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ノン・トロッポ



11

その夜、進は暗い自室のベッドの上で、公園での出来事を何度も回想していた。
そしてそのたびに、胸が締め付けられるような高揚と困惑を味わっていた。
初めてのキス、しかも憎からず思っていた愛美からのキスは、
進に性的な興奮とナルシスティックな喜びを与えた。
愛美は自分のことが好きなのだ、しかも男として、性愛の対象として。
すっかり卑屈になっていた進にとって、その思いは大きな喜びと自信を与えてくれるものだった。

明日の朝には、やはり愛美が迎えに来るだろう。そのときに告白されるかもしれない。
あるいは放課後にでも。
いや、その前に自分の方から何らかの気持ちを打ち明けるべきなのだろうか。
男ならそうすべきではないだろうか。
愛美のことは、もちろん嫌いではない。愛美はかわいい。
そして、やさしく、自分の気持ちをわかってくれる。
進は、愛美の顔を、やわらかい唇を、そしてまだ見たことのない裸体を思い浮かべる。
恋人として、申し分はなかった。
それどころか、彼女を逃しては自分は一生女と付き合うことはないのではないかとすら、
進には思えた。
もし、沙織がいなければ、進に迷うことはひとつもなかっただろう。

愛美と交際することになれば、それはこれまでやってきた沙織離れの、いわば総仕上げとなるだろう。
そうなったとき、沙織との関係がどんな方向に転がるのかを考えて、進はベッドの上で丸くなった。
もしかすると、今のような冷戦状態が一生続くことになるのだろうか。
それとも、ただの幼馴染としての関係を作り直すことになるのだろうか。
それはつまり、沙織と恋人になることはもうできないということだ。
その考えに、進は胸に苦いものが浮かんでくるのを感じた。そして、自分の未練深さにあきれた。

自分のような人間と沙織が恋人になどなれないということは、
進にはとっくに分かっていたはずのことだった。
沙織にふさわしいのは、あのテニス部の男のような人間で、自分のような卑屈な身体障害者ではない。
そう、なんども言い聞かせてみる。だが、胸の苦さは消えることはなかった。
かえって、胸の中でその質量が増してくるように感じた。
なら、その気持ちに正直に、愛美の気持ちには応えないほうがよいのだろうか。
だがそうすると、また先ほどの回想が蘇ってきて、胸を締め付けるのだった。

そうして進は、思考と感情をぐるぐると動かし続け、やがて睡魔にとらわれて眠ってしまった。

翌朝、目覚めた進は昨晩の逡巡を再開していたが、
朝食をとるために入ったダイニングキッチンの光景にそれを断ち切られてしまった。
いすに腰掛けてコーヒーカップを口に運んでいる沙織の姿があったからだ。
進は、驚きと同時に、懐かしさをおぼえた。
それは、沙織との関係が拗れる前でなら珍しくもない光景だった。
沙織はカップを置くと、微笑みながら「おはよう」とだけいった。
進はそのやさしい笑みに、自分の口元が緩むのを感じた。そして、「おはよう」と挨拶を返した。
この、以前ならありふれたやり取りに、進は非常な喜びと安堵を感じ、
母親にからかわれるまでしばらく動くことができなかった。
そんな進の様子に、沙織はいっそうを笑みを深くした。
進が朝食をとっている間、沙織はもっぱら母親の話し相手になり、
2人は挨拶以上の言葉を交わせなかった。

「今日は、その、えと、どうしたの」

朝食を食べ終えて、沙織を自分の部屋にいれた進は、椅子に座りながら、
これまで距離を置いていた分いささかのぎこちなさを感じながら彼女に話しかけた。
登校するには、まだ時間があった。

「どうって、一緒に学校行こうと思って」

答えた沙織は、ちょこんとベッドに腰掛けて、相変わらず微笑んでいた。まぶしいほどの笑みだった。

「でもいいの?最近は彼氏と一緒に行ってたんじゃないの?」

「ああ、彼とはもう別れたから」

「別れたって」

進は、この前まで仲睦まじそうだった2人のことを思い出して、それを信じられない気持ちで聞いた。

「だから、前みたいにまた一緒に学校行こうね」

進は、沙織の言葉に純粋な喜びを感じるが、
すぐに昨晩思い悩んでいた事態を思い出して顔を暗くする。
そもそも、このままでは進と沙織、そして愛美の3人で登校することになるのだ。
沙織が愛美のことを快く思っていないのは知っていた。
愛美の気持ちは分からないが、きっと沙織に対して良い気持ちを抱いてはないだろう。
その2人との登校がどういうものになるのか、進には想像もつかなかった。
ただ、朝から愛美と2人きりにならずに済んだことに、進は安堵を感じてもいた。
少なくとも、すぐに愛美に気持ちを打ち明けられたり、それに応える必要はないのだ。
そうして、1人で考えに沈む進と、それをにこやかに眺める沙織は、
特に会話を交わすこともなく登校の時間を待っていた。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

進がそういって立ち上がると、沙織も立ち上がって進に手を差し伸べた。
進が困惑を顔に出すと、沙織は明るい声でいった。

「ほら、かばん渡して」

進はそれを聞いて、やるせない気持ちになる。

「いや、だからそれはいいって。何度もいったろ?」

「かばん渡して」

「いや、だからね」

「渡して」

沙織の声のトーンが、とたんに低くなった。
進は、それに気持ちがひるみかけるのを感じる。

「だめだ」

それでも、なんとかそれだけは口に出した。
そのとたん、沙織の若干たれ気味だった目がつりあがったように、進には見えた。

「ふざけないでよ!素直に渡せばいいじゃないの!」

「じゃあ、一緒に行かない」

それを聞いた沙織は、右手を振り上げた。

殴られると感じた進は、とっさに顔を伏せた。
だが、沙織のこぶしは進ではなく、部屋の壁を打ち据えた。
どんと鈍い音が響いた。それきり、部屋には、ふうふうという沙織の荒い息と時計の音だけが残った。
進は、その2つの音がシンクロしているのに気がついて、場違いにも滑稽な思いを抱いた。
それで落ち着いたつもりになった進は、なんとか声を上げることができた。

「あ、あの」

だが、その声はわずかに震えており、進は自分の情けなさに恥じた。
以前とは違うどこか質の違う沙織の激昂ぶりに、進は怯えていた。
沙織が、まったく別の誰かになってしまったかのような気さえしていた。
声の震えにその怯えを感じたのか、沙織は胸を押さえて息を整えると、
こわばった顔を無理やり笑顔に変えた。
その笑顔を、進は怖いと感じると同時に、いたいたしいものにも感じた。

「はは、ごめんね。ちょっといらいらしてて」

「うん、いや、別に」

進も何とか笑みを作ろうとする。

「かばんはいいからさ、一緒に行こう」

笑顔でそういう沙織の言葉に、進は頷くしかなかった。

12

進の歩みは遅い。
杖のつき方、足の運び方は、確かに熟練者のものだが、
それでも健常者の歩みに比べれば若干遅くなる。
けれど、いまでは進もそのペースになれきっており、
特に急ぐ用がなければ周りに合わせて急いたり焦ったりすることもなかった。
それで痛い目を見た過去から、懲りていたのだ。
少なくとも歩く早さに関してはマイペースが一番と割り切っていた。
朝の登校も、自分のペースで十分間に合うように、時間をたっぷりと見て家を出るのが常だった。
その習慣は今朝も守られている。
しかし今、進はその歩みを少しでも速めようと、額に汗をかいていた。
そしてそのことに、これまでずっと進と歩んできた沙織が気づかないはずもない。

「どうしたの、そんなに急いで。いつものペースで行こう?」

愛美と進を挟んで歩いていた沙織が、マンションを出てから崩さないままだった笑顔で聞く。
少し首をかしげたその表情は朗らかで、
ひまわりの花のようだと進はわれながら陳腐だと思う感想を抱いた。
沙織のその提案に、進は一応は「うん」と頷くものの、体が急いてしまうのをとめることができない。
しばらく、そのペースで歩いた後で、とうとう沙織が進の腕をつかみ、言い聞かせるようにいった。

「そんなに急いだら危ないから、ね」

沙織に引きとどめられて、進は歩みを緩めざるを得なくなる。

「大丈夫だって」

「そんなこといって、無理して転んじゃったことあったじゃない。あれで左の膝痛めちゃって」

「そんなの、昔のことだろ」

進は、隣を歩く愛美の方をちらりと見やりながらぶっきらぼうにいった。
進の乱暴なものいいにも、沙織はにこにことした笑顔を絶やさない。これはいつものことだった。
それにたいして、愛美はこころなしか顔を伏せ、黙って歩いている。
それにどこか、自分に対する非難めいたものを感じてしまい、進はばつの悪い思いをしていた。
押し黙ったままの愛美と、ずっと笑顔で進に話しかけ、何くれとなく世話を焼こうとする沙織。
2人にはさまれながら、進はいたたまれない思いを感じていた。

「ねえ、川名さんだっけ」

しばらく歩いて路地を抜けたところで沙織が、はじめて愛美に話しかけた。
愛美は、はじかれたように顔を上げた。それからまた、伏目がちになって応える。

「あ、はい」

「進とクラスメイトなんだよね」

「あ、はい」

「それで美術部も一緒で」

「あ、はい」

「私、そこの部長と友達なんだあ。翠、山口翠が部長なんだよね」

「あ、はい」

そうして、質問とも確認ともつかない単調な問答をいくつか繰り返した後で、沙織が尋ねた。

「それで、進はどう?やっぱり迷惑かけてる?」

進は、沙織にあいかわらずの母親気取り、保護者気取りを感じて、むっとする。
しかもそれを、それをよりによって愛美に見せ付けたことに、今までにない腹立たしさを感じた。
自分を認めてくれている愛美を、失望させるのではないかと恐れた。
沙織のその言い草に文句をつけようとした進だったが、それより早く愛美が口を開いた。

「迷惑ってどういうことですか?」

今度は足を止めて、沙織の目を真正面から見つめて問い返していた。

「え、その」

沙織はその思わぬ口調の強さに戸惑い、とっさに応えられないまま、愛美につられて足を止めた。
進はその少し先でとまって、2人を振り返る格好になる。

「私、迷惑なんてしてません。それどころか、ずっと助けられてます」

「あ、そう。でも」

「たいていのことは1人でできますから、平沢君」

「でもね、足が」

「右足が動かないくらい、なんなんですか。そんなことで誰にも迷惑かけませんよ、平沢君は。
そりゃ、手助けが必要なこともあるでしょうけど、
それだって誰にだってやってあげられる範囲ですよ。
そのくらいのことで迷惑なんて思いません。むしろ、助けてあげたいです。
私が助けてもらってるんですから」

しまいには、愛美の声は怒鳴り声に近いものになっていた。
進は、他の登校生たちがこちらをちらちらと見ながら、
自分たちの横を通り過ぎてゆくのを絶望的な気分で見送っていた。
やがて、愛美の剣幕に気おされていた沙織も、こちらは本当の怒鳴り声で応戦する。

「くらい!?右足が動かないくらいっていったの!?
あんた、昔から進がどんだけ苦労したか分かってるの!」

「それで苦労して今ではちゃんとやっていけるんだから、いいじゃないですか!だいたい…」

そこで、愛美はいったん声をとめ、息を吸い込む。

「先輩は平沢君の苦労なんてどうでもいいんじゃないんですか?
本当は自分がどれだけ苦労したかっていいたいんじゃないですか?」

それを聞いた沙織の顔が赤くなり、ゆがんだ。
そこに現れた表情だけで、先に自分の部屋で見せた以上の激昂が
胸に渦巻いているのが進には分かった。
あの時は、沙織の右手はぎりぎり進に振るわれることはなかった。
だが、今度こそは怒りの対象に向けて放たれることになるだろうと予感する。
案の定、沙織の拳は硬く握られている。拳はふるふると震えていた。
今にも愛美を打ち据えるかにみえた。とっさに2人の間に割ってはいる。
代わりに殴られても仕方ないという覚悟だったが、
進の口から出たのはいささか無様な甲高い声だった。

「ねえ、ほら、いい加減にして学校行こうよ。遅刻遅刻」

2人をなだめようと何とか笑顔を作ろうとするが、うまくいかない。
随分情けない顔をさらしているに違いないと、進は泣きたくなる気持ちになる。
それでも、目を吊り上げた沙織の剣幕におされないよう、気持ちを奮い起こす。

「ほら、ね、行こう、みんなも行っちゃうよ」

進のその言葉に、やっと自分たち以外の存在のことを思い出したのか、沙織はあたりを見回し、
それから息をついて、最後に拳を緩めた。

「そうね」

そういった沙織の声はまだ少し震えていた。2度3度、息を吸ってはいてなんとか呼吸を整える。
すると、ふいと向こうを向いて歩き出した。
進も愛美もそれについていけず、その背中を見送ってしまう。
そうして何歩か先に進んだ沙織が、2人を振り返った。

「何してるの、遅れるよ」

落ち着いた声でそういわれて、進も愛美も後に続いて歩き出した。
それから学校まで、3人が3人とも胸のうちに灰色のもやもやしたものを抱えながら歩くことになった。
その間、誰も口を開かなかった。

「あの、ごめん」

校内で沙織と別れた後、進はやっと愛美に口を聞くことができた。

「ううん、私も悪かったし」

「いや、でもごめん」

「別に、平沢君が謝るようなことはないと思う」

愛美は、どこか疲れたような笑みを見せながらいった。

「うん、でも、沙織ちゃんも僕のことを心配してのことだから」

進は、あれだけ沙織に腹を立てながらやはり彼女のことを弁護せずにはいられない自分自身に
歯がゆいものを感じながらも、そういった。
だが、愛美はそれを聞いて、眉をひそめた。

「それ、ちがうと思う」

「ちがう?」

「心配じゃなくて、あれはエゴだと思う」

愛美は、辛らつにさえ聞こえる、珍しくきっぱりとした口調でそういった。

2007/10/26 To be continued.....

 

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