その一。
グレイスが帰ってきた。
聞いた話では、かなりの手傷を戦場で負ったそうだ。
妹のヘレンは、心配で胸が張り裂けそうだった。
聞いたところによると、命に別状は無いという話だったが、そんな事は自分の目で見るまで
当てにはならない。
ヘレンは、侍女たちを突き飛ばし、長いスカートを捲り上げ、実に数年ぶりに全速力で、
兄の部屋まで駆け通した。
貴族の令嬢としての典礼作法を学び始めてからは、走るなどという、
そんなはしたない行為はした事も無かったが、その時の彼女には“無作法”などという単語は、
頭を掠めることすら無かった。
「お兄様っ!!」
兄の部屋に飛び込んで、ベッドまで駆け寄る。
クリムゾン家かかりつけの白魔道士に医者。兄の従者である騎士見習いたち。
そして、ひたすらおろおろする母と、その母ををなだめる末の妹。
これらの人々を掻き分け、ヘレンは枕元までにじり寄る。
彼女の兄、グレイス=クリムゾンは、いた。
「よう。ヘレン」
「おにい、さ、ま……!」
半年振りに見る兄。
半年前と変わらぬ、その屈託の無い笑顔。
しかし、全身包帯まみれのその姿には――左膝の下からが無かった。
「ちょいと、しくじっちまってな。ブザマなこったよ全く……」
「……」
「何だよ、そんな不景気なツラすんじゃねえよ。別に足一本で死にゃしねえさ」
グレイスは半分むくれたような、半分照れているような、それでいて何となく面目無さげな、
要するにイタズラの現場を押さえられた子供のような顔をしていた。
ヘレンは、そんな兄の顔を見て、安堵と同時に苦々しい怒りが込み上げてくるのを
抑え切れなくなっていた。
「あの、あなたたちには申し訳ないけれど、……少しお席を外して下さいません?」
「えっ……あの?」
「ヘレンお嬢様、宜しいのですか?」
「先生方、もう、取り立てて命の危険は無いのでございましょう?
父もそろそろ下城する時間ですし、騎士団の方々もお疲れでございましょう?
階下でお食事など用意させて頂きますので……少し、家族だけで話をさせて頂けません?」
そう言って彼女は兄の部屋からメイドや医者、騎士見習いたちを追い出した。
本当は、母や妹も追い出して、二人きりでたっぷり説教してあげたかったのだが……。
「お兄様、これやっぱり、アイツにやられたの……?」
「あいつ?」
「例の、グリフォンに……」
「……まあな」
「……」
例のグリフォンというのは、最近、街道沿いのボラン峠に出没するという、鷲頭獣身の幻獣の事だ。
元来グリフォンは、ドラゴンやフェニックス、ガルーダやハヌマーンのような
高位の霊獣に並ぶ存在で、その知能、魔力、そして、その巨大な肉体が有する破壊力は、
もとより人間の及ぶところではない。
と言うより、そんな幻獣は人前に姿を現す事すら稀であり、さらに街道で人や荷車を襲うなど、
前代未聞と言ってもよかった。
グレイスの直属の百人隊が、そのグリフォン討伐の任を帯び、ボラン峠に出立したのが二週間前。
そして、一週間前に峠と街道を封鎖し、およそ四日間にわたって繰り広げられた大激戦は、
完膚なきまでの騎士団の敗北で幕を閉じた。
軍勢はその半数までが殺され、指揮官である彼が、片足を食い千切られながらも残兵をまとめ、
撤退して来たのだという。
ぽつりぽつりと、言い訳のように、そんな話をその場にいる家族に聞かせるグレイス。
しかし、その表情は、命拾いした安堵ではなく、幻獣への恐怖でもなく、
戦に負けた悔しさのみに覆われていた。
ヘレンは、そんな兄の頬を、張り飛ばしてやりたくて仕方が無かった。
グレイス=クリムゾンの名は高名だ。
王宮近衛騎士団の百人長の一人として、また、名門貴族・クリムゾン家の嫡男として、
そして、我が国で十指に数え上げられる練達の剣士の一人として。
いつもは、彼の身を心配する妹の胸のうちなど、まるで鼻にもかけず、国内国外を問わずに
戦場を飛び回る。そんな兄。
いい加減落ち着いてクリムゾンの家を継げ、という父の意見を、天下は未だ定かならず。
今は誰もが陛下のために剣を取らねばならない時代だと一蹴し、休暇の時でも、
騎士団の詰め所から滅多に帰ってこない。そんな兄。
例え、屋敷に帰ってきても、父や母への挨拶もそこそこに、すぐに離れの道場で独り、
夜中まで剣の練習にこもってしまう。そんな兄。
でも、妹たちに対しては、この世の誰よりも優しい。そんな兄。
ヘレンは、そんな兄が大好きだった。
恐らく、その想いは、兄に対する妹の思慕という範疇からは、
とっくの昔にはみ出してしまっているはずだった。
「だから! だから言うたのじゃ! グレイス!! 由緒あるクリムゾン家の後継ぎが、
調子に乗って戦場などに飛び出して…いつかはこうなると、この母が口が酸っぱくなるまで
言うていたであろうが!!」
半分泣き喚きながら母が叫ぶ。
「落ち着いてよ母上様。そんなに耳元で叫ばなくとも聞こえてるよ」
末の妹のマリアが、母を慰めながらもたしなめる。
「まあな」
彼も、苦笑しながら、目線でマリアに礼を言う。
だが、マリアは、そんな気安い兄の視線を再度跳ね返した。
「でもね、兄上様、父上様も母上様も姉上様も、そして当然ボクだって、みんなみんな兄上様のことが
心配なんだよ。だからもう、これを機に騎士団を引退して、大人しく家を継ぐべきだよ」
マリアは、呼び方こそ丁寧だが、口の利き方は基本的にタメ口だ。
だが、その物言いは、ヒステリックな母とは違い、聞き手に違和感を感じさせない冷静さがある。
彼女は父であるクリムゾン侯爵でさえ、一目を置く利発な少女だった。
ちなみにヘレンは、この妹にチェスで勝った事が無い。
しかし兄は、そんな末妹の眼光を、更に弾き返した。
「それは、できない」
「グレイス!!」
「お兄様っ!!」
「兄上様っ!!」
ヘレンと母、そしてマリアが同時に叫ぶ。
しかし、彼の表情は頑なだった。
「アイツはオレの獲物だ。誰にも渡しゃしねえ」
「何を言ってるのお兄様っ!? エモノも何も、エサにされそうになったのは
お兄様の方じゃないの!?」
「大体、片足食い千切られて、騎士も何もないだろう!?
もう馬にだって乗れないじゃないかっ!?」
「何故じゃグレイス!? 何故そこまで己の命を粗末にするのじゃ!?
この母にあてつけたい事でもあると申すかっ!?」
口々に叫ぶ女たちの声を聞き流し、彼はヘレンに振り向いた。
「ヘレン」
「何よっ!」
「お前、十年前の事、覚えてるか?」
「十年前?」
「これだよ」
そう言って、振り向いた彼の横顔には、凄まじいまでの傷痕があった。
そう、グレイスの左の横顔は、一面の火傷に覆われている。
その火傷さえなければ、母親似の彼の容貌は、美形と言ってもいいほどに整ったものであり、
雪のように白い肌が、その容色を一層見栄えするものに仕上げるはずなのだが、この火傷のせいで、
その全てが逆効果となっていた。
その容貌が端整であるほどに、その肌が色白であるほどに、その傷の醜さは倍増され、
初めてグレイスと顔を合わせる者たちは、その大半が眼を逸らす。
無論、彼は、そんな事を毛ほども気にしていないようではある。
何故なら、この傷こそは、十年前にヘレンを庇って出来た傷なのだから。
傷を気にする素振りを見せるほどに、妹の小さな胸の内を苦しめる事になる。
彼は兄として、それくらいの配慮は出来る男だった。
だから、彼の口から傷の事が語られる事は、これまで絶えてなかったはずだった。
その彼が……。
「十年前、オレのツラをお化けにしてくれた、あの化物……アイツだよ。あのグリフォンこそが、
あの時の化物だ。間違いねえ」
「お兄様……」
「ようやく逢えたんだよ、長年待ち焦がれた“恋人”にな。……くくくく、最初の一目で分かったよ。
ああ、コイツだ。こんなところにいやがったんだ、ってな」
「でも、でも兄上様――」
「あのクソ野郎を仕留めるのは、天下に唯一人、このグレイス=クリムゾンを置いて、
他にゃアいねえ……!」
淡々とそう語るグレイス。
全身包帯だらけの半裸の肉体。しかも片足を食い千切られたその重傷。
しかし、その爛々たる輝きを帯びた眼光。さらに、宿敵との再会を喜ぶ歓喜交じりの
絶大なる闘志は、彼が国内屈指の戦士である事を、家族たちに思い出させるのに充分だった。
「幸い、持ってかれたのは足一本だ。しかも膝の関節は無事だから、
後は義足をつけりゃあ何とかなる。母上、お手数ですが、早速に職人を手配して頂けませんか?」
「……グレイス、お前」
母は絶句した。
同じく、妹たちも。
しかし、ヘレンはもう理解していた。
(あの眼をした時のお兄様は、もう何を言っても聞いてもらえない……)
兄の、あの歓喜に震える眼差しは、家族と共に過ごすどんな瞬間でも出現する事は無い。
例外があるとすれば、それは戦場の思い出話をする時だけ。
いつも自分たち妹を、いたわりと優しさに満ちた眼で見つめる彼の瞳が、本当の意味で輝くのは、
ヘレンたちが決して行く事の出来ない、戦場の空気と記憶に包まれている瞬間だけなのだ。
常に兄のことを考え、兄の身を心配しているヘレンにとって、
それは何という残酷な事実であったろうか。
「……そんなに、死にたいのですか……?」
「ヘレン?」
「お姉様?」
ぽたり、ぽたり、――。
ヘレンは哀しかった。ただ無性に哀しかった。
涙が零れ落ちるのも構わずに兄を睨みつける。
「おい、ヘレン、何で…お前が泣いてんだよ…?」
「そんなに、そんなに、死にたいんなら! もう死んじゃえバカァァ!!」
「オイ、待てって! 待てよヘレン!!」
しかし、そんな兄の声も届かず、彼女はグレイスの部屋を飛び出していた。
そのまま階下へ駆け下り、呆気に取られる侍女やメイドたちを突き飛ばし、
彼女は中庭の雑木林まで走り続けた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、……ぐすっ! んっ、うっ、ううっ……」
涙は止まらなかった。
取り敢えずハンカチで顔を拭う。
兄には、自分の心など分からない。いや、理解しようとすらしていない。
彼が出征している間、この家で独り、兄を待つ自分がどれほど不安と寂寥に心痛めていることか。
そして、ようやく半死半生の身で帰ってきたと思ったら、またもや心を戦場に飛ばし、
自分たちの想いなど、まるで歯牙にかけない。
「おにいさま……」
ヘレンには、もう分かっていた。
兄――グレイスにとって戦以外の事など、まるで眼中に無いのだという事が。
無論、ヘレンが彼の妹である以上、兄と結ばれる事など、
法律上でも道徳上でも有り得る事ではない。
それはいい。その覚悟はもう出来ている。
しかし、それ以上に、兄は自分の事など、口うるさい家族の一人くらいにしか認識していない。
その事実が、ヘレンの心を何より哀しませるのだ。
気が付いた時には、小雨が降っていた。
ヘレンは、しかし屋敷に帰る気にはなれなかった。
少し歩けば、池に出る。
そこには東屋があり、ちょっと座れるようなベンチもある。
そこまで移動しよう。
そう思って足を進めた彼女は、その瞬間、自分の背後に気配を感じた。
「誰っ!?」
反射的に振り向いたその先に立っていたのは、腰まで伸びた金髪の女だった。
「そんなにアニキが欲しいのかい?」
「なっ、何を言い出すのっ!?」
「しっかり、見させてもらったよ。一部始終をね」
「なっ、何ですってぇ!?」
女にそう言われて、ヘレンは思わず耳まで真っ赤になる。
「そうだよねえ。泣くほど恋しい男でも、そいつが実のアニキだって事なら、話は別だ。
人としては諦めるしかない。人としてはねえ……」
女はそう言いながら、輝くようなプラチナブロンドをかきあげる。
前髪の下から現れた顔は、彼女がこれまでの生涯で見た事が無いほどの美女だった。
「あなた、誰なの……?」
少なくとも、この屋敷に仕える女ではない。しかし、いくら怪しい女だといっても、
ただそれだけで取り乱し、大声をあげて騒ぐつもりは無い。
そんな事はヘレンの気位が許さなかった。
「お答えなさい。あなたは一体誰なの?」
「そんな事を訊いてどうするんだい?」
「ここは、我がクリムゾン侯爵家の敷地内です。素姓の知れない者がうろうろしていい場所では
ありません。さっきの無礼は許してあげます。さっさとここから立ち去りなさい!!」
「はっはっはっはっはっ! すごいすごい、さっきまでの恋する女が、まるで別人だよ!」
「何が可笑しいのです!!」
恥辱に顔を赤らめさせながらヘレンが叫ぶ。
「安心しなよ、お嬢ちゃん。あたしゃ、あんたの敵じゃない。むしろ味方さ。
恐らくはこの世でたった一人のねぇ」
――味方?
「どういう意味? 味方って、一体あなた何を言ってるの……?」
「だァから、あんたの愛しのアニキ様との想いを叶えてやるって言ってるのさ。このあたしがねぇ」
なっ……なんですってぇ……!!??
女の言い出した内容の、あまりの無茶苦茶さに、唖然としてしまう。
そんなヘレンを横目に見ながら、女はニヤリと笑った。
「あたしの名はハブロー。ハブロー=アイアコス。覚えておいで」 |