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あの手紙を受け取ってから二ヶ月。
彼からの返事はない。
季節は本格的に冬になり、外を一人で歩くには寒すぎる。
手紙を読んでから、封印したはずの彼への思いは堰を切ったようにあふれ出していた。
そして気づく。
こんなにも、彼のこと好きだったということに。
あれほど輝いていた毎日もどこか色あせ、
留学の目的である勉強にもほとんど身が入らなくなっていた。
思うことは、一つ。
朝起きて、思う。
夜お風呂に浸かり、一人で夕食を胃袋に納め、小さなベッドに埋まるたび―――――
彼のぬくもりが欲しい…
それだけ。
気づけば涙を落としている。
なんて、傲慢な涙か。
自分で切り捨てておいて、何の連絡もよこさない彼に苛立ちさえ感じている。
待っててくれるんでしょ?
わたしのこと好きなんでしょ?愛してるんでしょ?
だったら、不安にさせないでよ。
手紙、送りなさいよ…!
こっちに、遊びに来なさいよ…!!!!
気温の低さとは違う寒気に、胸が萎んでいく。
パジャマの上から心臓を握り締め、愚かな感情を打ち消すように体を丸める。
サムイ―――――アイタイ――――――
アイシテル…
想いは彼に届かない。
しかし絶対に届かないと思った私の気持ちは、手紙となってやってきた。
嬉しい。
始めはそう思った。
でも…彼が絶対に使わない可愛らしい手紙、丸っこい文字、
そして何より私を地獄に突き落とした―――――
俺たち
結婚しました
わたしたち
の文字。
次に我を取り戻したのは、その手紙をぐちゃぐちゃに引き裂いて、
小さな手荷物一つで成田に降り立ったときだった。
向こうよりは多少暖かい。
でも、胸の奥が凍てつくほど鋭く、燃えるほど、妬けている…
半ば亡霊のような足取りで、彼のアパートへ向かう。
タクシーのバックミラーで自分の顔を見る。
般若。
瞬時に背けた。
流れ行く町並み。
あと少しで彼のところへたどり着く。
窓に映る私はやはり…
―――――――修羅。
ぶすぶすと鉛が灼熱の温度に溶けていく。
じーっとりと、私の胸を焦がして、焼き尽くすように流れていく。
涙は、枯れた。
いや、燃え尽きて灰になった。
待っているっていったくせに待ってるっていったくせに待っているっていったくせに
待ってるっていったくせに
待っているっていったくせに待ってるっていったくせに待っているっていったくせに
待ってるっていったくせに
待っているっていったくせに待ってるっていったくせに待っているっていったくせに
待ってるっていったくせに
クラクラするくらいの憎悪。
私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?私のこと愛してるんでしょ?
私のこと愛してるんでしょ?
身が捩じ切れそうなほどの嫉妬。
ガタン!!!バタン!!!!
破らんとする勢いで彼の部屋の扉を開け放つ。
気に喰わない新しい表札はぐしゃぐしゃに握りつぶして踏みつけた。
暗い、部屋。
奥から響いてくるのは、鈍い男の声と、快楽に溺れた女の嬌声。
誰よ?
誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ
誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ誰よ―――――――
「――――ねぇ、その女、誰?」
明かりをつけ、溶け合うように抱き合った一組の男女を見据える。
驚愕に見開かれた男の顔。
どうして、お前が…?そう告げている。
知るか、そんなこと。
それより…
「―――ねぇ、誰なの、その女?」
こっちのほうがたいせつ。
「待っててくれるって、言ったじゃない。気にしないで行って来いって、言ったじゃない。
それなのに、どうして、そんなのと、抱き合ってるのかなぁ?」
自分でも驚くくらいに低い声。
仕方ないよ、だって、彼と抱き合いながら私のほうを見ているメスの顔が…
殺したいくらい愉悦に歪んでいるんだから――――
「お前、なんで、絵の勉強は?…」
「こんなの送りつけられたら、誰だって戻ってくるよ。うん。誰だって」
ぱらぱら…ととっくに白くなって氷と見まがうほど冷たい拳を開く。
木っ端微塵に引き裂かれたピンクの便箋、鮮血のように零れた。
「あははははは♪見てくれたの?その手紙。
じゃあわたしたちのこと祝福しに来てくれたの?わざわざ?
うれしいわぁ…“わたしの彼”の元カノさんが優しい人でぇ〜」
視界が明滅。
気づけば彼の上に跨って浅ましく腰を振っていた泥棒猫の顔を張っていた。
「この…泥棒猫!!!!!!!!どうやって彼を誑かしたの?????」
「……そんなに怖い顔しないでよ。顔、般若みたいだよ?それより、痛いなぁ〜怖い怖い
女の人にはたかれてこんなに真っ赤になっちゃった…
ねぇ、優しく撫でてキスして…」
足元から這い上がって虫唾が走るほどの猫なで声。
■したい……■して、野犬の餌にしたい。
「なんなのよ…いったい!!!!その女―――――――まさか!!!!」
■す勢いで薄汚い泥棒猫の顔を見ていると、記憶の中の一つと見事に一致した。
見覚えがある、その姿。
記憶のそいつとは大分違うけど、その顔、髪型…そして…
吐き気を催すくらい愚劣な目つきで私だけの彼を見つめる盛りのついたケモノみたいな瞳…
あはは、やっぱり。
そうかぁ…
やっぱり…
「あんただったのね…気の置けない友達を装って彼に近づいて、魔女みたいに彼を誑かして…
■しておけばよかった―――――――蝿より浅ましい泥棒猫…また彼に色目使ってる…」
引きつる顔筋を抑えるように頬を引っかく。
伸びた爪が薄い肌を引き裂いて生ぬるい液体が零れてるけど、どうでもいい。
そんなことより、先にこのメス猫を■すのが先だ。
「元はといえば、アンタが悪いんだよ。こいつを放ってどっか飛び出しちゃうから。
最初にこいつを見捨てたのはアンタなんだよ!!!」
バチン!!!
目の前で星が弾ける。
殴られた。
直感的そう思い、返す手の甲で殴り返した。
ガツン!!
「あぁ…痛いよぉ…殴られた、わたしは張っただけなのに、怖い怖いメス犬さんに殴られちゃった。
頭撫で撫でして、慰めてぇ〜♪」
「■■■■!!!!!!」
気づけば馬乗りになり、忌々しいくらい指どおりのいい黒髪を引きちぎる。
鼻の奥が熱い、唇が焼けそうなくらいひりひりする。
口の奥で何かが折れた。
でも、知らない…
そんなことよりなにより、この泥棒猫を、泥棒猫を…
――――――血祭りにしたい。
「死んで、死んでよ!!!彼は私のものなんだから!!!
離れても、ずーっと私だけのものなんだからぁ!!!」
「自分で見捨てておいて何いってるのかなぁ〜この狂犬は。
どこのどの口で、そんな図々しいこと言えるんだか!!
始めにこいつの魅力に気がついたのは、“わたし”なのに!!!こいつを手に入れるために、
全部犠牲にしてきたのに!!!」
「うるさいうるさいうるさい!私のいない隙に、どんな手を使ったのよ!!!
この■■以下のクズ!!!」
彼に聞かれたら思わず口を切り裂きたくくらいの罵詈雑言が、次々と飛び出す。
そのたび殴り合い、視界を真っ赤にしながらつかみ合う。
「死んじゃえ!!死んじゃえ!!」
やっとのことでソイツの首に手を伸ばす。
私よりもだいぶ背が大きいから、苦労した。
ほんっと、そんな巨木みたいな体で彼をどうするつもりなのかしら?
アンタが乗ったらつぶれちゃうでしょ?大事な彼が。
ぎりぎりと指先に力を込めていく。驚くくらい白い肌に、朱が滲む。
あははは…このまま、このままだよぉ…そうすれば―――――
「やめろ!!!!」
―――――――あれ?
何故か私の体は宙を舞っている。
「―――げほっ!!!」
硬い床に叩きつけられて肺が空気を押し出している。
あれ…?
あれれ…?
「俺はこいつを選んだんだ…お前は、俺より絵の方を選んだんだろう?
だったらいまさら戻ってきて心をかき乱さないでくれよ!!」
どうして、私が、彼に、叱られてるのか?
などと考えていると沸々と冷えたはずの彼への怒りが胎動する。
元はといえば、アンタが悪いんでしょう?
待ってるって言ったんだから、そんな猫にだまされないでずっと私のことだけを思って
オナニーでもしてなさいよ。
それでも我慢できなかったら、飛行機のチケット代くらいケチらないでこっちに来なさいよ!!
「どうして私が怒られるの?私は悪くない!!だって、約束したでしょ?待ってるって?嘘だったの?
ねぇ?答えてよ!!」
掠れに掠れて声とも言えないような怨念。
もう、自分でもなんだか、わからない。
誰が悪いとか、誰が原因だとか…
「あはははははははははははは!!!!!!!!!!もういい!!!どうでもいい!!!
全部どうでもいい!!!」
眼球が滲んで黒い涙が溢れ出す。
あはは。
本当に、全部、何もかも、どうでもいいよ。
夢とか、絵とか、全部…
結局、何もかも悪いのは―――――――
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突然留学した彼女が帰国して、幼馴染のあいつとの修羅場を繰り広げて一年。
あの場は何とか収まった。
今にも刃物が飛び出しそうな雰囲気であったが、持ちうるすべての力を使って収拾した。
正直自分を褒めてやりたいが、結局あの関係の中心にいたのは俺、自業自得だろうか。
和解したあいつと彼女は時々二人で会っているらしい。
それも俺とあいつの結婚について話し合っているだろか…
にわかに信じがたいが、最近は絵画から彫刻だか造型だとかに転向した彼女のモデルも
勤めているらしい。
仲がいいのは結構なことだが、結局面と彼女に謝れなかった俺は胸にしこりを抱えながらも
彼女の初個展のインヴィテーションカードを握り締めてとあるビルの前に立っていた。
謝るには絶好の機会。
そんな愚かしい算用をしながら受付を済ましていると、奥から彼女がやってきた。
細身のパンツスーツを着こなし、花が咲いたような笑顔をして。
素直に綺麗だ。まるで輝くような存在感。思わず息を呑んでしまった。
「ありがとう、きてくれたのね」
「すごい人気だよな…転向してからたった一年だろ?」
そういうと、彼女は口に手をあてて上品に笑った。
「ふふ、こんなの最初だけよ」
「…それはそうと、“あいつ”はどうしたんだ?来てないのか?」
そう。
気がかりなのはあいつのこと。彼女が個展に向けた制作の山場に差し掛かって以来、
モデルを勤めていたあいつと急に連絡が取れなくなった。
毎日しつこいくらい電話をかけてきたり、家に押しかけてきたのに…
「あぁ、彼女ね…ちゃんと“ある”わ」
ある?疲れてるのか?まぁ、ちゃんといるならそれでいいけど。
「それよりも、見せたい作品があるの」
なるほど、あいつをモデルにした作品か。
あいつもきっとそこにいるんだろう。報道陣とかに囲まれて大変そうだな。
ちゃんと受け答えできてれば良いけど。
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暫く歩くと、何故か作品群が並ぶスペースと離れた楽屋?のようなところに案内される。
なんか妙な匂いがするが、きっと作品に使う素材のものだろう。
この際無視する。
背丈ほどのカーテンをくぐり、照明が落ちた小さな部屋に明かりが灯ると、
そこには一つの像があった。
見た瞬間にわかる、間違いなく“あいつ”の像。
「驚いた?よくできてるしょ?」
素直に驚く。
まるで生きてそこに“いる”かのような存在感。
圧倒的な迫力に全身が総毛立つ。
空気を通して肌に伝わる臨場感。細い腰と豊満なバストから伝わる躍動感。
間違いなく…
「凄いね、生きているみたいだ」
漏れた言葉、暫く沈黙が降りる。
すると、俺の隣に並んだ彼女は――――
「違うわ、これはね、死んでいるみたいって言うのよ」
大輪の花のような笑顔で、奇妙なことを言う。
訝った俺は近づいてその像を舐るように凝視した。
“ ぜんぶ あなたが わるいのよ”
『Alles wegen Ihnen』
と銘打たれた作品…
肌の木目まで細かに表現された像…
――――石膏に、産毛が浮いていた。 |