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1

 痴情の縺れから生まれる血で血を洗う醜い修羅場。
  そんなものは、やらせ番組やゴシップ誌の中だけに存在するもので、
  実際には滅多に起こるものじゃない。
  ましてや、自分が体験するなんて未来永劫ありえない。
  そう思ってこれまでの三十年を生きてきた私だったが、

「あなたっていう人は……! あたしという妻がありながらッ! 子供まで作っておきながらッ!
  あんなメスブタに誑かされるなんて!!」

「おおお落ち着け落ち着こう落ち着くんだ、亜美! とりあえず、危ないから包丁は置こう。
  あと佐奈が起きるから静かに、な?」

 ただいま、修羅場の真っ最中でございます。
  こうなった原因は、私の浮気にある。全面的に私に悪いのだから、言い訳はしない。
  だが、今はなによりもまず、喉元に刺身包丁を突きつけている、結婚五年目の我が妻を
  説得しなければならない。
  殺されるのも殺させるのも勘弁だ。

「許さない……。絶対に許さないんだからッ!! あなたも! あの女も!」

 無理、かな……?

「待てって! 話せば分かるから! 落ち着いて話し合おう!」

「五月蠅い五月蠅い五月蠅ァァァアアアい!! 他の女に盗られるくらいならッ!」

「あ――――」
 
  よく砥がれた刺身包丁は、それが本来の用途であるかのごとく私の喉笛を刺し抉った。
  致命傷だと直感する。
  数歩よろめいて、身体は床に崩れ落ちた。
  喉が――――冷たい。
  痛いとも熱いとも感じなかった。
  どうやら、私の神経はもうまともに感覚を伝えることができないらしい。
  髪を振り乱し、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゅにした亜美が泣き縋る。

「イヤァァアアッツツ!! 死なないで、死なないであなた! 死んじゃ嫌よ!
  私を残して逝かないでぇえ!!」

 自分で刺したくせに、死なないでとは身勝手な。
  そう思った次の瞬間、私の意識は闇に喰われた。

 死んだ。

 

 誰だって、一度は考えたことがあるだろう。
『もしも、過去に戻れたなら』と。
  受験に失敗したから、ギャンブルで大損したから、仕事でミスをしたから、
  事故や事件に巻き込まれたから、結婚生活に満足がいかないから、そして、浮気がバレたから。
  考えるに至る理由は多々あれど、この願望には必ず一つ共通の前提条件がつく。
『未来の記憶を持ったままで』という。
  当たり前だ。ただ過去に戻っただけでは、同じ時間・場所・状況に置かれれば、
  また同じ失敗をしてしまう。それが人間というものだ。
  だから、失敗した時の――より正確に言えば、失敗に至るまでの――情報を持ったまま過去に戻り、
『正しい選択』をし直すことを、どんな人間であれ一度は願う。
  とは言っても、そんなものは所詮叶わぬ願い、妄想に過ぎない。
  21世紀になって10数年経ったが、ドラ○もんはおろかア○ムさえ造られていないのだ。
  タイムマシンなんて夢のまた夢。
  そもそも、時間というものを人間が恣意的に扱うこと自体が不可能なのだ。
  「昔に戻りた〜い」なんてことを考えている暇があるのなら、失敗をバネに二度と同じ過ちを
  繰り返さないように、より一層努力するのが常識人として正しいと言える。

 私もそう思っていた。
  思っていたのだが――――

 

「……ぃ、ぉい、おい起きろ!」
「んあ?」

 誰かの呼ぶ声で、私の意識は深遠なる闇の胃袋から吐き戻された。

「やっと起きたか。授業はとうに終わったぞ。単位ギリギリの身にしてはあるまじきお見事な
  眠りっぷりだったな」

 少し霞んだ目に映るのは、縁無し眼鏡をかけた長身痩躯の男。年齢は二十歳くらいだろうか。
  手には六法辞書と刑法の教科書、ノート。典型的な法学部の大学生だ。

 その顔には見覚えがあった。

「南条? お前、南条か!? じゃあここは天国なのか? ――なんでオレまで?
  ……とにかく、お前にまた会えて嬉しいぞ、南条!!」

 立ち上がり目の前の男に抱きつく。
  この男、南条正也は同じ地元の高校からの親友だった。大学卒業後に同期の中では
  唯一人司法試験に合格し、それを祝って開いた飲み会の帰り道、暴漢に襲われ殺された。
  飲み会なんてやらなければ、別の店にしていれば、少し時間をずらしていれば……。
  何度後悔しただろうか。誰にでも気さくに接し、思いやりに溢れ、生きて弁護士になっていれば、
  きっと世のため人のために働いたであろう、この親友が死後に天国でなくて何処に行くというのだ。
  再び会えた親友の姿に、私は歓喜の涙を零したが、南条の反応は全く違った。

「気色悪い、抱きつくな泣くな! ここは天国でも地獄でも煉獄でも辺獄ない!
  寝ぼけるのも大概にしろ。まったく……、どんな夢見ていたんだ?」
「――――ゆ、め?」

 親友が発した単語の一つに私の身体は固まった。
  目の前の男は今なんと言った?

「だって! お前は飲み会帰りに殺されて、オレはさっき刺されて死んだ…………」
「は? どれだけ物騒な夢を見たんだ? 自分が死ぬ夢を見る人間には自殺願望があるというが。
  能天気に見えてそんな悩みがあったのか……」

 迷惑そうだった視線が一転、こちらを気遣うようなものに変わる。
  やっぱり南条はいいやつだ。嫌な夢を見た友人を心配しているのだろう。

 そう、夢を――――。

 言葉の意味を咀嚼し終えた瞬間、私は弾かれたように立ち上がり、辺りを見回した。
  昔流行ったファッションで身を固めた若者たち。ぼろぼろの天井と壁。
  さっきまで座っていた壊れかけの机と椅子。汚い字で黒板に書かれた法律用語。
 
  ――――間違いない。
 
  ここは私が四年間通った大学だ。
  いくらなんでも、ここが天国なわけはなかろう。いや、もちろん行ったことはないから
  断定はできないが。
  ふと視界の隅になにかが映る。
  それは窓ガラスに映る、茶髪で安物のパーカーとジーンズを着た青年の姿。
  紛れも無く若かりし頃の私――――。
  四肢がガクガクと震える。全身から血の気が引いていく。

 

「南、条……」

 聞いてはいけない。だが、聞かなくてはならない。

「今日は……何年何月何日、だ……?」

 私の声は自分のものとも思えないほど、かすれしゃがれていた。
  まるで地獄から黄泉返った亡霊のように。

「合コンのし過ぎで疲れているんじゃないのか? ほどほどにしておけよ」

 心配そうにそう言ってから、南条は『今日』の日付を口にした。
  心のどこかで予想していた通り、それは私の主観では『過去』のもの。
  二十歳の冬。
  大学二年の後期。
  好き勝手にやっていた若かりし頃。
  亜美に刺し殺される十年前。
  そう、十年前――――!

「は、はははは、はは、はははははははははははははは…………」

 なにがなんだか分からない。考えたって分かるはずもない。
  だから、笑うしかなかった。
  今までのことは、全て夢だったのか?
  遊び呆けたツケでなかなか就職先が見つからかったこともゼミの教授に泣きついて
  どうにか職を確保したこともギリギリの単位で卒業したことも卒業コンパで泥酔して
  カー○ルおじさんにハイキック入れたことも初出勤の日に痴漢に間違われたことも
  忘年会で部長のカツラを剥いだことも……。
  南条が死んだことも!
  亜美と結婚したことも!
  佐奈が生まれたことも! 
  同窓会で再会した『彼女』と一夜の過ちを犯してしまったことも! 
  それが原因で亜美に刺されたことも!
  この十年の全てが夢だったというのか!?

「あっははは、は、はははははははははは、はははははは、はは…………」

「おい、ハル! 本当に大丈夫か?」

 ハル。
  私、川島遥貴の学生時代の愛称。
  それがダメ押しだった。
  慣れ親しんだ呼び名が、私に現実を思い知らせる。
  神の戯れか悪魔の暇潰しか。
  私は十年前に『戻って』来てしまったのだ。

「助けて、ドラ○もん……」

 発狂寸前の心で、縋るようにネコ型ロボットの名を口にした。

2

 全人類が願ってやまない、されど絶対実現不可能な夢、時間遡行。
  図らずも、自分がそれを果たしてしまったら?
  この『図らずも』、即ち、戻ろうと思って戻ったわけではないというところが重要だ。
  仮に、望んで時間を遡るのであれば、宝くじなり万馬券なりの番号を正確に記憶して
『戻った』だろう。
  だが、偶発的な事由で戻ったのなら、未来の情報なんて常識程度にしか持ち合わせていない。
(例、未来から来た殺人マシーンを演じた筋肉俳優が大統領になった)
  だから、そんな人間が二度目の人生でできることは二つだ。
  仕方ないと諦めてもう一度同じ人生を送るか。
  記憶を武器に、可能な限り『正しい選択』をして、人生をやり直そうとするか。

 妻に刺し殺され過去に戻った私、河嶋遥貴はどちらを選ぶべきなのだろう?

 

 
  この時代、私主観の過去に『戻って』来てから、もう三日が経った。
  私は大学をサボり、携帯の電源も切って、下宿先のアパートに引き篭もった。
  落ち着いて考えるためには、まとまった時間と独りになれる空間が必要だった。

 なぜ、亜美に刺されて死んだ筈の私が十年前に『戻って』しまったのか。
  それも精神だけが、二十歳の肉体に宿るという奇妙極まりない形で。
  フィクションの世界でよく見られる時間遡行とはこの点が違う。仮にタイムマシンが
現実のものになったとしても、こんなことを実現するためには更に数百年は必要だろう。
  どれだけ考えてもこの現象には説明がつかない。未来に『帰る』方法も思いつかない。
  私は元々生粋の文系人間だし、会社ではしがない人事課係長だ。
  時間概念や精神論なんて完全に範疇外だ。
  結局、『戻った』その日のように、神の戯れか悪魔の暇潰しと思うしかないのだ。

 代わりに考えたのは、あの後の未来のこと。
  まず、私の肉体。
  刺身包丁の一刺しは、間違いなく私の肉体を死に至らしめた。
  頭頂部と下っ腹が気になり始めた三十歳の肉体は、二度と動くことはないだろう。
  既に解剖されて火葬されている可能性もある。
  未来に『帰って』、あの肉体に再度宿ることは望めない。
  幽霊になって妻子を見守るのも、それはそれでいいかもしれないが、
『帰る』手段が見つからないのでは考えるだけ無駄だ。

 そして、自分の肉体よりも気がかりなのは妻子のことだ。
  恐らく、亜美は逮捕されるだろう。
  日本の警察は優秀だ。遠からず、夫殺しの理由も調べ上げる。
  浮気した夫と嫉妬に狂って凶行に及んだ妻。
  ワイドショーのネタとしてはありふれたものだが、だからこそ取り上げられやすい。

 そうなれば、二歳になる愛娘、佐奈はどうなるか。
  私も亜美も一人っ子だし、互いの両親も未来では故人だ。
  いわくつきの子供を引き取ってくれそうな親戚にも心当たりはない。
  どこかの養護施設に引き取られることになるだろうが、それで終わりとはならない。
  佐奈はこれからの人生、ずっと浮気者の父とそれを殺した母の娘というレッテルを貼られて
  生きていかなければならないのだ。
  世間の風は冷たい。進学でも就職でも結婚でもきっと苦労するだろう。

 佐奈……、本当にすまない。

 私が愚かだったばっかりに、お前の幸せを奪ってしまった。

 お前には世界で一番幸せになって欲しかったのに……。

 

「佐奈……」
「サナってだぁれ?」
「うおぉおッ!?」
  急に背後から声をかけられて、文字通り私は飛び上がった。
  振り返ればそこには、未来で私の妻となった女性、亜美の姿が。
  妻や母親としての亜美に見慣れていたため、女子大生の亜美を見ても
  すぐには誰だか分からなかった。
「あ、亜美……。帰って、いや、来てたのか?」
「一応チャイムは鳴らしたし、ノックもしたわ。それでも反応がなくて鍵もかかってなか
  ったから勝手に入らせてもらったの。反論は?」
「いえ……、ないです」
  フフンと鼻を鳴らして、亜美は軽くウェーブのかかった長い髪をかき上げた。
むさくるしい部屋にほんのり甘い香りが漂う。
  未来で私の妻となったこの女性は、シャープな顔立ちをした美人だ。あけすけにものを
言い過ぎるのが難点と言えば難点だが。
  学部は違うが、一年の時に独語の授業で一緒だったのが縁で私たちは親しくなった。
『彼女』とのことがあって、女性を避けていた私でも、亜美とだけは気安く付き合えた。
  この頃はまだ仲の良い女友達でしかなかったが、本格的に付き合い始めた、つまり男と
女の中になったのもまた、この時期だったはずだ。
  なにかきっかけがあったような気がするが、よく覚えていない。
  なにせ十年前のことだからなぁ……。
「アンタ、大学サボってなにしてたのよ? 携帯まで切って。南条君が心配してたわよ」
「ちょっと……、まあ色々考えたいことがあってさ」
「ふ〜ん?」
  まさか未来から『戻って』来たのだとは言えないから、どうしても苦しい言い訳になる。
  当然、そんなもので亜美が納得するはずもなく、切れ長の双眸がすっと細まった。
  反射的に私は喉――未来で亜美に刺された箇所――を隠した。
「まさかとは思うけど……、ヤバイ薬とかサイトにはまってるんじゃないでしょうね?」
「そんなわけないだろ!」
「じゃあ、サナって誰よ? 妄想のお友達?」
「なに言ってんだ。オレたちの娘だ、ろ…………!」
  しまったと思ったが、もう遅い。
  亜美は一瞬きょとんとしたが、すぐにニヤ〜リと小悪魔のような笑顔を浮かべた。
  この笑顔をした亜美に、私は絶対に勝てない。
「なに? ハルってばあたしと子供つくりたいの? 名前まで考えてさ。
  や〜ん、あたし犯されちゃう〜。喩えるなら、飢えた狼に差し出された哀れな仔ブタ?
  嗚呼、さようなら約二十年守り通したあたしの純潔……」
「いや、そういうわけじゃなくてだな……」
「ひどい! あたしの純粋な気持ちを弄んだのね!? 処女返せ!」
「まだ奪ってない!」
  未来では奪ったが……。
「まだっていうことはこれから奪うつもりあるか? このブタ野郎」
「今時そんなチャイニーズはいねえ! あと誰がブタか!」

 若い頃の亜美と話しているせいだろう。
  ついつい、『オレ』の口調に戻ってしまっている。
  ともあれ、亜美はそれ以上深く聞いてくることはしなかった。
「そこまでツッこめるなら大丈夫ね、心配して損したわ。だけど本当に悩みがあるなら相談してよ?
  話聞くくらいならできるからさ」
「あ、ああ……。ありがとう」
  本当に亜美はいい女だ。
  生涯の伴侶に選んだのだから、そのくらいは知っていたが。
  改めて、私には分不相応な恋人であり妻だったと思い知る。
  だというのに、私は亜美を裏切って『彼女』と……。
  殺されるのも当然の報いだ。地獄に落とされても文句は言えない。
  そんな私のせいで亜美と佐奈は……。

「ん? ま〜た、暗い顔してるわね〜。よし、そんなハルには元気が出るイベントを教え
  て進ぜよう」
「べつにいいよ……」
「ノリわる〜。こういう時は、仔犬のように目を輝かせるものよ。ま、いいや。実はね、
  あたくしこと瀬野澤亜美、本日振袖と美容院の予約をして参りました!」
「だから?」
「もう! 女の子がこの時期に着物の用意する理由は一つしかないでしょう?」
「初詣?」
「う゛、それもあるか。って違う違う! 成人式よ」
「ああ……」
  そういえばそんな行事もこの国にはあったな。
「そ。ハルも住民票こっちに移してたよね? み〜んな成人式は地元に帰るって言うんだもん、
  薄情よ。こちとら帰省する金もないってのに。で、同じ万年金欠のハルなら
  冬休みも帰省しないだろうと思ってさ。ね、一緒に行こうよ!
  一番に振袖姿を見せてあげるからさ!」
「それってお前が一人じゃ寂しいからだろ」

 私たちの大学は他の市町村、都道府県からの入学者が八割を占める。
  年金や免許の関係で、大学のある街に住民票を移した方がなにかと便利なので、
学生の多くは入学と同時に住民票を移動させる。だが、それでは郷里の成人式に出られない。
成人式の案内状が送られてくるのは住民票のある街だ。
  もっとも、大半の新成人の目的は旧友との再会であり、どんちゃん騒ぎだ。
首長のありがたいお話を聞けなくても、式典会場に入れなくても問題ない。
  亜美の友人たちも、そんな感じで故郷に帰るのだろう。
  で、亜美は一人取り残されたというわけだ。
  誘ってくれた亜美には悪いが、いくら二十歳に『戻った』からといって、
今更出ようとは思わないし、その精神的余裕も無い。
  にしても、振袖を予約する金はあっても、実家に帰る金が無いというのはどういう錬金術だ?
  未来ではどうやって家計をやりくりしていたのだろう? 

 

「いいじゃない。どうせあたしが誘わなかったら、ハルは一人寂しくカップ麺すするはめに
  なってたんだよ。ね〜、一緒に行こうよ〜? 一番に振袖姿見せてあげるからさ〜」
「あのな、オレはそんなに暇じゃ…………!」

 どう断ろうかと悩んで、唐突に思い出した。
  そうだった!
  私と亜美が付き合うようになったきっかけはこの成人式だ。
『前回』も私は亜美から同様の誘いを受けて、この街の成人式に出た。
  途中であまりの人の多さに気分を悪くした亜美を下宿先に連れ行き、そこで酒盛りを始めて、
いつの間にかそういう雰囲気になって、一線を越えてしまって、責任取れとか泣き喚かれて……。
  あの時の亜美は可愛かったなぁ〜。
  って、いかんいかん!
  そうと分かれば尚のこと簡単に返事はできないぞ。

「どったの、ハル?」

 急に黙り込んだ私を、小首を傾げた亜美が覗き込む。
  う、可愛い。右目の下で二つ連なった泣きぼくろがなんとも……。無性に押し倒したくなって来る。
  これが若さか……。
  って、そうじゃないだろ、私! そして『オレ』の体!

「ちょ、ちょっと考えさせてもらっていいか? 南条がどうするかも聞いておきたいし」
「うん……、できれば早目にね」
「ああ、わかってる」

 どこか亜美が残念そうだ。
  ひょっとして、コイツ二人だけで行きたかったとか?
  それも十分有り得る。
  でなければ、貞操観念の強い亜美が、アルコールが入っていたとしても、
  ああも簡単に身体を許したことに説明がつかない。
  う〜ん、新発見だ。

 その後は二人でゲームをしたり、教授の愚痴を零しあったりとなんとも色気の無い時間を過ごした。
結局、亜美が帰ると言い出したのは午後六時近くになってからだった。
彼是五時間居座っていたことになる。まあ構わないが。
  この時間ならまだ人通りは多いし、送っていく必要は無いだろう。
  玄関でブーツを履き終えると、亜美はこちらを振り返った。彼女にしては珍しく、
もじもじと下を向いて、言い出しにくそうにしている。顔が紅いのは夕日のせいだけではなさそうだ。
  暫くそうしていたが、やがて意を決したように亜美は口を開く。

「あのね、ハル……」
「なんだ? 金なら無いぞ」
「アンタにお金は期待しないわよ。そうじゃなくて、さっきの子供の話……」

 佐奈のことか……。
  できれば忘れて欲しかったが、しっかりと覚えていたようだ。
  私はただ曖昧に頷く。

「あたし……、ハルの子供だったら生んでもいいよ?」
「え?」
「じゃじゃじゃじゃじゃあ、あたし帰るね! 明日からはちゃんと学校来なさいよ!」

 私が呆気に取られている間に、亜美はバタバタと慌しく部屋を出て行った。
  完全なる不意打ちに、図らずもドキリとしてしまった。
  未来でも普段は気丈であけすけな亜美が、時折見せる女らしい表情に
  何度となく理性を剥ぎ取られた。

 さて、あんなことを言われて私はどうするべきか。
『前回』、成人式が私たちの人生の分岐点になったのは間違いない。
  それまでの私たちはただの友人だったのだから。少なくとも私はそう思っていた。
  それでも亜美が恋人になって、私は有頂天になった。
  明るく美しい恋人との恋愛に夢中になった。
  暇さえあれば恋人の身体を求め貪った。
  そうしていつしか、私は完全に亜美に溺れた。

 だから、付き合い始めてから亜美が見せるようになった嫉妬も気にならなかった。
  こんないい女が私にベタ惚れなのだと、陳腐な自尊心を満足させた。
  亜美が私の携帯から女友達の番号とアドレスを消しても、授業、サークル、バイト先とあらゆる所で
  自分以外の女と口を聞くことを禁じても、それを受け入れた。
  サークルを辞めても、バイトをクビになっても、大学で話すのが南条と亜美だけになっ
ても一向に気にしなかった。

 そこまで亜美に溺れた理由は、無論亜美が魅力的だったからだということもある。
  だがそれ以上に、郷里に残した『彼女』のことを努めて忘れようとしたことが心の根底にあった。

 そう、私が傷つけ、裏切ってしまった『彼女』のことを……。

2007/01/08 To be continued.....

 

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