
  外すはずはなかった。
  高速で避けられたわけではない。
  斬る瞬間まで、ケスクの人並み外れた動体視力は、相手の姿を捉えていた。
 
  斬った瞬間、消えたのだ。
  まるで――幻を斬ったかのように。
 
「――え? なに?」
 
  飛竜の困惑した様子に、乗り手のケスクは反応した。
  彼女の愛竜は、不可解そうに鼻の頭を振っている。
  何かにぶつかってしまったらしい。
  しかし――何に?
  ケスクと侵入者の間に障害物はなかった。
  侵入者に向かって、真っ直ぐ飛んだだけなのに――

 

 そこまで考えたところで。
  ケスクは直感で飛竜を旋回させた。
 
  果たして、そこには。
  刀を拾い上げた、少女がいた。
 
「――ふん。姿を眩ますのは我の十八番だ。直線で来てくれて助かったぞ」
 
  不敵に嗤う少女は。
  しかしその全身を、いたく傷つけられていた。
 
  左肩は砕けたのか、異様な捻れ方をしている。
  横顔は耳から下が裂け、千切れた筋が血にぬめっていた。
  腰骨は歪んでいるのか、立ち方も何処かおかしかった。
 
  それでも。
  少女は、嗤っていた。
 
「跳ね飛ばされたおかげで、こいつを拾うことも出来た。
  ――結構、気に入っているのでな。多少の怪我は、仕方あるまい」
 
  言いながら、無事だった右腕で刀を振るう。
  その剣閃は、どことなくぎこちなかった。
 
「……ちっ。流石に、このままで戦うのは無理か。
  まあいい。竜騎士よ、これからが本ば――」
 
  少女が言葉を終える前に。
  ケスクの竜が、再び飛んだ。
 
「のわあっ!?
  くそ、少しは格好付けさせろ!」
 
  転がりながら逃げる少女。
  それを嘲笑うかの如く、狭い空間を飛竜が踊る。
 
「――変な技を使うようだけど! 叩き斬ってやるんだから!」
「ほざけ! 先程は機会を逸したが、今度こそ我の本当のす――」
 
 
  少女が何やら言おうとしていたが。
  全く気にせず、ケスクは再三突撃をかけた。
  飛竜の常識離れした機動力に、正確無比な己の斬撃を乗せて。
  たとえ、上級竜が相手でも殺しうる、帝国有数の竜騎士の必殺技。
 
  対する少女は、なにやら不穏な気配を発していたが。
  その小細工を起こす前に、斬り殺す自信がケスクにはあった。
 
 
  ――彼女の愛竜が、突然、その動きを止めさえしなければ。

 * * * * *
 
  突然の急制動に耐えられず、ケスクは勢いよく放り出される。
  それは絶対的な隙だったが、ヘイカもそれに構ったりしなかった。
  突然止まった飛竜と同じく、全身を硬直させていた。
 
 
  その光景は、とても異様なもので。
  二人の戦いを見ていた他の者も、無言で光景を見守るだけ。
 
 
  最初に気付いたのは、ユナハだった。
 
「――クチナ様! 姉さん! 何か来る!」
  剛槍を構え、傍にいたサラサを押しのける
「ちょ!? なにすんのさ! 王子はボクが護るんだから!」
「クチナ様の護衛は私です! 貴女はどっかそこらへんで座っててください!」
「むか。何だよそれ!?
  王子様の護衛のくせに、あんな糞餓鬼、瞬殺できないのかよ!
  ――ボクだったら一撃だね、一撃!」
「なんですって!?」
 
  ぎゃあぎゃあと口喧嘩をする二人。
  しかしそれでも二人の体は、完全にクチナを庇っていた。
  壊れた窓側から如何なる相手が訪れようとも、クチナを護りきれる体勢だった。
 
 
  ただ。
  窓から飛び込んできた存在は。
  二人の想像を、遙かに超えるものだった。
 
 
 
「くちなー!」
 
 
 
  緊迫した空間には不似合いな、甘えた声。
  飛び込んできたのは、一人の少女。
 
  とはいっても、壁をよじ登り突入してきたわけではない。
  城の比較的高いところにあるクチナの寝室。
  その窓から、言葉通り。
 
  ――“飛び”込んできた。

 

 ぐわん、と空気がかき混ぜられた。
  部屋の気流が乱れに乱れ、ユナハもサラサも吹き飛ばされる。
  暴力的なまでの風。誰一人として、その場に留まることを許さない。
  ――ただ二人の例外を除いて。
 
  ひとりはクチナ。
  彼にだけは何故か、暴風は襲いかからず、そよ風に前髪が揺らされるのみ。
 
  もうひとりは。
  部屋に乱入してきた、年若き少女。
 
  否。
“それ”は、はたして少女と呼んでよいものか。
  人にあらざる、薄緑の髪。
  額より生えた、異形の角。
  そして、何より――
 
 
  背中から生えている、巨大な“翼”。
 
 
  翼といっても、鳥のように美しいものではない。
  臓物と溶けた鉄を混ぜ合わせたかのような、赤黒くぬめる肉の板。
  蠢く腐肉が、背中の皮を突き破り、大きく展開しているのだ。
 
  翼を生やした少女――ヌエは。
  吹き飛ばした少女たちのことなど欠片も気にせず。
  一直線に、クチナの胸に抱きついた。

 

「ぬ、ヌエ!? どうしてここに――」
「くちなにあいにきた!」
「会いに来たって……施設から勝手に出てきたの!?」
 
  朝の少女乱入から今まで混乱のし通しだったクチナだが。
  ヌエの言葉で冷水を掛けられたかのように思考を切り替えた。
  ――もし逃げ出してきたのなら、大事件だ。
  ヌエに関する研究は、最上級の機密事項である。
  検体の処分や主国との関係悪化は免れないだろう。
  ……もし表沙汰になっていないのであれば。
  何としてでもヌエを施設に戻し、彼女に被害が及ばないよう尽力しなければ――
 
「ううん。たいかいにでたいっていったら、えらいひとがすきにしていいって」
「……え?」
 
  予想外のヌエの言葉に。
  クチナの思考は、白く染まった。
 
「……偉い人って?」
 
  何とか気を取り直したクチナは。
  恐る恐る、ヌエに訊ねた。
 
「よくわかんないけど、えらいひと。しせつのひとが、みんなこわがってたから」
「――怖がってた? 施設の職員じゃない……?」
「それでね、そのひととおはなししてたらね、くちなのはなしになってね。
  わたしがそのたいかいにでたいっていったら、そのひと、でてもいいって!」
「……僕のことを知ってる? ……ねえ、ヌエ。その人の名前、教えてくれないかい?」
「ん。えっと、うんと、たしか……ねきつ。そうだ、ねきつこーしゃくっていってた」
 
  ――ネキツ公爵。
 
  どこかで、聞いた覚えがある。
  そう、確か、大会の参考にと訪れた、主国の奴隷闘技場の――
 
  と。
  一瞬考え込んだクチナの脇を。
  一陣の風が、吹き抜けた。

 

「王子様、大丈夫……っ!?」
 
  強風で吹き飛ばされていたサラサが。
  クチナと少女の間に、割り込んだ。
 
  その拳は握り締められていて。
  踏み込む足は、地面を砕かんとばかりに力強く。
  上半身は硬く捻れ、解放の瞬間を待っている――
 
「なに勝手に、」
 
「!? じゃま!」
 
  サラサに割り込まれたヌエは。
  不機嫌を露わにして。
  異形の翼を大きく動かす。
 
「ボクの感動の再会を、」
 
「どいて」
 
  ――竜の翼は、空気を掴む。
  ヌエの背中から生える翼は、風切竜と呼ばれる種族のものである。
  知能が低いため下級竜に属されるものの、その翼は自在に風を繰るといわれている。
  それが、狭い空間で、使われたら。
  人間など軽々と吹き飛ばされる、暴風が吹き荒れることに。
 
「――邪魔してるんだよっ!」
 
「えっ――」
 
  しかし、サラサは吹き飛ぶどころか崩されることもなく。
  振り上げられた拳は、次の瞬間。
  ――暴風を突き破る、閃光となった。
 
 
「……!」
 
  ヌエの目が見開かれる。
  鉄よりも硬く握り込まれたサラサの拳が。
  無防備に晒された、ヌエの左胸へ走った。
 
  それは、肋骨を粉砕し、心臓をズタズタに破壊する。
 
  はずだった。

 

 * * * * *
 
  ケスクは、飛竜に放り出されながらも、剣を手放していなかった。
  そのまま肩から着地し、体を回して衝撃を流す。
  部屋の端まで転がったところで、体を跳ね上げ、状況を把握した。
 
  飛竜が止まった原因は不明。
  窓から新たな侵入者。
  クチナの近くには護衛姉妹と女奴隷。
 
  ――侵入者は、クチナのもとへ一直線。
 
  駆け寄りたい衝動をねじ伏せる。
  クチナとはだいぶ離れている。
  それに、護衛姉妹と女奴隷がいれば、どんな強敵が相手でもクチナを守り抜くだろう。
  そう判断したケスクは。
  クチナを護るという最上級の名誉を諦め。
 
  刀を持つ少女に、向かい合った。
 
 
 
「……な、なんだ、アレは……!」
 
  少女は何故か戦う意志を見せず。
  呆然と、新たな侵入者の方を見つめていた。
 
  ――好機。
 
  ここで見逃すケスクではない。
  一足飛びに距離を詰め、そのまま鋭い剣閃を放った。
 
「!? ――ちぃっ!」
 
  気付いたヘイカが、慌ててその場を転がった。
  ――すんでの所で避けられる。
  その身のこなしは、大怪我しているとは思えないほど。
  だが、少女は紛う方なき重傷である。
  ケスクの刃に倒れるのは、時間の問題だった。
 
  はずなのに。

 

 * * * * *
 
  ちりん、と。
 
  澄んだ鈴の音が、響いた。
 
  激戦の最中、そのような音に反応する者などいるはずもない。
  各々が、己の相手に対して精一杯。
 
  しかし。
  澄んだ音の直後。
 
 
  全員が、その動きを止めていた。
 
 
  暴風に吹き飛ばされたが、体勢を立て直しつつあったユナハ。
  クチナから侵入者を引き剥がすため、離れたところから棒を振りかぶっていたイクハ。
  風を操る侵入者に、必殺の拳を叩き込まんとしていたサラサ。
  今まさに、大剣で敵を貫こうとしていたケスク。
  胸元まで大剣が届き、半ば諦めかけていたヘイカ。
  風を突き破った拳を、驚いた表情で見つめていたヌエ。
 
  彼女らの動きが、全て、止まっていた。
 
 
「――まったく」
 
 
  やれやれ、と。
  呆れたような溜息は。
  部屋の入り口から聞こえてきた。
 
「お使いから帰ってきて、窓が豪快に割れてるし。
  いつからここは、戦場になってしまったのですか?」
 
  声の主は、メイド服を着込んだ少女。
  指先をくるくる回しながら、部屋の中を見回している。
 
 
「ツノニ……!」
 
  クチナの声に、少女――ツノニが肩を竦めた。
 
「まあ、ご主人様が無事だったから、良しとしますか」

 

 つかつかと部屋の中に踏み入るツノニ。
  彼女の足運びに緊張は欠片も見られず。
  その隙の無さに、瞠目する者もいた。
 
「こら、ヌエちゃん。
  ちゃんと入り口から入らなきゃダメでしょ。
  窓から入ってくるなんて、はしたない」
 
  ヌエに人差し指を突き付けて。
  めっ、と眉根を寄せて注意した。
 
「え、あの、その、ツノニさん!? なんで!?」
「あー、ユナちゃん。下手に動いちゃダメだよー。
  銀蚕の糸に金剛石をまぶしてあるから――全身、細切れになっちゃうぞ」
 
  そう言うツノニの手からは。
  目を細めても捉えるのは難しい、極細の銀光が煌めいていた。
  それは、部屋全体に張り巡らされていて。
  クチナとツノニを除く、全員の体を捕らえていた。
 
 
  いくら激戦の最中だったとはいえ。
  これだけの猛者達に全く気付かれず。
“糸”を仕掛けるその技術は、異常としか言い様がなかった。
 
「いやー。それにしても大漁大漁。
  不意打ちが得意な私でも、これはほとんど奇跡だなあ。
  ――ご主人様ー。頑張ったツノニを褒めて褒めてー」
 
  ニヤニヤと笑いながら、クチナに擦り寄るツノニ。
  その所作に部屋の温度が一段階下がったが、全く気にする様子はない。
 
 
「ま、冗談はさておくとして。
  ヌエちゃんが部屋にいる時点で驚きなのに、
  えっちい格好の人や、死にかけの子どもまでいるんだから、もうわけわかんない。
  ――ご主人様。どうしてこんなことになったのか、最初から説明してくれませんか?」

10

 * * * * *

 ――さて。どうするべきか。
 
  隣に一人。周りに六人。
  戦姫の集う部屋にて、クチナは頭を悩ませていた。
 
  脇には緩みきったヌエの笑顔。
  周囲からは少女たちの尖った視線。
 
  刀を使う小さな女の子――ヘイカが飛び込んできて。
 
  ユナハとヘイカが戦って。
 
  イクハとヘイカが戦って。
 
  何故かサラサを連れたケスクが乱入して。
 
  そしてヌエが突撃してきて。
 
  最後はツノニが無理矢理まとめた。
 
 
(……滅茶苦茶だ……!)
 
 
  このような状況で、はたしてクチナにできることはあるのだろうか。
  何もかも無かったことにして、ベッドの奥に潜り込みたくなってしまう。
 
  しかし。
 
  その場合、残された少女たちはどうなるのか。
  特に、ヘイカとヌエは立場上、とても微妙な状態である。
  ヘイカは侵入者として殺されてしまうかもしれない。
  ヌエはその実態を、本来の管轄であるケスクに知られてしまうだろう。
  この二つは、クチナとしては絶対に避けたかった。
 
  そして、クチナにできることはただひとつ。
 
  体力も権力もない、病弱王子にできること。
  それは。
 
 
「――ねえ、君。……えっと、ヘイカさん。
  どうして僕の部屋に来たのか、教えてくれないかな?」
 
 
  話すこと。
  それだけが、彼にできることだった。

 

 * * * * *
 
(……ん。怖がってるときは凡骨だけど、やること決めたら頭の回転は悪くないのよね。
  さすがくっちー。――私のご主人様、だもんね)
 
  クチナが背後へ振り返り、刀を持つ少女に問いかけたとき。
  ツノニは、誰にも気付かれないように緩んだ溜息を吐いた。
 
 
  所用で城から出ていた帰りに、クチナの寝室の窓が全壊していたときには背筋が凍った。
  慌てて部屋に向かうと、繰り広げられていたのは大乱戦。
  まず最初にクチナの無事を確認し、彼に危害が加えられてないことには安堵したが。
  怒声程度では止められそうにないことも理解したツノニは、実力行使に出ることにした。
 
  6人全員の無力化。
 
  尋常な状態だったら、不可能以外の何ものでもないが。
  幸か不幸か、場所はクチナの寝室だった。
  床の溝やの壁紙の模様に合わせて張り巡らせた“糸”を使い、何とか動きを封じることができた。
  寝室に仕込んである“罠”は三桁を超える。
  クチナの部屋の掃除を任されているツノニだからこそ、仕掛けられた。
 
  その後は、全員を牽制しつつ、即座に戦闘を起こせない距離を確保させ、膠着状態を作り出した。
  配置には神経を削ったが、今の今まで問題が起きなかったから、成功といえるだろう。
 
  ヌエだけは、クチナと離してはならない。
 
  ツノニはそう判断し、彼女だけ、主人の傍に居ることを許した。
  他の5人は、多かれ少なかれ、自制の利く人間だ。
  配分はどうであれ、熱い自分と冷たい自分を裡に有していて、何とかバランスを保つことができる。
  だが、ヌエだけは、“熱い自分”しか持っていない。
  故に己を制せられず、感情の赴くままに行動してしまう。
 
  そんな娘だから、クチナに任せるしか、できなかった。
 
  ヌエを殺さずに止めることは不可能である。
  実際、糸を展開させたときも、ヌエが一番、その身に糸を食い込ませていた。
  体が切断されなかったのは、攻撃動作中ではなかったから。それだけだ。

 

(……まあ、死ななかったから問題なしということで。
  …………竜騎士を怒らせちゃったのは痛いけどなあ……)
 
  正攻法であれば、この中で最強を誇るであろう竜騎士ケスク。
  彼女に己の技量を見せ、且つ怒りを覚えさせてしまったのは痛すぎた。
  怒るということは、すなわち注意が向いているということだ。
  不意打ちを至上とするツノニにとって、それはこの上ない足枷となる。
 
(……まあ、なるようになるか。そんなことより今はくっちー。
  刀娘とヌエちゃんがどうなるかは、くっちーにかかってるようなもんだしなあ)
 
  己の不利はとりあえず脇に置き。
  ツノニは、主人と刀娘の会話に耳を傾けた。
 
 
  * * * * *
 
 
  ヘイカの話を聞いて。
 
  全員が、なんだそれは、という顔をした。
 
  それに腹を立てたヘイカは、声を荒げて繰り返した。
 
 
「――だから、大会の年齢制限を取り払えと言っている!
  こんないい女を捕まえて、何が“子どもは早く帰りなさい”だ!
  巫山戯るのも大概にしろッ!!!」
 
 
「…………えーと」
「……え、何の冗談?」
「……って、クチナのお嫁さんを決める大会だし……」
「子どもは早く帰れー」
「……くちな、あいつ、おこさま?」
 
 
「殺す……! 此奴等全員斬り殺す……!」
「え、えっと、その、落ち着いて! 動くと切れちゃうってば!
  ……その、要するに、君も大会に出場したいの?」
「うむ。木っ端役人を問い詰めても無駄だというのはわかりきっているからな。
  ――手っ取り早く、王子本人に抗議しに来たわけだ」
 
  あっけらかんと言い放つヘイカ。
  そして、彼女はこう続けた。
 
「要は強ければいいのだろう?
  ならば年齢など気にするのは可笑しいではないか。
  あとは母胎さえあればいいはずだ。だから出場を許可しろ」

 

「ぼ、母胎って、えっと、その……」
「安心しろ。我は産めるぞ」
 
  真正面からのヘイカの言葉に。
  クチナは真っ赤になって横を向いた。
 
  と。
 
「――ふざけないで!
  今度の大会は、クチナの“お嫁さん”を決めるのよ!
  なのにさっきから、母胎とか産めるとか恥ずかしいこと言って!」
 
  ブーツを床に叩き付け、ケスクがヘイカを思いっきり怒鳴っていた。
  そして、剣の柄に手を掛ける。
 
  瞬間。
  数名が反応して動こうとした。
  しかし。
  それより早く。
 
「――ケスク、待って!」
「ッ!? ……く、クチナ?」
 
  クチナの声が、ケスクを止めていた。
  引きつった空気の中、クチナはゆっくりと言葉を紡ぐ。
 
「……ヘイカさんの言ってることは正しいよ。
  幼く見えるけど、彼女は大会出場に恥じない使い手だ。
  その彼女が、優勝することの意味を理解していて、出場を希望している。
  ――だとすれば、こちらに断る道理はないよ」
 
「ふむ、話のわかる王子で助かったぞ。
  では、年齢制限の件は――」
 
  我が意を得たりと笑むヘイカに。
  クチナは強引に、言葉を割り込ませた。
 
「――でも、ひとつだけ。
  制限を取り払う代わりに、規則をひとつだけ付け加えたい」
 
「……取引か。顔の割りには剛胆な奴だな。
  内容によっては受け入れよう。言ってみろ」

 

 クチナはひとつ深呼吸。
  そして、ぐるりと全員の顔を見渡した。
  脇のヌエが、不思議そうに首を傾げる。
  そして。
 
 
「これから言う規則は、きっと公式には認められないものだと思う。
  だからこれは、ここにいる7人が、個人的に守ってほしい」
 
  そこで一息区切ってから。
  クチナは、覚悟を決めた表情で。
 
「――“相手を絶対に殺さない”
  ……これが、僕の出す新しい規則だ。
  試合で戦うのは仕方ない。
  それで重傷を負わせるのも避けられないと思う。
  でも。
  絶対。
  殺しちゃ、ダメだ」 
 
 
  ごくり、と誰かが唾を飲んだ。
  クチナの表情に揺れは無い。
  確固とした覚悟のもと、クチナはその言葉を口にした。
 
 
「もし、この中の誰かが試合の中で殺されたら。
 
  ――僕は、舌を噛んで死ぬからね」

To be continued....

 

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