INDEX > SS > 赤い瞳と栗色の髪

赤い瞳と栗色の髪



10

「はぁ…っ、はぁ………。」
「な、七原さん大丈夫ですか?」
全身から汗が噴出し、膝は小刻みに震えている。
そんなかっこ悪い、疲労困憊といった様子の俺の肩に手が添えられる。
優しく、暖かい掌。
黒ぶち眼鏡から覗く澄んだ瞳が心配の色に染まる。
「すみません葵さん、遅れましたか…?」
息も絶え絶えに、俺は葵さんに尋ねる。
「いいえ、私も今来た所ですから。」
にっこりと優しい微笑みを返してくれた。どうやら気を遣ってくれたわけではなさそうだ。
「はあぁぁ………よかった……。」
安堵と同時に、どっと疲れが押し寄せてきた。
俺は尻餅をつき、熱いアスファルトに手をつける。
「ホントに大丈夫ですか?辛かったらこのまま帰っても…。」
「いえ、大丈夫ですから安心してください。ただちょっと疲れただけです。」
心配そうに顔を曇らせる葵さんに力なく笑いかける。
「朝少し色々あって、それで遅れそうになって…………あっ。」
その時、バスが走る音が聴こえてきた。
「丁度来ましたね、行きましょう葵さん。」
俺はずっと休んでいたい気持ちを抑えながら立ち上がる。

田園風景が流れていく。
バスには相変わらず人は殆どいない。
まるで俺と葵さんの貸切バスみたいだ、などと気恥ずかしい事を考えてしまう。
そんな気持ちを紛らわすように隣の葵さんへと視線を移す。
――目が合う。
それだけで俺の心臓は早鐘のように鳴り響いた。
「もう大丈夫ですか?」
「え…は、はい。もう大分落ち着きました。」
成る程、そうか。ずっと俺の事を心配してくれていたのか。
葵さんの優しい心遣いに胸が温かなる。
「よかった、心配したんですよ。」
「すみません、心配かけちゃって。」
「いえいえ、大丈夫ならそれでいいんです。」
相変わらず足は痛いけど、葵さんの柔らかい微笑みを見ているだけで癒される。

…そうだ。
「葵さん、昨日絵本見させていただきました。」
「どうでした?何か記憶に繋がるものは見つかりました?」
「残念ながら……何もわかりませんでした…。」
「そっか、まああれはただの絵本ですから…。何か見つかるわけない、かな。」
「でも俺は、そんな事よりも嬉しかったんです。あれが…葵さんの思い出の絵本なんだって思うと、
なんか無性に嬉しくて。」
葵さんの大切なものを共有出来た。
些細な事だけど、俺はそれが堪らなく嬉しかったのだ。
葵さんは少し照れた様子で頬を掻くと。
「………うん、大切な、思い出なの。」
懐かしさと嬉しさが籠められた、小さな呟きを漏らす。
「七原さんは大切な思い出ってありますか?」
「大切な思い出ですか…。」
記憶を辿ってみる。
…楽しい事や辛い事、沢山あったけど…。
大切というと、よくわからないのが本当のところだ。
それに俺は何か大切なものを忘れているような気がする。
今朝見た夢、内容はよく覚えてないけど、何か大切なものだったような気がする…。
俺にとってそれが大切な思い出なのだろうか…。
「…あの…、大丈夫ですか? 私何かまずい事でも…?」
どうやら俺は真剣に考え込んでしまっていたらしい。
葵さんが心配そうにこちらを見てくる。
「あ、大丈夫ですよ。中々思い出せなかっただけですから。」
そう言って明るく笑ってみせる。
葵さんもつられるように微笑み、それから俺達は会話に花を咲かせた。

俺達は終点に着くまで色々な話をした。
そして葵さんの事も少しだけではあったが、事情を知った。
葵さんは転勤の多い親とは離れて暮らしているらしくて、行く行かないで随分揉めたそうだ。
何度も説得されたみたいだが葵さんは頑なにこの村に拘った。
大切な友達がいるから離れたくない、その一心で。
その時の事を語る葵さんの目は誇らしげで、輝いて見えた。

「じゃあここで。」
「はい、仕事頑張ってください。」
「うん、ありがとう。」
そう言って葵さんは図書館の裏口へと向かう。
「さて…どうするか…。」
時間は9時半。
仕事中の葵さんに話しかけるわけにもいかないし、ずっと見ていれば多分気づかれる…。
桃太はまだ来ないだろうし…。
…でもこのまま何もせずに桃太を待つのもなんか嫌だな。
「入るか…。」
まあ何か面白そうな本でも探してみるかな。

「よぉ、ちか。」
不健康そうな容姿にはあまり似合わない、陽気な声と笑顔。
「な、何で居るんだ!?」
ついさっきこんな時間に居る筈がないだろうと思っていた人物は、
ごく当然のように昨日と同じ机に本を散乱させ、眼鏡の奥からニヤニヤとした表情を俺に向けている。
「何でって、来たから居るに決まってるだろ?」
だが確か、あのバスは俺が乗ってきたので始発だった筈。
…こいつはどうやって来たんだろう…。
唖然とする俺にからかうかのような視線を向けながら、桃太は向かいの椅子を手で薦める。

「で、今日の朝はお楽しみだった、ってわけだな。」
「!?!??!!」
俺は思わず硬直し、一瞬で顔が沸騰したかのような感覚が襲う。
「アハハッ、俺が知ってるのが意外か?」
「あ、当たり前だ!!誰にも言ってないんだぞ!」
「言わなくたって解るさ。お前の昨日の態度といい、今日の態度といい…。バレバレ。」
「ぐっ……。」
バレバレ………。そんなに俺は解りやすいのか。
「ま、存分に青春を謳歌しろよ。俺の分まで、さ。」
「…自分の分位自分でしろ。」
「そりゃそうだな。」
終始おどけた様子の桃太に多少の苛立ちを覚え、少し乱暴に椅子へ座る。
「で、そんな話しにきたんじゃないだろ。」
「はいはい、わかってるって。」
そう言うと、先ほどの意味深な笑みは消え、真剣な顔つきで静かに言葉を紡いでいく。

「ハッキリ言うと、特に目新しい情報は無かった。
殆どが既存の資料ばかりでな…。
まあ、蔵の方も調べてみれば何かみつかるかもしれないが、その場合だと結構時間かかるぞ。」
「いや、時間がかかっても構わない。頼む…。」
「ああ、蔵は立ち入り禁止だったんだが、俺ももう18だ。そろそろ…平気だろう。」
「お前18だったのか!?」
「言ってなかったか?」
言われてみれば、俺より幾分か大人っぽい気がするが…。
てっきり同い年だと思っていた俺には意外だった。
「18になって、やっとちゃんとした跡取りとして見られるようになったから
色々やりやすくなったよ。」
「じゃあ蔵に入れるのはそれのせいか?」
「ああ…、何せ鍵は代々頭首が持つって決まりがあるらしくて、
昔は色んな手を使って手に入れようとしたんだけどどれもダメでなぁ…。」
どこか遠い目をしながら語る。
昔から蔵へ入りたかったのだろうか。
さっきから桃太は蔵の事となると目が輝いているような気がする。
「ま、とりあえず期待して待っとけ!」
「ああ、期待してる。」

ぱたん。と、桃太は開いていた本を閉じる。
そして今までの真剣な表情を崩し、ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべる。
「真面目な話はこれで終わりだ。次はお前が喜ぶ話をしてやろう。」
「喜ぶ話?」
「明日、布袋は休みだ。」
「そりゃ休みもあるだろう。」
「…はぁ、お前な、好きな子が何も予定が無いって事実をもう少し喜べよ。」
「い、いや、そんな事言われてもな…。」
「予定が無いって事は、もし遊びに誘ったら了承してくれるかもしれないだろ。」
人差し指を俺の目前に突き立て、桃太は続ける。
「つまりだ!デートが出来るかもしれないって事だ!」
「なっ!?」
デートだと!?
俺があの葵さんとデート!?
今までデートの1つもした事の無い俺が葵さんと!?
俺は混乱した頭をどうする事も出来ず、ただ唖然とし、固まってしまった。

「そこまでビックリする事でもないだろ。」
呆れたような、だがどこか微笑ましいものを見るかのような表情の桃太。
「だ、だって…あの葵さんと………。」
「いいじゃないか。俺から見たら布袋も満更じゃ………。」
桃太はチラリと時計に目を落とすと。
「布袋はそろそろ来るんじゃないか?もうすぐ昼休みだ。」
「えっ!?」
「好きなんだろ? だったら、ちゃんとその気持ち大事にしろよ。」
「あ、ああ…。」
デートに誘う、か…。
葵さんは優しい、もしかしたらOKしてくれるかもしれない。
だがそれは葵さんの優しさに付け込んでるだけな気もする…。
…でもせっかく桃太が教えてくれたんだ、覚悟…決めてみるか。
俺は1つ深呼吸をし、乱れた心を落ち着かせる。
「…ありがとう。来たら、誘ってみる。」
「頑張れよ。 …っと、来たみたいだな。」
桃太の視線の先に目やると、二つに結った髪を揺らしながら早足で駆けてくる葵さんがいた。
「お疲れ様です葵さん。」
「お疲れ。」
「2人ともありがと。」
葵さんはにっこり微笑み、俺の1つ隣の席に座る。
俺は意を決し、葵さんに話しかける。
「あ、葵さん!」
「え、はい?」
「明日、何か予定はありますか?」
「予定ですか? 特にこれといったものはありませんけど…?」
「あの………。」
「はい?」
胸が苦しくなる程に高鳴る。
「なんでもないです。」と言いたくなる衝動を必死に抑え、言葉を続ける。
「明日、一緒にどこかに行きませんか!!」
「…はいっ!?」
一瞬で真っ赤になる葵さん。
恐らく俺も同じような顔をしている事だろう。

「よかったらでいいです。嫌でしたら遠慮なく断ってくれても……。」
「え、そ、そんな嫌というわけではなくて……ただ………。」
「ただ?」
「……それって、デート…でしょうか…?」
小さな、搾り出すかのような呟く声。
葵さんも俺同様、恥ずかしいのだろうか。
「…そ、そういう事に…なりますね…。」
緊張のあまり、ぎこちない返事しか出来なくなってしまった。
「で、デートは…その……。 そういうのは………。」
葵さんは俯き、小声で「ごめんなさい。」と続ける。
「い、いえ、謝らないでください。 元はと言えば俺が変な事言い出したんですから…。」
そう言うしかなかった。
わかってはいたんだ、葵さんが俺なんかとデートする筈ないって。
でももしも、もしかしたらデートしてくれるかもしれない…。
その気持ちをとめることが出来なかった。
俺は深く後悔しながら、無理に笑顔を作ってみせる。
「…七原さん…。」
「だから気にしないでください。葵さんが気にする事じゃありませんよ。」
「………あのですね、七原さん。」
「は、はい…。」
「私、確かにデートは…ちょっとあれですけど。
でも友達として遊びに行くくらいでしたら………いい、ですよ。」
「え……?」
一瞬、意味が理解できずつい聞き返してしまった。
「ですから、デートじゃなくて…、遊びに行くのでしたら、行かせてもらいますという事です。」
「そ、それ…ホントですか…?」
「はい…。」
頬を染めながらそう葵さんは呟く。
例えデートじゃなくても葵さんと2人っきりで出かけられる。
それを葵さんが了承してくれた。
…未だに信じられない。
「な、七原さん?」
固まってしまった俺を葵さんは心配そうに見つめる。
「あ…………よ、よろしくお願いします!!!」
俺は勢いよく頭を下げ、その声は図書館中に響き渡った。

…明日、9時にバス停。
葵さんは本が買いたいとの事らしいから、本屋巡りを予定している。

暖かい湯に浸かりながら、未だに夢ではないかと頬を抓ってみる。
痛い。多分夢ではない。
家に帰ってからも、ずっと明日の事ばかり考えていて何もかも上の空だ。
…流石に熱くなってきた。出よう。

風呂から上がり、扉を開ける。
脱衣所の洗濯物が入ったカゴの前に栗色の髪。
「…な、何してるんだ?」
「え、ちーちゃん!?」
若菜は慌てて俺の方を振り向く。
「…うわぁぁぁ!!!」
「きゃぁぁぁぁ!!!」
俺達はお互いに叫び声を上げ、若菜は顔を真っ赤にしながら走り去ってしまった。
…見られた、のだろうか…。
「はぁ…。」
深い溜息をつく。
ふと、疑問が湧いてくる。
「あいつは何してたんだ?」
脱衣所に用があるとも思えないし…、それに振り向いた時に何かを後ろに隠したような気が……。
……まあ気のせいだろう。
女の子には色々あるのだろう、恐らく、多分。
俺は深く考える事はせず、タオルを手に取った。

居間には案の定、決まりの悪そうな表情の若菜が居た。
俺も見られてしまったという恥ずかしさからか、話しかける事はせずテレビに目を向ける。
おばさんは風呂に入っている。
気まずい空気の中、テレビの音だけが部屋に響く。
「……ちーちゃん。」
沈黙に耐えかねた若菜が口を開く。
「な、なんだ?」
「…ちーちゃん、今日帰ってきてから変だったよね…。」
さっきの事を言い出すのかと思ったら、突然突拍子も無い事を言い出した。

「変って、どういう意味だ?」
確かに今日はずっと上の空だったかもしれない。
でもその理由を言う気にもなれず、そっけなく言葉を発する。
「変なのは変だよ。だって、私が話しかけてもずーっと違う事考えてるみたいだった…。」
「そ、そんな事ないって…。」
相変わらず若菜は鋭い。
「私が、間違えると思うの?ちーちゃんの事で。」
何も読み取る事の出来ない、暗い瞳で見つめられ、俺は背筋に寒気が走るのを感じる。
「私が間違えるわけないじゃない、ちーちゃんの事なんだよ?
私が一番よくわかってるの、他の誰でもない、私が一番なの。
そんな私が言ってるのに、否定するの?
ちーちゃんは私を信じてないの?
信じてるならちゃんと答えてよ。どうして今日変だったの?
私ずっと気になってたの。気になりすぎてご飯も喉を通らなかったんだよ?
だから教えてよ、私を安心させて。
どうして?どうしてなの?何を考えてたの?私との会話以外に何を優先させていたの?」
「う………。」
その声は静かなものだった。
けど、何か得体の知れないモノを感じ、思わず汗が頬を一筋流れる。
「………どうせ、あおちゃんの事なんでしょ……。」
どこか冷ややかな声で言い放つ。
「ど、どうしてそうなるんだよ…。」
若菜に気圧され、声が裏返ってしまった。
「…明日、あおちゃん休みなんだよね。ちーちゃん知ってた?」
「さ、さあ…知らないな…。」
白々しい嘘をつく。
若菜に嘘をつくのは何度目だろうか。
「じゃあ明日は私と出かけられるよね?」
「それは………。」
「ダメなの?何か予定が入ってるの?どんな予定、なのかな?」
何もかもお見通し。そんな微笑を湛え、試すかのように聞いてくる。
「………。」
「また黙っちゃうのぉ?ちーちゃんって相変わらず。」
クスッと微笑むと、若菜は立ち上がる。
しばらくすると玄関のガラガラという音が聞こえてきた。
「なんだったんだあいつ…。」
若菜は意味深な瞳で俺を見つめた後、出て行ってしまった。
「…まあいいか…。」
とりあえずこれで危機は脱した筈だ。
ほっと胸を撫で下ろし、畳に横になる。

「はぁ〜、いい湯だったわぁ〜♪」
何時にも増して色っぽさの増したおばさんが冷蔵庫を物色している。
「ん〜?何も無いわねぇ…。」
「何探してるんですか?」
「明日休みなのよぉ。だからお酒でも飲もうかなーって思ったんだけど…。」
「…無い、ですか?」
「…うん。」
おばさんは心底残念そうに肩を落とす。
と、その時―――。
「栄子さぁ〜ん!」
玄関が開く音と共に、先程出て行った筈の若菜がやってきた。
「あら、家に帰ってたの?」
「はい、これ、持ってきたんです。」
若菜はそう言うと、手に持っていた大きな瓶をおばさんに見せる。
「こ、これは…!」
「おばさんの大好きなお酒、持ってきましたぁ。」
「若菜ちゃん…!」
「今日は私も付き合いまぁす。お酒は飲めませんけど、おつまみ位でしたら作りますよぉ。」
「うん!ありがとう!」
…なんかよくわからんが、若菜はお酒を持ってくる為に家に戻ったって事なのか?
それなら…別にさっきの事はもう気にしてないって事だよな。
俺は一安心し、嬉しそうなおばさんに声をかける。
「よかったですねおばさん。 じゃあ俺はそろそろ…。」
時計の針は8時を指している。
ちょっと早いけど、明日は寝坊するわけにはいかない。
俺は立ち上がろうとする――――が。
「どこ行くのかなぁ?今日はせっかく若菜ちゃんがおいしーお酒持って来てくれたんだから、
当然ちか君も付き合うのよねぇ〜♪」
「ええっ!?」
おばさんは俺の腕をがっしり掴み、座らせる。
若菜が手早く三人分のコップを持ってくる。
「さっ、じゃんじゃん飲むわよ〜!!」
「お、俺未成年ですよ!?」
「いいのいいの、固い事言わないのぉ。」
俺の前に置かれたコップに透明の液体が注がれる。
お酒独特の臭いが、俺に飲めと言っているかのようだった。
「若菜ちゃん!どんどん料理出して!」
「はぁ〜い♪」
「さあ………飲むわよちか君!!!」
「う、うわぁぁぁぁ!!」
俺は無理矢理酒を飲まされ、意識は混濁していった。

これが誰の策略だったのか、それともただの偶然なのか。
考える余地すら与えられないまま、一方的な宴は何時間にも亘り続いた。

11

窓からは太陽が覗き、気持ちのいい日差しの中、俺は目を覚ました。
だが俺の目覚めは気持ちのいいものではなかった。
「…あったま…いた……。」
頭を内側からガンガンと叩かれているかのような鈍い痛みが走る。
昨日おばさんに無理矢理飲まされたせいで二日酔いになったようだ。
「…最悪の気分だ…。」
痛む頭を抱え、ふと気づく。
「……あれ?今何時だ…?」
悪い予感が頭を過ぎる。
「まさか……!!!」
俺は慌てて携帯を探すが、いつも置いてある枕元にはなく。
部屋を見回して見ても携帯の影すらなかった。
「と、とりあえず時計見ないと!」
時間が惜しかった俺は携帯を諦め、バタバタと騒がしい音を立てながら居間へと降りる。

「い、今何時!!」
居間に居るおばさんと若菜の返事も待たず、壁に掛けてある時計を見る。

時計の針は10時を過ぎていた。

「ちーちゃんおはよぉ〜♪」
呆然とする俺に構わず、若菜は能天気な声をあげる。
ニコニコと、朝という時間に相応しいすがすがしいまでの笑みを浮かべながら。
「ちか君どうしたの?」
そんな若菜とは対照的に、心配そうな声色のおばさんが俺の顔を覗き込む。

胃の辺りが熱い。
心臓が鷲掴みされたかのように胸が痛む。
不快感が押し寄せて、冷や汗が全身から滲み出て更に不快感が俺を包む。
焦りと後悔、今の俺の心にはそれしかなかった。
当然おばさんの声など全く聞こえている余裕などなく、おばさんは益々心配そうな表情を見せる。
「ねえちーちゃん、どうしてそんな顔してるの?」
腕に細い腕が絡みつく。
きつく、まるで縛り付けているかのようなその感触に不快感を感じる。
だがそのお陰かどうかはわからないが、心配そうに見つめるおばさん。
腕に絡み付いてねっとりとした視線で見上げる若菜に気づくことが出来た。
「ちーちゃんにそんな顔似合わないよ。
  ね、今日一緒にどっか行こう。」
若菜はいつもの花が咲いたような笑みを向けるが、今日は何故か違和感を感じた。
何かはわからない。けど…いつもの若菜とは思えないモノを纏っているような…気がした。
その違和感のせいか、俺の不快感は更に増す。
「…悪い。今日は無理だって言ったよな。」
昨日確かに言った筈、なのに何故若菜はまた誘うのだろう。
すると、若菜はいつもとは違い笑顔を崩さずにこう言った。
「どうして? だって、今日はもう、約束無くなっちゃったんでしょ?」
その言葉に、俺は固まってしまった。
何故若菜がそんな事を知っているのかという疑問を抱きはしたが、
若菜の言葉で自分のした事を思い出してしまったからだ。
約束を破る。最低な事だ…。
固まり、黙ったままの俺に更に追い討ちを掛けるかのように若菜は言葉を続ける。
「約束破るなんて最低だよね。
  知ってる?あおちゃんって約束破るようないい加減な人は嫌いなんだよ。
  きっとすごく怒ってるよね。顔合わせられないよね。」
時折クスクスと笑いながら無邪気に俺の心を突き刺す。
若菜の言う通り、俺は葵さんと顔を合わす資格もない…。
胃がまた熱く、痛みを伴いながら俺の心を深い後悔へと落とす。
「だから今日は私に付き合ってくれても、いいよね?」
若菜は満面の笑みを浮かべ、期待と確信に満ちた瞳で俺の顔を覗き込む。
その瞳を見ていると、付き合ってもいいのかもしれない…と、
すがる様な感情に心が動かされそうになる。
でもそれじゃあ葵さんとは本当に終わってしまうかもしれない。
…約束を破ったんだ、もう何をしてもダメなのだろうか…。
あの優しい葵さんだって人間だ。俺みたいな奴とはもう……。

――あの清楚な微笑みが頭を掠める。

「…わかってる…。でも俺は……。」

葵さんに会いたい。
会って、謝りたい。
あの人の笑顔をまた見たい。
その気持ちを自覚したら、もうやる事は決まったも同然だ。

「ちーちゃん?」
さっきから腕に、心に絡みつく細い腕をそっと取り払い、若菜に向き合う。
「ごめん、今日も行けない。やる事が出来たから。」
そして目の前の相手の言葉を待たず、居間を後にする。
話せばきっと若菜のペースになるだろう。それに今の若菜は見ていたくなかった…。
ずっと昔に見たことのあるような……そう、アイツを髣髴とさせるあの雰囲気…。
多分あれがさっきまで俺に不快感を与えていた原因だと思う。
だから一刻も早く若菜から離れたかった…。
何が起こるかわからなかったし、なにより葵さんと会えなくなるような気がした。

しばらく呆然としていた若菜だったが、慌てたように俺の後についてきた。
「え……。ね、ねぇ、どこ行くの?」
若菜は俺の心情を伺うかのようにパタパタと栗色の髪を揺らしながら俺の顔を覗き込む。
その表情は先程とは打って変わって曇り、不安な胸の内が手に取るようにわかる。
そんな若菜を見るとほんの少しだけ胸が痛むが、今の俺の心は葵さんが優先だ。
何も答えず、階段を上り先程まで俺が睡眠を貪っていた部屋の襖を開ける。

まずは携帯を探そう。
ない、なんて事はないんだ。
そう思い立ち、机、布団の下、旅行鞄の中、ゴミ箱、押入れ…。
色々な場所を探したが、結局見つかる事はなかった。
机とクーラーしかないこの殺風景な部屋には無い、ということか…。
俺は苛立つ心を抑えるかのように軽く溜息を吐き出す。
気を取り直し、旅行鞄から服を取り出し、
部屋には入らずずっと視線を投げかけていた若菜を遮るように襖を閉める。

着替えを終え、出かける準備の整った俺は意気込んで襖を開ける。
「………。」
若菜は何も言わず、どこか遠い場所を見ているかのような瞳で俺に目を向ける。
その瞳に意気込んだばかりの心が萎えていく。
「…じゃあ、俺行くから。」
これ以上あの瞳に晒されるのを本能的に嫌ったのかもしれない。
そう、口から自然と出た言葉は俺を突き動かした。
若菜から逃げるように階段を下り、居間に居るおばさんに
「いってきます、さっきはごめんなさい。」と言い。
そのまま玄関の戸を開く。

俺の心などお構いなしに容赦なく照りつける太陽。
この暑さに俺は勝てるのか…?
…いや、葵さんに謝る為なら何にだって負けはしない!
拳を握り締め、全速力で駆けていく。
当然この暑さだ、汗は額を流れ、頬を撫でる。
肌と服が擦れ、その内に擦れる事もなくべっとりとへばり付く。
だがそんなのに構う事なく、駆ける。
走って走って走って走って走った―――。

肩を上下させ、乱れた呼吸を繰り返す。
待ち合わせ場所だったバス停――。
当然葵さんは居ない。無人の、がらんとしたいつものバス停だ。
「…家の場所とか知ってたらよかったんだけどな。」
自嘲気味にそう呟くと、屋根があるにも関わらず、
太陽に照り付けられている熱くなったベンチに腰掛ける。
「まあ、屋根があるんだ、なんとかなるだろ。」
憎らしいほどに照りつける太陽は屋根で遮られ、安堵の混じった声色で呟く。

葵さんが来るまでここで待つ―――。
それが、俺が葵さんに出来る誠意の表し方だと、その時は思っていた。

外の暑さなど感じさせないクーラーのきいた居間で、心配そうな声が響く。
「どうしたのかしらちかくん…。もしかして何か約束でもあったのかしら?」
「……。」
その問いに栗色の髪の少女は答えない。
「…なんか悪い事しちゃったわね。
昨日羽目を外さなかったらちゃんと起こしてあげられたんだけど…。」
溜息交じりのその声には少年に対する申し訳なさが滲み出ていた。
「……。」
それでも栗色の髪の少女は答えない。
どこか遠い目をしながら……唇を噛み締めた。
その手には少女の物とは思えないストラップのついた携帯が握られていた――。

2007/06/21 To be continued.....

 

inserted by FC2 system