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ミスタープレイボーイ



1

大事な用があるという彼女の連絡を受けて、喫茶店のいすに座ってから十分がたった。
彼女は、うつむいている。
辛抱強くまっていると、彼女がその年のわりに幼く見える顔を上げた。
やがて口を開く。

いやな予感がする。
すごく。
なんだか聞きたくないことを聞きそうな気がする。
夜な夜な動き出しては校庭を測量する、間宮林蔵の銅像の話を聞いたときと似ている。
そのせいで、高校時代は夜の校庭に近づくことさえできなかった。

「妊娠したかもしれません・・・、わたし」

間宮林蔵なんて目じゃない。

頭がよくて、スポーツができて、何より顔がいい。
これでもてなきゃ嘘だろう。
つまり、そういうわけで、ボクはもてる。

唯一の欠点は、名前くらい。
すなわち、「長嶋茂雄」。
今は亡き(生きてるんなら殺してやりたいが)糞親父につけられてしまったらしい。
数十年前ならいざしらず、今となっては恥ずかしい名前になってしまった。
もちろん、顔はまったく似ていない。(どちらかといえば一茂似か?)
名前ばかりはしょうがない。
「某ミスターのイメージをひきずるので」などというふざけた理由では改名は認められないだろう。

顔のよさも生まれつきだが、これは母さん譲りだ。
頭だって、運動神経のよさも、すべて母さんからもらった。(そうに違いない)
親父からもらったものでいいものなんて一つもなかった。
いいものはすべて母さんからもらった。
やがて思春期に入ると、女の子にちやほやされだした。
母さんを亡くしたばかりだった僕は、それにずいぶん癒された。
女の子と遊ぶことが楽しいことを知って、もてるための努力を始めた。
満遍なくパラメーターをあげた。

高校に入ってから、努力の成果が一気に花開いた。
きっかけは入学してすぐに、学校で一番美人とうわさの先輩に告白されたことか。
それに自信をつけて、とにかく女の子と遊んだ。
その経験を生かして、さらに多くの女の子と遊んだ。
複数の女の子と同時につきあうなんて、当たり前だった。
といって、ひたすら爛れた高校生活を送ってたというわけじゃない。
自由になる時間は、すべて勉強とスポーツとバイトにつぎ込んだ。

名前以外の僕の欠点はお金がないことだった。
ぶっちゃけ貧乏だったのだ。
口にするのも忌々しいあの糞親父のせいだ。
奴は、僕が小さい頃、僕と母さんを捨てて蒸発した。
おまけに、少なくない借金を残して。
母さんは、無理をおしてはたらいて、やがて死んだ。
それからの保護者は、母方の祖父だった。

こんな境遇を女の子に知られないために、ずいぶん苦労した。
同情だけはされたくなかった。
苦労したり、努力したりする姿を他人に見せるのはいやだった。
デート代は、バイトから捻出した。
バイト先の女の子とも、もちろん遊んだ。

貧乏はもうごめんだった。
社会に出てから、楽しく暮らすためにはお金と地位が必要だ。
もちろん、女の子にもてるためにも。
妄想じみた欲望もあった。
金の無心にきた汚いなりの親父を蹴っ飛ばして追い返してやるという。
少なくとも、幸せになるために親父なんか必要じゃなかったということを証明しなければ。
そういうわけで、必死に勉強した。
お金と地位を手に入れるためには、医者になるのがいいと勝手に思っていたので、医学部に進んだ。
お金はないので、国立大学。

頭がよくて、スポーツができて、何より顔がいい。おまけに医大生。
これでもてなきゃ嘘だろう。

ところで、健やかなプレイボーイライフの敵は修羅場だ。
未熟だったころには、何度も遭遇した。
いくつかの失敗を経て、高度な密会テクと、ロマンチックな別れ方を学んだ。
やがて修羅場らしい修羅場に出会うこともなくなった。
僕は胸を張って主張する。
僕と遊んだ女の子たちはみんな楽しんだんだと。
遊んでいるときはもちろん、別れすら美しい思い出にして。
彼女たちは、甘酸っぱい思いとともに、別れの時を思い出す。
それが、プレイボーイとしての僕の誇りだ。
修羅場はそういったものをすべてぶち壊す。

ノーモア修羅場。ノーモア包丁。

修羅場を招かないために必要なこと。
それは、女の子に隙を与えないことだ。。
そして、そのために大事なのが相手に対して「負い目」を感じないことだ。
負い目は、相手に弱みを見せ、隙を与え、攻撃の機会を与えることになる。
先ほどの主張は、負い目を負わないための、一種の自己暗示でもあるのだ。
僕も楽しんだが、女の子も楽しんだ。
そう考えていなければやっていけない。

負い目はプレイボーイを殺す。

彼女の言葉を聞いて、これだけのことを考えた。

益体もない内省から回復してやっと言葉を返す。

「え・・・」

「妊娠したかもしれません」

「え・・・」

いけない。
体制を立て直さなければ。
脳細胞に血液を送り、凍った心を溶かしだす。
心は折れていない。
大丈夫だ。
まだ戦える。

しかし、こんなときに返すべき最善の言葉ってなんだろう。
避妊には細心の注意を払っていたつもりだった僕は、こんなときの用意なんてまったくない。
最善ではないにしろ、少なくとも当たり障りのない言葉を返さなければ。
「名前はどうする?」は早すぎる。「男の子?女の子?」も早い。
「何週目?」も早い。「おめでとうございます」これは的外れだ。
「本当に僕の子?」最悪だ。
そんなことを聞けば、修羅場まっしぐら。
初めては僕だったのは確認している。
最近会ってはいなかったが、この短い間に他の男と寝るような女ではないことはよく知っている。
ならば・・・。

「病院にはいったの?」

いいぞ、これだ!
けれど、いざ口にできたのは。

「びょっ、びょびょびょびょびょーいん」

あまりの情けなさに涙が出そうになった。

 

彼女は、少し顔をうつむかせて言った。

「病院はまだですけど・・・」

それを聞いて多少落ち着く。
つまり、まだ分からないってことだ。
勘違いかもしれない。
想像妊娠ということだってある。
ただの狂言ということだって。
避妊はきっちりしていたんだから。
日本製のコンドームは優秀だと聞いている。

「でも、あれが来なくて・・・」

彼女は顔を赤くして、ますます顔をうつむかせる。
年上の彼女のうぶな様子をみて、こんな状況なのに不覚にも萌えてしまった。
しかし、萌えっぱなしではいられない。
反撃しなければ。
イニシアチブを取り戻さなければ。
どう切り返す?
やはりこれか。

「来ないってどれくらい?」

よし!
医大生らしい、クールな切り返しだ。

「ここここここなこなこな」

もうだめだ。

「一週間、です」

どうやら通じたようだ。
しかし、一週間の遅れというはどうなんだろう。
ただの生理不順ということはないのか。

「これまで、ずっと順調だったから、遅れたことなんてないんです」

・・・だそうだ。
どうする。
一緒に病院に行ったほうがいいのか。
産婆を呼べばいいのか。
お湯を沸かせばいいのか。
いや、その前にやるべきことがある。
妊娠検査薬だ。

「最近は、デジタルのいい妊娠検査薬があってね。これからどう?」

これだ。
医大生らしい、学術的な切り替えし。
今こそ、反撃のとき!

「ささささいきんのにんしんけんさやくってでじたる?」

まただ。今度こそ、情けなさに涙が出た。

「うちにあります」

「へ・・・?」

「うちに妊娠検査薬はあるんです。でもまだ調べてません。長嶋さんに一緒に見てほしいと思って」

「そ、そう。準備いいんだね。転ばぬ先の検査薬、犬も歩けばコンドームかあ、あはは」

なんだか妙な展開に戸惑いながらも、涙を拭いて余裕を装う。

「じゃあ、その、ええと、行こうか」

「はい」

席を立つ。
いいのか、本当に。
ここで彼女の家に行ってしまっていいものか。
あるいは、すべてを投げ出して自分の家に帰るべきではないのか。
そんなみっともないまねはできない。
もう後には引けない。

彼女の家までは、歩いて10分ほどだ。
その間になんとか落ち着きを取り戻し、あらゆる状況に備えておかなければ。
かっこいい自分を、プレイボーイの矜持を取り戻せ!

彼女の横を歩きながら、対策を練る。
ちらりと横顔が見えた。
ショートヘアがよく似合っている。
でもそれはおしゃれのためというより、働くのに都合がいいからだと知っている。
服装も、どことなく地味なものだ。
そう、彼女は自動車教習所で働く立派な社会人なのだ。
そこは、彼女のように若い女性が指導してくれるということで人気の教習所だった。
若いといっても、僕より年上だ。
それでもずいぶん若く見えるのは、その童顔のせいだ。
つぶらな瞳に、少し低い鼻が愛嬌を添える。
免許をとりにいった僕は、そのかわいい彼女の指導を受け、口説いて、寝た。
名前は、「村山洋子」。

洋子は、うぶだった。
キス一つにも、顔を真っ赤にした。
路上教習の間に「チュッ」なんてやると、しどろもどろになって指導どころではなかった。
そのときの、なんだかいたたまれないような顔をしてうつむく彼女の顔が好きだった。
それまで、たくさんの年上の女の子と付き合ってきたけれど、こんなにかわいいひとは初めてだった。
けれど、ついこの間免許を取って、教習所を卒業して以来、会っていなかった。
そのまま切れればそれでよし、さもなければきれいなお別れを送るつもりだった。
彼女とは、遊びで終わらせるつもりだった。

そう、今、僕には彼女とは別に本命がいる。
その本命との関係が壊れることは何としても避けなければならない。
そのためなら、今付き合っているすべての女の子との縁を切ってもいいとさえ考えていた。
実際に、かなりの女の子に別れを告げてもいた。
なのにどうして、こんなことに。

などと考えているうちに、彼女のマンションについてしまった。
ついてしまった・・・しまった。
何の対策も練られてはいない。
もはや、臨機応変に対応するしかない。
これまで培われてきた、プレイボーイスキルが今試される!

エレベーターで4階に上がる。
歩いて、部屋の前にくる。
洋子が鍵を開け、僕を招き入れる。

「お、お邪魔します」

おそるおそる足を踏み入れた。
部屋は質素で、よく整理されている。
でも赤いセイリはまだなのか。
まったく笑えなかった。

洋子はお茶を出しながら、顔を赤くして言う。

「あの、それじゃさっそく調べてきますね」

細長い棒状のものを持ちながら、トイレに入る。
その間に、残された検査薬の説明書を読む。
おしっこをかけて、しばらく待つ。
できていれば「+」、そうでなければ「−」が表示されるるわけか。
なるほど、分かりやすい。
こまってしまうほど分かりやすい。
たとえば、「*」なんかがでてきてどっちつかずなどということはないわけだ。
デジタルはすごい。

などということを考えていると、やがて洋子がトイレから出てきた。
どうやら僕は、現実から逃避しつつあるようだ。
こんなことではいけない。
現実を見据え、プレイボーイにふさわしい対応をとらなければ。
しっかりしろ、長嶋茂雄。

彼女は、妙に落ち着き払った顔をしていて、結果はうかがい知れない。
こんなときには女の方が落ち着いているものだ、などと分かったふうなことを考えてみる。
洋子が手にしていた検査薬を見せる。
正直見たくはない。
見たくはないが、見ないわけにはいかない。
ええいままよと、検査薬をにらみつける。

半ば分かっていた結果にもかかわらず、その衝撃力は衰えることがない。

まぎれもない「+」。

2

明日、一緒に病院に行くことを約束させて、今日のところは帰すことにした。
初日に追い詰めすぎるのはよくない。
半ば錯乱状態にあったようだし。
これ以上は、危険だろう。
それにかわいそうだ。

罪悪感もわいていた。
おなかの子は、間違いなく彼の子だ。
コンドームに穴を開けたわたしがいうんだから間違いない。
あれは賭けだった。
そして、わたしは賭けに勝ったのだ。

付き合いはじめて、それほど経っているわけではない。
それでも、彼の気持ちがわたしから離れつつあるのは感じていた。
いや、あえて距離を置こうとしていたのか。
彼はばれているとは思っていないようだが。
確かに、わたしは地味で恋愛経験もほぼゼロの女だ。
その面では、彼の方が一枚も二枚も上手かもしれない。
けれどわたしは、人の気持ちには敏感だった。
とくに、隔意や悪意には敏感だ。
そのせいで、まともに人付き合いをすることができなかった。
だから、相手から隔意を向けられるまえに、こちらから向けてやった。
友人はもちろん、恋人もいない。
単に、臆病だったのだ。

教習の担当にあたった長嶋茂雄は、そんなわたしの気持ちをしってかしらずか、
しつこくアタックを繰り返してきた。
最初は、なんてデリカシーのない男なんだろうと思った。
顔をあわせたときにはっとしたほどの彼のハンサムぶりが、かえって反感を誘った。
しかも、医大生ときた。
おちない女なんていないんだと、増長しているんだと思った。
わたしは確かに地味な女だが、安い女のつもりはない。
この年まで、清い体を守ってきたのだ。
軽薄なプレイボーイなんかにくれてやるつもりはなかった。
せいぜい冷たくあしらってやるつもりだった。

ところで、教え始めた頃、彼は運転が壊滅的に下手だった。
不器用なんだろう。それも、半端でなく。
ブレーキとアクセルを踏み間違えたり、指示器の左右を間違えたり、ハンドルの左右を間違えたり。
坂道発進しようとして、なぜか猛スピードでバックしたこともあった。
事故を起こさなかったのは、奇跡と言えた。
こんな不器用な人間が、医大生、しかも外科医を目指しているという。
めまいがした。
もし手術室に入って彼がまっていたら、どんな急患でもチェンジを頼むだろうと思った。
肉屋にやらせたほうが、まだましだと思った。
それほど彼は、不器用だった。

教習所の教官として、わたしは当然、車の運転にはうるさい。
付き合うなら、運転のうまい人でなければいやだと思っていた。
滑らかな加速のできる人、目を瞑ってでも車庫入れのできる人。
少なくとも、ギアを変えるたびにエンストするような人はいやだった。
あまつさえ、シートベルトを締めようとするたびにシートを倒してしまうような人は。

でもそれとは逆に、見た目とあまりにギャップのある彼の姿に、幾分警戒感を解いたのも事実だ。
端的にいって、かわいいと思ってしまった。
その不器用な彼が、必死にわたしにアプローチしてくるのは、なんだかおもはがゆい気持ちがした。
最初は、それだけだった。

彼は、自主練習までして、ずいぶん熱心だった。
はじめ、それは理由をつけてはわたしに会いに来ているのだと思っていた。
事実、教習所に来た日には、必ずわたしのところに来て話をした。
でも、少しずつ運転が上達するのを見て、努力をしていることを知った。
「運転が上手なひとでないと付き合えない」とは、冗談交じりに伝えてはいた。
もしかして、それを真に受けているんじゃあないだろうか。まさか。
でも、そう考えると、心臓がどきどきして、顔が赤くなった。

やがて、彼の運転技術は見違えるほどに上達した。
運転しながら、わたしの頬にキスできるほどに。
もう、彼を受け入れない理由はなかった。

彼に対する見方はまったく変わっていた。
あの人はもしかすると、こんなことをずっと続けてきたんじゃないだろうか。
話を聞くと、信じられないことに、彼はかなり優秀な学生らしい。
でも、きっと最初はやっぱりぼろぼろだったんじゃないだろうか。
学生時代は、スポーツで活躍したといっていたが、彼にまともな運動神経があるとは思えなかった。
でも彼は、頭のよさも、運動神経のよさも母ゆずりだといって笑っていた。
彼のような人をマザコンというのかもしれない。
でも、わたしはそんな彼を、とてもいとおしいと感じた。
そのプレイボーイ気取りも、なんだかかわいく思えた。

彼が、わたしと同時に、たくさんの女の人と付き合っているのは何となく気づいていた。
人の気持ちには敏感なのだ。
かすかな負い目を、嗅ぎ取っていた。
それでも、なぜかあまり腹はたたなかった。
今付き合っている中で、彼の不器用さをこんなふうに一から百まで見た女がはたしているだろうか。
彼は、初めてのことには、めっぽう弱くて不器用だ。
だから、妊娠という初めての事態に動揺しまくっていた。
でも、彼はすぐにそういったことを努力して克服してしまう。
彼が、車の運転というまったく未知のものに触れるのを見ることができたわたしは、
きっと幸運だったのだろう。
他の女はその結果だけ、うまくなった運転だけを知っているに違いない。
それはなんて薄っぺらな彼なんだろう。
きっと、彼の本当の姿を知るのはわたしだけなのだ。
そう考えると、他の女たちにたいする優越感が沸いてくるほどだった。

それでも。
彼が明確な意図を持ってわたしとの距離を置こうとしているのを感じたときは、我慢ならなかった。
その先に、十派一からげの他の女たちとは違う、ある女がいるのを感じたから。
それは、わたしを不幸にするし、彼も不幸にすることだと思った。
でも、わたしのこんな気持ちだけで彼をつなぎとめておくことができるだろうか。
そう思うと、憂鬱になった。

わたし、「村山洋子」は、野暮ったい女だ。
服は、めだたない地味なものを選ぶ。
人の目がいやなのだ。
かわいいといわれることはある。
でも、それは小さな体と童顔以外、ほめるところのない証拠だと思っている。
胸は出ていないし、お尻も小さい。
彼は、このくらいがちょうどいいなんてお世辞をいっていたが。
しかも、それでいてわたしは彼よりも5つも年上なのだ。
5つ!
5つも違えば、ポケベルのつかい方も通じない。

ではわたしに、年上らしい魅力があるかといえばそんなこともない。
180センチを超える彼と街を歩いていると、まるで似ていない兄妹かと見えるほどだ。
抱きしめられると、彼の胸の中にすっぽりと納まってしまう。
彼のものも簡単に奥まで届いてしまう。
年上の包容力なんてあるはずもなかった。

だから、わたしは賭けにでた。
ある夜、彼が目をはなしているすきに、彼が信頼する日本製コンドームに針で穴を開けた。
いつもより長くつながっていたことに、彼は気づいただろうか。
この一回。
もしこの一回で妊娠すれば、これはもう天の思し召しだ。
わたしは、彼の運命の女なのだ。
もう、絶対に放さない。
逆に、妊娠しなければ、あきらめよう。
それもやはり、天の思し召しだ。
恋愛は戦争だといっても、これはルール無視の暴挙、条約破りの毒ガス攻撃かもしれない。
一種のテロリズム、コンドームテロだ。
それでも。

生理が一週間遅れたのに気づいたとき、わたしは半ば以上勝利を確信していた。
そして、先ほど彼といっしょに確認して、勝利を確実なものとした。
落ち着いて月桂冠を受ける。

確かに、罪悪感は沸いてきていた。
それは、もちろん彼に対してのもの。
それから、彼をつなぎとめるための手段にしてしまったおなかの赤ちゃんに対してのもの。

でもね、あの人をあなたのお父さんにするためなの。
許してね。
いいお母さんになるって約束するわ。
あの人も、最初はやっぱりだめだめだろうけど、努力してきっといいお父さんになるわ。
でも、お風呂に入れるときは、わたしがみていないとだめね。
お風呂には三人で入りましょう。
それで、三人で家族になりましょうね。

わたしは悪女なんだろうか。

3

朝は誰のもとにもやってくる。
遊びのつもりの女をはらませてしまった僕のもとにも。
目覚めは最悪だが、おきないわけにはいかない。
たとえそれが、産婦人科への付き添いという、あまりに気の進まない約束のためであったとしても。

待ち合わせ場所である例の喫茶店に向かう。
道中で決意を新たにする。
昨日のような、狼狽はもう見せない。
昨日の僕は、僕ではなかった。
ひたすら狼狽し、冷静な判断力を失い、いたずらにイニシアチブを奪われた。
今日から、反攻作戦を開始する。

まずは現状分析を。

遊びのつもりの女を、はらませた。
もうこれはしょうがない。
避妊はしたのに、なんていう泣き言はもう言うまい。
絶対のことなんて絶対にない、ということを確認しただけだ。
激しくしすぎて、中で漏れたのかもしれないし、二度目のときに外側に付着していたのかもしれない。
これからは気をつける、それだけだ。
これからは、もう一回り小さいコンドームを使い、二度目は一度目の上に重ねて使う、それだけだ。

問題は洋子だ。
そう、昨日は彼女の様子を見て策を練る余裕もなかった。
昨日の彼女はどんなだった?
悲しんでいるわけでも、不安そうにしているわけでも、喜んでいるわけでもなかった。
結果が判明したときの表情。
5分刈りにしてもらったばかりの中学生のように、さっぱりとした顔をしていた。
あれは、何かを「決めた」人間の顔だった。
何を決めたのかは、言いたくない。
とにかく、彼女の方は覚悟を完了させているということだ。
そういう手合いに、正面からぶつかるのは得策ではない。
高機動による包囲攻撃、すなわち搦め手を用いるべし。

では、これから彼女はどう動いてくる?

「認知」+「結婚」が一般的なコースだ。
結婚の方は、どうにかなる。
卒業まで、まだ間のある学生だ。
たとえ卒業しても、研修やらなにやらで当分は忙しい。
待ってほしいといえば、待ってくれるだろう。
認知の方も、結婚と一緒にしたいと言えば、待ってくれるだろうか。
出生届と認知届けは、別のはずだ。
出生届のほうは、とりあえず非嫡出子として出しておけばいい。
認知は、何とか引き伸ばしたい。
認知は、戸籍に載る。それは禍根を残すことになる。

結婚をえさに、何とか引き伸ばさなければ。
ここまで考えて、やってることが結婚詐欺師と同じだと気づく。
結婚をえさに、500万円借りるとか、そういうやつだ。
明るいプレイボーイが、犯罪者まがいのことをするはめになるとは。
まったく気がめいってくる。
こんな気持ちになるために、女の子と、洋子と遊んだわけではないのに。

いつのまにか、例の喫茶店の前に来ていた。

約束の10分前にもかかわらず、洋子は奥の席にすでに座っている。
待ち構えていないと、僕が逃げるとでも思ったんだろうか。
こちらに気がつくと、微笑みかけてくれた。
かわいい。
かわいいからこそ、始末が悪い。
万が一情が移ってしまう前に、何とかしなければ。

彼女の向かいに座り、ウェイトレスにコーヒーを頼む。
さっそく話を切り出した。

「それで、どこの病院に行くつもりなの?」

「はい、江夏総合病院がこの辺では一番大きいからそこに」

「ぶっ!」

コーヒー吹いた。

「だめだだめだだめだ」

「え、どうして」

過剰な反応に、洋子が目を丸くする。
そんなこと、正直に言えるはずがない。

「いやあ、ほら、病院関係者の間じゃ有名なんだけどね、あそこの産婦人科はよくないんだよ。
何でもオイルレスラーみたく脂ぎったハゲの水虫のいんきんのパラノイアの中年スケベ医師がいてね。
診察中にそれはねちっこく外やら中やら触りまくるらしい。妊娠させられちゃった人もいるって。
それだけじゃない。看護婦が新生児を使って腹話術するわ、パペットマペットごっこするわ」

あることないことまくしたてた。
思いのほか大きくなってしまった声を、周りの人間も聞いている。
いずれ自分のものになるはずの病院にもかかわらず、根も葉もない悪評を流してしまった。
ごめんなさい。

「だからさあ、あそこにしようよ。大野産婦人科。女医さんがやってるし。
心理カウンセラーなんかもいるから安心できるって」

これは本当のことだった。
といってそれが本命の理由ではなく。
奥まった場所にあって人目につかず、女の子たちの行動範囲から外れているのがポイントだ。

「はい。そこにします」

思わず安堵の息をつく。最大の危機は回避された。
それをどう誤解したか、彼女がうれしそうに微笑む。

「ありがとう。心配してくれて」

なんだかいたたまれない。

産婦人科に近づくにつれ、ひとつの最終解決が頭をよぎる。
あえてそのことは考えまいとしてきた。
場所が連想を呼んだのだろうか。
人工妊娠中絶、「おろす」ってやつだ。
洋子が何週目なのか、正確にはわからないが、8週を超えていることはあるまい。
つまり、今なら法的にも医学的にも余裕で可能なのだ。
彼女のおなかにいるのは、まだ人間としては認められていない。
あえていえば、半人間、人間の素といったところだ。
だからやれる。

・・・吐き気がした。
これでも医者の卵だから、具体的に何をやるのかは知っている。
外科に必要な、ある種の耐性は身につけなくてはならない。
でもこれは、それとは違う。
胃を取り出すのと、胎児をかき出すのを一緒にはできない。
とても割り切れない。

何よりそれは、彼女を再起不能なまでに傷つけるだろう。
別れるだけならいい。それなら、いくらでもロマンチックに飾り立てることができる。
でも中絶はだめだ。どんなに取り繕おうとしてもムダだ。
それは、きれいな思い出なんかになりっこない。
それまでの楽しい思いでも全部ぶち壊してしまうだろう。
それはいやだ。彼女の中で、楽しい思い出として生きていたい。
僕にしたってそうだ。
それを忘れて、いままでどおりやっていくなんてできそうもない。
僕は楽しく生きたい。そんな負い目は、とても負いきれない。

ふと横を見ると、彼女がこちらを見ている。
目をそらしたい思いを押さえつけて、微笑みを返す。
彼女も微笑んで、つないでいる手をいっそう強く握ってくる。
くそっ、僕が何を考えていたのかも分からないくせに。

病院の待合室は、暖色系のやさしくやわらかな内装でまとめられていた。
それでも、彼女が診察に向かい、一人まっていると落ち着かない気分になる。
僕みたいなハンサムな青年が産婦人科の待合室にいれば、注目を集めてしまうのも当然だ。
雑誌でも読んで気を紛らわせようとしたが、「たまひよ」の文字を見てその気をなくす。
外で待つことにしよう。
結局これが失敗だった。

病院から出ると、いきなり声をかけられる。

「シゲ君?」

その声に固まる。
僕をその声で、そう呼ぶ人は、一人しかいない。
同時に、今一番、ここにいてほしくない人。
例の「本命」様だ。

声は背後からだが、それでも見間違える距離じゃない。
つまり、ここで人違いだといって逃げるのは、不自然なことになる。
顔をあわせつつ、なんとかごまかすしかない。さっきもやれた。今度もできる。
心の中で「1、2、3」と数え、笑顔を作ってから振り向く。

果たして彼女、「江夏薫」はそこにいた。
パッチリ二重に、高い鼻、色っぽい唇。白い肌に、黒のロングヘアー。
そして、88センチのFカップ。88センチのFカップ。88センチ。Fカップ。
あまりに完全なものは、描写を陳腐にする。言うべき言葉がないからだ。
薫は、スペシャルでグレイトでファンタスティックな美女だった。
加えて、僕の恋人であり、半ば婚約した間柄。でも今は、優越感に浸っている暇はない。
彼女の表情は、疑惑に満ち満ちている。

「あの、いま、そこから出てきたよね?」

分かりきったことを確認してきた。
決して動揺してはならない。

「うん」

「それがどうしたの?」とでもいいたげな表情で、応える。
いいぞ、昨日の修羅場は、僕の状況対処能力を大幅にレベルアップさせたようだ。
僕の余裕の表情を見て、彼女も態度をいくぶん和らげる。

「いやあ。ここに大学の先輩が勤めていてね。それで、産婦人医って、どんなものなのか
お話を聞いてたんだけどね」

「でも、シゲ君って外科なんでしょう?」

そうだった。

「でもさ、ほら。江夏は総合病院だろう。だから、いろいろな科の様子を知っておいたほうが
いいかなあ、なんて。僕と君の将来のためにもさあ」

彼女はそれを聞いてうれしそうな顔をする。
そう、彼女は江夏総合病院の一人娘。
彼女の祖父は政治家も雲隠れに利用する大病院のオーナーで、父は院長、僕は婚約者。
僕が、洋子を切ろうと必死になるのもムリはない。
確かに、薫みたいな美女を恋人に持つのは、それだけで男の本懐だ、名誉の至りだ。
でも、それだけで結婚はできない。後押しとして相応の付録がほしい。
そして、江夏総合病院は付録としては十分すぎるほどだ。
いずれは大病院の院長、オーナーになれる。
地位もお金も、堂々と自由にできる。
婿養子はつらい?
大丈夫、見たところ彼女は、僕にめろめろのべろべろなのだ。
多少のやんちゃは見逃してくれるはず。
大病院の院長やオーナーに、愛人の一人や二人いないわけがないというのは、単なる妄想か?
お義父さんもきっと分かってくれる。

「薫はどうしたの?」

そう、ここを選ぶときにまっさきに頭に浮かべたのは彼女のことだ。
まず、彼女が訪れそうにない場所を選んだはずだ。
なのになぜここにいる?

「大野さんと父は、同級生なの。たまにだけど、おすそ分けをもってくることもあるのよ。
今日みたいに」

うかつ。
つまり、ここは思いっきり彼女のテリトリーだというわけだ。
だが泣いている暇はない。
身の毛がよだつとはこのことだろう。
病院の入り口から、洋子が出てくるのが見えた。
彼女の方は、僕と薫が話しているのに気づいている。
不機嫌そうな顔して、でも次の瞬間にはニコニコ笑いを浮かべてこちらに近づいてくる。
紹介させる気なんだろう。
あまりといえばあまりな状況。
いったん薫を連れて、あるいは一人ででも、ここを離れるべきだったんだ!

洋子が、相変わらずニコニコ笑いを浮かべて近づいてくる。
接触させてしまえば終わりだ。
ご破算、ご破談、ご縁談。
どうする。考えろ。全力中の全力でこの場を乗り切れ。
包囲攻撃なんて悠長なことはやっていられない。
相手の体制が整う前に、電撃的な奇襲をかける。これしかない!

「だ、だいじょうぶかあああああ!」

突然叫び、洋子のもとに全速力で駆け寄る。
肩を抱いて、彼女を薫の目から隠す。ここまで3秒。

「え、え」

洋子も薫も、いきなりのことに唖然としている。
いいぞ、ともかくゲームのイニシアチブは握れた。
後はとにかくおしまくるのみ。

「いけない!!」

やはり大声で怒鳴る。

「何をしている!一刻もはやく安静にしなければ!君の体は君一人のものじゃあないはずだ!!」

「は、はい」

勢いに押されてか、洋子が返事を返す。
今度は薫に向かって。

「僕は!医者の卵として!男として!この人をほっておくことはできない!この人を助ける責任と
義務がある!!」

「う、うん」

勢いに押されてか、薫が返事を返す。
よし!
洋子の目には、母体とおなかの子を心配するよき父親候補に。薫の目には、通りすがりの病人を
助けようとするよき医者候補に見えているはずだ。
ここまで不自然なところはない。
後は可及的速やかに離脱するのみ。いける!

「もうすこしだあ」

薫に聞こえるように、肩を抱いた洋子を励ましつつ、不自然にならない程度の速度で歩き出す。

「もうあんしんだからねえ」

タイミングよくあわられたタクシーを止め乗り込む。
運転手が何か言う前に怒鳴る。

「とにかく!早く出してください!」

薫が何かつぶやいたようだが、僕にはもう聞こえない。
安堵と疲労で、ぐったりと背もたれにもたれかかる。
乗り切った!

「・・・なんなの、あれ」

薫はタクシーを唖然としたまま見送った。

4

彼女のマンションの前でタクシーから降りる。
今日は僕がエスコートする形で、彼女の部屋まで向かう。
こんなところで発揮される、僕のにくいほどの紳士っぷり。
もちろん、スーパーで買ってきた食材は僕が持っている。
相手の出方が分からない以上、ここはいつものように振舞っておいたほうがいい。
つまり、自然な気遣いを見せる。

卓袱台の横に腰を下ろした僕に、お茶を出すと、彼女はキッチンに入る。
キッチンの壁にかけてあった、花柄のエプロンをつけた。
ワンルームマンションなので、様子がすべて見える。
やはり、好きな男に手料理を振舞うのは女の甲斐性なのか。鼻歌なんか歌ってうれしそうだ。
「野ばら」か。
彼女は、以前コーラス部にいたらしく、シューベルトなんかをよく歌っていた。

その様子を見ながら、突然思い出す。
そういえば、恋人がこんな風に料理しているのを見るなんて初めてじゃないだろうか。
そもそも手料理を振舞ってもらったということが、ほとんどない。
そういう、家庭的な雰囲気になるのを、僕はこれまで避けてきた。
きっと、これが僕の弱点だというのを、本能的に察知していたに違いない。
プレイボーイの本能はDNAすら凌駕する。

洋子が小さい肩を揺らしながら、一定のテンポで包丁を振るっている。
こうしてみると、やっぱりずいぶん小さいな。
その姿に、何となく既視感を覚える。どこかで見たことのある光景。
いうまでもなく、見たことがあるとすれば、それは。
でも、母さんは彼女ほど華奢な人ではなかった気がする。
いつも見上げていたから。
当たり前だ。母さんが生きていたのは僕が子供のときなんだから。
他の大人と並んでいるときは、やっぱり小さかったような気がする。
なら、大人になった僕から見れば、母さんは彼女くらいの大きさだったんだろうか。
それで僕を育てるためにがんばって働いて、死んだんだろうか。
彼女の後姿を眺めていると、なんだか胸がじんわりと熱くなった。

・・・やめろ。
洋子と母さんを重ねるんじゃない。このエディプス野郎。
情が移ってしまうぞ、このマザコン野郎。
そんなんじゃ、手にしかかっているお金と地位を取り逃がしてしまうぞ。
そんな母さんを捨てたクズ親父を見返してやりたいんじゃなかったのか。
楽しい人生を送りたいんじゃなかったのか。
薫のことを思い出せ。あのホテルのディナーの味を思い出せ。

だいたい、一ヶ月前のことだ。
薫に、ネクタイを締めて、某高級ホテルのラウンジまでくるようにと連絡を受けたのは。
お嬢様らしい気まぐれ屋だった彼女からは、そういう呼び出しがたびたびあった。
いつもと違ったのは、そこに彼女の父親もいたということだ。

完全に不意打ちだった。
薫は、してやったりというような、悪戯が成功した子供みたいな顔をしていた。
そういうことがこれまでなかったわけじゃない。
それに、今回ばかりはこちらとしても望むところだった。
彼女が大病院の一人娘であることを知ってからは、常に結婚を意識していた。
ここで父親をくどきおとし、一気に王手をかけてやる。

ラウンジで、無難な自己紹介を済ますと、最上階のレストラン、しかも個室に連れて行かれる。
いきなり正念場だな。
最初は、当たり障りのない会話から。
幸い、父親は医者で、僕は医大生だ。会話に困ることはない。
ワインの薀蓄を語りだす。もちろん、謙虚な顔をして相槌を打ちながら聞いてやる。

「だから、この年のボルドーは・・・」

薫だけは退屈した猫みたいな顔をしていた。

魚介の前菜から、デザートまで。食事を終えて口にしていたコーヒーを下ろすと、
父親の奴はいきなり切り出した。

「長嶋君は、ご両親がいないんだってねえ」

そこから入るのか。
思わず薫の方を見る。彼女も驚いた顔をしてこちらを見ていた。
そうだ、これは彼女にも話していない。そういう境遇は、隠しておく主義だ。
ならなぜ。
いや、相手の立場からすれば、娘の相手選びには慎重になるだろう。興信所でも使ったに違いない。
どういう経緯で両親を失ったのかも知っているに違いない。
そりゃあ、いずれは分かることだ。けれどここで切り出されるとは思っていなかった。
うまく切り返さなきゃならない。

だから。
だから、長嶋茂雄。そいつをにらむのをやめないか。機嫌を損ねるようなまねをするんじゃない。
穏当な言葉を返して、場の空気をやわらげろ。

「・・・それが・・・どうかしましたか」

自分のものとは思えない、低い声だ。
明らかに、挑戦的な響きを帯びている。これはまずい。
感情的になるんじゃない。クールダウンしろ。利巧になれ。

「お父さん!」

薫が父親を責める。
少し続いた気まずい沈黙を、彼の笑い声が破った。
どうやら破局は回避できたようだ。ほっとする。

「いや、すまない。だからどうということはないんだ。むしろ、そういう境遇をばねにして
ここまできた君を評価してるくらいでね」

僕はこういう言い草が大嫌いだった。
まるで不幸のおかげでがんばれたとでもいうかのように。
よかったじゃないか、父親が蒸発して、母親が死んで、とでもいうかのように。
もちろん、そんなことはおくびにも出さない。せっかくつながった首だ。

「君には、優秀な医師の素質があるという話を聞いている。何より、薫は君にべたぼれのようだ」

ちらりと薫の方を見る。場が丸く収まりつつあるのを感じてか、彼女がニコリと笑った。

「もしよければ、交際を続けてやってくれないか。私も君のことは気に入っている。これは本当だよ。
卒業したら、うちの病院に来てほしい。優秀な医師はいつでも足りなくてね」

よし!結婚の許可をもらったに等しい言葉だ。
僕は、やり遂げた。勝利をほぼ手中にしたぞ。
父親がいなければ、薫を抱き上げて、百回のキスを送っていただろう。
けれどハイヤーに乗込む前、るんるん気分の僕に釘を刺しておくのは忘れなかったようだ。

「私も男だ。若いうちは遊ぶのもいい。だが、これをきっかけに一度けじめをつけておくのは
いいことだと思うよ」

結婚したければ、身辺をきれいにしておけというわけか。
わかってますよ。身辺を汚すのは、せいぜい結婚後にします。お義父さん。

そのときは、一気に開けたと思った明るい未来。
それがこんなふうに暗雲立ち込めたものになるとは。一寸先は妊娠騒動か。

目の前には、いわゆる日本の家庭料理が並んでいる。
カレイの煮付け、なすの田楽、金平ごぼう、それにアサリの味噌汁。
うまそうだ。結局日本人である僕は、このだしと醤油の香りの誘惑に勝つことができない。
うまい。カレイを口にして、洋子が相当のてだれであることを知る。
こんな家庭的な女だとは知らなかった。

洋子はニコニコとして、僕が食べるのを見ている。
女の幸せここにあり!とでもいいたいような顔をして。
思わず、小市民的幸せ空間に引きずりこまれそうになる。
小市民根性がパワーアップし、野心がパワーダウンする堕落空間だ。
そんなのはごめんだ。ぶち壊してやろうか。
いきなりキレてみるとか。東西新聞社社員のように。

「これはカレイの煮つけじゃない。ただのカレイの醤油煮だよ」

当然そこで、じゃあお前が作ってみろよということになる。
だが、市場に手を回されてしまっており、新鮮なカレイが手に入らない。
そこで、明石海峡で自ら釣り上げたカレイを使って勝利する。

「カレイとワインには旅をさせるなってことさ」

泣き崩れる彼女にこういってやる。

「僕と結婚すれば、毎日料理のことで責められるはめになる。平気でおにぎりに「30点」とかつける。
だから、料理修行の旅に出てみないか。僕を超えることができたら結婚しよう」

やがて子連れ流れ板となった彼女は、伊豆の旅館で殺人事件に遭遇し。

などという二時間ドラマのプロットを作り上げているうちに、残さず食べてしまっていた。
けちをつける余地などどこにもない。
こうなっては、言うべきことはひとつしかなかった。ニッコリ笑って。

「ごちそうさま。おいしかった」

彼女もニッコリ笑って。

「お粗末さま」

彼女の入れてくれたお茶を、すする。
デザートに羊羹なんかを出してくれる。徹底して和食党のようだ。
この光景。まるでどこかの若夫婦だ。
なんとかしないと。けれど、こちらから何かを切り出すのは気が引けた。
相手が何を考えているのか分からなくて不気味なのだ。
洋子は相変わらずニコニコしている。
それでも、このままでは埒が明かない。穏当な言葉でこちらから行くしかない。
そうだ、ばたばたしたおかげで診察の結果を聞いてなかった。

「どうだったの?病院」

「5週目だそうです」

つまり、手足ができ始める頃だ。この時期に変な薬なんかを飲むと、もろに影響が出る。
今はまだ、魚みたいな変な格好をしているはずだ。
まだまだ人間には遠いな。そう、やつはまだ人間じゃあない。にやりと笑う。

「でも、心臓の音、エコーで聞きました」

「そ、そう。少し早いかな」

思わず熱いお茶を一気に飲んでしまう。

「それじゃあさ、そろそろつわりが始まったりするんじゃないの」

「まだ、大丈夫みたいです。でも、そろそろだろうから、覚悟しておいたほうがいいって」

「だったら、仕事はどうするの?」

洋子が、僕のこと以外で懸念するものがあるとすれば、仕事のことだ。
確かに、妊娠しながら仕事を続ける人もいる。
けれど、彼女の仕事は教習所の教官だ。安全とはいえない。

「おなかが大きくなるまでは、続けてみようかと思ってます」

「危ないよ」

そう、妊婦にとって、車の運転は危険だ。事故って、流産なんてこともあるかもしれない。
でもそれは、僕にとって願ったかなったりじゃないのか。
それは、僕のせいじゃなくって、彼女の無思慮が招いたことだ。やさしく慰めてやればいい。
手を切るための、十分なきっかけになる。流産をきっかけに別れる夫婦もいるらしいじゃないか。

だというのに、僕は何を心配そうな声を出しているのか。
演技が板につきすぎて、本気になっているのか。
染み付いたフェミニスト根性が、恨めしい。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、薫はニッコリ笑う。

「だって、がんばって働かないと。長嶋君にはきちんと大学を出てもらいたいし」

内角すれすれのボールを投げてきた。
これ以上は危険だ。次はきっとど真ん中ストレート、いやフォークが来る。
来ると分かっていても打てないフォークが。
やれることといえば、せいぜいかっこよくヘルメットを飛ばすことだけ。
その前に帰ることにした。

5

紙の束を両手でぐしゃぐしゃに握りつぶす。
その拍子に、クリップで留められていた写真が床に落ちる。
拾う代わりに、思いっきり踏んづけてやった。さらに踏みにじる。
踏みにじる。踏みにじる。
それでも、写真の中の女は、表情を変えることもない。
当たり前だ。
村山洋子、それが女の名だった。

大野産婦人科でのあまりに不自然なシゲ君の振る舞い。
わたしが、疑念を抱くには十分だった。
彼のことを探るようなまねはいやだったけれど、ほうっておくことはできなかった。
大野先生に確かめたところ、大野産婦人科に彼の大学を卒業した医師はいない。
先輩の話を聞きにきたという、彼の話は嘘だった。
なぜそんな嘘をついたのか。
彼が出てきた場所、それから、彼が肩を抱いていた女。
状況から推測できるのは、ただひとつだ。早とちりかもしれない。
慎重を期して、探偵に依頼した2週間の調査の結果が、このレポートだった。

大野産婦人科に診察にきた村山洋子という女が妊娠しており、そして父親は長嶋茂雄であるらしい
ということ。
遺伝学的な確認はなされていないが、少なくとも両人はそのように考えているということ。
カルテによれば、今週で妊娠7週目に達しているということ。
半ば以上覚悟していた事実ではあったが、それが確かめられるとやはりショックを感じた。

そして、村山洋子のプロフィール。
両親は健在。父親は、市役所づとめの公務員。母親は専業主婦。大学生の弟がひとり。
つまり、ごくごく平凡な一家の長女としてある地方都市に生まれる。
ただし、今は実家との折り合いを悪くしており、2年以上帰省していない。
高校を卒業するまで、地元にいたが、ある女子大に通うために上京。
そこで、女子大には珍しい自動車部に所属。関東学生ジムカーナ選手権入賞。
卒業後に、ある教習所に就職。現在は、教官として勤務。
その教習所で、生徒だった長嶋茂雄と知り合い、およそ二ヶ月前から肉体関係を持つ。
高校までさかのぼった調査によれば、長嶋茂男との出会いまで男性経験なし。
ただし、見合いの経験あり。それが、実家との折り合いを悪くした原因である。

村山洋子とは、おおむねそんな女だった。
彼の子供をおなかに宿しているという事実には、はらわたが煮えくり返る思いがした。
けれどそれは、彼に対する憤りのためではない。
こんな年上のチンクシャを、彼が本気で相手にするはずがない。きっと遊びのつもりだったんだろう。
あるいは、だまされてしまったのか。彼のようなひとでもそんなことがあるんだろうか。
かわいそうに。

憎むべきは、この女だった。
こんなつまらない女が、たかが子供宿したというだけで、わたしと彼の未来を汚そうとしている。
そう、つまらない女だ。
わたしに勝っている点なんてひとつもないと感じた。
顔も体もすべて。気品や教養のすべて。
雑種の犬っころに等しい。そんな女に、こんな感情を向けてしまうことすら厭わしい。
せいぜい、哀れんでやりたい。なのに憤りがおさまらない。

実のところ、わたしは、まだ彼に体を許していなかった。
破瓜に対する恐怖や、貞操観念だけがその理由ではなかった。
それよりも、実際の肉の交わりをどこか汚いものに感じていたのが、本当の理由だった。
自分が美しい女であることを、わたしは十分知っている。
下卑た視線を向けられることもしばしばだった。
そんなときは、いつでも鳥肌が立ち怖気がふるった。でも、彼は違った。

もちろんそれは、彼に下心がないということではない。
彼の視線も肉欲に彩られてはいる。
でも、彼がわたしに向ける視線は、なぜかわたしを熱くさせた。
それは、手の届かないものを汚して貶めてやろうとする、それまでの卑屈な視線ではなかった。
この女に愛されたい、愛されるはずだという思い。
必ず自分のものにできるはずだという、どこか子供じみてみえるほどの自信。
わたしをそんな目で見る男は、彼だけだった。
そんな視線を向けられながら、口説かれたのは初めてだった。
そして、そんな彼をじらしながらもつなぎとめておける、
自分の女としての魅力に初めて誇りを持てた。

彼はわたしを求め、その彼をわたしは求める。
その関係に、肉の交わりは必ずしも必要でない。
むしろ、それは関係の純粋さを汚すもののように思われた。

けれど、この女は。
わたしとは正反対の、もっとも汚い女だった。
こんな女に、彼が本気になるはずがなかった。
本来、わたしと彼の間に割り込めるような人間じゃない。

そして、わたしは彼がほしいものをあげることができる。病院のことだ。
正直、それを武器にはしたくない。でも、でも必要ならそれも辞さない。
彼は、野心家だった。それは、女のことに向けられていたが、お金と地位にも向けられていた。
それを浅ましいとは思わない。
生まれたときからそうしたものに不自由のなかったわたしには、そんなことを思う資格はない。
先日、彼が両親を幼い頃に失っていたと聞き、その野心をさらに好ましく思った。
彼は、失ったものを、何倍にもして取り戻そうとしているのだ。わたしは、その手伝いがしたい。
幸い、お父さんも彼を気にいってくれた。そもそも、お父さんはわたしの頼みは断れない。
わたしは、彼のものになり、彼のほしいものをあげるのだ。それを邪魔するものはいない。
そのはずだった。

そう、村山洋子は、本来ならばわたしにとって歯牙にもかける必要のない女だ。
それが、おなかに子供を宿したというだけで、ただひとつの障害になっている。
理不尽な現実に、静まりかけていた怒りが、二乗されてよみがえってくる。
犬っころ風情が!
女の写真をさらに踏みにじる。
それでも、女の表情は変わらない。むしろ、こちらをあざけっているかのようにすら見える。
怒りが三乗される。
踏みつけは、すでに高速ストンピングになっている。
それでも、薫の表情は怒りにゆがむなどということはない。
いつものように澄ました顔で、見ようによっては微笑んでいるようにすら見える顔で、
ストンピングを加速させる。

やがて狂乱から立ち直ると、仕事に出ている父に連絡をとる。
お金を用意してもらうのだ。多少の金額なら、そんなことはしない。
けれどこれは大金だった。もっといることになるのかもしれない。
いくらでもかまわない。いくらでも吹っかけてくるといい。
こちらはこちらのやり方で、犬っころを追い払ってやる。人間らしいやり方で。

なりふりかまってはいられない。

6 『女の戦い』

電話で呼び出しを受けたときから、どんな話なのかという検討はついていた。
女の声で、長嶋茂雄のことで話があるというのだ。
どんな内容なのかは、当たり前のように分かる。
だから、それなりに腹を決めて来た。
けれど、呼び出した相手を見たとき、一瞬気がなえるのを感じた。
彼女の美しさに。わたしとは違う。

「お呼びだてしてもうしわけありません。お電話を差し上げた江夏薫と申します」

こちらに気がつくと、席から立ち上がり、上品な、本当に上品な笑顔を浮かべて頭を下げる。
こちらもあわてて頭を下げた。

「あ、あの、はじめまして、村山洋子です」

そのまま、しばらくたったままで相対する。やがて、こちらが席に着くのを待っているのだと気づく。
あわてて席に着く。
それを確認して、彼女も上品な笑顔を浮かべたまま、席に着く。
さっきから、あわててばかりだ。
それというのも、事前に想像していたのと様子がずいぶんと違うから。
もっと、ぎすぎすしたものだと思っていた。
もちろん、この和やかな雰囲気は最初だけなのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。

「お飲み物は、なんになさいますか?」

ウェイトレスではない。相手の女が聞いてきた。

「コーヒーでよろしいですか?それとも紅茶がよろしいですか?」

「あ、コーヒーで」

彼女がウェイトレスを呼び、二人分のコーヒーを頼む。
そこで気づいた。彼女は、徹頭徹尾、イニシアチブを握ろうとしているのだ。
表面上の和やかさにごまかされてはいけない。

「こちらからお呼びだてして、失礼かもしれませんが、早速用件に入らせていただいて
よろしいでしょうか」

「はい」

「お気に触れてしまうかもしれません。初めてお会いしたあなたにこんなことを申し上げるのは、
本当に心苦しいんですが」

ウェイトレスがコーヒーを持ってきたので、話がいったん切れる。
彼女が、そのコーヒーを口に運んだ。女の目から見ても、それは本当に美しい所作だった。
それに対して、こちらはコーヒーを「すする」としか言いようのないもので、思わず恥ずかしくなる。
これが、生まれが違うということなんだろうと思った。

「長嶋茂雄さんと、お別れしていただけないでしょうか」

本当に、直球で用件を切り出してきた。

「察していただいているかと存じますが、わたくしも、彼とお付き合いをさせていただいています。
結婚を前提としたお付き合いです。
彼もそのつもりです。先日は、こちらの父にも許していただきました。
婚約しているといっても差し支えないと存じます」

「ですから」

そこでいったん言葉を切る。こちらをじっと見据えて。

「長嶋茂男さんと、お別れしていただけませんか」

そういう話だということは当たり前のように察してはいた。
けれど、婚約しているなどという話は想像していなかった。もちろん、それは嘘かもしれない。
いや、たとえそれが本当だとしても、こちらにも決して引けない事情がある。
むしろ、向こうが引かざるをえない事情が。
そのことを伝えようとして口を開く前に、あちらが先に話を継いだ。

「もちろん、あなたにもあなたのご事情がおありなのは存じています。ですからこちらとしても、
できる限りのことはさせていただく所存です。
ぶしつけとは思いますが、まずはこちらを受け取っていただけないでしょうか」

そういって、一枚の封筒をこちらに差し出してきた。

「どうか、中をお改めになってください」

封筒の中には、一枚の紙切れが入っている。見るのは初めてだが、
いわゆる小切手というものだということはすぐに分かった。
そこには、これまで目にしたこともない金額が書き込まれていた。

「なんですか、これは」

思わず声が震える。

「ですから、こちらからのせめてもの心づくしです。もちろん、これだけで終わらせるつもりは
ございません。手術代、あるいは出産費用のつもりでお納めください。
もちろん、もしご出産なさるようでしたら、教育費もこちらからお出ししてかまいません」

上品な笑顔を浮かべながら、そんなことを言った。
それで気づく。彼女の謙譲的な態度は、こちらを徹底的に見下していることの裏返しなんだと。
わたしが、お金でかたをつけられる女だと思っている。こちらが妊娠していることを知っていてなお。
一気に感情が高ぶるのを感じる。

「こんなものいりません。しまってください」

小切手入りの封筒を、相手の目の前にたたきつける。

「知っているみたいですけど、わたしのおなかには彼の赤ちゃんがいるんです。
手を引くのはあなたなんじゃないんですか」

そういうと、彼女は一瞬顔色を変える。けれど、すぐにそれまでの上品な笑顔を取り戻して言った。

「ええ、ですから、こちらとしてもできる限りのことはさせていただきたいと」

「なら、ほおって置いてください。お願いしたいのはそれだけです。わたしと彼は一緒になりますから」

彼女はまた顔色を変え、今度はそのままでまくし立てた。

「失礼ですけど、あなたなんかと一緒になって、彼が幸せになれるとでも?
少しでも彼に対する愛情があるなら、分かれてあげるのが本当じゃないんですか?
わたしを見て、あなたが女として勝っている部分がひとつでもあると思いますか?
それなのに、負い目のひとつも感じないのはずうずうしいんじゃないですか。
お金が足りないなら、もっと出してもいいといっているでしょう。
こんなのはした金に見えるくらい出してあげるわよ。
うちは大きな病院をやってるからこのくらいたいしたことないの。
江夏総合病院なら、あなたも知っているでしょう。わたしはそこの一人娘なの。
結婚すれば、わたしは彼に病院をあげられる。彼のことを考えるなら、その邪魔しないでよ。
彼が、内心どう思っているかなんて、すぐに分かるでしょう?
彼はやさしいから自分で言うことはないかもしれないけど、あなたたちが彼にとって
邪魔者の重荷なんだってことぐらいすぐにわかるでしょうが。
彼がやさしいからって甘えないでよ。いい気にならないでよ。とっとと別れなさいよ。
それが彼のためだってくらいわかるでしょう?
その後で、生むなり、おろすなりすればいいでしょう。
なんだったら、うちの病院つかってもいいわよ。ただでやってあげるから」

そこでいったん言葉をきり、のどが渇いたのかコーヒーを口に含む。
その所作は、やはり上品なものだった。
生まれから来るものは、なかなか崩れないんだなあなんて考える。

「認知だってしてあげてもいいのよ。太っ腹でしょう?財産分与だって認めてあげる。
すごいでしょう?何不自由なく暮らせるわよ。だから、だからとっとと分かれてよ!」

言葉遣いが、まったく変わったものになっている。
相手がヒートアップした分、こちらは冷静になっていた。
けれど、それで彼女を軽んじたかといえば、そうではない。むしろ逆だ。
本当のお嬢様が、これだけ取り乱しているのだ。わたしみたいなつまらない女を相手に。
それだけ、思いの丈が強いということだ。彼のためなら、何だってする気なんだろう。

でも、だからといってこちらが引くことはできない。
わたしはあの時決めたのだ。彼を絶対に手放さないと。
わたしだけのことじゃない。ここで手を引いてしまってはおなかの赤ちゃんにもうしわけがたたない。
わたしたちは、家族にならなければならない。譲ることはできない。
だから、このまま話し続けてもムダだった。どこまでも平行線をたどるだけだろう。
相手が折れることがない限り、交わることはない。そして、相手に折れる様子はなかった。

「お話は、それだけですか。そうなら、帰らせていただきます」

コーヒー代のつもりの千円札を置いて、席を立つ。
向こうは、突然のことに一瞬あっけにとられている。彼女に背を向けた。

「待ちなさいよ!」

乗り出した彼女に、腕を掴まれた。けれどお嬢様らしく、力はない。簡単に振りほどかれる。

「その子だってかわいそうでしょうが。男の気を引くための道具にされて。
どうせ、生んだら生んだで、邪険にするんでしょうが!」

その言葉は、無視できなかった。そういう負い目は確かにあったから。
だから、振り返る。彼女に応えるために。それから、自分に言い聞かせるために。

「ご心配どうも。でも大丈夫です。そんなことになったら、きっと彼が怒ってくれますから」

もう話すことはない。わたしは今度こそ、店を出て行った。

去っていく犬っころの背を眺めながら、正直わたしは後悔していた。
もっとうまく話すことはできなかったのか。感情的になるのがはやすぎなかったか。
でも、そうならざるを得ないほど、わたしは憤っていた。
最初の対応は、それこそ断腸の思いで、感情を押さえつけていたからこそのものだった。
それを、あの女の聞き分けのなさがはがしてしまった。
いったい何様のつもりなんだろう。あの女は。
自分に出る幕なんかないことがなぜ分からないのか。
落ち着かなければ。落ち着いて、次の行動を起こさなければ。

なんとか怒りを鎮めると、ハンドバッグから携帯電話を取り出し、キーを押して電話をかける。

「わたし、薫」

大丈夫、いつもの自分の声だ。

「この前のホテル覚えてる?うん、そこ。すぐに来てほしいの。大丈夫、今度はお父さんはいないから。
うん、ありがとう。先に行って待ってるから。・・・愛してる」

電話を切って、バッグにしまうと席を立つ。と、その前に、残された小切手を
封筒ごとびりびりに引き裂いて、灰皿に捨てる。
いいだろう。自分がだれに喧嘩を売ったのか、思い知らせてやる。
せめて、お金を受け取っていればよかったのに。わたしは彼女を哀れんだ。

7 『お兄様はこわいひと』

薫からの呼び出しに、僕はいそいそと大学を抜け出す。
彼女とのデートは久しぶりだ。
最近、怪しくなってきた僕の伊達っぷりを改めて発揮するべきときだった。
先日の不本意な邂逅にかんして問い詰められるなどということは考えもしない。
いや、考えたくない。
今日は、薫と楽しく遊んで自分の心を確かめておきたい。
洋子とおなかの「あれ」の重石は、僕の天秤を確かに傾けていたから。
きっちりと、逆側に傾けておこう。

あれ以来、洋子は沈黙を守っていた。
結婚の「け」の字も出さなければ、認知の「に」の字も出さない。
もちろん、それはありがたいことではあったが、不気味でもあった。
けれど、こちらから、不用意に藪をつつくようなまねはしたくなかった。
もしかすると、産むまで沈黙を保つつもりなのだろうか。
つまり、産んでしまえば、完全にこっちのものだと思っているのだろうか。
あるいは、今のあいまいで心地よい関係を続けることによって、
心情的に離れがたくする作戦なんだろうか。
もしそうなら、洋子はなかなかの策士だと言える。

あれから何度か、洋子のうちに呼ばれては手料理を振舞われていた。
そのたびごとに、母さんの幻影と小市民的幸福の甘さに悩まされる。
自分でも馬鹿だと思わずにいられないのだが、彼女に呼び出されるとふらふらと行ってしまう。
確かに、あの部屋が居心地がいいというも理由だが、おなかの「あれ」のことも気になった。
彼女は、妊娠していながら、教習所の教官をするような人だ。他にも無茶をするかもしれない。
だいたい、今は「あれ」にとって大事なときだ。
母体の変化が目立たない分、余計に気遣わなきゃいけないはずだ。
変なものを採ったりすれば、取り返しのつかないことになる。
抗生物質もとれないから、病気のないようにしないと。

そんな余計なことを考えてしまい、考えると様子を見に行きたくなってしまう。
これは、遺伝子のわな、父性本能のなせるわざなんだろうか。つまり、子孫を残し、養育しろという。
自然の呼び声に抗ってこその人間だ。そして僕は人間で、しかも医者の卵だ。
そんな生物学的傾向に流されるままになるのはしゃくだ。
流されるのは、性欲だけで十分だ。
だからこれは、医者としての気遣いなんだと思っておこう。いや、きっとそうなんだろう。
僕はきっと「いい医者」になる。間違えても、「いい父親」ではない。

などと考えながら、例の高級ホテルに到着する。
薫はすでに、ラウンジで座って待っている。近づきながら、最高のスマイルを浮かべる。
時価100万ドル。
けれど、彼女の横に座っている男を見つけて、その極上のスマイルを固める。
そこにいたのは、いかにもかたぎではない雰囲気をまとわりつかせた若い男だったからだ。

短く刈り込んだ頭に、黒いサングラス。黒っぽいスーツは、かなり上等なものだろう。
お約束の金のロレックスをのぞかせている。悪趣味だ。
だいたい、屋内でサングラスをかけるんじゃない。意味ないだろう。

そんな男が、なぜ薫の横にいるのか。しかも、なんだか身内のような雰囲気を漂わせて。
まさか、大掛かりな美人局だったんじゃあるまいな。そんなことを思った。
つまり、あの男が突然立ち上がり、こちらの胸倉をつかんでこういうわけだ。

「ひとの女にてぇだしやがって。痛い目みたくなけりゃあ、相応のわびをもってこい!」

だとすれば、この前の父親だという男もぐるだということになるぞ。すいぶんといい役者だ。
いや、彼女を紹介してくれたあの子も、そこに居合わせたあいつらもみんなぐるだということに。
ひょっとすると、江夏総合病院も、大掛かりなセットだったり。
それどころか、このホテルがすでにセットだったり。
・・・んなばかな。

凍りついた笑顔を若干解凍させつつ、薫と男の座っている場所に近づく。
それに気付いた薫が、笑顔を浮かべる。
サングラスの男は、微動だにしない。

「またせちゃった?」

「ううん、いまきたとこ」

などという定型の挨拶を交わしながらも、ちらちらと彼女の隣の男を見る。
サングラスのせいで、彼がどこを見ているかはわからない。やっぱり僕だろうな。
こちらの視線に気付いたのか、彼女が男を紹介してくれた。

「これ、わたしの兄なの」

「は?」

もちろん、初耳だ。彼女に兄がいるだなんて。
彼女のセールスポイントは、「大病院の一人娘」ということのはずだ。その確認を怠るはずがない。
みたところ、医者という感じではない。それでも、経営側なら支障はないのか。
もしかしてあの狸親父、こいつを経営のトップにして、僕をその下に置くつもりじゃないだろうな。
だとすれば、すべてを考え直す必要が出てくるかもしれない。
兄だというその男は、苦笑を浮かべながら言った。

「おいおい、兄貴に向かって「これ」はないだろう。いくら勘当されちまっただめな兄貴だからって」

なるほど。それだけで、大体の事情はつかめた。
簡単な話を聞いて、それを確かめる。
こいつは、家のプレッシャーに耐えられなかったか何かしらないが、
若いころに家を飛び出したらしい。
それを拾ってくれた親分のもとで、今では裏ではそれなりに名のしれた存在になってしまったらしい。
つまり、恵まれた環境のぼんぼんがドロップアウト、そのまま裏街道へというやつか。
あまりにステロタイプな転落ぶりに、笑ってしまいそうになる。
僕は、こういう奴が大嫌いだ。ただの、甘ったれにしか思えない。
どうして、早くに両親をなくした僕がぐれることもなく、まあ多少は遊んできたとしても、
医者を目指していて、何不自由なかったはずのこいつが道を踏み外しているんだ。
お前は、キン肉アタルか。
いや、最終的に人格者となって、スグルのために自らを犠牲にしたアタル兄さんと
こいつを比べることはできない。
ジャギで十分だ。

「お父さんには、ダメだっていわれてるけど、たまに電話で話すこともあるの。
そのとき、シゲ君のことを話したらぜひ会いたいって。迷惑だった?」

迷惑だよ。もちろん、そんなことをこの男を前にして言えるわけがない。

「いやあ、まさか。薫のお兄さんということは、僕のお義兄さんになるわけだからね。あはは」

そうでなきゃ、絶対に近寄りたくない人種だけどね、などと付け加えることなどできるはずもない。

「お昼ごはん、まだでしょう?兄さんがご馳走してくれるって」

たとえその場で満腹だったとしても、うなずく以外の選択肢はなかっただろう。

以前のフレンチレストランではなく、創作和食のお店に入る。
薫の小さいころの話などを聞いた。
会話を交わしているうちに、そのダメ兄貴が、意外にも気さくな人柄であることを知る。
けれど、だまされてはいけない。
こういう人たちは、「意外といいひと」である場合の方が、本当は怖い。
それは、自分が絶対に強いという確信からくる余裕であるし、
キレたときとのギャップの効果をよく知っているからだ。
「いいひと」に見えるのは、そう見せているだけで、つまりはフェイクだ。
だから、僕も調子に乗りすぎることなく、さりとて距離を置きすぎることもない、
絶妙な距離感を保つ。
こういうこともできなければ、プレイボーイはやっていられない。

やがて、食事が終わり、薫がいったん席をはずした。
僕とダメ兄貴の二人が残される。
なんとなく空気が変わるのを感じる。それも、いやな方向に。早く戻ってきてくれ薫。
やがて、何を思ったかダメ兄貴がシャツの裾をまくりあげた。ギャランドゥがさらされる。
そして奴は、こういった。

「こいつを見てくれ。どう思う?」

一瞬、血の気が引く。まさか、そっち系だったのか。
典型的なハンサムである僕は、そちら側の人にもそれなりにもてる。
サウナで太ももを触られたことも、一度や二度じゃない。
ゲイの兄とその妹の間にはさまれての修羅場なんて冗談じゃない。ネタとしても斬新すぎる。
けれど、彼がみせようとしたのは例の「おおきいもの」ではなく、右わき腹についた刺し傷だった。
古い傷だが、今でもなお痛々しい。

「いっとくが、盲腸じゃねぇぞ」

僕も医者の卵だ。そのくらいはわかる。

「親父(親分)に突っ込んできた鉄砲玉を受け止めたときのもんだ。
俺はこいつで文字通り死にかけたが、それで親父に取り立ててもらった」

聞いてもいないことを、にやり笑みを浮かべながら、教えてくれる。

「俺は親父のためなら死んでもいいと思ってる。恩人だからな。この傷は、その証だ。
けどなあ、親父くらい大事なものもある。薫だ。
俺はこのとおり裏側の人間だが、薫には表の世界で幸せになってもらいてえ。
そのためだったら、かたぎのあんたに頭を下げたっていい」

そこで言葉を切って、これまで一度もはずさなかったサングラスをはずした。

「うっ」

思わず、固まってしまう。
臆病さの裏返しや、怖くない素顔を隠すためにサングラスをしているやつが大抵だが、こいつは違う。
サングラスなしの方が、はるかに怖い。それなりに整った顔立ちに、
ナイフで掘り込んだような鋭い目が光っている。
これは、やるといったら何だってやる人間の目だ。逆らってはいけない。

「だからよお、薫を不幸にするやつはゆるさねえ。たとえ、刺し違えてもなあ。
あいつのためなら、命を張る覚悟はできてるんだ」

なるほど、少なくともアタルなみの覚悟はあるといいたいわけだ。しかもどうやら、本気らしい。

「まあ、あんたなら大丈夫だよなあ。そんなことしねえよなあ」

そんなことを言われて、この状況で首を振れる奴がいるわけもない。
だから、神妙な顔をつくり、手をついて頭を下げる。わざわざ、座布団から降りてのサービスつきだ。

「はい。妹さんのことは、任せてください。きっと幸せにします。お義兄さん」

しまった。調子に乗って、期待に応えすぎてしまったかもしれない。
彼が、その鋭い目を不器用ながら和らげ、笑みを浮かべようとしているのを見て思った。
すると、正面に座っていた彼がいきなり席を立って、こちらの横に座った。
何事かとびくびくしていると、給仕に日本酒とおちょこを頼む。
僕の肩に手をまわして言った。

「よし、じゃあ、かための杯といこう。今日から俺たちは兄弟だ」

弟に自分の傷を見せて凄む兄なんているもんかと思いつつ、杯を受け取り、それを空にした。
もし、薫を不幸にするようなことがあれば、この兄はもっとひどいことを弟にするだろう。
裏切りの代償は、何倍にもなって帰ってくる。腕の一本や二本ではすまないだろう。
そのときは、杯の中身が末期の水になるのかもしれない。
心の中で身震いした。

薫が戻ると、ダメ兄貴は仕事があるといって、帰っていった。どんな仕事なのかは、聞きたくもない。
どうせなら、うんと危険な仕事であってくれ。そしてそのまま、二度と顔を見せないでくれ。
薫が申し訳なさそうにいった。

「ごめんなさい。カズ君に電話した後で、兄さんから急に電話があって。今から会わせろって」

それなら、携帯にでも連絡してほしかったかな。

「またいきなりで、怒った?」

怒ったというより、怖かったかな。

「まさか。でも確かに驚いたかな。お兄さんがいるなんて、聞いたことなかったから」

「うん、うちでは兄さんなんていなかったことになってるから。普段は、病院にも近づかないの。
お父さんは、会うことも許さないし。でも、わたしのことは本当に大切に思ってくれてるから」

うん、それは十分に思い知らされたよ。

「わたしのこと、嫌いになった?」

薫が上目づかいでいう。普段、わがままなお嬢様然としている彼女のこんなしぐさを見ると、
何だって許してあげたくなる。
たとえ、彼女が全人類の敵になったとしても、許してあげられるだろう。だから、

「まさか。どうやったら、薫を嫌いになれるのか教えてよ」

ついつい、そんなふうにいってしまうのも仕方がない。

薫を誘って、バーに行きお酒を飲む。
ドライマティーニが、疲れた体を癒す。僕って渋い。
最近は、ヘビーなことが立て続けに起こる。今日のノルマは十分こなしただろう。
まあ、無事にやり過ごすことができた。乾杯だ。
あの兄貴のやったことにしても、ある意味ではこちらを後押ししてくれたともいえるわけで。
背水の陣の背水になってくれたともいえるわけで。
感謝はしたくないが、いいほうに考えることはできる。
ともかくこれで、ますます薫を捨てるわけにはいかなくなった。
洋子とおなかの「あれ」のことは、また明日考えよう。今日はもう何も考えたくない。
そんなふうに、すでに半ばベッドに入ったつもりになっていると、

「今夜、ホテルに部屋を取ってあるの」

などと、薫が言い出したので驚いた。

女の子から誘われたことがないわけじゃない。
でも、薫からそんなふうに誘ってくるなんて、考えていなかった。
もちろん、これに乗らない男なんていない。
だれだってそうする。僕だってそうする。

8 『薫の告白』

彼女の髪をなでる。
確かに、セックスはすばらしい。当たり前のことだ。
けれど、その後の疲労の中で肩を寄せ合ってじっとしていることも、同じくらいすばらしい。
お互いの湿った体温を交換する。体がひとつになったみたいだ。
こうしていると、世の中すばらしいことだらけなんじゃないかと思えてくる。
もちろん、そんなのは幻想だ。
地球の裏側で飢えて死ぬ子供もいれば、すぐ身近には生まれてくる前から
父親に捨てられそうな子供だっている。
ちなみに、その父親というのは僕なんだけれども。

薫は身持ちの固い女だ。
この日まで、指一本たりとも体に触れることを許してはくれなかった。
最初は、お嬢様らしいプライドや喪失への恐れだけが理由かとも思った。
だから、バージンキラーの異名をもつ僕は、その恐れが誤解であることを知ってもらおうとした。
けれど、それだけが理由ではないのだと思い始めた。
あえていえば、セックスそのものへの恐れ、あるいは穢れへの恐れか?
ともかく、彼女が僕を熱烈に愛しながら体を許さなかったのには、
彼女なりの深い理由がある気がしていた。
その彼女が、自分から誘って体を与えてくれた。

正直、感動した。
薫は、それこそ、すべてを僕に与えようとしてくれている。
彼女のような気位の高いお嬢様が、すべてをだ。そして、彼女がそうするのは、この世で僕にだけだ。
もちろん、精神的な満足を覚えたというだけではない。

端的に言って、彼女はすばらしかった。
触ると、どこまでも滑っていきそうななめらかな肌。
それが、僕の愛撫でピンク色に染まった。
舌をちろちろと出しながら、慎ましやかにあえぐ。
そのあえぎがやがて、一オクターブ高くなる。
それは、さらに高くなって。
のぼりつめて。
墜落する。
まるで、雪の中で事切れる、白い猫を見守る心地だった。

結局、どんなに言葉を尽くしても今夜のことを伝えることなんてできない。
どうしたって、もどかしさが残る。
ともかく、言いたいことは。
彼女はすばらしく、僕は男としてそれを何にも代えがたく思ったということだ。
実際、その瞬間には、洋子のことも「あれ」のことも、すべて忘れてしまっていたほどだ。

けれど、及ぶ前に、どうしても彼女たちのことを思い出さずにはいられないことがあった。
薫が、直に、直裁に言えば「生で」してほしい、などと言い出したからだ。
確かに、事実上婚約者同士である僕らには、許されていることなのかもしれない。
けれど、やはり結婚前であるし、何より学生の身分でそれはまずいと、拒絶しはした。
もちろん、そこに最近の失態の記憶が絡んでいたことは否定できない。
あれ以来、僕は以前にまして、避妊に関しては慎重になっていた。
ある種のトラウマだ。

けれど、薫はどうしても直にしてほしいとせがんだ。
少なくとも、初めてはそうしてほしいと。今日は安全な日だからとも言った。
直でなければさせないとも。
彼女にそうまで言われて、拒否し続けるのは不自然な気もした。
だいたい、これでできたとしてもイーブンになるだけじゃないかなどと、
わけのわからないことを思いもした。
いったい、誰にとって、何がイーブンなのかは知らないが。

それまで、彼女にさんざっぱら焦らされていたこともあって、僕は半ば浮かれていたのかもしれない。
あるいは、最近の立て続けの事件に、ストレスを感じていたせいかもしれない。
結局、僕は彼女の望みを飲んだ。
いまさら、一人や二人妊娠させたところで変わらないだろうなどと、
無責任きわまりないことまで考えた。
今夜の僕は、確かにどこか浮かれていたんだろう。

今、僕は後悔しているんだろうか。
確かに、ある意味で後悔している。
でも、それは彼女を抱いてしまったからではない。まして、直にしてしまったからでもない。
あれを後悔することなんて罰当たりなことはできない。男の矜持に賭けてだ。
後悔しているのは、その後のことだ。
いや、これは後悔と呼べるものではないかもしれない。ただ、奇妙な息苦しさがあった。

心地よい疲労に浸りながら、彼女の髪をなでているとき、彼女は突然言ったのだ。

「ごめんね」

いったい、何のことなのかわからなかった。
だから聞き返す。

「何が?」

「今日は、別に安全な日だってわけじゃないの」

特に、驚きはしなかった。
そんなこともあるかもしれないと、なんとなく感じていたから。
けれど、そんなことは別にどうでもいいとも感じていた。
薫は、妊娠したかもしれない。最近の出来事から、
その仮定はさほど抵抗のあるものではなくなっていた。
でも、それがどうしたというんだ。

「別にいいさ。僕らはどうせ結婚するんだから。早いか遅いかの違いだよ」

そのとき、僕は本気でそう考えていた。妊娠という事態に対する耐性が出来たのだろうか。
だとすれば、やはり僕も学習しているのか。それが成長なのかどうかはわからないが。
彼女が顔をあげる。その瞳は、ぬれていた。こぼれた涙が頬を伝っておちる。
けれど、それは僕の言葉に感動したからというわけではなかった。こういったからだ。

「違うの」

「何が?」

「関係ないの。安全な日か、そうでないかなんて」

わけがわからなかった。

「どういうこと?」

「できないのよ。もとから」

彼女は、笑おうとして失敗した顔をしていった。
それは。つまり。

「生まれつきね、完全に癒着してしまってるんだって、子宮が」

子供ができない?
そういう奇形があることは知っていた。

「手術してもだめなんだって。妊娠するための機能は回復しないんだって。
子宮が出来上がる過程でくっついちゃってるから」

言葉が出なかった。
別に、僕は子供がほしくて彼女と結婚するわけじゃない。
特別に、子供がほしいなんて考えてもいなかった。
だから、そのことでショックを感じることなんてないはずだった。

けれど、彼女はつらいだろう、女として。そして、それを彼女は話してくれた。
だから、ショックなんか受けていないはずの僕が、なんでもない様子を見せて
慰めてやらなければいけないのに。
でも、何を言えばいいんだろう。
「子供は好きじゃないんだ」か?
「養子をもらえばいいよ」か?
どれもが、的をはずしているように思えた。

だったら、言葉は必要ない。余計なことを言わず、
彼女を抱きしめてキスのひとつでもしてやればいい。
けれど、それもできなかった。
それは、きっと頭の中を洋子と彼女のおなかの・・・子供のことがよぎったからだ。
それとこれとは無関係のはずだ。どう考えたってそのはずだ。
でも、なぜ彼女たちのことが頭を掠めるんだろう?

少しの沈黙の後、薫がしゃべりだした。

「今日、初めてしてみてね、わたしがこういうのを嫌っていた理由がわかった気がする。
きっと、これはわたしにとって無駄なことだから。
気持ちよくなるための手段でしかないから。それ以上のものにはなりえないから。
だから嫌だったんだと思う。でも、シゲ君ならよかった。だから、今は本当にうれしい」

ぬれた瞳のままで、こちらに微笑みかけ、僕の唇にキスをした。
離れてから、今度は一転して不安な表情を浮かべて、僕に伺いを立てる。

「捨てる?」

ギクリとした。もちろん、そんなことで薫を捨てることなんてないはずだった。
それには、病院も、馬鹿兄貴も関係ない。

「あの人のところへ行く?」

どうしてという思いと、やっぱりという思いが交差する。
彼女は洋子のことを知っている。僕と洋子の関係を知っている。
洋子のおなかに宿っているものについても。
それでいて、このことを告白してくれたのか。
いや、もしかして、それだからこその告白なのか。

確かに、薫はすべてを僕にゆだねてくれた。
体でも、財産でもなく、重いこの告白によって、彼女は僕にすべてをゆだねてくれた。
正直、彼女のことを恨みたくもなった。卑怯じゃないかとも思えた。
そんな風に自分を投げ出してくる女の子を、支えないわけにはいかないじゃないか。
薫の体を、今度こそ抱きしめて、キスをする。
そのときばかりは本当に、病院のことも、兄貴のことも、洋子のことも、洋子のおなかのことも、
親父のことも、母さんのこともすべてを忘れていた。
薫のことだけを考えていた。もしかすると、こんなふうに女の子のことを考えたのって、
生まれて初めてかもしれない。
もしかして、僕は初めて恋をしているのか?

薫は、僕の腕の中で眠りについている。
涙にぬれた頬を、人差し指でぬぐってやる。
なんて愛しい。そう、本当に愛しい人だ。

もし。
もしあの一瞬が永続するものであったら、僕と薫はそのまま幸せでいられただろう。
薫は僕だけを、僕は薫だけを考えていた。そこに、何の疑問も挟む余地はなかったはずだ。
けれど、どんな輝かしい一瞬も時間とともに強度と純粋さを失って、異物の侵入を許すことになる。
実際、今僕はこんなことを考えているのだ。本当にばかばかしいことを。

今の自分の気持ちに正直になって、このまま薫を選び、そうして洋子とおなかの子を捨てた場合。
僕が生まれてから捨てたあの親父と、生まれる前に捨てることになる僕は、
いったいどっちがひどいんだろうか。

なんだか、吐き気がした。

9

薫と過ごしたあの夜のことが、忘れられない。
きっと、結婚した後も、ずっと二人の大事な思い出になるに違いない。
とはいえ、今の僕の姿は、そんな思いの説得力をばかばかしいほどに欠いている。
洋子の家の台所で、エプロンをつけ食事を作っている今の僕の姿は。
トマトの湯剥きをしている。妊婦はトマトが好きらしい。
いったい、これはどこのお父さん予備軍なんだろうか。

あの夜以来、洋子と会うのは控えていた。あれで、僕の気持ちは完全に決まってしまったと
思っていたからだ。
そのはずだった。
だから、今度洋子と会うときは、別れ話を持ち出すときだろうと思っていた。
そのために、どうすればお互いが傷つかずにすむのかを考えていた。
もちろん、妊娠させた相手と別れるなんて初めてのケースだから、新たな創意工夫が必要だ。
もしも下手をうって、洋子を刺激し、薫にばらされるなんてことになったら。
たとえば、薫との結婚式に子連れで乱入してきたり。
そんなことになったら、僕があの兄貴にばらされてしまうだろう。港に浮かぶ僕の背中。
ことは慎重に運ぶ必要があった。

そんなときに、ばったり近所のコンビニで出会ってしまったのは、どういう偶然だったのか。
そこは普段、洋子が来るような場所ではなかったはずなんだけれど。
彼女は、コンビニ弁当を袋に入れて持っていた。
聞けば、つわりがひどくなり、特に料理している間がつらいので、
出来合いのコンビニ弁当を食べているという。
そんなものばかり食べて、おなかの子供にいいはずがない。
コンビニ弁当は恐ろしい。何が恐ろしいって、いつまでも腐るようすがないことが恐ろしい。
思わず馬鹿なことを言ってしまった。

「ごはん、作ってあげようか?」

これはお父さん予備軍としての言葉ではない。医者の卵として見過ごせなかっただけだ。
医者が患者のごはんを作ってあげるかどうかは別として。

いまどきのもてる男なら、おいしい料理の一つや二つできなければならない。
というのは建前で、例の僕の境遇から、自炊しなければやってこれなかっただけだ。
でも多分、女の人に料理をしてあげるなんて初めてなんじゃないか。
僕がこんなことが出来るなんて知っている女は、洋子の他にいるんだろうか。

料理が出来ると、彼女が皿を食卓に運びにやって来る。
すると、テーブルに足を引っ掛けて転びそうになった。
あわてて、体を支えてやる。思わず冷や汗が出た。

「ありがとう」

食事を運ぶ洋子の後姿を、どきどきしながら見送った。
なんだか、目を離すのが怖い。結局それが、薫の目を盗んでここに来てしまっている理由だった。

彼女はまだ仕事を続けていた。さすがに、もう教官ではなく、事務仕事に回っていたが。
どうやら、仕事の間なら、つわりはひどくないらしい。やはり、精神的なものが影響するのだろうか。
教官として運転することはなくなっていたが、郊外の教習所に通うために、車での通勤は続けていた。
そして、そのときシートベルトをしていないというので、仰天した。
おなかを締め付けられるのがよくないと思ったらしい。
すぐに、妊婦の体にあったシートベルト着用の仕方を調べ、絶対に着用するように言いつけた。

付き合いはじめたころは気付かなかったが、彼女はどうも少し抜けているところがある。
「強い母」というイメージにはならない。見守らなければと思わせる「か弱い母」だった。
それがまた、僕の母さんのイメージと重なるので、余計に目が放せない。
それが馬鹿なことだとはわかっていたつもりだった。
けれど、一度重なってしまったイメージを引き剥がすのは難しい。
このときばかりは、母さんを恨んだ。

洋子は、おいしいおいしいといって、ごはんを食べてくれている。
女の人の笑顔が自分に向けられれば、うれしいものだ。
けれど、そうしてほのぼのとしてしまおうとする自分の心を、なんとかして戒める。
薫のことを思い出せ。
あの髪、あの顔、あの体。そしてもちろん、病院と、思い出したくはないがあの兄貴のことを。
そして何より、あの夜、薫が泣きながら話してくれたことを。

僕は薫と一緒になる。そうして、病院をもらい、大きな家と車を買う。
かわいい女中を雇い、たまにちょっかいをかける。
多少は女の子と遊ぶこともあるだろう。まさしく、ラヴィアンローズ。
気になるのは。いや、気になるというか、ひっかかるのは。
そこに、僕と薫の子供はいないということだけ。

まさか、僕は洋子に自分の子を生んでほしいんだろうか。それで、22週を待っているのか。
22週が過ぎれば、もう合法的におろすことはできなくなる。
それ以降は、母胎の外で生存が可能になるからだ。
つまり、22週を境に人間になったと認められるわけだ。
今は13週。からだはほぼ出来ているはずだ。
魚人間はもうとっくに卒業している。10センチくらいだろうか。キゥイくらいの重さ。
そろそろ動き出したりして。それどころか、快不快の感情なんかも出はじめてたり・・・。

「だめだ、だめだ」

変に知識があるだけに、どうしても考えてしまう。
考えるな。かといって感じもするな。無になれ。

「え、おいしいですけど」

何を勘違いしたのか、洋子が首をかしげる。

「え、いや、その、これくらいの出来ではとても満足できないんだ、僕は」

「十分おいしいですけど、じゃあ、いつもはもっと?」

「そう。ぜひ本気の一品を食べてもらいたいなあ」

「また、お願いします」

洋子が、間髪いれずにニコニコ笑いながら返してくる。
調子に乗って、余計なことを言ってしまった。
彼女は相変わらず年下の僕にも敬語だが、態度がどこかフランクになってきている。
今みたいな冗談めかしたことも、前はいえなかったのに。僕を信頼して、安心しているのだろうか。
けれど、やっぱり出産後の話は洋子から出てきていない。
ここまで来ると、その沈黙にも何か考えがあるに違いない。
僕はそれに便乗してモラトリアムしてしまっているわけだが。
それが狙いなのか。でも、どこかで話をしないわけにはいかないだろう。
多分、転回点は、出産以外の選択肢がなくなる22週以後だ。
そこがミッドウェー、スターリングラードになる。

洋子は、まだこちらを見ている。そして、自分のおなかを見て、それに触れた。
おなかは、ふっくらという感じに多少膨らんできていた。
「触ってみます?」なんていわれたらどうしよう。
状況として、触らないわけにはいかない気がする。断るのは難しいだろう。
一度触ってしまったら引き返せなくなるんじゃないか。そんな気がした。
けれど、洋子が口にしたのはそれではなかった。

「昨日の検診で、赤ちゃんを見せてもらいました」

ちなみに、洋子は相変わらず、例の大野産婦人科に通っていた。
あそこが薫のテリトリーだと判明したとはいえ、いまさら代えるのも不自然だった。
なあに、僕が出入りしなければいいだけのことだ。

「へ、へえ」

それしかいえない。

「体も出来て、動いてました。顔は、あまりよくわからなかったけれど」

おなかを見ながらいった。そして、こちらを見る。

「長嶋君に似ていたら、きっとハンサムになるんでしょうね」

「あ、あはは。でも男の子はお母さんに似るっていうし」

「それはいやかな。でも、女の子でも長島君に似たらきっと美人になると思うな」

このままいけば、「男の子と女の子のどっちがいい?」か「名前はどうする?」
なんて話になりそうだ。
耐えられない。

「ごちそうさまでしたあ!」

話を無理やり打ち切って、空の食器を台所まで持っていく。スポンジに洗剤を落とす。

「あ、洗い物はわたしがしますから」

そういって、洋子が追いかけてきた。
その声に体ごと振り返った僕の体と、スポンジを取り上げようと手を伸ばした彼女の体が、
ちょうど抱き合う形になった。
足の付け根の辺りに、彼女のおなかのふくらみが触れているのを感じる。
なんだか、これまで味わったことのないような感触だ。
う。
息子が立ち上がってしまった。最悪だ。あちらの息子か娘に反応したのか?
妊婦にそんな反応をしてしまったのが、どこか後ろめたい。

「あ、あの。浅くして、短くすれば、大丈夫だって先生もいってたから」

それに気付いた洋子が、顔を赤くしていった。
妊婦とするということに、興味がないわけではない。実際、立ってしまったし。

「いや、安定期になるまでは、危険もあるから」

「じゃあ、それからにしましょ」

そういって洋子は、つま先立ちをして、こちらにキスしてきた。
それに期待してしまう僕は、やはり最低なんだろうか。

10 『電話にでんわ』

妊娠22週目を越して、劇的な状況の変化があったかといえばそんなことはなかった。
妊娠後期に入った洋子のおなかは、一目で妊娠がわかるほどに大きくなっている。
彼女は小柄だから、大きなおなかがとても目立つ。それはもうぼってりと。
薫の目を盗んで様子を見に行くたび、大きくなっている気がする。
どこからどう見ても、立派な妊婦さんだ。
このまま十ヶ月目を迎えるのだろうと、僕は諦めにも似た感情を味わっていた。
結局、そのときを迎えることはなかったのだけれど。

薫に呼び出された。指輪を見に行きたいらしい。
正式な結納式をやるのかどうかは知らないが、まだ婚約指輪を送るような段階ではない。
ただ、ペアの指輪がほしいらしい。つまり、結婚指輪のつもりなのか。
もちろん、異存はない。
指輪という物理的な手段で、僕の心に戒めをかけてほしい。

問題は、お金だ。正直、彼女の指にふさわしいような指輪を買うお金なんかない。
それは薫もわかっているはず。やっぱり彼女が出すつもりなんだろうか。
それはなんだかいやだった。
見栄を張るつもりはない。
けれど、ここで潜在的な力関係をおおっぴらにするのはいやだった。
それは、結婚後の二人の関係にも影響する。一言で言って、おいたをしづらくしてしまう。
結婚後のプレイボーイライフに大きな影を落とすことになるだろう。

僕に腕を絡めて歩いている、薫の顔を見る。
相変わらず、きれいな顔をしている。スタイルもいい。
すれ違う男のほとんどが振り返る。無理もない。もちろん、僕を振り返る女の子もいる。
こんなことはいつものことだけれど、やっぱり優越感を感じないわけにはいかない。
この女優顔負けの彼女は僕の女で、しかも切ないほどに一途な気持ちを僕に向けてくれている。
これで得意にならないなんて、男じゃない。

そんな薫の目を盗んで、洋子の様子を見に行ってしまう僕は、大和級の馬鹿に違いない。
しかも、彼女は洋子のことを知っているというのに。
それどころか、僕が洋子に会いにいっているということも知っているに違いなかった。
薫の振る舞いがそれを物語っている。探偵でも使っているのか。
けれど、それを彼女がなじったりすることはまったくなかった。だから、確証は持てない。

あの夜以来、彼女が、洋子の話をすることはなかった。
口にもしたくないということなのか、僕を信頼してくれているのか。
それとも、怖がっているんだろうか。
当たり前だ。好きになって、結婚の約束までした男が、別の女を孕ませている。
しかも、自分には子供ができない。
怖くなって、不安になって当たり前だ。

怖いのは僕も一緒だ。
なぜって、その不安がっているはずの薫が、表面上あまりに平静を保っているからだ。
確かに、あれ以来、薫の態度に変化はあった。
まず、甘えん坊になった。今みたいに、並んで歩いていると必ず腕を絡めてくる。
前はそんなことなかったのに。
彼女のような、クールな美女がそんな風に甘えてくるのはたまらない。
それから、以前にもましてしょっちゅう僕を呼び出すようになった。夏期休暇中の今は、ほぼ毎日だ。
こうして、街を歩いたりすることもあれば、彼女の屋敷でお茶を飲むこともある。

そこで、薫の母親を紹介されもした。思ったとおりの美人だった。
年齢は気にならない。僕のストライクゾーンは、広い。あの母親なら、大根切りホームランコースだ。
とはいえ、そこで母親をくどくほど、僕は無思慮じゃなかったが。

そして、彼女と会った日の締めくくりには、たいてい一緒に寝た。
さすがにしんどい。ほぼ毎日だからだ。
けれど、薫に求められて、断ることはできなかった。
それはもちろん、彼女があまりに魅力だからってのはある。
彼女におねだりされて立ち上がらないような息子は勘当してやる。
ただ、もし遠まわしにでも断ったりしたら、彼女の仮面が剥がれ落ちてしまうんじゃないかと
思ったというのもある。

薫からのお誘いの合間をぬって洋子の様子を見に行った日の翌日には、決まって呼び出された。
そんな日には、暗くなるのも待たずに、真昼間から体を重ねた。
薫のそういう振る舞いが、何を意味しているのかぐらいはわかる。
やっぱり、僕がしていることはわかっているんだ。
だとすれば、彼女の不安、ストレスはかなりのものになっているはずだ。
それでも、やはり表面上の平静さを崩すことはないのが怖い。
もしそれがいったん崩れてしまったとき、いったい何が起こるのかなんて想像したくない。
未曾有の修羅場が、展開されてしまうことだろう。もしかしたら、彼女の兄貴も巻き込んで。
それだけは避けたかった。
だから、彼女の不安を和らげるためにも、がんばって彼女を抱く。雨の日も、風の日も。
連続記録を更新中だった。

腎虚で死ぬなら本望だ。

小さな宝石店に入る。センスはいいが、高級店ではない。意外だった。

「指輪、受け取りにきました」

彼女が店員にそういうので、驚く。今日は見に来ただけじゃないのか。
というか、もう作ってある?

「ごめんね。内緒で選んじゃったの。メッセージを彫ってもらったから、
受け取りは今日になったけど」

やはり、彼女は不意打ちが得意のようだ。

「い、いや、それはいいんだけどね」

だとすれば、もう彼女がお金を出してしまったのか。少しだけ、不機嫌になる。
店員が、指輪を持って来て、こちらに改めさせる。
それがあまりにシンプルなプラチナ製の指輪だったので、
店員が間違えて持ってきてしまったのかと思ったほどだ。
けれど、これで間違いはないらしい。
いや、もしかしたらすごく高いものなのか。表からは見えないが、裏側にダイヤが埋まっていたり。
江戸っ子は、着物の裏に凝ったというしな。それが粋ってものなのかもしれない。
見えないところにお金を使うのが、本当の金持ちってものなのか。
などと、したり顔で考えていると、彼女がキャッシャーの前に僕を押し出した。
お金を出せということなのか?
うろたえてしまう。

「え、いや、実は今あんまり持ち合わせが」

「いいから」

彼女は、くすくすと笑っている。
値段を告げられて、さらにうろたえる。高いからじゃない。
彼女が身に着けるものにしては、おもちゃみたいな値段だったからだ。
確かに、これなら僕にも十分払うことが出来る。でも、こんなものでいいのだろうか。
でも、彼女は本当にうれしそうな顔をしている。
そこで、思い至った。僕が彼女に何かものを送る形になったのは、これが初めてだ。

近くの公園まで歩き、ベンチに座る。木陰が、気持ちいい。
彼女が、指輪を取り出していった。

「手、出して」

そこで、右手を出すほど僕は馬鹿じゃない。
思ったとおり、左手の薬指にはめてくれた。結婚はまだ先になるだろうが、かまわない。
ただ、僕が先にはめられる形になったのは、いいんだろうか。

彼女も左手をこちらに差し出す。白い手に、細い指。
それを恭しく左手で支えながら、やはり薬指にはめる。
薫は、指輪のはまった指を見つめて、幸せそうに微笑んでいる。
洋子のことが頭をよぎらなかったとは言わない。
腕に何かを抱きながら、悲しそうな顔でこちらを見ている。
けれど、そんな幻像は、薫の笑顔を見ているととすぐに消え去ってしまう。
今思えば、あれは何かの予兆だったのだろうか。

電話の呼び出しのメロディーがなる。
僕ではない。彼女だ。ただし、いつもの音じゃない。「ワルキューレの騎行」。
「地獄の黙示録」のあれだ。
薫は、その音を聞くと一瞬で笑顔を引っ込め、携帯電話を取り出す。

「ち、ちょっとごめんね」

走って僕から距離をとった。
いらだっているようだ。電話の相手を叱っているんじゃないだろうか。
そんな険しい顔も、やっぱりきれいだ。などとのろける。
けれど、急に笑顔を浮かべた。それも、さっきまでの幸せそうな笑顔ではない、どことなく怖い笑顔。
そんな怖い顔も、やっぱりきれいだ。たとえストッキングをかぶせてひっぱたとしても、
彼女ならきれいだろう。
やがて、電話を切って、彼女が戻ってくる。

「ごめんね。待たせちゃって」

さっきの笑顔はもうない。誰から、何の話だったのだろうか。彼女にあんな顔をさせたのは。
「何があったの?」と尋ねようとすると、今度は僕の電話がなった。
彼女に尋ねるのをやめて、電話に出ようとする。

「出ないで!」

大きな声で止められた。ビクリとして、動きを止めてしまう。

「え、どうして」

「どうしても」

このうえなく真剣な顔だ。この奇行には、生半可ではない事情が絡んでいることを感じさせる。
こちらがとまっている間も、電話はなっている。
このままにしておくわけにもいかない。少なくとも、発信者くらいは確認しておきたい。
電話を取り出そうとポッケに手を伸ばすと、その手に左手を重ねて止められた。
先ほど彼女にはめてあげたばかりの指輪が、銀色に光っている。
顔をあげると、薫が真剣なというより、必死な顔をしてこちらを見つめている。
それから、どれくらい経ったのか、電話は鳴り止んでいた。

薫は、重ねた手をつかんだまま言った。

「うちに行きましょ。今日は、お父さんもお母さんもいないから。お願い」

懇願される。
思わず返事してしまう。

「うん」

そして、僕が立ち上がると、そのまま腕を絡めてくる。まるで、電話を手に取らせまいとするように。
もちろん、いろいろと引っかかる。けれど、薫のただならない様子に気おされてしまっていた。

その日の薫は、いつにもまして蟲惑的で、激しかった。
彼女がそんな風になるのは、洋子がらみのときだけだと、僕は知っていたはずなのに。

To be continued.....

 

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