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二等辺な三角関係



11

 時間が時間なだけに、喚かれたら他の入院患者に大迷惑がかかるので、
  雫の病室は一泊限りの一人部屋で、幅広の空間と一目で高価とわかるシルクのベットは、
  さながらVIP待遇だった。
  聞かされてはいないが、麻衣実ちゃんもそうなのだろう。彼女の父親の力は相当らしいから。
  どう考えても目立つパトカーで隠蔽工作をしに来るなんて矛盾してるんじゃないか、
  と最初は思ったが、表立った理由をとってつけるくらい簡単にできるとすればそれも理解できる。
  麻衣実ちゃんの狂気から雫を護衛してくれるように頼もうにも、
  その父親の息がかかっているのではまず警察は当てにはできまい。
  雫にとってみれば騎士は俺一人で十分なんだろうが、増援を期待できない状況では
  俺の士気も下がってくる。……冗談抜きで死地に赴く覚悟が要るのかもな。

 加えて、俺の平凡な学生生活も明日からは消えてなくなるんだろう。
  どのような形で広まったかはわからない。だが、雫が手首を切ったという
  ショッキングな出来事が学校中に伝播したのは確かだ。救急車まで出動してるし、
  好奇心旺盛な学生諸君から隠し通せているとは思えない。
  手首の切り傷はヤバイ人間を避ける目安としてよく使われる。
  本日付で雫もめでたくそのリストに仲間入りした。折しも今は受験戦争の真っ只中だ。
  刺激となる厄介者に対しては、誰もが触らぬ神に祟り無しを実践しようとするに違いない。
  端的に言えば無視。存在の否定。俺はその共犯者。導き出される結果は十分予想できる。
  この際、それに関しては俺はどうでもいい。あそこで雫を受け入れたらこうなるってことは、
  骨の髄まで叩き込まれてたことだし。
  ただ、何時だって笑い続けてた頑張り屋の末路にしちゃあそれは悲惨じゃないだろうか?
  可愛がってたペットがちょっと奇行に走ったら、世話を見なくなるのが
  正しい感覚とでも言うんだろうか?

 雫はその体躯には大きすぎるベットに埋もれるようにしてくるまっている。
  顔が隠れているので表情は読めない。ただ、身体が断続的に震えるように小さく波打つ。
  正直に見れば、雫の身長は平均をかなり下回ってるし、体の発育も多分に悪い。
  ……別に悪い意味で言ってるんじゃない。
  それだけ可愛らしいと思うし、庇護欲をそそられるから。
  そんな娘が背中を丸めてさらに縮こまる様子を見守りながら、俺は考えを巡らせていく。

 雫が求めて止まなかった父親は、娘が自殺未遂をしたというのについぞ姿を現さなかった。
  そもそも連絡を付けることさえできなかった。失踪中なんだからある意味では当然なのだろうが。
  しかし、それだけでは終わらないのがこの不愉快な現状だ。
  雫はその親戚や縁者までも、遠地に住んでいるとか多忙だとか理由をくっ付けて、
  誰も来てくれなかったのだ。中でも最悪なのが雫の実の母親、父親とは離婚した前妻で、
『現在の家庭を壊したくない』だとか何だかで、病院に搬送された実の娘を
  間髪入れずに見捨てやがった。だからそいつ等がかけるべき手間は、
  付き添って来た担任が代わりに引き受けてくれて何とか事なきを得ている。
  さらに、その担任によると、直接出向いた雫の自宅である安アパートは空で、
  雫は現在(家庭訪問や三者面談の時には父親がいた)一人暮らしをしているらしい。
  幸い、ウチの高校ではアルバイトは許可制なのだが、雫はその申請をしていないので、
  金銭面での困難はないようだ。仕送りくらいはされているのか、
  それとも消えた父親の置き土産が生活費なのか。

 ……どちらにせよ、雫の家庭環境は孤独に満ちている。
  依存症と父親との関係は度々仄めかされていたし、参考資料もあった。
  麻衣実ちゃんに伏せたのがそうで、俺の恋愛観の根本になってたりするのだが、
  あまり表立って言いたい話ではないのでここでは省こう。身内の不幸自慢なんて鬱陶しいだけだ。
  まあ、麻衣実ちゃんのバックにかかれば調べ上げるのは造作もないことだろうけどさ。
  ともかく、その辺りの事情が雫の歪みの一因ではあると思う。
  やはり予想でしかないが、雫の父親が何かやらかして、
  実家や元妻から冷たい扱いを受けることになったに違いない。
  そして、そこから派生した経験が雫に暗い影を落としたんだろう。
  あの眩しい笑顔も果たして本心からのものであるのか、今になって考えてみると怪しい。
  あれこそ雫が抱える欠陥の発露なのではないだろうか。

 ――そこまで思考を進めて、俺はようやくその音に気付いた。
  雫の身体が振動するたびに、押し殺したようにくぐもってはいるが、
  しゃくりあげるような声が漏れている。てっきり寝息の上下運動だと思っていたが、これは……。
  俺はどうしたらいいのやら……。
  時計の針はとっくに真上からずれてしまっている。
  その原因を薬の効果に個人差があるからだと考えることもできるが、
  それは逆の場合だって想定できる。つまり、雫が早めに起きてしまったという場合だ。
  早めに起きた雫は何を見たのか――答えは考えるまでもない。
  俺は守るべき相手を泣かしてどうするんだろう? それでなくたって雫には俺しかいないのに。
  都合のいいことにこの病室は、隣の病室からトイレと階段とエレベータを挟んだ隅に位置し、
  対面にあるのは薬物保管庫の一室となっている。
  ……人間嫌いなVIP様に感謝しつつ、俺は改めて騒ぎが起きても大丈夫なことを確認した。

 「雫、狸寝入りなんてよせ。そんな疑わなくても俺はお前を置いてどこかに行ったりしないよ」
  声をかけるや否や、俺は想像以上に強い力でベットの上に引き倒されていた。
  視界が逆転し、二本の細腕が死力を振り絞って俺を捕縛する。
  背骨が軋みそうなくらいの力が俺を締め上げる。雫は嗚咽こそ押し止めているが、
  月夜の薄明かりに照らされてちらりと映った顔は、やっぱりぐしゃぐしゃになっていた。
  言葉を発することなしに、雫は握った拳で俺の胸をドンドンと叩く。
  手加減なしの攻撃は耐え切れないほどの威力となって、強制的に俺の酸素供給をストップさせた。
  残った片手が突き立てる爪が食い込みを増し、その痛覚に思わず声を上げそうになったが、
  それすらままならない。まるで、溺れた人に水中でしがみ付かれているかのような感覚。
  非力な俺では一緒に溺れてしまうのがオチの話。
  続く肺への渾身のヘッドバッド、掲げた足を振り下ろした内腿への重い蹴り、
  偶然入ってしまったのだろう肘の腹への一撃で、俺はとうとう堪えきれなくなって身を捩った。
  それで暴れていた雫の動きが止まる。
  ――当然だ。雫は好きで暴れていたわけじゃない、
  必死で相手を求めたらそれが暴れるような形になってしまっただけなんだから。
「こ〜ちゃ……あの、これは……えっと、違うんだよ……、違うんだよぉ……。
  こんなつもりじゃなくってね……? わたし、わたし……」
「し…ず……」
  大丈夫だと言おうとしたが、名前を呼ぶことさえままならなかった。
  俺は何処までも役立たずだ。大体、雫をほったらかしにして麻衣実ちゃんと会っていたのが
  俺が悪いのだから、雫が不安になるのに何の非があるだろう。そうさ、雫は悪くない。
  ただ人一倍寂しがり屋なだけなんだ。

 決壊した勢いは止められず、雫はとうとう喚きだす。
  いつものように滂沱しながら、いつものように涙声で、いつものように病んだ熱烈さで。

「……こ〜ちゃんに好きって言ってもらえて嬉しかったのに、……嬉しかったから、
  それだけこ〜ちゃんが何処かに行っちゃうかもって、あの娘のところに行っちゃうかもって
  考えたら、恐くて堪らなくなって……。……でもこ〜ちゃんには嫌われたくなくて、
  だけどこ〜ちゃんとあの娘が一緒にいるのは嫌で、でもあの娘に何かしたら
  こ〜ちゃんに嫌われちゃいそうで、……もうわけわかんないよぉ! 嫌だよぉっ!
  わたしと一緒にいてくれなきゃ嫌だよぉっ! ……もうわたしこ〜ちゃんがいないのは
  耐えられないんだよぉ……。ひとりぼっちは嫌だよぉ……。こ〜ちゃんはわたしだけと
  一緒にいてくれなくちゃ嫌なんだよぉ……。ほかに何もいりません。
  そのためだったら何だってします。
  だから……、だから、これだけはお願い。本当の本当にこれだけだから……。
  わたしだけを見てください。わたしだけを好きでいてください。わたしはこ〜ちゃんが好きです。
  愛してます。だから、見捨てないでください――」

 ――雫の懇願は結局そこに帰着する。依存と愛情と嫉妬が連立した不可思議な願望に。
  それが何故かと訊くなんて今ここでは無粋だろう。
  俺はただ、こいつを心から安堵させてやればいい。
  そして、そのための方法は何がある?
  ……って考えるまでもないか。どうせ今の状態じゃ言って聞かせることはできそうにないし。
  気力で頭を上げ、うつ伏せに俺に乗りかかっていた雫の口を塞ぐ。
  涙目が点になり、瞬く間に今度は嬉し涙が溢れてくる。そんな様子がおかしいのに愛おしい。
  ……とびっきりの甘やかしがこいつには有効なんだよ。

「ふぉ〜ちゃぁ〜ん……」
  これだけで完全に疑心を捨て去ってくれたらしい雫は、代わりにうっとりと蕩けた顔を
  紅く火照らせながら、大胆にも舌で俺の唇を割って――
「……その先はなしだ」
  だけど、その甘い空間は俺自身が引き裂かねばならなかった。
  自分からしたクセに、ようやく笑顔にできたのに、心から求めてきた雫を押し退ける俺は、
  間違いなく最低で残酷な埃未満のクズ野郎だ。
  ……でも、どうしてもその先は許しちゃいけなかった。
  俺の自制心を保つための手段はそれしかなかった。手を出してしまうのは簡単だ。
  慰めてあげるのも簡単だ。だけどそれじゃあ雫を救えやしない。
  もし俺までこの奔流に流されてしまったら、誰が雫を引き上げるのだろう?
  俺は何時だって雫の先導役でなければならない。
  ――忘れてはならない。この病院には麻衣実ちゃんがいる。
  狂っても尚、俺に対して誠実な態度を崩さなかった彼女のことだから、
  別れの挨拶をした後につけて来るなんて真似はしないだろうが、
  かといって俺と雫がここで一線を越えてしまって、違う誰かに気付かれないとも限らない。
  キスまでならば彼女の許容範囲内だとわかっている。しかし、その先は確実にアウトだ。
  そんな馬鹿げたミスで雫の命を削ってなるものか。悪戯に麻衣実ちゃんの殺意を煽って、
  こいつの生存率を下げるような愚行だけは絶対に避けなければ。
「どおして……?」
  そんなに絶望的な顔をしないでくれ。お前の泣き顔はもう見飽きた。笑え。笑ってくれ。
  それも造花の向日葵なんかじゃない。本物の冴え渡るようなお前の笑顔を見せてくれ。
「どおしてなの……? こ〜ちゃん……。……やっぱりわたしのこと嫌いなの?
  ……あの娘のほうがいいの? ……ねえ、こ〜ちゃん、答えて……? 答えてよぉ……?
  答えてよぉぉぉぉ!」
  止んでいた攻撃が再開した。雫は俺に馬乗りになって胸倉を掴み、力任せに前後に揺さぶる。
  脳を激しくシェイクされて滅茶苦茶になった平衡感覚に、俺は頭を刻まれるような頭痛を催した。

 激昂というよりは慟哭。不満をぶちまけるというよりは悲嘆に暮れる。
  意志の強制というよりは、信じられない現実に哀願する感じ。
  この掴む手の強さも、鬼気迫る表情も、耳を穿つ叫び声も、全部雫の愛情が大きいから。
  ――麻衣実ちゃんが言うには、俺はその心地よさに堕落して、共依存の対象として
  雫を求めているだけらしい。でも、それは間違っている。
  誰だってそんな関係を築きたいと心の底では思っている。
  堕落するくらいに愛されたいと思っている。必要とされたいんだ。それって当然の感情だろう?

「……なにか、なにかいってください……」
  言葉尻が消え入りそうな敬語になると共に、雫の身体から急速に力が抜けていった。
  こいつはそういう娘だ。ひたむきで健気で一途な娘だ。何をしようが、何も言うまいが、
  最後の瞬間まで俺が見捨てないと信じてくれる。……信じるってのは委ねるってのと同義。
  そして俺もそんな雫を見捨てたりはしない。多少の暴挙が何だって言うんだろう?
  麻衣実ちゃんの見立ては正しかった。俺は残りの人生を放棄してでも、
  この娘と一緒にいてあげたいと思う。俺をそんなにも愛してくれるこの娘を
  愛し続けてあげたいと思う。

 ――だから、そんな俺から雫にする要求は一つだけ。

「あのさ……」
「なにっ?」
「……そんな慌てるなよ。……俺さ、雫のことすげえ好きだよ」
「……ほんとう?」
「ホント」
「あの娘よりも……?」
「……正直言うと同じくらい好きだ」
  嘘はいけない。すでに方便を尽くしている誠実さなど何になると非難されても仕方がないが、
  俺はそれでもなるべく純粋な雫の気持ちに不純なものをぶつけないようにしたい。
「そんなのって――」
  逸る口をまた塞いだ。卑怯だとは思うが、話を最後まで聞いて欲しい。
  雫の頭が真っ白になっている内に、その隙間に言葉を注いでいく。
「……でも、先に告白してくれたのは雫だし、俺が最初に好きって言ったのも雫だろ?
  だから、二人が同じくらい俺を好きになってくれたとしても、俺は雫への責任を全うしたい。
  ずっと雫と一緒にいてあげたい。……だからそのために、雫にお願いしたいことがあるんだ」
  雫も麻衣実ちゃんも、その言動は病んでいたり狂っていたりととても平常じゃないが。
  その分、伝えようとしている愛情の規模がわかるから。
  それで俺は二人が好きになったんだと思う。
「なに……かな?」
  怯えなくても大丈夫。これだけだから。頼むよ、雫。

 「死なないでくれ」

 それで俺はお前を永遠に愛し続けてやるから。

 

 ――麻衣実ちゃんは本気だ。きっと全力でもって雫を殺しにくる。彼女の覚悟はわかった。
  文句なしな具合に教えてくれた。そして、確かに俺はその覚悟に魅せられた。
  でも、それでも俺の一番は雫以外に譲れはしない。だから雫の条件はそれだけだ。
  殺されないでくれればそれでいい。麻衣実ちゃんを返り討ちにしようが構わない。
  それで俺の雫への愛は保障される。どうせこの二人に並ぶ女の子なんて
  金輪際現れやしないだろう。

 これは歪な三角関係。
  一本は依存。一本は狂気。
  底辺に繋がる二本は紛うことなき二等辺。二等辺な三角関係。
  半直線のごとき長さを持った、双頭の二等辺。完成された三角関係。
  それでも俺は選ばなければならない。選べるのは一本だけでしかない。
  長さが等しいというのなら、愛情の大きさが指標にできないというのなら、
  その連結が早かった者を、最後まで離れなかった者を、俺は選ぶ。

 俺の言わんとしていることがわかってくれたか、俺を信じてくれたかどうか、
  雫が反応してくれるまでの数秒は、今までの人生で最も長い時間だった。
  けれどそんな心配は杞憂でしかったと、雫のリアクションを見て思う。
  雫は、ただでさえ晴れ晴れとした喜色満面を誇っていたのに、それをも上回る笑顔を、
  綻びすぎて顔の輪郭を壊してしまいそうな笑顔を、文字通りの破顔一笑を、俺に向けてくれた。
「それだけでいいのっ?」
「そっ、……たったそれだけ」

 ――麻衣実ちゃんに殺されないこと――

 それは、『それだけ』で済むような簡単な話じゃない。
  雫は精神に問題があっても感覚が絶えているわけじゃない。麻衣実ちゃんの狂気が
  どれほどのものか実感したのはこいつも同じはずだ。
  そもそもあの時点で殺気がマシンガンの銃弾のごとく飛んでいたのだから、
  どんな鈍感でも気付く。
  なのにこうも安易に断定してしまうのは、やはり雫の依存心がそれに並び立っているのだろう。

「……嬉しいなあ。やっぱりこ〜ちゃんはわたしを一番に好きになってくれるんだ」
  過程を一切無視した自己完結。何の気兼ねもありゃしない。
  少しはその過程で散々な目に遭うだろう俺を気にかけて欲しいものだが、
  さらに輝きを増した雫の笑顔を見ていると、そんな些事はどうでもよくなってくる。

「こ〜ちゃんのためならわたしは何だってできるんだよ……。何だって……」

 それとなく大口を叩く雫は、だけど麻衣実ちゃんに似た強い意志に動かされていて、
  俺はますますそんな娘を愛おしく思った。

12

 錆びた上に段差の急な階段を、身体を引き摺るように上がっていく。
  我ながら緩慢な動きでポケットから薬の小瓶を取り出した。蓋を開けて出した中身は数錠、
  一気に噛み砕く。それだけですーっと吹き抜けるような開放感が胸のざわめきを静めてくれた。
  歯にこびり付いた顆粒を舐め取りながら、辿り着いた古びたドアを無造作に引いた。
  ノックをしないのは、俺かどうかすぐにわからなくて焦れるそうだから。
  ――中毒にでもなってそうな発言だ。

「おかえりなさい。こ〜ちゃんっ」
  出迎えた雫は、今日も今日とて季節外れの向日葵のごとき笑顔だった。

「ただいま。……まったく、こっちがまいっちまうくらいに御機嫌だな」
  こうも熱烈な歓迎を受けると、『ただいま』ということくらい何でもないように思う。
「と〜ぜんだよ。だってこ〜ちゃんと一緒にいるんだもん」
  薄い黄緑色のフリル付きでお腹のところに無駄に大きなポケットが付いた、
  幾らか年代の低めの層を狙ったデザイン。。雫はそんな良くも悪くも
  お似合いのエプロンをひらりとはためかせて、さも当然かのように断言した。
  左手首に巻かれたグラスグリーンのリストバントが、濃淡のコントラストで映える。
  俺のサイフが痛まないギリギリの額。庶民用の弱小ブランドの品。
  傷跡を見て自傷を習慣化させることがあるということで買ってあげたものだが、
  感極まって泣くくらいに大喜びされたその時から、外したところを見たことがない。
  どうやらかなりのお気に入りにしてくれているようだ。

「ん? なあに?」
  俺の視線が一点に集まっているのに気付いたらしい。
「手首のほうはどうだ? できるなら見せてもらいたいんだけど……」
「ええと……あの……そのね? ……ごめん、こ〜ちゃん。わたし、見せたくないよ……」
  目に見えて消沈してしまった雫に、俺は二の句が告げられなくなる。
  ――別の意味では、外したところを見たことがないから、その下に傷跡が増えていても
  わからないということだ。雫が本格的に自傷症にかかっていないか確認するには、
  手首を見せてもらうのが一番なのだが、雫はそれを頑なに拒否し続けていた。
「……だってね、すごく醜いんだよ。こう、そこだけ人の肌じゃないみたいな……。
  薄気味悪い色のくっきりと残った跡がね……。消えない傷ってやつなのかな?
  だから、もしこ〜ちゃんに『こんな傷が付いてる女気持ち悪い』なんて思われたら、
  わたし……わたし……」
「……ゴメン、俺が悪かった。何度も訊いてホントにゴメンな」
  でも、女の子にとって身体に残った傷ってのは相当辛いものに違いない。
  俺が言えば頷く雫でさえ、その頼みを断るくらいに気にしている。
「違う……ちがうよ……? こ〜ちゃんが悪いわけじゃなくって……、
  わたしに傷が残ってるのがいけなくて……、もし見られたらいくらこ〜ちゃんでも
  わたしのこと嫌いになっちゃうから……」
「……気負いすぎなんだよ、雫は。俺は何があってもお前の味方だってよくわかってるだろ?」
「……うん」
  痞えがある肯定。俺を信じてくれていても、どうしても突破できない心の壁。
  身体に刻み込まれた苦痛の証。リストカットでなくとも、傷とはそういうものだ。
  それは身体・精神の両面の苦痛であり、だから俺は雫の気持ちと体調、
  どちらもなるだけ気遣いたい。
  ――それだけに、その壁は砕くには脆すぎ、越えるには高すぎるものとなっているが。
  打開策は――なかなか見つからない。

 

「それで……今日の晩飯は何を作ってくれたんだ?」
  すっかりしょぼくれてしまった雫を抱き寄せ、頭を撫でながら尋ねる。
  この流れは最初から変わっていない。左右の髪留めを外し、バラけた房を手櫛で梳いて纏める。
  ショートになった前髪を掬い上げて、砂を零すようにサラサラと流した。
「今日は山菜のおひたしとえび天丼……それにしても、こ〜ちゃんの手……大きいよね」
  声に張りが戻り、あからさまなくらいに恐怖心が薄らいでいく。
  俺は雫をちゃんと癒せている。それがこうして実感できるのが心に染み渡るくらいに嬉しい。
「そりゃお前に比べればな……。でもそれだけで、他に何の取り柄もねえよ。
  撫でるのだって未だにおっかなびっくりやってるところがあるし……」
「でも優しい動きだよ。――だからわたしこ〜ちゃんに撫でられるの好きなんだぁ」
  真っ直ぐすぎる言葉に久しぶりに照れを覚えてしまった俺は、そこで早々に雫を解放した。
  「あっ……。終わり……?」
  円らな瞳でそうも未練がましく見上げられると正直困るんだけどな……。
「……折角の飯が冷めるから、その後にな」
「うん……わかったよ。じゃあ、はい。食べよう?」
  向かい合って食べられるように位置を調整して、改めて座布団を勧めてくる。

 二部屋しかない雫の住処は、その外観を裏切らずにどちらも狭い。
  敷き詰めるように置かれた調度品もほとんどが悪い意味で年代物だ。
  当然今、雫がにこにこ叩いて客人の着座を心待ちにしているしている座布団も、
  ところどころカバーが破けている痛んだ品なのだが、座れさえすれば俺は何の文句もない。
  ただ、食卓の上の料理を見るに、家計の状況はそれほど切迫はしていないようだ。
  銀行振り込み。月一の。――何処にいるのか知らないが、雫の父親の生存は確定している。

「こ〜ちゃん、こ〜ちゃん」
「ん?」
「はやく、はやく」
  何の気兼ねもなしに口を広げ、左右の八重歯を反り立てる。
  警戒心の欠片もない。親鳥にエサを請う雛鳥そのものだ。
  怯えの感情はあっても羞恥心はないのだろうかと思いながら、
  適当に皿から箸でぜんまいを一本摘む。単純そうに見えるメニューだが、
  きっと半端なく気合を入れて作ってくれているのだろう。
「いただきまぁ〜す」
  言い終わると同時に捻じ込んだ。
  雫は至福の時間だとでも言いたげに、たかだか草一本を数十秒かけてじっくりと咀嚼して、
  咥えたままの俺の箸までベロベロに嘗め回してくれた。
「……こ〜ちゃんに食べさせてもらうと美味しさが何十倍にも感じられるなぁ。
  あっ……勿論そうでなくても美味しいと思うよ? こ〜ちゃんに満足してもらうために
  わたし頑張ったから」
「お前の料理の腕はよくわかってるって……。食べるまでもない。今日も美味いに決まってるさ」
  雫は以前俺が天野の弁当を褒めたのが余程悔しかったらしく、直接口に出しては言わないが
  晩飯の度に俺に褒められたがる。
  実際、竹沢家の家事全般を担っていたのは雫のようで、その腕は文句なしに高い。
  ならどうしてあの時それを俺に言わなかったのかといえば、
  家庭事情で俺に無駄な心配をさせたくなかったのだろう。
  その気持ちは俺も何となく理解できる。だから、それには触れず、
  今の雫を大事にしてやればいい話だ。

 けど……。
「けどな……」
「こ〜ちゃん、次つぎ。えび食べたいな?」
「……わかったよ」
  丼にでんと乗せてあるそれを、衣を崩さぬように慎重に持ち上げる。
「あーん」
  余りにも無防備で、あどけなさすぎて見ていられない。こんなんで、こんなんで本当に――
「あふっ! あふいっ! あふいほ、ほ〜ふぁんっ! ふぉんなにほくまふぇひれちゃやぁ……」
「あっ……悪い」
  ――考えすぎてもロクなことがないし、素直に可愛がってやれよ。
  ――うっさいな。その開き直りが正しいかで悩んでんだよ。

 

「いはい……、まらひりひりする……」
  ちろちろと舌を出しては氷水に浸す。涙目でそれをやられると、
  思わず胸を掻き毟りたくなるくらいにいじらしい。
  多少のドタバタはあったが、晩飯は無事美味しく食べ終わり、後片付けも済ませた。
  それから暫らくは食休みも兼ねて雫にいいようにベタ付かれながら、
  解く気もないクイズ番組を流し見などして、その後は受験生の本分を果たすべく
  参考書をカリカリやった。
  それも一段落着いた現在、部屋の隅に蹲るように置かれた小型テレビが映し出すのは
  どのチャンネルもCMばかり。時間帯が変わる。いい加減退き頃だな。
「じゃあ俺、もうそろそろ帰るわ」
  胡坐をかいた俺の太股を枕にして、日向ぼっこ中の猫みたいにごろごろしていた雫を退ける。
  これだけサービスしてやれば火傷させた分はチャラになったと考えていいだろう。
  つーかお前はその格好になってから勉強放棄しっぱなしじゃないか。
  それと泣くか和むかどっちかに絞れ。ああそんなにコップを傾けるなよ、
  零れたら俺が被害を受けるんだから。
  内心で愚痴を言いつつ、ノタノタと帰り支度を始めたが――

「帰っちゃうの……?」

 

 ――その一言で余計な雑念を全部吹き飛ばされる辺り、俺はとことん雫に弱くなった。
  ずっと押さえ込んでいた衝動が暴発しそうになる。荒れ狂う激情が理性を飲み込みそうになる。
  この瞬間だけは――どうしても慣れない。
  無意識に手が瓶の入ったポケットを握り締めていた。
「一応親は何も言わないんだけどな。むしろ積極的に推奨してるし。
  ……でも、あんまり遅くまでいると冗談抜きで帰れなくなるから」
  ……落ち着け、冷静になれ。心配することはない。お前には薬がちゃんと効いている。
  一般的な精神安定剤にそこまでの効果を期待していいのかは知らない。
  でも、この呪いだけでずっと気が楽になる。偽薬効果というものだろう。
  要するに大半は思い込みの力だ。
「……そっか」
  こう言えば雫も大人しく引いてくれる。
  でも、お互いが節度を守っているからこそ、耐え難い欲望と自制心への反動は
  大きくなるばかりで、俺達は返って更なる深みに堕ちてしまっているんじゃないだろうか。

「それじゃあ……はいっ……」
  瞳を閉じ、静かに雫は顔を上向きにした。

 我慢の概念が一瞬で崩壊して、そのまま吸い寄せられるように雫の唇を奪う。
  心地よい弾力性と乾いた大地さえも潤せそうなくらいの瑞々しさを併せ持つそれに、
  存分に音を立てて吸い付く。つるつるとした表面に舌の裏を滑らせる。
  勢いに任せる俺は、得体の知れない魅力に誘いこまれて、下唇を何度も甘咬みした。
  こうなると箍が外れてしまうのは雫も同じだ。
  縫うように俺の口内に侵入してきたその舌は、縦横無尽に蹂躙を始める。
  火傷の痛みをかき消そうとでもしているのだろうか、
  ザラザラした感触の先端がその先陣を切った。
  歯茎を撫で回し、舌下腺を散々に弄繰り回したと思ったら、
  次の瞬間には奥まで舌を差し込まれたせいで身動きの取れなくなっていた俺の舌を押し返し、
  執拗に絡み付かせては滲み出る唾液を隈なく舐め取ろうとする。
  恥も外聞もない。ただ眼前の相手が欲しい。その衝動を押し殺さんがためには、
  一心不乱で舌を動かすしか術がないのだ。けれど、どれだけこの行為に慣れていっても、
  得られる快感が増していっても、決して満杯までは満たされていない残心がある。
  ちゅぱりちゅぱちゅぱと厭らしいくらいに響き渡る吸引音を聞き流すこと数分。
  俺と雫は艶かしいけど切なさだけが募る、そんな無意味に甘美な二枚舌の演舞を堪能し続けた。
  やがて雫の舌が舌根まで伸びてきそうになったのに俺が噎せ返ったことで、
  ようやく長いお別れのキスが終わる。
  過激さと時間が日増しになっているのは気のせいじゃないだろう。
  俺の息遣いがやけに荒いのも、雫の眼が異常に潤んでいるのも、
  到底無視できるレベルじゃなくなってきている。
  それでもこの先にいかないのは、俺の意志が予想以上に奮戦しているのか、はたまた――
「……それじゃあまた明日だね。それと、寝る前には電話してね……? 絶対にだよ……?」
  雫が意外に我慢強いのか。
  擬似的な薬漬けでようやく平静を保っている俺と違い、
  雫が別段これといってしていることはない。
  一日中甘えていても物足りなく思うような生粋の甘えん坊で、暇さえあれば擦り寄ってくる、
  加えて今更しつこいが完全無欠の重度の依存症。
  そんな雫がここまで我慢できるなんて俺は全然予想していなかった。

 ――いや、予想できるはずもない。

「ああ……絶対にするよ」
  正気の内に一刻も早くこの場を離れるべく、それだけ言って足早に部屋を出た。

 

 

 秋も半ば、過ごし易い季節の変わり目は実感できるほど長くはなく、
  夜風は大分冷たくなってしまっている。ここ一月ばかりの雫との生活が、
  余計に体感時間を早めているのかもしれない。雫と過ごす時間は、穏やかなようで危うい、
  そんな不安定な時間だから。
  偶にすれ違う車のヘッドライトが照らし出す銀杏並木の葉の色は黄色に色づいている。
  それでも時間が経っているのは動かしようのない事実。
  ――この無能者。頭の中から野次が飛ぶ。
  俺は雫を救えちゃいない。守れちゃいない。支えになるだけじゃダメなんだ。
  それだけじゃ破滅が待ってるだけなんだ。堕落が待ってるだけなんだ。
  このままじゃあ何もかもダメなんだ。
  薬を口に含む。服用期間が短いが、それほど害はないはずだ。
  だって俺は例え飲むのがビタミン剤だろうと頑張れる。
  口内で錠剤を転がしながら、雫の舌の感触を思い出すだけなんだから。
  ……それが中毒症状じゃなければ何だってんだ。
  何時から平静を保つための偽薬は麻薬と化した?
  これでは、共依存とは思わないが、俺も雫も完全にお互いに溺れてしまっている。
  その意味が性的なものにに変わってしまう日も間近に違いない。もうここいらが限界だろう。
  そもそも雫の性質上、距離を置くという手段が取れなかった時点で、
  曖昧な関係を維持するなんて土台無理な話だったのかもしれない。
  だが、それにしたって俺が上手く立ち振る舞えばまだ何とかできる余地があったんじゃないか?
  雫の手を引いてやるべき俺が率先して川の深みに落ちてしまってどうする?
  それに、雫の苦しみが一向に取り除かれていないのも俺のせいだ。緩和している自信はある。
  けど、それはあくまで俺が雫と一緒にいられる時に限ってであって、
  雫が独りきりの時にどれだけ苦しんでいるかは定かじゃない。
  現に、毎晩の就寝前の遣り取りで雫は心底心細そうに話している。
  しかも、中途半端に笑って誤魔化そうとするから聞いてるこっちが居た堪れなくなってくる。
  雫の苦しみ――本人は必死に隠そうとしているが、大体の見当は付く。その内容も原因も。
  でもそれは伝聞と推測の積み重ねでしかなく、
  それだけで微細なバランスで成り立っている雫に踏み込むにはあまりに心もとない。
  間違っていましたでは済まされないのだ。雫を傷付けることは誰よりも俺が許さない。

 そのようにして、結局俺は雫を救うことも突き放すこともできず、
  挙句の果てに雫への気持ちを封印するのに失敗したようだった。
  俺はハリボテの虚勢を張ることすらできない。――彼女の狂気を止めうる唯一の方法が
  失敗してしまった。それはつまり、俺の前に目下のところ最大の悩み事が
  待ち構えていることを意味する。

 ――麻衣実ちゃんの退院が一週間後に迫っている――

 俺はどうやったら、彼女の手から雫を守れるのだろう?
  一月かけてもその答えが出ないことが、何より俺の精神を蝕んでいた。

13

 麻衣実ちゃんの入院期間は一ヶ月弱。怪我自体は二週間足らずで完治したのだが、残りは病室に
実質軟禁状態にされていた。手間をかけさせられた腹いせに、彼女の父親が病院側に
そういう診断をさせたらしい。かといって麻衣実ちゃんも素直にそれを受け入れたわけでもなく、
父娘二者間で国際交渉さながらの緻密な駆け引きが行なわれたようだ。最終合意の協定には、
雫を殺した際のバックアップを取り付けられましたと涼しい顔をしていたから。
  その入院もただベットに臥せって安静にしていたはずもなく、父親が持て余していた
人材ではあるが現職の警官を借り入れて、絶えず俺の監視に当たらせていた。
加えてその手のことのプロとは言え、さすがに部外者が学校内部まで覗き見ることは不可能なので、
彼女は俺のクラスメイトに監視依頼を持ちかけ、そいつに俺の動向を報告までさせている。

 妥協もあるが、それは目的達成への段階的なもの。一連の対応に余念はない。
  そんなんで麻衣実ちゃんは、俺が学校では可能な限り常に雫と二人きりでいることも、
ほぼ毎日雫の家に通い詰めていることも、何一つ余すことなく把握している。
それに関しては週に一度のお見舞いに行く度に愚痴られるのだが、先行きが明るいせいか――
俺と雫にとっちゃどん底だが――特に怒鳴り散らされたり泣き叫ばれたりせずに済んでいる。
それは喜ぶべきことだろう。

 ――けど、終わりの時は確実に迫ってきていて、麻衣実ちゃんはそれだけを心待ちにしている。
  夜は雫が占有していて繋がらない回線。麻衣実ちゃんはそれが空くのを健気に待ち続ける。
携帯電話は使用禁止の病院のロビーで、ひたすらに公衆電話でダイヤルする。
十円玉を一枚入れては通話中。二枚入れても通話中。三度かけ直しても通話中。
四度受話器を置いても通話中。何十何百と同じ動作を繰り返し、やがてやっと繋がった電話で
彼女はこう言うのだ。日数だけが
磨り減っていく、死へのカウントダウンを。

「後、七日で幸平先輩は私だけを愛してくれますね」――と。

 ――でなけりゃ、雫との通話が終わった途端に毎度都合よく呼び出しはかからない。

 
  麻衣実ちゃんは告げている。『これは猶予期間です』と。
  それが、本当の意味での理由。麻衣実ちゃんが病室から出ないわけ。
  敵に送る塩はただの援助ではない。そこには遅効性の神経毒が仕込んである。最後の手向けとして
幸福を味わわせた後に、腑抜けたところを狙う寸法だ。
  事実、最近の雫はすっかり俺と二人きりの日々に酔い痴れてしまっている。
  件の騒動以来、遠巻きに避けられていることも関係しているが、ほとんど四六時中
べた付きっ放しだ。麻薬常用者並みに蕩けられ、依存的に心酔されるのが心地よいのは相変わらずだが、
これでは麻衣実ちゃんの存在を覚えているかどうかすら怪しい。こちらからその名前を出すと
また狂乱しかねないし。遠まわしに言わんとしても、無意識下で惚けられてるような節があって
どうしたものか。兎にも角にも警戒心がなさ過ぎる。全部が全部隙だらけなのだから。
 
  ――持て余す、という意味ではどっちもどっちか。少なくとも俺ごときの悩みが届く範囲に
いるような二人じゃない。指折り数えて殺人予定日を待つ麻衣身ちゃんも、
殺されかねないのにある意味泰然としている雫も。ましてやその殺し合いの結末なんて……
俺の知るところにはないのかもしれない。
  ……当然無責任にならない程度に俺も頑張るけどさ。身を挺すりゃ俺だって
雫の盾くらいにはなる。さすがに俺が怪我か重態か――あるいは死か――になりゃ、
麻衣実ちゃんも考え直してくれるだろう。昨日、必死で考えぬいてやっと思い付いた
奥の手がこれとは自分の自己犠牲の精神に嘲笑の一つでも送りたくなるけど。

 そういえば、何考えてるのか読めないことがもう一つ。
  普通、殺しの計画や監視していることを、殺しのターゲットの恋人同然であり、
また監視の対象である男に包み隠さず話すかね? 『幸平先輩の許可を取っておきたいので』って
言われてもさ、ピンとこないというか……、ああやっぱり俺には量り切れねえな。
それが愛の形ってことだけは、陳腐ながらも理解できるんだけど。

 微妙に話がズレているような気がするが、つまりそれは俺が一ヶ月の間自らの監視役に
選ばれた相手と自由に交流できたということである。対象が女子ゆえに雫絡みで
そのタイミングは限定されていたが。――けど、仲間意識くらいは湧いてもおかしくない期間だった。

 

 

「アナタってつくづくどうしようもない男なのね」
  急用とやらで教師の消えた自習時間、そんな言葉をかけられた。
  受験コース別に分けられた特別編成授業では各クラスは分解され、
バラバラに振り分けられるので、この教室に雫はいない。いたら近寄るだけで
涙目で睨まれるだろうから俺に話しかけるような猛者はいないはずだ。
それが例え、性悪の権化であっても。
「今は静かにしとくべき時間じゃないのか?」
「そう思うならベランダにでも出たらどう? 気を利かせられないようじゃアナタも同罪よ」
  まさしく止まることを知らない減らず口にイラつく。人の神経を逆撫ですることにかけちゃ、
コイツは俺の知り合いの中でも随一だ。
  任期が切れて肩書きが前会長に変わったことでいよいよもって好き勝手し始めたのか、
その底意地の悪さが表に出る機会が増大している。
  だが、クラス中が目線は向けずとも耳で様子を窺っているのは事実なので、やむなく表に出た。
  見上げた空は日差しを曇天が遮り、涼風が肌を刺す。少し、冷え過ぎているかもしれない。
「嫌われ者同士仲良くしているようで面白くないな」
「同感ね。でも今更何を思われたって関係ないんでしょう?」
「そりゃそうだ。そうでなけりゃ俺は今頃とっくに雫を見放してる」
「それをどうしようもない男って言うのよ。アタシは目立っても別にいいけど、
アナタはちゃんと竹沢にフォローしておきなさいよ。叩けば割れるガラスのように脆いみたいだから」
  俺の言い切りと同じくらいはっきりとした嫌味が返される。どうしようもないのはお互い様だが、
反応して無益な言い争いの火種を蒔くほど俺も馬鹿じゃない。つーか、ガラスは脆くないぞ。
それを叩いたお人の精神が相当に強靭だからな。
「図星かしら?」
「うるさい違う」
  ニヤニヤ笑うな。見なくてもわかる。

 

 くだらない応酬をしながら、ベランダの端まで移動した。一番端の部屋は空き教室、
ここなら誰の眼も気にすることはない。
  「しかしロクでもないな……。雫を除けば俺の話し相手はもうオマエくらいしか残ってない。
嫌いで嫌いで仕方がない性悪女しかさ」
  ふと思い当たったことを口に出す。口に出してからしまったと思った。
  「リストカットがチャームポイントの地雷女を好きになった愚図に言われたくないわね。
それにこっちだって好きでアナタの相手なんかしてるわけじゃないの。
これ、結構ストレス溜まるのよ?」
  「予想を全く裏切らない辛辣なお言葉をアリガトウ。……それで、そこまでして手に入れた
推薦枠の調子はどうなのさ?」
  麻衣実ちゃんが取引をした相手。大学と警察の仲は基本的に険悪のはずなのだが、
父親が自慢のパイプとやらで口利きをしてやったそうだ。つまり、この前会長――神林久美――は、
合格決定の出来レースを条件に、俺の監視を引き受けた。
  都合は悪くない。俺もコイツも雫も含めて、学年中で浮いてるし。前会長の場合は
その性格のせいだから好きでそうしてるんだろうが。まあ、似た者同士仲良く、
という先程の会話はそういう点では外れているわけでもない。
  「別に……まだ小論文の指導を受け始めただけだし」
  あまり関心がなさそうに答える。
  初めは上位の大学合格だけがコイツの生き甲斐だと思っていたが、ここ暫らく色々と
憎まれ口を叩き合う内に、案外そこまで学歴主義者なわけじゃないと知った。
邪道を用いるのに罪悪感ではなく無気力感を抱く辺り、悪人であることは間違いないだろうが。
  もしかしてわざと悪ぶって見せているのだろうか?
  「何? その安っぽい同情の眼差しは? 人を見て勝手に優越感に浸らないで頂戴」
  小さく浮かんだ疑問はあっさり一笑に付せられる。その皮肉げな笑みがまた似合っていて
不気味だ。無駄に容姿の出来がいいから、妖艶の魔女の微笑にも似た色っぽさがある。
  「そもそも、アナタのせいで、こっちの気苦労が、絶えないんだけど?」
  強調されまくった苛立ちの刺々しさは何時ものことで、俺は平然と聞き流すと
落下防止の手摺りに寄りかかった。
  舌打ちが聞こえた。素行悪いぞ。

 自習はもうどうでもよくなってしまって、そのまま鉄柵の冷えた感触を味わう。
遠目に見える街並みに麻衣実ちゃんがいる病院を探そうとしたが、その方向の大部分は
正面にそびえる本校舎別館が埋め尽くしていた。
「……で、どうするわけ? このまま竹沢を見殺しにする気?」
  少しの間を置いて、前会長が訊いた。どうせそれを訊くために話しかけてきたのだろうに、
なかなかどうして切り出すのが遅い。そんなことにもその高慢なプライドが邪魔をするとでも言うのか。
「オマエが訊くか? それ。麻衣実ちゃんの意向に逆らったら折角手に入れたエリートコースが
一瞬でパーになっちまうじゃねえか」
「だから訊いてるのよ。アナタが竹沢を生かすつもりなら、こっちの苦労が全部水の泡になるから。
もしそうなら気に食わないし、ここでアナタの足を掬ってあげるのもいいかと思って」
  あまりに意地悪く笑うので逆に演出だとわかりやすい。極めて不快ではあるが、これは人一人が
精一杯になって見せている悪意なんだぞと思うと、怒りまでは起きない。
「脅すようだが……多分殺されるぞ。そんなことやったら」
  それでも一応は真面目に答えた。
  恋敵を殺すと宣言した彼女が、俺自身の死に対して何のアクションも取らないはずがない。
恐らくは、その日の内に東京湾にバラバラ死体を実演してくれることだろう。
「……馬鹿馬鹿しいわね。……ミスったわ。取引相手にしてはヤバ過ぎた」
どんな捻くれ者も純然たる狂気の前では無力に等しい。前会長は珍しく弱音を吐くと、
背中を丸めてコンクリートの上に座り込んだ。
  二進も三進も行かなくなって焦る気持ちはよくわかる。ましてやコイツはほとんど部外者だ。
表面だけ関わって死人が出るなんて相当目覚めが悪いだろうさ。
「説得……はできないの?」
  震えかけた言葉を気力で戻した。その意地に敬意を払って気付かないフリをする。
「次のお見舞いで頼めるだけ頼むつもりだ。ただ……」
  麻衣実ちゃんは絶対に首を縦に振りはしないだろう。できるならとっくの昔にやってる。
俺の雫が死んだら彼女に乗り換える薄情な性質を知っているから、尚更口先だけの言葉に力はない。
「わかってるわよ……。期待はしないわ」
  揃って気落ちしたところで、隣接する建造物の合間を縫い、一陣の風が横殴りに吹き付けた。
「うわっ」
  とっさに風下を向く。
  乾いてしまった眼を潤そうと瞬かせると、パタパタとはためくスカートが見えた。
陸上の短距離選手のようなしなやさと長さを持ちながら、何故か女性的な柔らかさのある美脚。
悔しいが眼がいってしまうそれを無遠慮に折り込んだ姿勢で、前会長はそれを押さえることなく
屈んだままだ。
「恥じらいくらいは残しとこうぜ……。オマエを嫌ってる俺が言っても信じられない
かもしれないけど、オマエは一応美人の区分に入るわけで。そんな豪快だとタダ見され放題だぞ」

「……それこそ今更よ。推薦枠の争奪戦で勝つために選考委員の教師に色仕掛けをしたってウワサ、
知ってるでしょ? よくあるタイプだけど、我ながらイイ線ついてると思うわ。副委員長さんから
話を持ちかけられなかったら、きっとアタシはそうしてただろうし」
  何でそこまで大学に固執するのかは私的な問題だろう。首を突っ込むことじゃない。
俺が言えるのは、こんなダウナーな状態のヤツに欲情できるわけもないし、
したくもないってことのみだ。
  雰囲気をさらに重くしただけで、傍迷惑な秋風は凪いだ。
「麻衣実ちゃんは今は委員長だよ。前任が受験期に入ったってことで辞退したから。
後は入院患者を名指しで指名してそのまま多数決。ロクでなしの集団も悪知恵だけは働く」
  沈黙に息が詰まるのが嫌で、瑣末な間違いを指摘した。中央委員の堕落ぶりに手を焼いていたのは
何も内部の人間に限ったことじゃない。相手は仮にも前生徒会長なのだから、そこらの事情は
既知に決まっていた。
「どーでもいいわよ。疲れるから無駄な揚げ足取らないで」
「そうだな。どーでもいいことだったな」
  結局沈黙してしまう。
  話せば話すだけ機嫌を損ねるだけの気がしてきたので、俺は潔く味気ないパノラマ観賞に戻った。
こちら側から見えるのは棟の廊下側だ。誰かに見られる心配はない。最下段の端に映る
白いカーテンの部屋を見付けて、二人分の流血の後片付けをさせられた掃除当番に黙礼した。

「……昨日会いに行ったのよ」
  とうとう堪えきれずに震えた声。誰に会いに行ったかは訊くまでもない。
「中間報告? 何時もお勤めご苦労様だな」
  監視者とその依頼主、どちらの言動も丸々教えてもらえる俺が果たして監視されてると
言えるのかは疑問ではあるが。麻衣実ちゃんはそんなに正直者でいたいんだろうか。
「茶化さないでっ! ふざけてる場合じゃないでしょう!」
「そう、テンパるなよ。会いに行ったってだけじゃ何もわからねえだろ」
  不肖の俺が雫ならともかく前会長を宥める術をそう都合よく思いつくわけがない。
ヒステリックに詰られても、こちらのペースを乱されないように気を配るぐらいしかなかった。
  背中にキツイ視線が突き刺さったが、小さな逡巡の後、前会長の怒りの気配が鎮まるのを感じた。
代わりに、身体を縛り付けるような重苦しい困惑の念が伝わってくる。
  やがて、前会長はそれを告げた。

「……副委員長さん、拳銃持ってたわ」
「そうか……」
  そこまでするか。麻衣実ちゃんよ。

「最近のアナタの様子を話し終えるなり、いきなりこっちに向けて一発。……当然、弾は外れたし
銃声もしなかったわ。でも、確かに本物だった。後ろの壁に穴が開いてたのよ……。
……それで顔色一つ変えずに『試し撃ちですよ。最近イライラが溜まっているものでつい。
どの報告でも竹沢先輩が幸平先輩を独占しているから弱っちゃいますよ。……ああでも、
先輩にはくれぐれも気にしないように伝えておいてください。私は冷静ですし、それにこれは
あくまで最終手段ですよ。消音の加工こそありますが、これじゃあ偽装が無理ですので』って……。
――狂ってるわよっ!」
「俺は何度も忠告したぞ。――その度に鼻で笑われて話も聞いてもらえなかったけどな」
  前会長が怯えだして聞き出した頃にはもう抜け出せなくなっていたのだ。
「黙って! 元凶のアナタが白々しい態度とってんじゃないわよっ! 馬鹿馬鹿しい馬鹿馬鹿しい
馬鹿馬鹿しいっ! 何でアンタ一人のためにそこまでするわけ!? アンタの何がそんないいわけ?
  竹沢はそんなことで殺されなくちゃいけないわけ!?」
  麻衣実ちゃんは正直過ぎるから、その狂気が本物に見えなかった。自意識過剰な演出に見えた。
剥製だと思っていたライオンに跨って遊んでいたら実は生きてましたなんてどれほど
恐ろしいことか。事実を知ってしまってはそこから飛び降りる勇気を持つのは並大抵のことではない。
  全てを受け入れている俺と違い、前会長は寸前になって事の重大さを認識した。
そしてそれに恐怖した。殺人という言葉の重み。細かい理屈なんて要らない。
人一人が取り返しのつかなくない世界に行ってしまうことへの拭い去りようのない不安。
そういうのに直面させられているんだ。
「アタシはっ……、ここまでヤバイなんて思ってなかったのよ……。最初は、今までこき使った
仕返しに嵌めようとしてるのかと思った。でも、先払いで推薦枠に入れてくれたからは
このまま利用してやればいいやって……。それでそのまま続けてたらこんな……」
「……ゴメン」
  コイツは口も性格も悪いし、関わっても気分が悪くなるだけだし、嘘でもなく友達として
やっていける自信さえない。けど、だからといってコイツが深入りさせてしまった責任は俺にある。
本人が乗り気だったので止めなかったところもあるが、それはコイツならどんな荒事でも
平気だろうと決め付けていた裏返しでもある。

「……アナタが謝ったって何にもならないわ。わかってるわよ、自業自得だって。引き受けたのは
アタシ。思い違いをしていたのもアタシ。……だから同情の余地なんてこれっぽっちもないわ」
「気丈だな……。その調子で頑張ってくれ。麻衣実ちゃんのほうは俺が何とかするさ」
  それこそ死ぬ気で。
「アナタに頼って祈ってろって……? ……余計なお世話よ。馬鹿にしないで頂戴」
  他人の心配をどうしてそう無下にするかね。
  けどようやく立ち上がってスカートの汚れを落とす前会長の仏頂面を見る限り、何はともあれ
復活してくれたようだ。関わりのある人間が不調になられると、どうにも気分が悪い。
「そうだ……忘れてたわ。今日の放課後も生徒指導室に来るようにって、梶山が」
  教室に戻ろうとした怒り足が、はたと動きを止めて振り返る。
「またか? もう十回超えてるんじゃないか? ……たくっ、そんなに俺を雫に
構わせたくないのかね? 何言われても聞く気なんてサラサラないのに」
「こっちに言われても困るんだけど? アタシはただの伝言係よ。
むしろ、指導を担当してるからって小間使いにされて嫌になってるのはこっちのほう」
  不満げに睨むのも最もだが、これでまた帰り際に雫がごねる。生徒指導というのならそれこそ
雫共々すべきだと思うが……、雫を問題児扱いして相手にせず、馬の俺から射ようとしてるのが
バレバレだ。正直教育者としてどうかと思う。受験期で効率重視とでも言うつもりかよ。
  前会長は呆れ顔の俺にまるで中小企業の下請け役員のように年季の入った溜息を吐くと、
「……まあ、精々可愛い彼女さんの手首にこれ以上傷が増えないように
ご機嫌とってあげなさいな。壊れないように丁重に。縋ってくるわよいくらでも。
……それしか希望がないんだから」
  皮肉でも嫌味でもない。彼女がするなと俺を叱り付けた感情を。吹けば消えるような安っぽい
同情心を露にして見せた。「殺させないでよ」との呟きが聞こえたのは空耳と思いたくはない。
  どうしようもないのはお互い様。それでも前会長は正面きって俺を悪く言ってきた分、
遠巻きのする噂のような陰湿さはなかったし、何よりほんの少しだけだけど、
雫に優しいような気がした。

 ――それだけに結局最後まで良好な友人関係を築けなかったことを思うと、
この時が唯一のチャンスだった気がして、俺は悔やんでも悔やみきれなかった。

2006/09/02 To be continued....

 

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