夕食を食べて、母親と一言二言はなした後、早百合は階段を昇る。
ぎぃしぎぃしと鳴る木の板の音を聞きながら、早百合は今日のことを考えていた。
良樹のこと、しずるのこと。そして、自分の気持ちのこと。
しかし、もう吹っ切った。
もう早百合にとって、しずると良樹がもうどれほど愛し合おうが、勝手だと結論付けた。
早百合はしずるを本当には嫌いになれないし、逆も然り。
ふぅと息を吐くと、早百合は自分の部屋のドアを開けて自室へ入る。
ベッドにうつ伏せで倒れこむと、そのまま数分間白いシーツを顔に押し付けて気持ちを整えた。
けだるげに体を起こすと、早百合はゆっくりとした動作で立ち上がり部屋の隅にある勉強机へ。
椅子に座るともういちどぎぃしと音が鳴った。小学校から使っている机。
しばらく座って何もせず虚空を眺めていた。
早いけどもう寝ようか、と早百合がもう一度立ち上がろうとした。
せつな。
りぃん。
「え?」
鈴の音が響いた。あの、いつも聴いていたあの音。
早百合はぴくりと反応した。いや、聞き間違いかもしえないと頭を振る。
りぃん。
しかし、もう一度。今度ははっきりと鳴った。あの鈴だ。あの、燕尾色の鈴の音。
音は近い。部屋の中から聞こえていた。
「な……なんで? なんで鈴の音が?」
あの鈴は捨てたはず、と早百合は呟く。学校の草がぼうぼうと生えた茂みに投げたハズだ。
こんなものは必要ないと、こんなものはあってはならないと、
襲い来る情欲をかなぐり捨てて鈴を投げた。もう二度と見ることは無いと思っていた。
しかし、鳴る音の響きは間違いなくあの鈴だ。
早百合は神経を尖らせ聴覚に意識を集中させる。
りぃん、りぃんと断続的に鳴る鈴は心臓の鼓動の脈動に似ていた。
りぃん、りぃん。
耳に届く鈴の音。
机の中から響いている。まさか、早百合は思い切って、勉強机の一番上の引き出しを開けた。
りぃんっ!
引き出しを開けた瞬間。音はひときわ甲高い音を響かせて、止んだ。
そして、引き出しの中には
捨てたはずの燕尾色の鈴が、にたりと笑ったように鈍い光を照らしていた。
「……!!」
途端、早百合の体に浮かんだのは恐怖。背筋が凍ったようにピキリと音を立てて寒気が起きる。
「な、なんでこんなところに!?」
鈴を掴んで顔の前まで持ってくる。燕尾色に光る鈴は間違いなく早百合が今日捨てたもの。
まったく同じものだった。
ようやく、鈴の呪縛を解いたと思った。いや、呪縛という自覚はあまり無かったが、
これを捨てれば全て解決すると思っていた。
しかし、違う。そこまで単純ではないらしい。早百合は鈴をじっと見つめる。
鈴の円形に写る自分の姿がぐにゃりと歪んで見える。
「……なに」
鈴が移動している。そして、すべて自分の元へと帰ってきている。
早百合は部屋の窓を開けると、もういちど鈴を握り締めて夜の闇の中へ投げた。
りぃん。
闇の中へ消えていく鈴。一度だけ音が響き、そのまま消える。
「……」
しかし、投げた後も早百合の気分は晴れなかった。
早百合は薄々確信していた。あの鈴は程なくして戻ってくるということを。
「しずるさんに相談しないといけないわ……」
もはや自分の手に負えそうも無い。
それよりかは、この鈴を早百合に渡した張本人、紅行院しずるに連絡するが一番の解決策だ。
彼女は何故早百合にこの呪われた鈴を差し出したのだろうか?
彼女は何かの思惑があって早百合に渡したのか? それだったら一番の責任はしずるだ。
だが、可能性としてしずるがこの鈴の隠された魔力に気付いていないということもありえる。
が、いまは責任云々よりも解決策。この鈴をなんとかする。
そう、魔力を沈静化させなければならない。
でなければ、帰ってきた鈴はまた自分を甘い呪縛で縛り付けるだろう。
そうして得るものはなんだ?
しずるに嫉妬して、良樹を独占し、そのまま依存して……、破滅だろう。
早百合は、学生カバンに入っていた携帯電話を取る、
買ったばかりの携帯電話のメモリから紅行院しずるの名前を探す。
『か』行をサーチするが、二名しか並んでいない苗字の列の中に紅行院という苗字は無い。
次に『さ行』からしずるという名前を探すが、これも同じく無かった。
そこで早百合は気付いた、しずるが携帯電話を持っていないということを。
「しまったっ。忘れてたわ……」
本当に焦っていたようだ。早百合は携帯電話を閉じてベッドへ放り投げた。
今すぐにでもしずると連絡を取りたい、が、携帯電話は持っていないし、しずるの家もわからない。
できれば直接に会いたい。会って全てをぶちまけて相談したい。
早百合は唇を噛んで、部屋の中を見渡した。
なにかしずると連絡を取れるようなアイテムは無いかと思ったが、
そんなものは部屋の中にあるわけが無かった。
唯一、プリントの束が机の下にあった。これをのろしとして利用すればしずるが気付いて
来てくれるか? と一瞬だけ考える。無理だった。
本棚から学級名簿を探してみるも、最近の学級名簿には物騒な世の中のためか住所は書いていない。
それ以前にしずるとは別のクラス。
誰か知り合い経由でコンタクトを取れないかと考えて、
「あっ!」
早百合は身近な人物を思い出した。
「良樹っ!」
そうだった。しずるの恋人の良樹だ。
普通ならすぐに思い至るはずだった。しかし、鈴の洗脳やらと考えて無意識のうちに
良樹との溝を作ろうとしていたのだろう。良樹の名前が出るのに時間がかかった。
しずると一番太いつながりを持っているのは良樹に他ならない。電話で連絡はできなくても、
良樹ならなにかしらのホットラインを知っているだろうし、
もしかしたら今良樹の家へいるのかもしれない。
早百合は息を巻くと、先ほど投げた携帯電話をつまみあげて良樹の番号を押した。
ぴぴっと鳴るプッシュ音。ディスプレイに発信中の文字が出ると、
急いだ様子で早百合はスピーカーを耳元へ押し付けた。
刹那。
りぃんりぃん。
「!!!」
耳元から聞こえたのはあの、鈴の音。
早百合の体は固まった。
りぃん、りぃん。
これは発信音なのか? いや、そんな設定にした覚えはないし、この音は間違いなくあの鈴だ。
スピーカーから流れる音に早百合はきることもできず、ただ予想外の事態に体を硬直させていた。
りぃんホりぃんシりぃんイりぃん。
「……あ、あう……」
耳元で響き続ける鈴の音に、はじめて言葉が混じり始めた。
甲高い鈴の音の中で心の奥底にささやきかけるような低い低い声。
りぃん ホ りぃん シ りぃん イ りぃんりぃん アノ りぃん ヒト りぃん ノ りぃん
スベテ りぃん ガ りぃん ホシイ りぃん……。
りぃん アノヒト りぃん ノ りぃん スベテヲ りぃん ワタシ りぃん ニ りぃん ヨコセ!
りぃん りぃん
早百合の脳髄へ響く音。
そして、暗示。低い声だが、なぜかその声は女性の声だと早百合は意識の奥で気付いた。
りぃんりぃんりぃんりぃんっっ!
「や、やめて……」
早百合は鈴に懇願するように呟く。しかし、そんなセリフを無視するように、
スピーカー越しの鈴の声は激しさを増してゆく。
りぃん ホシイ りぃん アノヒト りぃん ホシイ りぃん ホシイ りぃん ホシイッ! りぃん
「ぁぁあうっ! ……ああぅ!!」
しかし、耳元で直接語りかける言葉はそんな早百合の意識を真っ白へと変えてゆく。
真っ白になった早百合の脳内のキャンパスへ、鈴の音がスプレーで乱暴に塗りつぶしていく。
どす黒い色をした情欲と憎しみの色。
脳内が汚染されるたびに、早百合の心の奥から今度は情欲が湧いてくる。
「あぅえ……っ、 ぅへぇっ……、 うぅあえへぇへぇ……!」
そして、鈴の音と連動するように、下腹部の奥から快楽の疼きがはじまる。
まるで何かを抜き差しされているようにピストンで突かれるように、
鈴の音にあわせて快楽の刺激が早百合を襲う。
りぃん ヨシキ りぃん ホシイ りぃん ヨシキ りぃん ホシイ りぃん ヨシキ りぃん
スベテガ りぃん ヨシキヨシキヨシキヨシキ!!
りぃん ニクイ りぃん マジョ りぃん しずる りぃん ニクイ りぃん ニクイ りぃん
マジョノ りぃん スベテガ ニクイニクイニクイニクイ!!
携帯電話を片手に掴んだ早百合の表情は悦楽に病んでいた。
顔は真っ赤になり、焦点があっていない目は白目をむき、
半開きの唇からは唾液がぶしゃりと出しっぱなしだ。体も火照ったように熱くなり湯気がたちこめる。
スカートの奥なんてこの数秒の出来事でぶしゃぶしゃだ。
すべての鈴の攻撃を跳ね除けた早百合だったが、この攻撃にはなにも抵抗できなかった。
白みがかかった視界。すべてを忘れるような悦楽、脳内へ植えつけられていく暗示と鈴の音に、
早百合の脳髄はとろけだし意識はかすんでゆく。
まるで薬物。まるで麻薬。まるで、
インストール。
これは、鈴が、意識を、のっとり……、ワタシを、ケしテ、しょうきょシテ、うえかラ、すズが、
うヒャ、ヒャゥ、ヘウァ、ヒャぁ……。
りぃんりぃんりぃんりんりんりんりんりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりっっ!!
「えひゃぁぁぁ! よぅぉぅぃおしぃああえんきぃぅああぇぅぉぅしぃぃぃぃ
ぁぅえじゃんぅあそかぃあじぃいぃぃ!!」
りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり
りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり
りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり
りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり
りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり
りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり………。
ひゅるり。
「ヨシキ、愛してるわよぉ…、良樹ぃ、良樹ぃ。私ねぇ、良樹のことがずっとずっとずっとずっと
中学生のときから小学生のときからあなたに会ったときからずっと好きだったの愛していたの
思い続けていたのでもね私はね臆病でした怖がりでした良樹を好きなことを隠してました中学生、
小学生のときからあなたの優しさが嬉しいはずなのにあなたの優しさを独占したいのに、
あなたに思いをぶちまけることであなたとの関係がくずれることが怖かったのだからわたしは
あなたの横にいるだけでいいと思ったあなたといちばんのともだちでいることが望みだったわ
こんな単純な気持ちに今頃になって気づくなんてわたしってば鈍感よね
えへへでも良樹も悪いんだよ? そんな気じゃないのに私に優しくしてくれて知ってるよ
中学生の頃あの疎遠だった頃今考えれば地獄だった頃、
あなたと私がほとんど口をきかなくなっていたかった頃だよ
私がいじめられていたのを良樹はなんとか庇おうと先生やクラスメイトたちに
働きかけてくれたでしょそれも私に気付かせずに、そうやって自分の手柄を見せないように
私を助けてくれたこと知ってるんだよ、今でも感謝してるんだよ
私の中であなたが特別な存在へとなっているのに私はあなたが恋人ができたといわれて
初めて気付くことができたのしずるさんが現れて初めてこの想いに気付いたの
えへへえへへへへへへへ遅いよね遅すぎるよね
私も諦めようと思ったよでも諦め切れなかったわあなたのことを愛しそうに喋る魔女や
あなたを見ていると私はとても切なくなるの寂しくなるの憎たらしくなるの魔女のいる居場所は
私の場所なのよと叫びたくなるの
もう限界なのだから魔女さん紅行院しずるさん 死んで死んで死んでください消えてください
居なくなってください臓物をぶちまけて電車のホームに轢かれてくださいオマエのような
泥棒猫なんぞに良樹を渡すか
そのスカした顔がイラつくんだよ憎たらしいんだよ殺したくなるんだよなにが愛しい人だよ
オマエが愛しい人なんて生ゴミを漁る卑しい卑しい鴉で十分だこの鴉女あなたが良樹とつりあうなんて
本気で思っているのまったくそうだとしたら自意識過剰だわ良樹のことをなにも分かっていないわ
まったくお願いだから魔女さんもう一度言うけど、しつこいようだけど、
私からのお願いだけど本当に死んでくれないかしら?」
早百合は夜の道を歩いていた。
良樹への愛のささやきとしずるへの憎しみの言葉を呪文のように呟き、
ひたりひたりと一歩づつ良樹のマンションへと近づいていた。 |