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九十九の想い


◆管理人より◆
作者様のサイトにて改訂&完結したものが公開中です。
他にもいくつか作品を公開されていますので是非お立ち寄りください。
ここからジャンプします。
1

 付喪神。
  もとは老女の白髪を意味する言葉だが、転じて、年月を経た器物の妖怪を指す。
  要は、長年形を保つことで、尋常ならざるモノへ変化する、ということだ。
  悪戯好きなモノが多い傾向にはあるが、さりとて派手な悪事を働くことも少ない、
  良心的な妖怪である。
 
  さて。
  そんな付喪神だが。
  使い捨てという概念が定着して久しい昨今、その数は激減していたりする。
  出生率も1を割ってしまい、後進の育成が叫ばれている時代である。
 
  そこで生まれたのが、“付喪神研修制度”。
 
  あと数年で付喪神になれるであろう器物を、高名な霊能者の元へ派遣させ、
  そこで付喪神としての教養を学ばせ、これからの厳しい時代を乗り越えられる人材を
  育てようという制度である。
  幸いなことに(あるいは不幸なことに)、もうすぐ付喪神になれそうな器物は、
  大抵の家庭では不要とされ、物置や押入の奥に眠っているのが現状である。
  故に、無くなっても誰も騒いだりせず、研修制度は恙(つつが)なく行われていた。
 
 
  で。
 
 
  俺の家が、その、付喪神研修制度で定められた、霊能者の家のひとつだったりするわけで。
  今日も今日とて、研修のため住み込んでいるモノどもが、それはもう、
  本っっっ当に騒がしくしていた。
 
 
 
 
『いくおー、いくおー、遊ぼうよー』
『まーたつまらねえ勉強してるのか? 無駄な努力を』
『外に出て遊ぼうぜー。そんなんだからドーテーなんだよ郁夫は』
『はーるがきーたー、はーるがきーたー、どーてーにーはこなーい』
『おいおいお嬢、それは違うぜ。春は来てるけど花見できないだけなんだよ』
『かがみんエロっ! でも確かに花は見てないよね、花びらは! きゃはははははは!』
『おまえらひでえよ。郁夫にだって恋人くらいいるよ。長年付き合ってきた恋人が、さ』
『右手か』『右手だね』『いいや左手かも』『両手が花か』『足とか高等技術だよな』
『ぎゃはははははははははははははははははははははははははは!っ!!』
 
 
 
「あああてめえらうるせええええええええええええええええっっっ!!!
  あと童貞言うなコンチクショウッッッッッ!!!!!」

 

 こちとら試験勉強中だというのに、情け容赦なく邪魔してくる“研修生”たち。
  思いっきり怒鳴って黙らせようとするも、蛙の面に小便だった。
  むしろ、構ってあげたことになるから火に油?
  来週の中間テストは天高く燃え上がりそうな予感がする。そして俺は灰に。泣ける。
 
『(赤点)容疑者に告ぐー。お前は我々によって包囲されているー』
『お前はもう(補習から)逃げられないぞー。観念しろー』
『あそべー。あそべー』
 
  あくまで徹底抗戦か。よかろう。
  ここでひとつ、貴様らが研修中の身であることを、教え込んでやろうじゃないか――
 
  と、腰を上げかけたそのとき。
 
「郁夫様の邪魔をするのも程々にしなさい。
  遊びたいのであれば、私が存分に、お相手しますよ?」
 
  凛とした声が部屋に通った。
  声のした方に目を向けると、そこには色無地を着付けた少女が、盆を持って立っていた。
  薄緑の和服に、流れるような黒髪が映える。
  背筋はぴんと伸ばされていて、つい見とれてしまう格好良さだ。
  盆の上には湯飲みと羊羹。ああ、差し入れを持ってきてくれたのかな。
 
  刀の付喪神、流(ながれ)。
  5年前に我が家に研修に来て以来の仲だ。
  研修が終了してからも、何故かこの家に居座っている変わり者である。
 
『げー。鬼刀がきたぞー』
『斬られるー。斬られるー』
『郁夫の皮も切られちゃうー』
 
「手術が必要なほど余ってねえ! ……ちょっとだけだ」
「郁夫様、相手をしたら喜ぶだけです。無視するのが賢明かと」
「う……そうだな。ごめん」
「それより、試験勉強の方は捗(はかど)ってますか?
  差し入れをお持ちしました。今日の水羊羹は会心の出来ですので、よろしければ」
「おお、ありがとなー。流の羊羹は大好きだから嬉しいぞ」
「……だ、大好き……」
「ん? どした? ぽーっとして」
「いいいいえ、ななななんでもありません!
  し、試験勉強頑張ってください! 邪魔者どもは連れて行きますのでっ!」
 
  言うなり少女は俺から距離を取り、喧しく騒いでいた人形やら孫の手やら鏡やらを、
  ひょいひょいと回収して、駆けるように部屋から出て行った。

 

 
 
 
「……むう。どしたんだろ、流のやつ」
 
  熱いお茶をひとすすり、はてなと首を傾げるのみ。
  と、そこへ。
 
『やれやれ。刀心のわからない奴だねえ』
 
  口を付けていた湯呑み茶碗から、呆れたような思念が伝わってきた。
「む、なんだよ、千茶(ちさ)」
『別にー。それより勉強頑張りなさいよー。私はお目付役としてしばらくいるから』
「……退屈だからって邪魔するなよ」
『しないわよ。見てるだけで楽しいしね』
「? まあ、それならいいや。よーし、目指すは50点!」
『もう少し高い目標を持ちなさいよ……』
「うるせい」
 
『ふふ……。――あ、始める前に、お茶は全部飲んでおいてちょうだい。
  ぬるいの入れられっぱなしは好きじゃないの』
「ん? ああ、了解」
『……んぁっ……』
「あれ、何か言ったか?」
『なんでもなーい。それより、歯を立てたりしないでよねー』
「へいへい。……ん、流の淹れたお茶は美味いなあ」
『…………(湯呑心もわからない奴よねえ)』
 
 
  その後、千茶に近代史のわからない所などを訊ねたりして、試験勉強は恙なく終了した。
 
 
 
 
 
 
 
「……さて、試験勉強も終わったことだし、流と訓練でも――」
『あ、ちょっと、郁夫!』
「ん? 何だよ千茶。ああ、ちゃんと台所に連れてってやるから安心しろ。
  このまま置きっぱなしじゃ茶渋が付いちゃうもんな」
『あ、いや、そうじゃなくて……。
  勉強して疲れてるでしょ。もう一杯お茶飲んで、ゆっくりしてから訓練すれば?』
「ふむ、確かにちょっと疲れてはいるけど……」
 
  と、少し悩んだ素振りを見せた、次の瞬間。
 
 
「郁夫様! 訓練ですね! 行きましょう! さあ行きましょう!」
 
 
  すぱん、と襖が開け放たれ、練習用の木刀を持った流が突入してきた。
  迫ってくるその様は、何というか、散歩を前にして尻尾を振りたくる犬のようで。
  あまりに微笑ましいので、つい苦笑が漏れてしまう。
 
「あー、わかったわかった。んじゃ行くか、流。
  あ、とりあえず千茶を洗うから、先に道場の方へ――」
「ご心配なく郁夫様。千茶は私が洗っておきます。ささ、郁夫様は準備の方を」
『あ、こら、流! 私は郁夫に洗ってもらいたいのにーっ!』
 
  目にも留まらぬ素早さで千茶をひったくった流は、
  そのまま全速力でだだだーっと台所の方へ駆けていった。
  千茶が何やら言っていたが、うまく思念を聞き取れなかった。
 
  そして、代わりに押しつけられた木刀2本。
「……ま、片付けてくれるってならそれでいいや。んじゃ俺は準備しよっと」
  勉強道具を片付けて、そのまま道場へ向かうことにした。

2

 流は正直Sだと思う。サドだ、サド。
  木刀を持って向かい合うや否や、鬼のような勢いで滅多打ち。
  怪我が後に引かないように手加減はしてくれるのだが、それでも痛い。
  おかげで俺は体中アザだらけ。
  こんなんじゃあ初体験のとき誤解を受けちゃうから当分先の方が良いんだよHAHAHA。
 
「……郁夫様?」
 
  心配げな声に、はっとして現実へと立ち返る。
  ここは道場。
  時刻は夕暮れ。
  俺はどうやら倒れているらしく、視界には心配げな流の顔。
 
「……あ、気絶してたのか。さっきの上段、やっぱり防げなかったか」
  ぐわんぐわんと揺れる頭を何とか起こし、痛む全身に顔をしかめる。
「打つ前に、脇に騙しを入れましたからね。
  守る心が散漫になっているところには、すんなり滑り込めるものなのですよ」
「……フェイントにはついつい反応しちゃうんだよなあ」
 
  己の未熟を恥じながら、よっこらせ、と立ち上がる。
  全身は打ち身だらけだが、まだ立ち上がることができるのは、流の加減が上手いからか。
  今だって、脳天に木刀の一撃を喰らったというのにも関わらず、
  せいぜいこぶができたくらいで出血すら見当たらない。
 
  全力で打ち込まれていたら、運が良くても脳挫傷レベルのはずなのに、
  流を怖いと思えないのは、長い付き合いだからか、はたまた流の雰囲気からか。
 
「……? ……!」
  見つめられて不思議そうに首を傾げ、何故か赤くなる刀の付喪神。
  戦うときは鬼のような強さを見せるくせに、普段はどう見ても可愛い女の子。
  しかもその性根は優しく暖かいのを、5年の付き合いからわかってしまっているのだから。
  流を怖いだなんて思うことは、どうやら俺には不可能の模様。
 
「……だから俺は、流がサドでも気にしないぞ……!」
「さ、サド……? ご、ごめんなさい!
  郁夫様が嫌がっているとも知らず、私、酷いことばかり」
「あーいや、ごめん冗談。気にしないで。
  っていうか厳しくしろって言ったの俺だし。流はその通りにしてくれてるだけで。
  むしろ流すごい。偉い。尊敬する。流がいるから俺頑張れる。流最高」
「そ、そんな、最高だなんて……」
 
  真っ赤になって木刀の先端をいじいじしている。ふ、褒め言葉に弱い奴め。
  まあそれはそれとして。
 
「さて、それじゃあ続きだ続き。もう一本やろうぜ、流」
「――はいっ!」

 
 
 
 
 
  浦辺流退魔術。
  俺こと浦辺郁夫が生まれ育った浦辺家は、結構古い拝み屋だったりする。
  そのため、幼い頃から修業を受けてきているし、退魔の術はそれなりに身に付いている。
  が。
  うちの流派は体術にそれほど重きを置かない流派のため、
  実戦的な体術を教えられる師が存在しない。
  よって、どこかの剣術道場や杖術道場などから出張願うしかなかったのだが、
  付喪神研修制度というトンデモ制度により流が我が家に訪れてから。
  浦辺家は、優れた剣術の師を手に入れることと相成ったのである。
 
  流は元々、ある剣術流派の道場に飾られていた奉納刀である。
  道場の上座に長年据え置かれ、門弟の訓練を眺め続けていたそうな。
  流がうちに研修に来たときは、既に人化が為せる程度に変化していたので、
  俺は5年前――11の頃から、流に稽古をつけてもらっている。
 
  つけてもらっているのだが。
 
 
「……だ、大丈夫ですか、郁夫様?」
「そ、その、辛くなったらすぐに仰ってくださいね」
「……もっと手加減しましょうか?」
 
 
  剣術の腕は達人級なのだが、師としては子犬級である。
  可愛いのはいいんだが、もうちょい厳しくして欲しいというか何というか。
  だからといって、剣を教えるのが嫌いというわけではなさそうで、
  俺に剣筋を教えたり、木刀で打ち合ったりしている間は、散歩中の犬のようだったりする。
  それに、甘いとはいっても助言は的確だし技術は確かだしで、
  冷静に考えてみれば、これはこれで悪くない気もする。
 
 
「郁夫様、守る場合は線を点で防いではいけません。……痛かったですか? すみません……」
「では、これから中段を攻めますので、先程教えた筋で対応してみてください」
「だ、大丈夫ですか郁夫様!?
  もう少し、脇を締めれば今のは防げますので、次は気を付けていただけると……」
 
 
  でも。
  心配そうにオロオロしながら。
  しかし打ち込むときは鬼のようなこの勢い。しかも楽しそう。
  断言しよう。
  やっぱり流はSだ。サドだ。間違いない。

 
 
 
 
 
「お疲れ様でした、郁夫様」
「……おー……ありがとなー……」
 
  最後のストレッチまでじっくりこなし、心地よい疲労感に包まれながら、今日の訓練は終了した。
  閉められていた戸を流が開け放ち、冷たい風が、籠もった熱気を吹き払っていく。
  11月も半ばを過ぎているため、外は既に夜闇に包まれていた。
 
「それでは、湯浴みの準備ができていると思いますので、ゆっくり浸かって――」
 
  と、流が言いかけたところで。
 
 
「――訓練は終わりました? お疲れ様でーす」
 
 
  と、底抜けに明るい声が、道場に響いた。
  顔を向けると、割烹着をかけた女性が、入り口から笑顔で手を振っていた。
 
「……今終わったところです」
  流が何故か仏頂面で応対する。
「そうですかー。それじゃあ郁夫さん、お風呂の準備ができてますので、どうぞお入りくださいな」
「郁夫様はお疲れです。黒間(くろま)様」
「あら、そうだったんですか。それじゃあ私が肩を貸してあげますねー」
  とてとてとて、とこちらに近付いてくる。
 
「郁夫さん、大丈夫ですかー?
  動くのも辛いなら、私が一緒に入って体を洗ってあげますよー?」
「……黒間様! そのような冗談は如何なものと思われますが!」
「やだなー、流さん。冗談なんかじゃありませんよ。
  私の体、隅から隅まで郁夫さんのものなんですから。
  お望みとあらば、胸で背中を洗うことすら辞しません」
 
  と、下ネタ混じりの冗談を言いながら、えへんと胸を張っている。
  その張られた胸は、大人の魅力が詰まってるというか、強力な自己主張が為されてるというか。
  着物と割烹着に遮られながらも、その偉大さを隠し切れていなかったりする。
 
  アレで……背中を……!?
 
「郁夫様っ!」
 
  何故か流サンに怒鳴られましたよ。
  何故だろう。きっと、あの胸がいけないんだな。けしからんおっぱいめ。
  じゃなくて。
 
「……橘音(きつね)さん。お気遣いは嬉しいんだけど、一人で行けますから。
  とりあえず、呼びに来てくれてありがとうございます」
「むー。郁夫さんのいけずー」

 

 浦辺家の使用人、黒間橘音。
  2年前から、とある事情により住み込みで働いている女性である。
  髪を後頭部でまとめ上げていて、うなじの後れ毛が大人っぽい美人だ。
  ノリはどうにもアレだが、まあ俺とは色々あって、この屋敷では一番仲の良い使用人である。
 
 
「まあ、何はともあれ、お風呂の時間ですよー。
  流さんの時間は終了ですよー。郁夫さんは私がいただきでーす」
「い、郁夫様は貴女のものではありません!」
「っていうか誰のものでもないし」
  そうツッコミを入れながら廊下へ出る。
  どうも流は、橘音さんに対して突っかかってしまう傾向にある。
  気が合わないのかなあ、と思いながら、廊下をてぺてぺと歩いていく。
 
 
 
「郁夫さーん!」
 
  廊下を歩いていたら、橘音さんに呼び止められた。
  何だろう。……また一緒に風呂に入るとか言い出したらどうしよう。
  性欲を持て余す青少年に、そんなエッチなネタフリされても、
  本気で取りかねないということをわかってくれないのかこの人は。
  それでもハタチかこんにゃろう!
  ……や、俺が慣れればそれでいいだけの話なんだが……諸事情によりそれは難しかったりする。
 
「伝言があるのを忘れてまし……あら? 何か言いにくそうな表情をしてますけど」
「……何でもありません。それで橘音さん。伝言って、親父から?」
「はい。秋夫(あきお)様から先程お電話がありまして。
  郁夫様に、今日中に伝えておいて欲しいとのことです」
「ふむ、仕事先からわざわざ言ってくるとは、ひょっとして急な仕事の依頼とか?」
「近いです。実は、新しい付喪神研修生を、一体受け入れるとのことで」
「え? こんな時期に?」
「はい。急に決まったことだそうです。秋夫様は仕事の途中なので、
  受け入れ業務は郁夫様に一任するように、とのことです」
「……ん。了解」
 
  まあ、受け入れ業務といっても、そんなに難しいことではない。
  ここで暮らしをする上での説明とか、置き場所の確保とか、その程度のことである。
  万が一付喪神のタマゴが悪さをしたときのために、抑え込む霊能者が一人いれば済む。
  それに、受け入れ業務は始めてではない。
  3年前の研修生は俺が担当したし、そのときの要領でやれば問題ないだろう。

 

「で、そいつはいつ家に来るんですか? 来月?
  それとも、急ってことだから、来週とか?」
 
  準備は1日あれば余裕で終わるが、こちとら健全な男子高校生。
  テストの直前に掃除をするように、できることはギリギリまで引き延ばしたい性質なのである。
  ……いやまあ、訓練だけはちゃんとやるけどね。命に関わるし。
 
「明日だそうです」
 
「――は?」
  えっと?
  聞き間違いかな?
  明日って明日?
  この後、日が昇ったら、来るの?
 
「何せ急に決まったことだそうですから。郁夫さん、ふぁいとっ」
 
 
  とりあえず。
  のんびり風呂に入れる状況ではなくなった模様。
 
 
 
  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
 
  深夜。
  色無地の少女が、縁側で満月を見上げていた。
 
  郁夫が慌ただしく作業をし、それを先程まで手伝っていた。
  それも終わり、彼は泥のように眠りについた。
  寝室まで運び、橘音に寝具の支度をしてもらって、そのまま布団の中に寝かせてきた。
  腕の中で、童のように瞳を閉じていた。
 
  ――郁夫が、己の腕の中で。
 
  体に熱が灯る。
  器物の身に有り得ざる暖かさ。
  これはきっと、郁夫がくれたもの。
  そう思うと、熱はますます燃え上がる。
  人間だったら、この熱を冷ます術を持っているのかもしれない。
  しかし、人ならざる身の熱は止まることを知らず、思考力すら奪っていく。

 

 道具の幸せは、使われること。
  持ち主の手に馴染み、信頼されることこそ、道具の至上。
 
  流が望む持ち主は――当然、郁夫。
  その郁夫に信頼されることこそ、流が望む最高の幸せ。
 
  ――そう、自分は、道具なのだから。
 
 
「…………」
  ふと思い立って、元の姿に返ってみることにした。
  郁夫の側にいるときは、基本的に人の姿に変化しているので、
  最近は元の姿に戻っているときの方が少なかった。
 
  イメージは、下腹の力を抜く感じ。
  全身に纏っていた力みを抜き、外の皮をぺりぺりと剥いていく。
  あくまでイメージであり、実際の流の体は人間の姿を保っているが、
  見る者が見れば、その存在が曖昧になっていくのがわかっただろう。
  そして、完全に“変化”という特殊な状態を脱した瞬間。
 
 
  べきり、と。
  流の体が、ねじれた。
 
 
  まるで雑巾を引き絞るかの如く。
  肉が、骨が、髪が、着物が、ばぎん、ごきり、ぐちゃり、みちみち、と纏まっていく。
  やがて、棒状にまで圧縮された流の体は。
 
 
  一本の、打刀に“戻って”いた。
 
 
  刀の姿のまま、満月の光を浴びてみる。
  月光は怪異を育てるというが、特に力を与えられる気配はない。
  郁夫の声の方が、何百倍も力をくれる。
 
  流の一番の願いは。
  郁夫と、ずっと一緒にいること。
 
  それは、道具として、きっと一番幸せなことで。
  そのためには、どんなことでもしてみせる。

 

 郁夫に剣術を教えているのも、そのため。
  刀である自分が、郁夫の道具となるには、郁夫が刀を使えなければならない。
  そのために、郁夫に剣術を教えている。
  正直、郁夫に向かって木刀を振るうのは好きではない。むしろ苦痛だ。
  しかし、郁夫がいつか、自分を使いこなすことを思えば。
  想像する恍惚感だけで、つい力が籠もってしまう。
  それでも、郁夫に怪我させることだけはないように、慎重に慎重を重ねて、教えてきた。
  結果、郁夫は“剣術の方も”年の割には優れた使い手になりつつある。
 
  ――でも。
 
  刀である自分が使われる状況、というのは。
  現代日本では、酷く限られてしまう。
 
  人斬りが許される時世ではない。
  さりとて、床の間に飾られるのは、嫌だ。
  道具として、郁夫に握られて、何かを斬りたい。
 
  そして――郁夫が何かを斬るとすれば、それは、きっと。
 
 
  同胞たる、妖怪だろう。
 
 
  退魔術を受け継ぐ浦辺の一族。
  その道具として、同胞を斬る。
  似たような仲間もいるらしいが、そういった連中は妖怪たちからは裏切り者として扱われている。
  研修制度などができ、人間と妖怪との距離も狭まりつつある昨今だが。
  やはり、同胞斬りは、禁忌だった。
 
 
  でも。
  それが、どうした。

 

 郁夫のためなら。
  自分以外の全ての妖怪を斬り殺しても、構わない。
  同じ刀の付喪神でも、何の痛痒もなく叩き折る。
 
  郁夫にとっての一番になれるのであれば。
 
 
  道具としても。
  ――それ以外でも。
 
 
『……私ってば、何てことを』
 
  思い上がりかけたところを自省し、流は心を落ち着ける。
  自分はあくまで道具である。
  郁夫の側にいるのであれば、きっとそれは道具として。
  でなければ、自分は郁夫とは一緒にいられない。
  郁夫は悪事を働く妖怪を倒す、人間なのだから。
 
 
 
  ……刀の姿に戻っていたから。
  流は、己の抱いている感情に気付いていなかった。
 
  もし、人間の姿を保っていたら。
  きっと、その瞳から、涙をこぼしていただろう。
 
  その胸にある想いは、至って単純。
 
 
『人間に、なりたいなあ』
 
 
  童女のような純粋さで。
  流は、そんな願いを抱いていた。

3

 朝。
  小鳥が囀り始める頃には、浦辺家の一日は始まっている。

「橘音ちゃーん、皮むき終わったー?」
「はーい、ジャガイモも食べやすい大きさにしてありますよー」
「んじゃ味噌汁始めちゃっていいよ。出汁はアマっちゃんが仕込み済みだから」
「了解しましたー」
 
  厨房では、使用人がぱたぱたと忙しなく、朝の準備を進めていた。
  普段はもう少し時間に余裕があるのだが。
  今日は諸事情によりスケジュールが前倒しされ、慌ただしくなっていた。
 
「くそー、忙しくなるのは郁夫さんだけだと思ってたのに。油断したー」
『ま、新入りを持ってくる人の歓待とかもしなくちゃいけないしねえ。
  頑張れ橘音。私ぁここから応援させてもらうわよ』
「ひーん、千茶ちゃんの外道ー! あとで苦瓜茶を淹れてやるー!」
 
  人間と付喪神ながらも、気軽に会話する橘音と千茶。
  付喪神研修制度によって、様々な霊能者のもとに付喪神のタマゴが赴くことになるが、
  その待遇や修業内容は、担当の霊能者によって千差万別だったりする。
  浦辺家では、妖怪の人間の同居を視野に入れた、環境への適応を重視している。
  その方針から、使用人も付喪神とは気さくに接するように徹底され、
  また付喪神の方も、使用人には怪異を振るわないように教育されている。
  結果、橘音と千茶のように、仲の良い組み合わせもできていた。
 
 
 
『そういや橘音やい』
 
  味噌汁の鍋を丁寧にかき回していた橘音に、ふと千茶が思念を送る。
「ん? なーにー?」
『今日来る新入りってさ、何の道具なの? 食器だったら、私が面倒見てもいいけど』
「いや、それがよくわからないのよー。
  何やら身近な道具みたいだけど、詳細は教えてもらってないなあ。
  まあ、あとで郁夫さんが教えてくれるでしょ」
『そか。ふふふ、もし湯呑みだったら、私がここの掟を叩き込んでやろうじゃないの』
「掟って?」
『浦辺家研修生の心得・その壱。暇なときは郁夫で遊べ』
「……そんな掟があったんだ……。まあ、私もやってるけど」

 

 
 
 
  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
 
  ところ変わってこちらは裏庭。
  まだ外も薄暗い時間ながらも、既に修業は半ばを終えている。
  剣術の訓練ではないので、流は側にいない。
 
  光も差さぬ薄もやの中、立てられているのは一本の蝋燭。
  大きな岩に乗せられて、赤い炎がゆらゆらと踊っていた。
  それを、5間は離れたところから、じっと睨み付けている。
 
  詞はない。動きもない。ただじっと見つめるのみ。
  静寂は緊張に引き絞られ、霧は冷たく硬化していく。
 
  近くに付喪神を置かないのには訳がある。
  浦辺の退魔術はやや特殊なため、修練の場に紛れ込んでいたら邪魔になるのだ。
  流あたりは、可能であるならば何かの手伝いをしたいとか考えているかもしれない。
  剣術の師に飽きたらず、何から何まで手伝おうとするあのお節介は、
  いつになったら落ち着いてくれるのかなあ、とついつい考えてしまう。
 
  ふらり、と蝋燭の炎が一際強く揺れた。
 
「――あ、いかん」
 
  流のことを考えたら、集中が途切れてしまった。
  慌てて手元のストップウォッチを押し、時間を確認。
「……目標時間には、まだまだ足りないなあ」
  はあ、と重い溜息を吐く。
  流のせい、とは髪の毛先ほども考えてない。
  どんな理由であれ、集中を途切れさせてはならないのが浦辺の術だ。
  まだまだ修行が足りないなあ、と自省し、次のメニューへ進むことにする。
 
  新入りが到着するのは正午過ぎ、と聞いている。
  幸いにも今日は土曜日なため、学校は休みである。
  修業にて精神を統一した後、新入りを迎えるつもりだった。
  何せ相手は器物の変化。
  人間に作られた物といえども、その思考形態は人間のものとはかけ離れていることが少なくない。
  少しでも隙を見せたら、制御しきれなくなるかもしれない。
  しかも今は、両親が仕事で出払っている。
  祖父母は在宅だが、既に引退した身なので、俺が最高責任者である。
  気を抜かないためにも、朝の修業はきっちりとこなす心算だ。

 

 研修に来る器物は“刃物”と聞いている。
  鋏や剃刀のような日用品か、刀や鋸のような大型の物か。
  詳細は不明だが、何にせよ扱い次第では、大きな被害の起きうる変化である。
  妖怪となった器物は、それぞれ特異な能力を持つ。
  それが悪意ある者の手に渡ると、何かしらの事件が起きてしまうし、
  器物自身が意志を持っていた場合は、触れた人間が操られてしまう可能性もある。
 
  妖怪を調伏したり退治したことは何度もあるが、だからといって気を抜けるものでもない。
  特に浦辺の退魔術は自身の体が傷つけられる可能性も高いため、
  刃物が相手では、一瞬の油断で絶命、なんてことも十分あり得る。
 
 
「さて、次は水行っと――」
 
  冷たい水を被って精神統一。
  夏の頃はあんなに楽しみだったものが、今の時期は涙が出そうになるんだよなあ、と。
  修業メニューに対する愚痴をこぼしながら、禊場へと足を向けた。
 
 
 
  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
 
  ――その、背中を。
  一対の瞳が、見つめていた。
 
 
 
『……彼奴が、当代か?』
 
  誰にも届かない思念を、独りぽつりと漏らしていた。
 
  何の修業をしているのかはよくわからなかったが、
  人の身が行う業になぞ、興味なんて欠片もなかった。
  重要なのは、己を調伏し得る器か否か。それだけだ。
  見たところ、神通力もなければ符術に優れた様子もない。
  纏う気が一般人のそれであったのは、隠しているからか、はたまた未熟なだけだろうか。
  修業のときまで己の力を隠す、というのは考えにくいので、
  今見たとおりの実力しか持ち合わせてない可能性も高い。
 
  だとしたら――拍子抜けである。

 

 おそらくは、赤子の手を捻るより簡単だろう。
  かつての己とは比べものにならないほど、今の妾はその怪異を強めている。
  今、この場で――済ませてしまう手もある。
  しかし、それでは長年の溜飲を下せない。
  ――やはり当初の予定通り、策を弄して事に当たろう。
  その方が、彼奴等により大きな苦痛を与えられるだろうから。
 
 
 
 
 
「ふいー。いやはや、修羅場は何とか過ぎ去ったねー」
『橘音、お疲れ様。私でお茶を飲んでいいわよ』
「お、いいのん? 千茶ちゃんで飲むお茶は美味しいんだよねえ。
  出涸らしが玉露になるんだもん。一家に一個欲しいところね」
『熱すぎるのは嫌よー』
「了解了解っと」
 
  そろそろ正午に届こうかという頃合い。
  客人の分の昼食も準備が完了し、あとはお持て成しの手はずを確認するだけである。
  使用人の中で一番若手の橘音は、客人の直接のもてなしには関わらないため、現在は厨房で休憩中。
  慣れた手つきで千茶にお茶を注ぎ、一服を楽しむことにした。
 
 
  ――と。
 
 
「あら?」
『? どしたの?』
「いや、片付け忘れたのかな……?」
 
 
  首を傾げた橘音の視線。
  その先に、一本の包丁が置かれていた。
 
 
  普段は洗い終わったら、すぐに片付けるようにしていたが、
  今日はいつもよりドタバタしていたから、片付けるのを忘れていたのかもしれない。
  包丁を出しっぱなしにしておくと、ふとした拍子に落としてしまったりなど、
  色々と危ないので、すぐにしまった方がいいだろう。

 

 

「誰がしまい忘れたのかな? 私じゃないと思うけど、危ないなあ……」
 
  立ち上がり、調理台の上に手を伸ばし、
  古式ゆかしい白木作りの柄を握り――
 
『……? 待って、きつ――』
 
  千茶が違和感を覚えて思念を飛ばしたときには既に遅く。
  橘音の体は、己の思い通りに動かなくなっていた。
 
「え――」
 
 
『娘。声を出すことを許そう。
  ――助けを呼べ。この家の当代に届くようにな』
 
 
  ぎしり、と空気が黒く歪んだかのような。
  禍々しい思念が、橘音の脳髄を揺さぶった。
 
 
 
  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
 
「郁夫様、そろそろ時間ですね」
  居間の時計を見上げて、流はそう声をかけてきた。
「そだな。……なあ流、襟のところ曲がってないかな?」
「大丈夫ですよ。郁夫様は当主代行なのですから、どしりと構えていらっしゃれば」
「うーむ、それはわかってるんだが……」
 
  相手が目の前に来れば肝も据わるのだが、こうやって待つ時間が一番苦手である。
  ここらへんの精神修養も未熟なんだよなあ、とちょっぴり悲しくなってしまう。
 
  服装は、一応正装の学生服。
  最初は袴でも履こうと思ったが、着られる印象が拭えないので、こちらにした。
  親父みたいな貫禄が出てくるのはずっと先だろう。がっくり。
 
 
「しかし、刃物の変化か……。刀だったら、じゃじゃ馬を相手にした経験があるんだけど」
「……誰のことだか、てんで見当が付きませんね」
「剃刀だったらちょうどいないから、髭剃りに協力願えるんだけどなあ」
「郁夫様、そんなに髭濃くないですよね」
「……ん? なんだその目。ひょっとして、俺が他の刃物を使うこと、嫉妬してるのか?」
「――そ、そんなことありませんよ!?」

 

 少しからかっただけなのに、真っ赤な顔で怒られた。
  冗談がわからない奴だなあ。
  まあでも、実際問題大降りの刃物が来た場合は、流が面倒を見る可能性が高い。
  だから流自身、結構真剣に初顔合わせに望んでいるのだろう。
  ――しかし、だからといって。
  同じ部屋でこちらの独り言にいちいちツッコミ入れることもなかろうに。
 
  客が着くまでこんな調子なのかなあ、と溜息を吐きたくなった。
 
  瞬間。
 
 
  絹を裂くような悲鳴が、屋敷に響き渡った。
 
  この声は――
 
「――橘音さん!?」「黒間様!?」
 
  尋常な叫び声ではない。
  何か、異常事態が起こった模様。
  一瞬の間も空けず、居間を飛び出し、声の聞こえた方へと向かった。
 
  声の聞こえた方角や時間から考えて、おそらく厨房だろう。
  妖怪がたくさんいる屋敷だ。異常事態は日常茶飯事ともいえる。
  その上での、先の悲鳴。
  ――嫌な、予感がした。
 
 
 
 
 
  厨房へ駆け込むと。
  そこには。
 
 
『――来たか』
「…………い……く、お……さん……すみ、ません……」
 
 
  厨房に立つ橘音と。
  ――その手に握られた、禍々しい包丁。
 
  切っ先は橘音の喉元に突き付けられ、既に一寸、刺し込まれていた。

 

『ヌシが、この家の当代かい?』
 
  嗄れた老婆のような思念が、郁夫の脳を軋ませた。
 
  事態は緊急。下手な対応をしたら橘音は危ないだろう。
  浦辺家の正式な代表は親父だが、この場にはいない。
  そういう場合は、自分が代表を名乗ることが許されているので、静かに「そうだ」と頷いた。
 
『……ふん、この家も随分と落ちぶれたものよのう。
  まさか当代がこんな神通力の欠片もない男とはな』
 
「……っ!」
 
  こちらを嘲る思念に、何故か流が反応した。
  諫めようとしたが、その前に向こうが思念を発してくる。
 
『まあいい。――のう、当代よ。妾はヌシに、ひとつだけ願いたいことがある』
「……何だ」
『なに、そう難しいことではない。妾を調伏して欲しいのじゃ』
「…………は?」
『全力で、調伏しにかかってくれ。余計なモノは要らぬ。
  憎しみと義憤に駆られて、妾に全力で当たってくれればいい
  ――それを、虫螻のように踏み潰してみたいのでな』
 
  空間が、軋んだ。
  間違いなく、包丁の発する妖気によるものだ。
  ――付喪神になりかけの妖怪じゃ、こんな空気を作り上げることはできないだろう。
  間違いなく、数百年を生きる古株の変化だ。
  そんな奴が、何故ここに?
 
『――なに。無償とは言わぬよ。……この娘』
 
  くい、と橘音さんの顔が上げられる。
  おそらく、彼女の意志ではない。体を操られて、顔を上げさせられたのだろう。
 
『此奴、存外に意志が強くての。悲鳴を上げろと言っても、うんともすんとも言わなんだ。
  仕方ないから、妾が強引に上げさせたが、抵抗が強い強い』
 
  ……何が、言いたい?

 

『操ってみるとわかるものでな、この娘、この家――とくにヌシに忠誠を誓ってるようでの。
  ヌシの不利益にならぬように、己の命すら張りおった。
  それほどまでに使用人に好かれ、悪い気分ではないだろう?』
 
「……それが、お前を調伏することと、どう関係してるんだ」
 
『なに。つまりこうしてやるから、本気でかかってきておくれ、ということよ』
 
 
  言うなり。
  橘音さんの手にある包丁は、そのまま上へと押し上げられ――
 
 
  まて。
  おまえ。
  それは――
 
 
  ぷつり、と筋の引き千切れる音がして。
  ――鮮血が、舞った。
 
 
『どうだ当代、己を慕う娘を殺される気分は?
  なに、遠慮することなどない。今覚えた気持ちをそのまま、妾にぶつけるといい。
  ――それとも、これでは足りぬか?』
 
  首筋を切り裂かれ、鮮血を大量に零している橘音さんの体。
  それを無理矢理に操り、包丁は、己をこちらに向かって投擲させた。
 
  速い――が、狙いは俺ではなく、流。
 
  隣にいるから、という理由だけで狙ったのなら迂闊すぎる。
  流の技術なら、ただ投げられただけの包丁など、脅威でも何でもない。
 
  流が素手を一閃させた。
  側面を叩いて弾き落とす――その瞬間。
  刃の向きが変わり、そのまま流の手を迎え撃つ。
 
  ざくり、と刃が肉に埋まる。
  しかしそれだけ。包丁の薄く軽い刃では、骨を切断するには至らない。
  流はそのまま払い落とそうとする。
  しかし。

 

『――ふん、川寿も迎えてないような未通女が、妾に敵うと思い上がるか』
 
  瞬間。
  包丁が肉を纏い、変化した。
 
  現れたのは襤褸を纏った少女。
  髪は刃を表すかのような銀色で、鈍く禍々しく輝いている。
 
  刺さった状態から一瞬で変化したため、
  流の手の肉が、無惨にも飛び散った。
「……っあっ!」
  しかし、流も流石に付喪神。
  痛みも気にせず、無事な方の手で少女の腕を取る。
  流は柔も一級品。そのまま投げ飛ばすのも容易だろう。
  だが、それが為されることはなく。
 
『だから、思い上がるなというのに。小娘が』
 
  掴んでいた手が、裂けた。
 
『永く刃物をやっているのでな。
  粗方のものは、触れただけで切り刻めるようになったのよ。
  符や念力も、軽々とな。
  ――さて、それではヌシも、疾くと去ね』
 
  ざくり、と。
  流の中心から木の裂けるような音がして。
  そのまま流は、倒れ込んだ。
 
 
 
 
『これで残るは、ヌシのみぞ。当代よ』
 
  少女が嗤う。
  それはいかなる感情によるものか。
  ただ楽しいだけで、こうはいくまい。
 
『――本気を出せ。全てを賭けて妾を調伏せよ。
  妾はそれを踏みにじり、思うが侭に切り刻んでやるからの。
  ……ああ、この瞬間をずっと待っていたぞ……!』
 
『憎き憎き卜部の家よ。
  ヌシ等に復讐せんが為に、
  妾は長き時を生き延びてきたのだからな!』

4

 橘音さんは首筋を引き裂かれ、未だ出血は止まらない。
 
  流は床に倒れ伏している。その両腕は原形を留めておらず、
  根幹である刀身にも、多大な損傷を受けている可能性が高い。
 
 
  目の前で、2人が。
  無惨にも、切り裂かれた。
 
 
  でも、動かなかった。
 
  助けに走りたかった。
  自分の体を盾にしたかった。
  怒りのままに飛び掛かりたかった。
 
  ――でも、我慢した。
 
  この場で重要なのは、感情に流されることではない。
  ことの元凶である、包丁の付喪神をどうにかする。それだけだ。
 
  でなければ、きっと俺はこの付喪神に殺されて。
  重傷を負った2人も、助けることができないだろうから。
 
  だから、我慢した。
  浦辺の退魔術は、他の流派のように神通力や術符を使ったものではないので、即効性に欠ける。
  条件さえ満たせば、すぐに効果が発現するが――今はそれが整っていない。
  だから、耐える。歯を食いしばって。頬の内側を噛み千切って。
 
  なあ、名前も知らない包丁の付喪神。
  お前がどんな理由で、この家に仕掛けてきたのかはわからない。
  でもな。
  からかいながらも俺を慕ってくれる橘音さん。
  俺に懐いてくれてる付喪神の流。
  この2人を傷つけた代償は。
  ――絶対に、安くないぞ。
 
 
 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
 
  ――仕掛けてくる様子はない。
 
  包丁の付喪神――茅女(かやめ)は、訝しげに眉をひそめた。
 
  使用人や身近な付喪神を傷つけたのには、苦しめる以外にも理由があった。
  それは、当代の反応を見ること。
  身近な者を助けようと、当代が能力を使うことを期待していたのだが、
  見たところ元服を少し過ぎた程度の少年は、特に目立った動きは見せず、
  蛇に睨まれた蛙のように、ただその場に固まっていた。
 
(……此奴が、当代ではないのか?)
 
  だとしたら、とんだ茶番である。
  しかし、先程の問いには肯定を示した。
  その様子に嘘は見受けられなかったので、本当にこの少年が当代なのだろう。
  眉目秀麗とまでは言わないが、それなりに肝の据わった良い面構えの少年だ。
  何か少女たちを助ける術があったならば、迷わず振るっていただろう。
  それが――何も無し。
  ひょっとしたら、茅女が復讐しようとしていた家は、想像以上に弱体化していたのかもしれない。
 
「…………」
 
  少年は、ただこちらを見つめるのみ。
  目は合わせておらずとも、何をしているかは常に意識していた。
  使用人の首を切るときも、刀の付喪神を切り裂くときも。
  意識は常に、少年へと向けていた。
  何かしらの術を使おうとしたら、即座に対応できるように。
  触れたものは何でも切り裂ける茅女だが、油断は欠片もしていなかった。
  振る舞いはあくまで当代を激昂させるため。
  隙は一度も晒していない。
  それを見抜いて動かないのか、はたまた、何もできないから動かないのか。
  まあ、どちらでも構わない。
  一連の動きで、少年は神通力や念力の類が秀でているわけではないと判断できた。
  ここまでの非常事態で、己の特殊能力を欠片も出さずに見過ごせる者は、まず存在しないだろう。
 
  おそらくは、体術やそれに関わる術者と見た。
  ならば、茅女の敵ではない。
  触れたものを全て切り裂ける茅女には、どんな打突も掴みも通用しない。

 

 

 そして、茅女は、少年の――郁夫の瞳を、見据える。
 
  これから復讐を果たす対象として。
  その全てを蹂躙し、切り刻むために。
  瞳に映るのは、怒りか、憎しみか、恐怖か、虚勢か。
  何にせよ、これからの虐殺に花を添えるものであって欲しい。
  そう思って。
 
  郁夫の、目を、見た。
 
 
『…………ッ!?』
 
 
  瞬間。
  得も言われぬ悪寒に苛まれた。
 
 
  なんだ、これは。
  瞳はただ真っ直ぐに、茅女のことを見据えている。
  そう、ただ“見ているだけ”である。
  なのに。
  なのに。
  どうしてだろう。
  とても、嫌な、感じがした。
 
  ――浄眼の類か、と慌てて瞳の色を見る。
  しかし、瞳の色は綺麗な焦茶。
  妖魔を滅ぼす碧の瞳ではなさそうだ。
  しかし、その瞳は、まるで浄眼のように――否、それ以上に、茅女を捉えて離さない。
 
  特異な能力が働いているのか。
  そう思い、己の能力を発動させる。
  神通力や念力によるものなら、己の刃で切り刻めるはず。
  しかし、特殊な手応えはなく、周囲の空気が切断されるだけだった。
 
 
  ぱしん、と荒れ狂う空気が郁夫の頬を引き裂いた。
  一筋の鮮血が顎へと伝う。
 
(な!? こ、こいつ――)
 
  茅女の目が、驚愕に見開かれる。
  頬を裂かれた郁夫は。
  瞬きひとつせず、茅女のことを、見つめ続けていたのだ。

 

 顔を切られるということは、表情筋を切られるということだ。
  ゴムが切れた反動で、他の部位が変化するのは至極当然のことなのに。
  あろうことか、表情が全く変わらなかったのだ。
  今まで数多の人間を切り裂いてきた茅女だからわかる。
  ――こいつは、異常だ。
  神通力や念力といった、特殊な力こそ知覚できないが。
  それと同等……否、ひょっとしたらそれ以上の何かを秘めている――
 
 
  だが、それは一体何か。
  相手は、ただ見つめているだけなのだ。
  ならば今すぐ近寄って、切り裂いてしまえばいい。
  あくまで郁夫は見つめているだけ。
  だから、近付いて手を伸ばすことなんて、簡単なはず。
 
 
  ゆっくりと。
  ゆっくりと、郁夫のもとへと歩み寄る。
  万全のときならば、柔の達人の如く動ける茅女が。
  今は赤子よりゆっくりとしか、動けない。
 
  だが――じりじりと、郁夫の方へ近付いていく。
 
  郁夫は変わらず、茅女の瞳を見つめている。
  そこから何故か、目を逸らすことができない。
  体の奥が、熱く溶けるような感触。
  変化が解けかかっているのだろうか、甘い痺れが全身を襲っていた。
 
 
  そして。
  手を必死に伸ばし。
 
  郁夫の腕に――触れた。
 
 
  ばきり、と骨の裂ける音。
 
 
  郁夫の腕が、掌から肘まで、真っ二つに裂けていた。
  肉も、骨も、筋も、血管も、脂肪も、皮膚も。
  綺麗に、切断されていた。
  トマトジュースを入れたコップを落としたかのように、床に鮮血がぶちまけられる。
 
 
  でも。
  それでも。
 
  ――郁夫は、茅女を、見つめていた。

 

 なんだ、こいつは。
  なんだ、なんだ、なんだ、なんだ。
  わからない、わからない、わからない。
 
  見られているだけ。
  見られているだけなのに。
 
  どうして、こいつは――
 
 
  こんなにも、こわいのか。
 
 
 
 
 
  茅女が動くのを止めたところで。
  流は、郁夫の勝利を確信した。
 
  もう、あの付喪神には、抵抗する気はないだろう。
  そんな気勢など、完全に殺がれてしまったのが容易に見て取れた。
  ――流も、あれを味わったことがある。
  抵抗などできるはずもない。
  一度捉えられてしまえば、如何なる妖怪でも脱することは不可能だ。
  あとはそのまま封印するも良し、調伏するも良し。
 
  そう、あの付喪神は、堕ちた。
 
  郁夫ならばそれができると信じていた。
  だから――使わせたくなかったのに。
  あの付喪神も――あの“女”も――自分と同じように。
  堕ちてしまった。間違いなく。一片の疑いもなく。
 
  自分がもう少ししっかりしていれば。
  こうして倒れ伏すこともなく、あの女、あの婆を縊り殺せたのに。
  悔しさに身を浸されながら、流は睨み付けるかの如く、郁夫と茅女を見つめていた。
 
  ――ずるい。
 
 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
 
  神通力でも、念力でもない。
  ただ“見つめる”だけ。
  ――視線を以て機先を制する。
  俗に“瞳術”と呼ばれる技術を、とことんまで突き詰めた。
  それが、浦辺流退魔術の、真髄である。
 
  たとえ親兄弟を殺されようと。
  たとえ己の体を切り刻まれようと。
  あらゆる刺激を受けてなお、“目を逸らさない”ことを徹底する。
 
  人外の力は、不明への恐怖が根源となっている。
  理解できないもの、それに対抗するには、こちらも相手に理解できないものになる必要がある。
  その手段が流派によっては様々だが、浦辺の家では“視線”に特化された。
  妖怪ですら不可解と思えるほどの眼力で、その怪異を脅かし、気勢を殺ぐ。
 
  ――それが、浦辺流瞳術だ。
 
  見つめるだけで為される術は、しかし危険も大きかった。
  目を合わせれば、十中八九術に落とせるが、
  言い換えれば、目を合わせられなければ、効かないのだ。
  しかも、瞳術の最中は“見ること”に集中してしまうため、
  状況も掴めないまま出会い頭にかけることも難しい。
  使いどころの難しい、かなりマイナーな術なのだ。
 
 
  先程も危なかった。
  流石は流を一蹴した付喪神というべきか。
  術がかかるまで、相当な時間を要してしまった。
  結果、頬は裂け、右腕は真っ二つだ。
  しかも、橘音や流が傷ついてしまった。
  これは――自分以上に、痛かった。

 

 まあいい。自省は後だ。
  今はこの包丁娘をどうするか考えなくては。
  瞳術は永遠に効くわけではない。
  こちらが目を合わせている間だけだ。
  その気になれば、相手の気勢を完全に殺し、そのまま消滅させることも可能だが。
 
  先程の言葉が、引っかかっていた。
 
 
  ――憎き憎き卜部の家よ。
  ――ヌシ等に復讐せんが為に、
  ――妾は長き時を生き延びてきたのだからな!
 
 
  ……どうしてだろう。
  俺には、この言葉が。
  涙を堪えながら、捻りだしたものに、聞こえていた。
 
 
「…………ちっ」
  どちらにしろ、この怪我ではこれ以上瞳術を続けられない。
  一際強く眼力を送る。
  びくり、と鈍色の髪の少女が痙攣した。
  ――これで、しばらく動く気力は奪ったはず。
  乱暴はできなくなっただろう。
  ……もう、限界だ。
 
 
  瞳術を解く。
  少女はへなへなと、力無くその場にへたり込んだ。
  それを確認してから、近くの付喪神に2、3頼み事をして。
 
 
  あとは、集中を解いたことにより。
  襲いかかってきた腕の激痛で。
  ――俺は、あっさり、気絶した。

5

「……ッ!」
 
  がばり、と跳ね起きた。
  ぼんやりとした意識を必死で覚醒させ、状況の把握に執心する。
 
  ――暗い。
  自室に敷かれた布団の上。
  障子の向こうは真っ暗で、おそらくは深夜だろう。
  ということは、12時間近く寝ていたのか。
 
  ズキリ、と右腕が痛んだ。
  顔をしかめて腕を上げると、包帯の白が闇に映えた。
  指先を動かそうとして――激痛に目を瞑ってしまう。
 
「……痛むってことは、神経は生きてるってことだよな」
 
  気絶した後、すぐに手当てしてもらえたのだろう。
  おそらく、神経までしっかりと繋げてもらったはずだ。
  浦辺家お抱えの医師は手足の縫合さえ独力でこなせる腕前だし、
  治療器具の付喪神だって何体かこの家に住んでいる。
  死にさえしなければ、回復できる可能性は高かった。
 
  とはいえ、綺麗に真っ二つにされたのだ。
  元通りに使えるようになるまでは、結構時間がかかるだろう。
 
「……それより、橘音さんと流は――」
 
  2人とも重傷のはずだ。
  自分と同じ理由で助かっているとは思うが、この目で見るまで安心は――
 
 
「――使用人も刀の小娘も、命に別状は無かろうて」
 
 
  凛とした声が、部屋に響いた。
  慌ててそちらに目を向けると、そこには。
 
「……何じゃ。まじまじと見つめおって。
  其方の目は正に毒ゆえ、向けられると気が気でないわ」
 
  俺の腕を真っ二つにしやがった、
  包丁の付喪神が、ふて腐れた表情で、座っていた。

 

 

「お、おま、おまえ――」
 
  ちょっとまて。
  俺は確かに、瞳術でコイツの気力を半殺しにしたはず。
  死にはしなくとも、数日はまともに動けないくらいに、“見つめた”はずだ。
 
「――たわけが。これでも五百は齢を重ねし変化ぞ。そこらの妖怪と同じに見るな。
  ……だが、まあ、動くだけで精一杯じゃ。暴れるどころか害意を抱くことすら困難よの」
 
  はあ、と溜息をこぼしている。
  ……えっと、要するに、アレか?
 
「……降参、ってこと?」
 
「……察せ」
「随分と、潔いんだな」
「ふん。害意すら抱けぬ身でどうしろと。
  それよりヌシこそ、妾を消さなくていいのか?
  先程の感触からして、消そうと思えば消せたろうに」
「……それは」
「限界だったとは言うまいな。数瞬ではあるが余裕はあったはずだ。
  情けか? だとしたら、今のうちに調伏しておくことを勧めるぞ。
  ――元に戻り次第、刻み殺してしまうやもしれぬからな」
 
  情けでは、ない。
  でも……うまく言葉にできないので。
  つい、どうでもいいことを言って誤魔化そうとしてしまう。
 
 
「――お前、綺麗な声なんだな」
 
 
「な――何を言うか、このたわけが!」
  あわてふためき睨み付けてくる。が、目が合いそうになると慌てて目を逸らす。
  やべ、ちょっと可愛いとか思ってしまった。だって外見は普通に女の子だし。
  それに、実際、声の質が全然違う。今は外見相応の、鈴を鳴らしたような透き通った声である。
「いや、だってさ。さっきはあんなに嗄れた声だったし。怖かったし」
 
「……恨み辛みの思念だったから、当たり前じゃ。
  むしろ、素の状態で声を出すなぞ、記憶の果てより久方よ」
 
  もごもごと、そんなことを言ってきた。
  ……恨み、か。
  こいつは、アレだけのことをしでかすくらい、浦辺の家を憎んでいた。
  その原因は何なのか知らないが――ひとつだけ、気になることがある。

 

 

 ――それだけ浦辺の家を恨んでおきながら。
  どうして、瞳術に対して、あそこまで無防備だったのか。
 
  復讐する流派の得意技くらい、普通は把握しておくものだろう。
  なのにこの付喪神は、浦辺流瞳術に対しては、完全に無警戒だった。
  もし、何かしらの対策を立てられていたら、腕一本では済まなかった可能性も高い。
  こいつは、それだけ格の高い妖怪だ。それは、目を合わせた俺がよくわかっている。
  だというのに、何故――
 
  そのことを質そうとしたが、その前に少女の方が、
 
「――しかし、卜部の連中は、いつの間に宗旨替えなぞしたのか?
  油断したなどと言うつもりはないが、それにしても思い切った路線変更よの」
 
「は? いや、ウチは確か、開祖から瞳術一本だって聞いてるけど……」
「? そんなはずはなかろうて。
  卜部といったら卜占と神通力ではないか。
  こんなこと、成り立ての小物ですら知っておるわ」
「いや、浦辺の家は瞳術だぞ。
  これ一本だったから、逆にここまで凄いものになったんだ。
  それは、味わったお前もわかるよな」
「確かに――そうだが、しかし卜部の家は……四百年前も……」
 
  まて。
  なんか、今、聞き流せないことが。
 
「ちょっと待った。お前、昔に退治かなんかされて、それを恨んでるんだよな?」
「む――そうだが、どれがどうかしたのかえ?」
「で、それは大体何年前? ちょいと教えてくれないか?」
「……ふん。忘れもせん。あれは四百年前の――」
 
 
「あのさ。ウチ、それなりに長いけど、それでもせいぜい300年だぞ」
 
 
  俺の言葉で。
  深夜の和室が、絶対零度の氷室になった。
 
「…………」
「…………」
「……さん、びゃく、ねん?」
「ああ。親父の代で十一代目だ」
「待て待て待て待て!
  卜部の家が三百年だと!? 世迷い言を申すな!
  神通力を授かって千年(ちとせ)を遙かに超える一族が――」

 

「――なあ。ちょいと、思ったんだが」
 
  ふと、ひとつの仮説が脳裏に浮かんだ。
  それは至ってシンプルで。
  なんか、色々言ってはいけないようなことの気もするが。
  ――思い切って、言ってみた。
 
 
「――お前さ。家、間違えてない?」
 
 
「…………」
「…………」
「……ここ、ウラベの家、よの?」
「うん。……あ、字は、浦島のウラに浜辺のベ」
「じ、字は違うのは、年月を経ればよくあることではないか。
  ……ちなみに、卜占のボクに部署のブ、と家伝書に書いてあったりはしないのけ?」
「うんにゃ。というか、それって日本史の教科書に載ってた名前だよな。
  ……あー、なんか、有名どころでそんな名字もあった気がするけど……。
  ごめん、俺、他の流派のことについては詳しくないんだ」
「…………」
「…………」
「え、じゃあ、まことに、宗旨替えしたわけじゃなくて」
「ってか、ウチ、神通力なんて欠片もないぞ。悲しくなるくらいに」
 
 
 
  深夜なのに。
  どこからか、かこーん、と鹿威しの音が聞こえた気がした。
 
 
 
「…………っ」
 
  わなわなと震えながら、少女はがっくり項垂れていた。
  えーと。
  こういう場合は、何と声をかければいいのだろうか。
 
  とか何とか迷ってるうちに、気付けば少女は、俺の目の前まで歩み寄ってきていた。
  ……ちょ、なんか、迫力がおありになってぶっちゃけ怖いんですが……!

 

 

「…………えせ」
 
「え、なに?」
 
 
「――妾の、妾の復讐を返せえええええええええええええええっっっ!!!」
 
 
  襟首を鷲掴みにされ。
  がっくんがっくんと揺らされた。
  うお、マジ泣きしてる!?
 
「あらゆる妖怪を屠ると謳われた一族を血祭りに上げるために、
  妾がどれだけ怪異を磨いたと思っておるのだっ!
  どれだけ憎しみと年月を積み重ねてきたと思っておるのだ!
  四百年じゃぞ、四百年! よんひゃくねんっ!
  それを、それを、同じ名前の関係ない一族に無駄にされた妾の気持ち!
  貴様にわかるというのか、わかるはずもあるまいて! うわーん!」
 
  うわーんて。お前恥も外聞も捨て去ってるな。
  橘音さんや流を血祭りに上げたのと同じ奴とは思えないのだが。
  まあそれはそれとして。
  とにかく落ち着いてもらわなければ。
 
「と、とにかく落ち着け!
  お前、今、瞳術で殆どの気を殺がれてるんだから、
  下手に興奮して暴れたら、そのまま死にかねないぞ!?」
 
「更に気に食わないのが、関係ないはずのヌシが、ここまでの力を持っていることじゃ!」
 
「え、俺!?」
 
「そうじゃ! 何なのだ、その瞳は! 反則以外の何者でもないわ!
  下手したら仙狐すら調伏しうる眼力じゃぞ!?
  責任を取れ! 責任を! さもなくば泣いてやる! うわーん!」
「待て、落ち着け! お前言ってることが無茶苦茶だぞ!?」
「責任を取って、ヌシが妾の復讐を手伝え! ――っと、おおっ!?」
 
  かくん、と。
  少女から、力が抜けて。
  俺の襟首を掴みながら、こちらにもたれかかって――

 

 

 ぷにゅ、と。
  唇に、柔らかい、感触。
 
  目の前に、少女の瞳。
  髪と同じ鈍色の瞳は、少女の重ねてきた年月を表しているかのようで。
  ――怨恨に疲れて、しかし真っ直ぐ、純粋な色。
  それを、口づけながら見つめてしまった。
 
  正直に言おう。
  くらくらした。
 
 
  陶酔から体は動かず、そのまま十数秒、少女と唇を重ねてしまう。
  やがて息が苦しくなって、どちらからともなく、顔を離した。
  だが、目は合わされたまま。
  顔を逸らすことなどできず、互いの瞳を見つめていた。
 
「――妾を、くれてやる」
 
  至近距離で、少女の唇が、艶めかしく動いた。
 
「ヌシ――郁夫といったか。
  ……郁夫、妾の伴侶となれ。それで責任を果たしたと見なしてやろう」
「は? なんだそれ――んむっ!?」
「……ちゅく……ぷは。妾の全てをくれてやる。
  変化としても、女としても、好きに妾を扱うといい。
  五百年ものの付喪神じゃぞ。そこらの妖怪を式にするのとは訳が違う。
  女としても――ふふ、心ゆくまで尽くしてやろうではないか」
 
  な、何言ってるんだコイツ……!
  というか、襤褸一枚しか纏ってない少女が、こうもぴったり体をくっつけてきてると、
  何というか未知の感触があちこちに押しつけられて……うああ、ちょっとピンチ!?
  柔らかくてすんごく気持ちいいし!
  いやいや騙されるな俺! コイツは橘音さんや流に重傷を負わせたんだぞ!
  だってのに乳や太股を押しつけられた程度で……程度で……柔らかいなあ……。
 
  ――それに、悪い奴じゃなさそうなんだよなあ……。

 

 

「ヌシの瞳は……妖魔を狂わせるのだ。
  それは妾も例外ではない。先程の瞳術、かけられた瞬間から、体の芯が甘く痺れたぞ。
  間近で見たら、もう我慢できぬ。今は愛しさすら覚える始末じゃ。
  ……だから、のう、郁夫。妾の伴侶に――」
 
 
  少女の瞳は、甘くとろけきっていて。
  瞳術が、効き過ぎてしまっていたようで。
  過去に一度、似たようなことがあったのを思い出した。
 
 
 
  ――と。
 
  どたどたどた、と。
  荒々しい足音が聞こえてきて。
 
 
  すぱん、と障子が開け放たれた。
 
 
「――申し訳ありません、郁夫様!
  包丁の付喪神が、私たちの目をかいくぐり、どこかに逃げ出してしま……」
 
  相当に慌てた声は、しかし途中で詰まったかのように止められた。
  声の主は、こちらを見下ろし、あんぐりと口を開いている。
  ……呆気にとられる気持ちはわかる。
  なんせ、重傷を負っていた少年の上に、消えたはずの少女が乗っかっているのだから。
  しかもその様子は、どう贔屓目に見ても睦事のような甘い空気で。
 
 
  更に、だめ押しとばかりに、
 
「郁夫……んちゅ……ちゅく……ぷはっ。ふふ、おなごを抱くのは始めてか?
  愛い奴よのう。たっぷり可愛がってやるからな……。
  ……ん?
  なんじゃ、刀の小娘。
  今、ヌシの主は取り込み中じゃ。一刻ほどしてから、再び参れ」
 
  とか何とか、挑発しちゃってますよこの包丁ー!?
 
 
 
「……な」
 
「――何してるんですか、貴方達はっっっ!!!?」
 
  深夜の浦辺亭に。
  流の大絶叫が、響き渡った。

6

 屋敷の一室。
  内装は簡素で、しかし素朴ながらも並べられた小物から、暖かみを感じられる部屋。
 
  そんな部屋のど真ん中で。
  土下座をしている、銀髪の少女。
 
 
「あ、あの、顔を上げてください……」
  部屋の主である橘音さんが、恐る恐る、少女に向かって声をかける。
  その声には、恐怖が多分に含まれていた。
  無理もない。自分の体を操り、頸動脈を切り裂いた相手なのだ。
  声をかけられるだけでも、その胆力に驚嘆してしまう。
 
「――申し訳ない。妾はヌシに、取り返しのつかぬことをしてしまった。
  頭を垂れた程度では許して貰えぬことなど重々承知の上だが、
  それでも、こうして謝罪することを許して欲しい。
  ……なにも、赦せ、と申しているわけではない。
  妾がヌシに対して、この上なく謝罪の念を抱いていることを覚えておいて欲しいのじゃ」
 
  頭を下げたまま、少女――茅女は、淡々と述べる。
  その声は深く沈んでいて、橘音さんに対して心の底から申し訳ないと思っていることが感じ取れた。
 
「妾にできることがあれば、何でも申しつけてくれ。
  それで罪滅ぼしになるとは思わんが、償うことに躊躇いはないことを知っておいて欲しい」
「えっと……あの……」
  橘音さんはあたふたした後、何故か俺の方をちらちらと見た。
  そして。
 
「――顔を上げてください。
  赦す、だなんて烏滸がましいにも程がありますけど、貴女の事情は伺ってますし、
  これから良い付き合いさえできれば、それで手打ちにしたいと思います」
 
  そう、言った。
  橘音さんの言葉を聞いて、茅女はゆっくりと顔を上げ、
「……ヌシは、良いおなごよの。郁夫の近くにヌシのような娘が居ると、妾も安心じゃ」
  感心したように呟いた。
「そ、そんな、褒めても何も出ませんよー」
「いや、これからもヌシのような人間が、郁夫の使用人として側付いていてくれると、
  妾も伴侶として安心できるものよ。娘――いや、橘音。これからも郁夫を宜しく頼む」
「もう、そんなこと言ったって――って、え?」
 
  橘音さんは、はてなと首を傾げて、
 
「……伴侶?」

 

 

「うむ。妾と郁夫は、これから良き夫婦として共にあるのでな」
「…………」
「ん? どうした、橘音よ」
「やっぱ赦すの無しでお願いします」
「何故じゃー!?」
 
 
 
  茅女が事件を起こしてから、はや一週間。
  浦辺家お抱えの医師や、救急箱の付喪神のおかげで、
  俺や橘音さんも傷が癒え、元通りの生活に戻ろうとしていた。
 
  ただひとつ変わったことがあるとすれば。
  ――茅女が、研修生として我が家に住み込むようになったこと。
 
 
  あの日、研修生として浦辺家に住み込む予定だったのは、
  まさしくこの茅女だったそうな。
  本来なら、作られて百年足らずの付喪神のタマゴが研修に来るものなのだが、
  茅女は妖怪側の地区頭領に話を通し、無理矢理自分を研修生としてねじ込ませたそうな。
  理由は、復讐するにあたってその家に効率的に運ばれる手段を用意したかったからとのこと。
  実際、大手の霊能者の本家は、隠れ里に近いところもあり、
  何のコネもない者が出入りするのは難しい環境であることが多い。
  茅女もそう思い、ウラベの家が付喪神の研修受け入れをしているとの話を聞き、
  これを利用しようと考えたそうだ。
 
  もっとも、口頭で聞いた話だったらしく、
  浦辺と卜部の区別が付かなかったそうな。
  ……茅女は、妖怪としての格や偉そうな性格とは裏腹に、結構抜けている性格なのかもしれない。
 
  まあそれはそれとして。
 
  名目上は、研修生としてやってきた茅女。
  しかしその目的は、関係ない一族に復讐するため。
  その処遇をどうするべきか、浦辺家でも結構揉めた。
  出張から帰ってきた両親や、先代である祖父も含めて、家族会議が行われた結果。
 
 
  茅女は、俺に懐いてることから。
  俺が、面倒を見ることになった。

 

 

 確かに、人間に復讐しようとしている付喪神を、そのままにしておくなど言語道断。
  しかも、一度茅女を制圧した俺なら、取り扱いも楽だろう、ということで。
  俺が直接指導する立場となり、茅女は、我が家の研修生となった。
 
  ……確かに、瞳術はかかり癖が付きやすいため、
  一度成功させた者が対応に当たるというのは間違ってはない。
  しかし。
 
「郁夫よ。この分からず屋な使用人に言ってやるといい。
  妾とヌシは相思相愛で、使用人無勢が入り込む隙間はないとな」
「郁夫さんっ! 郁夫さんはまだ童貞ですよね!?
  天井裏に隠してあるエッチな本は、まだまだ現役ですよね!?」
 
  こうもベタベタされると、嬉しいんだけど疲れるというか何というか。
  ってか何故に橘音さんは知ってるんだ隠し場所を!?
 
  ……でも、まあ。
 
  ぎゃいぎゃいと言い合う茅女と橘音さん。
  そこに、思ったほどの硬さは見られず。
  ――茅女も、何とか上手くやっていけそうな気がしたので。
  ついつい、やりとりを見ながら笑ってしまった。
 
 
 
  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
 
  白々しい、と流は唇の端を噛んだ。
  なにが謝罪だ。どうせ郁夫への点数稼ぎだろうに。
  郁夫は、茅女の様子を見て笑っている。
  ――騙されないで、郁夫様。
  茅女は、流と橘音を切り裂いた凶悪な妖怪なのに。
  郁夫だって、腕を真っ二つにされたのに。
  取り繕うように媚びへつらい、そのうちこちらの寝首を掻くに決まってる。
 
  だというのに。
  郁夫は見事に上辺に騙され、情に絆されてしまっている。
  ……あんな風にベタベタして。
  郁夫の純心に付け込むような真似をする包丁には、殺意すら覚えてしまう。

 

 

 そう、郁夫は騙されているのだ。
  だから、自分が守らなければ。
  郁夫を守るのは、彼の刀である自分の役目。
  それは何人にも譲らない。自分だけに許された、道具としての栄誉ある地位。
  ――郁夫様の隣は、私の場所。なのにあの婆ときたら、我が物顔で居座っている。
 
 
  許せるはずが、なかった。
 
 
  そういえば、郁夫とはしばらく話もしていない。
  ここ一週間で、まともに顔を合わせたのは、茅女が流に謝罪しに来たときくらいか。
  謝罪に来たとき、流は茅女の頭を踏み付けないように己を抑えるのに苦労した。
  土下座なんて生ぬるい。
  郁夫を傷つけたのだ。格下の妖怪であれば問答無用で細切れにしてやったのに。
  無駄に長生きしている婆には、今の流程度では足元にも及ばないだろう。
 
  ――もっと、力があれば。
 
  あんな包丁婆など問題にもならないくらいの力があれば。
  郁夫にとって最高の退魔刀になれるし、彼の敵を皆殺しにできる。
  否、敵だけではない。
  彼に近付く全ての害虫を、己の刀身でズタズタに引き裂いてやれるのに。
  そう、全てだ。
  郁夫を惑わす輩、郁夫を苦しめる輩、郁夫を誑かす輩、
  郁夫の優しさを貪ろうとする輩、郁夫の情けを得ようとする輩、
  郁夫の隣にいようとする輩、郁夫の寵愛を受けようとする輩、
  郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の郁夫の――
 
  ――ぜんぶ、殺せる、力が欲しい。
 
  あの包丁すら問題にならないような。
  絶対的な力が欲しい。
  何でも切り裂ける程度など生ぬるい。
  全てを斬り殺せる――斬り滅ぼせるくらいが丁度良い。
 
  そんな力を手に入れて、
  郁夫の周りの全てを殺して。
  ――そして、私が、
 
 
 

 

「……馬鹿な。それこそ、世迷い言です」
 
  がつん、と柱に頭を打ちつける。
  ……今、自分は、何を望んだ?
  道具としてじゃ飽きたらず、それ以上の何かを望んでしまった。
  馬鹿め。
  馬鹿め。
  刀のくせに。
  それ以上のことを望み、あまつさえ、他者を害しても構わないだなんて考えを。
  ……研修を終えた身のくせに、これでは成り立ての理性無き妖怪ではないか。
  自分は刀。分を弁えた刀。
  人間と共存できる理想的な付喪神で、だからこそ郁夫の側にいられるのだ。
 
(……いけない。先の負傷で、考え方が不安定になってるみたいですね。
  郁夫様の完治も少し先ですし、私も養生に努めなければ……)
 
  茅女に根幹を切り裂かれたとき。
  少なからず、刀身に傷を負ってしまった模様。
  変化の身であるため、時間が経てば治るだろうが、
  それまでは先程のように思考が不安定になってしまう可能性が高い。
 
  心が不安定なときは、大人しくしているに限る。
  幸い、郁夫の方からも、しばらくは休んでいていいと許しを得ている。
  その間しっかり休み、完全に元に戻ってから、以前と同じ生活を送ればいい。
 
  浦辺家の家事を手伝って。
  研修生の監督をして。
  郁夫に剣術の訓練を施す。
 
  そんな、幸せな生活を――
 
 
 
 
 

 

 ふと、郁夫たちの会話が聞こえてきた。
  橘音の部屋から出て、他の場所へ向かおうとしているようだ。
  流は慌てて身を隠す。
  ……隠れる必要なんてないのに、何故か空き部屋に飛び込んでしまった。
  そしてそのまま、こっそりと2人の気配を窺ってしまう。
 
  何やら楽しそうに話ながら、廊下を2人で歩いている。
  ――なんで、あんな、仲良さそうに。
  ぎりり、と奥歯が鳴ってしまった。
 
 
「――ふむ、郁夫は強くなりたいのか」
「まあ、瞳術だけじゃ、この先不安だしな。
  それなりに動けるようにしておかないと、仕事で不覚を負いかねない。
  だからまあ、流にも剣術習ってるし」
「………………ふむ。…………。
  ……聞いて驚け、郁夫よ。妾は結構強いのじゃぞ」
「それは、まあ。茅女がそこらの妖怪より強いなんて、対峙した俺がよくわかってる」
「いやいや、妖怪の格としてだけではなくての。
  これでもそれなりに長生きしているのじゃ。
  ――戦の術理も少なからず心得ておるぞ」
「と、いうと?」
「なに、柔と杖をそれなりにな。並みの達人程度には心得ておる」
「へー。それは凄いな」
「……で、だ。その……ヌシが良ければ、稽古を付けてやっても……いいぞ?」
「――マジで? 俺としてはありがたいんだが……いいの?」
「気にするな。……むしろ、ヌシには短杖――特に短刀の使い方を覚えてもらわねばな」
「へ? なんで?」
「――みなまで言わせるな! ほれ、道場に行くぞ。
  やるからにはみっちり仕込んでやるからの。覚悟するがいい!」
「うっへ……。こちとら病み上がりだっつうのに。
  ――まあいいや、望むところだ! ビシバシ来い!」
 
 
  楽しそうな2人の声が、ゆっくりと遠ざかっていった。

 

 
 
 
「…………ッ!」
 
  バキン、と拳が柱に叩き付けられる。
  ギリギリギリ、と歯ぎしりの音が誰もいない部屋に響く。
 
  ――ふざけるな。
 
「……あの糞婆、こともあろうに、私の居場所を奪う気か……!」
 
  絞り出すような声は、怨嗟にどす黒くまみれていた。
 
  ――ふざけるな。
  ――ふざけるな。
  ――ふざけるな……ッ!
 
 
「……郁夫様に戦いを教えるのは私だ。
  ……郁夫様に使って頂くのは、私だ……!」
 
 
  だから。
 
 
  ――あんな、包丁は、要らない。
 
 
 
 
 
  暗い部屋で独り。
  流は、ぶるぶると震えていた。
  怒りに歪められたその貌は、
  人と共存できる付喪神というよりは。
 
  まるで、悪鬼そのものだった。

7

 早朝の道場に、木刀のぶつかり合う音が響く。
  郁夫の怪我も完治して、流も本調子に戻っていた。
 
  故に訓練は激しくなり、実践さながらの打ち合いも行っていた。
 
  両者共に、表情に甘さはなく、真剣に相手のことを見据えている。
  ただ、郁夫の場合は瞳術をかけないように注意しているため、
  少々しかめっ面になってしまっているが。
 
 
「……ふっ!」
 
  鋭い呼気と共に、郁夫が踏み込み、上段への一撃を放つ。
  後の先を取ろうにも、太刀筋も速度も申し分ないので、流は受けに回るしかない。
  一歩退いた流を追撃するように、郁夫も踏み込む。
  そしてそのまま、流れるような動きで、突きへの準備姿勢に入る。
 
  瞬間。
 
  微かに空いた脇への隙間を、流は見逃さなかった。
 
  一歩退いた姿勢は、そのまま横薙ぎの一撃を振るうのに適していて。
  吸い込まれるかのように、流の木刀が、郁夫の胴へ――
 
 
  打ち込まれることは、なかった。
 
 
  がつん、と鈍い音。
  それは胴を打つ音ではなく、木と木のぶつかり合う音だった。
  見ると、郁夫は木刀を腰まで引き戻し、柄で横薙ぎを受けていた。
  刀身で受けていたら間に合わなかっただろうが、柄ならそのまま引くだけで済んだのだ。
  あとは郁夫が前に踏み出せば、流はそのまま押し倒されてしまうだろう。
 
 
  ――こんな技、教えてない。
 
 
  流の膝が深く沈む。
  重心が極端に前へと移り、勢いはそのまま木刀の先へ。
 
「うわあっ!?」
 
  踏み込もうとしていた郁夫は重心を崩され、そのまま床に転ばされてしまう。
  どだん、と朝の道場に派手な音が鳴り響いた。

 

 
 
 
「……痛てて……。くそー、上手くいくと思ったんだけどなあ……」
  床に寝転がったまま、郁夫は悔しそうな声を上げた。
「でも流、狙いは悪くないだろ?」
「…………」
  流はすぐには答えずに、冷たい目で郁夫を見下ろす。
  そして。
「駄目です」
  と、言った。
「えー。なんでだよ。胴狙いは避けるの難しいから、
  確実に受けて、懐に入り込んで制圧した方が良いって茅女が――」
 
「――駄目です!!」
 
  雷鳴の如き流の一喝が、道場の空気をびりびりと震わせた。
「それは、郁夫様が使うのが短杖であった場合です。
  刀の場合ですと、柄を斬られ、握りが狂ってしまうでしょう。
  最悪、目釘が壊れてしまい、刀を使えなくなる恐れもあります」
  淡々と説明する流。
  その瞳には、微かに激情が揺れていた。
 
「……なるほど。でもさ、今は木刀なわけだし、これはこれで――」
「――郁夫様は」
  郁夫の言葉を遮るように。
  先程までの冷たい表情から一転、どこか泣き出しそうな危うさを持つ顔で。
 
「刀を使う訓練を、しているんですよね……?」
 
  そう、訊ねてきた。
  何を当たり前のことを、と郁夫は首を傾げたが、
  流があまりに不安そうに訊ねるので、何も言わずに頷いた。
 
  ほっ、と流が安堵の溜息を吐く。
  どうしてそんな仕草を見せるのか郁夫にはわからず、ただ首を傾げるのみ。
「……でしたら、そのような技はお忘れください。
  胴の守りも、しっかりした筋がありますので、それをお教えします」
  そう言って、流は郁夫を助け起こす。
  折角覚えた技を忘れろ、というのには引っかかったが、
  しっかりとした技を教えてくれるのなら、と郁夫も納得した。

 

 

「受けの基本は鎬です。ですから先程のような場合は――」
  説明しながら、郁夫に動き方を示す流。
  郁夫も真剣にそれを聞き、言われたとおりに体を動かす。
  そして、郁夫の飲み込みが弱い場合、流は手を添えて一緒に動かしたりする。
  このときも、そうだった。
  ただ、いつもより心なし体を近づけて。
  肘や背に、慎ましやかな膨らみの感触を、押しつけるように。
  時折郁夫がそれに気付き、気恥ずかしそうに身を捩らせるが、
  流は気付かないふりをして、更に指導に熱を入れた。
 
 
 
  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
 
『――最近、流の様子がおかしい?』
「ああ。気のせいならそれでいいんだけど、なんかこう、なんというか……」
『不調みたいってこと? まさか奇跡的に一本取ったとか?』
「いや、そういうわけじゃなくて、なんか雰囲気が、さ。
  千茶は何にも感じないか? 流と仲悪くないだろ?
  ……あと、奇跡的って言うな」
『んー。どうだろ。最近流って、厨房に来ないのよねえ。
  なんか、道場に籠もってることが多いみたい』
「そうなのか? ……そういや、いつも先に道場にいるよな。
  着衣もなんか乱れてるし、一人で訓練でもしてるのか……?」
『道場に百年も居座ってた剣術バカの奉納刀が、これ以上強くなってどうするのよ』
「……だよなあ」
 
  千茶からお茶をひと啜り、他に理由を考えてみる。
  しかし、さっぱり思いつかない。
  ……やはり、訓練しているとしか思えない。
  では、何のために?
  ただ強くなりたいというわけではないだろう。
  流は今のままでも十分に強い。
  退魔刀として高名な霊能者に振るわれていてもおかしくない存在だ。
  そんな流が、今より更に強くなろうとしている理由。
 
  ……まさか、
 
「茅女に、勝ちたいのかな」

 

 

『茅女? ああ、新入りの包丁ね』
 
  千茶から伝わってきた思念は、思いの外、冷たい響きを含んでいた。
  姉御肌なところがあるので、大抵の付喪神には親切に接せられるはずなのに。
 
『……嫌いってわけじゃないわよ。だから、そんな顔をしなさんな』
「……む、顔に出てたか」
『郁夫はわかりやすいからねえ。
  まあそれはそれとして、郁夫が心配することじゃないわよ。
  ――私の場合、目の前で橘音や流を切り裂かれたわけだし』
「あ」
 
  そういえば、あの場には千茶もいたんだっけ。
  俺が倒れた後、他の付喪神をまとめたりしてくれたのは聞いている。
  そんな冷静な対応ができていたから心配要らない、というのは浅はかだったか。
  親しい人間や同属が目の前で重傷を負わされたのだ。
  何かしら思うところがあっても、全く不思議ではない。
 
『まあ、本人同士で手打ちになったことは知ってるから、
  私がどうこう言うべきじゃないのはわかってるわよ。
  ……ただ、ショックだったってのは気に留めておいてもらえると、嬉しいかも』
「……ん。了解」
『まあ、台所の付喪神なら、私の後輩になるわけだから。
  そうズルズルと引きずるわけにもいかないよね。
  今は鍋のトン子に任せてるけど、もうちょいしたら私自身がビシバシと
  ここの掟を叩き込んであげるわよ』
 
  そりゃあ心強いな、と言おうとしたら。
  割り込むように、聞き覚えのある声が。
 
 
「――ふん、変化すら覚えておらぬ小娘が、妾に指導とは片腹痛いわ」
 
 
  噂をすれば影。
  音も立てずに部屋に忍び込んできていたのか、後ろに茅女が立っていた。
 
  たすたすたす、と畳を踏みしめ、俺の真横に回り込んでくる。
  そしてそのまま腰を下ろし、視線は俺の手元の千茶へ固定。
 
「ふん、ろくに怪異も持ち得ぬ小娘が思い上がりおって。
  妾に意見したければ、もう少し礼儀を弁えてから――」

 

 

「――こら、茅女」
  ぺちん、とおでこにでこピン一発。
 
「あた!? 何をするか……!」とこちらを向いたところで、少し厳しめに睨み付ける。
  うっ、とあからさまに怯む茅女。
「今のは、千茶に失礼だぞ」
「し、しかしだな郁夫」
「言い訳は無しだ」
  あとはじっと見つめるのみ。
  一度瞳術に堕ちた者には、ただ睨むだけでもそれなりに効果がある。
「…………むぅぅ」
  茅女は文句を言いたそうな顔で、しかし結局モゴモゴするだけ。
 
「――妖怪としては、お前の方が格上だ。それは俺もみんなもわかってる。
  でもな、研修生という立場では、紛れもなく千茶が先輩だ。
  これから人間社会に適応していくのが研修の目的なんだから、
  こういう上下関係にも順応しなくちゃダメ」
「……うぅ。郁夫ぉ……狡いぞ」
  頬を赤く染めながら、むすーっとふくれっ面を晒している。
 
  と。
 
『――あははははは!』
 
  いきなり、千茶が笑い出した。
「……笑うな」
  それに対し、茅女がむくれた声を上げる。
  しかし千茶は気にせずに、笑う思念を垂れ流し。
  偉ぶった茅女が説教を受ける様が、そんなにおかしかったのだろうか。
 
『いやはや、話には聞いていたけど、新入りが郁夫に骨抜きって本当だったんだ!』
「……ふん、そのうち郁夫の方も妾に骨抜きにしてみせるわ」
『おや、否定しないの? そこらへんは流と違って素直だねえ』
「郁夫が魅力的であるのは、ここの付喪神であれば否定する者は居らぬじゃろうて」
『ま、それもそうだね』
 
  少々ぎこちなくはあるが、くだけた様子で話す両者。
  ……いや、でも、その話のネタが俺のことってのは、
  なんつうか、こう、背筋がムズムズするというか……。

 

 

「――特に、これが良い」
 
  唐突に、茅女が俺の背後に回り込む。
  そしてそのまま、右手を俺の首に回し、指先で頬を撫でてくる。
 
「……? なんだよ、茅女」
  意図を掴めずに、俺はただ困惑するのみ。
 
 
「――郁夫。妾がヌシに瞳術をかけられて久しいが、
  害意を抱ける程度に回復しているのは、知っておるな?」
 
 
  …………。
  一応、わかっている。
  瞳術の効果は永遠に続くわけではない。
  冷水をひっかけるようなもので、一時的に冷やすことはできても、時間が経てば熱は戻ってくる。
  害意も同じだ。
  茅女の復讐心を一度掻き消したといっても、時間が経てばそれは元に戻ってしまう。
  確実に抑え込むのであれば、定期的に瞳術をかけて支配しなければならない。
  でも――
 
 
  茅女の声は、初めて会ったときのように、冷たく暗く沈んでいた。
  殺気を欠片も隠さずに、包丁の付喪神は俺に問いかける。
 
「なのにヌシは、妾に再度術をかけることはなく、あくまで見つめる程度に留めておる。
  今この瞬間、妾はヌシの首を裂くこともできるのじゃぞ?
  妾が抱いていた復讐心は、目的のためならそれくらい為せるであろうことを、
  ヌシは直に味わったであろう?」
 
  なのに、どうして放っておくのか。
  そんなの、決まってる。
 
 
「――だって茅女、悪い奴じゃないし」
 
 
  思ってることを、そのまま口にした。
  少なくともコイツは、何の理由もなく人の首を裂く妖怪じゃない。
  復讐心は確かにとんでもなく濃いけれど、それと同じくらい、純粋な心を持っている。
  まだ二週間程度の付き合いだが、それくらいは理解していた。

 

 

「ほれ。悪い“奴”じゃない、ときたものだ。これが良いよの」
  言うなり、回した手をこちらの胸へ。
  そのまま抱きつきながら、顎をこちらの肩に乗せてきた。
  ――って、ちょ、当たってる当たってる!?
 
「郁夫は、平等なのが良いの。人も付喪神も何者も等しく、心を持つ者として接してくれる。
  魔性の瞳も魅力的だが、何よりその姿勢が心地良い」
『ありゃ、そっちの方にも気付いたんだ。流石は五百年物。見る目があるねえ』
「妾等付喪神は、人に使われることで染みついた想念が心として定着したもの。
  故に、人と非常に近しい存在にもなり――人の心に触れたくなる。
  郁夫は自然に、その心を触れさせてくれる。渇いた心には染み入る甘露よの」
 
「いや、あの、褒めてくれるのは嬉しいのですが、くっつきすぎではないでしょうか茅女サン」
 
『あ、茅女。郁夫は肩胛骨のあたりが弱いよー』
「心得た。……ふふ、小さいなりに柔らかいじゃろ?」
「ちょ、何で知ってるんだ千茶!?
  ってかお前ら何なんですかそのコンビネーションは!」
『ふ。孫の手のゆっきーが、郁夫の弱いところは全て把握しているのよ!
  そして浦辺家研修生の心得・その弐。――如何なる時も郁夫で遊べ!』
「ふむ、良い心得よの。妾も深く心掛けるぞ」
「何だその滅茶苦茶失礼な心得はーっ!? って待って茅女それ以上はマジでヤバイ」
「……ふふ。其処に血が集まるのは、男子として正常な証拠じゃ。
  何ひとつ恥じることなどないぞ。……ほれほれ、ここが良いのか?」
『あははは! いけ! そこだ! 郁夫にパンツを洗濯させろー!』
 
 
  千茶の楽しそうな思念。
  思っていたより早く、千茶は茅女と普通に接せられるみたいだ。
  そのネタが自分というのは正直微妙だが、まあこの場は、
  2人が仲良くなる材料として、潔くこの身を提供しようじゃないか……!

 

 

 
 
 
  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
 
  ぽたり、ぽたり、と。
  廊下の上に赤い液体が滴り落ちる。
 
「……私の方が先だ。私の方が先だ。私の方が先だ……」
 
  ――私の方が先に、郁夫様の良いところを知っていた。
 
  ぶつぶつと。
  声は暗く、歯ぎしりの音と混じり合う。
  握り締めた拳からは、鮮血が垂れていた。爪が掌を破った模様。
  しかし、そんな痛みより――
 
 
「――郁夫様。包丁なんかに心を許さないで。
  其奴は貴方の寝首を掻こうとしているだけです。
  先程だって、本当に首を切り裂いていたかもしれない。
  躰だって、殆ど子どものようなものじゃないですか。
  私の方が、そんな小さな躰より、きっと貴方を満足させられます。
  私の方が、私の方が、私の方が、私の方が、私の方が、私の方が――」
 
  ひたり、ひたり、と。
  幽鬼のように、音を殺し、気配を消して。
  激情を裡に押し込んで、刀の付喪神は、廊下をゆっくり歩いていた。
 
 
「――私の方が、先に、郁夫様に目を付けたんだ」
 
 
  乱入して、引き剥がしてやりたかった。
  しかし、あの場は千茶と茅女を和解させるのに最適だった。
  郁夫の狙いもそこにあるとわかったから、歯を食いしばって我慢した。
 
  ――ほら、こんな風に、郁夫の考えを慮ることができる。
 
  郁夫に相応しいのは自分だ。
  そう思いながら、流はあることを必死に考えていた。
 
 
  ――どうすれば、あの包丁を、郁夫様から引き離せるのかな。

8

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 
  夕餉も終わり、自室でのんびり過ごす時間。
  高校の宿題に今ひとつ集中できないので、畳の上に寝転がり、天井を見上げて思索に耽る。
 
 
  茅女は卜部の一族に復讐心を抱いているが。
  ――それは、何故なのか。
 
  寿命という概念の薄い妖怪とはいえ、4世紀も復讐心を抱き続けるなんて並じゃない。
  途中で暴発することもなく、ただ淡々と、己の怪異を磨き続けてきた茅女。
  その原動力が何なのか、気にならないと言えば嘘になる。
 
  一応、瞳術のおかげで、今の茅女は無力化されている。
  しかし、それは相性と不意打ちに依るところが大きく、次も通用するとは限らない。
  現在、茅女はこちらに好意的な反応を示しているが、それが続く保証など何処にもない。
  故に、大人しいうちに復讐心の出所を確かめ、それを何とかしなければならないのだが――
 
「だからって、“お前は何をそんなに恨んでるんだ?”なんて聞けねーっての」
 
  ただ調伏されただけとも思えない。
  茅女と過去の卜部家とは、絶対に何かあったはずだ。
  400年も恨み続けて、その一族を根絶やしにしたいと思うほどの何か。
  それを真っ正面から訊ねられるほどの胆力なんて、持ってない。
 
 
  でも。
  ひとつだけ、確信できることがある。
 
 
  茅女は、悪い奴じゃない。
 
 
  害意を掻き消された状態の茅女は、付喪神としては理想的とも言えるくらい、
  純粋で、人間と共に在ることのできる妖怪だ。
  桁外れな復讐心を考慮に入れなければ、何処かの小さな社で御神体として祀られてもおかしくない。
 
  そんな茅女が、もうしばらくしたら、害意を取り戻し、復讐に走る悪鬼となるかもしれない。
  ――そんなのは、嫌だ。
 
 
「……やっぱ、覚悟を決めるしかないのかなあ」

 

 

 いつまでも先延ばしにするわけにはいかない。
  こんな重要な問題、本当なら百戦錬磨の父親が担当すべきだと思うが、
  茅女が最も懐いてるのが俺なのだから、ここはもう腹を括るしかない。
 
  とりあえず、茅女と真面目な話をしよう。
 
  そう思い、茅女の所に向かおうと起き上がったところで。
「失礼します」と、障子の向こうから声が届いた。
 
「……流?」
 
  宿題中の俺に差し入れでも持ってきてくれたのだろうか。
  しかし残念ながら、明日までの数学の課題は、一問たりとて解いていない。
  根が真面目な流のことだ。ひょっとしたら、二三小言を頂くかもしれない。
  ま、それは仕方ないか、と思ったが――
 
 
  入ってきた流の手には、何も持たれていなかった。
 
 
  あれ、と首を傾げてしまう。
  夜も更けたこんな時間に流が俺の部屋に来るときは、
  まず間違いなく、差し入れを持ってくるのが常である。
  しかし、流の手に盆はなく、変わりにどこか思い詰めたような表情で。
  流は、こちらに、歩み寄る。
 
 
  心臓が一鼓動。
 
  些細な違和感。
 
  しかし、それが何なのかわからぬまま。
 
  いつの間にか、俺は流の間合いの中にいた。
 
 
 
 
 
「……流?」
 
  それは何故か訊ねるように。
  足を伸ばした無防備な姿勢で、流を見上げて声をかけた。

 

「郁夫様」
 
  聞き慣れた流の声。
  込められている親愛の情も、乗せられた暖かみも、いつも通り。
  鋭さとしなやかさを兼ね揃え、人肌の暖かみもある、そんな声。
  少しだけ硬くなっているが、それは表情に釣られてのものだろうか。
 
「夜分遅くに申し訳ありません。ひとつ、伺いたいことがありまして」
「……ん。相談事か。別に構わないけど」
 
  そう言って、とりあえずもてなそうと立ち上がり、
  座布団を敷こうと、一瞬、探すために部屋の奥に視線を向け、
 
 
  流から、目を、逸らした。
 
 
  瞬間。
 
 
  腕を取られ、振り向こうとしたときは既に遅く。
  その場に押し倒され、顔を布のようなもので覆われた。
 
 
「な、流!?」
「申し訳ありません郁夫様。決して傷つけるつもりはありませんので、ご安心を」
  淡々としたその口調は、流のものとは思えなかった。
 
  ――って、んなこと言われたって安心できるか!
  あまりに突然のことすぎて、まともに思考が働かない。
  そんな俺の混乱に乗じるように、流は手際よくこちらの動きを封じていく。
  見えないので断言はできないが、おそらく帯か何かでこちらの手足を縛っている。
  しかも、関節を外しても抜けられない角度だ。その念の入れように、背筋が冷たくなる。
 
  狙いはわからない。
  しかし、流は確実に。
  俺を、拘束しようとしていた。
 
  元々の技量差に加え、完全な不意打ちである。
  こちらの抵抗などものともせず、僅か十数秒で、俺は完全に無力化されていた。
 
 
  そして。
  混乱も冷めぬまま、とにかく声を出そうとしたが。
 
  とん、と後頭部に衝撃が走り。
  意識はそのまま、闇の中へ。

 

 
 
 
  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 
  夜もとっぷりと更けてきた頃。
  鈍色の長髪が、気分よさげにひょこひょこと揺れていた。
 
  ――さて、郁夫は今頃、明日の準備も終えて寝るところかの。
 
  廊下をひたひたと歩きながら。
  茅女は向かう先にいるはずの少年へ、思いを馳せていた。
 
  最近は、寝る前に郁夫をからかうのが、茅女の日課になっていた。
 
  付喪神研修生としての日々にも慣れ、屋敷の他の存在とも、それなりに打ち解けてきた。
  が、やはり茅女にとって一番大きな存在は、郁夫だった。
 
  瞳術の縛りは、実のところほとんど抜けきっている。
  その気になれば、好き勝手動くことも容易だろう。
  それこそ、今すぐに復讐に走るのだって不可能じゃない。
 
  しかし。
 
  何故か茅女はその気になれず。
  今日も今日とて、郁夫の部屋に向かっていた。
 
 
  郁夫に見つめられたあの瞬間。
  きっと、復讐に駆られた包丁の付喪神は、殺されたのだ。
  残ったのは、人と共に在りたいと思っていた、無垢な日用品の心だけ。
  無駄に歳ばかり食っているせいで、なかなか素直になれないが、
  道具故の心――誰かのためになりたい、という気持ちが、茅女の中で強く灯っていた。
 
  郁夫に使われたい。
  郁夫のそばにいたい。
  郁夫に頼られたい。
  郁夫の助けになりたい。
 
  ドロドロに濃縮された、妖怪としての復讐心より。
  遙か昔に持っていた、道具としての素直な気持ちが、今の茅女の原動力だ。
 
 
  ――真に、郁夫の瞳は魔性の瞳よの。

 

 己の心変わりに呆れながら、茅女は深夜の廊下を歩く。
  抜き足、差し足、忍び足。
  完全に気配を消しながら、茅女は郁夫の部屋へと向かっていた。
 
(今宵はどうからかってやろうかのう。
  妾としては一線を越えたいところだが、郁夫は意気地がないのが悲しいところよ。
  睨む力の万分の一でも彼奴に度胸があれば、今頃は毎晩……)
 
  茅女の読みでは、郁夫は彼女の悪戯をそれほど嫌悪はしていない。
  むしろ、青少年特有の気恥ずかしさで、つい避けてしまっているのが実情だろう。
  少女の体躯とはいえ、妖怪に対してもそのような心理を抱ける、
  そんな郁夫のことを、茅女は好ましく思っている。
  故に、知識としてしか知らない性行為を以て、人間と妖怪の一線を越えるのも、
  実はこの上なく楽しみだったりする。
 
  初めては上手くいかないとまことしやかに囁かれているが、それは人間に限った話である。
  五百年以上も生きた大妖の己なら、破瓜の痛みなんて恐れるに足らず。
  しかも今晩は、橘音より得た貴重な情報により、強力装備でコトに当たる所存である。
  ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。
 
  とか何とか考えながら、気付けば、郁夫の部屋の前に辿り着いていた。
 
  ――む?
 
  いざ部屋に突貫しようとしたところで。
  茅女は、違和感に首を傾げた。
 
 
  ――気配が皆無よの。用足しにでも出向いておるのか?
 
 
  部屋の中に、郁夫の気配は感じられなかった。
  まあ、留守なら留守で仕方ない。すぐに戻ってくるだろう、と。
  特に深く考えずに、待ち伏せするため部屋に忍び込もうと障子を開ける。
 
 
「…………ふむ」
 
 
  暗闇に包まれた郁夫の部屋。
  特におかしな様子は見られない。
  誰が見ても、少し部屋を留守にしている、と捉えるだろう。

 

 

 しかし。
「……匂うな」
  鼻をすんすんさせて、茅女は訝しげに眉をひそめた。
 
  誰が見ても、何の異常もない、郁夫の部屋。
  しかし、茅女はずかずかと部屋に入り込み、何度も鼻をひくつかせる。
 
 
「――殺気の残り香とはな。穏やかでないの」
 
 
  言うなり、茅女は全ての感覚を研ぎ澄ませる。
  それは、長くはかからなかった。
 
「……ふん。この青臭い殺気は、あの刀娘か。
  しかし腑に落ちぬわ。彼奴、郁夫を慕っておった筈……」
 
  しばし悩んで首を傾げる茅女だったが、結局答えは出なかった。
  そんなことより今は郁夫だ。
  部屋にこんな殺気が残されて、かつ姿が見えないとなると、最悪の可能性すら思い浮かぶ。
 
「……屋敷の中に気配はないのう。郁夫も刀娘も、かなり離れた所に居るようじゃな」
 
  できるだけ落ち着いた声を出すつもりだったが、
  ……出てきたのは、緊張に掠れた弱々しい声。
 
  ――何を恐れているのか。
  ――余計なことを考える暇があったら、殺気を辿って追うべきじゃろうに。
 
  決心したら後は早く。
  窓を開け放ち、茅女は猟犬の如く、残された気配を辿っていった。
 
 
 
 
 
  辿り着いたのは、屋敷の裏手にある藪の奥。
  遙か昔に使われていたであろう、崩れかけた物置小屋。
  その奥まで、殺気は続いていた。

 

 

 じくじくと、嫌な感触が茅女の内側で疼いていた。
  殺されたはずの黒い感情が、何故か今、蠢いている。
  気が満足に巡っていないのか、どことなく歩みがふらついてしまう。
  ――これじゃあ、まるで。
  ――否、そんなはずはない。
  ――郁夫は強い。あれとは、違う。
 
  鉄錆の匂いが漂っている。
  夜霧と共に、鈍色の髪へと張り付いてくる。
  茅女にとっては嗅ぎ慣れていた匂い。
  少し前にも、一度嗅いだ匂い。
 
  嫌な想像が脳裏を掠める。
「…………ッ!」
  それを打ち消すために、引き剥がすようにして物置小屋の扉を開け放つ。
 
 
  そこには。
 
 
「――郁夫ッ!」
 
 
  茅女の口から悲鳴のような叫びが漏れる。
  その視線は、小屋の奥に固定されていた。
 
 
  ペンキ缶をぶちまけたかのように。
  赤黒い液体があちこちにこびりついている。
  その中央。
  まるで失敗作の木像のように。
  いた。
 
  その顔は黒い布で覆われて。
  手足は無造作に投げ出されて。
  右手だけ、あるものをしっかり握り締めていた。
 
 
  まるで、奇妙な立体芸術。
  己の胸に突き立った刀、その柄を、握り締めていた。

9

 器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す。
 
  流と呼ばれる打刀が、心を持ち、人の形に変化できるようになったのはいつからか。
  随分と昔のことのようでもあるし、つい最近とも思えてしまう。
  流自身は、いつからの自分が自分なのかなんて、全く気にしていない。
 
  憶えているのは、道場の風景。
  弟子達が稽古を受け、強くなっていく様や。
  師が自己を研鑽していく様を。
  流は、長い間、眺めていた。
 
  付喪神は、その本体に蓄積されし想念から意志を持つ。
  染みついた想念は個体によってバラバラで、同じ道具でも全く別の心を持つこともざらである。
  流の場合は、直接使われることがなく、ただずっと飾り付けられていたので。
 
  ――強くなりたい。
  ――強くしてやりたい。
 
  道場で自他の技を磨き続ける者達の想念が、蓄積していた。
 
  故に、流は“強くなりたい”という気持ちに共感しやすく、
  そう思う者を“強くしてやりたい”と考える。
 
  流に積み重ねられたのは百年余にも渡る、技の向上への試行錯誤。
  一度も“刀として”使われたことがないのに、技術はこれ以上ないくらい詰め込まれている。
 
 
  それは、とても歪なこと。
 
 
  歪な有り様は、その魂をも歪めてしまう。
  故に、流は付喪神としては“問題児”だった。
 
 
 

「――私に指図するな!」
「ふん、弱い奴の言うことなんか聞く気ないからね!」
「料理? 刀にそんなことやらせるな!」
 
  何かあれば文句ばかり。
  ずっと祭り上げられていたからか、自分は他の付喪神とは違う、特別なもの、と思い込んでいた。
  ぎゃあぎゃあ喚く新参者は、他の付喪神には失笑の的であっただろう。
  ただ、誰もそれを表立って非難しなかったのは、
  ――流が、こと武術においてのみ、かなりの腕前を誇っていたからだろう。
  怪異の優れた妖怪なら兎も角、研修に来ているような成り立ての付喪神では
  流に対抗するのは難しい。
  郁夫の両親――浦辺家の当代も、知人の道場から預かった奉納刀なので強く当たれず。
  結果、まるで餓鬼大将のように、流はふんぞり返っていた。
 
 
 
  郁夫と出会ったのは、そんなとき。
 
 
 
  分家へ修業に出ていたため、流が来てからの数ヶ月は顔を合わせていなかった。
  そのころの郁夫はまだ小学生で、あどけなさも多分に残っていた。
  郁夫が家に帰ってきて、最初に目にしたのは、意味もなく強がってる流だった。
  両親から状況を聞いていたため、郁夫はそれほど驚くこともなく。
  とりあえず顔合わせを済ませ、その場は収まろうとしたのだが。
  流の尊大な態度に少しばかり苛立った郁夫は。
 
  修行を終えたばかりで、少なからず気が強くなっていたので。
 
  ――お前、チワワみたいだな。
  ――きゃんきゃん吠えて、疲れないのか?
 
 
  などと、真っ正面から挑発していた。
 
 
  そして。
  郁夫は半殺しにされた。
 
  退魔の術を学んでいたとはいえ、郁夫は当時小学生である。
  単純な取っ組み合いでは、流の方が圧倒的に強かった。
  しかも当時の流は、精一杯お山の大将を気取っていて、手加減する心の余裕など皆無だった。
 
  郁夫は全身の骨を砕かれて。
 
  最後の最後で、
 
 
  瞳術を、使ってしまった。
 
 
  命すら危ぶまれていた状況だったので、全力で。
  浦辺の家に伝わる秘奥を、変化し始めたばかりの幼い付喪神に、叩き込んでいた。

 

 

 郁夫自身が未熟だったこともあり。
  また、こんな子どもが、と流は完全に油断していた。
  結果、加減など皆無な眼力に晒され、流は半ば消滅しかけた。
 
 
  最終的には。
  郁夫も流も生死の境を彷徨う、研修制度始まって以来の大惨事となってしまった。
 
 
  そして、再び顔を合わせたときから。
  流の態度は、変化し始めていた。
 
 
  回復に努めていた間は、自分を消しかけた童に対して恨み辛みを抱いていたが。
  再び顔を合わせて、郁夫の瞳を見た瞬間。
  流は、今までの流では、いられなくなっていた。
 
  その瞳に消されかけた、という恐怖と。
  瞳そのものの、吸い込まれそうな深さに。
 
  どきどきした。
 
  以後、まともに顔を合わせることができず。
  会うたびに顔を真っ赤にして、そっぽを向いて会話していた。
  郁夫本人に「もう瞳術はかけねーよ。悪かったって」と言われることも多々あったが。
  慣れるまで、流は郁夫と顔を合わせることすら困難だった。
  そんな状態だから当然、前のように強がるのも難しくなり。
  いつしか流は、浦辺家の中で適応していった。
 
  それと同時に。
  郁夫に対して、暖かい気持ちも覚えていった。
 
「――べ、別に手伝わないとは言ってないでしょ!」
「いや、でもお前の今日の仕事は洗濯だろ? 無理に付き合わせる気はないって」
「わ、私だってお菓子作りに興味あるのよ! わ、悪い!?」
 
「……おはよう、ございます」
「!? ……変なもん食ったのか?」
「私が敬語使って何が悪いのよ! これでも、その、研修生なんだから……」
「そっか。流は偉いなあ。頭を撫でてやろう」
「い、いらないわよ! ……あ、え、行っちゃうの……?」
 
「剣を教えて欲しい?」
「ああ。流って達人並みなんだろ? よければ教えてくれよ」
「わ、私としては……その……構いませんが」
「よっし! 手加減抜きで頼むぜ! 会った頃みたいに半殺しは勘弁だけど」
「…………それを、言わないでください」

 

 

 後にして思えば。
 
  きっと、初めて瞳術をかけられた瞬間。
  あのときから、流は郁夫の瞳に惚れていた。
  自分は郁夫の物なのだと、強く思うようになっていた。
 
  それから五年かけて培われた関係は。
  きっと、軽いものではなく。
  両者にとって、とても大事なものなのだと、流は信じていた。
 
 
  ――そう。5年前からずっと、郁夫のことを想っていた。
 
 
  その想いは、他の付喪神に負ける気など欠片もなく。
  付喪神だけでなく、人間相手だって負けない自信が、あった。
 
  郁夫のためなら何でもできる。
  道理や禁忌など知ったことか。
  何よりも勝るのは、5年前に見せられた、あの瞳。
  あれを独占できるのであれば、他に何を捨てても構わない。
 
 
  郁夫に剣術を教える時間は、流にとっては至福の時だった。
  しかし、指導には少なからず遠慮が入ってしまい、思い切って技を伝えられない。
  本当は郁夫と心置きなく訓練をしたかった。
  自分の全てを郁夫に伝え、これ以上ないくらい強くしてあげたかった。
  しかし、最初に半殺しにしてしまった記憶が邪魔をして、今ひとつ指導に熱が入らない。
  あれさえなければ、きっと郁夫と自分はこれ以上ないくらい仲良くなれていたはず。
  そう思うたび、過去の自分をへし折ってしまいたくなる。
 
 
  でも、そんなことは、時間が解決してくれるはずだった。
  ゆっくりと、ゆっくりと、拗れたものを解していき、
  並ぶ者がいないくらいの、理想の相棒同士になっていたはず。
 
 
 
  なのに。

 

 

 最近になって、五月蠅い虫が現れた。
 
  包丁の付喪神、茅女。
 
  無駄に長生きし、怪異だけ突出している付喪神。
  確かにその能力は特別だが、そんなものに、自分と郁夫の関係は揺るがない。
  そう、流は信じていた。
  ――年増が醜く擦り寄ろうとも、郁夫様は歯牙にもかけないはず。
  あんな輩は、郁夫の道具には相応しくない。
 
  はずなのに。
 
  何故か郁夫は彼女を気にかけている。
  殺されかけたにもかかわらず、そのお人好しさには呆れ返る。
 
  初めのうちは、心配していなかった。
  あんな包丁、研修生として気遣っているだけで、それ以上の筈がないと。
  しかし、茅女が浦辺家に溶け込んでいくにつれ、その自信は、確かなものではなくなっていった。
 
  ――私は、ひょっとしたら、要らないのかもしれない。
 
  冷静になって考えてみれば。
  自分も茅女と同じように、最初会ったときに酷いことをしているのだ。
  それを棚に上げて、何の根拠もない確信を必死に抱きしめて。
  徐々に大きくなっていく不安に、耐えていた。
 
  実際、茅女の持つ技術は、流ほどではないものの、教える分に不足はない。
  それに何より、茅女は、強い。
  教わる者の心理として、何より強い者に教わる方が心強いに違いない。
 
  考えれば考えるほど。
  凍り付いてしまいそうな恐怖に連日晒されて。
  それでも、郁夫の一番を諦めきれなくて。
  郁夫がどう思っているのか、知りたかった。
 
  やっぱり自分を一番と思ってくれているのか。
  それとも、包丁に負けたなまくら刀なんて不要と思っているのか。
 
  後者の筈がないと何度自分に言い聞かせても。
  弱虫の心はそれに頷かず、ただひたすら、震えて怯えるばかりだった。
  だから。
  郁夫は絶対に自分を見捨てない、という確信が欲しかった。
  郁夫にとって自分は大事な物なのだという、証拠が欲しかった。

 

 

 そこで思い出したのが、茅女の言葉。
  初めて浦辺家に訪れて、とんでもない事件を起こした際に。
  茅女は、黒間橘音の体を操りながら、こう言っていた。
 
 
『操ってみるとわかるものでな、この娘、この家――とくにヌシに忠誠を誓ってるようでの』
 
 
  ――操ってみると、わかる。
  確かに、持ち手と自身の意志を直接繋ぐのだから、相手の考えていることも丸分かりになるだろう。
 
  このまま悶々とし続けるより。
  郁夫が何を望んでいるかを知った方がいいのかもしれない。
  武器として一番が無理なら、他の一番を目指せばいい。
  確かに刀として郁夫の側にずっといるのは、とろけそうなくらい魅力的だが。
  それ以外で一番になるのも――悪くない。
 
  そう。
  たとえば、
  許されるのなら、
 
 
  人として、郁夫の一番を目指すのも。
 
 
  どうするかは、郁夫の心次第だった。
  道具として流を一番に思ってくれているのなら、それで良し。
  でなければ、他の道を探ればいい。
  大事なのは、郁夫とずっと一緒にいること。
  刀の器に収まりきれないくらいの、溢れる想い。
  それを受け止めてもらうのが、一番重要なのだから。
 
 
  だから、確かめてみることにした。
  邪魔の入らないよう、誰も来なさそうな場所に郁夫を連れ込んで。
  郁夫の心を、確かめようと、した。
 
 
  そして、郁夫の体を操って、心と心を繋げようとした。
 
  瞬間。

 

 

 付喪神として、持ち手を直接操るのが初めてだった流は。
  見様見真似――というよりは、完全な手探り状態で。
  郁夫と自分の心と心を、ダイレクトに、繋げてしまった。
 
 
  結果、流の溢れんばかりの郁夫への想いが。
  抑えつけられていた濁流の如く、郁夫に向かって流れ込んだ。
  己が武器であることすら放棄させてしまう、膨大な流の想い。
  精神制御の訓練を受けていた郁夫でも、悪意ではなく、純粋な好意の波なんて初めてだったので。
  それは、耐えきれるレベルを明らかに逸脱していたため。
 
 
  郁夫は、発狂した。
 
 
  手に持つ流を滅茶苦茶に振り回し、
  心が繋がっているため手放すこともできず、
  兎に角楽になりたかった郁夫は、
 
  躊躇無く、流の刀身を、己の胸に、突き立てようとした。
 
 
  咄嗟に、郁夫の手元を操って、急所を外すことができたのは、奇跡以外の何物でもなかった。
  それでも、突き刺す行動そのものを止めるのは難しく。
 
  ずぶり、と。
  流の刀身が、郁夫の胸に沈んでいった。
  切先が胸の皮膚と筋肉を切り裂き。
  肋骨の合間をすり抜けて。
  奇跡的に、動脈や肺臓は傷つけず。
  そのまま、半ばまで押し込められた。
 
 
  隙間から鮮血が溢れ、下手に動かせば傷口が開いてしまう状況。
  引き抜くだけでも、大惨事になりかねない。
  また、上手く郁夫の体を操作することもできないので、流は動くことすらままならなかった。
 
  冷たい刃先が、郁夫の肉に埋もれていた。
  刀身に絡みつく血潮からは、郁夫の“命”が直接伝わってくる。
 
 
  初めて味わう感触だった。

 

 

 刺さってから、どれだけ時間が経ったのだろうか。
 
  どうやってこの場所を察知したのか、茅女が小屋に訪れていた。
  不思議なことに、その表情は怯えに染まっており、いつもの強気ななりは完全に隠れていた。
  顔は青ざめ、ぶるぶると震えながら、郁夫と流を呆然と見つめていた。
 
  しかし、流はその様子に訝しむことはなかった。
 
 
  それどころではなかったのだ。
  正直、茅女のことなど、この瞬間、流にとってはどうでもいいことだった。
 
  郁夫の体を操っていたときより。
  刀身を郁夫に埋め込んでいる今の方が。
 
  明らかに、郁夫と、“繋がって”いた。
 
  心と心が繋がるというより。
  もはや、一方的な蹂躙だった。
  裡より犯し、全てを飲み込む。
  郁夫の方は、押し寄せる濁流に耐えきれず、完全に意識を途絶えさせていた。
  故に、流の強姦はいつまでも続けられてしまった。
 
 
  その快感は、幼い付喪神に耐えられるものではなく。
 
 
 
  流は、初めて人を刺した感触に、陶酔していた。
 
 
 
  とても、気持ちよかった。

10

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
  流が俺を襲った事件から一週間が経過した、らしい。
 
  らしい、というのは、俺は昨日目覚めたばかりで、詳細は話に聞いただけだからだ。
  記憶は、正直なところ、曖昧だった。
  脳味噌をぐちゃぐちゃにかき回されたかの如く、事件前後の記憶が混乱していた。
  精神状態も不安定で、ふと気を抜いた瞬間に、得も言われぬ悪寒に襲われ、
  嘔吐してしまうことも度々ある。
  細かいことを思い出そうとすると脳が拒絶する。
  流と会ったような記憶はあるが、どんな話をしたのかは思い出せない。
  ただ、彼女が言った、とある一言だけは、鮮明に覚えていた。
 
  ――決して傷つけるつもりはありませんので、ご安心を。
 
  だから俺は、流に対して不信感など覚えていない。
  きっと、何か止むに止まれぬ事情があったのだろう。
 
  流は現在、謹慎処分ということで離れの一室に隔離されている。
  人を傷つけた付喪神は、厳しく罰せられる。
  それが付喪神研修制度での共通規則。
  どこの霊能者の家でも、徹底していることだ。
  実際、流が研修中の身だったら、有無を言わさず封印処分となっていただろう。
  そうならなかったのは、流が浦辺家に忠信深く仕えてきたことを、皆が知っていたからだ。
  だからこそ、皆、今回の流の奇行には首を傾げるしかない。
  自分たちに見る目がなかったのか、それとも特殊な事情があったのか。
  流は決して事件のことについて語ろうとせず、大人しく謹慎処分を受け入れている。
  結果、全てが曖昧なまま、ただ無為に時間だけが過ぎていた。
 
  流はこれからどうなるのか。
  流と、これからどう接していくべきか。
 
  俺には、わからなかった。
 
 
  更に。
  気になることは、流のことだけではない。
 
  ――茅女。
 
  彼女の様子も。
  流に負けず劣らず、不可解なものだった。

 

 

「――郁夫? どうかしたのか」
 
  体を起こしていたところに、ぴたり、と茅女が側に張り付いてくる。
  何でもない、と答えるも、茅女はそのまま離れようとはしなかった。
 
「なら、無理はするな。して欲しいことがあったら何でも言っておくれ。
  ――妾にできることなら、何でもしてやるからな」
「そ、そんなに気遣ってくれなくても大丈夫だって。
  それより、茅女の方は大丈夫なのか? 昨日からずっと一緒にいるけど……」
「わ、妾は何も問題など無いぞ。それよりヌシじゃ。
  まだ快調ではないのだから、回復するまでは大人しくしておれ」
 
  茅女は早口でまくし立てながら、半ば押し倒すように体重をかけてくる。
  ぼすん、と後頭部が枕に着陸。
  その強引さは、どう見たって何かを隠しているようにしか見えない。
 
  では、何を隠そうとしているのか。
 
  心配されることがそんなに不都合なのだろうか。
  否、茅女の態度は、そういったものとは根本的に違う気がする。
  まるで――“気を遣われる自分”を恐れているかのようだ。
  その上で、こちらの状態を気遣っているのだから、自然と強引な看病になるのだろう。
 
  また、茅女がこちらを気にかけるのは、何故か。
  彼女が第一発見者だったから?
  俺のことを、少なからず気に入っていたから?
  どちらも合ってるような気がするし、そうでない気もする。
 
  ただ、ひとつだけ断言できることがあるとすれば。
 
  今、茅女は、ひどく“何か”に怯えている。
 
  それだけは、確実だった。
 
  触れたものなら何でも切り裂くことのできる包丁の付喪神。
  戦い方によってはあらゆる妖怪や霊能者を屠ることすら可能な怪異。
  そんな茅女が、まるで外見相応の少女のように、酷く怯えて縮こまっている。
 
  そんな茅女を放っておくことなんて、できなかった。
 
 
 
 
 

 

「――郁夫。橘音が食事の支度をしてくれたようじゃ。今持ってくるからな」
「ああ、いいよ茅女。もう歩くことくらいできるから……っと」
「ば、莫迦者! 食事は妾が持ってきてやるから、無理をするな!」
 
  起き上がろうとしてよろけたら、茅女は怒って駆け足で部屋を出て行った。
  確かに、体調が芳しくないのだから、世話を焼いてもらうのも悪くない。
  茅女の態度や流の状態などは気になるが、それは回復してからでもいいのかもしれない。
 
 
  しばらくして、急ぎ足で茅女が戻ってきた。
  手には昼食の乗った盆。薬草粥が美味しそうに湯気を立てている。
 
  茅女は俺の隣に腰を下ろし、蓮華に粥をひとすくい、そのまま――
 
「ほら、郁夫」
「いや、もう自分で食べられるって」
「……そうか」
 
  ああもう。そこでそんなに寂しそうな顔するなよ。
 
「……やっぱ、最初の一口だけ」
「そうか! 郁夫、あーん」
「あー……熱っ」
「す、すまぬ! 冷ますのを忘れておった。……ふー、ふー」
「はむ……ん。美味しいな。ありがと、茅女」
「き、気にするな。それより、もう一口どうだ?」
 
  素直に礼を言うと、照れくさそうに微笑みながら、もうひとすくい粥を準備してくる。
  流石に何度も食べさせて貰うのはこちらも恥ずかしいため、茅女の誘いは断ることに。
 
「じゃあ、あとは自分で食べられるから」
  そう言って、手を差し出す。
「……うー」
  再び寂しそうな顔を見せるが、情に流されるのは一度まで。
  普通に蓮華を受け取って、自分で粥を食べ――
 
 
  ぽろり、と。
  蓮華が手からこぼれ落ちた。
 
 
「……あれ?」
「こら、郁夫。まだ手に力が入らないのではないか? やっぱり妾が食べさせ――」
「いや、大丈夫だって。ものを持つのが久しぶりだから、上手く持てなかっただけだ」

 

 

 言いながら、掛け布団の上に落としてしまった蓮華を拾おうとする。
  しかし。
 
  掴んで、持ち上げようとしたところで。
  手から完全に力が抜け、蓮華は再び転げ落ちる。
 
  畳の上に落ちようとした蓮華を、咄嗟に茅女が受け止める。
「郁夫、やはり疲れているのだろう? 大人しく妾の世話を――」
「ごめん、茅女、もっかい貸してくれ」
  茅女の言葉を遮って、半ばもぎ取るように蓮華を奪おうと――
 
 
  ぽろり、と。
  蓮華は手からこぼれ落ちる。
 
 
「……郁夫?」
 
  こちらの様子を見て、茅女も異常を感じ取ったか。
  ぶるぶると震える俺の手を、茅女が訝しげに見つめている。
 
「力が入らないのか? 一週間寝たきりだった故、別段おかしなことではないぞ?」
「……いや、違うんだ」
 
  手を開閉させ、力の入り具合を確認する。
  病み上がりで多少弱っているものの、蓮華が持てないレベルではない。
 
  なのに。
 
「……っ!」
  手を伸ばし、盆の上の箸を取ろうとする。
  しかし――蓮華と同じように、持とうとした瞬間、すとんと力が抜けてしまう。
 
  これは、まさか。
 
  布団から飛び起きて、部屋中のものを持とうとする。
  しかし、どれも例外なく、手からこぼれ落ちてしまう。
 
 
「……持てない?」
 
 
  呆然と手のひらを見つめながら。
  俺は、そう呟くことしかできなかった。

 

 

「刺された影響か」
 
  その声は。
  ぞくり、と凍り付きそうな冷たさを含んでいた。
 
  振り返ると、能面のような無表情でこちらを見つめる茅女がいた。
 
「あの刀に裡を引き裂かれた結果、物に対して恐怖心を植え付けられたのかもしれんな」
「……恐怖、心?」
「刀――流のことを、ヌシは信頼していたのだろう? それこそ人間と変わりなく。
  そんな信頼していた相手に、心をズタズタに引き裂かれたら、大抵の人間は不信に陥るの」
 
  えっと、つまり。
  流に刺された後遺症で、俺は物を持てなくなったということだろうか。
 
「しかし、それにしては拒絶が強いのう。
  刀を持てなくなる、というのならわかるが、あらゆる物を持てなくなる、というのは異常じゃ」
  言いながら。
  茅女はこちらに歩み寄ってくる。
  そして、ゆっくりと、俺の腕に――触れた。
 
「……茅女?」
「ふむ。この姿では平気なようじゃの。看病できていたことからも察せられるか」
 
  ぺたぺたと俺の腕を触っていた茅女は、ふいに、俺の手のひらを強く握った。
 
「郁夫」
「な、なんだ?」
「振り回すなよ」
 
  言うなり、茅女は。
  変化を解いて、元の姿――包丁へと戻った。
 
 
  柄が手のひらに収まるように。
  白木作りの柄と、小振りな刃。
  五百年の時を経てなお健在な包丁が、俺の手に――
 
 
  収まらなかった。
 
 
  やはり、力は入らずに。
  そのまま包丁を落としてしまう。

 

 

 畳にぶつかる直前に、茅女は少女の姿へと変化して、こちらを見上げる。
「やはり……駄目か」
「ご、ごめんな」
「気に病むでない。半ば予想できていたことだ」
  そう言う茅女の表情は、しかし硬く尖っていた。
 
「道具を持てない、か。只の拒絶じゃこうはいかぬ。
  ――あの刀、意図したかどうかは知らぬが、心を弄ったな」
 
  心を、弄った?
 
「おそらく、奴の怪異はこれじゃろう。
  ――斬った相手の心を操作する、か。
  まさに妖刀じゃの。使いようによっては最悪の武器となるの」
「……おい、それってつまり」
「流は、ヌシの心に侵入したとき、その中身を一部書き換えたのよ。
  おそらくは、“自分以外の物を持てなくなる”といった類にな」
「…………」
 
  信じたくはなかった。
  しかし、一切の物を持てない現状から考えると、茅女の言うことは信憑性があった。
 
 
「……そうするに至った奴の心情は理解できる。
  が、これは許容の域を脱しておる。
  …………郁夫が妾を持てないというのは、嫌じゃ」
 
「か、茅女?」
 
  茅女の瞳は。
  こちらに縋っているかのように、弱々しく。
  その儚さに言葉を失われているうちに。
  気付けば、腕を掴まれていた。
 
 
  ぐい、と引っ張られて重心を崩されたかと思ったら。
  そのまま畳の上に押し倒されてしまった。
 
「――心を繋げる方法は、妾を持たせる以外にもある。
  妖怪としての怪異ではなく、人間の使う技法だがな」
 
  まて。
  何をする、つもりだ?
 
「――房中術、というのを、聞いたことはあるか?
  なに、行為としては初めてだが、失敗することは無かろうて」

To be continued....

 

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