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ノン・トロッポ



1

平沢進(ひらさわ すすむ)の左足は、膝から下が動かない。
それは生まれついてのものではなく、かつて負ってしまった怪我のせいだった。
10年ほど昔のこと、進は今17歳の高校2年生だから、小学生のころに負った怪我だということになる。
大きな怪我だった。
それ以来、歩くときには二本の松葉杖が欠かせない。
松葉杖を体の前方については、右足で地面を蹴って進むのだ。
10年も付き合い続けて、松葉杖さばきも熟練の域に達している。
進は二本の松葉杖と右足だけを使って、ほとんど常人と変わらない速度で歩くことできた。
走れといわれれば、小学生が走るくらいの速さで進むこともできる。
今も、隣で歩いている女の子と同じスピードで、登校することができている。

その娘は、足立沙織(あだち さおり)といって、進の幼馴染だった。
両家の母親同士が、二人が生まれる以前からの親友で、
わざわざマンションの隣りの部屋を選んで住むほど仲が良かった。
二人は母親のお腹の中にいたころから一緒にいたわけだ。
ちなみに、沙織には父親がいない。沙織が生まれてからすぐに離婚したらしい。
つまり、母子家庭だった。
昔は、母親が仕事で出ている間に沙織を進の家で預かることが多かった。
今でも母親がいない日には、進の家に夕飯を食べにくることがあった。
そのときはいつも料理の手伝いをしてくれるので、進の母親は喜んでいた。

校門が見てきたところで、進がいつものように沙織に話を切り出した。

「ねえ、沙織ちゃん、そろそろかばん、僕が持つから」

両手を松葉杖に取られている進は、学生かばんを沙織に持たせているのだった。
誤解のないように言っておけば、それを要求するのは進ではなくて沙織だ。
進はかばんを持っていても歩けないわけではない。何より女の子にかばんを持たせるのが
はずかしいやら申し訳ないやらで、正直自分で持って歩きたいのだ。
だが、沙織はいつも半ば強引に取り上げてしまうのだった。
それを聞いて、やはりいつものように沙織は笑っていった。
沙織は、笑うとえくぼができる。それがチャームポイントだった。

「なあに遠慮してんのよ。いいから、お姉ちゃんに任せといて」

進はそっとため息をついた。
沙織は世話好きの少女だった。いや、世話好きという言葉では物足りない。
献身的とでもいえばいいのか。
何くれとなく、進の世話を焼きたがった。それこそ、進の保護者のように。
もちろん、幼馴染の足が不自由であれば助けてやりたいと思うのが人情だろう。
そして、沙織は進より1歳年上の、いわば姉代わりなのだ。
だが、沙織のそれは少々度が過ぎていると、進は思っていた。

沙織は活動的な印象の美少女だった。
ショートの髪に、若干たれ気味のパッチリとした目、通った鼻筋、とがった頤、
笑うとできる小さなえくぼ。そして、部活で焼けた小麦色の肌。
そんな少女が献身的に世話を焼いてくれるのだから、
男なら舞い上がっても仕方がない状況だといえただろう。
しかし、進はそんな気にはなれなかった。

進の怪我には沙織が関わっていた。はっきり言えば、それは沙織が負わせた怪我なのだ。
過剰な世話焼きには、そのことに対する罪悪感、償いの気持ちがあるのだろうと進は思っていた。
だが、進はもうそのことを気にしてなどいない。昔の話なのだ。
確かに、左足は動かないし、松葉杖なしで歩くことはできない。
だが、それでも何とかやっていけるようになった。
おそらく、人の助けが必要になることはこれからもあるだろう。自分は障害者なのだ。
しかし、それも沙織が全てやる必要などないはずだった。
助けを求めることもまた、進がそのつど自分でやるべきことだった。
進のそういう気持ちを知ってか知らずか、沙織は相変わらず進の世話を焼き続けた。
それは正直、進にとってつらいものになり始めていた。
かといって、その気持ちを無碍にするのもはばかられた。

沙織と一緒に教室へ向かう途中、沙織には頻繁に挨拶の声がかかる。彼女は人気者なのだ。
美少女で、気立てがよく、成績優秀で、テニス部のエース、
しかもそれを鼻にかける様子もないとくれば、人気を集めないはずがなかった。
もちろん、同性からの嫉妬はあるのだろうが、進には分からない。
それに対して、沙織の横を歩いている進に対して声がかかることはない。
いつも松葉杖をついているという以外、進はまったく目立たない生徒だった。
いわば、空気のようなものだ。
だが、男子生徒から向けられる視線にははっきりと嫉妬の色、あるいは敵意の色が伺えた。
彼らは進を、沙織という学校屈指の美少女を、
動かない足をだしにして独り占めしているのだと思っていた。
彼らには進は、沙織の優しさにつけこむ卑怯な男として認識されていた。
さすがに直接的に攻撃を受けるということはなかったが、
それでもいずれは彼らの鬱積が爆発するときが来るだろうと、進は半ば観念していた。

教室の前まで来て、沙織はやっとかばんを返してくれた。
これでも改善したほうだった。1年生のときには、机まで付き添っていたのだから。

「じゃ、勉強頑張ってね」

沙織はかばんを渡すと、保護者のようなことをいって去っていった。
それを見送った進は、教室に入り、まっすぐ自分の机に向かった。
始業時間までは、まだかなりの時間があったが、すでに教室には何人かの生徒が来ていた。
だが、進との間に挨拶も会話もない。進は、無言で自分の席に着いた。
進には友人と呼べる人はいなかった。それこそ、沙織を除いては。
それは単に沙織がらみで反感をかっているというだけでなく、進自身、人付き合いが苦手なのだった。
そうなったきっかけは、足の怪我だった。あれから、友達と遊ぶことが難しくなり、
いつも一緒にいるのは沙織だけになった。
そして、沙織が自分以外の友達を作ることにいい顔をしなかったこともあって、
進は友達を作る仕方を忘れてしまった。
だから、実際に進が沙織から独り立ちしたとして、
本当にうまくやっていけるのかどうか実は自信がないのだった。
本当に自信があれば、多少強引にでも沙織を拒絶すればいいのだ。
だが、進はいろいろと理由をつけてそれをしてこなかった。
結局のところ、進も沙織に甘えているのだった。

進の机は、窓際の一番後ろにあった。進はかばんから文庫本を取り出すと、
ホームルームが始までそれを読み始めた。
そうやってホームルームを待っているご同輩を、進は斜め前の席に見つけた。
川名愛美(かわな あゆみ)だった。進と同じく、一人で文庫本を読んでいた。
進は、彼女のことをほとんど知らない。会話をしたことすらなかった。
それでも、なんとなく気にしていた。自分と同じく、いつも一人だったからだ。
いや、進には沙織がいるが、愛美にはだれもいないように見えた。

長い黒髪がトレードマークの少女だった。それといささか野暮ったい黒ぶちのめがね。
ただ、肌は白く、顔も進の目には整っているように見えた。多少、痩せすぎかもしれないが。
しかし、とにかくおとなしい少女なので、普段はまったく目立たなかった。
目立つときといえば、彼女がクラスの連中から何かと雑用を押し付けられるときだけだった。
例えば、掃除当番や委員会の仕事を代わってもらうときなど。
愛美は、それを断ったためしがなかった。唯々諾々と従った。
それは、ゆるやかな虐めだといえたかもしれない。
もちろん、愛美が虐められていたとして、進に何ができるわけでもなかったのだが。
進はいつも、一方的な仲間意識といくばくかの罪悪感を持って、愛美の顔を眺めるのだった。
別段、愛美のことが好きだというわけではなかった。会話したことすらないのだ。
ただ、その野暮ったいめがねをはずせば美人に見えるだろうにと、そう思うだけだった。

授業が全て終わって、進だけが教室に残っていた。
進は部活に入っていなかった。だが、帰ろうとする気配はない。
今はテニス部で汗を流しているだろう、沙織を待っているのだった。
登校の時だけでなく、帰宅の時にも沙織は進に付き添った。先に帰ると、沙織の機嫌は悪くなる。
だからこうして、沙織の部活が終わる時間になるまで教室で待っているのだった。
待っている間はいつも、スケッチブックを開いて絵を描いていた。
進の数少ない、というよりは唯一の特技にして趣味がデッサンだった。
静物から人物まで、何でも描く。
だが、こうして沙織を待っている間に描くのはたいてい沙織の顔だった。
脳裏に沙織の笑顔を浮かべながら、鉛筆を動かす。そうしていると、時間を忘れられた。

進は沙織が好きだった。
ただ、それを沙織に言ったことはない。だから、進と沙織はずっと幼馴染のままだ。
進と沙織はまるで姉弟のような関係で付き合ってきた。いまさらその関係を壊すのは怖かった。
確かに、沙織は自分に好意を持ってくれてはいるだろう。そのくらいのことは進にも分かっていた。
ただ、その好意が恋愛感情にもとづいているのかどうか疑わしいと思っていた。
というのも、非現実的なほどに立派な沙織に比べて、
絶望的にさえない男だと進は自分のことを思っていたから。
ハンサムでもなく、のっぺりした顔でどちらかといえば女顔で、
背も高くなく沙織の方が高いくらいで、成績も良くなく、とりえといえば絵を描くことぐらい。
それだって、たいしたことないのは、自分でも良くわかっていた。
釣り合わないにもほどがあった。
そしてなにより、足のことがある。
もちろん、障害を持った自分では沙織に迷惑をかけ続けることになるという気持ちもある。
だがそれ以上に気になるのは、沙織が進の気持ちを受け入れたとしてもそれは結局、
同情と罪悪感からのものではないかということだ。
それでは、あまりにも惨めだった。
だから、進にできることといえば、こうしてスケッチブックに沙織の笑顔を描くことだけだった。
我ながら根暗なことだと思いながら。

やがて、教室の戸ががらりと開いた。沙織だった。

「おまたせ。帰ろうか」

進はスケッチブックを閉じた。
もちろん、そこに何が描かれているのかは秘密だった。
見れば、進がどういう気持ちでそれを描いていたのか、一目で分かってしまうだろう。
スケッチブックに描かれたのと寸分たがわぬ笑顔で、沙織が進のそばに駆け寄った。
進はそれを、まぶしい思いで見た。

2

母親が仕事で帰りが遅くなるというので、平沢家は沙織を夕食に招待した。
招待といってもこれはたびたびあることで、双方特別気を使うこともない。
沙織は、おかずを一品持参してきた。沙織自身が作ったものだ。
母親が仕事で忙しい分、沙織が家事のほとんどを分担していて、料理もお手の物だった。
沙織が持ち寄るおかずは、進の両親に好評だった。もちろん進も気に入っている。
毎回なかなか凝ったものを持ってきてくれるのだ。
今日は、トマトソースで煮込んだハンバーグだった。
むろん、平沢家が沙織を歓迎するのは、その手土産だけが理由なのではない。
進の父親は、「女の子がひとりいるだけで食卓がぐっと華やかになる」と沙織が来るたびに、
それこそ聞き飽きるほどいっていた。
実際、沙織がいるのといないのとでは、食卓での会話と笑いの量が段違いだった。

「だからいったの、目玉焼きにお醤油じゃないひととは付き合えないって」

沙織の、進にはどこがおかしいのかいまいちよく分からない話を、父親も母親も笑って聞いていた。
余談だが、進は父親の影響で目玉焼きには醤油派だった。ご飯にのせた目玉焼きに醤油をたらし、
しかるのち崩した目玉焼きと共にご飯をかきこむのが好きだった。

「でも、やっぱりもてるんだなあ、沙織ちゃんは」

父親がいうと、沙織は照れ笑いを浮かべた。

「そりゃ、こんなにかわいいんだから。もてないほうがおかしいでしょ。料理も上手だし。
すごくいいお嫁さんになるわよ、きっと」

母親はそういって、進に流し目を送った。沙織は顔をうつむかせている。
沙織が家に来るたびに、しばしばこういう流れの会話になるのが、進は苦手だった。
だから、こちらに話を振られる前にご飯のお代わりをして話の流れを切ろうとする。

「進はどうかなー?」

無駄だった。母親が、空の茶碗を受け取りながら、今度は沙織に流し目を送っていった。

「進はちょっとおとなしいからなあ。ぐいぐいひっぱってくれるような子がいいんだけどなあ」

父親も、沙織に流し目を送りながらいった。
進はそっとため息をついた。

「僕はそういうの、興味ないから」

それで少し白けてしまった座を取り繕うように、母親がいった。

「まあ、進はまだまだお子様だから」

「ああ、そういえばこの前も進ったら…」

沙織がそれを受けて、話を継いだ。

進の沙織に対する気持ちを知っているのかどうか、
両親が進と沙織にくっついて欲しいと本気で思っていることを、進は知っていた。
二人を茶化しているだけではないのだ。ただ、それが自分を沙織に押し付けようとしているようで、
進はいやだった。
もちろん両親が進を疎んじているというわけではない。片足の動かない自分のために、
両親はできるだけのことをしてくれたし、十分な愛情をもらっていると思っている。
進と沙織をくっつけたいのは、その愛情ゆえなのだ。
つまり、しっかりとした人と一緒になってもらいたいという。
それは分かっているのだが、親の欲目なのか沙織と進が不釣合いであることを考えもしないらしい。
あるいは、両親の気持ちがどうあれ、
それが沙織に進の不具の責任を取らせようとしているように見えるということも。

沙織が進に怪我を負わせ、そして左足が動かなくなってしまったことが分かったときには、
さすがに平沢家と足立家の間の関係も冷え込んだ。
しかし、沙織の謝罪と、彼女自身が一番参っているのを見て、その仲もすぐに修復してしまった。
何せ、進がすぐに沙織を許してしまったのだから。
ただ、すべてが元通りになったわけではないのも確かだった。何より、進の足が元に戻ることはない。
そのしこりはきっと沙織と両親の間にも残っているはずで、
この食卓の会話の端々にもそれが顕在化しているような気が進にはした。

「ごちそうさま」

進はこれ以上話が妙な方向に行かないうちに、食事を切り上げることにした。
席を立って、自分の部屋に戻ろうとする。それを沙織が呼び止めた。

「今日、どうだった?」

ハンバーグの感想を聞きたいらしい。

「うん、おいしかった、母さんのより」

進がそういうと、沙織はうれしそうに笑った。花が咲いたような笑顔だった。
ひまわりかチューリップだな、と進は思った。
母親も笑っている。こちらには特に気を止めない。
進は今度こそ食卓に背を向けて、ダイニングキッチンを出た。
自分の部屋へ入って、先ほどのやり取りを思い出す。
沙織のことは好きだ。それに両親のことも。ただ、妙な期待をされるのは困る。
沙織にも、進にもそれぞれもっとふさわしい相手がいることだろう。
それに、このまま沙織と一緒にいるのは自分のためにも良くない気がしていた。
沙織がいると、どうしても甘えてしまうのだ。両親も、どこかそれをよしとしているところもある。
結局、両親も進には甘いのだ。
少なくとも、心の上だけでも独り立ちする必要がある。進はそのきっかけが欲しかった。

翌日、進は数学の授業を聞き流しながら、教壇に立つ教師の顔をノートの隅にデッサンしていた。
つまらない授業の間、進はたびたびそうやって時間を潰すのだった。
すると、視界の端を、白いものが横切った。斜め前の席、つまり愛美の机の上から落ちたようだった。
消しゴムだ。自分の椅子のところに転がってきた。
愛美は気づいていない。進はそれを拾い上げた。ただ、授業中の今それを返してやるのは、
目立つようでいやだった。
幸い、愛美も今は消しゴムを必要としていないらしい。必要になったときに渡してやろう、
そうならなければ授業が終わってから渡してやろう。
進はそう考えて、自分の机の隅に消しゴムを置いた。

結局、授業が終わっても、消しゴムは机の上にあった。
休憩時間になったので、進はそれを愛美に返してやることにした。

「川名さん」

後ろから呼びかけるが、聞こえないのか愛美は振り返ろうとしない。何度か呼びかける。
それでも反応がなかった。
確かに教室はざわついているが、それでも聞こえないほどではないだろうに。
無視されているのだろうか。
進はそう考えて暗澹たる気持ちになりながら、
それでも立ち上がって消しゴムを愛美の机においてやった。
すると、愛美はようやく進の方を振り返った。それから消しゴムを見て、筆箱の中を確認して、
やっと進が消しゴムを拾ってやったことに気づいたようだった。

「あ、ありがと」

進は愛美にそういわれると、「いや」とか「別に」とか口の中でもごもごいいながら、
自分の席に戻った。
そんな風に感謝の言葉をもらうのに、慣れていないのだった。自分でいうことはたくさんあっても。
椅子に座って顔を上げると、愛美はまだ進の方を見ていた。目が合った。
愛美は顔を赤くして、すばやく顔を正面に戻した。その反応に、進は首をひねった。

放課後、進はスケッチブックを脇に抱えて中庭に向かっていた。
今日は天気がいいので、沙織を待つ間、外で絵を描いて時間を潰すことにしたのだ。
皆、部活に出るか帰ったか、廊下には進以外いなかった。
校庭からは、ランニングする生徒の掛け声が聞こえてきた。
自分が皆と違うことをいやでも思い知らされるのは、やはりスポーツに関わるときだ。
体育の教師などは、授業のときでも進を積極的に参加させようとし、そのための便宜も図ってくれる。
その気持ちはうれしいが、正直ありがた迷惑だった。特別扱いをされるのはつらい。

「なんかいいなさいよ!」

一階の階段下から、声が聞こえてきた。あまり穏やかな感じではない。
進は、気づかれずにやり過ごそうと、音を立てないよう、慎重に階段を下りた。
案の定、階段の下には進に背を向ける形の何人かの少女たちがいて、
一人の少女を囲んでいるようだった。

「何よその顔。気持ち悪い。いってみなさいよ」

そうやって罵声を浴びせられているのは、愛美だった。いやなものを見てしまったと、進は思った。
こういう目にあっているのではないかと、うすうす思っていた。

「前から気に入らなかったんだから、この根暗女」

そういっているのは、進と同じクラスの女生徒だった。
かわいいと評判の少女で、少女たちで作るひとつのグループを仕切っていた。
今、愛美を囲んでいるのも、そのグループの少女たちのようだった。
進はこれまで彼女たちと関わることはなかったし、この現場を目撃して、
これからも二度と係わり合いにはなりたくないと思った。
だから、愛美に対して罪悪感をおぼえながらも、その場を離れようとしたそのとき。

ずっとうつむいていた愛美がなぜか顔を上げた。めがねの奥の目と目があってしまった。
怯えた表情をしていた。目が潤んでいた。助けて欲しいのだろうか。
だが、こんな自分に助けを求めるだなんて、状況がよく分かっていないのではないか。
進はそっとため息をついた。
そして、片方の松葉杖から手を離した。それは床に倒れて、コーンと音をたてた。
それを聞いて、愛美を囲んでいた連中が肩をびくりと震わせて振り返った。
そんなにびくびくするくらいなら、どこかよそでやってくれればよかったのに、進はそう思った。

「あ、平沢…君」

リーダー格の少女はそういうと、いやそうな顔をした。
それはもちろん、誰に見られてもいやな現場だったろうが、
進に見られるのは特にいやだったのだろう。
彼女が、自分を苦手にしているのを、進はなんとなく感じていた。
きっと障害者を相手にするとペースを狂わされるのがいやなのだろう。
それに、進のバックには彼女も及ばない学園一の美少女で人気ものの沙織がいる。
幼馴染の威を借る卑怯者といったところか。進は自嘲した。

「ごめん、誰か、杖拾ってくれない?」

進がそういうとしらけてしまったのか、少女たちは今にも舌打ちでもしそうな様子で
愛美の方を何度も振り返りながら、囲みを解いて去っていった。
杖は拾ってくれないようだった。進は少女たちを見送ると、愛美の方を見ないようにしたまま、
松葉杖を拾おうとした。
虐められている現場を見られたというのは、当人にとっていやなものだろう。そう思ったからだ。
だが、進が一本だけの杖に体重を乗せながら床に手を伸ばしたところで、愛美が駆け寄ってきた。
そして、進より早く、しゃがみこんで杖を拾った。
そして、しゃがんだまま進に捧げ持つようにして渡そうとした。

「あ、ありがと」

進は、多少とまどいながら、それを受け取った。

「あ、あの」

愛美が見上げながら何かいいかけたが、進はそれを聞く前に愛美が
びっくりするほど素早く松葉杖を操ってその場を離れようとした。
だが、慌てたために、今度は脇に抱えていたスケッチブックを落としてしまった。

「うわっ」

そしてそれを拾おうとして、また一本の松葉杖を床に落としてしまう。
なんてかっこ悪いんだろう、進はそう思った。
まだしゃがんだままだった愛美が、松葉杖とスケッチブックを拾って立ち上がった。
愛美は、手にしていた杖とスケッチブックを進に渡した。

「はい、これ」

それから、進の目を見ていった。

「あの、ありがとう、平沢君、本当に」

愛美は、さっきまでの様子がうそのように微笑んでいた。
進は、しばしば彼女の顔を眺めていたのだが、笑ったところをみたのは初めてだった。
かわいいと思った。沙織のような華やかな笑みではない。
けれど、路傍の小さな花が一年ぶりに開いたかのような、そんな笑みだった。
庇護欲をそそられた。
いつもは庇護される対象の進は、自分のその気持ちにうろたえた。
そうしてやはり、「いや」とか「別に」とか口の中でもごもごいいながら、愛美に背を向けた。
今度は慌てすぎないように、だが早足で、その場を立ち去った。
変なことをしてしまったと、後悔しながら。

愛美は、進が廊下の角を曲がって見えなくなるまで、その背中を見送っていた。

3

翌朝、沙織と並んで登校していた進は、学校の近くまで来て、前方に見慣れた背中を見つけた。
愛美だった。朝日を受けて、長い黒髪が白っぽく光を跳ね返していた。
その姿を見て昨日のことを思い出し、進はため息をついた。

「あ、またため息ついた。良くないよ、その癖」

それを目ざとく見つけた沙織に指摘された。

「ああ、また幸せが逃げていった」

進はわざとらしく嘆いて見せた。

「まあまあ、その分はわたしが補填してあげるから」

そういって笑う沙織に、進も笑い返すしかなかった。
確かに沙織は幸せそうだ。それこそ、他人に分けてやれるほどに。
不幸の種があるとすれば、離婚して家を出た父親のことくらいだろうか。
もう、ずっと会っていなくて、顔も分からないらしい。
離婚した親でも子供に会う権利はあるはずだ。
それでも会っていないというのは、父親の方が顔を合わせたくないということなのだろうか。
沙織と母親の仲はとても良いように見えた。
もちろん、進も沙織の母親とは顔見知りで、おばさんおばさんと慕っていた。
今では恥ずかしい話だが、進の初恋の相手でもあった。
年は進の母親と一緒のはずだが、とてもそうは見えず若々しかった。
そして沙織に似て、というより沙織の方が似ていることになるのだろうが、活発そうな美人だった。
大手のアパレルメーカーに勤めていて、毎日多忙のようだった。
その母親を、沙織はよく支えていた。しかも、ずっと以前から。
中学生のころにはもう、一通りの家事をこなしていた。
そのころから沙織は実際の年齢以上にしっかりとしていて、
それが今の手厚い世話焼きにつながっているのだろうと、進は思っていた。

進は教室に入ると、愛美は一足先に席についていて、いつものように文庫本を読んでいた。
進は愛美の席を横切って、自分の席に向かう。
どことなく気まずい。
そのとき、愛美が文庫本から目を離して、顔を上げた。
何気なくという感じではない。タイミングを計っていたようだった。

「あの、お、おはよう」

進は虚をつかれた。

「ああ、うん、えと、おはよ」

進はなんとか挨拶を返した。愛美はすぐに再び文庫本に目を落としてしまった。
その耳が赤くなっていた。

放課後、進は教室でスケッチブックを広げていた。
いつものように、沙織の顔を描いていた。
くぎりがついて、手を休める。ふと、斜め前の愛美の席が目に入った。
今朝の挨拶以外、彼女と言葉を交わしてはいなかった。それはいつものことだった。
昨日はちょっとしたイレギュラーがあっただけで、それだけで今までの関係が変わるわけではない。
というより、もともと二人の間にはクラスメートということ以上の関係はないのだ。

進は昨日、愛美が見せた笑顔を思い出した。
いつもあの顔で笑っていれば、友達だってできるだろうに。
進も愛想のあるほうではないが、愛美はそれ以上に無愛想であるように、進には見えた。
それからめがねをとってみたら。意外ともてるのではないか。
進はそれを想像しながら、鉛筆を手にとっていた。
スケッチブックをめくって、愛美の顔を描きはじめた。
まずはめがねつきで。いつもの表情で。暗い。
それから、笑顔バージョン。なかなかいい。
めがねなしバージョン。
めがねなし、笑顔バージョン。ぐっとよくなったが、まだどこか暗いか。
そこまで描いて、どことなく暗く見えるのは前髪が長すぎるせいだと気づき、それを少しだけ短く切りそろえてみる。
古風な美人ができあがった。欧米系に見える沙織とは、まったくタイプの違う美人だった。
和服が似合いそうだと思った進は調子に乗って、和服バージョンを描きはじめた。

いつの間にか机のうえに臥せっていた進は、自分のそばに誰かの気配を感じて目を覚ました。
がばりと体を起こした。
そばにいた誰かが、「きゃっ」と小さく声を挙げた。
愛美だった。
進のスケッチブックを覗いていた。
進は、「わっ」と声を挙げてそれを隠した。
見られてしまった。だが、どこまで見られたのだろう。

「ご、ごめんないごめんなさい、わたし、わたしつい」

愛美はぺこぺこと頭を下げた。

「ああ、いや、別に、どうってことはないけど」

正直文句は言いたかったが、自分のスケッチブックを覗かれたぐらいでぐだぐだいうのは
男らしくないと思い直した。
そのまましばらく頭を下げていた愛美が、おそるおそるといった感じでいった。

「あの、それ、もしかして、わたし?」

進は自分で隠したスケッチブックを改めて見た。
めがねを取り、前髪を少し短くして、しかも和服を着せた愛美が微笑んでいた。
とてつもなく恥ずかしい。顔が赤くなった。
愛美の顔も、これ以上ないというほど赤くなっていた。
それは、こんな勝手な妄想の具にされれば女の子として恥ずかしいのは当たり前だろう。
いやそれどころか、怒っているのかもしれない。
甘やかされてきた進は、怒られるのが苦手だった。いつまでも引きずってしまうのだ。

「あの、ごめんっ、おかしなもん描いて」

進はそこまでいって、自分のほうこそおかしなことをいってしまったことに気が付いた。

「あ、いや別に川名さんがおかしなもんってわけじゃなくて、
ただ僕の絵が、その、なんか違うっていうか、これは想像で」

進がわたわたとそういうと、愛美は少しだけ微笑んだような気が、進むにはした。

「わたしはただ、すごく上手だなって思っただけで」

どうやら、怒ってはいないようで進はほっとした。

「あの、ほかには見た?」

「ううん、それだけだけど」

進は安堵のため息をついた。沙織の絵のほうは見られていないらしい。
それを見られていたら、しゃれにならない。何しろ、何十枚と沙織を描いているのだ。
まるでストーカーだった。
少しの間、沈黙が降りて、それから愛美がいった。

「美術部には入らないの」

前にも、誰かにいわれたことがあった。

「うん、これはただの趣味だし、暇つぶしっていうか、いや、描くのは好きなんだけど」

「わたしもそんな感じ。でも、入ってますよ、美術部」

初耳だった。愛美も同じ帰宅部だとばかり、進は思っていた。

「どうせ描くなら道具があるほうがいいし、石膏とか、静物もあるし、
美術部は人も少ないから落ち着いて描けるし、それから、えと」

愛美の声は少しずつ小さくなった。

「あの、だから、もしよかったら、入らない、美術部。今、うち人がいなくて。
男の子が一人もいなくて。それは別にいいんだけど、いえ、よくないんだけど、
でも女の子もやっぱりほとんどいなくて、あの」

進も、美術部に入ろうと考えてみたことはあったから、そういう事情は知っていた。
部員は女子ばかりで5人ほどだという。そこに愛美が入っているのは知らなかったが。

「でも、僕もう2年だし。2年からってのもなんだか」

「大丈夫!」

愛美が、進の想像外の大きな声でいった。

「うちは上下の関係なんかもないし、部長さんはいいひとだし、みんなもいいひとだし、
顧問の先生もいいひとだし、きっと歓迎すると思う、みんな」

愛美の話を聞いていると、世界中いいひとだらけのような気がしてきた。
彼女の口から、そういう言葉を聞くのは意外な気が、進にはした。
孤独だと思っていたのはこちらの勝手な想像で、彼女には彼女の居場所があるらしい。

「うん、でも、なんていうか、その」

進は煮え切らない。はっきりとはいえないが、沙織のことが引っかかっていた。

「じゃあ、見学しましょう」

「今から?」

「今から」

ここまで積極的になれる娘だとは、思ってもみなかった。
新入部員勧誘のノルマでも課されているのではないかと、進は思った。
例えば、その「いいひと」である部長にいいつけられているとか。
だとすれば、むげに断るのも悪い気がしてきた。あの愛美がここまでくいさがるのだから。
別にすぐに入部させられるわけでもない。見学くらいかまわないだろう。
時計を見ると、沙織が来るまでにまだ時間はあるようだった。
進はそっとため息をついて、杖を突きながら立ち上がった。

「わかった、行こ」

愛美はうれしそう笑った。
どうやらまるっきり関係が変わらなかったというわけではなさそうだと、進は思った。
進としては、それがいい関係であるように祈るしかなかった。
幸い、愛美はいかにも人畜無害であるように思えた。

4

美術部は美術室を部室として使っていた。
愛美は戸を開けると、その中へつかつかと入っていった。
愛美の後についてきていた進は、体は教室の外に置いたまま、教室の中を覗き込んだ。
何かあれば、すぐに帰ろうと思ってのことだ。
そこには、女生徒がひとりだけいた。その女生徒と目が合った。見覚えのない顔だった。
女の子にしてはずいぶん背が高い。
髪を無造作にゴムで束ねていた。束ねきれていない髪が、ぴょんぴょんとはねている。
髪の色は多少薄かった。
くっきりした二重の目に、濃い眉毛。目の下あたりにそばかすが散っているのが特徴的だった。
全体的に、彫りの深い顔だった。
その彼女と目が合ってしまったのだから仕方がない。進も諦めて教室に入ることにした。

進は愛美の隣にたった。愛美が口を開きかける。
だがその前に、女生徒が機先を制して話し出した。

「おお、君は平沢進君ではないか。いや、お噂はかねがね」

進はそれを聞いて、機嫌を悪くした。
沙織のおかげで、進は校内でそれなりの有名人であるが、その評判はよいものではなかったからだ。
沙織の金魚の糞であるというぐらいなら事実なのでまだいいが、根も葉もない噂も流されていた。
それを察したのか、女生徒が付け加えた。

「おおっと、誤解しないでもらいたい。あたしは足立沙織と同じクラスの友達でね。
沙織から直接、君のことは聞いているのだよ」

つまり、彼女は1年先輩らしい。

「あたしは3−Aの山口翠(やまぐち みどり)。美術部の部長をやっている」

「あ、僕は」

「だから知ってるって。平沢進君。2−C所属。まれに見るがんばりやさんだが、
子供っぽいところがある。好きな食べ物はシチュー。コーヒーには砂糖とミルクを入れる。
炭酸飲料が苦手。好きな色は青で、好きな音楽はテクノ。趣味は読書、それから」

翠は、そこでいったん休憩を入れて、というよりタメを作って続けた。

「絵が上手いらしい。これは全部沙織が勝手にしゃべったことだから。間違いがあったらいってね」

進は沙織の暴露ぶりにあきれた。友達と自分の話をしているなどと、想像もしていなかった。

「いや、だいたいあってます。絵が上手いってこと以外は」

翠はそれを聞いて「ふーん」と肯いた。

「で、その平沢進君がいったい何用でこんなところまで?」

そこで、蚊帳の外に置かれていた愛美がやっと口を開いた。

「見学です、美術部の。平沢君、どこにも入ってなくて、だからわたしが誘ったんです」

「ほおほお、グッジョブ、川名さん!この部には何かが足りないと思っていた。画材か?予算か?
いや違う!それは若い男だ。あたしは若い男に飢えていた」

「あの、別にまだ入ると決めたわけじゃないですから」

進は釘を刺した。翠はいかにも口が上手くて、押しの強い娘であるように、進には思えた。
進はそういうタイプが苦手だった。あれよあれよと向こうのペースに巻き込まれて、
進のような人間はいつの間にか流されてしまう。
実のところ、沙織もまた似たようなタイプだったのだが。

「いやいや、まあ見てってよお客さん。画材は全部部費で買えるし、静物だってこんなのもあるし」

翠はそういって、水牛の頭蓋骨らしきものを手に取った。

「ほらほら、ハリケーンミキサー!!なんちて。それだけじゃない。
うちの部には5人の美少女が控えている。そこにいる川名さんなんて、結構かわいいでしょうが。
え、何?それとも川名さんがかわいくないとでもいうつもり?」

「あ、いや、かわいいと思いますけど」

翠の押しに、進がついいってしまうと、愛美はそれを聞いて顔を赤くした。
翠はそれを見て、にやりと笑った。

「まあもちろん、筆頭美少女はこのあたしなんだけどね。なんだったらモデルだってしてあげるよお。
何、全裸がいい?仕方ないなあ、そこまでいわれちゃあ、後には引けない。
あたしのナイスバディーを拝んで空までぶっ飛びやがれ!!」

翠はそういって、セーラー服のリボンを解き始めた。進は展開のあまり速さについていけていない。
おろおろすることもできず、ただ唖然としていた。
翠を止めたのは、進ではなく、愛美だった。

「ちょっと部長!平沢君が困ってますから」

「あははー、ごめんごめん。やっぱりメインは後輩に譲らないとね。ほらほら川名さん、
平沢君も待ってるから、じっとして」

今度は、翠のリボンを解き始めた。

「あっ、あのっ」

愛美はなぜか律儀に翠のいうことを聞いて、じっとしていた。リボンが完全に解かれてしまう。
愛美が進の方をちらりと見た。赤い顔をしていた。だが、単に恥ずかしがっているという風ではなく。
進はやっと再起動した。

「ストップ!僕はいいですから、もう止めてください」

「ふむ、平沢君がそういうのなら、このくらいでよしておくか。じゃあ、入部は決定ということで」

翠が愛美のリボンから手を離した。愛美はそれをすばやく結びなおした。

「いや、だからまだ決めたわけじゃなくて」

「まあまあ、とにかく仮入部ということで。しばらくここに来て、いい感じだったら
本入部すればいいんだし。だから、明日から放課後にはここに来るように。
いちおう活動日は月曜から金曜まで。
うちは固いところじゃないから。気が進まなかったら休んでもいいし、
天気がよかったら外で描いていてもいいし。顧問は明日来ると思うから」

「あの、でも沙織ちゃ、足立先輩が」

「知ってる知ってる。いつも一緒に帰ってるんでしょ。まあ、そのときまでいればいいじゃない。
教室で描くのも、ここで描くのも一緒でしょ」

確かにそうだった。それに、断るのに沙織のことを理由にするのは、いかにも情けないことのように
進には思えた。だとすれば、他に断る理由などないようにも思えた。

「あの、分かりました。とりあえず明日から様子見ということで」

「おお!来てくれるか。後の歴史家は、君の決断を英断と呼ぶだろう、平沢卿」

翠はそういって、右手を差し出してきた。握手をしろということらしい。
進が杖を離して右手を出すと、翠はそれを握ってぶんぶんと振った。
怒涛の展開に時間を忘れていたが、そろそろ沙織が迎えに来る時間だった。
今日はもう戻ることにした。

「ささ、川名さん。旦那を送って差し上げて」

一人で大丈夫だという進に、翠は無理やり愛美をつけた。
美術室に来たときと同じように、二人して教室に向かった。

「すごいひとだったね」

「あの、ごめんなさい、うちの部長っていつもああだから。迷惑だった?」

愛美が顔をうつむかせていった。

「いや、確かに驚いたけど。でも面白かったし。ああいう人は嫌いじゃないっていうか」

「平沢君は部長みたいに明るい人が好きなの?」

話が妙な方向に進んでいた。

「好きって言うか、嫌いじゃないっていうか、でもそういう恋愛感情とは違うっていうか」

「そう」

愛美はやっと顔をあげた。
そのとき、背後から声が響いてきた。

「進っ」

振り返ると、やはり沙織だった。進のかばんを持っていた。こちらに駆け寄って来る。

「ちょっと、もう、どこにいたの!?」

沙織は進の前まで来ると、そういった。
少し怒っているようだった。確かに約束の時間はすぎていた。しかしそれも僅かなものだった。

「いや、ちょっと、出てて。今、教室に帰ろうかと」

進は腰を引かせながらそういった。人に怒られるのは苦手だ。

「そう。で、こっちの子は?」

沙織は愛美の方をじろりと見た。
愛美は固まっている。

「えと、僕のクラスメートで、川名さんっていって、美術部で」

「そう、じゃあ川名さん。進はわたしと帰るから。さようなら」

沙織はそういうと、進を引っ張るようにして愛美から引き離した。

「ちょ、ちょっと待って、沙織ちゃん。あ、じゃあ、川名さん、またね」

愛美は、半ば引きずられるようにして連れて行かれる進の背中を見送った。

「で、どこに行ってたの」

校門を出たところで、沙織が聞いた。
美術部にいっていたと、進は正直に答えた。

「美術部?どうして?」

「ああ、美術部に入ろうかと思って、その見学」

「へ?美術部?何でいまさら?」

「いや、放課後待ってる間さ、別にどこで待っててもいっしょかなと」

進は、こんどは正直にはいわなかった。
なぜか、愛美に誘われてとはいいにくかった。

「あのさ、待つのが暇だったら、わたし部活やめよっか?」

まさか、そんなことを言い出すとは進も思わなかった。沙織の目を見ると、本気でいっているらしい。
冗談ではなかった。そんな理由で沙織を部活からやめさせたとあっては、
学校中の生徒からどんな目にあうかしれたものではなかった。

「いやいや、それはおかしい。それくらいなら、帰りは別々にするとか」

それは、進がいずれいおうと思っていたことだった。
成り行き上とはいえやっと口に出せたことに、進は自分に喝采を送ってやりたい気持ちになった。

「なに?進はわたしと帰りたくないの?」

沙織が進の目をみていった。固い口調だった。進はそれを聞いて、すぐに日よってしまう。

「いや、そんなことはないけど。でも、沙織ちゃんが大変なんじゃないかと、思って」

「別に。わたしは大変だと思ったことなんてないよ」

沙織はきっぱりといった。

「だって、あのとき約束したでしょ。進のことはわたしがずっと面倒見るって」

沙織は進の目をさらにじっと見ながらいった。
それが重荷なんだけど、などと進はいえなかった。ただ、その視線に気おされて押し黙るだけだった。
それから、二人はお互い黙ったまま家に帰った。

5

結局、進は沙織から美術部に出入りすることの承諾を得た。
もちろん、改まってお伺いを立てお許しを得たという情けないことをしたわけではないが、
進の心境としては同じようなものだった。
おそらく美術部の部長が彼女の友人である翠だということが、
沙織が心を許した決定的な理由なのだろうと進は推測した。
話を聞くと、確かに翠と沙織は友人同士であり、たびたび一緒に遊びにいく仲なのだという。
ただ、それにしても自分のプロフィールをあんなふうにしゃべられてしまうのは気に食わなかった。

「あはは、ごめんね。でも、なんだか進君のこと、ついつい話したくなっちゃうんだよねえ。
進君ががんばりやさんだからかなあ」

進は沙織のその言い訳にもならない言い訳を聞いて、冗談ではないと思った。
どうか、それを聞いた人が惚気話だなどと思っていませんようにと祈った。
これ以上、自分の知らないところで嫉妬の種を蒔かれるのはごめんだった。

まさかそのせいではないだろうが、進は次の日、沙織との仲に関して初めて直接的な警告を受けた。
トイレで用を足していたときのことだ。
ちなみに進は、杖を器用に使って立ったまま小便をすることができた。
同じく横で用を足していた男子学生が、ぼそりとつぶやいた。

「おまえ、調子に乗るなよ」

トイレにいたのは二人だけだった。思わず出入り口の方を確認するが、見張りらしき人影はない。
どうやら、いきなりここでリンチにあうことはないようだ。

「なんのこと?」

内心のおびえを隠しながらいうと、男子学生は薄ら笑いを浮かべながらいった。

「ふざんけんじゃねよ。分かってんだろ。足立沙織のことだよ。
おまえ、身障だから構ってもらってんだろうが。勘違いしてべたべたしてんじゃねえよ」

もちろん、「男の嫉妬はみぐるしい」などといえるはずもなく、
小さな声で「分かってるよ」とだけいうのが関の山だった。
相手の体は、進よりずっと大きい。片足というハンデがなかったとしても勝ち目はないだろう。
勝てないけんかはしない主義だった。といっても、進がけんかで勝てる相手など
限られてしまうだろうが。
それに正直、けんかをする理由もなかった。その学生にいわれたことは、
進が常々心に言い聞かせていたことでもあるからだ。
腹が立つのはただ、いまさらお前に言われたくないというそのことだけだった。
いや、改めて他人から現実を突きつけられるのも確かにつらいのだが。
男子学生は、進より一足先にトイレから離れた。そして、手洗い場で手を洗うと、
わざわざ戻ってきて進の制服で手をぬぐい、それから出て行った。
とっくに小便を終えた進は、安堵のため息をついた。情けないことにそのため息が、少し震えていた。

「あー、情けない情けない」

進は自分と、それからおそらくは振られた腹いせに身障者に絡んできたさきほどの学生に向かって
そういうと、手を洗ってトイレを出た。
手はもちろんハンカチで拭いた。母親ではなく、沙織が毎朝注意するので、
いつも持ち歩いているハンカチだった。

「今日は、別々に食べない?」

進がそういうと、昼食の誘いにきた沙織は目を丸くした。
学校での昼食はいつも一緒に弁当を食べることにしていたからだ。
それをこちらから断ったことなどなかった。

「どうして?」

「あー、たまにはほら、それぞれの友達と一緒に食べるのもいいかなって。
沙織ちゃんだって、友達によく誘われるんじゃない?」

進でも、女子生徒にとって誰と一緒に昼食を取るのかが人間関係の構築と維持に
どれほど切実なものであるのかをおぼろげながら知っていた。
これまでずっと進と一緒に食べてきて、それでも友人の多い沙織はきっと希少種なのだろう。
進の方はさっぱりなのだが。

「うん、それはそうだけど。でも進君は?」

そう問われて、とても「一人で食べる」とはいえない。それはあまりに情けないように思えた。
多少の嘘は仕方がない。これは、沙織の交友関係のためにも、進の沙織からのひとり立ちのためにも
必要なことなのだ。
決して、脅しに屈したからではないのだと、進は自分に釈明した。

「ああ、僕にも友達くらいいるから。大丈夫大丈夫」

「そお?まあ、進君だってお友達と食べたいときだってあるだろうけど」

沙織はまだ釈然としていない様子だった。

「じゃあ、そのお友達って誰?ご挨拶しなきゃ」

沙織のその言葉に、進は一瞬絶句した。本当はそんな友達はいないという事実をかんがみて、
そしてわざわざ幼馴染の友達に挨拶をしなければと思い至るその保護者根性に。

「なにいってんの。僕の友達なんだから沙織ちゃんは関係ないじゃない。
いいからさ、ほら、早くいかないと昼休み終わっちゃう」

進は片手で、ぐいぐいと沙織を押して教室から引き離した。

「え、でも、もう、押さないでってば、片手じゃ危ないよ進君」

沙織はそういって、自分から離れた。
そして、進の目をじっと見た。確かに嘘はついているが、
これは必要なことで後ろめたいことはないはずだ。進は自分にそう言い聞かせてその目を見返した。
しばらくそうして、沙織も諦めたようだった。

「はあ、分かった、分かりました。じゃあ、今日は別に食べることにします」

二人は手を振って分かれた。ただ、沙織は何度も進の方を振り返っていた。
いきなり、昼食を別にするといわれて、混乱しているのだろう。
ただ、沙織と一緒に昼食をとりたい人間など、男女含めてそれこそ学校には数えられないくらい
いるのだから、心配することはない。
そして進も、別に一人で昼食を取るのがいやだというわけではなかった。

席に戻って弁当箱のふたを開けて食べ始めると、周りの生徒の空気が少し変わったのに気がついた。
みんな、いつも沙織と一緒に食べているのを知っているのだ。
ただ、進がわれ関せずで弁当を食べていると、やがて関心を失ったのか、
皆それぞれの食事と会話に集中し始めた。
しかし、誰もがそうやって進に無関心でいるわけではなかった。

「あの、平沢君?」

愛美だった。ピンクの布に包まれた小さな弁当箱を持っていた。

「今日はひとり?」

「ああ、うん、ちょっとね」

詳しいことは説明しづらい。

「あっ、じゃあ、えと、よかったら一緒に食べてもいい?」

愛美の唐突な提案に進はどう反応してよいのか分からない。
それをどう勘違いしたのか、愛美はあわてだした。

「うん、そうだよね、いやだよね、わたしといっしょなんて、ご、ごめんね、変なこといって」

愛美は暗い顔をして、そのまま弁当箱を持って立ち去ろうとした。
このまま行かせてしまえば、後で罪悪感にさいなまれること間違いなしだと思った進は、
あわてて引き止めた。

「いや、そうじゃないから、驚いただけだから、うん、一緒に食べよ」

進がそういうと、愛美は子犬をもらいたての女の子のように笑った。

「でも、どこで?ここで?」

進でも、同じクラスの男女が一つの机で二人きりで昼食を取るということが
世間の目にどう写るかくらいは分かっていた。
われながら、多少図太いところがある自分はいざしらず、いかにもプレッシャーに弱そうな愛美に
それはつらいだろうと進は思った。

「あの、わたし、いつも美術室で食べてるから。それであまった時間に絵描いたり」

お世辞にも、美術室が食事に適した場所だとは思えなかった。テレピン油やらの匂いがするのだ。
愛美は慣れているのかもしれなかったが。
ただ、それも少し我慢すれば済むことだった。
愛美の提案どおり、二人は美術室で食べることにした。

「いやあ、早速来てくれたのかい、平沢君!」

二人きりだと思ってきてみれば、美術室には先客がいた。翠だった。
予想していなかった事態に、進は美術室の出入り口で立ち止まってしまった。
翠は、右手で絵筆を動かしながら、左手で3色パンを口に運んでいた。行儀が悪かった。

「いや、ただ川名さんに誘われて昼飯を食いに」

「ほう、そうかそうか、川名さんに誘われてねえ」

翠は、進の横に立っていた愛美の方へにやりと笑いかけた。
愛美は顔を赤らめながら、伏せた。

「ああ、ほらほら座って座って。まあ、ここはお茶もなんにもないけどね。
絵を描きながらご飯が食べれるくらいで」

進と愛美はがたがたといすを動かして、向かい合ってすわり、膝の上に弁当を置いた。
進はだまって、愛美は手を合わせていただきますをいってから、弁当を食べだした。

「先輩もいつもここなんですか?」

進が聞いた。

「先輩だなんて水臭いなあ、みどりんでいいっていったのに」

「どうなんですか、先輩」

進が乗ってこないのに諦めて、翠がまともに答えた。

「まあね、さっきもいったように絵を描きながら食べれるしね。でも平沢君は?
いつもは沙織と一緒じゃなかったっけ」

「そんなことも知ってるんですか」

「あったりまえ、学校中の人間が知ってるんじゃない?中庭で二人でいれば目立つでしょうが。
あそこ、カップル専用なのに」

「へ?」

進にはきいたことのない情報だった。

「うそ、まじで知らなかったの?いやー鈍いねえ旦那。周りみりゃ分かるでしょうーが、だいたい」

確かに、改めて思い出してみると周りにはカップルばかりがいたような気がする。
ただ、進はいつも沙織といるときには、いやなものを見てしまうので
周りには極力注意を払わないようにしていたので気がつかなかった。

「まあ、いーや、それで、なんで今日は、川名さんとここで?」

「別に、僕だっていつも足立先輩と一緒にいるわけじゃありませんから」

進は、若干不機嫌さをにじませていった。
いい加減、自分を沙織の金魚の糞のように扱うのは止めて欲しかった。

「でも、いつも一緒にいるじゃん」

わりとしつこく、翠が追求した。

「だからです。そろそろ、その、ひとり立ち、じゃなくって、なんというか、えと」

たった一つ違いの幼馴染から、「ひとり立ち」しなければならないという自分の境遇に、
進はへこんだ。
どれほど甘ったれなのだろうと、進は思った。

「なるほど、まあいいんじゃない。沙織だって今年で卒業しちゃうわけだしねえ。
新しくお友達を作っとくのもいいよねえ」

翠はそういって、やはり愛美ににやり笑いを向けた。
愛美がまた顔を赤くして伏せた。

「それ、止めてもらえます」

「え、なになに何を止めて欲しいって?」

「それです、その笑いです」

「えー、人の笑顔を奪うこの悪魔、冷血漢、未来の管理社会、ビッグブラザー、H・G・ウェルズ!」

「なんですかそれ。それに最後のはオーソン・ウェルズでしょ」

そのやり取りを聞いていた愛美が、いきなり肩を震わせた。笑いを堪えているようだ。
「ぷくくくく」と愛美には似つかわしくない笑い声が漏れていた。

「ほら、川名さんだって笑ってますよ」

「ちがうの、平沢君、それジョージ・オーウェル」

進はそれを聞いて、赤面した。それなりには読書家であるとの自負があったのだ。

「あーあ、恥ずかしい間違いしちゃったねー」

「何いってんですか、先輩よりも僕の方が近いですよ」

「いやいや、あたしはちゃんと分かっててボケたんだもん」

「嘘ですよ!」

「いやー、恥ずかしい恥ずかしい。「それに最後のはオーソン・ウェルズでしょ」だってさー」

翠は、進の口真似をしていった。

「なんですかそれ、もしかして僕の真似ですか?ゼンッゼン似てませんから」

愛美は、そのやり取りですでに笑いを我慢するのを止めていた。
半ば本気で、半ば冗談で翠に噛み付いていた進は、それを横目で見ながら、
たまにはこういうのもいいのかもしれないとそう思った。

6

進はスケッチブックに鉛筆を走らせながら、翠に尋ねた。

「川名さん、遅いですね」

「うん、どしたのかね。今日はもう来ないのかな」

翠の方は、キャンバスに筆を走らせながらそういった。
進が初めて美術部に来てから、数日が経過していた。
その次の日には、顧問の教師と、それから愛美と翠を除く部員と顔をあわせていた。
愛美のいっていたとおり、翠はもちろん、他の人間も進のことを歓迎しているように見えた。
懇願されて自分の描いた絵を見せると、歓迎色はいっそう濃くなった。
ただ、翠と愛美を除く部員たちは必ずしも出席に熱心というわけではなく、
たびたびその二人に進を加えた3人で活動をしていた。
今は、進と翠の2人しかいない。
しかし、愛美は教室で用事のあった進を残して一足先に美術室へ向かったはずなのだ。
もちろん、途中でどこかトイレにでも寄っているということもあるだろう。
ただ、あれから1時間近くが経過していた。
進が思い出してしまったのはついこの間のことだ。あのとき、愛美は複数の女生徒に絡まれていた。
もしかすると、あれと同じことが起きているのかもしれない。進はそう思った。
スケッチブックを置いて立ち上がった。

「僕、ちょっと見てきます」

「そうね。あの子が何もいわないで休むことってなかったし、少し心配かも」

翠もこのときは、茶化すこともなかった。
進はとりあえず教室へ戻ることにした。早足で階段を降りた。
教室の前に来て、進は戸の向こうから多少荒っぽい声がしてくるのを聞いた。
予想外だったのは、それが進にも聞き覚えのある男子生徒の声だということだった。
「なんでだよ」などといった男の声と、「やめて」とか「そんなつもりじゃ」などという
これもやはり進に聞き覚えのある女の声が聞こえてくる。
それは、一方的な苛めというよりはむしろ、痴話げんかのように聞こえた。
もしそうなら、ここで進が首を突っ込むのは野暮ということかもしれない。
進は、教室の外で逡巡した。
しかしそれも、「いたっ」などという声が聞こえてきたために、破られてしまう。
進は、ここ最近すっかり癖になってしまった小さなため息を一つついて、それから教室の戸を開けた。

中にいたのは、愛美と、それから同じクラスの岩田だった。
教室の窓側の後ろ、つまり進の机の近くで、ふたりはほとんど寄り添うように立っていた。
岩田が愛美の手首を握っていた。
進はそれを見て、二人の関係をいろいろと推測する。
ただ、それがなんにせよ二人の間に接点があったということが驚きだった。
岩田は、背の高いちょっとしたハンサムで、なかなか女子生徒の人気も高かった。
しかし、彼には彼女がいたはずだった。
それこそこの間、愛美に絡んでいたかわいい、平瀬という彼女が。
そこで進は、愛美が絡まれていた理由を推測することができた。

「なんだよ、平沢」

岩田が、教室の戸をあけてからそこに立っていろいろと考えていた進にいった。
不機嫌そうな、ばつの悪そうな顔をしていた。
そのすきをついて、愛美が岩田の手を振り解いた。

「平沢君!」

愛美が進の方に駆け寄ってきた。それこそ、進の予想外の出来事だった。
愛美のおかげで、単なる闖入者だった進が、もう一方の当事者になってしまった。
進のそばまでくると、愛美は立ち止まって岩田の方を振り返った。

「なんだよそりゃ、お前馬鹿じゃないのか?平沢だぞ、そいつ」

「あの、わたし違うから、そういうんじゃないから」

「だって、お前から……」

岩田と愛美は、進にはよく分からない言葉を交わした。
客観的に見れば、愛美が岩田を振って進に走ったように見える。
だが、進にしてみればそこで三角関係に巻き込まれる理由が分からなかった。
そもそも、進は愛美に好意を打ち明けられてなどいないし、
進の方からもそんなことをした覚えはなかった。
岩田は、進の顔をきっとにらみつけると、やがて反対側の出口から教室を出て行った。
その瞬間、硬直していた愛美の体から力が抜けたのが、進にも分かった。

「ごめんね、また助けてもらっちゃって」

「いや、それはいいんだけど……」

ここまで来ると、事情を聞かないわけには行かないような気がしていた。
要求してみると、意外とあっさりと愛美はそれを話してくれた。
簡単な話だった。
つまり、岩田は恋人である平瀬と最近上手くいかなくなっていた。
そこで岩田は愛美にアプローチをかけ、それから愛美は平瀬に目をつけられることになった。
愛美の話を聞くに、そういう筋書きが浮かんできた。

「じゃあ、もしかして岩田君と川名さんって付き合ってるとか?」

進がそういうと、愛美は首を激しく振って否定した。
なんでも、愛美の方は岩田には恋愛感情はまったく持っていないらしい。
愛美はそれを何度も強調した。
ただ、それにしては岩田の様子が、まるで自分になびいてい女に裏切られたかのような様子だったのが
気になった。

「あの、わたしがよくなかったの。はっきりしなかったというか、昔から誤解されやすくて」

進が気になっていることを察したのか、愛美の方からそういった。
進は、意外ともてるのだなと感心した。
これからは、少なくとももてない同士という認識は改めなければならないようだった。

「部活出る?山口先輩も心配してたし」

進がそういうと、愛美は肯いた。

美術室への道中、愛美は押し黙っていた。あんなことがあったのだから、無理もないのだろうが。

「そういえば、さ」

いい加減沈黙が重くなってきた進は、愛美に語りかけた。
愛美が進に顔を向けた。

「ほら、前、僕が消しゴム拾ったときあったでしょ」

「あ、うん、あのときはありがとう」

あんなことぐらいでいつまでも礼をいわれていてはたまらない。

「いやいや、それはどうでもいいんだけど。
あのときさ、川名さん、僕が後ろから何度か呼びかけてたの知ってた?」

進が尋ねると、愛美は首を振った。

「ああ、やっぱり。なかなか気づいてくれなくてさ、
あれ、なんか川名さんに無視されてるのかと思って悲しかったなあ」

進は冗談交じりにいったのが、愛美の方はそれを聞いて顔を暗くした。
その反応に進はあわてた。

「いやいや、それこそどうでもいいことで、別に本気で気にしてたわけじゃないから」

愛美は、顔を暗くしたままいった。

「それ、多分わたしの耳がよくないせいだと思う」

愛美の話によれば、彼女の右耳は音が聞き取りにくいのだという。
こうして一対一でしゃべっているときなどは問題ないのだが、周りに雑音があったりすると、
特に右の方から聞こえる音が聞こえにくいのだという。
それこそ、すぐうしろから呼びかけられて気がつかないほどに。
生まれつきのものかと聞くと、愛美は否定した。ただ、そうなった原因については
話してくれなかったが。
つまり、もてない同士という共通項は外れたが、そんなところに新しい共通点があったわけだ。

「へえ、それはなんだか奇遇っていうか、僕も」

「ううん、平沢君は足でしょ。わたしなんか比べ物にならないくらい大変だと思う。
わたし、前から平沢君のこと、すごいって思ってた。ひとりで、すごいがんばってるって」

愛美は、こんどはいくらか顔を明るくしていった。
面と向かってそういわれて、進は照れた。それと同時に、それは自分に対する過大評価だと思えた。

「いや、別にすごくなんかない。それに僕はひとりじゃなくて、沙織ちゃんに手伝ってもらって
やっとだから」

愛美は、沙織の名前を聞いて、また顔を暗くした。なかなか器用だと、進は感心した。

「やっぱりつきあってるの?」

これまで何度か問われてきた質問で、進は別にうろたえたりはしない。
いつもどおりに否定するだけだ。ただの幼馴染であると。

「でもね、この足の原因、足立先輩もかかわってて。それで多分、同情とか罪滅ぼしの気持ちとか、
そういうのがあるんじゃないかなって。そう思うとなんだか心苦しくて。
いい加減、僕のことから解放してあげないと。彼氏も作れないしね」

進はそういいながら、自分の心が痛むのを感じた。沙織が自分以外の誰かと付き合うなど、
本来なら考えたくもない。

「それにそうしないと、僕もひとり立ちできない気がして。前に山口先輩にいったでしょ、
あれ、結構本気なんだ」

ただ、美術部に出入りするようになってから、状況がそう変わったわけではなかった。
あの日別々にした昼食は、次の日からはもう沙織のごり押しで一緒にとるようになっていた。
翠を通して、進が美術室で愛美と一緒に弁当を食べたということが伝わっていたらしい。
そして相変わらず、ふたりで一緒に登下校していた。この日も、部活が終われば、
沙織を待つ予定だった。

「でもだめだ。恥ずかしいけど、これまで甘えてた癖が抜けなくて。こんなことじゃだめなんだけど」

進は深々とため息をついた。

「あのっ、じゃあっ」

愛美は、いつの間にか立ち止まっていて、進の後ろに立っていた。
進は振り向いて、愛美の話をきいた。

「よかったらその、ひとり立ちのお手伝いというか」

「お手伝い?」

「だから、その、多分平沢君一人だから足立先輩に頼っちゃうんだと思うの。
いつも足立先輩と一緒だし。だから、他の人と一緒にいたら頼らなくてすむかも」

「でもそれ、結局その別の人に頼ることになるんじゃ」

「うん、でも平沢君は足立先輩に頼るのがいやなんでしょ。
だったら平沢君が選らんだ人にだったらいいんじゃない?」

愛美の話は、確かに一理あった。進に、沙織以外にほとんど友達がいないということが、
結果として学校では沙織に頼らざるをえないという状況を作っているともいえた。
問題は、その「別の誰か」だった。

「でも、僕、ほとんど友達もいなくて」

「わたしたちは、その、あの、だから、友達でしょ?」

愛美が、上目遣いでそういった。もちろんそういわれて、否定することもできない。
進が少し考えていると、愛美があわてていった。

「わたしも、わたしもいろいろあるから、平沢君と一緒にいると助かるし」

ギブアンドテイクの関係だから気にするなといいたいらしい。
確かに、先ほどの件もあり、愛美にもメリットはあるだろう。もちろん何かあったときに
進が手助けできるかどうかは疑問だったが。
ただ、少なくとも進の側は、愛美の申し出はありがたいように思えた。
ベストは男の友達を作ることだが、この際贅沢はいっていられなかった。
それよりは、愛美との友達関係から、友達づきあいのこつを思い出していくほうが建設的だと思えた。
どうやら、積極的に断る理由はないようだった。

7

部活が終わって教室にいた進の耳に、沙織の声が聞こえてきた。
一人ではないようだった。

「今日ぐらい付き合ってよ」
「だから、わたしは進を送らなくちゃいけないから」
「いつもそうじゃない。たまにはいいでしょ。みんないくんだから。沙織、カラオケ好きじゃない」
「うん、でもごめんね、ほんと」

そんな会話が聞こえた後に、教室の戸が開いた。
沙織と、その後に何人かの女生徒が控えていた。
沙織は遅れたことを謝ると、進を促してすぐさま帰ろうとした。
女性徒は、なおも沙織を引きとどめようとするが、いくら本人をなじっても効果がないのを知ると、
今度は進に話を振った。

「ねえ、平沢君からもいってよ」

彼女の話によれば、女子テニス部と男子テニス部の有志でカラオケに行こうという話になったが、
沙織は進を送るといって聞かないのだという。
これまでもいくども遊びに誘ったが、そのたびに同じ理由で断られてきたそうだ。
とはいえ、高校最後の年になって、仲間といられるのも後わずかであるのに、
その調子で卒業してしまっては沙織はきっと後悔するだろうと、女子生徒はそういうのだった。
そのとおりだと進は思った。
沙織の残りの高校生活もそう長くないのだから、
放課後にはクラスや部活の仲間と一緒にすごすべきだ。
そして、今のこのタイミングでそんな話が降ってきたのは、チャンスなのではないか。
ささやかな一歩を踏み出すための。

「いってきなよ、沙織ちゃん」
「え?」
「僕は大丈夫だから。ちゃんとひとりで帰れるから」

すんなりとそういえた自分に、進は驚く。いってしまえば、なぜこんな簡単なことが
今までいえなかったのか、それが不思議だった。

「ほら、平沢君もこういってるんだから。男子テニスのやつらも、みんな沙織が目当てなんだからさ。
沙織がいないと始まらないよ」

進はそれを聞いて、胸がちくりと痛んだ。

「でも、ひとりで帰したりして、事故にでもあったら」
「大丈夫だって。心配のしすぎ。男の子だよ」
「でも、進は足が」
「あの、わたしが一緒に帰りますから」

会話に割り込んだのは、3人のやり取りを聞いていた愛美だった。
沙織の目にも、最初から彼女の姿は入っていたはずだが、それまでは気に留めていた様子はなかった。
沙織は改めて、愛美の方を見た。
そこで愛美は初めて沙織に自己紹介した。
進とはクラスメイトであり、そして美術部員であると。
沙織はそれを聞いて、眉をひそめた。

「わたしの家、平沢君と同じ方向にあるんです。だから途中まで一緒に帰れます」

それでも、渋る沙織の肩を、件の女生徒が背中から抑えた。

「ほらほら、沙織も野暮だよ。邪魔しちゃ悪いって」

彼女は誤解をしているようだったが、わざわざそれを解く必要もないだろうと進は考えた。

女生徒は、半ば引きずるようにして沙織を強引に連れて行こうとした。

「ちょっと、待ってってば。わたしはまだ」
「それじゃあ、ええと川名さんだっけ。平沢君をよろしく。沙織に代わって無事に守ってあげてね」
「はい。きちんとエスコートしますから」

それでは男女の役が逆だと進が文句をいうと、愛美は楽しそうに笑っていた。
だが、その笑顔が引きつって顔が青ざめた。
進は何かあったのかと尋ねるが、愛美は固い笑顔で首を振るだけだった。
沙織の方へ顔を向けるが、そのときにはもう、彼女は女性徒に連れられていってしまった後だった。
教室には、進と愛美だけが残された。騒がしかった教室に、静寂が降りた。
愛美がため息をついた。

「それじゃあ、行こうか」
やがて、進がいった。

沙織以外と下校するのは、本当にひさしびりだった。
それゆえに、いつもと違う調子に戸惑うこともある。
たとえば、登下校中の会話は、常に沙織の主導だった。進はもっぱら聞き役だ。
沙織は、話題も豊富で、ユーモアもあり、つまり話術があった。
だが、愛美は違う。彼女は、決しておしゃべりではなく、どちらかといえば無口な少女だった。
そうなれば、いくら苦手だとはいっても、進の方で会話を主導しなければならなかった。
最初はぎこちなかったが、話しているうちに、会話も弾んできた。
クラスの話、いやな教師の話、それから絵の話。
もっぱら聞き役だった愛美も、しまいには自分から話題を振ることさえした。

「なんか不思議だ」

一瞬会話が途切れた間に、進がポツリといった。

「なにが?」
「いや、沙織ちゃん以外ともこんな風に話せたのかって」
「あまりないの?」
「ぜんぜん。恥ずかしいけど、僕友達いないから」
「わたしも」
「ああ、だったら友達いない同士だから上手くいったのかな」
「平沢君は、足立先輩がいるでしょ」
「沙織ちゃんは、友達というか、幼馴染だし」
「どう違うの?」
「どうかな。なろうとしてなったのが友達で、そうじゃないのが幼馴染かな。
うちなんかは親同士が友達だから生まれる前から幼馴染だったみたいなものだから、特にね」
「わたしは?」
「え?」
「わたしは、なろうとしてなった、その、友達なの?」

愛美が上目遣いで聞いてきた。

きっかけは偶然で、こうしていま一緒にいるのも多分に成り行きの要素があった。
とはいえ、関係を続けることを選んだのは、確かに進自身だった。
そう思った進は、そのとおりだと肯いた。
愛美は、うれしそうに微笑んだ。

二人して、進の住むマンションの前まで来た。
愛美の家は、さらにここから5分ほど歩いたところにあった。
ここでお別れ、という段になって愛美がいった。

「平沢君、明日も一緒に帰る?」

そう問われて、進は少し考えてからいった。

「いや、でも川名さんも迷惑だろうし」
「そんなことない!」

愛美は、思わず出した声の大きさに自分でびっくりしたようだった。今度は、声を低めていった。

「わたしは、平沢君と一緒にいるの楽しいから。だから、平沢君がよかったら一緒に帰りたい」
「えと、じゃあ、一緒に帰る?」
「うん」

そうして、明日も一緒に帰ることを約束して、二人は手を振って別れた。

進はエレベーターの中で、気持ちが高揚しているのを感じていた。
他人から、一緒にいて楽しいなどといわれたのは初めてだった。
誰かを不快にさせることはあっても、楽しくさせることができるとは思ってもみなかったから。
性格的にも、肉体的にも。
沙織が、自分の側にいるのは、楽しいからではないだろう。
ほとんどは、義務感に駆り立てられてのものだろう。
それこそ、放課後に部活の仲間と遊ぶといった、自分の楽しみを犠牲にするほどに重い義務感。
もちろん、そのことで沙織が愚痴をいったこともなければ、表情を曇らせたことすらない。
むしろそれが進にとっては重荷だった。
しかし、愛美との関係は違った。愛美の言葉に嘘はないと進は感じた。
進は、一人きりのエレベーターの中で、「よしっ」とひとこと叫んだ。

進が家に帰って、1時間ほどして、沙織が訪ねてきた。
予想外に早い帰りに進が戸惑っていると、沙織はひとりだけ抜け出してきたのだといった。

「どうして。ゆっくり遊んでくればよかったのに」
「どうしてって。進が心配だったからでしょ」

沙織が、どこか得意げにいった。
進はそれを聞いて、深々とため息をついた。
そして、いまだ高揚している気持ちのまま、もう一歩踏み込む覚悟をした。

「あのさ、沙織ちゃん。この際だからいうけど。もう、僕のことは構わなくていいから」
「え?」
「これまで、沙織ちゃんには本当に世話になってきたと思う。それはすごく感謝してる。
でも、もうそろそろいいんじゃないかと思うんだ。沙織ちゃんだって、やりたいことあるだろう?
僕のためにそういうの犠牲にするのはもういいから。沙織ちゃんが僕の足のこと気で気にしてるのは
知ってる。けど、10年だよ。もう時効だよ。沙織ちゃんはもう、僕のことは忘れてもいいと思う」

自分でそういいながら、進は胸が熱くなってくるのを感じた。
だが、沙織は本当に何をいわれているのか分からない様子で聞き返した。

「なにいってるの?」
「なにって、だから」
「あの女に何かいわれたの?」

沙織は、無表情にそういった。その口調といい、いつもの沙織とは別人のようだった。

「川名さんは関係ないよ。これは前から僕が思ってたことで」
「嘘でしょ」
「本当だよ」
「嘘」
「本当だよ」
「嘘」

進は、珍しくいらいらしてきた。

「なんで嘘だなんていえるんだよ。僕の思ってることを本当か嘘か、沙織ちゃんが決めないでよ。
だいたい、沙織ちゃんはいつもそうなんだよ。
僕は確かに障害者だけど、自分でできることはできるんだ。
手助けしてもらうときだってあるけど、それも自分で頼みたいんだよ。僕はもう高校生だよ?
ただの子供じゃないんだから」

進がいっきにまくし立てると、沙織はぽつりとそうかと肯いた。
進はやっと分かってくれたのかと思ったが、そうではなかった。

「そっか、進も反抗期なんだね」
「はあ?」
「そうだよね、進もそういう年頃なんだよね」
「ちょっと、何いってるの?そんなんじゃなくて、僕は本気で」
「分かったから。わたしもそういう時期があったし。でもね進、一時の感情に任せてそんなこというと
後で絶対後悔するから。一晩寝て頭を冷やしなさい!」

沙織はぴしゃりとそういって、進のおでこを軽く叩いた。
そして、また明日の朝くるからと言い残して、進の部屋を出て行った。
進は、あっけに取られながら、それを見送った。

8

翌朝、沙織は何事もなかったように進を迎えに来た。
進としては、彼女が来る前に家を出てしまうことも考えたが、さすがにそれは気がとがめた。
いうべきことは、面と向かっていわなければならないと感じた。
二人並んで歩く通学路。それはいつもと変わらない光景だが、
進の心中は昨日までのものではなかった。

「ねえ、沙織ちゃん。昨日のことだけど」
「何?頭が冷めた?」
「そうじゃなくて、今日も僕は川名さんと帰るから」

沙織は立ち止まった。進もそれに合わせて立ち止まる。

「まだそんなこといってるの?」
「それだけじゃなくてさ。ほら、かばんももういいから」

進がそういって沙織の持つ進のかばんを取り上げようとすると、
彼女はかばんを持っていた手をさっと引いた。

「進、なに依怙地になってるの?あまり度がすぎるとわたしも怒るよ」
「だったら、少し放っておいてよ。別に沙織ちゃんとけんかしたいわけじゃないんだ。
ただ、これまでの関係を少し変えたいんだよ」
「変えるって?」
「だから、これまでみたいに依存するばかりじゃなくてさ、
普通の、対等の友達として付き合いたいんだよ」
「それで?今度はあの子に乗り換えるの?」
「乗り換えるとか、そういうんじゃないだろ。川名さんとは対等の友達なんだよ。
沙織ちゃんとは違う」

沙織は、ふうんと鼻を鳴らした。

「進、勘違いしちゃったんだね」
「勘違い?」
「わたしがいなくちゃ、進何にもできないじゃない。それなのに、勘違いして」
「そう思ってるのは、そう思わせてるのは沙織ちゃんだろ。現実を見ろよ。
もう、沙織ちゃんがいなくても僕はやってけるんだよ」
「それ、わたしはもういらないってこと?」

沙織が底光りする目で進を見つめた。
進は、話の通じない沙織にいらいらした。

「そういうことじゃない。沙織ちゃんは、幼馴染だし、大事な友達だけど、
今はまるで保護者きどりじゃないか。僕はそういうのがいやだといってるだけなんだよ」

そうだ。保護者と被保護者の関係から卒業したい。まずそうしなければ、
二人の関係はここからどの方向にも進めはしない。
友達関係としてであっても、あるいは仮に、万が一そんなことがありえたとして、
恋人関係としてであっても。
沙織は笑った。

「どうして?それがいけないの?今までわたしが守ってあげたじゃない。
進、わたしがいなかったらずっと一人だったんだよ。わたしがいなくなったら一人ぼっちになるよ」
「そんなことない。少なくとも、今は川名さんがいる」
「また、その名前?」

沙織はうんざりした様子でいった。

「進、あの子と会うのはやめなさい」

まるで、母親が息子に素行のよくない娘との付き合いを注意するかのようだった。

「何か下心があるのよ、あの子。多分、よくないことになると思う。だからもう会わないで」
「何で沙織ちゃんが僕の友達づきあいに口を出すんだよ」
「友達?」
「そうだよ。僕はそう思ってる」

進はそういうと、沙織の方に手を差し出した。そして、これでもう話は終わりだというかのように、
きっぱりといった。

「かばん、返して」

沙織はそれを聞くと、進の目をきっとにらみつけた。
進はひるみかけるが、それを押し殺して無言のままたっていた。
しばらく、二人は無言で対峙していたが、やがて沙織が怒鳴った。

「ああ、そう!じゃあ、試してみたら。絶対後悔すると思うけど。そうしたら、謝りに来なさい!」

沙織は、進の手にかばんを返すと、スカートを翻して学校の方へ走り去っていった。
一人取り残された進は、ため息をついた。沙織とけんかをしたのはこれが初めてだったように思う。
けんかというより、沙織に愛想をつかされたといったほうがいいのか。
進は正直、目頭が熱くなるのを感じた。
自分は確かに子供だった。高校生にもなって、女の子の友達とけんかして泣きそうになるなんて。
だが、沙織以外の同世代の人間と深い付き合いをしたことのなかった進にとっては、
けんか自体がほとんど初めてといっていいようなものだった。
仲直りの仕方も分からない。
沙織と絶交するつもりはない。進は沙織のことが好きであり、それは今でも変わっていない。
ただ、それだけに、沙織との関係を変えたかっただけなのだ。
もう、元通りの仲に戻ることはできないのだろうか。
進はどこまでも沈んでいきそうな気持ちを、なんとか堪えた。
そうだ。少なくとも、今までの関係を変えることには成功したのだ。
それこそ、「元通りの仲に戻ることはできない」と思えるほどに。
これは自分が望んだことなのだから、胸をはっていいのだ。そうしよう。
進は、松葉杖を持つ手にぐっと力を込め、上体を起こすと、学校へ向かって歩み始めた。

そのとき、自分を呼ぶ声が背後からかかって、進は振り返った。

「川名さん……」

いつからいたのか、背後には愛美がいた。
微笑んでいる。

「おはよう」
「おはよう、その、見てた?」

進が決まり悪そうに尋ねると、愛美は首を傾げていった。

「見てたって?何を?わたし、今来たところなんだけど」
「いや、見てなかったのならいいんだけど。今日は、少し遅いね」

愛美は、進が教室に入るときにはいつも先に来ていて、自分の席で本を読んでいるのだった。

「うん、ちょっと家でね」

愛美は、あいまいな表情で薄く笑った。

進が一緒に学校へ行かないかと誘うと、愛美はもちろんそうしたいといった。
進は、くしくも沙織から愛美へと「乗り換えた」格好になったことを気にしつつも、
二人で学校へ向かって歩いた。
さっきのことがあっただけに、昨日と違って会話はあまり弾まなかった。

「今日は、足立先輩とは一緒じゃないの」

とぎれた会話の間に、愛美が当然ともいえる疑問を進に投げた。

「うん、ちょっとね」

今度は、進があいまいな表情で笑っていった。
そのまま、しばらく歩いてから進がぽつりと話を継いだ。

「もしかしたら、もう沙織ちゃんとは一緒に行かないかもしれない」
「え?そうなの?」
「うん、ちょっとけんかして。でもまあ、ひとり立ちのためにはよかったのもしれない」
「じゃあ、あの、もしよかったら」

愛美が進の方を上目遣いで伺いながら、おずおずといった。

「下校だけじゃなくて、朝も一緒にいかない?平沢君のマンションの前で待ち合わせて」
「……僕はまあ、いいんだけど」
「本当!」
「でも、川名さんに迷惑がかかるんじゃ。噂になるとか」
「平沢君は迷惑なの?」
「いや、そんなことはないけど」
「じゃあ、わたしも平気」

愛美は、そういって微笑んだ。進としてはそれ以上躊躇する必要はないように思えたので、
明日の朝も一緒に学校に行くことを約束した。
つまり、一緒に登校して、一緒に昼ごはんを食べ、一緒に部活に出て、一緒に下校することになる。
これは傍目に見て、付き合っている男女にしか見えないのではないかと、
そのことだけが気がかりなのだが。

昼ごはんを食べに、進と愛美が弁当を持って美術室へ行くと、
翠がすでにいていつもの三色パンを加えながら、キャンバスに向かっていた。
翠は、挨拶もそこそこに、絵筆を放り出すと進に詰め寄った。

「な、なんですか」
「なんですかじゃないよ。今日は沙織と一緒に来なかったんだって?」
「また、その話ですか」

進は、今朝からこっち、遠まわしに、あるいは直裁に、同じことを何度も聞かれていた。
進と沙織が別々に学校に来たということは、学校ではちょっとした事件になっているようだった。
進はやはり同じく、そのとおりだと肯いた。

「しかも川名さんと一緒に来たと」
「偶然会ったんですよ、通学路で。ね、川名さん」
「あ、うん、そうなんです」
「へえ、偶然ねえ」

翠が愛美の方に流し目をくれると、愛美は頬を染めて顔を伏せた。

「いやあ、沙織から川名さんに乗り換えるたあ、この色男め」

翠は進の頬をうりうりと人差し指でつつきながらいった。

「人聞き悪いこと言わないでくださいよ。別にそういうことじゃないんですから。
だいたい、1年先輩と学校へ行くより、クラスメートといくほうが自然でしょ」
「そりゃまあ、付き合うなら1年先輩より、クラスメートの方が自然だけどさ」
「だからそういうんじゃないんですって!」

進が声を荒げると、翠はまあまあと進をなだめた。

「分かってる分かってる。冗談だってば」
「沙織ちゃん、どんな感じです?」
「おお、やっぱり元カノのことは気になるんだ、って冗談だってば。まあ、別にいつもと同じかなあ。
お昼はクラスの友達と食べてるみたいだし」
「そうですか」
「変わったところがあるのはむしろ周りのほうじゃない?
男子連中はみんな喜んでるよ、ついに破局かって」
「破局っていうか、ついに僕が愛想をつかされたかってことでしょ」

進が自嘲しながらいうと、翠はごまかすようになははと笑った。

「ま、周りのいうことなんか気にしないでやればいいよ。
平沢君には平沢君の考えがあるんだろうからね」
「分かってます」
「でもまあ、沙織のことも少しは気にしてやってね」

翠は、進から離れて自分のキャンバスに戻りながらいった。

「あの子も、見た目ほどしっかりしてるわけじゃないみたいだから。
まあ、そのへんは平沢君のほうがよく分かってるだろうけど」

進は、翠のいっていることがよく分からなかった。

9

あれから数日、進と沙織の冷戦は続いていた。
そのことは、学校中に知れ渡ったのはもちろん、進の両親にまで知られてしまっていた。
毎朝、進を迎えに来ていた沙織がぱったりと顔を見せなくなってしまったのだから当然だった。
特に母親が心配し、進を問い詰めた。
進は、事情をあいまいにぼかして、ただ少しけんかをしたのだと言い訳した。

「どうせ、あんたが何かやったんでしょ?沙織ちゃん、あんなにいい子なのにあんたは」

確かにきっかけを作ったのは自分だと自覚のある進は、
母親のその言葉に言い返すことができなかった。

「いい?ちゃんと謝るのよ?あんたなんか沙織ちゃんがいなかったら、どうなってたか」

ただ、その言い草にはむかっときた。
普段、そんなことで激昂するほど情の強い人間ではないが、
沙織との関係の拗れがストレスになっていたのかもしれない。

「あのさあ、沙織ちゃん沙織ちゃんって、僕は沙織ちゃんのなんなんだよ。
沙織ちゃんだって、僕の保護者ってわけじゃないだろうに、母さんたちにプレッシャーかけられて
かわいそうだと思わないのかよ。母さんって、沙織ちゃんに僕を押し付けようとしているとしか
見えないんだよ。はっきりいって汚いよ、そういうの」

母親は、図星をつかれたのか、あるいは及びもつかない悪口を浴びせられたからなのか、
一瞬絶句して、それから顔を赤くした。
それ以上やりあう気のなかった進は、母親が何も言い出さないうちに体を翻して、
マンションの部屋を出た。
閉じた、ドアの向こうからくぐもった声が聞こえたが、それを無視してエレベーターへと向かった。
追いかけてくる様子はなかった。ありがたいと進は思った。
すでに、いやなことをいってしまったと自己嫌悪に陥っていたから。
その上で説教を聞かされれば、それこそ何をいってしまうか、自分でも知れたものではなかった。
進はできるだけ急いでエレベーターに乗り込んだ。
進の部屋はマンションの6階にあった。かつて両親は、1階に引っ越そうとしていた。
そしてこのマンションの1階に空きがないことを知ると、
今度は別のマンションの1階に引っ越そうともしていた。
それはもちろん、進のためだった。普段はエレベーターが使えるのだから問題はないが、
いざというときのために1階の方がいいだろうと考えたのだ。
その計画は、結局両親に負担をかけることを嫌った進によって立ち消えとなってしまったが。
進のためにそれだけのことを考えてくれる両親なのだ。エレベーターに乗ってそのことを思い出して、
進はやはり自己嫌悪に陥った。

マンションの敷地の外には、愛美が待っていた。
お互いに、朝の挨拶を交わし、学校へ向けて歩き出す。ここ数日は、これが日課になっていた。
二人の間で、毎朝会話が弾むわけではなかった。
それでも、物静かな愛美との登校を、進は気にいっていた。
先ほどのいさかいで乱れた心が、愛美と並んで歩いていると鎮まってくるような気がした。
愛美には、そういう雰囲気があった。
その愛美が、前を見てあっとごく小さな声を上げた。
進が何事かと、若干うつむき加減だった顔を上げると、
4、5人の女子生徒が前を歩いているのが見えた。
真ん中にいるのは、見間違いようがない。沙織だった。
進ほど見慣れていない人間でも、それが沙織であることが分かっただろう。
それほど、存在感のある少女だった。
進は知らない背中たちと歩いている沙織の背中を10メートルほど先に見て、
なんだか彼女が自分の手の届かないところにいってしまったような感慨を抱いた。
それから、馬鹿なことを考えていると、自分を戒めた。
これを招いたのは、自分で、しかもそれは望んでしたことなのだから、
いまさらさびしく思ったりするのは卑しいことだと。
それに、沙織が自分のような人間にとって手の届かない存在であるのは、
自然のことであるはずだった。

そんなことを考えていると、突然沙織がこちらを振り向いた。
進はどきりとした。
沙織と一瞬目があうが、彼女はすぐにふいと顔を前に戻してしまった。
その過程で、しっかりと愛美のことを視界に納めつつ。
それから、沙織に習うように他の少女たちもこちらを振り向いた。
沙織とは違って、進とそれから愛美の方をじろじろと見た後で顔を戻し、笑い声を上げた。
そして彼女たちと沙織は、歩くスピードを上げ、その先の角を曲がって見えなくなった。

進は、それを見送りながら、笑い声の理由を考えようとして、止めた。
他人の笑い声を気にするのはとっくの昔に止めていた。
ふと気がつくと、愛美が立ち止まって、顔を伏せていた。

「いこう」
「うん……」

だが、愛美は何か考え込んでいる様子で、動こうとしない。

「ほら」

進は思わず、愛美の肩を叩いていた。愛美はそれでようやく動き出した。
男の自分とは違って、彼女は繊細なのだ、気を使ってやらなければならないと、進は思った。

しばらくの間、そんな風に沙織との間には冷戦を続け、愛美との間には友情(?)をはぐくんでいた。
その間、進は放課後には欠かさず美術室に顔を出していた。
そして、進がいくと、そこには必ず翠がいた。

「知ってる、平沢?沙織のう・わ・さ」
「知りませんよ。というか、なんで呼び捨てなんですか」
「いやー、ほら、もうあたしたち長い付き合いじゃない。そろそろ進展があってもいいかなーって」
「まだ、出会って一ヶ月もたってませんけど、まあそれはいいです。で、噂ってなんですか」
「うんうん、やっぱり気になるだろうねえ」

翠は、もみ手をしながら十二分にもったいぶってからいった。

「それがねえ旦那、沙織の奴、とうとう男子テニス部のキャプテンと
付き合いだしたって噂なんだなあ、これが」

進は、頭をハンマーで殴られたように感じた。ショックだった。
だが、それと同時に、いまさらそんなことでショックを受けるなんて、馬鹿馬鹿しいとも思った。
沙織をいわば突き放したのは、沙織を自分という呪縛から解放するためでもあった。
そしてそれは成功し、彼女は自分のようなつまらない男ではなく、
魅力的な、沙織と並んでも見劣りしないような男を選んだのだ。
進はそのテニス部のキャプテンという男を知っていた。
進とは違ってスポーツ万能であり、進とは違って成績優秀であり、進とは違ってハンサムであり、
進とは違って両足とも健在だった。
そして彼が、しばしば沙織にモーションをかけていたのも知っていた。
進は、嫉妬しそうになる自分を堪えようとした。

「へえ、そうなんですか」

できるだけ平静を装っていった。

「あれ、それだけ?」
「ええ、そりゃ少しは驚きましたけど。でも、いいんじゃないですか。お似合いでしょ」
「まあ、そうなんだけどね」
「沙織ちゃんは、どういってるんですか」
「うーん。それがねえ、煮え切らないというかなんというか。どっちともいわないんだなあ、これが」
「じゃあ、付き合ってるんでしょ。そうじゃなかったら、きっぱりそうじゃないっていうでしょ、
沙織ちゃんは」
「ま、確かにそういう子だけどねー。でもさ」

翠は進の目を見ていった。

「それでいいわけ?」
「いいって、何がですか。沙織ちゃんは、幼馴染で友達で、その彼女が彼氏を作ったなら
それって祝福すべきことでしょ?」

進はそういいながら、内心であまりにわざとらしかったもしれないと後悔した。

「ふーん。だってさ、川名さん」

翠にそう話を振られると、もはや恒例になったように、愛美は顔を赤くして顔を伏せた。
これはもう、部活の時間のお約束のようなものだった。

「それ、止めてくださいよ。何考えてるかだいたい分かりますけど」
「おや、わたしが何を考えているっているのかな」
「いいません。自分の胸に聞いてください」
「いやいや、平沢が聞いてよ、ほらほら」

翠がそういって、自分の胸を進に押し付けてくる。
こうやって、逆セクハラを受けるのも、お約束になっていた。

その日の帰り道、愛美と並んで角を曲がったときに、沙織とそれからテニス部の部長が
ならんで歩いているのに出くわしてしまったのは、どういう偶然なのだろう。
あまりにできすぎていると、進は思った。
後ろから見ていても、二人が並んでいる様は絵になった。
テニス部部長のハンサム顔が拝めないのは残念だが、そのシルエットだけで、様になっている。
彼は、女子にしては背の高い沙織よりも、さらに頭一つ位背が高かった。180センチ近くあるだろう。
それでもひょろひょろしている印象はなく、肩幅もがっしりしている。
進では、どうあがいてもかなう相手ではなかった。

するとまた、沙織が進の方を振り向いた。気配でも感じたのだろうか。
やはり、進と目を合わせ、そして愛美の方に目をやりながら、顔を前へ戻した。
男の方は振り向かなかった。
進はそれに感謝した。もし彼が振り向いて、そして笑いでもしたら、
自分がどんな気持ちになるか想像もつかなかった。
そして、それで愛美が傷つくようなことがあれば、あまりに申し訳がなかった。
進は、歩くスピードを落とした。
そして、しだいに二人からの距離を広げながら、進はほぼ無言のまま、愛美と並んで家まで帰った。

10

放課後、校庭から響いてくる声を聞きながら、進は教室でスケッチブックを机の上に開いていた。
教室には彼しかいない。
愛美には用事があるからといって、美術部に一人で行かせていた。
少しだけ、ひとりになりたい気分だったのだ。
そして一人になると、久しぶりに沙織の顔を描きたくなった。

沙織とは、ここ1週間ばかり口をきいていなかった。
もちろん、二人の家は隣同士なのだから、まったく顔を合わせないということはなかった。
登下校のときには、たびたび顔を合わせていた。
そしてそのときにはいつも、進の横には愛美がおり、そして沙織のそばには、
例のテニス部部長やら進の知らない沙織の友人らがいた。
彼、あるいは彼女らと談笑する沙織は、
ここしばらくの進との絶交状態にこたえている様子はないように見えた。
進もそれを見て、殊更に明るくふるまった。愛美も、進の気持ちを知ってかしらずか、
彼に笑顔でこたえた。
もし愛美がいなければ、進はすぐにでも沙織に頭を下げたていただろう。
そのくらい、これまでの短い人生の中で彼女の存在は大きかった。それは両親に匹敵するほどに。

逆にいえば、愛美の存在もまた小さいものではなくなっていた。
彼女は、進の極々小さな世界に現れた久しぶりの登場人物で、
しかも翠という更に新しい登場人物を連れてきてくれた。
愛美の拡げてくれた世界は、確かに小さなものだったが、それでもひとつの可能性を見せてくれた。
進でも、誰かと対等の友人でありうること、誰かの助けになりうること。
進は、愛美にどれだけ感謝しても足りないと思っていた。

しかし、その一方で沙織に対して負い目を感じていることも確かだった。
進の足が動かなくなってから、沙織は彼にずっと厚意を注いでくれた。
たとえそれが沙織の負い目からきたものだとしても、
そして結局それが進の負担になってしまったのだとしても、感謝しないわけにはいかなかった。
だが、いま心ならずも、その沙織から愛美に乗り換えるような格好になってしまっている。
沙織が憤慨するのも分からないではない。
沙織からすれば、飼い犬に手をかまれたような気持ちなのだろう。

進は、書き上げた沙織の顔を見つめてため息をついた。
それから、頬杖をついて窓の外の夕日を眺めた。

思えば、自分はずっと沙織と一緒にいたのだ。
進にとって、それは選択の余地のないことだった。
だが、沙織にとってはそうではなかった。
確かに、足を動かなくした原因は沙織にあったとしても、
それで進と一緒にいることを選んだのは沙織自分だった。
そしてそのせいで、沙織自身、ずいぶん友達を減らしてしまってもいた。
その結果、小学生のころには、進の友人が沙織だけであるように、
沙織の友人も進だけになってしまった。
当時の進はそのことを喜びすらしたのだが、今思えばずいぶん残酷なことをしたのだと思う。
進は、いわば自分と同じ境遇に沙織を引きずりこみかけたのだから。
しかし、沙織が中学に上がり、高校に上がるころには、
生来の魅力で男女を問わずたくさんの人たちをひきつけるようになっていた。
それでも、沙織が進を見放すことはなかった。むしろ、より手厚く進の世話を焼きさえした。
たとえば、そのことによって再び友人を減らしてしまう危険を冒してまでも。
そんな沙織の手をかむ形になった自分は恩知らずなのだろうかと、進は考える。
だがこのささやかな反逆を始めようとしたのは、自分のためでもあったけれど、
沙織のためでもあったはずだ。
少なくとも、進はそう思っていた。
だが、それは正しかったのだろうか。別のやりようがあったのでは。

「これ、足立先輩?」

進は、突然横から声をかけられて、ぎょっとした。
愛美だった。いつのまにか教室にはいってきて、進の机の横にいたのだ。
内に深くしずんでいた進は、それにまったく気がつかなかった。
愛美は、スケッチブックを覗き込んでいた。
進は、愛美に気がつかなかった自分のうかつさを呪いながら、
スケッチブックを隠そうとして、しかし諦めた。
いまさらじたばたするのは、格好悪いと思って。
そして、愛美の質問に肯いて答えた。
思えば、進が沙織の顔を描いているのを誰かに見られたのは初めてのことだった。

「前に、わたしが描いてあるのを見たことあるけど」
「ああ、そんなこともあったっけ。あれは恥ずかしかった」

進がそういったのに、愛美は微笑んだ。

「でも、あれよりも上手ね」
「え、そうかな。美術部に出入りしてた成果がでたとか」
「ううん。なんだか洗練されているというか、描きなれている感じ」

進はどきりとした。

「まあ、長い付き合いだから、見慣れた顔だからね」
「肖像画ってね、描く相手のことをよく知るほどいいものになるんだって。これ、すごくいいと思う」

愛美はどこか寂しそうにそういった。

「じゃあ、また川名さん、描いてみようかな」
「え?」
「だって、あのころよりは川名さんのこと分かってるはずだから。
だから多分、前のよりよく描けると思うよ」

愛美は、そうかなと呟いて、窓の外を見た。それにつられて、進も外を見た。
夕焼けが濃くなりつつあった。雲が焼け焦げているようだった。

「平沢君が知らないこと、まだたくさんあると思う」

進は、その言葉の含意を計りかねて、沈黙した。愛美もそれきり、黙り込んでしまった。
しばらくして、愛美が帰ろうといった。

帰り道、二人はさきほどの妙な雰囲気を引きずっていて、
いつものように談笑するというわけにはいかなかった。
並んで歩きながら、お互い沈黙を守っていた。
進は、どうにかしてその雰囲気を打ち破ろうと、機会をうかがっていた。
だが、先に沈黙を破ったのは愛美のほうだった。
児童公園のそばを通りがかったとき、彼女がいった。

「あの、少し寄っていかない?」

「なんか懐かしいな」

進は、ブランコに座りながらそういった。愛美は、その横のブランコに同じように座っていた。

「ここで遊んでたの?」
「うん、こうやってブランコとか、ジャングルジムとか、ガッタンとか」
「ガッタン?」
「ほら、四人乗りで乗るブランコみたいなやつ。
危険だからって、今は撤去されちゃったみたいだけど」

進は、昔「ガッタン」があった場所を見ながらいった。

「危ないこともやってたんだ?」
「みんなやってたことだけどね。ブランコから飛び降りたり。失敗して頭打ってたやつもいたなあ」

進はなつかしそうにそういってから、視線を落とした。

「ま、足が動かなくなる前までだけどね。それからは家で遊ぶようになったかな」
「足立先輩と?」
「うん、まあ沙織ちゃんしか友達いなかったからね」
「ずっと一緒にいたのね」

愛美はそういうと、進の目を見ながら、

「足のこと、聞いていい?」
「足って、怪我の原因のこと?」
「うん」

進は愛美がいるのとは逆のほう、大きな滑り台があるほうを見た。
それは公園の中心にあって、かなりの高さがあり、この公園のシンボルのようなものだった。
進は少しためらってからいった。

「あの上に僕と沙織ちゃんといてね。そこで突き落とされた」

ごく簡潔に、事実だけをいった。

「ずいぶん変な落ち方したんだろうな。骨はつながったけど足が動かなくなってしまった」
「その、どうして突き落とされたの?」
「どうしてだったかな。あまりよくおぼえてないんだ。
多分、子供っぽい理由だったんじゃないかな、どうせ」
「足立先輩のこと、恨まなかったの?」
「分からないな。最初は恨んでたかもしれない。
でも、結局僕の友達は沙織ちゃんだけになっちゃったから」

進は苦笑しながらそういった。

「恨めなかったの?」
「そうじゃないよ。恨まなかっただけだ」

進は、少しだけむっとしながらいった。
すると愛美がブランコから立ち上がった。

「かわいそう」
「かわいそうって、僕が?」

愛美は歩いて、進の正面にたった。愛美が夕日を隠し、進の視界を暗くした。
進はブランコに座ったまま愛美を見上げた。
愛美は少し腰をかがめて、進に顔を近づけながらいった。

「わたしじゃ、足立先輩の代わりにはなれないかもしれないけど」

進はそんなつもりはないと言い返そうとしたのだが、いえなかった。
愛美の唇が、進のそれをふさいでいたからだ。進に、その感触を確かめる余裕などなかった。
ほんのわずかな時間だけ唇を触れさせて、愛美は進から顔を離した。
予想とは違って、その顔を赤くしてはいなかった。
むしろ、自分の顔の方が赤くなっているのだろうと、進はぼんやりと考えた。

そのとき、がちゃんと公園の入り口の方から音がして、二人は同時にそちらを向いた。
公園を覆っているフェンスの音らしかったが、そこには誰もいなかった。
誰かに見られたのだろうかと、進が考えていると、愛美の顔がいまさらのように赤くなった。
先ほどの音が、彼女を現実に引き戻したかのようだった。

「あ、あの、わたし今日は先に帰るから、ごめんなさい」

愛美はそういうと、公園を走って出て行った。
進は、初めての口付けの余韻に当てられながら、それを見送った。

To be continued.....

 

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