INDEX > SS > 柱時計とガードナー

柱時計とガードナー



1

 別に祖父の誕生記念に買ってきたものではなかったが、その大きくてノッポな年代物の柱時計は
廊下の隅で埃を被って止まっていた。
当時小学校高学年だった兄は、葬儀帰りの制服姿でそれを修理した。
制服はクリーニングにかけねばならなくなった。
しかし、錆付いた二本の針は、専門家に預けることなく再度時を刻み始めた。
一仕事成し遂げた兄は得意げに言った。
「この時計が死んだじいちゃんの代わりに僕達を見守ってくれるよ」
「お兄ちゃんは? お兄ちゃんはみまもってくれないの?」
  時計の再起はむしろ死者への追悼の意味合いが強かった。
生者が気持ちに区切りをつけるための儀式だった。ただ、妹は祖父より兄に懐いていた。
その無邪気さが兄には残酷に思える。
けれど、兄はそれを咎めたりしなかった。猫可愛がりしている妹に悲しまれるほうが、
祖父の死よりも深い苦痛を伴っていた。重要度のシーソーが片方に傾く。
結局、兄妹は似た者同士だった。誰かの死よりもお互いの存在のほうを大切にしている。
「じゃあ、この時計は僕の代わりに葵を見守ってくれることにするよ」
「そんなのいや。とけいなんていらない。お兄ちゃんがいなくなっちゃうのはやだあー」
  そういう意味で言ったのではなかった。幼い妹は勘違いをしていた。
  微笑ましさと愛おしさがこみ上げてくる。兄は妹をぎゅっと抱き締めた。
しかし、ふいに昔祖父にそうしてもらったことを思い出してしまった。
温かな気持ちが消えて胸に悲しみが溢れてきた。瞳がみるみる潤んでいくのがわかる。
妹の前だぞ、自分を奮い立たせようとした。しくじった。
タイミング悪く、痩せ細りざらついた祖父の腕の感触を思い出してしまった。
いよいよ歯止めがかからなくなった。
急に泣き出した兄に、妹は理由がわからず目をぱちくりさせた。
死の痛みは実感するのに年齢条件がついている心理だった。
ただ、妹は悲しむ兄を放っておけなかった。妹想いの兄よりも、妹は兄想いだった。
「なかないでお兄ちゃん。あおいがおにいちゃんをまもってあげるから」
  妹の誓いからは『見』の字が抜けていた。小さな言い間違いだと思った。
そんなことより、妹の気遣いが暗く淀んだ悲しみを吹き飛ばしていく。
そんな自身の感情の変化に驚くのに精一杯だった。
兄は妹のために泣き止んだ。妹はほっとした顔をした。
  落ち着きを取り戻した兄は、父親に手伝ってもらって柱時計を自室に運び込んだ。
そして妹に何度も感謝した。
妹はそのことを誇らしく思ったが、率直にそのことを表に出してしまうと、
もう兄に甘えられなくなるように思った。
だから、素っ気なく「いいですよ。どういたしまして」と憶えたての決まり文句を返すに留めた。
兄への配慮に限り、妹は鋭敏な感性を持っていた。

 そして月日は流れる。
萩原葵。十二歳。小学六年生。
彼女は隣の部屋から漏れ聞こえる振り子時計の鈍い時報に、
高校生となった兄を救うべく誓いを再確認した。

 萩原葵の兄、萩原大樹は一言で言うなら脆弱な人間だった。
機械弄りの好きな技術屋気質と、酷く繊細な芸術家肌の両面を持ち合わせていた。
常にオドオドして周囲を見渡しては、気弱で挙動不審な印象に拍車をかけていた。
小柄で活動的でもなく、小麦色の肌の子供達の中で、
一人小さな雪達磨のような自分を持て余していた。
友達と外で遊ぶくらいなら室内に遊び相手を探した。それが葵と工具箱だった。
それでも兄は昔から妹の前でだけは強がろうとした。
内向的な性格は社会的にあまり好まれないことを知っていた。
妹が自分のせいで要らぬ謗りを受けるのが許せなかった。
そのために大樹は彼の安息地であった妹に寄り付かなくなった。賢い妹は黙ってそれを受け入れた。
彼のプライドを守り、自分に向けられた決定を尊重しようとした。結果、賢過ぎる妹は全てを失った。
兄は工具箱だけでは生きていけなかった。
「兄さん? 入ってもいい?」
  ノックする。葵は兄をそう呼ぶ。『お兄ちゃん』と呼べば甘えが見えるし、
『兄貴』やまして代名詞なんかだと敬意が感じられない。
一年ほど前、悟り切った少女が思春期に悩み抜いた末の判断だった。これも間違っていた。
何もかもが間違っていた。
呻き声のような覇気のない了承を受け、葵は兄の部屋に入る。大柄な柱時計が壁際に佇んでいる。
お前は用無しだと言われた気がした。そこに何もなかった頃に戻りたかった。
  兄を見守るのは自分ではなくて時計の役目だった。
「……どうしたの? 何か用事?」
  大樹は訝しげに訊いた。葵は用事がなければ大樹に近付くことさえなくなっていたのに気付く。
お互いの必要性は出来立ての和紙より脆くなっている。けれど、葵にとってはそれは
どんな鋼にも比類しない強固な繋がりだった。
「兄さんあのね……やっぱり兄さんはあの女とは――」
「……またその話? いいよもう……。彼女は葵が言うような人じゃないよ。
……どうして葵はそんなにまで僕を嫌がるんだよ? 馬鹿にしたいんだよ?
  僕が誰かを好きになるのがそんなにおかしいことなのかよっ!」
  あの時自分は兄を守ることを誓った。また、大樹が兄の立場を保持したままで、
葵に負い目を感じずに生きていけるよう手を尽くした。
甘えられる余地を残したいという気持ちもあった。虻蜂取らずの格言。教わった時には手遅れだった。
葵は確かに兄の心を慮ることに長けていた。ただ、相手の気持ちを傷付けずに自己主張することは
困難を極めた。それは大人でも習得に梃摺る交渉技術だった。そうしたビジネススキルは、
理解していても実践できなければ意味がない。
葵は兄を立てることにしか気を回せなかった。
「その……私はそんなつもりじゃ……」
「もういいから。そのことだけなら早く出てってくれよ……」
  激昂したはずの大樹。だが、その顔には悲しみが克明に貼り付いている。
何時からか素っ気なくなった妹。クラスメイトからの些細なからかいを真に受けて、
苛めじゃないかと苦しんだとき。
  工学部に行きたかったのに要領が悪いせいか数学がまるでできず、
担任の不用意な「お前は理系じゃやっていけないだろ」の宣告に怯えて、
文系志望で文理分けの申請を出してしまったとき。
  脆弱な兄は五歳も歳の違う妹に救いを求めた。だが妹は兄のためを想ってそれを突き放した。
誓いを破らぬように心がけているうちに、性格が硬直したまま形成されていった。
  妹は表面上は昔のように兄に懐かなくなった少女にしか見えなかった。
大樹もそう思ったから孤独に苦痛に苛まれ続けた。
  居た堪れなくなった葵は、黙って兄の部屋を出た。「ごめん……」弱々しい声が聞こえた。
それが彼女に決意をさせた。
情けない兄を嫌悪して無視するようになった妹、それが葵。最愛の兄の評価。
神からの嫌がらせはあまりに残酷だ。
説得は通用しそうにない。葵が何を言っても大樹には無視だけでは飽き足らず、
遠まわしな罵倒を浴びせかけているようにしか思えないんだろう。
兄の願いも虚しく、葵は大樹と同じで内向的かつ友達が少なく、口下手だった。
その上、兄の意に逆らって自己主張などできるわけがなかった。
葵はそうしないように生きてきたのだ。

 自室に戻ると、ラジオを付けて手頃な番組に合わせた。何かの学習教材の付録だったキット。
兄が組み立てた手製の品。柱時計とは異なり、葵が貰っていた。
ラジオ好きなクラスメイトなど一人もいない。最近は低年齢層にまで技術革新の波が押し寄せている。
ラジオよりも携帯、パソコンが主流だ。葵は一人時代に取り残されている。
  兄のことを想う。縋る相手が掌を返した。裏返った愛情は何となるのだろう。
だが、大樹は弱音を吐くことはなかった。相変わらず妹の前では平気な素振りを見せていた。
絆創膏を貼って誤魔化していた傷。その実は悪化を止めていただけだった。
今更それを抉るような妹の振る舞い。
歳の差は消え、兄よりも妹のほうがずっと冷静な現状が生まれる。
構造的には葵を頼る大樹の構図に似ていた。依存か憎悪か。
片方が感情的ならもう片方は自然と理性的に動けるものだ。葵はその傾向が極端だったに過ぎない。
  番組のリクエストコーナーで流行のメロディが流れていた。哀しい旋律のバラードだった。
鼻がつんとした。強風に煽られる竹林のように胸がざわめいている。
大樹は騙されていた。女慣れどころか他人にすら免疫を持てないような人だった。
嘘っぱちの労わりと同情に引っ掛かっていた。葵が欠けた部分。
空洞のできたコンクリートを手近な泥で塞ごうとしていた。
  大樹に残された友達。ドライバーセットや半田鏝の納められた工具箱。
大樹はそれを駆使して相手の女に尽くしていた。
手作りのラジオや無線機なんかをいくつもあげていた。
  無骨なプレゼントだった。葵でなければ喜ばないようなものだった。
世間知らずな大樹は、嬉しいと言う女の言葉を信じているらしかった。
中学時代に技術科目で腕前を褒められたのが切欠だったと言っていた。
無感動な妹の気を惹こうと、照れたように頬を掻きながら出した話題。葵はそれを作り話だと思った。
兄は葵が不可欠な人間のはずだった。どうしてそんな嘘を吐くのかと頭にきて責め立てた。
思えばあれが分岐点であり、決定打だった。あそこで形振り構わず兄を引き止めていれば
こんなことにはならなかった。あそこで自分が優しく同調してあげれば、
兄は女の存在が紛い物であることを素直に認めてくれた。葵は堂々と兄の守護者であり続けられた。
無意味な後悔だった。それでも葵は大樹を守り続けるつもりでいた。
ラジオを切った。感傷に浸る時間は終わりだ。
葵は電気スタンドの笠の裏に隠してある鍵を取り出した。誰にでもプライバシーがあるんだよ、
そう葵に説きながら兄が取り付けてくれた蝶番と金具。それを繋ぐ南京錠を解いた。
机の引き出しを開いて、目当てのものを引っ張り出した。
兄がくれたものよりも一回り大きく、外装もスケルトンの安っぽいプラスティックなんかではない。
ずっしりとした重量を感じさせる、黒光りした立派なラジオ。
確かに、この引き出しには大樹を守る葵の明かされたくない秘密が詰まっていた。
技術屋気質で芸術家肌の兄。妹は何処までも兄に似ていた。妹も機械工作が得意だった。
そのためにそうしたものの扱いに慣れていた。
盗聴器とその受信用のFMラジオ。受信距離は短いが、最も手軽で安価な盗聴セット。
葵の小遣いでも十分に入手可能だった。年間数十万台が流通する最新技術の塊。
社会変動に対して葵も無関係ではなかった。
仕掛けた部屋は言うまでもない。何かへの当て付け。柱時計の内壁にくっつけてある。
ラジオに接続したヘッドフォンを装着する。つまみを捻って音を拾う。
誰かに見られたら確実に怪しまれるだろうが、葵は部屋に鍵をかけていない。
両親なら適当にあしらえる。もし大樹に葵がこうして盗み聞きをしていることを知られても、
それはそれでよかった。
果たしてそのときどうなるのだろう。それはわからない。
しかし、自分の半身にも近い純度で兄を慕う葵にとって、
守るべき兄を拒絶する鍵など以ての外だった。秘密にするのは自分の守護者としての立場だけだ。
兄の立場を壊さぬために。
バサバサと冊子が床に散らばる音の後、話し声が聞こえた。
大樹がバックから携帯電話を取り出して通話を開始した。
毎日のように聞かされていれば、嫌でも推理ができるようになる。
  大樹は酷く落ち込んでいた。聴覚だけで十分判断できた。妹との不仲を嘆いていた。
昔のように戻りたいと弱音を吐いていた。兄の願いは妹の願いと変わらなかった。

葵は柱時計を呪った。自分に余計な誓いを立てさせたあの時計を呪った。
元に戻せぬ時間軸の代わりに、それを指し示す現存する物質を憎んでいた。
  そして地獄からの使者が葵を絶望に追い込んでいく。
葵を狂わせる雄叫びをヘッドフォンから流し続ける。兄が冥界に引きずり込まれそうになる。
悪魔が手薬煉引いて待ち構えている。守らなければ守らなければ。葵は使命感に追い立てられていく。
電話相手の声までは拾えない。拾うまでもない。兄の声質に張りが戻ってくる。
兄がどす黒い甘言に唆されていく。何時しか話題は葵のことからは離れ、
二人は葵のいない世界に沈んでいく。葵以外の人間が兄を救うことなどできない。兄は騙されている。
  憤怒に震え、悲痛に打ちひしがれる葵に、一つの妙案が降り立つ。
古びた時計の錆びた針。先端は鋭く、下部に近付くにつれて幅広になっていく硬質な鉄片。
柄のない剣に似ていた。騎士が振るう正義の刃。悪に鉄槌を下すには最適に思えた。
  あれを取り外して女の首に突き立てる。時間軸の呪縛から開放され、
同時に守護者の使命を果たせる。葵は天才的発想だと思った。
そうと決まれば相手の女がどんな奴かを突き止めなければならない。
受信範囲の広い高価な盗聴器が要る。
小学生である葵は、どう頑張っても高校に侵入することはできない。
尾行すれば手っ取り早いが、兄譲りの気質を誇示することで兄の眼を覚ましたい。
  葵は兄を羊水にして育った赤子のようなものだった。

 ――だから、気付かない。現状認識の誤りに、気付けない。
兄が世界法則である葵は、『それ』に疑問を挟みはしない。
どれだけ賢くても彼女は小学生であり、そして嫉妬に狂った一人の女だった。

 ボーン、ボーンと古めかしい合図が鳴る。柱時計の内部に置かれた盗聴器は、
その共鳴を余すことなく葵に送り届ける。耳を劈く厳粛な響き。その音色が直に途絶える。
過去に戻れる。やり直せる。
  葵は今度こそ、好きなだけ兄に甘えようと思った。

2006/12/24 To be continued..... ?

 

inserted by FC2 system