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僕と世界にお別れを



1

「辞める?なんでさ!?」

剣道部2年の夏。まさにこれからという時期に、
僕は部長である彼女 高津巳 都(たかつみ みやこ)に退部を切り出した。
今にも掴み掛からんとばかりに憤る都を前に、僕はどう言い訳をしたものか思案していた。
やましい事があるわけでは無いのだが、素直に話したら話したでこのおせっかいで世話焼きな少女が
納得するとはどうしても思えなかった。

「ん、家庭の事情・・・かな?」

「登校拒否する小学生かっつーの!?大体何故に疑問形!?」

腕と一緒にポニーテールをぶんぶん振り回しながらヒートアップする都。鼻先を掠めた、危ない。
気付かれないように僕はそっと一歩下がった。

「嘘じゃないよ、ミヤ。ちょっと実家の方で・・・ね」

これは嘘じゃない。ただ、事態はまさに異常を極めており、到底彼女に説明できるものでは無かった。

「実家って・・・こないだ帰ってたのとなんか関係有るの?」

「うん、まあね」

彼女は僕の家庭事情の幾らかを知っている。だからだろう、渋々といった感じで引き下がる都。

「・・・でも、辞めるなんて部長として許さないかんね。大体くーがいなかったら
僕は誰と稽古すりゃいいのさ。休部なら条件付きで可」

「条件?」

「三日に一度は顔出すこと、約束」

「・・・それじゃ辞めてないのと同じだと思うんだけど」

「うっさい!言い訳する前にまず『イエッサー!』だって教えただろ!」

うちの部はいつのまに軍隊になったのだろうか。

「・・・分かったよ、部長。鋭意努力する」

「どっかの政治家みたいな返答・・・んー、まぁいいだろ。ほれ、指切り」

彼女の剣道部員としてはどうにも不釣り合いな、細い指を絡める。

『ゆーびきーりげーんまーん・・・』

だが、この小さな手、中学生と見紛うばかりの小柄な体躯から繰り出される打突はまさに苛烈の一言。
全身のバネを用いて男子顔負けの破壊力を発揮する。

『うーそつーいたーら・・・』

性格は、周囲にしばしば変人呼ばわりされる――非常に不本意ではあるが――僕をして奇抜である、
と言わざるを得ない。がさつなようで面倒見が良く、面倒くさがりの癖にお節介焼き。
感情の発露が大きいのに本心が分かりづらい。・・・そして非常に人に好かれやすい。
僕もその例に漏れず、彼女のことがとても好きだった。

『はーりせーんぼーんのーます・・・』

だから。僕はあまり人の感情の機微に聡い方ではないけれど、それでも彼女に隠し事をするのは、
それなりに心が痛むのであって。

『ゆーびきった!』

よし、おっけー!とにっこり笑う都。・・・僕は何となく都の頭に手を伸ばして、ゆっくりと撫でた。

「あ、ちょっと・・・」

「嫌?」

「というか、さっきまで稽古してたから、その・・・」

 

あせくさいかも、と俯く都。こうしてしばしば都が見せる年頃の少女らしい一面が
僕は特に好きだった。決して口には出さないけれど。

「・・・・・・・・・はふぅ」

陶然とした息をつく都の髪を手櫛でそっと梳く。さらさらとした心地よい感触、
鴉の濡れ羽という表現がしっくりとくる今時珍しい長い黒髪。
彼女は度々邪魔だと言っているが、僕が頼んで伸ばしてもらっている。
こんな綺麗な髪を切るなんてとんでもない、と都を説得したのだ。
都が人に言われて自分の意見を変えることなど滅多にないのだが、
その時は珍しく、本当に珍しくあっさりと承諾してくれた。
僕は都の反応に首を捻ったものだが、周囲で事の成り行きを見ていた部員達の呆れたような視線が
妙に屈辱的だったのを覚えている。

 

こっくり、こっくりと船を漕ぎ始めた都の頭をそっと僕の膝に横たえる。
板間に直接寝るよりはマシだろう。夕日が差し込む武道場、既に他の部員達は下校させたので
(先に帰って欲しい旨を伝えたときの部員達の生暖かい眼差しには如何なる意図が
込められていたのだろうか?)僕ら二人以外に人影はない。

「くー・・・だぃ・・・き・・・・・・・んぅ」

武道場の扉から射し込む西日に顔を照らされ、都が眩しそうに寝返りを打った。
頬に掛かった髪をそっとどけてやる。

現在の時間は丁度5時半。校門が閉められる6時半迄には下校しなければならない。
僕は都の寝顔を眺めながら、着替えと戸締まりに掛かる時間を逆算し、
あとどれだけこうしていられるのかを考え始めた。

 

都を送り届け、僕は自宅前に立っていた。そう、紛れもなく自宅である。
僕はこの家で生まれた、それは間違いない。
ただし、僕には余り馴染みはない。
当然だろう、僕がここに住むようになってまだ一月も経っていないのだから。

僕の両親は僕が幼い頃に事故に遭い、父は死亡、母も意識不明の重体となり
僕は親類の家へと預けられた。
といっても僕が預けられたのは父の両親の家であり、僕は実の孫として彼らに可愛がってもらい、
何不自由なく育てられた。
僕のことを親無しと揶揄る者もいないわけではなかったが、
僕は自分が不幸だと思った事など一度たりとも無かった。

その後高校へ進学する際に、中学から半ば都の付き合いで続けていた剣道で幸運にも推薦を取り付け、
授業料免除、寮費免除という素晴らしい条件で進学することに成功した。
僕の祖父母らは好きな学校へ行けばいい、そのくらいの蓄えは十分にあると言ってくれてはいたが、
それでも世話を掛けないならそれに越したことはない。
僕はそのまま寮暮らしとなり、同じ街にあるこの生家の事を思い出すことは殆ど無くなっていた。

 

 

「ただい―――」

僕がドアを開ける、と同時にどたばたどたばた、とけたたましい足音を響かせながら
人影が飛び出してきた。

「おかえりー!!ごはんにする、おフロにするー?それとm」

「部活を終えたばかりなのでお風呂をいただきます」

「うう・・・つれないよ、くーくん・・・」

年の頃は20歳前後。色素の薄い髪を三つ編みにまとめた、どこかタンポポの綿毛を人に連想させる
やわらかな印象の女性。

「わかったよー・・・じゃあご飯の用意して待ってるね?」

ぱたぱた、と蛙を模したと思わしき奇っ怪なスリッパを鳴らして台所へ帰っていく
彼女の背中を見送りながら、僕は小さく溜息をついた。

 

僕はある日、突然祖父母らに寮から呼び戻された。血相を変えた様子の彼らに
ただ事ではないと感じた僕は、言われるままに街でも最も大きな病院へと向かった。

そして、彼女に出会ったのだ。

僕に対して異様なまでの執着心を示す彼女に、僕は正直に言えば戸惑っていた。
理屈では分かっていたが、到底納得できるものではなかった。
だから、僕は彼女に対して距離を取ってしまった。また明日も見舞いに来て欲しい、
と言う彼女に対して嘘をついた。僕だって人間だ、考える時間が欲しかった。

 

翌日、病院の外来終了時間と同時に彼女は病室で手首を切って自殺した。

 

どうにか一命を取り留めた彼女の様態を医者に聞き、躊躇い傷が無かったと聞いて僕は覚悟を決めた。

この人には、僕がいないと駄目なんだ。僕しか頼れる人がいないんだ。

僕は両親を無くしても、沢山の優しい人達がいた。でも彼女には正真正銘、僕しかいないんだ。

・・・なら、僕が一緒にいる以外無いじゃないか。

 

 

心づくしの夕食を前に僕がきっちりと三角食べを繰り返すのを見ながら、
彼女は何が楽しいのかニコニコとしている。まるで自分は世界一幸せだ、と言わんばかりの笑顔。

「ね、ね、おいしいかな?」

「はい」

その質問はもう10回目なのだけれど、毎回律儀に返す僕と毎回喜ぶ彼女。
まだまだ家族初心者の僕たちだが、こんな事の繰り返しで本物の家族に
なっていくのかもしれないと思った。

 

 

僕はその話を聞いたとき、小学生の頃図書室で読んだ有名な医療マンガのある話を思い出した。
ある少年が炭坑の崩落事故だかに巻き込まれ意識不明となり、
事故当時と寸分違わぬ変わらぬ姿のまま何十年も眠り続ける、という話である。

 

 

「ね、ね、くーくん。あれやってよー」

夕食を終えた僕に、彼女は突然“あれ”なるものを要求した。彼女は不安や孤独感からか、
僕との身体的な接触を望む傾向があった。
仕方がないだろう。彼女の現在の状況は言ってしまえば浦島太郎のそれに近い。
知己すらなく、まさしく異世界へ放り出された彼女にとって僕は唯一の寄る辺なのだろう。

「・・・いいですよ」

「わーい♪じゃ、よいしょ・・・っと」

僕の膝の上に横に座り、僕の身体を抱きしめる。僕も誘われるように、彼女の背に手を回す。

「ん・・・くーくん、あったかい・・・」

僕と彼女の身長はそれ程差がないため、僕は必然的にそれなりに豊かな彼女の胸元に
顔を埋めたような体勢になる。夢のように柔らかな感触。
でも、不思議なことに一片たりとも劣情が喚起されないのだ。
それどころか、ずっとずっと昔に無くしてしまったものをようやく見つけたような、
切ないまでの充足感を感じる。
もしかしたら、彼女が僕を求めているように、僕も彼女を求めているのかも知れない。
そんな風に、思った。

彼女の名前は木佐凪 笹揺(きさなぎ さゆり)。

僕の、実の母親である。

2

朝、起きたら台所に人が倒れていた。

最近見慣れつつある肩口から垂らした色素の薄い三つ編みお下げ、
ピンク色の少し少女趣味かと思われるパジャマの上にカーディガンを羽織っている。

母だった。

「・・・こんな所で寝てると風邪引きますよ?起きて下さい、笹揺(さゆり)さん」

「・・・んぅ」

彼女はとても朝が弱い。常軌を逸して弱い。
少なくとも、僕が登校するまでに彼女の姿を目にすることは殆ど無い。
寝坊をしたことのない僕にとっては信じられないことだけど、
朝は本当に身体が重くて起きられないんだよ〜、とは彼女の弁である。

「・・・ああ、成る程」

彼女の手元にお玉が転がっていた。コンロに架けられた鍋には調理中と思わしきみそ汁が入っている。
どうやら朝食の準備中に力尽きたようだ。最後の力でコンロの火を消すことには成功したらしい。

「がんばりましたね。えらいえらい」

頭を撫でてやると、笹揺さんはにへー、と笑顔になった。半分くらいは起きているのかも知れない。
僕としては別に構わないのだけれど、彼女は僕にお弁当を持たせてあげられないことに
とても心を痛めていた。
なんでも、「子供にお弁当も持たせてあげられないなんてお母さん失格だよね・・・うぅ」との事らしい。

「よ、っと」

笹揺さんを起こすことは早々に諦め、そっと抱き上げて寝室へと運ぶ。
成人女性にしては少し軽いかもしれない。・・・いつも不思議に思うのだけれど、
彼女の香りは何故か僕の心を落ち着かせる。
これが血縁というものだろうか、などと僕はぼんやりと考えた。

 

 

「ん?」

 

彼女を無事寝室へと送り届け、彼女の制作中の朝食を作り始めた僕はテーブルの上に
見慣れないものを発見した。
丁度両手に乗るぐらいの大きさの直方体。チェック模様の巾着袋に包まれている。

「これは・・・お弁当、かな?」

下に折られたメモ用紙が挟まっている。

『くーくんへ おかあさんがんばったよ だけどもうだめみたいです あとはおねがいします
  だいすきだよ』

最後の方に行くにつれて字が揺れ始め、最後に至っては解読不可能だった。
付け加えられたブーメランのようなものはハートマークだろう、多分。

「・・・ふふ」

知らず笑みがこぼれる。

僕は、多分、現時点では笹揺さんを母として認識していない。そして見ず知らずと言ってもいい人間と
二人っきりで暮らすことは、僕にとって煩わしい事でしかなかった。
しかし、今では心地よいと感じ始めている。笹揺さんと一緒にいるときにしばしば感じられる
得も言われぬ温かな感情。我ながら単純なことだ、と思う。

単に餌付けされているだけ、という可能性も否定できないけれど。

 

 

「よーっす!くー!」

交差点の向こうで千切れんばかりに手を振る都に向かって手を振り返す。僕らの付き合いは長い。
僕の住居が祖父母の家から寮、そして今の家へと変わる度に合流地点こそ変わったものの、
僕の登校風景の中に彼女がいることは十年以上も変わっていない。

彼女の歩くテンポは一定ではない。何かを見つける度に速くなったり、遅くなったり。
ちょろちょろと動き回るたびにそれを追いかけるように翻るポニーテールを眺めるのが
僕の小さな朝の楽しみだ。
彼女と一緒に歩くのは結構コツがいる。彼女とつかず離れず一緒に歩けるのは、
僕の密かな自慢、なのだけれど。
今日は、珍しくゆっくりとした歩調で僕のとなりを歩いている。そして、何だか凄い視線を感じる。
落ち着かない。

「ん〜?」

「・・・」

「んー・・・?」

「・・・」

「くー・・・最近、何か、あった?」

どきり、とした。彼女が僕の生活パターンの急変に対して疑問を持っている事は予想の範疇だった。
だから、彼女からこういった疑問が投げかけられるであろう事だって、当然予想していた。
僕を動揺させたのは、彼女の質問の内容ではなく、そこに込められた不可解な感情だった。
悪意ではない。でも、一語一語を切りながらはっきりとした口調で僕を詰問する彼女に、
僕は形容しがたい不安を感じた。

・・・こんなことは本来明かすべき事ではない。分かっていたのに、分かってはいたけれど、
僕はこれ以上彼女に隠し通す事は不可能だと悟った。
そして、同時に今の彼女に嘘を吐く事を怖いと思った。

「・・・うん。あった。色々あったよ。昼食の時、全部話すよ。それでいいかな?」

部分的になら、明かしても、いい・・・と、思う。

 

 

 

―――この時の判断が正しかったのか、それとも間違っていたのか。
後に僕は何度も思い悩む事になる。ただ、そんな事はこの時の僕には知る由もない訳で。

 

 

 

 

 

私のくーに対する感情を説明することはとても難しい。
部員のみんなは私が彼に恋愛感情を持っていると思っているらしい。
それはもちろんそうなのだけれど、私の場合それには庇護欲とか独占欲とか、
そういった感情がついて回る。
私は彼に依存している。どうしようもなく。けど、その一方で彼はどうにも危なっかしい所があって、
私は彼から目を離すことが出来ない。
とんでもなく器用で何でも出来る癖におかしな所で不器用な幼馴染みを私は放っておけない。
彼には私がいないと駄目だと思っている。いや、そう思いたい。
・・・つまるところ、私はくーの恋人であり、親友であり、姉であり妹であり―――
母でありたいと思っているのかもしれない。
我ながらなんて欲張りな、と思う。要するに私はくーの全部が欲しいのだ。
こんな醜くて汚らしくてグチャグチャの想い、打ち明けられる筈もない。
それでも、私は学校でくーと離れることは殆ど無かったし、
くーに思いを寄せる生徒から彼を紹介して欲しい、と頼まれたことも何度もあるけど全て断った。
くーの下駄箱やら机に押し込まれていたラブレターを処分したことも一度や二度ではない。
どこぞの馬の骨になどくーを渡すものか。

くーは、わたしのだ。

 

 

 

約束通り、昼休みに教室でくーの向かいの席の椅子を借りて腰を下ろしたとき、
私は信じられないものを見た。

―――巾着袋から取り出された、お弁当箱。私が知る限り、くーはお父さんの実家を出てから
お弁当を学校に持ってきたことはない。寮住まいの時は自分で作ることもあったようだけど、
それでもおにぎりとかサンドウィッチとか、簡単なものしか作らなかった。

誰だ。

くーは嬉しそうに―――こうやって感情を表に出すくーは凄く珍しい―――
弁当箱を取り出し、机の上に広げ始めた。

誰の弁当だ。昨日くーになれなれしく話しかけていた上級生か。
先週くーに教科書借りに来た隣のクラスの生徒か。それとも―――

「・・・ミヤ?」

「―――え?何?」

「いや、なんかぼーっとしてるみたいだから・・・どうかした?」

「んにゃ、なんでもー。そういえば、くーは今日おべんとなんだ。めずらしいね?」

表面上はいつも通りに取り繕う。声だって震えなかった自信がある。
自慢ではないが、私の猫かぶりは誰にも看破されたことがない。

「うん。それも含めて、今から話すよ・・・」

私は、くーの広げた見るからに『愛情籠もってます』的な臭いで噎せ返りそうな弁当を、
今すぐぶちまけたくなる欲求を堪えながら、話の先を促した。

 

 

 

「今、お母さんと一緒に暮らしてるんだ」

「―――――え?」

一瞬、くーが何を言っているのか二重の意味で分からなかった。くーのお母さんは、
くーが小さいときに、事故で亡くなっていると聞いていること。
そしてそれ以前に、くーの口から出た“オカアサン”という単語自体が認識出来なかった。

「事故の後からずっと眠ってたらしくてね、お爺さんとお婆さんも回復の望みが殆ど無いから、
僕が成人するまでは話さないつもりだったんだって・・・」

オカアサン。くーの保護者。くーの母親。当然のようにくーを愛し、くーに愛される人。

「でも、こないだ目を覚ましてね。色々あって、今一緒に暮らしてるんだ」

―――祝福するべきだ。くーは小さい頃から両親がいなかった。
私には今でも世間一般の家庭と同様に両親がいる。なら、くーには救いがあって然るべきだ。

「ふーん・・・そいじゃ、もしかしてくーが部活辞めるとか言ってたのも、それ?」

「うん、十年以上寝てただけあって危なっかしくてね・・・今は少しでも一緒にいてあげたいんだ」

言いながら、私が見たことも無いような表情で弁当を見るくー。ザワザワする。嫌だ。止めて欲しい。
そんな目をしないで欲しい。

「そっかー、良かったね、くー」

「良いことばかりじゃないよ。ろくに知らない人と突然二人で暮らすことになったんだから」

そう言いながらも、その声には僅かながら親愛の情が込められている。
私以外に向けられたことのないソレが、他の人に向けられている―――

「・・・あのさ、くー」

「何?」

「ボクもそのくーのオカアサンに会ってみたいかなー。ダメかな?」

3


「あぁ、またやっちゃった・・・うぅ」

枕元の時計に目をやり、嘆息する。ただいまの時刻はちょうど九時。
くーくんはもうとっくに学校に行ってしまっただろう。
お弁当を作り終えて、調子に乗って朝ご飯の準備に取りかかったあたりで記憶が途切れている。
我ながら朝に弱すぎる。

「低血圧っていうんだよね、こういうの。血圧が上がれば治るのかな?」

塩分を沢山取ると血圧が上がるって、お昼にみ○さんが言ってた気がする。

「でも、わたししょっぱいもの苦手なんだよね・・・
甘いものならいくらでも食べられるんだけどなぁ・・・ふぁ」

いけないいけない。益体もないことを考え始めた頭を叱咤してずるずると布団からはい出す。
取り敢えず冷たい牛乳でも飲んで目を覚まそう、うん。

 

 

「ん?」

どうにかキッチンへと辿り着き冷たい牛乳をぐびぐびやっていると、
テーブルの上に見慣れない物を発見した。綺麗に二つに折られたメモ用紙。

「これは・・・お手紙、かな?」

『笹揺さんへ 作りかけだった朝食仕上げておきました、暖めてから食べて下さい。
それと、お弁当ありがとうございます。ただ、朝調理をする場合は出来れば僕を起こして下さい、
心配なので。今日は部に寄っていくので少しだけ遅くなるかもしれません。それでは、行ってきます』

「・・・えへへ」

思わず顔がほころぶ。

実務的で、丁寧な文章が綺麗な楷書体で書かれている。
朝、くーくんに会えなくてどうにも損をしたような気になってしまったけれど、
こんな事で幸せになってしまう。なんだか、共働きの夫婦みたいだったから。
そう、あのヒトも夫フになッたのニコんなフうにしュうしテイねいニ■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■うん、今日も良い天気だね。ご飯食べたらお洗濯しよ!

「・・・あれ?私起きたの九時くらいだったよね・・・うーん・・・ま、いっか」

 

先日くーくんと一緒に買ってきたキッチン用の小さな時計は、十時過ぎを指していた。

 

 

「・・・おじゃましまーす」

誰もいないのは分かっているけど、抜き足差し足でくーくんの部屋へ。
別に入っちゃ駄目とも言われていないし、今までも何度も入ってるけど、やっぱり何となく緊張する。
あんまり物は多くない。まだ引っ越しが終わっていないからかと思ったけど、
荷物はこれで全部だという。
すかすかの本棚には、まるで本のようにいくつかの盾や賞状が突っ込まれている。
友達に誘われて、中学の頃からずっと剣道を続けているらしい。
あとは文庫本が幾つかと、教科書だけ。その、年頃の男の子の大半が秘蔵している類の本は
まだ見つけたことがない。もっとも、くーくんが本気で何かを私から隠したら、
見つけることは出来ないだろうけど。
なにせ私はどんくさい。それに引き替え、
くーくんは私の子とは思えないくらい利口でしっかりした子だ。遺伝って不思議。

さて、私のこれからの行動は、いつも決まっている。

「うりゃっ♪」

ぼふっ。

「ん〜・・・くーくん・・・」

くーくんのベッドに飛び込み、顔を埋める。我ながら何やってるんだろう、とも思うけど、
くーくんのいない寂しさを埋めるつもりでやってたら癖になってしまった。でも、やっぱり――――

「寂しい、なぁ・・・」

なにせ布団は温かくないし、頭も撫でてくれない。
くーくんの手が私の髪を梳くように撫でてくれる感覚を思い浮かべながら、自分の頭を撫でてみる。
・・・やっぱり何だか違う。

「まだかなぁ、くーくん・・・」

 

 

 

人が“頭が良い”と表現するとき、その内容には二つの種類があると思う。
一つは、様々な知識を持ち、またそれを有効に用いる術に長けていること。
そして、もう一つは――――

現在41手目。殆ど途切れることなく得物を打ち合わせる音が響く。
通常、この競技ではこのような状況にはならない。ギリギリまで機を窺い、
刹那の内に決まる、そういう競技だ。
ここまで来ると反射神経よりも、先を読み体系立てて考える能力、
例えば将棋で何十手も先を読む棋士のような能力が要求される。

――――やっぱり本質的には変わっていないんだな、と思う。
彼女は本来、思慮深く頭の回転が速い人間だ。
ただ、『あの事』があってから、僕の前だけではなくあらゆる人の前で
“人畜無害で”“人好きがして”“ちょっとバカで”、あらゆる意味で人に敵意を持たれにくい、
そんな少女の仮面を被るようになった。
もっとも、彼女がそうなってしまった原因の大半である僕がそのことを憂うのは
おこがましいことだし、その面しか表に出ないのならそれが本当の顔であるとも言える。

でも、やっぱり寂しいとは思う。僕はミヤのことは好きだけど、彼女のことも好きだったから。
だから、この時間は僕にとってとても大切なものだ。
ずっと昔に会えなくなってしまった初恋の人に会えるような気がするから。

「シッ!」

現在59手目。このままだとあと14手で詰み、僕の勝ち。
けど、その通りにあっさり片が付くことは殆どない。ほら、彼女が想定ラインから外れた。

ここに来て真っ正面からの飛び込み面。明らかに定石から外れている。一歩下がればかわせるけれど、
それで済むとは思えない。こうやって、いつも最終的には勘頼りの読み合いになってしまう。

半歩下がり、ギリギリで回避、完全に死に体になったところで一手で決める。そう思った所で―――
完全に空振りしたと思った剣先がぴたりと止まった。僕の丁度首の位置。
ミヤがにやりと笑うのが見える。

「―――ッ!」

片手突き。足首を返し、さらに間合いを切る。一瞬が何秒にも引き延ばされる感覚。
突き出された切っ先がこちらに迫る。あと30センチ、20、10―――。
ミヤの腕はあまり長いとはいえない。彼女の小柄な体躯はこういった場面でいつもネックになる、
これ以上は無い―――そう思ったところで、丸めた新聞紙が僕の首にねじ込まれた。

一体何が起こったんだ、驚愕と酸欠でパニック状態になる僕の眼前にミヤの顔が広がっていた。
こっちに飛び込んでくる。
成る程、後先考えずにこちらに飛び込んで間合いを埋めたのか・・・じゃなくって、
大体こんな打ち方はあり得ない、残心が無い打突はどんなに綺麗に決まろうが
有効打にはならない訳で――――

『よろしくー♪』

ミヤの形の良い唇がそんな風に動いた気がした。そして僕らは――――
さっきまでのそこそこに洗練された動きが嘘のように、無様にもつれ合ってすっ転んだ。

 

 

久しぶりに部活に顔を出してくれたくーと、久しぶりの新聞紙チャンバラをする。
私にとってとても大切な一時。
まぐわうような、というと変だろうか?でも性的かそうじゃないか、というだけで多分大差ない。
この瞬間、互いの世界にいるのは二人だけになる。いつまでも続けていたい、とは思うけれど。
くーは強い。半端じゃなく強い。
ちょっとでも間違えるとそこで終わってしまう。
だから、最後はいつも私が奇をてらった策で一発勝負を仕掛けることになる。
勝率は五分。でもくー相手にこの勝率はかなり自慢しても良いと思っている。

今回は大成功。私を受け止めてくれたくーが私の下で何か言いたげな目でこちらを見ている。
あとは『ごめんごめん♪』といって体を起こすだけ・・・
なのだけれど、何故か私はそうする気にはなれなかった。

今日、私以外の人間を大事にするくーを初めて見た。くーは一見誰にでも優しいように見えるけど、
それは拒まないだけ。好意ではなく、惰性。だから、勘違いしてしまう子が多い。
私もそれで苦労しているし。
でも、くーが母親のことを話すとき、紛れもなく好意らしきものがあった。
私だけにしか向けられたことが無かったはずの。だから、だろうか。

私は、くーの母親に嫉妬している―――――

自分の事ながらここまで変態だとは思わなかった、まさか相手の母親に嫉妬するとは。
でも、あながちこの感情が間違いではないような気がするのは何故だろう?

「・・・ミヤ?」

くーが不思議そうな目でこちらを見ている。声変わりは済んでいるはずだけれど、
どこか少年のような、優しく響く声。こうして近くで見ると、やっぱり整った顔立ちをしている。
ただ、美男子というよりは女の子に「可愛い」、何て言われてしまうタイプだ。
女装とかしたら似合いそう。
小さい頃は本当に女の子みたいだったし。あの頃から、私が見てきた。私だけが。ずっと。

「ミヤ、どうかした?大丈夫?」

私をミヤと呼ぶのはくーだけだったし(他にもそう呼ぼうとした人はいるけど、変えてもらった)、
くーをそう呼ぶのも私だけ(これは絶対に譲れない)。私はくーだけのものだ。それなら。

くーを、私だけのものにしてもいいのではないだろうか?

くーの頬に手を触れる。少しくすぐったそうな、不思議そうな顔をするくー。拒まれて、ない。
ざあっ、と頭に血が上る感覚。いいのだろうか?このまま、全部、くーを、私の、私に――――

私は、くーの唇に噛みつくように口づけた。

2006/12/31 To be continued....

 

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