進の歩みは遅い。
杖のつき方、足の運び方は、確かに熟練者のものだが、
それでも健常者の歩みに比べれば若干遅くなる。
けれど、いまでは進もそのペースになれきっており、
特に急ぐ用がなければ周りに合わせて急いたり焦ったりすることもなかった。
それで痛い目を見た過去から、懲りていたのだ。
少なくとも歩く早さに関してはマイペースが一番と割り切っていた。
朝の登校も、自分のペースで十分間に合うように、時間をたっぷりと見て家を出るのが常だった。
その習慣は今朝も守られている。
しかし今、進はその歩みを少しでも速めようと、額に汗をかいていた。
そしてそのことに、これまでずっと進と歩んできた沙織が気づかないはずもない。
「どうしたの、そんなに急いで。いつものペースで行こう?」
愛美と進を挟んで歩いていた沙織が、マンションを出てから崩さないままだった笑顔で聞く。
少し首をかしげたその表情は朗らかで、
ひまわりの花のようだと進はわれながら陳腐だと思う感想を抱いた。
沙織のその提案に、進は一応は「うん」と頷くものの、体が急いてしまうのをとめることができない。
しばらく、そのペースで歩いた後で、とうとう沙織が進の腕をつかみ、言い聞かせるようにいった。
「そんなに急いだら危ないから、ね」
沙織に引きとどめられて、進は歩みを緩めざるを得なくなる。
「大丈夫だって」
「そんなこといって、無理して転んじゃったことあったじゃない。あれで左の膝痛めちゃって」
「そんなの、昔のことだろ」
進は、隣を歩く愛美の方をちらりと見やりながらぶっきらぼうにいった。
進の乱暴なものいいにも、沙織はにこにことした笑顔を絶やさない。これはいつものことだった。
それにたいして、愛美はこころなしか顔を伏せ、黙って歩いている。
それにどこか、自分に対する非難めいたものを感じてしまい、進はばつの悪い思いをしていた。
押し黙ったままの愛美と、ずっと笑顔で進に話しかけ、何くれとなく世話を焼こうとする沙織。
2人にはさまれながら、進はいたたまれない思いを感じていた。
「ねえ、川名さんだっけ」
しばらく歩いて路地を抜けたところで沙織が、はじめて愛美に話しかけた。
愛美は、はじかれたように顔を上げた。それからまた、伏目がちになって応える。
「あ、はい」
「進とクラスメイトなんだよね」
「あ、はい」
「それで美術部も一緒で」
「あ、はい」
「私、そこの部長と友達なんだあ。翠、山口翠が部長なんだよね」
「あ、はい」
そうして、質問とも確認ともつかない単調な問答をいくつか繰り返した後で、沙織が尋ねた。
「それで、進はどう?やっぱり迷惑かけてる?」
進は、沙織にあいかわらずの母親気取り、保護者気取りを感じて、むっとする。
しかもそれを、それをよりによって愛美に見せ付けたことに、今までにない腹立たしさを感じた。
自分を認めてくれている愛美を、失望させるのではないかと恐れた。
沙織のその言い草に文句をつけようとした進だったが、それより早く愛美が口を開いた。
「迷惑ってどういうことですか?」
今度は足を止めて、沙織の目を真正面から見つめて問い返していた。
「え、その」
沙織はその思わぬ口調の強さに戸惑い、とっさに応えられないまま、愛美につられて足を止めた。
進はその少し先でとまって、2人を振り返る格好になる。
「私、迷惑なんてしてません。それどころか、ずっと助けられてます」
「あ、そう。でも」
「たいていのことは1人でできますから、平沢君」
「でもね、足が」
「右足が動かないくらい、なんなんですか。そんなことで誰にも迷惑かけませんよ、平沢君は。
そりゃ、手助けが必要なこともあるでしょうけど、
それだって誰にだってやってあげられる範囲ですよ。
そのくらいのことで迷惑なんて思いません。むしろ、助けてあげたいです。
私が助けてもらってるんですから」
しまいには、愛美の声は怒鳴り声に近いものになっていた。
進は、他の登校生たちがこちらをちらちらと見ながら、
自分たちの横を通り過ぎてゆくのを絶望的な気分で見送っていた。
やがて、愛美の剣幕に気おされていた沙織も、こちらは本当の怒鳴り声で応戦する。
「くらい!?右足が動かないくらいっていったの!?
あんた、昔から進がどんだけ苦労したか分かってるの!」
「それで苦労して今ではちゃんとやっていけるんだから、いいじゃないですか!だいたい…」
そこで、愛美はいったん声をとめ、息を吸い込む。
「先輩は平沢君の苦労なんてどうでもいいんじゃないんですか?
本当は自分がどれだけ苦労したかっていいたいんじゃないですか?」
それを聞いた沙織の顔が赤くなり、ゆがんだ。
そこに現れた表情だけで、先に自分の部屋で見せた以上の激昂が
胸に渦巻いているのが進には分かった。
あの時は、沙織の右手はぎりぎり進に振るわれることはなかった。
だが、今度こそは怒りの対象に向けて放たれることになるだろうと予感する。
案の定、沙織の拳は硬く握られている。拳はふるふると震えていた。
今にも愛美を打ち据えるかにみえた。とっさに2人の間に割ってはいる。
代わりに殴られても仕方ないという覚悟だったが、
進の口から出たのはいささか無様な甲高い声だった。
「ねえ、ほら、いい加減にして学校行こうよ。遅刻遅刻」
2人をなだめようと何とか笑顔を作ろうとするが、うまくいかない。
随分情けない顔をさらしているに違いないと、進は泣きたくなる気持ちになる。
それでも、目を吊り上げた沙織の剣幕におされないよう、気持ちを奮い起こす。
「ほら、ね、行こう、みんなも行っちゃうよ」
進のその言葉に、やっと自分たち以外の存在のことを思い出したのか、沙織はあたりを見回し、
それから息をついて、最後に拳を緩めた。
「そうね」
そういった沙織の声はまだ少し震えていた。2度3度、息を吸ってはいてなんとか呼吸を整える。
すると、ふいと向こうを向いて歩き出した。
進も愛美もそれについていけず、その背中を見送ってしまう。
そうして何歩か先に進んだ沙織が、2人を振り返った。
「何してるの、遅れるよ」
落ち着いた声でそういわれて、進も愛美も後に続いて歩き出した。
それから学校まで、3人が3人とも胸のうちに灰色のもやもやしたものを抱えながら歩くことになった。
その間、誰も口を開かなかった。
「あの、ごめん」
校内で沙織と別れた後、進はやっと愛美に口を聞くことができた。
「ううん、私も悪かったし」
「いや、でもごめん」
「別に、平沢君が謝るようなことはないと思う」
愛美は、どこか疲れたような笑みを見せながらいった。
「うん、でも、沙織ちゃんも僕のことを心配してのことだから」
進は、あれだけ沙織に腹を立てながらやはり彼女のことを弁護せずにはいられない自分自身に
歯がゆいものを感じながらも、そういった。
だが、愛美はそれを聞いて、眉をひそめた。
「それ、ちがうと思う」
「ちがう?」
「心配じゃなくて、あれはエゴだと思う」
愛美は、辛らつにさえ聞こえる、珍しくきっぱりとした口調でそういった。 |