AM 8:20
「佐藤くん、はいコレ」
「おう、どうもさん」
独特の喋りで答え、一は受け取った包みを鞄の中にしまい込んだ。これで通算二十個目、
クラスの女子ほぼ全員から貰ったことになる。今日は二月十四日、つまりはバレンタインデーだ。
となれば包みの中は誰でも想像がつくだろう、勿論チョコレートだ。
中にはCDなどの例外もあったのだが、大まかな部分は変わっていない。
要は、義理なのだ。
彼、佐藤・一はクラスの女子殆んど全員からこうしたプレゼントを貰っているのだが、
決してモテている訳ではなかった。全員が全員、義理でプレゼントをしているのである。
それは彼の性格故だ。
誰にでも温厚に接し、義理固く、真面目で、しかし冗談も通じるという彼の人格は周囲の人間に
良い評価を受けている。幼い頃に両親を亡くした彼を育ててきたのは、元警察官だった祖父だ。
その祖父の血を引き、更には教育の成果もあって、彼はこのような人格者に育った。
祖父の教育がもたらしたのは性格だけではない。
勉学も運動も、全て人よりもこなせる模範的な人間として育ってきたのだ。
隙が無い、という言葉は正に彼の為にあるようなものだ。
彼の祖父はまだまだ未熟だと言っているが、高校生としては彼に並ぶ人間は
そう滅多に居るものではない。社会に出ても、そうなるだろう。
しかし、それが良くなかった。
頼りにされる、好意を持たれる、そこまでは良いのだが、彼の場合はそこから先に
進むことがないのである。人は誰にでも隙があって、その隙があるからこそ対等になることが
可能なのである。そして対等の立場であるからこそ距離が縮まり、
やがて隣に立つことが出来るようになるのだ。恋人であれ何であれ、それは変わらない。
しかし、彼の場合は違った。
欠点がない、つまりは隙が存在しない。
勉強や運動は人よりも出来るが、それは隙というものとは無縁のものだ。例え頭が馬鹿でも、
運動音痴でも、それは隙に繋がらない。隙というものは心に出来て、
それを認めることで人は対等の立場になることが出来るのだ。
だが彼の心には、それが存在しない。
外側は祖父の教育によって人格者の器になり、内側は死んだ両親の代わりに妹を守る、
という考えに満ちている。周囲の女子もそれを分かっているから、
日頃助けて貰っている感謝の気持ちや、その他様々なものを持ちつつも、
本命チョコを送る気にはならないのだ。
簡単に言ってしまえば、良い人、という一言で終わってしまう訳である。
一はそれを特に気にしてはいなかったが、彼の周囲にはそれを笑う者が存在する。
「よう、義理チョコ大名」
「何だよそれは?」
意外に的を得ている表現をしながら話し掛けてきた彼の幼馴染み、塩田・希美である。
因みに彼女は一に何も送っていない、先程殆んど全員と表現したのはそれが理由だ。
希美は面白そうに口の端を曲げて一を見下ろし、次に鞄に目を向けた。
「今年は何万石だった?」
「二十万石、ってとこだな」
「クラスの女子全員からか、豊作だね。来年は将軍にでもなるんじゃないの?」
なるほど、確かに大名かもしれないと一は思う。
「でも、本命だと足軽も良いとこだぞ? それに全員じゃないだろ、お前に貰ってない」
「あたしは良いんだよ、そんな間柄でも無いし」
けらけらと笑って、希美は一の頭を軽く叩いた。
こんなことをするのは、一の周囲でも三人しか居ない。
希美以外では、妹の玲子と祖父の厳一だけである。そんなことを出来るのが
二人の気の置けない関係を物語っているが、しかし色っぽい関係になったことはない。
あくまでも気安いだけの関係、幼馴染みなのである。一度は恋人になろうかという時期も
あったのだが、彼の性格と彼女のおふざけの末に流れてしまっまっていた。
付かず、離れず、気安く隣り合う。
それが今の二人の関係だ。
「ところで、本当に本命を貰ってないの?」
「残念な話だ、誰も俺の魅力に気付かないらしい」
おちゃらけて答えたが、一は内心驚いていた。今まで色恋沙汰の話をしてこなかった、
避けていたとさえ思える程に話題に出さなかった希美が急に話を向けたからだ。
今のようにふざけて言うことはあったが、核心に触れることなく、
大抵は変な方向に話を滑らせて終わっていた。それなのに、今は少しだけ真剣な顔をして話している。
真面目になると目を細めるのは、保育園時代から知っている彼女の癖だ。
数秒。
沈黙が続いたが、不意に希美が吹き出したことで固まっていた空気が崩れた。
「うはは、何驚いてんのさ。そんなに真面目になんないでよ」
一からしてみれば真剣だったのは希美の方だと思うのだが、言葉を出す前に希美に頭を叩かれた。
いつもの砕けた表情で、いつもの弱い力で、何も変わった様子はない。
「ま、いつか本命貰えるかもね」
寧ろ今日かもしれないよ、と言いながら希美は自分の席に戻ってゆく。
HRの五分前を知らせるチャイムが鳴った。
AM 7:30
玲子はいつものように二人分の弁当を作っていた。
言うまでもなく、自分のものと兄の一のものである。これは質素倹約を旨としているから、ではない。
そのような部分もないことはないのだが、それは正しい理由ではなかった。
「今日も、美味しいと言ってくれるでしょうか?」
今の言葉で分かる通り、大部分は兄の為なのである。
早くに両親を亡くした玲子を守ってきてくれた兄、文武両道で性格も良く、
理想の男性の見本であるかのような存在、その兄に喜んでもらうことだけを考えて
玲子の弁当は作られるのである。
愛情を込め、手間暇をかけ、好みに合わせつつバランスもしっかり考える。
たゆまぬ努力に裏打ちされた弁当は、今日も素晴らしい完成度を持って作られた。
そして弁当箱の隣には、普段には付かないものが存在している。
チョコレート。
今日という日を考えればどんな意味を持つのか分かるし、一と玲子の関係を見れば
更にどのようなものか分かる。家族に親愛の情を示し、そして送る為のものだ。
しかし、これは違った。
普通ならば義理チョコとして終わり一の記録を更新させるだけのものだが、
玲子のそれは普通ではなかった。兄に送るのではなく、女として一という男性に送る為のものなのだ。
義理ではなく愛を込めて、本当の気持ちを知ってもらう為にそれは作られた。
きっかけは些細なものだった。
昔も今と変わらずに、兄は妹を守っていた。幼い妹はそれが嬉しくて誇らしくて、
同時に恩を返したいと思うようになったのだ。
まだ幼い子供のことだ、当然能力も財力もある筈がない。
それを祖父に相談したところ、こう言われたのだ。
「料理でもしてみるか?」
教えられたのは目玉焼き、子供でも簡単に作ることができるものだった。しかも材料の卵は
自分の少ない小遣いでも買うことが出来て、更には量も多いので練習にも事欠かない。
今にして思えば、よく考えられたアイディアだと感心させられる。
そうして四苦八苦、練習を重ねて綺麗に作られた目玉焼きを食べて、兄は微笑んだ。
「給食のより美味い」
子供らしい稚拙な表現だったが、その言葉を聞き玲子の心は喜びで満たされた。
その後玲子は進んで料理の勉強をするようになり、今では兄の好みにおいては
プロも裸足の腕前となっている。それが優秀な兄を持つ彼女の、何より大切なものへとなった。
しかしそれは、良いことばかりではなかった。
憧れの兄へ送る食事、それを受け止め美味いと言ってくれる日常。一が高校に入学して
弁当を作ることになり、三食の世話をすることにより目覚めてしまったのだ。
幼い頃から守られ続け兄に強い依存心を持ってい玲子は、
兄の生活の一部を作っているという現状にのめり込んでしまった。
憧れだった気持ちは歪んだものへと変わり、ついには一を愛してしまったのだ。
まだ理性や倫理が勝っていた去年は何もなかったものの、
加速度的に成長した気持ちは思考の枷を外し、彼女を告白を決意させるにまで至らしめた。
その証である包みを見て、玲子は微笑を溢す。
「これを渡したら、どんな表情をするんでしょうか?」
決まっています、と心の中で呟いて兄の顔を思い浮かべた。
最初に浮かべるのは驚きの表情、しかし次の瞬間には笑っているだろうと思う。
自分が作ったものを毎日美味そうに食べて、笑みを返し、甘えさせてくれる。
そのように接してくれる兄が、自分の気持ちを裏切る筈がない。きっと受け入れてくれるし、
法律のせいで結婚は出来ないが恋人として扱ってくれるだろう。
そう結論をして、玲子はチョコレートの包みを愛しそうに撫でる。
玲子にとっては天国の片道切符だ、まるで繊細な硝子細工を扱うように優しく胸に抱え込む。
「楽しみです」
二人の未来は明るい。
兄ならば、一ならば。
きっと大切にしてくれるだろうと、そう思った。
間違っても、祖父のように説教をしてくる筈がないと、思考の中の兄に確認をとる。
そう、足元に転がっている、祖父のようには。
「全く、馬鹿ですね」
料理のきっかけを与えてくれたことを抜きにしても、尊敬をしていた。
一に対するものとは別のものだが、家族としてなら大切に思っていた。だがチョコの包みを見られ、
兄へ対する気持ちを知られて説教が始まった直後、つい手が出てしまったのだ。
女としての気持ちを否定され、愛を否定された玲子は、手元にあった包丁で祖父の胸を突き刺した。
当たり所が悪かったのか不味い角度に入ったのか、
厳一は口と胸から大量の血を垂れ流して崩れ落ちた。
専門家が見なくても、即死だということが分かる程だった。
だが玲子は、それに対して恐れは無い。既に歯車が軋んでいる彼女の脳内では、
自分の愛が勝った結果だと認識されていた。今のは祖父殺しではなく邪魔者を排除しただけだ、と。
興味を失った玩具でも見るような目を向けると、玲子は鞄に弁当をしまう。
渾身の本命チョコは、熱変形しないように冷蔵庫に収めた。
腕時計を見れば、アナログの針が示すのは八時少し前。
「いってきます」
言って、彼女は気付いた。
何気無しに言った言葉だが、これは毎日祖父に言っていたから付いた癖だ。
しかしその対象である祖父が亡くなった今では、家の中での言葉は全て兄に向けられる。
当然、兄の言葉も自分だけに向くことになる。他の誰も入れない、二人だけの言葉の世界。
彼女の口から、笑い声が溢れた。
思考の中に満ちているのは、めくるめく歓喜の日常。
「なんて、なんて素敵なんでしょう!!」
玲子の思考は、止まらない。 |