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ツイスター



21 『一子の帰還』

次子に手首を掴まれたまま連れられて家に帰った一子は、おそるおそる玄関を上がった。
その様子をみた次子が声をかけた。

「ああ、お兄ちゃんならいないよ。山鹿さんのお見舞いにいってるから。
だから今のうちにお風呂入って着替えて。首の隠せる服にしてね、首に跡がついてるから」

一子は、自分の首に手をやった。もちろん、何の変化も感じることはできない。
だが、あれだけきつく絞められたのだ。きっと、浅黒く跡が残っているに違いなかった。
そして、実際にそれを風呂場で見て、ついさっき自分は殺されかけていたのだという事実に青ざめる。
恐怖が蘇ってきて体が震えた。
そのとき、脱衣場のドアが開く音がした。びくりとして動きが止まる。

「お昼まだでしょ?今日はそうめんだから。早く上がってね、お姉ちゃん」

次子はそれだけいうと、ドアを閉めた。
一子は、シャワーを頭から浴びたまま、その場にへたり込んだ。

風呂から上がると、一子はたんすの奥からジャージを引っ張り出して、ファスナーを上まであげた。
リビングでは、次子が食事を用意して待っているだろう。だが、とてもそこに行く気にはなれない。
そう思っていると、またドアの外から声が聞こえてきた。

「どうしたの?お姉ちゃん。ご飯できたよ」

「あ、いや、わたしは食欲ないから」

「だめだよ、ちゃんと食べなきゃ。それに久々にわたしの作ったご飯、
お姉ちゃんに食べてもらいたいな」

「でも、いいから」

そういって、あくまでも固辞すようとする一子に、次子がすっと声を低くしていった。

「だめだよ、お姉ちゃん。妹のお願いなんだから」

その声を聞くと、もう一子には抗うことはできなかった。震える体を半ば押さえつけるようにして、
ドアを開ける。
次子が立っていた。例の、犬のエプロンをつけていた。
エプロンをつけた次子の姿は、最近まで日常の一部を構成していたものだが、
今では一子の目にはまったく別のものに成り果てていた。
目の前にしているのは、一個の怪物だった。
次子は手を伸ばして、一子の首周りを確認した。その間、一子は蛇ににらまれた蛙のように
身動き一つできなかった。
首のあざが目に触れないことを確認すると、次子は満足そうに肯いていった。

「うん、よし!じゃあ、ご飯にしよう!今日はねえ、そうめんとお姉ちゃんの好きな
鳥のから揚げなんだよ。そうめんばっかりじゃ、バテちゃうもんね」

一子は、次子に手を引っ張られながら、階段を降り、リビングに向かった。
その間は、次子は本当に姉の世話を焼く妹のように、人懐っこく振舞っていた。
一子は、その次子とあの怪物とのギャップに非現実感を味わった。
いや、そのギャップを一瞬で飛び越えるからこそ、怪物だといえるのだろう。
これに人の気持ちなど分からない。
それこそ殺すとなれば、なんの躊躇もなく人を殺すのだろう。それこそ、こんな風に笑いながら。
一子はそう思った。

テーブルについても、一子は箸を取る気もなくしばらくじっと座っていた。
だが、次子の暗い視線を感じて、一子は急いで箸をとりそうめんを啜った。むせてしまう。

「あはは、急いで食べるからだよ。はい、麦茶」

次子がそういって、グラスを差し出してきた。受け取らないわけにはいかない。
次子は、まるで中のよい姉妹のように振舞うことを求めているのだろう。
あんな目に会わされて、そんなことができるはずもなかった。だが、やらなければならない。
次子は、要望しているのでなく、命令しているのだ。それにそむけばどうなるか、
いやほど思い知っている。
玄関から、声が聞こえた。

「ただいま」

太郎の声だった。一子は、それを久しぶりに聞いた。本当に久しぶりに。
その感慨は、単に一週間ぶりという現実の間隔によるだけでなく、
次子と二人きりというこの地獄のような状況に光をもたらしてくれたからだ。
あれだけ太郎を避けていた一子だったが、今は会いたいと切実に思っていた。
その思いのままに玄関に向かおうとした一子を、次子が押しとどめた。

「いいから、お姉ちゃんはここで食べてて」

そういって、自分だけ玄関に走っていってしまった。

「おかえりなさーい」

次子の声が聞こえてきた。続いて、廊下を歩く足音がして、太郎がリビングに入ってきた。
暗い顔をしている。何事か考え込んでいる様子だった。

「あ、一子?帰ってきたのか?」

太郎は、一子の姿に気がつくと一瞬驚いた顔をし、その後で深いため息をつくと顔を綻ばせた。
それを見て、一子はなぜだか涙を流してしまったのを感じた。頬を、ぽろぽろと水滴が伝う。

「お、おい、どうしたんだ?」

そういって、おろおろする太郎を見ていると、すべてを打ち明けてしまいたい気持ちになる。
しかしそれも、太郎の背中に次子が飛びついたのを見てなえてしまう。

「いいじゃないお兄ちゃん。一子ちゃんも家出なんかして悪いと思ってるんだから」

「え?え?いや、俺は別に怒ってなんてないぞ、な、一子。山鹿があんなことになっちゃったけど、
お前が帰ってきてくれてよかったよ、うん」

それを聞いて、一子の涙はさらに量を増した。太郎の狼狽の程も大きくなった。

「ほらほら、お兄ちゃんはいいから、そうめん食べてて。わたしがお姉ちゃん部屋に連れてくから」

「お姉ちゃん?」

太郎がその呼称に首をかしげた。

「うん、わたし、今日から一子ちゃんのことお姉ちゃんっていうから、
仲直りしたのわたしたち、ね?」

「そうなのか?」

今ひとつ釈然としていない太郎を残して、次子は一子の手を取り、リビングを出て行こうとした。
それを、太郎が呼び止めた。

「おい、首のところ青くなってないか?」

一子のジャージのファスナーがわずかに降りていたのだ。次子が一子と太郎の間に割って入った。

「ダメだよ、お兄ちゃん。女の子にはいろいろあるんだから」

ちっちと指を振りながら、次子がいった。太郎にはわけが分からなかったが、
ともかくそれ以上追求することはなかった。
それを確認すると、次子はまた一子の手を取って、今度は小走りにリビングを離れた。
そうして一子の部屋に入ると、次子はまじかに顔を近づけていった。

「お姉ちゃん。いい加減にして。お願いだから、普通にしてて。一人きりの妹がお願いしてるんだから、ちゃんと聞いて」

一子は、がくがくと首を振って肯いた。それを見た次子は、一子の部屋を出て行った。
やっと一人きりになった一子は、しばらくその場に突っ立っていたが、
やがてふらふらとした足取りでベッドに向かった。
そして、ベッドの上に倒れこむ。もう、それきり動くことはできない。
あまりにたくさんのこと、あまりに強烈なことがあった。疲れ果てていた。

目が覚めると、すでに夜になっていた。クーラーをつけることも忘れていたので、
汗をびっしょりとかいている。
一子は起き上がった。時計を見ると、すでに12時を回っていた。
耳を澄ますが、物音一つ聞こえてこない。皆、眠っているのだろうか。
一子は、今が逃亡の、あるいは助けを求めるためのチャンスだと気がついた。いや、今しかない。
そうすることで、次子の逆鱗に触れるかもしれないなどと考える余裕はなかった。
ともかく、ここから離れたかった。
だが、どこへ行く?山鹿のところか?だが、もうこれ以上迷惑をかけることはできない。
最悪、死なせてしまうことになるかもしれない。
太郎のところか?それこそばかげている。今太郎の隣には、きっと次子がいることだろう。
それに、次子のいっていたことが気にかかる。次子は、太郎は自分の味方なのだといっていた。
だから、自分のいうことなど信じないと。
そんなことは信じたくない。だが、太郎のことを信じきることもできない。
もし、自分と次子のどちらかを選ばなければならないとしたら、
太郎は迷いなくこちらを選んでくれるだろうか。
そう考えて、一子は目の前が涙でぼやけるのを感じた。
太郎はきっと、自分のことを生意気でかわいくない妹だと思っているだろう。
もしかしたら、次子と取り替えたいと思っているのかもしれない。
どうして、自分は今まで素直になれなかったんだろう。
そうしていれば、太郎にあんなおかしな妹が取り付くこともなかったかもしれないのに。
自信を持って、太郎は自分を選ぶと思えたかもしれないのに。
一子は、ベッドの上で泣き続けた。

ひとしきり泣いた後、一子はやはり家を出ることにした。いく当てなどない。
だが、どこだろうとここにいるよりはましだと思えた。
机の上に、合宿の時に使ったバッグが中身はそのままにおいてあった。
一子はそれを掴むと、部屋のドアを開けた。
次子が壁に背を預けて立っていた。
息が止まる。

「どうしたのかな?こんな夜中に」

「あ、あ、あの、トイレ、トイレに」

一子は、とっさにごまかそうとした。だがそれも、バッグを持ったままでは意味がなかった。

「へえ、トイレ。そんなバッグ持って?」

「え、あ、いや、あ、あの」

「寝ぼけちゃったんだよね、お姉ちゃんは」

次子が、にっこり笑ってそういった。一子は、震える声で答えた。

「あ、あ、うん、そう、そうなの」

「じゃ、お部屋に戻ってね、おやすみなさい」

次子はそういうと、一子の胸をとんと押して部屋に押し戻しドアを閉めた。
一子は、遠ざかる次子の足音を聞きながら、いつまでもその場に突っ立っていた。

22 『檻の中で』

一子が帰宅して以来、夏休みは平穏のうちに消費されていったと見えた。
もちろん、それはうわべだけのことでしかなかったのだが。
うわべを剥ぎ取ってみれば、その平穏な日々が砂上の楼閣でしかなかったことは
すぐに分かったはずだ。
それが崩れ落ちないように、ぎりぎりのところで受け止めていたのは、
そう余儀なくされていたのは一子だった。
一子にとって、その日々というのは、まるで家に上がりこんできた強盗に銃を突きつけられながら、
その強盗を加えて家族ごっこをするよう強要されているようなものだった。
実際には、強盗などよりよほどたちが悪い。次子は、正真正銘の殺人者であり、
しかも一子の考えでは、血も涙もない人の情など解さない怪物なのだ。
その怪物に脅され、強制されながら、一子はかつての日常を演じていた。
決して名演技とはいえなかったが。

すなわち、朝には次子の用意した朝食を3人でとり、そしてブラスバンド部の練習のために学校へ行く。
練習が終われば家に帰って自分の部屋で過ごし、やはり次子の用意した夕食を3人でとって、
風呂に入り、就寝する。
一子の所属するブラスバンド部も、学園祭で演奏することになっていたし、
コンクールも近づいていたので練習をおろそかにすることはできなかった。
そして、ときには自分のクラスの学園祭での出し物を準備するために教室に顔を出しもする。
それだけを見れば、ほぼ例年通りの夏休みの過ごし方だといえたかもしれない。
そこに、次子の影さえなかったならば。

そうした日常を演じている限りは、次子が一子に少なくとも直接の危害を加えることはなかった。
かつてのように、人懐こい態度で接してくる。
いや、「姉妹」を強調してくる分だけ、かつてよりも親密な仲になったとすら見えただろう。
だが、それは決して一子の心を軽くしはしなかった。
当たり前だ。自分の命を握っている相手になれなれしくされて、
それを素直に受け取ることなどできない。
次子に笑いかけられるとき、一子はいつもゆがんだ作り笑いで笑い返すのだった。
それは一子にとってみれば、いつ心変わりをして食いついてくるかもしれない猛獣に
じゃれ付かれるようなものだった。
機嫌を損ねれば、殺されてしまう。だが、その恐怖に身をすくませること自体が
機嫌を損ねてしまうのだ。
一子は、必死に道化を演じた。次子の気に入るように。

太郎も、その日常のうわべに騙されていたわけではなかった。
そういう意味では、一子と次子の努力はあまり成功してはいなかった。
一子と次子の関係の不自然さは、とても隠しきれるものではなかったからだ。
とはいえその背後に、まさかこれほど凄惨な現実を隠しているとは太郎も思っていなかったのだが。
しかし、太郎はすでに山鹿から、警告を受けていたのだ。ヒントはもらっていたはずだった。
だが、太郎はそれを暴き立てるような努力もしなかった。
それはきっと、そうすることが結果的に次子を失うことに繋がるだろうと、
直感的に分かっていたからかもしれなかった。
次子を失いたくなかった。もっと正直にいってしまえば、次子の体を失いたくなかった。

太郎が、一子を気にして次子とのセックスを拒めていたのも、一週間ほどのことでしかなかった。
一子が戻ってきて数日後には、元通り、体を重ねてしまっていた。
次子の誘惑に耐えることができなかった。
一子が不在であったあの一週間、セックス漬けだったあの一週間で、
太郎と次子の体は一対のパズルピースのようにかみ合ってしまっていた。
あれだけすれば多少は落ち着くだろうと思っていた次子への渇望は、
一週間の間を置くことでより大きなものになっていた。
一週間ぶりに味わってしまえば、なぜこれほどの悦楽を自分が拒むことができていたのか
分からなくなるほどだった。
今も、腰の上にまたがった次子が腰を前後させながら、
膣壁の筋肉を総動員して太郎を締めつけていた。
二人の結合部から全身を駆け巡る火花のような快楽に、目のくらむような思いがする。
これはきっと、男ならば何にも代えがたい悦楽なのだろう。

だが、こうして体を重ねているときでさえふと頭に一子のことがよぎる。
もしかすると、一子は自分と次子の関係に気づいているかもしれない。
いや、おそらく気付いているのだろう。一子の家出のきっかけはおそらくそこにあったのだろう。
一子は、それをどう思っているだろうか。やはり軽蔑しているだろうか。
次子は、自分を兄と慕い、しかも一子とまったく同じ姿形をしている。
そして、自分はそんな次子をこうして抱いている。
この行為は、自分と一子の関係をも汚すものではないのか。
もはや次子だけでなく、一子をも純粋にただ妹としてだけ見ることはできないのではないか。
ありていにいえば、こうして次子を抱いていることは、一子とも寝ることができると
証明しているようなものではないのか。
それに気付いてしまえば、一子もそんな太郎をもはや兄として見ることはできないのではないか。
そうなれば、自分たち兄妹の関係は終わりだ。ぞっとする。
そんなことを考えてセックスへの集中を欠いていることに気付いたのか、
次子がいっそう腰の動きを激しくして太郎を攻め立てた。
ベッドがぎしぎしと鳴った。

「お、おい、そんなにしたら一子に聞こえるって」

次子は笑っていった。

「いいよ、もう、聞かせてあげようよ、お姉ちゃんにも。あはっ、気持ちいい!気持ちいいよお!」

「ば、馬鹿!」

太郎はあわてて、腰の上の次子を組み伏せて黙らせた。今度は、太郎が上になった。
暗い部屋の中で、二人の荒い息が重なった。

「キスしてくれたら、静かにしてあげる」

太郎の耳に口を寄せてそういう次子に、望みどおり深いキスをしてやる。
たっぷり10分ほども舌を絡めあったあとで、唇を離した次子がいった。

「ねえ、お兄ちゃん。お姉ちゃんにあのことまだ頼んでないんでしょ」

「あのこと」とは、バンドの演奏の間だけ一子と次子を入れ替えるという例の話だ。
一子の家出などがあって、結局、太郎はここまで切り出せずにきていた。
確かに、時期的にそろそろ話をつけておかないとならない。
ただ、気の進まないことには変わりがなかった。
かつて以上に一子の心が分からない今、そんな話をするのはいやだった。
しかし、次子はしつこくねだってくる。

「お願い、ね。多分、お姉ちゃんもOKしてくれると思うから」

そういって、再び太郎を淫らな口でくわえ込むのだった。

次子のいったとおりだった。次の朝、太郎が気乗りのしないまま話をすると、
一子はほとんど考えもせず、表情も変えずに承諾した。
あまりのあっけなさに、背後の次子を見るとウィンクをして答えた。

「ね、いったとおりだったでしょ」

もちろん、一子がそんな話をされて、ショックを受けないわけがなかった。
ただ、ここのところ表情を押し殺すのに慣れていたのと、
次子の「お願い」にはすぐに肯くように癖がついていただけだった。
確かに、話しをしたのは太郎だったが、その背後に次子が立っているのが見えていた一子には、
それは次子からの命令と同じだった。
それでも、その内容とそれを伝えたのが太郎だったということに、一子は絶望を感じた。
お遊びかもしれない。
だが、たとえ一時とはいえ、次子が自分の名を騙って表舞台に出るというのは、
あまりに象徴的なことではないか。
それはそのまま、次子の欲望であり、それどころか太郎の欲望でさえあるのではないか。

あの時、太郎と次子の情事後に出くわして以来、一子は二人が相変わらず関係を結んでいることの
匂いをかぎつけていた。
今思えば、あの時まで気付かずにいた自分が馬鹿に思えるほど、それは明らかだった。
実際には、隠し通せるわけがないのだ。
毎朝、二人の間に漂っている性臭は、ごまかしのきくものではなかった。
そして、昨晩にはとうとう、太郎の部屋から次子の嬌声までが響いてきた。
その嬌声はまるで、一子に対する嘲笑のように聞こえた。自分とまったく同じ声の。
いやらしい声だった。
それを聞く太郎はどう思っているのだろう。自分と同じ顔、同じ声の女を抱きながら。
ひょっとすると、妹である自分のことを考えたりもするのだろうか。
だとすれば、太郎は自分を女として抱けるのだろうか。そうなれば、次子は用済みになるのだろうか。
もちろん、そんなことができるはずもなかった。
一子はごく普通の娘だった。兄である太郎と寝ることなどできるはずもない。
その意味で、太郎が次子を平気で抱き、次子が太郎に平気で抱かれていることこそ、
二人が本当の兄妹ではないことの証左だと一子は思っていた。
そういう関係には決してならないことこそ、兄と妹のかけがえのなさを示しているのではないか。
あの怪物は、そんなことを考えもしないのだろうが。

しかし、太郎の切り出した話は、そういう一子のかすかなよりどころを吹き飛ばしてしまった。
そこに、太郎の本心を見てしまったような気がしたからだ。
一子はかけがえのない妹などではなく、むしろ、体を許す次子にこそ価値を見出していると。
結局、自分の味方はどこにもいない。一子は、暗い世界の中に一人取り残されたような心地がして
寒々しさに震えた。
一子は夏休みの間、その檻の中でじっとしていた。 

第23話 『熱狂』

夏休みが終わってしばらくたつとはいえ、まだまだ残暑が厳しい。
そんな中で、学園祭が行われる。それなりに盛大な学園祭で、活気と熱気があり、
それがさらに温度を上げているような気がする。
やる気のない学生はそれにげんなりするし、やる気のあるものは逆に盛り上がる。
太郎は、その中間にいた。
学園祭でキングクリムゾンを演奏するということは、長らく温めてきたささやかな野望だった。
そして、そのために、伊勢の死というアクシデントはありながらも、
練習を重ね、これ以上ないほど演奏の完成度を上げていた。
それならば、その成果を披露することのできる今日、太郎は無心に盛り上がって然るべきなのだろう。
単純に盛り上がることができないのは、家庭の事情、つまり一子と次子のことがあったからだ。
二人は、表面上は変わりなくすごしているように見えた。
それでも、少しずつ何かがずれだしてきているのを、太郎は感じていた。
目だっておかしなところがあったというわけではない。
だが、一子はますます無表情になり、たまに次子がいるときにだけ見せる笑顔は
ますますぎこちないものになった。
眠れないのか、目にくまを作ることもあった。
次子は夜になると、ますます乱れるようになった。
かつてのように、太郎が激しく求め、それに従順に応じる次子という形ではなくなっていた。
今では、求めるのは次子であり、受け止めるのは太郎になっていた。
しかし、それで太郎の気持ちが引くということもなかった。
次子が乱れれば乱れるほど、太郎が受け取る快楽は強いものになったからだ。
ただ、そこに単なる性欲ではない、次子の焦りのようなものを感じてしまわざるを得なかった。
そんな次子の姿は、どこかかつての伊勢の姿を髣髴とさせて、不吉な思いを太郎は抱いた。
そういう日々の積み重ねが、太郎を不安にさせ、学園祭を素直に楽しめないものにしていたのだった。

いまだ、山鹿が学校に来ていないというのも、太郎がいまいち盛り上がれない理由だった。
すでに退院はしていて、足のギブスも外れていた。予定よりもずいぶん早い。
だが、まだ足が痛むそうで学校を休んでいた。
とはいえ、それは妹研の連中から聞いた話であったのだが。
実のところ、最初に見舞いに行って以来、山鹿に会ってはいなかった。
あの日、太郎は山鹿から次子に関してはっきりとした警告を受け取っていた。
それから、一子に気を配るようにという忠告、というよりむしろ懇願も。
だが、それからほとんど状況を変えることができていない太郎は、
山鹿と顔をあわせるのが気まずかった。
たとえば、こんなお祭りの場でなら雰囲気を変えて山鹿と会うこともできたかもしれないが、
山鹿はいない。
他方で、一子もまた、山鹿に合いに行くことはなかった。
夏休みの間、バンドの練習のために学校にまで来ていた次子の目を盗んで会いに行くことは
できないと思えたからだ。
理性的に考えれば、次子が一子を逐一監視することなどできないはずなのだが、
次子に完全に怯えきっている一子は、どこに行っても次子の目を意識してしまうのだった。
それだから、次子がバンドの練習のために太郎について学校まで来たときも、
それほどのショックは覚えなかった。
たとえどこにいても次子の目を感じるのだから、
実際そこに次子がいようがいまいが一子にはあまり関係はないのだった。

いまいち盛り上がれない太郎の横で、次子ははしゃいでいた。
模擬店を覗いては、安っぽいチョコバナナやたこ焼きをやまほど買って、食べ歩いている。
ライブの前に、学園祭を太郎と一緒に見て回りたいと次子がねだったのだ。
学園祭には、学校外の人間も大勢訪れる。今ならごまかせるだろうと太郎もそれを許した。
一子がどこにいるのかは分からない。ただ、太郎たちがスタンバイする時間になれば、
軽音の部室に来る予定になっていた。
そこで、ライブが終わって、次子が戻ってくるまで待機させておく。
それが、部長の提案した入れ替わり作戦だった。
太郎は腕時計を見ていった。

「おい、そろそろ時間だぞ。もう行かないと」

「うん!楽しみだねえ」

次子は本当に楽しそうにそういった。確かに、太郎も時間が近づくにつれて
胸が高鳴ってくるのを感じていた。
結局、太郎も楽しみなのは変わらないのだ。

太郎と次子が部室に入ると、そこにはすでに一子がいた。
一子は制服を着ているが、次子は派手な私服を着ていた。舞台衣装だった。
実のところ、それは一子のものなのだが、太郎は気がつかなかった。
唯一気付いたのは、太郎が一子に買ってやった、例の帽子だけだ。
それでも、次子が一子に借りたかもらったのかしたのだろうと、別段気に留めることもない。
バンドのメンバーたちはすでに会場である体育館へ向かっているらしく、楽器もすでにない。
太郎は自分のギターだけを持って、一子に声をかけた。

「じゃあ、すまないが頼むな」

「それじゃお姉ちゃん、お留守番お願いね」

次子がそういうのを聞いて、一子はこちらを向いてぎこちなく笑った。

一子は夏休みからずっと、こういう状況に馴れはじめているのだと自分では思っていた。
もはや、太郎と次子の関係に憤ることも、自分の立場を分かってくれない太郎に
憤ることもなくなっていた。
もちろん、次子に逆らう気持ちなどなかった。自分の心は今の状況を受け入れてしまったのだと。
だが、そのぎこちない笑顔を自分で見ることができれば、
それが無理をしているだけだと分かっただろう。
そうして、こんなことはたいしたことではないのだと自分をごまかしていなければ、
精神の均衡を保てなかったのだ。
だから、一子は笑顔で二人を送り出した。
次子がいる限り、こんなことはいくらでもあるのだろうから。

二人が部室の戸を閉めて出て行くと、部屋の中がとたんに静かになった。
外から、わずかに人の声が聞こえてくるだけだった。部室代わりにつかっているプレハブは
校庭の隅にあって、学園祭の客もあまり近くまで立ち入らない。
だが、しばらくすると、その校庭の隅にまでドラムの音が響いてきた。ライブが始まったのだ。
参加しているのは、太郎の軽音だけではない。
彼らの前に、いくつかのバンドが演奏するのだと一子は聞いていた。
太郎たちはその中でとりをつとめる予定だ。
音楽と歓声が何回か入れ替わって、やがて太郎たちが演奏する時間になった。
そのとき、どういう気まぐれか一子はふらふらと立ち上がって部室を出た。
演奏中には、ここでじっと待機しているように言われている。
もちろん、太郎たちが演奏している間は特に、そうしていなければならなかったはずだ。
そうしたことが、一子の頭に浮かばなかったわけではなかった。
それでも、見ておかなければならない。一子はそんな思いに駆り立てられていた。
予感があったのかもしれない。

一子が体育館に入ると、太郎のバンドがまさに演奏中だった。
幸い、自分の周りには知り合いはいなかった。
ステージから離れているので、次子の顔はよく見えない。
ステージの顔と自分の顔を見比べられることもないだろう。
だが、それは余計な心配だった。体育館にいる誰もが、ステージ上の演奏に熱中していたからだ。
いや、正確には次子の歌に熱中していた。高校生によく知られた歌では決してない。
大半の人間は聞いたことがないだろう。
それでも、次子の歌声は問答無用に人を惹きつけた。
いわば、それに引っ張られるようにして、太郎たちの演奏にも熱が入った。
会場の誰もが体でリズムをとり、中には飛び上がっているものさえいた。
誰も彼もが熱狂していていた。それこそ、一子だけを例外にして。
一子はそれを冷めた心で見ていた。何か、これが現実ではないような、
夢を見ているような気持ちがして。
その非現実感は、周りが熱狂すればするほど濃くなっていった。
まるで、世界のすべてが急速に自分から遠ざかり、そして次子の周りに集まっているような気がした。
彼らが見ているのは一子ではない。次子だ。それは、今次子の横にいる太郎も同じだ。
いや、まじかにいる太郎こそ、この世界の誰よりも一子を否定し、
次子を肯定している張本人のような気さえしてくる。

曲が終わると、太郎によるMCが入った。
ここからでも、顔が上気しているのが一子には分かった。
普段は、大勢の前でしゃべるのは得意ではないのだが、今は驚くほど流暢に司会をしていた。
ひとりずつメンバーの紹介をする。まずは太郎、それからドラムの部長という具合に。
そして、最後に次子の番が来た。会場の誰もが本当に聞きたかったのは、この紹介だったのだろう。
紹介を前にして、すでに歓声が上がりはじめている。

「では!本来バンドのメンバーではないのですが、スペシャルゲストとして来てもらいました。
ボーカルの簸川一子です!」

「どーも!一子です。簸川太郎の妹です。よーろーしーくー!」

一子が、いや次子がそう叫ぶと、会場が一気に沸いた。
そしてそのまま次の演奏に突入する。会場はさらに沸いた。
そんな狂騒状態に入った会場を、一子はまるで夢遊病者のような足取りでふらふらと出て行った。
何事かをぶつぶつとつぶやきながら。

24 『一子・エクスプロージョン』

太郎はベッドに横になるが、いまだにライブの余韻が残っていて、とても眠れそうにはなかった。
ライブははじめてではないが、あれほどの熱狂に包まれたのは初めてだった。
それが次子のおかげだったのは明らかだった。
次子の歌声が観客たちの熱狂を引き出していた。
理想的なボーカルだといえた。
問題があるといえば、それが良すぎたということだろう。
というのもそのせいで、次子の騙った一子の名が稀代のボーカリストの名として
確実に学校に広まってしまったであろうから。
もしかすると、いやおそらくきっと、明日一子は学校で苦労することになるだろう。
あれは一子ではなかったというネタ晴らしを、
差し支えのない時期を選んでしておくべきかもしれない。一子もやりにくいだろう。
その一子とは、ライブが終わってから顔を合わせていなかった。
部室に戻ってみるとそこはもぬけの殻だった。一足先に家に帰ったか、
あるいは学園祭を見て回っているのかもしれないと、あまり気にはかけていなかった。
案の定家に戻ると、一子はすでに帰宅していたようで、彼女の靴が玄関に残されていた。
しかし、夕食の時間になっても、一子は部屋から出てこようとはしなかった。
いつもはしつこいほどに一子を食卓に誘う次子も、今日はさすがに疲れたのか、
一子の部屋には近づかなかった。

太郎が寝返りをうって部屋のドアに背を向けたちょうどそのとき、ドアがそっと開いた。
廊下の電灯に照らされて、部屋がわずかに明るくなった。
その気配を感じて体を向きなおそうとする前に、ドアは閉じられて、部屋は再び暗闇に沈んだ。
かちゃりと、鍵のかかる音がした。新月の晩で、月明かりもない部屋は完全に闇に閉ざされている。
太郎にはそのわずかな影しか確認することはできないが、それは次子でしかありえなかった。
やはり来たのか。太郎はそう思った。
ただ、いつもの時間よりずいぶんと早いのが気になったのだが。

「次子?」

影に向かってそう問いかけると、ぴくりと震えたような気がした。
おずおずと太郎のベッドに近づいてきた。
その様子に違和感を感じながらも、太郎はベッドから身を起こしてその影を迎え入れた。
影は太郎のまじかに顔を寄せてきた。その意図を察して、太郎も顔を寄せた。
ゆっくりと口をつける。
影がこんどこそびくりと震えた。
太郎は目を見開いて両手でその影を引き離した。
立ち上がって部屋の電灯をつける。急激な明るさの変化に目をくらませながらも、
その影の正体を確かめた。
次子と同じ顔、同じ体つきをしているが、間違えようがない。
一子だった。

「何やってんだ!お前、何考えて」

「そのまま抱けばいいでしょ」

一子が、うつむいたまま低い声で太郎の言葉をさえぎった。

「別に妹とだってできるんでしょ?だったらわたしを抱けばいいじゃない。
だから、だからもうあんな奴のこと忘れてよ!」

太郎は、あまりのことに何をいわれたのか分からなかった。
やがて、それを理解して混乱した。
やはり次子と寝ていることはばれていた。それはうすうす感じていたことだ。
だが、それでなぜ一子が自分に迫る?何がどうなっているんだ?一子はどうしたんだ?
太郎はその混乱した頭の中で、ひとつだけ確かなことを見つけて怒鳴った。

「馬鹿!何言ってんだお前!兄妹でそんなこと!」

うつむいていた一子が顔を上げた。ぽろぽろと涙をこぼしていた。
いや、始めから泣いていたのだろう。まぶたが赤くはれていた。

「はは、うん、馬鹿だよね。わたし、馬鹿だ」

一子はそう自嘲すると、太郎に背を向けて部屋を飛び出そうとした。
だが、鍵がかかっていて開かない。一子は、2度3度ガチャガチャとドアノブをひねってから
自分が鍵をかけたことを思い出し、それをはずして今度こそ部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる音に続いて、玄関のドアが叩きつけられる音を太郎は聞いた。
外へ駆け出していったのだ。パジャマのままで。
太郎はそれをただ突っ立って聞いていた。呆然としていた。
何が起きたのか、理解できない。頭の中をがらくたが駆け巡っているようだった。
考えがまとまらない。
いや、考えるのは後でいい。今は一子を追わなくては。
正直、今の一子と顔を合わせるのはつらい。どんな顔をして会えばいいのか分からない。
だがそれも一子に追いついてからの話だ。

部屋を出たところで、太郎は次子に出くわした。

「お兄ちゃん!」

太郎は次子が呼び止めるのも聞かず、草履を足に引っ掛けると外に飛び出した。

一子は走りながら、泣いていた。
馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。自分は馬鹿だ。
何をやったのか。何であんなことをしたのか。自分で自分のやったことが分からない。
あのライブの後、帰り道で、そして帰ってからも部屋の中で、一子はただ一つのことを考えていた。
自分の存在は、次子に消されてしまうのだと。いや、すでに消し去られつつあるのだと一子は感じた。
自分は一人ぼっちだ。だから、消えてしまっても誰も気にかけない。兄である太郎も。
消え去った自分の場所にいるのは次子だ。太郎はそれを歓迎する。笑う。これでよかったのだと。
世界の皆がそれを歓迎する。一子のことを気にかけるものは一人もいない。
いや、すでに次子こそが一子なのだ。

だからといって、太郎の気を引きたいからといって、自分は一体何をしたのか。何をいったのか。
口付けた唇の感触がまだ残っていた。
太郎はどう思っただろうか。決まっている。
気持ち悪いと、そう思ったのだ。だから自分を拒んだのだ。
一子はどう思っただろうか。決まっている。無様だと、そうあざけっているに違いない。
あのとき、部屋を出たところに待ち伏せていたようにいた次子は、
まるで全てを見透かしたような目をしていた。
いや、実際にすべてを見透かし、そして嘲笑っていたのだ。
もうだめだ。あの家にはいられない。太郎は軽蔑しているだろう。一子は憐れんでいるだろう。
ああして迫ることで、自分から兄妹の関係を汚してしまったのだ。あの女と同じように。
憤る。自分自身に憤る。そして何より、あの女に憤る。自分からすべてを奪いつつあるあの女に。
あの女?違う。あれは人間ですらない。人形のようなものだ。山鹿もいっていたではないか。
次子などという人間は存在しないのだ。
そうだ。
ならば、すべきことはただ一つだ。
それは逃げることではない。
戦うことだ。
奪い返すことだ。
遠慮はいらない。あれは人間ではないのだ。殺しではないのだ。
天啓を受けた一子は、家まで引き返そうと立ち止まった。
そこはT字路だった。横手から、強烈な光が当てられた。ヘッドライトの明かりだ。

1時間か2時間か分からない。太郎は一子を探して駆け回るが、いっこうに捕まらなかった。
パジャマのまま走っている太郎を、ときおりすれ違う通行人が怪訝な表情で振り返る。
しばらくして、太郎は思い出した。以前、こんなことがあって一子が誰を頼ったのか。
こんなことに気が付かないほど、自分は狼狽していたのか。
今は、山鹿の家の反対側に来ていた。いったん家に帰って自転車に乗ろう。
そして山鹿の家に向かおう。いや、その前に山鹿に電話で確認をいれよう。
太郎はそう決めて、今来た道を引き返した。

家に帰ると、次子が玄関で待っていた。何かいっている。
太郎はそれを無視して、玄関にすえつけられている電話の受話器をとった。
相手が出るまでの時間が、やたらと長く感じた。実際にはそれは1分にも満たなかったのだが。
電話に出たとたん、相手を確かめることもせずに、太郎は受話器に怒鳴った。

「俺だ!一子はそっちにいるか!?」

「簸川か?夜中にうるさいぞ」

電話に出たのは、幸いにも山鹿本人だった。

「いいから!一子はいるか!」

「・・・ああ、いる」

太郎はそれを聞いて大きく息を吐いた。やはりそうだった。

「だいたいの事情は聞いた」

山鹿が低い声でいった。太郎は一体何をいわれるのかと身構えた。
責められるのではないかと、そう思ったのだ。

「お前はお前の考えがあるんだろう。俺は何もいわん」

冷たい口調だった。太郎は、まるで自分が見限られたような気がした。責められたほうがましだった。

「悪かった。また世話をかけた。本当に」

「なに、謝ることはない。礼はたっぷり頂いたからな」

山鹿のどこか不穏な言葉の響きに、太郎は眉をしかめた。

「どういうことだ」

「一子ちゃんを抱いた」

どうして今夜はこうも耳を疑うようなことばかりを聞くことになるのか。
太郎は狼狽する自分を無理やり押さえつけた。そうだ。別に驚くことではない。
山鹿は一子を身をもって慰めたのだ。
傷心の一子を優しく抱いてやったのだ。二人はきっと好きあっていたのだ。
一子も、山鹿を頼っていたではないか。
確かに、あの山鹿が自分の妹ではない一子を抱いたというのは驚きだ。
しかしだからこそ、山鹿が本気なのだと思える。
山鹿はいいやつだ。唯一の親友で、ときたまとんでもないことをしでかすが
その行動力は本当に頼りになる。
今も、一子を抱きとめてくれている。多少早い気がしないでもないが、
もちろん自分にそんなことをいう資格はない。
それどころか、一子のすることに口を出す資格など自分には何もないという気さえする。
一子のことは山鹿に任せるべきなのだろう。
太郎はどこか釈然としない思いを、そんな思考で押し流そうとした。
だが、太郎のそんな努力を山鹿が無駄にした。

「まあ、妹じゃないがしょうがない」

「しょうがない?」

聞き間違いかと思った。

「いいかげん溜まっていたからな。しょうがないさ。悪くはなかったぞ、一子ちゃん。
まあ、一子ちゃんの方は痛がってたけどな」

太郎は山鹿の冗談めいた言葉を聞き流そうとした。そんな太郎を嘲笑うかのように山鹿が続けた。

「最初は強がっていたがな、最後は泣いていやがってたぞ。まあ、結局無理やりしたんだがな」

「嘘を付け」

「そういえばお前のこと呼んでたぞ。兄貴、兄貴ってな。あれには燃えたな。
イメージプレイみたいだった」

「黙れ」

「おいおい、声が低いぞ。どうした?まあ聞けよ。最後入れるときなんか」

太郎は最後まで聞かずに受話器をたたきつけて電話を切った。
頭の中のがらくたがまた騒ぎ出していた。胸がむかむかする。耳鳴りがした。
そのまま家を出ようとする太郎の腕を次子が掴んで止めた。
振り払おうとするが、思っても見ないほど強い力で掴まれていて振りほどけない。

「待ってお兄ちゃん!」

そんな切羽詰ったような次子の声を聞いたのは初めてで、太郎はやっと次子の方を振り向いた。

「もういいじゃない!お姉ちゃんなんかほっとこうよ。
ううん。あんな子お姉ちゃんでもなんでもないよ。お兄ちゃんだってそうなんでしょ。
あんな妹なんて要らないんでしょ?だから拒んだんでしょ!?もう妹はわたしだけでいいよね。
ね、お兄ちゃん」

「馬鹿!そんなわけあるか」

「じゃあ何で一子ちゃんとしなかったのよ!」

「あいつが妹だからに決まってるだろうが!!」

太郎がそう怒鳴り返すと、次子が握っていた腕を離した。どこか唖然とした表情をしている。

「じゃあ、じゃあ、わたしはお兄ちゃんの何なの?妹じゃないの?」

太郎はそれを聞いて自分の失言に気が付いた。だが、今優先すべきは一子だった。
次子を振り切って、太郎は駆け出した。玄関には、呆然と突っ立っている次子が残された。
いつまでそうしていたのか、1分か1時間か。
次子は開いたままのドアから玄関に入ってきた人影に、気付くのが遅れた。
それはいつもの次子ならばありえないことだった。
気がついたときにはもう遅い。
そのこめかみに、振り回されたバールの先が食い込んでいた。

25 『バール剣法』

太郎は山鹿家の門の前に人影を見つけると、自転車を乗り捨てた。
すでに体力をすっかり消耗してしまっている。
自宅から山鹿家までそれこそ全力でペダルを踏んできたのだ。
だが門の前に立っているのが山鹿本人であることを街灯の明かりで確かめると、
太郎は最後の力を振り絞ってつんのめりながら駆け寄った。
殴ってやろうと思っていた。山鹿の表情を間近で確認するまでは。
太郎は振り上げたこぶしを下ろすと、その場にへたりこんだ。疲労と安堵のためだ。

「嘘かよ」

「何で分かった?」

予想外のことだったのか。山鹿は少しばかり驚いているようだ。

「顔見りゃ分かるわい。伊達に腐れ縁が続いてるわけじゃない。ああ、俺は馬鹿か。
電話のときに気づけよな」

山鹿はそれを聞くと、僅かにうれしそうな顔をした。太郎はそんな山鹿の顔を悔しそうに見上げた。
確かに、電話の段階で嘘だと気づいておくべきだったのだ。
内容が内容だっただけに我を失って冷静な判断ができなかったのだろう。それだけあせっていたのだ。

「なんでそんな嘘」

「兄の本能を煽ってやろうと思ってな。それに一発ぐらい殴られておくつもりだった。
今回のことの元凶は結局俺にあるわけだからな。で、俺は一子ちゃんの代わりにお前を殴る。
どうだ、青春映画みたいだろう」

「いまどき漫画でもねえよ、そんなベタな展開」

「まあ、後々殴りたくなってくるかもしれんがな」

山鹿はそういって表情を固くした。ずれてもいないめがねを直す。

「一子ちゃんがうちにいるのは本当だ。少し錯乱気味だったから休ませた。事情も聞いた」

それを聞いて、太郎も表情を固くした。相手は一人っ子のくせに妹命の山鹿だ。
いいたいことは山ほどあるだろう。

「一子ちゃんを抱かなかったんだってな。なぜだ」

「なぜって。当たり前だ。一子は妹だ。俺はお前とは違う」

「そうか。じゃあなぜ次子を抱いたんだ」

太郎は返答を躊躇した。それは答えるべき言葉が分からなかったからではない。
答えははっきりしている。
ただ、それを言ってしまったがためについ先ほど次子を傷つけてしまったのを思い出したのだ。
結局それを口にするしかなかった。

「次子は・・・本当の妹じゃない」

ひどく自分勝手なことをいっていると感じて自己嫌悪に陥る。
しかし、山鹿はそれを聞いて満足そうにうなずいた。太郎はそれを見上げた。

「そうだ。次子はお前の妹じゃない。お前の本当の妹は一子ちゃんしかいないんだからな。
何度もいったように。あれは自称妹にすぎない」

山鹿のその言葉にどこか違和感を感じてしまうのは、次子に肩入れしすぎているからなのだろうか。

「だからだな、今の状況を客観的に見ればただの、恋人と妹との間の相克に過ぎないわけだ。
ただ、その恋人は妹でもあろうとしているというのが特殊な点だな。で、どうする。
お前はどっちを取るんだ。恋人か妹か」

「おい、それは」

「両方もってのはダメだ。何せ二人は絶対に相容れないからな。まあ、判断の材料をやろう」

山鹿は、まだ道端で座り込んだままの太郎に合わせて、自分も腰を下ろした。

「一子ちゃんが次子に殺されかけたのは知ってるか。それでずっと脅されていたのは」

もちろん、太郎には知る由もないことだった。

「知らないか。まあ、当たり前だな。知って放置してたんなら、
それこそぶん殴ってやろうと思ってたが」

「馬鹿な。次子がそんな」

「そんなことできないと思うのか?前に話したろう。次子が伊勢を殺したかもしれないと」

そう、確かに山鹿からそんな話を聞いたことがある。だがあの時山鹿は確証はないからと
否定していたのではなかったか。

「そうだな。あのときはそういった。俺も甘かったんだ。結果、一子ちゃんにつらい思いをさせたのは
俺も同罪だな。だが、一子ちゃんが直接次子から聞いたらしい。
伊勢を殺したのは自分だって。だから一子を殺すのも造作もないことなんだってな。
おまけに俺が事故ったのも次子の仕業だそうだ。俺も人質にして一子ちゃんを脅してたんだよ」

山鹿はそこまで言って、ジャケットのポケットから丸めた神の束を取り出した。それを太郎に渡す。

「俺はここ暫く伊勢の事件について調べていた。うちの親父はそれなりの権力者だからな。
いろいろとコネがあるんだ。警察関係には特に。それで得た情報だ。まあ、いろいろと書いてある。
重要なのはそうだな。このあたりか」

山鹿は、太郎が手にしているレポートを覗くと、その中から一部を引っ張り出した。
そこには、伊勢の遺体を解剖して得られた知見が書いてあった。それによれば、伊勢の首は紛れもなく
素手でねじ切られており、しかも体に残された痕跡から、それは伊勢とほぼ同じくらいの背格好の
女の手によるものだという。

「前にもいったが、そんなことのできる人間はまず存在しない。それで捜査も混乱した。
だからなんだ。現場に残った指紋が手がかりにならないのは。
そんな人間を探し出して指紋を取るなんて、できっこないからな。そんな人間はいやしないんだから」

「指紋?残ってたのか」

「ああ、首をねじ切るとき頭の皮が剥がれたらしくてな、そこから飛び出た頭蓋骨についてたらしい」

その光景を想像して、太郎は吐き気をおぼえた。だが、山鹿はそんな太郎の様子にも話を止めはしなかった。

「その指紋がこれ。で、これは今日ちょうどいいときに来た一子ちゃんの指紋だ」

山鹿はレポートにクリップで留めてあった二枚の黒っぽいフィルムを重ねた。ぴったりと一致する。

「勘違いしないとは思うが、一子ちゃんじゃないぞ。一子ちゃんと同じ指紋を持ってるやつが
この世にたった一人存在する。そいつが犯人だ」

最後まで聞く必要はない。結論は明らかだった。だが太郎は、信じがたい事実をこれまでもかと
突きつけられて、言うべき言葉が見つからなかった。

「さあ、どうする。恋人か、妹か。ちなみにその恋人は、お前の妹を殺そうとしていて、
実際に前の恋人を殺している。しかも、そいつは人間ですらなく、単なる妄想の産物、幻だ。
化け物そのものの幻の恋人と、たった一人の実の妹、どっちを選ぶんだ」

山鹿は太郎に詰め寄った。ほとんど誘導尋問のようなものだった。

「次子に対する変な情は捨てろ。あれは妹じゃない。一子ちゃんじゃない。
次子は抱けて、一子ちゃんは絶対に抱けないことの意味を考えろ。
それはお前にとって大事なのはどちらなのか、お前が欲しい相手じゃなくて、
大事にしてやりたいのはどちらなのかを物語ってるんじゃないのか。
間違えば後で絶対に後悔するぞ。だが、今は悠長に考えてる暇はない。今決めろ。
お前にこうして話したことで、きっと俺と一子ちゃんを始末しにやってくるぞ、次子は。
今来るかも知れん。
そうなれば、俺はお前の答えいかんに関わらず戦う。俺と一子ちゃんを守るために」

山鹿の目は、この上ないほど真剣だった。こんな山鹿を見たのははじめてかもしれない。
そして、山鹿はこうと決めたら絶対にやり遂げる。それは長い付き合いでいやというほど
思い知らされていた。
長い沈黙の後で、太郎はぽつりと呟いた。

「・・・一子を取る」

そうだ、こんな選択を突きつけられて、あえて次子を選ぶやつはいない。
これは正しい選択だ。確かにそのはずだ。
だが、次子に対して沸き起こる罪悪感を消すことはできない。
これが山鹿のいう「変な情」なのだろうか。あるいはただの未練なのか。

「よし、じゃあ一子ちゃんに会わせる。その後でお前の家に行く」

山鹿はそういって立ち上がった。
しかし、結局一子には会えなかった。客間で寝ていたはずの一子の姿が消えていたからだ。

太郎が到着するよりずいぶん前に、すでに山鹿の家を脱け出していた一子は、
ひとつの思いだけを抱いて自宅に向かっていた。
不幸だったのは、自転車では通れない近道を一子が通っていたために、
太郎と行き当たることがなかったことだ。そのときの一子にとってはそれは幸いなことだったのだが。
家に帰った一子は、庭の隅に置かれている小さなプレハブの倉庫に向かった。
工具箱の横に立てかけてあった、一本の鉄の棒を取り出してくる。
冷たく重い感触のそれは、充分な破壊力、殺傷力を秘めていると思われた。黒光りしているバール。
一子はそれを背後に隠しながら、開きっぱなしのドアから玄関に入った。
まるっきり予想外のことに、だが好都合にも、獲物は目の前に突っ立っていた。馬鹿みたいに呆けて。
一子は、やっと自分に気がついたらしい間抜けな獲物に向かって、バールの先を振り回した。
ずぶりという気持ちのいい感触を伝えながら、それはこめかみに突き刺さった。驚愕に歪む顔。
突き刺さったそれを引き抜いて、今度は上段から振り下ろす。右の眼窩に突き刺さる。
後ろを向いて逃げようとするその背中に向けてまた振り下ろす。狙いが外れて、後頭部に突き刺さる。
今度こそ背中。それから足。転倒した体に、次々とバールを叩き込む。もう、狙いなどない。
蜂の巣みたいに穴だらけにしてやろう。
ただいくつもの穴を体に穿たれながら、一滴の血も流れてこないのは奇妙だった。
しかし、一子にとってはそれは当然だ。なぜなら、相手は血も涙もないモンスターなのだから。
血が流れないのが何よりの証拠だった。

もう、何十回、何百回鉄の棒を振り下ろしただろうか。体の原型は残っている。
だが細かなパーツはめちゃくちゃだった。顔の判別がつかないほどに。
一子は、無意識の内に顔を狙っていた。
自分と同じ顔はこの世に二つといらないとでもいうかのように。
疲労の極に達した腕が、バールの重さを支えられなくなった。
からんという音を立てて、それが床に転がる。
一子もまた、床にへたり込んだ。
とうとうやった。人間の形をしたものを破壊するのは、誰だって躊躇する。
だが、今の一子にとってはむしろそのことが苛立ちと破壊の衝動を誘うのだった。
罪悪感なんて感じる必要はない。これは人間ではなく、人形で、もういらなくなったから壊したのだ。
いや、これは呪いの人形だった。壊されて当然の。
何が消してやるだ。消されたのはお前の方じゃないか。

「あは、あはは」

一子は、乾いた笑い声をもらした。

「何がおかしいの?」

いつの間にか起き上がっていた次子が、ほとんど歯の残っていない口でそういった。

26 『3人と1人』

驚愕に顔をゆがめたのは、今度は一子のほうだった。
それをおもしろそうな顔で見下ろしていた次子が、ゆらりと一歩一子に近づいた。

「ひっ!」

腰を床につけたまま、一子はあとずさった。
ここは玄関で、背後のドアは開いたままだ。だが、立ち上がって逃げ出すことができない。
次子に背中を見せるのが怖い。
次子はしゃがみこむと、一子の目の前にぐしゃぐしゃに潰れた顔を近づけた。

「驚いた?こんなものでいくら叩いてもムダだよ。わたしは死なないし、すぐ直っちゃうから」

そういう次子の口の中は、すでに直りかけていた。さもなければしゃべることができないほど、
ずたずたにしてやったはずなのだ。

「だからね、わたし一子ちゃんのしたことには別に怒ってないんだ。そりゃ痛かったけどね。
怒ってるのはそのことじゃないんだ」

次子は一子の胸倉を掴むと、自分の顔をいっそう一子に近づけた。
千切れかけた鼻が、一子の頬にへばりついた。

「気付いたんだ、わたし。やっぱり一子ちゃんは邪魔だなって。
お兄ちゃん、わたしは妹じゃないなんていうんだよ。おかしいよね」

そういうと、次子は一子の胸倉を掴んだまま立ち上がった。
一子もまた強制的に立ち上がる格好になった。

「だから、消えちゃってね、一子ちゃん。でも安心して。すぐには死なないように気をつけるから」

次子は一子の首をつかんで、ゆっくりと力を入れ始めた。
一子はそれを感じ、逃げ出そうと腕を掴んで離れようとするが同じくびくともしなかった。
かつてと同じだ。
苦しい。涙がこぼれる。わずかに開いている気道から、
すこしでも空気を入れようと必死で呼吸しようとする。
ひゅうひゅうとのどから風の音が聞こえる。呼吸に必死で、それ以上声を上げることもできない。
意識が遠のいてくる。まるで霞がかかったように頭がぼんやりしてきた。
そんな頭の片隅でいろいろな過去のことが思い出されてくる。
普通は走馬灯のようだというが、一子はチャンネルが次々に変わるテレビのようだと思った。
多くは太郎との思い出だった。なんのかんのといって、最後に思い出されるのは太郎のことなのか。
一子は自分が思いのほかブラコンであったことに驚き、そんな自分にあきれた。
太郎に対してそっけなく接していたのも、結局は意識していたことの裏返しだったのか。
やがて諦めて意識を手放そうとしたそのとき、首を絞めていた次子の手が離れた。

「一子!」

そのまま崩れ落ちようとする一子の体が受け止められる。

「おいっ!しっかりしてくれ!」

体を抱えられた一子が、うっすらと目を開けた。太郎だった。

「あに、き?」

太郎は一子の声を聞いて、深い安堵のため息を漏らした。

「大丈夫みたいだな」

太郎の背後から山鹿が覗き込んでいった。さきほど発砲したばかりの拳銃を持ちながら。

「お前、どっからそんなもん」

「親父のだ。念のために持ってきた。まあ、あまり役には立ちそうにないがな」

山鹿はそういうと、床に転がっていた次子の方を見るように促した。
ところどころ穴の開いた服を着た次子の顔は、いくらか直りかけているとはいえ、
まだ正視に堪えるものではなかった。
太郎はそれを見て顔をしかめた。
そして頭にはたった今銃弾によってうがたれた、小さな、しかし深い穴があった。
次子が一子から手を離したのは、頭に銃弾を受けた衝撃で突き飛ばされたためだったのだ。
だが、次子はまるで何事もなかったようむくりと上半身を起こした。
太郎は短く、声のない悲鳴を上げた。

「どうしたの、お兄ちゃん。顔が青いよ」

一子がふらりと立ち上がった。山鹿がそれを見て、再び引き金を引いた。
まるでモデルガンのような、軽い銃声が響いた。
やはり再び床に転がった次子が、また立ち上がった。それを見た山鹿が今度は二回引き金を引いた。
次子はさきほどよりも遠くに転がったが、やはりすぐさま立ち上がった。

「だめだよ、お兄ちゃん。一子ちゃんなんかに構っちゃ。妹はわたしなんだから。
わたしがいるから、そんな子もういらないよね」

次子はそういいながら、ふらふらとした足取りで太郎と一子に近づいてきた。
それなりのダメージは残っているようだった。
その眼中には太郎と一子しかいないのか、山鹿に目を向けることはない。

「ねえ、お兄ちゃん。いってやって、一子ちゃんに。自分の妹は次子しかいないって、
一子ちゃんなんかもういらないんだって」

太郎はさっきから目を瞑ったままの一子の体を抱きしめた。

「俺の妹は一子だ。お前じゃない」

太郎はからからに乾いた口で、それだけをいった。自分の次子への感情がどうであろうと、
それだけはいっておかなければならなかった。
次子はそれを聞くと、まるで能面のような無表情になった。
そこで初めて、太郎の背後に立つ山鹿に目を向ける。

「お兄ちゃんに何かいったの?」

「ああ、何もかもな」

次子は再び太郎に目を落とした。

「信じるの?山鹿さんのいったこと」

「ああ」

次子は今度は自分の足元に目を落とした。それから顔をあげて、にっこりと微笑みながらいった。

「じゃあ、しょうがないね。山鹿さんにも消えてもらうから。そのあとでゆっくりお話しようね、
お兄ちゃん。邪魔者のいないところで。ずっと二人きりになれるところに行こうね」

次子が足を一歩踏み出すと、太郎は一子を抱えたまま立ち上がり、後ろに引いた。
山鹿が二人を背中に隠すように一歩前に出て、次子と向かい合った。拳銃を向ける。

「どうするの、そんなもので。分かってるんでしょ、役に立たないって」

「それもそうだな」

山鹿はそういうと拳銃を廊下に向けて放り投げた。さすがに予想外のことだったのか、
次子は思わずそれを目で追ってしまった。
次子の目が離れると、山鹿は上着のポケットから小さなペットボトルを取り出した。
鉄粉のようなものが詰まっている。
山鹿はそれを自分の背後にいる太郎に見せると、次子に向かって放り投げた。
太郎は山鹿のやろうとしていることを察し、自分の目を瞑り、手で一子の目を押さえた。
昔、似たようなものを山鹿と一緒に作って、ひどい目にあったことを覚えていた。
理科室からマグネシウムを盗んでは、危険な花火遊びをしていたころだ。
ばしゅっと音がして、閉じた瞳の向こう側が明るくなった。

「あああーっ」

目を開けると、次子が自分の両目を押さえてのた打ち回っていた。

「おいっ、逃げるぞ!」

太郎はそれを見て思わず駆け寄ってやりたい衝動に駆られるが、
山鹿に襟を引っ張られて正気に戻った。
一子を抱えたまま山鹿の後を追う。庭にはエンジンをかけたままのバイクが止めてある。
その後ろに、一子の体を山鹿と挟み込むような形でまたがるとほぼ同時に、バイクが走り出した。

「一子ちゃん落とすなよ!」

ヘルメットをつけないままの山鹿がそう叫んだ。闇夜の中を3人乗りのバイクが走る。

「一子?大丈夫か?」

「うん・・・」

山鹿の背中に押し付けられている一子は、くぐもった声でそういった。

「すまなかった」

「うん・・・」

めまぐるしい状況の変化に対応できていないのか、一子はぼんやりとそういうだけだった。
そんな一子の背中を抱きしめてやる。小さい肩だった。

「おい、簸川!後ろ見てみろ、ただしびびって落ちるなよ!」

山鹿の怒鳴り声に、太郎は後ろを振り返った。何もない。いや、一瞬だけ街頭の下に白い影が見え、
それはすぐに闇の中に消えた。
それからまた街頭の下に現れては、闇の中に消える。次子だった。跳ぶようなフォームで走っている。
太郎はあまりのことに目を疑った。バイクは60キロは出ている。
次子はそれに追いつこうとしているのだ。
ぞっとした。

「おい!山鹿!来てる来てる!」

「とばすぞ。しっかりつかまってろ」

山鹿はそういうと、さらに速度を上げた。次子の姿は確認できなくなる。
振り切ったようだった。だが、いつまた追いすがってくるのか、太郎は気が気でなかった。

「どこに逃げる気だ!」

「逃げない!」

山鹿はちらりと太郎の方を振り返っていった。

「今夜決着をつける!下手に逃げをうてば犠牲者が出るかもしれない!警察ではダメだ!
俺たちで始末する!」

「始末って」

「もう引き返せないぞ、簸川!あれのことはもう諦めろ!つかまればきっとお前もただじゃすまない!
俺たちは一蓮托生だ!」

そうだ、確かにもう引き返すことはできないだろう。あの次子の様子を見てしまえば
そうとしか思えなかった。
それに太郎は、次子に対しておびえを抱いてしまっていた。もはやこれまでの関係に戻ることは
できないだろう。
そんな太郎を次子がどうするのか分からない。一生監禁するぐらいのことはするかもしれない。
バイクはやがて町外れに出ると、ある廃墟の敷地の中に入った。放棄された病院。
このあたりでは肝試しの名所だった。
山鹿はバイクを止めると、ライトをつけたままバイクから降りた。太郎もそれを追って、
一子と共にバイクから降りた。
一子は少しぐったりとしているが、さきほどよりは意識ははっきりとしているようだった。
太郎の正面に立った。

ぱあんっと高い音が響いた。一子が太郎の頬をひっぱたいたのだった。

「あんたなんか、あんたなんか」

それだけいうと一子はその場で泣き崩れた。これまで叩かれた中で、一番痛かった。
太郎は叩かれた頬を押さえることもなく、その場に立ち尽くして一子を見下ろしていた。
かけるべき言葉も見つからない。
そんな二人に、山鹿が水を差した。

「二人の話は後にしよう。次子が来るぞ」

一子はそれを聞いて、先ほどのことを思い出したのか体をびくりと振るわせた。

「いったんは撒いたが、相手は非常識の塊だからな。たぶん、鼻もきくだろう」

「でも、どうするんだ」

次子の不死身ぶりは、さきほど見たとおりだ。拳銃で撃っても、バールで穴だらけにされても
死なない次子をどう「始末」するというのか。

「持ってきた花火はあれだけじゃない。もっと派手なのがある」

山鹿はそういって、バイクのキャリーバッグから菓子折りくらいの大きさの箱を取り出した。
ずいぶんと重そうだ。

「お前と花火を作るのは止めてしまったが、あれからもこつこつ研究を続けててな。
護身用に爆弾を作っていた。計算ではかなりの威力があるはずだ。人一人くらいは吹っ飛ばせる」

「ばくだん?」

「いずれ現れるであろう妹の身を守るためだ」

山鹿はめがねを抑えながらいった。
太郎は空いた口がふさがらない。それはさっきまで憤っていた一子も同じだった。
すっかり、毒気を抜かれてしまったようだった。そんな二人に構わず、山鹿は話を続けた。

「こいつを地面に埋めて地雷代わりに使う。遠隔操作で起爆できる。これがスイッチだ」

山鹿はバッグの中から、今度はラジコンのコントローラーを取り出した。

「次子が上に乗ったらスイッチを入れてどかん、というわけだ。
問題は、そこに次子を誘導しなければならんということだな。それは俺と簸川でやる。いいな」

太郎は山鹿に向かって肯いた。いい加減、覚悟を決めるときだ。

「スイッチは一子ちゃんに入れてもらう。どこかに隠れていて、こっちで合図をしたら
すぐに入れてくれ」

「へっ!?」

一子はまさか自分にそんな役割が振られるとは思っていなかったのか、素っ頓狂な声を上げた。

「大丈夫、簡単なことだ。合図を聞いて、スイッチを入れるだけ。
一子ちゃんも自分の手で決着をつけたいと思わないか?」

一子はそういわれると、表情を引き締めて肯いた。そして、コントローラーを受け取る。
山鹿はスイッチの入れ方を一子に説明すると、建物の影に隠れるようにいった。
一子はその支持に従う。

「じゃ、俺たちはこいつを埋めるとするか」

太郎と山鹿は、バイクに積んであった工具を使って穴を掘ると、そこに爆弾を埋めた。
廃墟の門から爆弾の埋め場所を結んだ延長線上で次子を待つことにする。
まっすぐこちらに向かってくれば、きっと爆弾の上を通過するだろう。
山鹿は落ちていた鉄パイプを拾った。それを何度か素振りして使い勝手を確かめる。
牽制用の武器にするつもりのようだ。

「これ、持ってろ」

山鹿はポケットから出したものを太郎に渡した。銀色のバタフライナイフだった。

「それは隠し持っておけ。いざというとき以外使うな。
お前はあまり露骨に敵意を見せないほうがいい。どうしようもなくなったら降参しろ」

太郎はそれをじっと見ながらいった。

「どうしてここまでしてくれるんだ?」

「当たり前だろ。あれは俺が作ったんだ。責任は俺にある。お前はただ巻き込まれただけの被害者だ。
伊勢が死んだのも俺のせいなんだからな。後でたっぷり俺を責めろ。お前と一子ちゃんには
その資格がある」

「それだけか?」

「他に何がある」

「一子のことが好きなのか?」

「知らなかったのか?俺は世界中の妹の味方だ。今は次子以外のな」

「そういう意味じゃない」

「なあ、簸川。昔、一緒に花火作って遊んだこと覚えてるか?」

山鹿はいきなり話題を変えた。

「忘れようとしても忘れられるか。お前のせいでむちゃくちゃ怒られただろうが。
一子はやけどさせちまうし」

「なんであの後も俺と一緒に遊んでくれたんだ?もう俺と遊ぶなって、ご両親からも
ずいぶんいわれただろう?お前だって、一子ちゃんをやけどさせたって随分気に病んでた」

「・・・」

「俺がお前を助けるのも多分それと同じ理由だ」

「お前、結構恥ずかしい奴だな」

「モラリストぶっておいて、結局妹代わりの女と乳繰り合ってたお前の方が恥ずかしいぞ」

「うるせえ」

「やっと妹研のメンバーらしくなってくれて俺はうれしい」

「お前らと一緒にすんな」

二人の戯言もそこまでだった。

「追いついたよ、お兄ちゃん。鬼ごっこはもうおしまい?」

27 『決戦』

バイクのライトをま正面から当てられてまぶしいのか、次子は顔の前に手をかざしながら
太郎たちのほうへゆっくりと歩いてきた。
太郎と山鹿は不自然に視線が下がらないよう注意しながら次子を待っていた。タイミングを計りつつ、
たが罠のことを悟られないように。
時間の流れが遅い。手のひらに汗がにじんできた。
近づいてくる次子の体は、もう元通りといってよかった。顔も、一子と同じそれを取り戻していた。
ただ、服だけはずたずたのままで、ほとんど裸に近かった。
やがて、次子の足が地面に引いてあるバッテン印を踏みかけた。
山鹿がつなぎっぱなしで持っていた携帯に向かっていう。

「一子ちゃん、押せ!」

太郎は耳を押さえた。
1秒、2秒。何も起きない。
次子の足が何事もなくバッテン印を通過した。

「おい、どうした?故障か?」

太郎が小声で山鹿に尋ねた。山鹿は一子と二三言葉を交わすと携帯をしまった。まだつないだままだ。

「いや、なんというか、ミスった。今気付いたんだが」

山鹿が珍しく狼狽の色を表に出した。

「地面の下に埋めたから起爆装置に電波が届かない」

山鹿のあまりといえばあまりな言葉に、太郎はあっけに取られた。冗談をいっているのかと思った。

「アンテナを地面の上に出すのを忘れていた。この土壇場でなんて間抜けな」

「ど、どうする」

山鹿はしばらく考えてから口を開いた。

「次子に対する切り札はあれしかない。だから掘り起こして使う。作戦はこうだ。
まず二手に分かれる。一方が次子をひきつける。もう一方が爆弾を掘り起こす。
それから何とかして次子を爆弾のところに誘導して爆発させる。いいな。
役割分担は向こうに決めてもらおう」

山鹿はそういうと、鉄パイプを肩に担ぎながら太郎からゆっくりと離れた。
太郎もその反対側へと次子から目を離さないようにして動く。
二手に分かれた太郎と山鹿を前にして、次子は躊躇せず山鹿の方へ向かった。

「待っててね、お兄ちゃん。山鹿さんを消して、それから一子ちゃんも消して、
その後でゆっくりこれからのこと話そうね」

「ま、そうなるだろうな」

山鹿は苦笑しながらいった。

「一子ちゃんはどこ?」

「知るか」

山鹿は近づいてくる次子をにらみながら、鉄パイプを正眼に構えた。

「女の子に暴力振るうの?」

「お前はただの化け物だ」

「わたし、理想の妹なんでしょ?山鹿さん、そういうの欲しかったんじゃないの?」

「お前は誰の妹にもなれない。ただの妄想の産物で、幻で、悪夢みたいなものだ」

「ふうん。じゃあその妄想に殺される山鹿さんは何なの」

次子はそういうと山鹿に飛び掛った。文字通り、長さにして3メートルほどを跳躍して。
山鹿は半身を引いてそれを避けると、次子のうなじに鉄パイプを振り下ろした。
次子の体が地面に叩きつけられる。

「妹萌を舐めるなよ。日ごろから研鑽を積んでいる」

もちろん、ある日偶然に出会った妹を暴漢から救うためだ。
山鹿は次子から距離をとった。深追いはしないほうがいいと判断したようだ。
案の定、次子はほとんどダメージを感じさせない様子ですくと立ち上がった。
飛び掛ったのは軽率だったと考えたのだろう。今度は、ゆっくりと近づいて来る。
次子が足を地面から離した瞬間、山鹿は踏み込んで次子ののどを狙って突きを放った。
次子はそれを首をひねってかわすと、引かれるまえに鉄パイプを右手で握り締めた。

「くそっ」

引き抜こうとするが、まったく動かない。

「だめだよ、山鹿さん。女の子をこんなもので叩いちゃ」

「じゃあ、これならいいのか?」

山鹿はそういうと自分から鉄パイプを離した。バランスを崩した次子の顔面に、ひじうちを食らわす。
ひじうちを食らってのけぞった次子は、しかし倒れない。山鹿の腕を掴んで体勢を立て直した。

「だめに決まってるでしょ」

次子はそういうと、掴んだ腕を振り回して山鹿の体を放り投げた。
5メートルは飛ばされたか、受身も取れないまま山鹿は地面に叩きつけられた。

「ごっ、はっ」

背中を強打した山鹿の息が一瞬止まった。次子は山鹿から奪った鉄パイプを投げ捨てると
山鹿の体に近づいて行く。
山鹿はまだ地面に転がったままだ。

「おい!次子!!」

背後から声が聞こえて、次子は歩みを止めた。振り返ると、太郎がナイフを両手で構えていた。

「山鹿に近づくな。お前が欲しいのは俺なんだろう。だったらこっちに来い」

次子はそれを見て悲しそうな顔をした。そして方向を変えて、今度は太郎の方に向かって歩いてきた。
ひとまず山鹿から注意を反らせたことにほっとする。
太郎は次子の歩みに合わせて後退しながら、例の場所へと誘導しようとする。
歩きながら、次子がいう。

「それでどうするの?次子を刺すの?お兄ちゃん、わたしのことそんなに嫌いなの?あれは嘘なの?
わたしが妹でよかったっていってくれたのは」

それはかつて太郎と一子と次子の3人でピクニックに行ったときの言葉だ。
よい天気で、池のそばで、きれいな公園で、本当にいい日だった。
確かに、感傷に流されていたのかもしれない。しかし、あのときは本気でそう思っていたのだ。
次子に感謝していたのだ。
このまま3人でずっと兄妹の関係でいられたらどんなにか楽しいだろうと、そう思っていたのだ。
太郎はそのかつてと今とのあまりのギャップに、胸をかきむしりたくなるような思いに駆られた。
だが、もうあの日は帰ってこない。どこからおかしくなってしまったのだろう。
自分が次子を抱いた夜からだろうか。
いや、あの日以前にすでに次子は伊勢を殺していたのだ。それなら、はじめからすべては
狂っていたのだろうか。あの日々も、結局はすべてが幻にすぎなかったのだろうか。

「かわいそう、お兄ちゃん」

次子はそういうと一気に太郎の懐に飛び込み、ナイフを持っている腕を取った。
あまりの早業に太郎はまったく反応できない。

「こんなの持ってたら危ないよ。没収だね」

その体からはとても信じられないほどの握力で、太郎の腕を締め上げる。
その痛みに、太郎はナイフを離してしまった。
すると、さきほど山鹿に対してしたように、次子は太郎の体を地面に向かって放った。
地面に叩きつけられる。

「そこでじっとしててね、お兄ちゃん」

そういった次子の体が、大きな音を立てながら横に向かって弾き飛ばされた。
ぶつかってきたのは、山鹿のバイクだった。
バイクは次子の体を巻き込みながら、地面を滑ってゆき、やがてとまった。
バイクの下敷きになった次子は、それを蹴り飛ばした。ふらつきながら、立ち上がろうとしている。
衝突の寸前、バイクから飛び降りて地面に転がっていた山鹿が体勢を立て直し、突進した。
次子の腰にタックルをして、地面に引き倒した。

「このお!」

次子が山鹿に対して初めて怒りの表情をあらわにして、口を大きく開けて叫んだ。
山鹿はその口に持っていた例の「花火」を突っ込む。起爆装置のヒモを引き抜きながら
手を離したとたん、くぐもった音をたてて次子の口の中でそれが爆発した。
完全に直っていた次子の口の中が、ふたたびずたずたにされた。舌も、歯も吹き飛んでいる。
真っ黒い穴だけが、顔の下にぽっかりと開いていた。
山鹿はそれを確認することもなく、急いで次子の体から離れようとした。
次子の体の真下には、太郎によって掘り起こされた爆弾があった。後はそこから離れて、
一子に合図を送るだけだ。
だが、立ち上がって離れようとする山鹿の足が止められて、山鹿は転倒した。
倒れたままの次子に足首を掴まれていた。
もはや力の加減をする余裕もないのか、全力で掴まれた山鹿の足首がごきりと嫌な音をねじられた。
山鹿が悲鳴を上げた。

「くそっ!直ったばかりなんだぞ!」

「山鹿!」

太郎が駆け寄ろうとすると、山鹿が叫んだ。

「来るな!!」

太郎は思わず足を止めてしまった。山鹿の気迫に押されたのだ。

「一子ちゃんと仲良くやれよ」

山鹿はそういうと、足の痛みに堪えながら携帯を取り出した。

「押せ!」

一子は建物の中に隠れていた。決して次子の目に触れないように。
もし見つかってしまえば、次子は一子を問答無用で狙いに来るだろうと思っていたからだ。
一子の方から太郎たちの様子を見ることはできなかった。
ただ、山鹿からの合図だけを待っていたのだ。
合図があれば、躊躇せずスイッチを押せとだけ指示されていた。
そして一子は、その指示に素直に従った。それをいった山鹿が今どういう状況にあるのかも知らずに。
知っていれば、もちろん躊躇しただろう。

廃墟に爆音が響いた。

28 『それから』

日常が戻った。太郎は学校へ行く。山鹿のいない学校に。
ひさしぶりに顔を出した妹研の活動はほとんど休止していた。
所詮連中は烏合の衆なのだ。山鹿という強力な統制者がなければ、
霧散してしまうのも無理はなかった。
かつてのような狂気じみた熱気はすでになく、ときたま部員がぽつりぽつりと訪れては
時間をつぶしてゆくだけだった。
今回の派手な事件は、どういうわけか警察沙汰にならずにすんでいた。
それはきっと、山鹿のいっていた権力とコネの力によるものだったのだろう。
しかし人の口に戸は立てられないらしい。どこからか漏れ出した噂が学校中に広まっていた。
山鹿は、手製の爆弾を誤って爆発させたらしいと。
学校の多くの連中が間抜けなやつだとせせら笑った。生徒会は妹研の取り潰しを検討し始めた。
山鹿は目立つ分、敵もそれなりにいるのだった。
太郎はそうした話を耳に入れるたびに悔しい思いをするのだが、
本当のことを話すわけにもいかなかった。
せいぜい、生徒会に妹研の存続を掛け合うことぐらいしかできなかった。
ここに山鹿がいてくれれば。
太郎はここのところいつもそう思いながら、学校を出るのだ。

「よお」

病室のドアを開けると、ギブスで固められ包帯でぐるぐる巻きにされた右手を挙げて山鹿がいった。
右手だけではない。左手も、両足も、おまけに個々からは見えないが胸と腹も包帯で真っ白だった。
つまり、頭以外はほぼ全身が包帯で覆われていて、それこそミイラのようだった。
ベッドの横では、一子が椅子に腰掛けてりんごの皮をむいていた。

「はい、山鹿さん」

両手の使えない山鹿のために、一子が小さく切り分けたりんごを口に放り込んでやる。
山鹿はそれを食べると、太郎の方をにやりと笑った。

「うらやましいか?」

「馬鹿」

山鹿は死ななかった。山鹿はそれを覚悟していたらしいのだが。
いや、煙の中から山鹿を見つけ出し、その息を確認するまで太郎も死んだと思っていた。
爆弾が山鹿の想定していた通りの性能を発揮していたとすれば、死は免れなかったらしい。
しかし、実際にはその爆発力は想定を下回っていた。そのおかげで命を拾ったくせに、
山鹿は悔しがっていた。
おまけに爆弾は次子の腹の下にあってそれが遮蔽物となり、
山鹿はそこから足一本分とはいえ離れていた。
それがミイラ男になりながらも命を取り留めた理由だという。
とはいえ、それでも山鹿以外の人間であれば死んでいたのではないかと太郎は思わずにはいられない。
山鹿は次子を非常識のかたまりだと評したが、山鹿にしても充分非常識な存在であることには
違いないのだ。

その次子の姿は、爆心地のどこにもなかった。肉片すら見つからなかった。
山鹿は命を失って消滅したのだろうといった。彼女の肉体は、いわば仮初のものなのだから。
それこそ、鬼の作った人造人間がそうなったように溶けてしまったのだろう。
一子はそれを聞くと、安堵のあまり泣き出してしまった。
だが、太郎は一子のように素直に喜べるわけではなかった。
次子に対する同情の気持ちも消えなかった。
確かに次子のしたことは許されることではない。伊勢を殺し、そして一子と山鹿を殺しかけた。
その限りで、太郎にとっても次子は憎むべき相手のはずだ。伊勢のことを考えれば、
簡単に許してしまえるはずがない。
だが次子のその暴走の原因が、太郎であったことも間違いないのだ。
たとえそれが、次子の太郎への歪んだ愛情の故だったとしても。
太郎は考える。ひょっとすると、自分のやりようによってはこんな結末を迎えずに済ますことが
できたのではないかと。
次子が暴走しないように、うまく付き合うこともできたのではないかと。
分からない。
ただ、全ては最初から狂っていたのだと結論付けてしまうのは、あまりに悲しい気がした。
それは次子との思い出を全て否定してしまうことだ。
これは、あまりに感傷的な考えなのだろうか。次子にも、そして自分にも甘すぎる考えなのだろうか。

「ちょっと、あんた。お見舞いに来て辛気臭い顔しないでよ。縁起悪い」

一子が憎まれ口をきいた。太郎は苦笑する。
一子が太郎を呼ぶときは相変わらず、「兄貴」か「あんた」だ。相変わらずぞんざいだった。
だが、今はそれがありがたい。
次子の最後の日からしばらく、一子は太郎にひとことも口をきいてくれなかった。
太郎が一子にしたことを思えば、それも無理はなかった。
それでも山鹿の病室で顔を合わせているうちに、昔の調子を取り戻してきた。
ぞんざいであっても、冷淡ではない。どこか照れ隠しのようなものさえ感じられる。
一子とは徐々にうまくやっていければいい。一生、兄と妹をやっていくのだから。
例えば、一子がお嫁にいったとしても。

一子の結婚相手が山鹿であればいいのにと、太郎はふと思った。
一子は毎日山鹿の病室に見舞いに来ていた。両手の使えない山鹿のために、
こうしてりんごを切ってやったり、書見台に置かれた本のページをめくってやったりしていた。
一子はそれを、「命の恩人に対する恩返し」などといっていたが、
太郎は山鹿に気があるのだろうと思っていた。
そうでなければ、これほどかいがいしく世話をしてやることはないだろう。
わざわざ、家政婦がやるというのを断ってまで。
一連のことで、一子が山鹿にほれる理由は十分にあるような気がした。
だが、山鹿はどうなのだろう。
ありがたく世話を受けているように見えるが、それで鼻の下を伸ばしている様子もなかった。
もちろん、自分の妹以外にでれでれする山鹿など想像することすら難しいのだが。
それでも時折、山鹿が一子のかいがいしさに困った表情を見せるのが、太郎には面白かった。
あの山鹿が他人の押しに負けるとは。
もしかすると、信条が揺らいでいるのかもしれない。それなら歓迎するのだが。
太郎はもちろん一子を応援したい。それは一子のためでもあるし、太郎のためでもあり、
きっと山鹿のためでもある。
援軍を送ることにした。

「俺、屋上で空気吸ってくる」

「ふーん、もどって来なくていいからね」

一子の憎まれ口に、笑いながら返してやる。

「はいはい。たっぷり二人っきりの時間をすごしてくれ」

一子が顔を真っ赤にするのを尻目に、太郎は病室を出た。

屋上には誰もいなかった。ただ、大量の白いシーツが風にはためいているだけだ。
太郎はフェンスに背をもたれさせて、空を仰いだ。高い。
雲ひとつない、見事な秋晴れだった。
それこそ、バスケットひとつもってピクニックにでも行きたくなるほどに。

「お兄ちゃん」

聞くはずのない声を聞いて、太郎は顔を上げた。
見るはずのない姿があった。次子だった。ただ、服を着ておらず、白い裸体をさらしていた。
さえぎるもののない陽光の下で、まるで輝いているようだった。
にこやかに微笑んでいる。
そんな場合ではないはずなのに、きれいだと、太郎は思ってしまった。

「お前、どうして」

たっぷり時間をおいて、それが幻聴でも幻覚でもないことを確かめて、
太郎はやっとのことでそれだけをいった。

「どうして生きているのかって?それとも、どうしてここに来たのかって?」

次子は笑みを深くしていった。

「山鹿さんもいってたでしょ?わたしは妄想の産物なんだよ。幻なんだよ。この体は仮初のものなの。
どんなことしたって、死ぬことはないんだよ。
まあ、あれでばらばらにされちゃったから直すまでずいぶん時間がかかっちゃったけど。
山鹿さんもひどいことするよねー」

太郎はそれを聞いて、次子を消すことができるかもしれないひとつの方法を思いつく。
誰だってためらいたくなるような方法なのだが。

「それからね、どうしてここに来たのかっていうと」

いつの間にか間近に来ていた次子が、太郎の顔を覗き込んだ。

「分かってるでしょ。もちろん、一子ちゃんと山鹿さんを消して、
お兄ちゃんをわたしのものにするため」

次子はそういって、太郎の鼻の先をちょんと人差し指でつついた。

「どうしてもか?」

「うん」

「俺が頼んでもだめか?」

「うん。わたし分かっちゃったから。お兄ちゃん、結局わたしよりあの二人の方が大事なんだよ。
そんなのだめ」

「おい、山鹿も入ってるのか?」

「うん。そうだよ。っていうか、あの人が一番邪魔かな」

「そうか」

太郎はそういうと、ポケットからバタフライナイフを取り出した。
山鹿から手渡された、あのナイフだ。
次子はそれを見て、あの夜と同じように悲しそうな顔をした。

「わたし、そんなもので刺されたって何ともないよ。でも、お兄ちゃんにそんなことされるのはいや」

「刺すのはお前じゃなくってだな」

躊躇する。だが、覚悟を決めて、目を瞑り、息を吸って。

躊躇する。だが、覚悟を決めて、目を瞑り、息を吸って。
太郎は自分の腹を刺した。
まるでへそからやけ火箸を突っ込まれたような感覚に、
太郎はうめき声をあげてうずくまることしかできない。
痛い、痛い、痛い。
とんでもない痛さだ。ここからさらに刃を動かすことなんてできそうにない。
時代劇でやってる切腹なんて嘘だ、無茶だ。
次子は太郎のその狂気じみた行為を、目を丸くしてみていた。
だが、屋上のコンクリートに滴り流れ出る血液を見て、正気に返った。

「ああああああああああ!お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

しゃがみこんだ次子が太郎の体を揺らした。そのたびに激痛が走る。

「いっ、だっ、あっ」

太郎は声にならない叫びを上げた。それに気づいた次子が揺らすのを止める。

「ああっ!ごめんなさい、ごめんなさい」

次子は今度は太郎の背中を覆うように抱きしめた。

「どうして!何でこんなこと、次子分かんない」

太郎にだって、確証があったわけではなかった。むしろ、賭けのようなものだ。
次子が幻なら、その幻を見ている誰かが死んでしまえばどうなるのか。
そして、一子そのものの姿をしているこの幻の最終的な幻視者は誰なのか。そう考えただけだった。
だが、賭けには勝ったようだ。太郎を抱えている次子の手の先が透き通り始めた。

「あ、あれ」

次子が自分の目の前でその半透明になった手の先をふった。
そうして、この自分の状況と、太郎のしたことの間の因果関係に気づいた。

「どうして?なんで?死んでもいいくらい、次子のことが嫌いなの?」

太郎はそうじゃないといいたかったが、声が出ない。
確かに、次子をこのままにしては置けないという気持ちはある。
山鹿は、一子を守るために命を張った。自分も、一子と山鹿を守るために命を張らなければ、
友達として対等ではいられないという気持ちがあった。
だがそれだけではない。
次子を不憫だという気持ちもあった。
山鹿は次子を、幻にすぎないといった。確かにそうなのだろう。
それでも、その一生は、感情は、喜びは、憎悪は、本当のものだとしか思えなかった。
そして、その中心には常に自分がいたのだ。
それはなりゆきで押し付けられたものかもしれない。
無理やり参加させられた儀式で、偶然当たってしまったのだ。
だが、次子にとっては、それが唯一のものだった。
そして何より、自分は次子の想いに、たとえ中途半端であったとしても答えたのだ。
それが愛といわれるものなのかどうなのか分からない。
ただ、次子を一人で逝かせるのはかわいそうだ。それだけだった。
いや、つまるところはただの無理心中だな、太郎はそう思った。
もっと、いいやり方があったのかもしれないのに。

「すまない」

次子と、それから山鹿と一子にそういって、太郎はずるずると体勢を崩した。
自然と、次子に膝枕される格好になっていた。
朦朧とする意識の中で次子の顔を見上げた。次この両の目からはぽろぽろと涙がこぼれていた。
次子の泣き顔を見たのは初めてかもしれない、太郎はそう思った。
太郎の記憶では、次子はいつも笑顔でいた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

次子はぼろぼろと涙をこぼしながら、謝っていた。
これが笑顔だったらいいのに、と太郎は思った。
これが笑顔なら、あの日、ピクニックに出かけた日とまったく同じだったのに。
下は固いコンクリートだけれど、空は青いし、風も気持ちいい。
太郎はそう思いながら、目を閉じた。意識はもうほとんど残っていない。
ただ最後に、唇に何か温かいものが触れたのを感じただけだ。

 

 

 

 

 

 

「愛の奇跡かもね」

手術を終えて、どういうわけか命を取り留めて、一子に泣きながらさんざ罵倒された後、
太郎は次子がそんなことをいっていたのを思い出した。
もう次子はいない。今度こそ消えてしまった。
だとすれば、次子は自分の命と引き換えに、太郎を救ったのか。
そんなことが可能なのだろうか。山鹿は何もいわない。ただ、首をかしげるだけだ。
あるいは、もしかすると、次子は消えてなどいないのではないか。
ただ自分の居場所がないことを悟って、絶望して、それでどこかへ行ってしまったのではないか。
病室の窓からこんな風に青い空が見える日には、ぼんやりとそんなことを考える。
結局、太郎は次子にたっぷりと未練を残しているのだ。毎晩のように次子の夢を見る。
それが愛なのかどうなのか、太郎には良くわからない。
ただひとついえるのは、次子にとってはあれこそが彼女なりの唯一の愛の形だったということだ。
それが他人から見てどれだけ狂ったものであっても。

本当に、こんな良い天気の日には、どこからかあの声が聞こえてくるような気がしてならないのだ。

「お兄ちゃん」と。

2006/12/12 完結

 

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