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九十九の想い



11

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
  こんこんと降り続ける雪を聴きながら。
  少女はいつものように夕餉の支度を進めていた。
 
  さゆ、という名で呼ばれる少女は、義父が帰ってくるまでに夕餉の支度を終えねばならない。
  夕餉の支度はそれほど難しい作業ではない。
  だが、多少力の要る仕事なので、さゆの細腕では一苦労。
  特に骨からスジを剥がすのが一番堪える。
  柔らかい肉質なら愛用の包丁で何とかなるが、硬いものだと鋸を持ち出さなければならない。
  鋸の取っ手は、さゆに不似合いな無骨な物で、できることなら使いたくない。
  特に冬場は、骨まで使う料理が多いため、さゆの苦労は増えてしまう。
  とはいえ、夕餉の支度が遅れてしまったら、待っているのは義父の折檻だ。
  竹束の痛みは冬場の肌には厳しすぎるし、火箸の熱さは思い出すだけで気が狂いそうになる。
  故に、今宵もさゆは義父の帰宅時間を気にしながら、夕餉の支度を進めていた。
 
 
  悴んだ手に息を吹きかける。
  竈(かまど)の火はやや遠い。
  突き刺さるような痛みに耐えながら、冷たい塩に浸されていた肉を捌いていく。
 
  ――ああ、今日も、硬い。
 
  スジの部分はガチガチに固まっていて、女子の包丁では切り裂くのは不可能だ。
  この肉は晩秋に仕込んだものなので、上手に保存できていれば、
  雪が弱くなる頃までは保つはずなのに。
 
  ――また、殴られるのかな。
 
  義父は厳しい人だった。
  間違いを許せない質らしく、さゆが失敗すると拳骨で何度も殴ってくる。
  反抗したら骨が折れるまで殴られるので、さゆは怒られるときは目を瞑るようにしていた。
  目を瞑れば、世界は消える。
  真っ暗な闇の中、たゆたうように自分を忘れる。
  そして目を開けた頃には、折檻も終わっている。
  今晩も、そうなるのかな、と。
 
  さゆは、窓の外をぼんやり眺めた。
  雪がごうごうと降っていた。
 
  ――その横顔を見ていると。
  ――こころが、とても、痛くなった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
  瞼を開けたら、見慣れた天井。
 
「……なんだ、今の?」
 
  ぼんやりと呟きながら、体を起こす。
  何故か、胸が締め付けられたかのように軋んでいた。
 
  変な夢を見た。
  妙にリアルな夢で、少女の横顔もしっかりと思い出せる。
  豪雪の音も耳に残っている。
  一度だけ修業で雪山に籠もったことがあるが、それよりも激しい雪だった。
 
  というか、初雪もまだなのに、雪夜の夢なんて見てどうするんだよ俺。
  全然脈絡無いし。疲れているのかもしれない。
 
  ぼんやりとした頭を振りながら、取りあえず掛け布団を脇にどける。
  ――途端、肌に冷たい空気が突き刺さり、思わずぶるりと震えてしまう。
 
「……うう、さぶ」
 
  ああ、そうか。
  雪が降ってる夢を見たのは、寒い格好で寝ていたからか。
  そろそろ初冬といってもいいこの時期、裸で寝るのは厳しいだろう。
  下着も履かないすっぽんぽんだ。風邪を引いてもおかしくない。
 
 
 
  ――って、ちょっと待て。
 
 
 
  裸?
 
 
 
  慌てて自分の体を見下ろして、ぺたぺたと触ってみる。
  紛う方なき全裸である。
  そして。

 

 

「――んぅう……? ぉお、もう朝かえ?」
 
  ごそごそと布団の奥から這い出てきたのは。
  いつもの襤褸を脱ぎ去った、鈍色髪の女の子。
 
 
  …………。
 
 
  あー。
 
 
  うー。
 
 
  あー…………ああああああああっ!
 
 
「? どうした郁夫? 素っ頓狂な顔をしおって。
  もしや、妾を抱いたのが不服だったとでも言うまいな?
  ――昨晩は、猿のように腰を振っておったくせに」
 
 
  ……あー。そうだそうだ。
  やっちゃったんだった。さよなら童貞。こんにちはロリコン。
  じゃなくて。
 
「えっと……その……」
 
  何か言わなければならないのはわかっているが、何を言えばいいのかわからない。
  昨晩の記憶は、それはもうはっきりと記憶に残っている。
  そりゃそうだ。初体験の記憶だし。入口がわからなくて恥ずかしかったとこまで覚えてるぜ。
  ……まあそれはそれとして。
  そんな、俺の初めての相手が、裸で横にくっついているっていう今の状況。
  こんなとき、なんて言えばいいのだろうか。
  ドラマの俳優とかは、こういう大事な場面で格好いいことをさらりと言えるが、
  今の俺は、頭の中が真っ白で、気の利いた言葉どころか日本語さえ危うかったりする。
 
  無言。
  ちょっぴり気まずい無言。
 
  あああ何か言え俺。
  何でもいいから、とりあえずこの微妙な空気を変化させられる言葉を何か――

 

 

 とにかく何かを言おうとして、口を開きかけ、
 
  茅女の白くて細い指先が、唇に当てられた。
 
「伊達男は閨の後、無闇に言葉を重ねぬぞ?
  ……まあ、後とは言っても一晩過ぎておるがな」
 
  そう言って、こちらの胸に、こてんと頭を預けてくる。
 
「それより、どうじゃ? 初めての術だが、それなりに上手くいった感触なのだが」
 
  ……そうだ。
  そもそも茅女と身体を合わせたのは――
 
「……試しに妾を持ってみろ。
  小娘の影響が失われておれば、問題なく持てるはずだ」
 
  ――流が弄った俺の心を、元に戻すため。
 
  そのために、茅女は己の体を差し出して、俺の心を直してくれた。
  初めてのセックスに少なからず浮かれていた気持ちが、途端に冷えていく。
  これでも健全な男子高校生だったので、初体験にはそれなりに幻想を抱いていた。
  しかし、現実は治療のため。
  茅女が俺に好意を寄せてくれていたのは知っている。
  しかし昨夜のは、好意とかそういうのをすっ飛ばした、作業のようなものだった。
  そう思うと、何故か心が妙にささくれ立ってしまう。
 
  茅女が差し出してきた手を、どこかやるせない気持ちで握り締めた。
 
  瞬間。
  茅女は変化を解き、包丁になった。
 
「……あ……」
 
『……どうやら問題なく持てるようだな。
  此度も落とされたらどうしようか心配したが、杞憂だったな。
  ――うむ、術は上手く為せたようじゃの』

 

 

 ――術、か。
 
  そういう言い方をするということは。
  やはり茅女にとって、昨夜のは治療行為に過ぎないのか。
  心が元に戻ったし、気持ちよかったし、俺が不満を言うのは筋違いだが。
 
  どうしても。
 
  ――茅女に、悪いなあ。
 
  そう、思ってしまう。
 
 
『――気に病むことこそ、筋違いだぞ』
 
 
  手に持つ包丁から、そんな思念が伝わってきた。
  思わず、ぽかんとした顔で見下ろしてしまう。
 
『房中術で心を繋げた影響か、ヌシの心が容易に伝わってくるわ。
  ……何やら、妾がヌシに抱かれたのは治療のためとか何とか、
  益体ないことを考えておるようだが、』
 
  そこで、茅女は少女の姿へと変化した。
  鈍色の髪がふわりと揺れる。俺を見上げる一対の瞳は、潤んでいた。
 
「――妾は、こうなりたかったのだ。
  治療行為と銘打って、この状況を利用して。
  郁夫の初めてを奪ったのだ。
  故に、ヌシは妾のことを恨みはしても、気遣う道理は何処にもない」
 
 
  だから、気にするな、と。
 
 
  心を繋げているわけでもないのに。
  茅女の想いが、優しく胸に響いていた。
 
  何故だかどうしようもなく愛しくなって。
  思わず茅女を抱きしめてしまう。
  力を込めたら折れてしまいそうな躰は、抗うことなく受け止めてくれた。

 

 

「――ありがとう」
 
  言うべきかどうか迷ったが。
  気付いたときには、素直な想いを伝えていた。
 
  腕の中の少女が微かに震えた。
  そして、唐突にこちらの胸へ体重をかけてくる。
  抗うのは難しく、そのまま布団の上に押し倒された。
 
  ぼすん、と後頭部が枕に埋まり、
  追うように、茅女に口を塞がれた。
 
  入ってくる舌の感触に、思わず背筋がゾクゾクする。
 
「……ぷは。――閨の後には喋らぬものだと言ったろうに。
  聞き分けのない輩には、お仕置きじゃな。
  可愛い声で鳴いて謝っても、許さないから覚悟しろ」
 
「……照れ隠しにコレかよ。茅女って随分直情的なんだな。
  ってちょっと待て、俺が攻められる側かよ――ひにゃあっ!?」
 
  突然、ナニが柔らかいものに圧迫されて、変な悲鳴を上げてしまう。
  慌てて下の方を見ると、茅女が膝の裏で俺の物を挟んでいた。
  フトモモのむにむにした感触が押しつけられて……やば、かなり気持ちがいい。
 
「だから喋るなというのに。此奴の持ち主らしく、黙って固まっていればいいものを」
「いや、硬くなってるのは朝だからであって……。
  ――じゃなくて、朝っぱらからするのは流石に」
 
  なんというか、初体験の翌朝から、そういった行為に耽るのは、
  なんかこう、色々と爛れてるような気がする。
  これでも昨夜までは、清く正しい初物だった俺としては、
  性行為というものを神聖視しているというかなんというか。
  それがこうもあっさりと朝っぱらからに繰り広げられるには凄まじく抵抗があるというか。
 
  と、そんな考えのもと、茅女の侵攻を慌てて止めようとしたのだが。
 

「……郁夫、焦らすでない。
  ――妾はもう、とろとろだぞ?」
 
 
  初めての相手に、潤んだ瞳でこんなことを言われてしまっては。
  陥落するしかないだろ、普通?

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
  ――謹慎として離れに放り込まれてから、一週間が過ぎた。
 
  冷え切った畳の上で、色無地を着込んだ少女が正座をし、瞑想している。
  ぴくりとも動かず、端から見れば、よくできた人形とさえ見間違えてしまうかもしれない。
 
  妖怪故に、足が痺れるということはなく。
  ただひたすら、時間が過ぎ去るのをじっと耐えるだけ。
 
 
  ――謹慎を終えたら、郁夫様のところに行きます。
 
 
  その想いを抱えるだけで、流の全身は暖かくなる。
  謹慎を終えた後に待っているのは、郁夫との心休まる日々。
  だから、謹慎だって真面目に受けているし、不平を言ったりすることもない。
  謹慎を終えるまでは、どんなに愛しくても郁夫に会いに行くのは我慢するつもりだった。
 
  ――郁夫様は決して、私のことを嫌っていない。
 
  胸を刺し貫かれたら、普通は相手のことを怖がるものだ。
  しかし流は、郁夫に限ってそれは無いという確信があった。
 
 
  ――だって、“そのように”したのだから。
 
 
  郁夫が流のことを嫌わず、
  他の雑多に心移ることもないように。
 
  自分が、そう、変えたのだから。
 
  故に、郁夫が流を受け入れるのは確定事項で。
  こんな謹慎なぞ、“焦らし”のようなものでしかない。
 
  そう思うと、どうしても暗い笑みがこぼれてしまう。
 
  郁夫が使う道具は、自分だけ。
  その事実は、流の芯を甘くとろけさせてしまう。

 

 

 郁夫のもとへ戻ったら、何をしようか。
  共に訓練をし、共に退魔を行い、共に在り続ける。
  その間、他の道具が介入することはなく、郁夫の全てを独占できる。
  彼の優しさも、彼の肉体も、彼の心の支えすらも。
 
  何より、あの“瞳”さえも。
 
 
  ――ぜんぶ、ぜんぶ、わたしのもの。
 
 
  想像するだけで、軽く達してしまいそうになる。
  気を抜くと、その場で変化が解けてしまいそうなほど。
  溢れる歓喜に溺れてしまいそうになる。
 
  ――心を弄るのは、便利だなあ。
 
  偶発的に手に入れた能力だったが、
  改めて考えてみると、最高の能力に違いない。
  流にとっては郁夫が全てであり、その郁夫の心を自由にできる。
  それは、他のあらゆる誘惑にすら勝る。
 
  そして。
 
  この能力を使えば。
 
 
  ――『人間に、なりたいなあ』
 
 
  郁夫にとっての、“大事な人”になることも――
 
 
  今度こそ、笑いを堪えきれなかった。
  暗い離れの一室で。
  流は独り、けたけたと歓喜を漏らしていた。

12

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
  外は命の芽吹く春。
  しかし、さゆは外に出ることを許されず。
  今日も今日とて、肉を切る。
 
  さゆにとっての四季とは、過ごしやすいかどうか、それだけだ。
  故に春は熱くもなければ寒くもなく、虫もそれほど湧いてこない時期なので、
  さゆは四季の中では春が一番好きだった。
 
  塩漬けにされた肉は時期を問わずして硬いのだが、
  熟成されるのも早くなるので、鋸を使わずに包丁だけで済む日も多い。
 
  今日も、包丁で済んだ日だった。
 
  こりこり、と骨と筋を繋ぐ部分を刃元で断つ。
  べり、と筋張った肉を引き剥がし、そのまま水を張った壷へ入れる。
  塩抜きが済んだら、あとは切り刻んで薫製にするだけなので、
  今の時期で一番大変なのは骨と肉を分離する作業だけである。
  難しい作業が少ないので、失敗することも滅多になく、
  義父に歯が折れるまで殴られることもない。
  冬の終わり頃に殴られたとき、とうとう前歯が全部無くなってしまったので、
  これ以上折れてしまっては食事すらままならなくなってしまう。
 
  春はいいなあ、と。
  さゆは肉を引き剥がしながら、そう思った。
 
 
  そのとき。
 
  背後の扉が、荒々しく引き開けられた。
 
  義父だった。
  食事の準備は既に半ばを終えている。
  今日は折檻されずに済みそうだ、と気を抜いた瞬間、頬を張られた。
  義父は、帰宅後すぐに食べたい気分だったらしい。運が悪かった。
  頬に居座る痺れを我慢しながら、さゆは急いで夕餉の支度を進める。
 
  と。
  義父が、今日の“獲物”を手にぶら下げていた。
  今回のは大物だな、とさゆは思った。
  いつもは自分と同じくらいの大きさなのに、
  今日のは義父と同じくらいの大きさだった。
  これならしばらくは食料に困ることはなさそうだ、と。
 
 
  さゆは、義父の担ぐ死体を見て、そう思った。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
「……ッ!?」
 
  跳ね起きた。
  心臓が早鐘を打っている。
  冷たい汗が止まらない。
 
  夢の記憶は鮮明で、男が抱えていたものも即座に思い出せた。
 
  ――人間の、死体。
 
  少女の置かれていた環境も、特殊と言って差し支えないが、
  何より、少女が死体を“食料”だと認識していたことに、俺は驚きを隠せなかった。
 
  ……何なんだよ、この夢は……。
 
  頭を抱えてそう思うが、実のところ、大体の想像は付いている。
  この夢を見るとき、決まって、俺の隣に特定の奴が寝ているからだ。
 
 
  茅女。
 
 
  包丁の付喪神で、齢500に達する大妖怪。
  その過去は一度も聞いたことはないが、
  きっと、俺の見ている夢は、こいつの記憶が元になっているのだろう。
  房中術で心を繋げた結果、茅女の想いも俺の中へと流れ込むようになっている。
  その中に紛れ込むように、茅女の過去が見えているのかもしれない。
  ということは、夢の少女が持っていた包丁が茅女なのかもしれない。
  では、あの少女は、茅女と一体どんな関係なのか。
  義父に虐げられ、人肉を調理する少女。
  己の境遇に疑念を挟むことなく、ただひたすら作業をこなす。
  その道具のひとつが、茅女ということなのだろうか。
  しかし、その内容の鮮明さから鑑みるに、ただの持ち主と道具の関係だったとは思えない。
  茅女から夢という形で伝わってきている想いは、とても強い。
  数百年の時を経ても未だに薄まらない想い。
 
  ――憎き憎き卜部の家よ。
  ――ヌシ等に復讐せんが為に、
  ――妾は長き時を生き延びてきたのだからな!
 
  ひょっとしたら。
  夢の少女が、茅女の復讐心に何かしら関わっているのかもしれない。
  だとすれば。
  過去、茅女と少女の身に、一体何が起こったというのか。

 

「……って、茅女のことばっか考えてるな、最近」
 
  横でこちらの想いなど気付いてなさそうに、安らかに眠る付喪神。
  その穏やかな寝顔を見ると、何故だか心が温かくなってしまう。
 
  茅女と初めて身体を重ねてから、俺はその身体に夢中になった。
  猿とは言うなかれ。これでも健全な男子高校生なのだ。
  気持ちいいことを覚えてしまい、しかもその相手もそれを望んでいるのだから、
  性欲の固まりのような青少年に、我慢しろというのは酷な話だろう。
  っていうか我慢できねえよ。
  茅女かわいいし。やわらかいし。
  ……やべ。また勃ってきた。
  寝る前にあれほど酷使したというのにもかかわらず、息子のなんと元気なことか。
 
  我ながら、ここまで深い仲になるとは思ってもいなかった。
  流との固い信頼関係とは違う、なんというか、甘くて暖かい絆のような感覚だ。
  もともとは、流が弄った俺の心を修正するために行われた睦事は。
  今や毎晩茅女が寝室に侵入してきて、ただ純粋に楽しむためのものになっていた。
  嫌というわけではない。
  とても気持ちいいし、回数をこなすたびに、どんどん茅女のことが愛しくなっていく。
 
  でも。
 
  意識の多くが茅女のために費やされるようになってきて。
  ふと、忘れそうになってしまうことがある。
  そもそもこのような状況に至った原因。
 
  ――俺の心を弄った流は、今頃どうしているのだろうか。
 
  聞いた話によると、離れで謹慎中とのことではあるが、
  事件から既に一月近く経過しているのだから、そろそろ解放されてもおかしくない。
  以前は毎日のように親しく接していた相手と、こうも長く離れてしまうとは。
  流のやつ、今頃何をしてい――
 
  きゅ、と指を掴まれた。
 
  視線を落とすと、寝返りを打った茅女が、俺の腕に抱きついてきている。
  その小さな手は、まるで凍えた子どもが暖かいものを離すまいと
  必死にしがみついているかのようで。
  つい、頬が緩んで頭を撫でてしまう。
  すやすやと寝息を立てている茅女を起こさぬように、起こした体を静かに戻し、目を閉じる。
 
  誰かのことを考えていたような気もするが、
  横の暖かさに眠気を誘われ、そのまま深い眠りへ落ちた。

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
  ――今日で、謹慎が終わる。
 
  先日、浦辺家当主である秋夫より伝えられ、流は今日という日を心待ちにしていた。
  付喪神なので睡眠は要らず、昼夜問わず、常に一人のことを考えていた。
 
  郁夫様。
 
  ――長い間、傍を離れて申し訳ありません。
  ――つい気を高ぶらせて襲ってしまい申し訳ありません。
  ――本能の赴くままに心を弄ってしまって申し訳ありません。
  流は己の所行全てに反省していた。
  その想いは秋夫にも伝わったようで、彼が謹慎終了を渋ることはなかった。
  人にほとんど使われなかった付喪神特有の、一時的な気の迷いだと判断したようである。
  確かに流は反省していたし、己が郁夫に対して不誠実な行いをしてしまったことも認識している。
 
  しかし。
  同時に、このようにも思っていた。
 
  ――もう、二度と離れません。
  ――これからは郁夫様に襲って頂きます。
  ――郁夫様の御心は私がしっかりと管理しますので、ご安心を。
 
  己の刃で郁夫の心を操ることができるのだから。
  郁夫がこの先、どのような泥棒猫に惑わされようとも。
  脇目も振らぬよう、都合のいいように心を操作すればいい。
  そうすれば、郁夫は永遠に自分のもの。
 
  想像するだけで達してしまう。
  流は、郁夫との“幸せな”生活を信じて疑わなかった。
 
 
  謹慎終了といっても、ただ座っていただけで、特に何も課されていないので、
  流は何事もなかったかのように立ち上がり、迎えに来た使用人に会釈をする。
  顔見知りの使用人だったため、向こうも表だって怯えるということはなく、
  のんびりと世間話をしながら、流は母屋の方へ進んでいった。
  時刻は昼を少し回ったところである。
  郁夫の怪我は完治したとのことだから、今は学校のため不在だろう。
 
  流は逸る気持ちを抑えながら、とりあえず普段通りに戻れるように、使用人の手伝いをした。
  流が得意なのは水回りと掃除全般。
  女性の使用人が多いこの屋敷、力仕事のできる流は、特に掃除で頼られていた。
  元が道具の身としては、刀本来の用途ではなくとも、頼られるというのは純粋に嬉しくなる。
  故に、一月の謹慎で少なからず凝り固まっていた感情が、徐々に柔らかくなっていく。
  自然と、他の使用人との雑談も楽しくなっていた。

 

 

 ――ふと。
  一緒に掃き掃除をしていた女性が、こんなことを言った。
 
「最近は、茅女さんも手伝ってくれるのよ」
 
  箒の柄を握り潰しそうになってしまうのを、必死で抑えた。
  ――また、私の居場所を。
  奥歯を噛みしめ、しかし表情は普段のまま。
  ――大丈夫。もう郁夫様には私だけなのだから、それ以外は糞婆に譲ってやっても構わない。
  茅女は流の乱心の際、郁夫を発見した功績がある。
  そのことから、初日の流血沙汰から忌避されていた空気が薄まり、
  この一ヶ月で多くの人間の信用を得てきていた。
 
  みんな騙されている、と流は思った。
 
  茅女はそんな殊勝な輩ではない。
  腹の中はどす黒く、郁夫やその周囲への点数稼ぎしか考えてないに違いない。
  そもそも茅女さえいなければ、自分と郁夫の幸せな生活が邪魔されることなどなかったはずだ。
  もし茅女が自分より年下の弱々しい器物だったら、迷うことなく叩き壊すが。
  生憎なことに、相手は五百年物の付喪神。
  今の流では対抗するには力不足である。
 
  しかし、無理に力で対抗する必要はない。
  今の流には、“刺した者の心を操作する”という能力がある。
  これを上手く活用すれば、あんな切ることしかできない包丁なんて、邪魔者以外の何ものでもない。
 
  茅女に対する歪んだ優越感を抱きながら、
  流は、一月前と同じように、使用人の家事を手伝っていた。
 
  そして、流れるように時間は過ぎ。
  そろそろ郁夫が帰宅するであろう頃合いになると、流は落ち着かなくなってきた。
  そわそわする流を微笑ましいと思った使用人は、流に玄関周りの片付けを頼んでくれた。
 
  足取りも軽く、玄関に向かう流。
  郁夫が帰ってきたら何と声をかけようか。
  久しぶりに流を見た郁夫は、どのような表情をするか。
  酷いことをしてしまった自分だが、絶対に郁夫には嫌われていない自信があった。
  何故なら、郁夫は平等だから。
  人にも物にも全て等しく接する彼は、たとえどのような悪行を働かれようとも、
  それが悪意に基づくものでない限り、必ず許してしまうところがある。
  故に、流は安心して、郁夫を出迎えることができた。
 
  はずなのに。

 

 
 
 
 
 
「ただいまー」
 
  流が玄関に辿り着く直前、引き戸の開く音が響き、愛しき相手の声が聞こえた。
  思わず駆け足になり玄関に向かってしまう。
  逸る心は抑えきれず、一月の間会えなかった人の姿を、一秒でも早く見たかった。
  そして、玄関へと辿り着く。
  そこには、靴を脱いでいる学生服の郁夫がいた。
 
「郁夫様っ!」
 
  こちらに背を向け、上がり框に腰を下ろしていた少年は、
  流の声に、ゆっくりと振り向いた。
 
 
  そして、郁夫が、流を、見た。
 
 
  瞬間、流の身体は氷となる。
  感情も思考も凍り付き、指先まで硬直する。
  それは、想像すらしていなかったことだった。
  それは、ありえないはずのことだった。
  今見ているものが信じられなかった。
 
「…………ぅ……ぁ……」
 
  驚愕に全身を支配され、流は何も言うことができない。
  やがて、郁夫が口を開く。
 
「……ひ、久しぶりだな、流」
 
  その表情は、紛う方なき作り笑い。
  ある感情を必死に押し込めているのが容易にわかる。
  それを、流は信じたくなかった。
  郁夫が今、必死に押し隠している感情。
  郁夫が先程、露わにした感情。
  それは、流の喜びを打ち砕くには十分すぎた。
 
 
  嫌悪。
 
 
  郁夫から初めて向けられたそれに、流は立ち竦み、震えていた。

13

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
  一歩。
  ほんの一歩が、踏み出せなかった。
 
  ぎちぎちと脳が軋んでいる。
  歯が上手く噛み合わず、つい顎に力が入ってしまう。
  それでも表情は崩さぬように、と必死になり、結局顔は歪んでしまう。
 
  ぞわぞわと。
  胸の裡を逆撫でする、黒い靄。
  うっかり口を開いたら、思わず吐き出してしまいそうで。
  言葉を発することすら難しい。
 
 
  目の前には、驚きを隠せていない少女が一人。
  その瞳は恐怖に染まり、震える子犬のように弱々しかった。
  ――なにか、声をかけてやらなければ。
  彼女のことはよく知っている。
  とても強いが、心はまだまだ不安定。己の在り方を上手く決められていない幼子だ。
  本来の使われ方をされずに心を宿したのだから、有り様は歪んで当然である。
  そんな彼女だからこそ、酷い目に遭わされても尚、信じてあげたい気持ちになった。
 
  そう。俺はこいつのことを信じている。
 
  なのに。
 
 
「……い、郁夫、さま……?」
 
  一歩。
  ほんの一歩、目の前の少女が踏み込んできた。
 
  気付いたときには既に遅く。
  俺は、一歩、退いていた。
 
  瞬間。
  その顔に刻まれたものを見て。
  どうしようもないくらい――自分を殺したくなった。

 

 

 初めて会ったときは、単に気の食わない奴だった。
  しばらくしてからは、可愛いと思うようになり。
  ついこの間までは、信頼できる師にして相棒だった。
 
 
  ――流。
 
 
  お前が俺を刺して。
  俺の心を弄った後でも。
  お前のことは、どうしても憎めなかった。嫌いになれなかった。
  親しみは色褪せることなく、気の迷いは笑って許してやろうとさえ思ってた。
 
 
  はずなのに。
 
 
  何故だろうか。
  今は、お前のことが、とても――
 
  ――やめろ、それ以上考えるな。
 
  頬の内側を強く噛む。
  痺れる痛みと、鉄錆の味。口の中に鮮血が広がった。
  今更遅いとは思いつつも、心を必死に押さえつけ、俺は流に一歩近付く。
  笑ってみせる。今度こそ。今度こそ、自然な笑顔を浮かべられたはず。
  目の前の少女は、謹慎をくらう前と何一つ変わっていない。
  とても強くて、信頼できる、刀の付喪神だ。
  だから。前のように接せられるはず。
 
「――悪い。いきなりすぎて、びっくりした。
  今日、謹慎が解けたんだっけか。またこれからも、よろしくな」
 
  流との距離を縮めるために。
  一歩踏み込む。
  それだけで、どうしてか背筋がじわりと湿る。
  気にせずもう一歩。
  いつの間にか、拳を握り込んでいた。
  気付かないようにしてもう一歩。
  流のいるところまで、あと十歩はかかりそうだ。
 
  とても、遠い。
 
  遠すぎる。

 

 

 それでも何とかもう一歩を踏破しようとしたところで。
  流がこちらに向かって、一歩詰めた。
 
  耐えろ。
  逃げるな。
  後ろに下がる理由なんて何処にもない。
 
  でも、
  でも。
 
  体は自然と身構えて。
 
  目の前の、泣きそうな顔をしている少女を。
 
  俺は――
 
 
  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
  流は、郁夫に向かって近付こうとした。
  彼女が踏み込むたびに、愛しき相手は遠ざかろうとしてしまう。
  それが、とても痛くて。
  一歩踏み出すたびに、大事な何かがガリガリと削られていく。
  それでも。
  それでも、郁夫に近付きたくて。
  流は、潤んだ瞳を郁夫に向けた。
 
  と。
 
  まるで、そんな流を嘲笑うかの如く。
  流は、最も見たくないものを、目の当たりにすることに、なった。
 
 
「――おお、郁夫。帰っておったのか」
 
 
  流の背後。
  虫酸の走る声が、流を通り越して、郁夫に投げかけられた。
 
  流は、振り返ることができなかった。
  何故なら、前方を凝視していたから。
  流の目の前。
  久方ぶりに会う刀の付喪神を前にして、子犬のように怯えていた少年。
  それだけでも、酷く心を傷つけられたのに。
 
  郁夫は、流の後方より聞こえた声に。
 
  救われたような顔をして。
  流には見せてくれなかった、心からの笑顔を。
  流ではない、後ろの輩に向けていた。

 

 ――郁夫様。それは、どういうことですか。
 
  心がぎちぎちと軋みを上げている。
  砕けてしまいそうなものを必死に押さえ込み、それでも隙間からこぼれてしまう。
 
  おかしいな。
  自分は、幸せになるはずだったのに。
  郁夫は自分のことしか持てないはずなのに。
  他のものなど、いらないはずなのに。
 
  なのに。
  どうして。
 
  流の脇を、鈍色の長髪が通り過ぎた。
  衝動的に、掴んで引き千切りたくなってしまう。
  何故なら。
  横を通り過ぎる一瞬。
  その顔は――嗤っていたから。
 
 
「た、ただいま茅女」
「寄り道しないで帰ってきたようじゃの。ふふ、愛い奴め」
「べ、別にお前のために早く帰ってきたわけじゃ――」
「照れるでない。それとも、催促しているのか?」
 
  艶めかしい笑顔を浮かべて。
  包丁の付喪神が、郁夫にべったりと張り付いていた。
 
  なんだこれは。
  なんだこれは。
 
  信じたくなかった
  信じられなかった。
 
  郁夫は自分のものなのに。
  自分だけのものなのに。
  そう、弄ったはずなのに……!
 
  息が荒れる。
  胸が苦しくなる。
  拳が握り締められて、爪が掌を破っていた。
 
 
  ふと、振り返った茅女と、目が合った。
 
 
  瞬間。
  流は、悟った。
  こいつのせいだ、と。

 

 茅女は枯れかけの朝顔のように、醜く郁夫に絡みついている。
  恥ずかしげもなく指を絡め、爪が掌を擦っていた。、
  郁夫はそれに対し、特に嫌がる風もなく、茅女の行為に任せるまま。
  有り得ない光景に、流の頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
  これは異常だ、と流は思った。
  茅女のせいで、こうなったのだ、と。
  方法はわからない。
  しかし、何らかの手段で、茅女は流の努力を踏みにじり、血涙が出そうなほど羨ましいものを、
  手に入れていた。
 
  許せない。
  許せるはずが、なかった。
 
  ――茅女は、幸せを壊す害虫だ。
 
  流の中で、その認識は確固たるものとなり。
  謹慎明けだとか実力差だとか、些事は頭の中より消え去って。
  目の前の妖怪を縊り殺すことに、欠片も躊躇いを覚えなかった。
 
  もう、こんなやつ、いらない。
  ころしてやる。
 
  どう戦うか、どう殺すか。
  そんなことすら全く考えずに、流はただ殺意のみで、一歩踏み出した。
 
  その、瞬間。
 
 
「……ッ!?」
 
 
  踏み出そうとした足が固まった。
  指先がぴくりとも動かなくなる。
  周囲の空間が歪められたかのような錯覚。
  粘性の空気に全身を固められていた。
  1ミリでも動かそうとすると、硬い電撃に焦がされそうな、そんな感覚。
 
  ――覚えのある、感覚だった。
 
  殺気や敵意とは全く違う。
  妖怪にすら不可解な、視線に特化された一点集中。
  それに捕らわれたら、如何なる妖怪でも、逃れることは叶わない。
  気付いたときには既に遅く、不可解の恐怖に絡め取られていた。
 
 
  瞳が。
 
  郁夫の瞳が、流を捕らえていた。

 

 先程までの恐怖とは、比べものにならない、圧力。
  郁夫の視線に射抜かれて、全身を押し潰されそうな圧迫感。
  体の端から、ぎじぎじと引き千切られているような錯覚。
  紛う方なき、浦辺流瞳術だった。
  動き出そうとしていた流を。何の容赦もなく、制圧しようとしている視線だった。
 
  ――どうして。
 
  それは、浦辺の家が、長い年月を掛けて完成させた異能の極み。
 
  ――どうして、郁夫様は、そんな目で。
 
  対象を見つめ続けることのみで、あらゆる怪異にすら対抗しうるものへと昇華した。
 
  ――私を、見るのですか。
 
  浦辺流瞳術が。
  流をその場に、縫い止めていた。
 
 
  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
  目の前には、驚きを隠せていない付喪神が一体。
  その瞳は困惑に染まり、尻尾を巻いた野良犬のように惨めったらしい。
  ――こんな奴、この場で消し去ってしまいたい。
  彼女のことはよく知っているが。
  だからといって、情けをかけてやろうという気には、どうしてもなれなかった。
  茅女に不躾な視線を送りやがったのだから、今すぐ殺されても仕方ないはず。
  だか、腐っても長い付き合いである。今回だけは軽くお灸を据える程度に留めてやろう。
 
  まったく。茅女と比べるにも値しない、腐りきった付喪神である。
 
  なのに。
 
「――これ、郁夫。斯様な眼で其奴を見るでない。
  妾は特に気にしておらぬ故、許してやれ」
「……まあ、茅女が、そう言うなら」
 
  言われて、渋々、瞳術を解いた。
  あんな殺気を向けられたのに。
  茅女は気にすることなく、あっさり許してしまっていた。
  器の違いがよくわかる。流のような小者に今まで懐かれていたことが、
  今では恥としか感じられない。
  見つめ続けるのも吐き気がする。早く視界から消えて欲しい。

 

 しかし。
  瞳術を解かれて自由になった付喪神は。
  何故か目に涙を溜めて、必死そうにこちらに駆け寄ってくる。
 
「……郁夫様! どうして、どうして――」
 
「近付くなよ、なまくら」
 
  汚らわしい手が触れようとしてきたので。
  強引に振り払い、ありのままの気持ちをぶつけてやった。
  すると、どうしたことだろうか。
  付喪神は、その場に立ちつくし。
  両の目から、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
 
「――なんだよ。
  刀として使われなかった出来損ないが。
  今度はいっぱしに人間の真似か?
  気持ち悪いから、さっさと消えてくれないか」
 
「い、いく、郁夫様、
  ど、どうし、どうして、そんなこと」
 
「近寄るなよ。穢れる。
  そもそもお前は、研修を終えてる身なんだから、この家にいる必要もないはずだろ?
  なのに我が物顔で居座りやがって。迷惑なんだよ。さっさと出て行け」
 
「で、で、でも、わ、わたし、
  郁夫様に、け、剣を――」
 
  言いながら、再びこちらに縋り付こうとする。
  ウザかったので、腹を蹴って突き放した。
  そして、隣の茅女を抱き寄せる。
 
「――ああ。もう、お前に教わる必要なんかない。
  これからは、茅女が俺に教えてくれるからな。
  茅女の足元にも及ばないなまくらは、さっさと消えて野垂れ死ね」
 
  そう言って、顔に唾を吐きかけた。
  付喪神は、何故か傷ついたような表情を見せた。

 

 ――苛々する。
  ――頭の奥が、じんじんと疼いていた。
 
「郁夫。そう怒るでない。
  とりあえず其奴も色々と考えることがあるだろうて。
  今は放っておいてやれ」
 
  茅女に言われて我に返る。
  そうか、俺は怒っていたのか。
  何故怒っていたのかはよくわからないが、頭の奥が疼くのは、そのせいだろう。
 
  茅女と繋いだ手のひらで。
  小さく柔らかな指先が、こちらの指の股を撫でてくる。
  それだけで、気持ちよかった。
  温かな感触が、手から全身に伝わっていく。
  その温かみが、頭の中のノイズを綺麗に一掃してくれる。
 
 
  刀の付喪神が。
  未練がましそうな目で、こちらを見上げていた。
 
 
  虫酸が走る。
  目の前の、泣きそうな顔をしている付喪神を。
 
  俺は、心の底から、殺してやりたいと思っていた。

14

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
  さゆの日常は、季節が幾たび巡ろうとも、変わることはなかった。
  外に一度も出ないまま、垢と脂にまみれた風体で。
  毎日、まいにち、人肉を調理する。
  そこに疑問は挟まれない。
  骨からスジを引き剥がし、皮を剥いで脂身をこそぎ、内蔵は水抜きしたあと塩に漬ける。
  うまくやれば義父は何もしてこない。
  不手際があると、殴られるか犯される。
  痛いのは嫌いなさゆなので、失敗しないよう、とにかく頑張る。
  それでも、義父の機嫌が悪いときは、頑張りに関係なく罰を与えられるため。
  目を瞑って現実逃避するのにも、もう慣れた。
  手足の伸びも止まり、あとは娘を産むか、新しい娘がやってくるまで、人肉の調理を続けるだけ。
 
  そんな、ある日のこと。
 
  いつものように、義父の狩ってきた獲物を解体していたさゆに。
  ふと、声がかけられた。
 
『て、いたくないのか?』
 
  突然聞こえてきた声に、さゆは目を白黒させた。
  義父の声ではない。そもそも義父は狩りに出ているので、家にはさゆ一人のはず。
  なのに。
 
『いたくないのか? いつもかたくて、たいへんであろう?』
 
  声は、まるでさゆを気遣っているかの如く。
  優しく、少女の心に響いてきた。
 
  手元の、包丁から。
 
『てつだわせて』
 
  幼子のような純粋な声が。
  染み渡るように、想いを伝えてくる。
 
  そういえば、と。
  さゆは、母の言葉を思い出していた。
 
  ――この包丁は、うちの婆がお前くらいの頃からあったものでな。
  ――大事にせないと、あかんよ。
  ――きっと、ヌシ様が宿っておるからの。
 
『さゆのて、あたたかいから、すき』
 
  包丁に宿った神様は。
  暖かい想いを、さゆにくれた。

 

 
  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
  苛々する。
  廊下を足音荒く突き進み、ようやく辿り着いた自分の部屋。
  研修中のがらくたどもが、騒々しく俺を迎えた。
 
  あまりに鬱陶しかったので、蹴り飛ばした。
 
  ――手に持つ道具を足蹴にしてはいけない。
  彼らは人の手に馴染むために作られた物。
  故に、それは存在を否定することにも繋がってしまう。
  積み重ねられた想いすら傷つけてしまう、蛮行だ。
 
  なのに。
 
  どうしてか、連中を蹴り飛ばした瞬間。
  脳に砂糖が流し込まれたかのような快感に、恍惚とした。
 
  きもちいい。
 
  ああ、そうか。
  つまり。
  こいつらをぞんざいに扱えば。
  俺は、この不快感から解放されるのか。
 
 
  いや、まて。
 
 
  ひとつだけ。
  ひとりだけ、例外が存在した。
 
  包丁の付喪神、茅女。
 
  彼女だけは、俺に不快感を与えない。
  それどころか、幸せな気分にさえ、させてくれる。
  茅女さえいれば。
  俺は、俺を保っていられる。
  彼女の温もりが、彼女の想いが。
  俺にとっては、欠かせないものになっていた。
 
「そうだ」
 
  ふらり、と立ち上がる。
  部屋には自分一人。
  先程の狼藉に恐れを抱いたのか、付喪神は一匹たりとて残っていない。
 
「茅女。茅女はどこだ?」
 
  茅女に、会いたかった。

 

  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
  包丁の付喪神は。
  ひとり、ほくそ笑んでいた。
 
  ――先程の、郁夫の流への対応。アレは出来過ぎた。
 
  自分でも驚くほどの仕込み具合。
  もはや、郁夫の心の中に、流はいない。
  ただの物――否、それ以下になっている。
  そして、茅女は――
 
「は、ははは、あはははははは……!」
 
  堪えきれなかった。
  茅女は、手に入れたのだ。
 
「今度こそ、今度こそ、手放すものか……!」
 
 
  最初は、気まぐれだった。
  房中術を施す直前までは。
  純粋に、郁夫のことを気遣い、元通りに戻すだけのつもりだった。
 
  だが。
  少しだけ、魔が差してしまった。
 
  ふと、浮かんでしまったのだ。
  物を持てなくなってしまった郁夫を見て。
 
  ――郁夫が、妾だけを大事にしてくれたら。
 
  だから、少しだけ。
  郁夫のモノを受け入れながら。
  茅女は、心の片隅で、願ってしまった。
 
 
  ――妾を、一番に。
 
 
  それは、劇的なまでに効果があった。
  目覚めた朝、郁夫が茅女を見つめる瞳は。
  茅女を真っ直ぐ、見据えていた。
 
  妖怪を狂わせる魔性の瞳が。
  茅女を大事にする想いで、満ちていたのだ。

 

 一度その味を知ってしまうと。
  もう、茅女は戻れなかった。
 
  体を重ねるたび。
  郁夫の心に、一塗り、一塗りと、重ねていき。
  気付いたときには、自分の色に、染めてしまった。
 
  房中術は、性交を通じて心を重ね合わせ、その内実を弄るもの。
  最初の頃こそ、性交は男根と女陰を触れさせることのみが性交と思っていた茅女だったが。
  郁夫との回数を重ねるごとに、行為の幅は広がっていき。
  現時点では、指を絡めるだけで術を為し得るようにまでなった。
 
  つまり。
 
  今の茅女は、郁夫と手を絡めるだけで。
  自在に、その心を、弄られるということだ。
 
 
  先程の流の顔。
  アレは、傑作だった。
  郁夫が自分のものだと信じていたのに。
  それが裏切られ、己の世界を崩しかけていた。
 
  幼い心を露わにして。
  信じていた者に報われず。
  絶望に身を浸していた。
 
 
  ――何故か、吐き気がした。
 
 
「……ッ!
  妾はしくじらぬぞ! 郁夫はあれとは違う!
  あの心の強さならば、一度決まったことは外圧さえなければ歪まぬはずだ!
  ――小娘が失敗したのは、その力が己だけのものと想い違えた故じゃ。
  妾は二の轍は踏まぬ。細かな修正を重ね、大幅な書き換えはこの身で防ぐ。
  幸いなことに、小娘の能力は直接的なもののようだ。
  ――郁夫に近付いた瞬間、細切れにしてやれば事足りる」
 
 
  流の能力にさえ気を付ければ。
  郁夫の瞳は茅女だけのもの。
 
  ――そう、信じていた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
「……茅女……茅女……」
 
  ふらふらと。
  裸足で廊下を、彷徨い歩く。
  足下が覚束ない。視界が歪んでいる。
  茅女に会いたかった。
  彼女がいないと、狂ってしまいそうだ。
  早く会って、言葉を交わしたかった。
  きっとそれだけで、楽になれる。きもちよくなれる。
 
  茅女さえいれば。
  あとはいらない。
 
  他は全部邪魔なだけ。
  茅女以外の全ての存在は死ねばいい。消えればいい。殺してやる。
  ――殺す。
  ああ、そんな簡単な方法があったんだっけ。
  全部ぜんぶ、睨み殺してやればいい。
  茅女以外の全てが消滅すれば、世界はきっと素敵になる。
  今のような不快感は消え、ずっとずっと、気持ちいいまま。
 
  いいな、それ。
 
  じゃあ、殺すか。
 
「――ひ、ひひひ、きひひひひひひひひひひヒヒヒッ!」
 
  いけない。
  あまりに素晴らしすぎる妄想をしてしまったため、すっかり勃起してしまっていた。
  そうだ。
  殺そう。
  俺には瞳術がある。
  不意打ちには最適な、浦辺の業。
  ただ見つめることに集中した、全ての存在を揺るがす異端。
  逃れられるものはない。
  浦辺の瞳に捕らえられたが最後、如何なる怪異も霞と消える。
 
  そうだな。
  まずはこの屋敷にいるやつを、皆殺しにするか。
  殺す。
  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す睨み殺してやる――!
 
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒィィィイイイイイイイイアアアアアアアアアッッッ!!!」
 
  殺した後のことを考えて、ハイになってしまった。
  手足を滅茶苦茶に振り回す。
  右手に鋭い痛み。ガラスの割れる音。
  いけない。どうやら窓を叩き割ってしまったようだ。
  硝子で切れた手の甲から、真っ赤な鮮血が滴り落ちる。

 

 怪我は大したことない。
  舐めておけば治るような、小さなものだ。
  ――そうだ、それなら茅女に舐めてもらおう。
  逆に興奮して出血量が増えてしまうかもしれないが。
  茅女の小さな舌が、ちろちろと傷口の周りを這う。
  ……想像するだけで、イッてしまいそうだった。
 
  下着の内側を我慢汁でベトベトにしながら。
  とにかく誰かを睨み殺そうと。
  血走った目で視線を巡らせ――
 
 
  ふと。
 
  あるものが。
 
  視界の端に。
 
 
「……ッ!?」
 
  その場で盛大にすっ転んだ。
  ガンガンと頭が内側から叩かれている。
  ミキサーの回転刃でも仕込まれたか、脳がぐちゃぐちゃにかき回されていた。
 
  気持ち悪い。
  気持ち悪い。
 
  茅女。
  茅女に会えば、きっと。
 
「――う、げええええええええええっ……!」
 
  胃の中のものを全て、その場にぶちまけてしまう。
  何度も胃がひっくり返り、喉も灼けるように痛かった。
 
  まただ。また、苛々する。
  体の内側からガリガリと引っ掻かれていた。
  気色悪い痛痒さが、いつまでも外に出られず燻っている。
 
「……ぐ……が……!」
 
  ぶるぶると全身が震えてしまう。
  なんだこれは。
  なんだこれは。
  わからない。
  わからない。
 
  なんで。こんなにも。
 
  こわいのか。

 

 ふらふらと。
 
  何もかもが曖昧なまま。
 
  怖くて。何かが怖くて。
 
  あまりにも怖くて。
  何でもいいから睨み殺そうと。
  一切制御のかかっていない瞳術を垂れ流しにして。
 
  ふらふらと。
 
  廊下をひとり。
  彷徨い歩いていた。
 
  そして。
 
 
  それを、見た。
 
 
  体格は自分と同じくらい。
  服装もそっくり。
  顔つきも、よく知る者だった。
 
  よく知る者なのに。
  今は――とても、怖かった。
 
 
「……う」
 
  がたがたと全身が震えている。
  内側から激しく掻きむしられている。
  このままでは。
  内側から、得体の知れない何かが。
  俺を、破って――
 
 
「うあああああああああああああああああああああああっっっ!!!」
 
 
  絶叫が喉から捻り出された。
 
  怖かった。
  何よりも怖かった。
 
 
  ――“鏡”に映る自分の瞳が。
 
 
  とても、怖い――

 

 パキン、と。
  なにかが、壊れた気が、した。
 
  瞬間。
 
  ――世界が、変わった。
 
 
  ただ見つめられているだけ。
  しかしそれは、あらゆる事象を優先しての行為。
  たとえ己が殺されようとも、決して逸らされることのない凝視は。
  あらゆる不可解すら超越し、全ての歪みを正させる。
 
 
  めきめきと頭蓋が歪む錯覚。
  幾重にも塗りたくられた怪異が、べりべりと引き剥がされていく。
  一枚剥ぐごとに、心は元の様相を取り戻し。
  瘡蓋を剥がしているかの如く、鋭痛を繰り返し刻み込まれる。
 
 
  そして。
 
  自分が、狂っていたことに、気が付いた。
 
 
  何をしていたのか思い出す。
  それは主観的な記憶ではなく。
  客観的に、自分が何をしていたのか、考えた。
 
 
「うわあああああああああああっっっ!!!」
 
 
  衝動的に。
  自分の頬を、全力で殴った。
 
  奥歯が折れ、頬の内側が裂ける。
  口いっぱいに鉄錆の味が広がった。
 
 
  俺は。
 
  何てことを。
 
  してたんだ……!

 

「――流……っ!」
 
  記憶に、はっきりと残っている。
 
  捨てられた子犬のように。
  ぶるぶると震える、付喪神の幼子。
  信じていた者に裏切られ。
  絶望に、身を浸していた。
 
「……馬鹿野郎……ッ!」
 
  そんな流に。俺は。何をした!?
  蹴り飛ばし、罵倒し、睨み付けた。
  ふざけるな。
  ただ純粋なだけの、俺を慕う、付喪神。
  俺はアイツを、この上なく、傷つけた――
 
「畜生ッ!」
 
  自省は後だ。
  大馬鹿野郎を痛めつけるのは、後で好きなだけやればいい。
  今はとにかく。
  想いをズタズタに引き裂かれたであろう付喪神の所へ……!
 
 
  そう思い。
  居ても立ってもいられず、駆け出そうとしたところで。
 
 
「……郁夫? 今の叫びは如何なることか――」
 
 
  背中にかけられた声は。
  聞き覚えのあるものだった。

15

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
  その日もさゆは、人肉を調理していた。
  塩漬けにされ鉛のように硬くなったそれを、ガリガリと骨から刮げ落とし、鍋に放り込む。
  一刻ほど煮込み、ようやく柔らかくなってきたところで味付けをする。
  その後はひたすら煮込むのみ。
  歯がほとんど無くなってしまったさゆが食べられるくらいになるまで煮込まなければならない。
  それに最近は、獲物がどれも痩せ細ってきているため、無駄遣いは厳禁である。
  何処も余さず食せるように、さゆは念入りに煮込んでいた。
 
  そんな、さゆの日常。
 
  しかしそれは、この日限りだった。
 
 
  義父の帰宅。
  さゆはいつものように出迎えて。
  いつもとは違うものに、気が付いた。
 
  今日も義父は、“獲物”を抱えていた。
  しかし、その獲物は、死んでいなかった。
  瞼こそ落ちているが、その体は呼吸によって微かに動いている。
  すうすうと寝入る獲物は、さゆより一回りは小さい娘だった。
 
  既視感。
  新しい娘。
  ああ、そうか。
  今度はこの子が、義父の新しい娘になるのか。
  そして自分は。
  さゆは、どうなるのだろうか。
 
  料理を教えてくれた義母。
  優しかった義母。
  さゆが初めてこの家に訪れ、混乱と恐怖で頭が真っ白になっていたとき、
  優しくて暖かい言葉をかけてくれた、女性。
  包丁の使い方を、教えてくれた。
  ここでの過ごし方を教えてくれた。
  そして。
 
  自分が初めて、捌いた。母。
 
 
  ――ああ、そうか。
  母親のように。
  自分も。

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
  夕陽に赤く染まる裏庭で独り。
  刀の付喪神は、立ち尽くしていた。
  瞳は空虚。心は暗闇。行く当てのない想いは、その重みで持ち主を潰そうとしている。
 
  どうして。
 
  立ち尽くし、考えるのはそのことだけ。
  物を物と見ず、心を見てくれた郁夫が。
  まるで心などないかのように、辛辣な言葉をぶつけてきた。
  積み重ねられた想いが崩れて、滅びていてもおかしくなかった。
 
  だが、流は踏みとどまった。
  支えたのは、ひとつの疑念。
 
  ――どうして郁夫は、あのように変わってしまったのか。
 
  郁夫に酷い言葉をかけられる直前。
  そのときも、郁夫は正常ではなかった。
  それはきっと、糞婆――茅女の仕業だと確信している。
  郁夫に良くないことを吹き込んだか何か、小細工を仕掛けたに違いない。
  でも、その後の豹変は。
  小細工というには、かなり無理のある変化だった。
 
  直前までは、嫌悪感を抱きながらも、それでも郁夫なりの気遣いが残っていた。
  しかし――途中から、がらりと郁夫は変わってしまった。
  それは、何故か。
  何がきっかけで、郁夫は変わってしまったのか。
 
 
  郁夫が変わる瞬間。
 
  茅女が、郁夫に触れていた。
 
 
「……あれか」
 
  ぽつり、と。
  夕闇時の赤い空気に、流れの呟きがこぼれて消えた。
 
  郁夫が変わる瞬間――確かに、茅女が郁夫に、触れていた。
  さも恋人同士であるかのように、指を絡め、

 

 がきん、と歯の砕ける音が響いた。
  口の端から、鮮血が滴り落ちる。
 
  ――落ち着け。
  怒り狂うのは後でいい。
  それより今は、郁夫の変調について考えなければ。
 
  郁夫は流の異能によって、流以外を持てない状態になっていたはず。
  ならば、通学は勿論着替えにすら困難を来すはずだ。
  なのに郁夫は先程、普通に制服を着て鞄を持っていた。
  それに、使用人との雑談の中で、郁夫がそういった不調を訴えた話は終ぞ聞けなかった。
  ということは――郁夫の状態は、元通りに改悪されたことになる。
 
  異能によって変じられた状態は、異能によってしか崩せない。
  ならば、それは誰の異能によるものか。
 
  考えられるのは2つ。
 
  まずは郁夫の瞳術だ。
  全ての歪みを正させる、浦辺の家に伝わる凝視。
  鏡か何かを用いて、自身の異常を直すことも、郁夫になら不可能ではないはずだ。
  だが――この場合だと、郁夫の更なる変調の説明が付かない。
 
  もうひとつは、茅女によって歪められた可能性。
  茅女本来の異能は、“触れたものを切断する”というものだが、
  無駄に歳を重ねているのだから、何か一つ二つ、小賢しい手を有しているのかもしれない。
 
  先程の郁夫の瞳を思い出す。
  本来の彼は、如何なるものも受け入れる、澄んだ瞳を持っていた。
  物を物と思わない、綺麗な瞳が、あらゆる物を惹き付ける。
  しかし。
  流に瞳術を仕掛けた郁夫は。
  元来の輝きを失い、濁っていた。
  汚い泥が幾重にも塗り重ねられ、清澄さを覆い隠していた。
 
  茅女が、その泥を、塗ったのだ。
 
 
「……してやる」
 
  もう、己の感情を抑えることはできなかった。
  流は激情を隠さぬまま、拳を木に叩き付ける。
 
「――殺してやる、あの糞婆……!」
 
  どれだけ、郁夫を不幸にすれば気が済むのか。
  奴さえ現れなければ、自分も郁夫も、幸せでいられたはずだ。
  なのに、突然現れて、浦辺の家を踏み荒らしていった。
  五百年級の大妖怪? そんなこと一切合切関係ない。
  どんな手を使おうとも、確実にこの手で殺してやる。

 

「……正攻法は、駄目。あの糞婆には、厄介な能力がある」
 
  郁夫をこの手に取り戻すため、流は茅女を屠る手段を考え始めた。
  俯き気味に沈んだ顔は、夕闇の影を纏っていた。
  口からは、ぽたぽたと朱がこぼれている。
 
「徒手では確実に掴まれる。かといって得物を持っても触れられてしまったら意味がない――」
 
“触れたものを切断する”という能力は、これ以上ないくらいに厄介である。
  単純であるが故に攻略しがたい。
  かつ、こちらの被害は甚大なので、迂闊に戦闘を仕掛けるわけにもいかない。
  だいたい、触れたものを全て切断できるだなんて、反則以外の何物でもない。
  近接格闘で、相手に触れられずに倒すことなど、よほど実力差がない限り不可能である。
  もし、茅女の能力を知っていなかったらと思うと、ぞっとする。
  わけもわからぬまま、切断されて――
 
 
「――待て。どうして、あいつは、自分の能力を明かした?」
 
 
  ふと浮かんだ疑念を、流は無視できなかった。
  茅女がその能力を明かしたときの状況を思い返す。
  ――あのときは、流が切断されて、郁夫と茅女が向かい合っていた。
  流に使った後なのだから、隠す必要がないと考えたのだろうか。
  否。たとえ目の前で見せられたところで、その能力に確信を覚えられる者は少ない。
  その詳細に対して少なかず考え込むのが常であろう。
  それだけでも、十分以上に効果はある。
  なのに、自分からその詳細を明かしてしまったら、その僅かな効果すら失ってしまう。
  あのとき、本命である郁夫は健在だったのだ。
  しかも、茅女は郁夫の能力を知らなかった。
  だとすれば――どう考えても、己の能力を明かすのは、不自然である。
  郁夫に未知の能力を少しでも警戒させるべきだ。なのに、そうしなかった。
 
「……そういえば、私を切ったときも、郁夫様のときも……」
 
  ある可能性が、流の脳裏に閃いた。
  だとすれば。ひょっとしたら。
 
「――試す価値は十分にある。いや、きっと、間違いない……!」
 
  逢魔が刻に、ひとつ。
  紅と影に彩られ、鬼が笑みを浮かべていた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
  目の前には、鈍色の髪の少女。
  長き時を経てなお、その想いと形を保ってきた、包丁の化身。
  時折脳裏に浮かぶのは、きっと彼女の記憶だろう。
  睦事を通じて流れた想いが、こちらの脳内で再生されているのだろう。
  そこまで、俺と茅女は深く関わってしまっていた。
 
「郁夫、どうし――」
 
  先程の叫びを聞いたのか、やや心配げな表情で、茅女は俺の方に近付こうとした。
  瞬間。
  茅女は動きを止め、信じられないものを見るかのように、表情を歪ませていた。
 
「――な、なにゆえ、そのような瞳で、妾を、見る?」
 
  きっと、彼女が期待していたのは、先程までの俺。
  茅女のことだけを想い、他の全てを蔑ろにする。
  そんな一途な俺を、彼女は求めていたのだろう。
  ……でも、そんな幻想は崩れてしまった。
 
「……茅女」
 
  できるだけ、優しい声を出したつもりだった。
  しかし、小さな付喪神は、びくりと大きく体を震わせ硬直した。
 
「あのな、」
「い、郁夫は!」
 
  こちらが声をかけようとするのを妨げるように。
  大きな声を、茅女は張り上げた。
 
「わ、わ、妾を、どうするつもりなのだ!?」
「え?」
「妾がしたことは、わかっておるのだろう?
  そ、それを咎めるのか?
  とが、咎めるならそれは構わない。ど、どんな罰でも甘んじて受ける!」
 
  必死の形相で詰め寄る茅女。
  その剣幕に余裕はなく、何かに追い立てられるかのように言葉を紡いでいた。
 
  だから、と。茅女は想いを口にする。
 
 
「妾を、す、捨てないで……!」

 

 その想いは、あまりにも切実で。
  こちらの心を締め付けるような哀しみを纏っていた。
 
「な、何でもする! 郁夫が望むことなら如何なる事も拒まぬ!
  罵倒だって甘んじて受けよう! ヌシにはその権利がある!
  口汚く罵ってくれて構わない。壊れる寸前まで妾のことを痛めつけても文句は言わぬ!
  だから、だから……妾を、捨てないで……もう捨てられるのは、嫌ぁ……」
 
  どうして、茅女は。
  こんなにも、必死に許しを乞うのだろうか。
 
  俺は正直なところ、今回の件に関して、誰にも怒りを覚えていない。
  流に対しても、茅女に対しても。
  そんなことより、俺自身がしでかしたことの方が、どう考えても悪質だろう。
  心を操られていただなんて、ただの言い訳に過ぎない。
  生まれたばかりの、幼い付喪神の不安を解消してやれなかった。
  何かを長年抱え続けてきた付喪神の、負い目に気付いてやれなかった。
  そして、その結果が、今だ。
  流には口汚い罵倒を投げかけてしまい、茅女には今のような悲痛な表情をさせてしまっている。
 
  流や茅女が俺にしたことなんて、可愛いものだ。
  誰にだって、魔が差すことくらい、ある。
  それを許してやれなくて、どうする。
 
  過ぎてしまったことは仕方ない。
  それより、まずは目の前で震える茅女に対して何か言わなければ――

 

 そう思い、口を開きかけた、瞬間。
 
  茅女が、こちらに手を伸ばした。
 
  それは、縋りたくて無意識に伸ばしたのか。
  それとも、再び俺の意識を弄ろうとしたためか。
  わからないが、俺は茅女の指が、こちらの意識を自由に操れることを知っていたので。
  意識はそちらに集中し、それ以外が目に入らなくなってしまった。
  きっと茅女も、俺のことで気持ちが一杯で、他のことなんか気にする余裕もなかったのだろう。
 
  だから。
  二人とも、反応することができなかった。
 
 
  手を伸ばした茅女。
  その後ろに、一振りの刀を持った女性が。
  得物を、大きく振りかぶって。
 
 
  一閃。
 
 
  神速とも呼べる一撃。
  このような斬撃、出せる者は限られている。
  刀を持つ女性は、年配の使用人。
  この屋敷に長く勤めている彼女だが、剣術を修めていたという話は聞かない。
 
 
  手に持つ刀は、見覚えのあるものだった。
 
 
「……流……」
 
 
  俺が刀の名前を呟いた瞬間。
 
 
  ごろり、と。
  鈍色の頭が、床に落ちた。

16
 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

視界が真逆に回転してから、ようやく己の首を切断されたことに気が付いた。
驚異的な鋭さの斬撃だったが、そんなものは気にならないくらい、己の迂闊さに腹が立った。
――愛しき相手に、あのように無碍にされたのだから。
如何なる暴挙に走っても、不思議ではない。
だというのに、その襲撃を予測できず、殺気丸出しの不意打ちに気付けなかったとは。
……それだけ、郁夫の復活に動揺していたということか。

背後からの不意打ちにより、茅女の頭部は、床に転がり落ちていた。

とはいえ、この程度で死滅するほど妖怪は柔ではない。
本体さえ無事ならば、変化の体など、いくら傷つけられようとも元に戻せる。
転がった頭を無造作に拾い上げ、振り返ると同時に横に跳ぶ。

瞬間。

茅女の立っていた場所に、二度目の斬撃が繰り出されていた。
『――ちっ!』
舌打ちの気配を感じた。
そこに余裕は欠片もなく、焦りが色濃く窺えた。
おそらく刀の小娘は、先の一撃で決めるつもりだったのだろう。

初撃で必殺。
なるほど、少なからず考えてはいるようだ。

茅女の能力は“切断”である。
触れたもの全てを断てる茅女には、不意打ちで確実に仕留めるのが上策だ。


――しかし、甘い。


小娘は、唯一無二の勝機を逃した。
徐に殺しにかかるお転婆に、情けを掛けるつもりなど毛頭無い。
郁夫に術を破られた腹いせに、ここはひとつ、仕置きを施しておくべきか――


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

突然、茅女の首が転がったかと思ったら。
そのまま茅女は横っ飛び、己の首をひっ掴んで、何ら問題はなさげである。
流石は五百年ものの妖怪といったところか。

と。

こちらの思考が展開に追いつく前に。
茅女は自分の生首を振りかぶり、


「って、かや――」



ぶん投げた。



鈍色の頭は一直線に刀を持った女性へと飛んでいく。
思わず反射的に持っている刀で打ち落としたくなるところを、彼女は冷静に半身で避けた。
おそらく、茅女の能力を警戒したのだ。

だが――茅女の狙いは、ただ首を当てるのではなく。

投擲と同時に駆けた躰を、間合いの内に滑り込ませることだった。

触れることで発動する茅女の能力は、近付いてこそ真価を発揮する。
首無しの小さな肢体が、その手を刀へ素早く伸ばす。
しかし刀の持ち主は、尋常ならざる体捌きで、伸びた手に掠らせもせずに、その背後を取っていた。

――あの動き、間違いない。

刀を持っている女性は、体を操られているだけ。
そして、操っているのは、流だ。

刀の身にして、人の剣術を極める付喪神。
そんな流が操る人間は、それこそ達人級だろう。
加えて、名刀といって差し支えない“流”を持っているのだから。
その戦闘能力は一級品だろう。


背後を取った流は、そのまま茅女の背中に向けて突きを放つ。
本体からも生首からも死角となった位置からの攻撃。
突きはそのまま、茅女の中心に吸い込まれるかと思えた。が。



突きが届くよりも早く。
まるで胞子をばらまく茸のように。
茅女の体が、爆発した。

細かい粒子が宙を舞って消えていく。
流は警戒して突きを止め、粉に触れないように距離を取ろうとした。
そのとき。
崩れる肉体の中央より。
一本の包丁が、すとん、と廊下に突き立った。

瞬間。

茅女の躰があった場所から。
流に向かって一直線に、廊下の床板が、裂けた。


「なっ!?」

一瞬で足場が破壊され、バランスを崩してしまった流。
そこへ。
再び人間の姿へ変化した茅女が、間合いを詰め、手を伸ばす――


これは避けられない。
そう思った。
流とその持ち手は完全に体勢を崩しているのに対し、
茅女は床板の無事な部分をしっかりと踏みしめている。

多少の体術の差では、覆すのは不可能だろう。


そう、避けられない。

というか。


避けなかった。




流は、自身を大きく振りかぶらせ、決して茅女の手が届かない位置に。
がら空きになった胴には、当然の如く、流の手が触れようとしていた。
触れた瞬間、切断されるのは間違いない。
しかし、流は、何ら躊躇うことなく。

己を、振り下ろさせた。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


こと、ここに至って。
茅女は流の狙いを悟っていた。

なるほど。

小娘なりによく考えたということか。
先程の不意打ちといい、此度の攻め方といい、茅女の特性をよく理解している。
敵ながら、刹那の合間に感心してしまう。


流の能力は“触れたものを切断する”こと。
触れさえすれば、何でも切断できる、攻撃力だけなら最強の能力だ。
が。
ひとつだけ、大きな制約が存在していた。


それは。
一度に切断できるのは、“ひとつ”まで、ということだ。


直線上で密着していれば、そのまま一つの物体として切断することができるが、
少しでも間が空いていると、そこで切断の“線”は途絶えてしまう。
故に、一対多の状況には、いたく弱い。
そうならぬために、流は敢えて己の能力を初見で明かし、相手に慎重さを強制させる。
“何でも切断できる”と聞かされて、警戒しない強者は少ないからだ。
一度警戒してくれればしめたもの。
一斉に襲われなければ、後は個別に切断すれば済む話である。
何せ、現身・化身の何処であれ、触れた瞬間切断できるのだ。
一対一である限り、茅女は、ほぼ無敵といっていい。

故に、茅女を正面から倒したければ。
浦辺流瞳術のように、如何なる異能も介さずに制するか、
流のように、“二対一”の状況を作り出すしかない。


そう。
流は、己を他者に操らせることで。
この一瞬だけ、二対一の状況を作り出したのだ。



茅女が女性の胴を切断しようとも、一瞬で絶命するわけではない。
その手足、骨、筋は、死に至るまでは健在だ。
それを繰り、正に切断している最中、半刹那にも満たない瞬間、完全に無防備の茅女を。
己が刀身にて叩き斬る。


まったく。

小娘の癖に、よくもまあ策を練ったものだ。
茅女の弱点を見破り、それを正確に突いてくるとは。
世が世なら、恐るべき妖刀になっていたかもしれない。


だが。

まあ。





「――所詮は、小娘よの」


茅女は、嗤っていた。

使用人の胴に当てられた手。


その手を、“離した”。


――茅女は、切断していなかった。

ただ、手を当てていただけ。
どう見ても操られているだけの女性を切っても、何の意味もない。
茅女を狙っているのは、その手にある刀だけなのだから。
刀そのものにだけ、注意すればいい。


(それに、郁夫ゆかりの者じゃからの。そうそう三枚には捌けまいて)

こう考えてしまう自分は、甘くなってしまったのだろうか。

“復讐”だけを考えて生きながらえてきた茅女が。
まさか他者を気遣うとは。
一度壊れてしまった想いは、まだ、茅女の中に残っていたのかもしれない。



そんな、茅女に。

迫り来る流から、溢れ出る思念が、響き届いていた。





『――所詮は、老い耄れか』


流も、嗤っていた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


何が起きたのか、刹那の間では理解できなかった。

好きを晒した女性の胴に茅女が触れて。
それに構わず己を振り下ろした流。

茅女は慌てることなく、冷静に、身を半にして流を迎え撃とうとして――


使用人の女性の、袂から出てきた小刀に。


貫かれた。


「なっ――!?」

驚きの声を上げる茅女。
その口から、鮮血が溢れ出る。
ただの血ではない。茅女の“想い”が、零れて形となったものだ。

あれは――まずい。
相当なダメージを負ったと見て間違いない。
幻身の中の、茅女の本体を、正確に穿ったのだろう。



『――は』


『あはははははははははははははははははははははは!!!!!!』


びりびりと、流の思念が空間を震わせた。

どう贔屓目に見ても、今の流は正常ではない。

どちらを止めるか決めかねていたが、今の一合で、結論が出た。

――流を止めないと、ヤバイ。

茅女はまだ理性的だ。
しかし、流は拙い。アレは完全に、己の衝動に溺れている。
このままいけば、取り返しがつかなくなるだろう。
だから、今のうちに。

そう思い、瞳術を発動させようとした、瞬間。





『……図に乗るなや、小娘が』


いつしか聞いた。
嗄れた思念が。

夕闇を黒く染めるように、漏れ出ていた。
2008/01/08 To be continued....

 

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