「ただいまミャー子」
玄関のドアを開け、挨拶をする。そこには既にミャー子がいて、僕に擦り寄ってくる。
これが日常の風景です。
「シンタローおかえりっ!」
人間の姿になり喋ることを除けば今でも変わりありません。
靴を脱ごうと腰掛けた僕に後ろから抱きついてきました。
「シンタロ〜」
「あっ、こらっ、ミャー子。靴が脱げないじゃないか」
抱きつくだけではなく、甘い声を出して首筋に鼻を押し付けました。
「シンタローのにおい、すき」
僕にもはっきり分かるように鼻を鳴らしてます。
相変わらず匂いを嗅ぎまくるのは勘弁してほしいです。
ここで一つ分かったことがあります。背中におっぱいが押し付けられるのを感じても、
それで興奮することはありません。
やはりと思いました。
昨日、ミャー子の体に股間が反応したのは、何日も溜めてたからなんです。
僕は安心しました。可愛い女の子になった飼い猫を、雑念を以て見ることがなくなったからです。
定期的に、それこそムラムラする前に発散させれば万事解決です。
確かに、ワンルームですから人間2人が住むには狭いです。今日も同じ蒲団で寝ないといけません。
ですが大丈夫です。僕がしっかりしてれば、今まで通り仲良くやっていけると思います。
「……あれ……」
突然、ミャー子の動きが止まりました。
「ミャー子?」
「シンタローのまたから、せいえきのにおい、する……」
発せられたのは、冷たい声。いつものそれとは違い、低い音程でした。
そして、次第に震え出す体。彼女の振動を背中からダイレクトに感じ、僕は冷や汗をかきました。
(まさか、ばれた?)
僕は咄嗟に抱擁を解き、玄関のドアにのけ反りました。
格段に嫉妬深いこの猫の次の反応に戦慄したからです。
ただ下を向き、ブルブルと体を震わせ、それが次第に大きくなっていきます。
尻尾も、ピンとV字型に伸びてます。
「あの……ミャー子?」
今の気分は、立て篭もった犯人を刺激しないように説得する新米警官。
来るはずのないネゴシエーターを心待ちにしながら、僕は身構えました。
「シンタロー!!!」
「ひっ!?」
何という情けない声でしょう。飼い猫に怒鳴られて怯える主人なんて聞いたことがありません。
ミャー子はまさに飛び掛かりらんとするような威勢で待機してるので、思わず身構えてしまいました。
「がっこうでち〇ち〇しゅっしゅっ、したな!!!」
「ごめんなさいごめんなさ……って、え?」
「がっこう、べんきょうするところ!シンタローばかっ!!せめて、いえでしろ!」
……どうやら、勘違いしているようです。
先生に抜いてもらったのではなく、自分でしたと。
実は、うちの学校の更衣室にはシャワールームが併設されてます。
6限の体育は持久走だったので使用したんですが、それで勘違いしたようです。
パンツにごく微量の精液が付着してるだけで身体からは特に別の匂いはない。だから自慰したのだと。
それに、先生に直接触られたのは睾丸と唇だけだったので大丈夫だったんだと思います。
それにしても、さすが猫。犬には及ばないまでもその嗅覚の鋭さには驚かされます。
もっと執拗に匂いを嗅がれてたらばれていたかもしれません。不幸中の幸いですね……
「わ、悪かったな!もう限界だったんだよ……家でしようにもいつもミャー子が邪魔するしさ……」
僕はミャー子の勘違いに乗ることにしました。やはり、情事は知られたくありません。
「ミャー子と交尾すればいい!」
「だからできるわけないだろ……」
「なんで!?ミャー子、ヒトになった!シンタロー、ミャー子のしゅじん!すきにしていい!」
激しい口調の割りには、その顔から怒りが消えてました。
代わりに表れたのは、何とも言い難い、やるせない表情でした。
「ミャー子がしあわせなの、シンタローのおかげ。シンタローがたすけてくれたから、
ミャー子いきてる。
はらいっぱいたべさせてくれて、いっぱいあそんでくれる。シンタロー、ミャー子のために
いろいろしてくれる。でもミャー子、シンタローにおんがえしできてない。
ネコだったから、できなかった。いま、ヒトのすがた。
それでも、なにもできないけど、交尾ならできる。シンタローのやくにたちたい」
たどたどしい口調だけど、ミャー子は切実な想いをぶつけました。
それは、猫の姿の頃からずっと抱いてたものなのでしょう。
水臭い。そう思いました。
ペットのくせに、主人に恩返ししたいなんて言うんですから。
「ミャー子」
僕はミャー子を抱きしめました。
「恩返しなんていつもしてもらってるよ」
「えっ……」
「ミャー子がいてくれるだけで、僕に構ってくれるだけで、幸せな気持ちになれるんだ」
寒空の元から帰っきて身体が冷えてるので、ミャー子の体温が心地良く、そして愛しく感じられます。
「交尾なんてしなくていい。今まで通り僕を愛してくれれば、それでいいから……」
「シンタロー……」
ミャー子は頬擦りをしてきました。頬に当たるその温かさは、僕を癒してくれます。
「ミャー子、シンタローのこと、あいしてる」
「僕もだよ、ミャー子」
しばらくの間、お互いの感触と愛情を確かめ合いました。
2本の尻尾が縦にゆらゆら動いています。これは嬉しさの表れです。
「でも」
「ん?」
「どうしてもがまんできなくなったら、ミャー子にいえ」
「うん、分かった」
「それと」
「うん」
「ほかのメスとうわきしたら、とうきょうわんにしずめてやる」
「だからお前猫だろ!?どこでそんな言葉覚えたんだよ!!」
感動的なシーンを台無しにしやがってこの愚猫は……
さっきはミャー子のことが思考の大部分を占めてましたが、
夜が深まり床に就くと別のことを考えてしまいます。
そう、響子先生のことです。
一学期から授業などで面識がありました。
でもそれは、新任教師と生徒という、何の変哲もない関係でした。
長身でセミロングを後ろに束ねタイトスーツに身を包んだ、所謂デキる女性の体現。
一瞥すればきっと英語や数学の担当教諭かと思うほどです。
そのせいか近寄りがたい雰囲気を持ち、近寄りたくても近寄れない生徒がたくさんいるようでした。
僕もご多分に漏れず先生に苦手意識を持っていたため、対した交流もありませんでした。
状況が変わったのは一ヶ月前です。
ある出来事がきっかけで、僕は先生と親密な関係になりました。
……いえ、親密という言葉で片付けるほど単純なものではありません。
仲良くなりいくつかの段階を経て初体験……ではないのです。
何の前触れもなく家庭科実習室に連れていかれ、僕は童貞を奪われ、
同時に先生の処女を貰う形になりました。
その時僕は気が動転していて碌な反論もできず、されるがままでした。
気付いた時には、先生の中で果ててました。
それ以来、先生のことを意図的に避けてました。
勝手に事を進めたのは先生だという風に言い聞かせても、
大して親しくもない人の純潔を汚してしまったことに罪悪感があったからです。
本当は、今日の呼び出しを無視するはずでした。
事実を認識する度胸を持ち合わせていないせいで、先生と再び対峙するのが怖かったから、
うやむやに濁してしまおうと思いました。
でも僕はそうしませんでした。
何故か。
たぶんそれは、先生にもう一度会って、
半ば強制的に屠られたいという深層心理が働いたからかもしれないと、今になって考えられるのです。
結果的に僕の考えた通りになりました。
先生に興奮剤を盛られ、恥ずかしさの中で顔を背けることも許されずに扱かわれ、
格別の快感を与えられました。
男の性のせい、と片付ければ簡単です。ですがそれは、ただの逃避に過ぎません。
結局のところ、性の主は僕なんですから。
先生のことを考えれば、胸が苦しくなります。
勿論それは恋い焦がれる気持ちではありません。先生に対する罪悪感と、期待です。
前者は、先生の好意に戸惑いを感じつつも素直に応えられないことに対して。
後者は、僕が望めばいつでも先生に気持ち良くしてもらえるんじゃないかという邪な気持ち。
もう少し歳を重ねれば、事実を冷静に理解して相応の対応ができるのでしょうか。
そうであるならば、早く大人になりたいです。
今の僕は、ただ流されるだけの駄目なやつなんですから。
隣で寝てるミャー子の頬をそっと撫でました。
「んん…………」
すると、気持ち良さそうに喉を鳴らしました。
「もっとしっかりしないとな……」
自分にそう言い聞かせて、瞼を閉じました。
目を覚ました時には、日光がカーテンの合間を縫って差し込んでました。
今日は土曜、12月にしては暖かく、洗濯日和のようです。
「ぐぅぅぅ…………」
昨日は9時に寝たというのに、ミャー子はまだ寝てます。
やはり猫、「寝る子」という名は伊達ではありません。
それにしても……もの凄いアホ面です。
頬は緩み、口はモゴモゴと動き、手を丸めて何かを捕まえようと顔の回りで円を描いてます。
僕は吹き出しそうになるのを堪えて、洗面所に行きました。
機会があれば顔に落書きしてやろうと思います。
「う゛〜ん……」
洗濯物を干し終え、朝ごはんの用意ができようかという時になってようやく目を醒ましました。
「おはよう、ミャー子。ご飯の用意できてるよ」
「シンタロー……しっこ……」
「ほら、ちゃんと目を開けてトイレに行きなさい」
「うーん……」
ミャー子は寝ぼけ眼を擦りながらトイレに向かいました。
特に教えたわけではないのに、ちゃんと人間用のトイレを使ったのには最初驚きました。
やはり賢い猫です。
それはともかく、今日の寝起きはあまり良くないようです。変な夢でも見たんでしょうか。
「よし、どこからどう見たって猫には見えない」
ニット帽とおさがりのコートを着たミャー子を前に、僕は自画自賛しました。
僕の言い付けで昨日は家から一歩も出なかったので、
それと、今日は休みだから外出したいというミャー子の申し出があったからです。
最初は戸惑いましたが、猫耳と尻尾が見えなければ外に出ても問題ないはずです。
「それじゃあ行こうか」
「うん!」
自転車で街を走ります。信号待ちの自動車を横目に、すいすいと路を抜けていきます。
いつもと違うのは、後ろにミャー子を乗せてること。
以前は、彼女と一緒に出歩く時にはフード付きの服を着てました。
そこに後ろ脚を入れ前脚を僕の肩に乗せてやれば、二本の尻尾がうまい具合に隠れるからです。
そうやってた頃がまるで昔のことのように感じます。
猫が人間になるという信じられないことに、未だ妙な気持ちにさせられます。
それにしても、すれ違う人達、特に男性が冷たい視線をぶつけてくるのは
僕に嫉妬してるからなんでしょうか。
もしそうなら、軽い優越感です。
さて今日は休日映画館や遊園地といった、人工のレジャー施設に行くわけではありません。
僕達が向かうのは『自由の羽根公園』。広大な敷地面積と豊かな自然が広がる、
何とも健康的な娯楽場です。
「シンタロー!はやくはやくー」
「ちょ、ミャー子、速いって」
ミャー子はコートと靴を脱ぎ捨てて家にいる時と同じ格好になりました。
ジャージにニット帽という組み合わせは何とも言えず滑稽ですが、同時に可愛いと思いました。
僕が学校に行ってる時はいつも来てるらしいほど、お気に入りの場所のようです。
それに、昨日外に出てない分を取り戻そうとするかのようなはしゃぎっぷりに、思わず頬が緩みます。
走り回ったり転がったりと忙しそうで、その度に長い髪が靡いて、きらきらと輝いてます。
……おっぱいも、ジャージの上からでもはっきり分かるほど揺れてます。
目を逸らそうにも、あまりに見事な揺れっぷりには抗えせん。
ごめん、ミャー子……
おっぱいを見てると幸せな気持ちになれるんだ。性的な意味はないから、今だけは見させて……
「じーーー」
「うっ……」
腕で胸元を隠すミャー子。気付かれてしまったようです。
「シンタローのえっち」
「いや、その……ごめんなさい」
僕は駄目な飼い主です。
楽しい時間でした。
自然の中で走り回ったり、行ったことのないエリアを探検したりと、まるで童心に帰ったようでした。
ですがその後、ちょっとした出来事がありました。
はしゃぎ疲れて膝で眠ってるミャー子につられて、僕もウトウトしてた時のことです。
太陽が赤く染まり始め、肌寒さを感じて目を醒ますと、僕達の前に立ち尽くしてる人影。
子犬を3匹連れながら、僕とミャー子を見下ろしてます。
「あれ……川原木さん、なんでこんなとこに」
それは、僕がよく利用してるペットショップのアルバイトで、同級生でもある女の子でした。
「ああ、犬の散歩か。いつもご苦労さ……」
「大窪君」
僕の言葉を遮り、川原木さんは言いました。
「その人……誰なんですか」
今まで聞いたことのない、威圧的な声でした。 |