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押しかけ三角、また来て修羅場



プロローグ

「ユウ、私は神様の前でユウを助けるって誓ったんだよ」
  ああ、これは夢だ、昔の夢。サンフランシスコのあの家の庭。今は他人の家になったあの家。
「だから、話して? なんでもいいんだよ。……私のことを好き……でもね」
  エレメンタリースクールで一番チビだった俺。さえない東洋人の少年であったあの頃の俺は、
毎日学校に行きたくないって泣いていた。イジメもあったし、孤立もしていた。
  クラスが同じだったクーは日常の挨拶を交わす間柄だった。ただし初めは顔見知り以上でも
以下でもなかった。

「ユウ、私はユウの側にいるよ。ずっとずっといるよ。それが約束だから」
  寄り添ってくる金髪美少女をみながら、そのとき俺は別のことを考えていた。

 彼女との関係が変化したのは、スクールに入り込んだ犯罪者が原因だった。
  銃を乱射しながら教室に立て籠もったヘロイン中毒の犯人は、女子達を裸にして盾とした。
  男子達はだれも抵抗できなかった。それはそうだ、7歳の俺達から見れば犯人は巨人のように獰猛で
恐ろしかったからだ。
  ただ、俺だけが別だった。強盗が来たその日もこっぴどくやられていた。
  だからどす黒い絶望に心を染めて、死んでもいいや、銃で撃たれたら楽に死ねるかななどと
考えていた。いや毎日死ぬことを考えていたが、自殺する勇気が無かっただけだった。
  それゆえこの事件が、絶好の機会なんだと俺は思いこんだのだった。死ぬにしても
何か良いことをしてから死のう、そう考えたのだ。

 おのずから行動は無謀きわまりないものになった。盾となった女子以外、全員が床に伏せている中、
俺だけは犯人の後ろにそっと這っていった。教師が目をむいて身振りで制止したが、
見えない振りをした。
  そして、静かに立ち上がり、倒れている椅子を持ち上げて、全力で振り下ろした。
  その後の事は思い出したくもない。
  犯人は気絶するどころか痛みで逆上し、俺を持ち上げると口に銃を押し入れた。
  そして口汚い訛りだらけの言葉で、殺してやるこのクソ餓鬼みたいな事を口走った。
  俺はといえば、ようやく本当の死の恐怖を思い知り、体の震えが止まらなくなっていた。
  目の前の黒いガンサイト、その向こうの犯人の血走った目、舌がしびれるほどの冷たさ、
上あごにあたるごつごつした痛み。
  いまでもそれを思い出すと体が震える。「死」。そのとき俺の脳裏をその単語だけが
ぐるぐる駆けめぐっていた。
  そして気がついたとき、頭から血を出して犯人は倒れていた。
  警官が、教師が、親が、マスコミが、何か口々にわめいていた。手と顔に白っぽい灰色の何かが
ついていたのを覚えている。
  クーは彼女の両親にすがって泣いていた。それが一連の事件で俺が最後に覚えている光景だ。

 その後俺はしばらく入院していた。退院すると学校での俺の扱いは一変していた。
  なんだ、こんなものかと思いながらも、俺は彼らに合わせていき、いじめは終わった。
  彼女が俺にまとわりつきだしたのもそれからだった。
  だけど母は俺の変化を察していたらしい。そして父もしばらくしてそれを理解したようだった。
半年ほどカウンセラーに通った後、両親は俺を日本に帰すことを選択した。

 どこかでベルが鳴っている。
「ごめん、クー。僕、日本に帰ることになったんだ。だって目覚まし時計が鳴っているから」
  そんな事は言っていないぞと頭の片隅で否定して、目が開いた。
  ここは日本。関西の港町にある祖父の家、その俺の部屋。今はもう10年もたつ。
鳴り響く目覚まし時計を止め、俺は起きた。
  反芻するほど甘美な思い出ではない。だから夢のことはすぐに忘れて登校した。

第1話 『おしかけ金髪!』

「というわけで、交換留学生が、我がクラスにやってくるのです」
  明るく美人で眼鏡をかけた、我らがいいんちょ、高村文華(あやか)が楽しげに
朝のHRで報告をする。
「で、柴崎君、男、女、どっちなの?」
「詳細不明」
  俺に振られるが、学年主任教諭から口頭での伝達、しかもこのクラスに来るからよろしく程度しか
聞かされないので、詳細情報は不明。
  留学生に興味がないのでつっこんで聞くつもりも無かった。
  ざわついていたクラスからブーイングが巻き起こる。
「情報収集がたんねーぞ」「空気よめないわね!」
  抗議の声に耳を貸さずに俺は答える。
「どうせ来たらわかる。それに知りたければ自分で聞きに行ってくれ」
「まあまあまあまあ、柴崎君。……みんなも、もうすぐ留学生が来るそうだし、ちょっと待ってね」
「いいんちょが言うならしょーがねーな」「だけどね〜」
  高村さんのカリスマが皆の不満を沈めた。つくづく俺がクラス委員なのは間違いだと思う。
  だが高村さんは違う。身長は160ぐらい。さらさらした長い黒髪、まるっこいフレームの
大きな眼鏡、その奥のきれいで大きな瞳、暖かみを感じるきれいな顔立ちと、それを彩る明るい表情。
  もちろん学業の方も優秀。そしてクラスをまとめる手腕、リーダシップ、真面目さで、
俗に言う委員長をイメージさせる。
  同じクラス委員と思えないくらい、男女問わず人気ものである。
  だからこそ親しみをこめていいんちょと呼ばれている。まあ、クラス委員の呼び方で、
俺とごっちゃにされれば、彼女が可愛そうというものだ。
  そんなことを考えていると扉が音をたてて開いた。担任の熊五郎が入ってきたのだ。

 熊五郎は、大野吾郎というのだが、体が大きくひげもじゃなのに表情が柔和なので、
熊という感じがするそうだ。
  そこから誰とも無く熊五郎というあだなになっている。
「おはよう、みんな。クラス委員、伝達事項は終わったかぁ?」
「今、終わりました」
  高村さんが艶のあるソプラノで答える。
「よーし、君、入ってこい」
  熊五郎の声とともに、人影が教室に現れ、……男子のどよめきがわき上がった。
女ということらしい。
「じゃあ、まもなく授業だし、簡単に自己紹介をしてくれ」
  教壇にたった金髪女生徒に熊五郎はそれだけを言うと、椅子にどっかりと座り、
自己紹介に目もくれずノートを取り出した。
「こんにちわ、クロエ・ヴェレンタイン・マクフライです。サンフランシスコから
交換留学にきました。友達には日本の人が多かったので、日本にはとても興味がありました。
ですので、こうやって来ることが出来てとてもうれしいです。仲良くしてください」
  ゲルマンではなくどことなく優しいケルト系な顔立ちながら、豊かなハニーブロンドと
知性をたたえたブルーの瞳を備えたアメリカ人は、モデルでも通用するようなたたずまいだった。
  それが流暢に日本語を操る様は強烈な違和感を感じさせるが、それもまた魅力だった。
「ということで、みんな、彼女をよろしくな。じゃあ、マクフライ君は空いている席に座ってくれ。
さて、それでは授業を始めるぞ」
  熊五郎が立ち上がって教卓の前に陣取った。いつもと変わらない時間の始まり、そのはずだった。

 休み時間はお約束のようにクラスメイトが、彼女を囲んだ。
  俺はというと興味がなかった。美人だから俺が相手しなくても、男子生徒達が勝手に相手するのは
間違いない。
  仕事が一つ減ってラッキーということで、俺は地図と時刻表をかばんから引っ張り出し、
調べ物を開始した。休みには自転車で一人旅をすると決めたのだ。
  資金はすでに準備して、装備もかなり整っている。今は楽しく計画をたてるときなのだ。

 そういう調子で昼休みになり、用意していたパンとコーヒーを、資料とともに取り出して、
計画の続きを行おうとしたとき、邪魔が入った。
「柴崎君〜。きみはいったいさっきから何をしてるのかなぁ?」
  ひろげた地図の上に覆い被さってきたのは、高村さんだった。
「クラス委員ってことを忘れていない? マクフライさんをいろいろと案内してあげなきゃ
だめでしょう?」
  俺は一つため息をついた。
「いいんちょ。俺は女は苦手。留学生は男連中に任せりゃ適当にやってくれるって」
  と答えていると、高村さんが微妙な表情をして俺の後ろを見た。同時に背後から声がかかる。
「ユウ?」

「え?」
  その独特の発音で俺を呼ぶ人は日本にはいない。
  振り返ると、留学生がすぐ後ろにたっていた。青い瞳に何かに耐えているような色をたたえている。
「……あなたがクラス委員のユウ・シバザキですか? できればあなたに案内を
お願いしたいのですが?」
「……あー、確かに俺はクラス委員だけど……俺は事務担当ということで……高村さんに頼んで……」
「ユウ! ……酷い。どうしてユウはそんなに薄情なんだ。10年ぶりに会えたのに!」
  突然の留学生の叫びに驚愕しつつ、俺は必死に過去を検索した。だが目の前の
金髪超絶モデル美人と、俺の過去はつながらない。……いや本当は一人いる。いるが……
「……いや、まさか」
  金髪美人の顔がぱっと輝く
「……まさか、クー?」
  その言葉で、クロエが輝くように笑みを浮かべた。
「ユウ、……やっと会えた」
  ドンと柔らかな衝撃が走り、俺の胸に金髪頭が入り込んでいた。ついでに弾力のある丸みも
二つ感じる。
  金髪から甘くかぐわしい臭いがした。
  教室が沸いてざわめきが満ちる。ついあたりを見回すと、高村さんがにらんでいたが、
俺の視線に気付くとなぜかあわてていた。
  周囲の好奇の目が容赦なく俺達をなめ回すのを知って、俺は居心地の悪さを感じ、
抱きつくことをやめないクロエに声をかけた。
「ちょっと待った、クー、ここじゃ都合が悪いから……場所をかえよう」

 十数分後、俺達は裏庭の芝生に座っていた。
「そっか、ダニーは軍にねぇ」
「ダニーはユウのようになりたい、誰かを守りたいから軍に行く、そう言っていた」
「……それは買いかぶりだよ」
  俺はクロエの言葉を振り払いたくて首を何度も振った。誰かを守るなんて
そんな上等な事はしていない。
「だから、私もやるべき事を果たすために日本に来た」
「ふーん、なんで日本なんだ。アメリカじゃだめか?」
「アメリカではだめだ。なぜならユウは日本にいるから」
「はあっ?」
「私は誓った。ユウの側にいて、ユウを助けると。なのに出来なかった」
  クロエが声を落とした。
「……あのことか。だけど俺は親の都合で帰国したんだ。仕方がないだろ」
「でも、ユウはここでもまた一人だった。また誰にも心を閉ざしていた! 私だとわからなければ
私にまで心を閉ざしていた」
  ブルーの瞳が見通すように俺をのぞき込み、思わず俺は目をそらした。
「……俺は孤独が好きなんだよ。干渉されるのが嫌いでね。これでも結構楽しく……」
「ユウ、私は約束を果たす」
「……10年前に縛られることはない。再会できてうれしいけど、俺はもう大丈夫。だからさ、
自分で自分を縛るのは……」
  彼女は俺の目を見続けた。いや、目をそらすのを許さなかった
「ユウ、今度は私が助ける番なんだ」
  そういうとクロエは俺の頭をつかむと自分の胸に抱き込んだ。
  当然、俺の顔が柔らかいものの中に埋まる
「ちょっと、ちょっとクー!」
  その心地良さが恐ろしくて……いやそれにおぼれてのうのうと生きてしまいそうな自分が
恐ろしくて、俺はクーから離れた。
「ユウ!」
  傷ついた様な顔をするクロエからあえて顔をそらして、俺は言った。
「俺の事はもういいんだ。忘れてくれ。……日本で友達を作って、アメリカに帰るんだ。
……過去のことはもう取り返しがつかない。だからそれに縛られる必要もない」
  立ち上がると俺はクロエを振り返ることなく、そこから立ち去った。
  ガキの約束に10年も思い詰めるなよ。でもこれでふんぎれるよな、クー。

「で、柴崎君、マクフライさんとはどういう仲?」
「いきなり直球勝負だな。幼なじみ、サンフランシスコでの」
「へぇ、アメリカ人の幼なじみって、意外」
  となんか人の悪い笑みを浮かべたのは、何を隠そう高村さんである。
  ここは生徒会室。留学生が来たため、歓迎会や行事の案内などの雑用が増え、クラス委員はこうして
働いているわけである。
「それにしても美人だよね。ねぇ、どうして振ったの?」
「はぁ?」
「告られたのを、あっさり振ったんでしょ? 彼女、午後から元気がなかったし」
  頭痛がして、キーボードの手が止まった。高村さんはPCを苦手にしている。
だから印刷物の作成は俺の仕事だ。
「誰だよ、そんなでたらめ言ったの」
「みんな噂してるよ〜」 
「まったく、すぐに好きだの告白だの……。俺は、そんなのが似合う上等な人間じゃないよ」
「よくわかんないなぁ。なんで恋愛に上等とか似合うとかっていうのかな?」
「……世の中には他人を愛する資格なんて無い人間もいるのさ」
  この俺のように。
「……それは自意識過剰だと思うな」
  高村さんのその言葉で脳裏にあのときの光景が浮かび上がり、不条理な怒りが俺を煮えたぎらせた。
「……ご、ごめんね、そんな怒らないで」
  気付くと高村さんをにらみつけていたらしい。彼女の顔におびえの色が広がっていた。
  表情を消して、プリントアウト。
「出来ました」
「う、うん。これでいいんじゃないかな」
  受け取るとそそくさと高村さんは出て行き、俺は一人取り残された。
「……どうせ、誰にもわかりはしない」
  セーブしてPCの電源を切り、部屋を出た。愚痴っても仕方がない。いや、愚痴る資格も無い。
  高二になって高村さんとしゃべるようになって、俺は軟弱になったのかもしれない。
  俺ははみだした人間だ。だから孤独なのは運命で、そこから逃げ出すことは出来ない。
「帰るか」
  そう独りごちて廊下から窓の外を覗いたとき、視線があった。

 夕日の中で金髪が燃えるように輝き、風にそよいでいた。そうこの光景を俺は覚えている。
  クロエが校門のところで、寄りかかりもせず立っている。
  玄関を出た俺に、彼女は歩み寄った
「まさか、ずっと待っていた?」
「そんなことはいいんだ」
  首を振り、彼女は俺をじっと見つめる
「10年待った。待つのには慣れている」
「馬鹿。俺の言ったこと、聞いてなかったのか?」
「10年待って、海を越えたのに、ちょっと冷たくされたくらいどうってことはない」
「いや、あのな」
「それにユウはあのとき私の目を見ずに言った。それで思い出したんだ。昔からユウは、
強がりを言うときは目をそらす」
  そうやってクロエはにっこり笑った。
  俺の顔がほてった。見透かされた恥ずかしさで逆上していた。
「ユウ、私は今日からユウのうちに泊まる。だから一緒に帰ろう」
  さらなる追い打ちに俺はひどく混乱して、言葉が出なかった。
  ただ口をパクパクさせる俺に、クロエは微笑みながら俺の左腕をとり、寄り添った。
「行こう。……一緒に帰ろう。10年ぶりに」
  その言葉に俺の疑問も混乱も溶けた。夕日はあのサンフランシスコと変わらない。
  だからあのときと同じようにクロエと連れだって歩いた。
  おれもクロエも変わってしまった。でもこの懐かしさにだけは、たぶん幻想でも、
今だけは浸っていたかった。

インテルメッツォ(幕間劇) その1

 言わなくて良い一言を言って、関係をぶちこわしてしまうのは最悪だ。
  誰にも心を開かないと思っていた人が、いきなりやってきた金髪美人になびいてしまうのは
もっと最悪。
  そして、あのアメリカ人が超がつくほどの美人で、しかも幼なじみで、
おまけに彼をすごく愛しているみたいだってのは、冗談はやめてってくらい最悪。
  今日は、最悪の日。
「……わたしだって2年間好きだったんだから」
  勉強が手につかない。でも勉強をしないと彼と一緒にいられない。
  彼がクラスから浮いてても先生も友達も何も言わないのは、彼の成績がトップクラスで、
しかも中学時代に流血沙汰を起こしたからだ。
  というか、少年院に行ったような不良を3人病院送りにして停学になっても、
この高校に入れたというのは、成績のたまものだ。
  だから私は彼と一緒にいるためには、よほど努力しないとだめなのだ。
  やっかいな人を好きになったと思う。だけど……だけど、
「やだ、あきらめるなんて……」
  泣いて汚い顔になっているけど、涙が止まらない。
  あの日、私は助けられた。そのことを彼は忘れていて、他の人は誰も知らない。
  あの子はアメリカ人なのに、美人なのに、どうして好きな人が彼なんだろう。
  私には彼しかいないのに……。
  そうやって汚らしくうじうじ泣いて、眠たくなってきて、ようやく思いついた。
  でもまだ恋人同士じゃないよね

第2話 『約束のち告白、ところにより修羅場』

 翌早朝、自室。

 夢の中で俺は自転車に乗っていた。旅行用のやつでキャンプ用品などの荷物も積んでいる。
  青い空の下で綺麗な海辺を走っている。海の反対側には緑の草原が広がっていた。
  突然、道の真ん中に人が現れ、俺になにかを話し出した。
「通行禁止? どうして」
「それはね、柴崎君がマクフライさんと結婚するからだよ」
  人影はいきなり高村さんになって、高村さんは俺の自転車を押しとどめた。
「なんで俺とクーが結婚するんだ? 俺はじいちゃんにあって、生徒会のパンフレットをもらうんだ」
  だけど、高村さんは突然俺の後ろに飛び乗って、彼方をさした。そこには学校があった。
「学校に行って高村さんとの結婚許可証を生徒会長にもらえばいいんだね?」
  こっくりと高村さんがうなずく。
  仕方がないかと自転車をこぎ始めると、海が金色に光って、クロエが現れた。
  クロエは俺を睨むと、銃を構えて、薄情者と叫んで俺を撃った。
  撃たれた俺は崖から落ちて叫び声をあげて……、目が覚めた。

 目が覚めるとすぐ前にクロエがいた。撃たれると思ってビックリして飛び起きて、
  間抜けにも頭から本棚に突っ込んだ。
  漫画や参考書、でかくて重い辞典まで、本の雨が俺の頭に降り注ぎ、たっぷり五分は痛みにうめく。
「何をしているんだ? ユウ」
  あきれた声が痛みにうめく俺の背中をうった。
「……、高村さんとの結婚許可証をもらおうとしたらクーが薄情者と言って俺を射殺した」
「? なんだかわからないが、人の顔をみて逃げられるのは、かなり気分が悪い。
  それになぜ私がユウを射殺する?」
「夢の話。そういう夢をみて、寝ぼけてびっくりしただけ。……ところで、クー。
  なぜ、俺の部屋にいる?」
「……。おはよう、ユウ。今日は晴れて気持ちの良い朝だ」
  クロエはなぜかついと目線をそらしてから挨拶をした。疑問への回答は無し。
  理由を追求しようとした途端、目覚ましが鳴り響いて、俺の疑問を彼方に追いやった。
  慌ててジャージに着替えて靴下をはいたところで、クロエの異変に気がつく。
  顔が真っ赤で、目が一点を凝視していた。
「どうしたんだ?」
「……そ、それはその、女性を欲しているのか? あ、いや、その、わ、私にも、心の、準備が……。
  できれば、せ、正式に、婚約を交わしてだな……」
  クロエの視線の先をたどる。俺の下半身。別に特に変わりはない。朝だから膨張して……!?
「だぁぁ! なんでまだいるんだ!」
「す、すまない! いきなり着替えだしたから……。でも、や、やはりシャワーは
  浴びさせて欲しい……」
「これは生理現象だから! 別にエロいこと考えてないから! ……うわぁっ!」
  片足立ちで靴下をはいていた俺は、焦って股間を隠そうとして、散らかった本を踏んづけ転倒した。
  ご丁寧にちょうど良いところにあった固い辞書が倒れる俺の後頭部を再ヒット。
  結局、今朝の稽古は散々な出来で、じいさんに雑念を捨ててこいと怒鳴られ、
  ランニングをし直す羽目になった。

 登校中、俺とクロエには少し微妙な緊張があった。というか、クロエが俺を見て恥ずかしそうな顔を
  するため、俺も照れてしまっていた。
  そういう雰囲気で学校に到着すると、校門で高村さんが俺達をまってたかのような
  タイミングで現れ、微笑みを浮かべて寄ってきた。
  けれど、その笑みはどこか作り物めいている。
「おはよー、柴崎君。……あの、昨日はごめん」
「え? なにが?」
  高村さんは一瞬拍子抜けという顔をした。
「ほら、私が自意識過剰って」
  そういえば、そんな会話をした。それを思い出すと今更ながら高村さんに申し訳ない感じがしてきた。
些細な事で怒ったくせに勝手に忘れていたからだ。
「ああ、いや高村さんは悪くないよ。つまんないことで腹を立てる俺が悪いんだよ。
  ……あれは俺の病気。だめなんだよなぁ」
「そんなことないよ。私もいらないこと言っちゃったし、ほんとごめんね」
「俺の方こそ、高村さんにそこまで気をつかわせて、悪かった」
「お互いに悪いところがあったで良いのではないか?」
  俺達の謝り合戦に割り込んだのはクロエだった。
「お互い、もう充分に謝っている。早くしないと授業が始まるぞ」
  とクロエがせかすと慌てだしたのはなぜか高村さんだった。
「あああ、あのね、あのね……。コンピューターの事でわからないことがあるの。土曜日、空いてる?」
  なぜか高村さんは少しおどおどして上目遣いだった。いつもと違う仕草にかわいいものを感じる。
「予定は空いてるけど、俺、あんまり詳しくないよ? 谷澤とかの方がいいんじゃない?」
「いいの。谷澤君、詳しいのはわかるけど説明されてもさっぱりわかんないし、
  柴崎君なら一緒に仕事しているから、安心できるし」
  むうっと高村さんが顔をしかめた。確かに谷澤のPC専門用語は俺でもわからないときが多々ある。
  やつの技能は一流だと思うが、まるきりのPCオンチに対する指導者としては役不足かもしれない。
「まあ、高村さんがそれで良いって言うなら良いけど。で、学校でやるの?」
「ううん、うちのコンピューターなの。ごめんね、私の家に来てくれる?」
「……、なんか女の子の家に上がるのは緊張するなぁ」
「えー、全然大丈夫だよ。その日はお父さんもお母さんもいないから。ね、お願い!」
「うん、まあ昨日のこともあるし、がんばってみるよ。でも俺、高村さんの家、どこにあるか
  わからないよ?」
「ありがと! じゃあ、11時に、柴崎君の家に迎えにいくから。おいしい紅茶もごちそうするよ」
  それだけのことで高村さんは、なにかとてもうれしそうだった。
「さあ、もういい加減にしないか。授業が始まってしまうではないか」
「おい、クー、そんなに押すなって」
  なぜか機嫌の悪くなったクロエに俺はグイグイと背中を押されて校舎に入る。
  ついてくる高村さんの顔が、もういつもと同じ笑顔を浮かべていて、俺はほっとした。

今日の昼休みこそ、自転車旅行の計画を煮詰めようとして、やっぱり邪魔された。
「ユウ、私はスシが食べたい」
  購買部で買ってきたサンドイッチとコーヒーを自分の机で食べていると、クラスの女子をまねして
  クロエが机を寄せてきた。
  そして、何か考え込んだあげく突如そんなことを言い出した。
「サンフランシスコにだって寿司店ぐらいあるだろうに」
「本場のスシがいいんだ」
「本場のって、回らない寿司のことか? あれは高いんだぞ」
「回る? よくわからないが……高いのか……やっぱり高級料理か。日本に来れば少しは安いと
  思ったんだが」
  とため息をついたクーは、気の毒なほどしおたれる。
「安くてうまい回転寿司屋なら知っているが、それで良いなら食べに行こうか?」
「む、ローリングスシでもおいしいのか。うん、行こう。土曜日だ」
「おいおい、土曜は高村さんと約束があるの知っているだろ」
「わかっている。それが終わったら、私とローリングスシだ」
「日曜日でいいだろ?」
「だめ、土曜日。早く帰ってきてローリングスシ」
「おい、クー、いったいどうしたんだ?」
  なぜか、クロエは目をそらした。そのそらした先に高村さんがいる。
「やっぱり日本人は、日本人を好きになるものか?」
「……単に周囲に外国人が少ないだけだろ。東京なんかは外国人しか愛せないっておねーさんも
  いっぱいいるらしいし。だいたいそれを言うならクーこそ、あっちでステディは出来なかったのか?」
  帰ってきたのは沈黙だった。昼休みの喧噪が遠くなるような重い沈黙。
  それは息が詰まるかと思うほど続いて、クロエのため息で終わった。
「怖いんだ、男が。私を好きだと言ってくれた人がいて、受け入れようと思ったこともあったけど、
  だめだった。……でもユウは違う。怖くなくて、解放される。私の体が、心が、魂が、
  ユウとともにあることを欲しているんだ」
「わかったわかった。なんか愛の告白みたいに聞こえるからそのへんでやめとけって」
「ユウ、私は真剣だ」
  クロエの声が低くなった。アイスブルーの瞳が、強い光をたたえて、俺を見つめた。
「ユウ、私はユウが私のことを忘れていたのは赦す。十年経って、事前に連絡もなければ、
  わからないのは仕方がないかもしれない。
  ……でも私は、ユウのことがすぐにわかったのだがな」
  なにか自分の席が、被告席になった気分がした。サンドイッチの味がわからなくなる。
「そしてその後の冷たい態度も、私は赦す。ユウは皆に心を閉ざしているのだから仕方がない。
  それに家に帰るときには私に少し心を開いてくれたしな」
  喉が無性に渇いて、コーヒーを飲み干した。しかしなぜか渇きは収まらなかった。
「だけど、今朝の校門の事は赦せない」
「どれのことだ?」
「高村サンの家に行くことだ」
  なーんだと思って笑おうとして、クロエの目が全然笑ってないのに気付いた。

「ユウ、家族がいない時の女性の家に行くことをどう考えている?」
「……、べつに高村さんは俺の恋人でもなんでもない。単にコンピューターを治すだけなんだけど?」
「だめだ。その話は断って欲しい。ユウは別にPCのエキスパートってわけじゃないのだろう?
  じゃあ、ユウでなければならない必然性は無い」
「そうだけど、もう約束しちゃったんだよ」
「私は、ユウを束縛したくない。でもユウには誤解を招きそうな行動を避けて欲しい」
「誤解も何もないだろ。だいたい彼女には彼氏がいるかもしれないし。
  それに俺達はクラス委員なんだぜ。それはクーの考えすぎ」
「……わかった。じゃあ、私と一緒に断りに行こう。ちゃんと私がユウを助けるから、心配はいらない」
  そういってクロエは笑ったが、やはり目は全然笑ってなかった。
「はいはい、わかった、わかった。別にどっちでもいいし、断って……」
「その必要はないわ」
  俺が腰を浮かせかけたとき、高村さんの声がした。
  いつの間にか俺の後ろにたっていた彼女は、俺に並んで側の椅子に腰掛けた。
「マクフライさん、あんまり柴崎君を困らせないでくれない?」
  クロエの顔から瞬時に笑みが消えて、無表情になった。親しみやすさが完全に消え、
  氷のようなという形容詞がぴったりになる。、
「ちょっと、いいんちょ」
「柴崎君、すこし黙ってて」
  高村さんの返答は口調は柔らかいのに、妙に迫力があり、俺は思わず気圧されて黙ってしまった。
「マクフライさん、どうして、柴崎君が私の家に遊びに来ることが誤解を招くかな?
  それに柴崎君を束縛したくないってそれはどういう意味?」
「高村サン、不愉快な思いをさせてしまったらすまない。ただ私達には絆がある。
  それを大事にしたいだけ」
「でも十年間、何も無かったんでしょう? それでいきなりやってきて、絆と言われても、
  柴崎君が困ると思うわ」
  そういう高村さんはにこやかな顔をしている。だけど、やっぱり目は笑っていなかった。
「高村サンには絆の大切さはわからない」
「そうやって絆とかいって、柴崎君を束縛したいだけでしょう。柴崎君はマクフライさんの
  モノじゃないわ。それに……」
  そういうと、高村さんが俺の方を向く。
「ねえ、柴崎君。マクフライさんと恋人同士なの? キスとかした?」
  その真っ向勝負な質問におれは思わずクロエと高村さんを見比べた。いつのまにか
  教室が静まりかえり、全員が俺達に注目していた。
  緊張をはらんだ沈黙が流れる。他のクラスの喧噪がやけに遠くに聞こえた。
「……いや、そういう訳じゃないけど……」
  クロエがうなだれ、高村さんが勝ち誇った様な顔をした。
「やっぱりね。……柴崎君も柴崎君だよ。どうしてそんなに流されるのかなぁ?
  いくら幼馴染みだからって、そこまで許しちゃだめだよ」
  高村さんがまるで女教師のようにお説教を続けた。
「親しき仲にも礼儀あり。酷すぎる干渉を許すと、柴崎君にもマクフライさんにも良くないんだから。
  せっかくの仲の良い幼馴染みの仲が……」
「ユウ、すまなかった」
  いつのまにか至近距離にクロエが来ていた。
「……え? な、なにが?」
「私は、ユウに会えて喜びすぎていたようだ。だから大事なことを言い忘れていた」
  その顔には怒りも冷たさもなかった。あったのは、祈りにもにた真摯な目の光と若干の不安の影。
  なにかを抱くように両手が胸の前で組まれた。
「ユウ……好きだ。愛している」

 音のない爆弾が炸裂したように、教室が静寂に包まれ、そして次の瞬間歓声が満ちた
「私だけを見て欲しかった。……思いを伝えずにユウを縛ろうとして、すまなかった」
  そうやって優しく微笑むクロエを見ながら、俺は混乱していた。
  言葉の意味は理解している。クロエは愛している。誰を? 俺を。アイシテイル?
  なぜ? どうして?
「ユウ、あなたの返事を……」
「ちょっと待ちなさい!」
  高村さんの鋭い声が、歓声と俺の混乱を断ち切った。
「……高村サン、なぜ邪魔をする? 確かにユウと私はさっきの時点では恋人同士ではなかった。
  だが、私はユウを愛している。だから貴女の家に行って欲しくないのだ」
「問題はそういうことじゃないわ」
  彼女の表情にいつものにこよかさが消えていた。あったのは焦りとか怒り、彼女には似合わない色。
「十年前からの幼馴染みか何か知らないけど、昨日突然やってきてべたべたくっついて
  今日いきなり告白してって、そんなのおかしいわ」
「高村サンの言うことはわからない。ユウへの愛は突然ではない。昔から心にずっとあった。
  ただ昨日やっと会えたというだけだ。
  ……ところで、なぜ貴女は私とユウの事に干渉する? それこそ、貴女はユウの恋人ではないはずだ」
「それは、その……」
  もごもごと口ごもる高村さんをクロエは氷点下の目でみつめた。 
「はっきりいうが、高村サンにユウと私のことを言う権利は無い。そして土曜日もキャンセルに
  してもらう。ユウには必要以上には近づかないで欲しい」
  だが俺は嫌な予感がしていた。というか、この会話の流れで、ここで終わるはずはないからだ。
  できればこの席を立って逃げてしまいたかった。
  案の定というべきか、高村さんが顔をあげた。そこにはもうごまかしの笑顔は無い。
  決意を秘めた顔だった。こういう顔を俺は先ほどクロエで見た。
「……権利はあるわ。キャンセルもしない。……柴崎君から離れない!」
  宣戦布告をクロエに。そして彼女は俺を見つめる。 
「……わたし、柴崎君が好きだから。二年間、ずっと好きだったから。今さら出てきた人に渡さない!」
  教室は前以上に沸いて、治まらなかった。
  その中で二人はにらみ合い、俺はひたすら混乱していた。
  くだらない、あまりにもくだらない。俺は一人でいなくちゃならない。
  誰かに愛されて良い人間じゃない。馬鹿だった。俺はあまりにもうかつだった。
  楽しさと快さに浸ってしまった。だからこんなことになる。
  俺は人殺しなんだ。殺した。そう殺した!
  頭が割れるまで椅子を振り下ろした。肉と骨にめりこむ手応え。やめてくれと訴えるあの目、
  手についた白い脳髄、紅く染まった俺の手。
  昔もこうだった。俺のことでみんなが対立した。学校でも町でも家でもみんなが言い争った。
  俺をヒーローなどど持ち上げながら、目で俺を人殺しと罵った。また、みんなが争っている。
  なぜ俺を放って置いてくれないんだ。
  頭痛がする。鼻の奥であの臭いがする。周りの声が頭中を駆けめぐる。ああ、これは発作だ。
  もう、とまら……。

インテルメッツォ 発作
 私がマクフライさんとにらみ合っていると、突然、側の椅子が音を立て始めた。
  柴崎君が震えていたのだ。何が起こったのかわからない私たちを尻目にマクフライさんだけが
  柴崎君に素早く駆け寄っていた。
「まずい、発作だ!」
  マクフライさんに抱きかかえられた柴崎君をおそるおそるのぞき込むと、
  彼の目はどんよりとした光しかなく、焦点を結んでいなかった。
「殺した……俺が殺した……」
  そんなことをつぶやきながら、彼は机を血だらけの拳で叩き続けた。
  それが無性に痛々しく恐ろしかった。
「ユウ、大丈夫だ。ユウ」
  だからそれらに一切動揺せず、涙を流しながら柴崎君を抱きしめるマクフライさんの姿は、
  悔しいけれど聖母のようだった。
  柴崎君がマクフライさんの左肩に嘔吐しても、彼女はぴくりとも動かず彼女は背中をさすっていた。
  誰かが先生を呼び、先生が救急車を呼んだらしく、毒気が抜かれた教室に、
  サイレンの音が響きだした。
  それでも教室にいた私達は、誰も二人に近寄れなかった。
  柴崎君の抱えているものの禍々しさとマクフライさんの崇高さが、私達を金縛りしていた。
「……絆……」
  誰かがもらしたその言葉に、私は……マクフライさんに……叫びだしたいほどの嫉妬と羨望を
  かき立てられていた。
インテルメッツォ 港南精神神経科病院 2階215号室
私は馬鹿だ。エゴイストだ。ユウを発作に追い込んでしまった。罪深い女だ。
  病院のベッドで眠り続けるユウを見ながら、私は自己嫌悪に落ち込んでいた。
  ユウを救いたいなんてよく言ったものだ。現実はユウを傷つけている。 
  ユウは私たちを助けて、自分の心を壊してしまった。
  一度目は、助けたそのときに。二度目はそれから半年間かけて。、 
  ユウが好きだったミセス・クライン。私は彼女を何回呪ったことだろう。
  町の大人達、上級生達、無邪気な他のクラスの生徒達。地元マスコミ、教育委員会、
  そして彼を助けるべき医療者達。
  ミセス・クラインが致命傷の一撃を、そして彼達が無数のとどめを。そうやって、彼は壊れた。
  私達も少なからず壊れた。
  PTSDと医者は言う。ならば壊れた心のかけらはどこにいくのだろうか?
  だけど、誰も悪くはない。悪いのは死んだジャンキー、あのブタのようなクズだけ。
  ユウを救いたい。そしてユウに救ってほしい。
  神様、こんなに毎日祈っているのにどうして助けてくれないのです!
第3話 『キス+キス=修羅場』

ミセス・クラインの悲痛な叫びが教室に響いていた。レイプされていたのだ。
  それでも彼女は大丈夫だからと僕達に言い続けた。
犯人の周りに全裸で立たされた女生徒達は皆泣いていた。
  誰もが恐怖と悔しさで顔を伏せていた。
  僕はミセス・クラインが好きだった。くじけそうな僕を助けてくれた。
  優しくて綺麗で、たぶん僕の初恋だったのだろう。
  僕はミセス・クラインの授業だけを心の拠り所に登校していた。
  しかしいじめは続き、死にたいと思う心が弱まることは無かった。ただ臆病ゆえに死ねなかった。
  死ぬのは怖い。……でもミセス・クラインを助けて死ぬなら……。
  校長先生は勇気が必要だと言っていた。
  不正と戦う勇気、悪を止める勇気。
  そしてチャンス。あいつはミセス・クラインに夢中だ。今しかない。
  震えて力が入らない手足を出来るだけ静かに出来るだけ急いで動かして、犯人の後ろまで這った。
  靴を脱いで立ち上がる。鬼ごっこでこれをやると気付かれずに捕まえられるから。
  転がった椅子をそっと持ち上げる。手が震えて落としそうだった。
  おびえる女の子に笑顔を作る。
  ミセス・クラインが、声を殺して懸命に制止のジェスチャーをしたけど無視した。
  僕は渾身の力を込めて椅子を持ち上げると、目の前の揺れる頭に振り下ろした。

 そこで目が覚めた。
  白い天井はおなじみの精神病院。そしておなじみの頭痛とめまい、両手の痛み。
「また発作か」
  高校生になってから初めてだから、実に久しぶりだった。
  治ったのかもと期待していたが治ってなかったらしい。
  体を起こして部屋を見回すと、クロエがいるのに気がついた。
  さらさらの金髪が、俺の掛布団の上に広がっている。
  付き添いながら寝てしまったようだ。
  それを見ていて、発作前の事を思い出す。
「情けないな」
  体に傷跡はなく、日常生活だって対人関係以外は問題無くおくれる。
  なのに、発作を起こす俺の壊れた頭と心。
  ……ただ救いは、彼女たちの争いが消失するだろうということだ。
  普通の人達は、心を病んだ俺を本気で愛したりはしない。
  だから高村さんも好意が消えて元通りになるだろう。
  もしかしたら敬遠されるかも知れないが、それは仕方がない。
  ……何が幸いするかわからないな、そう考えると自嘲の笑いがでた。

 小さく短い笑いだったのにクロエがみじろぎをした。目が覚めたらしい。
  体が起きると、真っ赤に腫れたクロエの目が俺を捉えた。
  その瞳にみるみるうちに涙が盛り上がる。
「泣くなよ、クー。たまたま体調が悪くて起こしてしまったんだ。
  薬を飲めば抑えられる。心配ない」
  だがクロエは泣きじゃくっていた。
  最初に発作をおこした時もこうだった。
  泣き顔は昔と変わらない、そう感じながら昔のように頭をなでてやった。
  ……けれども泣きやまない。やはり昔とは違う。
「ワタシが、私が……ユウに……発作を……起こさせた」
  背中に腕を回して抱きしめてやる。
  それでも嗚咽はとぎれない。
  しゃくりあげる背中が、なぜかとてもか細く見えた。
  昔はクロエとともに彼女の姉や母親がついていた。
  彼女らが俺とともにクロエを慰めていたのを思い出す。
「孤独はお互い様か……」
  彼女もこの国では孤独だということを俺は忘れていた。
  「絆」と彼女は言う。あの事件の後、俺達のクラスは団結力が高まった。
  俺でさえ、いじめられることが無くなり、仲間扱いされた。
  そのときは俺は自分のことで精一杯だった。
  けれども考えてみればあの事件で苦しんでいるのは俺だけじゃない。
  男が怖いと彼女は言う。
  普段はそんなそぶりが無くても、愛してくれた人を受け入れられなかったという。
  そして彼女は一人で日本に渡ってきた。
  俺が彼女を忘れていても、彼女は俺を忘れずに、絆だけを信じて。
  ならば……。

 俺に出来ることを。壊れかかった俺に、今できることを。クロエにしてやれることを。

「クー」
  泣きじゃくるクロエの顔を俺は両手でやさしく挟んだ。
「今の俺には、これしか出来ないけど……」
  そうっと唇を重ねる。右手で背中を静かにやわらかくさすった。
  壊さないように、傷めないように、だけど氷を溶かす温かさを伝えたくて左手で抱きしめた。
  遠くの喧噪しか聞こえない白い静かな部屋で、時間を忘れて、彼女を腕と唇で抱きしめてやる。
 
  やがてしゃくり上げる息づかいが、ゆっくりとゆっくりと落ち着いてくる。
  もう自分を責める言葉は聞こえない。
  その唇はもっと楽しいことを紡ぎ出すべきだから、今だけふさいでしまう。 
  涙を流していた瞳が、閉じられる。すでに悲しみの色は無い。 
 
  どれだけの時間がたったのかわからなくなった頃、ようやく唇を離した。
「落ち着いたか?」
  目を開けた彼女は無表情で無言。
  ひどくばつの悪い沈黙が続いた。
  ……キスはやりすぎだったかも。そんな後悔がよぎり始めたとき、クロエの唇が開いた。
「ユウ……」
  返事を返す間もなく、俺はベッドに押さえつけられる。
  そして胸の上にはクロエ。
「……足りない」
  そういうと彼女は俺に唇を重ねた。

 その後金髪の雌は、俺の口を思う存分むさぼり、入ってきた看護婦が回れ右して出て行っても
  なお続けた。
「む、まさかこれで済んだと思ってないか?」
  口から体中の全てが吸われた気になって、惚けてため息をついてると、彼女が少し怒った顔で言った。
「これは昨日冷たかった分だ。まだ私を忘れていた分と十年分が残っている」
「……」
「楽しみだ。とっても楽しみだ。……ああ、日本に来て良かった」
  幸せにひたるクロエを見ながら、俺は何かとんでもないことをしてしまった気分だった。

 入院して一日たった。俺はすでに入院生活に退屈していた。
  クロエもいつまでも付き添うというわけにはいかず、家に帰った。
  いや付き添う気は満々だったのだが、病院の規則で渋々帰って行った。
  何もやることが無かったので俺は勉強していた。……自慢というわけじゃない。
  俺は自分の病気を自分ではどうにもならないと考えていた。
  けれどもある時、俺の祖父に言われた。
「どうにもならないのは、おまえが阿呆だからよ。病の理も知らず、ただ忌み嫌うだけで治るかよ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ?」
「病の理を知るのは医者だな。医者になってみれば治す方法が見つかるかもしれん。
  もっとも治らん病も山ほどあるがな」
「医者になる?」
「それも一つの方法よ。なにもせず治らんとあきらめるよりはましだな」
  以来、俺は勉強をしている。医師を目指しているというわけではない。
  ただ、少しでも自分の病気を理解する助けになればと考えているだけだ。

 数学を片付けて、茶を飲んでいると扉からノックの音がした。
  どうぞと返事をして、顔をのぞかせた人物をみて、俺は少なからず驚いた。
「元気そうだね、よかった」
「高村さん!」
どこか恥ずかしそうに、彼女は入ってきて、椅子に座る。そして部屋を見回した。
「マクフライさんは?」
「……、あ、うん、今日はまだ来てない」
「そうなんだ……」
  それだけをいうと彼女は黙った。妙に気まずいものが漂う。
  しかしいつまで黙っているわけにもいかない。
  何回か脳内でシミュレートして、覚悟を決め、俺は本題に触れた
「……高村さんの言ったこと、忘れてはいないよ」
  俺の言葉に、彼女はうつむいていた顔をはじかれたようにあげた。
「その、好きだって思ってもらうことはありがたいと思う……」
  照れる。ありえないほど照れる。
  クロエとキスしたくせに現金に出来ていると思ったが、照れるものは照れる。
  しかし二股は良くない。というか、この二人を手玉にとって同時進行できる能力は、俺には無い。
  クロエだけでも充分に振り回されている。俗に言うオナカイッパイってやつだ。
  だからここでけじめはしっかりつけておこうと思った。そもそも、俺ごときが
  そうそう好かれる理由もない。
「でも、俺は高村さんに好意を持たれるような事はしていない。なにかたぶん誤解…」
「違う! 違うわ。柴崎君が忘れているだけ」
  そういうと彼女は眼鏡をはずし、鞄から取り出した黄色いリボンで髪をくくった。
「2年前の私……思い出さない?」
  それだけで彼女は大人びた印象が消え、むしろ闊達な雰囲気になった。
  俺はそのリボンで、二年前の夏の記憶を唐突に呼び覚ましていた。

 蒸し暑いうっとおしい夏の夜だった。公園を横切ったのはうっとおしいから
  単に近道したかっただけだ。
  ただその頃は、夜になるとたちの悪い学生がたむろしているということで、誰も近づかなかった。
  俺はそれを知っていたが、通るだけならどうってことはないと思っていた。
  公園を少し入ったところで頭の悪そうな不良に道を遮られた。
  普段なら、素直に引き返していただろう。
  だが、その日のカウンセリングは最悪だった。
  徒労と怒りをため込んで、耐えきれなくてカウンセリングを途中で切り上げた。
  そのまま家に帰ればいいのに、鬱憤晴らしとか言ってゲームセンターに寄って、負け続けた。
  夜なのに外は不愉快に暑かった。
  だから俺を遮る不良の口調にも無性に腹が立った。
  それでも引き返そうとしたが、目つきが気に入らないと絡まれた。
「それで、なにがいいたい? 日本語をしゃべろうぜ」 
  惚けた顔の不良をみると少しすっとした。そして湯気を噴いて怒るそいつをさらに挑発した。
  簡単に激発して、殴りかかってきた不良のみぞおちに抜き手を深々とたたき込む。
  そいつは動きをとめて顔色を変えると、吐いた。吐瀉物が腕にかかる
  汚さが嫌でけり倒すと、無様に転がって動かなくなった。
  しかし不良を殴りとばしても気が晴れることは無く、後味の悪さだけが残っただけだった。
  つまらないことをしてしまったと思いながら、公園の奥に進んだ。
  と、外灯の光が差し込まない暗がりに絡まり合う人影があった。
  男達が誰かを組み敷いていた。男三人、犠牲者一人、りぼん付き。
  助けてくださいっと悲鳴があがって、すぐ口を塞がれるような物音がした。
  何みてんだよとか向こう行けとか言われたはずだが、はっきり覚えていない。
  ただ哀れな犠牲者が、あのときのミセス・クラインの姿にダブっていた。
  目の前が真っ赤になったと思う。
  奴らのうちの一人と目があった。後で聞くとシンナーをやっていたという。
  俺には、焦点の合わない麻薬中毒患者のような目だと思った。
  気に入らない目だった。俺達をむちゃくちゃにしたあいつを思い出させて不快だった。
  それは怒りというべきだろうか? 殺意と言われても仕方が無いと思う。
  少なくとも女を救うという意識では無かった。
  ただ奴らがどうしようもなく気に入らなかっただけだ。
  そうでなければ、3対1で戦ったりなどしない。
  俺は無言で奴らに殴りかかり、ぼろぼろになりながらも勝った。
  勝負が付いたところで俺達全員が補導された。ただすでに被害者は逃げてしまっていた。

 結局、服や下着の切れ端から婦女暴行の疑いが彼らにかかり、余罪が明らかになって、
  彼らは少年院にいったという。
「まあ、女の子を救うのはいいんだけどな、入院になるほどはやりすぎだと思うよ」
  それが俺を取り調べた刑事の言葉だ。
  その後、当たり前だが暴力行為で停学となった。幸いながら事情を斟酌されて停学は短めだった。
  そしてその停学があけると、札付きの不良を病院送りにした男というレッテルが張られていた。
  間違ってはいないので俺は黙った。ヒーローよりは悪名の方が俺にとっては
  都合良い事が多かったからもある。
  事実、余計なことで話しかけてくる人間は減り、不良グループも目つきとかで
  因縁をつけることが無くなった。
  だけど最大の理由は、女を救うために戦ったのではないことを、俺自身が一番知っているからだった。

「そうだったのか。暗かったし、リボンしか覚えていなかったから」
「私ね、あいつらが少年院に行ったって聞くまで怖くてね。仕方がないから変装することにしたの。
  眼鏡かけて、りぼんはずして、髪の毛短くして。それを続けてたら結構気にいっちゃってね」
  高村さんは髪をいじりながら続けた。
「で、私は別の中学校でしょう? 助けてくれた人のことわからなくて、会いたいなって思ってたんだ。
  そしたら塾で友達になった子がね、柴崎君の事を教えてくれたんだ。
『暗くて協調性無くて、成績だけいいガリベン君だと思ってたら、女の子をマワしまくってたやつらを
  三人全員病院送りにしちゃったっていうでしょう?
  みんなびっくりしてさ。1年の生意気なやつでも、ソイツには道をあけるんだよ。
  もうおかしくて』ってね。
  それでね私、時々柴崎君の事、見に行ってたんだけど、気付いてた?」
  俺は首を振る。
「周囲なんかどうでもいいから」
  その言葉で高村さんは、けらけら笑い出した。
「全然変わらないよねー、ほんと。気付いてくれないかなーって、結構うろちょろしてたんだよ」
  そう言われても困る。中学の頃はもっと女が苦手だった。
  根暗と言って俺を敬遠する割には、どうでも良いことで絡んでくる訳のわからない存在だったからだ。

「でも高校は一緒になってうれしかったよ。初めは話するの怖かったけど、しゃべってみたら
  結構フツーだったし」
「そりゃ、ツッパったり族やチーマーってわけじゃないから」
「それでも柴崎君は冷たいから苦労したんだよ。好きな子がいないってのは安心したけど、
  彼女作ろうって雰囲気もなかったし」 
「別に今でも無いよ」
  傲慢な言葉と言われるかも知れない。
  だけど三日前まで、俺は教室の隅にいる目立たない男子生徒で、それが恋愛に非積極的であろうと
  無問題のはずだった。
  高村さんが微苦笑のような表情を浮かべる。
「ほんと柴崎君って冷めてるね。……だから、クラス委員にしちゃったんだよ」
「えっ?」
  思わず俺は高村さんの顔をみた。
  彼女の目はいたずらっぽい雰囲気を漂わせている。
「友達にお願いしてね、柴崎君を推薦するようにしたんだよ。クラス委員になると、二人で話す機会、
  増えるでしょ?」
「嘘だろ?」
「えへへ……」
  しかし彼女はごまかし笑いをしながらも一切否定をしなかった。
「……でね、あとは告白するだけって思ってたんだけどね〜」
  クロエの顔がちらついた。何も言えなくなり、俺は下を向く。
  一つため息が聞こえて、そして高村さんの声がすこし翳りを帯びて低くなった。
「……ねぇ、レイプされそうになった女の子の気持ち、わかる?」
  その内容と声の暗さに俺はふと顔をあげた。
  高村さんの顔からいつもの明るさも強さもすっぽりと抜け落ちていた。
  いたのは、俺の知らないもろさを抱えた少女。
「……おぞましくて悔しくて悲しくて怖くて、今でも夢に見るんだよ。レイプされちゃった夢まで
  見るときあるよ。
  すごく落ち込むし、男なんて大嫌いになる」
  己をむしばむ毒をはき出しながら、彼女は薄笑いを張り付かせていた。
「だけどね、柴崎君がいるから」
  唐突なその一言で、もろそうな少女が消えて、あの高村さんが帰ってきた。
「柴崎君がいるから私、生きていける。私を守ってくれた時のことを思うとね、許せるんだ。
  世界は悪いことばかりじゃないってね」
  けれども瞳にだけは、いままで見たことのない、どこかすがりつくような色が揺れている、
「買いかぶり過ぎだよ。それは俺を見誤って……」
  俺の反論はあっさり遮られた。
「柴崎君は自分にも冷たすぎると思う。自分を否定しすぎ。それってマイナスの自意識過剰だから。
  それで私やマクフライさんを傷つけているんだから。わかってないでしょ?」
「……」
  その言葉は頭を殴られるような衝撃をもたらした。痛い真実だったからだ。
  黙り込んだ俺を見ながら彼女は椅子から俺のベッドに座り直した。
「それに、柴崎君は私を勘違いしている。私、そんなに立派じゃない。やらしいんだよ。知ってる?」
  彼女が俺の手をとり、両手で俺の手を握り込んで胸に抱く。
「私ね、柴崎君を想像して、自分をさわっちゃうの。……オナニーしてるんだよ」  
「!?」
  俺の手が制服の上から彼女の左胸に埋め込まれていった。

「エロくて嫌いになった? でもこうして柴崎君に胸を触って欲しかった……指、動かしてもいいよ」
  手に感じる心地よい柔らかさゆえに、俺は緊張していた。指が硬直したように動かせない。
  いつのまにか、高村さんがにじり寄ってきていた。
「私、柴崎君がどんなに悪い人か知らない。……でも私もやらしいから、お似合いだよ?
  マクフライさんはまっすぐで純情だからもてあそんじゃ駄目だけどね」
  あっという間に至近距離に顔がやってきて、そして唇が重なる。
  高村さんが痛いほどに俺を抱きしめている。歯が当たってキスに慣れていないのがわかる。
  それでも舌が俺を食べ尽くすかのように俺の口腔で動きまくり、舌に絡まり歯をなぶって、
  唇が俺の唇を優しく挟む。
  そして彼女の胸に当たっている俺の手に、乳房全てをこすりつけ埋め込むかのように
  体をゆっくりと揺らした
  長いようで短い時間が過ぎて、唾液の糸を引いて唇が離れた。
  俺の手も胸から離れる。見ていると何かを飲み下すように高村さんの喉が動いていた。
「……柴崎君のつば、おいしい。……私の中で柴崎君が混ざってるんだね」
  上気した頬、うるむ瞳、なにか言葉に出来ない淫靡なものが彼女を彩っていた。
  それはなぜか俺に鳥肌をたたせていた。

 不意に扉が開いた。
「ユウ! 着替えもって……、高村サン」  
「……あら、マクフライさん」
  クロエが部屋の中の高村さんを認めたとたんに、淫靡な雰囲気が消し飛び、
  微妙な緊張が部屋に張り詰めた。
「高村サンは、どうしてここに?」
「御見舞いだよ。私のせいで具合悪くなったんだしね」
  勢いよく入ってきたクロエの表情が氷の冷たさを帯びる。
  対照的に高村さんの表情に蛇の悪意が宿った。
「ありがとう。でもユウは私が世話するから、高村サンは安心して待ってて欲しい」
「待てないの。好きな人のことは早く知りたいから」
  クロエのブルーの瞳が細められ、高村さんの口がゆがんだ笑みを結んだ。
「……、ユウの病気のことは、私が良く知っている。今のユウには心の安静が必要なんだ。
  高村サンの気持ちはわかるけど、ユウの病気にはよくないから、高村サンは来ない方が良い」
「そうかな? 私はマクフライさんがいたほうがよくないと思うな」
  突然、氷にひびが入ったように、クロエは動揺した。それを高村さんは見逃さなかった。
「マクフライさんは、一途で健気で、いい人だと思うよ。
  でもね、柴崎君の心の細かいところをわかっていないな。
  普通の男の人ならマクフライさんは良い恋人だけど、柴崎君にとってはよくないよ」
  言い負かされたかのようにクロエが黙ってしまったが、帯電したような緊張は解けなかった。
  そして、ひびが入ったガラスだったクロエの目が、青く燃えだしていた。
  高村さんも一切弛緩していなかった。
「なんと言われようと私とユウは愛し合っている。ユウは私にキスしてくれた。
  もう貴女が割り込むところは無い」
「……そう、早速掠め取ってくれたんだ。……キスなら今さっき私もしたわよ。
  胸だって触らせてあげたし」
「ビッチ! ……ユウを汚したな。二度と私のユウに触れるな!」
「はん、突然やってきて、勝手にキスする泥棒猫が! 柴崎君のキスを返しなさいよ!」
  パンと肉をはたく音がして、クロエが頬を押さえた。
  瞬間呆然としていた表情が怒りに燃え、右手が走った。
  さらに大きな音がして、高村さんが頬を押さえて倒れた

「もうやめろ! 二人ともいい加減にしろ!」
  クロエを引っ張って高村さんから引き離した
「だって、ユウ! あいつはユウを……」
「柴崎君! その女のいうことなんて無視してよ!」
  引きはがされてもなお睨み合う二人に俺は耐えきれないものを感じた。
「ユウ! ユウは私を選ぶよね」
「ダメぇ! 柴崎君」
  突っかかって来る高村さんをもう一度引き離したとき、俺は限界に来ていた
「もういい。出て行ってくれ。二人とも出て行ってくれ」
「ユウ!」「柴崎君!」
「出て行け! いいから出て行け! 出て行かないなら、看護婦さん呼んで出て行ってもらうぞ!」
  俺の剣幕に二人は驚き、そして肩を落として病室を去った。
  病室に静寂が戻る。扉のむこうがわで二人の気配が残っていたが俺は無視した。
  クロエが持ってきた着替えを片付けているうちに、苦い自己嫌悪がにじみ出てくる。
  流されるままで、毅然とした態度をとらない男が、修羅場に出くわして切れて女を追い払う。
「俺、最低だ……」
  ……だけど、拒んで傷つけるには、クロエの背中は細すぎて、高村さんの顔は不安だらけだった。
  俺は、いつも大事な人達を傷つけてしまう。 
  病室の窓に水滴がつきはじめる。空を黒雲が覆っていた。
  降り出した雨は、まるで彼女たちの涙のようだ、俺はぼんやりとそんな事を考えた。   
 
  数日後、俺は退院した。

第4話 『愛情×弁当+金髪=修羅場』

 早朝、ランニングを終えて俺は庭にいた。ただし全身を緊張させてだ。
  目の前には、俺の祖父が胴着と袴を着て、普通に立っている。
  俺は入院でなまった分を取り戻すつもりで全力で蹴りを放った。
  なのに祖父は、最小限の動きでゆうゆうと俺の攻撃をさばいた。
  吹けば飛ぶような痩躯なのに、こゆるぎもせずに立っている。
  間髪入れず正拳を放ってみるが、これも不発。お返しに裏拳が飛んできて、必死に避ける。
  ローキックで牽制しても無効。この時点で詰んでいたが、
  じいさんは容赦なく足を払い、俺の伸びた腕をとった。
  むしろ爽快と言えるほど庭の景色が一回転し、体に染みついた受け身を必死に駆使した。
  背中に衝撃が来て、息が詰まった。呼吸が出来なくなる地獄の苦しみがやってきて、
  必死にあえいで息をした。
「まあ、今朝はこれぐらいかな」
「悠ちゃん、落ち着いたらあがって朝ご飯食べなさい」
  じいさんは、あえぐ俺の方を振り向きもせずに、縁側から部屋にあがると律儀に手を洗い、
  飯を食い始めた。
  もう七十に手が届く年なのに顔はつややかで歯も揃っているから年齢より若く見える。
  ただし年相応のごま塩頭と胴着と袴という和装により、威厳は損なわれていない。
  俺にはまだ恐いじいさんだった。
  ばあさんも特に心配する風も無く、湯飲みに茶を注いだ。
  こちらは綺麗な白髪の下に優しい目をたたえ、やや小太り気味の、典型的なやさしい祖母だ。
  外見を裏切ることのないこの優しい祖母に、俺は何から何まで面倒を見てもらっている。
  駆け寄ってきたクロエが、心配そうに俺の背中をさすった。
「クロエさんや、そんなことせんでも悠はだいじょうぶだよ。
病み上がりには手加減ぐらいはしとるよ」
  じいさんは、そういうとうまそうに茶をすすった。
  数分してようやく俺は息が楽になり、クロエとともに部屋にあがった。
  汚れた手を洗って、ちゃぶ台の前に座る。クロエも並んで座った。
  箸にはまだ手をつけない。ありがとうございましたと礼をして、講評を待つ。
「技が荒れておる。が、ちょっとましだな。……クロエさんに感謝しとけ」
「……じいちゃん、よくわからない」
「あほ、細かい説明なぞできるか。ただな、技の悪い危なさが減っておる。
それがクロエさんに通じておる感じだな」
「?? そんなもんなのかな?」
「拳や技は、鍛錬と心を刹那に映す鏡よ。恐れも焦りも怒りも愛も技と拳でわかる。
悠の段階ではなおさらそうだ。だから武道は心技体の3つが重要というわけよ」
  いつもながらじいさんの言葉はわからない。だが不快なわからなさではない。
「考えても無駄だ。はよう飯を食え」
「そうよ、食べちゃいなさい。学校に遅れるわよ」
  だが食べ始めた俺を見ながら、クロエは箸をとらなかった。むしろじいさんの方を真剣にみていた。
「マスター、質問があります」
  クロエはじいさんをマスターと呼ぶ。達人という意味らしい。
「なんだい、クロエさんや」
「ドージョーをつかわず、庭でケイコするのは、やはりジュージュツのゴクーイなのですか?」
「うむ、良い質問だ。クロエさん、敵はいつでも道場に乗り込んでくると思うかい?
  そうではないな。歩いていても飯を食っていても来るときはくる。そのとき場所は選べない。
だから道場では無くこの庭で行い、常在戦場の……オールタイムオンバトルフィールドの
心構えを養うのよ。おわかりかな?」
「all time on battlefield……オオ、イエス、アイ、シー! イエス、イエス!
  マスター、クロエは感動しました」
「なぁ、ばあちゃん。確か道場って借金のかたにとられてしまったんだろ?」
「そうよ! おじいさん、稽古は厳しすぎるわ、気に入らないお弟子は取らないわで
お弟子さんみんな逃げちゃって。
おまけにやけを起こして大酒のむから、借金とりがうちに押し寄せたのよ。
仕方がないから道場とあたしの婚礼祝いの着物を売ったのよ、ほんとにもう」
  ガハハと笑うじいさんと、感動で目を潤ませるクロエを尻目に、俺とばあちゃんは茶を飲んだ。
  ま、現実なんてこんなもんだ。
「やはりイッシソデーンのブドーなのですね。すごいです」
  単に柔道や空手の試合では使えない技が多く、
部外者が苦労して学ぶほどの流派では無いだけのことだ。
「ワハハハハ、どうだ、柴崎流柔術はすごいだろう。ワハハハハ」
  そのとき呼び鈴が響いた。
「あらあら、こんなに朝早くどなたかしら?」
  ばあさんがパタパタと玄関に出て行き、戻ってきた。
「悠、学校のお友達よ。女の子。悠もなかなかやるわね」
  クロエの眉がピクリとあがった。

「おはよう! 一緒に学校に行かない?」
そこにいたのは、間違いようもなく、朝にふさわしい笑顔を浮かべた高村文華だった。
「えーと、いいんちょ。家はどっちでしたっけ?」
「近くだから気にしないで。それより一緒に行こう」
  だが近くというには、息は弾んでいる。門に立てかけた自転車もみえる。
「高村サン。無理はしない方が良い。ユウは私が責任もって世話をするから」
  仏頂面になったクロエがすかさず攻撃。
「ごめんね、マクフライさん。でも私、柴崎君のことは人任せにはしたくないの」
  だが反撃は一枚上手で、クロエの雰囲気が剣呑なものになった。
「……あのなぁ!」
  前回の騒動に懲りていたので抗議しようとしたが、高村さんが先手を打った。
「大丈夫よ。もう喧嘩はしないわ。ね、マクフライさん?」
「……う……うん」
  高村さんの笑顔に、クロエはしぶしぶ頷く
「でもなぁ……」
  そのとたん、高村さんが肩を落としてうなだれる。
「ごめん、迷惑なのは、わかっている。でも……でも……」
  体が震え、土間にしずくが垂れるのを見て、俺は慌てた。
  女の子を泣かせたなんて知られたら、たぶんじいさんに死ぬほどしごかれるだろう。
  鬼と化したじいさんは、さすがに勘弁したい。
「わかった、わかったからさ。いいよ、一緒にいこう」
「ほんと! うれしいな!」
  高村さんがあげた顔に、涙の跡は無かった。
  やられた!
「くっ、ユウの優しさにつけ込むとは卑怯な」
  クロエの歯がみもどこ吹く風で高村さんは笑う。
「いいじゃない。私も柴崎君の側にもっと長くいたいし」

 玄関を出ると、クロエが俺の右手にしがみついた。
  それをみて、高村さんも俺の左手をとった。そしてうむを言わさず手をつなぎ、俺の腕を抱え込む。
  腕が柔らかな感触に埋まるどころか、なにか独特の堅さのある突起までにふれた。
  まるで乳首のように。
  ……乳首? さらに、歩くたびに俺の手の甲が彼女の……股間というか……に触れている。
  当の高村さん本人は全然気にしていないようで、
  俺が休んでいた間の学校の出来事をしゃべっている。
  クロエは不機嫌に黙っていた。
  さすがにかなり左手が気になり、俺は少し左手を抜こうとしたが、手はがっちりと固定されている。
「あの、いいんちょ?」
「なに? 柴崎君」
  一転の曇りもない晴れやかな笑顔を浮かべられて、俺は左手の事を言う気を無くした。
  俺は早く学校につくことを心の底から願った。
  世の中にはバラ色の地獄があることを、俺は思い知った。きっと生涯忘れないだろう。

 俺にとって授業は、心休まる時間だった。
  たとえ教師が退屈な話をしていようと、それで悪いことは起きないからだ。
  しかし無情にも昼休み開始のチャイムがなり、律儀な教師は話を中止して、
  小テストの予定を告げた。
  周囲はいきなりの告知にわき上がったが、授業中試験に出す部分を教師はさらりと告げている。
  俺はノートして、かつ集中して聞いていたので概要はつかめていた。
  帰宅後、ノートを見返して問題集で練習問題をこなせばいいと目算をつけ、
  教材とノートを閉まった。
  そしてパンとコーヒーをカバンから取り出す。
  自転車旅行用の地図を取り出そうかと考えて止めた。クロエに邪魔されるだろうからだ。
  そのクロエがやってきて、前席の椅子を反転させ、俺の正面に座る。
  去っていく席の持ち主に笑顔で手を振っていた。
すでに取引は済ませていたようだ。
  クロエは笑顔をおさめると、嘆きや怨嗟の声が満ちる周囲を見回しながら語りだした。
「理解度確認テストのようだが、ユウは自信がありそうだな?」
「あの先生は大事なことを平板に語る。ちゃんと集中して聞いていれば、
  それほど難しいことは要求していないよ」
「さすがだな、ユウは。私は日本語が分からないところがあった。すまないが教えて欲しい」
「オッケー。……でも、クーは授業についていけているだけですごいとおもう。
カリキュラムが相当違い、異国語というハンディキャップ付きでそれならたいしたものだ」
「ふふん、ユウには悪いが、日本語は私にとって異国語ではない。いや、日本も異国ではない」
  瞳をきらめかせ、右手の人差し指をたてて、クーは顔をよせた。
「第二の母国だと思っている。もちろん、私はアメリカを愛しているが、
  ユウの愛するものを私も愛したい」
「……そう真っ向正面から言われると照れる」
「国際結婚というものは難しいものだ。それぞれの宗教、それぞれの常識、それぞれの文化。
理解を怠っていては、破局に至ってしまう。だから私は日本を学び、愛する。
  ユウを愛するため、そして助けるために」
  その言葉をまったく頬を染めず目を逸らさず、クーは宣言するがごとくに厳かに語った。
  かえって俺のほうが、照れた。どうしようもなく頬が、そして顔全体が熱くなる。
息がつまり鼓動が早くなった。
「ユウ、なぜ顔を赤くする?」
「……き、気にするな」
  首をかしげるクーをみて、さらにどうしようもなくなり、パックコーヒーを手につかんで
  開封しようとした。
  だが、突然後ろから伸びてきた細い手が俺のコーヒーを奪い去った。
  同時にクロエの顔が険しくなる。
「柴崎君、いつもこんなんじゃ、体に悪いよ?」
  体をひねって後ろをみると、にこにこした高村さんが俺のコーヒーを持って立っていた。
「いいんちょ! ……しかしそれは俺の昼飯で」
「大丈夫だよ。もっとおいしいものをあげるから」

 そういうと高村さんは、椅子を俺の机の左側にもってきて座った。
ちょうど3人で俺の机を囲む形になる。
  そして持っていた美しい風呂敷に包まれたものを机の上に載せた。
  高村さんがそっとひっぱると風呂敷はさらりと解け、綺麗な二段重ねの重箱が現れる。
  そして彼女が蓋を開けると、中には色とりどりのおかずが詰まっていた。
  出汁巻き卵、きんぴらごぼう、煮豆に、焼き鮭、ミートボール、鳥の唐揚げ、etc。
  さらに上段をずらすと、下段には俵むすびが整然と並べられ、漬け物がその周りを彩っていた。
「……す、すごいな」
「……オオ、カイセキデイッシュ! ワンダフォ……」
  俺と共にのぞき込んでいたクロエが思わず賛辞を口走りかけ、あわてて止めた。
  高村さんの手が素早くのびて、俺のパンも取り上げた。
「柴崎君、見ていればいっつもいっつもパンとコーヒーばっかりじゃない。
  ちゃんと栄養バランス考えている?」
「あー、栄養バランス……」
  まるで母親のように俺を軽く睨んでいる高村さんの言葉に、俺は言い淀んだ。
  心が不健康なので、肉体の健康にあまり興味はありませんなどと言えるような雰囲気が
なかったからだ。
「柴崎君は病気持ちなんだから、ちゃんとバランス良く食べなきゃ駄目。
  迷惑もかけたし、これお詫びだから」
「え? あ、ああ、ありがとう……」
  礼を述べながら俺は横目でクロエをちらっと見た。途端にアイスブルーの視線が突き刺さり、
あわてて目を元に戻した。
「大丈夫よ、クロエさんも一緒にどうぞ」
「ありがとう。しかし私は高村さんにご馳走になる理由がない」
  俺の視線を読んでか、にこやかに招待する高村さんに対して、クロエは背筋を伸ばし、
まるで弁当を見ないようにするかのごとく瞳を閉じた。
「あら、そんな堅苦しいこと考えないでほしいな。日本の文化を味わって欲しいんだけど?」
「文化?」
  余裕を持ってほほえむ高村さんを、クロエはきょとんと見た
「そう。クロエさんにもあるでしょう? 故郷の懐かしい味とか、どんなに国際化が進んでも、
人が捨てることの出来ない大切なもの。でも他人にはなかなか理解できないもの」
「何がいいたい?」
「国際結婚って難しいわよね。そんなに簡単に外国人を理解できたら苦労しないと思うの。
だからね、まずは五感で私達の文化を味わって欲しいのよ。……これね、全部、私が作ったのよ?」
  敵意を露わにしていたクロエが、その言葉に驚きの表情をする。
「愛のこもった料理はね、心を癒すんだよ。私ね、柴崎君にはこういうものが足りないと思うの。
今から理解してちゃ遅いと思うなぁ。でも私なら、柴崎君を助けて上げられるけどね」
  高村さんは相変わらずいつもと同じようににこにこと微笑んでいた。
  しかし俺にはその顔に何か黒いものを感じて、背中に冷や汗をかいていた
  気がつくと、周囲の視線が集まってきていた。ここ最近、視線を集めてばかりいるような気がする。
  突然、俺の腹が無遠慮に鳴り響いた。匂いだけ嗅がされて、お預けだったからかも知れない。
「ごめんごめん。さ、柴崎君、食べよ」
  そういうと高村さんは、箸を取り出し、下段の俵結びを箸でつまんだ。そして……
「柴崎君、はい、あーん」
  その瞬間、高村さんを除く教室中すべての人間が凍り付いた。

「……あの、いいんちょ?」
「ごめんねぇ、お箸忘れちゃったんだ」
  てへぇとか言って舌を少し出して、彼女は自らの頭をこづく。。
  狙っていたな、そう確信はあったが、弁当をもらう以上、言うわけにもいかない。
  追いつめられてクロエの方を見ると、立ち上がって歩き去って行くところだった。
「クー!」
「駄目だよ。ご飯中によそ見したら!」
  叫んだ俺の口に最適のタイミングで俵にぎりがつっこまれる。
  思わず咀嚼し、舌の上にあふれ出る美味を味わってしまう。絶妙の味というべきだった。
  旨さのあまりに無意識で飲み込み、ほっとため息をついた。
「じゃあ、次はぁ」
「あ、いや、いいんちょ! 箸をね……」
「量があるから食べる時間がなくなっちゃうよ。大丈夫、ちゃんと食べさせてあげるから」
  高村さんは俺の言葉をするりと聞き流して、上段から唐揚げをつまんだ。
  そして箸と共に唐揚げを口の前に差し出す。
  さすがに今回は俺も口を開けない。
  しかし、唐揚げも俺の口の直前で静止した。高村さんは、笑顔のまま。
  そのまま長い長い時間が過ぎる。教室を静寂が覆い、誰かが唾を飲み込んだ。
  グラウンドで歓声があがり、他教室のざわめきが流れる。
  風が吹き込んでカーテンを揺らし、窓から見える青空を雲が流れていった。
「いいんちょ?」
「あーん」
  俺の額に汗がにじみ、右目の側を滑り降りた。
  教室の中では誰も声をあげず、一心に俺達を見つめている。
  鼓動が徐々に早くなり、自らの呼吸音が脳裏に響いた。
  高村さんは、彫像のように微動だにしなかった。
  慈母のような笑顔を浮かべ、唐揚げを差し出している。
  息が詰まりそうになって、俺は思いっきりため息をついた。
「……いんんちょには負けたよ」
「あーん」
  ついに俺は根負けして口をあけた。
  笑顔をさらに輝かして、高村さんは唐揚げを俺の口に入れる。
「どう? 口に合うかな?」
  高村さんにはクロエが立ち去ったことも、
唐揚げを長時間突きつけていたことも無かったかのようだった。
  ただどこかまぶしい笑顔を浮かべ、料理を箸でつまんでは、俺の口に放り込んでいった。
「……と、とても美味しいです」
  それ以上、何を答えていいのか、俺はわからなかった。
  やがて弁当は空になり、俺の腹は満ちた。
しかし出ていったクロエが戻ってこず、俺は不安になった。

 そしてその日の放課後、クロエは先に帰ってしまった。
  高村さんは、帰り道もすごく上機嫌であれこれと話しかけてきた。
  つかまれた左腕は朝以上に彼女に抱きしめられ、高村さんの微妙な部分に押し当てられていた。
  そして、俺の家の前でだめ押しがあった。
  門の前で彼女は俺の前に回り込むと、唐突に言った。
「悪いんだけど、今日のお弁当のお礼が欲しいな」
「あ? ああ、……遅くなってごめん。おいしかった、本当にありがとう」
  丁寧に頭を下げて謝意を表す。
いろいろとあったが、弁当に込められていた労力が大変なものということは良く理解できた。
  俺みたいな人間には過ぎたもてなしだと思う。おいしかったから、感謝も心からできた。
  そう思っていたのだが、頭をあげた時、彼女はやや不満そうだった。
「そういうことじゃないの」
「はぁ。なにか俺、間違ってた?」
  高村さんは顎に人差し指をあてて視線を空にさまよわせ、何かを思案したようだった。
  やがて、両手を胸の前で組んで、俺を見据えた。
「じゃね、目を閉じてくれる?」
  疑問が浮かぶが、俺は言うとおり目を閉じた。
「……ごめんね、ちょっとかがんでくれる?」
  なんなのだろうと思いながら、少し膝を曲げた。
「じゃあ、いいと言うまで目を開けちゃ駄目だよ」
  ま、いたずらかもしれないが、好きにしてくれ、俺はそう思って待った。
  突然首に腕らしきものが巻き付き、唇に柔らかいものが重なった。
  思わず目を開けると、目を閉じた高村さんが信じられないほどの近距離にいた。
  二回目のキスのはずだが、今回の方が大きくうろたえた。
パニックになって硬直していたといってもいい。
  口内に進入してくるぬるついたものに口の中も歯も舌も全て舐められる。
  身体をこすりつけるかのように密着させ、柔らかい二つのものが意志をもって押しつけられ、
  中心の固いものが俺の胸を突いていた。
  足までもが絡ませられて、まるで捕まえるかのように彼女は俺を抱きしめていた。
  わき出る唾液を彼女は一切躊躇無く音をたてて吸いあげて、俺の舌を自らの舌でもてあそんだ。
  小さな声を上げながら、彼女は俺を全て吸い尽くしねぶり尽くそうとするかの如く、
  口をむさぼった。
  やがて彼女が唇を離したが、俺を抱く手は緩めなかった。
「……い、いいんちょ」
「文華(あやか)」
「え?」
「文華。名前で呼んで」
「……あやか、さん」
「もう。……ま、いいけどね」
  不思議なことに日本人相手だとファーストネーム呼び捨ては抵抗があった。
高村さんが少し残念そうな顔をする。
  それはともかくとして話を戻すことにする。
どうも俺は高村さんには引きずられる傾向があると思った。
「と、とにかく、家の前だからさ」
  路地とはいえ人通りはある。家の前で抱き合ってディープキスしているところを見られて
  辺り一帯の噂になるのは嫌だ。
「ふーん、それもそうね。じゃ、私の家に行こうか?」
「はぁ?」
「だって、その家にはクロエさんがいるでしょ?」
「あのなぁ」
「柴崎……悠君、家に帰したくないなぁ。クロエさん可愛いから、私、いつも心配なんだよ」
  少し呆れていた俺を抱く高村さんの腕に力がこもった。
「私の家に来てくれたら、いっぱい歓迎するのになぁ」
「クーとは……そのキスだけだし、そういう関係とは言い難いし……あの?
  ひょっとして離す気、無い?」
  なぜか浮気を責められているような錯覚に陥り、言い訳をしてしまってから、ふと我に返った。
  高村さんが近すぎて、どうも思考が鈍っている。
おかげで訳のわからない状況で変な会話をかわしている。

「今日、私の家に寄ってくれるといいことがあるよ」
「いや、だからね?」
「もうクロエさんに思わせぶりなこと、しちゃだめ。
  ちゃんと振ってあげるほうがクロエさんのためなんだよ?」
「……いいんちょ!」
「あれ、悠君は自分がまともな人間だと思っているの?」
  クロエを袖にしろというとんでもない言葉が出て、思わず声をあげる俺をみて、
高村さんは突然笑いに黒いものをにじませた。目から明るい光が消える。
「そんな勘違いしてるなんて、悠君はうぬぼれてるんじゃない?」
  その言葉が俺の胸に刺さる。
「悠君は壊れているんだから、私で我慢しておきなさい。
  私ならもう汚れているから、悠君が何しても平気」
  高村さんの文句が蛇のように耳から入り込み、俺の心に巻き付いた。
「でもクロエさんは、まっすぐで健気でいい人なんだから、
悠君とつきあったら彼女の心を傷つけちゃうよぉ?」
  クスクスと暗い目をして彼女はおかしくもなさそうなのに笑った。
「あんないい子に、こわれた悠君がこれから発作を起こすたびに、世話をさせるの?
  それで昔の傷をえぐるの?」
  その指摘は俺の心の奥底を打ちのめした。
「そうだよ。悠君が近くにいると彼女を傷つけて壊しちゃうんだよ?
  ね、だから私が悠君を引き受けてあげる」
  心の中がスープのように煮えている俺を見越して、彼女はうつろな笑いを顔に刻む。
「私はね、もう壊れちゃって、悠君のものになることだけで生き残ってるの。
  ……愛してるとかじゃないの。私は悠君のものになるしかないの」
「……文華……」
「三匹の野獣を倒した猛獣は、野獣たちがなぶっていた哀れな獲物を自分のものにするのよ。
  でないと獲物が捨てられて腐っちゃうから可哀想でしょ?」
「……そういうつもりじゃない。そういうんじゃないんだ……」
「じゃあ、レイプされかけた馬鹿な小娘を嘲笑うために助けたの?」
「違う!」
「違わないよ。あんな告白したんだから、振られたら、晒し者なんだから」
「それは……」
「でもいいんだよ。振られても私、待つから。悠君の帰る場所はね、ここ」
  そういうと高村さんは、その胸に俺を抱え込んだ。柔らかい肉と甘い体臭が俺を包み、
なぜか不思議な安らぎを覚える。
「……おかえり、悠君」
  俺を胸に抱く高村さんの手が優しく頭を、背中をさする。
高村さんの鼓動がとくとくと俺に伝わった。

 ぐいと突然、恐ろしい力で襟首を引かれて、俺は高村さんから引き離された。
  驚いた顔をしていた高村さんは、しかしすぐ不敵に笑った。
「売女! 身体を使って惑わすなどと、汚らわしい!」
「クー!」
  それは怒りで全身を満たしたクロエだった。
家に一旦帰っていたようでTシャツにジーンズの私服だった
「ふふ、なんのこと? 私は柴崎君を慰めて癒してあげてただけ。
  変な想像をするほうがいやらしいよ?」
  敵意で目を光らせながら、高村さんは嘲笑った。
「帰れ! ユウに近づくな!」
「はいはい。今日はもう帰るわよ。……柴崎君、私の言ったことよく考えてね」
  しょーがないという感じで肩をすくめると、高村さんは門に立てかけてあった自転車を起こした。
「早く帰れ!」
  凄い剣幕でクロエがどなると、高村さんは、鍵を外して乗った。
「じゃあね、柴崎君。また明日!」
  そして悠然と手を振りながら、自転車で去っていった。
  彼女が見えなくなると、クロエは俺の方を向いた。そのアイスブルーの瞳は既にうるんでいて、
そしていくつもの雫をこぼしはじめる。
  クロエは無言で俺の脇を通り抜け、家に入っていった。
  俺はとぼとぼと家に戻った。自分で自分が嫌になっていたからだ。
  もちろんながらじいさんとばあさんにクロエが泣いた理由を尋ねられ、
言いあぐねているとじいさんにしごかれまくった。
  だが、それよりももっとこたえたのは、それ以後クロエが部屋から出てこないことだった。
  俺は高村さんの言葉を思い出していた。
  俺とつきあったらクロエを傷つける。その言葉が俺を重く苛んだ。
ベッドの中で夜中までそれを考え続け、ようやく俺の心は固まった。
  クロエに別れを告げよう。恨まれても憎まれてもその方が良い。
  その結論が出たところで、眠気がおそった。
  明日、言おう。
  その思考を最後に、俺の意識は暗黒に墜ちた。

2007/07/13 To be continued

 

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