「辞める?なんでさ!?」
剣道部2年の夏。まさにこれからという時期に、
僕は部長である彼女 高津巳 都(たかつみ みやこ)に退部を切り出した。
今にも掴み掛からんとばかりに憤る都を前に、僕はどう言い訳をしたものか思案していた。
やましい事があるわけでは無いのだが、素直に話したら話したでこのおせっかいで世話焼きな少女が
納得するとはどうしても思えなかった。
「ん、家庭の事情・・・かな?」
「登校拒否する小学生かっつーの!?大体何故に疑問形!?」
腕と一緒にポニーテールをぶんぶん振り回しながらヒートアップする都。鼻先を掠めた、危ない。
気付かれないように僕はそっと一歩下がった。
「嘘じゃないよ、ミヤ。ちょっと実家の方で・・・ね」
これは嘘じゃない。ただ、事態はまさに異常を極めており、到底彼女に説明できるものでは無かった。
「実家って・・・こないだ帰ってたのとなんか関係有るの?」
「うん、まあね」
彼女は僕の家庭事情の幾らかを知っている。だからだろう、渋々といった感じで引き下がる都。
「・・・でも、辞めるなんて部長として許さないかんね。大体くーがいなかったら
僕は誰と稽古すりゃいいのさ。休部なら条件付きで可」
「条件?」
「三日に一度は顔出すこと、約束」
「・・・それじゃ辞めてないのと同じだと思うんだけど」
「うっさい!言い訳する前にまず『イエッサー!』だって教えただろ!」
うちの部はいつのまに軍隊になったのだろうか。
「・・・分かったよ、部長。鋭意努力する」
「どっかの政治家みたいな返答・・・んー、まぁいいだろ。ほれ、指切り」
彼女の剣道部員としてはどうにも不釣り合いな、細い指を絡める。
『ゆーびきーりげーんまーん・・・』
だが、この小さな手、中学生と見紛うばかりの小柄な体躯から繰り出される打突はまさに苛烈の一言。
全身のバネを用いて男子顔負けの破壊力を発揮する。
『うーそつーいたーら・・・』
性格は、周囲にしばしば変人呼ばわりされる――非常に不本意ではあるが――僕をして奇抜である、
と言わざるを得ない。がさつなようで面倒見が良く、面倒くさがりの癖にお節介焼き。
感情の発露が大きいのに本心が分かりづらい。・・・そして非常に人に好かれやすい。
僕もその例に漏れず、彼女のことがとても好きだった。
『はーりせーんぼーんのーます・・・』
だから。僕はあまり人の感情の機微に聡い方ではないけれど、それでも彼女に隠し事をするのは、
それなりに心が痛むのであって。
『ゆーびきった!』
よし、おっけー!とにっこり笑う都。・・・僕は何となく都の頭に手を伸ばして、ゆっくりと撫でた。
「あ、ちょっと・・・」
「嫌?」
「というか、さっきまで稽古してたから、その・・・」
あせくさいかも、と俯く都。こうしてしばしば都が見せる年頃の少女らしい一面が
僕は特に好きだった。決して口には出さないけれど。
「・・・・・・・・・はふぅ」
陶然とした息をつく都の髪を手櫛でそっと梳く。さらさらとした心地よい感触、
鴉の濡れ羽という表現がしっくりとくる今時珍しい長い黒髪。
彼女は度々邪魔だと言っているが、僕が頼んで伸ばしてもらっている。
こんな綺麗な髪を切るなんてとんでもない、と都を説得したのだ。
都が人に言われて自分の意見を変えることなど滅多にないのだが、
その時は珍しく、本当に珍しくあっさりと承諾してくれた。
僕は都の反応に首を捻ったものだが、周囲で事の成り行きを見ていた部員達の呆れたような視線が
妙に屈辱的だったのを覚えている。
こっくり、こっくりと船を漕ぎ始めた都の頭をそっと僕の膝に横たえる。
板間に直接寝るよりはマシだろう。夕日が差し込む武道場、既に他の部員達は下校させたので
(先に帰って欲しい旨を伝えたときの部員達の生暖かい眼差しには如何なる意図が
込められていたのだろうか?)僕ら二人以外に人影はない。
「くー・・・だぃ・・・き・・・・・・・んぅ」
武道場の扉から射し込む西日に顔を照らされ、都が眩しそうに寝返りを打った。
頬に掛かった髪をそっとどけてやる。
現在の時間は丁度5時半。校門が閉められる6時半迄には下校しなければならない。
僕は都の寝顔を眺めながら、着替えと戸締まりに掛かる時間を逆算し、
あとどれだけこうしていられるのかを考え始めた。
都を送り届け、僕は自宅前に立っていた。そう、紛れもなく自宅である。
僕はこの家で生まれた、それは間違いない。
ただし、僕には余り馴染みはない。
当然だろう、僕がここに住むようになってまだ一月も経っていないのだから。
僕の両親は僕が幼い頃に事故に遭い、父は死亡、母も意識不明の重体となり
僕は親類の家へと預けられた。
といっても僕が預けられたのは父の両親の家であり、僕は実の孫として彼らに可愛がってもらい、
何不自由なく育てられた。
僕のことを親無しと揶揄る者もいないわけではなかったが、
僕は自分が不幸だと思った事など一度たりとも無かった。
その後高校へ進学する際に、中学から半ば都の付き合いで続けていた剣道で幸運にも推薦を取り付け、
授業料免除、寮費免除という素晴らしい条件で進学することに成功した。
僕の祖父母らは好きな学校へ行けばいい、そのくらいの蓄えは十分にあると言ってくれてはいたが、
それでも世話を掛けないならそれに越したことはない。
僕はそのまま寮暮らしとなり、同じ街にあるこの生家の事を思い出すことは殆ど無くなっていた。
「ただい―――」
僕がドアを開ける、と同時にどたばたどたばた、とけたたましい足音を響かせながら
人影が飛び出してきた。
「おかえりー!!ごはんにする、おフロにするー?それとm」
「部活を終えたばかりなのでお風呂をいただきます」
「うう・・・つれないよ、くーくん・・・」
年の頃は20歳前後。色素の薄い髪を三つ編みにまとめた、どこかタンポポの綿毛を人に連想させる
やわらかな印象の女性。
「わかったよー・・・じゃあご飯の用意して待ってるね?」
ぱたぱた、と蛙を模したと思わしき奇っ怪なスリッパを鳴らして台所へ帰っていく
彼女の背中を見送りながら、僕は小さく溜息をついた。
僕はある日、突然祖父母らに寮から呼び戻された。血相を変えた様子の彼らに
ただ事ではないと感じた僕は、言われるままに街でも最も大きな病院へと向かった。
そして、彼女に出会ったのだ。
僕に対して異様なまでの執着心を示す彼女に、僕は正直に言えば戸惑っていた。
理屈では分かっていたが、到底納得できるものではなかった。
だから、僕は彼女に対して距離を取ってしまった。また明日も見舞いに来て欲しい、
と言う彼女に対して嘘をついた。僕だって人間だ、考える時間が欲しかった。
翌日、病院の外来終了時間と同時に彼女は病室で手首を切って自殺した。
どうにか一命を取り留めた彼女の様態を医者に聞き、躊躇い傷が無かったと聞いて僕は覚悟を決めた。
この人には、僕がいないと駄目なんだ。僕しか頼れる人がいないんだ。
僕は両親を無くしても、沢山の優しい人達がいた。でも彼女には正真正銘、僕しかいないんだ。
・・・なら、僕が一緒にいる以外無いじゃないか。
心づくしの夕食を前に僕がきっちりと三角食べを繰り返すのを見ながら、
彼女は何が楽しいのかニコニコとしている。まるで自分は世界一幸せだ、と言わんばかりの笑顔。
「ね、ね、おいしいかな?」
「はい」
その質問はもう10回目なのだけれど、毎回律儀に返す僕と毎回喜ぶ彼女。
まだまだ家族初心者の僕たちだが、こんな事の繰り返しで本物の家族に
なっていくのかもしれないと思った。
僕はその話を聞いたとき、小学生の頃図書室で読んだ有名な医療マンガのある話を思い出した。
ある少年が炭坑の崩落事故だかに巻き込まれ意識不明となり、
事故当時と寸分違わぬ変わらぬ姿のまま何十年も眠り続ける、という話である。
「ね、ね、くーくん。あれやってよー」
夕食を終えた僕に、彼女は突然“あれ”なるものを要求した。彼女は不安や孤独感からか、
僕との身体的な接触を望む傾向があった。
仕方がないだろう。彼女の現在の状況は言ってしまえば浦島太郎のそれに近い。
知己すらなく、まさしく異世界へ放り出された彼女にとって僕は唯一の寄る辺なのだろう。
「・・・いいですよ」
「わーい♪じゃ、よいしょ・・・っと」
僕の膝の上に横に座り、僕の身体を抱きしめる。僕も誘われるように、彼女の背に手を回す。
「ん・・・くーくん、あったかい・・・」
僕と彼女の身長はそれ程差がないため、僕は必然的にそれなりに豊かな彼女の胸元に
顔を埋めたような体勢になる。夢のように柔らかな感触。
でも、不思議なことに一片たりとも劣情が喚起されないのだ。
それどころか、ずっとずっと昔に無くしてしまったものをようやく見つけたような、
切ないまでの充足感を感じる。
もしかしたら、彼女が僕を求めているように、僕も彼女を求めているのかも知れない。
そんな風に、思った。
彼女の名前は木佐凪 笹揺(きさなぎ さゆり)。
僕の、実の母親である。 |