INDEX > SS > うじひめっ!

うじひめっ!



1

 真夏にコンポストを開けて覗いたことがあるだろうか。
  ほら、庭なんかにあって、生ゴミを放り込んで堆肥にするっていうあの箱だ。
  真夏。
  生ゴミ。
  この二単語から連想されるものを想像してほしい。
  じっくり。とっくり。脳の襞までねぶるように。
  ……想像していただけたかな?
 
  なら、我が悪友のバカこと梨本良治がうっかりコンポストを蹴り倒してしまったとき
  何が起こったか、詳しく説明するまでもないことだろうと判断する――

「うひぃやああああ」
  悲鳴が挙がった。その主が良治のバカだったか俺だったか、記憶が混乱していてよく覚えていない。
  エアコンレスの気が狂うような暑さの中で『餓狼伝』と『獅子の門』を立て続けに読みまくった
  良治のクソ野郎は瞬間的に錯乱を生じ、あたかも己がいっぱしの格闘家であると思い込んだ末、
  顔を板垣画風に歪めつつ「おきゃあ!」と謎奇声を発してへなちょこ右ミドルキック
(恐らくハイを放とうとして腰までしか上がらなかったものと推測)を繰り出し、
  家庭農園脇に安置されていたコンポストを痛打した。
  そのとき俺は真上からギラギラ光と熱を降り注がさせる太陽を何の気の迷いでか
  つい直視してしまい、
「うおっ、まぶしっ」とちょうど顔を背けたところで。
  つまり反応している暇がなかった。
  足元へ生ゴミと蛆虫をふんだんに盛り込んだ堆積物が浜辺の波みたいに押し寄せると、
  為す術もなく倒れた。
  はっきりしているのはそこまでだ。そこからは記憶が半ば定かじゃなくなっている。
  魔軍の侵攻……と、ファンタジー小説ならそんな章題を付けるに違いない阿鼻叫喚がしばし続いた。
  近所迷惑も甚だしく、もちろん後で文句を言われてたっぷり謝ることになった。
「おおおっ」
  俺みたいにゴミと蛆にまみれることはなかったが、余波なのかほんの一匹だけ
  良治のボケカスんところまで辿り着いた蛆虫がいた。
  他と比べてひと際小さく、弱々しげで、のろのろと儚げに蠢いていたことが
  妙に記憶に焼きついている。
  反射行動だろう。即座に梨本“バリューレス”良治は足を振り上げ、そのまま踏み潰そうとした。
「―――!」
  あのとき自分が何を考えていたのかよく分からない。咄嗟の勢いで手を伸ばし、
  ドーム状に指を曲げて蛆を包み、ぐっと土を掻く形で保護してしまった。
  そこに良治マストダイ男の靴裏が来た。
「ギャバアアァッ」
  悲鳴が挙がった。我ながらハリウッドのアクション映画に登場して一分でやられる
  悪党にも似た太い叫び。
「うおっ、ちょっ、なにしとん和彦!?」
  良治が目を丸くしたのも、もっともだ。わざわざ手を伸ばして奴の足に踏まれにいったのだ。
  普通に考えればまずやらない行為。
  良治はその腐った思考回路から「こいつ実はMじゃね?」とかマジで疑ったはずだ。
  繰り返しになるが、本当に何を考えてあんなことをしたんだかまったく分からない。
  俺は「虫も殺さぬような」というより、事件を起こしたらワイドショーで
「あいつはいつかやると思った」と好き勝手に言われそうな、
  至って根が暗くて戦争映画やB級バイオレンスの悲惨かつ悪趣味な情景を何度も再生して
  鑑賞するタイプの思春期少年である。若気の至りが当年でさえ痛々しく思えるダメオタである。
  蛆虫一匹を見殺しにしたところで心が痛む道理もない。
  なのに。なぜか――手が動いていたのだ。
  激痛に喘ぐ掌の下、無事に守り抜かれた蛆は、悶え回る俺も知らぬげにのそのそと這っていった。
  良治と飽かず口喧嘩しながら元に直したコンポストへそいつが戻ったかどうか、
  蛆を見分ける能力のない俺にはどうにも知りようがないというか、
  たとえ知ることが出来たとして、どうでもいいことだった。

 どうでもいいことだった、はずなんだが……。
  翌朝、宅配便が届いた。両親が不在の折で、夏休みだからと惰眠を貪っていた俺は
  チャイムに叩き起こされ不機嫌になりながら受領のサインを汚い字で書いて、
  俺の字よりも小汚いダンボールを受け取った。
  中元シーズンだ。何か通販を頼んだ覚えもないし、父か母の知り合いが贈ったものだろう、
  と思いながら中身が気になる俺は宛名を見てたまげた。
  「木更津和彦 様」――俺宛だった。
  訝りながら差出人と品名を確認するが、どちらも空欄。
  怪しい。怪しすぎる。
  いかにもそこらへんで拾ってきた感じのダンボールが、覚えのない時期に送りつけられる――
  事件の予感がした。前夜に切断された手足が箱詰めで届くという推理小説を読んでいた分、
  箱を開けた途端に勢い良くぼろりと死体の一部が転がり出たりするんじゃないかって想像し、
  不謹慎にもドキドキした。
  小学生の頃、通信簿に「危機管理意識が薄いです」と書かれたくらい迂闊な人間ゆえ、
  迷いもせず爪を立ててガムテープの端を浮かせ、べりべり剥がして速攻で開封しちゃったわけで。
  中に入っていたのは。
  その、なんというか。
「……女の子?」
  だったのである。
  真っ先に目に飛び込んできたのは銀の髪。光の具合によっては白く透けそうなほど、
  濁りのない色合いをしていた。
  昔、従妹に借りて読んだ少女マンガか少女小説に雨のことを「銀糸」と喩えた作品があったが、
  それに合わせて表現すると、か細く静かにしとしとと降る雨のような髪――だった。
  自分で言っていてさぶいぼが立ちそうだけど、まあそんなテイスト。
  箱を埋め尽くすほど長い銀髪を戴く頭部には、黄金に輝く冠が乗っていた。
  ティアラ、とかいうんだっけ。やたらと繊細な造型をしていて、
  触ったらぽっきり折れるのではないかと不安になった。
  全体を覆う髪の下には服がある。服というか、ドレス?
  白くて薄くてヒラヒラのフリルが我が物顔でのさばっている、
  恐ろしいくらい少女趣味のデザイン。イメージは正に「王女様」のノリ。
  こんなの、描くのが面倒臭くてマンガにだって出てこないだろう、
  と確信できる気合の入った代物だった。
  最後に。
  そっと視線を上げて顔を窺う。
  寝ているのだろうか。目を閉じ、すうすう微かな呼吸音を立てている。
  睫毛が長く、すっと鼻梁の通った顔立ちは、あどけないながらも綺麗に整っていて、
  今まで肉眼で見てきた女子たちのどれとも似ていない。
  外人さんだ。初めて、生で見る、モノホンの外人ロリータだ……!
  と、感激しかけたが。これが本物なわけ、ないじゃん。思わず苦笑が漏れた。
  何で銀髪ロリがダンボールに押し込まれてうちに来るんだよ。そんなのありえないでしょ。
  これはきっとあれだ、うん、あれ。
  何かの手違いか、それとも悪質な目論見で業者が勝手に発送した超リアルで
  やや大きめのドールなんだ。
  最近もそんなアニメがあったじゃないか。引きこもりの眼鏡少年のところに
  本物ロリよりちょっと小さいサイズの少女人形が届いて……っていう。
  きっとそれの真似なんだ。クーリングオフの期間が過ぎたらガンガン請求が来るんだ。
  まいったなぁ。早めに連絡入れて変なトラブルに発展する前に片付けないと。
  差出人は書いてなかったけど、きっと中にこっそり納品書を紛れ込ませているんだよ。
  それを見つけなきゃ。
「こいつの下か……?」
  恐る恐る手を伸ばす。造り物とはいえ、こうも精巧だと、
  彼女いない歴がそのまま人生の長さに直結する童貞にゃ刺激が強すぎる。
  なんだか指先が震えてくるのも制御できず、さらさらの銀髪に触れる。

 柔らかい。ふわっと手が沈み、こちらの産毛を淡く撫でてくる感触に背筋がぞくっとなる。
  バカップルの男の方がキモいほどに女にくっついて髪を撫でたり
  頬ずりしたりキスしたりする気持ち――
  それが一瞬で理解できてしまって、おののいた。
  おいおい……髪は女の命とかほざくけど、心理的にはむしろ凶器じゃないか、これ……
  あまりの手触りの良さに当初抱いていた目的を失念し、なでなでさわさわすること約三分。
  はっとなって髪いじりを中断し、指を引っ込める。
  野郎、なんてことだ……知れず、歯噛みした。俺は職人芸ってものを甘く見ていた。
  改めて見直し、確信する。こいつはきっとレディメイドの量産品なんかじゃねえ。
  スイスで時計職人をやっていた盲目の老人が一本一本、
  ウィーン乙女の髪を手探りで植えていったとかなんとか、
  NHKのドキュメンタリィ班がやってきてインタビューするアレなんだよきっと。
  「なぜ目が不自由なのにこんな作業を?」と訊かれるのにやれやれって首を振って、
「私はね、目で見て小手先で植える髪は偽物だと思うんだよ。髪は乙女の命。
  乙女の命は、職人の魂で植えるものだ。たとえ私は目が不自由でも、
  魂は――空を舞う鳥のように自由だからね」なんてしたり顔で
  うまいこと言ったつもりのコメントを字幕表示するわけ。
  ダメだ、混乱して変な連想してきた。NHKはどうでもいい。
  問題はこの緻密すぎる造型のドールだ。ヤバい、だんだん欲しくなってきた。
  今までフィギュア狂いのオタ友をフレンチ風の鼻に抜ける呼吸でせせら笑っていたのに。
  現在、その地獄へ落ちる瀬戸際。
  金銭的に見てフィギュア道は修羅の道。ここで引き返すためにも、
  早く返送作業を進めねばならない。
  心を鬼にし、くわっと目を見開いて手を伸ばす。魔性の髪を掻き分ける。
  指紋の渦が滑らかな感触に浸される。
  服のところまで来たのだろう。なかなか心地良い手触りだったが、心を奪われるほどではなかった。
  どうやら俺は髪フェチの傾向は強くとも着衣フェチに関してはそれほど大した属性じゃないらしい。
  箱と少女の隙間に指を潜り込ませ、よっと持ち上げる。
「!?」
  え、えっと……
  な、な……なぁんかとっても温かい気がするのですがっ!?
  ひ、人肌? 最近のドールは人肌の温度を再現する領域まで歩を進めているのかっ?
  科学の進化っていうか、欲望に忠実な人間の熱意って恐ろしいねー。
  ホント。ねー。
  ……そういえば。箱を開けたとき、これの顔を見て「寝ているのだろうか」って自然と思ったけど。
  すうすう、寝息が聞こえた……というより現に今も聞こえてくる気がするけど。
  き、気のせいですよなあ? これも何かの機能だよね? ね?
  俺の「彼女ほしい願望」が投射されてドールに魂が吹き込まれたとか、そんなことはないよね?
「あの……」
  と少し掠れ気味の声が囁いたりしてるけど。
「こ、これもボイス再生機能とか……」
「もしもし……?」
  見詰める先で。唇が動き、眉根は寄り、目は開かぬままながら「訊ねの表情」を形成していた。
  手には依然として温もりが伝わってくる。
  これも……表情をつくる機能?
  って、いくらなんでも機能高すぎるだろ。これが出来るならなんでホンダがあの程度なんだ。
  そろそろ現実逃避はやめた方がいい。認めねばならない。現実とは思えない事態を。
  これは――この子は――よく出来た、精巧極まりないドールなんかじゃなくて。
「お訊ねしてもよろしいですか……?」
  と伺われ。
「ハイ」
  反射で生返事。すると女の子は――ダンボールで箱詰めにされた、
  真実「生きている」少女は!――
  俺の腕の中で、くてんと首を横に寝かせた。
「いつになったらキスをなさるんですの……?」

 何かに焦れた女の子がキスをせがんできたら、そりゃ俺だって歯が当たるのも構わず
  鼻息荒らげてぶちゅうっと行くことは請け合いですよ。
  あくまで、理解の及ぶ日常範囲での出来事だったなら。
  さすがにこの状況では戸惑うより他ない。
「はあ……キス、ですか……?」
  と疑問文に疑問文を返してしまう。
「ええ。だって、こういう場合、殿方が接吻で起こしてくれるのが
  ロマンスというものなんでしょう?」
  こういう場合ってどういう場合なのか、きっちり説明して欲しかった。
  だけどもそれをうまく口に出すほどは頭が回らなかった。「はあ……」と答えるのみ。
「私、爺やにそう習いましたわ」
  言い切って、少女はやけに自信ありげな笑みを浮かべた。
  目を閉じたまま、猫口で「ふふん」と勝ち誇ってみせる。何でそんなに得意げなのだろう。
  綺麗で可愛い子を抱き上げた状態で、
  ちょっぴり胸が高鳴らないでもないシチュエーションだったが。
  疑問点が多すぎる。純粋に「ふにふにしたおにゃのこだー、わーい」と楽しんでる場合ではない。
「アノ、チョトイイデスカ?」
「はい? ……なんで急に片言なんですの?」
  しまった、改まった口調で質問しようとして、相手が外人さんっぽいから
  つい怪しげな日本語を発音してしまった。
  さっきから流暢に喋っているし、普通でいいのだろう。よく分からんが。
「一つ、いえ二つ……いっそいくつかお聞きしたいんですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、なんなりと」
  どんとこい、とばかりに胸を張る女の子。背筋を利用したからか、手に背中の筋肉が撓る感触。
「まず知りたいのは、えっと……」
「ああ! 私の名前ですのね? ごめんなさい、申し遅れましたわ。私は……」
「いや名前は後回しで良くて」
  言葉を遮り、さっきから気になっていたことをガツンとぶつける。
  髪で覆われていたこともあるし、てっきりドールだと思い込んでたからスルーしたけれど――
  さっきまで箱の中にきっちりと詰まっていた彼女の肩、それに腰をじっと眺め。
  勇気を振り絞り、口にする。
「なんで――手足がないんですか?」

 少女の四肢は欠落していた。

 肩から先の布地はひらりと重力方向に垂れ。腰の下はスカートも何もなかった。
  服の裾が股間を隠していた。
  だからこそ宅配できるようなダンボールに収まったし、モヤシの俺にも軽く持ち上げられた。
  切断された手足が送りつけられる、昨日読んだ推理小説の逆。
  両手両足のない女の子が、俺宛で送られてきたのだ。
  震える声で訊く俺に対し、銀の髪と金の宝冠とフリフリドレスで装飾された美肌少女は
  きょとんとした表情で。
「生まれつきですわ」
  何の屈託もなく返答した。
「ああ、そう……生まれつき、ですか……」
「そうですの。あと、」
  目も見えませんの――って。
  瞼を下げた顔をにこやかに綻ばせ、ころころと笑った。

 少女は「フォイレ」と名乗った。名前だけ。姓はないらしい。
  なぜかと問えば。
「私、蛆界の王女ですから」
  さらりと意味不明なこと言われた。
「……租界の王女?」
「『蛆』の『そ』ですわ。蛆の世界では今も王政が続いておりますの」
「いや、待てよ、ストップ」
「はい?」
「なんでここで蛆が出てくるんだ?」
「なんで、も何も……私は蛆虫ですわ」
  またもやさらりと言い切った。
「え? 文脈無視していきなり自己卑下?」
「し、失敬ですわ! なんで卑下とか言われるんです!?
  う、蛆虫が蛆虫と名乗って何が悪いんですの!?」
  突如激昂した。肩を震わせ、陶磁のように白い頬へさっと朱を昇らせる。
「だ、だいたいですねえ!!」
「は、はい!?」
「あなた、どういう謂れがあって蛆虫を愚弄の対象になされるのですか?
  お、おかしいでしょ!?世の中他にも種々様々な虫が存在するうちで、
  どうして私たちだけ名指しで罵倒なさるんですか!?」
  首を振り、髪を乱してまくし立てる。何かに憑かれた様子で、延々と。
  やべー。この子……電波?
  ダンボールに詰まってる時点でまともじゃないとは分かり切ってたが。
「死体に湧かれるのがそんなにお嫌なんですかっ!?
  しょ、食物連鎖って概念、知らないんですかあなた!?」
「どうどうどう、落ち着いて落ち着いて」
「私は……っ! 悔しくて悔しくて……っ!」
  開かぬ瞼の下からぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
  それは薄紅色に染まった頬に筋を引き、顎の先で溜まって雫となった。
  んー、あー。いくら電波でも、可愛い子を泣かすとなーんか罪悪感が……。
「あー、よしよしよし。分かった、分かったからほら、もう蛆虫バカにしないから。
  泣き止めよ、な?」
  小さい子にするみたいに懸命に頭を撫でて言い聞かせる。
  ぐすっ、ぐすっ、と鼻を鳴らし、涙が止まるまで五分ほど。
  腕も疲れてきたが、離すわけにもいかず我慢した。
「ごめん、なさい……つい……カッとなってしまって……」
  犯罪者の自供じみたことを言いながら、鼻の鳴り方も「すん、すん」程度に収まってきた。
  ホッとしつつも、彼女――フォイレという名乗りも果たして本名なのか――の電波発言に
  内心首を傾げる。
  思春期の女の子が「今のわたしは本物じゃないの。本物のわたしは○○よ」
  とか言い出すのは中年男性がオヤジギャグを飛ばすようなもので
  どうにもならない宿痾だという話は聞いたことがある。
  しかし、その場合○○に当てはまる単語は大抵理想の高さを象徴して
  聞く者を失笑させるチョイスになるそうで、いくらなんでも生まれつき手足がなくて
  盲目だからって蛆虫とか言い出すのは――
  うーむ。どうなんだろう。身近に肢体不自由者はいないし、判断不能の問題だ。
「というか、この子がうちに来た理由って……?」
  思わず口ずさんでいた言葉を、フォイレ(便宜上こう呼ぶ)は耳ざとく拾い上げた。
「和彦さんを伺った理由ですか?」
  和彦さん和彦さん和彦さん和彦さん和彦さん和彦さん和彦さん……
  こんな状況下とはいえ、生まれてこの方、年頃の婦女子に
  事務的な呼び出し以外で発音されたことのない名前をいともたやすく口にされ、
  不覚にも涙ぐみかけた。
「それはですね、」
  目が見えないからか俺のそんな様子に気づく素振りもなく、フォイレは満面の笑顔。
「もちろん――恩返しです!」

2

「恩返しとな?」
「はい。先日、私が危ないところを助けていただいて……」
「んー?」
「ほら、和彦さんがしきりに『アホバカボケカス』と呼んでいらした方が
  私を踏み潰そうとしたときに」
  あ。もしかして、あれのことを言っているのか?
  といった次第で、ようやくこの時点で俺は前後の脈絡を把握した。
  良治が反射的に踏み潰そうとした蛆を、自分でもよく分からないままに守った昨日のこと――
  手を押さえて悶絶する俺を「大丈夫か!?」と助け起こしたあいつに、
「なんだってんなことを……」と不思議そうな顔をされても説明できなかった。
  俺自身、自分の気持ちがよく分かってなかったし、結果だけ取って「蛆虫を助けたかった」
  と言うのは、かなり恥ずかしい気がした。たとえあいつの内部で俺のM疑惑が高まるとしても、
  ただ「なんでもねえよ」とはぐらかして押し通すしかなかった。
  もう、自分でも忘れかけていたことだ。まさかあれが掘り返されるとは、予想だにしなかった。
  考える――俺以外で、あの場に居合わせていたのは良治だけだった。
  仮にあいつが「和彦が蛆虫を助けようとして俺に踏まれた」とかいう話を漏らしたとしても、
  範囲はたかが知れる。期間も一日しかないし、悪戯だとしてそれを実行に移すにはタイトすぎる。
  こんな子を見つけ出して、こんな服着せて、こんなダンボールに詰め込んで宅配便に出すなんて。
  下手するとお縄につく。
  だとすれば、この子は本当に……?
  鶴の恩返しを始めとして、助けたモノが人間になって恩を報いに来る話はひとつの類型ではある。
  が、それはあくまで伝承――フィクションとしてなら、だ。
  ここであっさり現実と信じてしまうのは、あまりにも、そう、
  業界用語で言えば「御都合主義」だろう?
  当然、俺もまだ信じてなくて、「誰がこんな手の込んだ悪戯を仕組むんだろう」
  と疑惑に駆られつつも早く問題を解決したくて「アー、ソレハドモアリガトネー」と
  超テキトーな返事を脊髄でかましていた。
「なんだまた片言になっているんですの?」
「気にしないでくれ。で、恩返しって具体的に何するわけ?」
  未だに状況が把握できないでいたが、とりあえず彼女の言う「恩返し」とやらが済んだら
  もう用事は終わりってことでさっさと帰ってくれるだろう。
  ぐだぐだ文句をつけるより満足させてしまった方が早い。
  しかし、この子、どうやって帰るつもりだ?
  まさか、またダンボールで郵送しろと?
  法律には詳しくないが、生きてる人間(本人曰く蛆だが)を宅配便に出すのは
  やっぱりまずくないか?
  そもそもどっからやってきたんだと――
「あの……」
  物思いに耽っていた俺に、フォイレが声を掛ける。
「あー、すまん、ボーッとしてた。で?」
  先を促すが、フォイレはもじもじと恥ずかしそうに蠢いている。
  やがて「決心しました」とばかりにぐっと顎を引いて、眉をきりりとさせる。

「すみません――おなかが空きました」

「……は?」
  くきゅるる〜、と短い胴体の真ん中あたりで音が鳴る。
  フォイレは耳まで真っ赤にした。
「何か食べさせてください……」
「………」
  消え入りそうな声で懇願する少女を、まさか放り出すわけにもいかなかった。

 冷蔵庫を開けてごそごそ「残り物でもいいかー?」と訊ねてみた。
「別に、なんでも構いませんよ」
  背後、クッションを敷いた椅子の上に安置したフォイレが答える。
「――腐っているならなんでも」
「ぶっ」
  自分は蛆虫だから――か? いくらなんでもそのジョークはきつくね?
  引きつる頬を持て余しながらめぼしい品はないかと漁っていたところ、提案が来た。
「良ければそこにあるものをいただけますか?」
  振り返り、彼女の顔が向いた先を確認する。シンクの脇の三角ポスト。
  まだコンポストに捨てに行く前で、そこそこに生ゴミが溜まっていて、軽く臭気を発していた。
「いや、さすがにこれは――」
「お願いします……!」
  押し問答は十分に及び、ひもじさのあまりふたたび泣き始めたフォイレを見て、
  俺も忍耐がブチ切れた。
  ええい、どうにでもなれよ、とヤケクソ気味に皿に生ゴミを盛り付けた。
  目の前に置いてやったら臭気のひどさに負けて演技もやめるだろうという俺の期待も裏腹に、
  フォイレは喜色満面。口を綻ばせ、「いただきますっ!」と叫ぶや否や、
  椅子の背もたれに体重を掛けてぎしっと軋ませ、反動でテーブルに向かう。
  ごんっ
  天板へ突き刺すように顎をぶつけ、衝撃で浮き上がった皿の淵を鮫の勢いでがっと咥える。
  そのまま身を捻り、慣性に乗って椅子からダイブ。
  体の前面を床にびたーんと叩きつけて着地した。
  咥えていた皿を離すと、犬食いというかなんというか、
  まあ手がないんだから当然口だけでわっしわっしと頬張りに行くわけで。ぶっちゃけおぞましい。
  破竹の速度でイーティングする彼女を止める暇もなく、俺は呆然とただ見ているしかなかった。
  く、食ってやがる……生ゴミを……演技なんかじゃなく、マジで美味そうに……!
  目の前で進行する生理的ホラーにひたすら震撼させられた。口元を押さえて吐き気を堪えた。
  そんな俺を尻目に食欲の鬼と化したフォイレは口と言わず鼻と言わず顔全体を汚しながら
  生ゴミを貪り食う。
  幼少期、気になっていた女の子のつくった泥団子を「うめえ、うめえよ!」と
  パーフェクトなつくり笑顔でがつがつ食ってみせて逆に嫌われた栄光なき片想いの旗手・良治が
  脳裏をよぎり、目頭が変に熱くなった。
「いよう、和彦! にーちゃんの友達から無修正のエロDVD借りてきたから見――」
  メチャクチャにタイミング良く、当の良治がチャイムも鳴らさずにうちへ上がり込み、
  ダイニングで繰り広げられている光景を目にするや絶句した。
  その手から女体の乱舞するトールケースがこぼれ落ちた。
  むべなるかな。このとき良治が遭遇した状況を整理してみよう。
  銀髪で外人っぽい顔つきの女の子が床に這いつくばって物凄い勢いで
  皿に盛られた生ゴミを貪っていて。
  どう見てもその子には手とか足とかいった器官がなくてダルマさんみたいな塩梅で。
  なぜかヒラヒラのドレスを着て頭には高価そうなティアレが乗っていて。
  それを、長年の腐れ縁である幼馴染みの男がぼんやりと見下ろしていて。
  うん、客観的に見て、どういう犯罪に該当するのか判断に困る状況だ。
「な、なんて言っていいのかわかんねーがとにかく鬼畜プレイー!?」
  良治の語彙も突破してしまった模様で。
  残念だな、奴の如き変態なら一言ですぱっと事態を言い表すような、
  俺の知らない別に知りたくもない世界の知識を解放して
  秩序回復の一助を担ってくれるものと期待してたのに。
  がっかり。

 非常にうろたえている人間を目撃すると、なぜか直前まで同じようにうろたえていた奴が
  冷静さを取り戻すのは人間心理の深みを実感させる。俺は良治を落ち着かせにかかった。
「待て、慌てるな。俺が今からたった一言で真実を説明するから耳をかっぽじってよく聞け」
「な、なんだ? 新手のドッキリとか、そういうオチか?」
  そうであってくれ、と祈るような顔で呻く良治。
  震える彼の肩に手を置き、優しく微笑んで言い聞かす。
「心配ない――彼女は蛆虫だから」
「説明になってねー!? つーか二言ー!?」
  なんだ細かい奴だな。彼女が自分で蛆虫っつってんだから、いいだろもう、議論とかは。
  そういう前提で進めてなるべく早く話を終わらせる方針で行こうや、な?
  俺の理性もいっぱいいっぱいで、もう限界なんだよ。
  化け物でも見るみたいに恐怖の視線を向けてくる良治は、
  そっと俺ん家の固定電話の受話器を上げながら呟く。
「い、いつかはやると思ってたんだ……和彦が好きな女子に告白して付き合うとか、
  そういうのは絶対ないだろうけど、いつかは道を歩いているちっちゃな子を拉致ってきて
  ニュース沙汰になるんじゃないかと……!」
  奇遇だな。似たような所感はお前に対しても抱いたことがあるぞ。
「け、けど、たった一日でここまでやるなんて……『このメス豚が!』
  みたいな罵りでSMプレイするのは想定のうちだったが、まさか四肢切断して
  『蛆虫』とか言い出す危険ゾーンに躊躇いなく踏み込むなんて!」
「勘違いだよ、良治クン。ふふふ……話し合おうじゃないか。ひとまずはその受話器を置きたまえ」
「く、口調も変だ! どうした、遂に狂ったか!?」
  と押し問答をやること数分、後ろでフォイレが食い終わって「ごちそうさまでした」を口にした。

 錯乱から回復した良治に話の一部始終を説明した。
  第一に、フォイレが略取されたのではなく自らの意志でもってうちに訪問してきたこと。
  第二に、フォイレの四肢欠落は生まれつきのものであって切断したわけではないこと。
  以上の二点に関しては了解が得られたが、第三として「フォイレは蛆虫であり、生ゴミ大好き」
  を付与すると異議が持ち上がり、「アホかお前ふざけるのもいい加減にしろ」と
  一蹴されるはめになった。
  そりゃ俺だって信じてないんだから仕方がない。
  でも、さ、ああやって目の前で生ゴミをたらふく食われちゃうと
  反論する気とかなくなっちゃわないか?
  もう真偽の別はともかくとして「フォイレ=蛆虫」の前提を受け入れて進めないと
  心が壊れちゃいそうですよ?
「ええい、虚ろな目をして遠くを見るんじゃねえ! 現実を直視しろよ和彦!」
  精神的な疲労困憊で敗北主義の諦念に至っている俺とは違って、
  まだまだ現実と戦えそうな良治は俺の肩を力強くがたがた揺さぶって思い直しを迫る。
  常識に満ち溢れた行動が、やけに眩しくて、俺は目を細めた。
  そこにくちばしを挟む声が一つ。
「あの、私は本当に蛆虫なんですけど……」
  口ぶりに困惑をたたえ、気弱げに自己主張するフォイレ。態度にどことなく怯えが覗くのは、
  昨日自分を踏み潰しそうになった良治がそばに佇んでいるからか。
  ……ダメだ、だんだん本気で彼女の話を受け入れてきている自分がいる。
「なあ良治、ここはガツンと一発殴ってくれないか? もしかしたらこの悪い夢が覚め――」
  喋っている最中に衝撃。鼻に鋭い痛みが炸裂した。
  温かいものが鼻腔の奥から噴き出し、人中を濡らす。痛い。痛すぎる。
  これは過つことなく現実だ。
「ってめえ、本気で殴りやがったな!」
「てめえが殴れっつったんだろーが!?」

 現実逃避的に掴み合いのボコスカウォーズを開幕させた俺ら。
「や、やめてください! どうか私のために争うのはやめてください……!」
  哀しげで切実な音色を伴った叫びをフォイレが放つ。
  他人が聞けばドロドロの三角関係と判断しそうなセリフだった。
  が、沸騰したらノンストップでトラブルと遊ぶ血気盛んなヤンチャボーイズは黙殺。
  聞いちゃいなかった。
「分かりました、分かりましたから! ちゃんと証拠をお見せしますの!
  だから喧嘩はやめてください!」
  ずるずると床を尺取虫の要領で這ってきてまで制止する少女の必死な姿に、
  さしもの俺たちも拳を潜める。
  ド素人ならではの見苦しいセメント格闘ごっこは中断となった。
「……証拠?」
「……って何?」
  荒い息を吐きつつ、訊く。
「あの、よろしければしゃがんでもらえますか?」
  縋るような目で懇願。戸惑ったが、断る理由もないので「あ、ああ」と従う。
  隣で良治も胡坐をかいた。
「立たれていますと、その、怖じる気持ちが強くなりますので……」
  言い訳らしきことを呟きながらもぞもぞとする。フリルが床に擦れ、微かな音が鳴った。
「一つ、お願いをします。これから起こることを、驚かずに受け止めてください」
  お互い状況を把握できてなかったが、良治と目を交わし、
  合意して「……分かった」と口を揃えてみる。
「では、よく見ていてくださいね? ほんの一瞬でございますから」
  注意してからすぅっと息を吸い込み、可愛らしい唇を躍らせて。

「まごっと まごっと う゛ぇるみす わ〜む♪ ステキな蛆虫に、な〜れ♪」

 全世界の魔女っ子を愚弄するような呪文が唱え終わった刹那。ドロンと煙が巻き上がった。
  大量の煙だ。視界の確保がまったく行えない。驚くなとは言われていたが、ぎょっとする。
  顔を背けた。噎せて咳を一つ二つ漏らす。目が痛み、涙が滲んだ。
  やがて噴き出した際の唐突さと同じく煙幕は急速に薄れ、視界が戻ってきた。
「いったい、なん――」
  半ば立ち上がりかけていた良治が半端な姿勢のまま息を呑んで固まった。
  彼の視線を追い、首を動かす。
「――え?」
  目を疑った。
  煙の晴れた向こう。さっきまでフォイレが腹這いになっていた場所に。
「う、じ?」
  ――そう。一匹の小さな蛆虫が転がっていた。
  蠕動し、非常に低速でよちよちと這っている。
(どうです、これで納得していただけましたか?)
  頭に直接響いてくる、いわゆるテレパシー系の声。それは紛れもなくフォイレのもので。
(ん……人間の方の前で変身するのは、ちょっと恥ずかしいですの……)
  羞恥を帯びた響きから、白い頬を紅潮させた彼女の顔が容易に浮かんでくる。
  呆然として呟いた。
「……煙幕を張って人体消失トリック?」
(……だったらこのテレパシーはどうやって説明をつけますの……?)

3

 この日をもって俺たちの現実は一部損壊した。
  ぎゅっとズボンの膝の生地を掴み、沈痛な面持ちで蛆化したフォイレを見遣る良治。
  ゆらゆらと、瞳の色が揺れている。
  もはや言葉もなかった。
「良治……」
  彼の内部で荒れ狂っているだろう感情は、きっと俺と同じ――
「まさしく……蛆っ娘萌え?」
  ――ものでは全然なかった。
「貴様……よりによって今更『萌え』とか言い腐りやがって……!」
  激昂した俺は意識せず立ち上がった。
(や、やめてください! 立ち上がらないで!)
「うっ……」
  悲痛な念がこめかみを突き刺し、あまりの不快感に呻いた。
(お、お願いです……こ……怖いんですの……!)
  ぷるぷると、縮こまって身を震わせる蛆虫。
  脳裏を「しゃがんでもらえますか?」という最前の声がよぎっていく。
  信じられないけれど、やっぱり彼女は昨日良治が踏み潰そうとして
  俺が咄嗟に助けてしまったアレで。
  だからそのことがトラウマになっていて、直立されると恐怖を覚えると。そういうことなのか?
「あ、ああ……ごめん……」
  ゆっくり、風を起こしたりしないようソフトな着地を心がけて腰を下ろした。
  ほっ、と息をつく念波が届き、こちらもなんだか最低限の余裕を取り戻すことができた。
(どうやら納得していただけたようですね)
「理解したくないが、理解せざるをえない複雑な心境だ……」
  溜息は止められなかった。先ほどまで電波と信じて疑わなかった彼女の言い分を、
  本当のこととして咀嚼せねばならないと痛感させられてしまった。
  ――んー、まー、あれだ。
  別に「この恨み晴らさでおくべきか」とか「くらわせてやらねばならん、然るべき報いを」とか、
そういう復讐に来たんじゃなくて、命を助けて恩返しに来てくれたんだから深く悩むこともないよな。
  昔話を参考としてケース・スタディを試みようではないか。
  最初に正体を明かしている時点で、これは「鶴の恩返し」というよりも「浦島太郎」の亀に近い。
  だとすれば、彼女はお礼として腐肉と蛆と蝿が舞い踊る「蛆宮城」に連れてってくれるわけだ。
  なるほど、そりゃあ、めでたいなあ。あっはっはっ。
(では早速、本題のお礼を、)

「謹んで辞退させていただきたく……!」

(即答でノー!? まだ詳しい説明もしてませんのに!?)
  おっと、先走ってしまった。何も本当に「浦島太郎」のパターンを踏襲すると
  決まったわけじゃないんだ。
  そもそもからして「蛆宮城」なんて存在するのかも不明だしな……是非今後も不明であってほしい。
「そ、そうだな。ま、その、なんだ。話だけでも聞いてやろうかな」
(内容次第で断る気満々ですのね……)
  はぁ、と溜息に似た波動が脳をくすぐった。

(その様子では私たちにとってのごちそうとかも召し上がってくれそうにありませんね?)
「絶対にノゥでございます」
(分かりました。では……あの……)
  もじもじくねくねと身を捩じらせる。蛆だから普通にキモいな。
「代替案があるなら言ってくれ」
(体で、とか……いかがです……?)
  肉体一括支払ときたか。
「ごめん、俺、蛆の餌だけじゃなくて蛆虫自体も食べる趣味がなくて……」
(そ、そういう意味で賞味していただきたいわけではありませんの!)
  全身全霊で上げる抗議の叫びがわんわんと頭蓋骨の内部に響き渡った。
  うわーテレパシーって結構うぜえ。
  もちろん、こんなこともあろうかと(ってのは嘘だが)日頃から
  エロマンガやエロ小説やエロゲーを嗜んでいる俺にしてみれば
  フォイレの真意は言わずもがな分かっている。
  「お礼に抱けッ」ってことだろう。エロマンガだったらだいたい4ページ目あたりだ。
  なんですか、俺も年頃の男子ですから、万が一そんな奇怪事に遭遇したらどうするかとか、
  それなりにイメージトレーニングは積んできてますよ。想定問答集だって百項はありますよ。

 脳内では完璧ですよ。

 けどさ。
  蛆化する前の、四肢と視力はないけど豊かな銀髪とふにふにした胴体、
  端整な顔立ちの頭部を有していた
  フォイレに直接言われていたら、まあ、少しはくらっとよろめいていたかもしれんよ。
  あくまであのときだったなら、な。
  今こうして本来の姿である蛆に戻った奴に誘われても、男子のロマンは疼かないというか。
  目の前で生ゴミ食われちゃってショックを受けたというか。端的に言って勃たないというか。
  いくら性的妄想で頭がパンパンの俺でも、蛆虫で筆下ろしをするのはどうかと
  真剣に迷ってしまうわけで。
  真剣に迷う時点でどうにもダメ極まりないんだが。
「遠慮させてもらいます」
  とりあえず、きっぱりと断っておいた。
(左様でございますか……)
  ほっとしたような、残念がっているような、
  ちょっと判別のつけがたい響きが届いて、すぐに散った。
(で、でしたら、何かお役に立てることを申しつけてください! きっとなにかのご助力に、)
「いやー、感謝の気持ちだけでもう充分にありがたいので、
  できたら早く帰ってほしいんですけど……」
  あっ、うっかり本音言っちまった。
  ショックを受けたのか、床を這っていたフォイレがぴきーんと固まる。
(そんな……! 蛆界の王女たるものが、命の恩人に何の返礼もせずに帰るだなんて!
  爺やに叱られますの!)
  イヤイヤをするように右に転がり左に転がる。だから普通にキモいって。
「もーいーじゃん、和彦。初めての相手が蛆虫でもさー」
  話題に加わる必要のない良治は暇を持て余して耳をほじりながらテキトーなことを抜かした。
  お前、黙れ。
(爺やが言ってました! 命を救われた王女が殿方とロマンスを繰り広げるのは
  人間界でもお約束です、って!)
  お約束だけどさー、蛆はねーだろ、蛆は。人間と蛆がくっついてどうするんだよ。
  緊張感がなくなってすっかりダレてきた、二人と一匹のダイニング。
「――姫様はここか」
  そこに一人の闖入者が割り込んできて。
  事態はますます混迷の度を深めるのであった。

4

 聞き覚えのない声が突然背後から――もちろん俺は驚いた。
「な……誰ですかあんた!?」
  振り向いた先、我が家に侵入してきた人物は、なぜか四つんばいで移動していた。
(アイヴァンホー!?)
  蛆王女まで驚きの声を出す。こいつの関係者らしいが、なんでそんなにびっくりしてるんだ。
「そちらか」
  位置を確認し、間にいる俺を肩で押しのけながら進む。
「ちょっ……お、おい、なに挨拶もなく勝手に上がりこんでるんですか!?」
  動揺し、目もくれずフォイレのところへ向かう謎の人物の肩を掴んで制止した。
  途端に。天地が逆転した。
  投げられた、と気づいたのは後頭部が床に叩きつけられてから。
「―――がッ!?」
  世界が揺れ、星がまたたいた。すぐには起き上がることもできず、ただうずくまった。
「すげー、まるで格ゲーの吸い込みみたいだ……っ!」
  おい、良治、友達が激痛で声も出せない状態でいるときになに感心してんだよ!
  俺も「ジェットコースターより……はやーい!」とかちょっと思ったけどさ。
(和彦さんっ! 大丈夫ですかっ!?)
  結局俺のことを純粋に心配してくれたのはフォイレだけだった。
  この瞬間、良治は俺にとって蛆虫以下の存在に決定した。
  図示すると「蛆虫(フォイレ)>>>>>良治」。
「ふん、だらしがない奴め」
  俺を投げ飛ばしといて偉そうにほざくニューカマーは、良治の三個下くらいにしくとか?
「――で。あんた誰なんですか」
  早くもたんこぶの出来かかっている後頭部を涙目で押さえながら、俺は最初の質問に戻った。

「名はアイヴァンホーだ」
  例によって姓はないとのこと。
(つまり、彼女も蛆界の住人なんです)
  とフォイレは説明した。
  「彼女」。そう、アイヴァンホーさんはその名に反し女性だった。
  起伏と丸みのある体からしても明らか。
  体格からすると十代後半から二十代後半ってところだろうか。顔が見えないからよく分からない。
  顔が見えない、というのはそのまんまの意味だ。彼女は青い仮面を被っていた。
  口から額まですっぽり隠れるような、屋台で売ってる奴に似た形状。
  目のところだけに穴が開き、表面は「未開の奥地に住む部族が成人の儀式で
  イニシエーションとして彫る刺青」っぽい模様が白で描き込まれている。
「なんでお面被ってるんですか?」
  と訊くと、「醜貌ゆえ……」と答えたきり、うんともすんとも言わない。
(人化したアイヴァンホーには、その……鼻がないんですよ)
  フォイレのフォローが入り、「で、でも、結構美人さんなんですの!」と
  フォローのフォローまで加わった。
「へえ、あれみたいだな……えっと……ほら、『センゴク』に出てきた武将で、誰だっけ?」
「俺『センゴク』読んでねえから知らない」

 良治のトークをすぱっと断ち切り、遅まきながら紹介されたアイヴァンホーさんへ目を向ける。
  蛆化したフォイレの横、少し距離を置いた地点で背筋を伸ばし、端然と正座している。
  フォイレをうっかり踏み潰したりしないように、という配慮なんだろう。
  ダイニングに入ってきたときに四つんばいだったのもきっと同じ理由だ。
  仮面ばかりに注意が行ってしまったので、他の部分も観察してみる。
  銀色の髪――フォイレのそれと似通っているが、やや短めに肩の上で切り揃えられていた。
  すっきりとしたボブカット。髪色とも重なって涼しげな風情を醸している。
  服装は……普通の夏服だ。上はショートスリーブの白シャツと淡い灰色のカーディガン、
  下は紺のジーンズ。地味で、特に得るべき感想もない。つくづく仮面だけが全体から浮いている。
  と、そうやってじろじろ眺めていたら、気に障ったのかギンッと睨み返された。
「――何か?」
  ぞくぞくっと脊椎まで架空の寒気が染み渡ってくる。
「え? い、いえ、なんでもありません……」
  怖ぇ。なんつー眼光だよ。こいつ間違いなく一人や二人は殺してるぞ。
「冷血獣」とかそんなあだ名で呼ばれたりしているんだ。
  たとえ子どもが対象だろうと眉一つ動かさずに始末できるんだ。やばすぎる。
  逃げたい。でもここで背を向けたらすっと忍び寄られて、
  悲鳴を挙げる暇もなく巻きつけらた腕で頚骨を折られて即死しそう。
  良治、頼みの綱はお前一人だけだ。早く隙をついて通報して来い……!
  隣をそっと窺うと、頼みの綱はだるそうに尻を掻いていた。
  て……てめえっ……! ふざけんな、無関係ぶるにもほどがあるだろうがっ……!
  あ、こっち見た――
  っておい、「あー早く無修正エロDVD見てえなー。和彦、先に部屋行ってていい?」みたいな
  アイコンタクトしてくんな! 空気読め! 察しろボケ!
(なんだか和彦さんが萎縮しているみたいですけど……アイヴァンホー、
  あまり怖がらせないでくださいね?)
「――はっ」
  眼光が熄む。全身を包むプレッシャーが消え、息詰まる緊張感が抜けていった。
(申し訳ありません、和彦さん。アイヴァンホーは、私のお目付け役なんです)
  いかにもそんな感じだな。
(ご無礼なことはなさいませんでしたか?)
「いや……なんにも……!」
  余計なことを言ったら殺す、という意志の篭もったオーラを肌で感じる以上、
  こう答えるしかない。
(本来は爺やが就いているのですが……先日のこともあって、
  外に出ていた彼女が呼び戻されまして。何があっても私の安全を確保しなければならないと
  意気込んで、ここずっとピリピリしているんですの)
  へー、そう。道理でさっきから殺意飛ばしてくんのか。
  ……けど、姫様を踏み潰そうとしたのは隣のアホだぞ?
  できればそっちに殺意向けてくれないか?
  それはともかくとして。
「質問、いいかな?」
(はい?)
「その、アイヴァンホーさんなんですけど……」
  チラッと窺い、不躾にならない程度に目を遣って。
「……手足が、あるような」
  半袖からすらりと伸びる綺麗の肌した腕。ジーンズを履きこなす細めの足。
  どちらもフォイレにないもの。
  それに目も見えているみたいだし。
  義肢? 義眼?
「ああ、それはだな、」
  と本人が直接説明してくれた。なにげない口ぶりで。

「わたしが蛆と人の間に生まれたハーフヒューマン――
  お前らの立場で言えばハーフマゴットって奴だからだ」

5

「「な、なんだってー!?」」
  尋常ならざる驚愕がもたらされ、隣で他人面していた良治まで声をハモらせて絶叫。
  大いに狼狽える。
  う、蛆虫が人間形態を取れるというだけで充分寝耳に水だというのに、
  蛆と人とで子どもがつくれるだと!?
  青天の霹靂もいいところだ! 理解の範囲を易々と突破!
  ありえない、限度枠超過してるだろそれ!?
「ま、そうした反応は慣れているが――」
  動揺する俺らから奇異の視線を受けても、アイヴァンホーさんは怒りも悲しみもしなかった。
  代わりに、気遣う目で斜め下を見る。
  そこに位置するものは――あ。
(う、蛆が――)
  ぷるぷると小刻みに蠕動するフォイレ。
  テレパシーとして脳に入ってくる声は噴火寸前のご様子。
(蛆が人間と愛し合って子どもをつくることがそんなにお嫌なんですのッッッ!?)
  鼓膜が痺れる――そんな錯覚を味わった。
「げぇっ!?」
  思わず両手で耳を塞ぐ。無駄だった。そんなもので憤怒に焦げつくフォイレの責め苦を
  遮断することなど叶わない。
(なんですの!? 人間そんなに偉いんですの!? 蛆ってそんなに穢らわしいですの!?
  ふ、ふざけてますわ!
  いくらなんでも怒りますわよ私!? 愛に貴賎などありませんわ!
  これだけは断固主張させていただきます!)
  今にも湯気が立ちそうな、白い蛆の肌をしたフォイレが真っ赤に染まりそうな、
  激甚たる叱責の波動に我々は為す術もなく身を縮こまらせた。
  その後もフォイレの説教は長々と続き、「そろそろ両親が帰ってくると思うんで、
  続きは俺の部屋で……」と
  場所変更しても終わる気配がなく、昼飯の時間になるまでたっぷりと聞かされた。

 ぐったりしながら午後が始まった。窓から差し込む灼熱の日差しは殺したいほど憎かった。
  扇風機を回し、なけなしの涼風を良治と奪い合う。このクソ暑さにアイヴァンホーさんは
  汗一つかかず平然と佇んでいて、フォイレは本棚と本棚の間の陰所に身を収めて
  怒りの熱をクールダウンさせていた。
(ふう……まだ言い足りない気分ですの)
  恐ろしいことをおっしゃる。
「しかし、姫様が『助けてもらった人間にお礼がしたい』とおっしゃるので、
  言われるままダンボールに貼るための
  小包ラベルを記入して差し上げましたが……まさかあの中にご自身をお入れになるとは
  予想しておりませんで」
  首を振り、さらさらのボブカットヘアーを揺らしながら述懐するアイヴァンホーさん。
  口ぶりから苦労が忍ばれた。つまり、フォイレは仲間にも黙って俺ん家に来てたのか。
  人間化して箱に入ってたのは、蛆のままだと気味悪がられて外に捨てられたり
  トイレに流されたりといったはめに陥りそうだったからだろうが――もし両親が受け取って、
  ふたりの見ている前で開封していたら、それはもうエラいことになっていただろうな。
  想像だけでも頭痛がしてきた。さっきの激怒テレパシーの余韻もあるが。
  冷蔵庫からかっぱらってきたカルピスを飲み飲み、アイヴァンホーさんに声を掛ける。
「じゃあ、無事に見つかったってことで。連れ戻して行かれるんですよね?」
  ドタバタしていろいろ驚かされたり投げ飛ばされたりしたけど、
  これでやっと蛆の世界とは無関係な日常に戻れるんだ、と安心しきっていた俺に、
  仮面の侍従は告げた。
「――それはならん」
  苦りきった口調。本心ではない。それゆえに、覆すことができぬと重く響いてくる言葉。
  ちりーん、と。窓の外で室内の茹だる暑さを無視した風鈴が涼しく鳴った。

「畏くも蛆界の王女にあらせられる姫様が、命を救われた相手に何の恩も返さず済ませるなど、
  下々に示しがつかぬ」
  苦渋に満ちた唸り。なにやらひどく時代錯誤なことを言われてる気がするのは、
  俺の気のせいだろうか?
(その通りです。だから何でもバンバンおっしゃってください)
  勝手に抜け出してきたお姫様は、本来引き止めるべきお目付け役を味方に回せた安堵からか、
  自信に溢れていた。
「王族の恩とは重いものだ。たとえ国を傾けてでも返さねば誉れとされない。
  蛆界の掟ゆえ半人半蛆のわたしは尚更これを遵守しなくてはならん。
  可能ならば今すぐにでも姫様を摘んで帰途に就きたいところなんだが……」
  無念そうに日陰で寛ぐフォイレを眺めやっていた。
  よく分からんが、アイヴァンホーさんもアイヴァンホーさんで微妙な立場らしい。
  それを把握したところで、事態はさして進展する道理もなかったが。
(私だけではうまくご恩をお返しできそうにありませんし、
  アイヴァンホーにも手伝っていただきますね)
「無論のことです。正直に申しましても、難事を早く終わらせたいものですから助力は拒みません」
  あれよあれよという間に俺の意向を無視して協力戦線が着々と築かれていった。
  所在なく、シャツをぱたぱたさせて腹に風を送り込んだ。
  良治はせっかくの無修正エロDVDが、フォイレとアイヴァンホーさんの存在が
  気に咎めて見れないでいるのを密かに悔しがっている。しきりに顎をしごくのは、
  こいつがエロスの養分を欲しているときの癖だ。
「それで、何をやったら満足してあんた方は帰ってくれると言うんですかね」
  疲れて遠回しな言い方をするのも面倒になってきた俺は直球で訊ねる。
(一番手っ取り早いのは、体で――)
「却下」
「なりません」
  俺と仮面侍従が口を揃えて押し留める。心なしか蛆はしょぼーんとした様子になった。
(私みたいな幼い体つきはお嫌ですか……?)
  そういう問題ではないんだが、本音を言うとさっきみたいに荒れそうだからやめとこう。
  テキトーに話を合わせておくことにした。真剣な顔つきで頷いてみせる。
「うん、俺、おっぱいスキーだから」
「うわっ! 婦女子の前で性癖を自己暴露する和彦ってばだいたーん! つか大胆すぎてキモッ!」
「混ぜっ返すなてめえは」
  手近なビームサーベル(丸めたポスター)で「モッ」と発音した瞬間の顔面を叩く。
  もともと歪んでいる顔が更に歪んで悲惨なことになったが俺は気にしない。
(では、参考にアイヴァンホーはどうです?)
  訊かれて反射的に観察の目を伸ばす。
  顔――は仮面があるせいで分からん。髪がさらさらして美人っぽいが、俺の脳みそは髪に惹かれて
  騙されたエロビデオの記憶が氾濫している。安易には信用できない。
  スタイルは全体的にほっそりした感じで手足が長い。半分だけとはいえ蛆とは思えなかった。
  くびれた腰つきにはちょっとドキドキ。尻もエロそうで、却って直視しがたい。

 童貞の心理は複雑だ。

 胸は、巨乳というほどではないにしても明確に膨らんでいる。
  C? いや、着痩せ補正を加えてDか?
「け、結構なお手前で……」
  面と向かって誉めるのが気恥ずかしくて変な表現が口を突いて出た。
「―――」
  アイヴァンホーさんは何もいわず、静かに蔑むような、冷ややかな視線で応えた。
  身の置き所がないプレッシャーを覚えるが、妙に心地良くもあって、
  少し間違えるとMに目覚めそう。
  そうやってもじもじしている俺に。
(ならアイヴァンホーで構わない、ということで――なさいませ)
  蛆虫の姫様はとんでもないことを仰せつかった。

6

「御意」
  重々しい頷き。え? なにこれ。なんか、急にまずいことになってきた?
「では和彦殿……存分に果てられたし」
  正座から膝立ちの姿勢、膝立ちから四つんばいの姿勢に移行した仮面の女性がにじりよってくる。
  いわゆる「女豹のポーズ」に近い姿勢となり、悩殺されそうになる……仮面さえなかったらな。
  顔面を覆う青い仮面によってすべての色気は打ち砕かれていた。俺は迷わず逃げた。
  手と膝をついてよちよち這ってくるのだから速度は当然鈍い。追いつかれるはずはない。
  余裕で離脱。
(あっ、なんで逃げるんですの!?)
  部屋の奥で蛆が非難する。バカ野郎、非難したいのは俺の方だ。
「話の展開が早すぎるぞ! お前、有無を言わせず既成事実つくろうとしてないか!?」
(バレましたか)
  悪びれたふうでもなく、しれっと認める。
(半人のアイヴァンホーで慣れたら、私にも抵抗がなくなるかと思ったんですが……)
  ちょっとちょっと! なにげに考えることがあざといなぁ、あんた!
  さっき散々あれだけ「蛆虫の正当なる扱いについて」という題で一席ぶっていたくせに、
自分の配下は何の気兼ねもなく道具扱いかよ。王政だから基本的蛆権とかないのか、蛆界。
  使われる側としても本意ではないらしく、ぎしっと歯を噛み締める音が仮面越しに届いた。
「くっ……このようなところで我が純潔を……しかし……武士の命は主君に捧ぐもの、だ……!」
  咆哮と同時に、だんっと四つんばいのまま跳躍。獲物に飛びかかる獅子の如き挙動。
  不意を突かれて、そのまま押し倒された。ごっ、と衝撃が背に来て噎せる。
「げほ、ごほ……! ってか、えっ!? アイヴァンホーさん、名前の割にサムライなんですか!?」
  動転して違うところに驚いてしまった。
(蛆界は少数のサディストと無数のマゾヒストで構成されていますからー)
  む、無茶苦茶な世界だなぁ! 確かに蛆虫ってなんかMっぽいが!
「どうかお覚悟を……っ! わたしは既に肚を据えたから……っ!
  この身を健やかに産み育ててくれた
  母上と父上には『ごめんなさい、今度帰ったら孝行しますんで許してください』と
  今謝ったから……っ!」
「心の中で両親に謝る暇があったらまず俺に謝れよ!」
「すまぬ。……これでよいか?」
  とても淡白に流して俺のシャツをビリビリィと力任せに引き裂く。ああっ、そんな無体な!
「いやあ! やめてえ!」
「くくっ……お主もウブな生娘ではあるまいに。下も、口ほどには嫌がっておらぬと見えるがな」
  ヤケクソなのかなんなのか、怪しい笑いを漏らしながら俺の下腹部をさする。
  確かにちょっと勃ってた。
  そりゃ、仮面はともかくサラサラした銀髪のお姉さんに押し倒されて馬乗りになられたらキますよ。
  でも、このまましちゃってもいいかな、と思えるほどエロゲー脳に侵されてない。
  良治もカルピス啜りながらワクテカして見ていることだしな。いやお前少しは助けろよ。
「や、やめてくれませんかっ」
  マウントポジションを取られ絶体絶命ながら、腕を振り回してあがく。
  その指先が仮面の淵に引っ掛かり、すぱーんと跳ね除けてしまった。
「あっ……」

 妙に可愛らしい悲鳴を上げ、仮面を剥ぎ取られた婦女が両手で顔を覆う。
  指の隙間から、人化したフォイレに負けず劣らずの肌白な容貌が覗いた。
  ――聞いていた通り、鼻がない。突起のみならず、
  鼻孔そのものが存在していなくて顔の中央が平坦になっている。
  のっぺらぼうを目撃してしまったような、意識に引っ掛かる違和感はあった。
  知らずに見ていたらぎょっとしていたかもしれない。が、あらかじめ知った上で見ると。
  それほどの醜貌とは思えず、却って拍子抜けした。
  鼻の欠如を除けば、顔全体の輪郭も綺麗で、造作は整っている。引き締まった顎が凛々しい。
  形の良い耳や、横に細く切れた目も彼女のイメージに添う具合で、なるほど「美人さん」だ。
  何より、指と指の狭間に見えるその瞳が。
「鮮やかな水色……」
  ターコイズブルーって奴だ。暖色より寒色を好みとする俺には、惹き込まれる魅力を感じた。
  寒色――とはいえ、意外に冷たい印象がない。
  夏の海で、汚れや濁りがなく異常に透き通った場所にある淡い碧。
  空を映すのではなく海底の砂を覗かせる素朴さが、暑さに喘いでいるさなかにも関らず、
  心が浮き立ってしまって「あそこに飛び込んだら涼しさよりも温かみを得るのではないか」とワクワクさせる配色。
  それが、二つの眼球、虹彩の中に淵いっぱいまで湛えられている。
  見惚れて、ついつい不躾にとっくり覗き込んでしまった。
「――綺麗な目をしていますね」
  当たり前の感想。すると、アイヴァンホーさんは顔を覆ったまま目を泳がせて、
「……そうか?」
  と半信半疑の様子で訊ねる。
「もっと見せてくれませんか」
  要求すると、しばしためらう様子を見せたがやがておずおずと指を外して素顔を晒してくれた。
  ――ああ、これは本当に。
「綺麗、ですね」
  心からの賞賛がするりとこぼれ出た。
「仮面なんて――付けない方が絶対にいいと思います」
  すると彼女は困ったように目を逸らした。
「誉めてくれるのはありがたいが、なんというか、もう付け慣れているのでな」
  外すと裸になった心地がする、と呟き、俯いた。
  真っ赤にはならないが、頬のあたりにほんのり薄紅色がのぼっている。
  清楚なボブカットとシンプルな
  色合いのカーディガンが恥らう姿によく映えていた。
  この人、なにげに結構なお嬢様なんじゃないか――とふと思った。
「強姦される寸前に口説くとは、お前もなかなか器用なやっちゃなー」
(むうう……ちょっと! 私の侍従にコナかけないでくださいませ!)
  観客からの野次。って待てよフォイレ、自分で命令して襲わせといてナニぷんすかしてんだよ。
(もういいですの、やっぱやめですの。アイヴァンホー、和彦さんから離れなさい)
「……御意」
  銀髪のノーズレス令嬢が心なしか残念そうな表情を浮かべたのは錯覚だろうか?
  ともあれ俺から腰を上げようとして。
「やほー、かずくんひっさしっぶりー!」
  そこに何の伏線もなくやってきた従妹(二ヶ月遅生まれ)が、ずかずかと部屋に踏み込んできた!

7

 困り眉にポニーテール、美人とまでは行かないが非常に愛嬌のある顔立ちをした彼女こそ
  従妹の木更津遥香。
  見ているだけでいじめたくなる顔だが、絶対にいじめてはならぬ存在である。
  やほーと陽気に挨拶かました彼女の表情が一気に凍り付いて氷点下に達したのは
  ひとえに俺が上半身裸で、鼻がないとはいえなかなかの美人さんに組み敷かれて
  騎上位に移行する寸前の格好に見えていたからだろう。
「……なにしてんの、かずくん」
「なにって、ほら……ナニを?」
「へえー」
  無表情に頷くと、肩に下げていたスポーツバッグをぶるんぶるん横スイング。
  存分に遠心力をかけたところで縦回転に移行。背中から掬い上げる軌道で
  天井ギリギリまで持っていき。
  ――そのまま鉄槌のように振り下ろす!
「ぶべらっ!」
  が、すっぽ抜けて俺ではなく良治に直撃した。
  重く湿った音とともに奴は宙に持ち上げられ、盛大に吹っ飛ぶ。
  これが遥香の必殺技、ギャラクティカ・スポーツバッグだ。誤爆は仕様。
  暢気に他人気分で見ていた野郎が一瞬にして巻き込まれ、
  哀れな犠牲者へ変貌する地獄が醍醐味である。
  アホタレ良治は壁に叩きつけられた後、ずるずると下がって前のめりに倒れた。
  尻を天に突き上げ、二度と立ち上がって来れない敗北のポーズを形作る。いいザマだ。
「ひっでー! ひっでーよ、かずくん!」
  目尻に涙を浮かべた遥香が泣き叫ぶ。自分がかました誤爆はどっかの軍みたくガン無視か。
「12000発何かを喰らわせたいけど我慢してまず訊くよ! 誰、その真ん中だけのっぺらぼう女!?」
「真ん中だけのっぺらぼう女……」
  普通にショックに受けたとおぼしきアイヴァンホーさんが呆然として脱力。
  すとんと俺の下腹部に腰を下ろす。
  お……き、危険な位置だ。ヤンチャな愚息が叛乱軍と手を結んで
  理性に謀反を起こしかねない位置取り……!
  咄嗟に良治の顔を見る。気絶して壮絶なマヌケ面を晒していた。うまい具合に萎えた。
  平静を取り戻し、クールに切り返す俺。
「そんなことより遥香ヨー、いつ家族旅行から帰ってきたんだヨー。
  あとうちに来る予定もしばらくないって聞いたけどヨー」
「んー、昨日。それと、こっちには『友達んとこ泊まる』って虚偽報告してから来ちゃった☆
  アリバイ工作もバッチリだし、かずくんの叔父さんたちにバレなきゃもうなんつーか、アレ。
  アレです。ヤリたい放題デスよ☆」
「星記号が散りそうな口調でいともあっさりと……」
  こいつがザ・ワールド・イズ・マインでやりたい放題なのは昔から変わらないところである。

 少し昔話をしようか。
  小さい頃の彼女は内向的なところがあって、周りの輪に溶け込もうとしないで
  一人遊びすることが多かった。
  俺ん家に遊びに来たときも母親の陰に隠れてなかなか出てこないような子で、
  大して興味が持てなかったもんだ。
  ある日、良治と掴み合いの喧嘩をして一時的な絶交モードに入った俺は、
  くさくさして公園へ砂場遊びをしに行った。
  するとそこには最近見知った従妹の子がいて、黙々ぺたぺたと砂の建造物を
  丹念につくりあげていたわけ。
  まあ、そっから先の展開は言わずもがなだろう。発作的に破壊衝動に乗っ取られた俺は
  そいつを速やかに破壊。心ない罵声を浴びせて、いつも困ったように眉毛をハの字にした
  新参の従妹を泣かせてやろうとした。
  ――泣かなかった。足元の砂をぐっと掴み、投げつけて目潰しを仕掛けてきやがった。
  眼球の痛みに悶える愚かなクソガキ(俺)を押し倒すや、馬乗りになって
  ガッツンガッツン殴って殴って殴った。
  何発目かで鼻血が出た。少し怯む様子を見せた。その隙をついて拘束から抜け出した俺は
  すかさず逆襲。その子も負けずに応戦。互いに一歩も退かず壮絶なインファイトを展開し、
  駆けつけた親たちに引き離されるまで続けた。
  込み上げる鼻血を拭われながら、痛感した。こいつはハブられてひとりなのではない。
  虎が群れないのと同じ、いささか凶暴すぎるがゆえの孤高だ――と。
  かくして、最前の良治とよりもいっそうヒドい本気の喧嘩を泥だらけになって
  繰り広げた俺たちは、互いを無視できなくなった。
  ガンの付け合いから和解へと歩み出すのに二週間かかった。
  全力を尽くしてドローにまで持ち込んだ相手のことを、
  今の言葉でいうならリスペクトする気持ちもあったのだろう。すんなり馴染んだ。
  一緒に絵本を読んだり、おうたを歌ったり、手を繋いであっちこっちに行ったりした俺らは
  男女やいとこの仲を越え、親友としての絆を結んだ。そこまでは良かった。

 問題は、はるかがキス魔として覚醒してしまったことだった――

「かーずくんっ」
  まだ当時は肩上のショートにしていた彼女が、
  お気に入りの赤い服を着てパタパタと駆け寄ってきた。
  俺は家の前で「きょしんへー」になったつもりで夏の虫どもにホースで散水して
  ブチ殺しの愉悦に耽っていた。
「なんでえ、やぶからへびに」
「それは『ぼう』だよ。べつのとまざってるよ。と、んなこたーどーでもよくて」
  じゃじゃーん、という口擬音とともに一冊の本を取り出した。マンガだ。
  姉のものをかっぱらったらしい。
「ここをみれ」
  指差したコマは、まあいわゆるキスシーンだった。しかも少女コミックではなく
  レディコミだったもんだからやたらと濃厚に描かれていた。
  ようやくマンガの読み方を理解してきた俺にはちょっとしたカルチャーショック。
  ぽかんと口を開けっぴろげにして見入った。
「なあ、なんでおくちすっとるの、こいつら」
「フフーン。かずくんってば、しらないんだー」
  得意げに目を閉じて鼻で笑う姿が腹立たしかった。
  目をつむると、遥香の困り眉は逆に自信ありげに見えるのだ。
  拗ねた俺は「しらねー」と投げやりに答えた。
「これは『キス』っていってねー、すきなひととするとチョーきもちイイんだってさー」
「ふーん」
「じゃ、しよっか」
「いきなりかよ!?」
  子ども心にも過程を無視したアバウトな話運びには慄然としたものだった。
「べつにいーじゃんかー。あたしはかずくんすきだよぉ? かずくんはあたしのこときらいー?」
  つぶらな瞳を困り眉の下でキラキラさせて小首傾げてくる幼女を無下にできる奴はすごいと思う。
  俺にはできなかった。「そうやね、にばんめくらいにすき」と譲歩返答。

 一番は「なうしか」だった。

「なら、」
  がしっ、としゃがんでいた俺の両耳を摘む。
「いててっ」と悲鳴とともに手を振り払った俺は面を上げて睨む。
「んちゅー」
  睨まれたのもなんのその、顔を上げたのをこれ幸いとばかりに屈み込んでアヒル口を接近させた。
  キス。そう、考えてみればそれが俺にとってのファーストキスだった。
  たぶん遥香にとっても、だ。
  ちゅぱちゅぱじゅるじゅる、マナーのなっていないスープの啜り方みたいに
  音を立てて唇を吸ってきた。
  その柔らかさと口の肉を吸われる感触、ほのかに香る幼女特有の匂い――
  未成熟の性はがっつり刺激された。
「ぶちゅー」
  夢中になって吸い返し、止め忘れたホースの水が蟻の巣へ流れ込んで水没させるなか、
  真夏の太陽の熱に肌を汗ばませて唾液を交換し合い口から頬、
  ときに鼻まで濡らして接吻タイムを満喫。
  一方が唇を離しても必ずもう一方はどこかを吸ったり舐めたりしている
  狂騒的なじゃれ合いが連鎖した。
  終わったのがむしろ不思議なくらいだった。
  まだ乾き切らぬべたべたどろどろの顔面を乱暴に手で拭いつつ、彼女は「にへへ」と不敵に微笑む。
「……これでいちばんになった?」
  瞳には、決して幼さとは相容れぬ生臭い妖しさが宿っていた。

 陽炎揺らぐ路上で座り尽くす俺と立ち尽くす相手。ともに四歳。
  ――二匹の獣が目覚めた昼下がりであった。

 薄手の布団にふたり揃って転がり込んで小山をつくりチュッチュチュッチュと小鳥みたいに
  絶えず囀ってみたり、お風呂で全裸になって百数える代わりに百キスしたり
  お湯に潜って水中キスを試みたりお外で誰もいない隙を見てむちゅーっと大胆に戯れてみたり、
  果てには俺が立ちションしてるときまでムチュムチュしてみたりと、
  幼いがゆえに一向に歯止めの利かない四歳児たちはバカップルも青ざめる
  接吻アニマルに化していった。
  そんな感じでチュッパチャップスしまくっていた某日、
  また姉の本棚からろくでもない蔵書を借用してきた遥香がいくつかのコマを指して解説した。
「『キス』のときにしたをからめると、それはもうすっげーらしいぞ?」
「すっげーのか?」
  ワクワクした。早速見詰め合い、照れなんて一コンマたりとも挟まぬ素早さで唇を合わせる。
「ふむぅ……」
  しばし感触を味わった後、おもむろに口を開け広げていった。
「あーん……れろっ」
  同時に口中の軟体生物を解き放った。唾がこぼれそうになった。互いが相手の唾を啜って飲んだ。
  それでも啜り切れず顎のあたりをべたべたにしながら俺とはるかはれろれろと舌を絡め合わせ、
  ときに引っ込ませて相手の舌を迎え入れ、時に追い出して自ら攻め込む。
  出たり入ったり絡めたり、お口とお口の攻防がひとしきり続いた。
  頭ん中がぽわーっと羽根でも生えたみたいに軽くなって
「すっげー」「すっげーね」と舌を接触させたまま頷き交わした。

「ただいまー……あ?」

 そこに遥香の親父が帰ってきた。忘れ物をして昼休みに取りに来たらしい。
  俺らは遥香の母親の目を盗むべく玄関の上がり框に腰掛けてディープキスに勤しんでいた。
  パパってば愛娘がいとこのクソガキとびっちゃびっちゃ唾液をしたたらせながら
  そのちっちゃな舌を出し入れし合って激しく親愛の情を交わしてる場面を間近で目撃しちゃったわけ。
  それはもうすっげーことになった。一時は俺んとこと遥香んとこで断絶するんじゃないかってほどに。
  時間の経過とともに自重することを覚えた俺らはその後なんともない、
  ただのいとこ同士としての付き合いを続けたが。
  中学の卒業式で遥香のタガが外れてしまった。
  衆人環視のなか、感極まって泣きながら俺に「ぶちゅー」とやったのだ。
「か、かずくん……かずくんんんーっ!」
  ぐおわっ
  熊の威嚇さながら両手を天に突き上げ指を鉤状に曲げた従妹の子が至近距離から突撃してくる恐怖。
「ま、待て、話せば分か……!」
  制止も間に合わず。遥香は俺の首にかじりつき、
  柔道みたいな要領で無理矢理屈み込むませたところを爪先立ちになって
  目を瞑ったまま――猛禽の鋭さで一気に喰らいついてきた!
  ズキュウウゥン! 昭和ライクな銃声が鳴り響く情熱的なベーゼ。濃厚すぎるほどに濃厚。
  いや――果たして何百名にも上る観客がいる前でぐいぐい唇を押し付けてくる蛮行を
  情熱と呼ぶべきなのか。
  突き刺さる視線も意に介さずしきりに上唇を吸い下唇を吸い両方同時に吸ってと大忙しでしたよ?
「えっ、あれ? 遥香!? 遥香が……思いっきりキッスしてるううう!?」
「か、和彦の肩甲骨付近をがっちりホールドして! 一向に離そうとしねえッ!?」
「ききききき木更津さんっ!? さささっきから激しく水音を立てて、
  なな、なにをなさってるんですかぁぁぁ!?」
「う、わああ……キ、キスの音がこっちまで聞こえてくるよぅ」
「へええ。キスって、こ、こんなにうるさく音がするんだぁ……」
「って、まだ続いてる!? もう一分は経ったよな!?
  あいつら、いつまでするつもりなんだよ!?」
「あんなに爪先がプルプル震えて……足もつらいだろうに、
  少っしもやめる兆しがありませんですハイ!」
「す、すごい……生徒会長の感動的な演説が彼女の本性を地獄から呼び覚ましたんだ……!」
「もしもし!? 今すごいわよ! 体育館に来なさい!」
  あー、鼻息くすぐってーなー。つか、さっきから唇吸いすぎ。お前はあれか、ラムネの瓶の口か。
  周りで騒ぐ生徒たちと、パイプ椅子蹴立てて保護者席から飛び出す遥香の親父を
  視界の端に捉えながら。
  俺は現実逃避することに精魂傾けた。

 そんな春のこと。

 唾液と血にまみれた卒業式のこと。

8

 卒業式の騒動で「謹慎させるべき」という風潮になり、高校が別々になったこともあって
  ――半径百メートル以内に近寄るな
  というストーカー法じみた接近禁止命令が俺と遥香の両名に達せられたが、
  まあ至ってザル法だった。
  電話やメールくらいは普通に交わすし、週に一回くらいは遊びに行ったりする、
  相変わらずな関係が続いた。
  まあ、さすがにキスはいろいろアレだし、あんましなくなったが。
  ほら、十六にもなるとお口だけで済ませられない気分とかなっちゃうわけやん?
  それで遥香とねんごろな仲になってしまうのも安易な気がして距離は保っていた。

 夏休みに入ってから家族と母方の実家に赴いていたとかで、会うのは二週間ぶりくらいだが――
「かずくんがオクテすぎてじれったくなってきたからねー。今年の夏はガンガンいこうぜー」
  俺から強奪したカルピスをちびちび飲んではフフーと笑う。
  間接キスだぞそれ、とか注意してもムダだ。だってこいつキス魔だもん。直チュー平気でするもん。
「つまり、状況を整理するとこうか?」
  気絶したままの良治は放置され、仮面を付け戻したアイヴァンホーさんが気を取り直していた。
「和彦殿は遥香殿を憎からず思っているが、親戚の仲を越えて男女の関係にまで
  発展させる気がない――と」
「まあ、そうですけど……てか『殿』はやめてくださいよ、アイヴァンホーさん。
  呼び捨てでいいですから」
「む。そうか、失礼した。では和彦、わたしのことも遠慮なくアイヴァンホーと呼べ」
「え、でも……」
「気にするでない。あと無理に丁寧語を使おうとするな。却って聞き苦しい」
「あー、うん、分かったよ」
  すっ、と深呼吸して彼女の名前を舌に乗せる。

「……アイたん?」

 殴られた。しこたま殴られた。
「この痴れ者が痴れ者が痴れ者が痴れ者が痴れ者が痴れ者が痴れ者が痴れ者が痴れ者が
  痴れ者がァーッ!!」
  左右の拳は暴走機関のピストンと化す。認識を凌駕する超暴力に悶絶した。
「親しくすることと馴れ馴れしくすることは天と地ほどの開きがあるッ!
  わきまえろ痴れ者がッ!」
「ちょっと!? あたしをブッチして勝手にかずくんと親密になったうえに何してくれてんのよっ、
  お面女!」
  立ち上がって制止する遥香。シュプレヒコールするように握り拳をぐっと掲げ。
「かずくんを叩いていいのはあたしだけだぁっ!」
  さりげなくSっ気をアピールした。
「はぁ、はぁ……」
  遥香の横槍もあって、ようやく矛を収めたアイヴァンホーが荒い息をつく。
「貴様ごときのたわけ者など蛆界の腐肉壺に埋めたいところだが、
  姫様を助けてもらった手前やめておこう」
  お前ら、恩返しに来たんじゃないですか? なのになぜそんなに偉そうなの? 理解不能。
「んもう、顔をボコボコにしてくれちゃって! かずくんがこんな顔すんの、卒業式以来よ!」
  ぐったりする俺を抱え上げ、アイヴァンホーを睨んでいた遥香はふと怪訝そうに首を傾げる。
「ってーか……姫様? 助けた? いったいなんのこと言ってるの、さっきから?」
「ああ、話せば長くなるが、実は俺そこにいる蛆虫のお姫様の命を救ってな」
  と部屋の隅を指差す。「ちょっ、なんの冗談よ」と笑いながら指の方向を見た遥香が固まった。
(あ、どうも。初めまして。私、蛆界で王女をやっておりますフォイレと申しますわ。
  以後お見知りお――)
「げえッ!? 蛆虫っ!? しかも喋ってるっ!? ディ、ディ○ニーの刺客かああーっ!?」
  当然の反応だったが、既にその地点を通過した俺には微笑ましいかぎりだった。
  困り眉に驚愕の表情がプラスされて、なかなかいい塩梅の顔になっている。愛い奴め。

 ようやくホッとひと息ついた。

「なるほどー、それでフォイレちゃんが恩返しにねえ」
  最終的に平然と受け容れてしまうのがいかにも遥香だった。
  こいつは心底「困らないくせに困り眉」だからな。この顔で性格を読み誤り、
  加虐心とか庇護欲をそそられた男どもがちょっかいを掛けて破滅していく様を
  何度も目に収めてきた。連中の末路は悲惨の一語に尽きた。
  木更津遥香の眉毛は、ある意味兵器にも等しい破壊力を持った罠なのだ。正に「まゆわな」。
  ――なんでも四文字に略して満足してしまう最近の風潮を、俺はもっと憂えるべきだと思う。
(なのです。そこで、手っ取り早く体でお返したいので遥香さんも手伝ってくだ――)
「だから却下」
「なりませぬとあれほど」
「そいつはちょっと聞けねぇなー」
  否定の三重奏。蛆虫姫君も本格的にいじけモードへ入っていった。
(ふんっ、ふんっ、ふーんっ、ですの)
  部屋の隅で全身を使って「の」の字を書く。
(和彦さんなんか、私が成長して魅惑的な体に育った暁には後悔のあまり舌を噛み切って
  死ぬがいいですの……!)
「呪詛を振りまくな。蛆に祟られているかと思うと正直いい気分がしない」
  ふう、と一つ溜息。あーなんか疲れた。バタバタしたせいで腹も減ってきた。
  時計を見る。もう夕方だった。
  両親は「今日帰り遅いから晩飯とかテキトーに食っとけ」っつってたけど。
「ちゃっちゃっとインスタントでもつくって食うかな」
「あ、ちゃーんす。……フフーン? かずくん、なんならあたしが手料理を振る舞ってもエエよ?」
「いらん」
  遥香の調理アビリティはおにぎりが普通に握ったつもりでヒトデ型になるくらいだ。
  その技量は推して知るべし。
「ならわたしがつくろう」
  すっ、と立ち上が……らないで四つんばいのまま移動するアイヴァンホー。
  やはり姫様が蛆形態のときは気を遣うのか。
「え? アイヴァンホーって料理できるの?」
「何を意外そうに……姫様と違って半人のわたしは人間とほぼ同様のものを摂食する。
  料理くらい嗜んでいる」
  怒ったように睨むが、四つんばいなので迫力はない。
(私はこのままで食事を摂らせていただきますわ。人化して摂るよりも効率がいいですの)
  とフォイレがついでに発言。まあ、人形態で生ゴミをガツガツやられるよりは
  蛆形態のままがまだマシか。
「ちぇー、つまんねーのー。せっかく『家庭的な女の子』っぽいステータスを上げる
  チャンスだったのにー」
  ぶーたれながらもご飯大好き人種である困り眉は素直に付いてきた。
「フンフフンフフンフフンフフ〜ン……♪」
  鼻歌をハミングしつつ。
  床を這うアイヴァンホーの尻をチラッと見下ろした遥香は。
  げしっ
「ぬおっ!?」
「あっ、ごめーん。ちょうどいい位置にお尻があったものだからつい足が……」
「『つい』で他人の尻にヤクザキックかますなよ!」
「だって自分のお尻は蹴れないし……あっ、かずく〜ん。確かこのへんにバットなかったっけ?」
  ケツバットする気満々できょろきょろあたりを見回す困り眉少女。
  仮面侍従は「……!」と息を呑み、脱兎の勢いで逃げ出した。

 とまれかくまれ。
  期せずして賑やかな夕食会が始まった。
  気絶から覚めた良治も「おー、メシメシー」と当然の顔して紛れ込む。
「いや……お前はそろそろ消えていいキャラじゃねえか?」
  人数増えてきたし。
「ひ、ひでえ。付き合いの長さでは遥香ちゃんを上回っているというのに……!」
「エロゲーでも悪友キャラって大抵途中で空気化してフェードアウトだよな――
  よし、遠慮せず消え失せろ」
「『拡散』じゃあるまいし人間がそう易々といなくなれるかよ!」

 なんだかんだでいただきます、と手を合わせて食事。ごはんに味噌汁に焼き魚とお新香、
  シンプルな和食だった。
「おかわり」
  と茶碗を差し出すと何も言わずジャーからぺたぺたと盛ってくれるアイヴァンホー。
  ご飯時なので仮面はオフ。なにげにエプロンが似合っていた。
  ごはんの盛り方もキレイで手馴れている。
「ふむ。こりゃあ将来はいいお嫁さんになるなー、アイたんは」
「その呼び方をするな」
  すぱーんっ
  しゃもじで頬を張られた。いいよな、しゃもじビンタ。
  いかにもこう、「家庭的な女の子」って感じが……するわけねえ。
  クソ、ご飯粒が口の端についた。ちょっと熱い。
「動くな。取ってやる」
  叩いた張本人が優しい手つきで頬に触れた。あ、少し胸がキュンとする。
  これはあれか、「右手で与えて左手で奪う」の逆パターンか。
  プラマイゼロなのにときめいちゃう罠。
「ほら、もう取れたぞ」
  と見せて示したご飯粒を、何のためらいもなくパクッと食べた。
  え、今のって。
「……間接キス?」
「間接チュウだー!? くそう、お面女め! やってくれる!」
「英語で言えば『サブミッション・キス』だな」
  おい、わざと言っているのか。それとも素でボケたか良治。
「あ……えっ……と……」
  三方から攻められたうえ、
(かんせつきす、ってなんですの?)
  と姫様から素朴な質問を寄せられ、狼狽えたアイたんは。
「う、うるさい黙れ喋るな口を閉じろ息もするなさっさと飯を食え」
  手にしたしゃもじをスイング。縦に。今度はそう、しゃもじチョップだ。脳天直撃。めっさ痛い。
  強制的に話題が終了となり、俺は頭をさすりながらの食事となった。
  にしても……口を閉じて息もせずに飯食うのはさすがに不可能だろ。

 そろそろ寝る時間である。良治もあくびを噛み殺しながら帰っていった。
「――なのにまだ居座るつもりか」
「だって、お泊りセットも用意してきたからにゃー」
  とスポーツバッグを引きずってくる遥香。ああ、良治にブチ込んだアレか。
  じじーっとジッパーを開けてみる。ふむ、中身は概ね着替えか。下着もあるな。
「なっ……勝手に開けて見るなってば!」
  ひったくるようにして奪い返す。頬が赤らんでいた。キス魔ながら羞恥心は湧くらしい。
  うーん、乙女の精神構造って複雑。
  というか遥香がノリ軽いからってついプライバシーを侵害してしまったことには猛省。
「で、お前らも住み着くわけ?」
  我が物顔して押入れの検分を始めたフォイレとアイヴァンホーのコンビに訊ねる。
「ああ、差し当たっては急がないからな。明日中にでも片付けば良くしたところだ」
(のんびりと宿泊して恩返しさせてもらいますの)
  のほほんたる返事。
  こいつら、こんなことを言っといて俺の部屋の押入れを治外法権の魔都に
  変えるつもりじゃなかろうな。
  明くる朝に襖を置けたら乳白色の蛆虫がうじゃうじゃ、だったりしたら悶死するぞ。
「それこそ正に租界だな……」
「かずくん、なにうまいこと言ったような顔して頷いてんの?」
  シェラフを広げている遥香に呆れられた。
  そんなものを用意しているお前に呆れたいんだがな、俺は。

9

 トイレを済まし、いざ二階の自室へ戻ろうとしたところ。
「あ……」
「お」
  アイヴァンホーにばったり出くわした。
  腕に人化したフォイレを抱えている。まるでぬいぐるみのようだな。
「なに、どうしたん?」
「ああ、姫様の髪を洗って差し上げようと……人化すると、どうしても汚れるものだからな」
  シャワーを使っていいか、と聞いてきたので許可を出した。
「別に浴槽も使っていいぞ」
「いや、遠慮しておこう。私はともかく姫様は脱げんのだ」
「? なんで?」
  ドレスを眺める。ちょっと複雑な構造かもしれないが、別に脱げないってほどにも見えない。
「服に見えますけど、これは皮ですの。脱皮するまでは着たきりですの」
  姫様本人が解説してくれた。ふーん、なるほど。蛆虫も脱皮するのか。
  と、感心しながら部屋に入ると遥香はシェラフに包まってぐーすか寝息を立てていた。
「無防備極まりない……襲われる心配とかしとらんのか、こいつは」
  まあ、してないんだろうな。こいつから襲ってきたことはあっても俺から襲ったことはねえんだし。
  瞼が閉じられてみると、その上に位置する困り眉が異様に愛らしく映る。
  ついつい撫でたくなって手を伸ばす。短い毛のさわさわした指触りがくすぐったい。
  あー、そういやガキの頃にもここを気に入ってよく口づけしたな。眉毛にキスのマユキス。
  俺はいったい髪フェチなのか、毛フェチなのか、どっちなんだろうか。
「いいお湯でしたの」
  どうでもいいことをつらつら考えているとお風呂上がりのフォイレがさっぱりした顔で
  アイヴァンホーに運ばれてきた。アイヴァンホーは俺にフォイレに預けると、
「わたしもシャワーを浴びてくる」と言い残しまた出て行った。
「預けられたってことは、一応信頼されてるのかねえ……」
  腕の中のプリンセスを見下ろす。
「?」
  ドライヤーを掛けても乾き切っていない、
  洗い立ての髪がふわふわとシャンプーの匂いを立ち上らせていた。
  ふむ。同じ匂いでも、母親みたいな中年のアレが醸すものと、
  見た目ちょっと年下の女の子がまとったものとでは雲泥の違いがあるものだな。
  と冷静に判断しているつもりでも、鼓動は高鳴ってバクバクなのだった。
  分かるかい? 洗い立ての髪が放つ、えも言われぬ色気って奴。
  これはアレだ、男心を狂わせますな。
  触ってみると湯の温度かドライヤーの熱か、まだ温かかった。
  油を失った髪が持つ、指で擦るとキュッキュッと引っ掛かる独特のキューティクルも、
  これはこれで。
  匂い、熱、艶、更には銀の輝きを加えたテトラ攻め。
  理性が限界まで引き伸ばされ軋みを上げた。
  ああ――「抱け」と言わんばかりに迫ってきたフォイレへ無造作に叩きつけた拒否を
  今からでも撤回したくなる。
「おいおい、こいつ蛆虫だぜ?」と自分に突っ込んでも、大した抑止力にはならない。
  思わず「よいではないか、よいではないか」と組み敷きたくなるが――やめとこう。
  現在シャワーを浴びてるアイヴァンホーが帰ってきたらまず間違いなく殺されるし。
  そこで寝ている困り眉が起きたら――何が発生するか予測し切れんが、
  とにかく大変なことになるだろうし。
  何よりこいつがイヤがった場合、「イヤがってみせるが本音はOK」なのか、
「本気でイヤがっている」のか、
「くやしい……でも……こんな体じゃ抵抗できない!(ビクビクッ)」なのか判別つけられんしな。
  さて、どうしたものか。早く押入れに放り込んで寝かせつけた方がいいか、と思案してたら。
「和彦さん、背中を掻いてください」
  こんなことを要求してきやがった。

「ほう、背中を掻けとな?」
「はい。アイヴァンホーの指はもう飽きました。深爪なのでさして気持ちよくありませんの」
  もう飽きた、だなんて。フォイレ、清純に見えて割と多情な女。
  しっかしなあ……
「おい」
「はい?」
「恩返しされるのは、俺の方だよな? ……なのに侍従と同じ真似をお前にしろと?」
  一応訊いてみるが、洗い立て銀髪四肢欠落依然としてドレス着て宝冠飾ってる美肌少女は
  きょとんとした表情。
「ええ。苦しゅうないですの、さあ、どうぞ」
  こ、こいつ、人に世話焼き強要させといて微塵の屈託もねえな。
  身体上の理由もあるだろうけど、やっぱりお姫様育ちだ。世間知らずのムードばりばり。
「仕方ねえな」
  別に断るつもりでもなかったのでそっと俺のベッドにうつ伏せになるよう下ろし、手を伸ばす。
  白銀の野原となって背を覆い尽くすホカホカ髪を左右に分ける。
  そして、背中だろうとお構いなしにフリルがはびこっている白ドレスへそっと指先を滑らせた。
「――あふ」
  指が敏感な背筋にでも当たったのか、ぞくっと身を竦ませる。肩甲骨がドレスの布地を押し上げた。
「艶っぽい声を出すなよ。全然似合わないから」
「し、失礼ですの、年頃の蛆をつかまえてっ!」
  揶揄してみたが、正直ちょっと勃った。
  そういえば、どないしよう。こいつらと遥香がいるせいでオナニーができないんだよなー。
  んー、トイレでするのは嫌いだし、どうしたものか。考え考え爪を立ててゆっくり掻いてると。
「あっ……あんっ! ふっ……あっ……ああっ……! らめぇ……!」
  余計な喘ぎを振りまく娘がいて、畜生、わざとやっているのか!?
  加速度的にムラムラしたぜ!?
「てめえ、なに気分つくってんだ、やめろよ!」
「か、和彦さんの指つきが卑らしいですの。邪なことを考えてらっしゃいますね!?」
  逆に抗議を返された。
「ち、ちっが……違うって、そりゃねえよ、俺にロリコン趣味はねえ!」
「私のことなんか興味ないっておっしゃっておいて……爺やが申してました、
  顔は禁欲の修道士を装って、内心は嬲りたくてたまらない性欲を持て余す――
『ムッツリという奴です、これが一番危険』と!」
「ムッツリ呼ばわりかよ! ええい、そんなに言うなら背中掻くのやめていいよな!」
「あ……っ」
  憤慨して歩み去ろうとすると、未練がましい悲痛な声が後を追ってきた。
「そ、その……えっと……か……かい……てほしい……の……」
「あん?」
「か、掻いてほしいですのっ!」
「んー? 何を?」
  聞き返すと、屈辱を押し殺すかのように顎先をふるふるさせ、
「せ、せなかっ! 和彦さんのつ、爪で……っ!
  私の背中を掻いて、気持ちよくしてほしいですの……っ!」
  なに、このいたいけな少女に無理矢理卑語を言わせてるノリ。溜息が出ちゃう。
  脱力して萎え「分かった分かった」と戻る俺に、「こ、今度は声出すの我慢しますから……」と
  微エロな発言。
  かくして背中掻きは再開されたが。
「……んっ……ん、んくぅ……っ! ……ふっ……ふっ……くふっ……!?
  っは……あっ……んんッ!?」
  もう声出していいから。ますますイケナイことしてる気がしてくるから。
  ふう。

 満足するまで掻いてやってから手持ち無沙汰になって、
  なんとなくフォイレの喉を指の背で擦ってみた。
「ごろごろごろごろごろ♪」
「これは蛆虫というよりにゃんこだな……」

 そんなふうにフォイレが恍惚とした表情でうっとりする頃合に
  シャワーを浴び終わったアイヴァンホーが帰ってきて
「貴様ッ!?」ズギャーン!「話せば分かっ……!?」ドキャッ!「やめなさい!」ガシャン!と
  ひと悶着あったが。
  小学生以来机の上に放置していたガンプラ(色の合ってないガズエル)が全壊した他は
  特に被害もなかった。
「くそう、買った塗料を間違えて泣く泣く塗ったのが却って思い出になっていたひと品がっ!?」
「すまんな」
「『ガズアルにすればええやろ』と説得する良治相手に依怙地になって『ガズイル』と名づけた
  捏造MSが……!」
「すまんと言っているだろうが! 勘違いするようなことを仕出かす貴様が悪いのだ!」
「なに逆切れ断罪してんだよ! この出来損ないのオロカメンが! 返せ! 俺のガズイルを返せ!」
  ――なんだか、こうしてくだらないことでぎゃんぎゃん吠え合っていると。
  昔欲しくて両親にせがんで困らせた姉貴ができた気分に陥ってちょっとしんみり。
「黙れ!」
  ドゴッ
「えぽきしぱてっ!?」
  まあ、言い争いを鉄拳制裁で終結させる暴力的なクソ姉貴は今すぐ返品したいところなんだが。
「もうよい、わたしと姫様は寝る! 貴様も眠るがよい!」
  捨てゼリフを残すやピシャリと襖を閉めて外界との連絡を遮断。
  押入れはアンタッチャブルな地と化した。
「やれやれ」
  春樹小説っぽく諦念を表していたところ、シェラフにくるまって快眠していたはずの遥香が
  ぱちっと開眼。
「ねえ、かずくん」
「なんだよ。嘘寝してたのかよ」
「フフー、どうでしょう。あたしが寝たフリしてかずくんに襲われるのを待機していたかどうかは
  藪の中だよ」
「あっそ」
「ねえねえ、あたしの背中も掻いてくれない? こう、寝袋の隙間に手ぇ突っ込んでさ」
「それは掻くというより新手の寝袋プレイじゃねえのか? なんにしろ断る。もう眠い」
「おねがーい。フォイレちゃんよりもイイ声で鳴いてみせちゃるよー?」
  文字通り手も足も出せない状態でもぞもぞと媚びる。それこそデカい蛆虫のようだった。
「バカ言うな。そろそろ電気消すぜ」
「えー、そんなあー」
  軽くあしらうと目尻をぐーんと下げて困り眉を強調し、泣き眉モードに切り替え。
  つぶらな瞳でキラキラといたいけビームを放射してくるが――
「自分がいくつになったと思ってるんだ……十六過ぎた奴にそんな攻撃されても利くかよ」
「ちぇー。昔はかずくんなんかこれで一発だったのにー。納得いかなーい」
  と人間サイズの巨大蛆がじたばた。
  うーん、こういうのをキモ可愛いとか世間では言うんだろうか。
  俺には普通にキモいだけだった。
「ふーんだ。お望みどーり寝てやりますよーだ」
「はいはい、不貞腐れても可愛くないから。素直に寝ろ」
「……けど気をつけな? 朝起きたらあたしすっげぇことしてやっから」
  くっくっくっ、と笑った数秒後、シェラフの中で「zzzzzzz.......」とグッドスリープに入った。
  はやっ。
「……俺も寝るか」
  彼女のハの字眉を見下ろし、なぜか少しだけ癒された気分になりながら。
  消灯してベッドに潜り込んだ。

 この夜を境にして。
  ドすげえ修羅場が開幕するなんてことも、露知らず……

 そして朝が来た。

10

 途轍もなくエロい夢を見た。
  が、目覚めた瞬間に内容を忘れてしまった。

「くそっ……! くそがっ……!」
  半眼のまま罵っていると。
「んぬ!?」
  唇が何かによって塞がれた。温かくて柔らかい、少し湿った感触。
「んー……ちゅっ、と」
  ここで「誰じゃ!?」と慌てふためくのはド素人。
  ダメ絶対音感を行住坐臥研ぎ澄ませたプロはうろたえない。
  声からして遥香か。
「……おい」
「あ? かずくん起きたー?」
  間近に寄っていた顔が徐々に離れていく。
  どうやらお目覚めのキスをしたところだったらしい。
  今更こいつに朝チューかまされたところで動揺することはないが、顔をしかめつつ。
「なんだよ、やめろよな」
  と注意だけは飛ばしておく。きっちり嫌がる素振りを示さないと、
  こいつはどこまでも付け上がっていくからな。
「フフー、イヤよイヤよもスキモノのうちだよね。おはよー」
「おはよう」
  挨拶を交わす。んっ、と一つ伸びをしてから布団を出ようとするが。
「……やけに重いな」
  頭は割合すっきりして変な感じはないのに、体の動きが妙に鈍かった。
「さっきから気になってるんだけどさー」
「ん?」
「かずくん、お布団がぽっこり膨らんでない?」
  言われて見下ろすと、まるで一夜で百貫デブに変貌したみたいに腹のあたりが盛り上がっている。
「……臨月?」
「なわけあるか」
  吐き捨てた。やけに重たいと思ったのはこいつのせいだったか。
  腹のあたりにはもわもわ〜とぬくもりが伝わってくるような――
  それでいてスースーと涼しい冷感があった。若干隙間が空いてるせいか。
  なんじゃいこりゃ。首を傾げつつ、布団をめくろうと端を掴む。
  不意に脳裏を一つの映像がよぎる。『ゴッドファーザー』の一作目。
  あの有名な、ベッドに切断された馬の首が突っ込まれていて血だらけの阿鼻叫喚になるシーン。
  マフィア流のバッドモーニングコールだ。
  ま、まさかあれと同じことが――?
  恐る恐る掛け布団をめくっていく。

「ギャー!」

 そこにはなんと両手両足を切断された盲目の銀髪少女が!
「あ……おはようございます……和彦さん」
  ――ってフォイレじゃねえか。なんでお前が俺にのっかってんだよ。
「爺や……が申しておりました。『夜這い・同衾・添い寝……男の高ぶる三拍子にございます』
……と」
  ほう、それを実践したってのか。
  人化したときは超絶に可憐なフェイスをしているこいつが添い寝してくれるというのは、
  まあ、なかなか気分の良いことではあるが……どうせなら冬場にしてくれ。
  夏場はぬくもりを越えて熱いっての。
  おかげで汗どろどろ、胸から腹と下半身のあたりが気持ち悪――
「まったく何してんの、あんたらは、アッハハ……えッ!?」
  俺たちの遣り取りに苦笑していた遥香が突然ぎょっと目を剥いた。
「? なンだ?」
  咄嗟に小池一夫口調のセリフを発しながら視線の先を目で追う。
  ――敷布団。
  股間のあたりが血だらけになっていた。

 馬の首がフラッシュバックする。
  バカな。フォイレは生まれつき四肢がないんであって、昨日今日に切り落とされたわけじゃねえ。
  傷口が開いて血が噴き出すなんてことはないはずだ。
「ん、んん……!」
  しかし少女はまるで傷が痛むみたいに眉根を寄せている。
「なんだ、どっか怪我でもしたのか!?」
  慌てて抱え上げ、確認しようとして――何かが引っ掛かった。
「ぐっ!?」
  子どものとき、加減を知らないクソガキが思いっくそ股間を握ってきて悶絶したこととかないか?
  あれに似た感じがズキューンと下腹部を襲った。
  い、いったいなんなんだ……怪我をしているのは俺の方か?
  痛みのする箇所を確認する。
  ――ち○こだ。ち○こが痛がっていた。
  ムスコの苦しむ姿に親心が突き動かされかけるが、それ以上の驚愕によって絶句させられた。
  えーと。気のせいでしょうか。
  俺のギンギンに朝勃ちした陰茎が、抱え上げた少女のドレスの裾に消えていて。
  裾を払ってみると、その、未熟な性器――いわゆる無毛でぷっくりした秘部に。
  亀頭とか、全体の半分くらいが呑み込まれるようにずっぷり突き刺さっており。
  こう、「抜き差しならぬ」って具合にぎっちりハマって動かない肉楔になってて。
  生々しく痛々しく押し広げられた幼い陰唇がヒクヒクしてるんだけど。
  そこから鮮血が溢れていて陰毛やシーツが赤黒く染まってんだけど。
  ハ、ハハ。まさかな。
  そんな「朝起きたらメッチャ犯してました」なんてことがあるわけ……
「は、初めて――でしたの……」
  ポッと頬を染めて俯くフォイレ。俺の陽根を収めた秘壺の襞が恥らうようにきゅっとすぼまった。
「うおっ!?」
  あ、やべえ。これ我慢できないわ。
  かくしてビュクビュクッ――と。
  事情も把握しきれぬまま、初めて体験する異性の膣内で朝一番の濃い精液が勢い良く放出された。
  脳みそを突き上げる射精感と、抱えた手に伝わる肌の柔らかさ、
  ふわっと漂う銀髪の香りに包まれながら。
「―――――――――」
  さっきから背中を突き刺してくる遥香の視線にどう応えたものか、
  頭が真っ白で何も思いつかなかった。

 エロい夢だと信じ込んでいたが、どうやら布団に潜り込んできた
  ふんわり幼女を寝ぼけて襲ってしまったらしく。
  まさしく夢うつつのうちにチェリーボーイを卒業してしまっていたのだった。
  呆然としつつ、吐精し終わって萎えてきたペニスを処女喪失したばかりの姫君から引き抜く。
「あぅ……」
  ごぽぉっ――泡立つ粘液が、マラーさんを形状記憶しちゃって
  パッカリな秘穴を出口に逆流してきた。
  すごい量だ。指を挿れて確認するまでもなかった。
  あっという間にシーツに垂れて新たな染みをつくる。
  こ、これが本物の「中出しドロリ」か……まだAVでも見たことなかったのに、
  先に肉眼で目撃するハメになるとは。
「どう、でした、か? 気持ち――よかった、ですの?」
  ハアハアと息を荒げて尋ねた。
「いや。それが、まったく記憶にございませんで……」
  疑獄事件の証人風に返答する俺。実際、最後の射精時以外は「エロい夢」という形でしか
  印象に残ってない。
「そう、です……か……なら、もう一回、しますの?」
  目を閉じ息も絶え絶えに微笑む異国の銀髪少女に、一度で死ぬほどヤワではないと
  股間の砲塔が再奮起。
  思わず頷きそうになったとき。
  ――背後から底冷えするような声が響いてきた。

「き……貴様ァッ……!」

To be continued.....

 

inserted by FC2 system