結局、進は沙織から美術部に出入りすることの承諾を得た。
もちろん、改まってお伺いを立てお許しを得たという情けないことをしたわけではないが、
進の心境としては同じようなものだった。
おそらく美術部の部長が彼女の友人である翠だということが、
沙織が心を許した決定的な理由なのだろうと進は推測した。
話を聞くと、確かに翠と沙織は友人同士であり、たびたび一緒に遊びにいく仲なのだという。
ただ、それにしても自分のプロフィールをあんなふうにしゃべられてしまうのは気に食わなかった。
「あはは、ごめんね。でも、なんだか進君のこと、ついつい話したくなっちゃうんだよねえ。
進君ががんばりやさんだからかなあ」
進は沙織のその言い訳にもならない言い訳を聞いて、冗談ではないと思った。
どうか、それを聞いた人が惚気話だなどと思っていませんようにと祈った。
これ以上、自分の知らないところで嫉妬の種を蒔かれるのはごめんだった。
まさかそのせいではないだろうが、進は次の日、沙織との仲に関して初めて直接的な警告を受けた。
トイレで用を足していたときのことだ。
ちなみに進は、杖を器用に使って立ったまま小便をすることができた。
同じく横で用を足していた男子学生が、ぼそりとつぶやいた。
「おまえ、調子に乗るなよ」
トイレにいたのは二人だけだった。思わず出入り口の方を確認するが、見張りらしき人影はない。
どうやら、いきなりここでリンチにあうことはないようだ。
「なんのこと?」
内心のおびえを隠しながらいうと、男子学生は薄ら笑いを浮かべながらいった。
「ふざんけんじゃねよ。分かってんだろ。足立沙織のことだよ。
おまえ、身障だから構ってもらってんだろうが。勘違いしてべたべたしてんじゃねえよ」
もちろん、「男の嫉妬はみぐるしい」などといえるはずもなく、
小さな声で「分かってるよ」とだけいうのが関の山だった。
相手の体は、進よりずっと大きい。片足というハンデがなかったとしても勝ち目はないだろう。
勝てないけんかはしない主義だった。といっても、進がけんかで勝てる相手など
限られてしまうだろうが。
それに正直、けんかをする理由もなかった。その学生にいわれたことは、
進が常々心に言い聞かせていたことでもあるからだ。
腹が立つのはただ、いまさらお前に言われたくないというそのことだけだった。
いや、改めて他人から現実を突きつけられるのも確かにつらいのだが。
男子学生は、進より一足先にトイレから離れた。そして、手洗い場で手を洗うと、
わざわざ戻ってきて進の制服で手をぬぐい、それから出て行った。
とっくに小便を終えた進は、安堵のため息をついた。情けないことにそのため息が、少し震えていた。
「あー、情けない情けない」
進は自分と、それからおそらくは振られた腹いせに身障者に絡んできたさきほどの学生に向かって
そういうと、手を洗ってトイレを出た。
手はもちろんハンカチで拭いた。母親ではなく、沙織が毎朝注意するので、
いつも持ち歩いているハンカチだった。
「今日は、別々に食べない?」
進がそういうと、昼食の誘いにきた沙織は目を丸くした。
学校での昼食はいつも一緒に弁当を食べることにしていたからだ。
それをこちらから断ったことなどなかった。
「どうして?」
「あー、たまにはほら、それぞれの友達と一緒に食べるのもいいかなって。
沙織ちゃんだって、友達によく誘われるんじゃない?」
進でも、女子生徒にとって誰と一緒に昼食を取るのかが人間関係の構築と維持に
どれほど切実なものであるのかをおぼろげながら知っていた。
これまでずっと進と一緒に食べてきて、それでも友人の多い沙織はきっと希少種なのだろう。
進の方はさっぱりなのだが。
「うん、それはそうだけど。でも進君は?」
そう問われて、とても「一人で食べる」とはいえない。それはあまりに情けないように思えた。
多少の嘘は仕方がない。これは、沙織の交友関係のためにも、進の沙織からのひとり立ちのためにも
必要なことなのだ。
決して、脅しに屈したからではないのだと、進は自分に釈明した。
「ああ、僕にも友達くらいいるから。大丈夫大丈夫」
「そお?まあ、進君だってお友達と食べたいときだってあるだろうけど」
沙織はまだ釈然としていない様子だった。
「じゃあ、そのお友達って誰?ご挨拶しなきゃ」
沙織のその言葉に、進は一瞬絶句した。本当はそんな友達はいないという事実をかんがみて、
そしてわざわざ幼馴染の友達に挨拶をしなければと思い至るその保護者根性に。
「なにいってんの。僕の友達なんだから沙織ちゃんは関係ないじゃない。
いいからさ、ほら、早くいかないと昼休み終わっちゃう」
進は片手で、ぐいぐいと沙織を押して教室から引き離した。
「え、でも、もう、押さないでってば、片手じゃ危ないよ進君」
沙織はそういって、自分から離れた。
そして、進の目をじっと見た。確かに嘘はついているが、
これは必要なことで後ろめたいことはないはずだ。進は自分にそう言い聞かせてその目を見返した。
しばらくそうして、沙織も諦めたようだった。
「はあ、分かった、分かりました。じゃあ、今日は別に食べることにします」
二人は手を振って分かれた。ただ、沙織は何度も進の方を振り返っていた。
いきなり、昼食を別にするといわれて、混乱しているのだろう。
ただ、沙織と一緒に昼食をとりたい人間など、男女含めてそれこそ学校には数えられないくらい
いるのだから、心配することはない。
そして進も、別に一人で昼食を取るのがいやだというわけではなかった。
席に戻って弁当箱のふたを開けて食べ始めると、周りの生徒の空気が少し変わったのに気がついた。
みんな、いつも沙織と一緒に食べているのを知っているのだ。
ただ、進がわれ関せずで弁当を食べていると、やがて関心を失ったのか、
皆それぞれの食事と会話に集中し始めた。
しかし、誰もがそうやって進に無関心でいるわけではなかった。
「あの、平沢君?」
愛美だった。ピンクの布に包まれた小さな弁当箱を持っていた。
「今日はひとり?」
「ああ、うん、ちょっとね」
詳しいことは説明しづらい。
「あっ、じゃあ、えと、よかったら一緒に食べてもいい?」
愛美の唐突な提案に進はどう反応してよいのか分からない。
それをどう勘違いしたのか、愛美はあわてだした。
「うん、そうだよね、いやだよね、わたしといっしょなんて、ご、ごめんね、変なこといって」
愛美は暗い顔をして、そのまま弁当箱を持って立ち去ろうとした。
このまま行かせてしまえば、後で罪悪感にさいなまれること間違いなしだと思った進は、
あわてて引き止めた。
「いや、そうじゃないから、驚いただけだから、うん、一緒に食べよ」
進がそういうと、愛美は子犬をもらいたての女の子のように笑った。
「でも、どこで?ここで?」
進でも、同じクラスの男女が一つの机で二人きりで昼食を取るということが
世間の目にどう写るかくらいは分かっていた。
われながら、多少図太いところがある自分はいざしらず、いかにもプレッシャーに弱そうな愛美に
それはつらいだろうと進は思った。
「あの、わたし、いつも美術室で食べてるから。それであまった時間に絵描いたり」
お世辞にも、美術室が食事に適した場所だとは思えなかった。テレピン油やらの匂いがするのだ。
愛美は慣れているのかもしれなかったが。
ただ、それも少し我慢すれば済むことだった。
愛美の提案どおり、二人は美術室で食べることにした。
「いやあ、早速来てくれたのかい、平沢君!」
二人きりだと思ってきてみれば、美術室には先客がいた。翠だった。
予想していなかった事態に、進は美術室の出入り口で立ち止まってしまった。
翠は、右手で絵筆を動かしながら、左手で3色パンを口に運んでいた。行儀が悪かった。
「いや、ただ川名さんに誘われて昼飯を食いに」
「ほう、そうかそうか、川名さんに誘われてねえ」
翠は、進の横に立っていた愛美の方へにやりと笑いかけた。
愛美は顔を赤らめながら、伏せた。
「ああ、ほらほら座って座って。まあ、ここはお茶もなんにもないけどね。
絵を描きながらご飯が食べれるくらいで」
進と愛美はがたがたといすを動かして、向かい合ってすわり、膝の上に弁当を置いた。
進はだまって、愛美は手を合わせていただきますをいってから、弁当を食べだした。
「先輩もいつもここなんですか?」
進が聞いた。
「先輩だなんて水臭いなあ、みどりんでいいっていったのに」
「どうなんですか、先輩」
進が乗ってこないのに諦めて、翠がまともに答えた。
「まあね、さっきもいったように絵を描きながら食べれるしね。でも平沢君は?
いつもは沙織と一緒じゃなかったっけ」
「そんなことも知ってるんですか」
「あったりまえ、学校中の人間が知ってるんじゃない?中庭で二人でいれば目立つでしょうが。
あそこ、カップル専用なのに」
「へ?」
進にはきいたことのない情報だった。
「うそ、まじで知らなかったの?いやー鈍いねえ旦那。周りみりゃ分かるでしょうーが、だいたい」
確かに、改めて思い出してみると周りにはカップルばかりがいたような気がする。
ただ、進はいつも沙織といるときには、いやなものを見てしまうので
周りには極力注意を払わないようにしていたので気がつかなかった。
「まあ、いーや、それで、なんで今日は、川名さんとここで?」
「別に、僕だっていつも足立先輩と一緒にいるわけじゃありませんから」
進は、若干不機嫌さをにじませていった。
いい加減、自分を沙織の金魚の糞のように扱うのは止めて欲しかった。
「でも、いつも一緒にいるじゃん」
わりとしつこく、翠が追求した。
「だからです。そろそろ、その、ひとり立ち、じゃなくって、なんというか、えと」
たった一つ違いの幼馴染から、「ひとり立ち」しなければならないという自分の境遇に、
進はへこんだ。
どれほど甘ったれなのだろうと、進は思った。
「なるほど、まあいいんじゃない。沙織だって今年で卒業しちゃうわけだしねえ。
新しくお友達を作っとくのもいいよねえ」
翠はそういって、やはり愛美ににやり笑いを向けた。
愛美がまた顔を赤くして伏せた。
「それ、止めてもらえます」
「え、なになに何を止めて欲しいって?」
「それです、その笑いです」
「えー、人の笑顔を奪うこの悪魔、冷血漢、未来の管理社会、ビッグブラザー、H・G・ウェルズ!」
「なんですかそれ。それに最後のはオーソン・ウェルズでしょ」
そのやり取りを聞いていた愛美が、いきなり肩を震わせた。笑いを堪えているようだ。
「ぷくくくく」と愛美には似つかわしくない笑い声が漏れていた。
「ほら、川名さんだって笑ってますよ」
「ちがうの、平沢君、それジョージ・オーウェル」
進はそれを聞いて、赤面した。それなりには読書家であるとの自負があったのだ。
「あーあ、恥ずかしい間違いしちゃったねー」
「何いってんですか、先輩よりも僕の方が近いですよ」
「いやいや、あたしはちゃんと分かっててボケたんだもん」
「嘘ですよ!」
「いやー、恥ずかしい恥ずかしい。「それに最後のはオーソン・ウェルズでしょ」だってさー」
翠は、進の口真似をしていった。
「なんですかそれ、もしかして僕の真似ですか?ゼンッゼン似てませんから」
愛美は、そのやり取りですでに笑いを我慢するのを止めていた。
半ば本気で、半ば冗談で翠に噛み付いていた進は、それを横目で見ながら、
たまにはこういうのもいいのかもしれないとそう思った。 |