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夕焼けの徒花



1

 夕暮れの中、俺――縁皓一(えにし こういち)は、ある家の前に立っていた。
  中を覗くと手入れの行き届いた庭が目に入る。
  芝生に置かれた木棚には色とりどりの花の植木鉢が置かれ、
  それらはつい先程浴びたらしい水を受けて、瑞々しい輝きを放っている。
(先輩、家に居るんだな・・・)
  花を育てるのが趣味なのだと、恥ずかしそうにはにかんでいた少女の笑顔が浮かぶ。
  今は夏場だから、花に水をやるにしても
  遅めの時間にしないといけないと言っていたっけ。
  俺は、先輩に自分の決意を告げるためにここにいる。正直気が重い。先輩の反応が怖くて仕方ない。
  出来るなら逃げ出したいが、そんなことをしても、ほんの僅か先延ばしになるだけ。
  それどころか気の重さが増すだけだ。
  俺は深呼吸と第一声のシミュレートを玄関の前で一分間繰り返し・・・
  不審者として通報される前に、チャイムに指を伸ばした。

 先輩――二条紗耶香(にじょう さやか)さん。俺の一つ上で、俺の通う高校の三年生。
  長い髪をなびかせる美少女だが、お洒落にはあまり興味が無いのか、
  髪を飾るのは薄いピンクのヘアバンドだけ。
  性格も控えめで大人しいため、容姿の端麗さの割には男共の話題に上ることはあまりない。
  それでも、何度か告白されたりはしているらしいけど。
  学業は学年でもトップクラスの成績で(俺も何度か見てもらったりしている)、
  運動神経も並以上はあると思う。
  信じられない話だが、贔屓目に見ても平凡の域を脱しない俺と、
  俺とは天地の差がありそうな紗耶香先輩は、彼氏彼女――いわゆる恋人同士の間柄だ。
  3ヶ月前、学年が上がって間もなくの頃、些細なことがきっかけで知り合った俺に、
  紗耶香先輩はなぜか何くれと構うようになった。始めは軽く話す程度で
  多少親しい先輩後輩という感じだったのだが、
  いつしかお昼を一緒に食べたり時には弁当を作ってきてくれたり、
  一緒に帰ろうと放課後に校門や昇降口で待っていたり
  俺が遅いと教室まで迎えに来てくれるようになったり・・・とするようになった。
  俺に会えなかった日の翌日は機嫌が悪く、機嫌を直す条件が手を繋いで一緒に帰るだったり、
  その際必要以上に身体を密着させてきたりした。
  ここまでされれば、流石の俺でも何となく分かる。「いや、でも」「まさか先輩が」
「相手は俺だぞ?」こんな自問自答を数日間繰り返して、
  それでも「先輩は俺を好きなのかも」という推論は変わらなかった。

 ある日俺は、自分から先輩に告白した。

 特定の誰かが好き、ということがないため漠然としたものでしかなかったが、
  俺とて彼女が欲しいかもという気持ちはあった。
  紗耶香先輩がその特別な人になったとしたら、それは俺なんかには勿体ないくらいの幸運だろう。
  それに、先輩と共に居るのは純粋に心地いい。俺も先輩も人付き合いは広くなく、
  派手に遊びまわったりするのは好きじゃないので、付き合ったからといって
  無理に背伸びする必要はないと思うし、化粧っ気のない控えめな美しさの容姿も、
  むしろ俺的には好みだ。

 まだ恋、には遠いが、それはこれから共に居ることで埋めていける、
  いや、埋めていきたい距離だと思ったのだ。
  いつも通り先輩を家まで送っての別れ際での告白。気恥ずかしさから俺は端的かつ早口に、
  しかし先輩の目を見て告白した。
  先輩は、時間が止まったように無反応。あまりに続く沈黙に不安は増し、
  挙句「もしや俺ってザ・ワールドの使い手?」などと現実逃避じみたことを考え出した頃、
  先輩がようやく反応した。瞳にいっぱいの涙と共に。泣きじゃくる先輩をなだめること数分、
  通りがかる人の冷たい視線に耐えつつ(先輩の両親が留守でよかった・・・)、
  先輩は嬉しくて泣いてしまったと、自分こそ俺のことが好きだったと告白してくれた。

 結局その日は真っ暗になるまで玄関の前で、一通り赤くなったりモジモジしたり
  ソワソワしたりしていた気がする。
  はっきり覚えているのは、別れ際に触れるだけの小さなキスを交わしたことくらいだ。

 こうして恋人同士になった俺たちだが、それほど付き合い方が変わったわけでもない。
  せいぜい先輩が俺に気兼ねなくくっついてくるようになったことくらいだ。
(あれで気兼ねしていたのか、と俺は少し思ったけど)
  それでも、以前は感じる事のなかった満たされた気分で日々を過ごしていた。

 そうして一ヶ月が過ぎた。

 

 ・・・一ヶ月しか、保たなかった。

2

「アメリカに行く!? 先輩が!?」

 屋上とはいえ学校であることも忘れ、俺は思わず声を荒げる。
  先輩は俺の声に一瞬驚きの表情を見せたが、すぐにさっきまでの沈んだ表情に戻った。
  先輩・・・今日はテンション低いなと思っていたら、そんな話があったなんて。
  これが晴天の霹靂っていうやつか。

「それで・・・出発はいつ? 期間はどのくらい?」

 質問に、先輩は沈んだ表情のまま俯く。

「夏休みに入ったら、退学届けを出して発つ予定・・・。期間は・・・最低でも一年以上は・・・」

「一年・・・」

 ポツリと力なく零された言葉。大声を上げるのは自制したが、心に広がる波紋は止められない。
  咄嗟に日付は出て来なかったが、確かもう7月に入っているはず。夏休みまで一ヶ月も無い。

 家の事情がどうとか、親が残ることを許さなかったとか、大学は向こうのを受けるかもとか、
  そんな話がされたけど、俺はあまり聞いていなった。
  ただ、紗耶香先輩と離れ離れにならねばならないということだけが、はっきりと耳に残った。

 その日は一人で帰った。先輩も顔を合わせづらいのか、姿を見せなかった。
  家に帰るとベッドに横になり、思考の海へダイブする。

(一年以上、か・・・)

 その時間をイメージしてみる。具体的には、新しい制服に袖を通してから今に至るまでの日々。
  試験勉強に追われ、夏休みはバイトに精を出し、文化祭や体育祭で盛り上がり、
  すぐに二度目の期末試験、バレンタインや卒業式といったイベントに興奮する連中を尻目に
  のんびり過ごした冬の時間・・・。
  今でこそあっという間だったように思えるが、それは紛れも無く長い、一年という期間だ。

 対して俺が先輩と共に過ごしたのは3ヶ月程度。ただの先輩でなく「紗耶香」先輩と
  意識して接したとなると2ヶ月程度。恋人同士としてならたった一ヶ月だ。
  なのに、いきなり一年以上も離れ離れだという。

 ・・・落ち着いて考えよう。選択肢は2つ、単純だ。待つか別れるかしかない。
  国を隔てていては、会うことはおろか電話さえもままならず、遠距離恋愛とはならないだろうし。

 俺が待つのはいい。自分には先輩がいると思っていれば、周囲の女の子も大して気にならないだろう。
  俺自身もモテるわけじゃないし、周りの連中のように女の子にがっつくような
  タイプではない・・・つもりだ。

 だが先輩はどうだ? 俺という出逢って間もない存在に、一年以上も縛られていいのか?
  先輩は優しい人だ、俺が待っているといえば、それに応えようとするだろう。
  それは果たしていいことなのだろうか。
  先輩は綺麗で、優しくて、能力もある人だ。新天地での生活は、
  身に秘めた可能性を更に大きくすることだろう。
  そこに、俺という存在は先輩の足枷にしかならないような気がする。

 

 それは、俺の不安――積み重ねた時間に対する別離の期間の長さや、
  俺にはもったいなさすぎる恋人の存在――がさせた、逃避なのかもしれない。
  それでも、先輩により大きな可能性を掴んで欲しいというのも本心だ。
  それは、自信を持って言える。

(明日・・・先輩に会おう。俺の決意を伝えよう)

 そして、心からの感謝と激励を伝えよう。
  恋人じゃなくなっても、紗耶香先輩は俺の大切な人だ。
  何のことはない、また一ヶ月前までの間柄に戻るだけなのだから。

 決意を固めると、胸がスっと軽くなる。今日はもう、このまま寝てしまおう・・・。

 

 そして、冒頭のシーンへ戻る。俺は紗耶香先輩の家の前にいるわけだ。
  いざここまで来ると、やはり気が重くなってくる。
  それでも、チャイムは押されてしまった。もう、やるしかないのだ。

「は〜い、どちら様ですか?」

 やや間延びした声が響く。

「先輩、俺です。縁です」
「皓一くん!?」

 驚いてるな、先輩。だが考えてみれば、俺が先輩の家に自分から来るのは初めてだ。
  いつも先輩に引っ張られて来ているからな。

 ドアが開き、紗耶香先輩が姿を見せる。白のサマーセーターに、ブルーのミニスカートの先輩。
  薄いセーターは豊かな胸を強調し、短いスカートからは肉付きのよい太股がのぞいている。
  学校では決してお目にかかれない先輩の姿だ。こんな先輩をみたら、
  男子生徒連中は即日ファンクラブを結成してしまうんじゃないかとさえ思う。
  かく言う俺も、初めて先輩の私服姿を見たときには思わず目のやり場に困ってしまったほどだ。
  密着された時の感触から感づいてはいたが、紗耶香先輩は非常にスタイルがいい。

「えっと・・・先輩にお話があって・・・」

 いつの間にか下がっていた目線を上げると、俺は先輩の顔を見て言う。

「あっ・・・えっと、上がって! こんな所で立ち話も何でしょ?」

 紗耶香先輩に導かれ、俺は二条邸に足を踏み入れた。

 二度目となる、紗耶香先輩の部屋。
  ぬいぐるみなどが置いてあるわけではないが、薄い暖色系の色で統一された綺麗な部屋は、
  それだけで女の子らしさというものを感じさせるから不思議だ。
  先輩がベッドに腰掛ける。俺に隣りを勧めたが、俺はそれを丁重に断った。

「えっと・・・まずは、すみませんでした。昨日から先輩を避けてしまって」
「ううん、いいの。私こそごめんなさい、いきなりあんな話をして。驚くのも当然だよね」

 小さく微笑む先輩。それだけで心が温かくなる。以前の俺にはなかったことだ。
  これがちょっとした痴話喧嘩だったら、今ので全て解決だろう。
  しかし今の状況では、その微笑みは逆に俺の心を締め付ける。皮肉な話だ。
  つい表情が暗くなってしまったらしい。それを感じ取ったのか、
  紗耶香先輩が殊更に明るく俺に話しかけてくる。

「あっ、でもね! 早く帰りたいって、一年遅れてでも日本の大学に行きたいって、
  両親には言ってるの。家族で戻るのが無理なら、親戚の人に頼んで私一人だけでも戻りたいって。
  そうすれば、皓一くんと同じ学年になれるし、一緒の大学にだって行けるよ。だからね・・・」

「先輩!」

 俺は思わず大声で遮って立ち上がる。先輩が驚いたように俺を見上げていた。

(やっぱり俺、先輩に気を遣わせちまってるんだ・・・)

 俺とてそろそろ本腰を入れて勉強するつもりだが、
  それでも行ける大学なんてたかが知れてるだろう。
  少なくとも先輩のレベルに釣り合うような所なんて無理だ。
  それは俺に勉強を教えることもある先輩ならよく分かっているはず。
  なのにこんなことを言うということは・・・。

(俺のバカ・・・! 暗い顔なんてしてたから・・・)

 紗耶香先輩は時に驚くほど鋭い。そして、包み込むように優しい。
  以前俺が落ち込んでいた時も、何も言わずに俺をその豊かな胸で掻き抱いてくれた。
  俺はその甘美過ぎる感触に負けないよう(?)、
  母性とおっぱいの大きさって比例するんだなあと、ダメな現実逃避していたが。
  ともあれ付き合って一ヶ月、俺は先輩に何もしてあげられていない。

 言わなくては。これ以上先輩に甘えるわけにはいかない。
  今の俺では、紗耶香先輩と対等な位置に立つには未熟すぎる。
  俺から、先輩を解放しなくては。縁があれば(俺のことじゃないぞ)、
  また交わることもあるだろうから。
  だから。

 

「別れましょう、先輩」

 少なくとも、今は。
  貴女にさよならを。



  少年を責めるのは酷だろう。彼が自分と恋人の関係について下した決断は客観的に見て適切だし、
  時間という要因がそれを後押ししている。
  だが、客観的な正しさなど時に何の意味も持たないということを、
  少年は知らなければならなかった。
  相応に何かして上げられなければ恋人たる資格はないという認識を、改めなければならなかった。

 せめてあと一ヶ月・・・少年の思いがはっきりと自覚できるほどに
「恋」と呼べるものに昇華する時間があれば、あるいは違う未来もあったのかもしれない。
  だが、それは無意味な仮定。
  彼女の想いもまた、自分と同じくまだ引き返せる程度のものだろうと思っていた少年は、
  ゆえに気づかなかった。

 僅か数文字の己の言葉が、少女の心をズタズタに切り裂いてしまったことを。

3

 私は夏が嫌い。

 夏は暑いから。夏は人を解放的にする。それは身に纏う服装も例外じゃない。
  私は肌を晒すことが嫌いだから。身体の線の浮き出る服は着たくない。
  でも、夏だとそうも言っていられない。
  同性からはスタイルが良くて羨ましいなんて言われるけど、私はその反対。
  特に男の人の視線を受けるのが嫌だった。
  同年代の女子より発育が早かった私は、始めこそみんなより早く大きくなっていることを
  単純に喜んでいたが、男子の視線を集めるようになると、それも急激に無くなっていった。
  男子にちょっかいを出されたり、身体測定の度にその気持ちは逆のベクトルを向いていった。

 中学に入る頃には、その気持ちの名称をはっきりと認識した。それは『嫌悪』だった。
  分かったからには対処の仕様もある。なるべく目立たないようにすることだった。
  といっても、極端に野暮ったい格好をすればいいというものじゃない。
  それではかえって目立ってしまうから。
  大きめの制服で胸を隠し、スカートはちょうど膝くらいに。あとは極力その格好を維持する。
  中学生にもなれば新しいことを積極的にして目立とうとする子が多いから、
  みんなの視線は自然とそちらに行ってくれる。
  あとは、ヘンに孤立しないように小さな友達の輪に入れば殆ど大丈夫だった。

 

 子供が何を言うかと思うかもしれないけど、
  私はこの頃には既に人生を達観しているところがあった。
  いや、半ば諦めていたと言ったほうがいいかもしれない。

 父は祖父から継いだ事業の拡大に情熱を燃やす人で、殆ど家にいない。
  母とはお見合い結婚だという。
  しかし愛情がないわけではなく、それは父が家にもたらす財からも分かるし、
  時にはお土産を手に帰宅しのんびり食卓を囲むこともある。
  父の事業に興味はないけど、家庭に不満はない。

 父は、私を何処に出しても恥ずかしくないようにしたいと思っている人だった。
  そしてその思いは習い事という方向を向いた。
  祖父のように身一つから一代で身を立てたのではない二世ゆえ、だろうか。
  色々なものに手を出し、今でも続けているのはピアノくらい。
  それなりのレベルには達したと思うけど、気が向いたときに少し弾くという
  程度のものに終わっている。

 もう一つ、花がある。これは私の意思で今でも続けている、趣味と呼んでも差し支えないもの。
  元は生け花の習い事だったのが、花好きと大きな庭の存在により、長じて園芸になった。
  花は花瓶に生けて室内で愛でるより、外で陽の光を浴びて活き活きと咲く方がよく似合う。

 ・・・これは、私の心の中の願望が生んだ好みなのかもしれない。
  私は将来、父が選んだ人と結ばれることになるだろう。それはお見合いか、はたまた政略結婚か。
  父の事業に関わるものになるのは間違いないと思う。
  だが父は、それが私の幸せだと心から信じていると思う。
  私を任せるに足る、経済的にも精神的にも見込みのある男性を選ぶだろう。
  実際、思春期のころには「あそこの家のご子息が〜」とか
「昨日の発表会でその家の息子さんが〜」とか話すことが多くなっている。
  父と母の間に跡継ぎとなる男の子は結局生まれず、父は残念がっていた。
  だから、私の結婚には特に気を使うはず。

 私の未来のレールは敷かれているのだ。
  その諦観に対するささやかな希望。・・・普通の恋愛。
  父と母の間には愛はあるが、恋はない。私はそれに焦がれていた。
  生け花のような穏やかな束縛ではなく、風雨に晒されても太陽に向かう、外の花強さと自由さに。
  ふと庭を見ると、一輪の花が目に付いた。美しく咲いていながら、それは実を結んではいない。
  外が綺麗でも、中身が伴っていない花。

 ――徒花〈あだばな〉

 それは、まるで私のようだと思った。

 私立のお嬢様学校に通わせようとした父の反対を押し切り、
  私は普通の公立高校に通うことにした。
  父は渋ったけれど、祖父の鶴の一声が効いたみたいだった。
  いつもは父に追従する母が中立を貫いたのも大きかった。
  もしかしたら、同じ女として私の気持ちを分かってくれたのかもしれない。
  結局私は、約束された穏やかな日々より儚い希望を選んでしまったのだ。
  もしかしたら、という思いを捨てきれず。

 けれど、そんなもしかしたら、ほど当てにならないものも無い。
  二年間、結局私は中学の頃と似たような日々を過ごすことになったのだから。

 入学して3ヶ月、夏休み直前に、告白というものを初めてされた。
  しかし私の心が高鳴ることは無く。最初は顔を見て付き合って欲しいと言っていた男子の目線が
  無意識のうちに下がっているのに気づくと、あとはもう嫌悪が増していくのみだった。
「ああ、この人の付き合ってほしいはそういうことなんだ」と分かってしまったから。
  当たり障り無く、且つ早く済ませるように穏やかな微笑を張り付かせてやんわりと断るのも、
  幾度か断りの返事をするたびに上手くなっていった。
 
  勉強は授業を聞かなくても分かるくらいだし、運動など部活に打ち込む気にもならなかった。
  それでもこの高校に通い続けたのは、言い出したのが自分自身だという意地。
  正直、父が「転校を考える気はないか?」と言ってくれるのを待っていたくらいだった。

 そのつまらない意地に、今は感謝している。そのお陰で彼と――皓一くんと出逢えたのだから。

 私と彼の出逢いは何と言うか・・・
  些細というか、偶然というか、陳腐というか、そんなものだった。

 登校中、曲がり角で激突。猛ダッシュしていた皓一くんにぶつかられたのだ。
  余程急いでいたのか前傾姿勢になっていた皓一くんは、私の胸元へ正面衝突。
  押し倒される形で、もつれて倒れこんでしまった。

「すっ、すいません! 大丈夫ですか!?」

 暫し私の胸に顔を埋めたまま呻いていた皓一くんは、
  その状態を悟るや否や凄まじい勢いで飛び退き、傍目にも真っ赤な顔をしたまま
  即座に私に手を差し伸べてきた。
  呆然としていた私は、促されるままその手を取る。
  細めの体つきとは裏腹の強い力で引き上げられた。

「ケガ、ないですか? 痛いところとかもないですか?」

 酸欠気味に荒い息を繰り返しながら、皓一くんは私に話しかける。
  心からすまなそうな表情と真摯な瞳は、はっきりと私の目を捉えていた。

‘ドクン’

 心臓が不自然に跳ねた。こんな真剣な顔で私を見る男の人はこれまでいなかったからだろうか。
  父でさえ、私をこんな風に見つめてきたことはないと思う。
  内心の不自然さを必死に押し隠し、私は大丈夫だよ、と微笑みかけた。
  実際、車もかくやというほどの急ブレーキをかけていた皓一くんのお陰で、
  私は尻もちをついた程度の痛みしかなかった。
  むしろ大丈夫じゃないのは皓一くんのほうだと思う。
  靴からは摩擦熱による蒸気が立ち上っているのが見えたくらいだから。
  それでも、私の言葉を受けて心から安堵したことが分かる溜息をつくと、
  良かったです、と控えめに微笑んでくれた。

‘ドクンッ’

 心臓が、もう一回り大きく跳ねる。
  ヘンだ。こんな至近距離に男の子がいれば間違いなく嫌悪感を催すのに、それがない。

「えっと・・・ホントにすみませんでした。その・・・とんでもなく失礼なことをして・・・」

 改めて、彼が頭を下げた。失礼なこと、のくだりで声が少々裏返る。
  それが私の胸に顔を埋めたことを指しているのはすぐに分かったけど、
  やはりというか嫌悪感はない。これが他の男の子だったら、
  私の身体でいやらしいこと考えてるんだ、と嫌な気持ちになるのは間違いないと思うのに。
  頭を上げた皓一くんは、最後にもう一度すみませんと言って走っていった。
  酸欠と照れでまだ赤いままになっている顔だけど、それを隠すことなく、しっかりと私の目を見て。

 私は彼が走り去った後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。
  別れ際の私を見つめる彼の瞳、三度高鳴った心臓――
  それが、嫌悪を抱かなかった理由を教えてくれた気がして。

 今まで告白してきた男の子は、私の身体にしか興味がないくせに、
  それを全く認めようとしない人ばかりだった。
  やましい気持ちでいっぱいのくせに、そんな気持ちが全く無いように振る舞い、
  上辺だけの美辞麗句で紳士的な態度をアピールする。
  エッチなことなんて全く考えてないかのように。

 私だって高校生ともなれば「そういう」お付き合いがあるのは分かる。
  彼らがそれを求めているのはいわずもがな、なのに。
  私の顔を見つめる瞳が、ともすれば目線を胸元へ下げているのはバレているのに。
  身体ばかりで『私』を見ようとせず、あまつさえそれを誤魔化そうとする。
  正直に「エッチなことさせて欲しい!」と言われた方がまだマシだ。・・・させないけど。

 だから男の人は信用できないと思っていた。同性愛に走るつもりはこれっぽっちも無いけれど、
  異性に恋するなんてそれ以上にありえないと思っていた。自らの望みとは裏腹に。

 皓一くんの狼狽ぶりを見れば、私を押し倒してやましい気持ちを抱いたのは明らかだ。
  でも彼は、それを誤魔化さなかった。認めた上で謝ってくれた。ちゃんと私を「見て」。
  身体だけが私じゃない。でも、身体を抜いても私じゃない。

 やっと分かった。私は、全てをひっくるめて私を見てくれる人を欲していたんだ。

 私を本当の意味で女の子扱いしてくれた初めての人。ネクタイの色と制服から、
  同じ学校の二年生だと分かった。

(同じ学校の後輩、か・・・)

 もう一度会いたい。自分の反応が知りたい。何より、彼の反応が知りたい。

 あれほど嫌いだった異性のことで頭を一杯にして、私は春の陽気の下のんびりと学校へ向かった。
  ・・・その日は、三年目にして初めての遅刻。
  皓一くんが急いでいたのはそのためだったのだろう。
  素行で先生に注意されたのも初めてだったというのに、
  私の心は昼休みや放課後に後輩の少年を探す算段へと飛んでいたのだった。

4

 昼休み。お弁当を食べた私は早速席を立つ。当然、朝の後輩くんを探すためだ。
  二年の教室がある二階を、昼の散歩を装ってゆっくりと練り歩く。
  昼休みのため窓も扉も開け放たれており、中の様子は丸見えだ。

(あの子はどこかな・・・?)

 よく考えれば、同じ制服、似たような背格好の男子が狭い空間にたむろしている
  教室という空間で、それほど際立った特徴の無い一人を探すのはとても大変な作業だ。
  でも私には、居れば見落とすはずが無いという確信があった。
  父と祖父を除けば、彼は私の目に個別の色を持って映る唯一の男性だから。

(でも、お昼休みは学食とか他のところでお昼を食べてる可能性もあるよね・・・)

 二年六組まで探して見つからず、その可能性に思い当たる。
  確実に探すなら放課後の方がいいだろう。
  でも、午前の授業中ずっと今の時間を楽しみにしてきた私にとって、
  更に待つのは地獄の苦痛に思えてならない。たった3時間足らずのことなのに。
  だから、消沈気味に二年生の最後の教室である七組を見やった私は、
  思わず声を上げそうになるのを必死に堪えた。

(居た―――!!)

 机に肘を突き、気だるげに外を眺めている少年。朝とは比べ物にならない気の抜けた顔。
  だが、そんな表情さえも、今の自分には胸に響く。
  それに逆に考えれば、朝の自分を心配する様子がどれだけ真剣だったかが分かるというもの。
  でも、それだけで満足していられない。私はもう一度彼と向かい合いたいのだから。

(でも・・・どうやって?)

 声を掛ける理由が見つからない。朝の衝突でもし私が加害者だったら、
  改めて謝ることを口実に呼び出す事も出来るだろう。
  でも、被害者側である私から会いに行くのは理由が無い。
  そんなことをしたら、彼の心に無用な圧迫を掛けてしまう。
  マイナスな印象をもたれることは、極力避けたかった。

 今回は、クラスと席が分かっただけでよしとしよう。それさえ分かれば、突破口は開けるはず。

(二年七組、窓から二列目で後ろから二番目の席・・・
  二年七組、窓から二列目で後ろから二番目の席・・・)

 忘れないよう、呪文を唱えるように呟きながら、私は教室へ戻った。

 放課後はHRが終わるや否や教室を飛び出し、
  二年生の靴入れを視界に収めるようにして昇降口に張る。
  目的の人物が来たらすぐに動けるように。
『帰ろうとしたところで偶然に鉢合わせちゃおう作戦』だ。
  しかし、待てども待てども彼は来ない。既に一時間以上経ち、時間は4時半を回っている。

(もしかしたら、部活なのかな・・・)

 十分にありえる。というより、考えてしかるべき可能性だ。
  玄関で待つよりまた教室に行ったほうが的確だったのに、そんなことも見落とすなんて、
  私は本当に彼のことで頭がいっぱいになっているらしい。
  そう思い当たると、待っているのが酷く苦痛に思えてくる。そうだ、自分から探しに行こう。
  見つからなければ、下校時刻の6時くらいにまた戻ってくればいい。
  早速彼を探してみる。・・・といっても見つからない。体育館を覗いてみていなかったので
  文化系の部活なのだろうが、
  彼らは基本的に部室に籠っている。まさか一つ一つの部室を開けて確認するわけにもいかない。

(そんなの分かりきってたことなのに・・・私、行き当たりばったりね。
  本当にどうしちゃったのかしら・・・)

 肩を落として歩く私は、何とはなしに図書室に入る。
  久しぶりに本の一冊でも借りていこうかと思って。

 ・・・神様はどうしてこんな演出が好きなのかしら? その時の私は思った。
  昼休みでもそうだけど、諦めかけた正にその時になって答えをくれる。
  図書室の窓際の一角。人のまばらな図書室の、更に人が居ないその場所で、
  皓一くんがノートとテキストを広げて黙々とペンを動かしていたのだから。

 

 絶好のチャンス。周りに人は誰も居ない。図書室は基本的に私語厳禁だけど、
  小さな声で話すくらいなら咎められないし。
  大きく深呼吸すると、私は何気ない風を装って話しかけてみることにする。

「あら・・・あなたは・・・」
「え・・・?」

 皓一くんが顔を上げる。2,3秒私の顔を見て――

「あ・・・!」

 声を上げかけ、すぐに口を押さえる。周りに聞き咎められていないかと思ったのだろう。
  ――何だか可愛いなあ・・・。
  誰も聞いてないことに安堵すると、彼は改めて私に向き直った。

 

「今朝ぶつかった人・・・ですよね? まさか同じ学校の先輩だったなんて。
  急いでたから気づかなかった・・・」
「私も今あなたを見つけて驚いたわ。偶然ね」

 それは半分嘘なのだが、穏やかな微笑を浮かべたまま、私は平然と言ってみせる。
  その笑みの反面、内心は凄い勢いで早鐘を打っていた。
  思えば自分から男の人に話しかけることなど初めてなのだ、それも仕方ない。
  それでも、包み込むような微笑は決して崩さない。穏やかで優しい先輩だと思われたくて。
  頼れる年上の女性と思われたくて。
  笑みを保つことは、これまで告白してきた男子生徒や、社交界で馴れ馴れしく近づいてくる
「自称良家の子息」の相手で鍛えている。
  今だけは、そんな嫌悪の対象たちにほんの少し感謝できそうだ。

「勉強してるの? 放課後なのに熱心なのね」

 ごめんなさいで話を始めたくなかった私は、皓一くんが驚いている間にノートを覗き込む。
  数学のようだ。ノートには書き込んでは消した数式の痕が残っていた。
  皓一くんは恥ずかしそうに苦笑する。

「あ、これは。次の授業で小テストなんですけど、俺この範囲のとき寝てたから・・・」
「そうなんだ。・・・ねえ、良かったら私が教えてあげよっか?」
「えっ・・・!?」

 驚きの声を上げた皓一くんの返事を待たず、私は隣の席に腰掛ける。
  驚きからか、皓一くんは顔を僅かに赤くして身体を退いてしまった。
  私は皓一くんが退いた分だけ、ずずいっと身を乗り出してみる。

「ね、どうかな?」
「えっと、お願いします・・・。だから、ちょっと離れて・・・」

 本当はすぐにでもお話したかったけど、まずは彼の勉強を見てあげることにした。
  それに、こうやって親密度を上げておけば、
  後でより自然に話せると思うし。
  最初はすぐ隣りに私が居ることに落ち着かない様子だった皓一くんだが、
  集中してくるとそれも無くなる。
  どうしても分からないところは時折質問してくるけど、それ以外は聞いてこようとせず、
  真剣な表情でノートに向かっている。
  実質、私が教えたところはほんの少しで、殆ど彼の横顔を眺めていただけだったのだが、
  退屈なんてことはなかった。

(彼は・・・とっても素直な子なのね・・・)

 横顔を見ながら思う。目の前のものに誠意を持って全力で取り組み、
  または反応する人なのだろう。
  今朝の私への心配、再会したことへの驚き、目の前のテキストへの集中。
  人だろうが物だろうが関係ない。
  ちょっと危なっかしくて、守ってあげたいなんてさえ思える。
  その素直さを突かれて、危険な目に遭ったり悪い人に騙されたりしないかと心配になる。
  今朝だって、ぶつかったのが私だからよかったけど、もしそれ以外の、
  例えば性質の悪い女だったりしたら―――。

‘ズクン’

 心臓が鳴る。けれどそれは、今朝のような高鳴りではなく、
  何か重いものが溜まるような鈍い痛み。
  その痛みは、浮かべることに慣れた私の微笑の仮面をも剥ぎ取ってしまいそうになる。

「・・・先輩? どうかしたんですか?」

 皓一くんが心配そうな顔で覗き込んでいた。私は慌てて微笑を浮かべてみせる。

「だ、大丈夫よ。ちょっとボンヤリしちゃっただけだから。それより、終わったみたいだね」

 閉じられたノートとテキストが見えた。皓一くんははい、と答えると、
  椅子ごと私の正面を向いて頭を下げる。

「本当に、助かりました。ありがとうございます」
「ううん、私は殆ど何もしてないよ。むしろ、私こそあなたの頑張りに感心しちゃった。
  ・・・ねえ、良かったら途中まで一緒に帰らない?」
「そう・・・ですね。そうしましょうか」

 一緒に勉強したという事実があるからか、皓一くんもすんなりと頷く。
  夕暮れの中、誰かと一緒に帰るだけでこんなに嬉しくなるものなんだと、
  私は喜びをかみしめていた。

 

 次の日から、私は足繁く皓一くんの所に通った。さすがに教室に押しかけるのは気が引けて、
  昇降口の前で待っていたりした。
  皓一くんは帰宅部で基本的にはすぐ帰るので、それで大抵会えるし。
  一ヶ月も経つ頃には、教室の前で待つことさえも平気になった。
  教室からは、何人かの男子生徒が私を指差して、皓一くんをからかっている。
  皓一くんは赤くなりながらもそれらをあしらい、カバンを掴んで私の元へ走ってくる。
  それだけのことが、酷く嬉しい。

 
  ある日、私はいつものように二年七組前で皓一くんを待っていた。
  皓一くんはクラスメイトの女の子と話している。
  その光景自体は初めてでもない。何か用件があるのだろう。
  すぐ終わって私のところに来てくれるはずだった。
  でも、来ない。もう5分はその女子と話している。

(どうして? 私が待ってるんだよ? どうして来ないの? クラスの用件か何かでしょ?
  そんなに掛かるものなの?)

 更に五分待つ。まだ話している。
  皓一くんが笑った。穏やかな笑みだ。いつも私に向けてくれているもの。
  不機嫌そうな顔で彼と話していたその女子の顔が、その表情のまま赤くなる。

(どうして? どうして私以外の女の子にそんな風に笑うの?)

 自分勝手な思いが胸を過ぎるが、どうしてかそれを抑えられない。
  こんな感情は知らない。だから制御の仕方が分からない。

‘ズクンッ’

 胸が激しく軋む。それはいつかの図書館での比ではなかった。
  この場にはいられない。いたくない――。

 

 次の日、重い気持ちのまま教室を出た私は、皓一くんに会いに行くか悩んでいた。
  もし会えば、一晩溜まったしこりが噴き出してしまいそうで。
  でも、その悩みは無意味なものになった。三階から二階に降りたところに、
  皓一くんが居たからだ。
  ずっと上を注視していたらしく、すぐに私に気づき、声を掛けてくる。

「あっ、二条先輩! 今から帰りなら、ご一緒しませんか?」

 もしかして、私を待っていてくれた? 昨日私が先に帰ったのを気にして?
  だからわざわざ自分から?
  嬉しさから思わず彼に飛びつきたくなるのを堪え、私はいつものように微笑んで頷く。

「昨日はすみませんでした、先輩が待っていてくれたらしいのに・・・」
「いいのよ、皓一くんもたまにはそんな日もあるでしょうし」

 嬉しさから昨日のしこりも忘れて、私は鷹揚に微笑む。しかし・・・

「昨日話してた奴、倉地っていうんです。中学の頃からの付き合いなんですけど・・・」

‘ズクン’

「どうしてか、俺によく構ってくるんですよね。あ、これは中3の時の話なんですけど・・・」

‘ズクン’

「高校に入ってからも・・・」

‘ズクンッ’

「それで昨日は・・・あれ、先輩?」

 これ以上見ていられない、困ったような、それでも嬉しそうな彼の顔を。
  これ以上聞いていられない、いつになく多弁な、彼の弾んだ声を。
  私は知らず早足になっていた。走りこそしないが、並んでいた皓一くんをどんどん引き離して
  先に行く。

 

(そんなに楽しかったの、その子と居るのが? 私といるよりも?)

 そうかもしれない。確かに皓一くんは一緒に居ても平気な唯一の男性だけど、
  それで気の利いたおしゃべりまで出来るようになるわけじゃない。
  今時の流行も知らないし、興味も無い。もしかしたら、私は彼にとって迷惑だったのだろうか。
  そう思うと、微笑みの仮面をかなぐり捨てて泣いてしまいたくなる。

「先輩、ちょっと待って・・・!」

 皓一くんが焦った様子で追いかけてくる。それでも私は背を向けたまま。
  今の顔を見られたくなくて。
  それが一分ほど続いただろうか。皓一くんはそんな私に愛想を尽かせて立ち去ることも、
  怒ることさえせず、追いかけてくる。
  伺うような弱めの口調は、自分の何が私を怒らせたのかと、
  必死に考えていることをうかがわせる。

 対する私は、悲しみの代わりに歪んだ歓喜が湧き上がるのを感じていた。
  私が、私の思いが皓一くんを悩ませている。彼の心を占めて、振り回している。
  そう思うと、逆に私の方が落ち着いてきた。もうしばらくこのままで居てもいいけど、
  そろそろ許してあげるとしよう。
  私が立ち止まると、追いかける気配も止まった。その場でパッと振り向くと、
  彼の腕を取って両手で掻き抱く。

「ちょっ、先輩・・・!?」
「今日は、このままで帰りましょ? そうしたら許してあげる」

 咄嗟に振り払って逃げようとした皓一くんの腕を、しかし私はぎゅっと掴んで逃がさない。
  それどころか、大胆にも自分から胸の谷間に挟み込むようにしてホールドしてしまう。

「ぁ・・・ぅ・・・」

 茹でダコのように皓一くんが真っ赤になる。結局観念したように力を抜き、
  私にされるままに身を任せてきた。
  私への心配と情欲がないまぜになった横顔が映る。それがどうしようもなく愛しい。
  本当は私が勝手に怒って悲しんだだけなのだから、許すも無いもないのに。

 こんな歪んだ形の幸せ、知らなかった。

(ああ・・・私、恋をしてるんだわ)

 ようやく私は自覚した。きっと他人が利いたら、今更何言ってるの、と呆れるだろうけど。

 

 密着すると流石に熱い。もうすぐ6月だから、それも当然なのだけど。
(皓一くんが意識してくれるなら、ちょっときわどい格好をしてみるのもいいかな?)
  そう思うと、嫌いだった夏までもが待ち遠しく感じられてしまうのだった。

 ねえ皓一くん、気づいてる?
  あなたと出逢ってからほんの僅かな時間で、私はこんなにも歪んでしまったの。
  ううん、もしかしたら最初から歪んでいたのかもしれない。
  でも、その歪みの幸せさを自覚させたのは、間違いなくあなた。
  初めは真っ直ぐなあなたに対して自分は何て屈折しているのかと思ったけど・・・
  そんな私をあなたは受け入れてくれたよね。
  あの告白は本当に嬉しかった。人前であんな風に泣き崩れるなんて、初めてだったんだよ?

 それからは、お休みの度に遊びに行ったね。生まれて初めての遊園地は楽しかった。
  園芸のお店にも付き合ってくれた。「何を買おう?」と話を振られても分からないだろうに、
  それでも一緒に悩んでくれた。

 唯一不満があるとしたら、中々私に触れてくれないこと。
  折角短めのスカートやキツめの服でアピールしているのに。
  皓一くんが望むなら、いつでも押し倒してくれていいのに。エッチはおろかキスもしてくれない。

 でも、そこがあなたの誠実さでもあるんだよね。
  少し経てば、きっと私が待ってることに気づいて、私を奪ってくれる。
  あなたが私をどんなに大切に思ってくれているかは、うぬぼれじゃなく自覚できるもの。
  それは、たった一年離れ離れになる程度で切れちゃうほど弱いものじゃない。
  だから分かるよ。「別れよう」なんて、あなたの本意じゃないってこと。
  だって、たった1年待つだけだよ?
  運命の恋人を15年以上待ち続けたことに比べれば、そんなの大した時間じゃない。
  もしかして、昨日あれから誰かに相談とかした? 誰かに何か言われたの?
  でなきゃ、あなたがそんなこと言うわけ無いもの。

 ・・・だから言ったじゃない、皓一くんは素直だから、悪い人に騙されないか心配だって。
  真っ直ぐだから、心配事があるところを付け込まれはしないか心配だって。
  いいよ、私があなたを惑わすものを見つけてあげる。
  そして、二度と迷わないように消し去ってあげる。
  だって私はあなたの恋人で、頼りになる年上のお姉さんなのだから。
 
  だ・か・ら・・・もう二度と、冗談でも別れよう、なんて言ってはダメよ。

 ね? こういちクン。

5

 どんなに気が重かろうと、平日である以上学校へは行かなければならない。
  思い出すのは昨日の破局。結局俺は部屋の空気に耐えられず、逃げるように先輩の家を出た。
  そう、自分で選んだ別れだ。こうなることは納得ずくだったはずなのに・・・。

(慣れて・・・甘んじてたってことだよな。先輩と恋人同士でいることに)

 先輩との縁自体が切れたわけじゃない。でも、毎日のように昼休みを一緒に過ごしたり、
  一緒に帰ったり、休みの日には欠かさず共に過ごすということはもうない。思えばこの一ヶ月、
  先輩と顔を合わせなかった日は一度だって無かった。
  ここからまた一ヶ月も経てば、思い出も埋もれてこの気持ちも晴れるのだろうか。

 ともすれば暗い雰囲気が表面化しそうになるのを抑えて、いつも通り教室に入り、
  クラスメートに適当に声を掛けながら自分の席へ向かう。友人づきあいは浅く狭いので、
  別に誰かが寄ってくることもない。

(・・・いや、一人いたな。あ、見つかった。やっぱり来るのか・・・)

 今はぼんやりと物思いにふけっていたい気分だったのだが、それも断念せざるを得ないらしい。

「おはよう、皓一! あら、今日は辛気臭い顔をしてるのね」

 肩くらいまでのショートカットをなびかせる、見るからに活発そうな印象の少女が
  俺を見下ろしていた。
  倉地唯(くらち ゆい)。中学の頃からの俺の知り合い。何かと俺に絡んでくるヤツだが、
  それはあくまで俺の主観だ。
  倉地は男女問わず誰にでも明るく接する性格で、それはクラスでもあまり目立たない俺も
  例外ではない。
  だから、俺にとっては倉地は話す頻度の高い相手だが、倉地にとっては大勢の友人の
  一人でしかないと思う。
  ・・・のだが。

「別に・・・そんなことはないだろ? 俺が暗いのはいつものことだ」
「そう? まあ確かにそうだけど。・・・何となく、いつもと違う感じがするのよね。
  何ていうか、単に暗いってだけじゃなくて、こう・・・ダークなオーラを背負ってるっていうか。
  もしかして、二条先輩とケンカでもした? まさか別れちゃったとか?」
「・・・!!」

 

 自分で言って少し虚しくなったのはさておき。余計なお世話だと思ったのもさておき。

 やっぱりバレた。なぜか倉地には、俺のその日の気分が簡単にバレる。気分がいい時、
  怒ってる時、疲れてる時・・・全て見抜いてしまう。
  クラスでの倉地を見る限りでは、周りへの気遣いは上手いが、特別勘が鋭いという印象は
  受けないのだが。人は見かけによらないということか。
  だから今日も、いくら気を張っても、彼女には気が沈んでいることがバレるのではないかと
  思っていた。
  しかし、先輩のことまで見抜かれるとは思ってなかったので、俺はあからさまに動揺してしまった。
  これで気づかない奴はいないだろう。はっとして周りを見渡すが、俺たちの会話を
  聞いている生徒はいなかった。
  ほっ、と軽く息を付くと、気を取り直して倉地に向き直った。当の倉地は、目を見開いて
  口をポカンと開けている。どうやら先輩のことは
  あてずっぽうだったらしい。

 こんな間抜け面を、倉地のことが好きな男子たちが見たらどう思うかなーなどと他人事のように
  考えていると、倉地が詰め寄ってきていた。
  くわっ、という擬音が聞こえそうなほどに、見開いた目を更に大きくして俺を睨みつける。
  正に百年の恋も冷めるような形相だ。

「・・・嘘? 本当? ホントに? マジなの?  ほんっっっっっとうに!? 冗談じゃなく!?」

 段々とヒートアップしていく倉地。俺の胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄って叫ぶその様子に、
  周囲のクラスメートの視線が集まり始める。
  そりゃそうだろう、クラスの人気者の美少女が我を忘れて興奮し、叫んでいるのだから。
  ・・・だが。

「本当にせんぱ」
「!!!」

 咄嗟に倉地の口を塞ぐ。すぐ近くに居たのが幸いした。
  危ない・・・もしあのまま「先輩と別れたの!?」なんてあの音量で叫ばれてみろ、
  少なくとも二年のクラス中に響き渡るだろう。
  月とスッポンのカップルのうえ、毎日のようにべったりしてた俺と先輩だ。
  周りが結構強い関心を抱いていることは俺も知っている。
  実際、付き合い始めた頃の周りの反応は凄いものがあったし。
  そんな俺たちが何の前触れもなく別れたら、今度は周りがどんな反応をするか・・・
  考えただけでも恐ろしい。

 結局すぐに予鈴が鳴って担任がやって来たため、すぐにみんなそれぞれの席へ戻った。
  うやむやになって助かったと、俺は思った。

 ・・・とはいえ、真実を知った相手までは誤魔化せない。放課後、俺は倉地に連れられて
  屋上に来ていた。
  西からの日差しがきついそこは、俺たち以外には誰も居ない。
  HRが終わるや否や、倉地は一緒に帰ろうという友人の誘いをやんわりと断り、
  いつになく真剣な瞳で俺の席へ来た。
  用件は分かっていたが、よく考えれば倉地に先輩とのことを話す筋合いはない。
  だが雰囲気に呑まれたからだろうか、素直についてきてしまった。
  バタン、と重い屋上の扉が閉まり、それに背を預けるようにして倉地が振り向く。
  何故か、逃げ場を断たれたと感じた。

「で・・・本当に別れたの?」

 真剣な瞳はそのままに、朝とは対照的な静かな声。
  真意はともかく、倉地は真面目に聞いている。なら俺も、答えを言うかはともかく、
  それに誠実に応える義務がある。

(どうするかな・・・)

 などど思ってみたものの、答えは既に決まっていた。
  倉地にだけは話そうと思う。コイツには先輩と付き合ってる間も色々相談に乗ってもらっていたし、
(といっても大抵は、『あんたじゃ二条先輩とは釣り合わないって』で締められるのだが・・・)
その以前からも色々世話になっている。
  例えば文化祭などの行事、あまり積極的に人の輪に入らない俺を引っ張ってくれたのは倉地だった。
  親しい友人こそいないが、不自由なくクラスに溶け込みクラスメートともそれなりに仲良く
  やれているのは倉地のお陰といっても過言ではない。
  そんな倉地だから、話してもいいんじゃないかと思うのだ。

 とはいえ、それが言い訳に過ぎないことも分かっている。
  本当は、辛いことを自分の胸だけに抱え込むのが苦しいだけだ。
  誰かに聞いて欲しい、俺は間違ってないといって欲しいのだ。
  ・・・なんて弱い、俺は。
  俺を心配してくれる倉地の好意を逆手に取るような真似をして。それでも俺は、
  倉地に事の顛末を話した。先輩のことも、全て。

「そっかー、ホントに別れちゃったんだ。だから言ったじゃない、釣り合わないって。
  住む世界が違うのよ」

 かねてから自分が言っていた通りになったからか、倉地は上機嫌なうえにいつもより多弁だ。

「高校を中退してアメリカに留学でしょ? それってこんな公立高校にこれ以上通う必要が
  ないってことじゃない。
  本当なら私立のお嬢様学校に行ってるような人よ。実際、二条先輩の家って世界的にも
  結構有名な実業家だし」
「そ、そうなのか? 確かに家も大きいし、お金持ちのお嬢様だとは思ってたけど・・・。
  世界的に、だって?」
「そうよ。ま、皓一のことだから知らないんじゃないかと思ってたけど」
  確かにそこまでは知らなかった。先輩も何も言わなかったし。
「先輩に告白した連中の中には、単に美人の先輩狙いってだけじゃなくて逆玉狙いの男も居たの。
  だからあんた、一部の連中には結構睨まれてたのよ」
「・・・・・・」
「本当に、別れて正解よ。もしあんたも逆玉狙いだったらそういう奴らと戦わなきゃいけない
  だろうけど、そんなんじゃないでしょ?
  第一、そんな大きい財産をどうしようって甲斐性が皓一にあるとは思えないし」

 どさくさに紛れて酷いことも言っているが、倉地の言葉は主に俺の判断を支持するものだった。
  実際、逆玉うんぬんに興味は無い。

「とにかく、これでよかったの。傷が浅いうちでよかったじゃない」
「・・・まあ、そうかもしれないけど。そんなに嬉しそうに言うことはないだろうが」

 何だかんだいっても失恋だ。それも初めての。本気になれる予感のあった恋だ。
  我ながら勝手ではあるが、ショックだったのは間違いないのだ。
  それを察したのか、倉地が慌てたように言葉を紡ぐ。

「ま、まあつまり、よ。人間、身の丈にあった相手が一番いいってこと。
  皓一も早く二条先輩のことは忘れて、新しい出会いを探したほうがいいよ。
  そういうのって、結構身近に転がってたりするものだし」
「簡単に言うなよな・・・。第一、俺の人間関係のどこにそんなのが転がってるんだよ」

 倉地のように交友関係が広い人間ならともかく。倉地だって俺の対人関係の薄さは知ってるだろうに。
  やや不機嫌に言い放つと、なぜか倉地は急に黙り込み、視線を彷徨わせ始めた。
  夕日のせいで顔色ははっきりとは分からないが、もしかして照れているのだろうか?

「倉地?」
「た、例えば・・・今あんたの目の前に居る、可愛い女の子・・・とか、さ」

 俺は思わず目を丸くする。倉地も自分のあまりにあからさまな台詞に照れたのか、
  ばっ、と俯いてしまった。
  そこまで照れるくらいなら言うなよ、という内心の突っ込みと共に、
  俺は思いのほか落ち着いた心で倉地の思いやりを悟っていた。
  俺なんか相手に、冗談だとしても照れてしまうような言葉を言ってまで励まそうと
  してくれているのだ。
  もしかしたら、終始上機嫌かつ多弁だったのも、俺を暗くさせないためだったのかもしれない。
  ならば、俺も元気に振舞って見せないと。せめて倉地の前では。
  そうだ、ついでにこれも。今日話を聞いてくれた、せめてもの礼だ。

「そうだな、それもいいかもな。じゃあさ、これ・・・一緒に行かないか?」

 そう言って、一枚のチケットを差し出す。遊園地のチケットだ。・・・
  明日、休日の土曜に先輩と行くはずだったもの。

「え・・・皓一・・・?」

 戸惑った様子で、倉地は俺とチケットを交互に見る。普段の倉地からは想像も出来ない
  小動物のような仕草がほほえましい。

「全アトラクションのフリーチケット。明日限定なんだけど、一緒に行く相手の都合が
  悪くなってさ。勿体ないけど一人で行ってもつまらないし。
  だから一緒に行かないか? 俺じゃ役不足かもしれないけど、食事を奢るくらいはできるし」

 こんな爽やかなお誘いは俺のキャラじゃない。拒否反応が起こりそうなのを必死で耐え、
  倉地の言葉を待つ。
  しばらく呆然としていた彼女だが、すぐにいつも通りの元気を取り戻すと、
  チケットを手に取り大切そうに胸に掻き抱く。

「うんっ! 折角だから誘われたげる! 根暗の皓一からデートのお誘いなんて、
  一生に一度あるかないかだもんね!」

 そして、満面の笑顔。見慣れたはずの笑顔なのに、なぜか胸が高鳴る。彼女のこんな‘綺麗な’
  笑顔を見たのが初めてだからだろうか。
  その日は、分かれ道まで倉地と一緒に帰った。教室前に先輩の姿はなく、
  だが俺はそれを気に留めず、それどころか家に帰るまでずっと明日のことと
  倉地の笑顔に思いを馳せ、先輩のことを思い出しもしなかったのだった――。

2006/08/25 To be continued.....

 

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