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ブラッド・フォース



1

 帰りのHRが終わり、部活へ行く者、帰宅する者など、生徒たちは思い思いに動き始めた。
  その中の一人、カバンに教科書などを詰めている少年――高村智(たかむら さとし)の元へ、
  一人の少女がとっとっ、と小走りで駆けて来る。
「智ちゃん、一緒に帰ろっ」
「悪い千早、今日も部活なんだ」
「また・・・? ここのところ毎日だよね。以前はそんなことなかったのに・・・」
  いっぱいに広がっていた、少女――折原千早(おりはら ちはや)の笑顔が途端に萎れる。
  まるで子犬のようだと少年は思った。もし彼女に尻尾があれば、先程までブンブンと振って
  いたのが今は悲しげに垂れていることだろう。
  実際、仕草の一つ一つもどことなく犬っぽい。
「えっとな・・・先輩の実験が佳境なんだ。だから今は一日も欠かせないんだよ」
  行かなければならないとしても、捨て犬のような目で見つめられて平気で居られるわけは無い。
  まして相手は10年来の幼馴染であり、毎日――部活に入ってからも週に3回は――
  一緒に帰っていたお隣さんなのだ。
「・・・例のオカルト研究会だよね。どうしても、なの?」
  千早は智に密着するほど近づいて見上げる。彼女がこうやってやたら智にくっ付きたがるところは
  10年前と変わらない。
  上目遣いのつぶらな瞳が揺れ、瑞々しい唇が震えている。昔と変わらない幼さを残した
  かわいらしい顔立ちと、対してめっきり女らしくなってきた体つきが否応なく目に映る。
  そして、白いうなじのラインから続く胸元の――
「どうしても! いいから先に帰ってろ! じゃあな!」
  内心をかき消すようにわざと大声を上げると、教室に残っていた何人かが何事かと
  注意を向けるが、それらを気にした様子もなく智は教室を出て行った。
「なんだよ、夫婦ゲンカか? お前らが、珍しい」
「もう、高村君ったら怒鳴るなんて最低ね。千早、大丈夫?」
「なんだなんだ、破局の序章か?」
  やいのやいの言いながら、クラスメイトが集まってくる。彼らにとって智と千早は
  お似合いの公認カップル以外の何者でもない。
  千早はいつも『智ちゃん智ちゃん』と少年に纏わり付いているし、当の智もまんざらでもない
  様子で懐かれるに任せている。
  高校以前からの付き合いの長い者でも、二人がケンカするのはおろか、
  智が千早に怒鳴ることさえも見たことはない。驚きも当然だった。
「智ちゃん・・・」
  しかし千早は、そんな周囲の喧騒も聞こえてない様子で、ただ胸に手を当てて立ち尽くしていた。

 早足で歩きながら、智は必死に気を落ち着けていた。
  ・・・危うく『衝動』に飲み込まれるところだった。千早は無防備すぎて困る。
  彼女の自分への感覚は、きっと10年前から変わっていないのだろう。
  お互いに、もう子供ではないのに。
  しかし、それが言い訳でしかないことも分かっている。自分の身体が『こんなこと』
  にならなければ、千早との子供じみた幼馴染関係を今も容認していたはずだから。
  たとえ身体が成長して大人になっても、ずっと変わらない関係でいたはずだから。
  だから、思春期という時にさえ切れず、10年間ずっと続いている千早との幼馴染という関係を
  半ば神聖視している智にとって、彼女に性的な欲望を持ってしまう現状は辛い。
  そして、それを隠すためとはいえ冷たく当たってしまうことが辛い。
  それでも、なってしまった以上は仕方ない。それに、その衝動を抑えるための部活だ。
  それとて智にとっては本意ではないのだが。

 

 文化部棟の最奥、空き教室がいくつか並ぶ薄暗い領域。出る、と噂されるその場所には、
  好んで足を踏み入れるものは居ない。
  その数少ない例外の一人である智は、ある一つの教室に足を踏み入れた。
  カーテンが外光を完全に遮断し、蛍のような仄かな発光体のみが照らす薄い室内。
  本棚には怪しい本が、カートには怪しい薬品が、壁には怪しい貼り紙が、
  棚の上には怪しいぬいぐるみ(?)が置かれている。全て、この部屋の主の趣味だ。
「先輩、来てる? ・・・来てるみたいだな」
  部屋の中央、六紡星の真ん中にちょこんと座る無表情な人影が一つ。来訪者に気づいて
  立ち上がったそれは、呼び名の通り智の上級生だった。
  神川藍香(かみかわ あいか)。制服の上からでも分かる凹凸のはっきりしたスタイルが
  目を引く、腰までの艶やかな長い黒髪の美少女。
  しかし、薄くしか開かれていない瞳と無表情が、彼女を『女』というより人形のように見せていた。
「・・・・・・」
「え、今日も来てくれて嬉しいって? ははっ、ありがとな」
  しかし、今は嬉しいという気持ちらしく、ゆっくりと智に駆け寄っていく。
  一見無表情のままであり、話し声も全く聞こえないのだが、智には分かるようで、
  こちらは目に見えて分かる笑顔を浮かべていた。
  しかし、その笑顔もすぐにぎこちないものになってしまう。智にとって、これからすることを
  考えればそれも仕方ない。
  もう幾度も経験していることとはいえ、慣れるものではないのだ。
「じゃあ・・・。先輩、今日も・・・」
  搾り出すように智が告げると、藍香は皆まで聞かずに部屋の中央まで下がり、智もそれに続く。
  六紡星の真ん中で見つめあうこと暫し。藍香が自らの制服に手をかけた。
  リボンを解き胸元を緩め、横にずらして肩を露出させる。
  薄暗い部屋でも分かるほどに頬を染めているが、それでも手の動きに躊躇いはない。
  逆に智の方が照れて、必死に目を逸らそうとしているが、緩められた制服から僅かにのぞく
  胸の谷間や露出した細やかな肩に視線が行くのは避けられないでいた。
「・・・・・・」
「えっ、さあどうぞって? ・・・うん。分かったよ」
(先輩は俺の為にここまでしてくれてるんだ。ヘタレてないで、覚悟を決めろ!)
  自身を叱咤し、智は藍香の肩に手を置いた。そして、少しずつ顔を近づけていく。
  藍香は耐えるように目を瞑っていた。
(やっぱり綺麗だよな、先輩は・・・。オカルトが趣味でちょっと掴み所がないところもあるけど、
  優しい人だし。スタイルもいいし)
  つい、視線が下がった。至近距離にいるためか、胸の谷間を真上から見下ろす形になっていた。
  その豊か過ぎる双丘に智は一瞬我を忘れるが、ぐっと堪えると、気持ちを落ち着かせるために
  軽く藍香の首筋を撫で上げる。
「・・・! ぅぁぅ・・・」
  ピクンッ、と藍香がくすぐったげに身を捩るが、彼女がこうされるのが好きなのを
  知っている智は、暫くそれを続ける。
  徐々に藍香から力が抜け、智に身を預けてきた。
  今度こそはと気を取り直すと、改めて藍香の顔へ自分のそれを近づけていき・・・・・・。

 

    ・・
  藍香の首筋に、がぶりっと噛み付いた。

 キスでなく、甘噛みでもない。しっかりと歯を立てていた。鋭く穿たれたその場所には血が滲み、
  ゆっくりと垂れ落ちる。
  智は藍香の首から顔を離すと、その流れる血を舌で丹念に舐め取り始めた。
  ピチャピチャと、卑猥な音が木霊する。静まり返った部室にその音はやけに大きく響いた。
「・・・ぁぁ・・・ぅん・・・!」
  何かに耐えるように身体をぎゅっと強張らせる藍香。その口からは、滅多に聞くことの出来ない
  であろう大きい音量で(と言っても彼女にとって、だが)
  甘い喘ぎが漏れている。
  だが、その原因である当の智は、熱に浮かされたような虚ろな瞳で、
  一心不乱に藍香の首筋を嘗め回している。
  皿に付いた生クリームを舐めるような、浅ましくも執拗な愛撫を繰り返す。
  唾液でべたべたになったそこは、既に血も止まっていた。しかし智は止まらない。
  更なるご馳走を求めるように智の舌が藍香の鎖骨まで伸び、藍香の身体の強張りが増し―――

 智の瞳に、意思の光が宿る。すぐに自身のしていることを認識して後ろに飛び退くと、
  力が抜けたように座り込んだ。
  立てないほどの精神的な負担がのしかかる中、痛いほどに自己主張する下半身の痛みが、
  更に自身を疲労させるのを感じる。
(この『衝動』はヤバい・・・。身を任せるのが気持ちよすぎて、段々抑えが
  効かなくなってる・・・。それでも・・・)

 ――血を飲まなければ治まらない。

 そう。智は今、血を吸わなくては生きていけない身体になっている。言うなれば、吸血鬼だった。

2

「それじゃ先輩・・・俺、帰ります」
  しばらく荒い息をつきながらへたりこんでいた智だが、落ち着きを取り戻すと
  早々に部室を出て行った。
  部屋の中央には着衣を直して同じく息を整えていた藍香が残された。
  これが、智と藍香の秘め事。血を欲する智に藍香は自分のそれを与える。
  智は僅かな量しか吸わないため、今のところ貧血になったりはしていない。
「・・・・・・・・・」
  もっと吸っていいのに。もっと私を貪ってもいいのに。そんなに我慢しなくていいのに。
  この部屋のお陰で鋭敏化している私の知覚は、貴方の手が私の胸に触れる寸前まで来ていることを
  知っているのに。吸血以外の欲望だって、全て思うままに私にぶつけて欲しいのに。
  毎日少しずつ大きくしている着衣の乱れにだって気づいているはずなのに。
  そんなに私は魅力が無い?スタイルがいいなんて言われても、貴方が欲情してくれなければ
  何の意味もないのに。
  智の理性が自分によって揺らいでいるのは藍香も感じている。だとしても、
  今日も触れてもらえないまま彼が帰ってしまった切なさは隠しようが無い。
  一人ぼっちの部屋の中、首筋を中心に未だ身体を火照らせる熱を感じながら、
  藍香は折角整えた着衣を再び乱しはじめた・・・。

 

 智がこうなった原因は藍香にある。そもそも智はごく普通の人間だ。
  しかし、オカルト趣味の藍香の実験に付き合ってこうなってしまった。
  オカルトや黒魔術は空想の産物ではない。世の中の殆どの人間にとってはそうだろうが、
  現実に存在しているのだ。

 古くからの名家であり、今も政財界に強い影響を及ぼす神川の家に生まれた藍香は、
  その環境に馴染めず、心を閉ざすことで自己防衛を図った。
  ただ言われることを素直にこなすだけのお人形になったのだ。そんな彼女が心奪われたもの、
  それが書庫に眠っていたオカルトの本だった。
  古い家だからか、ただの娯楽でない本物の魔術の本があった。まだ日本が呪い(まじない)を
  国の基幹としていたころのことを後世に残した本が中心だ。
  効果が不安定ゆえに時代と共に廃れていったとあるが、それは間違いなく『本物』だった。
  学校が終わると毎日そこに籠り本を読み漁り、解読作業に勤しむ。東洋だけでなく、
  西洋の魔術にも手を出した。
  そして、遂には人知れず怪しい実験を行うまでになった。
  そんな奇行をやめさせようと、両親はごく普通の公立高校へ藍香を入れたが、それは藍香に
  オカルト研究会という邪魔の入らない空間を進呈しただけだった。
  あまりに掴み所がない様子に加え、神川の名への恐れも入り、彼女を止める者はいなかった。
  と言っても、誰かに迷惑をかけるわけではなく、純粋に知的好奇心から
  オカルトの研究をしていたのだが。

 そんな中現れた唯一の例外。それがが智だった。
  実験の材料を部室へ運ぶ途中でぶつかった少年。ぶつかったことを詫びると、
  部室まで荷物を持ってくれた。
  部室やオカルトに純粋に感心したようで、ちょくちょく遊びに来てくれるようになった。
  神川の名前にも物怖じしない智に、一度聞いてみたことがある。彼はこう返した。

「そりゃ先輩がすっごいお嬢様ってのは聞いてるけどさ。それって周りが言ってるだけだろ?
  俺自身はまだ先輩のこと何も知らないのに、それだけで敬遠するのっておかしいじゃんか」

 ・・・その日以来、藍香は智を自分のものにすることしか考えられなくなった。
  神川のお嬢様ではなく、藍香という一人の女の虜にしたくなった。
  魔術の実験助手が欲しいといって部室に連れ込み(といっても合意の上だが)、色々と試した。
  惚れ薬を作ってみたり、催眠術を掛けてみたり、傀儡の術を試してみたりした。
(もっとも、オカルト知識のない智は自身がそんなことをされているとは思ってもいなかったのだが)
  が、文献の散逸や、現代では手に入らない材料の関係でいつも失敗。
  でも、失敗に落ち込む自分を優しく励ましてくれる智の心遣いが愛しくて、
  今のままでもいいかなと思うようになった。

 しかしある日、それが甘すぎると思い知らされることになる。

 

 ある放課後、藍香は二年の教室のある階をウロウロしていた。智の教室まで直接行く勇気がない
  藍香は、彼に来て欲しい日は、休み時間ごとにこうして廊下をうろつく。
  そうすると大抵智が藍香を見つけ、駆け寄ってきてくれるのだ。
  しかしその日はいずれの休み時間にも智を見つけられず、こうして放課後まで引っ張ってしまった。
  待ち始めて十数分、視界に智の姿を認めて歩み寄ろうとした藍香は――。
「・・・・・・・・・!!」
  智にぴったりと寄り添って歩く少女の姿に、その歩みを凍りつかせた。
「智ちゃん、おじさんたち今日も帰ってこないんでしょ? 晩御飯作りに行ってあげるよ、
  何がいいかな?」
「何でもいいよ。千早は何を作らせたって上手いからな」
「もう、そういうのが一番困るのに。じゃあ、帰りに一緒にスーパーに行こ?
  買い物しながら決めればいいよ」
「帰りにか? まあ金は持ってるけど・・・。一度帰って着替えてからでもいいじゃんか」
「だぁめっ。制服のままっていうのがミソなんだから」
「みそ? ・・・訳がわからん。何の味噌がいいんだか。っておい、引っ張るなって!」
  その少女は智の手を――自分だってまだ触れられないでいる彼の手を――無造作に取って
  駆け出した。怒った口調とは裏腹に、智も苦笑しながら彼女に続く。
  藍香と5メートルくらいの距離まで近づいたが、気づくことなく昇降口の方へ消えていった。

 

 どうやって歩いたのか覚えていないが、気が付けば藍香は部室にいた。
  周囲には散乱した本や薬品、砕け散ったビーカーが転がっている。
  大切なものなのにこんなになっているなんて、どうしてだろうか。
  泥棒が入るような場所でもないのに。
「・・・っ・・・!」
  口が痛い。血だ。いつの間にか噛み切っていたらしい。
  こんなに強く歯を食いしばっていたなんて。どうしてだろうか。どうし――
「!!!!」
  決まっている。あの女だ。私の愛しい後輩に、智に纏わり付くあの女。
  恋人のように寄り添うその姿、思い出すだけで目の眩むような憎悪を覚える。
  それは、人形である自分の中にこんな激情が眠っていたのか、
  と藍香自身感心してしまいそうなほど強い負の感情。
  それでいて表情は一見いつもの無表情であり、それが恐ろしさを一層掻き立てる。
  藍香の領域であることも手伝い、部室内は普通の人間なら立っていられないほどの瘴気が
  渦巻き始めていた。
  しかし今の藍香には、その瘴気こそが自らを落ち着かせ、これからどうすべきかを
  教えてくれる存在だった。

「・・・・・・・・・・・・・・・」
  そうだ、あの魔術を試そう。人間を動物に変える魔法。前から試したかったけど、
  流石に実行するには気が引けていたあれを。
  あれなら被術者がこの場にいなくても発動できる。問題は施術者のイメージ力だ。
「・・・・・・」
  問題ない。忘れるはずがない。あの忌まわしい小娘の姿を。
  さあ、堕ちろ。智の前から消えてしまえ。自分が誰かも認識されないまま朽ち果てていけ。
  変化させる姿を決めるまでには解読してない術だけど、むしろそれでよかったかもしれない。
  だって、どんな下等な動物にするのが最も相応しいか悩んで、いつまでも決められなかった
  だろうから。
  そして藍香は、‘力ある言葉’を解き放ち―――。

 

 智の吸血が始まって以来、藍香にはもう一つの日課がある。智が帰った後の部室内での、
  彼女だけの秘め事――。
「あぁん・・・! いぃ・・・」
  再び衣服をはだけた藍香は、勃った乳首をブラの上からピンと弾く。
  智に触れられる期待を一身に受けていたそこは、何もせずとも臨戦状態だった。
  鎮めなければ、服から擦れる感覚だけで達してしまいそうな程。このままでは帰れないし、
  何より自分も耐えられない。
  乳房を揉みながら、右肩を上げてそこを舐める。先ほど智が舐め回していた場所だ。
  本当なら洗わずそのままにしておきたいが、さすがにそれは不潔なので、
  今のうちにたっぷり味わっておかなければならない。

 元々藍香は自慰行為をよくしていた。しかしそれは、実験に少女の愛液が必要だから、
  などという場合のことで、快感などは副次的な、むしろ不要物だった。
  それが今や、愛しい男に抱かれる想像に酔い、快楽の海へ望んで溺れるための行為と
  化してしまっている。
  ストックしてある愛液を智に出すお茶に入れることもあり、それを彼が飲むことを想像しただけで
  濡れてくるほどになっている。
  特に智に血を吸われた直後は、どうしようもなく身体が疼くのだ。
「・・・・・・・・・」
  そう、吸血。あの日、千早が受けるはずだった魔術の効果を受け取ったのは智だった。
  しかも、変化したのは身体の外部ではなく内部。
  智は吸血鬼になってしまったのだ。
  翌日、魔術の効果を確かめる前に、智が自分の変質を相談に来たことで事態を知った藍香は、
  応急処置として自身の血の進呈を提案し、智を元に戻す方法を探すことになった。

 ・・・しかし、藍香が今探しているのは吸血鬼を人間にする方法ではない。
  それどころか『人間を吸血鬼にする方法』だった。
  自分を吸血鬼にするために。愛する少年と共に、世界にたった二人の異端の存在となるために。
  異端者を弾こうとするこの世界で、自分と智は皆のように生きていくことはできなくなるだろう。
  そうなれば、互いに寄り添って生きていくしかない。
  それはどんなに幸せなことだろう。
「・・・・・・・・・」
  智は藍香の行うオカルト儀式をちゃんと理解しているわけではないが、魔術の実在は知っている。
  そして彼が関わったその類の使い手は藍香しかいない。今回の己の変貌の原因が何らかの形で
  藍香にあることは、彼女から告げなくとも感づいていたはずだ。
  智を変えてしまった、それによって嫌われることを怯える藍香に、しかし智は笑って言った。

「先輩、俺は自分の意思で先輩の所に通ってたんだ。誰かの所為ってものじゃなくて、
  俺が選んだ先にあった結果がそれだったってだけのことだよ。
  確かに不本意な状態ではあるけど、先輩が望んでそんなことしたはずはないし、
  今だって俺の為に色々手を尽くしてくれてるじゃないか」

 ・・・ああ、だめ。例え上辺の慰めだったとしても、そんなこと言われたらもう
  気持ちを抑えられない。
  貴方を自分だけのものにできなければ死んだほうがマシとさえ思える。
  どんな手段を使ってでも手に入れたい。
  乳房を弄っていた左手は、いつの間にか足の間に差し込まれていた。
  ぐしょぐしょに濡れそぼった秘裂をなぞり、すぐにそれだけでは我慢できなくなって
  人差し指を突き入れた。
「んんんああぁぁぁっっ・・・!!!」
  それだけで軽くイってしまう。気持ちいい。もっとイキたい。
  でも我慢だ。この先に怖くなるほどの快楽が待っているのは分かっている。
  だからこそ、初めては智のモノでしてほしい。
  正直、そう長く我慢できる自信はない。ああ、早く貴方が私を奪ってくれないと、
  私は堕ちて淫魔にでもなってしまうかもしれない。
  それも悪くないけど、やっぱりなるなら貴方と同じがいいよ。比翼の存在となって、
  二人でどこまでも堕ちていこう?
  だから、早く見つけないと。偶然でなく確実に、私を吸血鬼と化す方法を。

 

 たとえ、永遠に人の身を捨てることになろうとも。

3

 カチ

 カチ

 それは歯の噛み鳴る音。ほんの一瞬だけ歪な半月を描く唇。最愛の幼馴染でさえ知らないシグナル。
  折原千早という女の、それはスイッチだった。

 

 

 帰りのHRが終わると、千早は一緒に帰ろうと言うために一目散に智の席へ駆ける。
  教科書を鞄へ片付けるのは後回しだ。
  例え一緒に帰るのが10年来の決まりごとだったとしても、千早は必ずこうして誘いをかける。
  一々言わなくても一緒に帰るのにと智は言うが、『ちゃんと形式を取るのは大切なことなの』と
  千早は返している。

 そう、形式は大切だ。最早限りなく夫婦に近い自分たちだけど、言わずとも互いの気持ちは
  分かりきっている自分たちだけど。
  ちゃんと改まって「好きだ」と言って欲しいのが千早の気持ちだ。受け止める用意は
  いつだって出来ているのだから。
  それに、この帰りの誘いは今や決定事項の確認とは限らなくなってしまった。
  あの暗い――を通り越して、邪悪とさえ言える気配を纏った女の所為で。
  カチカチという音を鳴らす頻度が、この数ヶ月で異常なまでに上がっている。

「智ちゃん、一緒に帰ろっ」
「悪い千早、今日も部活なんだ」

 カチ

「また・・・? ここのところ毎日だよね。以前はそんなことなかったのに・・・」
  そう。正式に所属しているわけではないものの、智はオカルト研究会に参加している。
  大抵週に1回か2回、多くて3回というところだ。
  本人曰く「巷のインチキなオカルト番組の100倍は面白い」ということだが、
  千早にとっては共に居られる時間を害する、悪魔の誘いでしかない。
  最初は、当然のように千早も共に行こうとしたのだが、
『先輩が秘密厳守っていうんだ。ごめんな』と智に申し訳なさそうに謝られては、
  引き下がらざるを得なかった。

 悪魔の名前は神川藍香。様々な風聞を持つ先輩だが、千早の認識は悪魔の一言だ。
  それも比喩ではなく、文字通りの意味で。
  霊感があるなどというつもりはない。だが、その女とすれ違った時に千早は恐怖を感じたのだ。
  人間を害する存在に抱く、本能的な警戒心や敵愾心を。
  その悪魔が、大事な智に目を付けた。それも、智を堕落させようとする淫瘍な空気を纏って。
  他の誰も気づいてないようだが、自分の目だけは誤魔化せない。

「どうしても! いいから先に帰ってろ! じゃあな!」

 カチリ

 智ちゃんが怒鳴った。怒鳴られたのは初めてじゃない。
  でも、智ちゃんはこんな理不尽な怒鳴り方は絶対にしない。
  あんな風に目を逸らして逃げるように去っていくことは、絶対にしない。
  智ちゃんは取り込まれようとしているのだろうか。魔に魅入られてしまったのだろうか。
  私の智ちゃんが、私を残してどこかに行ってしまうなどあり得ない。
  あの悪魔が――人に仇なす淫魔が、智ちゃんの心を蝕んでいるんだ。

 カチ カチ カチ 

 助けなきゃ、智ちゃんを。唯一無二の、パートナーとして。

 

 千早の歯鳴らしの癖は、周囲の誰も知らないものである上、千早自身意識して
  行っているものではない。
  この行為が初めて為されたのは小学校3年生、8歳の時。体育でケガをした
  クラスメートの女子に智が手当てをしているところを見た時だ。

「あんっ・・・!」
「ごっ、ごめん・・・。その、くすぐったかった?」
「う、うん、ちょっと。でもイヤなわけじゃないから。続けて、高村くん」

 ・・・カチ

 保健の先生がいない時だったのだが、保健委員だった智は見よう見まねでその女子の膝を洗い、
  消毒をした。その時の、太股に触られていることに頬を赤らめる少女と、
  同じく頬を赤らめながらも必死に意識していないふりをして手当てに集中する
  少年の姿を見た瞬間、千早の唇は笑みの形に歪み、歯が本人にしか聞こえない音で
  カチリと鳴り響いたのだ。
  それは、恐ろしく早い覚醒を迎えた『女の嫉妬』だった。

 元々、千早は智が自分以外の女の子と話すことにとても焼きもちを焼く少女だった。
  しかしそれは、飼い主に構ってもらえない犬のような、弟妹が生まれたため
  親に構ってもらえない姉のようなものであり、ストレートな感情の発露だった。
『智ちゃん、他の女の子となかよくしちゃやだぁ〜!』と子供じみた癇癪を起こして
  幼馴染に纏わり付く様は、周囲をして「わんこ」の通称を戴かせたほどだ。
  だがその時の千早はただ見ているだけだった。ユラァ、と唇を歪め、
  カチカチカチカチと加速度的に増して行く歯鳴らしの音は、
  真冬の風に凍えているのかと思わせるほど。
  そして、見開かれた目は瞬き一つしない。まるで、目の前の光景を一瞬たりとも逃すことなく
  その網膜に焼き付けんというばかりに。
  30秒ほどして智たちはようやく千早に気づいたのだが、その時にはいつも通りの千早がいた。
  笑みは自然な流線型を取り、歯が鳴っていることも当然ない。
『ケガは大丈夫?』と小走りで二人の下へ近づいていった。
  平気だよとか気をつけろよと笑いあう少年少女の姿は、どう見ても仲の良い
  クラスメートの談笑だった。

 ・・・その数日後、膝に絆創膏を貼った三年生の少女が、階段で足を滑らせて転倒、
  数ヶ月入院するほどの重傷を負ったのはまた別の話である。

 

 普段から智を目で追っている千早なので、歯鳴らしの癖が嫉妬心の発露だと自覚するのは早かった。
  ふと我に返って歯が鳴っているのに気づいた時、視線の先には智がクラスの女子と
  話している光景があったからだ。音が鳴るたびに泥が肺に堆積していくような感覚に陥り、
  吐き気さえ催すようにさえなった。
  そして、そんな思わず顔を歪めたくなるような苦しさを訴える内面とは裏腹に、
  虚ろな笑みを浮かべた表情は、口元の笑みの曲線を不自然なまでに深くしていくのだ。
  泥の堆積は堤防の決壊に似ていた。溜まりに溜まった鬱屈は、
  いつか暴発して全てを押し流してしまうかもしれない。

 しかし、堤防が崩れることはなかった。千早にとってそうであるように、
  智にとっても千早以上に大切な存在がなかったから。
  向けられる声、笑顔。触れる指先、抱く腕―――その全ては千早のものだったからだ。
  智が友人の一人、クラスメートの一人ではなく、特定の個人を意識してそれらを向けるのは
  千早が唯一の存在だった。
  積み重なる泥濘全てを覆い隠すほどの愛情に包まれて育った少女は、故に自覚していない。
  己の中の独占欲がどれほど肥大化しているかを。
  満たされることに慣れきった心がどれほど脆いかを。

 堆積した泥は、隠されることはあっても無くなることはない。今や天高く積みあがったそれは、
  智の更なる愛情を求めて決壊を必死に耐えていた。

4

「ただいまー・・・」
  西日に赤く染まった高村家の玄関に覇気の無い声が響く。
家の主とその妻が出張で留守にしたその家は、もはや長いこと智の一人暮らし状態だ。
  しかし両親は智を安心して放任し、智もそれに何も言わない。なぜならば――
「おかえりなさーい!」
  パタパタとスリッパの音を響かせ、制服の上からエプロンをした千早が
キッチンから顔をのぞかせた。料理中らしく、台所からは食欲を誘う匂いが漂う。
  このように、千早が智の面倒を甲斐甲斐しく見ているためだ。当初は面倒を掛け
心苦しいと思っていた智だが、今ではすっかり甘んじている。
  千早が身に着けたエプロンもスリッパも、この家での彼女専用のものだ。
「ああ、ただいま。・・・千早、さっきはごめんな。怒鳴りつけたりして」
「ううん、いいよ。ちゃんと謝ってくれたから、許してあげる」
  今更この程度で揺らぐような絆ではない。それを感じて千早は嬉しくなり、
智の傍に駆け寄って鞄を受け取る。新婚さんを思わせるこういった些細な行動は、
千早の毎日の密かな楽しみだ。
  しかし。

「・・・あの女の匂いがする」

 カチリ

「え・・・?」
  俯いた千早の表情は、ちょうど真上から見下ろす形になっている智には見えない。
呟きと歯音は烏の鳴き声に掻き消され、耳に届くことはなかった。
「おい、千早?」
  智が俯いたまま動かない千早を怪訝に思い声を掛けると、面を下げたまま千早が口を開いた。
「智ちゃん。ご飯できるまで時間あるから、先にお風呂入ってきて」
「え? でもまだ早・・・」
「いいからっ! 入ってきて!!」
  千早の剣幕――といっても顔は見えないのだが――に押されてか、
智は疑問を持つことも忘れて急いで二階の自室に上がっていった。
  部屋の扉を開け、バタンと閉める。その音と同時にゆっくりと顔を持ち上げた千早は。

 口裂け女もかくやとばかりに歪んで広がった唇を三日月型に開き、壊れた人形のように
ガタガタと歯を噛み鳴らしていた。

 

 智が風呂場からシャワーの音を響かせ始めると、千早はすぐさま二階に上がる。
見慣れた幼馴染の部屋、そのベッドには乱雑に脱ぎ捨てられた制服が散らばっていた。
  それを見た千早の笑みが穏やかな、母親のそれになる。若い男子の常というべきか、
智もまた年相応に自堕落であり、その世話をするのは千早の役目だった。
  制服を手に取り、シワを伸ばしハンガーに掛けようとして――千早は不意に
制服をギュっと抱きしめると、そのまま智のベッドに倒れこんだ。
  股に制服を挟み込むと、モジモジと両足を擦り合わせ始める。
「んんぅ・・・智ちゃん・・・智ちゃぁん・・・!」
  既に数年来の習慣となっている、智の部屋で自らを慰める行為。小学生の頃に知ったそれは、
中学生になって本格的な習慣と化した。
  私服だった小学校とは異なり、制服はそう頻繁には洗えない。いつものように苦笑しながら
智の制服を片付けようとして、そこにはっきりと残る愛しい人の残り香を感じた千早は、
簡単に理性を手放してしまったのだ。
  慣れた行為に肉体はすぐに上気し、間もなく水音を響かせ始める。
「やぁっ、そこはだめぇ・・・! 汚いよぉ、智ちゃん・・・」
  脳裏に浮かぶのはいつだって、この世で一番愛しい幼馴染の少年の姿。
  しかし、身体がいつも通りに快楽を享受し始めた中、千早の頭の中に僅かに冷めた部分が残った。
智の匂いに混じった他の女の匂いが、快楽への没頭を邪魔するのだ。

 カチリ

 またも歯が無意識に噛み鳴らされる。

 智ちゃんが他の女の――あの女の匂いをつけて帰ってきた。これまでだってあったことだけど、
今日は特に酷い。
  一体何をさせられているの? 一体何をしているの? 服に匂いが付くほど近づかなきゃ
出来ないようなこと?
  智ちゃんに近づいていいのは私だけなのに。智ちゃんの隣りは私だけのものなのに。
  智ちゃん、ダメだよ。あの女に近づいちゃダメ。あの女は悪魔だよ。それも女の形を取った
とびきり性質の悪い淫魔。きっと智ちゃんを不幸にする。
  いまならまだ間に合うよ。幸い自分の領域でなきゃ何も出来ないみたいだし、
私が守ってあげていれば大丈夫。魔に魅入られた部分も、私がそばに居ればきっと回復する。
  そうしたらきっと智ちゃんも『千早のお陰で目が覚めたよ。もう俺はお前なしじゃ
生きていけない。愛してる』ってちゃんと言ってくれる。

 でも、もしかしたら・・・もう智ちゃんは、口で説得するだけじゃ聞いてくれない領域まで
侵されているかもしれない。
  もうそうだったら・・・そうだったら私は、何に代えても智ちゃんを救わなきゃならない。
  学校には行けないだろう。あの女が目を光らせている。怪しげな術で立ち回られたら、
いくら私でも守りきれないかもしれない。それでも智ちゃんは学校へ行こうとするだろうから・・・。
  ムリヤリにでも、動けないようにしなきゃ。
  薬を盛ろうか。睡眠薬なら持っている。三食私に頼りきりの智ちゃんだから、混ぜるのは簡単。
後で縛るための縄でも探しておかないと。
  殴って気絶させるのはどうだろう。フライパンは・・・ダメ。硬いけど力が足りない。
それに何年も智ちゃんにお料理を作ってる道具だもの、へこんじゃったら大変。
結婚してからも大事にしたい想い出の品だもんね。
  なら・・・玄関にあるおじさまのゴルフバック。うん、いい。あれなら非力な私でも
強力な衝撃を生み出せる。
  どちらにするかは後で考えよう。

 智ちゃん、ちょっとご無体するかもしれないけど許してね。智ちゃんの為なんだから。
驚かせるかもしれないけど、きっと智ちゃんなら分かってくれるよね。
  それに、ずぅぅっと私がそばに居るから。ご飯も、おトイレも、お風呂も、
私が全て面倒見てあげる。性欲だって・・・受け止めてあげるよ。
  私のことしか考えられなくなるまで、何日でも、何ヶ月でも、何年でも愛してあげるから。
  なぁんにも、心配することはないんだからね?
  まずは、服に付いた女の匂いを消さなきゃね。私の匂いに染め直さないと。

「いくっ、いくぅっ、いっちゃうよぉぉっ! さとしちゃんっ、一緒に、一緒にイってぇぇっ!」
  すべきことが決まると、不思議と気も軽くなる。思考の為に残した部分を手放して
快楽に身を任せると、一際高く啼いて千早は果てた。
  エプロンの前を濡らした千早が部屋を立ち去った後には、ところどころを同じく濡らした
智のズボンが残されていた。

 智が風呂から上がり、千早が最後の仕上げを終えて。いつも通り向かい合って座り、
夕食を摂り始める。
  疲れているのか、智の箸の動きはいつもより鈍い。しかし、千早の動きはそれに輪を掛けて鈍かった。
  食欲がないわけではない。これから発する言葉への緊張からだった。
  また怒鳴られるだろうか。『俺が放課後どうしようが俺の勝手だろ!』とか言って。
まさかあの女を庇うようなことは言わないだろうか。
  いざ相対すると嫌な方向ばかりに想像が行く。ともすれば唇が歪み、
歯が噛み合わさりそうになるのを必死に堪える。
(智ちゃんのため、智ちゃんのためなの・・・! 私が言わなきゃいけないの!)

「智ちゃん!!」
「うわっ!? な、何だ!?」
  いきなり立ち上がって身を乗り出してきた千早に、智は思わずのげぞる。
  その攻めの態勢に勢いを見出したのか、千早は矢次早に一気に告げた。
「もう・・・もう部活に行っちゃ――あの先輩に会っちゃ、ダメ」
  最初の勢いとは裏腹に、静かな響きを持って紡がれた言葉。それは沈黙に満たされた空間に
不思議なほど深く浸透した。
  その態勢のまま数十秒。沈黙に耐え切れなくなった千早が泣きべそをかきそうになった頃。

「わかった」
  智の口から、予想だにしない返事が返ってきた。
「え・・・?」
  理解できなかったのか、千早が呆けたように呟く。
「そうするよ。俺も薄々そうした方がいい気はしてたけど、ずっと決められなかった。
でもお前の言葉で踏ん切りがついたよ。これ以上お前に心配は掛けられないし、
先輩にも迷惑を掛けられない」
  なぜ智が藍香に迷惑を掛けると言うのか。少し疑問に思わないでもなかったが、
智の言葉に比べれば些細なことだった。

 やっぱり智ちゃんは分かってくれた。私が一番だって分かってくれた。
  ううん、初めから分かっていたんだ。優しい智ちゃんだから、
可哀想な悪魔に少し構ってあげていただけ。
  悪魔は好かれたと勘違いして智ちゃんを魔に引きずり込もうとしたけど、
そんなもので切れてしまう絆じゃあ、私たちはない。
  いつの間にか、千早は花が咲いたような満面の笑みを浮かべていた。幼い頃に戻ったかのような、
不純物など何一つない童女の微笑み。
  だからだろうか。また明日と言って別れるに至っても尚、少女は思い出さなかった。

 己が智の食事に入れたもののことを。

5

「じゃあまた明日ね、智ちゃん! おやすみなさい!」
  満面の笑顔で帰っていく千早を、智も笑顔で見送る。あれから千早は始終ご機嫌で、
智にずっと纏わり付いていた。
  不思議なことに、智もそれに邪な心を抱くことなく接した。決意さえちゃんとできれば
どうということはないのだ。
  やはり自分にとって千早は大切な幼馴染だと、智は今更のように思う。
  その千早をどれだけ心配させていたかは、先程までの犬っぷりを見れば明らかだ。
  そしてその始まりは、やはり自身の吸血鬼化。それは智に、かなりの精神的負担を強いていた。

 吸血鬼になって変わったのは、血を飲む性質だけではない。
  まず身体能力が上がった。以前が運動会のクラス対抗リレーに選ばれる程度とすれば、
今は国体クラスといったところ。一応常人レベルに収まっているし、
ある程度力をセーブできるので、周囲にバレてはいない。
  肉体のバイオリズムも変わった。昼がダルい。強い日差しを受けると、チクチクと針を刺すような
痛みを感じてしまう。
  割と真面目に授業を受けていたのに、寝ることも増えてしまった。元の成績が悪くなかったので
今はそれほど問題はないが、今度の期末テストは少し気をつけないといけないだろう。
  逆に夜は元気なので、夜に勉強すればいいだけなのだが。
  懸念された吸血鬼の弱点というのは、実はそれほどでもなかった。まずニンニクは平気。
多少は効くが、単に嗅覚も鋭くなったために感じるだけのことであり、
これはニンニクに限ったことではない。ドリアンなどの方が余程脅威だ。
  十字架も平気だった。藍香曰く『単に物が交差しただけでは、魔を祓う聖性はない』とのこと。
つまり、藍香が持っているような魔術的な力のある十字架でないと効果がないということだろう。
  日光は前述の通り。多少は堪えるが、せいぜい慢性的な寝不足状態、という程度でしかない。
根性と体調管理でどうにでもなると智は踏んでいる。
  心臓に杭は・・・打てば死ぬだろうが、それは吸血鬼に限った話ではあるまい。
それでなければ傷つかない身体にもなっていない。現に、昨日は体育で擦り傷を負ったし、
普通に痛かったのだから。
  つまるところ、日常生活には問題はないのだ。ならば、何が智をこうも疲労させているのか――。

(くそ・・・・・・)
  毒づいて見せても、脳裏に浮かぶ情景は現れるのを止めてくれない。例え身体が今のように
なっていなくても、それは押さえ込むにはあまりに魅惑的な光景。
  部室での藍香の艶姿。下着が見えることも厭わず開かれた制服、大理石のように滑らかな肌、
震える慎ましやかな唇、そして張りのある美しいラインを描いた豊かな双丘。
  そんな姿を年頃の男子に晒すことの意味を、藍香は分かっているのだろうか。
  確かに智の身体の異変の原因は藍香にある。あの報告に行った日の色を失った藍香の表情からも
それは分かる。口数は少ないが優しい藍香だ、責任を感じているのだろう。 
  だが、それは自己犠牲的に己の全てを捧げることとは違うと思う。
別に贖罪を望んでいるわけではないし、こんな形でのものなどいわずもがなだ。
  今の智は身体能力を始め、嗅覚など五感も強化されている。そしてそれは、
性的な欲求とて例外ではない。
  だからこそ困るのだ。この年齢の割に強い理性を誇る智だが、あくまで年齢の割に、だ。
所詮17歳の少年に過ぎない彼の理性は、毎日恐ろしい勢いで磨耗している。
  初めての吸血の時、藍香は制服を緩めて僅かに肩を晒した。
首筋に噛み付きやすくするためにと言って。
別に必要はなかったが、先輩が言うならこのくらいはいいかと、少しドキドキしながら承諾したのだ。
  それが、いつの間にこんなことになったのだろう。分かっている。
欲望に負けて拒めなかった自分が悪いのだ。だが、それも今更。
  血と女への陶酔感に溺れかけている自分は止めようがなかった。

 加えて千早のあの金切り声。智には匂いがどうとしか聞こえなかったが、
それもオカルト研究会によるものだろう。
  始めはもしや自分はそんなに臭いのかと思ったが、あの部室を思い出せばその疑問もすぐに解けた。
  思えば、部室ではいつも怪しいお香を焚いていた。時に香水のようだったり、
時に刺激臭だったり、時に香辛料そのものだったり。
  湯船に浸かりながら、智は今日のお香を思い出した。身体を火照らすような、
温度の高い煙だったが、不快な匂いではなかった。むしろ甘い感じの・・・。
「・・・・・・・・・」
  なぜか浮かんだのは藍香の肢体。即座に冷たいシャワーで頭を冷やした。
  ともあれ、それらの香も何かしら魔術的な代物に違いあるまい。自分は慣れているし、
人体に害はない――と智は思う――とはいえ、千早には何か不快感を与えるものが
あったのかもしれない。
  思えば、千早はここのところ不安定だった。今日のように我を忘れた叫びを上げたのは
始めてだが、智がオカルト研究会に行くことに、ずっと不安を抱いていた。
  それは、人知が及ばぬ領域に対する根源的な恐怖だろうか。ならば自分も、
必要以上にそこに関わるのは止すべきではないか。
  確かに本物の魔術などに興味はあるが、それは何より大切な幼馴染にあんな思いをさせてまで
貫くものではない。
  藍香から血を吸うのを止め、オカルト研究会とはただ吸血鬼から元に戻ることに
関してのみ付き合う。そうすべきだ。
  部活をやめても、別に藍香との付き合い自体が消えるわけではない。もう自分たちは友人同士だ。
ずっと藍香の領域で付き合ってきたが、今度は自分や千早で藍香を光差す世界へ連れ出そう。

 一度決めてしまうと気が楽になる。
  夕食での、千早の痛いほど真剣な言葉が、その決意を後押ししてくれた。
(この日常を守ろう。千早や藍香先輩の前では、俺はいつもの高村智だ。みんなが見てないところで
どんな思いをしても、それを絶対に表に出さない)
  時計をみると、午後の十時を回ったところだった。
  智は部屋に戻って上着を羽織ると外へ飛び出す。日常を守るためにも、
これからしなければならないことがあるのだ。
  夜という翼を得た吸血鬼の少年は一陣の疾風となって、住宅街からあっという間に姿を消した。

 

 ・・・日常を守るため、などと格好のいいことを言ったとしても。
(俺のしてることって、まるっきり性犯罪者のそれだよな・・・)
  それでも智は、自らの行為をやめようとしない。
「ぁぁぁ・・・いい、いいよぉ・・・!」
  智に後ろから抱きすくめられた女が身体をくねらせて身悶える。
眼鏡を掛けた真面目そうな少女だったが、今は快感に呆けた浅ましい表情で智に身を任せている。
  その女の首筋には、智の鋭い歯が突き立てられていた。
  言うまでもないが、血を吸っている。
  夜は11時遅く、場所は繁華街の裏路地だった。

 藍香から血は吸わない。いくら言ったところで、こればかりは根性で抑えられるものではない。
一度我慢を試して実証済みだ。血を断って三日、翌日に貪るように藍香にしゃぶりついた経験は、
今も智に苦い思いを抱かせる。
  ならば他から血を供給するしかない。だが、見知らぬ他人に血を吸わせてくれなんて言える訳がない。
  だったら無理矢理――それでもなるべく穏便に――いただくしかない。
  他にいい案があるかもしれないが、悠長にそれが見つかるのを待ってもいられない状況だ。
  そうして智が考えたのが――夜の街に繰り出し、人知れず暗躍して人を襲う、だった。
  実は、こうして夜に出かけるのはこれが初めてではない。藍香から吸う血の量だけでは
足りなかったのだ。貧血にならないようにと手加減して吸っているためなのだが、
それで自分が暴走しては元も子もない。
  だから智は、見知らぬ人々からほんの少しずつ血を吸って吸血欲求を満たしている。
  初めはのべつまくなしに吸った。中年サラリーマンにも我慢して牙を立てた。結果、吐いた。
純粋に血が不味くて。
  血にも良し悪し、或いは相性があることを知ると、段々と自分に合うターゲットを絞っていった。
  まず女性。それも若い女。そして、これは智が推理した傾向でしかないのだが――。
  清楚な、真面目な、遊んでなさそうな――そして、これは邪推だと本人は思っているが――。

 処女。
  で、ある。以前、年不相応に似合わない化粧をしたけばけばしい中学生――制服で分かった――
の血が酷く不味かったのに対し、三十路前くらいと思われる真面目そうなOLの血はとても美味かった。
  ・・・無論、血を吸っただけで相手の性遍歴まで分かるわけはないのだが。
  ともあれそんなわけで、智はターゲットを女子中高大生から若いOL当たりに絞っている。
  塾帰りの学生やちょっとコンビニに出てきた受験生、残業で疲れて帰路に着くOLと、
探せば意外に見つかるもので、今のところ相手に困ることはない。
  襲う方法は極めて単純。近道と思って裏路地や人気のない暗がりを通った所などを
羽交い絞めにし、有無を言わせず素早く歯を立てるだけ。早ければ5秒、多くても10秒は掛けない。
  猥褻行為とは違うし、智も邪な気持ちはないのだが、客観的に見れば、本人が思った通り
どう見ても性犯罪者だ。それでも智は今のところ、全くボロを出していない。
  夜が智に与える力は思いのほか大きく、女性一人の動きを封じるくらいは難なくやってしまうからだ。
  無論時間と場所という要因もある。だが、何より――。

「あぁぁぁ・・・はふぅぅぅ・・・・・・」
  智の腕の中で、眼鏡の少女がくてんとなる。実はイッてしまったのだが、智が気づくはずもない。
「ふう・・・上手くいったな。ごめん、ちょっともらっただけだから。
身体に影響は出ないと思う。・・・ホントにごめんな」
  心からすまなそうに、しかし顔は決して見せず、脱力した少女をその場に横たえて智は姿を消した。
  ・・・そして何より、女性からの抵抗がないこと。これが大きい。最初は抵抗されるが、
一度牙を突き立ててしまえば大抵が脱力し、智のなすがままにされてしまうからだ。
  女性の無抵抗の理由を『吸血などいう行為を受けたへの衝撃から』と取っている智は、
その衝撃を押さえ込んででも抵抗する女性がいつ現れるかと、内心では戦々恐々としている。
吸血時間の短さやすぐに逃げ出すことからもそれは明らかだ。
  だから気づかないのだろう。その少女の血を吸うのは実は二度目であること、
少女が一時間ほども前からこの辺りをうろついていたこと。
  そして、彼女と同様に意味もなく、だが一抹の期待を胸に抱いて繁華街をうろつく
女性たちの存在と、彼女たちの首にある小さな刺し傷のようなものを。

 このように自力で血を補給できる智が、なぜ藍香の血を吸うことに甘んじていたのか。
それはまさしく「甘え」だ。弱い自分と藍香の優しさへの。
  藍香の血は美味い。味がどうこうではなく、もっと何か・・・本能的な欲求というか、
支配欲というか――智には上手く言葉に出来ない――を満たしてくれるのだ。
  『藍香』が、『藍香の血』が欲しい、と心の中が喚くのだ。他の女性には今しがたのように、
単に血を求める存在以上の衝動は抱かないというのに。
  実際、量はともかく満足度では、他の女性が束になっても藍香には敵わないだろう。
  だからこその甘えであり、しかし自分はこれを終わらせなければならない。
取り敢えず相性の合う血さえあれば自分の身体は保つのだ、後は藍香を信じて待つしかない。
  時計を見ると、既に日付は翌日になっていた。
(午前1時前か・・・そろそろ帰ろう)
  身体は元気一杯だが、寝ておかないと明日に響く。授業中ずっと寝て過ごすなどという
醜態は晒せない。
  そう思って自宅への道を取ろうとした智だが、ある光景が目に映った。

「なあ姉ちゃんさー、俺らがこんなに誘ってるんだぜ?
  そろそろOKって言ってくれてもいーじゃん」
「そーそー。忘れられない夜にしてやんぜ? ぎゃははははははっ!」
「なあいいだろー? こっちが大人しくしてる間にさぁ、うんって言っといた方がいいぜー?」

 未だ人の多いメインストリート、電灯が明るく照らす下で、三人の若者が女性一人に
蝿のようにたかっている。
  そして周りの人間は、チラリと一瞥して素通りしていく。薄情ではあるが、
関わり合いになりたくないのだろう。
  その格好の悪趣味さは智曰く『筆舌に尽くしがたく』。彼らを見て最初に抱いた感想は、
『こんな時代錯誤な連中がまだいたなんて・・・』だったのだが。それはさておき。

「悪いけど。タイプじゃないって何度も言った通りよ。もういい加減にして、他の相手を探したら?」
「そんなこと言わないでさあ・・・」
  毅然と言い放つ女性に男の一人が無遠慮に手を伸ばし――。

 パンッ。
  小気味よい音が響いた。男の手を叩き落とした女性が、返す手でその頬を引っ叩いたのだ。
  叩かれた態勢のまま、男は何が起こったのか分からないとでもいうように立ち尽くしていたが。
「このアマぁっ! 人が下手に出てりゃ調子に乗りやがって!」
  あっさりキレた男が拳を作って女性に踊りかかる。
  剣呑な雰囲気になってきたことに周囲の人間の注目が集まるが、やはりというか
この期に及んでも尚助けようとする者はいない。
  女性は気丈な姿勢を崩さず、男がまさにその顔に殴りかかろうとして――。

「やめろ」
  いつの間にか男と女性の間に入り込んだ智が、男の拳を受け止めていた。
自分より一回りも大柄な男の拳を、智は顔色一つ変えず左手で受け止めている。
  驚いたのか、後ろで女性が息を飲む気配が伝わる。周囲の全ての人間の足が止まる。
そして男の動きも止まったが――智はそれが再び動き出すことを許さない。
  驚愕に歪んでいる男の顔に、智は間髪入れず右の拳を叩き込んだ。
「へぶらっ!」
  鼻血を吹いて男が転がる。
「なっ・・・テメェっ!」
  ズザァッ、と音を立てて仲間が自分たちの間に転がり、暫し呆然としていたが、
残る二人もすぐに頭に血を上らせ、智に殴りかかってくる。しかし。
「・・・見える」
  冷静さを欠いた単調な攻撃、群れて数任せに戦うことしか能がない平均以下の能力。
智の中に酷薄な感情が芽生え、相手を冷静に分析する。
  チンピラ相手に本気を出すことはないが、ケガに気を使って手加減してやる必要もない。
  二人をある程度引き付けると、智はドロップキックの要領で一人の脛に飛び蹴りを食らわす。
為す術も無く倒れる一人。しかもその動きでもう一人の後方を取る。
  慌てて振り返ったもう一人へ、立ち上がりざまに身体を捻りながらの裏拳をお見舞いした。
「あがぁっ!?」
  何とか倒れずにたたらを踏むが、鼻血を吹いてよろけていてはとても様にならない。
  その間に智は脛蹴りで転ばせた男の背中を踏みつけ、宣言した。
「まだやる気か?」
  智の問いに二人の鼻血男が敵意を込めて睨みつけるが、距離を詰めようとする様子は無い。
  相手の戦意の喪失を確認すると、智は背中を踏む足をどかせた。すぐさま這うような動きで
立ち上がり、仲間の所へ合流する。
「覚えてやがれ!」
  あんまりと言えばあんまりな捨て台詞を残し、男たちは走り去る。
智はそんな言葉を浴びせられたことに、ある意味で深く感動していた。

6

「ふん・・・」
  軽く鼻を鳴らして高揚を打ち消す。暴力自体を否定する気はないが――人助けの為でもあるし――
こういった衝動も吸血鬼化によって増幅される傾向にある為、必要以上に気を高ぶらせるべきではない。
  それに、せっかく十分な血を吸って気分がいいのに、それも台無しになってしまった。
  とはいえ、後ろの女性に罪はない。一つ深呼吸して何とか笑顔を作り、『大丈夫ですか』と言って
振り返ろうとして・・・。
  智は後ろから、思いっきり抱きしめられた。

「うわっ!?」
「ありがと〜、ボク! すっごくカッコよかったよ! それと、助けてくれてありがとうね」
  人目もはばからずぴったりと抱きつかれ、智は間の抜けた叫びを上げる。
  周囲の視線は無関心と微笑ましいものを見る目に分かれ、少なくとも見咎める類のものはない。
  結果、先程まで一番毅然としていた少年が、一番狼狽しているということになっていた。

「ちょっ、ちょっと! 離れっ、離れてくださいよ!」
  押し付けられるやわらかい胸の感触と、頬をくすぐる髪のくすぐったさが、
折角取り戻した冷静さを奪う。
  こうなると力ずくで引き剥がそうとまで頭が回らないのは、智の女性への免疫の無さの表れだ。
  いくら強く抱きつかれているとはいえ、吸血鬼の力を使えば簡単に振りほどけたのだから。
  智の反応に満足したのか、1分近く経って女性はようやく智を解放した。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・。いきなり何するんで――」
  ――すか、までは紡がれなかった。今度こそ振り向いた声の主が、口を開けたまま
呆然と立ち尽くしてしまったために。

 なぜなら、見惚れてしまっていたから。目の前の女性のあまりの美しさに。
  170弱の身長と、智が身を以って体験したスタイルのよさ。身長では智が勝るが、
足は彼女の方が長く見え、腰の細さも小柄な千早より更に細く見える。
  薄紫の髪は、見た事の無い煌きを放つ。紫水晶(アメジスト)のようだと智は思った。
実物を見たことはないのだが。
  ぱっと見て22〜3歳くらいだろうか。どう見ても年上の、大人の女性なのだが、
猫のように愛嬌のある笑顔は同年代のような可愛らしさも内包している。
  そして、そんな健康的な美に溢れながら、いっそ病的と思えるほどに白い肌。
深窓の令嬢である藍香以上だ。

「・・・・・・・・・・・・」
「お〜い? ボク、ボク? どうしたの? 大丈夫?」
  女性がヒラヒラと眼前で手を振り、智はようやく我に返る。
  自分が視姦とも取られかねないほど女性を凝視していたことに気づき、真っ赤になった顔を
慌てて逸らした。
「え、えっと・・・。大丈夫でしたか?」
  取り繕うように言葉を搾り出すと、女性もそれを察したのか智に答える。
「ええ、大丈夫よ。ボクのお陰ね。本当にありがとう」
「・・・そのボクっていうのは勘弁してくれませんか・・・」
  17歳の高校生には堪える呼び名だ。とはいえ、先程までの間抜けな様を思い出すと
そう呼ばれるのも否定できない気がする。
  結局出てきた台詞は勢いの無いものになってしまった。

「ふふっ、そうね。じゃああなたの名前、教えてくれる?」
「・・・智です」
  一瞬、本名を名乗るべきか逡巡する。結局名前だけを名乗った。
  しかし女性は特に追及せず、名乗り返した。
「そう、サトシ君ね。私はエルよ。エルって呼んでちょうだい」
「エル、さんですか・・・」
  やっぱり日本人じゃないよな、と智は思う。しかし丸っきり外国人にも見えなかった。
  となると、ハーフかクォーターかもしれない。
「でも本当に助かったわ。もしあのままサトシ君が来てくれなかったら・・・」
  エルの目が悲しげに伏せられる。一転して変わった雰囲気に智は慌てた。
気丈に振舞ってはいたが、やはり怖かったのだろうと。しかし――。

「あの三人、八つ裂きにしちゃうところだったわ♪」
  一瞬にして笑顔が戻る。暫し唖然としていた智だが、次の瞬間には思わず噴き出していた。
「あははははっ! 何ですかそれは。あははははっ!」
  ガチガチに固まっていた緊張が、笑いとともにほぐれていくのを感じる。
それは日々の維持に追われていた中で、久しぶりの腹の底からの笑いだった。

 

「それじゃエルさんは今、日本中を旅して回ってるんですね」
  智とエルは、二人で並んで歩きながら互いのことを話し合う。今はエルの泊まっている
ホテルへ彼女を送っているところだ。
  ・・・本人の名誉の為言っておくと、智に下心は無い。エルがあまりに綺麗過ぎるため、
いっそそういう感情が湧かないのだ。
  マラソンの周回遅れの心境とでも言おうか。それはさておき。
「まあ、そんなところかな。しばらく来てなかったんだけど、何年も経つと色々変わるものなのね」
  エルは生まれは日本だが、ここ数年は海外で暮らしていたらしい。
  確かに数年も経てば、色々と変わるものだ。ずっと同じ場所に暮らしている智でも
時折そう感じるのだから、エルにとっては尚更だろう。

「でも、一番変わっちゃったのは・・・人間かなあ。まあ、あんな手合いは昔っからいたけどね」
「いや、アレは特殊な部類に入る思うけど・・・」
  疲れた声で智が応じる。
「誰も、何もしなかったね。直接割って入らなくても、何か出来る事はあったんじゃないかな。
なのに、誰もが無関心を貫いた」
  ゾクリ、と智の背筋が一瞬凍る。淡々と話すエルの横顔が、何故か酷く恐ろしくて。
  声が出ない。先程のチンピラをネタに振ろうとした冗談も、思考の彼方に飛んでいってしまった。
「でも、サトシ君みたいな子に出逢えたし! 帰ってきたのも無駄ってわけじゃなかったね!」
  こちらを向いたエルの笑顔は、先程までの無邪気なものに戻っていた。
一瞬戦慄した智だが、思わず拍子抜けしてしまう。
(気の、せい・・・?)
  そんな内心構わず、エルは続ける。
「でも勇気あるね、サトシ君。まさか真っ向から立ち向かうなんて」
「・・・そんなこと、無いですよ」
  賞賛に居心地が悪くなって、智は顔を逸らす。
  あそこまで立ち回れたのは、吸血鬼の力があったから。歓迎されざる力に頼ったからだ。
  それがなければ、自分もエルが罵った大勢の人間たちと同じ態度を取ったかもしれないのに。
「別に、当然のことをしただけです・・・」
  話題を打ち切りたくて、思ってもいない文句を口にする。
  しかしその思惑とは反対に、エルは喰らい付いてきた。
「そんなことないよー! だって信じられないもの。今私を送ってくれてるのだって、
完全にサトシ君の善意でしょ?
  見返りを求めたり下心があったりするわけでもないし」
「・・・エルさん、人間不信なんですか? そりゃさっきみたいな人は多いけど、
世の中見返りだけで動く人間ばかりじゃないですよ?」
  自分の行動をありえないもののように言うエルに、流石に智も苦笑する。
  しかしエルは首を振る。いつの間にかその表情は真剣なものになり、瞳は智を深く覗き込んでいた。
「違うよ。私が言ってるのは人間のことじゃないの」

 

 ドクンと鳴った心臓の音。
  それは虫の知らせか、本能の警告だったのか。
  それはどういうことですかと。何の比喩ですかと言いたかった。
  でも言えなかった。闇よりも深い、しかし何かを見透すように透明な色。黒曜石の黒。
その瞳が、魔力を持ったように智を呪縛した。
「信じられるわけがないもの。女の子を襲っておきながら、僅かな血を吸うだけで
それ以上のことをしない男を。
  人間に心からの優しさを持って接する同族の男を。私がどんなに恋焦がれたか分からない存在が
目の前にいることを」
  エルの瞳の闇が増す。いつの間に後ずさっていたのか、背中が民家の塀に当たっていた。
  道路を挟んだ向こう側にホテルが見える。目的地に着いたのだ、もう別れても構わない場所だ。
  なのに、足も唇も動かない。動くはずが無いのだ。今や智は、その思考さえエルに
絡め取られていたから。
  なぜなら。

(今彼女は・・・何て言った?)
  血を吸う。同族。その言葉が、智の逃げたいという恐怖を封じる。
  エルの表情が再び笑みの形を取った。しかしそれは、先程までの無邪気さなど欠片も無い、
妖艶な笑み。

 智は悟る。自分が彼女へ下心を抱かなかったのは、怖かったからなんだと。
  だってあれは、人にあらざる域に達した美貌。『魔性』だ。

「本当に感謝してるのよ。あと数秒遅かったら、本当にあいつらのこと八つ裂きに
してたかもしれないんだから。
  ね、吸血鬼のボク?」
  そう言って微笑むエルには、身に覚えのある鋭い歯が覗いていた。

7

「私は元々人間なんだけど、もう100年くらい生きてるの。
12歳の時、死に掛けていたところを血を吸われて、吸血鬼に転化してね。
  吸血鬼が人間の血を吸うと、その人間も吸血鬼になるの。といってもかなり長く――
それこそ10分くらいは吸い続けないと吸血鬼にはならない。
  それでも上手くいくとは限らないしね」

 思いがけなく出逢った自分以外の吸血鬼。壁際に追い詰められた態勢のまま、
智はエルの言葉に耳を傾けていた。
「吸血鬼のルーツは私も知らない。でも、きっと大昔からいたんだと思う。私だってこんな姿で
100歳以上だし、1000年くらい生きてる人がいたっておかしくないものね。
  ただ、数は極めて少ないと思うわ。私も100年世界を旅して、ちゃんとした同族に会ったこと
なんて数えるほどしかないし」
  スケールの違う話に、智は唖然とするしかない。取り敢えず彼は、ただエルの言葉を
聞く事に努めた。後で理解できるかは別として。
「吸血鬼になって多くのものを失い、また多くのものを得たわ。
  まずは身体能力。何メートルも飛び上がったり岩を握り潰したりできるくらいだし、
ちょっとやそっとのことじゃケガだってしなくなった。・・・こんな風にね」
  そう言って智の手を取ると、そっと自らの頬に当てさせた。上気している割に、
やけにひんやりとした感触が伝わる。
  そう思ったのもつかの間、エルは智の人差し指を取って、その爪――吸血鬼化して以来
伸びるのが早い――を、頬に当てたまま・・・振り下ろした。

「・・・・・・!」
  肉を裂く音が確かに聞こえた。肉を裂き血を掻き出す生々しい感触に、智の喉が引き攣った音を出す。
  そして、次の光景を目の当たりにして智の喉は完全に引き攣りきった。
  反射的に後退するが、石壁に足を掛けただけに終わり、バランスを崩す。
  エルの頬に深く走った傷が目に見えて細くなっていき、ついには完全に消えてしまったのだ。
  不意に智の脳裏に浮かんだのは、いつか理科の授業、植物の数ヶ月に渡る成長の映像を
超早送りで見た記憶。
  人間のケガも早送りで見たらこんな風に治るのかな、などと考えてしまうのは、つまるところ
現実逃避に近い。

 ある意味非常に素直な反応を見せる智に気を良くしたのか、エルの微笑が深くなる。
  智がバランスを崩した分だけ前傾姿勢を深くし、更に自らの血の付いた智の指を口に含んだ。
  「うぁぁっ・・・!?」
  指を舐められている。ただそれだけのことなのに、何故か背徳的な快感が智の背筋を駆け抜けた。
  身じろきしようにも上手くいかないこの態勢が、どうしようもなくもどかしい。
「んふ、可愛い・・・」
  指を離し、悩ましげに舌なめずりをするエル。ゾクリとした感覚は、唾液に濡れた指先が
風に晒された為だけではあるまい。
「でも本当に何も知らないのね。まあ、ここまで早く治るのは夜だからっていうのもあるわ。
昼だとこうはいかないし。
  これが私たちの種族特性。老化スピードが極端に遅くなったのもその一つよ。
  昼に行動しづらかったりニンニクが気持ち悪かったり、十字の物を見るだけで気持ち悪くなったり
するのは困りものだけどね」
「・・・・・・」
  多少の違和感。智の身体能力はそこまで極端ではないし、弱点についても同様だ。
  エルは構わず言葉を続ける。本人は、新人にレクチャーするような気持ちなのだろうが、
壁際に追い詰めてレクチャーする先輩は普通いないだろう。
「その中で最も厄介なもの、それが本能衝動。吸血衝動の他、人間の本能の激しい部分――
性、食、暴力とか――が強くなっちゃう。
  特に男の吸血鬼は性衝動が極端に強くてね。おまけに男ってばバカで、それは人間だろうと
吸血鬼だろうと変わらないから、衝動に簡単に飲み込まれちゃうの」
  言葉に棘があった気がするのは気のせいだろうか。
「さらに厄介なことに、吸血鬼の唾液には催淫性があって・・・。それが牙を突き立てることで
直接身体の中に入ると、相手は媚薬を嗅がされたみたいになる。
  少しくらいなら一晩程度で抜けるみたいだけど、下手をすれば中毒症状にもなりかねない
危険なものよ。
  サトシくんも、思い当たることは無い?」
  言われて見れば、確かに心当たりはある。虚ろな瞳で息を整える藍香。牙を突き立てると
いきなり無抵抗になる女性たち。
  あれは、『そういうこと』だったのか?

「衝動に飲まれた男たちと吸血の特性が合わさって・・・・・・説明するまでも無いわね?
  吸血行為にかこつけて、どんなことをしたのか。
  同族は――というより吸血鬼の女たちは、そんな男たちを許さなかった。
  大きな騒ぎを起こして欲しくなかったから。身体能力の差ほどには吸血鬼の強さは
絶対的じゃないし、人もまた無力じゃない。
  殆どの者は人知れず生きていくことを望んだし、昼に弱いという特性があるから
それは尚更のことだった。
  でもね、一番の理由は―――」

 エルの口から微笑が消えた。目が細められ、智は射すくめられような感覚に陥る。
虚空を睨む氷の視線、それが映しているのは自分ではないのに。
「女として許せなかったの。人間だろうと吸血鬼だろうと、同じ女という存在として。
  ただ欲望の捌け口として女を弄ぶそいつらが許せなかった。
  ・・・そんな風にされる気持ちが分かる者からすれば、尚更にね」
  見上げる形になっている智には、エルの瞳が映すものは分からない。
  ただ一つ、彼女の言葉が単に吸血鬼女性一般の思いを述べただけのものではないとだけ、感じた。
「元々吸血鬼は数も能力も女性が勝っていたし、狂った男たちは発見次第すぐに駆逐された。
  昔はいくら狩ってもそんな男たちは減らなかったらしいけど、最近はそいつらが暴れている所は
怪事件発生ってことですぐ有名になるから、大分減ってるみたい。
  情報化社会っていうの? すごいよね。今じゃどこからでも、世界の何処で何が起こってるか、
リアルタイムで分かるんだもん」
  先日まで信じてもいなかったオカルト的存在の吸血鬼と、ずっと世話になってきた
科学の粋である文明社会。
  対照的な二つが見せた思わぬリンクに、智は場違いな感心を抱く。
  エルの表情に微笑が戻ったことで、落ち着いたのだろうか。黒曜石の瞳に見つめられることにも、
幾分か慣れてきた。
「聞いた話では、今じゃ男の吸血鬼の殆どは性衝動を抑えるために、我慢して男の血を
吸ってるらしいわよ。
  単に命を繋ぐならそれでもいいけど、吸血鬼に力を与えるのは異性の血だからね。
  力とともに衝動の強さも失っていって、今では常人に毛の生えた程度っていう個体も多いって話よ」
  それは智にも思い当たる。初めて男の血を吸った時に感じたあの吐き気、脱力感。
  何より、男として大切な何かを失ったんじゃないかと思わせる、言いようのない敗北感。
  あれをもう一度味わえというなら、幼稚園の時にままごとで千早が食べてと泣き叫んだ
泥団子だろうと、部室にて藍香が煮ていた謎の液体を出汁にしたイモリだろうと、
智は喜んで食べて見せるだろう。
  思わず落ち込んでしまった智を、エルの声が引き上げた。

「ねえサトシ君。君は何者なの? 吸血鬼なのは間違いない。でも何かが違う。
  何人もの女性の血を吸って相手も無防備で、それでも欲望を押さえ込んで。
  思うまま力を振るう気持ちよさを、手加減することで封じ込めて。
  衝動に忠実なのを旨とする吸血鬼にとって、我慢を重ねるのは何よりの毒なのに。
  それでも君は優しさを失わない。私にそうだったように」
「・・・・・・」
  エル問いの質が変わった。これまでの、教師が説明の過程で確認を取るようなものから、
一個人として相手の答えを求めるものに。
  しかし智には答えられない。なぜなら、それは彼自身こそ知りたいものだったのだから。

 エルが語った身体能力、自分はそれに遠く及ばない。目の当たりにした再生能力も、自分にはない。
  寿命に関しては考えていない。よく分からないし、今の状態で考えるには話のスケールが大きすぎる。
  男の吸血鬼の衝動というが、それも厄介ではあるものの致命的なものには感じない。
  自分に人並み外れた忍耐力があるとは思えないから、衝動自体が弱いのではないだろうか。
  そして、吸血鬼への転化。血を吸われることで人間は吸血鬼になるという。
  これが原因なのだろうか。吸血鬼の牙ではなく、謎の魔術による転化。
  吸血鬼の特性がどれも中途半端なのはそのせいなのだろうか。
  あるいは、自分は吸血鬼とは違う存在という可能性もある。
  そもそも世間一般で言われているヴァンパイア、ドラキュラ、そういったものについても
『物語の悪役っぽい化け物』という理解しかない自分なのだ。
  自分という存在について判断を下すことなど、出来そうもない。

 しかしエルは待ってくれなかった。答えを待ちきれなかったのか、独白するように話し始めた。

「老化が遅いから、私たちは一つの場所に留まれないの。何年経っても見た目が変わらなかったら
怪しいもんね。
  それは仕方ないし、旅暮らしは割と楽しいけど・・・やっぱり寂しかったの。
  吸血鬼になったことを後悔する気持ちはないつもり。そうでなければあの雪の日、
私は野垂れ死んでいたはずだから。
  ただ―――同じ時を生きていける人が欲しかった」

 ポツリポツリと紡がれる言葉。智には、そこに秘められた思いを理解することは出来ない。
ただ、何となく感じるだけだ。

「男の吸血鬼に出会う度、私は期待した。性衝動の暴走についての話は聞いていたけど、
この人ならもしかして、と思って。
  ・・・ふふっ、そうして殺した男の数も、片手じゃ数えられないくらいになっちゃったけどね」

 あっけらかんとした口調で、とんでもない内容。現実感だけが取り残されて感じる。

「自分で仲間を増やそうとも考えたわ。いいなって思った人に噛み付いて、
吸血鬼にしてしまおうと思った。
  でも、結果はいつも失敗。相手の意志力が持たなくて、途中で気絶したりイッちゃったり。
  時には快感に耐え切れなくておかしくなる人も出た。それからしばらく入院生活を
余儀なくされたとか・・・。
  酷いことしちゃったよね。
  第一、そんなやり方で同族にしたって、好きになってもらえるはず無いのに」

 切なく潤む、虚ろな光。それがはっきりと認識される。
  いつの間にか、エルの瞳は智だけを映し、しかと焦点を合わせていたのだから。

 ドクンッ!

 再び鳴った強い音。今度は自覚を持って認識できる。
  警鐘だ。二度目であるそれが、智の意識を瞳の呪縛から僅かに救った。

「最後に生まれ故郷に寄って、自分の未練を断ち切ろうって思ったのに。
  いっそ冒険者みたいな生き方も悪くないって考えていたところだったのに。
  ねえサトシ君、どうして現れたの? どうせ君だって、すぐにダメになるに決まってるのに。
  ねえ私、どうしてこんなにサトシ君が欲しいの? あの日の慟哭を、また繰り返したいの?
  どうして? ねえどうして? どうしてよっ! 答えてよっ!!」

 暗闇の中、エルの絶叫が木霊する。時間の所為か、こんな叫びが上がろうとも、
二人だけの空間は崩れない。
  そして、エルは智から目を離さない。だが、最早智を見てもいない。
  次の一手は自分が出さなければならないのだと、智はおぼろげに理解した。
(どうすればいい・・・? どうすべきなんだ、俺は・・・?)
  目の前の女性を放ってはおけない。それは偽らざる気持ちだ。
  だがもしそうしたら、自分は引き返せない領域に足を踏み入れてしまう気がする。
  もう二度と、千早が懐き先輩が微笑むあの世界へ戻れないのではないかと思う。
  両方を得る手立ては無いと、そして今選ばなければならないと、心が酷く急き立てる。

 そして、智が選んだのは――。
「っ!」
  押し倒されるに近い態勢から僅かに身体を浮かし、一気に走り去る態勢を取る。
  もし追いかけてこられたら、単純な速度では敵わないだろうが、そこは地の利を活かして
脇道に逸れることで撒けばいい。
  勝算は十分。
  何より大切な日常を失うということを、エルの魔性が現実的な感覚を伴って迫る。
故に選んだ結論だった。
  走り出す瞬間。エルはまだ気づかない。よし、行ける―――。

 

 

 しかし。

「・・・ぁっ・・・!?」
  グラリと。身体がよろめいた。平衡感覚が消え失せる。不自然なほど急激な、身体の変調。

 吸血鬼は、身体能力のあらゆる点において人間を凌駕する。
  それは外傷に留まらず、薬品などの投下による体内への影響も例外ではない。
  完全に相殺することがあれば、ある程度の影響が出ることもあり、時には時間をおいて
効果が出ることもある。浸透に時間が掛かるということだろう。
  そして今、少年の身体に起きた異変。それは前述の三例目に該当する。
  恐ろしい偶然ではあれど、ありえないことではない。

『折原千早が高村智の夕食に混ぜた睡眠薬が、数時間を経た今になって効果を現す』ということは。

 

 それは、誰かが気づくなどありえない要素。
  少年の様子に呆然とするエルも、夢で愛しい幼馴染に包まれている千早にも、
今まさに意識を手放そうとしている智にも。
  だからこの場で展開されている光景、それが現実であり全てだ。
  立ち上がった拍子によろめいた智は、そのまま前方に倒れこみ―――

 

 エルの腕の中に、堕ちた。

8

 吸血鬼化して以来朝に弱くなってしまった智は、千早に起床の世話までもされるようになっていた。
  情けないとは思うが、千早ならと思って甘んじている。
  幼馴染のそんな情けない姿を見て毎朝嬉しそうにしている千早もどうかと智は思うが、
一日の初めに目に映るのが千早の笑顔だと思うと、辛い日中も頑張ろうと思えるから不思議だった。

 だが、今日は起こし方が乱暴だ。そんな風にベッドの上で跳ねなくてもいいではないかと思う。
  ぐいぐいと押し付けられる柔らかい身体が、腰の上で踊るのを感じる。
  そして、それに悲しいほど素直に反応してしまう智。
(千早、冗談は止めろって。いつもみたいに普通に起こせよ。
ここまでしなくたって、俺はいつもちゃんと起きるだろ?)
  心の声が聞こえたわけではないだろうが、動きが止まった。智がほっとしたのもつかの間――。

(・・・!?)
  再び身体が動き出す。それも単純な上下振動ではなく、擦り付けるような、くねらせるような動き。
  強弱をつけた縦横無尽の動きが、智の身体のある一点を執拗に責め立てる。
  そして、左右の腰骨に感じる挟まれたという感覚が示すのは、自分が跨られているということ。
  これらが連想させる言葉を知らぬほど、智も子供ではない。

(千早、やめろっ! ほら、もう起きっ・・・!?)
  ――られない。身体が動かない。おまけに頭が重く、酷く朦朧としている。
  そんな中しっかり屹立していると分かる一点が、自分とは別の生き物のように感じられた。

(ああ、これは夢だ――)
  こんな夢を見るなんて最低だ。それも藍香ではなく千早を相手にだなんて。
  誰よりも近い幼馴染。変わらない関係でいてほしい人。
  智にとって千早は、決して汚してはならない存在だったのに。
  その誓いを破るような夢を見るほど、自分は欲求を溜め込み、抑え付けてきたのだろうか。
  平気だと思っていたけれど、無意識の内に吸血鬼の性衝動に蝕まれていたのだろうか。

『あはっ、智ちゃん・・・』
  そんな思いを肯定するかのように、千早――もはや浮かぶ輪郭は彼女以外の何者でもない――は
未成熟な肢体を躍らせ、股間を智の腰へ擦り付ける。
  髪を振り乱し汗を飛び散らせ、見たことも無いような微笑で見下ろすその姿は、
智をどうしようもなく魅了した。
  もういいと、この背徳的な幸せに溺れようと、そう思い意識を手放そうとした時。

 幸か不幸か、智は気づいた。
  『千早』の唇から覗いた、一本の鋭い歯。牙。
  それが何であるか気づいた時、急激なフラッシュバックが突風となって思考のもやを消し飛ばし。

 そして―――夢は醒めた。

 

 

「あっ、ああああああああああぁぁぁぁぁっっ!!」

 その嬌声は誰のものか。自分のもののようにも、そうでないようにも智は感じる。
  唯一はっきりと分かったのは、夢の続きを思わせるほど張り詰めた己の分身――
紛れもなく自分の物だ――が、その迸りを解放したこと。
  溜まりに溜まった毒が全て吸い出されるような、圧倒的なまでの解放感だった。

「んんんんぅぅぅ・・・。ふふっ、サトシ君のがまた来たよぉ・・・いっぱい膣内に入ってくる・・・。
  ねえサトシ君、気持ちいい? 気持ちいいでしょ? 私もすっごくいいよ・・・。
  まだいける? いけるよね? こんなに硬くしてるんだものね?
  まだまだ、まだまだまだまだ。まだ離さないわよ、サトシ君・・・」

 智は返事をしない。出来ないのだ。目の前の光景の、あまりのありえなさに。
  ベッドに仰向けになった智は素っ裸であり、見上げると同じく一糸纏わぬ姿のエルがいる。
  熱に浮かされたような霞んだ瞳が智を見下ろし、盛んに舌なめずりをされている真紅の唇は、
ぬらぬらと怪しく輝いていた。
  そして、再び蠢き出した彼女の腰、その動きの中心部に。
  智の一物が、飲み込まれていた。

「っ・・・!?」
  声にならない叫びが上がった。
  訳が分からない、訳が分からない。どうしてこんなことになっている。
  脳裏に浮かぶのは、意識を失う寸前に聞いたエルの絶叫。
  しかし今の智の頭は、それと今の状況とを繋げて見られるほど落ち着いていなかった。
  取り敢えず離れようと、痺れが残る身体を何とか起こそうとして――。

「ダメよ、サトシ君」
  静かな囁き声と共に、肩にエルの手が添えられて。

「がっ・・・!?」
  ゴキリという音が鳴って、身体がベッドに深く沈みこんだ。
  辛うじて外れてはいないようだが、激しい痺れに腕が全く動かない。
「ねえ、サトシ君・・・」
  呼吸を乱され咳き込んでいると、エルが覆いかぶさってきていた。
  咄嗟に目を瞑ってしまう智。
  しかし新たな痛みが来るわけでもなく、顔に髪が掛かってのくすぐったさに身を捩っただけ。
  そっと目を開いてみると、眼前にあったのはエルの薄紫の髪と身体の温もりで。
  脱力して肩の力を抜いた瞬間。

 エルの牙が、智の肩口に喰い込んだ。

 

「があああああああぁぁぁっ!?」

 迸る絶叫。今度のそれは、間違いなく智の発したものだった。それも、苦痛の叫び。
  エルの牙が智の右肩口を『刺し穿って』いた。
  吸血の為に自分がやる、注射のような浅いものでは断じてない。
  肉食獣が獲物にするような、喰らう為のもの。
  牙はその深度を着々と進め、人間と同じ部分である歯も容赦なく咬合に力を込める。
  叫び声が掠れてきた頃になって、エルはようやく口を離し。
  今度は左の肩口に噛み付いた。
「っ・・・うああぁっ!!」
  耐えたのも一瞬。声を上げずにいるには激しすぎる痛みが智を襲った。

 たっぷり一分経って――その間、我慢の神経が上半身に集中した為に、
耐え切れず射精すること一回――エルがようやく顔を上げた。
  先程と変わらない、智を見下ろす妖しい微笑みが見える。そこには敵意も悪意も読み取れない。
  血を滴らせる牙と血の付いた唇が、やけに扇情的に映った。
「やん、もったいなぁい・・・」
  思い出したように呟き、エルが再び顔を近づけてくる。反射的に身を強張らせる智だが、
苦痛はやってこない。
「んふっ、おいし・・・。サトシ君の、とってもおいしいよぉ・・・」
  変わりに聞こえたのは、猫がミルクを舐めるようなピチャピチャという音。
  血を流す智の肩から聞こえてきた。
「つぅっ・・・!」
  不意に、舐める感触が沁みるような痛みに変わった。
  エルの舌が、皮膚とは明らかに違う場所を這っている。
  喰い破られた場所だった。
  皮膚が破れ、露出した傷口の肉。血を求めるエルの舌は、そんな場所も執拗に愛撫する。

「ふふふ、本当に元気ね・・・。こんなに出したのに少しも収まってないわよ?
  やっぱりキミも吸血鬼ね・・・」
  口に付いた血を拭った指を、更にしゃぶって言うエル。
  美しい女性が血を――それも自分の血を――美味しそうに啜るという異常な光景なのに。
  彼女の言う通り、自分の身体は萎えるどころか怪しい興奮に更なる昂ぶりを見せている。
  明らかにまともではないエルと、同じくまともでない状態の自分。
  それでも互いの肉体は狂おしく互いを求め、止まろうとしない。
(俺は、やっぱりおかしくなってるのか? くそっ、俺は・・・!)
  そんな智に、エルの声が追い討ちをかける。
「やっぱり君も、か。・・・でも仕方ないのかもしれないね。
  吸血鬼って精神力は人間のレベルしかないのに、身体だけは化け物じみてるんだもの。
  耐えられる方がおかしいのよ」
  慰めるような言葉なのに、どこか責めるような声。

 不意に、エルの手が智の首に触れた。感じたのは本能的な恐怖。
  咄嗟に身を捩ろうとしたが、時すでに遅く。
  智の首は、エルの両の手のひらで包まれていた。
  首を、絞めるように。
  そのまま力が込められる。

「がっ、ぁっ・・・!?」
「好きよ、サトシ君。
  強いキミが好き。優しいキミが好き。困った顔のキミが好き。そんな風に、
苦しさに耐えてるキミが好き。
  きっと、ここまでに誰かを好きになったのはキミが初めて。
  だから・・・」

 首を絞める力が増す。

「今、殺してあげる。衝動に狂ってしまう前の、綺麗なキミのままで。
  キミの全てを私にちょうだい。
  血も、肉も、精も、心も、そして最期の思い出も。
  愛してるわ、サトシ・・・」

 酸欠の脳が、その言葉を最後まで聞いたかは定かではない。
  後悔も、憎しみや怒り、悲しみさえもなく――智は、ただ死を覚悟した。

9

 目覚めるとそこは、天国でも地獄でもなく――そもそも天国と地獄がどういう場所かも
知らないのだが。
  智は自分が生きていることを悟った。
  目の前にはエルの姿。智に跨って繋がり、口には血を滴らせ、手は首に掛かったまま。
  腕や胸に無数の刺し傷が増えているが、状況は気を失う前と変わっていない。
  いや、一つだけ決定的に違うところがあった。そして、智の取り戻した意識は
そこに釘付けになっていた。

「ぐすっ、うぅ、うああぁぁぁん・・・!
  嫌だよ、やっぱり一人は嫌だよ。さみしいよ・・・。
  お父さんもお母さんも、もう誰もいない。みんな私を置いていった。
  私を一人にしないでよ。私のことを見てよ。ずっと私の傍に居てよ。私のことを愛してよ!
  誰か、私を助けてよ・・・。
  さみしいよ、さみしいよ、さみしいよ、さみしいよ・・・」

 エルが泣きじゃくっていた。迷子の子供のように、ただ寂しいと呟く。
  人として生きられなくなった100年に対する、万感の慟哭がそこにはあった。
  首に置かれた手にも、もはや力は篭っていない。

 思い浮かぶのは帰り道での会話。突然、人が変わったように纏う雰囲気が変質したエルのこと。
(あの時は、まだ彼女が吸血鬼だと知る前だったけど・・・)
  勿論、智にはエルが過ごしてきた100年という孤独を理解することは出来ない。
  ただ、あの冷たさも、第一印象の無邪気さも、先程の狂気も、この子供じみた幼い泣き声も。
  全て、エルという『人』の一部だと智には思えた。
  そして、そう考えると不思議なもので。
  智は、先程まで感じていたエルへの恐怖が、霧が晴れるようになくなっていくのを感じていた。

 敵意や悪意がなかったのも当然だった。
  エルは訳の分からない狂った女などではない。
  孤独の恐怖にただ震える、幼い子供でしかなかったのだ。
  12歳で転化したというが、その時から心の成長が止まってしまったのかもしれない。
  心は、人と触れ合い続けることによってしか育まれないのだから。

 泣き止ませなければ。
  どうすればいいかは分からないけれど、とにかく何か言わなければ。
  その思いに突き動かされ、智は必死に身体を起こそうとする。
  しかし、色々あって弱りきった身体は言うことを聞かず、ただ身体を小さく揺らしただけに終わった。
  だがその小さな動きは、もはや死姦の如く智を貪っていたエルに絶大な反応をもたらした。

「え・・・? サトシ・・・くん?」
  光を取り戻したエルの瞳が智を見下ろす。

 智は泣いていた。
  それは苦痛の涙ではなく、哀しみの涙。
  自分のためではなく、エルのための涙だった。

 

 殺そうと思った。でも殺し切れなかった。どうしても、あの照れたような笑顔がちらついて。
  だから決断を放棄して、子供の心という殻に閉じこもった。
  勝手に惚れて、勝手に犯して、勝手に殺そうとして。
  それでも彼は、私を見てくれるの?
  そんな人、いるわけないじゃない。100年探して見つからなかった存在。
  まして、それが吸血鬼の男なら尚更・・・。

 期待さえしなければ、落胆することもない。孤独の100年で得た教訓だ。
  それでも何故か、今度こそという思いが心を縛って離してくれない。
  目の前の少年が、恐らくは見た目の年齢通りの年月しか生きていない子供の瞳が、
心を揺さぶって苦しめる。
  彼に見つめられることがこんなに苦しいなら、今度こそ本当に殺してしまおうか。
  たとえ、後でどれだけ後悔することになろうとも。
  エルの冷静な部分がそう判断しかけた時。

「・・・・・・・・・・・・」
「・・・!」
  それは、音にさえならなかった少年の声。
  首に生々しい鬱血の痕を残しながら、それでもそれでも必死に言葉を紡ごうとする。
  そして、エルには彼の言おうとしたことがはっきりと分かった。

 泣かないで、と。

 

 首に掛けられたエルの手が智の両手を握り、繋がったままの腰が再び動き出した。
  しかしそれは、先程までのように一方的に貪るためのものではない。
  相手に気持ち良くなってもらう為の、奉仕の動きだった。
  時に激しく、時に優しく擦られ、しぼんでいた智のモノが硬さを取り戻してくる。
  今のエルには、それがどうしようもなく嬉しい。
  たとえ吸血鬼の精力によるものだとしても、智が自分を求めている証を感じられる。

「サトシ、サトシ、サトシ、サトシ、サトシ、サトシ、サトシ、サトシ・・・!」

 狂ったように智の名前を連呼するエル。
  動けない彼の為に、抱きしめた細い身体を揺り動かし、自分の動きと一致させる。
  そして、すぐに波が来た。耐えるだけの余力のない智と耐える気のないエルでは
それも仕方ないだろう。

「一緒にイこうね? 二人でだよ? もっと、もっといっぱい感じさせて! ねぇ、サトシぃっ!」
  度重なる酷使の所為か、もはや智の意識は半ば無い。
  身体の感覚はほぼ精神と切り離され、エルとセックスしている自覚もなくなっている。
  ただ、エルが泣き止んだこと――泣いてはいるが、それが悲しみの涙でないことだけを
何とか悟り、安堵する。
  そして、一瞬感じた心地よい浮遊感に身を任せると、今度こそ完全に意識を落とした――。

 

「サトシ君・・・私の運命の人。
  キミに逢うために、きっと私は100年の時を生きてきたんだね。
  もう離さない。逃がさない。キミは私だけのもの。
  血の一雫も、肉の一片も、精の一滴までも私のもの。
  100年後のキミも、1000年後のキミも、朽ち果てる時のキミも、
生まれ変わったキミも私のもの。

 ね、お別れしよ。人間の世界に。
  化け物は化け物と共にしか生きられないの。だからキミには私しかないの。
  しがみついても辛いだけ。このままじゃいつかきっと、キミは私と同じ絶望を味わう。
  そんな悲しい思い、キミにはしてほしくないから。
  未練があるならさっさと断ち切って? 自分でするのが難しいなら手伝ってあげるから」

 勿論、気を失った智が答えられるはずが無い。
  それでもエルには、智の未練が分かってしまった。
  夜な夜な出歩き、すまないと思いながらも赤の他人の血を吸い、そうしてまで智が
守りたいと思うもの。

『千早・・・』

 最初に気が付くまで、智が寝言で何度も呟いていた言葉。
  日本が長いエルには、それが女の名前だとはっきり分かった。
  自分に犯される智が、夢の中で犯していたであろう女。
  あの時は気にならなかったが、今になって思うと酷く心が苦しい。

 もしかして、付き合っている相手なのだろうか。
  智はとても魅力的な男の子だから、それも仕方ないのかもしれないけれど。 
  毎日一緒に学校へ行き、向かい合って食事を取り、寝る前は欠かさず電話し、
休日は手を繋いで色んな場所を散策して。
  その日の夜は暗い部屋で抱き合い、愛を囁き、唇を貪り、一糸纏わぬ姿で睦み合い、
奥深くへ解き放って。
  あの優しい笑顔を、自分以外の誰かに向けるのだろうか。

 衝動的に智の首へ手が伸びる。
  が、すぐに我に返るとその手で智の髪を優しく梳った。
  所々が尖ったようにはねている短い黒髪が、心地よいくすぐったさを伝える。
  愛おしくて堪らない。食べてしまいたいほどに。
  もう、この子は自分のものだ。
  この子を傷つけていいのは自分だけ。他の誰にも触れさせはしない。

 だから。

 

(消さなきゃね・・・その千早っていう子)

 智が彼女と付き合い続けていれば、いつか必ず壁が現れる。
  人間と吸血鬼という、越えられ得ぬ壁が。
  その時に女の目に浮かぶのは、間違いなく怯えと蔑みの色。
  そして残るのは、ズタズタに引き裂かれた彼の心。

 許さない。
  そんなもの許せるわけが無い。
  だが、それは確定した未来だ。
  ・・・今のままなら。

 自分が、未来を変えなくては。
  自分の為に。そして何より、智の為に。

 

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「んんぅ・・・・・・」
  カーテンごしに入る光が、智の目を覚ました。

「いだだだだっ・・・!」
  起きあがろうとして、激痛に身を捩る。
  負担を掛けないようそっと身体を起こすと、辺りを見渡した。
  どこかのホテルの部屋、ベッドの上。少なくとも自分の部屋ではない。
「・・・・・・・・・・・・」
  色々と思い出して、すぐ隣りを見下ろすと。
「んん・・・・・・」
  エルが眠っていた。目が腫れて真っ赤になっているが、寝顔はとても安らかだ。
  よかったと、智は安堵の溜息が漏らした。

 だが、微笑ましい気持ちでいられたのも一瞬だった。
  当然だが、目の前のエルは裸。
  辛うじてシーツで大事な部分は隠れているが、服を着てないため身体のラインが
布越しにくっきりと映る。
  きわどい胸元や露出した太股による『見えそうで見えない』状態は、ある意味裸より性質が悪い。
  そして思い出す、昨夜の自分たちの狂態。

 一応初体験だったのだが、思い返して浸るには、あまりに衝撃的な思い出となってしまった。
  自分の身体を見下ろすと、身体中傷だらけだった。刺し傷、歯型、その他諸々・・・。
(すごい傷だな・・・。ケンシ○ウかよ、俺は)
  それに、一体何度エルの膣内に放ったのか。
  自覚が無いのはある意味幸せなのかもしれない。
  吸血鬼の性衝動を嫌い無意識に自慰さえも忌避していた智なので、昨夜の射精量は
正気を疑うほどのものだったのだから。

(やっちまったんだよな、俺・・・。それも、こんな美人と)
  エルに襲われた形とはいえ、『やられた』より『やった』と思ってしまうのは、男ゆえか。
  これからどうすべきか、智は悩む。
  取り敢えず頭に浮かんだのは、責任、避妊、妊娠、認知、否認。そんな言葉ばかりだった。
(ええい、ニンニンうるさいんだよ、俺!)
  急速に引いていく血の気に、智は自分を叱咤する。
  とにかく、エルと落ち着いて話さなければならない。
  これからの自分、これからのエル。自分がすべきこと、彼女が望むことを。

 そうと決めると、まずはシャワーでも浴びようかと考える。汗や様々な体液で身体はベトベトだった。
  そして、何とはなしに時計を見て――絶句した。
(7時だって!?)
  そう、朝7時。もう少し経てば千早が自宅にやってくる。その時自分がいないのはまずい。
  千早に嘘はつけない。智自身千早に嘘はつきたくないし、何より言っても見破られる。
  基本的にのんびり屋だが、智のこととなると異常なまでに鋭くなるのだ。
  だからといって、本当のことを言えるわけも無い。
  となると、どうすればいいのか――。

(すぐ家に帰ってベッドに潜り込む! そして体調不良を訴えて学校を休む! これしかない!)
  実際身体は疲労でボロボロなのだ、嘘ではあるまい。
  千早がやってくるまであと30分、このホテルと自宅の距離を考えると結構ギリギリだ。
  となると、ゆっくりシャワーを浴びてはいられない。
  タオルを濡らすと乱暴に身体を拭き、脱ぎ散らかされた服を身に纏う。服に性交の名残は無い。
  全部脱がしておいてくれてよかったと、ずれた感謝をエルにした。

 部屋を出て行こうとして、そのエルを振り返る。眠りはかなり深い様子だった。
  朝に弱いというのは本当なのだろう。それに、彼女も相当疲労しているはずだ。
  智が何とか起きられたのは、学校という毎日の習慣があったために過ぎない。

「・・・念のため、残していくか」
  呟くと寝台のメモを一枚破り、何か書いてエルの枕元に置く。
  智の携帯の番号だった。
「それじゃエルさん、また後で」
  小さく微笑み、智は部屋を飛び出した。

 何があっても、千早は智にとって一番大切な存在だ。その彼女に無用な心配はかけたくない。
  思いのほかスピードが出ない、そんなままならない身体に鞭を打ちながら。
  これが最後と、力を入れて智は走り出した。

10

 折原千早の朝は早い。幼馴染の高村智の弁当を作らなければならないからだ。
  基本的に昨晩の夕食の残りを活用して作るため手間は掛からないのだが、
  飽きさせないよう毎日趣向を凝らすので、どうしても時間が掛かってしまう。
  智は別にそういうことを気にしないのだが、彼の顔を思い浮かべながら色々と考えを廻らせるのが
  千早は好きだった。

 高校入学以来、千早は一日たりとも弁当を作るのを怠ったことは無い。
  智が自分が作った以外の物を食べることに、言いようのない息苦しさを感じるからだ。
  実際、中学の頃から千早は毎日の昼食――といっても給食だが――を邪魔に思うようになっていた。
  既に智の食事は朝も晩も千早が管理するようになっていたが、昼ばかりは仕方なかったのだ。
  休み時間や帰り道に智がその日の給食のメニューを褒めると、夕食は必ず同じメニューが再現された。
  そして、その日に限って千早が一人で先に帰ってしまったり、妙に強い威圧感を伴って
『美味しい?』と聞いてきたりするのが、当時の智にとって不思議だった。

(智ちゃんは私が作った物以外食べちゃいけないの。
  私無しじゃ満足できないように、生きていけないようにならなきゃいけないの)
  デートでお店に入ってケーキを食べたり、一緒にテレビを見ながらお菓子を食べたりする、
  とかならいいけれど、それも『自分と一緒』でなければ絶対に駄目。
  夜に小腹が空いた時などのために簡単な夜食やデザートを冷蔵庫に常備するのも、
  今では慣れたものだ。
  そして実際、智がここ一年以上で千早が作った以外のものを口にした割合は9割9分以下、
  それも突発的な偶然を除けば存在しないのである。
  執念にも似た、千早の努力の賜物だった。

 千早の朝の仕事は、最近になって一つ増えた。
(智ちゃんったらどうしたのかな。夜に遅くまで勉強してるのかな。朝自分で起きられないなんて)
  受験に備えてそろそろ真面目に勉強を始める生徒はいるが、智もそうなのだろうか。
  それは、誰より彼を知る千早にとっても意外だった。
  智のことを知り尽くしているつもりだったが、まだまだ未熟だ。まだまだ足りない。
(もっと智ちゃんのことを知らなくちゃダメだよね。もっともっと。
  誰も知らない、智ちゃん自身も知らないような所まで、智ちゃんのことを知り尽くさなきゃ)

 勉強しているなら一緒したいところが、そうなると翌日に差し支え、弁当作りに支障が出るかも
  しれない。それはダメだ。
  日中智が眠そうにしているのなら、それを支えるのは自分の役目だ。
  パートナーである自分まで一緒に眠そうにしているわけにはいかない。智の世話をするのは
  自分だけの役目なのだから。

 それに、寝ている智を起こすというのも悪くないのだ。
(まどろんでる智ちゃんって可愛い・・・。
  いつも格好いいって感じだけど、こうして見ると昔とあんまり変わってないのかも)
  気持ちよさそうに眠る智を見ていると、起こすことに罪悪感を感じてしまう。
  それどころか、いっそ自分もベッドの中に潜り込んでしまいたいと思うほどだ。
  日を追うごとに強くなるその誘惑を抑え込むのに、毎朝千早は結構な労力を消費している。
  特に最近――智のオカ研通いの回数が増えるようになって、その誘惑は半ば衝動となって
  千早に襲いかかるのだ。

 智を外に出したくない。出来るなら、学校にだって行きたくない。
  ベッドの中で一日中、笑い合って、じゃれあって、抱き合って、愛し合って。
  私たちは、ただ二人だけで居られたらいいのに。
  この世界にはいらないものが多すぎる。
  智の優しさや好奇心旺盛なところは愛すべきものだけど、
  それはいらないものまでも引き寄せてしまう。
  ――あの女のように。

 でも、もう心配はいらない。
  昨夜、智は約束してくれたのだ。もう藍香には会わないと。
  それはつまり、自分を選んでくれたということ。
  唯一離れ離れになっていた時間が消える、それが意味するのはずっと一緒に居てくれる
  ということなのだから。

 そう思うと自然に足取りも軽くなり、ご機嫌なまま千早は智の家に辿り着いた。
  時間は7時5分前、30分は智の寝顔を見ていられる。
  いそいそと合鍵を取り出すと、ドアに差し込んだ。

 自分の家より見慣れた場所。
  目を瞑っていても歩けるほど慣れ親しんだ家に上がり、千早は真っ直ぐに階段を登る。
(えへへへ、今日こそベッドに潜り込んでみようかな?
  だって、今日からは片時も離れずに一緒に居られるんだもん。もう我慢しなくていいだもん。
  智ちゃんも、もう照れたり我慢しなくていいんだからね?)
  頬が緩むのが止められない。
  素早く、しかし智を起こさないよう静かに廊下を進み、智の部屋のドアをそうっと開いた。

「智ちゃんおはよ〜・・・・・・・・・あれ?」
  おはようの囁き声が戸惑いに変わる。
  目的の人物はベッドにいなかった。
「あれ? 智ちゃ〜〜ん?」
  今度は大きな声で呼んでみる。返事はない。
  もしかしたら、寝ぼけてベッドの向こう側に落ちてしまったのだろうか。
  クスリと微笑みながら部屋に入ってみると、千早はあることに気づいた。

 智のベッドが乱れていない。

 起きてから畳んだというものではなく、寝入る前の皺一つ無いシーツ。
  掛け布団がベッドの面積と等間隔になるように敷かれた、ホテルの部屋のような状態。
  それは、昨夜帰る前に千早がしたベッドメイキングそのままだった。
  当然、ベッド脇に智が落ちていることもない。
  一体何処にいるのかと考えていると、もしかしたら下のリビングで寝ていたりするのかも、
  と思い当たった。
  風呂上がりにソファで寝転がっている内に寝てしまったとか、結構ありえそうだ。

(もう、智ちゃんったら。せっかく私がベッドを整えてあげたのに。やっぱり私がいないとダメだね)
  下で寝ていたとしたら、風邪をひいているかもしれない。
  もしそうだったら、一緒に学校を休んで付きっきりで看病してあげなくちゃ。
  病気になると気が弱くなるっていうし、だったらずっと手を握っていてあげよう。
  それでも寂しかったら、添い寝だって何だってしてあげるよ。
  それ以上のことだって、智ちゃんが望むのなら――。

 先走った想像に顔を赤らめながら、千早は軽快に階段を駆け下りた。

「智ちゃん、おはよう! こんな所で寝てたら風邪ひいちゃうよ?」
  元気に言ってリビングに入った千早だが、そこに幼馴染の姿はなく。
  彼女の声は誰もいない空間に消えていった。
「智ちゃん・・・?」
  流石に不安になってくる。
  トイレ、風呂、庭、押入れ、もう一度二階と片っ端から探し回るが、やはり智は見つからない。
  制服はあるから学校に行ったというわけでもない。第一、智が自分を置いて、
  しかも伝言も無く行くはずがない。

 再び階段を降りたところでふと玄関に目をやった千早は、智の靴が無いことに今更のように気づいた。
  最初に入ってきたときは意識が二階に飛んでいて、足元に気づかなかったのだ。
  千早の中で断片的な情報が組み合わさって、少しずつ形を成していく。
  智は昨夜一度もベッドに入ってなくて。
  朝7時という時間に家におらず、出かけている。
  つまり、智は。

(夜通しずっと外に出てた? でもどうして? どうして??)
  理由が分からない。思い付きもしない。
  智に関して『見当も付かない』ことなど、自分にはあり得ないのに。あってはならないことなのに。
  寝もせず夜通し外に出るなど、『ちょっと出てた』ではあり得ない。
  明確な理由、それも決して軽くないものがあるはずだ。
  なのに、どうして何も言ってくれない?
  自分たちは互いの全てを共有する対の存在なのに。
  互いの全てを知り尽くしていなければならないのに。
  そう、智が自分に隠し事をするはずが無い。もっと他の可能性もあるはずだ。
  例えば、寝る前にちょっと外に出て、そこで何かに巻き込まれたとか―――。

「・・・!!!」
  上っていた血の気が一瞬にして急落する。
  自分で考えておきながら、千早は心臓が止まるほどの衝撃を受けていた。
  しかし、それは十分に考えられることだ。
  何かに巻き込まれたとしても、無事ならば智は必ず千早に連絡を取ろうとするはず。
  それさえも出来ないということは・・・。
  一度思い立ったその考えは、螺旋を描いて最悪の可能性までたどり着いてしまう。
(やだ、やだ、やだよぅ・・・! どうしてそんなこと考え付くのよ・・・!
  もし智ちゃんに何かあったら、私も生きていられないよぉ・・・)

 歯が噛み鳴る音が響き出す。しかしそれは、いつもの癖とは違うもの。
  身体の震えが止まらない。まるで寒さに震える子供のように。
  智が傍にいない。それが心の中をどこまでも凍えさせて埋め尽くしてしまう。

 だから、玄関を開けて勢いよく入ってきた人影に気づいて顔を上げた時。
  玄関先にうずくまって泣いていた千早は、一も二も無くその人物に飛びついていた。

To be continued.....

 

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