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1

「私、絵の勉強で留学することになったのっ…!」
胸を抉る衝撃っていうのは、きっとこういうことを言うんだろう。
彼女が発した言葉が、文字通り刃となって俺の胸に突き刺さった。
「あ…………?え…?」
思わず持っていた箸を取り落としながら、俺の口は言葉にならない無残な音階を重ねている。
あまりに唐突過ぎる。
頭が割れそうだ。
しかし、そんな俺を置き去りに、
「その、できれば、私が戻るまで、待ってて欲しいの…」
と、彼女が言葉を続ける。
意味がわからない。お前は何を言っている?
ちゃんと俺の顔を見ろ、俺の瞳を合わせろ、俺に、何か言葉を…
「………」
長い沈黙だけが支配する。
彼女は顔を真っ赤にして俯き、俺は対照的にきっと真っ青になっている。
こんな空気が訪れるのはもしかしたら初めて彼女を抱いたとき以来ではなかろうか。
処女であった彼女を欲望のままに貪って泣かせてしまった、あのときの状況と似ている。
「………」
彼女は小さな体を余計に小さく見せるように縮こまり、膝の上で握り締めた拳を見つめている。
俺はといえば…
ひたすらに空、ただ空だった。
取り落とした箸を拾う気にも、まして彼女を押しとどめる気にもなれない。
呆然と、口を酸欠の金魚のようにパクつかせて間抜け面を浮かべていることしかできなかった。
「………」
いい加減沈黙がいい具合に肺を締め上げている。
そして頭の中が言葉を模索するうちにカオスになった頃、ようやく彼女が小さな唇を開いた。
「あの―――」
「どれくらい、滞在するんだ?」
なんともタイミングが悪い。
彼女が口を開く瞬間を見ていたというのに、この失態。
自分のアホさ加減に脳がイカれそうだ。
死にたい。
間抜けに片方握ったままの箸が凶器であるならば、すぐさま手首を切り刻んでしまいたい。
「………一年間、滞在する予定、だけど…」
彼女が沈黙に重なった気まずさを掻き分け、俺の顔色を伺うように上目で言う。
「そ、そっか、い一年かぁ〜長いなぁ〜」
俺はどうしてこうも空気を読めないのか。
やっと目を合わせてくれた彼女が再び申し訳なさそうに俯いてしまう。
本当に駄目な男だな、俺は。
最愛の彼女が自分のやりたいことで世界に羽ばたこうというのに、どうして上手に祝福してやれない?
胸がひび割れそうなくらい痛くて、指先が凍るくらいに悲しいのに、何故せめて抱きしめてやれない?
自分の不器用さ、鈍感さ、すべてに腹が立つ。
そして…
本当は行ってほしくないのに、傍にいて欲しいのに、どうして…
「しょうがない。行って来い」
諦念で歪んだ作り笑いを浮かべながら、こんな言葉しか贈れないのだろうか?

 







「私、絵の勉強で留学することになったの…!」
目の前でお気に入りの日替わり定食にがっつく彼と、視線を交わせない。
言ってから、何もこんなところで…と思う。
重要なことなんだから、他にもふさわしい場所はいくらでも浮かんでくるのに…
今更吐いた言葉は飲み込めず、気恥ずかしさと申し訳なさ、すべてが混ざった不甲斐なさに
身を打たれ、彼から視線を外すことしかできなかった。
「あ…………?え…?」
カツン…と箸が片方落ちる。
そして持ち主である彼は大降りの豚カツを一切れ口に運ぼうとしたところで硬直していた。
何か言葉を選んでいるのか、それとも透明の肉を咀嚼しているのかは判別つかない。
しかし、そんな彼を置き去りのまま私の口は更にトンデモないことを発した。
「その、できれば、私が戻るまで、待ってて欲しいの…」
言ってからまだ自分を殴りたくなった。
阿呆か?そう罵られても何も言い返せない。
このまま全裸に剥かれて店の軒先に吊るされても文句は言えないくらいの傲慢発言。
今まで何の相談もせず留学の件を進めたことと、勝手に滑って出た愚劣過ぎる束縛の言葉に、身が焼けそうなくらいの熱を持った。
―――頬が熱い。
一気に氷点下まで下がった空気にそぐわないほど自分に腹が立つ。
私は女王にでもなったつもりなのか?
いったい私はどれほどの女なのか?
浅はか過ぎる思考と、無駄だとわかっていながら海を越えて彼を束縛したい独占欲という本音が、卑しい自分を象徴するように滑り出ていた。
夢と大切な彼…
両方を手に入れることは絶対に不可能なのに…
どうしてこの汚い口はどす黒い本心を透かすような言葉を放ってしまうのか?
思わず拳を握り締め、睨み殺さんとする勢いで見つめてしまう。
どれくらい沈黙が落ちていただろう。
次に彼が口を開くときどんな言葉で罵られるのか、どんな冷たい言葉で別れを告げられるのか…
凍るような沈黙の中で私は死ぬほどの恐怖に身を震わせた。
最愛の彼に、一番大切な彼に、ゴミみたいに捨てられるなら…
せめて、私から…
「あの―――」
「どれくらい、滞在するんだ?」
まだ片方を落とした箸を握りながら、私程度の恋愛経験では見抜けない複雑な表情で
私を見つめている。
彼の感情を読めないのは悔しい、悔しいけど…
「………一年間、滞在する、予定…」
裏返りそうな声で必死に押さえつけ、なんとか答える。
「そ、そっか、い一年かぁ〜長いなぁ〜」
伺うような私は、再び打ちのめされる。
一年なんて、待ってくれるわけがない。
彼くらい素敵な人なら、他の女性がほうっておかないだろう。
彼くらい素敵な人なら、私なんかよりもずっといい女性が見つかるだろう。
彼くらい素敵な人なら………と想像するだけで身がちぎれるほどの嫉妬心に震える。
どこまで、どこまで私はズルイ女なの?
自己嫌悪が胸中を埋め尽くし、吐き気に変わろうとしたころ…
「しょうがない。行って来い」
いつも通りの困り眉で、彼は背中を押してくれた。

 

空港。

「じゃあ…行ってきます…」
「がんばってこいよ」
日差しの差し込む空港で、両手いっぱいに荷物を持った私に爽やかな笑顔を向けてくれる。
あの後、我儘を受け入れてくれたことが嬉しすぎて彼の腕の中で一日中泣きじゃくった。
周りの目など気にすることなく、少ない時間を分かち合うように、溶け合うようなキスをした。
彼は私を裏切らない、絶対に捨てたりしない。
そう心で叫ぶたびに私は強くなれるような気がして、不安な海外での一人暮らしにも光が満ちてきた。
「……手紙、送るからっ!!」
彼の優しい笑顔を見ていると、また涙がこぼれそうになった。
―――離れたくない。ずっと触れ合っていたい。
でも、これは私が選んだこと。今更引き返すのは情けないし、背中を押してくれた彼を裏切る行為だ。
私は嗚咽を飲み込んで、歩み出した。

―――行くな。
笑顔で、俺は何回胸の中で唱えただろう。
―――行くな。
何度も振り返る彼女に微笑むたび、目の前が軋む。
―――行くな。
頭が割れそうなくらい痛い、不安に足元がぬかるむ。
―――行くな。
手を振る指先が、凍る。
―――行くな……

もう、手を伸ばしても届かない。






ある程度想像していたものの、小さな島国で生まれ育った私にとって海外での生活は
驚きと発見の連続だった。
しかし一日を過ごすたびに言葉にも馴染み、その土地で新たな関係を築いていく日々に
充足さえ覚え始めた。
もちろん、彼のことを忘れた日はない。
(絵の勉強はどうだ?馴れない海外なんだ。あまり無理はするなよ)
手紙に視線を落とし、一文字一文字指先でなぞりながら口にするだけで
彼に包まれているような気さえする。
「はいはい、平気ですよっと。アンタも私がいないからって冷凍食品とかばっかりじゃ
栄養偏っちゃうぞ」
(任せろ、料理はもう覚えた。帰ったら楽しみにしときな)
恐ろしく間隔の長い会話。
それでも私は満たされている。
不安や悩みはとっくに封印したはずだった。
でも…
冬の訪れとともにやってきた一通の手紙が、深く眠った感情を揺り動かすように惑わせた。

(寂しい、会いたい―――)

今まで絶対に見せることがなかった彼の感情。
頭がおかしくなるくらいの衝撃を受けた。
だとしても、戻れない。
ここで戻ったら、すべてを無に返してしまう。
彼の気持ちも、裏切ってしまう。

「ごめん、今はまだ帰れない…」

一人の部屋でつぶやいた言葉は、寒空に消えた。
彼からの返事は、それが最後になった。

 

 

 

アイツがいなくなって半年、冬の訪れとともに俺は風邪を引いた。
狭いアパートの一室。
余計に広く見える。
咳きをするたびに響く声に、返す人はいない。
虚しく部屋の隅に消えていく言葉は、寂しさを更に積み上げていく。
昨日勢いで出してしまった手紙を思い返すたびに、縮んだ心が潰れていく。
あれだけ封印した気持ちを、弱った心のまま解き放ってしまった。
「腹、減った…」
後悔と熱で体が動かない。もう起きる気力もない。
彼女が留学すると聞いた時に死ねなかったなら、いっそ今死んでしまおうか。
てか、何か食わないとマジで死ぬ。
とりあえずメールで友人に救援を頼んだが、ちゃんとやってくるのだろうか。
あいつらのことだから薬代わりに酒飲ませてきそうだ…
更に増していく頭痛に、回る視界、ドアを乱雑に叩く音が俺を覚醒させなかったら
そのまま死んでいたかもしれない。
「うぅ……入って、くれ……」
ガツン!!!!
扉が割れそうな轟音と一緒に、暗い部屋に明かりが差し込む。
「お前が伸びてるなんて珍しいなぁ」
そこには、中学時代からの男友達、ではなく…
女の皮を被った悪友、いや、悪魔がやってきた。
あ、今、絶対熱上がった。
「何でお前がいるんだよ…」
「これ見てわかんない?お見舞いだよ、お・み・ま・い☆」
そいつは右手にぶら下げたビニール袋を見せびらかすように言った。
☆をつけるな、気色悪い。
「そこじゃねーよ、俺はヤツに頼んだはずなのに…」
「あぁ、ヤツね。急に熱でたから代わりにあたしがきてやった。感謝しな」
カカカと白い歯を見せて笑う。
そいつは部屋の明かりをつけると、俺のベッド脇にどかりと腰掛けた。
俺とそう変わらない長身に、はっきりとした目鼻立ち。
アーモンド形の大きな瞳は好奇心に揺れ、綺麗な弧を描いた唇は
化粧っ気もないというのに湿っている。
なんだかいつもとは違う雰囲気が俺の警戒心を加速させていった。
「俺よりヤツを見舞ってやるほうが先なんじゃないか?」
「あぁ、腹に一発鉄拳呉れてやったら直ったよ。お前も試す?」
また大げさな手振りで笑った。
肩まで伸びたセミロングの黒髪、女だと意識させないサバサバした性格から
こいつとは早十年来の付き合いとなっている。
中学の時は一緒に授業を抜けて校舎裏でタバコを蒸かし、高校の時は取ったばかりの免許で
長距離ツーリングに出かけた。
今思えば、俺の記憶にはいつもこいつがいた。豪快な性格に、まっすぐな心。
そういう心地よさが、俺たちの関係をここまで続けてきたのかもしれない。
やべぇ、そんなことを思っていたら急に気恥ずかしくなった。
「帰れ、暴力女」
「ふふふ、病人はおとなしく、ね・て・な!」
ボフッっと、わき腹に一発。軽い一撃だったが、俺は思わず咳き込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ…うぅ…」
軽く睨み付けてやるが、こいつはわずかに眉を動かしただけで気に留めない。
「ところでさ、何食いたい?」
気づけばこいつは台所まで移動し、ビニール袋の中身を広げていた。
玉子に葱、豚肉、林檎…多種多様な食材を並べ、吟味するように眺めている。
行商でも始めるつもりか?お前に食材は似合わないぞ。
「まぁその様子じゃあ、お粥ぐらいしか食えそうもないな…」
一度俺に視線を這わせ、目を線にして笑った。
いつもなら嫌な予感しかしないニヤニヤ笑いだが、なぜか今日に限って不気味なほど落ち着く。
何でだ?
「はっ…お前が料理で人の食えるものを作れるはずが…」




わが目を疑った。
ちょうど十五分後、小さな丸テーブルにはお粥というには立派過ぎる代物が
輝きを放ちつつ鎮座していた。
なんつーか、米、光ってる。とてもインスタントの白米で作ったとは思えない。
「やっぱりお前の家、炊飯器とかないんだもんなぁ…普段何食ってるの?霞?」
「仙人か!!ちゃんと食ってたよ…彼女がいたときはな」
俺は程よい食感の米と、抜群の舌触りを楽しみつつ、しんみりとつぶやいた。
正直こいつがここまでやれるとは思ってなかった。
中学の時の調理実習では炭しか作れなかったのに…
「……彼女…か…」
「あぁ、それより見直したぜ。お前が料理できるなんてな!!これならちゃんと嫁の貰い手がいるぞ」
俺がこいつに持っていた印象は、男モンのライダースとエンジニアを履いて
アメリカンを転がしてるっていうものだった。
でも、俺が蓮華を置くと同時に薬と水を差し出すこいつの指先は…

細くて白い、女の指だった。

「どうした?…なんか変だぞ、お前」
「ん?あぁ…メシ食ったら体温上がったみたいだ。それより、美味かった。ありがとな」
そう言って肩を軽くたたく。
ダボダボの服越しに想像していた固さとは違う、細くて華奢な…
「ホントに変だぞ、お前?寝たほうがいいんじゃねぇ?」
肩を掴んだまま固まった俺を訝しげに覗きこみ、シーツをかけてくれる。
そのまま慣れた手つきで冷えたお絞りを俺の額に乗せて歯を見せて笑った後、
こいつは部屋の掃除を始めた。




「じゃあ、あたしは帰るから〜病人様はおとなしくおネムの時間だよ」
半ば男屋敷と化していた俺の部屋に清潔感と統一性をもたらした後、俺の顔を覗き込んでそう言った。
熱でぼーっとしているためか、視界がぼやけて俺一人取り残されたような感覚に襲われる。
「あ…」
自分でも情けないほど細い声。あわてて口をふさぐ。
「どうした?」
「なんでも、ねえ…」
気恥ずかしさのため、布団を鼻まで持ち上げて寝返りを打つ。
なぜだかわからないが、頬が熱を持ってこいつと視線を交わせない。
―――どうしたよ、俺?
「帰れ」
後ろで影が動く。
どうやら俺の背中までやってきたようだ。
早く帰ってくれ。
「そういえば…」
「何だ?」

 

「アンタの彼女って、どこか遠くに行ってるんだっけ?」
「華の都に美術留学中だ。あと半年は帰ってこない」

「ふぅん…♪」

背中を向けているため、表情はわからない。
しかし、こいつの声はいつになく弾んでいる。
これは、新しい玩具を見つけたときの声色だ。
ここまでわかってしまう自分が情けなくて恥ずかしくて、俺は布団の中で体を丸めた。
「半年、会ってないのかぁ…」
言うな、思い出す。
食欲が満たされると、別の欲望が沸いてくるから。
一人の布団、腕を伸ばしてもぬくもりはない。
俺…
一人だ。
「な、なんだよ…」
背中に布団越しでこいつの手が触れる。
女にしては大きい、でも、温かい。
ひどく落ち着いて、ひどく懐かしい。
「いやねぇ…あたしがここに来たのはもうひとつ理由があってさぁ…♪」
きっと俺の反応をみて楽しんでいる。
絶対ニヤけて俺のことを…
「知ってた?」
「なにがだ?」

「わたしがあんたのこと好きだってこと」

―――――――――はぁ?

「――――――は」

心の言葉を口に乗せる前に、布団の上にのしかかられる。

「…ずっと、まってたんだよねぇ…この機会を♪」

背中に当たる柔らかな感触、触れた部分から溶け堕ちそうなほど熱い体温。
体が感じるぬくもりは、確かに…
「ちょ、まて、冗談はやめろ!!俺は病人だぞ!!それに重いし、もっと労われよ!!」
「い・や」
耳にかかる息は甘く、冷えた心を芯から痺れさせるような官能。
俺の背中で形を変える柔らかな肉感、押し当てられる細い腰…
全部俺の知らないこいつの姿。
頭を振ってショートする思考を追い出そうとする。
しかし、俺が長い間失っていたぬくもりが、体温が、邪魔をした。
「お前、いい加減に!!」
体を返してこいつを布団から追い出し、怒鳴りつけようとして―――――――

「んぐっ…」

唇が、重なった。

 

「お、お前!!…」
語尾は更に深い口付けによって消えてしまう。湿った吐息に痺れるほど甘い感触。
どうしちまったんだ?こいつも、俺も?…
俺はどうして抵抗しない?どうして探るような舌先に答えてしまう?
どうして…胸板でつぶれる細いからだと、折れそうなくらい華奢な肩を…
突き飛ばせない?
「今日は泊まっていくことにするよ」
「誰に断って…っ!!」
奥、口腔まで蹂躙される。小さな舌先は必死に俺の中を駆け巡り、たっぷりと唾液を塗りつけた。
「頼む、止めよう…俺とお前の関係はこんなんじゃないはずだ。いつも笑って一緒にいられる関係。
  それが正しい形だろう?違うか?それに、俺は…」
「…本当に、それでわたしが満足してたと思う?本当に、悪友っていう立場で満足してたと思う?
  あんたの隣に女の子がいて、それで笑顔でいたと思う?」
銀の糸が橋となって俺とこいつの舌先を結ぶ。部屋を照らす僅かな照明のなかでもわかる。
こいつの瞳が、ありえないほど潤んで、ありえないほど熱く滾っていることに。
「……」
何も言うことができない。こいつの瞳を見た瞬間にわかってしまった。
どれだけ自分の気持ちを偽って、俺との関係を築いていたことに。
「本当に気づいてなかったの?わたしの本当の気持ちに。まぁ、あんたは鈍感だから、仕方ないか。
  それに、あんたの前では必死に押さえつけてたから。
  気味悪いくらい女の情欲に燃える“あたし”の心を」
「……」
「ふふふ…ただの友達だと思ってた男女がしおらしくなって引いちゃった?
でもね……“わたし”はあんたのこと友達なんて思ったこと一度もないよ。
  ずっと、ずっと見てたんだから。あんたを一人の“男”として“女”のわたしが。
浅ましくて汚濁よりも下劣な気持ちで、あんたのこと見てたんだから…」
俺の手首を押さえつけ、これでもかというほど豊満な胸を押し付けてくる。
胸板の形に押しつぶされ、柔らかに変形する質感。下品なほど大きな音を立てて交わる舌先。
そんなことをどこか他人事のようにして、俺はこいつの温もりに溺れていた。
これは彼女に対する裏切り、頭の中では何度も繰り返される。
でも、ひょっとしたら彼女は俺なんかより絵のほうが大事で、
他に男でも作って楽しんでいるのではないか?
などという雑念まで生まれ始める。
自分でこんなことをされておいて、なんて汚い男なんだ…と罵っても止まらない。
きっと今まで何度も胸の深い部分で思っていたことだからだろうか?
そう考えていると、死ぬほど自分が恥ずかしい。
「それにさ…いっぱい汗かいたほうが治りが早くなるって言うじゃないか」
ふざけるな、いや、おねがいだ…
やめてくれ…
「俺は…しないからな…」
見つめ返すこいつの顔。
今まで気づかなかったのがバカらしいくらい整っている。
勝手に黒いと思っていた肌も、アホみたいに白い。
筋肉でがちがちだと思っていた腕も、腰も、俺のことをせせら笑うくらい華奢で柔らかい。
あぁ。
こいつ、女だ。
バカバカしいくらいに女だ。
どうして今まで、気づかなかったのだろう…?

「そんなの関係ないね…襲うのは、“わたし”なんだからっ!!」
理性の箍が外れる。
閉じた瞼の奥で、彼女が寂しそうに俯いた。

 







やった。
やってしまった。
いや、正確には…成功したというのが正しいだろうか。
彼女が留学したと聞いてから半年、ずっと伺っていた機会が遂に訪れた。
ずっと、ずーっと昔から…
高く積み上げるようにしてきたあいつへの想いが、爆発するようにあふれ出した。
あいつがあたしのことを女としてみていないと気づいたとき以来、
何年も押し殺してきた女としての“わたし”
きっと覗かれたら自殺するしかないと思うくらい、黒くてキタナイ女としての情念。
あいつの“女”になれないならせめて友達でいようと思って、ずっと男として振舞ってきた。
あいつのことをみて潤みそうになる瞳を、どうしようもないくらい熱くなる下半身を、
身が切れるほどの忍耐で抑えつけた。
でも耐え切れるはず、ないよ。
だって、体はこんなにもあいつを求めていたし、あいつの隣に違う女がいるだけで
胸が発火するくらい打ち震えたんだから。
どうして、あたしじゃないの?
どうして、あたしを女としてみてくれないの?
どうして、そんな女がいいの?
あたしだって、本当は、もっと女らしくなれるのに。
あたしだって、本当は、あんたのこと女として愛せるのに。
正直あいつの彼女が留学したと聞いて、嬉しいと同時にとてつもなく腹が立った。
大成するとも知れないちっぽけな夢とあいつを天秤にかけて、
尚且つあの女は両方を手に入れようとしていた。
あいつの“友達”としての立場を手に入れるために、わたしは一番大切な気持ちを切り捨てたのに…
目の前が真っ赤になって、拳が割れそうなほど握り締めた。
ずるいよ、両方なんて…
ずるい、ずるい…
絶対に、認められない。
絶対に、許さない。
だからわたしは、あいつを襲った。
直前まで平静を装って、なるべく内に潜む気持ちを悟られないように。
でも我慢できるわけないよね。
ずっと、ずっと思い続けてきたんだから。
死ぬくらい好きで、殺されたいくらい愛してるあいつを前にして、
思わず心のうちを吐き出してしまった。
胸なんてないと思ってただろうけど、実は大きいんだよ。
いっつもダボダボのジーンズ履いて誤魔化してたけど、
脚だってその辺のモデルに負けないくらい細い。
大食いを装ってたけど、体系維持のために、ホントにがんばったんだから…
だから遠慮しないで貪っていいんだよ。
この体は、全部あんたのために作ってきたんだから。
ううん、生まれてからずっと、あんたのために、あんただけのために生きてきたんだから。

ははは…♪
元・彼女さん。
もうあいつのことは忘れて、せいぜい美術で大成してください。
貴女が切り捨てた大事な大事な彼は、わたしが責任もって一生添い遂げますから。
毎日毎日体を重ねて、まだ収まらないわたしの深い、深い、気持ちで塗り替えてあげるから…
貴女のものだった彼を…

―――――――わたし色に。

2






あの手紙を受け取ってから二ヶ月。
彼からの返事はない。
季節は本格的に冬になり、外を一人で歩くには寒すぎる。
手紙を読んでから、封印したはずの彼への思いは堰を切ったようにあふれ出していた。
そして気づく。
こんなにも、彼のこと好きだったということに。
あれほど輝いていた毎日もどこか色あせ、
留学の目的である勉強にもほとんど身が入らなくなっていた。
思うことは、一つ。
朝起きて、思う。
夜お風呂に浸かり、一人で夕食を胃袋に納め、小さなベッドに埋まるたび―――――

彼のぬくもりが欲しい…

それだけ。

気づけば涙を落としている。
なんて、傲慢な涙か。
自分で切り捨てておいて、何の連絡もよこさない彼に苛立ちさえ感じている。
待っててくれるんでしょ?
わたしのこと好きなんでしょ?愛してるんでしょ?
だったら、不安にさせないでよ。
手紙、送りなさいよ…!
こっちに、遊びに来なさいよ…!!!!

気温の低さとは違う寒気に、胸が萎んでいく。
パジャマの上から心臓を握り締め、愚かな感情を打ち消すように体を丸める。

サムイ―――――アイタイ――――――

アイシテル…

想いは彼に届かない。

しかし絶対に届かないと思った私の気持ちは、手紙となってやってきた。
嬉しい。
始めはそう思った。
でも…彼が絶対に使わない可愛らしい手紙、丸っこい文字、
そして何より私を地獄に突き落とした―――――

俺たち
          結婚しました
わたしたち

の文字。

 

次に我を取り戻したのは、その手紙をぐちゃぐちゃに引き裂いて、
小さな手荷物一つで成田に降り立ったときだった。

向こうよりは多少暖かい。

でも、胸の奥が凍てつくほど鋭く、燃えるほど、妬けている…

半ば亡霊のような足取りで、彼のアパートへ向かう。
タクシーのバックミラーで自分の顔を見る。

般若。

瞬時に背けた。

流れ行く町並み。
あと少しで彼のところへたどり着く。
窓に映る私はやはり…

―――――――修羅。

ぶすぶすと鉛が灼熱の温度に溶けていく。
じーっとりと、私の胸を焦がして、焼き尽くすように流れていく。
涙は、枯れた。
いや、燃え尽きて灰になった。

待っているっていったくせに待ってるっていったくせに待っているっていったくせに
待ってるっていったくせに
待っているっていったくせに待ってるっていったくせに待っているっていったくせに
待ってるっていったくせに
待っているっていったくせに待ってるっていったくせに待っているっていったくせに
待ってるっていったくせに

 

クラクラするくらいの憎悪。

私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?

身が捩じ切れそうなほどの嫉妬。

ガタン!!!バタン!!!!

破らんとする勢いで彼の部屋の扉を開け放つ。
気に喰わない新しい表札はぐしゃぐしゃに握りつぶして踏みつけた。

 

 

暗い、部屋。

奥から響いてくるのは、鈍い男の声と、快楽に溺れた女の嬌声。

誰よ?
誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ
誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ―――――――

「――――ねぇ、その女、誰?」

明かりをつけ、溶け合うように抱き合った一組の男女を見据える。
驚愕に見開かれた男の顔。

どうして、お前が…?そう告げている。
知るか、そんなこと。
それより…

「―――ねぇ、誰なの、その女?」

こっちのほうがたいせつ。

「待っててくれるって、言ったじゃない。気にしないで行って来いって、言ったじゃない。
  それなのに、どうして、そんなのと、抱き合ってるのかなぁ?」

自分でも驚くくらいに低い声。
仕方ないよ、だって、彼と抱き合いながら私のほうを見ているメスの顔が…

殺したいくらい愉悦に歪んでいるんだから――――

「お前、なんで、絵の勉強は?…」

「こんなの送りつけられたら、誰だって戻ってくるよ。うん。誰だって」

ぱらぱら…ととっくに白くなって氷と見まがうほど冷たい拳を開く。

木っ端微塵に引き裂かれたピンクの便箋、鮮血のように零れた。

「あははははは♪見てくれたの?その手紙。
  じゃあわたしたちのこと祝福しに来てくれたの?わざわざ?
  うれしいわぁ…“わたしの彼”の元カノさんが優しい人でぇ〜」

視界が明滅。
気づけば彼の上に跨って浅ましく腰を振っていた泥棒猫の顔を張っていた。

 

「この…泥棒猫!!!!!!!!どうやって彼を誑かしたの?????」

「……そんなに怖い顔しないでよ。顔、般若みたいだよ?それより、痛いなぁ〜怖い怖い
  女の人にはたかれてこんなに真っ赤になっちゃった…
  ねぇ、優しく撫でてキスして…」

足元から這い上がって虫唾が走るほどの猫なで声。
■したい……■して、野犬の餌にしたい。

「なんなのよ…いったい!!!!その女―――――――まさか!!!!」

■す勢いで薄汚い泥棒猫の顔を見ていると、記憶の中の一つと見事に一致した。
見覚えがある、その姿。
記憶のそいつとは大分違うけど、その顔、髪型…そして…

吐き気を催すくらい愚劣な目つきで私だけの彼を見つめる盛りのついたケモノみたいな瞳…

あはは、やっぱり。

そうかぁ…

やっぱり…

「あんただったのね…気の置けない友達を装って彼に近づいて、魔女みたいに彼を誑かして…
■しておけばよかった―――――――蝿より浅ましい泥棒猫…また彼に色目使ってる…」

引きつる顔筋を抑えるように頬を引っかく。
伸びた爪が薄い肌を引き裂いて生ぬるい液体が零れてるけど、どうでもいい。

そんなことより、先にこのメス猫を■すのが先だ。

「元はといえば、アンタが悪いんだよ。こいつを放ってどっか飛び出しちゃうから。
最初にこいつを見捨てたのはアンタなんだよ!!!」

バチン!!!

目の前で星が弾ける。

殴られた。
直感的そう思い、返す手の甲で殴り返した。

ガツン!!

「あぁ…痛いよぉ…殴られた、わたしは張っただけなのに、怖い怖いメス犬さんに殴られちゃった。
  頭撫で撫でして、慰めてぇ〜♪」

「■■■■!!!!!!」

気づけば馬乗りになり、忌々しいくらい指どおりのいい黒髪を引きちぎる。
鼻の奥が熱い、唇が焼けそうなくらいひりひりする。
口の奥で何かが折れた。
でも、知らない…
そんなことよりなにより、この泥棒猫を、泥棒猫を…

――――――血祭りにしたい。

 

「死んで、死んでよ!!!彼は私のものなんだから!!!
離れても、ずーっと私だけのものなんだからぁ!!!」

「自分で見捨てておいて何いってるのかなぁ〜この狂犬は。
どこのどの口で、そんな図々しいこと言えるんだか!!
  始めにこいつの魅力に気がついたのは、“わたし”なのに!!!こいつを手に入れるために、
  全部犠牲にしてきたのに!!!」

「うるさいうるさいうるさい!私のいない隙に、どんな手を使ったのよ!!!
この■■以下のクズ!!!」

彼に聞かれたら思わず口を切り裂きたくくらいの罵詈雑言が、次々と飛び出す。
そのたび殴り合い、視界を真っ赤にしながらつかみ合う。

「死んじゃえ!!死んじゃえ!!」

やっとのことでソイツの首に手を伸ばす。
私よりもだいぶ背が大きいから、苦労した。
ほんっと、そんな巨木みたいな体で彼をどうするつもりなのかしら?
アンタが乗ったらつぶれちゃうでしょ?大事な彼が。
ぎりぎりと指先に力を込めていく。驚くくらい白い肌に、朱が滲む。
あははは…このまま、このままだよぉ…そうすれば―――――

「やめろ!!!!」

―――――――あれ?

何故か私の体は宙を舞っている。

「―――げほっ!!!」

硬い床に叩きつけられて肺が空気を押し出している。
あれ…?
あれれ…?

「俺はこいつを選んだんだ…お前は、俺より絵の方を選んだんだろう?
だったらいまさら戻ってきて心をかき乱さないでくれよ!!」

どうして、私が、彼に、叱られてるのか?
などと考えていると沸々と冷えたはずの彼への怒りが胎動する。
元はといえば、アンタが悪いんでしょう?
待ってるって言ったんだから、そんな猫にだまされないでずっと私のことだけを思って
オナニーでもしてなさいよ。
それでも我慢できなかったら、飛行機のチケット代くらいケチらないでこっちに来なさいよ!!

 

「どうして私が怒られるの?私は悪くない!!だって、約束したでしょ?待ってるって?嘘だったの?
  ねぇ?答えてよ!!」

掠れに掠れて声とも言えないような怨念。
もう、自分でもなんだか、わからない。

誰が悪いとか、誰が原因だとか…

「あはははははははははははは!!!!!!!!!!もういい!!!どうでもいい!!!
全部どうでもいい!!!」

眼球が滲んで黒い涙が溢れ出す。
あはは。
本当に、全部、何もかも、どうでもいいよ。
夢とか、絵とか、全部…
結局、何もかも悪いのは―――――――
















突然留学した彼女が帰国して、幼馴染のあいつとの修羅場を繰り広げて一年。
あの場は何とか収まった。
今にも刃物が飛び出しそうな雰囲気であったが、持ちうるすべての力を使って収拾した。
正直自分を褒めてやりたいが、結局あの関係の中心にいたのは俺、自業自得だろうか。
和解したあいつと彼女は時々二人で会っているらしい。
それも俺とあいつの結婚について話し合っているだろか…
にわかに信じがたいが、最近は絵画から彫刻だか造型だとかに転向した彼女のモデルも
勤めているらしい。
仲がいいのは結構なことだが、結局面と彼女に謝れなかった俺は胸にしこりを抱えながらも
彼女の初個展のインヴィテーションカードを握り締めてとあるビルの前に立っていた。
謝るには絶好の機会。
そんな愚かしい算用をしながら受付を済ましていると、奥から彼女がやってきた。
細身のパンツスーツを着こなし、花が咲いたような笑顔をして。
素直に綺麗だ。まるで輝くような存在感。思わず息を呑んでしまった。
「ありがとう、きてくれたのね」
「すごい人気だよな…転向してからたった一年だろ?」
そういうと、彼女は口に手をあてて上品に笑った。
「ふふ、こんなの最初だけよ」
「…それはそうと、“あいつ”はどうしたんだ?来てないのか?」
そう。
気がかりなのはあいつのこと。彼女が個展に向けた制作の山場に差し掛かって以来、
モデルを勤めていたあいつと急に連絡が取れなくなった。
毎日しつこいくらい電話をかけてきたり、家に押しかけてきたのに…
「あぁ、彼女ね…ちゃんと“ある”わ」
ある?疲れてるのか?まぁ、ちゃんといるならそれでいいけど。
「それよりも、見せたい作品があるの」
なるほど、あいつをモデルにした作品か。
あいつもきっとそこにいるんだろう。報道陣とかに囲まれて大変そうだな。
ちゃんと受け答えできてれば良いけど。




暫く歩くと、何故か作品群が並ぶスペースと離れた楽屋?のようなところに案内される。
なんか妙な匂いがするが、きっと作品に使う素材のものだろう。
この際無視する。
背丈ほどのカーテンをくぐり、照明が落ちた小さな部屋に明かりが灯ると、
そこには一つの像があった。
見た瞬間にわかる、間違いなく“あいつ”の像。
「驚いた?よくできてるしょ?」
素直に驚く。
まるで生きてそこに“いる”かのような存在感。
圧倒的な迫力に全身が総毛立つ。
空気を通して肌に伝わる臨場感。細い腰と豊満なバストから伝わる躍動感。
間違いなく…
「凄いね、生きているみたいだ」

漏れた言葉、暫く沈黙が降りる。
すると、俺の隣に並んだ彼女は――――

「違うわ、これはね、死んでいるみたいって言うのよ」

大輪の花のような笑顔で、奇妙なことを言う。
訝った俺は近づいてその像を舐るように凝視した。

“ ぜんぶ あなたが わるいのよ”
『Alles wegen Ihnen』

と銘打たれた作品…
肌の木目まで細かに表現された像…

――――石膏に、産毛が浮いていた。

2006/11/21 完結

 

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