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千歳の華



1

夢の舞台は、火の手が上がる日本家屋だった。
またこの夢か…思わず呟いた。
火、火、火、火、火、火…
赤が頭を焦がしていく。
燃え盛る赤。灼熱の顎に食われていく屋敷。逃げ惑う人々…
その中に、何故か俺に似た男がいる。
長い髪を立派な兜の中に納め、見るからに重そうな鎧を着ている。
手には大弓、こいつ、俺に似てるくせに武士なのかよ…
『時春様…この誓いは炎に焼かれようとも、決して消えることはありませぬ…千歳過ぎ去りた後、
再びこの場所で…』
少女だった。年の頃は16、17だろうか?
見事な十二単に絹のような御髪。
白く抜ける肌に芸術品ともいえるほどに整った面は、儚げな色気すら漂わせている。
その少女が、悲しみに顔を曇らせていた。
『安心するがいい、鬼灯姫…君は必ず私が守り通す』
俺に似た男は、耳を塞ぎたくなるくらいの臭いセリフを鬼灯姫の細くて華奢な指を握り締めながら
高らかに言った。
俺は夢の中なのに頭痛がした。頼むから、俺と同じ顔でそんなこと言うなよ…
『誓ってくださいまし!!!必ずや、必ずや、お傍に…』
『うむ…』
見詰め合って抱擁する二人。
激しく炎が燃え上がった。まるで映画のワンシーンにでもありそうな光景だ。
舞台は日本で、役者の一人は俺みたいだけど。
逃げ場はもうなかった。この二人は気づけば清水の舞台のようなところに追い詰められている。
飛び降りるか、このまま炎に巻かれて死ぬか。
二つに一つだった。
『姫―――――危ない!!』
大きな柱が灼熱の凶器になって姫に倒れこんだ。このタイミングではよけきれない。
そこで俺にそっくりな男は、自らの身を挺して姫を庇った。
おそらく屋敷を支える大きな柱の一つ。男は胸と両足を潰されて虫の息だった。
『時春様っ―――――』
『構わない…私はもう助からない。だから君だけは…』
『そんな、添い遂げると誓いましたのに!!』
『…君にはまだ逃げ場所がある…敵の兵がやってくる前に、お逃げなさい…』
大きくて宝石みたいな瞳に、大粒の涙を浮かべる鬼灯姫。
長い髪を振り乱して男の体にすがり付いている。
『わた、しの、かわ、いい、ほおずき…約束する…必ず、生まれ変わりた後は永久にきみを、
あいすると…だ、から…いまは…逃げなさい…』
俺似の男は、いよいよ細くなってきた呼吸でも笑顔を崩さなかった。
煤と血に塗れた指先で、鬼灯姫の涙をぬぐってやっている。
ちくしょう…なんか、これは俺じゃないのに…死んでしまうくらいに胸が熱い。
悔しさと、愛しさ…全部が混ざり合ってとんでもないことになっている。
あぁ、起きたらまた泣いてるんだろうな…
俺がそんなくだらないことを考えているうちに、男は息絶えた。
それでもいい死に顔だった。やっぱり、好きな女の腕の中で死ぬのは本懐なんだろうな。
『と、きはる…様ぁ!!!!』
鬼灯姫の背中に広がる谷。
いよいよそこを残して逃げ場はなくなった。
時春の亡骸を前に、
絶望に打ちひしがれた姫はゆらり…と立ち上がると、目前に広がる谷底を虚ろな目で見つめていた。
『時春様がいない毎日など…考えられませぬ…必ずや、お傍に…貴方様の…お傍に…だから…
貴方のお傍に参るまで…他の女子に靡かず、ずっと鬼灯のことだけを見てくださいまし…』
―――――何度も、何度も見た光景だ。
でも、慣れなかった。
夢であっても、物語がこの場面にたどり着くたび、俺は胸が壊れそうなほどの悲哀を感じる。
安っぽい恋愛映画や、小説なんかでは味わうことのできない気持ち。
本当に、本当に大切な人が亡くなってしまうような悲しみ。
俺は闇に散っていく姫の姿を見るたびに、枕を濡らしていた。

 

 

心地よい風が吹き込んで、なんとも悪い夢見を少しやわらげてくれた。
指先で頬をなぞると、やはり乾いた涙の後があった。
何度も、姫を助けようとした。でも体が動かない。
なんだか武士の気持ちがダイレクトに伝わって、胸にぽっかり穴が開いたみたいだ。
「あれっ、もう起きてるの??」
俺が感傷に耽っていると、素っ頓狂に響き渡る幼馴染の声。
習慣みたいに俺を起こしに来るのは隣に住んでいる葉山瑠璃。
十年来の幼馴染であると同時に、見事高校二年の始まりと同時に俺の彼女に昇格された少女だ。
快活そうな大きな瞳に、形の整った鼻。小さな唇は驚きで半開きになっている。
元気なツインテールが部活少女である瑠璃にはよく似合っていた。
夢の中の姫と較べると、正に対極に位置する美少女だ。
「あぁ…最近目覚めがよくて」
苦笑いで誤魔化してみる。しかし瑠璃の綺麗な眉が、どんどんつりあがっていく。
「また…あの夢を見たの?」
有無を言わせない口ぶり。気づけば可愛い幼馴染は鬼に変わっていた。
「あ、あぁ…」
「何度目?」
腕組みをして、にじり寄る。女の子特有のシャンプーの甘い香りと、僅かにのった化粧と
フレグランスの匂い。
男の本能をダイレクトに刺激する。
「うぅん…?十二回目…かな?」
「同じ夢を何回も見るなんて、おかしいよ。しかもそれが原因で毎回泣くなんて」
「平気だろ…たかが夢だぜ?実際俺が死ぬわけじゃないんだし」
瑠璃が俺の異常に気がついたのは何度目のことだっただろうか。
この夢を見始めるまで朝が弱かった俺を起こすのが役目だった瑠璃は、すぐさま俺を問い詰めた。
そこで夢の内容を、細かに話たのだけれど…
「だって、おかしいよっ!!何で“時春”が鬼灯姫を助けて死ななきゃいけないのさっ。
時春は鬼灯姫の付き人で、姫の許婚の弟なんだから。大人しく鬼灯姫の婚約者である清春に
譲ればいいのに…
時春には“瑠璃姫”っていう婚約者が別にいたんでしょ…」
そう…
こいつがたかが夢の話に躍起になる原因は、登場人物の名前にあった。
俺の名前は藤原時春。なんと夢の“時春”とまったく同姓同名なのだ。
いったいどんな因果があるのか知らないが、夢の“時春”には照らし合わせたみたいに
“瑠璃姫”という婚約者がいたのだ。しかも鬼灯姫の妹で。
夢の物語の筋書きはこうだ。
―――――時は平安。
生まれながらにして藤原清春(ふじわらのきよはる)の許婚であった鬼灯姫はある日、
清春の弟でありながら家督争いから脱落し、鬼灯姫の付き人としてやってきた時春と出会ってしまう。
お互い一目で恋に落ちた二人は、しばし逢瀬を重ねるのちに、
いけないと思いながらも将来を誓い合う。
しかしそれを知った時春の婚約者であり、鬼灯姫の妹“瑠璃姫”は嫉妬に狂って鬼灯姫を
暗殺しようとする。
時春の兄であり、正当な鬼灯姫の婚約者であった清春は瑠璃姫と協力して二人の仲を裂こうとするが、
屋敷に乗り込んだ兵士は誤って火を放ってしまう。
計画の失敗により、後がなくなった清春は二人を消そうとそのまま兵士に殺害命令を下すのだが…
清春が訪れたころには、二人は既に去ったあとだった。
瑠璃姫は尚も怒り狂い、清春を利用して更に追っ手を掛けた。
そしてなんとか別邸に逃れるも、そこにも火をかけられた二人は、“大蛇の谷”を背に
今生の別れを期する――――――――――と言うなんともベタな恋愛絵巻である。
とまぁ著しく俺の妄想の産物であるが、これを話したとき“幼馴染の瑠璃”は
とんでもなく怖い顔をしていた。
なんていうか、感情がごっそりぬけおちた死人みたいな顔だった。
そんなヤバイ顔で『もう…その夢は、見ちゃ駄目だよ…』という瑠璃が更にヤバくてこの夢って
実は現実にあった話で、
俺は“藤原時春”で瑠璃は“瑠璃姫”の生まれ変わりなんじゃねぇか?
って疑ったときもあったけど、実際俺には清春なんてアニキもいないし、
鬼灯っていう知り合いもいない。
だから瑠璃を一端沈静化するのには成功したんだが…
「へぇ…“時春”は“瑠璃姫”を裏切って鬼灯姫をかばって死んじゃうんだよねぇ…?」
うぅん…どうやら現実の瑠璃姫は著しくご機嫌斜めのようだ。
元から嫉妬深いヤツだったが、ちゃんと付き合うようになってからそれは危険なレベルまで上昇した。
普通、夢の中の架空事物にまで焼餅妬きますか??

 

「でもさでもさ…平成の時春ちゃんはまさか幼馴染であり最愛の彼女であるこのあたしを
ま・さ・か裏切らないよねぇ…?」
なんとも殺気の篭った黒上目遣いだ。ツインテールが鬼の角に見える。
思わずチビりそうになった。朝から悪夢とのコンヴォは本当に勘弁してもらいたい。
「だから、夢の話だって言ってるだろう!!それに鬼灯なんていないし、清春だっていないんだから」
眼前五センチで死なす線と書いて死線を送っている瑠璃は、口を尖らせながらも
しぶしぶ納得したみたいだ。
「ふぅん…まぁいいけどぉ。そのかわりぃ、あたしと約束して」
俺の手を握ると、瑠璃は急にマジメな顔をした。
そのまま俺に顔を再び寄せると、深く唇を奪われる。
「んん…っ、る…りぃ…んぐっ…あ、さ…からは…っ」
歯列、頬の裏、上顎、下顎、下の表裏。丁寧に余すことなく瑠璃の舌で唾液を塗りつけられる。
まるでマーキング。瑠璃の味しかしない。
彼女は止まらなかった。猛る熱にうなされるみたいに小柄だが歳不相応に発達した胸を俺に押し付け、
悩ましげに腰をくねらせる。
「ん………ちゅぱ……んふぅ♪」
そのまま俺の膝の上に跨ると、赤らめた頬で俺を見つめながら指先を股間に滑らせてくる。
瑠璃の匂いだけで生理現象は絶好調だ。しかも不意のディープキス。
息子は気分とは裏腹に元気なテントを張っていた。
「ねぇ…時春ちゃん。あたしと約束、する?」
腕を俺の首でクロスさせ、誘うように頬を舐めあげる。
「…約束してくれたら…続き、シテあげるっ」
愛しげに股間のモノをなで上げ、熱い息を首筋に吹きかける。
なんつー色気だよ。こいつ。我が彼女ながら信じられん。幾度これに誑かされたか。
しかし断れないのが男のSAGA。
熱でぼーっとした頭で、俺はかくかく頷いていた。
「は、はい…藤原時春…約束いたします」
夢の“時春”が見たら泣くだろうな。こんな無様な姿見たら。
きっと鬼灯姫も愛想を尽かすだろう。
「よろしい♪じゃあ……………“藤原時春”は“瑠璃姫”を永久に愛し続け、その身が果てるまで
添い遂げる…って誓って?」
「…?瑠璃姫?お前は葉山瑠璃だろうが」
「…いいから」
疑問を投げた俺に帰ってきたのは地獄の底から響くような声だった。
髪が垂れて表情が隠れて、膨張するオーラが尋常じゃない。
「わ、わかったよ…。えぇ、わたくしこと、藤原時春はぁ〜瑠璃姫ぉ〜永久に愛し続け、
この身が果てるまで添い遂げることをぉ〜誓います〜」
どこか間の抜けた声で宣言する。
瑠璃は顔を隠したまま。
しかし、口元をありえないほど愉悦に歪めている。
瞬間、ぴくりと首筋が痛んだ。
だが気のせいだったのか、すぐに痛みは引いた。
なんか怖い…けど、それはいつものことかぁ…
なんて妙に納得しながら。
悲しいかな、何時もどおり瑠璃のマウントポジションで朝食前の運動が始まった。
マジでごめんなさい“時春”さん、現代の時春は女性上位じゃないと
イけない身になってしまいました…







 

「もう、時春ちゃんががんばりすぎるのがいけないんだからっ!!」
通学路に響き渡るのは、瑠璃の元気な怒鳴り声。
そして朝から七発も吸い取られた僕は、荷物みたいに彼女に引っ張られてます。
「だってぇ…るりがぁ…はなしてぇ…くれないんだもぉん…」
真っ白になった俺は、情けなくも腰が立たず朝のホームルームに間に合わせるために
彼女の瑠璃に腕を引かれている。
あの約束をした後、瑠璃は変わったみたいに俺を貪った。
普段も人並み以上の激しさで俺を求めるが、今日は群を抜いて異常だった。
なんだか憑物が落ちたみたいっていうと下品だが、とにかく妙に元気なのだ。
起こしにきたときはこれ以上ないほどに低気圧だったのに。
まぁとにかく…
無事に学校へたどり着いた俺たちは、仲良く同じ二年五組の隣同士の席に、
肩が触れるほど密着して着席した。
口からエクトプラズムを発する俺と対照にツヤツヤした肌をした瑠璃。
クラスメイトはまたか…なんて溜息をついている。
「おい、時春。今日は転校生が来るらしいぜ?」
残念だったな、信長よ。
俺はもう死んでいる。そこにいるのは時春じゃない。瑠璃の使い魔に成り下がった狗だ。
「なにおかしなこといってんだよ?まぁとにかく、聞けよ。その転校生はなぁ…
なんと、財界に名を轟かすほどの超お嬢様だとか!!しかも美少女!!……」
無駄に大声で力説する信長。
別に転校生の話題はいいんだが…
できれば瑠璃の目の前でするのは止めて欲しいな…なんて。
ほら、鬼が目覚めるよっ…
「へへへ、へ、へぇ〜」
必死に流そうとする俺だが、さっきから空気が痛いです。ヤバいですっ!!
「なっ、時春、すげーだろ!!この信長さまにかかれば、殺してしまえホトトギスなわけですよ。
まさか美少女マニアの時春が食いつかないわけないよな?」
信長、お前空気読め。
だから本能寺で森蘭丸でホトトギスなんだよ!!
あぁ、やばいです。
さっき約束したばっかなのに…また瑠璃にお仕置きというセック、いや、折檻を喰らうのか…
「………」
だが、俺の予想の裏の裏の裏で、瑠璃はまったくの無関心だった。
何故か覚悟を決めたような表情をしている。
いつもは柔らかな微笑を浮かべている口元は、一文字に結ばれ、
零れそうなほど潤んだ瞳は沼のように濁り、ひたすら教壇を見据えて教師の登場を待っている。
「あれ…どしたの。今日の瑠璃ちゃん」
お前がゆーなよ。やっぱ狙ってたかこの魔王は。
「さ、さぁな…」
とにかく嫌な予感がした。
それはもう浮気などしたら地球の裏まで追いかけて無理心中しそうな瑠璃が、水を打ったように
一点を見据えている。
夢、約束…現実には存在しない二つの名前…
とにかく嫌なもやもやが胸の奥で渦巻いている。

「――――――――――おはよう」
しかしその沈黙を破るように、担任の明智が元気よく入場してくる。
ホントに空気を読まないやつばっかりだ。
教壇に名簿を置いて息を吸い込むと、
明智は俺のもやもやに油を注ぎ込む一言を言い放った。
「今日は、転校生を紹介する!!それでは“藤原”さん。入ってきて」
ガラッ…と扉の開く音。

 

時が、止まった。
見事なまでに洗練された歩調。
行儀よく前で組まれた両手。
見るものを惹きつける仕草で現れた転校生は、信長の言うとおり美少女だった。

絹みたいに白くて綺麗な肌。
腰まで届く長い黒髪は艶々と見事なキューティクルを作っているものの、
その重さを感じさせないほど優美。
そして、人形のように整った完璧な顔立ち。

それは…

夢の中で見た―――に似ていた。

糸を張ったような沈黙が舞い降りる。
普通転校生が女の子で、それも美少女とあれば多少クラスはざわめくはずなのだが…

表情を失った俺と、泥のようなじっとりとした視線を転校生と交わす瑠璃の
尋常じゃないオーラによって蓋をされていた。

いったいどれくらいのときが過ぎ去ったか…五分、十分、いや一時間か…

長い沈黙を、明智が咳払いでかき消した。
ずっと据えたように睨み合っていた二人が、不意に視線を外す。
安堵の声が漏れると、教室に張り詰めた冷気は引いていった。

「そ、それでは転校生を紹介するぞ。藤原さん。おねがいします」

瑠璃は俺のほうを向いて、底冷えのする笑みを浮かべた。
元気で向日葵みたいないつも瑠璃の、笑顔じゃない…
いったいどうしちまったんだよ…
瑠璃は俺の腕をとり身を寄せようとして――――

「――――藤原…“ほおずき”です。皆さんよろしくおねがいします」

機を見計らったような転校生の声によって、絡めとられた。

俺は首筋に突き刺すような痛みを感じ、瑠璃は般若のような形相で向き直る。

細身の体を蛇のように大きく見せる、“ほおずき”さんの笑顔だけが印象的だった。

そして…

瑠璃に向けた視線が嘘みたいに優しい瞳になった藤原ほおずきと目が合うと。

――――熱く滾る気持ちが涙となって溢れていた。

2

止まらない。
止めたくない。

この雫…ひたすら頬を熱く濡らした。
「時春、時春!!」
信長が後ろから俺の肩を揺らす。
それでも、感情の洪水は止まらなかった。
“ほおずき”その名を転校生の口から聞いただけで、覚えのない気持ちが、
心臓を熱く揺らして締め付ける。

なんだよ…この気持ち…
“ほおずき”って…
「いつぅ…」
しかし考えれば考えるほど、渦巻く不快感が上半身を中心に発生した。

ズキン…

首筋が痛い。
燃えるように引きつる箇所に手を当ててみると、じんわりと血がにじんでいた。
「時春ちゃん!!」
「大丈夫だ、瑠璃。ちょっと眩暈がしただけだから」
心配そうに覗き込んでくる瑠璃。
しかし、表情には不安とは違う、別の危うさが潜んでいた。
今朝のこと、同じ場所に走った痛みを一瞬思い出す――――が、すぐに打ち消した。
まさか、ありえない。
そんなはずが、夢だろ…
夢なんだよ!!
「時春ちゃん…」
「平気だ。ほら、お前も転校生の話を聞けよ」
指先で流れたものをぬぐう。そうだ…
…ちょっと夢の内容と重なっただけだろ。
俺はあの“時春”なんかじゃないし、転校生も“鬼灯姫”なんかじゃない…

突如涙を流した俺をずっと見つめていた転校生のほおずきさんが、話を再開した。
大きな瞳には、悲しみにも似た色と、深い悔恨のようなものが潜んでいる。
何故だか、危険な感じがした。
本能が、彼女に関わるなと告げている。

「共学の学校で学ぶのは初めてですが、どうぞ仲良くしてください」

しん――――となった空気を払いのけるように響く声。
まるで鈴が鳴ったみたいに美しく、儚い。
やはり胸の奥がずきりと痛む。
ほおずきさんは深くお辞儀をすると、明智に案内されて窓側の席に向った。
―――視線を俺に固定しままに。
一瞥してみると、今にも泣き出しそうな顔でこっちを見ている。
胸の痛みが増した。
「ちょっと時春ちゃん?さっきからどっち見てるの?」
不意に脇腹を抓られる。
物凄く手加減のない一撃だが、いつもの瑠璃に戻ってくれたようだ。
相変わらずの濁った黒上目遣い。
キタコレ、足元から冷えていくような感じですよ。
「安心していいよ。時春ちゃんは、いつもの通りにしてればいいから。
時春ちゃんは、必ずあたしが護るから」
口元を三日月に吊り上げ、空空と笑う。
なにかが、狂い始めた瞬間だった。






「おう時春!!」
放課後、窓側にできた人だかりをぼーっと見つめていた俺は信長に呼びかけられた。
振り返れば逆立てた金髪をいじりながら、信長が満面の笑みを浮かべていた。
「なぁなぁ…転校生、すげぇ人気だよな」
「そうだな」
横目でちらりとほおずきさんを伺ってみる。
どうやら男子から質問攻めにあっているようだ。
それもそうだろう。夏を前に突如公立校に現れた超美少女。性欲と女に飢えた男どもが
放っておくはずないのだ。
ほおずきさんは困ったようにしているが、質問には丁寧に答えているようだ。
何故か、気分が悪くなった。
「ははぁ…時春君…君は瑠璃ちゃんという素敵な彼女がいながらも、
転校生に興味津々でございますか?」
黙れ。瑠璃が部活に行っているからいいものの、本人の目の前でそんなこと言ったら
マジで焼き討ちするからな。
「ぐへへ…まぁそれはそれとしてなぁ。今日は美少女マニアの時春君にとってもいいものを
持ってきたにょろ!」
俺の肩に体重を乗せながら、下卑た笑いを浮かべる信長。
なんつーか、本当に名前負けしているよな、お前って。謝れっ、本家織田さんに謝れ!!
鞄から神速の動きでなにかを取り出すと、これもまたありえないほどのスピードで机の上に並べた。
ケバケバしい装飾と、現実世界では絶対に聞くことができないだろう破廉恥なアオリが踊る表紙。

『脱ぐと凄いいけないメイドさんを緊縛調教。夜の厨房に響く嬌声vol.2』

やたら露出のおおいメイド服を身に纏った16、17歳程度の少女。
黒髪に素朴な可愛い面で、かすかなそばかすが清楚さを演出している。
白い肌と荒縄で、究極のギャップを表現ってか…
またまたマニアックではあるが。間違いなく、エロ本の類だ。
「かっかっか…どうだね、時春君。今日はしっかり君の趣向を抑えてきてやったぞ。
この第六天魔王信長様に感謝するがいい!!」
タイトルからして願い下げです。先ず人間性を疑われるぞ、こんなもん。
正直、性欲をもてあましていない俺には不要の品だ。
てかなんでお前もこんなもの持ってんだよ…お前には…
「黙って受け取ってくれ、時春殿!!」
急に態度を改めるな。
「拙者は最近お上の詮索がキツくて非常に困り果てているのでござる。
そこで頼りになる友人といえば、時春殿しかおらんので候!!」
微妙に間違った侍言葉と謙譲語。お前、一回人生やり直せ。白亜紀から。
「あぁ…その気持ちはよくわかるんだがな…」
俺は視界の端に一つの影を確認。完全に気配を消しているため、背後を取られた信長は
気づくことができない。
――――合掌。
今度は部下じゃなくて愛妾に殺られるがいいわ。
「まぁなんだ…後ろ、見てみ?」
瞬間、ありえないほどの殺気が膨れ上がる。間違いなくSS級の霊力。
戸○呂もB級でびっくりなインフレだ。
「ああああああ、あれ…?」
信長はその妖気に当てられ、下級妖怪のごとく消滅すると思われたが…

 

 

「……………………………………………………ううっ、ひぐっ…ノブくん…」

そこには、
信長のシャツの裾をちょこんと摘んだ――――
侍風ポニーテールが特徴的な美少女が、大きな瞳を潤ませて泣きじゃくっていた。
「ららららららら、蘭?どどどどどうして…こここここにいらっしゃるのですか?」
そう、この小動物を思わせる愛らしさの美少女は何を隠そう信長の彼女。
森蘭(もり らん)ちゃんである。信長の名誉のために言っておくが、正真正銘の女の子だぞ?
そしての彼女、可愛らしいが…実は瑠璃以上の…
「……………きのうだって、さんざん、ボクをだきしめて、あいしてるって、いってくれたのに…
ひどいよっ…ボクにはもうノブくんしかいないのにっ。ノブくんしかいないのにっ!!」
ほおずきさんのところに集中していた男子の視線が、いっせいにこちらに向く。
それほどまでの絶叫だった。
面白いくらいに慌てる魔王様。
「バババッバ、バーロー。ここ、これはだな、とと時春が預かってくれって…」
「うそだもん…藤原くんにわたすところ、みたもん…ひどいよ。ノブくん………
ボクというものがありながら……
いつもいつも…二人だけのときはあんなに優しくて、激しいのに…もうボクには飽きちゃったの?
もうボクじゃなくていいの?ボクみたいな貧弱な体じゃ満足できなくなっちゃったのっ??」
悲痛な叫び。シャツの裾に込められた力が増してます。
あとちょっとで破けるんじゃないかな?それに無意識でやってるんだろうけど…
反対の手が、信長の頸に極まってますよ?
「やっぱり……『脱ぐと凄いいけないメイドさんを緊縛調教。夜の厨房に響く嬌声vol.2』
って……
…おおきいおっぱいのほうがいいんだっ…!!!男の子みたいな体が好きだっていってたのにっ!!
だからいつも前じゃなくて後ろの穴でやるんでしょっ!!ねぇ、違うのっ!!なんとかいってよ!!」
なんていうか、お前…ドンマイ。
大声で性癖を暴露された上に、女子にはありえないほどの怪力で頸を絞められている信長。
二重の意味で顔が真っ青になっている。
そもそも蘭ちゃんは隣のクラスなのにどうやって察知したんだろうか。
愛のなせる業かな?
「ふええええええん!!!ノブくんの浮気者、スケベ、ド変態!!諸刃使い!!!
どうせ藤原くんのこともいやらしい目でみてるんでしょ!!
女の子の中で噂になってるもんっ!!ノブくんが○○で、藤原くんが○○だって!!
でも、でも…ボクにはそんなノブくんしかいないのにぃ!!こんな体にされちゃってから、
いくら手で慰めても、
ノブくんのじゃないと満足できなくなっちゃったのに!!!
ノブくんノブくんノブくん!!おねがい、なんでもしますから!!奴隷でもいいからっ!!
ボクを棄てないでよ!!!!!!」
ぎりぎりと締め上げながら、信長の公開処刑は続行される。ストリート育ちのヤツァ手ぇたたけ。
もう、なんていうか。異次元だな。このクラスは。
「蘭ちゃん?そろそろ離さないと、ほんとに信長死んじゃうよ?」
「えっ?」
俺にいわれてようやく気づいたのか、片手で宙に持ち上げていた信長を放すと、
更に涙を流して喚いた。
「うわああああん!!ノブくんが、ノブくんが死んじゃうよぉぉぉっ!!
ノブくんがいないと、ボクだめなのに、生きていけないのにぃ〜」

あぁ、もう、一生やっててください。
俺は思いっきり溜息をつくと、早々に荷物をまとめた。
こんな超時空にいたら命がもたん。
それに…

窓側を盗み見るたびに。
切ない顔をしたほおずきさんが居て…
胸の痛みは、増すばかりだから。

 

 

 

――――――
―――――――――
――――――――――――

 

どうして、お姉さまがこの世界にいるの?
やっぱり、時春ちゃんの夢は、予兆だったの?…
千年前、あたしから全部を奪っていったお姉さま…
地位も、才能も、器量も、そして婚約者さえも…

愛しい愛しいわたしだけの、“時春”様。

幼いころからずっと運命の人だと教えられて、朝昼晩寝ても醒めても彼のことを考えていたのに…
あの女は…
清春様という婚約者がいながらわたしだけの“時春”様を…横から掠め取るような真似をして…
歯軋りが止まらない。

目の前が真っ暗になってこの世のものとは思えない吐き気が押し寄せる。
せっかく、鬼に魂を売り渡してまで、“時春”様が転生する時代に蘇ったのに…
せっかく、この世界の“時春”ちゃんと、恋人同士になれたのに…
せっかく、二人だけの甘い世界がずっと続くと思ったのに…

どうして、あの泥棒猫は、我が物顔でやってくるの…?

あの時代では叶わなかった時春ちゃんの大きな腕、暖かい胸。
全部、全部あたしのものになったのに。
全部、永久に、すべてあたしと一つになれるはずだったのに…!!!

髪の毛の一本も、血の一滴も、吐いた息も、その視線の行方も、全部あたしだけのものじゃなきゃ
いけないのに…!!!

――――――ダン、ダンッ…

気づけばトマトがぐちゃぐちゃのバラバラに切り刻まれていた。

 

 

あはっ♪
せっかく時春ちゃんにサラダとして出してあげようと思ったのに、台無しだよ。
そうだ…キャットフードだけじゃ寂しいから“猫”の“清春”ちゃんの晩御飯にしちゃおうかしら…
誰からも愛されず、愚かな操り人形だった清春様。
せめて可愛い子猫ちゃんに生まれ変われてよかったですね?

あの時代にトマトはなかったけど、汚い泥棒猫はこんな風にしちゃおうかしら。
だとしたら清春ちゃん。ちゃんとお姉さまのトマトも食べなきゃだめだよ?
お残しは許しません。ほら、あなたの昔の婚約者なんだから、しっかり味わってね。




またあたしの時春ちゃんを連れて行っちゃうなら、もう手ぬるい真似なんてしないから。
今度はあたしが、この手で、この脚で、この爪で…

■■■にしてやるッ――――――――

…もう“鬼の聖痕”は付けたし…
貴女のほうから時春ちゃんにはもう触れないわ…
時春ちゃんに拒絶されたお姉さまの顔…
どんなに醜く歪むのかしら…
楽しみ、たのしみぃ…
すぐにでも…
その薄汚い面、剥がして差し上げますわ―――お姉さま?

こみ上げてくる黒い笑い、背徳の愉しみにココロオドル。
明かりのない台所に、あたしの身長とは不釣合いな大きな影が伸びる。
いけないいけない。
普段は押さえてるのに。
やっぱり、十七の齢に近づくと暴れだすんだね…

「うふふ…とーきはーるちゃーーん!!!ご飯できましたよーーっ!!!」

だから今は、この微笑。
愛する人への、輪廻を超えた花束に変えて――――――嘔吐くくらいに笑うわ。

3

『時春様…時春様…』

脳の裏側で響く声。

『時春様…せっかく輪廻を超えてお会いできましたのに…
どうしてわたしに声をかけてくださらないの?…』

声の主の悲哀が、物理的なものになって胸を襲った。
蛇となってするりと心臓に絡みつき、文字通り締め付けるような感情が体を引き攣らせる。

『約束しましたのに…生まれ変わりた後は、必ず添い遂げると誓いましたのに…』

ぎりぎり…締め付けは強くなる。
肋骨も同時に引き裂こうと、万力で。

『あの忌まわしい、鬼の子め…』

ぞぞぉ…と寒気が背筋を駆け上がった。
体の中を百足が這いずり回るような、言い表せない不快感。
冷気になって身を刻む。

『結ばれるはずだったわたしたちを、千年もの間引き裂いて…
今度は我が物顔で時春様の隣に座っておるか…』

許すまじ、許すまじ…
怨嗟のように呟く。

長い前髪で隠れていた声の主が、不意に顔を上げる。

声色に合った、麗らかな顔はなかった。

おぞましい居住まいをより引き立てるように施された朱の化粧。
刻まれた幾つもの印。

巨木ほどはあろうかという白い大蛇が、錦の単を纏っていた。

『必ずや、貴方様を我が物に…』

すぅ…と縦長の瞳を細める。
感情の薄い蛇眼には、明確な思慕が浮かんだ。
シュー、シューと規則的に吐き出される呼気は腹の底に溜まるように身を凍らせていく。

『必ずや、彼の者に阿鼻叫喚の死を…』

――――瞳の色が強烈な憎悪に変わった。

天地を乖離させるほどの唸り声が響くと、息苦しさに任せて俺は目を醒ました。

「――――――――はっ」

 

 

俺の部屋だ。ほかに誰も居ない。
体に蛇は絡み付いていないし、女の声も聞えない。
荒い息を吐きながら、胸を押さえて呼吸を整える。
なんだ、あの夢は…
「はぁ、はぁ…」
唾液を飲み込んで、渇きを癒す。
それでも張り付くような血の味が、口腔から失せない。
横目で目覚まし時計をチェックする。
深夜三時…

「はぁっ…」

そのままベッドに倒れこんだ。
最近はいろんなことがありすぎて、疲れてるんだ。
瑠璃が急に怖い顔をしたり、転校生が悲しげな瞳でこっちを見ていたり…
猫の清春が、口元を真っ赤に濡らしていたり…

もう、訳がわからない。
誰か説明してくれるなら説明して欲しい。
俺は身を預ける布団の冷たさに包まれ、死ぬように眠った。






「と・き・は・るちゃ〜〜ん!!!朝だよッ!!」

がばぁっと、布団を引っぺがし当社比三倍の騒々しさで瑠璃がやってくる。
はちきれんばかりの笑顔だが、昨日の表情と重なって透いた恐怖を感じる。
本能的な衝動に突き動かされて飛び退いた。
「――――――――」
瞬間、瑠璃が面を伏せる。
くくられたツインテールが瞳を隠して、唇が吊りあがった。
暗いオーラが一瞬にして張りつめ、酸素が部屋から抜けていく。

「…どんな夢、見たのかなぁ…?“彼女”の、あたしに、説明して、欲しいなぁ…」
ぼそ、ぼそ、と呪うように呟く。
恐ろしすぎる。思わず固唾を呑んだ。
「ねぇ、時春ちゃん…?また、あたしにいえないような夢見ちゃったの?」
顔を伏せたまま、瑠璃がにじり寄ってくる。
怖い。怖い。怖い。
逃ゲロ逃ゲロ逃ゲロ。
いつもは痺れるばかりの色気を感じるのに、今日は恐怖しかない。
むしろ今まで存在し得なかった警鐘を心の深い部分が鳴らしている。

――――――――痛っ。

突如首筋に痺れが走り、伝線したまま神経が窄み、俺は全身の支配を失った。

 

「ふぅん…」
「る、瑠璃?」
瑠璃は考えるように指を顎に這わせ、顔を上げて俺を睨んだ。
「そんな時春ちゃんには、お仕置きが必要だね」

呟き、

「昨日ずっとあたしの傍にいるって約束したのに、時春ちゃんは約束破っちゃったね」

誰もいないところに視線を留めたまま、

「うん…お仕置きが必要だよ。うーんときついの…」

腰に手をやり、

「もう他のなにかに目移りできないような、きーーーっついの」

にまぁ…と。
亡霊のように笑う。

「覚悟してね、時春ちゃん。いつもより、もっと多く貰っちゃうから…」

捕食される寸前。瑠璃の唇が俺の首筋に触れる一歩前で、インターフォンが鳴り響いた。

『ごめんください…』

外から控えめに響く声。
鈴が鳴ったように淑やかで、立ち込めた暗雲を一瞬で払ってしまった。

「ふぅん…」

その声をしっかり耳朶に収めた瑠璃は、ゆらりと立ち上がって階段を下りていった。
俺にとっては救世主であったが、なんだか瑠璃の様子が輪にかけておかしくなった。
とにかくヤバイ。
胸が半鐘をあげている。
走れ、走れ、走って瑠璃をとめろ!!
「瑠璃!!」
転げ落ちるように階段を降り、二歩先を歩く瑠璃に手をかけようとして…

「ぐっ…」

急に膝の力が抜けた。
貧血とも違う。
直接心臓を握りつぶされるような不快感と、針で突かれるような寒気が走り抜ける。
俺がそんな風にしているうちに、瑠璃は玄関の扉を開け放ち―――

「おはようございます、ときは――――」

日差しが差し込む玄関には、何故か百合のような笑みを浮かべたほおずきさんがいて…

鬼神のごとく立ちふさがった瑠璃に気づくと、鼻筋に皺を寄せて蛇のごとく瞳を吊り上げた。

「――――――――」
「――――――――」

 

こぉぉぉぉお…と

足元から凍り付いていく空間。

微動もせず、ただ視線を交わすふたり。

「おはよう。藤原ほおずきさん。うちに何の用かな?」

こちらに背中を向けているために顔はうかがえない。
しかし、立ち上る怒気が尋常じゃない空気にピリピリ伝わる。

「あら…わたしは藤原時春様のおうちに参りましたはずなのに、いやですわ…間違えたのかしら…」

ひゅゅゅゅゅゅ…

温度が三十度、湿度が五十%下がった。
初夏なのに、涼しいいや寒い。

「ううん、ここは時春ちゃんのおうちだよ。
でも、あたしは時春ちゃんの彼女だからここにいていいの」

「…………」

藤原さんの面から笑みが消えた、

「…彼女、ですの?…」

「あぁ、彼女って言っても三人称の彼女じゃなくて、こ・い・び・と」

可愛い口調で言ってみてもだめですよ、瑠璃さん。
半音下がってますよ、半音。

「こ、い、び、と?…あらやだ。わたし、庶民の言葉はよくわかりませんの。どういう意味かしら?」

「…………あまりいい気になるなよ。蛇女」

「…………そのままお返ししますわ。鬼女」

眼に見える。
見えるよっ!!
渦を巻く殺気が、二人の頭上で雷雲になってるよっ!!

「あ、あのさ…藤原さん?どうして転校生の君がここにいるのかわからないけど…」

「ほおずきで結構ですわ。時春様」

残ったカロリーをすべて消費して放った一言は、あっさりと返される。
満開の笑みが眩しいのだが、瑠璃の背中から発せられる尋常じゃない威圧感に気分が悪くなった。

「は、はぁ…」

あまりにも良い笑顔に、思わずこっちも破顔する。
代わりに瑠璃が発するオーラが一回りほど大きくなって、
フローリングの廊下に黒い影を落としていく。

「時春ちゃん!!!!!」

 

釣られてヘラヘラしていると、瑠璃が般若のような形相で振り返った。
喉から神経を切り刻むような金切り声をあげ、尖った視線で俺を穿つ。
スカートを握り締める指先は白く変色して細かく震え、唇を割れるほどにきつく噛み締めている。

「いひっ!!」

その恐ろしさといったら、無い。
思わず信長か!!と突っ込みたくなるほど情けない悲鳴を上げ、俺は尻餅をついていた。
振り返った瑠璃はゆらぁりと俺に歩み寄ると俺の顔を掌で掴み、打ち据えるように問い詰めた。
黒曜石のような瞳が嵌っているはずの場所は、血走って真っ赤になっている。

「ねぇ時春ちゃん、前から思ってたんだけど。他の子に目を向けすぎだよ。
あたしが気づかないと思ってたのかなぁ?
  同じクラスの女の子、生徒会長、新任の若い先生、通勤途中のOLさん…
  いっつも厭らしい目でみてるよねぇ?
  あれだけ搾り取ってるのに、まだ余ってるの?いっそのこと気絶するまで試してみる?
  あたしはいいよ。
  時春ちゃんと一緒ならどんなどころで、どんな恰好でも…だからね、時春ちゃん、
  あんまりあたしを不安にさせないでね。
  ただでさえあたしは生理が重いのに、あたしに黙ってオナニーしたでしょ?わかってるんだよ?
  匂いが部屋中に充満してるじゃない。時春ちゃんの牡の匂い。
  ゴミ箱に丸めてポイしただけで隠せると思った?
  それと辞書のカバーに隠したエッチな本とタイトル貼り替えて誤魔化したDVD。
  あたしが気づいてないって今でも思ってるの?
  無駄だよ、あたしには何を隠しても無駄。
  ほんっと、時春ちゃんは可愛いよね。そんな時春ちゃんが愛しくて愛しくてたまらないの。
  だから多少のことは目を瞑ってるけど…
  その娘と仲よさそうに視線を交わしたり、名前で呼んだりするようなことは絶対しちゃだめだよ!!
  そればっかりはあたしも許せないから。今まではちょっとキツくエッチするだけで済ませてたけど…
  もしそんなことしたらちょっと痛い目を見てもらうかもしれないからね?だから、だから…
  こ っ ち む い て!!!!!!」

ほおずきさんの方を向いていた俺の視線を無理矢理自分に固定し、
喰らいつくすようなキスで奪われた。
それはほおずきさんに見せ付けるように深く、熱く重ねられた。

「…………」

そんな俺たちの姿を、ほおずきさんは無表情のまま見つめている。
柔らかさを殺がれた顔。
目の前で起きていること、すべてを網膜に焼き付けるようにしっかりと視線を固定している。
彼女はそのまま大きく肩を震わすと、踵を返して走り去った。

「わ、悪かったよ…」

べっとりと付着した唾液、銀の橋になって俺と瑠璃を繋ぐ。
甘い香りと脳髄に突き刺さる快楽。俺は抗えない。

「うん、わかればいいよ。だから、早く着替えてね」

柔らかい体を押し付けるようにして瑠璃が軽く頬にキスをした。

俺の首筋を優しくなぞる指先は、暖かい。
だがその瞳は、笑ってなどいなかった。

4

「やはり、あの女もいた…」

漏らすように零した言葉は、朝日の作る陰影に吸い込まれていく。
狂ったように大地を照らす陽光…憎い。
挨拶を交わして微笑みあう恋人たち…狂おしい。

小鳥の囀りも、慌しく駆け抜けていく朝の一瞬も、総て私を荒げる一因でしかない。
千歳を越えてめぐり合えた思い人との逢瀬も、これから築き上げていく眩しいばかりの愛の軌跡も、
あの女の存在で崩れ去った。

何の器量も持たぬくせに、媚び諂う事だけに長けた忌々しき妹。
女の皮を被った化け猫、否、泥獄の般若。
父上の寵愛を上手く利用し、先に垣間見られた私を、自分に摩り替えた。
椿香る彼の日、時春様の熱い視線を頂いたのは私だ。
瑠璃、お前ではない。呪いによって転生した鬼子などではない。
時春様は、汚らわしき牝犬の夫となるべき方ではないっ!!

「つぅ…」

感情のうねりを代弁するように、朱の花が顎を滴り落ちる。

「…違う……」
私たちの愛は下らぬ政によってもたらされた偽りの婚姻関係とは、違う。
運命が廻り合わせた悠久の伴侶なのだ。
あの方の指先、視線、温もりは、瑠璃…お前のためにあるものではない!!
瑞々しき唇も、貴様と目交うためにあるのではない!!
私に愛を囁き、肌を這い回り、消えぬ情熱を刻み込む憑代なのだ。

「愛を…愛を…私に、消えぬ、愛を…」

永久にひとつとなり、茨に包まれたたまま時流を漂う。
目覚めて睦み合い、食事をしては目交う。汗と淫蕩な香に包まれながら互いの肌を擦り合わせ、
炎のような快楽を交換する。
そんな私の望みも、前世では成せなかった子も、総て瑠璃の存在で打ち消えてしまう。

「どうして、あの女と仲良くするのですか…?私たちの愛を地獄の炎で焼き払ったあの女と…」

あれほど誓い合ったではないですか、時春様。
なのにどうして、鬼灯の名を呼んでくださらないのですか?

私の想いでは届かないのだろうか?
彼は輪廻の洗礼で私への想いを無くしてしまうほどしか愛していないのだろうか?

 

「違う…」

そんな筈は、ない。
私が化生にまで身を落として蘇ったのも、彼の気持ちに応えるためだ。
時春様を目の前で失って、それでも時の扉を超えられたのは総て彼の言葉があったから。

“生まれ変わりたのち、必ず添い遂げる。必ず鬼灯を愛す“

響く、彼の言葉。炎よりも身を熱く焦がす、誓いの味。

――――――――そうだ。

時春様があの女に現を抜かしているのは、誑かされているからだ。
私は確かにあの女の背に伸びる“鬼影”、を見た。
宿命を操り、人の業を扱う禁忌の術。
あの女がどうして宮廷にしか伝わらぬ秘法を知り獲たのかは判らない。
しかしこれだけは確実に言える。
めぐり合うはずだった我らの肉体を挿げ替え、あたかも妻であるように振舞うあの女が、憎い。

偽りなのだ、時春様が当然だと思われている日常は。
あるべき姿を捻じ曲げて作られた、あまりにもお粗末な虚像。
餓鬼にも劣る作家が書き上げた、三文芝居。

「――――――――そうだ…」

早く開放して差し上げないと、時春様を――――――――百鬼の罠から。
早く助け出さないと、時春様を――――――――滑稽な舞踊から。

使いたくはなかったが、使うしかない。
宿世から逃れるための、墜法を。
鬼の呪いによって魂を抜かれた時春様を救い出すにはそれしかない。
たとえどんなに時春様が苦しまれても、仕方がない。
もう後退適わぬ局面にまで達してしまったのだ。

あぁ、私はなんて愚かだったのだろうか。
あの雌いn、もとい瑠璃は仮にも私の妹。
曲がりなりにも私と同じ血液を宿した女が、一度恋した殿方を容易く解放するはずがないのだ。
夢に躍り出て私を刻み付けることなど、甘すぎた。
時春様を揺り起こして再び私への愛情を燃やして頂くには、最早この手段しかなかったのに。

「時春様…私は、貴方様の誓いを信じていないわけではござりませぬ。ただ、ただ、不安なのです。
  ですから、多少辛抱してくださいまし…辛くても、苦しくても、私が傍におりまする。
誰にも負けぬ、運命すら手折ることのできぬ温もりで、包み込んで差し上げます」

人通りのない朝の登校風景。
私の怨念だけが、浮かんでは消えていた。

 








「時春ちゃん!!!!!!!!!!」
「はい瑠璃様、なんでしょう?」

何度目だろうか。
今日に入ってから瑠璃に数え切れないほどガン睨みをされ、尻を抓られるのは。
いつもは片手で済むというのに、登校途中だけで十回、
学校に着いてからはかれこれ二十二回目である。
まだ二時限目が終わって間もないというのに、チャイムが鳴ると同時に俺は
瑠璃のヒステリックな叫び声を聞く。
普段は他の女の子に目を呉れたりするとこのような仕打ちが待っているのだが、今日は特に酷かった。

“俺が瑠璃以外の存在に気を留めるだけで、怒り狂う”

普段から着信メロディ、留守番電話の受付サービス、そして視聴するテレビ番組までも
女が出演するものは差し止められているものの、言葉を交わしたりするのは認められていた。
事実、そうでないとまともに日常生活を送れないからである。
瑠璃がいくら嫉妬深いとはいっても、その欲求の裏には一抹の常識が潜んでいた。
しかし、とうとうその垣根を飛び越えた瑠璃は、終始俺の行動を監視し、
他者との接触すら許さなくなった。
そして何より一番の変調といえば、首筋の痛み。
昨日までは時折引き攣る程度だったものの、現在では血管が破れそうな激痛を伴う。
それも都合よく、俺が異性のことを考えたときだけに。
一体どういう理屈なのかはわからない。
ただ一言だけいえるのは、それがどうしようもなく不便だということ。
今朝から頭の隅に張り付いて離れない、ほおずきさん。
一端でも思い浮かべるだけで、こうなるのだから。

「あああああああっ!!」

思わず椅子から転げ落ちて、しばらく床をのた打ち回る。
水揚げされた雑魚のような醜態だが、本能が告げる恐怖には逆らえない。
普段なら優しく手を差し伸べてくれるはずの瑠璃も、黒い目線で見下ろすだけ。
クラスメートたちの見て見ぬふりも、そろそろ限界にきているようだった。

「おい、時春…」

とうとう信長が俺に駆け寄る。
当然だろう。
いくら信頼している瑠璃が何も行動を起こさないとはいえ、こいつは心の友と書いてSIN YOU だ。
俺のピンチを見逃すはずが…

 

「おい…お前もなのか?」
「はぁ?」
「いやな、最近エロいの見てないんだろ?とうとう禁断症状が…わかった、貸してやる。
蘭の火炙りを間逃れた、陵辱女教師シリーズを…」

こいつを頼ったのが馬鹿だった。
深刻そうな顔をして突拍子もないことを呟く信長を蹴り飛ばそうとして、
代わりに黒い視線で俺を見下していた瑠璃が応える。

「今は馬鹿の相手をしている場合じゃないの。さっさと失せて」

信じられないほどの凍えた声。

「ハ、ハーイ」
信長は弾かれたように去っていく。
こいつの危険探知機の精度は俺以上らしい。
信長は甲殻類を思わせる見事なエビ反りをかまして、教室外へ脱出した。

さて…
あいつがいなくなると、瑠璃の公開調教ショーを止めるものはもういなくなった。
いよいよ冗談が利かなくなる首筋の灼熱感に、俺は毒づきながらも、椅子へ這い戻る。

「なぁ、瑠璃。助けてくれてもいいんじゃないのか?恋人が謎の激痛に苛まれているんだぜ。
  変なビョーキだったら、どうすんだよ。もしかして、駅前のケーキ屋の定子ちゃんかな。
ヤリマンって噂だし。
だったら商店街の小町ちゃんだって――――――――つっっっっ!!」

意識が白濁し、重力が反転したように俺は床に再度叩きつけられる。
もう、痛みというレベルを超えていた。
神経を直接鏝で掻き回すような、落雷と錯覚するほどの痺れが全身を駆け抜ける。

「…………冗談でも、そんなこと言わないで」

氷点下の視線。
黒い瞳に、最早感情はない。
どこまでも暗く沈み、泥濘を思わせるほど歪んだ濁流が渦巻いている。

刃で薄皮を剥ぎ、目の前で炙られるような時間は昼休みまで続いた。
どこか調律を狂わせて行く日常。
それは、初めてあの夢をみたときから始まった。
旧き千歳を越えた因縁。

俺は夢物語だと、消沈していく思考の隅で罵ることしかできなかった。

5






思考という情報の海に、熱い吐息がノイズをかける。
俺は無骨な屋上の床に押し倒され、小さな手のひらで顔面を固定されていた。

「はぁ、はぁっ…」

中天の空に響くのは、淫魔に憑かれたような瑠璃の喘ぎ声。
絶えず舌と舌が混ざり合う音をBGMに、下半身が激しく律動する。
“はじめから俺のため”用意されていたように、ぴったりとブツを呑みこんでいる瑠璃の秘唇は、
薄い陰毛が陽光に透けてこの体勢でも伺い見ることができる。
だが俺が視線をそちらに遣る度に、首筋に痺れが発生し、瑠璃が激しくうごめく。

――――――

おかしくなりそうなほどの快楽。
黒い理性のブロックが白く塗りつぶされ、徐々に射精感が高まっていく。
もう、何度目だろうか?
そう逡巡するのすら馬鹿馬鹿しいくらいに、ただ気持ちがいい。

「あ、あはっ、ときはるちゃん、き、きもちいぃ?」

瑠璃と溶け合うのはとっくの昔に日常の一部になっていたが、
これほどまで凄まじい交合は初めてだった。
杭をより深く自分の膣(なか)に打ちつけ、瑠璃は俺という存在を体に刻み付けている。
視界には彼女の――――熱毒にうなされるような頬と、じっとりと絡みつくようで、
それで淫蕩な瞳しかない。
他の存在は全て断絶され、音という部外者さえも淫水が弾けるそれによって、
ただ欲望を高めるだけの踏み台に成り下がっている。

「う…くぅ…」

芯から惑わすような嬌声がなければ、瑠璃は俺を使って自らを傷つけているようにしか見えない―――
それほどまで激しい上下運動だった。
自分を苛む何かを削ぎ落とすように俺を舐り、愛し、この胸板へ深く沈み込む。

そう、たしかに、“狂っている”

何が狂っているのか、狂ってしまっている俺の頭では、解を求めるうちにまた―――狂ってしまう。

「時春ちゃん、時春ちゃんッ!!!!」

頬を締め付ける掌が、ごく自然な動きで喉仏に移動する。
そのまま、ぎゅうううぅぅ…と白魚のような指が絡まると、
回転数の上がった俺の心臓がガソリンを求めて揺れ喚く。
緩やかな指先の愛撫。
死へといざなう甘美な快楽は、脳へ思考の光と引き換えに、
煮えたぎるような嫉妬の麻薬を塗りつける。

ひりひりと頭蓋の裏を引っ掻き、細い血管を、手繰って千切る。
蝋に点った小さな炎は、業火のように酸素を燃やし尽くしていく。

「る、り…るり、る……り?」
「どうしたの?時春ちゃん。気持ちいい?ねぇ、気持ちいい?」

そのどろどろと濁った瞳。
いつもと変わらない、真っ黒で純粋な瞳なのに、奥に透けた憎悪がある。
歳を経て何度も何度も上塗りされた感情は、分厚く積もった灰土のように爛れ、燻っている。

 

「気持ちいでしょ?こうすれば、あたし以外誰も見えなくなる。あたし以外愛せなくなる。
  あたし以外の名前を呼べなくなる…
  ねぇ時春ちゃん。あなたの恋人は、他の誰でもない、このあたしなの。ずっと決まっているの。
  昔から。
ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと
  昔から。
  何度この思いを舌に乗せても、何度胸に杭を打ちつけても、どれだけこの掌が罪で汚れても、
  絶対に消えなかった大切な想いなの。
  真っ赤な、お華みたいに可愛くて、真っ黒な夜空みたいに綺麗なの。
  千年降り積もって、ようやく時春ちゃんに届く大切な想いなの………」

瑠璃は極まった喉から漏れる微かな息さえも、深い口付けによって奪っていく。
むぅ、ちゅ…じゅうぅ…という淫蕩な音に、いつかの言葉が共鳴する。
瑠璃の唾液を味わうと思い出す―――首筋を突き刺す痺れにも似た、激情。

『時春ちゃんは、全部あたしのものなの。顔も、腕も、脚も、お○ん○んも、体を巡る真っ赤な血も、
  吐いた息も全部、あたしのもの』

呼吸がヤバイ。
心臓はSOSのシグナルを打ち違えたのだろうか、先程からエンストしたような情けない音と共に、
とっくに停止している。

きっと頭を巡るこの言葉さえも奪われる。
瑠璃に、全部、総て、何もかも。

脳内を走る細い電流も、何れ瑠璃に喰らい尽くされる。

“   時   春   ち   ゃ   ん   ”

 

そうダ、コんna、fuう■―――――――――――――――。

 

 

 

*   *   *   *   *   *   *   *   *

目の前の惨状をどう言葉で表していいのか、呆然と活動を停止した思考の中でわたしは模索する。
今日。
わたしは鬼の呪法によって苦しむ時春様を、下唇を噛み締めながら見つめ続けた。
わたしと、あの女の瞳にはしっかりと映っているだろう…忌々しいほど深く根を下ろした、
業魔の印が。
何度噛み切ったかわからない唇によって、咥内は鮮血の海と化した。
きっとこのままならリップやルージュをせずとも、炯炯とこの唇は赤く色づくはず、

そう。わたしは、ただ見つめることしかできなかった。
―――鬼の見えない手に引かれて、薄穢い嫉妬の海に焼かれる時春様を。
わたしは、ただ睨み付けることしかできなかった。
―――千歳を乗り越え、災厄にも劣るほど忌々しい殺意をあの女へ抱いて。

だから、この光景は、とてもからだと、ココロに悪い。

『あ、あはっ、ときはるちゃん、き、きもちいぃ?』

分厚い鉄の扉の向こうから、耳障りなほど伝わる男女の艶声―――
どうにも、このわたしを動かす青白い炎に、嫉妬という薪をくべ、怨念という渦へ昇華させてしまう。

奥歯が、がちがちと鳴って、目の前を赤い火花が散る。

こぶしが、ぎりぎりと鳴って、腕の付け根から暴力という洪水となって堤防を押し流そうとする。

膝が、がくがくと震えて、殺戮のバネを十分に筋肉へ伝導する。

薄く開いた鉄扉の向こう、広がる青空とは正反対に、暗く淀んだこの空間。

時春様が数度腰を跳ね上げ、絶頂の飛沫があの女の顔面に吹き上がると、
わたしは風のごとく飛び出した。

―――見えなかった、と思う。

大きく振りかぶったかと思えば、掌の小さな痺れと一緒に、乾いた音が響き渡った。

ぱぁん。

打ち抜いたまま硬直するわたし、時春様に跨ったまま打たれた頬を押さえる汚らわしい犬畜生。

スローで犬の奥歯がぎり…と噛み締められると、濁った残像を残して再度乾いた音が響く。

ぱああぁぁん。

青天に相応しい爽やかな音。
場違いなほど湿度の失せた空気。

ひりひりと痛む頬を押さえ、わたしは何度拭ったか判らない口の端を、
痺れの残滓が伝う掌でこすり落とした。

 

「泥棒猫」

「なにか用かしら、捨て猫さん」

血が付いたままの右手を、再度打ち抜く。

―――乾声。

左頬を衝撃が襲う。

―――乾声。

打ち抜く。衝撃。打ち抜く。衝撃。打ち抜く、衝撃。打ち抜く、衝撃。
打ち抜く打ち抜く打ち抜く。衝撃衝撃衝撃。うちn、衝撃―――
乾いた音乾いた音乾いた音乾いた音乾いた音かw―――

 

「…はぁっ、はぁっ…早くそこからどきなさい、泥棒猫。そこはアンタの場所じゃないでしょ、
自分のおトイレの場所も忘れちゃったの?
  本当にお馬鹿な子猫ちゃん…昔から、何も変わってないわね。
困ったらすぐ不機嫌になるところとか、おつむがちょっと足りていないところとか…
  変わってない。変わってないわ、愚かな妹…わたしの影に隠れて、
こそこそ世界を呪うことしかできなかった馬鹿な―――」

「うるさいっ!!!!!いまさら何しにきたの!!貴女が泥棒猫でしょ、根暗女。
ちょと綺麗だからってみんなにちやほやされて…
  “時春様”だってアンタの上面しかみてないんだから!!そうよ!!時春ちゃんが今の顔見たら、
なんていうでしょうね?
鬼灯なんてかわいいものじゃなくて、カボチャかしら!!
  それほど情けないわよ、アンタの顔!!!真っ赤に晴れ上がって、
  熟しすぎて腐ったカボチャみたい。
  昔はアンタに盗られたけど、もう渡さないんだから。絶対に、絶対に!!!
だからさっさと熟れすぎて腐り落ちた穢い感情抱えて谷底に沈んでなさいよ。おとなしく。
  今度はちゃんと、火葬してあげるから!!!」

憎い、憎い、憎いっっっっ!!!
ふてぶてしくも腐れた股間で時春様を誑かして尚もわたしに逆らう…
愚妹の分際で馴れ馴れしくもわたしの肌に触れたばかりか、かのほどに打ち果てるとは…

「おのれぇぇぇぇぇぇっ!!!!!!!!」

掴みかかり、鬼の角を思わせる髪の束を引きちぎる。

「気持ち悪いのよ、ぶつくさぶつくさ一日中つぶやいて、
アンタ自分が根暗だってこと気づいてないの??
  ホント、気持ち悪い。吐き気がする。その真っ赤に染まった唇も、
握り過ぎてしわくちゃになったスカートの端も、全部みすぼらしい」

 

お返しとばかりに、則頭部に垂れた髪を引っ張られる。
反対の爪はわたしの首筋に食い込み、浅く肌を傷つけた。

「こんな眉毛、今の時代流行らないわよ!!気づいてないの?いい加減旧いって。
夢枕に立ったって誰も応えてくれないわよ、この蛇婆!!」

「ああああああああああああああっ!!!」

二人でもんどりうちながら、硬い床をボールのように転がる。
熱くうねり過ぎた思考が邪魔をし、殺意をうまく指先に伝えられない。
腕に篭める力よりも、殺気立つ顔筋だけが暴走する。

「死ね、死ね、死ね!!!」

からだ全体を使って、瑠璃の頭を石畳に叩きつける。

「死ぬのはオマエだ!!!!!!」

腹腔を何度も蹴られ、息が詰まる。
しばらくすると呼吸に刺すような激痛が混ざる。
切り裂かれるような息に変わっても、わたしは瑠璃を打ちつけるのを止めない。
瑠璃が死ぬまで、打ち付けるのを止めないッ!!!

ごすっ、ごすっ、ごすっ…と鈍い音と共に、頭が割れて確かに朱が飛び散る。
このまま、このままやれば…禁法を使わなくとも…

「や、いた…ときは、る、ちゃん、た、すけ…」

がすっ、ごすっ、ぼすっ…

肉が潰れるような鈍い音。
いよいよ剣呑なものへと変わり、わたしの動きはさらに加速する。
あと少し、あと少しで…

「うふふふ、時春様が、貴女みたいな豚、助けるわけないでしょッ―――
  おとなしく、畜殺されろッ―――――――――」

止め。
と念じながら、べったりと顔面をぬらす朱化粧に引きちぎられた黒髪を大きく引き寄せ、
石畳に叩きつけてその硬い頭骨からあふれ出す鮮血交じりの腐れた脳漿を描き出してやろうとして…

 

なぜか思い切り左頬を殴りつけられるわたしがいた。

 





窒息プレイで卒倒させられ、呑気にも目を覚ましてみれば掴み合って
石畳に頭を打ちつけられている瑠璃がいた。

側頭部で二つにくくった黒髪はほどけ、赤く染まった白い面に張り付いている。
赤…って、血??
なんで瑠璃が頭から血を流して…

ようやく真剣を取り戻した頭で確認すると、瑠璃と掴み合っているのは
転校生の藤原“ほおずき”さんだった。
鼻面に皴を刻み、蛇のうろこを思わせる青筋を顔全体に浮かべた彼女の形相は、凄まじかった。
不自然なほど腫れ上がった頬に、口からばたりばたりと零れる血の塊。
機械的な動作で瑠璃の頭を振りかぶるその姿と、狂気に囚われた瞳は間違いなく危険を伝えてくる。

なんで、瑠璃が、“ほおずき”さんに殴られてるんだ?
どうして、瑠璃と、“ほおずき”さんが、こんなにも凄惨な表情で、罵り合っているんだ??

冷静を取り戻したと思った脳は、あまりにも突拍子過ぎる光景に再度フリーズする。
それでも必死に頭を振って再起動を果たすと、俺ははじかれたように起き上がった。

何より、瑠璃がヤバいのだ。
俺の幼馴染で、大事な彼女の瑠璃。
たとえどんな仕打ちにあろうが、どんなに嫉妬深くて独占欲が強かろうが、
目の前で苦しんでいる様を見て冷静でいられるほど俺も日和ってはいなかった。

色を失っていく瑠璃の瞳。
ヤバい、本当にヤバい。

“瑠璃、ほおずき

“瑠璃姫、鬼灯姫”

そして俺、“時春”

夢の登場人物、照らし合わせたように現れた人々。
生き写しの面、“あまりにも都合がつきすぎる現状”

「ぐっ…」

頭痛が襲う。
全身を弛緩させようと、まるで麻酔のように体の芯から崩れていく。

はやく、いかないと、俺の、瑠璃が、俺の、瑠璃が…

この俺、時春の、瑠璃が…

「や、いた…ときは、る、ちゃん、た、すけ…」

 

 

『時春は、千歳廻りた後、必ず鬼灯と交わる』

頭痛が、言葉に変わる。
しらねぇよ、そんな約束、しらねぇよ。

俺は知らない、知らない、知らない!!

『時春、しかと見よ。お前の瞳は、どちらに向けられるべきなのか』

しらねぇよ、“時春”

てめぇの事情なんて、しらねぇよ…

押し付けるんじゃねぇよ…
女々しいんだよ、うざったるいんだよ!!
云いたいことがあるならはっきりいいやがれ、俺の頭じゃなくて、耳に直接言いやがれ!!

『時春、「ときはる…ちゃん…、たすけ、て…」

 

気づけば思い切り転校生の顔面を殴っていた。
この際女だからとか、そういう考えは総て抜きにして、俺は思い切り拳を振りぬいた。
骨と骨がかち合う感触。肉が潰れる感触。
吹き飛びながらこちらを魂が抜けるような瞳で射抜く転校生の姿が焼きついたが、
捨て置いて瑠璃に駆け寄る。

「瑠璃、瑠璃!!!」

「あ……時春、ちゃん…やっぱり、たすけて、くれ…たね…やっぱり、ときはるちゃんは、
あたしを…選んで、くれたんだよね…うれしいよ、うれしい…」

血に塗れた顔で、それでも健気に笑う瑠璃。
いつも俺を高圧的に見下ろす態度とは違う。
初めて見るような、心の底からでた笑顔、そう思わずにはいられない輝きがあった。

「瑠璃、早く、助けないと、病院、保健室か?!!」

「ときはるちゃん、やっぱり、あたしの、だいじな、だいじな…ひと、
やっぱり、あたしだけを、あいして…」

「説明は後でしてもらうとして、とにかく急ぐぞ!!」

まったく会話がかみ合わないが、羽のように軽い瑠璃を抱き上げると、俺は疾走する。
満身創痍だというのに、とてもうれしそうな瑠璃の表情。

背後に纏わりつくじっとりとした瘴気には、気づかないフリをした。

 





あ、れ…?
何でわたしは屋上に横たわっているの?

何でボロ切れみたいに転がっているの?

ココロに開いた穴が大きすぎてわからないよ、時春様。

あの女を殺して誓いを果たすのではないのですか?時春様?

どうしてわたしの邪魔をするのですか、時春様?

そう、うん、ええ…

何で、なんで、ナンデ、貴方様が……

死にかけの猫をかばって“千歳の華”であるわたしに、容赦ない拳を見舞うのですか?

「あは、あはははは、アハハハハハハハハハハハハハッ!!!」

あの誓い、うそなの、時春様?

炎の中で、わたしを優しく抱きしめて、囁いてくれたじゃないですか。
薄れ行く意識の中で、ちゃんとわたしの指に絡めて下さったではないですか…

酷い、あまりに、あまりに酷すぎる。

どんな悲劇に比べても、こんな結末は寒すぎる!!!

たとえ数瞬といえど、貴方と離れていた間は、どれほど胸が泣き叫んだことか、
まったく伝わっていなかったようですね?

時春様、時春様ッ!!!!!

残酷すぎる、残酷すぎるよ…

こんな現実、酷すぎる…

 

「絶対に、認めない…」

もう、あれを―――

 

 

*   *   *   *   *   *   *   *   *

 

「また、この夢かよっ!!」

罵倒に返すものはなく、ただ闇に吸い込まれていくだけ。
胸を締め付けられるような恋しさに、俺は目を覚まし、再びそれが夢の中だと気づく。

どうして、こんなにも苦しく、愛しい?
どうして、こんなにも愛しく、苦しい?

ただ二人は好きあっていただけなのに、何故世界はそれを引き裂こうとする?
所詮ただ一人の人間、肉の塊。時の流れには逆らえない。
密かに偲ぶ恋は、夜の中に焉わるしかない。
人知れず、かなう事無く、記憶の中だけに埋没していく。

――――だからこの涙は時を越えたのだろう。
美しく散っていく思いの中で生まれた誓いは、内側から焦がす様に俺を締め付ける。

「ちくしょう…」

普段なら涙は乾いているはず。
なのに、今日だけは悲哀の残響が手のひらにとめどなく零れ落ちていく。
止まらない、止まらない、止まらない。
俺はあいつじゃないのに。あの人は、ましてや瑠璃を殺そうとした転校生じゃないのに!!
目蓋の裏に焼きついた彼女の姿に、発火するほどの愛しさを覚える。

「あれだけ瑠璃に言われただろう??俺は!!俺が好きなのは瑠璃だ、瑠璃なんだよ!
  “時春”は関係ない!!」

言い聞かせるように叫んでも、喉が虚しく渇くだけ。
はぁ、はぁ…
瑠璃、瑠璃…

“駄目です、その名を、呼んでは駄目です。時春様、どうか、私の名前を…”

“だまされているのです、時春様。ですから、先はあのようなことを…”

“あの女同等、わたしにも、後がありません。だから、どんなに苦しくとも、
誓いを忘れないでくださいまし…時春様…”

“瑠璃”

何故かその名前を舌に乗せるたびに、頭が割れそうに痛い。
視界が回転し、脳内に声が響く。
割れそうな不協和音、猛る嘔吐感。
縋る様な、焼けるような、切迫する怨念が身を締め付ける。

『時春さまぁ…時春さまぁ…私を捨て置くなど、許せませぬ。
あれだけ愛を誓い合い、あれだけ睦み合いましたのに、あのような女とぉぉおおお…』

「がぁあああああああっ!!!」

 

頭を振る。
雑念を追い出す。
奇妙なほど重なる転校生の姿と、鬼灯姫。
そして、立ち上る白大蛇。
伏せた目が、金色の目が、輝くごとに脳を軋ませる。
真っ赤に晴らした頬、血溜まりと化した白目に、閃光が宿る。

『時春さまは、私のもの。私も、時春さまのもの。どうして、どうしてぇ…』

「あ、あ、あ…」

『私を見てください。私を見てください。私を見てください。私を見てください』

「や、メ、ロ…」

『私を、鬼灯を、鬼灯だけを。愛して、愛して、愛して…!!』

――――き、は…ん。

――――――――とき……る……ん…

――――――――ときはるちゃん!!

「「     時春ちゃん!!!     」」

「はっ――――――――」

全力で身を起こす、なによりも先に確認しなくてはならないこと。

それは――――――――

顔を巡らす。
薬、包帯の匂い。
病院だ。
窓側の、一番奥の、爽やかな風の吹き込む場所。

病室のベッドの上。
白い部屋に似つかわしくないほどの笑みを浮かべた少女。
そんな彼女に縋り付くように伏せている俺。
顔を上げると、その少女と瞳が重なる。
あぁ、たしか■■だ。
黒い黒曜石を思わせる、深く、慈愛にあふれた輝き。
その綺麗な瞳が、溶け落ちそうなほど潤んで―――

「時春ちゃ…」
「お前、誰だ?」

と、俺は言った。

6

『京の櫻も、こんな風に美しかった。きみにも見せてあげたいよ。
あれを見れば、今みたいに泣くこともないだろう。
だから微笑っておくれ、瑠璃姫。可愛い御顔が台無しだ』

櫻が、舞っている。
力強さ、躍動感。
その総てが混在し、咲き誇る薄い花びらと同じ隆盛を誇る藤原家。
京で権力を思うままに振るい、もはやこの地上に双ぶ者がないほどの栄華を掌中に納めていた。
そのせいか、藤原家の後釜を狙う者、取り入ろうとする者、隙を見て権力を奪い去ろうとする者…
その名の下には、人の面で醜さを隠した悪鬼たちが砂のように跋扈していた。

だが、都の―――万別の欲望が練り上げ、怨念にまで昇華させたはずの空は、
それでも蒼かったらしい。
人々の淀みなど夢幻が如く見下ろし、
己の歩みでどこまでも流れていく層雲たちは哂っているのだろうか?
宮中ですれ違う者は互いの牙を唇の裏に隠し、
笑顔で杯を交わす兄弟は野望という毒蟲を舌根に飼っていることを。

――――――。

はらり。
一片、薄紅色が零れる。

頬を撫でる母の指先のような春の風が、駆け抜けた。
矢張り流れる春風も、人の事情など知らずに思うがまま。

あたしは満開の花がその風で散ってしまわなかったことにほっと胸を撫で下ろすと、
反対に冷えて沈んだ胸を掻き抱く。
とても満たされているはずなのに、なぜか心には大きな風穴が開いている。

咲き誇るほど歪み、崩れていく大きな土台。
見れば見るほど、叶えば叶うほど、腐臭を強くする夢。
手を伸ばせば離れ、触れれば折れる現実絵。
渦を巻く純粋な頃の夢。
人々の最初(おさな)き頃の願いは、黒く澱んでしまった。

そう。
今も青空が装う白い雲のように流れるまま京から逃れてきた一人の青年は、とても優しかった。

『瑠璃姫、これで涙をお拭きなさい。こんなに綺麗で風にも怯まなかった櫻が、散ってしまうよ。
  可愛らしい娘が何時までも泣き腫らしていれば、花だって微笑っていられない』

一斉に咲いた花を櫻の笑顔に喩えるその人は、とても美しい。
中央貴族の出身であるにもかかわらず、政争に破れてこの地までやってきた。
柔和で触れる指先はとても繊細なのに、体つきは屈強で男性的な色気を放っている。
笑顔のたびに綻ぶ口元、細められるたびに安らぎという焔を翳す瞳は、どこまでも澄んでいた。

彼のほうがあたしなんかよりずっと、見事に開いた花々に相応しい。

そんな、見る者を自然と惹きつけてあっと言う間に取り込んでしまうような男性。
彼は、あたしの婚約者だった。

『だって、あたしは、姉さんみたいに綺麗じゃないし、身体だって…』

ぽん、と。
頭に置かれた手のひらはとても温かく、大きい。
涙でゆがんだ世界の真ん中に、彼がいる。
凛々しい眉毛を少し困ったように下げ、厚い唇を緩ませて。

『だって、だって、あたしは…』

彼の顔を見ていると、割れそうな心にもっと大きな亀裂が生じる。
優しさに触れ、その温情を胸の中で感じるたびに、溝は深く大きく広がっていく。

“相応しくない”

そう思ったのは何時のことだろうか。
頭に姉の姿が浮かぶたびに、心の温度は下がっていく。
だが、同時に思ってしまう。

『瑠璃姫。わたしの瑠璃姫。きみは美しい。他人の姿に自分を重ねて、
小さき胸を軋ませているきみは、どうしようもなく美しい。
  微笑っておくれ、瑠璃姫。その美しさは果敢ない。見るほどにわたしは不安になってしまう。
  いつか、この花のように散ってしまうのではないかと…』

遠い目をしながら、しなやかな枝先に視線を移す彼を見て、直感的に悟った。
いずれ彼はどこかに行ってしまうだろう、と。
眩しすぎる笑顔のまま暁光に包まれて、どうしようもなく遠い場所へ。
燃え上がる紅に身を染め、時折こちらを振り返りながら薄く微笑む。

伸びた影は笑う。
すまない、瑠璃姫と。
曇る青空は泣く。
君じゃない、瑠璃姫と。

 

櫻の花弁が一片、二片、散った。

まるであたしの心を見透かすように、涙の裏に隠した泥をあざ笑うように、
ゆっくりと地面に吸い込まれる。

かたん―――

 

土色と交わった薄紅から視線を移すと、そこには見知った人物が立っていた。
踝まで伸ばされた墨のように深く、それで月光のように静かに流れる黒髪。
覗き込めば吸い込まれ、永久にその輝きに囚われてしいそうな瞳。
目前に広がる櫻の花々。
その一片を貼り付けて、赤く染め上げたような唇は静謐な色気を放っている。

完璧。

そう評されるのがもっとも相応しい美貌を持った女性――――――

『鬼灯姫』
『お姉さま』

ほぼ同時に重なる声色が示すとおり、その人はあたしの最愛で、最妬の姉であった。

『瑠璃、こんなところにいたの?お父様が探していますよ。すぐに部屋へ向かいなさい』

その声は鈴が鳴るように流麗で、その場の空気を塗り替えてしまう。

『でも、今は時春様が…』
『お父様の命令と、あなたの事情、どちらが大切なの?』

ぴしゃりと蓋をするように言葉尻を閉めると、美しい人はしゃなりと歩みだす。
あたしを射抜く瞳の色、浮き上がってそのまま絵になってしまいそうな居住まい。
どうあがいても届かない。
部屋の隅で震えることしかできないあたしには、たとえ千歳経ようとも。

『あら…』

風がざわめくと、通り雨のように桜色が一斉に舞い落ちる。
静かに泣き叫ぶような残響を置いて、青空へ向けて彼らは飛び立っていく。
偶然にも頬に降り立った一片を白魚のような指で絡めとると、
姉は艶やかな吐息に乗せてそれを見送った。

『あなた独りだけ取り残されたら、気の毒だものね…』

桃色に乗った桜色は、遠くを目指して流れゆく。
そんな視線の先、魅せられた人がいた。

『瑠璃、早くお行きなさい。時春様にも迷惑がかかるわ』

吐息に乗った言葉は柔らかに耳朶を撫でる。
春風に混ざる仄かな香が鼻腔をくすぐると、姉は去っていく。
“あたし”の時春様に、媚を含んだ不快な視線を残して。

 

*   *   *   *   *   *   *   *   *

目の前の女の子。
太陽の光を受けてしっとりと輝く白い肌に健康的な肉付きの体、そして黒目がちの大きな瞳。
側頭部から垂れ下がったツインテールは…
とても見覚えがあるのに、記憶のかけらを拾い集めるたびに頭のレンズが焦点を見失う。

――――――頭痛。

やがてぼけたレンズはどこまでも歪んでゆき、纏まりかけた思考は靄となって四散してしまう。

「――――――え?」

少女の顔から、感情が抜け落ちた。
まばゆいばかりの微笑は消え去り、代わりに崩れ落ちそうな不安が広がっていく。

「時春ちゃん、何言ってるの?おかしいよ。あたし、あたしだよ、瑠璃だよっ!!
幼馴染で最愛の彼女で、ずっとむかs―――――」
「ごめん、きみのことがわからない。それに、俺の想い人は鬼灯、ただひとりのはず…」
「そ、ん…な…」

俺は正しいことを言っているはず。
間違いがない。それよりも、鬼灯はどこだ?
いつも一緒にいるはずなのに、どうして彼女の温もりがない?

「鬼灯はどこだ?彼女がいないと、俺は…」

頭の裏にこびり付いたまま離れない彼女の声。
俺はもう、“千歳の誓い”を違えることができない。
暗い谷底で打ち震える彼女を、捨て置くことはもうできない!!

「鬼灯!!鬼灯はっ…??」

―――――衝撃。

目も前が歪んだかと思うと、足元が泥に嵌った様に緩み、ハンマーにでも殴られたように体が舞う。

転んだ。
転げ落ちた。

見えない衝撃に全身を撃たれ、汗で体に張り付いたシーツを引き裂きながら、俺は地面に転がる。
冷えたフローリングに頭を打ち付け、俺は骨から脳へ伝わる痺れによってようやく我を取り戻した。
しかし冷静とは程遠い。
飴色の思考だけが目前を示している。
おかしい。
とにかくおかしいことが多すぎる。
自分がこうやって散らばっていることすら疑問の範疇で、
下唇をかみ締めながら俺を見下ろす少女の姿も何故かばかばかしい。
どうして、なぜ?
己に問うたびに回答が遠ざかる。

「冗談、でしょ?…時春ちゃん…また、いつもの、悪い、嘘だよね?…」

手加減できないから、ちゃんと本当のこと言ってよ。と、ツインテールの少女が零す。
側頭部から垂れ下がった髪は彼女の表情を覆い隠し、差し込む陽光を闇に閉ざすかのように冥い。
握り締められた拳、折れそうなほど細く白い腕には生々しい包帯。
見覚えがありすぎる。
知りすぎているだけに、霧が深く光を閉ざす。
薄い唇の味、柔らかな太股の感触、腕枕で弄んだ黒髪の皇かさは…

「鬼灯、鬼灯だ。君がわからない。俺は、時春?ふじわらのときはる?
じゃあどうして?どうして私はここにいるのだ?
  莫迦な、赤に消えたはず。私は紅に喰われたはずだ。なのにどうして私は…」

口が意味不明な語句を零す。
己の支配すら失った俺は、頭を抱えて唸ることしかできない。
白い病室と交互に頭の中で混ざり合う、どこまでも赤い風景。
熱い。
体が熱い。
燃えるように、胸と頭が熱い。
だが迷走する意思とは反対に、体はどこか知らない場所に向かって走り出す。

もう、押さえることができないのだ。
夢と現実、過去と今が混ざりあったこの俺には。










目の前で起きている光景を信じることができない。
手に入れた。自分は確かに手に入れた。そして、受けた。愛を受けたのだ。
自分は間違いなく彼の愛を受けた。千年前に手に入らなかった真実も、
思い焦がれあこがれ続けた理想も、彼に抱かれることによって、獲た。
なのに、どうしてここまで来て調律が狂う?
鬼の刻印を使って確かに彼を縛り付けたはずなのに。
敗れ得ぬ理で彼を縫い付けたはずなのに、
どうして彼はこうも云ってはならないことを容易く口にする?
こんなに好きなのに、身が焦げ付くほど、鬼に心を売ってまでも彼を愛しているのに!!
どうして届かないのだろう。
どうしてあたしの思いにいつも中途半端なの?
結局何も手に入らない。
生まれ変わって幸せな環境を手に入れ、光に満ちた世界を手に入れた。
美しくなった、可愛くなった。
でも―――――

どうして一番大好きな人はあたしのことを愛してくれないのだろう。
どうして一番大好きな人は最後の最後にあたしをうらぎるのだろう。

鬼灯?“私の想い人は鬼灯”?
そんな莫迦な、有り得ない。如何に?

とうとう刻印に送り込む意思でも制御できなくなった時春ちゃんは、あたしの目の前から走り去った。
熱に浮かされたような瞳と、知らない未開を掻き分ける赤子のように。

追う気にもなれなかった。
こんなにあたしは時春ちゃんのことを想っているのに、こんなにも“時春”様を想っているのに、
結局彼には届かない。
そう考えると、鬼灯と時春ちゃんへの怒りよりも強い悲しみが、津波のように押し寄せる。

いつか櫻が散ると同時に、あたしの目の前から彼が消えたことを思い出した。
微笑んでいられなくなった桜は、蒼く地面に堕ちていくしかない。
これから訪れる新しい季節、時代のために。

結局あたしは自分自身という殻を脱ぎ捨てることができなかったのだろう。
煮えた油のような感情を胸に抱いている内は、彼を上手に愛することなんてできなかったのだ。
たとえ何度生まれ変わろうと、何度彼と回り逢おうと、あたしがあたしでいる以上、
同じように接することしかできない。
醜い劣等感を覆い隠すように、胸の炎に身を任せ、ただ嫉妬と独占欲を燃え上がらせる日々。
彼がいないと不安になり、突然疼きだす体。

離れていくのは、きっと道理なのだろう。
結局あたしは縛り付けることでしか彼を愛せない。
虚勢を張って自分の弱さを覆い隠すことでしかキモチを表現できないのだ。

そう考えると灰になった花びらに、冷たい雨が零れ落ちる。
しっとりと心を這うように、開いた隙間を流れるように、悲哀が体を満たしていく。
もう、辞めよう。
悲しすぎる輪廻から離れよう。
もういっそ、こんな悲劇しか踏めぬ靴と、空虚しか得られないドレスなら、脱ぎ捨ててしまおう。

あたしは目蓋を閉じて―――――

浮かんだ鬼の表情に支配を奪われた。

“なぜ、諦める”

どくん…脈打つ。

“時春様は、あたしの婚約者なのに”

熱い。身体が熱い。冷えたはずの胸に、溶岩が滾る。

“確かに、時春様はあたしに優しくしてくれたのに”

……少しずつ燃え広がる炎の端くれ。痛いくらいに喉を涸れさせる。

“諦める必要なんてない。増してや悲しみに埋もれることなどない”

そう、そうだよ。この熱さに身を任せていると、とても心地がいいんだ。

“瑠璃、忘れるな。お前が瑠璃姫である以上、お前はお前、あたしはあたし”

うん、あたし、瑠璃、瑠璃■…

“彼を手に入れるまで。何度でも、たとえ万年経ようとも生まれ変わると誓ったはず”

突然視界が回りだす。あふれる感情と一緒に脳を叩く声に身を任せると、
急に身体が羽のように軽くなる。

“思い出せ。お前の前から姿を消すときの表情を。

あんなにも長い彼の不在を、お前はどういう風に孤独を生きた”

つらいはずなのに、胸はすっきりとしている。やることはひとつ。決まっている。
否、決まっていた。

“思い出したくはないだろう。繰り返したくはないだろう。
遠い千年を超える孤独を、もう一度繰り返すなど!!”

もういや、独りはいや、愛されないのもいや、あたしの前から彼がいなくなるのもいや。
彼が他の人に目を向けるのも、知らない誰かに優しくするのも、あの女を愛するのも―――――!!!

“認めない、認めなどしない。原初より定められし調べ。予定された未来。
かならずあたしたちは手に入れる。絶対、絶対に”

そう、まずは邪魔するあの女を消しに行こう……―――――。

 

 

誰もいなくなった白い病室。

吹き付けられる初夏の風。

誰もいないはずなのに空気が熱い。
誰も知らないはずなのに澱んでいる。

ぐちゃぐちゃにされた備品を残して、

黒い風が吹き荒ぶ。

2007/07/10 To be continued....

 

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