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雨模様と相合傘



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 返り血を浴びずに済む。そしてフードを被れば顔を覚えられることもないだろう。
深津瀬里乃は、降水確率七十パーセントの予報を見て口元を綻ばせた。
雨合羽、外套、レインコート。折り畳み傘に安物のビニール傘。
一纏めに雨具と言っても多様な販促がなされているが、
ワンタッチで開く高目の良品が瀬里乃はお気に入りだ。
幼馴染の想い人から借りた際に頼み込んでそのまま貰った傘。落ち着いた深緑に白のチェック模様。
  しかし、それをこれから痛めつける人間の薄汚れた血で汚すなんてことは絶対にあってはならない。
もしそんなことになったら、自分は狂乱して相手を殺してしまうから。
瀬里乃は激情的な自分の性質を宿命染みた根深さで思い知っている。
逆らえないと本能的に理解している。理性が風化して殺意が支配して温情が磨耗して憎悪が制御する。
それも瞬時に。その不可避の衝動の存在を受容している。
瀬里乃の表層を取り繕っていた陸地が早送りで削られて悪意の海に飲み込まれていく。
瀬里乃が暗く淀んだ塩水に汚染されていく。そんな体験を思い出す。
  一度目、小学校二年生の時。それまでそんな衝動とは無縁の素直で優しい娘として
誰もに慕われていた自分。子供心に想いを寄せていた相手が、幼子の戯れで頬にキスをされていた。
気付けば工作用のカッターナイフを掴んでいた。投擲した鋭利な刃が真っ直ぐに標的を切り裂いた。
日頃の生活態度がものを言ったのか、手が滑ったという拙い言い訳は疑われずに済んだ。
しかし、とうとう腕から血を流す相手の少女には謝れなかった。
謝意が沸くこともなく、かといって責任逃れをしたいわけでもなく、ただ放心状態で呆けていた。
瀬里乃が意識を取り戻したとき、彼女は意中の相手に抱きつきながらしゃくりあげていた。
謝り倒していた。明らかに対象を取り違えた瀬里乃の行動に担任教師は戸惑った。
でも、幼馴染からの慰めが欲しいのだろうと理解した。
事実、彼女の幼馴染は優しく彼女の頭を撫でてくれていた。瀬里乃はますます彼が好きになった。
今でも瀬里乃に対する世間の評価は変わっていないが、
瀬里乃はそんな偽物の仮面を被って暮らしている自分は、偽善者にして猫被りにして
面従腹背を冷酷に貫いているような最低人間にしか思えない。
それが罪意識となって圧し掛かっている。
けれど、瀬里乃は世間体よりも幼馴染への愛情の方が十倍も二十倍も優先すべき事項だと考えていた。
価値判断の基準が何処にあるかの話でしかない。
切捨てが可能ならとうの昔にやっている。無論、無理だった。
そして二度目の凶行。三度目の殺人未遂。回数を重ねた。紆余曲折を経た。
逃げられない内面は真実を映し出していると納得してからは、
むしろ積極的にそれを肯定するようになっていた。躊躇いを持たなくなった。
けれど、事後に全身を縛り付けるような鎖の束縛を感じるようになった。
それは形容し難い衝動と等しい重量の十字架だった。
その過程で彼との関係は停滞した。恋仲としては扱われない。
瀬里乃の暗黒面を勘付かれていた。胸が八つ裂きにされるような悲痛。
しかし、瀬里乃は幼馴染のポジションまでを失わうことはなかった。
彼は瀬里乃を非情に切り捨てられなかった。
二人の共通項。切れないライン。それは確かに、幼馴染の絆と呼ぶべきものだった。
瀬里乃が邪魔者を排除し続ける限り、彼の隣にいられるのは自分だけだ。

「さあ、殺さなきゃ」
深津瀬里乃。三水ばかりの自分の名前。そのせいで雨女として苛められたこともあった。
だが、彼が傘をくれたその日から、彼女にとって雨模様の曇天は世界からの祝福だ。
分厚いレインコートを着込んでハンドバックに抜き身の万能包丁を仕込む。
傘立てではなく、ベットの枕元に置いてある宝物の傘を手に取り、開閉スイッチを押した。
室内に咲く見事な一輪。瀬里乃は魅了されている。
フレームを決して歪めないように、万が一にも痛めたりしないように、
いたわるようにクルクルクルリと主軸を転がして渦を描き出す。
目まぐるしく回る模様が格子状から無数の同心円へと眼に錯覚を起こさせる。
「あははははは」
少女趣味の愚か者。狂った人間の常人には理解不能な趣向。何でもよかった。
瀬里乃の願いは、ただそんな自分に彼が微笑みながら傘を差し向けてくれること。
穏やかな雨滴の伴奏を聴きながら、二人で相合傘をすること。未だ叶わぬささやかな夢。
大学生となった瀬里乃。何度目か知らない嫉妬の衝動。
その女は知らずして禁忌に触れてしまった。それは瀬里乃の逆鱗だった。
突然の通り雨。偶然会った男友達は傘を差していた。彼女は傘を持っていなった。
冗談半分で肩を寄り添わせた。同じ傘に入った。それを瀬里乃は目撃していた。
半殺しにする凶器に肉厚な包丁は間違っていることに瀬里乃は気付かない。
熱病が解けるのは何時も全てが終結し、彼と向き合う時だけだ。そして瀬里乃は泣きじゃくる。
泣いて許しを乞う。成長し無知でなくなった彼は、
嫉妬心に駆り立てられた彼女から一歩引いた位置にいる。
  自己嫌悪が止まらない。この身を焦がすような扇動を前に無力化される自分の良心が情けない。
同じ過ちを繰り返す自分を見捨てられるのが怖い。軽い鬱病になる。
どん底に叩き落された瀬里乃にとって、それでも贖罪の相手は被害者でも神父でも裁判長でもない。
瀬里乃はどうしたらいいかわからない。ただ、切羽詰った謝罪は彼から憐憫を引き出せる。
どれだけ歳月を経てもそれは変わらない。それを瀬里乃は利用する。そしてまた自己嫌悪に陥る。
罪悪感に取り殺されそうになる。見兼ねた彼は折れて瀬里乃を抱いてくれる。優しく慰めてくれる。
過去の記憶が蘇る。瀬里乃はますます彼が好きになる。
本日付で瀬里乃は殺人者の称号を得るだろう。けれど、彼は瀬里乃を庇ってくれるに違いない。
揺るがない確信。自分はまた枷を嵌められる。倫理の呪詛が聞こえる。
二度と引き返せない領域に瀬里乃は足を踏み出している。
心が軋もうとも、破壊されようとも瀬里乃は止まらない。
また突き放される。ささいな夢は遠退いていく。それでも瀬里乃は彼を求めてやまない。
「ホントにホントに好きなんだけどな……」
  祈るように傘を掲げ、慈しむように折り畳んだ。流した涙は、雨が洗い流してくれる。
「いってきます」
  瀬里乃は誰もいない部屋に別れを告げ、彼女の敵を始末しに出かけた。

2006/12/23 To be continued.....

 

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