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花束



1

「眠い」
「遅くまでゲームやってるからだよ」
「うん、ゴメン」
  ボクはミズホに謝りつつ今日何度目かも分からない欠伸を噛み殺した。流石に深夜二時まで
やっていたのは不味かったと思うけれども、過ぎてしまったことは仕方がない。
それに、あのゲームには底知れない魔力めいたものがあると思う。ルールはとても簡単なもので、
二個でワンセットになっている半透明の軟的球体生物を落下させ、繋げて消すというもの。
縦横で結合部分が発生し、四つ繋がれば消えて死んでしまうという残酷なシステムだけれど、
大きな目が特徴のカラフルで愛らしいキャラクターでもそうなってしまうのは愛や運命、
生や死について深く考えさせられる。命というものは、儚いからこそ美しいのかもしれない。
「イっちゃん、また妙なこと考えてる?」
「まさか。大体、いつボクがそんなこと考えてたよ?」
「普段の行動を思い出してみて? すぐに答えは出るよ?」
  言われた通りに過去を思い出してみて、答えもすぐに出た。
「無いね」
「あるわよ」
  肩を落として吐息するミズホを慰めるように髪を撫でると、妙な表情で振り向かれた。
何か悩みでもあるんだろうか、幼馴染みとして出来るだけ協力してあげたいとは思うけれども
訊かない方が良いんだろう。お互いのことをそれなりに知っているし、何でも話し合う仲
だけれども、それでもボクに言ってこないというのはそれなりの意味がある筈だ。

「元気出して」
「そうね、イっちゃんには分からない問題だし」
  もう一度吐息して、ミズホは歩き始めた。ボクも髪を撫で続けながらそれに着いていく。
これだけで元気になるとは思わないけれど、それでも幾らか気力は沸く筈だ。
  数分。
  他愛のない話をしながら歩いていると、一人の人が寄ってきた。それを見て、
ミズホは露骨に嫌そうな表情を浮かべた。ボクは表情に出さないけれども、実のところボクも
少し苦手だったりする。
「おはようイツキ君、今日も美しいね。とミズホ君、会う度に辛そうな表情をしているが
大丈夫かね? 難なら良い医者を紹介するが?」
「おはようございます、サオリ先輩」
「……おはようございます」
  ボクに少し遅れてミズホも挨拶をする。
  サオリ先輩、ボクより一つ上の三年生。身長は高く、スレンダーな体付き。
それが切れ長の目が特徴の端正な顔立ちや腰まで届く艶やかな黒髪、独特の口調と合わさっていて、
まるで一つの芸術作品のようになっている。ミズホも結構可愛い部類に入ると思うけれども、
この人は別格だ。
  しかし、天は二物を与えなかった。
「先輩、何でこんなところに居るんですか?」
  ミズホが当然のように湧いた疑問を口にする。ボクも同じ、この町に済んでいる人ならば
誰でも疑問に思うだろう。朝の忙しい登校時間に、サオリ先輩がここんな場所に立っているのは
おかしい。この町の中でも一際目立つ大屋敷の一人娘であるサオリ先輩、その家は高校を挟んで
丁度反対側にあるのだ。

 先程のミズホの質問にボクも視線で同調すると、サオリ先輩は細い体に不釣り合いだが
不思議とバランスの良く見える豊かな胸を反らした。この姿勢を見る度にミズホが何とも
悔しそうな表情をするのは、言ってはいけないものなのだろう。
  閑話休題、サオリ先輩は自信に満ち溢れた表情で、
「愛の力だ」
  うすら寒いことを言った。
「具体的には?」
  眉根を寄せながらミズホが問うと、サオリ先輩は笑みを浮かべ、
「うん。通学路を丹念に調べたあと、約一時間程前から奇遇を装う為にここに居た」
「今物凄い勢いで暴露してますよ。それにサオリ先輩の行動は一般的にはストーカーって
言うんです、知ってましたか?」
「馬鹿な!?」
  そう。容姿淡麗、文部両道、性格美人と三つ揃えているけれども、人として大事な部分が
足りないのだ。キモい言葉を言ったり、キモい上に変な具合いに積極的なストーカー行為をしたり、
悪行を数えていけば枚拳に暇がない。
  蔑んだ視線を向けると、サオリ先輩は嬉しそうに身をくねらせた。
「どうすれば良いんだろう?」
「無視すれば?」
「そうだね」
  言われた通りにサオリ先輩を無視して歩き出す。
「待ってくれ、イツキ君」
「どこに話し掛けているんですか!?」

 思わず突っ込んでしまったボクを見て、ミズホは吐息を一つ。逆にサオリ先輩は嬉しそうに胸を張り、
「尻だよ!! 私は慎み深いのでね、真正面から言わずに後ろから声をかけさせて貰った。
しかし華の女子高生に路上で尻と言わせるなんて、酷い人だね」
  慎み深さの欠片もない。
「じゃあ、話ながらボクの尻を撫でているのは何故ですか?」
「魅力的な君の尻が悪いのだよ。そんな悪い尻にはお仕置きが必要だね、こうだ!!」
「いい加減にしなさい!!」
  気合いの言葉と同時に尻を鷲掴んできたサオリ先輩の頭部を、ミズホが勢い良く鞄で殴り飛ばす。
ボクの周囲で、いや通っている高校の中でも数少ない常識人であるミズホは、
本当にありがたい存在だ。彼女が居なかったら、ボクは多分まともな生活は
送れていないのではないだろうか。
「いちいち変態行動をしないで下さい!!」
  顔を赤く染めながら、ミズホはサオリ先輩を睨みつける。
  これがミズホがサオリ先輩を嫌う何よりの理由、サオリ先輩の最大の欠点だ。何事も、
最終的にはこうの様ないやらしい行動に直結する。潔癖ではないにしろ、常識を何よりも
大切にするミズホにとってサオリ先輩のような行動は我慢ならないのだろう。
「さ、行くよ」
  動かなくなったサオリ先輩から目を反らし、ミズホはボクの腕を引きながら歩き出した。

 しかし、問題なのはサオリ先輩だけではない。
「おはようございます、センパァイ」
  校門に辿り着くと、幼い声が飛んできた。
「おはよう、チヨリちゃん」
  ポニーテイルが愛らしい後輩、チヨリちゃん。140cmしかないという身長や幼児体型は
高校生にしてはやけに発育不足だと思うけれども、活発な性格にとても良く似合っている。
人懐っこいその性格も手伝って、一年生の間でのマスコット的なキャラクターだ。
  しかし彼女にも問題が一つ。
  チヨリちゃんは胸の高さから上目遣いでボクを見て、
「センパァイ、いつアタシの処女膜をブチ抜いてくれますか?」
「ブチ抜かないよ?」
  発言がいちいち下品なのだ。
  横を見ると、やはりミズホは眉根を寄せていた。
「お願いしますよぅ」
  そんな甘えた声を出されても困る。
「はいはい、今度ね」
「約束ですよぉ?」
  適当に髪を撫でると、チヨリちゃんは嬉しそうに身を寄せてきた。
「羨ましい、私も撫でてくれ。こう、乳とか尻を重点的に!!」
「あ、痴女先輩」
「撫でませんよ。仮に、仮にですよ? 撫でたら『次は股を!! 激しく!! もっと情熱的に!!
  さぁ!!』とか言いますよね?」
  サオリ先輩は不思議なものを見たような表情で、
「そんなことを言う訳無いだろう、痴女じゃないんだから」
  何故こんなところで真面目なことを言うのだろう。少しくらいは普段の行動を思い返してほしいと
思ったけれども、すぐにその考えを捨てた。きっと言っても無駄だろう。
世の中には言っても分からない人や自覚がないまま行動するタイプの人間は確かに存在する。
  ボクは吐息を一つ。
「しかし、残念ですねぇ」
「本当に」
「まぁ、ね」
  何だろう。
「イツキ君が」
「センパイが」
「イっちゃんが」
「「「女じゃなかったら、幸せになれたのに」」」

2

 下駄箱を開けると、いつものように大量の手紙が入っていた。中にはプレゼントらしい紙袋も
幾つかある。これも見慣れた光景なので驚きはしない、一年生の頃から殆んど毎日見ているので
既に日常の一部になってしまっているのだ。自慢じゃないけれど、
こんなのは日々の暮らしのスパイスにもなりはしないのだ。
「イッちゃん、今日もモテモテだね」
「そんなに良いもんじゃないよ」
  そう、良いもんじゃない。確かにボクはモテるけれど、それは女の人に対してだけで、
男からは見向きもされないのだ。その証拠とでも言わんばかりに、下駄箱の中の便箋や袋は
殆んどが可愛いらしい色遣いのものばかりだ。数少ない例外もあるけれど、
それはお店の紙袋だったりする程度、袋を開ければ中身は人気のお菓子だったりする。
つまり、どこまでも女の子尽くしなのだ。
「おかしいよね、ここって共学だし男女半々なのに」
「まぁまぁ、気にしないの。イッちゃん格好良いからすぐに恋人出来るよ」
「いいんだよ、女の子らしくないって分かってるから。
どうせ一生『デカ女』とか呼ばれて暮らすんだ。男も知らないまま、恋人は右手ですって言うんだよ」
  簡単にその光景が想像できて、目頭が熱くなる。
  それもこれも、この身長と凶悪な目付きが悪いのだ。さっき自分で『デカ女』と言ったけれど、
実はネタに出来る程には高くない。先日あった身体測定では172という文字を見たけれど、
ちょっと大きいという表現で済ませることが出来る。

 しかしこれにボクの目付きというものが加わってくると、話は変わる。鋭いなんてものじゃない。
世の中全てに喧嘩を売ってます、その証拠についさっきも人を殺してきましたが何か問題でも?
  と言っても簡単に信じてもらえる程に悪いのだ。そのせいで威圧的な外見になっていて、
その結果『デカ女』と呼ばれても反論出来ない不憫な娘が出来上がるのだ。
実際、皆と行った温泉旅行の写真を見たときに思わず、「こりゃない」と自分で呟いてしまった。
  でも本当に結婚も出来なかったら、
「嫁に貰ってくれるよね?」
「え? あー、うん」
  ミズホに言ったら目を反らされた。
  でも取り敢えず了承の返事は貰えたから良いのだろう。
  複雑な気分で手紙やプレゼントをガバンに入れる。好物のクッキーがその中にあることを喜びながら
全てを取り除くと、漸く上履きが見えた。日に日に増してゆくこれらはいつか収まりきらなく
なるんじゃないだろうか。
  そう考えながら靴を取り出して床に置いたとき、妙なものが見えた。
「……何をしてるんですか?」
  サオリ先輩が床に這いつくばっている。しかも超至近距離、ボクの足元で。
「いや、気にしないで靴を履いてくれ。わたしは靴を履く無防備な瞬間を狙って
スカートの中を覗こうとしているだけだ、何も問題ない」
  問題ありすぎだ、こんなオープンな変態になるといっそ清々しくさえ思えてくる。
  しかし、
「残念でした、下には短パン穿いてます」

「邪道だ!! 日常の中のパンチラシーンをどこで楽しめば良いんだ!?」
「変態は人間として邪道ですよ!!」
  もう、これはどうすれば良いのだろう。
「ふふふ、しかしこれも想定内だ。こうすれば問題ない!!」
  そう言うとサオリ先輩はスカートの中に頭を突っ込んできた。確かにこうすれば短パンの隙間から
パンツは見えるだろうけれど、人間としての尊厳を捨ててまで見たいものなのだろうか。
周りの生徒たちも変な目でボクらを見てきているし、ミズホに至っては何故か他人のふりをしている。
それでも待ってくれているのは、せめてもの気遣いなのだろうか。
どうせなら助けてほしいけれど、どうやらそんな様子もない。あまりの展開にボクを救うよりも
逃避を選んだらしい。多分、ボクでもそうするだろう。
手を出せない、と言うよりも手を出したくない。
  仕方なく諦めることにして、ボクは吐息を一つ。
「もう、好きなだけ見て下さ……太股を掴むなぁ、この、このっ!!」
「あぁっ、イツキ君の足がわたしの頭を踏んでいるっ。もっと激し……ちょっと待つんだ
これ以上は無理無理痛ぁァッ」
  許容範囲外のことに思わずサオリ先輩の頭を踏んだり蹴ったりしてしまったけれども、
大丈夫だろうか。視線を下げてみれば、何故か幸せそうな顔をしてぐったりしているので
大丈夫だろうと判断して踵を返す。
  ミズホの隣に並ぶと、苦笑いを向けてきた。
「大変だったね」
「大変だったよ」
  本当に。

 教室は全て二階以上にあるので、階段を上っていると様々な人と擦れ違う。
カップル率が九割を越えているこの学園では殆んどが男女の組み合わせなので、
通り過ぎる度に少し羨ましいと思ってしまう。こうして歩くことが出来たならどんなに良いだろう、
どれだけ楽しいのだろう。そう思いながら歩いていると、いつの間にか教室に着いていた。
「おはよ、イツキ」
「おは、イッチ」
「おはよう、イツリン」
「うっす、イツ」
  皆が挨拶をくれるけれど、
「女ばっかりかぁ」
  男子が挨拶をくれることはない。意識して気付いた新たな真実に、溜息が出てきた。
  席に着くと、鞄から手紙やプレゼントを取り出す。その中の一つ、クッキーを食べつつ
一つ一つ目を通してゆく。これもいつも通りのこと、せっかくくれたものを捨てて無駄にすることは
出来ない、それは失礼だと思う。手紙は相変わらず一年生が多い、
中には熱心に何度も出してくれる娘も居る。ファンのようなものだろうか、
こうした娘が居てくれるのは少し誇らしくもある。
「イッちゃん、クッキー残ってる?」
  前の席に座っているミズホが振り向いた。どうやら予習は終わったらしい。
ボクは空になった袋を見せた、好物なのでいつもすぐに食べきってしまう。
大体、ミズホは三日前にダイエットを始めていたような気がするのに、
こんなカロリーが高いものを食べても良いのだろうか。いや、良くない。
なのに次の獲物を探そうと紙袋を楽しそうに見ているのはどういった了見なのだろうか。

 心の中でごめんね、と思いながら、
「太るよ?」
  一言。
  思ったよりキツかったらしい。たった三文字、平仮名にして更に記号まで合わせたとしても
片手の指で収まってしまう言葉でミズホの動きが止まった。
やはり心の奥底では気にしていたんだろうか。気持ちも分からなくもない、
ホクだって気にしていることだ。
「だから、ね? 甘いものは控えて、運動を」
「イッちゃん」
  ミズホはそれだけ言うと、黙って手を伸ばしてきた。向かう先は……不味い!!
「タプタプですなぁ? これは乳ですか? いいえ、二の腕です。」
  なんてことを言うんだ、最近ヤバくなってきたのを気にしていたのに!!
  そんなことを思いながらも次の紙袋に延びる手が恨めしい。駄目ぇッ、こんなこと駄目なのに、
手が止まらないのおっ!! この甘い誘惑が、ボクの欲望が、勝手にボクの手指を動かしちゃうのぉッ!!
  なんて下らないことを考えながら『極楽日記』の新作らしいチョコケーキに手を伸ばす。
もうカロリーなんて知ったことか、今日の体育でその分体を動かせばきっと大丈夫。動け
ばその分痩せるとボクは信じている。
  ほろ苦い味を楽しみながら最後の手紙を開いた。チヨリちゃんからのものなので、
後に回していたものだ。こればかりは見たくないのだが、チヨリちゃんに失礼かなと思い
結局読むことを選んでしまう。多分これは優しさではなくて弱さなんだろう。
  苦笑しながら読むと、いつもの可愛いらしい告白と下品な言葉。そして普段のとは少し違う、
ボクへのプレゼントがある旨が書いてある。何だろうかと思い、紙袋を開いた。
  ……これは。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
  どうしよう、ボク双頭バイブなんて初めて見たよ。

3

 気に入っているバンドのCDを買い、家に帰る。その買ってからの道のりは
ボクの数ある楽しみの一つだ。特に今日買ったバンドのは他のものより
少しだけ思い入れのあるもので、それは尚更楽しい気分にさせてくれる。
未練と言われれば否定の出来ない理由だけれども、
思い出を大切にしたいボクの性格が思考を前向きなものへ変えてゆく。
「Danceing on the……」
  気が付けば、歌を口ずさんでいた。
「イッちゃんって、よくそれ歌うね。どこのバンド?」
「イギリスの。本当は、もっとテンポが早いんだけどね」
  それに、歌っているのは男の人だ。昔カラオケに行ったときによく聞いていて、
それでなんとなく覚えてしまった。これを歌っていた彼が説明してくれたところによると、
このバンドが演奏するシンフォニックパワーメタルというジャンルの中で、
少し位置が違うとのことだ。実際にボクも聞くようになって、それを理解した。
他の曲が力強い感じがするのに対して、これは神秘的な感じがする。
英語は苦手なので歌詞の意味は分からないけど、
主役の女の人はそれを意識して踊っているようだった。
「よく分かんないけど、綺麗な歌だね」
  向けられた笑みにボクも笑みを返して、続きを歌いながらマンションのエントランスに入る。
滅多に物が入っていないことは分かっているけれど、いつもの習慣で手紙入れの中を見る。
中には珍しく手紙が入っていた。多分仕事関係だと思う、父さんにあてたものが数枚。
これは出張先に電話をしておけば良いだろう。

 そして、ボクあてに一つの便箋が入っていた。ラブレターかもしれないと思ったけれど、
普段貰うものに比べると薄い感じがする。封筒も白くシンプルなもので、女の子が出すにしては
素っ気ない感じだ。よく見てみれば、この字体には見覚えがあるような気がした。
裏返して送り主を見てみれば、その理由が分かった。
「虎徹君、だ」
  二年前に離れた、好きだった人の名前。今もたまに夢に見る、虎毛色の髪をした男の子の名前が
書かれている。通りで見覚えがあった筈だ、なにしろ当時はよくノートを見せて貰っていたのだから。
その頃は人見知りが激しく、そのせいで友達も少なかったボクにも気軽に接してくれた男の子。
誰とでも分け隔てなく接する彼のお陰で、ボクも自分の姿を気にすることなく
他人と触れ合うことが出来るようになった。
「イッちゃん、どうしたの?」
  いけない、あまりの不意打ちに呆けていたらしい。
「ごめんね、久し振りだったから」
「知り合い?」
  数秒。
「うん、大事な友達」
  大事な、大切な、ある意味ではミズホよりも大きな存在。
「これからイッちゃんの家に行こうと思ってたけど、邪魔かな?」
  心配そうに見つめてくるミズホに対して、ボクは軽く首を振った。怖いからじゃない、
けれど何故だかミズホと一緒に読みたいと思った。二人なら、何が書かれていても大丈夫だと、
何の根拠も無しに思った。やっぱり、怖いのかもしれない。

 無言で家に戻り、ミズホと並んで封筒を開く。
『僕は幸せになれました。
  イツキちゃんも、幸せだと嬉しいです』
  中に入っていたのは、簡素な二行が書かれた手紙。普段饒舌だった彼にしては珍しい、
しかし大切な言葉だ。それが、丁寧で綺麗で、虎徹君独特の筆跡で書かれてある。
きっと彼のことだから、散々考え抜いた末のものだろう。少ない文字量の中でそれが読み取れた。
「……大丈夫?」
「平気だよ」
  平気、平気。
「でも、イッちゃん泣いてる」
  ミズホが手指を伸ばして、頬を撫でる。肌を滑らせて離れた指先は夕日の光を反射して、
オレンジ色に光っていた。それを見て、自分が泣いていたのだと自覚する。自覚すると、
急に感情が溢れ出してきた。決壊したダムのように涙が流れてゆくのが自分でも分かる。
  胸が、痛い。
「ひ」
  痛い。
「ひぁ」
  痛い、痛い痛い痛い。
  痛みによって、漸く理解した。
  ボクの初恋は、ここで終わったのだと。
  二年以上の片想いが、敗れ去ったのだと。
「やだ、やだぁ」
  情けない、体が崩れそうになる。
「大丈夫だよ」
  脱力し、崩れそうになる体を支えるものがあった。
  それは震える体を押さえて、次の瞬間には包み込んでくる。触れる肌から伝わってくるのは
人間の体温、支えてくれている人の温もりだ。それが誰かは考えるまでもないけれど、
改めて確認するように彼女に向き直る。
  優しい、ミズホの笑みがあった。

「大丈夫だよ、私が居るから。私は、絶対にイッちゃんから離れないから」
  そう言って、ミズホはボクを抱く力を強くする。
「こんなときに言うのも卑怯だけどさ、私はイッちゃんが好き。愛してる。
イッちゃんのお父さんの都合で離れ離れになったときは悲しかったし、
二年前に戻ってきてくれたときは本当に嬉しかった。
今日も結婚してって言われたとき、本当に嬉しかったんだよ」
  でも、目を背けていたような。
「あれは、何だか恥ずかしかったから。ついでに言うけど、サオリ先輩やチハヤちゃんを嫌ってたのは
カモフラージュだよ。イッちゃん、レズ嫌いみたいだったし。
でもね、私、やっぱりイッちゃんが好きなの。その気持ちに嘘はつけないし」
「ミズホ、今凄いこと言ってるよ」
  自分でもそう思う、と言って小さく笑い声を漏らす。それが可愛くて、同性なのに不覚にも
ときめいてしまった。そして、いつの間にか暗い気持ちが消えていることに気付く。
体の震えも、涙も、いつの間にか消え去っていた。
「ね、イッちゃんは私のこと嫌い?」
  そんなことはない、それどころか益々好きになってしまった。
  問掛けてくる瞳に応えるように、ミズホの唇に自分のそれを重ねる。数秒続けて離し、
もう後戻りは出来ないかもしれないと思って苦笑した。けれど、不思議と後悔の気持ちは
浮かんでこない。胸の底から沸き上がるのは、もっと別の暖かいものだ。

「ありがと、イッちゃん。さ、せっかく両想いになれたんだから、やることやらなきゃ」
  やること?
  笑みを浮かべてミズホは離れ、立ち上がった。
体温が消えてゆくのを少しもったいないと思いながら、楽しそうに歩くミズホに着いてゆく。
どこに向かうのかと思ったら、辿り着いた先はボクの部屋だった。
そう言えば買ったばかりのCDがあったけれど、今は虎徹君を思い出すのであまり聞きたくない。
多分、暫くは聞けないだろう。
  部屋に入るとミズホはベッドに腰掛け、隣を軽く叩いた。ボクもそれに習い、腰掛ける。
寄りかかってくる軽い重さが気持ち良く、柔らかな感触や甘い匂いに胸が僅かに高鳴った。
「ね、イッちゃん」
「何?」
「自分で脱ぐ? 私が脱がせる?」
  あまりの発言に、思考が飛んだ。いきなり何を言い出すのだろう。
漸く戻ってきた思考が答えを導き出すけれど、理解が追い付いてこない。
何故、いきなりそっちの方に行くのだろうか。キスはしたけれど、その数分後に全裸はないと思う。
「だって、恋人でしょ?」
「その展開は飛躍しすぎだよ!」
「いやぁ、カミングアウトしたら気が楽になって」
「楽になりすぎ!! 順序ってモンがあるでしょ!?」
  恋人になった直後にセックスだなんて、考えただけで顔が赤くなってゆくのが分かる。
でもミズホは幼馴染みでお互い知らない間柄でもないし、
何回も一緒にお風呂にも入ったこともあるし、何だかボクも断ろうって気はないし、
どうしたら良いのだろう。
  ステップ・バイ・ステップ、何事も順序が大事ですよ。
「し、シャワー浴びてくる!!」
  するとは決まっていないけれど、ボクは逃げ出すように部屋を飛び出した。

4

 少しお湯を暑めに設定して、ノズルを捻る。僅かな時間でお湯が暖まり、
湯気が沸いて視界をぼんやりとしたものに変えた。肌に当てると微かな痛みがやってくるが、
体はすぐに順応して気にならなくなった。気持ち良い、と思いながら、まずは全体を濡らす。
  目、赤くなってないかな。
  なんとなく気になり、鏡を掌で拭った。映っているのは、毎日お風呂に入るときに
見るものと変わりのない自分の姿。身長の割にはあまり高くない座高、それを支えている体は
意識して見てみると、自分でも意外だと思うくらいに細い。確認するように、
今度は鏡で間接的に見るのではなく、直接自分の体を見下ろした。二の腕は、見なかったことにする。
けれど、どこを見てもいつもの体だ。胸は、同年代の娘よりは大きいかもしれない。
腰は普通、お尻は安産型だと言われるけれど、脚は普通だと思いたい。
  そして、肝心の眼。
「やっぱり、極悪だ」
  赤くはなっていないけれど、細く鋭く狂暴な感じがする。
「でも」
  ミズホは、そんなボクでも好きだと言ってくれた。
  いけない、ミズホが待っている。
  体を洗う。
  洗う。
  洗う。
  セックスするとは決まっていかいけれど、体を清潔にするのは大切だ。
ただ、念の為に新品のスポンジ、それのざらついた面で三回も洗ったので肌が少しヒリヒリする。
でも、後二回は洗った方が良いのかも。これ以上は肌がかさかさになるから止めた方か良いかな。

 それでも割れ目は丁寧に、もう三回程洗っておこう。これからのことを考えながら指を這わせると、
何だか気持ち良くなってきた。意識して、勝手に動き出す指を止める。
股を濡らしていったら、いくら何でも引かれるかもしれない。
  最後に体を流し、バスタオルだけを身に付けて戻った。これはエッチなことをするためじゃない、
長くお湯に当たっていたからだ。自分に言い聞かせ、部屋に入る。
「遅かったね」
「うん、でもいつもこんな感じだよ」
  嘘だ、普段は五分で終わる。
「私も入ってくるね」
  入れ違いになる形で、ベッドに腰掛ける。
  吐息。
  一人になると、待つ時間がやけに長く感じる。一分がまるで一時間くらいのように思え、
思考の置き場がなくなってくる。しかし、不思議と辛くはない。
「でも」
  どうすれば良いんだろう。
  ボクはそんな経験もないし、多分ミズホも無いだろう。やり方がさっぱり分からなくて
悶々としてくる、今鏡を見たらまた顔が真っ赤になっているだろう。
  気恥ずかしさに俯いた視界に学校の鞄が入って、チヨリちゃんからのプレゼントを思い出した。
茶色い封筒を手に取り、開けて中のものを取り出した。
  うわ、結構グロい。
  ピンク色のそれは、結構えげつない形をしていた。男の人のものを形取ったものらしいけれど、
こんなものが本当に体の中に入ってしまうのだろうか。色々な角度から観察してみたけれど、
それが入っている様子が想像出来ない。

 軽音。
  不意のノックに、双頭バイブをへし折ってしまった。
「は、入って良いよ」
  慌ててベッドの下に放り込み、平静を装った。
「何だか、恥ずかしいね」
  ミズホもバスタオル一枚だけの姿で、頬を赤く染めて俯いている。
そのままボクの隣に座ったけれど、言葉が出てこない。何とも微妙な雰囲気だ。
  無言。
「えっと、まずは何だろう」
  沈黙に耐えきれなくて、ボクから切り出した。
「ぬ、脱ぐ?」
  言葉通りに、ミズホがバスタオルを外した。ボクもそれに習い、バスタオルを外す。
  お父さん、そして天国に居るお母さん。ごめんなさい。あなた達の娘は、
女の子を相手に初体験を迎えようとしています。笑って下さい、ボクも何が何だかよく分かりません。
でも後悔はしていないので、祝福してくれると嬉しいです。虎徹君、ボクは幸せです。
「えっと、次は?」
  ミズホの声に、現実に引き戻された。
  次は、何だろう。雑誌や男の人向けの本、ビデオでは最初に舐めていたような気がする。
「な、舐める」
「どこを」
  ボクにもミズホにも、棒は付いていない。この場合は、どこを舐めれば良いんだろう。
いきなり股間はアウトな気がするし、それにそこを触られるのも少し怖い。
嫌ではない、けれど順番があると思う。不味い、思考が訳分からなくなってきた。
「お、おっぱい?」
  やがて生まれたのは、そんな言葉。

 ミズホは戸惑いながら頷くと、唇を重ねてきた。そして舌を伸ばして口の中を探って、
ゆっくりと離す。これは凄い、ただ唇を重ねるのと全然違う。頭が呆けて、
思考が曖昧なものになってくる。正直本の中の世界でだけだと思っていたけれど、馬鹿に出来ない。
  そんなことを考えている間にミズホは首筋に舌を這わせ、顔を滑らせて下へと移動する。
その度に背筋が震える程の快感がやってきて、声が漏れてしまいそうになる。
自分でするときよりもよほど気持ち良い、と言うより怖い。このまま胸まで来たときのことを考えて、
思わずミズホの頭を掴んでいた。力は入らないけれど意思は伝わったらしく、
顔を離してこちらを見上げてきた。上目遣いがとても可愛い。
「嫌?」
  嫌、じゃない。
  迷った一瞬の隙を突いて、顔を胸に埋めてくる。まるで赤ちゃんのようだけれど、
ボクに刺激を与えようとする動きは決定的な違いだ。最初はじらすように周囲を舌でなぞり、
ついに唇は先端まで辿り着く。固くなっているそれを柔らかく甘噛みされると、
今までは我慢出来ていた声が漏れてしまった。自分でもこんな声が出せたのだと、
思考の隅の冷静な自分が囁いてくる。
側面を唇で、正面を舌でねぶられると我慢出来ない声が大きくなる。
「待って、それ以上は」
「待ったなし」
  一瞬だけ唇を離してそう言うと、ミズホは再び顔を埋めてくる。

「や、やだぁ」
「でも」
  股間に指先が走り、
「イッちゃん、濡れてるよ」
  目の前で広げられた手指の間には銀色の橋がかかっていた。
「今度は私に、して?」
  恥ずかしさに目を閉じていたせいで、耳元で囁かれる声が余計にはっきりと聞こえる。
まだ目は開けないけれど、場所は大体覚えている。手探りで場所を確かめるように
ミズホの胸を撫でると、指先に、他の柔らかな感触とは違うものが当たった。
そこに唇を当てて、ミズホがしてくれたように舌を這わせる。
途端に喘ぎ声が聞こえて、軽く抱いていた体が震えた。
小さな声で、しかし何度も呼ばれるボクの名前が嬉しくて、夢中で吸い、舐める。
先程やられたようにミズホの股間に指を滑り込ませると、指先に濡れた感触がやってきた。
膣内を傷付けないように表面だけを擦るけれど、それだけでも粘着質な音が聞こえてくる。
目を薄く開くと、とろけた笑みがあった。いやらしい、愛しい表情だ。気が付けば、唇を重ねていた。
  舌を絡ませ、息が苦しくなってきたところで唇を離す。は、という吐息の後で、
小さな笑い声があった。ボクより低い位置にある肩が震え、俯いた頭が僅かに上下している。
「どうしたの?」
「イッちゃん、エッチだね」
  ごめんなさい、お父さんお母さん虎徹君。ボクはエロい娘らしいです。
  でも、止まらない。
  ボクは再びミズホに唇を重ね、胸に手を這わせた。僅かな力でも自在に形を変え、
掌を包んでくるのが快い。その感触を楽しみながら、もう片方の手を股間に這わせて、擦る。
ミズホもそれに応えるように、ボクと同じく割れ目に指を這わせてきた。
割れ目をなぞるものがミズホの手指だというだけで、一人とは比べ物にならない程の快感だ。
体が処理をしきれなくなったのか、不意に涙が溢れてくる。それを舌で拭うと、ミズホは微笑んだ。

「ね、イッちゃん。もっと気持ち良く、なろ?」
  もっとって、本やビデオで見た、お互いの顔を股間に埋める例の体制だろうか。
さすがにそれは、ちょっと遠慮したい。お互い初めて同士なのに、それはレベルが高すぎだ。
  ボクは少し考えて、ミズホの体を抱き締めた。そしてお互いの割れ目や胸を合わせて、
体を上下に動かし始めた。どちらにも男の人のものはないから、差し動かすのではなく、
擦りあわせる動き。動く度に胸が擦れ、割れ目から水音と物凄い快楽が脳に伝わってくる。
たまに思考が飛びそうになる程の強い刺激に、胸の奥底から波がやってくる。
自分が自分じゃなくなる程の波、それが全身に響いてゆく。
  怖い。
  けれど、腰の、体の動きが止まらない。
  何度も唇を重ね、舌を絡ませ、唾液を交換する。本来無味な筈のそれは酷く甘く、
高級なお菓子のように思考をぼやけさせてゆく。何も考えられず、ボクはひたすら体を求めた。
「イッちゃん、大好き」
  ミズホがボクの鎖骨に舌を滑らせて、
「や、だめ。だめ」
  直後。
  思考が完全に飛び、続いて頭の中が真っ白になった。
  二人で脱力して、並んでシーツの上に寝そべった。本来は一人用のベッドなので、
肩をくっつけている状態だ。触れ合った肌からはミズホの体温が感じ取れて、
それが嬉しくてそっと手を握る。細く滑らかな手指が強く握り返してきて、それがまた嬉しかった。
「ね、イッちゃん。大好きだよ」
「ボクもだよ」
  二人で笑みを浮かべて、そっと唇を重ねた。

5

 気恥ずかしいと思いながらの登校だけれど、ミズホと話をしている内に照れが消える。
昨日は少し、いやかなり際どい体験をしてしまったけれど、それをなるべく意識しないでいられたのは
ミズホの気遣いのお陰だろう。いつもと同じように笑って、ふざけて歩いていると、
夢だったのではいかと思ってしまうくらいだ。実際に膜がなくなった訳でもない、
戯れに体を寄せあってじゃれつくなんてこともあったからだ。意識さえしなければ
普段と全く変わりのない生活がそこにあり、これからも続いてゆくのだろう。
  それは何だか寂しいと思い、軽くミズホの手の甲に自分のものをぶつけた。
驚いて開く手に指を絡ませると、向こうも握り返してくる。手を繋ぐなんてのは
今までも何度もしたことだし、友達同士でも手を繋ぐのは珍しいことではない。
流石に天下の往来でキスなど出来ないけれど、それでも恋人だという確認の為に
手を繋ぐくらいはしても良いと思う。
「イッちゃん、ありがと」
  はにかむように笑うミズホに応えるよう、ボクも笑みを返すと、
「センパァイ」
  繋いだものと逆の方の腕に衝撃がやってきた。視線を向けると快活な彼女の性格を表す
ポニーテールの下、楽しそうにボクを見上げる視線と目が合った。
ボクの腕を抱き締めるようにしているチヨリちゃんの体は歩く度に小刻に揺れ、
結わえてある髪が元気に跳ねる。
昨日ミズホとあんなことをしてしまったからだろうか、何だか普段より可愛く見えた。

「センパイ、昨日のアレ使いましたか?」
「使わないよ?」
  ごめんね、チヨリちゃん。使うどころか、ヘシ折った上に朝一番で燃えないゴミとして
捨てちゃった。そう言いたかったけれど、何だか期待に満ちた瞳を裏切れなかった。
素直に言って悲しむ姿が目に浮かび、それを避けるように苦笑を浮かべて普段のように
去り気なく対応する。案の定チヨリちゃんは小動物のように頬を膨らませて、
腕を抱く力を強いものにした。ボクよりも約30cmは小さい娘だ、
こんな可愛い仕草も様になって羨ましい。
「イッちゃん、昨日のアレって何?」
  まさか女性用ジョイントパーツだなんて言える筈もなく、ミズホにも苦笑を向けようと振り向いた。
誤魔化しているのか、いつもこんな表情を浮かべてしまっているな、
と申し訳なく思いながらミズホの顔を見てみると、戦慄した。
「ミズホ、顔が怖いよ?」
「そう? 普段と同じよ?」
  言葉は平穏を装っているけれど、普段よりも半音低くなっている。
笑みを浮かべようとしているのだろうが頬は引きつり、筋肉の無理な稼働によって小刻に震えていた。
眉根は八の字を逆の形にしたように逆立ち、笑うと三日月の形になる目は上下逆の状態だ。
  ボクは一瞬で理解する、怒っていると。
  それも半端ではない、過去にこんなに怒っているのを見たのは一度きりだ。

 あれはボクの伸長がまだ低く、前へ習えの姿勢でも腰に手を当てることが出来た幼い頃の話。
虎徹君に会う以前の話だ。当時まだ伸長が低く、気弱で、それなのに目付きは極悪だったボクは
男子のからかいの的になっていた。ある日、ボクは買ったばかりのパンツを穿いて登校した。
自分で選んだ、可愛いと思っていたデザインのもの。いつものようにスカート捲りにあい、
更にパンツの柄を馬鹿にされたボクはマジ泣きした。
泣き虫だったボクだが、あれ程に泣いたのは過去には他に無いと思う。
それを見たミズホは、今のような表情を浮かべると、男子を片っ端からボコボコにした。
関係のない無害な男子もだ。更には担任だった男の先生をロリコン呼ばわりしながら
ボコボコにしてしまった。あの鬼神のような戦闘力はを見せつけられて
男子からのからかいが無くなったのは、ボクの良い思い出だ。
  それが今、再現されようとしている。
「やぁん、怖い。助けてセンパイ」
  チヨリちゃん、頼むから火に油を注がないで。それにミズホも、そんなに強く手を握ると
壊れちゃうから止めて。ちょっとミズホさん、本気で痛いです。
「このクソガキ」
  ミズホはボクの手を離して安心したのも束の間、そのままチヨリちゃんの背後に回ると
無理矢理に引き剥がした。結構強い力で掴まれていたけれど、
本気でキレたミズホの超絶戦闘能力に敵う筈もない。
その怪力で襟を掴み、軽々と持ち上げてチヨリちゃんを睨んだ。

「イッちゃんに手を出さないでくれる?」
「うえぇ、それは」
  取り敢えず今だけは話を合わせてほしい。目配せをしてお願いをすると、
観念した様子でチヨリちゃんはうなだれた。力を抜いてぶら下がっているその姿は、
なんとなく飼い主に強制的に運ばれている猫の姿を思い出す。ぐったりしている様子までも
可愛いく見えるのは本当に羨ましい。
あれがボクならば、カチ込み後に捕われたチンピラにしか見えない
んだろう。それか撃たれて死に際のヤクザか、どちらにしても良いものではない。
「はい、復唱。もうセンパイには手を出しません」
「もうセンパイには手を出しません」
「持っている女性用のエログッズを全て差し出します」
「持っている女性用のエログッズを全て差し出します」
  止めてよ。
「イッちゃん最高イッちゃん万歳」
「センパイ最高センパイ万歳」
  ボクが落ち込んでいる間にも続行されている妙な光景から目を背けると、
サオリ先輩が笑顔で駆け寄ってきた。一歩ごとに揺れる胸が羨ましい、ボクも大きな方ではあるけれど
全体的なスタイルで見ると完璧なサオリ先輩からは程遠い。
「おはよう、イツキ君。甘い香りに誘われて来てみれば、何と美しい妖精が!!」
  朝一番で妙なことを言われて、テンションが落ちた。頼むから朝くらいは普通の発言をしてほしい。
ボクは二物も三物も与えたくせに、サオリ先輩に肝心なものを入れ忘れた天を恨んだ。
頭がおかしくさえなければ、サオリ先輩は本当に完璧な人間なのに。

「どうしたね、イツキ君? 悩みがあるのなら相談に乗るよ? さぁ、カモンMy妖精!!」
「妖精って、心の綺麗な人にしか見えないんじゃ……」
「最近は頭がおかしい人しか見えないと思うわよ」
  小声で話しているけれど、二人とも助けてくれそうな気配はない。仕方がないのでボクは
サオリ先輩を殴り倒すと、学校に向かって歩き始めた。時間に余裕を持っているけれど、
何が起こるか分からない。さっさと学校に向かうに越したことは無いだろう。
「今日はピンクか、可愛いね」
  短パンを穿いてこなかったことを後悔した。
  数分。
  チヨリちゃんやサオリ先輩を避けつつ下駄箱に辿り着くと、掲示板の校内新聞が見えた。
どうやらボクのファンクラブの会員が三百人の大台を突破したらしいけれど、
その全てが女の子だという事実に悲しくなってくる。ボクにはミズホがいるけれど、
こうも明から様に男の子に見向きされていないと辛いのだ。相変わらず下駄箱のラブレターも、
女の子が送ってきたもので一杯だし、ミズホが居てくれなかったら本格的にヤバかったかも。
  落ち込みながら教室に入ると、甘い匂いが漂ってきた。視線を向ければ、『極楽日記』
の一口サイズチョコレートケーキがあった。あまりの人気にボクも一回しか食べたことのないものだ、
とても美味しそう。朝から高カロリーだけど、食べたくなってくる。

 ボクの視線に気付いたヨッチンがフォークを向けてきた。
「おはよ、イツリン。食べる? これ好きだったよね?」
「食べる!! 大好き!!」
  直後。
  フォークの半ば辺りから先が消失した。その原因であるミズホは物凄い音を立てながら、
プラスチックのフォークごとケーキを食べている。口の中とか、大丈夫なんだろうか。
「……ミズリン、これ好きだったっけ?」
  ミズホは軽く頷く。
「……フォークも好きだったっけ」
  苦笑を浮かべながら折れたフォークを見るヨッチンに、ミズホは大きく頷いた。
  やがて器用にフォークの残骸をティッシュに吐き出し、ミズホはケーキを手指で摘んで
ボクに差し出してきた。それを頬張ると上品な甘さが口の中に広がり、幸せな気分になる。
  ミズホは、粉が着いている指先を美味しそうに舐めていた。
「イツリン、ミズリンに何があったの?」
  どう説明したら良いんだろう、複雑な気分になった。チョコケーキは美味しいけど。

6

 電子音。
「イっちゃん、今日はどっち?」
「学食、お母さんもボクも寝坊しちゃってさ」
  目が覚めたら、ミズホとの待ち合わせの時間の十分前だった。
お母さんが寝坊したのはお父さんと張り切ったからだったらしい、
何で良い年をして夜遅くまであんなことをしていたのか分からない。
そのせいで、声が聞こえてきたせいでボクも全然眠れなかったし、それに、その、
何だかエロい夢を見てしまった。うぁ、思い出すのも恥ずかしい。
  何故かミズホにちんこが生えていて、ボクはそれを突き立てられて喘いでいた。
ビデオで見たのよりも、昔にお父さんのを見たよりも、
事故で虎徹君のものを見てしまったときよりも、そのどれよりも生々しかった。
実際には生えている筈なんてないのにミズホのはとても自然に見えて、
朝に思わず確かめたくなった程だった。実際やる気は無いし、元々そんな度胸も無いけれど、
でも夢を見たってことは少しだけ興味があるかもしれない。
「どうしたの、イっちゃん。顔が赤いよ?」
「な、何でもないよ!?」
  夢の中に出てきたときのように至近距離で見つめられ、心臓が早鐘を打つ。
ボクと違い女の子らしい可愛い顔が、こんなにも近くにある。
昨日はもっと凄いことをやっちゃった訳だけど、慣れるもんじゃない。
顔は熱く耳は燃えているように熱い。きっと茹でダコのようになっているんだろう。
それなのに、顔とは逆に頭の中が真っ白になる。
「が、学食行こ!!」
  不思議そうにしているミズホの手を取り、駆け出した。

 それのお陰か分からないけれど、学食はまだ混んでいなかった。
食券の自販機でミズホは葱トロ丼を、ボクはカツカレーを頼む。カロリー?
  何ですかソレ、そんな単語はボク初めて聞きました。
それよりも見て下さいよ奥さん、この肉厚なカツが美味しそうでしょ、
噛んだ瞬間に大量のお汁が溢れてくるんです。それが特製のカレーと混ざって絶品のタレになり、
また美味しく頂けるんです。
  なんて下らないことを考えながら、席を探す。出来れば人が少ない方が良い。
男の子に見られた場合カツカレーを豪快に貪る女子だと思われて敬遠の度合いが
増してしまいそうだし、女の子が居たら何だかキモいことになりそうな気がする。
今日もボクの下駄箱の中には大量のラブレターやお菓子が入っていたのだ。
因みにそれは、別腹が満タンになる程に美味しく頂きました。え? 二の腕? 脇腹? 何の話?
「イっちゃん、どこに……」
「センパァーイ!! ウェルカーム!!」
「イツキ君!! 早く来たまえ!!」
  声に振り向けば、サオリ先輩とチヨリちゃんが満面の笑みで手を振っていた。
少し複雑と言うか、公では表現し辛い性格の二人の周囲には人が少なかった。
サオリ先輩もチヨリちゃんも友達は少なくない筈だけど、今日は珍しく学食らしい。
「ミズホ」
「イっちゃん、どこに座る?」
「え?」

 どこに、と言われても座れる場所は少なくなってきている。
元々広い学食だけど、それは生徒数が非常に多いからだ。
食堂を埋め尽くす勢いで増してくる生徒数は、もう数えるのも無理な状態になっていた。
それにここで無視をするのは、わざわざ席を取っておいてくれているサオリ先輩やチヨリちゃんにも
何だか悪い気がする。
  ミズホの手を取って歩き出すと、心の底から不満そうな顔をしながらも渋々着いてくる。
そして席に着くと、いきなり葱トロ丼を掻き込み始めた。いつもの穏やかで明るく可愛いらしい姿とは
架け離れた、飢えた野獣のような食べっぷりだった。
「ミズホ君、大丈夫かね? 早メシも芸の内だが、その、肥えるぞ?」
「良いんです」
  低く響く音をたてて、丼をテーブルに叩き付けるように置くとサオリ先輩を睨んだ。
「例えデブになっても、イっちゃんは私を愛してくれますから」
「そうなんですか!?」
  チヨリちゃんが驚いたような目で見てくる。どうしようかと思ったけれど、
それは事実なので頷いた。うぁ、恥ずかしい、カミングアウトって結構精神的に来るものがあるな。
教室で持った熱が蘇って、また耳が熱くなる。
  でも、すんなりと告白出来たのは、きっとミズホのお陰だと思う。
虎徹君のことが頭に浮かんだけれど、手紙を読んだときのような辛さが沸いてこない。
それは吹っ切れたからだと思うし、その吹っ切れた理由はミズホがボクを支えてくれたからだと思う。
だから、恥ずかしいけれど悪い気分にはならなかった。

「本当かね、イツキ君?」
「はい、その、ラヴです」
  途端に、周囲から黄色い叫びが聞こえてきた。
見覚えのある女の子達、物好きにもボクのファンクラブを結成した初期メンバーだった。
ボクも同性愛者の仲間入りをしたと告白してしまったのが悪かったのだろうか、
何だかこちらを見る瞳がやけに輝いているような気がする。
これは人前で迂濶に話さない方が良かったかもしれない。
「分かった? だから、二人ともイっちゃんのことは諦めて」
「諦めませんよ」
  珍しく小さな声で、チヨリちゃんが呟いた。掌から落ちたスプーンがオムライスの皿に落ちて、
硬質な音を響かせる。しかしチヨリちゃんの声はその音よりも冷たく、硬い。
「諦めれる訳、無いですよ」
  俯いていた顔を上げる。
  目には焼けるような強い情念の炎が宿っていて、冷たかった声は呼応をするように熱を帯びていた。
綺麗な髪をまとめたポニーテールの先が小刻みに震える肩に合わせ、静かに揺れている。
昔に見たサクラちゃんの怒り方に、似ていると思った。胸の奥から吹き出る炎に
揺さぶられているような、静かだけど激情にまみれた状態だ。
「初恋、なんです。初恋は実らないとか言いますけど、そんな簡単な問題じゃないんです」
  その言葉の意味は、ボクもよく分かっている。虎徹君が彼女が出来たと手紙を寄越してくれたとき、
ボクは泣いた。泣きに泣いて、泣きまくった。一生に一度の大切なものなのだから、
それを無くしてしまうのは本当に辛いのだ。

 ミズホに視線を向けると、少し気不味そうな顔をしていた。ミズホはボクが初恋の相手だと
言っていたから、チヨリちゃんとは正反対の立場に居ることになる。
初恋が実って、ボクの隣に居る訳だから。だから何を言っても心が乗らないと分かっているから、
こんな顔をして黙っているのだろう。
「あのね、チヨリちゃん」
「分かってます、あたしは女なのに、センパイを好きになるのは変だって。
でも、それはミズホ先輩も同じじゃないですか!! あたしの何処が駄目なんですか!? チビだから!? 
胸が小さいから!? 馬鹿だから!? 発言が下品だからですか!?」
  その辺りの自覚はあるんだ、と冷静な部分が嫌な考えをする。でも自覚があったということは、
きっとワザとやっていたんだろう。
冗談だと思わせる為なのか、それともボクに振られたときに少しでも楽になる為なのか、
ボクはチヨリちゃんじゃないから分からない。
「そんなに、そんなにミズホ先輩が良いんですか!?」
「うん」
  チヨリちゃんには悪いけれど、ボクは頷いた。これは紛れもない事実。
ボクが一番大変なときに隣に居て慰めてくれた存在、それがミズホだった。
ボクの初恋の話を聞いてて、辛かった筈なのにボクを励ましてくれた。
  だから、その気持ちは裏切れない。
「ミズホ先輩、幼馴染みってだけで!!」
「うるさいわね、さっきから。イっちゃんは……」
「落ち着きたまえ」
  二人の声を打ち消すように、サオリ先輩が言った。

7

 サオリ先輩は、ふう、と吐息を一つ。
「こんなに騒いだら他の者に迷惑だし、何よりイツキ君が嫌がっている。
好きだというのならば、それこそイツキ君が嫌がるようなことなどするべきではないのかね?」
  そう言えば、さっき激しく喋っていたのはミズホとチヨリちゃんだけで、
サオリ先輩は普段の奇抜な求愛行動から考えると不自然なくらいに静かだった。
あ、それと嫌がる云々の辺りで突っ込んで良いのかな。
普段からスカートの中を覗かれたりとか積極的痴漢とか実は結構嫌なんだけど、
でも空気的には駄目なんだろうなぁ。駄目だ駄目だ、何だか頭がこんがらがって
意味の分かんないこと考えてる。
  でも、まずやらなきゃいけないことは一つ。
「ありがとうございます、サオリ先輩」
  お辞儀をすると、サオリ先輩は頷いた。満足そうに何度かそれを繰り返し、
しかしボクが顔を上げると何故か悲しそうな顔になった。
あれ、もしかして上目遣いが見たかったのだろうか。
違う、角度的なものと、今のボクの服装を考えて、
「見ました?」
  尋ねると、返ってくるのは満面の笑み。
「イツキ君は実に白が似合うね、レース地のものだというのもポイントが高い!!」
「そんな大きな声で寸評しないで下さい!!」
  慌てて襟元のボタンを一番上まで留めて、ネクタイもきっちり締める。
それだけやってまだ視線が胸の方に着ているので、腕で隠すように体を抱いた。
これだけ厳重にしたら、幾らサオリ先輩が変態でも中を見たりとかは出来ない筈だ。
いや、そうだと信じたい。

「それで、何でミズホとチヨリちゃんまでボクの胸を見るのかな?」
「いやいや、やっぱイッちゃんのおっぱいだし。生とは違う醍醐味が」
「純粋にセンパイの乳が見たいので。来たれ目覚めよESP(EroSpecialPower)!!」
  四面楚歌、ボクは完全に包囲されている!!
  何だろう、この理不尽な仕打ちは。確かに険悪な雰囲気は消えたみたいだけど、
何だか妙な方向にヒートアップしている。突っ込み役だったミズホまでおかしくなって、
もう、ボクはどうしたら良いんだろうか。ちょっと前までの常識重視人間ミズホに戻ってほしい。
「さて、馬鹿な話はここまでにして、真面目に……もう少し良いかね?」
「駄目です」
  一瞬うなだれた後、すぐにサオリ先輩は顔を上げ、目を細めた。元が物凄い美人だから
こうした仕草がよく似合う、素直に格好良いと思ってしまった。ちょっとだけ羨ましい、と思う。
ボクがこうしても、犯罪者が悪巧みをしているようにしか見えないし。
「ミズホ君もチヨリ君も騒いでいたが、肝心なことを忘れている」
  二人を交互に見て、その後でサオリ先輩はこちらを向き、
「大切なのはイツキ君の気持ちではないのかね?」
  沈黙。
  ミズホもチヨリちゃんも、それどころか食堂全体の声が止んだ。箸やフォークを動かす音もなく、
BGMにエンドレスで流れている伴奏のみの校歌の音だけが耳に入ってくる。
「ボクの、気持ち?」

 声が消えるのと同時に、頭の中身も消し飛んでしまったらしい。つい呆然としていて、
馬鹿みたいにオウム返しをしてしまった。しかしサオリ先輩は特に気にした様子もなく、
そうだ、と言って一直線にボクの目を覗き込んでくる。怖い、と言うよりも不思議な感じ。
「イツキ君、君の気持ちだ。あぁしたい、こうしたい。あぁしたくない、こうしたくない、
そんなものがあるだろう。率直に言ってくれても構わないし、言わなくても良い。自由だ」
  自由。
  自を由とする、という意味を持った言葉。
  でも今はその言葉の持つ意味が、よく分からなかった。どうにでも出来るということは、
したいこと、するべきことを自分で選ばなければいけないということだ。
選択肢や結果が全て肩や背中に乗っかってくるということ。
殆んど無限に存在するそれは、堪らなく重い。
そして重ければ何も出来ないし、何も出来ないということは全然自由じゃないということ。
  言葉が、浮かんでこない。
「イッちゃん」
  左を見ると、不安そうなミズホの顔があった。
「うん」
  何が、うん、なのか。適当に返事をするしか出来ない自分がとても憎たらしい。
「イッちゃんは私のこと、好きだよね?」
  今度は意味を持って「うん」と言おうとしたけれど、それを遮るように、
「口を挟まないで貰おうか」
  冷たいサオリ先輩の声が響く。
「確かにミズホ先輩にはムカっ腹立ちますけど、そんな言い方」
  チヨリちゃんまでもがミズホの擁護に回ろうとしたけど、それも鋭い視線で遮られた。

は意味を持って「うん」と言おうとしたけれど、それを遮るように、
「口を挟まないで貰おうか」
  冷たいサオリ先輩の声が響く。
「確かにミズホ先輩にはムカっ腹立ちますけど、そんな言い方」
  チヨリちゃんまでもがミズホの擁護に回ろうとしたけど、
それも鋭い視線で遮り、
「私は意見することも恨まれるのも構わんがね、しかしイツキ君の気持ちになってみたら
どうだろうか。強引に私が作り出したものとはいえ、今は大切な時間だ。
必死に悩んで、そして答えを出そうとしているときに外野に騒がれたらどう思うね?」
「あの、ミズホは外野じゃ」
「答えを出すのは君だよ、イツキ君。私達は答えの受け手だ」
  何も反論出来ない、どうすれば良いんだろうか。こんなときに虎徹君だったら、多分、
悩みながらでも答えのヒントくらいは自分で見付けていたかもしれない。うろたえたり、
迷ったり、そんなことをしながらでも進もうとする人だった。
でも、それに対してボクは何も考えられない。考え、悩んで、答えを出そうとしている。
そんなサオリ先輩の評価は間違っている、買い被りも良いところだ。
どうにも出来ずに道の真ん中で立っているだけ、進むことも戻ることも何も出来てやしない。
どうしよう、泣きたくなってきた。
「ヒドいですよ、それ」
  ボクの気持ちを代弁するように、隣から声がした。
「そんなの、イッちゃんに対する押し付けじゃないですか」
「恨まれるのは構わないと言った筈だ、そして言葉を慎めとも」
  あくまでもサオリ先輩の言葉は冷静なもの、周りの全てを突き放しているとさえ思える
ような、感情を削り取ったようなものだった。きっと、言っているサオリ先輩本人が一番
辛いんだろう。だからこそ人に見せたくなくて、きっとそうしているんだろうと思う。
  そして、見せていないから、気付かない人が居た。

 拳を握り締め、ミズホは立ち上がり、
「駄目です」
  意外なことに、ボクが動く前にチヨリちゃんに止められた。
声の力は弱くて、制止する動きも裾を軽く摘んだだけのものだ。
あまり力を込めていない腕の一振りでも外すことが出来るようなもの。
だけど表情は強く意思が表れたもので、頑なものがある。
退かない、と悟ったらしく、ミズホはサオリ先輩から視線を外して再び座った。
ミズホが怒ったのは純粋にボクのことを心配してのことだろうから、ボクもあまり強く言えず、
視線を向けることしか出来なかった。そしてまた静かになる。
  数秒。
  沈黙が続き、
「さっきサオリ先輩が口を慎めと言いましたが、あたしからも一言あります」
  二度目の静寂を破ったのは、チヨリちゃんだった。
「サオリ先輩がセンパイにラブラブズキュンなのは分かりますし、
あたしも子宮に直撃的メロメロリンですが、その方法は卑怯だと思います。
サオリ先輩の方法を恨みはしません、でも、これだけは言わせて下さい。
今のサオリ先輩は、はっきり言って最低です」
「分かっている」
  そうですか、と答えて、次にチヨリちゃんの目が向いたのはボクの方だった。
  何か、言わなくちゃ。
  さっきは出来なかったこと。
  迷い、悩み、考えて、不格好だけど一つの言葉を見付けた。人はそれを逃避とかヘタレとか
言うかもしれないけれど、僕にとっては違うもの。多分虎徹君も、こう言ってくれると思う言葉を、
心の中で強く浮かべた。
  覚悟、と。

 そう格好着けたけど、随分情けない覚悟だな、と思いながら、息を吸い、そして吐き、
「ごめんなさい」
  その言葉で切り出した。
「ごめんなさい。チヨリちゃんも、サオリ先輩も。そしてミズホも。自分勝手かもだけど、
答えは出せないよ。ボクはミズホが好き、それは間違いないけどさ。でも二人の気持ちも
無下にしたくないし、それを消化できる考えも持ってないんだよ。
だからね、もし許してくれるんだったら少しだけ時間を頂戴。
そしたら絶対に、答え、見付けてみせるからさ。
だから、ごめんなさい。今だけは、この言葉を預かってもらって良いかな?
  いつか必ず、その言葉を返してもらえるようになるから」
  時間は絶対にかかる。
  その間は皆を傷付けてしまうだろうし、馬鹿ばかりしてしまうだろう。
  エゴかもしれないけれど、でも、絶対に納得出来る答えを見付けてみせるという、
その覚悟をボクは決めた。他の誰でもない、サオリ先輩が言った通り答えを決める『ボク自身』
が納得出来るような、そんな答えを出すと決めた。
  きっとそれが、誰にとっても一番だと信じて。
  ふむ、とサオリ先輩はいつもの無表情に顔を戻し、
「今日はここでお開きだ。押し付けかもしれないがね、私は、全てをイツキ君に任せようと思う。
そうして考えた末の結論なら、例えどんな結果になっても受け入れよう」
  喉が渇いたな、と言って一気にお冷やを飲み干して、拳で唇を拭う。
結構なお嬢様の筈なのに、意外と男前な仕草。
そしてサオリ先輩はこちらを一度も見ることなく、トレイを
おばちゃん達のところへと持っていった。

2007/07/22 To be continued....

 

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