驚愕に顔をゆがめたのは、今度は一子のほうだった。
それをおもしろそうな顔で見下ろしていた次子が、ゆらりと一歩一子に近づいた。
「ひっ!」
腰を床につけたまま、一子はあとずさった。
ここは玄関で、背後のドアは開いたままだ。だが、立ち上がって逃げ出すことができない。
次子に背中を見せるのが怖い。
次子はしゃがみこむと、一子の目の前にぐしゃぐしゃに潰れた顔を近づけた。
「驚いた?こんなものでいくら叩いてもムダだよ。わたしは死なないし、すぐ直っちゃうから」
そういう次子の口の中は、すでに直りかけていた。さもなければしゃべることができないほど、
ずたずたにしてやったはずなのだ。
「だからね、わたし一子ちゃんのしたことには別に怒ってないんだ。そりゃ痛かったけどね。
怒ってるのはそのことじゃないんだ」
次子は一子の胸倉を掴むと、自分の顔をいっそう一子に近づけた。
千切れかけた鼻が、一子の頬にへばりついた。
「気付いたんだ、わたし。やっぱり一子ちゃんは邪魔だなって。
お兄ちゃん、わたしは妹じゃないなんていうんだよ。おかしいよね」
そういうと、次子は一子の胸倉を掴んだまま立ち上がった。
一子もまた強制的に立ち上がる格好になった。
「だから、消えちゃってね、一子ちゃん。でも安心して。すぐには死なないように気をつけるから」
次子は一子の首をつかんで、ゆっくりと力を入れ始めた。
一子はそれを感じ、逃げ出そうと腕を掴んで離れようとするが同じくびくともしなかった。
かつてと同じだ。
苦しい。涙がこぼれる。わずかに開いている気道から、
すこしでも空気を入れようと必死で呼吸しようとする。
ひゅうひゅうとのどから風の音が聞こえる。呼吸に必死で、それ以上声を上げることもできない。
意識が遠のいてくる。まるで霞がかかったように頭がぼんやりしてきた。
そんな頭の片隅でいろいろな過去のことが思い出されてくる。
普通は走馬灯のようだというが、一子はチャンネルが次々に変わるテレビのようだと思った。
多くは太郎との思い出だった。なんのかんのといって、最後に思い出されるのは太郎のことなのか。
一子は自分が思いのほかブラコンであったことに驚き、そんな自分にあきれた。
太郎に対してそっけなく接していたのも、結局は意識していたことの裏返しだったのか。
やがて諦めて意識を手放そうとしたそのとき、首を絞めていた次子の手が離れた。
「一子!」
そのまま崩れ落ちようとする一子の体が受け止められる。
「おいっ!しっかりしてくれ!」
体を抱えられた一子が、うっすらと目を開けた。太郎だった。
「あに、き?」
太郎は一子の声を聞いて、深い安堵のため息を漏らした。
「大丈夫みたいだな」
太郎の背後から山鹿が覗き込んでいった。さきほど発砲したばかりの拳銃を持ちながら。
「お前、どっからそんなもん」
「親父のだ。念のために持ってきた。まあ、あまり役には立ちそうにないがな」
山鹿はそういうと、床に転がっていた次子の方を見るように促した。
ところどころ穴の開いた服を着た次子の顔は、いくらか直りかけているとはいえ、
まだ正視に堪えるものではなかった。
太郎はそれを見て顔をしかめた。
そして頭にはたった今銃弾によってうがたれた、小さな、しかし深い穴があった。
次子が一子から手を離したのは、頭に銃弾を受けた衝撃で突き飛ばされたためだったのだ。
だが、次子はまるで何事もなかったようむくりと上半身を起こした。
太郎は短く、声のない悲鳴を上げた。
「どうしたの、お兄ちゃん。顔が青いよ」
一子がふらりと立ち上がった。山鹿がそれを見て、再び引き金を引いた。
まるでモデルガンのような、軽い銃声が響いた。
やはり再び床に転がった次子が、また立ち上がった。それを見た山鹿が今度は二回引き金を引いた。
次子はさきほどよりも遠くに転がったが、やはりすぐさま立ち上がった。
「だめだよ、お兄ちゃん。一子ちゃんなんかに構っちゃ。妹はわたしなんだから。
わたしがいるから、そんな子もういらないよね」
次子はそういいながら、ふらふらとした足取りで太郎と一子に近づいてきた。
それなりのダメージは残っているようだった。
その眼中には太郎と一子しかいないのか、山鹿に目を向けることはない。
「ねえ、お兄ちゃん。いってやって、一子ちゃんに。自分の妹は次子しかいないって、
一子ちゃんなんかもういらないんだって」
太郎はさっきから目を瞑ったままの一子の体を抱きしめた。
「俺の妹は一子だ。お前じゃない」
太郎はからからに乾いた口で、それだけをいった。自分の次子への感情がどうであろうと、
それだけはいっておかなければならなかった。
次子はそれを聞くと、まるで能面のような無表情になった。
そこで初めて、太郎の背後に立つ山鹿に目を向ける。
「お兄ちゃんに何かいったの?」
「ああ、何もかもな」
次子は再び太郎に目を落とした。
「信じるの?山鹿さんのいったこと」
「ああ」
次子は今度は自分の足元に目を落とした。それから顔をあげて、にっこりと微笑みながらいった。
「じゃあ、しょうがないね。山鹿さんにも消えてもらうから。そのあとでゆっくりお話しようね、
お兄ちゃん。邪魔者のいないところで。ずっと二人きりになれるところに行こうね」
次子が足を一歩踏み出すと、太郎は一子を抱えたまま立ち上がり、後ろに引いた。
山鹿が二人を背中に隠すように一歩前に出て、次子と向かい合った。拳銃を向ける。
「どうするの、そんなもので。分かってるんでしょ、役に立たないって」
「それもそうだな」
山鹿はそういうと拳銃を廊下に向けて放り投げた。さすがに予想外のことだったのか、
次子は思わずそれを目で追ってしまった。
次子の目が離れると、山鹿は上着のポケットから小さなペットボトルを取り出した。
鉄粉のようなものが詰まっている。
山鹿はそれを自分の背後にいる太郎に見せると、次子に向かって放り投げた。
太郎は山鹿のやろうとしていることを察し、自分の目を瞑り、手で一子の目を押さえた。
昔、似たようなものを山鹿と一緒に作って、ひどい目にあったことを覚えていた。
理科室からマグネシウムを盗んでは、危険な花火遊びをしていたころだ。
ばしゅっと音がして、閉じた瞳の向こう側が明るくなった。
「あああーっ」
目を開けると、次子が自分の両目を押さえてのた打ち回っていた。
「おいっ、逃げるぞ!」
太郎はそれを見て思わず駆け寄ってやりたい衝動に駆られるが、
山鹿に襟を引っ張られて正気に戻った。
一子を抱えたまま山鹿の後を追う。庭にはエンジンをかけたままのバイクが止めてある。
その後ろに、一子の体を山鹿と挟み込むような形でまたがるとほぼ同時に、バイクが走り出した。
「一子ちゃん落とすなよ!」
ヘルメットをつけないままの山鹿がそう叫んだ。闇夜の中を3人乗りのバイクが走る。
「一子?大丈夫か?」
「うん・・・」
山鹿の背中に押し付けられている一子は、くぐもった声でそういった。
「すまなかった」
「うん・・・」
めまぐるしい状況の変化に対応できていないのか、一子はぼんやりとそういうだけだった。
そんな一子の背中を抱きしめてやる。小さい肩だった。
「おい、簸川!後ろ見てみろ、ただしびびって落ちるなよ!」
山鹿の怒鳴り声に、太郎は後ろを振り返った。何もない。いや、一瞬だけ街頭の下に白い影が見え、
それはすぐに闇の中に消えた。
それからまた街頭の下に現れては、闇の中に消える。次子だった。跳ぶようなフォームで走っている。
太郎はあまりのことに目を疑った。バイクは60キロは出ている。
次子はそれに追いつこうとしているのだ。
ぞっとした。
「おい!山鹿!来てる来てる!」
「とばすぞ。しっかりつかまってろ」
山鹿はそういうと、さらに速度を上げた。次子の姿は確認できなくなる。
振り切ったようだった。だが、いつまた追いすがってくるのか、太郎は気が気でなかった。
「どこに逃げる気だ!」
「逃げない!」
山鹿はちらりと太郎の方を振り返っていった。
「今夜決着をつける!下手に逃げをうてば犠牲者が出るかもしれない!警察ではダメだ!
俺たちで始末する!」
「始末って」
「もう引き返せないぞ、簸川!あれのことはもう諦めろ!つかまればきっとお前もただじゃすまない!
俺たちは一蓮托生だ!」
そうだ、確かにもう引き返すことはできないだろう。あの次子の様子を見てしまえば
そうとしか思えなかった。
それに太郎は、次子に対しておびえを抱いてしまっていた。もはやこれまでの関係に戻ることは
できないだろう。
そんな太郎を次子がどうするのか分からない。一生監禁するぐらいのことはするかもしれない。
バイクはやがて町外れに出ると、ある廃墟の敷地の中に入った。放棄された病院。
このあたりでは肝試しの名所だった。
山鹿はバイクを止めると、ライトをつけたままバイクから降りた。太郎もそれを追って、
一子と共にバイクから降りた。
一子は少しぐったりとしているが、さきほどよりは意識ははっきりとしているようだった。
太郎の正面に立った。
ぱあんっと高い音が響いた。一子が太郎の頬をひっぱたいたのだった。
「あんたなんか、あんたなんか」
それだけいうと一子はその場で泣き崩れた。これまで叩かれた中で、一番痛かった。
太郎は叩かれた頬を押さえることもなく、その場に立ち尽くして一子を見下ろしていた。
かけるべき言葉も見つからない。
そんな二人に、山鹿が水を差した。
「二人の話は後にしよう。次子が来るぞ」
一子はそれを聞いて、先ほどのことを思い出したのか体をびくりと振るわせた。
「いったんは撒いたが、相手は非常識の塊だからな。たぶん、鼻もきくだろう」
「でも、どうするんだ」
次子の不死身ぶりは、さきほど見たとおりだ。拳銃で撃っても、バールで穴だらけにされても
死なない次子をどう「始末」するというのか。
「持ってきた花火はあれだけじゃない。もっと派手なのがある」
山鹿はそういって、バイクのキャリーバッグから菓子折りくらいの大きさの箱を取り出した。
ずいぶんと重そうだ。
「お前と花火を作るのは止めてしまったが、あれからもこつこつ研究を続けててな。
護身用に爆弾を作っていた。計算ではかなりの威力があるはずだ。人一人くらいは吹っ飛ばせる」
「ばくだん?」
「いずれ現れるであろう妹の身を守るためだ」
山鹿はめがねを抑えながらいった。
太郎は空いた口がふさがらない。それはさっきまで憤っていた一子も同じだった。
すっかり、毒気を抜かれてしまったようだった。そんな二人に構わず、山鹿は話を続けた。
「こいつを地面に埋めて地雷代わりに使う。遠隔操作で起爆できる。これがスイッチだ」
山鹿はバッグの中から、今度はラジコンのコントローラーを取り出した。
「次子が上に乗ったらスイッチを入れてどかん、というわけだ。
問題は、そこに次子を誘導しなければならんということだな。それは俺と簸川でやる。いいな」
太郎は山鹿に向かって肯いた。いい加減、覚悟を決めるときだ。
「スイッチは一子ちゃんに入れてもらう。どこかに隠れていて、こっちで合図をしたら
すぐに入れてくれ」
「へっ!?」
一子はまさか自分にそんな役割が振られるとは思っていなかったのか、素っ頓狂な声を上げた。
「大丈夫、簡単なことだ。合図を聞いて、スイッチを入れるだけ。
一子ちゃんも自分の手で決着をつけたいと思わないか?」
一子はそういわれると、表情を引き締めて肯いた。そして、コントローラーを受け取る。
山鹿はスイッチの入れ方を一子に説明すると、建物の影に隠れるようにいった。
一子はその支持に従う。
「じゃ、俺たちはこいつを埋めるとするか」
太郎と山鹿は、バイクに積んであった工具を使って穴を掘ると、そこに爆弾を埋めた。
廃墟の門から爆弾の埋め場所を結んだ延長線上で次子を待つことにする。
まっすぐこちらに向かってくれば、きっと爆弾の上を通過するだろう。
山鹿は落ちていた鉄パイプを拾った。それを何度か素振りして使い勝手を確かめる。
牽制用の武器にするつもりのようだ。
「これ、持ってろ」
山鹿はポケットから出したものを太郎に渡した。銀色のバタフライナイフだった。
「それは隠し持っておけ。いざというとき以外使うな。
お前はあまり露骨に敵意を見せないほうがいい。どうしようもなくなったら降参しろ」
太郎はそれをじっと見ながらいった。
「どうしてここまでしてくれるんだ?」
「当たり前だろ。あれは俺が作ったんだ。責任は俺にある。お前はただ巻き込まれただけの被害者だ。
伊勢が死んだのも俺のせいなんだからな。後でたっぷり俺を責めろ。お前と一子ちゃんには
その資格がある」
「それだけか?」
「他に何がある」
「一子のことが好きなのか?」
「知らなかったのか?俺は世界中の妹の味方だ。今は次子以外のな」
「そういう意味じゃない」
「なあ、簸川。昔、一緒に花火作って遊んだこと覚えてるか?」
山鹿はいきなり話題を変えた。
「忘れようとしても忘れられるか。お前のせいでむちゃくちゃ怒られただろうが。
一子はやけどさせちまうし」
「なんであの後も俺と一緒に遊んでくれたんだ?もう俺と遊ぶなって、ご両親からも
ずいぶんいわれただろう?お前だって、一子ちゃんをやけどさせたって随分気に病んでた」
「・・・」
「俺がお前を助けるのも多分それと同じ理由だ」
「お前、結構恥ずかしい奴だな」
「モラリストぶっておいて、結局妹代わりの女と乳繰り合ってたお前の方が恥ずかしいぞ」
「うるせえ」
「やっと妹研のメンバーらしくなってくれて俺はうれしい」
「お前らと一緒にすんな」
二人の戯言もそこまでだった。
「追いついたよ、お兄ちゃん。鬼ごっこはもうおしまい?」 |