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恋と盲目



4B

……やっぱり気になる。
何故かこのまま立ち去ってはいけないような気がする。
私はもう一回……もう一回だけドアを開けてみる事にした。
  ガチャッ……
「………………」
「………………」
「「………………」」
……思い出した、私が何を忘れていたのかを。
そこには何故か、まるで着衣水泳をしたかのように全身ずぶ濡れになったスーツ姿の女性が立っていた。
いえ、それだけじゃなく眼からは滝のような涙が流れ落ちていた。
さらに顔は濡れに濡れた長い黒髪によって完全に隠れており、妖怪かと見違えそうになる。
その状況は、なんと言うべきなのか……非常に声をかけずらい。
いっその事見なかった事にしてドアを閉めてしまいたい衝動に駆られる。
思わず眼を逸らすと……アスファルトもまたずぶ濡れとなっており、ついさっきまで比較的激しい雨が
降っていた事が窺える。
今度は空を見上げる……おかしい、雲はほとんど無い。
狐の嫁入り……にしては地面の濡れ方が激しすぎるような気もする。
狐の嫁入りで思い出したが、もう随分と昔に取材した……
「……ふっ……ふええええぇぇぇぇんん……」
妙に子供っぽい泣き声を聞いて我に返った。
まただ……また私の思考がこの子(身長は私よりも高いが)を無視しようとした。
一体……いえ、今はそれを考えるべき時じゃない。
と言うよりも、今そんな事を考えたら今度こそこの子の事を完全に忘れ去ってしまうだろう。
とにかくまた忘れてしまわない内に話しかけてみよう。
「あの……どちら様でしょうか?」
恐る恐るではあるけど……私はなんとかそれだけ口に出した。
「白羊出版の者です……」
そう言うと彼女は胸のポケットから名刺を取り出し、差し出してきた。
が……
「読めませんが……」
「……あうっ」
その名刺だった物は雨に濡れインクが滲み、とても文字を判別できる代物ではなかった。
とにかくこんな所で話をする理由は無い。
何よりこのままだとこの人が風邪をひいてしまう。
「とりあえず中に入りませんか?お風呂沸かしますから」
……その提案は、あっけないほどにあっさりと受け入れられた。

……なんて状況なんだろう。
どこかの雑誌の記者が来るって聞いて、それから来客があって、その客は現在我が家の風呂に
浸かっている……
意味不明だった。
「緑、さっきのチャイムは?」
騒ぎを聞きつけたのか、京司が不安そうな顔をして出てくる。
「お客さん……だと思うわ。たぶん」
「たぶん?」
……そうとしか言いようが無い。
「その……率直に言って何があったんだい?」
「……かくかくしかじか」
「小説は便利だね……」
流石にこんな会話はしなかったが、私は今自分が見てきた事を適当にかいつまんで話した。
この家を訪問してきた女性が何故かずぶ濡れになって玄関の前に立っていたと。
「………………」
京司は世にも奇妙な顔をしていた。
実際のところ、私も反応に困る。
「その人、記者の方だったんじゃないのかな?」
「私に聞かれたってわからないわよ」
そんな事を話していると、脱衣所から物音がした。
どうやらあの人がお風呂から上がったらしい。
「良いお湯でした〜」
現れたのはこれでもかって程にほんわかした顔と声だった。
さきほどの女性……こうして改めて見るとかなりの美人だった。
見ているだけで気分が和むような雰囲気、体型は細く余計な肉は一切無い。
その分胸の大きさは私の半分も無いような気がするし、良く見るとうっすらとあばら骨が
浮き上がっているのだが……
「本当にご迷惑をおかけしました〜」
再び妙に間延びした声が辺りに響く……なんて事を考えている暇は無い。
この人と対峙している間は思った事はすぐに言わないと忘れてしまいそうになる。
「服を着てください」
「はい?」
「服を着てください」
「何で全裸なんですか!?貴方は!!」
「えっと……着ていた服が濡れてしまいまして……」
「一応、代わりの服は置いておいたんですけど」
「えっ!?そうだったんですか?」
……だんだんこの人がどんな人なのかわかってきたような気がする。
京司が盲目だったからよかったものの、せめてバスタオルを巻く位はしてきてほしかった。
……と、ここでさっきから京司が身じろぎ一つしていない事にきづいた。
まるで彼女を凝視ているのかと錯覚させる表情で、ただ彼女の居る方向を向いていた。
そして……意を決してかのように口を開く……
「御影さん!?」
「京司……くん?」
その瞬間、私の胸が深く鋭く痛んでいた。

5B

……それから2時間後。
あっけなく思えるほどに簡単な取材が終わり、私達はテーブルを囲って雑談をしていた。
「……そういえば、そんな事もあったね」
「ええ、おかげで上履きには御影(ユウ)って書かなくちゃいけませんでしたから」
「フルネームとそう変わらないね」
「そうでもないですよ。私の名前って画数が多いですから、テストのときは大変だったんですよ」
「算数のテスト?」
「そうですっ!あれって一分しか時間が無いから名前を書く時間がもったいなくて……」
訂正……京司とあの女記者がだ。
そしてもう一つ訂正……雑談じゃない、思い出話……その中に私が立ち入る隙間は無かった。
それだけじゃない、いつも虚空を見つめていた京司の眼が今日は御影とかいう女の方を向いている
ような気がした。
迂闊だった、まさかこんな所に伏兵が出てくるなんて。
私と京司は近親であるため、日本の法律では結婚する事はできない。

よくわかる家系図

  宮間麟太郎T宮間菊(旧名、一条菊)
          |
          |
宮間麟太郎T宮間京                宮間麟太郎Tエリス・ガーディオン
        |______________         |
        |                      |       |
浅野亮T浅野夏美(旧名、宮間夏美)  宮間強兵   宮間京司
     |____
     |     |
   浅野緑  浅野巧

(同姓同名は同一人物だと思ってください)

別にその事は悪い事だとは思わない。
親戚でなければそもそも出会う事はなかったでしょうし、私達の都合で先天的な障害を持った子供が
産まれたらその子が可愛そうだから。
私の欲求はただ一つ、たった一点……ただ私は京司の傍に居たいだけ。
だからこそ、いつもその障害になるものを破壊してしまいたい衝動に苦しめられる。
今回のは特に強力だった。
京司はやさしい、京司は暴力が嫌いだ……それが私を止めていた。
私は京司の傍に居たいだけ……逆に言えば、京司の傍に居れないのなら私が存在する意味は無い。
「懐かしいね、あの頃は良く遊んでいた」
「うん……本当に楽しかった……それに、嬉しかった……」
だけど……今回のは特に強力だった。

ところで、さっきから一つだけ腑に落ちない点がある。
……この女の顔に全く見覚えが無い。
さっきまでの話を総合すると、どうもこの女記者は小学校の頃に京司と知り合ったらしい。
小学二年生の夏……あの忌まわしい事件から私は京司の通う学校に転校し、
それ以来は中学も高校も大学も一緒に歩み続けてきた。
その私がこの女の事を全く覚えていないのだ。
もちろん、私だって今まで会ってきた全ての人物を覚えていると言う気は無い。
それでも京司の関係者は全て覚えているつもりだった。
その私がこの女の事をまるで知らない。
まるで……まるでそう、後付設定が出てきたみたいに唐突に現れたのだ。
私が覚えていない……それとも、最初から存在していなかった……
確かめた方が良さそうね。
「京司、ちょっと良いかしら?」
私は女記者に会話の内容が聞こえないように京司に話しかけた。
「なんだい?」
京司もそれを察してか、小声で聞き返してくる。
「御影さんといつごろ知り合ったの?」
「小学校の頃、覚えていないのかい?」
……小学校の頃は覚えてる。
だけど、あの女に見覚えは無い。
「どんな関係だったの?」
「クラスメイトだよ。君とだって何度も話している」
小学校のクラスメイトなら、何度か同窓会もあった筈……しかし、だ。
それでもあの女に見覚えは無い。
「なら、いつから疎遠になったの?」
「中学校からは別々の学校になったから、それからは会ってないかな……同窓会にも
出席していなかったみたいだしね」
……あの女に見覚えは無い。
どれだけ記憶をたどろうとも。
何も思い出せない、思い出すのは極めてクリアで違和感の無い小学校での思い出だけだった。
ふと、あの女と眼が合った。
にこっ……と微笑んでくる。
その笑顔はまるで聖人の様に透き通っていて……それが恐ろしくグロテスクに見えた。
「誰なの……貴方……」
その声は小さすぎて、京司にも女記者にも届く事はなかった

6B

「……あら、今日って13日の金曜日ね」
深夜、カレンダーを見たら思わず呟いていた。
6月13日金曜日……確かに電子式のカレンダーにはそう表示されていた。
「そうか……どうもここの所、曜日の感覚が薄れているような気がするよ」
「仕方ないわよ。最近は色々と忙しかったんだから」
そう言う京司の顔色は少し悪い。
無理もない、元々京司の体はあまり頑丈に出来ている訳ではない。
表彰式だのお祝い会だのと普段よりも多くの用ができただけですぐに体調を崩してしまう。
今は単なる疲れですんでるみたいだが、油断すると熱でも出しかねない。
……まあ、それはそれで看病と称してベタベタする機会ができるのだが。
「今日はもう休みなさい。ぐっすり眠ってたくさん食べれば、すぐにいつもの京司に戻るわよ」
幸いにして明日以降はこれといった用事は無い。
天気予報でも明日は快晴だと言っていた。
書きかけの原稿を進めるには最適な日だと言っても良いだろう。
そう考えると、今は少しでも早く京司には休んでほしい。
「そうやっていつも緑は僕を子供扱いする」
だが、そう京司が不満そうに呟く。
「年上でしょ?私の方が」
「4ヶ月ね……」
京司はそう言い残して部屋に戻った。
いつも彼は年齢の話題になるとちょっとだけ不機嫌になる。
不機嫌……と言うよりも、ふてくされていると言うほうが正しいかしら。
お互いがお互いのお兄さんお姉さんになりたがって、それでも誕生日の差で私に勝てないものだから
ふてくされているのだと思う。
たぶん立場が逆だったら私がふてくされる側に回るのでしょうけど……
「ふわぁ……」
大きなあくびが出た。
私も……かなり眠たい。
私が京司の側を離れずに世話をし続ける以上、京司が忙しくなれば私も忙しくなる。
なんだかんだで私も少々疲れているのだと自覚する。
戸締りはした、ガスは使っていない、電気は消した、予定表は確認した。
後は部屋に戻って寝るだけ……と言いたい所だけど、まだ日記をつけていない。
私は京司に会うよりも前から、ずっと日記をつけ続けている。
何度も何度も代替わりを繰り返し、私のかなり恥ずかしい記録と記憶を綴った日記帳……
弟に頼んで作ってもらった二重底の引き出しの奥から日記帳を取り出す。
自分で言うのもなんだけど、この中には京司への嘘偽りの無い想いやら
京司に近づいた女への呪詛だのが書いてあり、
他人に見られるとかなり危険な状況になると思う。
家にはどうせ普通の文字が読めない京司しかいねいけど、どうしても警戒してしまう。
その日記帳を開き……

ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな
ミカゲ忘れるなミカゲ忘れるな

「うっ……ぐぅ……」
吐き気がした、頭痛がした、目眩がした。
胃液が逆流し、喉を焼いた。
まるで脳の中央にビスでも打ち込まれたかのような感覚がした。
脳の神経に過剰な電流が流れるような感覚がした。
その文字はたしかに私の筆跡だった。
しかしその文字を良く見てみると、複数の筆記用具で書かれている事がわかる。
……まるで複数回に分けて書いたかのように。
いや、そんな事はこの際どうでもいい。
問題は……ミカゲ?
うぅ……気持ち悪い……頭が痛い……
私の頭がミカゲについて考えるなと命じてくる。
待った、こんな事は前にも無かったかしら?
そう考えると、私は毎晩日記を開いた時に原因不明の体調不良を感じた事を思い出す。
その記憶は恐ろしく鮮明で、何故忘れていたのかさえ思い出せない。
そしてどうしても思い出せない原因は……これか。
頭をフル回転させてミカゲの事を考える。
最初は頭がミキサーにでもかけられたかのような激痛が襲ったが、
ある一瞬からそれはピタリと止んだ。
すると次から次へとミカゲに関する記憶が蘇ってくる。
ミカゲ……京司の小学校時代のクラスメイト、私とも面識があった、白羊出版の記者、私の敵。
何故忘れていた……いいえ、違う。
私は意図的にミカゲを思考から外していた?
違う……違う違う違う違う違うっ!
何かがおかしい?私がおかしい?頭が痛い?ミカゲって誰?
頭がおかしい?記憶がおかしい?吐き気がする?ミカゲって何?
世界がおかしい?浅野緑がおかしい?頭が回る?ミカゲ?

どうして私は……自分の思考が信じられないっ!!!

 ザクッ!
「うっ……痛ぁ……」
意識が薄れていくのを感じた。
咄嗟に私はペーパーナイフを腕に刺した。
少しだけ……ほんの少しだけ明確で明瞭な意識が戻る。
たぶん後数秒もしたら私は意識を失うだろう。
その僅かな間に考える。
きっと明日になれば私は全てを忘れる。
あのミカゲとかいう女が京司を我が物にしようとしているのだとすれば、
私は何の手も打つことができない。
そんな事はさせないっ!絶対にっ!
考えるんだ、手段を、方法を、明日の私に危険を伝える策を。
日記じゃ駄目、何とかしてミカゲの情報を引き出して対応策を……
なんとか……
……なん……と……か……

7B

左腕がズキリと痛んだ。
「……あれ?」
気がつくと私は、板張りの床の上に転がっていた。
昨晩の記憶は抜け落ち、頭が少し痛む。
そこまで考えて、昨晩は京司が賞をとったのを祝い、
友人たちがささやかながら祝賀会を開いてくれた事を思い出した。
うっかり飲みすぎて……そのまま寝ちゃったのかしら?
それとも寝返りで布団の外まで出た?
思い出そうにも記憶は見事なまでに無くなっていて、どうにも思い出せそうにもない。
周りを見渡すと、部屋には布団すら敷かれていなかった。
手元に日記帳が落ちていたので、引き出しの中に戻す。
毎日の日課だった日記すら放っておくあたり、かなり酔っ払っていたらしい。
酔っ払って記憶が飛んだ時はたいて京司の布団の中で眼を覚ますのだけど、辺りに京司の気配は無い。
……まあ、気にしても仕方が無いわね。
机に置いてある時計を手探りで探し、スイッチを押す。
「タダイマ、6ガツ14ニチ4ジ44フン、デス」
「うわっ、不吉……」
電子音が余りにも不吉な数字を伝え、思わずそう呟いていた。
つい頭が痛いのも左腕が痛いのもこれが原因なのじゃないかと疑ってしまう。
とはいえ、何時までも寝ている訳にもいかない。
頭が起き上がりたくないと訴えてはいるものの、その痛みは眠気をすっかり散らしてしまっている。
私は一念発起して、ゆっくりと起き上がり……
「……つっ!?」
力を入れた瞬間、左腕にさらなる激痛が走った。
ようやく私は異常を感じ、左うでに視線を延ばした。
……左腕は紅く染まっていた。
「何よこれ?」
酔っ払った……にしては行動が過激すぎる気がする。
側にはたぶん私の血で染まったペーパーナイフ。
床には血の跡が広範囲に広がっていた。
幸いにも傷はそう深そうではないし、床は板張りなので掃除はそう大変ではない。
だがしかし、過去に酔っ払った経験は数多くあるが、
流石に気づかぬ内に怪我をしていたという経験は無い。
……と、ここで一旦思考を中断する。
ばい菌が入る前に傷の手当をした方が良さそうだ。
重い頭を引きずるかのように歩き、キッチンへとたどり着く。
軽く顔を洗い、次に左腕を洗う。
冷水の感触を心地よく感じた。
真っ赤に染まった左腕はすぐに肌色に戻り、数分もしない内に血は洗い流された。

『ミカゲ シラベロ』

腕にそう書いてあった。
傷口がまるで文字のように……いいや、これは完全な文字だった。
「何……これ?」

薬を塗り、包帯を腕に巻きながら考える……
誰がこんな事をしたのだろうか?
私がやった……とは考えにくい。
私にはサドッ気はあってもマゾッ気は無い。
京司がやった……とも考えにくい。
と言うよりもむしろ、京司がやっただなんて考えたくはない。
他の誰かがやった……としたら、家の警備環境を徹底的に見直す必要があるだろう。
とはいえ私の部屋に血痕があった以上、やっぱり私がやったと考えるのが普通だろう。
だったらその理由は?
酔っ払った勢いで……もう一度確認、私にはサドッ気はあってもマゾッ気は無い。
しかし、他の理由も考えにくい。
しいて言うなら……この傷を見ていると、どうしても花京院典明を思い出してしまう。
まさか死神13が……居る訳が無い。
だったらジェイル・ハウス・ロックが……居るのならお眼にかかってみたい。
結局、犯人も理由もわからない。
なら次に考えるべき事はこの文字の意味だろう。
『ミカゲ シラベロ』
普通に考えるのなら、ミカゲについて調べろと書いてあるのだと思うのだけど……
「緑かい?今日は早いんだね」
「おわっ!!」
背後からの突然の声によって思考が中断される。
振り向かなくてもわかる、京司だ。
「緑……仮にも女性が『おわっ!』だなんて言うべきじゃないと思うんだけど……」
……振り向かなくてもわかる、京司が心底呆れた顔をしている。
「仮にもって何よっ!?今のは後ろからこっそり近づいて来た京司が悪いわ」
だから無意味に反論してみた。
お互いに反発したり、逆にくっついたり、そんな磁石のような関係が一番心地良い。
私も、たぶん京司も。
「ふふっ……そうだね。
それはそうと、どうしたんだい?こんなに早く起きたりして」
「いつもと一時間しか違わないわよ。京司こそどうしたの?」
「嫌な夢を見たんだよ」
そう言って京司は手馴れた手つきで冷蔵庫から水を取り出す。
夢の事は……聞かない方が良さそう。
それよりも京司に聞くべき事があったような気がする……
「京司……ミカゲって誰?」
……気がつけばそんな事を口に出していた。
ミカゲが人名かどうか、京司がそれを知っているかどうかなんてわからない筈だったのにだ。
すると京司は眉間に皺を寄せ……
「何かの冗談かい?」
……と、返してきた。
「知ってるの!?だったら教えて」
私がそう言うとさらに京司は困った顔をしていた。
「小学校のクラスメイト。昨日の祝賀会にも来てただろう」
「来て……た?」
ミシリ……と、頭蓋骨にヒビが入った音が聞こえたような気がした。

8B

「ミカゲ、ミカゲ、ミカゲはと……」
押入れの奥から引っ張り出した卒業アルバム……
もし本当にクラスメイトだったとすれば、顔を見れば思い出すと思っての行動だ。
その中からミカゲという名の人物を探していく。
幸いにして、私と京司が卒業した学校の生徒数はそう多くない。
全校生徒となると少し手間がかかるが、私達と同学年だけを調べるのならそう時間はかからない。
そう時間はかからない……
時間はかからない……
時間は……え〜と……
……結局、名簿を持ち出して全校生徒を調べてしまった。

結論:ミカゲなんて名前の持ち主は一人も居ない

……とはいえ、これは私が6年生の時の名簿だ。
途中で転校して違う学校へ行ってしまったとか、京司の記憶違いで実は先輩だったとか、
原因は色々と考えられる。
待った……今、何かが私の頭の中をよぎった。
なにかなかったかしら?転校じゃない、転校じゃなくて……誰かが居なくなった?
「何をされてるんですか?」
  ゴッ!
「へぶぅっ……」
……突如として左手に衝撃が走った。
左手が紅く染まり、生暖かいなにかが飛び散る。
「雨漏り……かしら?」
ベランダから外を見る……空には太陽が爛々と輝いていた。
その太陽を視界の端に捉えた途端、何故か濡れ女子と言う単語が思い浮かんだ。
「ふえぇ……」
妙な感触を感じ、包帯を見た。
朝は真っ白だったそれは、血が滲んでいる。
痛みは無いけど、もしかしたら傷口が開いてしまったのかもしれない。
まさか背後で涙目になっている人の鼻血だなんて訳が無い。
いくら精神的に緊張していたとはいえ、背後に立っていた人に裏拳を当てたりなんかしたりはしない。
「……ふっ……ふええええぇぇぇぇんん……」
あまりにも情け無い泣き声が聞こえてきた。
……そろそろ意図的に無視するのも限界かもしれない。
いいかげんに自分のしでかした罪と向き合う必要がありそうだ。
「はぁっ……」
無意識の内にため息が出ていた。
「御影さん……ごめん」
「浅野さんっ!?」
以外にも、御影さんはその一言で一気に泣き止んだ。
まるでありえないモノ……幽霊でも見るかのような眼でこちらを見据えていた。
「鼻、大丈夫だったかしら?」
「はっ……はいっ!大丈夫だすっ!」
「だす?」
「大丈夫……です」

 

地獄のように熱く、絶望のように苦い漆黒の泉が湧き始める。
……早い話がコーヒーである。
居間には京司と御影さん。
さっき話を聞いた限りでは、今日は取材ではなく京司が個人的に御影さんを呼んだらしい。
……コーヒーが沸きあがる、手早く用意していたお盆に載せ早足で移動する。
「コーヒーお待たせ」
……ごく自然に乱入。
思ったよりも場の雰囲気は重い。
気まずい……と言うよりも、お互いがお互いに遠慮をしあっているような感じがする。
これは危険な兆候だ。
こういう関係はある一線を越えると一気に親密になる可能性を大いに秘めている。
だがしかし……流石に京司の目の前で妨害するのも考え物でもある。
「御影さん、本当にさっきはごめんなさい」
「あ、いえ……こちらこそ」
……考えた結果、京司との会話が始まっていない事を利用し、
私の方が先に御影さんに対し話題を提供する策に出た。
私の裏拳による鼻血と涙は止まってはいる。
しかし包帯を取り替える際にものの見事に取り乱し、壁に正面衝突をし再び鼻血と涙をこぼしていた。
その純粋すぎる眼は誇張表現抜きで赤子のようで、同性の目から見ても可愛いと言わざるを得ない。
そんな御影さんをこれ以上京司に近づけるのはどうしても避けたかった。
……これは、女の本能とでも言うべきなんだろうか?
  ぽすっ
「ふぇ!?」
  なでなでなでなで……
「あ……あのぅ……」
……これは、女の本能とでも言うべきなんだろうか?
「可愛い」
「はっ!はひっ!?」
ああ……可愛い。
頭を撫でるだけじゃなく、いっそ抱き締めてキスでもしたくなってくる。
私よりもやや高めの身長、小さめの胸、赤子のような瞳……
「あの……ちょっと……」
……いけない、流石にこれ以上は迷惑かもしれない。
「あったかい……手です……」
その瞬間、私は脊髄反射のように手を離していた。
御影さんはどこか遠くを眺め、まるで私を見ていなかった。
何か決して触れてはいけないモノに触れていたような気がした。
誰かの大切な思い出を汚しているような気がした。
その言葉とは裏腹に、御影さんが寂しさで震えていたような気がした。
まるで……小さな赤子の幽霊の様に……
「御影さん、大丈夫かい?」
京司は敏感にこの雰囲気を察知していた。
そんな京司の心遣いを感じてか、御影さんの異常はすぐに収まる。
「すみません……こんな風に撫でてもらうの、初めてだったんです」
そうやって御影さんが笑った。
私にも、きっと京司にも、それが無理な笑い顔だとわかった。
すぐに抱き締めてあげたい衝動が全身を駆け巡った。
だけど……今となっては不可能のように思えた。
手を離した事を……今更のように後悔をした。

9B

「当社にはミカゲという社員はおりません」
……一時間も玄関で待たされた結果がこれだった。
そう答えた受付嬢に、歓迎の念は無いという事はわかる。
私のような一般人にそれを察せられる限り、この人は受付向きの人材ではなさそうである。
だが……この場で嘘を言う理由は見つからなかった。
なら仮にこの言葉が本当だったとしたら……
待った、一回頭を整理してみよう。

1・京司の勘違い説
説明としては一番自然な説明がつく仮説。
とは言え、それはそれで京司が何と勘違いしたのかが問題になる。
ミカゲという名で、京司のクラスメイトで、白羊出版の記者で、祝賀会にも出席した。
……そんな人物が居るとどうして京司が思い込んだのか?
それに対する答えは見えてこない。

2・ミカゲ、アルバイト説
ミカゲという名の記者は白羊出版の正社員ではなかった。
だから受付嬢が調べてもその名は出てこなかった。
仮に私とミカゲが同年齢だった場合、ミカゲの年齢は24、
先輩だった場合は多めに見積もって29、後輩だった場合は19だ。
その年でフリーターというのも不自然な話じゃない。
……ただし、この説には一つだけ問題点がある。
いくら有名所では無いにせよ、賞を取った直後の作家を取材するのにアルバイトを起用するか否か。
普通はしない……たぶん。
白羊出版がそんなに抜けているとも人材不足とも思えない。

3・白羊出版の陰謀説
白羊出版が何らかの事情でミカゲの存在を隠そうとしている。
……却下。
隠そうとしている人物にしては露出が多すぎる。
あるいは何か汚職でもやらかしたのかしら?
残念ながらそんな噂は聞いた事も無かった。
とすると……

「……で、貴方はいつまでそこでうんうん唸っているのでしょうか?」
……受付嬢から放たれた殺気で思考が中断された。
「あははっ……ごめんなさい……」
一瞬だけ心臓が停止したかのような錯覚を覚えた。
一瞬だけ人で在らざる者の気配を感じたような気がした。

その感覚が脳のある神経を繋げた……ミカゲって人間なのかしら……と。
第四の説……ミカゲ人外説……

 ……ガタンッ
    ……ゴトンッ
電車に揺られながら、私は先ほど思い至った第四の説を形にする。
ミカゲが本当に人で在らざる者であるかどうかはこの際関係無い。
問題は、ミカゲに常人を超えた能力があるかもしれないという事だ。
なら……具体的なミカゲの能力は?
これは推測するしかない。
ハッキリと言ってミカゲの情報が少なすぎる。
それでも今までの状況を綺麗にまとめる仮説をなんとか考える……
考える……も、想像すらつかなかった。
それは仮説と言うには余りにも不恰好かつ御都合主義。
小説として出されたのなら佳作にもなる事はないだろう。
それでも……それでもあえて一番まともそうなのを選ぶとするなら……
違った、一番しっくりと頭に馴染む仮説だ。

それは……ミカゲは他人の記憶を改竄する事ができる……といった内容の物だ。

「バカバカしい……とは言い切れないのよね、残念ながら」
周りに人が居ない事を確認し、意識的に独り言を呟いてみる。
この世に二桁を超える子を産ませ、娘兼孫である母さんに手を出し、
あまつさえ当時中学生だった私にすら手をつけようとした変態近親相姦ロリクソエロジジィの存在。
私と全く同じ親、同じ家庭、同じ環境で育ったにも関わらず、
確かに宮間の血統を受け継いでいる私の弟。
その弟の周りに集まる人でない者達。
私は確かに小説よりも奇妙な事実を知っているのだ。
故に私は、今更記憶の改竄程度で驚きはしない。
そして私は考える……この説には一つだけ問題点がある。
他の点は全てこの仮説で説明できる。
左腕の文字はやはり私が書いた物で、おそらくこれ以外の方法で記憶を失った私に
危険を伝える方法が思いつかなかったのだろう。
白羊出版では周りの者にミカゲという人物を居ないものだと思い込ませているのだろう。
時々飛んでいる記憶は、ミカゲに会っているのか、あるいはミカゲについて
重要な何かを眼にしている時なのだろう。
では……何故京司の記憶は改竄しなかったのか?
白羊出版の社員の記憶を改竄している点から考えて、
祝賀会に出席した者にも能力は及んでいると考えた方が良い。
京司の記憶がそのままなのは忘れてほしくなかったからだろうか?
それとも忘れさせる事ができなかったからだろうか?
いかんせん、情報はまだまだ少ない。
……とにかく、今から向かう場所で調べられる事を全て調べ終えたら、
祝賀会に出席していた全員から話を聞く必要がありそうね。
もう一度車内を見渡し、無人を確認する。
包帯を解けば、まだ左腕の文字はハッキリと確認できた。
「ミカゲ、シラベロ……か」
この文字を見る限り、ミカゲの能力は完璧ではない。
たったそれだけが私の希望であった。
だが……もしも全てがミカゲの掌の上での出来事だったなら……
もう間もなく、私と京司がかつて通っていた小学校へと辿り着く。
私は一度思考を中断させ、懐かしい景色を眺める事にした……

 

変態近親相姦ロリクソエロジジィこと、宮間麟太郎。
享年:116歳
死因:首を切り落とされ即死
鑑識は凶器を鋭利な刃物であると断定。
現場には激しく争った跡があり、付近には多量の血痕が付着。
頭部は胴体から2m離れた場所にて発見、胴体部には多数の切り傷があった。
凶器らしき物は現在の所発見されていない。
血液の鑑定により、現場の血痕は宮間麟太郎の物と浅野巧の物であると判明。
また事件発生と同時に浅野巧が行方不明となっており、警察は重要参考人として行方を追っている。

浅野緑:当時15歳
浅野巧:当時13歳

10B

風雲大学小学部……その校門は見事なまでに崩れ落ちていた。
守衛さんが言うには、少し前にあった嵐が直撃したみたいだ。
だがしかし……たぶん今さら誰一人として気にする者はいないと思う。
この学校には昔からこうした不運な出来事がまるで多村選手の如く連続して起こる。
小学校に付き物、学校の七不思議は数えてみたら49個も存在していたらしい。
それ故にこの学校は昔から……不運小学校と呼ばれている。
その不運小学校こそ、私達がかつて通い、そして卒業していった学校なのだ。
しかし……通っていた当時から思ってたけど、何かと不幸な出来事が頻発する学校なのよね。
おかげで最近は慢性的な生徒不足に悩んでいるって噂だし。
私個人としても、こんな事態でもなければここへ近づくのは遠慮しておきたい。
だけど今となってはそんな事も言ってられない。
ミカゲが他者の記憶を改竄できるのだとするのなら、これほど恐ろしい敵は無い。
だけど私が私に対しダイイングメッセージを残せた以上、その能力は決して完璧じゃない。
そして今現在ミカゲの情報が眠っている可能性が最も高い場所はここ以外に考えられない。
「そう、私は今不退転の覚悟でここに来ているのだぁぁぁぁぁっ!!!」
「来ているのだっ!じゃないだろ。来ているのだっ!じゃあ」
「良いツッコミをありがとう。元気にしてたかしら?」
ここ、不幸小学校で働くちょっと目つきの悪い男性教師。
佐藤孝四郎(さとう こうしろう)は、かつて私のクラスメイトだった人物だ。
名実共に突っ込みキャラとしてクラスに君臨していた、いわばツッコミカイザーとも言うべき人物。
……なんだけど、正直どうでもいいわ。
「まったく……久しぶりに会ったと思えば、浅野は随分と変わったな」
「女の子は恋をすると変わるものなのよ。そんな事よりちょっと聞きたい事があるんだけど、
  良いかしら?」
考えてみれば4・5年ぶりになる旧友だけど、今は再会を喜んでいる時間は無い。
私はすぐさまキマゲについての情報を求めた。
「ミカゲ……ねぇ。なんか聞き覚えがあるような気がするんだが……」
「本当っ!?何時?どこで?」
「ちょっと待ってろ、ネクタイを引っ張るな、首を絞めるな」
佐藤君のツッコミをあえて無視してさらに締め上げる。
もしただの勘違いでしただなんて言ったら絞め殺してやろう。
「おいっ……締まってる、締まってるって……ギブギブッ、ギブッ!!」
ギブ?
……ギブミーチョコレート?
そういえばもうすぐバレンタインデーだったかしら。
「有益な情報をくれたらチョコレートなんていくらでもあげるから……
は〜や〜く〜は〜き〜な〜さ〜い〜」

 ぶんっぶんっぶんっぶんっ
  ……ギリギリギリギリ……
  ぶくぶくぶくぶく……がくっ……

バレンタインデー?
少し前にちょっと高めのチョコレートを買っておいたのを思い出す……
なんでだったかしら……?

「げほっげほっ……まったく、本当にこの学校に関わってるとロクな事が無いな」
「ごめんなさい」
私とした事が、うっかり熱くなりすぎた。
こういうのは生かさず殺さずが基本だって言うのに……
「なんか……今、寒気がしたんだが……」
「気のせいよ、そんな事より佐藤君が知ってる事を洗いざらい吐いてもらおうかしら」
「そんな事よりって……まあいいか。何について話せって言うんだ?」
「『ミカゲ』について。理由は忘れたけど、どうしても調べなくちゃいけない気がするの」
……とりあえず、嘘は言ってない。
ミカゲを危険視する理由は覚えていないし、調べなくてはいけない理由も左腕のメッセージだけ。
それに……なんとなくだけど、嫌な予感がする。
時間が無い、事は一刻を争う……そんな気がする。
さっき私にしては妙に熱くなった理由はそれ……それだけ?
なにか一つ……もう一つ……
絶対に忘れてはいけないもの……原初の想い……
なにかミカゲよりも大切な、ミカゲよりも忘れてはいけないものを忘れているような気がする……
「ああ、思い出したっ!」

 ……っ!?

頭に電流が奔った。
電流?違う……瞬間的に頭痛が起きたんだ。
「おい浅野、大丈夫か?凄い汗かいてるぞ」
佐藤君が心配そうに顔を覗き込んでくる。
いつもこうやって見えもしない眼で……それでいて、どこまでも深い瞳が……
……誰の話?
「うぅ……っぐぅ!?」
再び電流が奔った。それとも頭痛?
……もうどっちだって良い。
体中の汚物が全て喉に結集しているかのような感覚がした。
逆流しなかったのが奇跡のように思える。
喉が焼け、千切れ、引き裂かれ、貫かれ……とにかく酷い有様だ。
「おい……本当に大丈夫か?保健室行くか?」
佐藤君の顔を確認した瞬間、さらに激しい嘔吐感が喉を襲った。
脊髄反射で顔を背ける。
そうしなければ死ぬのではないかと思った。
気合と根性で心を平静に戻す。
この位の非日常で吐いてどうする?
私はあの時……あんなにも綺麗な人殺しを見たんじゃないか。
「大丈夫……大丈夫だから……そんな事より、何を思い出したの?」
そうだ……今はミカゲだ……
ミカゲが……一番大事なんだ……

「全校集会……だよ」
佐藤君はほんの少しだけ迷いながらも、そう私に告げた。
「全校集会?」
全校集会と言われても、その数は多い。
それだけでは私の持つ情報と大差は無い。
「いつだったっけな……そう、確か小5の夏だ。
あの縁起の悪い顔した校長が全校生徒を集めて……なんて言ってたっけ……
とにかく、そこでミカゲに関する話をして。
それでしばらくの間は学校中でその噂が飛び交ってたような気がする」
記憶に……ほんの少しだけひっかかりがあった。
言われてみればそんな事があったような気がする。
その程度だが……それで十分。
「佐藤君、この辺で昔の新聞を保管してある場所ってあるかしら?」
「それなら図書室に……」
「ありがと。あとでチョコレートをあげるわ」
それなら話は早い。
緊急の全校集会になるほど話題性のある事件なら、たぶん新聞記事にもなっている筈。
小5の夏という時期までわかっているのなら、探すのは容易い。
そして幸いな事に、図書室の場所ならハッキリと覚えている。
私は佐藤君の返事を待たずに飛び出していた……
「……チョコレート?」
そんな佐藤君の疑問声だけが後ろの方で響いていた……

 

……それから一時間と経たずして、事態はさらに迷宮入りに近づいた。

『三影雪、死亡。享年11歳。交通事故。即死』

「なによこれ……死んでるじゃない……」
いや……ミカゲが人でないモノである可能性は考えていた。
だとしても……まさか私の周りでこんな事が……
携帯電話を取り出す……短縮3番……
「巧?今からそっちに行くわよ……」

To be continued.....

 

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