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転帰予報

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1

『本当の兄弟じゃないくせに―――』

 二人の少女の瞳の奥―――憤怒と軽蔑の眼差しが僕を射抜いていた。

 これはそう遠くない過去、僕がまだこの家にとって邪魔者でしかなかった頃の記憶の焼き回しと
  夢の世界の昏いイメージ。
  その言葉は僕を停止させる呪いであり、烙印であったのだと思う。
  今でもきっとそうなのだろう。
  夢の中とはいえ身体は震え、まともに立っていられないほど世界が歪んでいる。
  ぐにゃりと捻じ曲がった視界の先、二人の少女は僕のほうへ歩み寄る。
  いつものことながら、この先の展開を知っていても僕には何も出来ない。
  もがこうと四肢に力を込めても、叫ぼうと口を開こうとしても僕の身体はびくともしない。

 そんな僕を余所目に少女二人は頷き合う。
  あの合図はもう何度も下された死刑宣告。
二人はどこか虚ろな瞳で僕を見据えると、鈍い光を放つ何かを僕の心臓に―――

 

「――――――はぁ」
  またこの夢を見るようになってしまった。
  胸に走る嫌な感覚にため息をひとつ吐き出す。
  時刻は朝の6時42分。
起きるには少々早い時間ではあるが、脳みそにモヤモヤと居座っている不安を打ち消すために
わざと身体を動かすことにする。
汗だくの寝間着から制服に着替えて台所へ。
  ベーコンエッグにサラダ、インスタントのスープといった洋食の朝食を用意して、
パンを焼いている合間を利用してまだ眠っているお姫様達を起こしに行くことにする。
「晴香姉さん起きて」
「う〜ん、すぐに起きるから〜」
  口ではそう言うものの起きる気配がない。
「朝食は暖かいうちに食べたほうがおいしいよ」
「それはそうだよねぇ〜……うふふ……」
  姉さんは幸せそうな笑顔を浮かべて抱き枕を抱えなおす。その緩んだ口元からは涎が垂れていた。

 ぎゅう。
  姉さんの小ぶりな鼻を摘むこと数秒、幸せそうな寝顔が次第に苦悶の表情へと変わってゆく。
そして―――、
「ぷはぁ」
  溜め込んだ息を吐き出して、姉さんは渋々といった表情でまぶたを持ち上げる。
「おはよう、姉さん。朝ごはんできてるよ」
「―――おはよう、八雲ちゃん。お姉ちゃん毎朝言ってるよね。もっとやさしく起こしてって」
「やさしく起こしていたら、毎朝姉さんは遅刻してるよ」
  姉さんが目覚めたのを確認すると部屋を後にする。
  姉さんはまだまだ不満そうな顔をしていたが、それも朝食が口に入るまでの間までだろう。
  隣の部屋に移動すると、妹の雨音ちゃんが布団の中で静かな寝息を立てていた。
「雨音ちゃん起きて」
「うん、わかってる―――」
  返事はあるものの起きようとする気合が感じられない。
「朝ごはんもう出来てるよ」
「あ〜ん」
  雨音ちゃんは半分眠った声で小さめの口を精一杯開いた、その様子は餌を待つ雛鳥を連想させる。
  しばらくそのままほおっておくと、雨音ちゃんは恥ずかしそうに開きっぱなしの口を閉じて
替わりに半分目を開いた。
「おはよう、雨音ちゃん。姉さんももう起きてるよ」
「おはよう、兄さん。食卓までおんぶ……」
「寝言は寝て言わないとだめだよ」
  寝ている雨音ちゃんの腕を引いて起き上がらせると、ハンガーに掛かっている制服を渡して
  部屋を後にする。
  毎朝のことではあるが、我が天野家自慢の姉妹は朝に弱い。
  台所からリビングへ朝食を移して、ゆっくりと二人を待つことにする。
  テレビを見ながら待つこと数分、制服姿の二人が階段を降りてきた。

「「「いただきま〜す」」」

「八雲ちゃん、醤油とってぇ」
「兄さん、トマトあげる」
「雨音ちゃん、好き嫌いしちゃだめよ」
「姉さんだっていつも牛乳飲まないじゃない」
  にぎやかな朝食。
  今朝に見た夢の為か、こんな毎朝のひとコマにさえ幸せを感じてしまう。
  こんな日々を失いたくはない。
  昔のような日々に返りたくはない。
  今でこそ素顔の表情を見せてくれる二人の姉妹とも、妹の雨音ちゃんが中学校に入る頃までは
  とても仲が悪かった。
  いや、おそらく仲が悪いどころの話ではなかった。

 僕が天野八雲になったのは小学校五年生の頃である。
  それまでの人生を施設で育ってきた僕を親戚だと名乗る雪彦おじさん、
つまり晴香姉さんと雨音ちゃんの父親が天野家に連れ帰ったとき、
二人の姉妹は露骨に嫌な顔をしていたのをよく覚えている。
  当時の二人は小学六年生と四年生。
  幼いとはいえ、二人にはとっくに自我が目覚めていて、
かといってまだまだ父親に甘えていたい年頃でもある。
  そして天野家は片親であった。
  二人の母親は雨音ちゃんを生んでからすぐに他界しており、
経済的には裕福であった天野家ではあるが、僕が来てからというもの雪彦おじさんは
三人になった子供たちを養うために家を空けることが多くなった。
  二人はそのことをとても恨んでいたのだと思う。
  僕がやってきたためにたった一人の父親と離れ離れになり、
両親のいない家で家族面した他人がいるのが二人にとっては耐え難いことだったのだろう。
  雪彦さんがまだよく家にいた頃は二人ともそれらしく振舞っていたが、
家を空けることが多くなってから二人は僕を追い出そうと嫌がらせをし始めるようになった。
  最初はノートや教科書に心無い落書きをされる程度で表立って攻撃されるようなことはなかったが、
そのうち家の中で汚い言葉で罵られるようになり、
人気の無い場所でパックの牛乳を投げつけられたり、
階段から突き落とされたりと暴力的な事まで行われるようになった。
  今朝見た夢をよくみていたのはちょうどその頃だったと思う。

 いつか殺される。

 自分の血の色を見ながら恐怖したことも一度や二度ではない。
  そんな思いをしながらも耐え続けられたのは『家族』というものに対する憧れだったのだろう。
  その『家族』というものは両親のいなかった僕の勝手な思い込みでしかなかったけれど、
その空想にさえ僕は恋焦がれていた。
  手に入いらないと半ば諦めていたもの、それが形だけでもここにあった。
  だから自身に言い聞かせることができた。
  それから約三年間僕は嫌がらせを受け続け、
ある事件をきっかけにようやく二人と打ち解けることができたのである。

「八雲ちゃん、学校行くよ〜」
「兄さん早く!」

 玄関で二つの声が重なる。
  それは僕がどうしても欲しかったもの。
  今の僕は立派に二人の兄弟になっているだろうか?

 右隣に晴香姉さん、左隣に雨音ちゃん。
  今年の春からは雨音ちゃんが入学し三人で同じ高校に通っている。
  いつものように校舎の階段で二人と別れて教室に入ると、友人の吉住が僕に挨拶をしてくる。
「やぁ、お兄さん。おはよう!!」
「おはよう。それで僕をお兄さんと呼ぶのはやめてくれない」
  鞄を置いて席に着くと吉住は席を移動して僕のほうへやってくる。
「何を言ってるんだ? 将来俺はお前の弟になるのだから、
  今のうちからそう呼んでいても問題はないぞ」
「去年は僕のことを弟呼ばわりしてなかった?」
「俺はお前が弟になってくれても全然かまわないぞ」
  晴香姉さんと雨音ちゃんは学校でも美人姉妹として人気が高く、
彼のように僕を足がかりとして二人に近づこうとする男子も多い。
  基本的にそういう連中は取り合わないことにしているが、
彼の場合は友人として妙にウマが合うこともあって付き合いを続けている。
「で、頼んだものは持ってきてくれたか?」
「頼んだもの?」
  ここ最近の記憶を辿ってみてもそんなものを導き出せない。
「ごめん。何だったっけ?」
「しっかりしてくれよ〜! 天野姉妹の寝顔写真を頼んでお―――」
  大げさに残念がる吉住の口を両手で押さえ込む。
「しっ! 声が大きいよ」
「むあん(すまん)」
  吉住の口から両手を離し目立たないように周囲を見回してみると、
数名の男子生徒が各々こちらへ注意を向けている。
  あからさまにこちらを睨んでいる人もいれば、興味無さそうな振りして
しっかり耳だけはこちらを向けている連中もちらほら見受けられる。
  唯一わかっているのは、

 そんなもの教師に代わって俺が没収だ!

 そんな雰囲気が教室中に充満していること。
「ごめん、借りてたデジカメの使い方わからなくって」
  できるだけ明るく周囲によく聞こえるように声を出すと、
どこか残念そうなため息があちこちから漏れる。
  どうやら威圧感だけは和らいだようだ。

 自然な動作で鞄から預かっていたデジカメを取り出し、液晶画面を吉住の方へ向ける。
「どれどれ、どこがわかんないんだ?」
  阿吽の呼吸で吉住がメモリー画面を操作すると、四枚の写真が画面に浮かび上がる。
  一枚目、晴香姉さんの私服写真(日曜日商店街殲滅戦使用)
  二枚目、雨音ちゃんの私服写真(同上)。
  三枚目、姉妹のツーショット写真(クレープ国ストロベリー小隊と交戦中)
  四枚目、僕を加えた三人で撮った写真(駅前噴水広場)
「あちゃ〜。四枚目の失敗ですべて台無しだな、これじゃあ一枚も使えん」
  そう言いながらも吉住は満足気な顔つきでデジカメを手早く鞄の中に収め、
そのまま鞄の中から三枚のCDを取り出した。
「ほれ。俺はちゃんと御所望の品を手に入れてきたぞ」
  少し皮肉っぽく聞こえるのは寝顔を撮ってこなかったことへの当てつけもあるのだろう。
あまり気にしないようにしつつ、CDのラベルを確認して周りの注意を引かないように
鞄の中に放りこんだ。
「それにしても大変だよな、同級生モノしか受け付けないなんてさ―――」
  からかいと哀れみが同居したような口調で吉住はこちらの様子を見ている。
「そういうわけでもないよ。やろうと思えば教師だろうが、メイドだろうが闘い抜いてみせるさ。
けれども我が天野家では見つかってしまった時の事を考えて、
そこに『姉』や『妹』といった単語が付くことは許されないんだよ。
  例えば女教師はセーフだけど、家庭教師のお姉さんはアウト。淫乱メイドはセーフでも
  メイド姉妹はダブルプレー。といった具合にタイトルや内容には気を使うんだ。
  また、巨乳や貧乳といった姉妹の差異を示すような表現もなるべく避けなくちゃいけない」
「妹ちゃんは貧乳じゃないだろう」
「そうだよ。雨音ちゃんは標準くらいじゃないかな? 元々身体の線が細いからあれくらいで
  充分だと思うんだけど、やっぱり晴香姉さんと比較しちゃうんじゃないかな?
  そういうこと、気にする必要はないと思うんだけどね」
「―――なんかさ、お前の話が自慢っぽく聞こえるんだけどな」
「どうしてさ?」
  そう聞き返すと、吉住は困ったような顔をする。
  その顔は言葉を探しているというよりも、その言葉を言うかどうか迷っているような表情である。
「―――まぁ、兄弟ってそういうもんなのかもな」
  結局お茶を濁されてしまった。

「なんかお前嬉しそうだな」
「そんなことないよ」
  そんなことないわけでもない。
  僕と天野姉妹が義理の兄弟だということは基本的には伏せてある。
  吉住のように僕達が義理の兄弟だと知らない人からそういうことを言われると嬉しくなる。
自然と顔も綻んでしまっているのだろう。
「気持ち悪い奴だな―――しかし、お前のその気遣いはなかなか的を得ているかも知れんぞ。
  これは聞いた話なんだが、 隣町では居候先の姉妹に『姉妹モノ』のアダルトグッツを
  発見された少年が居たたまれなさに耐え切れず二階の窓から飛び降りて、
  同級生の女の子の家に転がり込んだって話を聞いたことがある」
「へぇ〜」
  その少年の気持ちはわからなくもない。居候という立場はある意味僕も同じようなもので、
同情するなというほうが無理である。僕も同じような立場に立たされたら―――。
  おそらく僕だって二階の窓から飛び降りてでも逃げただろう。
転がり込む先の同級生は残念ながらまだ見当たらないけれど。
「それで、その少年はどうなったの?」
「――――――さぁな」
  そこはお茶を濁されても困る。
「そういう思わせぶりなのはよしてくれよ」
「わりぃな、その後のことは良く知らないんだ」
「そっか……」
  残念だと思う反面、何故かほっとしている。
  知らないほうがいいということなのだろうか?
  その後も吉住と話を続けていると、ふと誰かの視線を感じた。
  気になって辺りを見回すとあまり喋ったことのない女子と目が合った。
  彼女は慌てて目を逸らすと授業の準備を始める。
「おい、どうした?」
「いや、なんでもないよ―――」
  そう、おそらくなんでもないはずではあるが―――
  彼女が再びこちらを見ている気配がある。
  こちらが様子を窺おうとするとまた目を逸らされる。
  いったい何なのだろう?
  その後も度々そういった気配を感じたが、無視してやり過ごすことにした。

 

「あのぅ〜、天野八雲ちゃん居ますか〜?」
  昼休みになると晴香姉さんが大量のパンを抱えてやってくる。
  思わぬ人物の登場に教室中の男子が沸くのと共に、僕は改めて姉さんの人気の高さを窺い知る。
  背中まで伸ばした長い髪、やや幼い顔立ちとくるくると変わる表情、
  そして顔に似合わぬふくよかな身体つき。
  この学校での撃墜数はこの学校の男子の3分の1に達しているとかいないとか。
  クラスの皆の視線を一身に集めた姉さんは僕を見つけるとニコニコしながらこちらまでやってくる。
「お姉ちゃん今日はここで昼食を取ることにしちゃいましたぁ! あ、この席借りても大丈夫かな?」
  そう言うなり姉さんは大盛りのパンを僕の机の上に投下した。
  どうやら僕の分まで買ってきてくれていたらしい。
「大丈夫だけど―――今日はいっしょに食べる約束はしていないはずだし、
  どうしてまた僕の教室になったの?」
「それがね、いつも使っている中庭に蜂の巣ができているらしくて―――」
  雨音ちゃんが入学してから僕らは週に何度か三人でいっしょに昼食をすることに決めていた。
  中庭はお気に入りの昼食スポットとしてよく利用しているのだが、今日はそこが使えないらしい。
「けど、わざわざ弟の教室に来る必要は―――」
「そんなこと言って、お姉ちゃんが来てくれてうれしいくせに」
「いや、でも―――」
  辺りを見回すとクラス中の皆がこちらを見ている。
  姉さんには自分の影響力を少しは考えて欲しい。
「でも、な〜に?」
  姉さんの顔が僕に迫る。
  柔和な顔立ちの姉さんが少し困った表情でこちらを見つめている。
  ちょっと近すぎじゃないだろうか?
  周りの視線が少々痛い。
「あの、天野八雲はいますか?」
  絶妙のタイミングで雨音ちゃんが教室のドアから顔を覗かせる。
  肩よりも少し伸びたセミロングの髪に日本人形のように整った顔立ち、均整の取れた身体つき。
  あと、吉住に言わせるとやや近づきがたい雰囲気があるのだとか……
  おそらくそれも人気に拍車を掛けているのだろう。
  入学から7ヶ月、撃墜数は早くも二桁に達したとも聞く。
  そんな妹の手にはパンの袋が握られていた。

「雨音ちゃん! こっち、こっちだよ〜」
  姉さんが雨音ちゃんに手を振ると、雨音ちゃんはこちらのほうへやってくる。
  道を塞いでいた級友達が自然と雨音ちゃんの道を空ける様はまるでモーゼのようだった。
「ふぅん、姉さんも居たんだ。それで今日はここで食べるの?」
「そうだよ。八雲ちゃんもここがいいって」
  そんなことは言っていないはず。
「いや、姉さん。ここじゃちょっとまずいよ。雨音ちゃんだって上級生のクラスじゃ
  気まずいんじゃない?」
  同意を求めるような眼差しを雨音ちゃんに送ってみる。
「別に」
  まるで興味無し、といった様子である。
「もぅ〜、雨音ちゃんったら恥ずかしがり屋さんなんだから! 家ではあんなに甘えんぼさんなのに、
  どうしてお外じゃそういう風にそっけないの?」
「家では気が緩んでるだけ、別に甘えんぼなわけじゃないでしょ」
「そんなこと言って、お姉ちゃん知ってるんだよ〜。今朝八雲ちゃんに『あ――――」
  続きを言おうとしていた姉さんの口からコッペパンが生えている。
  どうやら『あ〜ん』を実演しようとしていた姉さんの口に雨音ちゃんが無理やりねじ込んだらしい。
結果的には姉さんの『あ〜ん』に雨音ちゃんが応える形になった。
「今朝のはちょっと寝ぼけてただけ―――」
  雨音ちゃんは少し顔を赤らめながら僕と姉さんだけが聞こえるくらいの小さな声で呟く。
  そこら辺のアイドルも裸足で逃げ出すような艶やかな表情。
  一瞬、心を奪われそうになってしまう。
  姉さんは口にささったままのパンをもぐもぐと咀嚼すると、袋から次のパンへと手を伸ばす。
気が付けば雨音ちゃんもパンを手に取り、結局昼食は教室で始まってしまう。
「とにかく、今日お姉ちゃんがここで食べると言い張るのにはちゃんとした理由があるんだから」
「じゃあ、姉さんも感じたの?」
  二人の間で共感が生まれる中、僕は置いてきぼりだった。
「いったい何の話?」
「今日の兄さんには女難の相が出ています」
「女難の相?」
「そう! 今日、悪い女が八雲ちゃんに近づいてくるはずなの! 女の勘が警鐘を鳴らしてるの!!」
「姉さん、パンが飛んでる」

 仏頂面の雨音ちゃんがハンカチで顔を拭いながら先を続ける。
「私たち姉妹としては大切な兄さんに悪い虫が付いて付いてもらっては困ります。
  本当は24時間体制で兄さんに張り付いていたいくらいなのですが、さすがにそういうわけにも
  いけません。兄さんは今日一日私たち以外の女性に注意して過ごしてください」
「あ〜! 雨音ちゃん大事なトコ全部取った!!」
「姉さんに任せていたら昼休みが終わってしまいます」
「ぶぅ〜ぶぅ〜」
「まぁまぁ姉さん。でも僕は二人みたいに人気があるわけではないし、
  わざわざ女の子のほうから近づいてくるなんてことはないんじゃない?」
「確かにそうかもしれませんが、念には念をという言葉もあります」
  手厳しい。少しは否定してくれてもいいんじゃないかな?
「雨音ちゃん、少しは手加減してあげないと八雲ちゃんが泣いちゃうでしょう―――
  大丈夫よ八雲ちゃん、お姉ちゃんがちゃ〜んと傍にいるから」
「わ、わたしも兄さんの傍にいます」
  二人の励ましは素直にうれしいが、二人にはもう少し言葉を選んで欲しい。
  姉さんは聞いてて恥ずかしくなるようなことを恥ずかし気もなく素直に言葉にするし、
姉さんがこういった発言をするときに雨音ちゃんは姉さんに対して燃やさなくて良い対抗心を
燃やすときがある。
  今の発言にしても注意して聞いてみると結構危ない発言である。
  僕が二人の兄弟ということで許されてはいるものの、二人がブラコン姉妹なんて噂されても困る。
「大丈夫だよ。僕のことを心配してくれるのはうれしいけど、
  二人とももっと自分の心配をしないとダメだよ」
  僕がやんわりと二人を叱ると、二人はお互いの顔を見合わせて笑った。
「もぅ、八雲ちゃんったらつよがり言っちゃって」
「兄さん、カワイイ」
  あれ、なんだか変な意味で取られている。
  このままではなんだか僕ひとりがピエロだ。
「誤解だよ。僕は二人のことを心配して―――」
「うんうん。お姉ちゃんはちゃ〜んとわかってるんだから」
「兄さん、往生際が悪い」
「いや、だから―――」
  弁解しようとする度に僕の立場が悪くなる。
  結局僕は泥沼にはまり込み、誤解を払拭できぬまま昼休みが終わるまで二人と教室で過ごし、
二人はチャイムと共に名残惜しそうに各々の教室へ帰っていった。

2

 キンコーンカンーコーン。
  今日最後のチャイムが鳴り響き、担任の教師の号令と共にみんな糸の切れた風船のように
  思い思いの場所へと散ってゆく。
  僕は一つ伸びをして席を立つ。
  今日は週に三回しているアルバイトの日だった。
  商店街からは少し外れた喫茶店で元々夏休みだけの短期アルバイトだったのだけれど、
  店主の奥さんが妊娠したのでもう少しだけ―――が、かれこれ一年とちょっと続いて
  今のような状態になった。
  それに関して特別愚痴があるわけでもない。
  店長夫婦は気の良い人であるし、生まれたばかりの娘さんの世話だって見なければならない。
  僕の力が役に立つならそれは嬉しいことであるし、本音を言えば将来のために多少なりとも
  貯金をしておきたかった。
  いつの日か僕も天野家を巣立つ日が来る。
  来るべきその日が来るまでに、多少なりとも蓄えを作っておきたいという気持ちもある。
  ―――なんて、偉そうなことを考えておきながら姉妹二人の誕生日には
  しっかり散財しているような気がしないでもない。
  時計を見ると4時前ちょっと前、アルバイトは5時からなので別段急ぐ必要もないが
  早めに行って手伝っておいても良いだろう。
  そう決めて移動しようとする瞬間、道を塞がれた。
「ちょっと、すみません」
  呼び止めた相手を確認すると顔はこちらを向いているが、目が泳いでいた。
  そしてその顔は今日何度も目を合わせている顔である。
  山岡霧乃―――同じクラスの女子。
  僕は彼女についてそれ以上のことを知らなかった。
  誰と仲が良くて、どの席に座っていて、部活には入っていないことくらいはわかるが、
  それくらいは同じクラスにいれば誰だってわかる。
  しかしながら、今日この瞬間まで僕と彼女との接点は僕の知る限りまったく無いはずだ。
  当然話しかけられる理由も思いつかない。
「なんですか?」
「えっと、間違っていたらごめんなさい。天野君って確か喫茶店でアルバイトしてるよね?」

 話しの内容に少し驚く。
  今まさにその喫茶店に出勤しようとしていたということもあるが、
  アルバイトのことを学校の誰かに話したことはない。
  僕自身は隠そうとする気はないのだけれど、あの店には晴香姉さんと雨音ちゃんが
  僕の様子見がてらによく来る。昼の様子からすると今日もおそらく来るのだろう。
  姉さんたちが来ていることがバレてしまえば、あの店は男連中の溜まり場になりかねない。
「その話、誰から聞いたの?」
「えっと、帰り道に時々見かけるから―――」
  思わず厳しい調子で聞いてしまい山岡さんが怯えてしまった。
「ゴメン。その、怒ってはいないから、ただ驚いただけで―――確かにバイトしてるけど、
  それがどうしたの?」
  先ほど驚かしたお詫びも込めて穏やかな口調で答えると、今にも掴みかかってきそうな勢いで
  山岡さんは吐き出した。言葉を。読んで字のごとく。
「えっと、覚えていると思うんですけど今年の文化祭の出し物が喫茶店に決まったこと
  知ってますよね。私、その実行委員なんですけど、私は喫茶店にほとんど行った事がなくて、
  実際やるときになにをしたらいいかとか全然わからなくて、男子の実行委員の新田君と
  話し合おうとしたんだけどあっちはあっちで忙しいらしくて、いつも先に帰っちゃって、
『ど〜しよ〜』って思ってた時に天野君が喫茶店でアルバイトしていたの思い出して、
  二日前にこっそり追いかけて確認してみたらやっぱりそうで、『やった〜』って思って
  昨日のうちに話しかけようとしたらいつの間にかいなくなってしまっていて、
  今日も朝から何度か話しかけようとしたんですけれどいざって時に邪魔が入ってしまって
  全然話しかけられなかったんですぅ〜〜〜」

 息継ぎぐらいすればいいのに。
  まずそう思った。
  女難ってもしかして―――
  次にそう思った。
  なんにせよ、先ほどの話の内容からして、僕がアルバイトをしている情報がどこかから
  流れている心配はなさそうだ。
  山岡さんに事情を説明して釘を刺しておけば問題ないだろう。
  そう考えて山岡さんの方を見てみると、何故か達成感に満ちた顔つきをしていた。
『どうだ! 私はやり遂げました! 見てくれましたか? お父さん、お母さん!』
  そんな言葉が呼吸の乱れた顔に書いてあった。
「それで僕に何の用なの?」
「えっと―――」
  言葉が続かなくなってしまった。
「え〜っと―――」
  突然の質問に頭の中が真っ白になってしまったらしい。
  山岡さんが僕にどうして欲しいのかは大体予想は出来ているのだけれど、
  助け舟を出すようなことはしなかった。
  正直なところ僕はあまり文化祭に積極的に参加する気がない。
  そこそこがんばって、そこそこ楽しめればいいと思っている。
  ここで安請け合いなんかして深入りするような真似はしたくはなかった。
  山岡さんの様子を窺うとまだ頭を捻っている。
  不謹慎ではあるかもしれないけれど、山岡さんの困っている姿は可愛いと思う。
  どこか放って置けない感じがする。
  庇護欲をそそるとでもいうのだろうか。
  少なくとも姉さん達が言うような悪い女には見えないが―――、
「あの、今から僕はバイトだから―――」
  情が引っ張られる前に退散することにした。
  今お願いされたら断りきれそうにない。
  卑怯だと分かっていながらも、声をかけられないように僕はその場を後にした。

 

 

 学校から歩いて15分。古木で作られた看板が特徴の店に僕は入る。
  喫茶店『歩和路』
  当て字でポワロと読む。
  駅前商店街のメインストリートからやや外れた場所に位置するこの店の客層は、
  カップルから老夫婦までとなかなかに幅広い。
  しかしながら同じ学校の生徒はあまり見かけないような気がする。
  全体的に木目調の店の造りに気が引けてしまっているのだろうか?
  それともフランチャイズ式のコーヒー屋のほうが落ち着くのだろうか?
  ジャズを流している店の雰囲気が騒ぎづらいのだろうか?
  その辺りのことはよくわからないけれども、同年代の学生をあまり見かけないことは確かである。
「いらっしゃいませ〜、って天野君。今日は早いね」
「こんにちは」
  出迎えてくれた店長に軽く頭を下げながらフロアに顔を出して客入りを確認する。
  夕食前にもかかわらずそこそこの客が入っている。
  顔ぶれを確認すると、やけにおじさんが多い気がする。
  退社した団塊世代がこんなところにまで来ているのだろうか?
  などと柄にもないことを考えつつ、顔見知りのアルバイト達に挨拶をして奥のスタッフルームで
  制服に袖を通す。クリーニングに出してくれたのかシャツがパリッとしていた。
  自然と背筋が伸びるような新鮮な気分でフロアに出ると店長がおどけた調子で声をかけてくる。
「早く来て働いてくれるのはかまわないけど、給料は5時からの計算だよ」
「かまいませんよ。ウチの姉妹がいつもお世話になっていますし」
  店長は小さな声で「ありがとう」と返してキッチンへ移動する。
  店長は晴香姉さんと雨音ちゃんの二人がこの店に来たときは、僕のいないときでも
  社員割引でメニューを出してくれている。
「ありがとう」はむしろこちらの台詞である。

 いつもと変わらない通常通りの業務をこなしているうちに、店内の時計は午後5時半前を指していた。
  夕食時が近づくにつれて人が捌けてゆく。
  手が空いたので玄関の掃除でもしようと外に出ると、
  制服姿の少女が慌てた様子で店の角を曲がってゆく。

 見てしまったからには放って置けなかった。

 内心でしまったと呟きながら、
  先延ばしにしてきちんと断っておかなかった自分の優柔不断さを呪う。
  店の角の様子を覗き見ると、バツの悪そうな二つの瞳がこちらを見ていた。

「あの、えっと―――」
「さっきはごめんね。急いでいたから話す暇がなくって」
  よくも平然と嘘がつけるものだと思う。
「いえ、それはいいんです。それで、その―――」
  そういえば、この子はどのくらいここで待っていたのだろう。
  教室で別れてから一時間近くは経過している。
  まさかずっと待っていたわけではないだろうけど、もしかしたら―――
  そう思わしてしまうような何かが山岡さんにはある。
  店に入ってこなかったのは―――仕事中に入ってくるのが気まずかったのかもしれない。
  まだそうとは決まったわけではないけれど、なんとなく悪いことをした気分になる。
「とにかく店に入ってよ。ここで立ち話もなんだから」
  お詫びの気持ちも込めて、一杯くらい奢るのもいいかもしれない。
  強引に話を進めて山岡さんを店の中に招き入れ、空いている席に座らせる。
「あの、私―――」
「僕の奢りだから気にしないで」
  不安そうにしている山岡さんに一声掛けてから、キッチンでお冷を用意して
  テーブルの上にそっと置く。
「こちらがメニューになります」
  テーブルのホルダーに立て掛けられたメニューを渡すと山岡さんはまるで賞状を受け取るような
  仕草で受け取り品目を眺め始めた。
「えっと―――これで」
  山岡さんが指差したのはブレンドコーヒー。
  この店で一番安い定番の商品である。
  遠慮しているのだろうかとも思ったが、何も言わないでおく。
「かしこまりました。ブレンドコーヒー、以上でよろしいでしょうか?」
「は、はい」
  カチコチに緊張している山岡さん。
  少し他人行儀にしすぎたかもしれないと反省しまう。
  自分から誘ったのだから、あまり相手に気を使わせるのもよろしくない。
「少し休憩を貰うから、話の続きはそのときでいいかな?」
「えっ! あ、はい。私の事はお構いなく」
  一度山岡さんの席から離れて店長に事情を説明すると、
「しばらく大丈夫だから、ゆっくりで良いぞ」
  妙にニヤついた顔で店長が笑う。
  ただのクラスメイトだと訂正して、コーヒーを山岡さんに届けた後にスタッフルームに引っ込む。
  学校の制服に着替える時間を使って、どうやって断るかを簡単にイメージ。
  ああでもない。
  こうでもない。
  と、頭を捻っているうちに時間が経ってしまう。
  結局のところお願いされたら断れないような気がするのだ。
  これは僕の悪い性格。
  良く言えば困っている人を見過ごせない、悪く言えば安請け合いをしてしまう。
  典型的なNOの言えない日本人。典型的なイイひとで終わってしまう人。
  自覚しているくせに直せない悪い癖。
  本当のところはただ人の顔色を窺っているだけ。
  最後に頭を悩ませているのは山岡さんではなく僕自身なのだ。

 こうやって悩んでいるうちにも時間は過ぎてゆく。
  これ以上待たせていてもしょうがないので、今は断ることだけを考えてフロアへ戻ことにした。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いえ、全然待っていませんから」
  お冷をキッチンから持参し、山岡さんと対面するように座って彼女の様子を窺う。
  彼女の目の前には一杯のコーヒー手付かずのまま。
  まだ、冷め切ってしまうほどの時間は経っていないものの立ち昇る湯気の量は淹れたての頃よりも
  明らかに減っている。
「飲まないの?」
「あの、私、今までコーヒーを頼んだことも飲んだこともほとんど無くて」
「奢りだからって気を使わなくてもいいのに、今からでも替えようか?」
「いえ、それはいいです。それよりも……えと、コーヒーはどうやって飲めば良いでしょう?」
「コーヒーの飲み方? 好きにしていいと思うよ。砂糖をたくさん入れたりする人もいれば、
  ブラックのままの人もいるし」
「はぁ……」
  納得のいかないような表情のまま山岡さんはシュガーポットを手繰り寄せると、
  こちらの様子を窺う。
「好きなだけ入れていいんじゃないかな」
「そうですよね。えっと、天野君はどのくらい入れる?」
  僕は入れない派である。
  しかし、目の前の女の子がブラックを飲むようには見えなかった。
「砂糖一杯半にミルクも付けるよ」
「砂糖一杯半にミルクですね―――」
  山岡さんは僕の言ったとおりの分量で砂糖とミルクをコーヒーに入れると、
  理科の実験のようにスプーンでかき混ぜてからおもむろに口へ運ぶ。
「お、おいしぃ〜」
  山岡さんの目を食いしばる表情はどう見ても苦いと言っている。
  そんな表情がおかしくて、ついつい笑いをかみ殺すと同時に肩の力が抜けた。
「無理しなくてもいいよ。それで話って? まぁ、ここまで来れば大体予想はつくけど」
「はい、文化祭の出し物について知恵をお借りしたいんです」
「別に知恵を貸すのはかまわないけれど、
  見てのとおり僕も忙しいからたいした手伝いは出来そうに無いよ」
「それでもかまいません。やらなくちゃいけない事はたくさんあるのに、
  私ではどうすればいいのかすらわからなくて―――せめて少しでも経験のある人に
  アドバイスして欲しいんです」
  藁にもすがる、とまではいかないものの、山岡さんの真剣な表情を見ていると断るのは
  少々酷な気がしてきた。
  こういう気持ちになると僕はNOと言えなくなる。

「わかったよ。だけど、三つ条件をだしていいかな」
  どうせ断れないなら、深入りしないようにあらかじめ手を出す範囲を限定しておけばよい。
  急ごしらえの妥協案ではあるが、手放しで了承するよりはマシだと思った。
「わかりました。わたしにできることならば」
「一つ目、アルバイトや用事のある時はそちらを優先する」
「わかりました」
「二つ目、僕がこの店でアルバイトしていることを誰にもバラさないこと」
「バラしません。口が裂けても言いません」
「三つ目―――同級生に敬語使われると少し堅苦しいんだけど」
「えっと―――ど、努力します」
  これで、多少忙しくなるものの深入りすることもないだろう。
  やばくなったら用事と言って逃げるか、無理やりバイトを入れればいい。
「まぁ、三つ目は冗談として最初の二つは守って欲しいな」
「わかり……わかった、だよね?」
「無理しなくていいって」
「そしたら、携帯の番号とメールアドレスを渡しておきますね、今携帯はありますか?」
「ごめん、いまロッカーの中」
「そしたら、書いておきますね」
  山岡さんは手帳からボールペンを抜き出すと、携帯の画面を見ながら紙ナプキンに
  番号とアドレスを書き込んでゆく。
  丸っこくて可愛い字だけれど、少し読みにくそうだ。
「はい、登録しておいてくださいね」
「わかった」
  そういえば晴香姉さんと雨音ちゃん以外の学校の女子から始めてメールアドレスを貰った気がする。
  なにかちょっと感慨深いものがある。
  受け取ったメモは大事にたたんでポケットにしまった。
  山岡さんは目をつぶってコーヒーをぐいっと一口で飲み干すと、
  またあの苦いのがバレバレの顔をする。
「あの、今日はお邪魔になるのでもう帰ります」
  山岡さんが鞄を持って立ち上がる。
  せっかくなので、入り口まで送ることにする。
「御馳走様でした。コーヒー、おいしかったです」
「喫茶店には紅茶もあるよ」
「えっと、次回はそっちで―――じゃあ、また明日に」
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
  カラン。
  入り口のベルを鳴らして山岡さんは店を去った。

「ふぅ〜」
  少し、休憩を取りすぎたようだ。

 気持ちを切り替えてスタッフルームへ戻り再びアルバイト用の制服に着替える。
  ―――少なくとも『悪い女』ではなかったなぁ。
  なんてくだらないことを考えながらフロアに戻ると、周囲がどこか騒がしい。

「どうかしたんですか?」
  同時期にアルバイトを始めた大学生の斉藤さんに聞いてみると、
  彼は無言でフロアのテーブルの一角を指差す。

 斉藤さんの親指の先、四人用の丸テーブルにはいつものように
  私服姿の晴香姉さんと雨音ちゃんが座っていた。

3

 晴香姉さんと雨音ちゃんが私服なのは、いつも一度家に帰ってから喫茶店に顔を出すからである。
  二人は僕がアルバイトでいない間に洗濯や夕食の下ごしらえといった家事を済ませてから
この店にやってくることが多く、二人が来るのはどんなに早くても夕方、
季節によっては日が落ちてからやってくることもある。
  僕としては先に夕食でも食べて家でゆっくりしていてくれてかまわないのだけれど、
二人はそれを口にするといつも不機嫌になる。
  夏場ならまだしもこれから寒くなる冬場の暗い道を年頃の女性二人に歩いて欲しくはないが、
二人が大丈夫だと言い張るので僕は口を出さないことにしている。
  おそらく口を出しても二人には敵わないだろうし―――。

 店の時計は六時を回ったばかり。
  いつもよりも早い来店である。

 そして、二人の空気はいつもとは大きく異なっている。
  普段ならば二人が居るだけで店の雰囲気まで華やかに変わるのに、今日はどうにも静かだ。
  姉さんが雰囲気を盛り上げ、雨音ちゃんがそれを抑えるのがいつもお決まりのパターンで、
  店長夫婦やアルバイト、そして一部のお得意さんにとっても二人の存在は
この一年で店の名物になっている。
  しかし、今日の二人は騒ぎ出すどころか会話の一つも交わしていない。
  僕も店の皆も二人がこんな状態でいるのを見たことがない。
  二人とも俯いたまま微動だにしないのだ。
  一見すると落ち込んでいるようにも見えなくは無いが、そういう雰囲気ではない。
  むしろ、分厚い壁の向こうに見え隠れする感情は――――抑え切れないナニカ。
 
  何かがおかしい。
  二人が店に来るまでに何かがあった。
 
「オーダー、取ってきてよ」
  薄々異変を感じ取っているであろう店長がお盆に二つのお冷をのせて僕に差し出す。
  お店に来ている以上、二人はお客様なのだ。
  僕はお盆を受け取ると、意を決して二人の下へ向かった。
「いらっしゃいませ。御注文はお決まりでしょうか?」
  できるだけいつもどおりにしてみたつもりが僕の口調もやや硬い。
  どうやら無意識に身構えてしまっているらしい。
  姉さんは淀みない仕草でいつもはめったに手に取らないメニューを開くと、
  迷わずに一つの商品を指差した。
「―――デラックスチョコレートパフェ」
「私はデラックスストロベリーパフェを」
  普段の姉さんからは想像できないような感情の触れ幅の無い無機質な声。
  雨音ちゃんはむしろ普段どおりの声。でも、どこか威圧的、高圧的な感覚を受ける。

 こんな感じの声、いつか聞いたことがある。

 でも、今はそんなこと関係ない。
「雨音ちゃん、確か甘いものはそんなに量が食べられなかったんじゃ―――」
「なんですか? この店の店員は客の注文に文句をつけるんですか?」
  俯いていた雨音ちゃんが僕に睨みを効かせる。
  有無を言わさぬ迫力にたじろいでしましそうになるが、踏みとどまる。
「いえ―――デラックスチョコレートパフェとデラックスストロベリーパフェ、
  以上でよろしいでしょうか?」
「「はい」」
  なんとも言えない敗北感に苛まれつつ、二人の異常の原因が何も分からぬまま
キッチンまで戻ってきてしまう。
「どうだった?」
  斉藤さんがデラックス用の容器を用意しながら背中を叩く。
「そう簡単には無理みたいです。バトンタッチしていいですか?」
  僕が手を伸ばすと、
「うわ! そんな危険物振り回すな!」
  後ずさりして避けられる。他のフロアスタッフを見渡すと皆いっせいに後ずさりする。
  普段は喜んで代わってくれるのに……。
  どうやら今のところは打つ手立てがない。
  キッチンで組み立て中のデラックスパフェに期待するしかなかった。

 ひたすら待つこと五分。

 デラックスパフェの組み立てが終わる。
  通常の2倍の容積を誇るデラックス用の容器にこれでもかと詰め込んだソフトクリームと
  コーンフレークでチョコレートまたはストロベリーの特製ソースを挟み込み、
  大量の生クリームをコーティング。
  その上にパイナップルや苺、バナナといった人気の果物を乗せ、
  その上から再び特製ソースを垂らし、最後にサクランボを添えた当店の最大価格の一品。
  これで少しは二人が落ち着けばよいのだが。
  片手で持つと思わず肘から先が震えてしまいそうな重量感のパフェを受け取り、
  再び僕は二人の下へ向かう。
「お待たせしました」
  デラックスパフェの容器は紙のコースターでは間に合わない大きさのため、
軽食用の皿を下に敷きその上に載せる。
  紙ナプキンの上にスプーンとフォークを用意する作業の合間に俯いている二人の顔を盗み見る。

 姉さんからは覇気が感じられない。
  雨音ちゃんは目が合うとツイと逸らされてしまう。

 普通なら目の前にパフェを出されたお客さんの顔は綻ぶ。
  女性なら尚更だ。
  たとえそれが振られた腹いせの自棄食いであっても、少しは口元が緩んでいるのを
  以前見たことがある。
  しかし、二人の表情は崩れない。
  要するに今の二人にとってパフェはあまり眼中にないのだろう。
「ねぇ、今日はどうしたの? 二人ともちょっと変だよ」
「別に何もおかしいことなんてない!」
  雨音ちゃんが声を荒くする。
  これは珍しい。
  怒っているときほど雨音ちゃんは静かになる。
声を荒らげる場面なんて姉さんと喧嘩しているときくらいのものだ。
「やっぱりおかしい。なにがあったかは知らないけど、嫌な事があったなら僕が聞くよ」
「別になにもないって言ってるでしょう。用事が済んだのなら帰ってよ」
  取り付く島も無い。
  雨音ちゃんはああ見えて頑固だから、一度態度が固まってしまうとその殻を破るのには
  結構な時間と根気が必要になる。
  いつもならこういう時の頼みの綱は姉さんなのだが、こちらは先ほどからほとんど反応すら
  返ってこない状況。
  何かしらの反応を返してくれる雨音ちゃんよりも状況が悪い。
「―――ごゆっくりどうぞ」
  デラックスパフェ二つに希望を託して、僕はキッチンに戻る。
  いくら二人でもあのパフェを平らげるには時間がかかる。
  僕のバイトが終わるのは午後8時。
  流石にそんな時間までパフェで保つことなんて出来ないだろうけれど、多少の時間を潰せるだろう。
  二人がフォークとスプーンに手を伸ばすのを確認して、ひとまず僕は仕事に専念することにする。
  フロアに出るとおそらく仕事にならないので、斉藤さんに無理を言って
  キッチンとフロアを交代してもらい、僕はさっそく食器洗いを開始する。

 ちょうど夕食時を過ぎて、再びお客さんが入り始めた。
  忙しさと単純作業にかまけて少しは気が紛れるものの、
  気を抜くとついつい二人のこと考えてしまう。
  僕に異変の原因を明かしてくれないのはなぜなんだろう?
  僕の信頼が足りないのか?
  それとも二人の怒りの原因が僕に知られたくないことなのか?
  本音では、僕はあまり頼りにされていないのだろうか?
  だんだん不安になってくる。
「天野君」
  手を止めて考え事をしていると、キッチンの奥で我関せずを決め込んでいた店長が
  僕に声をかけてきた。
「問題は解決したか?」
「いえ、まだです」
  店長はげんなりした表情で僕の肩に手を置く。
「少し、休憩を取れ」
「でも、休憩ならさっき―――」
「天野姉妹は君の担当だろう?」
「―――はい、そういうことなら」
  店長の意図を汲み取って、僕は再びスタッフルームで学校の制服に着替える。
  こんなに着替えることはめったにない。
  材料切れで商店街に買出しに出るときだって、この店のアルバイトのほとんどが
  制服を着替えないで出掛ける。
  無論、僕もその一人である。
  着慣れたYシャツに袖を通して、フロアに出る前に深呼吸を一つ。
  気合を入れなおす。
  勢い良くスタッフルームを飛び出し、その勢いのまま僕は姉妹の待つ四人掛けの丸テーブルに
  たどり着くと、対面して座っている二人の間の席に座る。
  右側には姉さん、左側には雨音ちゃん。
  奇しくもこの並びは僕らが登校するときと同じものだ。
「ねぇ―――」
  話しかけてみる。
  やはり姉さんからは反応が無い。
  雨音ちゃんはおそらく意図的に無視を決め込んでいる。
「はぁ」
  思わずため息が出る。
  とりあえず、二人の機嫌を直して話だけでもできる状態にしなければならない。
  よく甘いものは女の子を優しくすると言うが、姉さんの目の前のデラックスパフェの残骸を見る限り
  いささか火力不足だったようだ。
  雨音ちゃんの方は姉さんとは対照的に半分以上を残して完全に手が止まっている。
  左前方には溶け始めているデラックスパフェ。
  そしてそこには柄の長いスプーンが突き刺さっている。

 ふと、思い立つことがあった。

 いや、しかしそれをやってしまってもよいのだろうか?
  悪ノリにしても性質が悪い気がしないでもない。
  道徳的にも問題はある。
  雰囲気的にも今やるべきことではない気がする。
  しかし、たとえ成功しなくとも二人の意識を少しでも外へ向けることが出来れば、
  突破口は見出せるかもしれない。
  それはとても恥ずかしいが、二人のこんな姿を見ていられないし、見せ続けるわけにも行かない。
  僕はスプーンを手に取る。
  金属製のスプーンは柄の部分までひんやり冷たい。
  僕はスプーンでパフェのソフトクリーム部分をすくい取り、
  雨音ちゃんの口元へスプーンの先を持ってゆくと――――

「あ、あ〜ん」

 場が水を打ったように静まり返った。

 おそらく、あまり広いとは言えない店内のみんなの意識がスプーンの先に集中している。

 恥ずかし過ぎてスプーンの先が震える。

 溶けかかったソフトクリームがスプーンの裏側に白い露を作り出し、
  重力に引かれて今にも落ちそうだ。

 いま、何秒くらい経ったのだろう。

 顔から火が出そうだ。

 そういえば、僕呼吸してる?

 そろそろ、手先の震えが限界だ。

 そして、白い露がスプーンから離れる瞬間――――

 

 

「な〜んちゃって!!」

 

 

 僕はスプーンを容器へと引っ込める。
「これは普通、兄妹でやることじゃないよね!」
  周囲の皆からはヘタレ野郎!! って視線が八方から突き刺さるけれど、しょうがないじゃないか。
  あんな恥ずかしい思いをしても、結果は散々なもの。
  もう、泣きたかった。
  奥の手までもが空振りに終わり、もう用済みとなった容器を逃げるように下げようとした
  次の瞬間―――右の二の腕をがっちり掴まれた。

「お姉ちゃんには………試してみないの………?」

 姉さんの指先に力が入ると腕の筋肉が軋む。
  激痛というほどではないが、なかなか痛い。
  雨音ちゃんに試してみたのは、残っていたのが雨音ちゃんのストロベリーパフェだったのと、
  雨音ちゃんからはなんらかの反応が期待できたからで、別に他意はない。
  再度、姉さんで試す気力が尽きてしまっていただけだ。

「お姉ちゃんには………試してみないの………?」

 相変わらず俯いたままの姉さん。
  しかし、先ほどのような無機質な声の向こう側に姉さんの期待を垣間見る。
  容器を下げようとしていた手を開くと、姉さんの手も開く。
  長い前髪で隠れた瞳の奥、そこには薄い意思の光が灯りかけていた。
  姉さんの中の「お姉ちゃん」が甦ろうとしている。
  いつも明るくて、何よりもやや暴走気味な姉さんが―――。

 これはマズイ。

 先ほどのはただの冗談である。
  二人の嫌な雰囲気を変えようとして、突飛な行動を取ったにすぎない。
  いわば、勢いで通した無理。
  もう一度やれと言われても困る。
「あのね、姉さん……」
  僕の声に反応して、俯いていた姉さんの顎が次第に上向きに変わる。
  やや童顔の姉さんの斜め下から覗き込むような視線。
  男心が大いに揺さぶられる。
「ね、八雲ちゃん……試してみて……」
  お願い。
  されると、断りきれない。
  戸惑う僕を余所に、姉さんは僕から視線を離さずに顔を寄せてくる。
  先ほどまでの影を感じさせないほど生き生きとした息づかい。
  姉さんは姉弟でこういう事するのに抵抗はないのだろうか?
「ね、試してみようよ……」
  至近距離で姉さんの濡れた唇が動いて、淡く甘い生クリームの香りが漂う。
  誘われるまま僕はスプーンに手を伸ばすと、僕を覗きこむ姉さんの口元が嗤った。
  まるで、蝶を捕らえた蜘蛛の様に、
                ――――『捕まえた』と嗤っている。

「姉さん、待って」

 救いの声が聞こえた。
  それは姉さんを抑えることのできる唯一の声。
  霧のかかった意識が晴れて、僕は胸を撫で下ろす。
  姉さんを鎮めるのは雨音ちゃんに任せればいい。
  その分野に関して雨音ちゃんは僕よりも数段上手い。
  雨音ちゃんは聡明な娘だ。
  僕は安心して成り行きを見守っていればいいのだ。
  今はなにより、助かった。
「私のが―――まだ途中です」

 い や 、 そ う じ ゃ な く っ て 。

「もぅ、雨音ちゃん。いいところで止めないでよ」
「寸止めなのは私も同じです。むしろ焦らされてます」
「お姉ちゃんに先を譲ってよ」
「駄目です」
「ね、お姉ちゃんの一生のお願いだからぁ〜」
「それ、一週間前にも聞きました」
「帰ったらお姉ちゃんのアイスあげるよ」
「私たち、今パフェを食べたばかりでしょ」
「じゃあ〜、どうすればいいの〜?」
「私が終わるまで、指でも咥えて待っていてください」

 騒がしくなるテーブル。
  いつの間にか嫌な雰囲気が消えて、いつもの二人が帰ってきた。
  会話の内容と周りの視線は少々痛々しいものがあるけれど、僕は何よりもほっとしていた。
「あの、僕は仕事に戻るよ。まだバイト中だし」
「駄目」
「許しません」
  立ち上がろうとすると両肩をQdまれ強引に引き戻される。
「バイトが終わった後でちゃんと埋め合わせするから」
「じゃあ、お姉ちゃんが先で決定!」
「どうしてそうなるんですか? 私が先に決まってます」
  結局、僕はもう一度アレをやらされる事が決まっているらしい。
「二人とも、あんまり騒ぎすぎないでね」
  二人が言い争っているうちに僕は席を立ちキッチンへと滑り込む。
  洗い物が溜まった台所には仲間連中の鋭い視線と店長が仁王立ちで待っていた。
「天野くん。言い分はどうあれ、次に同じ事があったら―――わかってるよね?」
「――――はい」

 一つだけ愚痴を言わせてもらえるのならば、
  『女難の相』はまさしく二人の事を指しているのではないだろうか。

4

 明くる日の朝、僕は山岡さんから学園祭の出し物の進行状況を聞いて愕然とした。
  学園祭3週間を前にして、ほぼ何も決まっていなかったのだ。
  ただ文化祭で喫茶店をやることだけが決まっていて、
  その事実だけが宙ぶらりんになって一週間だけが過ぎているような状態。
  山岡さんが泣きついてくるのも無理はなかった。
「文化祭での出展は私たちに懸かっています」
  と、鼻息を荒くする山岡さん。
  正直、僕をそこに加えて欲しくなかったが、僕も今まで何もしてこなかったのだ。
  その責任を感じないわけでもなかったし、山岡さんの申し出を受けた以上
  がんばらないわけにもいかなかった。

 その日の昼休みから、僕と山岡さんは空白の一週間を取り戻すべく学校中を走り回る事になる。

 教室のレイアウトを考えたり、期限ギリギリの生徒会室に飛び込んで食料品を扱う許可を取ったり、
  看板のデザインを考えたり……。
  多少強引にでも決めなければならない事柄を片付けてゆき、
  暇そうなクラスメイトに呼びかけて作業を分担してゆく。
  文化祭3週間前で閉校時間の8時まで残っているのは、
  学園祭の実行委員と僕と山岡さんの二人くらいのものだろう。
  遅い帰宅の理由を姉さんや雨音ちゃんにあれこれと問い詰められたが、
  正直に学園祭の用事が忙しいと言うと文句を言いながらも渋々ながらも引き下がってくれた。

 そんな日々が3日目に入った日の放課後、ホームルームが終わると同時に山岡さんが僕のところへ
  駆け寄ってきた。
「えっと、放課後は空いてますか?」
「ごめん、今日はバイトなんだ」
「そうですか」
  山岡さんは残念そうな顔をするが、アルバイトを休むわけにもいかない。
「――――ねぇ、今日も天野君のバイト先に行ってみてもいいかな?」
  山本さんがこちらの様子を窺いながら尋ねる。
「バイト先に? 別にかまわないけど、出し物の方は大丈夫?」
「うん。天野君に手伝ってもらってから進行状況もすごく良くなって余裕も出来たし、
  商店街に雑貨を買いに行くついでに、もう一度あの店に行ってみたいと思ってたから。
  イメージなんです、あの店」
「そう、じゃあ早めに行って少しお茶してようか」
「うん」
  ここ二日間で次第に息が合い始めた僕らは並んで校門を出た。
  クラスの女の子と二人で学園祭の話をしながら歩く。
  こんな日が来るなんて想像したことも無かった。
  思い返すと、ここ数日で僕が山岡さんに対して持っていた警戒心や
  文化祭に対する姿勢は変わってきたような気がする。
  山岡さんは興奮すると多少周りが見えなくなるようなところがあるものの普通の女の子だったし、
  自分の持っている技能が必要とされるのはとても気持ちの良いものだった。
  学園祭の話をすると姉さんや雨音ちゃんはあまり良い顔をしないけれど、
  最近は充実しているような気がするのだ。
  僕らがちょうど嫌な教師の話で盛り上がってきたところで古木の看板に辿り着く。
  いつもの道程がやけに短く感じた。

 カラン。

 ベルを鳴らして店の中に入ると、僕を見つけた店長がこちらへ向かってくる。
「天野君――――少し、話がある」
「はい。わかりました―――ごめん、どこか適当な所に座っててよ」
「うん」
  山岡さんに席を用意して、僕は店長の後に続く。
  店長がくぐった扉の向こう、スタッフルームは妙な重苦しさがあった。
  店長は自分で用意したパイプ椅子に座るとおもむろに口を開く。
「実はな、先日の件でお客様からクレームが出た」
「クレーム………そうですか………」
  あれだけ騒いだのだ。無理もない。
「本来なら、あの場面は俺が直接行って注意すべきだったのかもしれないが、
  この店の客はほとんどが顔馴染みで二人のことを知っている人も多い。
  あの二人を目当てに店に来る客も増えたから少し甘めに見ていた。
  しかし、今回はクレームが付いてしまった」
「―――本当に申し訳ありませんでした」
「俺は店長だからクレームには対処しなければならない」
「―――あの」
「なんだ?」
「―――僕は、クビってことですか?」
  店長が僕を見据える。
  早く否定して欲しい。
  けれども、店長は何も言わない。
  僕はしたくはない覚悟を決める。
「――――――それも考えた。けど、今回はそうしない。俺は一年間君の働き振りを見て、
  そう判断した」
「―――ありがとうございます」
  自然と頭が下がる。
  よかった。
  給与の心配もあるけれど、僕はこの店が好きだったから。
「今回は1ヶ月店を休め。その間に二人にもきちんと言い含めておけよ」
「―――はい」
  それでも1ヶ月の謹慎は心が沈む。
  店長は禁煙のスタッフルームで煙草を点けると、一服して不味そうな顔をする。
「なぁ、天野君。一つ立ち入ったことを聞いていいか?」
「はい」
「一年間見ていて思ったんだが、君はあの姉妹二人に何か遠慮があるのかい?」
「ありませんよ!!」
  突然の質問に僕は反射的に声を挙げる。
「じゃあ、どうして声を荒らげる?」
「そ、それは……」
  つぐんでしまった口の奥、胸の中でくすぶっている悔しさ。
  それは触れられたくない図星、僕の弱さを突かれたからだろう。
「―――これは俺の個人的な意見だけどな、
  君の二人に対しての接し方は家族のそれじゃないと思うぞ」
  何も言い返せなかった。
  だって僕は知らないのだ、店長の言う『家族のそれ』を。
「すまん、変なこと話した。今のは忘れろ。あと―――今日はもういいぞ」
「はい―――お疲れ様でした」
  頭を下げて、僕は店長の前から逃げ出す。
  見たくないもの、見せたくないものに触れられた気分。
  今日はもう何もする気が起きない。
  山岡さんには悪いけれど、さっさと帰ってふて寝したかった。

「天野君、ってすごい顔してるよ。どうしたの?」
「大丈夫。何でもないよ」
「あの、そんな顔して言われても説得力ありません」
「そんなにひどい顔してる?」
「うん」
  山岡さんは何か口を開こうとしているが、僕の様子を見てすぐに止めた。
  沈黙が重苦しい。
  2、3分経った頃、しばらくコップのお冷を見詰めていた山岡さんが声を漏らす。
「えっと、もし、私でよければ相談に乗ろうか?」
「え?」
「ほら、私今回の事で天野君にすごくお世話になってるから、
  少しでも恩返しが出来たらなぁ―――なんて、私じゃ頼りになりませんよね」
  また山岡さんは静かになる。
  でも、目の前の娘は本当に頼れないような人物だろうか?
  この三日間、山岡さんといっしょに走り回ってきた。
  行動を共にして、二人で遅くまで話をして、いろいろな山岡さんを知って、
  不器用だけど一生懸命な女の子。
  山岡さんのイメージは僕の中でそう変わっていた。
  姉さんや雨音ちゃんとは違う女の子。
  思い返してみると、僕は姉さんや雨音ちゃんに悩みを打ち明けたことがない。
  それが、店長の言う遠慮なのかどうかはわからない。

 でも僕は、自分の悩みを二人に打ち明けるのが怖かった。

「あの、聞いてくれるかな?」
  自然と口が開いていた。

 それから僕は山岡さんにいろいろなことを話した。
  先日の話。今日の話。ここ最近のこと。
  僕が二人に悩みを打ち明けたことが無いこと。
  つい数年前まで二人との関係が上手くいっていなかったこと。
  流石に僕が養子であることやいじめを受けていたことは伏せておいたが、
  うっかり口を滑らせれば言ってしまっていたかもしれないくらいに
  僕の内臓からはいろいろな言葉が溢れ出てきた。

 こんなに自分のことを人に話すのは、初めてだった。

「そんなことがあったんですか……」
「うん」
「でも、少し納得できた」
「納得?」
「そう、女の子の間ではちょっと噂になってるんだよ。キミたち」
「どういう風に?」
「ほら、お姉さんや妹さんって、すごくモテるのに彼氏を作らないじゃないですか」
「うん」
  そう。姉さんや雨音ちゃんは彼氏を作らない。
  少なくとも二人が男子を連れて歩いているところを見たことが無い。
「だからね、二人はすっっっごいブラコンで、天野君はすっっっごいシスコンなんじゃないかって」
「僕はシスコンなんかじゃないよ!!」
「姉と妹に『あ〜ん』なんてことしてるのに?」
「それは……しかたなくて……」
  グゥの音も出なかった。
「えへへ、どうでした? 身内に『あ〜ん』した感想は?」
「もう、そのネタはいいよ」
  山岡さんはあからさまに残念そうな顔をすると、いつもよりもまじめな表情に切り替わる。

「でも、このままだと天野君だけじゃなく、お姉さんや妹さんも駄目になるような気がします」
「どうしてさ?」
  僕にとって山岡さんのその言葉は聞き逃すことの出来ないものだった。
  僕と二人が駄目になるだなんて。
「いい? 天野君。キミたちは兄弟なんだよ。
  夫婦なら寄り添いあうのもいいかもしれないけれど、
  兄弟は付かず離れずくらいがちょうどいいんです。
  今の話を聞いていると、天野君とお姉さんたちの距離は近すぎる感じがします」
  僕と二人の距離、僕の二人に対する態度。
  山岡さんと店長の話には共通する要因がある。
  それは僕の抱える負の要因―――失うことへの恐れ。
「ねぇ天野君、今まで二人と喧嘩したことはありますか?」
  頭の中を探ってみるがそんな記憶はどこにも無い。
「無いみたいですね」
「どうしてわかったの?」
「顔に書いてありました」
  どうやらここ数日で山岡さんは僕の表情が読めるようになったらしい。
  でも、あまり不快感は覚えなかった。

「一度、二人と喧嘩してみたらどうでしょう?」
「そんなの………勝てるわけないよ」
「別に勝つ必要はないんです。二人と少し距離を取って接してみるだけですよ」
「だったら、喧嘩なんてする必要は……」
「じゃあ、何の理由も無しに天野君は二人と距離が取れますか?」
「それは……」
  無理だと直感でわかった。
  何も理由が無ければ二人はきっと納得しない。
  僕もきっと、二人をほおっておけない。
  押し黙る僕に対して、山岡さんは次第に不機嫌になる。
「天野君、今日の事だけじゃなくてもいいです。二人に対して少しも憤りは無いんですか?」
  少し考えて、
「―――ないよ」
  僕はそう口にした。
「嘘です」
「本当だよ」
「嘘ですよね?」
「本当だって」
「もし、それが本当なら―――私はとても残念です」
  そう言う山岡さんはとても悲しそうな表情で言葉を紡いでゆく。
「私は少し前まで天野君のことを『天野姉妹の弟』として捉えていました。
  才色兼備な美人姉妹のパッとしない弟。
  それが私の―――いえ、おそらく学園中の皆も天野君の事をそう思っていました。
  でも、天野君が私といっしょに学園祭の準備をすることになって、喫茶店に詳しい天野君を知って、
  学園祭の準備に走り回っている天野君を見て、クラスの皆の天野君を見る目は
  少しずつ変わってきていると思います。
  少なくとも、私の中では確実に変わりました。
  でも、天野君がそんな状態のままで学園祭が終わってしまえば、
  天野君はまた『天野姉妹の弟』に逆戻りです。
  さっき話してくれましたよね? 
  二人に悩み事を相談したことが無いって!
  二人にずっと気を使ってきたって!
  二人の要求には従ってきたんでしょう!?
  それって―――ただの奴隷じゃないですか! 
  このままだと、本当に天野君は『天野姉妹の弟』で終わってしまいますよ! 
  そんなの……そんなの、悲しいじゃないですか………」
  最後の方はほとんど山岡さんの方が泣き声になっていた。
  どうして山岡さんが泣いているのかわからなかった。
  けれど、僕は申し訳ない気分でいっぱいだった。

 本当は言われる前からずっと気付いていた。
  僕はもう長い間、二人から逃げ続けてきた。
  自分に自信が無かった。
  血の繋がりが恐かった。
  拒絶されるのが恐かった。
  居場所を失うのが恐かった。
  だから、自分を殺して天野八雲を演じた。
  二人に好かれるような虚像を作り上げた。

「ごめんね」
  声を出さないようにすすり泣いている山岡さんに声をかけて、
  フロアにいる斉藤さんを呼んで紅茶を二つ頼む。
  待つこと数分。
  タイミングがいいのか、気を使ってくれたのか、山岡さんが落ち着く頃にちょうど紅茶が届いた。
  僕は黙り込んでしまった山岡さんの前で紅茶をグイッと一口飲む。
「僕、がんばってみるよ」
「え?」
「だから、姉さんたちに今日の事を含めてきちんと言ってみるよ。
  喧嘩になるかどうかはわからないけど、きちんと話してみる」
  山岡さんはうれしそうに頷くと、途端に申し訳なさそうな顔をする。
「あ、あの、すいません。さっき私すごく失礼なこと言ってました。ごめんなさい」
「いいよ。うん、いい薬になった」
「そんな、私……」
「本当にいいから。ほら、せっかく頼んだんだから飲んでよ」
「は、はい」
  山岡さんは紅茶に砂糖一杯半とミルクを入れると、カップに口をつける。
  山岡さんは何も言わなかったけれど、その表情はコーヒーの時とは真逆のものだった。

5

 紅茶二杯で3時間近い時間を潰してしまった僕らは、早々に店を出た。
「今日はほんとにごめんね。ただでさえ遅れてるっていうのに」
「いえ、いいんです。それに天野君がいなければおそらくそんなに進んでいなかったでしょうし、
  今日の遅れはバイト返上で取り返してもらいますから」
  ちょうど学園祭までのスケジュールがほとんどキャンセルになっていた。
  このまま何もすることがないなら僕は確実に凹んでいたに違いない。
「まぁ―――がんばってみるよ」
「ええ、がんばってください。」
  出来なかった買出しを明日にまわして、僕らは商店街で別れる。

 しきりに手を振る山岡さんの小さな背中が見えなくなると急に決心が鈍りそうになった。
  まったく、僕は臆病者だ。

 もうそろそろ姉さんや雨音ちゃんが店に来てもおかしくない時間だったので、
  携帯から家に電話を掛ける。
  数コールしても二人は出ない。
  コール音が一つ増える毎に、次第にほっとしている僕がいる。
  これ以上先延ばしにしてもしょうがない事はわかっているのに、
  心の中にまだ恐れている僕の欠片があった。
  電源ボタンに触れている親指に力が入らないように、ただひたすら待つ。

 もう二人が家を出てしまった光景を思い浮かべ始めた頃、電話の向こうから声が聞こえた。

『はい、こちら天野です』

 どうやら電話を取ったのは雨音ちゃんのようだ。
「もしもし、雨音ちゃん? 僕だけど」
『兄さん? 今はまだバイト中のはずじゃ……』
「いろいろ事情があって今日は早引けなんだ。もう少ししたら帰るから、今日は家で待っててよ。
  姉さんにもそう伝えておいて」
『はい、わかりました。ですが、姉さんはまだ学校から帰ってきてませんよ』
「帰ってきてない? どうして?」
『さぁ? 連絡が無いのでわかりませんが、おそらく学園祭の準備か受験の話でしょう』
「わかった。とにかく姉さんが帰ってきたらそう伝えておいて」
『わかりました』

 これで用事はおしまい。
  でも、僕にはもう一つだけ言っておかなくてはならないことがあった。

「それとね―――今日は大事な話があるんだ。電話ではなんだから、僕が帰ったら伝えるよ」
『―――は、はい』

 電話の向こう側の声が動揺している。
  いきなりこんな事を言われれば、それもそうだろう。

「それじゃあ、切るね」
『に、兄さん!』
「何?」
『………今日は早く帰ってきてくださいね』

 雨音ちゃんがちいさな声で何かつぶやく。
  でも、よく聞き取れなくて―――

「え? ごめん、よく聞こえない。なんて言った―――の?」

 携帯の画面を見ると通話が切れてしまっていた。
  電波が悪かったわけでもないので向こうから切ったのだろう。
  何か言いたい事があったみたいだけれど、これから二人に伝える事を考えると
  掛けなおすのも気が引ける。
  気にならないわけではないけれど、僕はともかく家に帰ることにした。

 

 商店街から家の方角に歩き始めてすぐ、僕は今一番気まずい相手に出会ってしまう。
「あれ、八雲ちゃん? アルバイトはど〜したの?」
  制服姿の姉さんがこちらへ駆け寄ってくる。
  どうやら学校から直接喫茶店へ向かっていたらしい。
「ああ! わかった!! お姉ちゃんに会いたくてバイトを抜け出してきたんでしょう!!」
  不意を突かれた反動か否定したいのに口が回らない。
  こちらが動揺しているうちに、姉さんは徐々に距離を詰めてくる。
「駄目だよ八雲ちゃん。でも、お姉ちゃんは許しちゃうぞ」
  姉さんが僕の右手を取って歩き出そうとする。
「そうだ! 商店街も近いことだし、お姉ちゃんと二人でちょっとお茶して帰ろうか?
  家でお留守番中の雨音ちゃんにはナイショだからね」
  気が付けば握られてしまった右の掌が汗ばむ。
  姉さんの手がスルスルと伸びて僕の腕に絡みつくその瞬間に、僕は姉さんから手を離した。
「姉さんよく聞いて」
「ん? なぁに?」
「僕らは―――もう少し距離を取ったほうがいいよ」
「八雲ちゃん? なに言ってるの?」
「僕らはもう少し距離を取ったほうがいいって、言ったんだ」

 そう、言ってしまった。
  思っていたよりもすんなりと出てきたので、僕自身驚いている。
  僕の言葉を聞いた姉さんは呆気に取られたような顔をした後、クスクスと笑い始めた。

「―――どうしたの? そろそろ言っていいよ」
「言っていいって、なにを………」
「ほら、この前言っていたじゃない。『な〜んちゃって!』って」
「え?」
「早く言いなさい。お姉ちゃん待っててあげるから」
  笑顔の姉さんの裏側、脅迫じみた暗い瞳が僕を睨んでいる。
「―――今回は言わないよ」
  精一杯の虚勢と意地で踏みとどまる。
「嘘。お姉ちゃんびっくりは嫌いじゃないけど、今回のは度が過ぎてるよ。
  お姉ちゃんが怒る前にどんな言葉でもいいから訂正しなさい」

「……嫌だ」

「ふぅん。そういう態度取るんだ。―――あの女から何か言われたんでしょう?」
「あの女?」
「そう、最近八雲ちゃんの周りをウロチョロしてる――あの女よ」
「違うよ。山岡さんは関係ない」
「嘘ね。だって八雲ちゃんが自分からそんなこと言うこと絶対にないもの」

 絶対にない―――そう、姉さんは言い切った。
  そう、絶対に無かったと思う。
  でも、それを見透かされていたと思うと悔しくて、久しぶりに腹が立った。

「違うって言ってるだろ! 山岡さんは関係ない。これは僕の意思だよ!
  今日僕はバイトで謹慎処分になった。姉さんたちが来たあの日の事でだよ。
  きっと僕の対応も間違ってたから、別にそのことでどうこう言うつもりは無いけど、
  今日の事で姉さんたちとの接し方を考えさせられた。
  前々から思ってたけど、姉さんたちの僕に対する態度は少しおかしいよ。
  あれはたぶん兄弟のすることなんかじゃない。
  姉さんたちは僕に兄弟以上の優しさで接してくれる。
  ―――まるで、恋人にするように。
  でも、その行動が昔の罪悪感からきてるなら、もうそんなの気にする必要ないよ。
  もうそんなものに縛られる必要性なんか無いよ。正直、そうゆうのは迷惑だよ!
  僕だって、もう高校生なんだよ。
  少しは自分を認めて貰いたいし、いつまでも姉さん達に頼っている風に見られたくない。
  二人が彼氏を作ったりしないのは僕が原因だって陰口を言われてるのを知って恥ずかしくなった。
  僕は――僕は二人の足枷なんかじゃない。
  姉さんは姉さんの人生を進んでいいんだ。
  好きな友達と遊んで、好きな部活に入って、好きな男の人と付き合って、
  わざわざ僕の顔色を窺う必要なんか無いよ。僕は二人の邪魔になんかなりたくない!
  だから僕は―――」

「うるさいよ―――本当の兄弟じゃないくせに」

 静かに響いた声音、僕は停止せざるを得ない。
  数年ぶりに聞いた呪いの言葉は、僕の魂に容赦なく爪を立ててゆく。
  精神は肉体よりも脆弱で、見えない爪痕が空気に触れるたび
  抑えきれない痛みが身体中を這いずり回る。
  食いしばった歯の向こう側、今にも悲鳴が漏れそうだった。

 姉さんはつまらなさそうな顔で僕の顔が歪んでいるのを観察する。
  姉さんの顔がいつかの少女の顔に変わっていた。

「いいわ。少し頭を冷やしなさい八雲ちゃん。
  八雲ちゃんはお姉ちゃんや雨音ちゃんがいないと何も出来ないって事を身に沁みて感じるといいよ。
  どうせ数日も経たないうちに謝りに来るんだから、お姉ちゃんは部屋で待っててあげる。
  そのときは―――たっぷりとお仕置きしてあげなきゃね」

 姉さんはどこか虚ろな瞳で微笑むと、踵を返して歩き始める。
  呼び止めなくてならない。
  でも―――僕の足の裏は地面深く根を下ろし、一歩も動いてくれない。
       口を開こうにも、何を言っていいか分からない。

 結局、僕は遠ざかってゆく姉さんの背中を見送るだけ。
  怖気づいてしまった僕を残して、姉さんの長い黒髪が夜の闇に溶けていった。

 

 姉さんの気配が消えると、急に胸に熱いモノがこみ上げてきた。
  僕と姉さんと雨音ちゃん。
  いびつで壊れやすいとわかっていたから大事にしてきた関係。
  周りから見れば不自然かもしれなかったけれど、楽しかった日々。

 姉さんの言うとおりだった。
  いろいろあったけれど、二人が喜んでくれるから僕はがんばってこれた。
  二人とまた殺伐とした雰囲気になると思うと、不覚だけれど泣いてしまいそうだ。
  僕の日常から二人がいなくなるなんて、想像するだけで吐き気がする。
  理由はどうあれ、僕は二人に依存してきたのだ。

 さっさと軍門に下ってしまいたい。
  今までだってそうしてきた。
  過去を顧みれば決して出来ない我慢じゃない。

 ―――でも、やはりそこには違和感があった。

 つまらない自尊心や見栄ではなく、何かが違う気がする。
  今はまだ言葉が見つからないけれど、大切な何かを見落としているような気がするのだ。

 今頃はきっと姉さんが雨音ちゃんと話をしている頃だろう。
  家に帰れば、おそらく僕は再び後悔してしまう。
  ついさっきまで在った日常はおそらくそこには無いから。
  自分でそれを手放したから。
  また二人に酷い思いをさせられるかもしれない。
  無視されるかもしれない。
  最悪、あの家を叩き出されるかもしれない。

 でも、あそこはまだ僕の帰る家なのだ。

 覚悟なんて大それた言葉は無いけれど、僕は歩き出してみることにした。

6

 ―――side雨音―――

 私はあいつが嫌いでした。

 そこには理由がありませんでした。
  『虫は好きですか?』と聞かれて『嫌いです』と答えるのと同じように、
  そこに明確な理由がありませんでした。
  ただ、大好きな姉さんがあいつは悪い奴だと言っていたので、私はあいつが嫌いだったのです。
  まだ本当に子供だった私にはそれで十分だったのです。
  だってそうでしょう?
  私はまだ子供、善悪の区別は自分でするものではなかった。

 お父さんが出張で二、三日家を空けることになってしまったある日、
  姉さんはあいつを家から追い出そうと言いました。
  昔からお父さんにべったりだった姉さんは
  あいつが来てからお父さんが帰ってこなくなった事が不安だったのでしょう。
  そのことに関しては私にも不安がありました。
  保護者がいない。子供にとってこれほどの不安はありません。
『あいつがいなくなればおとーさんは帰ってくるよ。だからね雨音ちゃん、手伝って』
「うん」
  私は姉さんの言うことを信じて首を縦に振りました。

 その日から、私達は天野家の害虫駆除を始めたのです。

 手始めに私達はあいつを無視することから始めました。
  家の中にあいつという存在がいないことにしたのです。
  私達の様子がおかしいことに気付いたあいつは行動を開始します。
  しきりに話しかけたり、食事を作るなどの家事をしたりするなどして、
  あいつは私達とのコミュニケーションを取ろうと努めました。

 もちろん、私達がそれに応じるはずもありません。
  あいつと同じ食卓に着くことなどありませんでしたし、
  あいつの作った料理は捨てるか近所の犬猫の餌にして処理していました。
  あいつの触れた洋服はすぐに洗濯し、あいつがリビングへやってくれば
  私達は無言で部屋を出てゆきました。
  あいつの帰る前に帰り着いているときは玄関のドアを閉めて、
  夏でも冬でもインターフォンから聞こえる声は一切無視しました。
  私達はそれがどれだけ残酷な事かを考えることは無く、
  あきらめずに纏わり付いてくるあいつは―――正直、目障りでした。

 私達が完全にあいつを無視するようになった頃。
  それでもあいつは平気な顔を保っていました。
  泣くわけでもなく、怒るわけでもなく、恨むわけでもなく、誰に話すわけでもなく、
  嘆かず、騒がず、暴れず、助けを求めず、音を上げず、
  ただひたすら悲しい顔で笑うだけ。
  それは同年代の男の子達からは見たことのない表情。

 次第に私は気味が悪くなってきました。
  あいつがいったい何を考えているのかわからないのです。

 あいつはどうして耐え忍んでいるのか?
  あいつはどうして家を出て行こうとはしないのか?
  あいつはどうして私達から隠れようともしないのか?

 あの笑顔の意味は?

 日増しに強くなるカタチの見えない不安。
  成長するにつれて芽生えてきた罪悪感。
  わけもわからず膨張してゆく焦燥感。

 私があいつのことが恐れるようになるまでにそう時間はかからなかった。
  そして、己の恐怖を暴力へと変換させてゆくことも―――。

 あいつは私達を怨んでいる。いつか大きな仕返しがあるのではないか?
  それが怖くて、あいつを親無しと罵った。

 あいつは私達を怨んでいる。何か企んでいるかもしれない。
  それが怖くて、あいつの持ち物を切り刻んだ。

 あいつは私達を怨んでいる。いつかお父さんに告げ口するに違いない。
  それが怖くて、あいつの指を踏みつけた。

 あいつは私達を怨んでいる。あの笑顔の下で復讐を企んでいる。
  それが怖くて、彫刻刀で突き刺した。

 あいつは私達を怨んでいる―――それが怖くて―――。

 不安は次第に確信へと加速してゆく。
  あいつのカタチをした幻影が私を駆逐してゆく。
  突き放しても、振り払っても、喰らい付いてくる。
  攻撃しているのはこちらのはずなのに、私はいつも追い詰められた。

 私はいつしか、どうしてあいつを殴っているのかすらわからなくなる。
  私の暴力にもはや理由はなく、私を突き動かすのはある衝動。

 あの男を殺さなくては、いつか私は復讐される。

 日を追う毎に強くなる強迫観念に追い立てられ―――
  私は階段であいつの無防備な背中をそっと押した。

 

 

 あいつが病院で治療を受けた後日、私は手紙で呼び出しを受けた。

 『先日の事で大事な話があります』

 ついにツケが回ってきた。
  おそらく、私があいつを突き落とす場面を誰かが見てしまった。
  私達があいつに対してやってきたことが先生に、友達に、知り合いに、見知らぬ人に、
  ―――そしてお父さんの前で明るみになる。
 
  今まで自分に対して笑顔で接してきた人々が掌を返すように自分から離れてゆく。
  汚らしいモノを見る様な好奇に満ちた厭らしい瞳が逃げても、逃げても、付き纏う。
  誰にも声を聞いてもらえない、誰にも信じてもらえない、誰にも愛してもらえない。
  自分の存在が許されない世界―――生き地獄。

 そんな想像が脳味噌を貫いた瞬間、私は便所に駆け込み―――胃の中身を吐き出した。

 

 指定された時間になる頃には、私の喉と内臓はボロボロに焼け付いていた。
  震える足と吐き気を押さえ込み指定された場所へと向かうと、
  見覚えのある女生徒が一人、そこには立っていた。
  彼女は有無を言わさず突然私に掴みかかると叫んだ。
「この泥棒猫!」
  暴れる彼女に無理やり押さえ込まれ、彼女は悔しさを滲ませた表情で私に罵声の雨を浴びせかける。
『彼に色目を使うな!』『二度と彼に近づくな!』『殺してやる!』『あんたさえいなければ!』
  次第に何を言っているのかすら分からなくなってゆく彼女の金切り声の切れ端から推測すると、
  どうやら彼女の彼氏が数日前に私に告白したらしい。
  正直な所、私には彼女の言う彼が誰の事を指しているのかすらわからない。

 くだらない、女の嫉妬。

 たったそれだけ事で惑わされたことが腹立たしくて、私はその女の話を無視することにした。
  彼女はこちらが興味なさそうにしているのを察知すると、
  私の背中を壁に打ちつけながら怒声を挙げて喚き散らす。
  既に九死に一生を得た私には、何をそんなに必死になっているのか興味がなかった。
  私は彼女の事を突き飛ばし、先ほどまでの不安を振り払うかのように鼻で笑ってその場を後にした。
 

 明日。

 再びあの女生徒に呼び出された私は7人の女生徒達に囲まれることになる。
  同じ境遇の仲間達を集めたのだろう。
  上級生の姿も見えるその顔ぶれは皆して昨日の女生徒と同じようなものだった。
「何か御用ですか?」
  自分でももうわかっている質問を投げかけると、同じような顔たちが同じように眉間に皺を寄せる。
  こちらの態度が気に入らないのか彼女達は目配せの後、二人がかりで私の両腕を拘束した。
『ちょっと可愛いからって調子に乗ってるんじゃない?』
『痛い目みないと分からないみたいね!』
  どこかで聞いたような汚い言葉で私を罵倒し、こちらが何も言わないでいると嘲笑った。
  彼女達がひとしきり私を貶めた後、昨日の女が私の頬を張る。
  二度、三度。
  それでも私が反抗的な態度で応じると、上級生の一人がハサミを取り出し
  私の制服のスカートにその刃先を当てた。
『止めて欲しかったら、謝りなさい』
  私の耳元であの女が囁く。
  何の因果か彼女達が私にしている事は、あいつに対して私達がしてきた事と同じだった。
  私も同じような冷たい声をあいつに向けていたのだろうか?

「……お断りします」
 
  カシャン。
  乾いた、刃物の擦れる音。
  ただ布を切られるだけ。
  そう思っていたのに、視界が悔しさでぼやけてしまう。
  奥歯を噛み締めて、私は涙がこぼれてしまうのだけは必死に耐えた。
  泣いてしまえば負けてしまう。

 女達が本当に愉快そうな歓声を挙げる中、
  崩れそうな私の意識を救い上げたのはあいつの叫び声だった。

「止めろ!」

 身体中包帯だらけの制服姿であいつは一人
  私と女生徒達の間に入り込み私の拘束を無理やり引き剥がした。
「何するんだよ!」
  私を拘束していた女の一人があいつに掴みかかると、
  あいつは片手でその手を絞り上げて、女生徒達全員をゆっくりと睨みつけた。

「顔は覚えた。もう、絶対に忘れません。
  もし今後、僕の妹に同じような事をすることがあるなら―――あなた達の顔を壊します。
  今覚えた顔を思い出せないくらいにぶっ壊してやる。例外はありません」

 私達の前では見せたことの無い、凍えてしまいそうな目であいつがそう宣言すると、
  女生徒達は息を呑み、恐怖に引きつった顔を見合わせて散って行きます。

 そして、私とあいつが残りました。

「大丈夫?」
  先ほどとは打って変わって、優しい声であいつは私に話しかけます。
「―――ごめんね。間に合わなくて」
  本当にすまなそうな声であいつは言いました。
  私は泣き顔を見せないように俯きます。
  そして、私はあいつの口から何か次の言葉が出る前に逃げ出しました。

 あいつの姿が視界から消えた瞬間から、涙が堰を切ったように溢れ出します。
  罵ってくれた方が何倍も気が楽だった。
  階段から突き落としたのを私だと知っているくせに何も言わずに助けに来て、
  全身打撲で歩くのも辛いくせにそんな素振りすら見せずに私をいたわるあいつを前にすると、
  えらく自分が情けなかった。

 私は自分のスカートに切れ目が入っているのも忘れて、校門を抜けて外へと飛び出しました。
  緩んでしまいそうな目の下の筋肉に無理やり力を込めて、
  好奇の目で私を見る人々の波を掻き分けて、
  有らん限りの力で走り抜けて、
  家へたどり着くと靴を履き捨てて自分の部屋へ駆け込み鍵を閉めます。
  部屋の電気も点けぬまま私は着替えるのも忘れてベットに倒れこむと、
  私は枕に顔を押し付けて泣きました。
「もぅ……いやだよぅ……」
  もう、嫌だった。
  バカが付くほどのお人好しのあいつを痛めつけるのは。
「もぅ……ゆるしてよぅ……」
  これが私の本心。
  でも伝えるのが怖い。許されないのが怖い。傷つけられるのが怖い。
  たった一人の姉である、姉さんを裏切るのが怖い。
  結局、私は弱虫で怯えていただけ。

 それが本当の理由。

「……でも……私の事、妹って……言ってくれた」
  今はそれが救い、それにすがるしかない。
  今ならば、まだ間に合うかもしれない。
  優しくどこか情けない顔で微笑むあいつの顔を思い浮かべると胸が熱くなる。
  手を差し伸べてくれた声は暖かな響き。
  きっとあいつは一度だって私達を蔑ろにしたことはなかったはず。
  ただ私達が勝手に作り出した虚像を重ね合わせて、あいつを苦しめていただけ。

「……ごめん……なさい」
  私は無意識のうちに、いないあいつに向けて謝罪の言葉を紡いでいました。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
  溢れ出した『ごめんなさい』が止まらない。
  ここまで来ればもう誤魔化せない。
 
  私は、あいつに謝りたい。

 今日の事だけじゃない、ずいぶんと遅くなってしまったけれど、
  今までのこと全部、全部、全部、謝りたい。

 もう、許してくれなくてもいい。
  もう、姉さんに裏切ったと罵られてもいい。
  もう、限界なんです。
  もう、耐えられません。
  もう、私を許してください……。

 日が傾いて、涙がようやく枯れた。
  鏡の中の私は叱られた後の子供のような顔をしていました。
  思い返してみると、私は初めて男の子に泣かされたのです。

 夕方、急いで帰ってきた姉さんが部屋に飛び込んで来ました。
「雨音ちゃん大丈夫!?」
「うん。もう大丈夫だから」
「本当に? もしも無理やり言わされているならお姉ちゃんが―――」
「姉さん。本当に大丈夫だから―――安心して」
  姉さんは私の言葉が本心であると分かると表情を和らげます。
「わかった。お姉ちゃんはどうすればいい? 何かして欲しいことある?」
「ありがとう姉さん。でも、今日はもう独りにして欲しい」
「そっか……」
  姉さんは立ち上がり部屋のドアまで行くと、取っ手に手をかけて振り返ります。
「ねぇ、もし雨音ちゃんがまだむしゃくしゃしているなら―――」
「ううん。今日は気分じゃないの」
  姉さんが何を言おうとしているのかを察して、私はその先を遮ります。
「そう」
  姉さんはどこか不満気な顔で部屋を去りました。
  きっと、姉さんの中ではまだあいつは憎い相手なのでしょう。
  つい先ほどまで同じ立場にいたはずなのに、
  姉さんが言おうとした事が恐ろしいことだと私は感じるようになっていました。

 

 姉さんが風呂を済ませて自分の部屋に戻ったのを確認すると、私は行動を開始しました。
  基本的にあいつは私達と食事や風呂の時間をずらして、顔を合わせないようしているのが現状です。
  私の見立てが正しければ、今頃あいつは台所にて料理中か既に食事を取っている頃でしょう。
  私は隣の部屋の姉さんに気付かれないように、出来るだけ物音を立てないように部屋を出ました。

 これは、姉さんを裏切る行為。
  けれど、そこにもう後ろめたさはありません。
  むしろあるとすれば、それはあいつへの後ろめたさ。
  私の人生で一番勇気の必要な瞬間。
  意を決してリビングを覗くとあいつが食事を取っていました。
  どこか落ち込んだ様子のあいつはあまり食が進んでいない様子。
  手ぶらで話すのも心もとないので台所を覗いてみると、
  フライパンには野菜炒めの残りがちょうど一人分くらい残っていました。
  おそらく、明日の弁当のおかず用に残しているのでしょう。
  つくりたてとは言えないものの、香ばしい醤油と胡麻油の香りが食欲をそそります。
  そういえば、私はまだ夕食を取っていません。
  私はいい機会だと思いフライパンの残りを皿に盛ると、
  泣き過ぎでボサボサになってしまった髪を手櫛で整えて、深呼吸を一つ。
  あいつのいるリビングへと足を踏み入れます。

 私がリビングに入るのを察知すると、あいつは自然と身構えました。

 私とあいつを隔てる見えない壁。
  私はそれの存在を始めて意識します。
  今まで見えていなかったそれは―――肉体に沁み込んだ恐れ。

 もう、謝って済まされる境界なんてとっくに飛び越えている事を身をもって思い知らされます。

 序盤から折れそうになってしまっている決意を必死に支えながら、
  私は無言であいつの左側に座りました。
  あいつは赤く腫れてしまった私の目を見て、うなだれてしまいます。

 コトン。

 わざと私は音を鳴らして皿をテーブルに置きます。
  あいつは私の目の前の皿の中身を見つけると、興味があるのか動揺し始めます。
  箸を握った私の手が皿へと近づく毎にチラチラとこちらの様子を窺い、
  口元に豚肉とキャベツを挟んだ箸がいよいよ近づくと、
  あいつは目を皿のようにしてこちらを見守っています。
  あいつの視線を一身に受けて私は躊躇することなく料理を口に放りこみ、咀嚼しました。

「ちょっと、塩辛い……」

 お世辞でもいいから美味いと言えばいいのに、私の口からは皮肉めいた言葉が出ていた。
  別に不味いわけじゃない。むしろその味は私好みで美味しい。
  けれど、まだ素直にそれが伝えられない。
「え、えっと―――ご飯、持ってくるよ!」
  うれしそうな表情のあいつは全身打撲を忘れているような速さで台所へ向かうと
  私の茶碗に山盛りのご飯を乗せて戻ってくる。

 その瞳からはポロポロと涙が零れていた。

「どうしたの?」
  あいつは呆気に取られている私を見て首を傾げる。
  その瞬間、頬を伝ってきた涙が茶碗のご飯にポトリと落ちて、跳ねた。
「あ、あれ!? ご、ごめん。すぐに取り替えるよ」
  あいつは腕に巻いてある包帯をハンカチ代わりに目を擦るようにして涙を拭う、
  それでも涙の勢いは止まらなくて、
「すぐに……すぐに……取り……替える……から……」
  次第に言葉を紡げなくなってゆく。
「ご、ごめ…ん、おか……しいから、ちょっと……まってて……」
  私は、もう見ていられなかった。
  きっと、あいつはこんな簡単なものが欲しかった。
  あいつの望みは当たり前の、ささやかな幸せ。
  そんなものですら、私達は彼に与えてこなかった。

 あいつはもう立っていられないのか、膝を折っている。
  どんなに痛めつけられても泣き言一つ言わなかった少年が、
  自分の料理を食べてもらっただけで赤子のように涙を流していた。

 生まれたてのちいさなしあわせ。
  私の心があいつの温かさに触れて、私は初めて恋をした。

「ごめんなさい」

 その日から『あいつ』は私の『兄さん』になった。

7

 あいつが兄さんになった日。
  あの日をきっかけに私は壁を取り壊す作業を始めました。

 長きに渡って私と兄さんを隔ててきた歪んだ鏡の壁。
  そこに映っていたのは醜く歪んだ私の姿。
  私は目を背けないように注意して、思い切りそれを叩き壊します。

 きっとそれは殻に閉じこもっていた弱虫な私。
  そんな私を救ってくれた兄さんに、私の心は否応無く兄さんに惹かれてゆきます。

 姉さんが眠りについた後、
  私はこっそり部屋を抜け出して今ではあまり使われていないお父さんの書斎へ向かいます。
  毎晩兄さんはお茶と軽食を用意してそこで待っていてくれるのです。
  私達はお茶を淹れて、つまらない話、取り留めの無い話を重ねてゆきました。
  今までの溝を埋めるように、失った時間を取り戻すように、自分の恋心を悟られないように、
  私は兄さんと親しくなってゆきます。
  それでも最初の頃はまだ素直に兄さんと呼べません。
  まだ甘え方すらわからなくて、私はついついそっけない態度を取ってしまいます。
  素直に伝えたいことに「ついで」とか「しょうがなく」なんて余計な言葉をくっつけて、
  本心を誤魔化して伝えてしまうのです。
  それでも兄さんはそんな私に笑顔で応えてくれます。
  その笑顔に昔のような悲しげな面影はありません。
  陽だまりのような暖かな笑顔。

 オレンジ色のスタンドライトの明かりに包まれて、数多の本に囲まれて、
  お互いのキモチを寄せ合ってゆく。
  たった二人だけの秘密の時間。
  まるで、悪いことをしているような興奮がそこにはありました。

 しかし、それも長くは続きません。

 三人しかいない家。
  そう長く隠し通せるわけがありません。
  私達の秘密のお茶会が姉さんにばれてしまうまでにあまり時間はかかりませんでした。

「ねぇ―――いったい何しているの?」

 夜に隠されていたはずの書斎の扉が怒りに震える姉さんの手によって開かれていました。

「やっぱり、そういう事だったんだ―――表向きは従順な振りして、
  本当は二人して私の事を馬鹿にしてたんだ」
「姉さん、違うの!」
「何が違うの? 私の聞き違いじゃなければ、雨音ちゃんはそいつのこと
『兄さん』って呼んでるんでしょう?」
  後ろめたさと、ほんの少しの恥ずかしさ。
  私は何も言い返せません。
  私が黙り込んでしまうと、その矛先は兄さんに向けられます。
「あんたが来てから、家はめちゃくちゃ。ねぇ、いったいどう責任とってくれるの?」
  兄さんは何も言わずに、ただ押し黙って姉さんの圧力に耐えています。
「へぇ、雨音ちゃんとは喋るのに、私には口も開いてくれないんだ」
  姉さんはティーカップを手に取ると、まだ中身の入ったままのそれを兄さんの頭に投げつけました。
  兄さんは避けようともせず、直撃を受けて頭を押さえます。
  傷口を押さえている指の隙間、
  茶色の液体と赤色の液体が混ざり合いながら兄さんの頬を伝いました。
「姉さん、もう止めて!」
  私は姉さんにしがみつきました。
  これ以上兄さんの血なんて見たくありません。
「放しなさい雨音ちゃん、今ならまだ許してあげる」
  首筋に氷柱を押し当てられたような言葉の鋭さに私は思わず手を放してしまいそうになります。
「姉さんもう止めようよ! 本当は姉さんだって、もうこんなことしたくないんでしょ!!」

 姉さんは一瞬驚いたような顔をした後、それを振り払うように私を強く突き飛ばします。
  横殴りの衝撃。
  本棚に私の身体が衝突する寸前―――兄さんが私の身体を受け止めていました。

 姉さんは私達が寄り添って立っているのを澄んだ丸い瞳で捉えると、
  今まで氷を思わせる程冷たい様子だった姉さんが燃えるような眼差しを私達にぶつけてきます。

「何? 二人で仲良く兄妹ごっこ? バカじゃない!!
  そいつが来てから私達のお父さんは帰ってこなくなったんだよ!
  そいつさえいなければ、私達は家族仲良く三人で暮らせたんだよ!
  それなのに雨音ちゃんはそいつの味方をするの!? お姉ちゃんを見捨ててそいつの選ぶの!?
  おかしいよ! 笑っちゃう!
  今までずっといっしょだったのに、掌を返すようにお姉ちゃんを裏切って!
  そいつのことが憎いんじゃなかったの! 嫌いなはずじゃなかったの!
  ついこの前だって階段からそいつを突き落としたの雨音ちゃんなんでしょ!
  その雨音ちゃんがどうしてそっちにいるの!? どうしてそこにいられるの!?
  許せない! 許したくない! 許してやるもんか!
  自分だけ良い子の振りして、そいつに取り入って幸せそうな顔して! 私だけ除け者にして!!」

 まるで悲鳴のような怒声。ノイズのように端々の見え隠れする本心。
  姉さんはそれに気が付いていません。

「もうウンザリ!! 雨音なんか死―――」

 快音が響いて姉さんが止まった。

「―――いい加減にしてください」

 兄さんが姉さんの頬を張っていた。
  今にも泣いてしまいそうな顔で―――

「僕に言うのはかまいません。でも、雨音ちゃんにだけは、その言葉は使わないで………」

 姉さんにその言葉は届いていたのでしょうか?
  呆けた顔のまま姉さんはただ立ち尽くしています。

 いくらかの静寂。

 兄さんは戸惑うことなく、血に濡れてしまった手を姉さんの赤く腫れた頬に添えます。
  そして、姉さんはその手を拒んだりはしませんでした。
「ごめんなさい、痛かったよね。
  でも、こうしてでも止めないといけないと思いました。
  たった二人の血の繋がった姉妹が憎みあうなんて悲しいですよ。
  僕には兄弟がいませんけど―――そう思います」

「………」

「晴香さんの言うとおり、僕がここにいるせいで二人が辛い思いをしているのは知っていました。
  冬彦おじさんがいなくて淋しい思いをしていることも、
  その原因を作った僕のことを怨んでいることも……。
  だから僕は………出来るだけ早くこの家を出ようと考えていました。
  二人に迷惑のかからない場所へ行こう、二人の目が届かないくらい遠くに行こう。
  そしたら、お互いを傷つけあうことも無くなるだろう、って」

 そこまで言い終わると、兄さんの表情が真剣なものから柔らかなものへと変わります。

「でもね―――それは嘘。
  本当は二人ともっと仲良くなりたい。二人の家族になりたい。って、ずっと思ってた」

「――――――もういいよ、わかったから」

 姉さんはたったそれだけしか言いませんでした。
  けれど、それで十分だったのでしょう。
  姉さんはきっと泣いていただろうから、それ以上は何も言えなかったはずです。

 

 兄さんと姉さんが和解して、私達家族三人の新しい生活が始まりました。
  兄さんが私に求めたのは妹としての私。
  それも、家族としての妹。
  既に兄さんに恋心を抱いていた私には不満もあるのだけれど、私は兄さんの意向に従うことにした。
  今まで散々兄さんに酷いことをしてきた。
  これはその罪滅ぼし。
  ならば今は兄さんの思うようにすればいい。
  そしていつの日か、兄さんが私を女性として求めてくれる日がやってくる。
  そんな淡い期待を胸に秘め隠して、私は妹としての日々を積み重ねてゆく。

 これでも最初は妹らしく振舞おうとして努力してきたつもりでした。
  ぎこちない日常の繰り返し。
  罪悪感で始めた家族ごっこ。
  それが当たり前になるにつれて、私は兄さんの手を強く握り締めるようになってゆきます。
  兄さんの手はお父さんの手のように温かくて、後ろめたい私の手をぎゅっと握り返してくれました。

 けれど私はそれで満足しなければいけない。
  それ以上は求めてはならない。

 それだけひどい仕打ちをしてきたのだ。
  私にはその資格が無い。
  いまでも残る傷跡を付けたのだ。
  兄さんが私を腹の底から許すことは無い。
  私は兄さんの妹でいられるだけ幸運。

 それでも日を追う毎に想いを増してゆく恋心を止められなくなってゆき、
  私は自分の感情を持て余してしまう。
  姉さんや他の女が兄さんに擦り寄るたびに私の対抗心は強くなり。
  自分の身体が大人になるにつれてその傾向は徐々に強まってゆく。
 
  私は矛盾しているとは思いつつも、兄さんに寄り添い私を女として意識させることに努めた。
  妹の素晴らしさをさりげなく語ったり、
  風呂上りにバスタオルのままで兄さんの周りを歩き回ったり、
  何かと理由を付けては兄さんに密着して胸を押し付けて誘ってみたり、
  まだ脱ぎたての下着を兄さんの洗濯物に混ぜておいたり、
  朝起こされた時に寝間着の下に下着を着けずに待っていたり、とかなり過激な事もやってみた。

 けれども兄さんの守りは鉄壁だった。
  いいところまで攻め込むことは出来ても兄さんは絶対に一線を超えてこない。
  同じように兄さんにアピールしている姉さんにしたって同じ事だったと思う。

 結局どこまで行っても兄さんにとって私は妹なのだろう。
  本当の家族がいなかった兄さんは私達を本当の家族以上に大切にしてくれる。

 それがうれしくて、少し切ない。

 私は実ること無い恋を抱えて生きてゆく。
  それが私の贖罪だと、積み重ねてゆく日々の片隅で私は覚悟しているつもりになっていた。

 高校生になったある日の昼休み、私の胸に言いようの無い予感を感じました。

 兄さんが私を置いてどこかへ行ってしまう。

 あまりにも漠然としすぎて、それが何かすらわからないけれど―――ずっと抱えてきた、
  確かにある不安。
  兄さんを奪われる、と警鐘を鳴らす女の感。
  私は本能の赴くまま、昼食を抱えて兄さんの元へと向かいます。
  階段と廊下を早足で抜けると、兄さんの教室が何故か慌しい雰囲気に包まれていました。
「あの、天野八雲はいますか?」
  私が恐る恐る教室のドアから顔を覗かせると、
  そこには兄さんと山積みのパンと姉さんが並んでいました。
「雨音ちゃん! こっち、こっちだよ〜」
  姉さんはまるで私が来ることがわかっていたかのようにこちらへ手を振ります。
  周囲の状況から事態を察知し、自然と兄さんの隣に陣取ると
  兄さんは嬉しいような困ったような顔をしました。
  そんな顔をされると思わず抱きしめてしまいたくなってしまいますよ、兄さん。
  隣から聞こえる兄さんの息遣い。それだけで私の心は穏やかさを取り戻せるのです。

 もちろん、兄さんにきちんと釘を刺しておくことも忘れません。
  典型的なイイヒト星人の兄さんは困っている人を見逃せないのです。
  兄さんは助けを求められれば必ず応えてしまいます。
  それは兄さんが、苦しい人の気持ちがわかってしまうから。
  きっとそんな兄さんにしてしまったのは私達だけれど、兄さんのそんなところに惹かれている。
  だから一番良い手段は巡り合わせないこと。
  どこの誰とも知れない困ったさんを兄さんに近づけない。
  救われた女性が兄さんに恋してしまうなんてことがあってはならない。
  兄さんはそういう方向にはかなり疎いのですが、万が一ということもあります。
  だから兄さんにはこう伝えておきます。
『兄さんは今日一日私たち以外の女性に注意して過ごしてください』
  私は報われない恋を覚悟しているからといって、決してあきらめたわけではないのです。

 こちらからは求められないから、待っている。

 それが今の私の状況。
  けれど、もしも兄さんが私を求めてくれるなら、私はどんな要求にでも応える自信がある。
  どんなに恥ずかしいことでも、どんなに淫らなことでも、兄さんのためなら私は何でもする。
  兄さんの全て受け止めて、その結果、汚らしい雌犬のように扱われてもそれは苦でもなんでもない。
  兄さんに隷従する。むしろそれは―――喜ばしい。

 兄さんなら私を穢してくれてかまわないよ。
  欲望の全てを私にぶつけて私の事をめちゃくちゃにしてください。
  本心に嘘ばかり吐いてしまう私の生意気な身体に兄さんが罰を与えてください。

 そう、私は待っているの。
  飢えを、渇きを、満たせぬまま待っているんです。
  兄さんが犯してくれるのを―――
  兄さんが堕してくれるのを―――
  兄さんが壊してくれるのを―――

 兄さんだけを待っているんですよ。

 放課後の教室。
  急いで迎えに来た私を兄さんの代わりに待っていたのは姉さんでした。
「八雲ちゃんは今日は早めにバイトに行ったみたい。
  さっき玄関で一人で帰るのを見たって人がいたよ」
  きっと兄さんは私達の忠告を受け入れて早めにアルバイトに向かったのでしょう。
  アルバイトに行ったのならそれほど危険は無いはずです。
  バイト仲間のウエイトレス達には日頃から兄さんに近づかないように
  親切丁寧に言い含めてありますし、
  困っている客を助けてもそれは店員ならば当たり前のこと、
  相手も勘違いを起こしたりはしないでしょう。
  第一、兄さんは仕事をほおりだして女に現を抜かすような性格ではありません。
  私達はとりあえず胸を撫で下ろし、
  家で必要最低限の用事だけ済ませて兄さんのアルバイト先の喫茶店へと向かいます。
  意気揚々と私達が店の窓から店内を覗いてみると、
  ほんの僅かの間に生じた隙を見計らって『悪い女』は狙い済ましたかのようにそこにいた。

 学制服姿の兄さんと正面に向かい合って、顔色を窺いながら媚を売るあの女には見覚えがある。
  今日教室にいた女の一人だ。
  兄さんはアルバイトをしている事を学校では話していないはずだから、
  きっと教室から黙って後を追けてきたのだろう。
  ストーカーなんて性質が悪い。
  いつか家にまで上がりこんでくるに違いないし、そんな事は断じて許されない。
  あの女は兄さんが迷惑していることに気が付いていないのでしょうか?
  兄さんはお人好しだから表情には出さないけれど内心酷く迷惑しているに違いありません。
  あんな女さっさと追い払って兄さんの事を救ってあげなければならない。
  それが妹である私の務め。
  私達が店内に踏み込もうとしたそのとき―――兄さんがあの女に笑顔をみせた。

 たったそれだけ。
  それだけで私達は動けなくなってしまった。
  あの女はコーヒーカップを持ったまま変な顔をしている。
  兄さんがそれを見て微笑んでいる。
  まるで―――デートの一コマを見ているような光景。
  それを、私ではない誰かと兄さんが演じている。

 その瞬間、私を押さえ込んでいた理論武装は粉々に吹き飛んで、
  脳味噌で組み立てた覚悟なんてものが甘ったれたものだと思い知らされた。
  その光景は私の感情が許せるものでは到底なかった。
  全身の血液が沸騰して噴出しそうになる。
  腹の奥底でマグマのように熱いナニカが燻っている。
  今すぐにでも出て行って私の兄さんに媚を売る女を引き剥がしてやりたい。
  兄さんを強く抱きしめて、私のモノだと宣言したい。

 頭ではわかっていた。
  いつかこんな日が来るんじゃないかと。
  でも、心が見過ごしてくれなかった。
  私の恋心はもう愛情に変わってる。

 でも、私の足は動いてくれない。
  足にはしっかりと枷が付いていて、地面と足首を強く縛った。
  私にはその資格がないと、他でもない私が自身を縛り付けます。

 窓越しの二人からは次第に遠慮が消えてゆき、まるで二人は友人のように語らいます。
  友人はいつか恋人になれるかもしれない。
  けれど、妹はどこまで行っても妹のまま。

 苦しい。

 どうして兄さんと向かい合っているのが私ではないのでしょう。
  本来あの場所にいるべきなのは私のはずです。
  私のいるべき場所に違う女がいるのに兄さんはどうして笑顔でいられるの?
  理解できない。

 ようやくあの女が立ち上がる。
  地獄のような責め苦の終わり。
  兄さんはあの女を見送るときに客にするように頭を下げる。
  まだ、その程度。けれど、これ以上先に進ませるわけには行かない。
  あの二人が笑顔で別れるようになったら私はあの女を殺さなければならなくなる。
  むしろ、今すぐにでも殺してやりたい。
  あの女が屍を晒す姿を想像するだけで心が躍る。早くあの女の血が見たい。
  こんな気持ち初めてだ。
  あの顔、二度と忘れない。

 兄さんの姿がいったん消えると、私の身体は糸でもついているかのように勝手に動き出し
  気が付けば店の席に着いていた。
  私の頭はぐちゃぐちゃ。
  私達を心配してくれる兄さんの声もどこか遠くから聞こえてくる。
  私の胸を広く覆う影。
  その正体が何であるかにわたしはもう気付いている。
  ただ兄さんにだけはそれを見せたくない。
  それなのに私は兄さんに気付いて欲しくて、私は兄さんが困るような行動を取ってしまいます。

 兄さん、ごめんなさい。
  でも、いつまでも手を出さないでいる兄さんが悪いんですよ。
  早く私に気付いてくださいね。

 喫茶店で散々騒いでしまった明日から兄さんは急に忙しくなった。
  昼休みや放課後に教室を訪ねても居ないことが多く、
  居たとしても忙しそうでとても声をかけれる雰囲気ではありません。
  そして、兄さんの傍らには学園祭の準備という名目を盾に
  いつも張り付くようにあの女が付き纏っている。
  本当なら今すぐにでもあの女を兄さんから引き剥がしてやりたい。
  しかし、兄さんの立場を考えるとそんな強気な態度に出ること控えなくてはならない。
  兄さんは自発的に学園祭に協力していることになっているし、
  名目上とはいえあの女は学園祭の準備をしているのだけなのだから。

 そんな兄さんのお人好しな性格が裏目に出てしまっている状況の中、
  せめてアルバイトの日ぐらいは兄さんと過ごそうと楽しみにしていたのに
  姉さんがなかなか帰ってこない。
  ただでさえ二人でやる家事を一人でやって時間も押してしまっているのに、
  これ以上待っていたら兄さんのアルバイトが終わってしまいます。
  私が待つことをあきらめて玄関で靴の紐を結び始めた頃、リビングの電話が鳴り出しました。
  家の電話番号に電話してくるのは基本的には兄さんか姉さん、お父さんの三人だけ。
  消去法と確率論で考えると必然的に姉さんということになります。
  今頃電話してきて、先に店に行ったなんてことを言ったらただじゃおきません。
「はい、こちら天野です」
『もしもし、雨音ちゃん? 僕だけど』

 ………
  ……………
  …………………

 ガチャン。
  恥ずかしい事を言ってしまったので、思わず電話を切ってしまいました。
  話の前半部分はよく覚えていませんが、後半部分は忘れもしません。
  何でも、兄さんは私に大事な話があるそうです。
  これはつまり………

 ついに、ついにその時がやってきたようです!!
  兄さんが私にする大事な話といえば一つしかありません。
  プロポーズ。
  これしかありません。
  兄さんが決心したきっかけはわかりませんが、私にとってそれはどうでもいいことです。
  あのまじめな兄さんがアルバイトを早引けしてまでする大事な話なんてそれしか考えられません。
  そういえば私ももう結婚できる年齢になりました。
  兄さんはまだですけど、予約をしておこうという事なのでしょう。
  そんなものは必要ないのに………。
  いえ、流石にそこまで一足飛びに物事考えてしまうのも考え物です。
  一応、物事には順序というものがあります。
  ならば………告白。
  こちらのほうが可能性としては高いかもしれません。
  それでも私は十分です。
  むしろ、その後にプロポーズが待っているとすれば二度美味しいです。
  いったい兄さんは私にどんな告白をしてくれるのでしょうか。
『愛してる』『好きだ』『僕は雨音ちゃんをもう妹としては見られないよ』etc……
  そして愛し合う若い二人は………。
  私はすぐにお風呂で身を隅々まで清め、兄さんの帰りをリビングで待ちます。
  今日まで礼儀正しいクールな妹で通してきたのです。
  突然玄関で待ち構えるようながっついた真似は出来ません。
  それでも………じっと座ってもいられません。
  コソコソと玄関で様子を窺いながら、
  物音がするたびに急いでリビングに戻る動きを繰り返してしまいます。

 リビングと玄関の間を20往復した頃、玄関の鍵が差し込まれる音がしました。
  もう何度も聞いている音、聴き間違えるはずがありません。
  私は足音を忍ばせ跳ぶようにリビングへ戻ると何食わぬ顔してソファーに腰を下ろしました。
  玄関の閉まる音がして、足音がこちらへ近づいてくるたびに私の心音は跳ね上がります。
「お、おかえりなさぃ」
  緊張で声の調子がおかしい。
  兄さんに変な妹だと思われなかったでしょうか?
「ただいま」
  返ってきた声は姉さんの声、私の緊張は一気に抜け落ちます。
  こちらの緊張が伝染してしまったのでしょうか? 姉さんの声色も少しおかしい様子です。
  いつもならもっと無駄に元気なはずなのですが、なんというか機嫌がすごく悪そうです。
  姉さんはどこか怪しい足取りでリビングに入ってくると、私に近づき両肩をきつく握ります。
  姉さんの大きめの瞳が昏く冷たいものに変わっていました。
「ねぇ、雨音ちゃん。八雲ちゃんがね、私達と距離を取りたいって言ってきたの―――信じられる?」
  それは予期せぬ一言。
  私が兄さんから聞きたいのはそんな言葉ではありません。
「嘘……でしょう?」
  私の言葉を聴いて姉さんの口元が釣りあがります。
「嘘かどうか自分で確かめてみたら?
  お姉ちゃんはお部屋で待ってるから確認が済んだらすぐに来てね。
  ―――二人でいっしょに八雲ちゃんを救ってあげようよ」
  姉さんはそう言い残すと足音を響かせながらゆっくりと階段を上ってゆきます。
  誰も居なくなったリビング、まだ上手く頭が働きません。
  兄さんの大事な話は私への告白だったはずです。
  だから姉さんの話は信じられませんし、信じたくありません。
  けれど、あの状態の姉さんが嘘を吐くとも思えません。
  先ほどの姉さんの口調から予測すると、もうすぐ兄さんが帰ってきます。

 兄さん。
  兄さんは私を捨てたりしませんよね?

 ――side 雨音 End――

8

 いつもの帰り道、家へと向かう足取りがやけに重たい。
 
  姉さんが立ち去った後、僕の胸の大部分を占領していたのは『後悔』の二文字。
  もっと言葉を選んだほうが良かったのではないか?
  ちょっとした憤りに任せてあんな言い方してしまったけれど、
  きちんと誠意を持って話せば姉さんだってわかってくれたんじゃないだろうか?
  もしも―――
  なんて都合のいいことありはしないのに―――。

 こんなに家に帰りたくないのも久しぶりだと思う。
  昔はしょっちゅうこんな気分で家に帰っていたような気もするけれど、
  ここ数年はそんな事は無くなっていた。
  もう二度とそんな日が来ることはないと信じ込み、油断という言葉すら頭の中に無かった。
  それだけ僕にとってあの家は安らげる場所になっていたのだろう。
  そうじゃなくなってようやく気付いた。
  けれど、もう遅い―――だから『後悔』って言うのだろう。

 すっかり暗くなった視界の先に見慣れた家を捉える。
  意識しないで歩いていても、二人の待つ家にちゃんとたどり着いてしまっていた。
  嫌だと思っていても自然と辿り着いているということは、ここにしか僕の居場所はないのだろう。
  三人で帰るときと家の様子は何も変わらない。
  外観はいつもどおりの僕らの家。
  中身は―――よくわからない。
  唯一違うところがあるとすれば………
  正面から見て二階の右手側、蛍光灯が姉さんの部屋に淡い明かりを灯していた。

 正直、心の準備なんて出来ていない。
  でも僕は歩みを止めたりはしなかった。
  止まってしまえば、もう踏みだせなくなる。
  胸の奥に居座る迷いが僕の足を引っ張る。
  けれど、振り切ろう。
  きっとどれだけ時間があっても準備が完璧なることなんかありはしないのだろうから。

 僕は玄関のドアノブに手を伸ばした。

「ただいま」
「おかえりなさい、兄さん」
  玄関先、部屋着姿の雨音ちゃんが道を塞ぐように立っていた。
「おなか減ったでしょう? 早く食事にしましょう。私、ずっと待ってたんですよ」
  雨音ちゃんに制服の袖を掴まれ僕はリビングへと引きずり込まれてしまう。
「あの、ちょっと!」
  話す時間も与えられないまま、雨音ちゃんに引きずられて僕はリビングに足を踏み入れる。
  食卓の上には綺麗に並べられた食事の数々が鎮座しているが、一膳分箸が足りていない。
「姉さんの分は?」
「姉さんは呼んでも部屋から出てきません」
  予想通り姉さんは部屋で僕が謝りに来るを待っているのだろう。
  先ほどの様子ではご飯に釣られて出てくる事もなさそうだ。
  雨音ちゃんはお腹が空いているらしいので、これ以上僕の都合で待たせるわけにもいかない。
「じゃあ、先に二人で食べちゃおうか?」
「そうしましょう」
  先に僕が座ると、雨音ちゃんは左側ではなく僕の正面に座った。
  姉さんがいないからそれでも構わないのだけれど―――なんというか落ち着かない。
  正面の雨音ちゃんは腹ペコだと言う割には、特に食事に手を出す様子もなくこちらを見ている。
  せっかくの料理が冷めてしまっても仕方がない。
  二人で手を合わせ『いただきます』をして料理に箸をつける。
  今日は雨音ちゃんが一人で作ったのだろう。
  料理が僕の口に入るまで雨音ちゃんはずっとこちらを見守っていた。
  何か隠し味でも入っているのだろうか?
「どうですか?」
「うん。おいしいよ」
  雨音ちゃんは一瞬だけ嬉しそうな顔をすると、
「当然です」
  小さな声で呟いた。

 それから僕らは声を発することも無く、食事を堪能する。
  姉さんが居ないので二人の口数はあまり多くはならない。
  けれどそれは気まずい静寂ではなく、のんびりとした心地よい時間。
  ゆっくりとした緩やかな時間が流れてゆく。
  なにかいい雰囲気。
  雨音ちゃんが普段どおり接してくれたという安心感もあるのだろう。
  これから雨音ちゃんには話さなくてはならないことがあるのに、心がすっかり和んでしまっている。
  この状況は姉さんのときよりもずっとやりづらい。
「ねえ、雨音ちゃん―――姉さんは何か言っていた?」
  食事中の何気ない会話。
  できるだけ自然に雨音ちゃんに尋ねたつもり。
  けれど、雨音ちゃんの箸はピタリと止まっていた。

「―――いいえ、何も聞いていません」
  無理に冷静を装った声音。
  おそらく知っていて、知らない振りをしてくれていたのだろう。
「そっか……」
  どういう意図で雨音ちゃんが嘘を吐いていたのかわからないわけでもない。
  けれど、その思いに反して僕は始めから話すことにした。
「電話で大事な話があるって言ったよね。
  あの後、すぐに姉さんに会ったから姉さんには先に伝えたんだけど―――」

 鈍い打撃音。
  雨音ちゃんが拳をテーブルに叩きつけて僕の話を遮る。

「嫌です。その先は一切聞きたくありません」
  先ほどまでの和やかな空気が一瞬で凍りついた。
「いったいどうしてそんなこと言うんですか!?
  私、何か兄さんの気に障るような事をしましたか!?
  気に入らないところがあるなら言ってください! すぐに直しますから!
  それとも昔のことですか!?
  それなら私の事を痛めつけてください!
  兄さんの気の済むまでめちゃくちゃにしてくれて構いません!
  私はどうされてもいいから!!
  だから―――
  だから―――私から離れたいなんて言わないで下さい!!
  お願いですから、私を置いて行かないで!!」

 雨音ちゃんの瞳が僕を捉えて離さない。
  二人の間にテーブルさえなければ雨音ちゃんは僕に縋り付いていただろう。
  それくらい今にも掴みかかりそうな剣幕。
  テーブルひとつ分、ギリギリの距離感が僕を救ってくれている。
  僕は―――何も言えなかった。
  今の雨音ちゃんの言動、これではまるで依存症だ。
  二人が必要以上に僕に優しいのは、二人が僕に対して罪悪感を感じているからだと思っていた。
  だから僕は二人が必要以上に甘えてきたり、世話を焼いてくれるのを断ることはしなかった。
  二人の罪の意識が多少なりとも和らぐならそれでもいいと思ってきた。
  けれど、その結果がこの状態。
  認識が甘かった。
  二人の罪悪感はカタチを変えて、もう歪んだ依存に刷り替わっている。
  僕が自分を悔いている間、重苦しい沈黙が続く。
  それも長くは続かない。
  ずっと黙り込んでいた雨音ちゃんの唇が動いた。
「兄さんは本当は私の事が嫌いなんでしょう?
  だから私がどんなに兄さんのことを想っているか知っているくせにそんなこと言うんですよね!!
  どんなに兄さんと共に過ごしたいか知っているくせにあんな女といっしょにいるところを
  見せ付けるんですよね!!
  私が兄さんと触れ合おうとすると家族なんて便利な言葉ではぐらかしているんですよね!!
  優しさを与えるだけ与えておいて、平気な顔して放り出すんですよね!!
  そんなことされたら私が絶対に生きていけないのを知っていて、
  あえて置いて行こうとするんですよね!?」
「そんなこと絶対に考えていないから、落ち着いて」
「だったら、私の事を愛してるって言ってくださいよ!!」
「何言ってるんだよ! そんなこと言っていたら本当に彼氏も出来なくなっちゃうよ。
  雨音ちゃんならもっといい人が見つかる。今からだって遅くないよ」
「もっといい人なんて興味ありません!! 私は兄さんがいいんです!!
  兄さん以外の男なんて絶対に嫌です!!」

「な、なんで?」
  それが混乱した頭で僕が精一杯の労力を使って捻り出した陳腐な言葉。
「なんで?―――いい加減にしないと襲いますよ、兄さん」
「だって……僕らは兄妹だろう?
  いつも二人は僕のことを『本当の兄弟じゃないくせに』って………
  だから僕は二人の本当の兄弟になろうって………それなのに………どうして………」
「兄さんは何を勘違いしているんですか?
  兄さんと私の間には血の繋がりなんか無いんですよ。
  遺伝子的にも惹かれあって当たり前なんですよ。
  そっか、兄さんはずっと勘違いしてきたんだね。
  ごめんなさい兄さん。
  これから私が兄さんの目を覚ましてあげますね」
  目の前の少女はどこか頼りない様子で立ち上がると、
「兄さん……」
  僕の名を呼びながらこちらへ手を伸ばす。
  でも、届かない。
  二人の間をテーブルが遮っている。
  ギリギリまで伸ばされた手が僕の目の前で空を切って、
  雨音ちゃんはテーブルの上に突っ伏してしまう。
「邪魔……」
  雨音ちゃんがテーブルを忌々しそうに押しのけて一歩踏み出す。
  これで二人の間の空間は埋まってしまった。
  まるで見えない手に全身を押さえつけられているような感覚。
  どうして僕は逃げていないのだろう?
  手遅れになってからそんな疑問が思い浮かんだ。
「にいさん……」
  鳥肌が立ってしまうような囁き声。
  雨音ちゃんの瞳に僕以外のものが映っていない。
  次第に近づいてくる髪から甘いリンスの香りが広がる。
  もう息遣いが聞こえる。
  何かを求める指先が僕の顔にたどり着いた瞬間―――

「ごめんなさい―――兄さん」

 呼吸が遮られた。
  雨音ちゃんの唇が重ねられている。
  柔らかい。
  僕の空っぽな頭の中を雨音ちゃんの唇の感触が染め上げてゆく。
  僕の始めてのキス。
  それが妹と思っていた少女に奪われていた。

「………凄い……こんなに幸せなのは初めて………」

 恍惚の表情を浮かべ、雨音ちゃんが自分の唇をチロッと舐める。
  まるで味を確かめるように。

「ねぇ……もう一度……」

 飢えた瞳が餌を捉える。
  透き通った鏡のような濡れた漆黒の瞳に、僕と同じ顔が映りこんでいる。
  その瞬間―――心の中で何かが軋んだ。

「だ、だめだよ!!」
  咄嗟に雨音ちゃんを押し返すと、雨音ちゃんが力なく仰向けに倒れて動かなくなった。
  心配になって様子を窺うと小さな身体が糸の切れた人形のようにぐったりとしている。
  けれどその眼は爛々と輝いてこちらを捉えて離さない。
  やがて雨音ちゃんは静かに身体を起こすと、再びこちらへ迫ってくる。
「もう一度……もう一度だけでいいんです……」
  嘘だ。
  きっと、もう一度だけでは止まらない。
  少なくとも今の雨音ちゃんが本人の意思でブレーキを掛けられるようには見えない。
「わかってよ!! こんな事したら駄目に決まってるだろ!!」
「でも、もう一回だけ………………次はもう離したりしませんから………」
  これはもう僕の知っている雨音ちゃんじゃない。
  いったい何がどうなってる?
  混乱している間も雨音ちゃんはゆっくり迫ってくる。
  ―――とりあえず考えるのは後回し、今は雨音ちゃんが冷静になるのを待つしかない。
  頭を切り替えて、踏み込んで駆け出すその刹那―――
  気が付けば僕は雨音ちゃんに押し倒されていた。
「怖がらないで……大丈夫。
  わかってるんです。私は兄さんに相応しくないって。
  でもね、過去にあれだけのことをしておいて本当は打ち明けてはいけない言葉かもしれないけれど、
  私は兄さんを愛しているの。
  許されない想いかもしれないけれど、兄さんを愛しています。
  兄さんは私が混乱しておかしくなったと思っていますか?
  残念ですけれどそれは違いますよ。
  これが私の本当の姿。
  妹を演じ続けてきた女の子の本当の姿。
  兄さんが扉を開いてくれたんですよ。折角鍵まで掛けておいたのに兄さんが開けてしまったの。
  兄さんがあんなこと言わなければ、兄さんが望むように私達は家族でいられたんです。
  私はもう少しだけ長く、自分を押さえ込んでいられたかも知れません。
  けれど―――もう無理。
  私の身体が、心が兄さんを求めてる。
  ねぇ、聞こえませんか?
  『兄さんが欲しい』『兄さんが欲しい』って心臓が脈打つ毎に訴えかけてくるの。
  信号が血液といっしょに全身を廻って指先から足先、細胞一つ一つまで兄さんを求めてくるの。
  体中が熱くて融けてしまいそう。
  もぅ、触れるだけのキスなんかじゃ足りません。
  もっと、もっと兄さんを摂らないと栄養不足で死んでしまいそう。
  兄さんなんですよ。こんな私にしたのは………。
  だから、兄さんには責任を取ってもらいます。
  兄さん―――私達、“本当の”家族になろうよ」

 また、唇を奪われた。
  今度は先ほどのような優しいキスではない。
  まさしく奪うという表現が似つかわしい荒々しいキス。
『次はもう離したりしませんから………』
  先ほど雨音ちゃんの言葉が頭の中で反響する。
  いったいいつまで続くのだろう?
  妙に覚めた意識はすでに抵抗する意思を忘れている。
  永遠に続くかと思われた長い捕食は、突如終わった。
「ご馳走様、兄さん。デザートはまた後でね。
  兄さんはお部屋でゆっくりしててください。後片付けは私がやっておきますから」
  まだ食べかけの食事や食器が散乱するリビング。
  雨音ちゃんは鼻歌でも歌いだしそうな様子でそれらを片付け始める。
  長年の習慣からか手伝おうなんて気が一瞬顔を覗かせるが、すぐにそんな気は失せた。
  今は雨音ちゃんとはいっしょにいられない。
「………デザートなんていらないから」
  置いてゆくようにそれだけ言い残して、僕は急いでこの場から逃げ出す。
  まさに片足がリビングから抜け出す瞬間、背中越しに声が聞こえた。
 
「―――頭の悪い女」

 その言葉は誰に向けたものだろう?
  姉さん? それとも………。
  そんなもの僕にわかるわけない。
  なら振り返ればいいのに、それを確認する勇気も無い。
  意識の吹っ飛んだまま、僕は自分の部屋に戻るとすぐに部屋の鍵を掛ける。
  自分の部屋の床の上なのに足がもつれて、倒れこむように僕はベットに伏せた。
  真っ暗な僕の部屋。
  一人になると急に心苦しくなって、まるで言い訳をするように僕の頭は思考を吐き出す。
  ずっと、僕らはおかしいと思ってきた。
  でも、今までは誤魔化してきた。
  今日、僕らはおかしいと思われていることを知った。
  だから少しだけ二人との距離を変ええようとしただけ。
  修正しようとしただけ。
  その結果は―――僕の想像とはかけ離れていた。
  口の中にはまだ雨音ちゃんの味が残ってる。
  明日から僕はどう接すればいいのだろう?
「姉さんは………どうしよう………」
  まだ、僕がやってくるのを部屋で待ってるのだろうか?
  残っている気力を掻き集めてみるものの上手く考えがまとまらない。
  それもそうだろう。
  今日はいろいろな事がありすぎた。
  もう休みたい。
  考えることを放棄して、僕は眼を閉じる。
  目蓋の裏にちらつく二人の顔を振り払い、僕は眠りに落ちた。
  まるで底の無い沼に沈んでゆく感覚。
  今はそれがとても心地よかった。

9

 ―――side 晴香―――

 私はあいつが憎かった。

 突然やってきた新しい家族。
  同年代の男の子。
  私は自分と同じ年頃の男の子が嫌いだった。
  あいつらは昔から何かと私に嫌がらせをしてくる。
  私の大嫌いな虫を近づけてくるし、隙を見せればからかわれるし、
  つまらないことでちょっかいをかけてくるし、
  膨らみ始めた胸をじろじろと見る。
  自分が嫌われていることも知らないで私に付きまとってくる奴らのことが、私は大嫌いだった。
  そんな私の前にあいつは現れた。
  しかも、あいつの隣で、私達の前で、父さんはこんなことを言った。
「今日から同じ屋根の下で過ごすことになった。仲良くしてあげて欲しい」と………

 私はファザコンだった。
  母さんが死んでから父さんは私達を人一倍甘やかすようになり、
  私はそんな父さんに甘えるのが大好きだった。
  父さんは何も言わなくても私がどうして欲しいかを良くわかっていたし、
  私のワガママだってよく聞いてくれた。
  私が困っているときはいつだって助けに来てくれた。
  意地悪ばかりする同年代の少年よりも私は父さんが大好きだった。
  だから私は父さんの言うことにはいつだって喜んで賛成していた。
  父さんの言うことはいつだって正義だった。

 その父さんの口から出た言葉は絶対のはず………。
  けれど、私には許せなかった。
  自分の家に“男の子”がいることが。
  その場は何とか取り繕ったものの、あいつの姿が見えない時に私はすぐさま父さんに意見した。
「私は嫌。あいつを今すぐ家から追い出してよ」
  私には自信があった。
  父さんはいつだって最後には私のワガママを聞き入れてくれたから。
  けれど、その日の父さんはいつまで経っても首を縦に振らない。
  私がしつこく懇願すると、父さんは珍しく私を強く叱った。
  そう、父さんに叱られた。
  その出来事は私にとって衝撃だった。

 父さんは私よりもあいつの方が大切なの?

 胸を覆う昏い曇り空。
  何よりも私達を一番に考えてくれた父さんが私よりもあいつを選んだ。
  父さんをあいつに取られてしまう。

 そして私は薄々気付いていた。
  父さんは本当は男の子が欲しかったってことを………。

 あいつがやってきてから数日。
  ふとした機会に雨音があいつと言葉を交わし始めた。
  まだ一言、二言。
  しかし、その光景は私の心を乱し、焦燥感を募らせる。
  家族を汚された。
  一点のシミだった汚れが縦横無尽に手を広げ、次第に真っ白だった私の家族を侵食してゆき、
  その穢れが妹のすぐ目の前にまで及んでいる。
  早く手を打たなければ手遅れになる。
  けれど、父さんの言うことは聞かなければならない。
  どうすればいい?
  どうしようもない。
  あいつが笑顔をみせるたび、私の不満が膨れ上がってゆく。
  苛々する。
  まるで、ゴキブリが家の中を我が顔して這い回っている気分。
  どうしてこの家の娘である私がこんな思いをしなければならないの?
  あいつがやってきてから父さんは仕事を増やし、なかなか家に帰ってこなれなくなった。
  それなのにあいつは家に残って、生活を営んでいる。
  居るはずの人が居なくて、居なくてもいい奴が居る。
  母さんを奪われた私達から父さんまで奪おうとしているあいつが憎い。
  だから、父さんが出張に出かけた日、私はあいつに言ってやったのだ。

「どうしてまだここにいるの? ここはお前の家じゃないのに」

 その瞬間のあいつの顔は傑作モノだった。
  谷底に突き落とされる者がみせる、哀れなまでの足場への執着。
  あいつの絶望の表情。
  それを視界に捉えた刹那、昏い快感が背筋を駆け抜けてゆく。
  あいつの瞳が映し出すのは澱んだ輝き。
  たった一言で、もうあいつは死に体だ。
  後はトドメを刺してあげるだけ。
  ならば、決定的なものを与えてあげよう。
  たった一つの逃げ道を塞いで、終わらせてあげる。

「あいつがいなくなればおとーさんは帰ってくるよ。だからね雨音ちゃん、手伝って」

 まだ幼い雨音を篭絡するのは簡単だった。
  父さんのいない不安を煽ってやるだけですぐにこちら側についた。
  これで天野家にあいつの味方はいなくなった。
  後は、あいつが自分から出て行くのを待つだけ。

 私達はあいつを無視して待つことにした。
  けれど、あいつは出て行こうとはしない。

 仕方ないから、あいつのことを散々罵ってやった。
  けれど、あいつは出て行こうとはしない。

 それならばと、身体に解らせてあげることにした。
  けれど、あいつは出て行こうとはしない。

 本当にあいつはゴキブリだった。
  あいつはいつもギリギリのところで踏みとどまる。
  いつも、もうこれで―――と思わせておいて必ず蘇ってくる。

 私は躍起になってあいつを痛めつけた。
  あいつが誰かに告げ口しないことは良く分かっていたから。
  それに、私はもう一度あいつが絶望する顔が見たかった。
  あいつにはそれがお似合いだ。

 中学に入ったある日。
  少し調子の悪い日が続いた。
  いつもなら学校を休むところだけれど、ちょうどそのときはテスト前。
  さらに運の悪いことに雨音は小学六年生、修学旅行で家にいなかった。
  学校では成績優秀な優等生を装っていた私は多少の無理を押して学校に通った。
  あいつの前で弱った姿なんて見せられない。
  そんなのは私のプライドが許さない。
  作り笑いを貼り付けて何とか乗り切った学校、
  心配する友人達と笑顔で別れ家にたどり着いた途端に眩暈がした。
  突然、眩む視界。
  全身を貫く寒気と共に、急激な気だるさに囚われる。
  私はぶっ倒れた。
  風邪だった。

 気が付くと氷枕を頭に下に敷かれ、冷たいタオルを額に乗せた状態で
  私は自分の部屋で寝かされていた。
  窓の外は真っ暗。
  どれだけの時間が経っているのか良く分からない。
  今、この家には私とあいつしかいない。
  つまり私がこの状態であるということはあいつの仕業としか考えられない。

 あいつはバカだ。
  私があいつだったら絶対に私を助けたりはしない。
  私があいつだったら高熱に苛まれ、もがき苦しむ私を笑顔で眺めているだろう。
  それなのにあいつはそれをしようとはしない。

 私はいったい何をしてるんだろう。
  あいつに弱みを見せないために無理してがんばって、
  その挙句、あいつに助けてもらっている。
  熱は37〜39度の間を行ったりきたり。
  病原菌が入り込んだのか関節がジクジク痛む。
  喉が痛くて堰が止まらない。
  身体の芯が震えるのはきっと寒さのせいだけじゃない。
  こんなに苦しいのに私は部屋に独りぼっち。
  ――誰か助けて欲しい。
  病原菌に蝕まれた肉体はそう叫ぶ。
  誰かって誰?
  今この家に居るのは?
  ――あいつ、あいつにだけは助けられたくない。
  私の意地が踏みとどまる。
  肉体と精神の要求の狭間。
  矛盾を抱えた心が行き場を無くして、悲鳴を上げる。

 頬が濡れている。
  私は部屋で独り涙を流していた。

 ―――二度、ドアを叩く音。
  誰かなんて考える必要も無いのに、惚けた頭では反応できなかった。
  そして、無抵抗のまま私の部屋のドアは開かれてしまう。
「晴香さん?」
  あいつは申し訳程度にドアの隙間から顔を覗かせて、こちらの様子を窺う。
「よかった―――寝てるみたいだ」
  横たわったまま動けないでいる私を見てあいつは勘違いをしたようだ。
  私の了解も得ないまま、あいつはズカズカと私の部屋に入り込んでくる。
  その足音は不快ではあったが、今は焦りのほうが勝っていて、
  あいつの足音が近づくたびに『あっち行け!』と叫びだしそうになる。
  やがて、あいつの足音が私の耳元へとたどり着く。
  私が目を瞑り寝たふりを通していると、あいつは私の汗と涙を拭い、
  タオルの水を取り替えて私の額にそっと置いた。
「早く良くなってくださいね」
  あいつの口から出た言葉はありきたりな言葉だった。
  まるでブラウン管や液晶越しに見るような、当たり前の言葉。
  けれどそれが、たまらなく―――で……。
「………ヒッ………ヒッ………」
  必死に堪えていたものが溢れ出し、私は息をしゃくりあげていた。
  あいつの目の前で私は泣いてしまった。
  憎むべき相手の前で、弱い自分を曝け出している。
  でもそれは、それだけは許されない。
「出て行きなさい!」
  私は唖然としたあいつの顔に叩きつけるように言い放つ。
「でも……」
「出て行ってよ!!」
  弱っている為が私の声には迫力があまり無い。
「大体誰がこの部屋に入っていいって許可したの?
  こっちが病気で弱ってるからって甘く見てない?」
「僕はただ……晴香さんが苦しそうにしていたから……」
「そうやって優しい振りをするのも大変ね。
  どうせ、御機嫌取りでしょ。ここ以外に行く所が無いから、そうやって媚びへつらってる」
「僕は、晴香さんが心配で―――」
「うるさい。本当の兄弟じゃないくせに……」
  何気ない一言。
  けれど、その一言があいつの胸を深々と穿っていた。
  二度目のあいつの絶望の表情。
  けれど、少しも楽しくなんてなかった。
  在ったのは胸糞悪い吐き気だけ。
「何かあったら、すぐに呼んでください……」
  あいつは振り返りもせずにトボトボと部屋を出てゆく。
  あいつのいない部屋、独りぼっちの部屋、妙に空虚な部屋で私は無理やり目を閉じる。
  それからどれくらいの時間が経ったか分からない。
  まだ満足には働いていない聴覚が何かの物音を拾い、半分眠っていたはずの意識が覚める。
  じんわりと広がる心地よい冷たさ。
  氷とタオルは新しい物と取り替えられていて、
  机の上にはペットボトルに入った水と薬と魔法瓶に入ったおかゆ、そしてメモが用意されていた。
『先に眠ります。体調が悪くなったらいつでも呼んでください』
  時刻は午前4時。
  私はメモを破り捨てた。

 

 数日後、あいつが風邪で倒れた。
  私の方はすっかり治っていたけれど、看病したりはしなかった。
  もちろん帰ってきた雨音もあいつを助けなかった。

 

 私が高校受験に向けて本格的に勉強を始めた頃。
  その夜は布団に入っても寝付けなかった。
  寝るタイミングを外したとでも言うのだろうか?
  妙な胸騒ぎがした。
  お茶でも飲んで気分を変えようと、私は台所へ向かう。
  階段を静かに降りて台所へ入る間際、人の気配を感じた。
  父さんの趣味で作った書斎。
  今はもう使われていないはずの扉の隙間から淡い光が漏れていた。
  私は誘われるようにその光に手を伸ばし、自分の目を疑った。
  書斎を照らす、オレンジ色のランプの光。
  暖かな陽だまりのような部屋の中、二つの影が優しい時間を過ごしている。
  私はまるで夢でも見ているような幻想的なその光景を食い入るようにして眺めていた。
「そういえば、雨音ちゃんは彼氏とかいる?」
「え?」
「いや、僕の友達が雨音ちゃんと付き合いたいって言ってたからさ」
「………そうですか。私、そういうのには興味ありませんから………」
「そうなの? もったいないと思うな。雨音ちゃんは元がいいんだから、
  男子なんかは放って置かないでしょ?」
「そんなことありません。私、無愛想ですから」
「大丈夫。雨音ちゃんは可愛いんだから、自信を持っていいと思うよ」
「私が……可愛い……」
  あいつの隣であの雨音が女の子の顔をしていた。
  異性に興味なんて無かった妹があいつの前で頬を染めていた。
  そして、私は聞いてしまう。

「ば、バカなこと言わないでください……に、にぃさん……」

 不慣れなのが一目でわかる。
  それでも不器用な性格の雨音がやっとの想いで紡いだ妹の誓い。

 たった扉一つ向こう側、
  その空間に3年前に在るべきだった姿が横たわっている。
  あの二人は出会った頃に戻っている。
  もう一度、やり直そうとしている。
  でも、そこに私の姿が無い。

 私を隔てる扉はたった一枚。
  ほんの一瞬だけ、あいつが雨音と親しそうに話している姿を羨まし―――

 嘘だ!!
  そんな事はありえない!!
  違う!!
  断じて違う!!
  どうして私があの二人を羨む!?
  私が感じなければならないのは怒りだ!!
  雨音は私を裏切った!!
  あいつは私を出し抜いた!!
  だから私は怒っている!! 怒っていなければならない!! 怒っているはずだ!!
  私は胸の内を怒りに塗り替え、書斎の扉に手を掛ける。
「ねぇ―――いったい何しているの?」
  私が書斎に入ると、二人の間の和やかな空気が凍りつく。
  私が壊してやった。
  いい気味だ!!
  自分にそう言い聞かせて、私は二人に圧力をかける。
  反撃もしてこないでヘラヘラ笑っている臆病者と今まで従属してきた妹だ。
  すぐに屈するはず。
  けれど、今日の雨音はあいつの傍から離れようとしない。
  不愉快だ。
  必死にしがみついてくる雨音が私に向かって叫ぶ。
「姉さんもう止めようよ! 本当は姉さんだって、もうこんなことしたくないんでしょ!!」

 視界が脈を打った。
  その一言は私の精神を貫いて、心の弱さを暴き出しそうになる。

 私だって、出来るものなら………。

 うるさい!! 出てくるな!!
  これが私の望んでいることだ!!
  雨音に何がわかる!!
  雨音の両手だってあいつの血で汚れているくせに。
  それなのに、
  どうしてあいつの傍であんなに幸せそうな顔が出来るの?
  どうしてあいつに許してもらう事が出来たの?
  どうして?
  教えて!
  教えなさい!!
  そうしたら………私だって………。

 あいつはバカだ。
  バカだから―――私だって受け入れてくれるかもしれない。

 ちゃんと分かってる。あいつが優しい奴だって事は……。
  けれど、これは私が始めてしまったこと。
  だから、もう後には引き返せない。
  それにもうあいつには数え切れ無いほどの傷痕を残している。
  許してくれる訳が無い。

 ―――でも、雨音はあいつの傍にいる。

 黙れ!!
  それが何だというのだ。
  期待なんかしたって、裏切られるに決まってる。
  羨んだ所で、手が届くはずも無い。
  だから、壊してやる!
  手に入らないなら壊してやる!
  でないと私は自分を保てなくなる!
  あいつと雨音のか細い絆。
  まだ生まれたばかりのそれが、姉妹の絆に敵うはずが無い。
  私があいつを追い出して家族を守るんだ!
  私があの二人の間を引き裂いてやれば元通りだ!
  私が壊してやる!
  私が兄妹を壊してやる!
  私が! 私が!! 私が!!!

 私は、本当は―――

 顔を上げると二人はお互いを支えあうようにして、こちらを見ていた。
  ただそれだけなのに、私はそれがどうしても許せなくて―――。

 キレた。

 
  喚き散らした。
 

 そして、目の前が真っ白。
  視界に映っている世界を脳味噌が認識出来ない。
  キーンと耳鳴りがする。
  私、なにしてたんだっけ?

 頬が熱い。
  私……もしかして、ぶたれた?
「―――いい加減にしてください。
  僕に言うのはかまいません。でも、雨音ちゃんにだけは、その言葉は使わないで………」
  混濁する意識。
  雨音? 私、何を言ったんだっけ?
  そして、歪んだ視界の端に掌が映る。
  もう一度、ぶたれる? あいつに?
  咄嗟にその覚悟をする。
  それはつまり、いつかこういった事態になるかもしれないと心のどこかで思っていたから。

 ―――けれど、いつまで経っても来るべき衝撃が来ない。

 代わりにあったのは、火照った頬に触れる優しい感触。
  文字通り血塗れたあいつの手。
  けれど、気持ち悪いなんてこれっぽっちも思わなくて………。
「ごめんなさい、痛かったよね……」
  開口一番にあいつはそう言った。

 やっぱりあいつはバカだ。

 遅い。
  今頃になって手を差し伸べてくる。
  私があいつに安らぎを与えられている。
  それは私にとって最大の屈辱。
  それなのにあいつの掌を私は拒めない。
  温かい。
  嬉しい。
  手放したくない。
  ずっと、こうしていて―――

 違う!
           違わない。

 嘘だ!
           嘘じゃない。

 止めて!
           止めないで。

 認めたくない!
           じゃあ、どうしたいの?

 ―――雨音にするみたいに優しくして欲しい―――
 

 動悸が止まらない…。
  つまりはそういうことらしい。
  いいだろう。
  認めてあげる。
  この勝負はあいつの勝ち。
  あいつのバカは私を狂わせる。
  これが恋愛感情というのならそれでも構わない。
  それならば、こちらにだって考えがある。

 私を狂わせたのは他でもないあいつ。

 だから、責任を取ってもらうからね。
「八雲ちゃん」

10

 私が初めてあいつを拒まなかったあの日。
  八雲の掌から伝わった、確かな温かさ。

 私、天野晴香は飢えていた。
  あの温もりに。

 中学3年生。
  思春期を迎える頃なると、私はどうして同世代の異性がしきりにちょっかいをかけてくるのかが
  解り始めていた。
  彼らは私のことが気になっているのだ。
  自分で言うのもなんだけれど、私はそこらの女の子より顔の作りやスタイルが良い。
  それはおそらく自意識過剰ではなく事実だと思う。
  学校でも優等生を装っていた私は多数の男子生徒からお付き合いを申し込まれることも多く、
  毎日のように下駄箱にラブレターが入っていることも稀ではなかった。
  もちろん、私の外面ばかり見てるような奴らと付き合う気はないが、使える武器は使えばいい。
  私が優しくすれば八雲はきっと喜ぶ。

 そして、八雲は私に惚れる。

 安易な考えだけれど、私には自信があった。
  私は八雲に天野晴香を徹底的に刻みつけて、私無しでは生きられないようにする。
  それが私を狂わせた罰。
  あの笑顔も、あの優しさも、あの掌も、すべて私の物。

 私はすぐに行動を起こした。
  向かうは無防備な八雲の背中。
  私は八雲に気付かれないよう、後ろから思いっきり抱きつく。
  こうすれば男の子は喜ぶものでしょう? 八雲にはサービスして胸も押し付けてみる。
「うわぁぁぁ!! や、止めてください!!」
  忘れもしない。
  このとき八雲は間違いなく怯えていた。
  目を丸くする私を見て、八雲は顔を庇っていた両腕を解きしどろもどろになって言い訳を始める。
「いや、ち、違うんです。いきなりだから、驚いて……本当に、ちょっと驚いただけですから……」
  初めて意識する二人を隔てる深い溝。
  拒絶。
  一度意識がそれに捕らわれてしまうと、なかなか抜け出せない。
  八雲は努力してる。この一件以降、何かと私を気にかけてくれるし、声をかけてくれる。
  けれど、遠慮がある。八雲は必要以上には近づいてこないし、近づけないのだろう。
  身体に覚えこまされた恐怖。
  記憶できないほど重ねられた暴力。
  そして育まれた無意識下での拒絶。
  それはこの数年で八雲が組み立てた自己防衛。
  惚れるとか、それ以前の問題。
  私の立てた計画。
  そんなものは妄想でしかなかった。
  私をすぐに許してくれる八雲、私が楽をするための八雲、私を満足させるための八雲、
  私にとって都合のいい八雲。
  ただの妄想。
  現実には程遠い、おとぎ話。

 私と八雲の立場はここに来て逆転していた。
  私がどれだけ歩み寄っても、触れられる距離には届かない。
  どれだけ手を伸ばそうとしても、拒まれるのを恐れて手を伸ばしきれない。
  もちろん昔よりはマシな関係にはなった。
  ぎこちないながらも会話をするし、今は同じ食卓を囲んでいる。
  リビングでいっしょにテレビを見たりもする。
  けれど、そこから先は平行線。
  隣にいる。でも、交わることはない。
  私の知っているあの温かさを横目で物欲しそうに眺めているだけ。

 八雲も似たような思いをしていたのだろうか?
  私と雨音が部屋で過ごしているのを八雲はどこかで眺めていて……眺めていることしかできない。
  近づけば拒絶される。それでも、近くに、もっと傍にいたい。
  そういえば、そんな時の八雲はよくヘラヘラと笑っていた。
  でも今ならわかる―――あいつはきっと笑ってなんかいなかった。
  私の心は冷え込んでゆく。
  やっとみつけた、本当に欲しかったもの。
  それが私の手では触れられないものだと認識したとき、私の心は後悔で埋め尽くされる。

 『嫌だ』はただの我が儘。
  『違う』は本心の裏返し。
  『嘘だ』は自分を偽るまやかし。
  今日はどれも役に立たない。

 私の頭の中にはいつも八雲が『居る』
  けれど私は『居ない』八雲を想い続けている。
  何時でも、何処でも、何度でも………。
  満たされない。
  私が欲しいのは人肌のぬくもり。
  ただ八雲が傍に居てくれたらそれでいい………。

 雨音は八雲を『兄さん』と呼ぶ。
  でも、八雲は相変わらず私を『晴香さん』と呼ぶ。
  それだけの違い。
  べつに私は八雲の姉になりたいわけではない。
  だからそれでも構わないはず―――なのに、私の心は焦っていた。
  八雲と雨音の距離はどんどん縮んでゆくのに私だけが独り置いてきぼりされてしまいそうだった。
  それだけではない。
  最近、雨音は可愛くなった。
  少し前の雨音は極端に人付き合いを避け、無愛想で暗い女の子だった。
  八雲に酷い事をしている。人前では顔色一つ変えることのない表情の裏には
  そんな後ろめたさもあったのかもしれない。
  しかし、最近の雨音はよく笑顔を見せるようになった。
  私が人前でよくやるような作り物の笑顔ではなく、心許せる人にだけ見せる本当の笑顔。
  そして、八雲に向ける誰にも見せたことのない眼差し。
  笑うたびに雨音はどんどん綺麗になり、少しづつ人付き合いもするようになっていった。
  私は―――私はまだ笑えなかった。
  笑ったとしても、それは良く出来た作り笑い。本物には敵わない。
  私と雨音にどんな違いがあるのだろうか?
  同じ姉妹。 同じ過去。 同じ罪。
  同じはずなのに何かが違う。
  正体不明。
  それだけに私は焦った。
  けれど、私はどうしていいかすらわからない。
  罪悪感とストレスで眠れない日が続く。
  高校受験を控え、最も集中しなければならない時期。
  授業中は溜息ばかり、考えるのは一人の少年のこと。
  ノートには数式の代わりに愛しい名前が書き込まれていて、残りは白紙で埋められた。
  隣に自分の名前を書き込んでみると、少し幸せな気分になった。
  けれど、全然足りない。
  それからの私は、八雲の物を見つけては自分の部屋へ持ち帰ってみたり………、
  八雲の使ったお箸をこっそり舐めてみたり………、
  八雲の布団の中で自分を慰めてみたり………、
  そんなことばかりやっていた。
  飽きもせずに。寝る暇も惜しんで。他の事に手が回らなくなるほどに。
 

 そしてある日。
  私はまたぶっ倒れた。

 朦朧とする意識、ぼやけた天井。
  あの日の焼き回しだと思った。
  氷枕に濡れたタオル、そしてベットに寝かされている私。
  もし、これがあの日の再現ならば………

 ――二度、ドアを叩く音。
  私は期待してしまう。
  今度は頭が回らないなんてことはない。
  ここ最近はいつだって八雲のことを考えていた。だから準備は出来ている。
  八雲がドアを開けてくれたら、部屋に招き入れて、優しくタオルで汗を拭いてもらって、
  お礼を言って、部屋から出て行こうとする八雲を引き止めて、
  もしそれで八雲が風邪をひいたとしても、
  今度は私が着きっきりで看病してあげる。
  一晩中、一週間、一ヶ月、一年、一生涯………
  どれだけ風邪をこじらせたってずっと傍にいてあげる。
  寂しくならないようにずっと傍に居て、手を握っていてあげる。
  目覚めたときには優しく微笑んであげる。「おはよう」って声をかけてあげるの。
  おかゆだって私が食べさせてあげる。熱ければ私がふーふーしてあげるし、
  食欲がなければ私が口移しで食べさせてあげる。
  なんでもする!!
  私、八雲のためならなんでもするよ!!
  だから! だから! 早くそのドアを開けて!!
  八雲!!

「姉さん、具合はどう?」
  この家で私を姉さんと呼ぶのは一人しかいない。
  私の妹だけ。
「酷い顔してる……大丈夫?」
  酷い顔?
  私はどんな顔をしているのだろう。
  全身に力が入らない。気が抜けるというのはこういうことを言うのだろう。
  私は雨音が食事の準備をするのをぼんやりと眺めていた。
「ねえ、八雲は?」
「兄さん? 買い物に出かけましたよ」
  それもそうだ。
  八雲が前に部屋に入った時に私は拒絶した。
  入ってくるはずがない。
「姉さん、食べないと元気でないよ」
  いつまでも食事に手をつけない私を雨音が促す。
  食べたって元気など出るものか。
  思わず口に出して言いそうになってしまう。
「姉さん」
  再び促されて、私は雨音が持ってきたおかゆに口をつける。
  いつか口にした、塩と昆布ダシだけのつまらない味。
  これは、私と八雲だけの秘密。
  雨音の知らない二人だけの秘密。
  でも、この部屋にはそれを共有する相手が居ない。
  雨音が羨ましい。
  雨音は今、幸せの内側に居る。
  私は雨音になりたい。私が雨音だったら、八雲は私を受け入れてくれる。

 深夜3時。
  薬の作用で眠くなってはいたが、私は眠ったりしなかった。
  これが前回の焼きまわしならば、もう一度だけチャンスがあるはずだった。
  破り捨てたメモ帳。
  紙を引き裂いた感触、悲鳴に似た音。
  まだ確かに覚えている。
  皮肉なものだ。
  自ら破り捨てたものに願いを賭けている。
  バカは―――私のほうだ。

 待ち続けてどれくらい経っただろうか?
  睡魔の所為で時間の感覚が希薄になっていた。
  コツコツ。
  と、前回よりも控えめなノックの音。
  しばらくして私の部屋に蛍光灯の光が差し込む。
「晴香さん? もう寝ちゃいましたか?」
  ちゃんと来てくれた。
  それがわかった瞬間、八雲の顔が滲んでよく見えなかった。
  反射的に私は顔を背けて、寝た振りをする。
「寝てます―――よね?」
  八雲は少し疑うような仕草を見せるものの、また勘違いをして部屋の中へ入ってくる。
  次第に近づく足音。
  ずっとこの機会が来るのを待っていたくせに、いざ本番になると私の頭は真っ白になってしまう。
  結局私はまた八雲にされるがままに看病を受けていた。
  何か言わなければならない。
  私は八雲をこのまま帰すつもりなど毛頭無い。
  けど、なんて言えばいい。
  もうそろそろ八雲はまた部屋を出て行ってしまう。
「ねぇ、ここに居てよ。もう出て行けなんて言わないから……」
  咄嗟に出た言葉。
  八雲は驚いた顔をしたものの、何も言わずにベットの横に腰を下ろす。
  引き止めたものの会話が続かない。
  言いたいことはたくさんある。
  大好き。 どこにも行かないで。 ずっとここにいて。 
  お願いだから避けたりしないで。 もっと優しくして。 もっと私のことも見て。
  でも、私の唇は―――
「もう私の事、嫌いかもしれないけど………」
  もっと前に言わなければならないことをよく知っていた。

「ごめんね」

 今思えば私は一度も八雲に謝ったことがなかった。
  何よりもまずしなければならないこと。
  少し考えればわかること。
  そんなこともわからないほどに、本当に私はバカだった。

 八雲は複雑な表情でこちらを見ている。
  いろいろな感情が入り混じったとしか言いようの無い顔、八雲はそれを呑み込んで笑った。
「あの、僕に出来る事があれば何でも言ってください」
  そう言ってこちらに微笑みかけてくれる。
  私は―――私は八雲の特別になりたかった。
  雨音に負けない、何かに……。
「じゃあ、私のこと一度でもいいから『姉さん』って呼んでみて」
「………いや、それは」
  八雲は少し戸惑った。
  当たり前だ。少し前まで『姉さん』などと呼ぼうものなら半殺しにしていたような女だ。
  八雲が混乱するのも無理はない。
  でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
  やっと巡ってきたきっかけ、今を逃してはもう二度とやってこないかもしれない。
「私、がんばるから……八雲のお姉さんになれるように。だから……お願い」
  お願い。
  八雲はこの言葉に弱い。卑怯かもしれないけど私はそれを知っていて使った。
  いま断られたら、私はきっと立ち直れない。
  だから、このチャンスを逃すわけにはいかない。
「でも……ちょっと恥ずかしいよ」
  恥ずかしがる八雲の様子がもどかしくて、ついつい本音が零れ落ちる。
「雨音ちゃんには『兄さん』なんて呼ばせてるくせに……」
「別に、あれは僕が言わせてるわけじゃなくて!」
「それじゃあ、私じゃ『姉さん』になれない?」
「そんなこと!!」
「じゃあ、呼んでみて……」
  八雲はその言葉を口にする。

「………ねえさん」

 大袈裟な深呼吸のわりには小さな声、八雲は耳の先まで真っ赤にしていた。
  まだどこか出来の悪い言葉は、驚くほど私の体内に自然に入ってきた。
「………よくできました」
  自然と八雲の頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細める。
  本当にドキドキした。
  でも、それ以上に嬉しかった。
  もっと、この両手で包んであげたい。
  ずっと傍にいて、この少年の傷を癒してあげたい。
  それが私のやるべきこと。私にはその義務がある。

 本気になったのは八雲ちゃんではなく私。
  存在を刻みつけられていたのも私。

 もう、それでいい。

 安心するとすぐに眠気が襲ってきた。
  まだ眠りたくない。もっと伝えたいことがいっぱいある。
「おやすみ……ねえさん」
  すぐ耳元、どこか遠くで八雲の声が聞こえる。
  眠っても八雲がどこかへ行ってしまわないように八雲の掌を固く握って私は眠りに落ちた。

To be continued.....

 

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