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good boy:fake girls



第1回 『朝−昼』

ぴりりりりりりり。

目覚ましのアラームが、僕を夢の世界から現実に引き戻す。
あぁ・・・もう朝か。

僕──薙代 歩(なぎしろ あゆむ)は、アラームのスイッチを切ると、ベッドから起き上がった。
時刻は七時過ぎ。
普通の人なら二度寝でもしたくなる様な時間だろうけれど、僕の場合はそうも行かない。
まだ眠い眼を擦りながら床に足を着けると、白いカーテンを思いっ切り開き放った。
途端、眩い光が部屋全体を照らし、僕は思わず眼を細めた。

光の向こうには、僕の家から見下ろす形で幾つもの家々が並んでいる。
天気はこの上なく澄んで。
遠くからは、早くも出勤の人を乗せた車の音が聞こえてくる。

何かが始まる予感、と言うより確信。
この毎朝の光景を見ていると、少しだけ、日々の重圧を忘れられる気がする。

・・・思えば、これが、僕が独りになる代わりに手に入れる事ができたものなのかも知れない──。

 

僕の朝は忙しい。

階下に下りると第一に台所に向かい、一人分の朝食を作らなければならない。
冷蔵庫からそれなりに使えそうなものを見繕って取り出す。
なめこに卵、それからベーコン・・・あぁ、それから茄子もよさそうだな。
それと味噌と油と醤油・・・って、醤油はもう切れ掛かってたんだったけ。
ストックなかったらまた買ってこなくちゃなぁ・・・と思いつつ包丁と俎板を出して、僕は先ずベーコンの捌きから始める事とした。

それから三十分後。
御飯、なめこ入りの味噌汁、ベーコンエッグ、焼き茄子。
それらをきっちり胃袋の中に収めると、手早く使い終わった食器を水洗いする。
食後の歯磨き、洗顔が完了したら、休む暇なく再び二階へ。
昨日の夜に洗濯して部屋干ししておいた衣類をベランダに移して吊るす。
今日もいい天気だから、よく乾いてくれるだろう。
風に吹き飛ばされない事を確認してから、ベッドのある自室に戻った。

クローゼットから制服を取り出して着替え。
ふと時計を見ると、七時五十分・・・不味い、ゆっくりし過ぎた。
鞄を引っ掴んで家を飛び出そうとする・・・その前に。

居間に据えられた仏壇の前で、僕は手を合わせる。
・・・。
・・・。
・・・。
「行ってきます」

 

自転車を懸命に漕いで駆けた結果、僕が学校に到着したのは八時十五分を回った頃だった。
昇降口で上履きに履き替えて、その足で二年の教室が並ぶ四階に向かう。

我が二年A組の教室に入ると、先ず最初に眼につくのは人の少なさ。
どうやらこのクラスは時間にはルーズらしく、結構な数の生徒が予鈴前に慌てて駆け込んで
くるのが日々の光景になっている。
そんな中、毎朝変わらぬ姿で僕の机の隣に座っている少女が一人。
近づくと彼女も僕に気づいたのか、微笑みと共に朝の挨拶を送ってきた。
「お早う、薙代君。今日は遅かったんだね」
「・・・お早う御座います、天使さん」

天使 伊祈(あまつか いのり)。
僕の数少ない女性の知り合いであり、いつも隣り合って授業を受けるクラスメイトであり、
そして・・・このクラスを率いる委員長。
因みに僕は副委員長を務めているので、天使さんは職務上僕にとって目上の立場の人になる。
「いや、今朝は少しのんびりし過ぎてしまったので・・・」
その為か、どうも天使さんと会話をする時は敬語になってしまう。
・・・まぁ、順逆の区別はつけるべきなんだから、これでいいのだろうけれど。
「ふふ、そうなんだ」
対する天使さんは優雅に笑う。

僕は机に座ると、朝の短い時間を天使さんとの談笑に費やす。
それはとても他愛のない話なのだけれど。
今や日常と化したこの光景に、・・・呑気かも知れないけれど・・・僕は平穏を感じられるのだ。

 

天使さんについてのあれこれを、僕は彼女が作ってくれたお弁当を食しながら考える。

先ず最初に思いつくのは、眉目秀麗と言う事。
整った清楚な顔立ちとすらりとした肢体による美しさと、アクアマリンのリボンで結われた
栗色のポニーテールの可愛らしさとが絶妙な加減でマッチしている。
聞くところには、彼女に告白して玉砕したと言う人は二桁にも上るらしい。
明るくさばさばしたその性格は男女両方から好かれており、一説には天使伊祈ファンクラブ
なる組織もあると言われている程の人気だ。

それに加え、成績優秀。
テスト毎に貼り出される順位表では只一度だけの例外を除けば常に天使さんの名前が
トップに躍っている。
僕はその後塵を拝する形で毎回学年二位・・・って、そんな事はどうでもいいか。
更に対外活動・・・英語のスピーチ大会や美術のコンテストでも、彼女が入賞しないと言うのは
先ずあり得ない事であった。

しかも文武両道を体現するかの様な目覚ましい運動能力。
五十メートルを六秒で駆け抜け、テニスではテニス部所属の女子にも引けを取らない技術を披露する。
その他、バスケットボール、バレーボール、バドミントン等々・・・どの競技でも八面六臂の大活躍だ。

これで大富豪の娘──とか言ったらグランドスラムもいいところだけど、幾ら何でも
そこ迄は行かないらしい。
とは言え天使さんが僕に伝えてくれた事によると、お父さんは敏腕の検事、お母さんは
一流のキャリアウーマンだとか。
収入がどれ位かは流石に分からないけれど、その額が低くないと言うのは僕だって
簡単に予想できる事だ。
・・・そう言えば天使さん、何で僕なんかに御両親の職業を教えてくれたんだろう?
別に僕から訊いた訳でもないのに・・・まぁいいか、気にしないでおこう。

要約すると、容姿端麗、頭脳明晰、抜群の運動神経、恵まれた家庭環境。

そして、僕は右に出る者のいないこんな優秀な少女と、一緒に昼食を御相伴させて頂いている訳で。
何と言うか・・・彼我の差を感じて、小さく溜め息が漏れてしまった。

「──君? どうかした?」
「えっ?」
気づくと、天使さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
・・・っと、駄目だ、ちょっと考えに浸り込んでしまっていた。
よくよく見れば、箸も先程から全く進んでいない。

「ぁ・・・いえ、ちょっと考え事を・・・。それで、何の話でしたっけ?」
「もう。聞いてないんだから」
天使さんは頬を膨らませて怒る、が直ぐに元の柔和な表情に戻った。
「だからさ、近頃薙代君疲れてる様に見えるから大丈夫? って訊こうとしてたんだけれど」
「疲れている・・・ですか?」
うん、と天使さんは肯定する。
「最近、何だか顔色が悪いし。話し掛けても今みたいにぼんやりしてたりとか」
「そう言われれば・・・確かに、そうかも知れません」
先刻も思考に没入し過ぎて、天使さんの呼び掛けに反応する事ができなかった。
顔色がよくないと言うのは自分では余り認識できないけれど、天使さんがそう言うなら
きっとその通りなのだろう。

「本当に大丈夫? もし君に倒れられたら、私独りじゃ仕事も厳しくなるんだけどな」
「いえ・・・御心配には及びませんから。それに、天使さんなら単独でも十分やって行けますよ」
冗談めいた事を言う天使さんに笑って答えると、そうかなぁ、とどうしてか天使さんは首を傾げる。
大丈夫ですよ、と僕は自分の発言を強調する様に首肯を返す。

 

そう、僕は彼女には及ばない。
どう足掻いても、どう努力しても、天使さんに追いつく事なんてできやしないんだ。

天才と凡人の差、如何ともできない大き過ぎる隔たり。

彼女とのまだ短いつき合いの中で、もう何度味わったか分からない諦念を、
僕は天使さんのお弁当と共に腹の中へと流し込んだ。

2

──向こうを見据え、背筋を伸ばし、気を張り詰めて。
僕は左手に構えたそれから、右手で掴んでいるものを撃ち出す。
この一瞬だけは、何もかもを忘れられる。
明日の糧とか、自分の現状とか、劣等感、失意、絶望・・・そう、何もかもを。

そうしてゆっくりと、しかし鋭く右手を放す──。

 

「ふぅ・・・」
「お疲れ様です、部長」
稽古の間の休息、掛けられた声に顔を上げると、一人の少女が僕のタオルを片手にして立っていた。
「あ、御陵さん・・・有り難う御座います」
自分でも思っていた以上に掻いていた汗を、少女から受け取ったタオルで拭う。

今労いを掛けてくれたこの少女は、御陵 止御(みささぎ しおん)さん。
現在、僕が属する弓道部の副部長。
綺麗な黒の長髪を結ぶ事なく伸ばしていて、顔立ち、性格共に風雅が漂うと言う、
まるで深窓の令嬢の如き人だ。
その凛とした立ち居振る舞いは、僕の短い人生の中でも彼女をして袴の似合う女性ランキングの
一位にせしめている。
まさに彼女こそ上流階級、お嬢様と呼ばれる類に違いあるまい──。
・・・と、そんな事を僕は思うのだがそれはどうやら勝手な偏見の様で、
本人曰く、極々平凡な一家庭の出身らしいが。

 

「はぁ・・・今日は暑いですね」
汗を拭く間に、僕は素直な呟きを漏らした。
弓道部の活動場所であるこの武道場は窓を開けても風通しが悪く、しかも七月も上旬を過ぎた
今日となっては湿度が高く非常に不快だ。
見れば御陵さんも僕同様、首筋に相当の量の汗の粒を浮かべている。
・・・何と言うか・・・ちょっと不安になった。
「御陵さんの方は大丈夫ですか? 気分が悪いとか、喉が渇いたとか・・・」
しかしそんな僕の心配を、彼女はきっぱりと否定する。
「いいえ、私は全く平気です。お気遣い有り難う御座います、部長」
「そう・・・ならいいんですけれど」
僕の汗をたっぷり吸ったタオルを受け取りつつ、それより、と御陵さんは言う。
「部長、また私の動きを見て頂けませんか? そろそろ大会も近いですので」
「あ、そうですか。別に構いませんよ。僕でいいのなら」

僕や彼女が属する弓道部は、部長の僕が言うのもあれだが、余り校内で目立った存在ではない。
御陵さんと僕を含めて考えても、部員は片手で容易く数えられる程の人数しかいない。
これでもまだ去年・・・僕が一年生の頃は三年の先輩も多かったのだが、最早今ではこの様な有り様に
なってしまっている。

──まあ、仕方のない話でもある。
この学校は進学校としてその名を売っている割に、野球部、テニス部が共に全国クラスと言う実績も
抱えている。
となれば当然それ目当てに集まってくる少年少女も多い訳で、
只でさえ地味な弓道と言うスポーツはそれら二つの球技の前に霞まざるを得ないのが現状なのだ。
おまけに活動場所が、選りにも選って、校舎裏の目立たない武道場と来ていると言う始末。
因みにここを活動場所として登録している部活は他に卓球部と柔道部しかなく、
更につけ加えるならば、両方とも現在休部中である。

・・・しかし、別に悪い事尽くめと言う訳でもない。
いい意味で部自体はアットホームな雰囲気だし、部員同士の仲も頗る良好だし。
先程御陵さんが僕に頼んできた様に、皆で互いに教え合い、また教えられ合う。
それに何より──校舎裏のこの建物には、殆ど音が届かない・・・要するに精神統一には
持って来いの場と言う事。

多分、もしこの条件がなかったなら、僕は弓道部に入っていなかったかも知れない──
今だと、そう思う。

閑話休題。

そんな訳で、御陵さんの稽古を注視する事となった僕。
僕に指南を頼んだ少女は凛として弓を構え、遥か前方の的を見詰めている。
そして徐に矢を番えると、一発。
御陵さんの放ったそれはほぼ直線に近い放物線を描いて的に突き刺さった。
当たったのは・・・ふむ・・・的の中心からやや下方の位置、か。
黒髪を靡かせつつ振り返ると、御陵さんは僕に意見を仰ぐ。
「どうですか、部長」
「うーん・・・力がちょっと足りないですね。前よりも正確性が向上したのはいい事ですけれど、
矢に込める力が足りないと一回一回の結果が安定しませんから。次はその事を頭に入れて
やってみて下さい」
僕の発言に、分かりました、と頷いて、再び的に向かう道半ばの少女。

しかし偉そうな事を言ったものの、実際のところ、御陵さんは今年四月から──
入部してからの数ヵ月間で、
めきめきとその頭角を現してきている。
今こそまだ段位には達していないけれど、この侭順調に成長して行けば、僕の所有する弓道一段を
追い越す日もそれ程遠くはないだろう。
・・・とは言え、その事で別に御陵さんに対して劣等感を感じている訳ではない。
寧ろ僕としては出藍の誉れの故事を地で行っている彼女に祝福を送りたい位である。

うん──祝福。
先程よりも鋭さに磨きが掛かった矢が的を射抜くのを眺めながら。
自分にはその言葉がお似合いだと、僕はちょっとだけ思いを馳せた。

 

さて──そうして、弓道部の活動も終わる。
自分の使い慣れた長弓をロッカーに仕舞い込むと、弓道衣を突っ込んだ鞄を肩に背負って外へ出た。
汗に塗れた体に、追い打ちの様に襲い掛かるじめっとした蒸し暑い空気。
これだと、家に帰ったらシャワーでも浴びないときつ過ぎるかもな──と部長の務めとして
武道場の鍵を閉めながら思う。

そう言えば、まだ御陵さんに、僕が預けたタオルを返してもらってないな・・・。
とは言え御陵さんは既に僕より先に武道場を後にしているので、今更どうする事もできない。
どうする事もできないのだが・・・しかし、やっぱり、それは余り気分のいいものではなかった。
僕の汗なんかが染み込んだタオルなんて、御陵さんも持って帰ってたら迷惑するに違いないし。

明日、部活の時に彼女に謝ろう・・・うん、そうだ、そうしよう。

と思い、鍵を返すべく職員室への道を歩き出そうとした、その矢先。

「あ、部長。待っていました」
今迄僕が思考を巡らせていた当の本人、御陵さんが武道場を出た直ぐところに立っていた。
・・・一瞬、思考が固まる。
あれ?
何でまだここに御陵さんがいるんだろう?

「御陵さん、帰ったんじゃなかったんですか?」
「いえ・・・前から思っていましたが、いつも部長に施錠などのお仕事を任せるのは申し訳ないと
感じまして」
殊勝な事を告げる御陵さん。
それに対して僕の口からは反射的に、否定の言葉が漏れた。
「いや、これは部長の務めですから・・・御陵さんのお手を煩わせる事もありませんよ」
そう、この一連の作業は僕の仕事なのだから、彼女が申し訳ないと感じる必要なんて微塵もないのだ。
寧ろ・・・部活が終わって更衣、それから逐一施錠の確認をして僕が武道場を出る迄に
二十分以上が優に掛かるのだから、
こうして炎天下の下で延々待ち続けていた少女の方がいい迷惑だろう。
「それより、僕の方こそ済みません。態々こんな暑い中で待っててもらったなんて・・・」

しかし、僕の謝罪に御陵さんは首を横に振る。
「いいえ──部長。最後の始末が部長の仕事であると言うのなら、部長の補佐は私のするべき
務めです。ですから、この程度の暑さなどは部長の労苦を比較すれば些事にすらなりません」
「・・・」

淀みなく理路整然と語る少女に沈黙する僕、若干十七歳。

何て言うか・・・僕と彼女が同い年なんて全くの冗談にしか思えない。
前から思ってたけれど、部長の肩書きは僕などではなく御陵さんにこそ相応しいのではなかろうか。
まあ、そんな事を言えばほぼ確実に謙遜が返ってくるだろうので黙る事にしているが。

しかし兎に角、こうして待ってくれていたのは感謝すべき事に違いない。
取り敢えず頭を下げて、有り難う御座います、と僕はお礼を言った。
「・・・それじゃあ、行きますか。随分お待たせしてしまったみたいですけど」
「はい。お供させて頂きます」

 

──こうして、部長になり切れない部長の僕と、副部長になり切っている副部長の少女は。

二人、並んで歩き始めた。

3

──さて、ここで少し考えてみよう。
時刻は夕焼けを迎えた放課後。
眩い夕日に照らされる中を、僕の様な凡庸な奴が少女、しかも見目麗しい子と二人、並んで進む。

それは人から見たら艶めいた光景に映るかも知れないが、しかし、そう上手く物事は回らない
と言うのがこの世の常と言うものである。
その原因を具体的に述べるならば。
「・・・」
御陵さんは寡黙なのだった。

 

現在、職員室に武道場の鍵を戻した僕達は昇降口に向かうべく歩いている途中。
七月は一年で最も太陽が高くなる頃と言われているが、流石に六時近くとなると
それも斜陽に変じている。
そんな状況の中で、会話をしつつ足を進めている御陵さんと僕。
・・・いや、会話と呼ぶには齟齬があるかも知れない。

試しに一つ、御陵さんとの会話・・・と思しき一部を抜粋してみよう。

「・・・」
「・・・」
「・・・御陵さん、ナポレオンとブリッジだとどっちが好きですか?」
「強いて言うのならナポレオンですが、個人的にトリックテイキングゲームは余り好きではありません」
「そうですか」
「はい」
「・・・」
「・・・」

──とまぁこんな感じで、常に会話と呼べる程に言葉の遣り取りが成立しないのだ。
大抵の場合僕から質問か何かを切り出して、それに御陵さんが二言三言返事をして、それで終わり。
それだけなのだ。
まだ反応を返してくれるだけ増しだが、正直一方的に話を持ち掛けているこちらとしては
気まずさしか感じられない。
ちらちら横目で隣を窺うものの、御陵さんはデフォルトが無表情なので、楽しんでいるのか
退屈しているのかさえ分からない。

あー・・・。
事ここに至って、実は僕と御陵さんはそう言う意味での相性がよくないのではないかと言う気が
頗る勢いで湧いてきた。
御陵さんは考える迄もなく饒舌ではないし、斯く言う僕も喋るのは余り得意ではない。
これが西条君や東さんみたいなムードメイカータイプなら少しは場も明るくなろうが、
生憎僕はネガティヴにメランコリックの二乗掛けをした性格なのでどうしようもない。
考えてみれば──部活動から離れて御陵さんと向き合うのは、僕にとってこれが初めてになる、のかな。
部活でも御陵さんが声を掛けてくる時は飽く迄副部長、或いは一部員としてでしかないのだし。

・・・なら、実際はどうなんだろう?
僕の心の内に、忌まわしい事に・・・ある一つの懐疑が生まれた。
確かに、御陵さんは副部長として十分過ぎる程にその責を果たしている。
だがこんな風に部活の事から離れて僕と接する時には全くの寡言──
だったら、それは一体何を意味する?

それは即ち、御陵さんが只の義務のみとしてつき従っているのであって、本心では酷く嫌がっていると
言えるのではないか──。

・・・馬鹿め。
僕は即座に自身を罵倒した。
人の心を自分勝手に悪い方向へ解釈するなんて、愚かと言う以外の何物でもない。
けれども──これは、こんな思考は言ってしまえば僕の病気の様なものだ。
だから、止められない。

他者を悲しませているんじゃないのか。
他者を苦しめているんじゃないのか。
他者を──傷つけているんじゃないのか。

・・・やめよう。
これ以上余計にうだうだ考えても、陰鬱な気持ちとなってしまうだけだ。
昔のあの記憶を・・・思い出しそうになってしまう。

あぁ──確かに疲れてるな、僕。

 

意図せずして溜め息を吐く僕。
と、その嘆息に呼応したかの様に、隣を歩く少女が突然足を止めた。
「・・・?」
反応が遅れた僕は、二三歩進んでから立ち止まる形となる。
どうかしましたか、と急に停止した御陵さんに僕が声を掛けるその前に、
機先を制した御陵さんが動いていた。
僕の背後を取る様に、すっと素早く擦り寄って。
その行動を捉えるより早く僕が感じたのは、肩に対する圧迫だった。
しかしそれは強くなく弱くなく、丁度いい強さの圧力──そう、マッサージと呼んで差し支えないもの。
ちらりと眼だけ動かして窺った背後、そこにあったのは僕の両肩に手を添える御陵さんの姿だった。

「・・・」
・・・は?
余りの事の唐突さに、僕の脳味噌がついて行っていない。
僕は自分にはそれなりに適応性があると自負している輩なのだが、流石にこんなイベントは
想定の範囲にない。
って言うか、何で肩揉みなんですか?
男が同級生の女の子にマッサージを受けているなんて、第三者に見られたらかなり奇異に映る
光景に違いあるまい。
しかも、それをしてくれるのが他の誰かなら、あの御陵さんが?

──いや、冷静になれ自分。
錯綜する思考を落ち着かせる為に、僕は現状分析を試みる事にした。
時刻は夕暮れ、場所は校舎と校舎を結ぶ渡り廊下・・・うん、それはどうだっていい。
僕は差し込む夕日に照らされながら、肩に指圧と思しき行為を受けている・・・
それも、取り敢えず理解する事ができる。
分からないのは──それをするのが、何故彼女なのか、と言う事だ。
もう一度言おう、どうして御陵さんが男の肩を揉む?

「・・・」
「あの、御陵さん?」
「部長は──」
行動の真意を問い質そうとした僕を遮るかの如く、御陵さんは半ば独り言の様に告げる。
「部長は、背負い過ぎなのです」

──。

一瞬、思考が停止した。
「もっと楽になさって構わないのです。部長だけが苦しむ必要などどこにもありません」
「・・・」
僕の心中を見透かしたかの様に、御陵さんは、言う。
「私から見て、近頃の部長は酷く疲弊なされているとしか思えません。部長の負担は我が不始末。
東さんはいつもの事だなどと仰っていましたが・・・きっと、私の力不足が祟っているに相違ありません」
「それは──違いますよ」
何とかそこ迄来て、言葉を返すだけの余裕を心に取り戻す僕。
「別に変な意味じゃなくて、本当に東さんの言う通りなんです」
僕は同窓生であるあの関西弁の少女の事を頭の片隅に思い浮かべながら、続けた。
「僕が疲れているのはいつもの事ですよ。ほら、僕って暑がりですから、特にこの季節は
消耗し易いって言うだけで。
夏が明けたら、直ぐに元に戻りますよ。ですから──御陵さんがお気を病む必要はありません」

今言った事の半分は嘘だ。
別に僕は暑がりではないし、寧ろ夏の茹だる暑さよりも冬の凍てつく寒さの方が苦手な人種である。
けれども・・・もう半分は、本当だ。
この時期は、どうにも要らない事を思い出してしまう。

今だってそうだ、僕はあの日の空気を、あの日の光景を、頭のどこかに過ぎらせてしまっている──。

 

・・・いや。
今は僕の下らない感傷などはどうでもいい。
それよりも、この状況ではもっと別に言うべき事がある。
「御陵さんこそ──嫌じゃないんですか? 男の、しかも好きでもない奴の肩を揉むなんて、
貴方にとっては苦痛に違いないでしょう」
「それは・・・。・・・」
彼女にとって、今自分のしている行為が一体どの様な意味を持っているのか。
これは、幾ら記憶力の優れない僕でも覚えている。
このか弱い少女の心身諸共、全てを引き裂き壊した、去年の初冬の出来事を。
それが証拠に、理路整然とした発言が常の御陵さんには珍しく、その言葉尻が淀んでいる。

しかしそれでも尚、御陵さんは搾り出す様にして述べた。
「・・・ですが、私は私の義務を果たさなければなりません」
「だったら尚更でしょう。苦痛を伴う義務なんて、それこそ御陵さんに負担させる積もりはありません」
「では・・・きっと私は楽しいから、この義務を行っているのです」
「そんな、楽しいって──」
「ええ、とても楽しいです。私は部長を労う事が楽しくて楽しくて堪りません。あははははは」
「いや、ちょ、御陵さん」
「あははははは」
「・・・」

丸っきり台詞棒読みの笑い方をする少女、しかも無表情。
・・・そこ迄無理に開き直りますか。
どうも御陵さん、思っていたよりも強情な様だった。

「・・・分かりました」
結局先に折れたのは、僕の方だった。
こんな風に開き直った人を説得するのが難しいのは、如何に人生経験の短い僕でも
幾度となく体感した事だ。
加えて御陵さんみたいに理知的な人が一旦凝り固まると牽強付会で押し込められてしまう為に、
余計に性質が悪い。
とは言え、ここで完全に屈服する心積もりも僕にはない。

わざとらしく嘆息する仕草を見せてから、僕は御陵さんに言った。
「じゃあ、もうそんな事をするのをやめろとは言いません。その代わり──」
「?」
受け取るだけは、好きじゃない。
「僕にも、御陵さんに何かさせて下さい」
「え・・・そんな、それは失礼です」
僕の言う事が想定の範疇になかったのか、御陵さんは僅かに狼狽した様だった。
そんな少女に、追い打ちを掛けるが如く語る僕。
「どうしてですか? 義務と言うのなら、僕にも部長として副部長以下部員全員を
気遣うと言う必要があるんですよ?」
「う・・・」

僕は黙って一歩前に進み、それから振り返る。
構図としては、御陵さんと距離を開けて対峙している形だ。
夕暮れ時の校内、渡り廊下で向かい合う少年と少女、周りに人影はなし。
沈む太陽を惜しむ様に響く蝉の大合唱が、逆にこれ以上ない静寂となってこの場を支配している。
これもまぁ、見る人から見れば些かロマンティックに見えるかも知れないが、実際はそんなのではない。
──御陵さんが、異性を好くなんて、絶対にあり得ない事だろうから。

ゆっくり、僕は言い含める様にして眼前の少女に告げる。
「御陵さん・・・こんな機会は今が初めてだから言いますが、僕はいつも御陵さんに感謝しています。
たとえ表面上であったとしても、こんな奴を普段から気遣ってくれるその誠意に・・・
心から、感謝しています」
だからこそ。
「だからこそ──貴方の誠意に、僕も尽くさなければなりません。それに、人から受け取ってばかり
と言うのも、好きではないですから」
「・・・」
「だから、何でも好きな様に言って下さい。僕にできる範囲なら、何でも」
「・・・っ!」

その刹那に。
まるで膨れ上がった風船が破裂するかの如く。
僕は、無表情が常の御陵さんが今迄の中で最も大きな感情の起伏を見せるのを──
具体的には動揺するのを──確かに、見た。
その動揺をどうにか静めようとでもするみたいに、少々声を吃らせつつ少女は口を開く。
「な、何でも・・・ですか? 部長・・・」
「ええ。約束してもいいですよ」

約束。
約束と言うものは、僕は嫌いではない。

「・・・本当に、いいんですか? 約束してしまって」
確認するかの様に、御陵さんは問うてくる。
それに対し、僕は少しだけ・・・本の少しだけ、沈黙してから、答えた。
「・・・ええ。勿論」

約束を守っている間は、自分がこの世界で生きている実感があるから。
だから、嫌いじゃ──ない。

「・・・」
暫らく御陵さんは黙考していたが、やがて、すっと前へ歩み出た。
僕の横を通り抜け、更に前へ進み、そこで止まる。
「じゃあ、一つだけ──お願いをしても宜しいですか?」
呟きに近い、御陵さんの声。
背中を向けられた僕からは彼女の表情は窺い知れないが、無論ここで僕に断る道理はない。
「はい。何なりと」
「・・・じゃあ・・・」
ちょっとだけ躊躇する動作を見せた後に、少女がこちらへ振り返る。
そして、徐に。
徐にその左手を、僕に向けて差し出した。
「・・・手を、繋いで頂けますか?」
「!?」
少女のその申し出に──僕は、横っ面を殴られるに等しい衝撃を受けた。
何だって・・・手を繋ぐ?
それこそ他人に見られて悪い噂が立つかも知れないと言うのに?
それが先の肩揉みよりも更に際どい行為だと聡明な彼女が分かっていない筈がないのに、何故。

「・・・駄目ですか?」
縋る様な眼をして、御陵さんは言う。
そんな彼女に──。
「・・・いえ、全く構いませんよ。約束ですからね」

約束は──守るさ。

それにあんな顔で求められたら、意志薄弱な僕では拒否するなんて事ができる筈もない。
湧き起こる疑念や理不尽を全て心の中に封じ込めると、僕は御陵さんの左手に、
己の右手を重ね合わせた。
「・・・有り難う御座います、部長。・・・では、参りましょう」
「ええ、そうですね」

 

それから再び、僕らは歩み始めた。
相変わらずお互いに積極的な会話が交わされる事はなかったけれど・・・
しかし、先程僕が感じた気まずさは嘘みたいに霧散していた。
只二人の右手と左手を結んだと言うだけなのに、考えてみれば変な話でもある。

だけれど──確かに、悪い気はしなかった。
ひょっとしたらそれは異性とこんな風に触れ合うのが、僕にとって懐かしい感覚だったから
なのかも知れないけれど。
それでも、悪くは、ない。
御陵さんの、意外にじっとりと汗で湿った左手の感触を覚えながら、
彼女もこんな気分であるのならば、と僕は祈った。

祈った。

さて、職員室から渡り廊下、渡り廊下から昇降口迄。
どちらも距離的にはほぼ同等の筈だが、手を繋いだと言うだけでこうも体感時間が違うのは
何かの欲目だろうか。
とぽとぽ歩く僕の視界には、既に夕闇に包まれた昇降口が入ってきていた。
と、そこで唐突に、御陵さんの口からお礼の言葉が漏れた。
「部長・・・有り難う御座います。私の詰まらない申し出に応えて頂いて。・・・駄目ですね、私、
与えるどころか受け取っているばかりです」
悄気る御陵さんに微笑しつつ答える僕。
「いえいえ。別に、僕は約束を果たしただけですよ。それに御陵さんが満足してくれたのなら、
それだけで十分ですから」
──約束は果たす、それが僕の宿命なのだし。

「・・・」
そして沈黙の中で──名残を惜しむ様にゆっくりと、御陵さんの左手が解けた。
その瞬間、空虚にも似た思いが心のどこかで湧いたが、まぁ、ここでお別れなのだから
仕方がないだろう。
昇降口を眼前に迎えたところでT字となる廊下を右に折れ、端に位置する二年のブロックへ。
「・・・」
「・・・部長」
「はい?」
「あの、今日、もしよかったら──」

御陵さんの声を聞きながら──。
僕は、下駄箱立ち並ぶ脱履場への最後の角を、曲がった。

 

その瞬間。

「・・・あ、薙代君!」
御陵さんの声を遮るかの様に響いたのは、僕を呼ぶ声。
薄暗い中に眼を向ければ、そこにはA組の下駄箱に寄り掛かって立っている一人の少女が。
それは、学校一の才女と謳われる人──天使伊祈さん、そのものだった。
「あ、天使さん」
しまった、天使さんが待っているって事、すっかり忘れていた。
部活がある日は図書館で勉強している天使さんと帰りにこの場所で落ち合うと言うのが
習慣となっていたのだが、
今日は御陵さんの事があって頭からそれが完全に抜け落ちていた。
・・・やばいなぁ。
遅れた代償として、また何か奢らされるかも。

「もう、今日は遅かったんだね。結構待っちゃったよ・・・って──」
表面は穏やかな微笑、しかし声は剥れた様にして天使さんがこちらへ近寄ってくる。
と、そこで。
丁度彼女から見た死角・・・僕の陰となる場所に立っていた少女を、天使さんの眼が捉えた。

 

「・・・その女の子、誰?」

4 『夕方』

「・・・その女の子、誰?」

訝しげに問い掛ける天使さんの視線は、僕よりも奥にいる一人の少女に向けられている。
──あ、しまった、僕が邪魔になってるのか。
自分の不覚を悟った僕は一歩横に引いて、御陵さんの姿を天使さんからはっきり見える様にした。

対面する、少女と少女。

と、その瞬間。
「・・・?」
ぶるりと言うか、ぞくりと言うか。
僕の背中を、異質な気配が走った。
先程迄とは何か違う・・・空気が重くなる様な、言うなればそんな感じ。

・・・よく分からない。
きっと、気の所為だろう。
そう僕は自分に言い聞かせると、取り敢えず天使さんにもう一方の黒髪の少女を紹介する事とした。
「えっと・・・天使さん、この人は同じ部活で副部長をやってもらってる・・・御陵さんって言います」
「!」
僕の台詞を聞いた途端、驚きの表情と共に天使さんの眼が小さく見開かれる。
御陵さんの肢体を眺め回す様に眼を動かしてから、天使さんは言った。
どことなく、何かに納得した様な声音で。
「ふぅん・・・そっか。この女の子が・・・」
天使さんのその次の発言は、僕の予期せぬものだった。

 

「──あの事件の、被害者なんだ」

「・・・!」
「!?」
僕はその発言に一瞬、自分の耳を疑った。
天使さんの酷な言葉を受けて、横で御陵さんが体を凍りつかせる様が分かった。
滅多な事では打ち崩れない彼女の無表情が強張りに歪むのが、傍目から見ても明らかに激しい。
そんな衝撃に震える御陵さんに向けて、天使さんは更に言葉を重ねる。
「本当に、可哀想だね」
「──っ!」
「あ、天使さん! 言葉を慎んで下さい!」
・・・脊髄反射的に、僕は大声で天使さんを咎めてしまっていた。
そうだ、幾ら何だって、本人の前でそんな事を言うべきではない。
たとえそれが、才色無比の天使さんだとしてもだ。

「・・・御免なさい。無遠慮だったかな、私」
天使さんは僕の咎めに少しだけ顰蹙したが、流石に自分の発言が不味かったと自覚したのか、
素直に謝ってくれた。
フォローを加える形で、僕も御陵さんに頭を下げる。
「済みません、御陵さん。嫌な事を思い出させてしまったみたいで」
「・・・。いえ・・・大丈夫です・・・」
御陵さんは震える声で何とか呟く様にしたが、耐え切れなかったのか顔を俯けてしまった。

・・・場を、重い空気が支配する。
俯いて押し黙ってしまった御陵さんと、極まり悪そうに立ち竦む天使さん、
そしてその二者の間に立つ僕。
これは・・・この雰囲気は何か、不味い。
どうにかして、今の状況を変えなければ。
僕はそう決心すると、上手く動かない口を何とか開いて言の葉を紡ぎ出した。
「あ・・・えっと・・・それじゃあ、御陵さんにも御紹介しますね。こちらの方が、僕のクラスの
委員長を務めてらっしゃる──」
「──知っています」

一刀両断。
そんな四字熟語が脳裏に浮かぶ程にすっぱりと、御陵さんの冷たい響きを持った言葉が
僕の口上を断ち切った。
まるで僕に、その先を言わせまいとするかの様に。

 

「天使伊祈さん──でしょう」

・・・あれれ。
御陵さん、天使さんの事を知ってたのか。
まあ確かに考えてみれば、天使さんは教師生徒、男女を問わず学校中の耳目を集める存在なのだから、
御陵さんが彼女を知っていると言うのも別に不自然な話ではないだろうが。
いや、しかしこれでは少しでも間を持たせようとした僕が何だか無様である。
「あぁ・・・何だ、御陵さん、もう知っていらしたんですね」
「ええ・・・」
ここに来て項垂れていた顔を上げる御陵さん。
そこにあったのは、全くいつも通りの無表情。

御陵さんは前に一歩進み出て、天使さんと向かい合う。
僕の眼の前で、二人の少女の視線が交錯した。
「初めまして、天使伊祈さん。いつも部長の補佐をさせて頂いている御陵止御と申します」
「・・・そう。こちらこそ初めまして、≪副部長≫さん」
その侭暫し、互いに見詰め合った。
・・・あれ?
何か、何て言うべきか・・・表現し難い違和感がある事に、僕は気づいた。

常日頃は誰に対しても無表情な御陵さんが天使さんを前にして、緊張しているかの様に
その顔を強張らせている。
人を役職だけで呼ぶのを嫌っている筈の天使さんが、何故か副部長と言う単語に強勢をつけて
話している。
そのどちらも、僕がよく知る彼女らとは異なっている。
いや、そもそもさっきから、二人共何か様子が変だった様な──
一体、二人はどうしたと言うのだろう?

しかし僕がそれに対する答えを考え出す前に、どちらからともなく二人の視線は外れた。
御陵さんから眼を逸らした天使さんが、今度は僕の方に向き直る。
その表情は、いつも通りのにこやかな笑顔。
「ところで薙代君、随分来るのが遅かったけど、今迄この人と何かしてたの?」
「・・・いえ、特に何もないですよ。只今日は僕が武道場を出た時に御陵さんが待っていてくれてて・・・、
それで一緒に話をしながら歩いてきたって言うだけです」
──実を言えば、あの渡り廊下での一件があったのだけれど。
しかし女の子に気遣われて肩を揉んでもらっていました、などと素直に露悪をする趣味も僕にはない。
今の状態でも随分天使さんには僕の痛いところを知られているのに、これ以上それを増やして
どうするって言うんだ。

僕の答えに天使さんは少しだけ思惟する様にしてから、そして頷いた。
「ふーん・・・ま、それならいいけど。でも、遅れた分はちゃんと償ってもらうからね?」
・・・あぁ、やっぱり。
内心で溜め息を漏れるものの、しかし確かに、貴重な天使さんの時間を無為にしてしまったのは
誰でもない僕の責任であろう。
──天使さんの負担は僕の不始末。
御陵さんではないが、そんなフレーズが僕の頭の中を過ぎった。
「・・・御意ですよ」
「うんうん。それでいいの」
僕の返答が悦に入ったのか、嬉しそうに微笑む天使さん。
その笑顔は陳腐な表現ではあるが、とても魅力的なものだった。
これを見れば、天使さんが校内一の美少女と言う評価も強ち誇張ではないと言う思いが湧いてくる。

「じゃあ、そろそろ行こっか。何を奢ってもらうかは、歩きながら考えればいいんだし」
「そうですね」
下駄箱から自分の靴を取り出し、上履きと履き替える僕。
その間にも天使さんは数歩、先に歩き出していた。
僕もその背中を追い掛けようとして──そこで礑と、先からずっと無言だった少女に気づいた。
「あ、それじゃあ御陵さん、僕はこれで失礼します。帰り道、お気をつけて」
「・・・」
そう僕が言っている間にも天使さんはすたすた歩いて行ってしまう。
意外に歩調の速い彼女に追いつくべく、御陵さんに軽く一礼してから僕は踵を翻した──。

 

その、瞬間だった。

「へっ?」
そんな間抜けな声を思わず上げる位唐突に、ぐいっと。
強い勢いで、左手が後ろに引っ張られていた。

丁度歩き出そうとした時に発生した突然の出来事に、危うくバランスを失って転倒しそうになる僕。
一体何が・・・そう思いつつ崩れた姿勢から顔を上げて──今の卒爾以上の驚愕を、
僕は受ける事となった。
見上げた視線の先にいたのは・・・同じく左手で僕の左手首を握り込む、近しい副部長の少女の姿。
──但し、その表情は、全くいつもと異なるものだった。

例えて表すならば、憤怒──そして憎悪。
僕が見慣れていた御陵さんの無表情は今、それらの感情に塗り潰されていた。
・・・いや、顔の表情筋自体には、殆ど起伏はない。
けれども、彼女の眼が──。
彼女の眼が、無表情の奥にある激情を表すかの様に、真っ赤に充血していた。
平素は穏やかなその双眸は今、僕と天使さんの方向を刺し貫かんばかりの勢いで睨みつけている。

「・・・」
明らかな激昂を内に秘めながらも、御陵さんは何も言わない。
その事が逆に、こちらに言い様のない圧迫感を感じさせる。
そして無言なのは僕も同じだった。
・・・違う、言わないのではなくて、何も言う事ができなかったのだ。
普段とは全く違う少女の様相に、蛇に睨まれた蛙の如く身動き一つできない僕の体。

な・・・何なんだ、これ?
いつもは冷静な御陵さんが、何故こんなに感情を剥き出しにしているんだ?
僕は、一体、どうすれば──。

 

凍りつく僕に向けて、救いの声は背後から掛けられた。
「──手、放したら? 薙代君が迷惑しているじゃない」
天使さんのその言葉に、正直僕は心の内で安堵の息を漏らした。
もしもこの侭だったら、僕はずっと御陵さんの金縛りに囚われてしまっていただろうから。
「あの、御陵さん・・・何か、言いたい事があるんですか?」
天使さんの発言に乗っかる形で、僕も御陵さんに向けて尋ねた。
何を差し置いても今は、彼女にこの状況を招いた原因を問い質さなければならない。

「・・・」
しかし、御陵さんは黙した侭だった。
いや・・・僕らの言葉に耳を貸すどころか、寧ろ逆にその睥睨の度合いを強めてさえいる。
御陵さんの柔らかな指がまるで絞め殺さんとする様に、僕の左手首に深く深く絡みついてくる。
「・・・ちょっと、聞いてるの? 手を放してって、そう言ってるんだけど?」
流石に見兼ねたのか、天使さんが語調を険しくして御陵さんに近寄った・・・と、その時。

「──して・・・」
呟きにもならない小ささの声──それが御陵さんの口から発せられたと気づくのに、
僕は少し時間が掛かった。
「・・・御陵さん?」
「どうして」
「えっ?」
「どうして、貴方が、この人と・・・っ!」
「──っう!?」
御陵さんが言うと同時に、引き千切られんじゃないかと思う位の強さで手首が締めつけられた。
意図せずして、開いた口から呻きが漏れてしまう。
やばい、これは只では済まないかも知れない。
そう僕を震え上がらせる程に、今の御陵さんの逆鱗は深いものだった。

分からない・・・本当に、分からない。
彼女は一体、何に対して怒っているんだ?
恐らく現状から見て、その激怒の対象は僕自身に違いないのだろうが。
けれども、その原因が判然としない。

既に殆どの生徒が下校し、夕闇の濃くなった脱履場。
この場にいるのは、僕と御陵さんと、それから天使さん・・・。

──あ。

閃きが、僕の中を駆け抜けた。
何だ・・・そうか、そう言う事だったのか。
考えてみれば、この状況が何を意味するかの答えと言うものは、一つしか存在しないじゃないか。

確かに、それは俄かには信じ難い可能性かも知れない。
そんなまさか・・・と考えついた僕自身でも疑念を抱く程である。

しかし──しかし、この状況。
天使さんと一緒に下校しようとする僕を引き止める御陵さん。
この構図から導き出される可能性は、唯一。

詰まるところ御陵さんは、天使さんと仲がいい僕を──。

 

改めて僕は、御陵さんの眼を見据え直した。
彼女の激情を示す充血した瞳の奥──そこには、何かに縋りつく様な弱々しさが秘められていた。
そしてその眼差しは今、誰でもないこの僕に向けられている。

──大丈夫ですよ、御陵さん。
心の中で、眼前の少女に対して呟いた。
貴方のその思いに・・・僕は、応えたいと思います。

僕は声音を優しくして、御陵さんへと告げた。
「・・・安心して下さい、御陵さん」
「「──え?」」
呆けた様な声を同時に口から漏らす、二人の少女。
って、あれ?
何で天使さん迄そんな反応をするのだろう?
御陵さんがそうするのは別に不思議ではないのだけれど・・・。

まあ、それについては取り敢えず今はいいか・・・先ずは、御陵さんを説得する事が第一だ。
そう頭で考えつつ言葉を続ける僕。
「僕と天使さんは、別に、特別な関係と言う訳じゃありませんから」
「・・・!」
僕の一言がスイッチとなったかの様に御陵さんの眼からは一瞬で怒りが消え、
代わりに驚きと喜びが半々になって表われた。
その反応に、僕は自分の考えが正しかったと確信を抱く。
「天使さんが僕につき合ってくれているのは、只単に僕が不甲斐ないからですよ。
恋人とか、そう言うのとは全く違います」
重ねてそう言い切ると、今迄僕の左手首を千切らんとする程に強かった御陵さんの握力が、
嘘の様に霧散して行った。
「本当・・・ですか?」
「ええ。ですから、心配しないで下さい」
御陵さんが安堵の息を漏らしたのが、小さい音ながらもこちらに伝わってくる。
その表情にも明らかな喜びが浮かんでいるのを見る限り、どうやらこれで彼女の誤解を
解く事ができた様だった。

と言うか、今迄ずっと把持されていた左手が些か痛いんですが。
「えっと・・・それで、手、放してもらっていいですか?」
「え──あ! も、申し訳ありません、部長」
我を忘れる程の失態を漸く悟ったのか、慌てて左手を解き放す少女。
僕は彼女が握っていたところにちょっと視線を走らせた──そこには、少々青く変色した跡が。
成る程、確かにこれは痛む筈だ・・・これは、帰ったら少し手当てした方がいいかも知れない。
手にできた薄い青の帯を見ると、改めて御陵さんの僕に対する思いがどれ程のものかが読み取れた。

とは言え、これで一件落着・・・かな。
「それじゃあ、御陵さん。今度の部活で、また」
「あ・・・はい。さようなら、部長」
今度こそ僕は御陵さんと別れの挨拶を告げると、今迄随分と時間を取ってしまった横の少女に
振り向いた。
「天使さん、お待たせしました。それじゃあ行きましょうか」
「・・・あぁ、うん。そうだね・・・」
・・・?
何で天使さん、不機嫌そうな顔つきをしているんだろう。
別にさっきの御陵さんとの会話にも、特にそんな要因はなかった筈なのに。
そんな事を内心で疑問に思いつつも、僕と天使さんは歩き出した。

 

御陵さんは僕らが歩き出してからも、動く事なくその場に立ち竦んでいた。
そうして僕の視界から彼女が消える前──僅かに視線を振り向けたその一瞬、僕は確かに見た。
無表情が普通の御陵さんが浮かべていた、とてもとても魅力的な、蕩ける様に素敵な笑顔を。

 

そうして、その時自分が大きな忘れ事をしていたと言う事に気づかない侭、
委員長の少女と共に僕は帰途に就くのであった。

第5話 『夕方供

──魅惑の放課後、天使さんとのわくわく下校タイム。

とまぁ、こう言う風に書いてみたら少しは色っぽく見えるかも知れない。
・・・いや、そんな事はどうでもいいんだけど。

今でこそ彼女と一緒の下校と言うのが日常となっているけれど、しかしこの習慣が生まれる迄には
一つの経緯と言うか、設定が存在する。
生憎聞いても退屈な上に無駄に長い為、ここで内容を述べるのは割愛するけれど。
しかし何と言うか・・・変わった切っ掛けではあった。
敢えて格好よく一言で表現するならば、
≪護衛の役目と日々の糧との交換条件≫と言ったところだろうか。

今でも思い出すのは、あの一月の寒い日、僕の机の前に立った優等生の少女が
こちらに向けて掛けてきた言葉。
──ねえ薙代君、ちょっとお願いがあるんだけど、よかったら聞いてもらえるかな?
きょとんとする僕の眼前でそう告げると、天使さんは少しだけ恥ずかしそうに、
薄く笑いを浮かべたのだった。
あの台詞と笑顔から、今に至る迄の僕と彼女との親交が始まるなんて、
その時の僕は全く思っても見なかった。

全く本当に、因縁奇縁とはよく言ったもの。
天使さんと僕の関係は概ねその一言に尽きるんじゃないかと、少なくとも僕はそう思っている──。

 

と言う事で、天使さんと一緒に歩む帰り道。
彼女は毎日電車で通学しているので、
駅のところ迄僕がつき添って行くと言うのがいつものパターンだ。
学校から駅迄続く下り坂を自転車が滑り出さない様にブレーキで制御しつつ、
僕は天使さんの歩調に合わせて進む。
遠く地の果てには半分以上その身を沈めた太陽が赤々と輝き、背後には僕らにつき従うかの様に
二つの陰影が長く伸びていた。
・・・ふむ、これだけ見たら普段通りの光景だと僕は思う。

思うのだが、しかし。
「・・・」
今日の天使さんは普通じゃなかった。
頬を膨らませて、唇をへの字に曲げて──
まあ、それでも彼女の可愛さが損なわれる事はないのだが──むっすりと黙り込んだ侭だった。
簡単に言ってしまえば、不機嫌であった。

そしてそんな少女に、顔では平常を保ちつつも内心戦々恐々とする僕。
何か声を掛けるべきとは思うものの実行に移せず、
結果、先の脱履場からこの場に至る迄一言も会話がない。
何しろ天使さんがこの様な態度を取ると言う事は、彼女が相当に御立腹であると言うのを
暗に意味しているからだ。
確かに彼女が機嫌を悪くする事自体は珍しい訳ではない、けれど小さな憤り程度だったら
全く根に持たないのが常の天使さんなのである。
しかし、この状況は明らかにいつもとは違う・・・どう見ても天使さんは怒っている。
何が原因なのだろうか、と少女の不機嫌の動機について僕は思考を巡らせてみるものの、
特にこれと言ったものは見当たらない。
唯一考えられ得る可能性としては、先程の脱履場での件が挙げられるが・・・
いや、しかしそれでも天使さんの不興を買う様な事があったかと言えばそうでもない。

分からない──一体彼女は、何に対して苛立っているんだろう?

 

「・・・ねえ」

天使さんが徐に声を発したのは、校門を出て既に五分近く、
道程のほぼ三分の一に過ぎた辺りの事だった。
唐突な呼び掛け、しかも明確な険悪さを帯びた言葉を受けて、意図せずぴんと伸びる僕の背中。
動揺の所為か、少しばかり応答の声が裏返ってしまった。
「は、はい、何でしょう?」
「薙代君・・・。どうして、あんな事言ったの?」
「は・・・あんな事、とは?」

あんな事・・・って、何だろう。
天使さんの言う抽象的な言葉の意味を捉えられず、僕は質問に質問で返した。
それに対して、天使さんは顔を前に固定した侭喋る。
「だからさ・・・私と薙代君が特別な関係じゃないって言う、あれ」
「? だって、別に僕と天使さんは彼女が誤解する様な仲じゃないですし。
僕が天使さんの恋人だなんて言ったら、恐れ多いにも程がありますよ」
何でそんな当たり前な事を訊いてくるのかは分からなかったが、取り敢えず少女の問いに僕は答える。
と言うか万一そんな事にでもなったら、
直ぐにでも天使伊祈ファンクラブの方々に撲殺されるだろうし。

けれども妥当だと思える僕の回答に、天使さんは溜飲を下そうとはしなかった。
それどころか、突っ掛かる様にしてより一層問い詰めてくる。
「・・・だからって、私はそこ迄薙代君とは疎遠じゃない積もりなんだけど。
それとも薙代君、本当は私の事が嫌いなの?」
「え? いや、そんな事はないですけど・・・」
突然ふっと足の動きを止めると、じとりと僕を睨みつける天使さん。
責める様なその言い方に、思わず口にした否定の言葉も尻窄みに途切れてしまった。

・・・どうも、今一よく分からない。
天使さんの物言いだと、まるで彼女が僕と深い関係にある事を望んでいる様な感じがしてしまう。
無論そんなのは僕の都合のいい錯覚なのだろうけど、
それにしたってどうして先の僕の発言がこれ程迄天使さんの機嫌を損ねたのか理解ができない。
御陵さんは安心していい、僕は天使さんとは特別な関係じゃない、
天使さんが僕に世話を焼いてくれるのは僕が不甲斐ないから──
うん、やっぱり僕の発言に特に問題な事はない、筈なのだけど。

天使さんは苛立ちを隠そうともせず、尖った口調で更に続ける。
「だったら答えてよ。どうしてさっき、あんな事言ったの?」
最早威圧感さえ伴っている目上の少女の言葉に、心中びくびくしつつ弁解する部下の僕。
「ですから・・・あれは御陵さんの誤解を解く為だったんですよ。
もし僕が何か天使さんを傷つけたり侮辱したりしたなんて言うのなら謝りますけど、
あの場では御陵さんに変な誤解をさせたくなかったんです」
「そんなの別にどうでもいいじゃない。あの子が少し位誤解したところで、
私も薙代君も困らないでしょう? 
そんな事、勝手に誤解する方が悪いのよ」
「・・・」

──勝手に、誤解するのが、悪いって?
流石に今の言葉は、少なからず頭にかちんと来た。
何故ならそれは、御陵さんを侮辱しているから。
別に僕が謗りを受けるのは幾らだって構わないけれど、御陵さんの純真な思いを軽侮した事は
天使さんでも許せない。

先の脱履場での一件が、脳裏にまざまざと蘇る。
表面上は激怒、しかしその裏には縋りつく様な弱々しさを浮かべて、
僕を必死に引き止めようとした御陵さん。
御陵さんのあんな姿、僕は初めて見た。
普段は凛とした態度で振る舞う彼女が、本当はこんなに女の子らしい一面を帯びているなんて。
──なればこそ、助けたかった。
彼女の思いを支えられる様に、彼女の力になれる様にと、そう僕は願ったのだ。

心の中で渦を描き始めた怒りを表出しない様にしながら、僕は飽く迄言葉での説得に努める。
「そんな・・・その言い方はないでしょう、天使さん。
御陵さんは、つき合いの浅い僕が言うのも何ですけど、とっても一途で健気な女の子なんですよ。
僕は彼女の思いに応えたくて・・・だから、詰まらない誤解を与えたくはなかったんです」
「・・・そっか。そうなんだ」
短く素っ気ない返事をすると、黙り込む天使さん。
・・・僕の意図するところが漸く伝わったのだろうか?
よかった、それなら僕も冷静に話した甲斐があったと言うものだ・・・。

 

と、そう安堵したのも、束の間の事だった。

「じゃあ・・・じゃあ、何!? 薙代君は、私なんかよりあの子の方がいいって言うんだ!?」
「は・・・はぁ!?」
突如として、天使さんが吼えた。
今迄僕が一度も聞いた事がない様な、怒声以外の何物でもない大声を上げて。
唐突と呼ぶにも生温い出来事に、僕は口にするべき言葉を失って狼狽えた。

自身の置かれた状況を把握できずに混乱する僕に向けて、怒れる少女は更に畳み掛ける。
「だってそうでしょう!? さっきから御陵さん、御陵さんって、
薙代君はそんなにあの子の事が大切なんだ!? 
だからあの子の思いに応えるなんて言うんでしょ!?」
「は・・・ちょ、ちょっと待って下さい! 天使さん、何を言ってるんですか!?」
彼女の言っている事が本当に理解できなかった。
何故僕が御陵さんを大切に思っているのが悪いのか、何故そんな事で天使さんがこう迄憤慨するのか。
しかし分からないなりにも、僕にはこの事態を収拾する以外に道はない。
一先ず怒り狂う少女を宥めようと肩に手を伸ばすものの、天使さんはこれを鋭く払い除ける。
そして血走った瞳で刺す様にこちらを睨みつけて、更に叫んだ。
「ねえ、答えてよ! 私とあの子、一体どっちが大事なの!?
  薙代君、私よりあの子の方が好きなんでしょう!? 
そうなんでしょう!? だったら、私──」

・・・不味い、今の天使さんは完全に理性を喪失している。
どうにかして止めなければ、と決意した僕は、手荒な真似である事を覚悟で眼前の少女に向けて
両腕を伸ばした。
それによって支えを失った自転車が派手に音を立てて転倒するが、今は構っていられない。
伸ばした手で天使さんの両の肩口をがっちり掴むと、強く前後に揺さ振った。
「天使さん、落ち着いて・・・!」
「私、あの子の事を絶対に許さないんだからあっ──!」
「お願いですから正気に戻って下さい、天使さん!」
僕は半分無我夢中で叫ぶ。
彼女がどうしてこうも豹変したのか、一体何を僕に伝えたいのかは分からないが、
この状況を招いたのが僕であるならば、
それを収めるのも僕の義務である。

だがそんな必死の努力も虚しく、天使さんの狂乱は止まらない。
それどころか、今度は僕の制止を振り切ろうと体を動かして暴れ始めた。
「放して! どうして、どうしてあんな子が薙代君を──」
「天使さんっ!!!」
「──放してよっ!」

 

その時だった。
「・・・ぐっ、う──」
一際大きく吼えると同時に、自らを押さえつける両手を撥ねつけようと振った天使さんの右手。
偶然にもその爪が、僕の左眼孔の数センチ下を鋭く掠めた。
不意の痛撃に怯んだ僕は、呻き声と共に思わず天使さんを抑止していた手を離してしまう。
爪の通った部分に左手の指を這わしてみると、皮が切れた感触と共に、
ひりひりする様な痛みが神経を伝わった。

「──あ、あぁ」
呆けた様な声に、僕は伏していた顔を上げる。
そこには先程の烈火の如き激情がすっかり消え去り、逆に顔を真っ青にした天使さんが立っていた。
「ど、どうしよう、私、何て事を」
恐怖を伴った声を上げて狼狽する天使さん。
「い、痛かったよね? 御免なさい、私何でもするから、お願い、許して・・・!」
「あ・・・いや、別に僕は平気ですから。だから、そんなに恐縮しなくても・・・」
「だけど私、薙代君に怪我させちゃったんだよ? だったら、償わないと・・・」
「・・・いや、本当に大丈夫ですから! 御心配には及びません」
余りにも少女が絶望的な口調で語るので、僕は語気を強くしてその懸念を打ち消した。

「──それに僕、少しだけほっとしてるんです」
「え・・・?」
「だって天使さんが元に戻ってくれましたから。さっきは言葉も通じない様でしたし」
そう、もし僕がここで傷を負う様な事がなかったら、天使さんの暴走は止まらなかったかも知れない。
寧ろ僕の顔の皮一枚如きで彼女の理性を取り戻す事ができたと考えれば、
安い代償と言ってもいいだろう。
「あ・・・そ、そうだよね。御免なさい、見っともないところを見せちゃって」
先の自分の狂態を思い出したのか、顔を赤くして恥じ入る天使さん。
どうでもいいが、これも中々レアな表情である。

まあ怪我の功名と言ったところか、兎に角天使さんと正常な対話ができる状態には持ち込めた様だ。
「いえ、それはいいんですけど・・・。どうして、あんなに取り乱したりしたんですか?」
普段の姿からは考えられない様な激しさを帯びて僕を問い詰めた天使さん。
彼女をそう迄駆り立てた動機と言うのは、一体何なのか。
すると僕の質問を受けて、少女は言い辛そうに口をもごもご動かした。
何だろう・・・そんなに話し難い事なのだろうか?

 

約二分弱の沈黙の後に、ばつの悪い表情を浮かべながら天使さんは告げた。
消え入りそうな位小さい声ながら、しっかりと僕の眼を見据えて。
「・・・薙代君は、あの子の事が好きなんでしょう・・・?」

──え。
いや、ちょっと待って。
今の発言はどう考えたっておかしい。
僕が異性として御陵さんを好きになると言うのがどうして天使さんの不都合に繋がるのかは不明だが、
今はそんな事よりももっと大きな問題が存在している。

「・・・天使さん。どうしてそうなるんですか?」
「え、どうしてって・・・あの子の意志を尊重したいって、さっき薙代君が・・・」
「ええ。確かに、僕は御陵さんの思いに応えるとは言いましたよ。
だけど、僕がいつ御陵さんを好きだなんて話したんですか?」
事ここに至って気づいたのだが、どうも天使さんは何か変な考えをしているみたいだった。
僕は御陵さんの事を同じ部活に属する者として大切に思っているけれど、
別に恋愛感情を抱く程に深い間柄と言う訳でもない。
きっと彼女だって、僕の事を同じ道を志す仲間、
精々よくて友人程度としてしか思っていないのだろうし。

だと言うのに、天使さんはまるで見当外れの事を告げてきた。
「だって・・・あの子は、薙代君の事が好きみたいだから・・・。
その気持ちに応えるって事は、やっぱり・・・」

・・・。
しぱしぱしぱ。
三回、瞬き。

 

「は? 御陵さんの好きな人は僕じゃなくて天使さんでしょう?」

 

だってそうだろう?
片や学校一の才媛として同性の女子からも人気が絶大な天使さんと、
片や極々詰まらない平凡な男の僕。
どちらに御陵さんが惹かれるかなんて、考える迄もなく分かり切っている事じゃないか。

それに、その事を踏まえて先程の脱履場の出来事を思い返してみれば、
見事な迄に全ての不思議を解決できてしまう。
御陵さんが僕の紹介を待たずして天使さんの名前を挙げたのは、前々から天使さんに恋していたから。
御陵さんが天使さんと相対した時に緊張した面持ちを見せたのは、憧れの人と間近に接したから。
御陵さんが僕が帰ろうとした時に強い憤激を示したのは、
一緒に天使さんと帰宅する事のできる僕に嫉妬したから。
御陵さんが天使さんと僕の関係が深くないと知って安堵したのは、
自分に天使さんと結ばれるチャンスがまだあると分かったから。
・・・ほら、どれを取ってみても全く不自然はない。

しかもその好意の程度は並々ならぬものと推測される。
何せ嫉妬の余り人の手首に青痣を残す位の力を発揮するのだ、
さぞかし彼女の天使さんへの恋慕は深いものなのだろう。
いや、最早これは好きと言うレヴェルを通り越して、愛と呼んでもいいかも知れない。
どちらにしたところで、御陵さんが天使さんを好いているのは確かな事だろう。

 

よく気づけたものだと我ながら己の発想力のよさに充足していると、
突然天使さんが言葉を投げ掛けてきた。
何故か唖然とした表情で、何故か非常にぎくしゃくした声で。
「じゃ、じゃあ、さ、薙代君。さっき、あの子の思いに応えるって、い、言ったのは・・・」
「え? あぁ、あれは勿論、御陵さんの恋を応援するって意味ですよ。当然でしょう? 
僕が御陵さんを異性として好くなんて、とんでもない」
全く、一体何を間違えれば僕が御陵さんに恋しているなどと言う解釈が生まれてくるのだろうか。
それとも天使さんは、御陵さんの恋路を励ます事が即ち
彼女を好きになると言うのと同じとでも言う積もりなのだろうか?
・・・はは、そんな馬鹿な、それでは勘違いが甚だしいにも程がある。

──ん?
・・・あぁ、やっと理解できた。
要するに天使さんは根本的な部分で大きく誤解をしていた訳か。
そしてそれが原因でさっきの不機嫌や激昂が生まれた、と。
先程は何が何だか全然分からなかったが、蓋を開けてみれば実に些細なものである。
いやはや、全く長い前振りだったものだ、と僕は心中で苦笑した。

しかしまぁあんなに露骨な態度を示されたと言うのなら、
天使さんも御陵さんの思いに気づいておかしくない筈なのだけど。
普段人から鈍い鈍いと言われている僕でさえ分かったと言うのに・・・
もしかしたら、天使さんは僕よりも鈍感なのかも知れないな。
大体もし御陵さんが天使さんを好きでなかったとしても、代わりに僕に好意を抱くと言う可能性は
絶無にして存在しない。

だって御陵さんは、あの忌まわしき≪ラヴワゴン事件≫の被害者なのだから。

 

「・・・」
「確かに、僕も最初そうだと分かった時には吃驚しましたけどね。
まさか御陵さんが天使さんを恋い慕っていただなんて」
「・・・」
「でも、考えてみれば仕方ない事ですよね。本人がいないところで言うのも何ですけど──
あんな事件があったら、もうまともな恋愛なんてできる筈がない」
「・・・」
「だけどさっきも言った様に、僕は御陵さんと懇意にさせてもらってますから。
だから、彼女の恋を応援するって決めたんです」
「・・・」
「・・・あぁ、だったら帰るのに御陵さんも誘えばよかったですかね。
御陵さん、今は車で送り迎えしてもらっているみたいですけれど、
僕と天使さんを合わせた三人なら夜道も安全でしょうし・・・」
「・・・」
「・・・天使さん?」

先程から、一言も言わずに沈黙している天使さん。
流石にその違和感に気づいた僕は、口を動かすのを止めて少女の様子を窺ってみる。

すると。
「・・・」
天使さんの顎が外れていた。
・・・いや、勿論これは比喩なのだが、しかし本当にそうではないかと思ってしまう程に天使さんは
あんぐりと口を開いていた。
信じられないと言う様な表情を浮かべる彼女の瞳は白目を剥いていて、
誰が見ても焦点が合っていないのが明らかだ。
その縦に開かれた口から、白い魂がひょろひょろ抜け出ている様に見えるのは
果たして僕の気の所為だろうか。

時は夕暮れ、場所は幅の狭い下りの路地。
そこに立つのは少年と少女、内一人は現在放心中。
「あ、天使さん。しっかりして下さい」
虚脱状態を曝す美少女、と言うのはそうそうお眼に掛かれるものではなかろうが、
だからと言ってその侭放っておく訳にも行かないので声を掛けてみる。
「・・・」
が、天使さんからの反応は得られない。
と言うか僕の言っている事自体が耳に入っていないのか、ぼんやりした侭立ち尽くしている。
「天使さん、天使さんってば」
言葉だけでは足りないと思い、僕は少女の肩をゆさゆさ揺すったり、
頬を軽くぺちぺち叩いてみるものの、
まるで一向に彼女が回復する気配は見えない。

 

・・・ど、どうしよう。
天使さんが壊れてしまった。

2006/12/27 To be continued.....

 

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