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二等辺な三角関係



1

 「お父さん……もうきっとわたしのこと忘れちゃってるんだろうな……」
  自嘲的な響き。
  でも、泣き顔でないし、現実を受け入れつつある分、半月前よりマシだ。
  「あーー、その、大丈夫だろ」
  俺は悩めるクラスメイトを慰めるため、気恥ずかしさを押し殺す。
  「……竹沢みたいな可愛い娘のことを簡単に忘れられる親父なんていないって」

 とびっきりの甘言だ。
  脳が蕩けてそうな台詞を自分が吐いていると思うと眩暈がする。
  しかし、その効果は絶大。
  竹沢はびくりと全身を震わせると、鮮やかな朱色に染まった。

 「……こ〜ちゃんはやっぱり優しいなぁ。ありがとう。わたし頑張るよ」
  溢れる喜びを隠そうともせず、竹沢は嬉しそうに円らな瞳を俺に向ける。
  そんな純粋なリアクションをされたら、逆に俺のほうがその顔を直視できない。
  むずかゆい気持ちを紛らわせるように、竹沢のか細い肩をポンポンと叩いた。

 「撫でて」

 その手を取られ、両端で括られた髪の根元に導かれる。
  「……またか……。お前、ちょっと現金すぎないか?」
  「だって……」
  「あー落ち込むな、涙ぐむな、自分に自信を持て、…………わかったよ」

 竹沢を元気付けるには激甘の口説き文句まがいと、べたべたのスキンシップが有効。
  経験則でわかっているため、俺は文句を垂れるのを我慢する。
  機械的に手を動かすだけの俺の撫で方でも、竹沢は眼を閉じて恍惚そうにされるがまま。
  お互いに無言で時を過ごす。

 

 竹沢雫。
  その父親が蒸発したのは一ヶ月前のお盆。夏休みの真っ最中。
  俺が誰もいない教室で泣いている竹沢を見つけたのが半月前の始業式の日。
  天真爛漫で小柄、その上童顔ときてみんなに可愛がられている。
  そんなクラスのマスコットの素顔を俺は垣間見てしまった。知ってしまった。
  以来こうして放課後に竹沢を慰めるのが日課になっている。

 下校時間一時間前を知らせるチャイムが鳴り響き、俺は撫でるのを止めた。
  竹沢が上目遣いで帰り支度を始める俺の様子を窺っている。
  名残惜しそうな寂しそうな、簡単に言えば見る者の保護欲を駆り立てる目付き。
  まるで一人家に残されるのを嫌がる幼児が親に縋りつくように。

 これは正常な関係なんだろうか?

 ――愚にも付かない質問だ。

 「行っちゃうの?」
  「……そんなこと言っても俺は消えたりしないから。また明日だ、また明日」

 こいつを見捨ててはいけないという身勝手な義務感に俺は囚われている。
  仮面を外した儚い素顔を見てしまった者として。
  竹沢の支えになってやるだけだと、俺は自分に言い聞かせた。

 

 廊下を挟んで職員室の対面にある教室の半分くらいの部屋。
  印刷室は大型のコピー機が三台並べてあるので実際の広さより手狭に感じる。
  「いつもお勉強ご苦労様です」
  抑揚のない声は、しかし毎度毎度遅刻する委員長に対しても丁寧至極だ。
  長髪黒髪の見目麗しい後輩が俺の気配に振り返る。

 中央委員副委員長こと、椎名麻衣実ちゃんだ。

 「敬語なんか使わないでくれ。麻衣実ちゃんのほうが俺なんかよりよっぽど偉いさ」
  役職上なら委員長である俺の部下だが、実際の権限は彼女のほうが強い。
  生徒会の雑用係と揶揄され、俺も含めてやる気のない委員どもを纏め上げる手腕が、皮肉にも
  その生徒会から評価されているからだ。
「先輩が嫌ってる生徒会の評価でそう言われても嬉しくないですね」
  淡々と言う。
  ……そこまでストレートだと責められてるみたいだな。
  「……印刷とか業務連絡とか単純労働ばかり押し付けられれば、嫌いにもなるだろ」
  「じゃあそんな先輩に、これどうぞ。50部丁度お願いします」
  すまし顔で、A4用紙を一枚手渡される。
  「50も? そんなに何に使うの」
  「先輩……? 明日の放課後の定例会議、忘れてるんですか?」
  感情の起伏に乏しい麻衣実ちゃんだが、語尾が微かに震えている。
  そのことに焦った俺の脳は、なんとかスケジュール表を海馬から引っ張り出した。
  「……思い出した。会議室でだったかな」
  「サボらないでくださいね?」

 月一で行なわれる定例会議担当の中央委員は何度注意しても欠席する。
  そのしわ寄せが来るのは責任者である俺と麻衣実ちゃんだ。
  俺がいないと麻衣実ちゃん一人がこき使われてしまいかねない。
  不安になる気持ちはよく理解できた。

 

 「心配しなくてもちゃんと出席するよ。今月は麻衣実ちゃんに迷惑かけっぱなしだし」
  「そう……ですか。……なら、いいんです」
  俺は竹沢の相手をするために、下校時間一時間前までを自由時間にしてもらっていた。
  受験勉強という名目で麻衣実ちゃんに無理にお願いしたのだ。
  彼女は文句一つ言わずに承諾してくれた。
  日頃のお礼も兼ねていつか恩返しをせねばなるまい。

 「久しぶり……本当に久しぶりに先輩とずっと一緒の放課後ですね……」

 「何?」
  俺の使う旧式の印刷機はガタガタと稼動音がうるさい。
  彼女の小さな科白は聞き取れなかった。
  「いえ、インクが切れそうなので取り替えようかと」
  赤く点灯したランプを指差して、麻衣実ちゃんは静かに微笑んだ。

2

 それから暫く世間話をした。
  稼動音に消されないように大き目の声で。
  廊下に漏れたかもしれないが、別に聞かれて困るような話でもない。
  ささやかな上層部への愚痴くらい許容範囲内だろう。

 麻衣実ちゃんは自分からどんどん話題を振っていくようなタイプじゃない。
  でも代わりに聞き上手なので俺達の会話はよく弾む。
  だが、俺は今日一つの失態を演じてしまった。
  麻衣実ちゃんの平淡な独特の話し方で大きな声を出すと間の抜けた棒読みになる。
  話の途中でそのことに気付いた俺は、ついそれをからかってしまったのだ。

 ――瞬間、

 麻衣実ちゃんの平生の無感動とその直前の上機嫌(彼女にしては)が嘘のように消え去った。
  不機嫌オーラ全快でそっぽを向いて
  「……いいです。どうせ私は台詞棒読みの大根女優のような鬱陶しさがお似合いですから」
  とボソッと呟いた。

 麻衣実ちゃんが拗ねた。

 それはもう見事な拗ねっぷり。
  麻衣実ちゃんのイメージと凄まじいギャップがあるその行為。
  めったに見られないそれが俺に向けられているのは喜ぶべきか否か。
  いそいそと帰られてしまって、孤独に下校する身としては難儀だと思う。

 もう一人考えられる下校相手、
  竹沢は教室まで行ってみたがいなかった。
  俺が委員に出ると早々に帰ってしまうらしい。
  何処までも現金なヤツだ。受験勉強をする気はないのか?
  同学年の大半の生徒は塾か予備校に行っているので他に人はいないし。
  まあ、そうでなければ放課後の教室とは言え頭を撫でるなんて無理だけどさ。
  あるいは、生徒会の面子も残っているが、この選択肢はノータイムで却下。
  「……結果、寂しい帰り道だな……」
  そんなことを考えながら俺はのん気に正門を出る。

 

 そして、凍り付いた。

 

 「……こ〜ちゃんはっ、わ、わたしをっ、みず、でだりっ、しないよ、っね?」

 鋭い息継ぎが何度も入り、途切れ途切れに言葉を放つ。
  二つに括られた栗色の髪は、上下する小さな体躯に合わせて揺れている。
  誰かは明確だ。
  高三にもなって誰も彼もをちゃん付けで呼ぶ女を俺は一人しか知らない。

 帰って……、なかったのか……。

 ――――それは間違いなくグズグズと脇目も振らずに涙を零す竹沢雫の姿だった。

 崩れたその可愛らしい顔が乱れた声で俺に訊く。

 「いんざつじつでっ、ずっと、ずっと、ずぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅと、
  はなじでだのっ、だれ?」

 印刷室? 話していた? ――――誰? ――――麻衣実ちゃんだ。

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
  俺達は廊下に漏れてもおかしくない大声で話していた。

 

 俺はそこで思考停止する。意味がわからない。だから何だ?
  竹沢は動かない俺に構わず全身で強く強く俺に抱きついてくる。
  いざ密着されると竹沢は本当に小柄だ。
  頭が俺の胸の辺りにある。
  腹に押し付けられた胸は薄いながらも竹沢が女の子である証拠であり――

 マズイ。俺は直感的にそう思った。
  こいつはヤバイと。判断した脳から伝令が全身に渡る。
  この錯乱振りは半月前の比じゃない。

 ――もっと異常な何か……。

 「……たっ、竹沢っ……、、、まずは落ち着こう、なっ? ホラ、離れないと話も出来ないし……」
  ゆっくりと回された腕を引き剥がしにかかる。
  対して、竹沢は俺の胸に埋めていた顔を引き上げ、搾り出すように――

 「だいずぎです」

 ――俺の制止は間に合わなかった。
  鼻声だろうとグシャグシャの泣き顔で言おうとそれは紛れもない告白。

 ―――そんな竹沢は、どうしてだかわからないが、酷く魅惑的に思えた。

3

 「歴史の授業中、け〜ちゃんと教科書見せあいっこしてた。机くっつけて肩よりそって。
  残暑がキツイ一日ですって天気予報も言ってたのに、べったりと。貸して欲しいって言ってくれれば
  喜んでわたしのを貸してあげたのに。……わたしは教科書なんかなくたって構わなかったのに」

 「お弁当、み〜ちゃんと美味しそうに食べてた。たこさんウインナーおいしそうだねって。
  ……わたしのお弁当のカニさんだっておいしかったのに。…………食べたいって言ってくれれば
  あ〜んして食べさせてあげたのに」

 「掃除の時間、イスに乗って窓拭きしてたく〜ちゃんのスカート眼で追ってた。
  ジロジロ食い入るように見てた。………………見たいなら見たいって言ってくれれば、
  わたっ、わたしが――」

 「……そこは男のサガってことで無視してもらいたかったりな?」
  危ない気配を察知してなるべくさり気なく話題をずらす。
  「………………………ぐすっ」
  「……悪かった。もうしない、もうしないから。だから落ち着いてくれ……」
  弱りきった俺はただ曖昧な返事をするしかない。
  竹沢から告白された翌日。
  静まり返った二人きりの教室は何時もどおり。
  ただ、見るも無残な面持ちでいる竹沢の依存癖は、在りし日のそれより明らかに酷かった。

 ――完全無欠。完膚なきまでに俺の落ち度だ。

 依存だ、依存症だ。『症状』だ。
  ……片鱗ならいくらでもあったのに……。

 例えば、過剰なスキンシップ。
  例えば、蕩けるような囁き。
  例えば、常識外れの泣き虫。

 

 父親が失踪したとはいえ、そこまで安定しないメンタリティに異常がないはずがない。
  ……慰め続けていれば大丈夫だろうとタカを括っていた自分が情けない。
  いや……、敢えて見ないようにしていたのかもしれない。
  竹沢が悲しむのを恐れて。

 結果どうなったか?
  竹沢の依存の対象が一月経っても帰ってこない父親から俺へとシフトされただけだった。
  加えて、愛の告白をされた。

 神に訊こう。俺にどうしろと?

 受け入れて依存の受け皿にでもなってやるのか?
  拒絶してあのまま泣き叫ばれ続けるのか?

 ――昨日はあれから、近くの公園まで何とか竹沢を引っ張って行った。
  説得すること約一時間。
  『見捨てないで。置いていかないで。独りにしないで』
  そんな感じの言葉を壊れたように繰り返す竹沢。
  仕舞いには告白の返事を保留にしてくれるように頼み込んできた。
  俺が竹沢に好きじゃないと返せば、それで縁の切れ目と思ったのだろう。

 ……拒否しても損しかない。答えの引き伸ばしは双方にとって有用だ。
  俺は何とか断りの返事をしても竹沢が正気でいられるようにすればいいんだ。

 「って言ってもな……」
  俺が原因、自業自得にしても限度があると思う。
  これは少し、……いやかなり重い。重過ぎる。

 

 昨日で覚醒してしまった竹沢は、教室で二人きりになるやいなや問い詰めを開始した。
  同時に俺の隣の席に座る。
  羞恥心などかなぐり捨てているのか、机どころではなく本人が完全密着。
  もしかしたら、その席の本来の持ち主である、け〜ちゃんこと、本橋圭への嫉妬心を
  晴らしているのかもしれない。

 俺はなるべく自然に肩にへばり付く竹沢の頭を押し退けようとする。
  「こ〜ちゃん……」
  首を捻って避けられた。

 「あのな……。大体お前今日一日中平気そうな顔してただろうよ。昨日の今日で心配になって
  声かけてみれば『どうしたの? こ〜ちゃん。もしかして数学の宿題忘れたのかな?
  あはは、ごめんね。わたしもやってないよ』――何だこれ。ギャグでやってんのか?」
  「教室でくっ付いたらこ〜ちゃん困るでしょ……?」
  「……確かにその通りだけどな」
  「だから我慢してたんだよ……。……みんなに怪しまれたらダメだから……」
  吐息が首筋にかかる。
  この行動が周りから奇異に映ることは理解してるのか。
  「変なところでしっかりしてるな……。じゃあその勢いで離れて――」
  「……お願いだから見捨てないで。――放課後だけっ、放課後だけでいいからぁ……」

 ――ゼロ距離で震えられたら、どんな鈍感だって気付くだろうさ。
  ……畜生。
  ただの自己中が俺に寄生してるだけだったら遠慮なく見捨ててやったんだっ……。

 「……なあ、お前の親父はどうやったらそんなに娘に慕われるようになったんだ?」
  やや皮肉を篭めた疑問に、しかし竹沢は無言で俺に絡みついた腕の力を強くしただけ。

 

 圧し掛かる重圧はそれほどでもない。
  でも、全身を預けられる感覚と、鬱陶しい泣き言が真綿で俺の首を絞めてくる。
  『依存されている』その事実が、心底重苦しい。
  逃れようとしても逃れられない重荷を背負っている。
  不可避の責任が俺と一体化しているような錯覚さえある。

 俺は――、もう何もかもを忘れてこうして竹沢をあやすしか術がない。
  それでも――、こうしていることに意味がある気もする。

 複雑に思考が交錯し、俺はその統合作業を中断する。

 

 無意識に堕ちていく頭の中で、唯一つ見えるシーンがある。
  滂沱で滅茶苦茶になった竹沢の顔。――昨日の告白の場面。

 あの瞬間が眼に焼き付いているのは何故なのか…………。

 

 疑問の答えを探す気力はもうない。

 聞き慣れたチャイムの音も、俺の意識を呼び覚ますには力不足。

 ――そんなこんなで、俺は麻衣実ちゃんとの約束を物の見事に忘れていた。
  さらに悪い事に、様子を見に来た彼女は教室の前に立ち尽くしていた―――。
  俺はそんなこと、夢にも思わず予測もできず、無論、妄想でも思い付けなかった。

4

 扉の向こう側、明り取りの小さなガラスの先の光景は悪夢より苦々しいです。

 私は体の奥からこみ上げる衝動を既のところで耐えています。
  張り裂けそうな胸の裡を惨めに晒すことがないようにしています。
  取り繕った無表情で、だけど眼球は二人の接触部に釘付けになっています。
  女の先輩が愚図っています。
  男の先輩が困惑の表情を浮かべています。

 それは、

 ―――――私の愛しい愛しい先輩に竹沢雫先輩が抱きついている。

 そんな光景。

 「こ〜ちゃん……」

 舌足らずな呼称がくぐもりながらも確かに私の鼓膜を貫きました。
  ――こ〜ちゃん――幸平――、先輩の名前、私が一度も呼んだことのない――

 「……っ!」

 取っ手にかけた手が動きそうになるのを、爪を掌に食い込ませて耐えます。
  もしこの扉を開いたら先輩に気付かれてしまうかもしれません。
  気付かれたら先輩に嫌われてしまう。――それは許されません。許せません。
  私は優秀で冷静で無感動な先輩の頼れるパートナー。
  先輩の最大の味方にして、縋りつける拠り所。
  その私が動揺して醜い姿を先輩に晒してしまうなんて、絶対に、絶対に許されないんです。

 けれど、

 噛み締めた歯がぎりりと鈍く擦れています。
  全ては先輩に愛してもらうため。
  そう思って悲嘆し憤る気持ちを固めて固めて閉じ込めてきました。
  だけどいくら硬い結晶にしても、先輩不在の時間の圧倒的な鋭利さは、
  いとも容易くその外壁を削り取るんです。
  削り取られた残骸は、心の底で泥に塗れて輝きを失います。
  輝きを失えば、尚更先輩が愛しくて堪らないんです。欠落を補充してもらいたいんです。
  修復無しに傷付く期間が長引いているのも辛いんです。

 

    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
  ――だってもう半月になります。こうして心を抉られるようになってから。

 一度も見咎められていないのは、受験教育のカリキュラムが等閑な県立高ならでは。
  誰も彼もが自主的に勉学に励んでいるようです。
  まあ、本校舎四階東側の全クラスが無人になっているのを確認し、扉と壁の凹凸で身を隠し、
  さらに周囲の警戒には気を配ってますからそう簡単に下手は打ちませんが。

 ……それにしても仕方なしとは言え、先輩が誰か他の女の人とくっついているのは、
  避けられるならやはり避けたいのに変わりはありません。
  もしこれが天運でないのならば、あの月の始めの厄日を暦から消してくれないでしょうか。
  それができないならせめて呪いをかけさせて欲しいです。
  先輩と竹沢先輩の偶然の出会いを演出してくれた生徒会の冗長な反省会に。
  他人事のように言いたい放題やっていた役員の非難のお蔭で先輩は帰りが遅くなり、
  あの憐れな羊を見つけてしまいました。
  先輩の性格上、一度関わってしまった以上はそのまま捨て置くなんてできないません。
  出会ってしまえば避けようがなかったのです。
  それが先輩の本質であり、長所なのですから。

 ――先輩、私はあなたのその類まれなる責任感を誰よりも評価していますから。

 悪態をつき、愚痴を零し、怠惰を熱望し、無気力を演じても、私にはわかります。
  照れ隠しや空気を和らげようとした振る舞いの裏に隠された先輩を、私だけがわかっています。

 文書作成やコピーのような味気ない雑用を、膨大に押し付けられる日々。
  職務怠慢な委員達を抱え、途方に暮れた委員長と副委員長。
  何だかんだ言っても先輩はその立場から決して逃げたりはしませんでした。
  責任を放り出したりはしませんでした。
  それは、前年度生徒会役員で、仕事のノウハウを知っていた私に教えを請うほどです。
  上級生が下級生に手取り足取りの指導をお願いしたんです。
  文章のレイアウトや印刷機の使い方のような単純な知識でしたが、先輩は進んでそれを学び、
  頼れる後輩として私に多大な感謝と信頼を寄せてくれました。
  愚痴りながらも熱心にキーボードを叩き、同時に私を褒めてくれる。
  そんなどこか抜けているアンバランスさも先輩の魅力だと思います。
  そして、先輩のその姿勢はもうすぐ任期の終わるこの時期になっても変わりません。

 

 そうやって、私と先輩は、私が先輩をリードする形でひたすら二人三脚を頑張ってきたんです。
  だからわからないはずがないんです。

 無遅刻無欠席は最早義務、毎日放課後まで雑務に追われ、自宅でも持ち帰ったデータを検討し、
  受験生なのに夏季休業の大部分を犠牲にしてまで身を粉にして働いている。
  そもそも三学年は勉強に専念していいことになっており、参加は個人の自由なんです。

 そこまでしていて、
  私が先輩のお粗末な欺瞞を見抜けないはずがないじゃないですか。
  先輩の真の姿に魅せられないはずがないじゃないですか。
  先輩が好きにならないはずがないじゃないですか。

 信頼しあった二人が恋に落ちるのは自然な流れです。
  職場結婚は常に婚姻理由のトップになっています。
  ……この間見たテレビでは二位に転落してましたがそれは何かの間違いです。
  そう、職場で頼れる上司に部下がころっといってしまうのは恋のお約束。
  立場が逆になってますが、私に先輩が転んでくれるのは決定事項。

 ――しかしそれだけに、先輩の責任感を悪用するような遣り方を承知できるはずもありません。

 騒々しく、まるで開戦を勧告するサイレンのように。
  合成音声のチャイムが学校中に木霊しました。

 ――先輩に約束を反故にされたのはこれが初めてです。
  定例会議はとっくに始まってしまっています。
  ……この合図でも無理なら、恐らく今日はもう先輩は私のことを思い出してはくれないでしょう。
  どうしようもありません。いくら先輩だって混乱状態では正常な判断は難しいに決まってます。
  全てはあの人の責任なのです。

 一抹の寂しさと未練さえも外面から覆い隠し、私は踵を返してこの場を離れます。

 ――――けれど、それは決して負けを意味するものじゃないですよ。

 

 先輩せんぱい幸平先輩。

 まずは名前で呼ばせてくださいな。

 あなたの優秀な部下は、あなたの唯一のパートナーは、あなたの親愛なる後輩は、

 あなたに依存するだけのあの人の存在を許容できません。

 先輩を悩ませるだけの人なんていなくなっちゃえばいいんです。

 先輩に負担をかけるだけの人なんて消えちゃえばいいんです。

 心からそう願います。他の誰でもない、私が先輩の隣で役に立ちたいんです。

 だけど私は沈黙します。沈黙してあなたを見守り続けます。

 先輩は苦しみの中で何時も私に助けを求めてくれました。信頼を置いてくれました。

 あなたに必要とされる事が、私の存在意義なんです。

 あなたが求めてくれるなら、例えこの身さえも喜んで投げ出すのが私なんです。

 依存は愛じゃありません。そんな愛は認めません。

 だから先輩があの人を見捨てようと、それは責任の放棄ではありません。

 世界の真理です。世間の常識です。社会の通念です。気にしてはいけません。

 私は待っています。

 先輩が、そんな枷を放り捨て、私を愛してくれるのを。求めてくれるのを。必要としてくれるのを。

 

 

 私は竹沢先輩と先輩、二人の役者の依存と憐憫が織り成す茶番劇のたった一人の観客です。

 開幕に心から震え上がり、成り行きを固唾を飲んで見守り、閉幕に大仰な拍手を捧げます。

 劇中から排除された、ただ沈黙するだけの外部の存在。

 しかし全てが終わったとき、疲労困憊の役者が駆け寄るのは私なんです。

 歪んだ関係の末路で、あなたを受け止めてあげるのは私なんです。

 ―――――それは、間違えないでくださいね。

 リノリウムを淡く照らす西日が、まるで天から降り注ぐ祝福に思えます。

 私との約束を忘れてしまうくらい竹沢先輩の依存は悪化しているようです。
  そろそろ先輩がそれに関して相談を持ちかけてきてくれることでしょう。
  先輩が私に堕ちてくれる第一歩です。
  ここまで半月もかかってしまいましたが、ようやく成果が出始めようとしているんです。
  覆い隠した感情を凌ぐほど、今にも小躍りを始めそうなほどにうきうきが溢れています。

 ――折角ですから、痛んだ心の空洞を塞いでくれる手段も合わせて探しておきましょう。

 私は無人の廊下で、初めて無表情を崩して微笑みを浮かべました。

5

 「中央委員は何やってたわけ? 先週の定例会議、誰も出てこないとか困るんだけど?」
  俺がそのことを思い出したのは、帰り際の昇降口だった。
  いきなり呼び止めてきたご立腹の生徒会長にそう言われるまで、完全に忘れていたのだ。
  しまったと思ったのが顔に出てしまったのだろう、わざとらしい溜息を吐かれた。
  「全く以て使えないわね……。もう少しで任期終了なんだから無駄に仕事増やさないで」
  「悪かった……。それで、結局資料のほうは大丈夫だったのか?」
  あれはあの日の前日に印刷して、麻衣実ちゃんが持っていたはずだ。
  彼女が資料を渡していないならば、下手すると定例会議自体中止したのかもしれない。
  「そっちは問題なかったわ。――資料だけ置いて帰るのもいい根性してるけどね」
  高飛車女の嫌味は無視する。
  まったく、こいつがいなければ俺は3割り増しで生徒会が好きになれるだろうに。
  「そうか、ならよかった……」
  「よくないわ。――これ、埋め合わせでやっておいて頂戴」
  したり顔でディスクケースを手渡す辺り、委員の欠席によって特に問題が起きなかったのは
  事実らしい。この女は余計な労力をかけることを何より嫌っていて、
  もしそうなら怒鳴るくらいはするだろうから。
  それに麻衣実ちゃんが先週の手落ちにまだ謝罪していないとは考えられない。
  「ラベルは……、来期生徒会選挙立候補者の応募用紙か。期日は?」
  「明日の朝よ。じゃあ頼めるかしら、委員長さん?」
  偉ぶった態度がどこまでも気に障るが、落ち度がこちらにあるので仕方がない。
  むしろ、それがわかっててデカイ態度でいるんだろうけどな。
  不本意ながらケースをカバンにしまう。

 念押しまでされたのに、俺は会議に出なかった。
  俺は向けられた信頼を蹴飛ばし、責任を放棄した。
  麻衣実ちゃんが怒って帰ってしまったのも無理はない。
  こいつにパシられるのはきっと神様が俺に与えた罰だろう。

 「遅くなっちまったが、後で麻衣実ちゃんに電話で謝っておかないとな……」
  「ついでに文句の一つも浴びせておいてよね。でないとアタシの気が晴れないから」
  推薦入試の評価を上げるために立候補したと公言する会長。
  麻衣実ちゃんとは天と地ほどの差があるその後姿を見送りつつ、俺は靴を取る。
  ……あんなのを見ていると麻衣身ちゃんがどれだけいい子かよく分かるな。

 「お話終わった?」
  「……おっと」
  竹沢は昇降口を出てすぐのところで待っていた。
  面倒なのに捕まってしまったので先に行かせたのだ。
  「こ〜ちゃんと初めて帰れるねえ〜」
  向日葵のように眩しい喜色満面。
  竹沢をマスコットと俺が評す所以。
  何も知らないクラスメイトにとって、竹沢は見ているだけで元気が出てくる存在だ。
  それは竹沢の依存癖を知っている俺も例外ではない。
  思わず、会長のせいで覚えた苛立ちが吹き飛んでしまう。

 「そうやってずっと笑っていてくれたら助かるんだけどな?」

 ――なのに竹沢は、

 「無理だよ」

 その笑顔を寂しげな微笑に変えてしまう。

 「こ〜ちゃんに見捨てられると思うと恐いよ。とっても恐いよ。――だからわたしはね」

 パールホワイトの携帯を開き、液晶画面の数字の並びを見せる。

 「一晩中わたしとお話して欲しいんだよ。――後輩さんとじゃなくて」

 ――緩んだ頬はあっという間に引き攣ってしまった。

 会長は恋人どころか友達としてだって対象外だぜ……。そう警戒してくれるなよ……。

 盗み聞き、だろう。俺が麻衣身ちゃんに電話を入れると言ったのを聞いたらしい。

 告白から約一週間。
  竹沢の侵食は広がっている。
  それも眼を見張るスピードで。
  『放課後』の解釈が翌日の放課後までに変わってしまうのはそう遠くないかもしれない。
  現にとうとう今日は一緒に帰る事を押し切られてしまっている。
  竹沢がクラスの中でも理性的でいられる限界は近いかもしれない。

 最近では俺が他の女子と話しているだけで怯えているように思える。
  そのせいで、今週からは麻衣実ちゃんに頭を下げて、委員の仕事も完全休業。
  やはり直接の原因である娘といるのは、どう考えても竹沢を刺激しそうだったから。
  だから会議のことを聞く機会もなく、思い出せずにいた。
  麻衣実ちゃんも言ってくれれば……、俺を責めてくれればいいのに……。
  理由も言わず、働きもせず、そんなんでは黙って許してくれる彼女に申し訳が立たない。

 「こ〜ちゃんの声が聞けるなら寂しくないし、たくさん安心できるよ」

 俺の苦悩を気にも留めず、竹沢は自己完結してる。

 たった一度。そうたった一度なんだ。
  俺と見ず知らずの後輩の仲良さげな会話を聞いただけで、竹沢は半狂乱になった。

 そして、タガが外れてしまった。壊れてしまった。狂ってしまった。

 元来の人格は善人だと思う。
  しかし、そこに依存と恋愛が混ざると簡単に歪みが生じてしまう。
  孤独感と嫉妬心がセットになっていて、それが竹沢を暴走へと駆り立ててしまう。

 ――――これじゃあ現状維持の選択肢も消滅かな。

 強張った顔に貼り付いた苦笑いが偉く滑稽だ。

 「それにとっても大切な話だからこ〜ちゃんも聞きたいと思うんだ」
  逃げ道をなくした俺を竹沢はさらに追い込む。

 笑顔で信頼と愛情をばら撒く。

 「わたしはね、これでもかなり気を遣ってきたんだよ?」
  「何を、……言ってるんだ?」
  脈絡のなさについていけない。
  これじゃあまるで精神病患者だ。

 ――いや、馬鹿か俺は、依存症は精神病のお友達みたいなものだろうが。

 

 「そんな恐い顔しないで……。わたし頑張ったから……、……頑張ってきたから」

 泣き顔で依存と嫉妬をぶちまける。

 「わたしたちが二人でいるために、……わたしは頑張ってきたんだよ」

 わからない。何もかもがわからない。
  こいつの考えている事は全部わからない。

 「………初めて優しくされてから、ずっとずっとずぅぅぅぅぅぅと、我慢してきたんだよ…………」

 だから何をだ。

 「……えへへへへぇ〜」

 断言する。お前の脳みそは溶けている。

 「だからね、わたしは知ってたんだよ。知ってたから鍵をかけるようにしたの」

 鍵? 教室の鍵のことか?

 「……誰かがいるのはわかってた。毎日のように扉の向こうに立っていたんだよ?」

 誰だそいつは? 頭のおかしなヤツをこれ以上俺の側に増やすな……っ。

 「結局、扉を開ける勇気はなかったみたいだね。そのせいでなかなか顔が見えなくて
  大変だったんだあ。……でもね、今週になってからは扉を開けたりはしないんだけど、
  ガラスにぴったりくっ付いてて……、それでちょっとずつわかってきて……、
  ……やっと今日特定できたんだよ……」

 誰だ? 誰だ? 誰なんだ? 言うなら早く言ってくれっ!

 「その人に、こ〜ちゃんを取られるのが恐かったから……。すっごくすっごく恐かったから……。
  頭の中が真っ白になって、膝ががくがく震えて、お腹がきりきり痛くて、涙が溢れてきて、
  辛くて辛くて堪らなかったから……」

 ――――――もう、いい。

 「……寂しかったんだと思うんだ。それはわたしもわかるんだ。だけど……だけどね、それでも
  わたしはわたしが寂しくなるのだけは……、こ〜ちゃんがいなくなるのだけは……」

 お前の理屈は―――――――――――――――――――――――最高に意味不明だ。

 「だからその人を今夜、こ〜ちゃんに教えてあげる」

 ……………。

 「こ〜ちゃんとわたしの仲を覗き見するようなわるい人はこ〜ちゃんも嫌いだよね?」

 ……………。

 ……………。

 ……………。

 「ねっ? 嫌いになってくれるよね? ……そう、だよね……?」

 ……………。

 ……………。

 ……………。

 「……そっ、う、だっ、よね?」

 ――これは狡猾な悪魔の誘いなのか。あるいは愚かしき救世主待望なのか。
  それともそれ以外の何かなのか。

 「……ちっ」
  小さく舌打ち。
  もし竹沢に聞かれたら、しがみ付かれて引き摺りながら帰ることになるのは確実だ。
  なのに悪態をついてしまう苛立ちをどうか察して欲しい。

 奇しくも場所は正門。その状態はこの前と微塵も変わらない。
  手を差し出す人物は、俺がイエスと言わなければ、ただ悲痛なまでに懇願するのみ。
  わかっていた。本当は全部わかっていた。
  これが『依存される』の真の意味だと。

 あの魅惑的な少女が、俺に全てを預けている。

 ここまで心が揺れ動くのは、決して竹沢の依存症を悪化させた罪悪感ではからではない。
  投げ出せない関係者の責任感ですらない。
  意味不明? ふざけるな。こんな明確な意思表示があるか。
  一言でオーケーだ。

 あなたがわたしのすべてです。

 ――一蓮托生はゴメンだが、重荷を半身に積まれるぐらいは……甘んじて受けよう。

 いい加減、それくらいまでには俺も傾いてきてしまっている。
  寄りかかってこられたら、傾くのは摂理だ。

 それは、
  ここまで鮮烈な想いを受けた者の定めでもある。
  ここまで激烈な好意を向けられた者の義務でもある。
  告白の返事は別にして、俺は正しいことをしていると思う。

 「……そんな恐怖体験談なんかよりは、雑談をしたほうがよっぽどマシだな。携帯を貸してくれ。
  番号とアドレスを登録する。俺のもそうしておいてくれ。
  ――コールもメールも好きなときにどうぞ」

 「ほん、とう……?」
  信じられない、そう言わんばかりの呆けた顔で竹沢は言う。
  「……俺は無責任に嘘は吐かないと約束するよ」
  こんなこと宣言しちゃってさ、どうするつもりなんだろう。

 携帯を取り出し、竹沢のデコに押し当てる。
  漂っていた負の気配が消え、にこりと、再び竹沢が向日葵の笑顔を見せる。

 「……そっか、こ〜ちゃんがそう言うならわたしはそれでいいと思うな。
  でも、こ〜ちゃんとお喋りし放題か〜。ありそうでなかったなぁ。普段はみんなと一緒だし、
  放課後は一応勉強するのがメインだったし。しかもダイレクトコールだよ。すごいな、嬉しいな」

 

 半強制的に友達以上恋人未満のポジションに志願させられたようなものだ。
  ここから先、線引きを誤ることがあれば、きっと俺は竹沢と共倒れだろう。
  絶妙なバランスで、まるで天秤量りのように、錘を乗せ間違えれば即振り切ってしまう。
  俺達はギリギリの均衡で成り立つ関係。

 だが――、俺もそうあっさりと取り込まれるわけにはいかない。
  竹沢を立ち直らせる当初の目的を忘れたわけではない。
  せめて日常生活を円滑に過ごせる程度にはしておかないと……。

 「代わりと言っては何だけどな……、麻衣実ちゃんと仕事したりするのは大目に見てくれ。
  他の女子と話すぐらいもな。その分、二人のときは好きなだけ構ってやるから。なっ?」
  「………………やだよ」
  間があったが、はっきりとした拒絶。
  初っ端からこれじゃ気が滅入ってくるな……。
  「……どうしてもか?」
  「……どうしても。こ〜ちゃんが他の女の子と一緒にいるのは嫌だよ。こ〜ちゃんが
  わたし以外の誰かと仲良くしてると胸が痛いよ。……寂しくて死んじゃうよ……」
  強めに言っても効果なし。
  それどころかその度にこうして喚かれるのか。
  どこまで鬱陶しくなれば気が済むんだよ……。
  こんなんじゃ掲げた決意があっという間に挫けちまうぞ。

 「そうか……、なら携帯の話はなしだ」

 一転、竹沢に激しい動揺が走る。
  小刻みに震え、世界の終わりのような顔をする。
  依存症には飴と鞭が効果抜群なのを俺は知っている。
  高レベル依存娘と約三週間も対話していればそれぐらいわかって当然だ。

 「だめだめだめ! だめだよこ〜ちゃんっ。お願いだよ……、お願いだから……。
  ……ごめんなさい。……本当にごめんなさい……。……ゆるしてっ、くだ、さい。
  みずでないっ、でくだざいっ……」
  俺の携帯を握った手を胸の前で大事そうに抱き、取られまいと体を屈める。
  なのに涙ながらに語るのは謙りきった哀願。

 ――本当に、本当に厄介な女だなあ……。

 「……竹沢が約束を守ってくれるなら、……この条件は外せないぞ?」
  「……ぐすっ、うん、わかった。守るね……。ありがとぉ……、こ〜ちゃん……」

 ――それでも、それでもこいつを見捨てられない。
  支えてやると決めたなら、この重圧に耐えねばならない。
  長時間支えてやれる自身は全然ない。
  明日にでも逃げ出したくなっているかもしれない。逃げているかもしれない。
  ……ああ、そんなヤツを抱え込んでやらなきゃいけないんだ……。
  もし三分に一回とかのペースで着信されたら堪らないなあ……。
  それってまるっきりストーカーだよなあ……。

 リアルに最悪な想像に眩暈がする。
  しかしそれは織り込み済みでなければならないのか。
  竹沢の番号の着メロは、リラックス効果のある曲にしよう。
  睡眠増強剤のクラシック群から聞き覚えのあるのをいくつかリストアップする。
  逃げる時は逃げればいいじゃないかと、自分を騙すようにして納得させる。
  けれどその思考の合間に俺は思う。

 俺の精神が挫けるのは、意志が折れてしまうのは、果たして何時なのかね?

 我ながらそれは偉く壺に嵌まる皮肉だった。

6

 竹沢は実は依存症だけじゃなくて分裂病も患っているんじゃないか、そんなことを思う。
  でなきゃ二重人格だ。俺と一緒にいるときだけ第二の人格が表に出てくるんだ。
  「こ〜ちゃんそのクマおもしろいね〜、パンダみたいだよ」
  からからと笑うあどけない顔立ちの女は、俺が飛ばしている殺気を理解できないらしい。
  「だよなー、竹沢もそう思うだろ? 幸平、やっぱりお前どこからどう見てもパンダだぜ」
  黙れじ〜ちゃん。
  「そうじゃなきゃ極悪死刑囚のイカレた眼ね。何か病的なものを感じるわ」
  け〜ちゃん、アンタみたいなヤツとの仲を疑われたのが心から不快だよ。
  「こ〜ちゃん病院行き?」
  お前絶対喧嘩売ってんだろ?
  「しかも精神病院だな」
  ゆ〜ちゃん、それは違う。精神病院に行くべきは竹沢だ。
  「何かやってても精神鑑定で無罪かも」
  み〜ちゃんさり気に口悪いな。
  「それじゃあ世の怒れる群集の気が収まらないな」
  だからじ〜ちゃんは黙ってろ。
  井出淳から一字取ってじ〜ちゃん。
  お前のそのニックネームの面白さに比べたら、俺なんてペットボトルについてるみみっちい
  おまけストラップよりもつまらないないさ。
  「俺だって好きでこうなったんじゃないって理解してらっしゃるか? 皆さんはよ……」
  「パンダが何か言ってない?」
  「舐めちゃいけねえぞ……奴らはファンシーでもこもこしたナリのクセしてかなり強暴だ」
  「そりゃクマ科だからな」
  「ええっ! クマの仲間なのに笹食べてるの?」
  「それは進化の過程でいろいろと――」
  「クマ科のパンダにクマがあるなんて完璧じゃないか! 良かったな幸平!」
  「あたしの話まだ途中……」
  「ああもう勝手にしろ……」
  ここまで無様に弄られると反論する気も失せてくる。

 

 メンバーは男三、女三の計六人。
  隣同士で並んでいる縦列の男女別グループは偶に合体する。
  全員弁当組みなので昼飯を一緒に食う事も多い。
  今は授業と授業の短い間とはいえ、受験生の貴重な休み時間を浪費中だ。
  しかし竹沢も何でこんな似偏った呼び名を好き好んで使うんだ?
  誰が誰だかわからないだろう、これじゃあさ。

 「でっ、どうしてそんなことに? 寝たの何時?」
  グダグダな談笑に話題転換をもたらす役割はこのグループでは大抵決まっている。
  鈴木悠也、通称ゆ〜ちゃん。テンション低めだが話のわかる渋い男だ。
  伊達に将棋部で主将をしていたわけではない。風格あるね。後光が差してるよ。
  「四時過ぎまで半眼でパソコン凝視しながら文書作成をせっせとやっててさ……」
  日付が変わる直前まで通話していたせいで、だ。
  相手は言わずもがな、斜め前の席で人畜無害に咲いている向日葵。
  連続着信がなかった代わりに連続通話すること数時間。
  通話料は俺持ちじゃないからいいけどさ、時間はそうもいかねえんだよ。
  「その程度でそこまでいくってヤバいんじゃねえの? 体力なさ過ぎだろ。これだから
  三年間家に帰るだけの青春を過ごしたヤツはよー」
  じじいの戯言は無視。気遣えよ、友達を。
  中途半端に睡眠とってるから、かえって授業中寝れなくて辛いんだよ。
  今は逆にその眠気がぶり返してきてダウンしかかってるんだけど……。
  「そうか……新川君って三年間帰宅部だったよね?」
  「……ああ、そのせいで中央委員にさせられたんだし」
  み〜ちゃんのみは天野美貴の美貴。
  自己主張は少なめだが、基本的に流れに沿った発言をする常識人。
  質問に俺は、春の委員会決めでの無所属への風当たりの強さを思い出す。
  「うわあ、それは大変だ。寝不足もそうだし、同情するよ」
  「暇人が忙しくなっていいことじゃない」
  け〜ちゃんは以前紹介したとおり、セカンドネームが圭だから。
  元バスケ部、その部員はほとんどが大雑把でガサツで気さく。偏見なしにこいつも該当。以上。
  それにしても声が大きいんだよ……。寝不足の頭痛が悪化するからもっと静かに話してくれ。
  しかも体調不良の人を捕まえて何て言い草だ。
  「本橋は天野の爪の垢を煎じて飲め。そうだこの際、天野になれ。そっちの方が俺も幸せだ」

 「こ〜ちゃんはみ〜ちゃんがお気に入りだねえ」

 ……しまった。怒りに任せて口が滑った。
  ほんわかした言い回しにぞくりとするのはもう脊髄反射だ。
  心なしか『お気に入り』のアクセントが一段階強い。
  本日放課後の問い詰めの話題に追加オーダー。
  「やったねみ〜ちゃん」
  「あんまり嬉しくないかな……」
  「まあ例えみたいなものだから……」
  微妙に本音が混じってそうなところにちょっと傷付くが、これで何とか上手く軌道修正を――
  「本橋が天野の女の子っぽさを見習ったほうがいいとは俺も思うぜ。
  いや、セクハラとかじゃなくてさ。本橋と話していると何か……」
  しかし、ナチュラルに暴露トークを開始した老害のせいで、俺の思惑は大きく外れてしまう。
  「男友達みたい?」
  「自覚してるのか……」
  「自覚してたんだ……」
  悠也と天野のダブルパンチ。
  普段そういうことを言わない人間からのイメージのほうが大きいんだろう。
  さすがにゴーイングマイウェイの本橋も肩を落としてガックリしてみせる。
  「やっぱり男から見ると、美貴みたく料理上手でお淑やかのが気に入るんだろうけどさ……」
  「そんなことはな――」
  そこから先を言わせては――
  「幸平が惚れ込むほどの腕前だしな」

 何てことをっ! だからお前は黙ればよかったんだっ!!!

 もはや淳の存在自体が余計に思えてきた。
  お前が言ったことは『パンがないならお菓子を食べればいいじゃない』クラスの失言なんだぞ。
  革命起こされて断頭台で処刑されてもおかしくないんだぞ。
  「こ〜ちゃん感激してたもんね」
  ああ……もうだめだ。
  この弾んだ科白の裏に隠された真意にどうして誰も気付かない?
  ……いや、俺だってほとんど聞き分けられないけどさ。
  「……あれは天野が自炊してるって言うから、味見で食べたわけで……」
  これと浮気の言い訳がどう違うか、無知な俺には全くわからないな。
  「『足が綺麗に外側にカールしてる。見た目完璧にたこだな。これは美味そうだ……。ん?
  いいのか? なら一つ……美味いな。湯で加減も塩加減も完璧じゃないの?
  他のメニューも豪華だな……。これを全部天野一人で作ったのか……信じられないな。
  俺、料理できる人はそれだけで尊敬に値すると思うよ』
  ――大絶賛オール十点で百点満点な褒め殺しだねっ!」

 にこっ。

 

 つい感動して饒舌になってしまった当時の俺を恨む。
  無垢な笑顔が……恐い。
  般若の前で立ち竦む。そんな純粋な恐怖とは違う恐ろしさがある。
  どちらかと言えばあやし方のわからない赤ん坊を抱えている感覚に近い。
  つまり、何時泣かれるか気が気でないってことだ。
  ……頼むから我慢してくれよ。
  分裂病でも二重人格でもいいから誰かに竹沢の二面性がバレるのだけは避けたい。
  教室でくっ付いてたらバカップルどころか社会不適合者だ。
  しかも片方が泣いてるなんて俺がクズな彼氏みたいじゃないか。
  ……まあ確かに俺のせいではあるんだけどさ。
  全面的に罪を認めても情状酌量の余地は少ないと思えてきたんだよな……。
  むしろ、竹沢にも落ち度があるような……、あるに決まっているような……。

 「おい、幸平。幸平?」
  今更になって責任の所在に不安になってきた俺を悠也が呼び戻した。
  「何?」
  「その調子で授業大丈夫なのか? 居眠りなんかしてたら受験生の心構えが足りないとかで、
  みっちりと苛められるぞ」
  「問題ないって。ただ考え事してただけだ。それでどうした?」
  次は英語。延々と問題演習をする授業は現状では確かに脅威だが、乗り切るしかない。
  「お客さん」
  短く単語だけ言って悠也は入り口を指差す。
  慣れない三年のフロアでも物怖じせず、その冷静沈着さに狂いはない。
  端整な顔立ちと大和撫子な髪型のその女子生徒は、
  「麻衣実ちゃんか」
  「誰なの? 上履き青だし二年生だよね」
  「げっ、可愛いじゃん! しかも名前にちゃん付けかよっ?」
  「雫ならともかく新川がそんな呼び方してるなんて……。しかも年下で可愛くて性格も
  しっかりしてそうな上玉。そうか……これが奇跡か。初体験だわ……」
  「早く行ってやったらどうなんだ?」
  四者四様のリアクションが返ってくる。
  「だ〜れ〜?」
  いや、お前は知ってるだろ。俺と麻衣実ちゃんについては何度も揉めたし。
  それとも印刷室の扉越しに声を聞いただけだったのか?
  それもありえない話じゃないけど、声だけであそこまで騒がれるのも参るな。
  「委員の後輩だよ。少なくとも俺の分の弁当も持参してくれるような仲じゃない」
  取り敢えず紹介しておく。
  用件は業務連絡が妥当だろう。
  タイミングがいい、今日から現場復帰できる事を伝えておこう。
  山ほどある謝罪と感謝はその時になってからゆっくりとだ。

 「俺様クールな男を気取ってる新川がちゃん付けで? 嘘はいけないわねー、
  裏でコッソリ付き合ってんでしょ?」
  「古傷が痛むなあ……。前の彼女のこと思い出しちまった。幸平、お前は幸せになれよ」
  「……お前らそれやってて楽しい?」
  半ば呆れながら席を立った俺は麻衣実ちゃんのところへと――

 くいっ。

 行けなかった。
  「あれっ?」
  脇腹に圧迫感。引っ張られていて前に進めない。
  悪い予感がある。そして予感とは悪い時だけ当たるものだ。

  ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
  今、本橋と淳は誰と誰を恋人扱いした?

 緊張が空気を変える。
  その影響下にあるのは俺だけだが、他人じゃないならそのことに意味はない。
  嫌な汗が噴出してじっとりとシャツを濡らす。
  脈拍が速くなる。鼓動が胸を叩いている。
  冗談にしては笑うどころか心臓発作でも起こしてしまいそうなブラックジョーク。
  俺は機械のごとくぎこちなく振り返る。

 ……最悪だ。これなら人格間の区切りがはっきりしているほうがずっとマシじゃねえか。

 ――竹沢が、俺のワイシャツの裾を引っ張っている。

7

 初めて、完璧だった竹沢の仮面にヒビが入った。
  俺と二人きりでなければ一度も乱れたことのないその天真爛漫に、とうとう小波が立ち始める。

 「おいっ……」
  俺は必死に慌てふためく感情を押さえ込み、焦燥を悟られぬようにした。
  しかし、その一言だけで俺の言いたいことはわかるはずだ。なのに、竹沢は動かない。
  向日葵。
  太陽光を集めるために、ただそれだけのために、咲き誇る花は空を見上げて笑いかける。
  装飾華美な比喩にしても、こいつに酷似しているんじゃないか。
  そして、それが今にも枯れそうな精一杯の空元気に見えるのは俺の贔屓目なのだろうか。

 落ち着け、泣くな、笑うな、怒るな、頼るな、動くな、壊れるな、後にしろ。
  クラスメイトが、友達が見てるんだぞ?
  こんなところで醜態を晒したらもう後戻りできないんだぞ?
  本気で精神病院に担ぎ込まれるかもしれないんだぞ?
  変人のレッテルを貼られて二度とこんな日常を過ごせなくなるんだぞ?
  約束しただろうが、ここさえ我慢すれば二人の時にはいくらでも構ってやるって。
  頼むから……それだけ守れれば俺はお前の側にいてやるから……。
  だから耐えてくれよ……。

 だけど、俺の懇願は竹沢には届かない。

 「こ〜ちゃんってさ、彼女さんいたの?」
  好奇心旺盛な子供が尋ねるように、あくまで竹沢は純粋な興味で訊いているように見える。
  けれど、裾を摘んだ指は力が入って白くなっている。
  天真爛漫の表と依存症の裏が鬩ぎ合ってる。あるいはその表裏が逆転しようとしているのか。
  「いない。残念だけど麻衣実ちゃんは断じて違う」
  どうしてお前が訊く必要があるだろう? 訊くまでもないだろうが。わかっているだろうが。
  睨みつけた眼光も、竹沢の笑顔に吸い込まれていく。
  言葉を紡げない。行動で示せない。
  竹沢は飴をあげなきゃ泣き止まない。
  鞭を打たなきゃ言う事を聞かない。

 「でもちゃん付けだよ?」
  そこにも嫉妬するか……。後で訊けよ、今じゃなくて。
  「それなら竹沢だってそうだろ」
  「違うよ。わたしはみんな同じように呼ぶもの」
  食い下がるね。
  「苗字で呼ぶのは堅苦しいし、かといって名前を呼び捨てするのもさ」
  「まだわからないな〜。それだったら苗字にちゃんを付ければいいんじゃないかな?」
  天然ボケの八割は演技だってのが俺の持論だが真実だね。
  竹沢、俺はお前の人格がどっちがどっちだかわからなくなってきたよ。
  全部が全部計算尽くでやってるんじゃないか?
  「中央委員って雑用ばかりなのに生徒会の次に偉い立場なんだよ。だから結構真面目に
  働かなきゃいけないわけだ。仕事も多いし苦労も絶えない。
  ちょっとぐらい雰囲気を和らげようとする試みは正しいと思わないか?」
  「おおっ納得だね」
  声を荒げ、語調を強く。
  真実を含めた正論にオーバーリアクションで深々と頷く竹沢。
  ……どうやら、ギリギリでなんとかなったようだ。
  周りの連中はマイペースなヤツだなくらいにしか思っていないだろう。
  しかし、俺はその姿に嘲笑されている気がしていた。

 ふざけるなよ。

 摘んだ指を乱暴に外す。
  粗っぽい扱いに、竹沢はそれでもにこにこしている。けれど、それは紙一重の見せ掛けだ。

 ――これじゃあダメだ。制御がきかなくなってきている。

 数時間、それはそれは益体もない雑談。
  趣味とか好きなテレビ番組とかを、学校と変わらぬ様子でダラダラ喋っただけだ。
  それだけだ。他に何もしていない。
  これだけで俺は竹沢を甘やかし過ぎたと言うのだろうか。
  依存を自制不可能にまで膨れ上がらせてしまったのだろうか。
  ……そんなの、余りにも理不尽じゃないか。それくらいで狂われたら手の打ちようがない。

 畜生……畜生……。

 無茶苦茶に腹が立つ。
  しかし俺はその怒りが誰の無力さに向けられたものか気付いてしまう。
  ……ははっ、なんてくだらない。
  要するに、それって俺の責任なんだよな。
  断れば自殺しかねない乱れぶり。
  受け入れれば心中させられかねない怯えぶり。
  現状維持とはそれらを先延ばしにしただけだ。
  だから少しずつ、少しずつ動かすつもりだったのに。
  まさか小サジ一杯の砂糖で、均衡だった秤の片腕が地に堕ちるなんて俺に想像できたのか?
  ――しなきゃいけなかったのさ。そうだろう? お前にはその義務がある。

 逃れられない自責の念に俺は塗り潰されていく。
  ほとんど黒に近い藍色が俺を絶望に染める。
  冷たい寒色に凍えそうになる。

 さむい。頭が痛い。ダルイ。

 ……俺はどうすればいい?

 「幸平先輩」
 

 そっと。
  手が、暖かい暖かい手が、立ちっぱなしで固まっていた俺の頬を撫でた。
  遅れて、気遣いに満ちた涼やかな声が俺を極寒から救い出す。
  「どうしたんですか? そのクマ……。疲れてるんじゃないですか? 眠いんじゃないですか?
  先輩? 先輩? 大丈夫ですか? ……そんな様子じゃ危ないです。保健室に行きましょう」
  えも言われぬ安堵感に包まれていく。
  そして、彼女の言う通りかもしれないなと思った俺を、途端に凄まじい眠気が襲う。
  ただでさえ眠りかけていたのに、それに輪をかけた猛攻だ。とても逆らえるものじゃない。
  前後不覚に陥る。足元が覚束無い。
  ふらつく俺は腕を取られ、声の主と共に歩き出す。
  ……名前に先輩って付けるのは何か変だな。でも嫌じゃない。
  ぼけているのかそんなことを考える。

 「腕組みっ!」
  「うそおおおおおぉぉぉぉ……」
  「どう考えてもそういうのとは違うと思うんだけど……」
  「先生には言っといてやるからしっかり寝ておけよ」

 聞こえた喧騒は右耳から左耳に通り過ぎる。
  瞼が重い。輪郭の歪んだ世界が二重三重になって見える。
  しかし、ぶれながらも前方を歩く艶のある黒髪は、まるで墨を滴らす高価な筆。綺麗だと思う。
  振り返りこちらを窺う。
  珍しく露にされている表情は不安一色で揺れている。
  嬉しかった。
  俺にはこんなに親身になってくれる人がいてくれるのかと。
  欠伸を出す気力もない。眠い。ねむい。体が動かなくて今にも倒れそうだ。
  けれどそんな睡魔に食い付かれながらも、俺は光明を見出す。

 ――彼女なら、椎名麻衣実なら俺を助けてくれるんじゃないだろうか?

 この優秀で冷静で俺には勿体無いくらいの部下なら。
  この礼儀正しくて真面目なよくできた後輩なら。
  俺が困った時にはいつも頼れる味方でいてくれたこの娘なら。

 「……幸平先輩、先輩が助けて欲しいと言ってくれるなら、私はいくらでも力になりますよ」

 消えかかった意識に、その言葉の威力は計り知れなかった。
  まだあったじゃねえか、選択肢。
  俺には麻衣実ちゃんがいる。彼女に相談すればよかったんだ。
  そうさ、麻衣実ちゃんならきっと、きっと解決の方法を教えてくれる。
  俺の手に負えなくなってきている以上、迷惑承知で誰かに助力を求めねばならないんだから。
  そして、俺が頼る相手は半年前からずっと同じだ。
  ――これで万事上手くいくさ。

 「こ〜ちゃん」

 教室を出る直前、そう呼ばれた気がした。
  明るくゆったりした調子だったのに、頭の中で反芻するボイスは金切り声の絶叫。
  記憶の海から浮かぶのは、またもあの告白。俺を捉えて離さない魅惑。
  でも、まどろみかけた俺に麻衣実ちゃんの腕を振り解く力は残っていなかった。

8

 清涼感のある真っ白なシーツ。衛生的な消毒薬の匂い。
  薄いブルーのカーテンに仕切られた一台のベット。
  その上で、先輩は穏やかに寝息を立てています。
  先輩の目元にはどす黒いクマ。あの人の縛り。
  先程まで常駐していた保険医の話によりますと、肉体的なものだけでなく、
  精神的な疲れもあったのではないかとのことです。
  やはり、専門家はその手の勘も鋭いのでしょう。
  まさに先輩はあの人によって心身ともに衰弱させられていったのですから。
  睡眠不足はあくまで引き金に過ぎません。
  根本の問題は別のところにあるんです。

 ベットのバネを軋ませながら、眠っている先輩の隣に腰を下ろします。
  現在保険医はいません。
  ここ保健室の三つ隣にある給湯室で統括部の青木先生とくつろいでいます。
  お二人はどちらも三十過ぎで、気楽な同年代とやらの男女ペアです。
  それでお昼前は何時も、給油室にある専用のポットで入れた紅茶でお茶会をしているんです。
  ご丁寧に居場所を印した小型のホワイトボードが入り口の扉にかけてありますから、
  急患や怪我人が来ても気付きますしね。
  先輩の症状も十分な睡眠を取れば改善されるそうですし、本場の英国人のごとく
  大事なティータイムをなくしたくはないんでしょう。
  その他の色恋沙汰について私は感知していませんが。

 さて、

 だから、この部屋にいるのは私と先輩の二人だけです。
  しかも、先輩は意識がありません。
  ですから、私は思ったままに動けます。
  よって、私はそっと先輩の横に添い寝します。

 シーツを捲り上げ、靴を脱ぎ、足から体を滑り込ませます。
  私は小柄ではありませんので、先輩に触れないように横になるのはなかなか難しいです。
  ベットから落ちないように、フレームに手足をかけ、重心を固定します。
  待ちきれずに胸を躍らせながらすっと横を向きました。
  先輩の寝顔がすぐ側にあります。シーツ越しに胸部が規則正しく上下しています。
  やや釣り上がった眼も、苦笑してばかりの唇も、この瞬間だけは幼く、愛らしく変わる。
  私が願って止まない理想の先輩がここにいるように思えます。
  私を必要としてくれる先輩が。
  ……じんわりと唾液が溜まってきています。唾を飲み込む喉が生々しい音を立てます。
  好きな人の無防備な姿はこれほど愛しさをそそられるものなんでしょうか?
  私はただ先輩に惹きつけられていきます。
  色素が薄い唇に、滅多に見れない先輩の微笑を作るそれに、抗いようのない魔力を感じます。
  あの人がいくら先輩に甘えようと、決して冒されることのなかった場所。
  卑怯者と罵られようが、今こうして奪っておかなければ先輩は……。
  私は伸ばした右手で先輩の顎を上げようと、私との距離をなくそうと――

 突如、視界の先輩が消えてしまいました。

 左肩に衝撃。木刀で殴られたかのような鈍い痛みが広がります。
  右手をフレームから離したせいで、一気に力のかかった左手が滑ってしまったようです。
  私はベットから転がるように落ちていました。
  床との激突時に呼吸が一瞬止まったのが効いたのか、私は我に返ります。

 ……何を……、……しようとしていたのでしょうか。

 ――決まってます。キスです。

 クスリと、地べたに寝そべっている現状と合わせて自嘲してしまいます。

 策士策に溺れる。
  前々から軽度の禁断症状は出ていましたが、まさか我知らず先輩に手を出そうとは……。
  論理の飛躍どころではなく、意識さえも超越してます。
  ……ここ最近は特に危険です。決定的に先輩とのふれあいが不足しています。
  やはり、卒業アルバム実行委員からくすねてきた先輩の生写真だけで、
  先輩のいない空洞を埋めるのには無理がありました。
  ……いや、校内水泳大会の水着姿とかかなりくらくらさせられたですけどね……。
  幅広の肩とか小麦色をした腰のラインとか柔らかそうなふくらはぎとか……。
  その効能の分だけ、実物の先輩に触りたくて仕方なくなるという重度の後遺症がありまして、
  最終的にマイナスになってしまったので失敗だったんですが。

 でも……これから先気付いたら先輩を押し倒していたとかないですよね?
  もし受け入れてくれるのならばそのまま全身全霊を先輩に捧げますが、
  拒絶された場合私は自分がどうなってしまうのか想像もつきません。
  拒絶されるってことは二度と必要とされないってことと同義です。
  そんなことになったら……多分、恐らく……間違いなく、……私は壊れてしまうのでしょうね。
  それくらい私は先輩と切り離せなくなっています。
  だからこんなまだるっこしい策を取っているんです。
  先輩が私から離れていかないように……。
  静観する計画を覆して、傲慢不遜のお飾り役員、あの吐き気がするほど嫌悪感のある利己主義者を
  煽ってまで、先輩を追い詰めたんです。
  わざわざ教室まで先輩に会いに行ってあの人への挑発に及んだんです。

 ……だって、……だってしょうがないじゃないですかっ!

 ……先輩が私を放っておくから。
  喜び勇んで帰ったあの日からもう一週間になるのに先輩はまだ粘ってて……。
  あの人を見捨てようとしなくて……。
  それなのに私との約束は忘れてるし、私に相談どころかそれらしい態度すら見せてくれない。
  あんまりじゃないですかぁ……。
  私が今週をどれだけ惨めな気持ちで過ごしたかわかりますか?
  先輩に忘れられ、それこそ見捨てられたような気持ちであのガラスから
  絶望的な光景を眺め続けるしかなかった、そんな苦痛を知っていますか?
  先輩があの人の頭を撫でる度に、先輩があの人に抱き付かれる度に、
  むなしくそれを倣って自分の頭に手をかざしたり腕を体に巻きつけた、
  そんな愚かしさを理解してくれますか?
  間接的とはいえ、先輩に策を講じるしかなかったそんな弱さを認めてくれますか?
  あの人を私に置き換えた妄想をして体を火照らせた、そんないやらしさを許してくれますか?
  ……疼くんです。じくじくと。それはもう身じろぎしたくなるくらい。
  呼吸のリズムが短く、早くなって、そんな荒々しい獣のような息継ぎをみっともないやら
  情けないやらと思いながらも、だんだんそのことしか考えられなくなって……。
  ……全身の感度が些細な快楽も逃すまいと限界まで鋭敏になっているんです。
  指でその緩んだラインをなぞるだけだって、切ない切ない刺激となって溢れた愛液は
  氾濫どころか洪水にまで至ってしまうでしょう。
  昨日なんか熱を持った下半身を鎮めようと足を動かしたら、下着で軽く擦れてしまって……。
  ――喘ぎ声は歯を食い縛って出しませんでした。
  ですがその後数分は完全に腰が砕けて動けなくなってしまいました。
  くてっと扉に背中を預けながら、余程自分で慰めたい衝動に駆られたのですが……。
  先輩のため、先輩にそれをしてもらうためだけに私は……。

 ねっとりと湿り、ぬちゃぬちゃとした感触。ギリギリ嗅ぎ取れるくらいに微かに漂う隠微な香り。
  今現在だって私は理性と愛欲の瀬戸際に立ってます。
  私には、先輩と手を繋いだり、撫でてもらったり、抱きついたり、
  言うまでもなくキスした記憶なんてありません。
  ですから、先輩との密着はさっき肩を貸したのが初めてだったんです。
  妄想のフラッシュバックが実体験を伴って、いよいよ効果が桁違いに跳ね上がってます。
  脳内麻薬の分泌が抑えられず、心地よい欲望に身を委ねたくなります。
  ――キスしたら最後、私は暴走してしまいかねません。
  そんなことになれば先輩に嫌われてしまいます。
  先輩に淫乱だなんて思われたら死にます。
  即、表の道路に飛び出して走行中のトラックにタックルします。
  先輩に嫌われる私なんて死ねばいいんです。
  そう、先輩を不快にさせる人間なんてみんな死ねばいいんですよ。

 あなたもそう思いませんか? ――竹沢先輩。

 理性が先輩の拒絶とセットになっている愛欲に競り勝ったことで、大分落ち着いてきました。
  落ち着けば自分が抱いていた不安の正体も見えてきます。
  予想以上の先輩の竹沢先輩への入れ込み、なかなか私に頼ろうとしない先輩、
  それでも沈黙を守ろうとした自分、焦り、渇望、動揺、我慢、不満、エトセトラエトセトラ。
  ――要するに、私は幸平先輩を竹沢先輩に奪われるのが恐かったんです。
  杞憂も杞憂。あり得るはずがないんですけどね、そんなこと。
  だって先輩は同情であの哀れな小娘(年上ですけど精神がバグを起こして幼児化したような
  あの人にはお似合いです)に付き合っていてあげただけなんですから。
  あの人がしたことと言えば泣いて、喚いて、甘えて、駄々こねたくらいです。
  微塵も先輩の役に立ってなんかいません。ただ迷惑をかけていただけです。
  そんなんで先輩に好かれようだなんて図々しいにもほどがありますよ。

 ――だけどそれももうすぐ終わりです。

 跳ね起きて、制服の汚れを払いました。
  先輩からのSOS信号、うわ言でですが先輩は確かに私の名前を呼んでくれました。
  そこに縋るような想いが篭められているのを感じ取れました。
  後一押し、いえ押すまでもないかもしれません。
  きっと先輩は起き次第私に全てを打ち明けてくれます。私に全てを委ねてくれます。
  それで幕引きです。ふざけた喜劇の終幕です。
  私は傷付き、苦しみの渦中にある先輩を女神のごとき慈愛を持って迎え入れ、励まし、支え、
  あの寄生虫から引き剥がせばいいんです。
  弱っている時の気遣いがどれほど心に染み入るか、推し量るまでもなく
  そのまま先輩は私にべったりになるでしょう。
  ついでに邪魔者も遠慮なく排除できて一石二鳥です。
  そう、まるで私に寄りかかるように先輩は――寄りかかる?
  ……違いますね。それじゃあ先輩が私に依存するみたいじゃないですか。
  私と先輩は健全かつ社会的かつ清く正しいパートナーとしての形を求めているんです。
  そんなどこぞのハリガネムシと同じことを先輩がして嬉しいわけがありません。

 依存は愛じゃありません。私はただ愛されようとしているだけなんです。

 ですからね、幸平先輩……?
  先払いで手を握るくらいは、許してくれますよね……?

 「こ〜ちゃんっ! こ〜ちゃんっ! こ〜ちゃんっ!どこっ!?」

 けれど私のささやかな望みはあっさりと踏み潰され、鬱陶しい舌足らずな口調、
  眼ざわりこの上ない元凶が喚きながら乱入してきました。

 ――私は神様に嫌われているみたいです。
  自分では我慢のできるイイ子だと思っているんですが一体何がいけないのか。
  予想していたこととはいえ、少々早過ぎます。
  せっかく先輩と好きなだけべたべたするチャンスだったのに……。

 勢いよく開けられたらしい扉は、レールを滑って壁にぶつかり派手に振動しました。
  ここまで間が悪いことはそうはないに違いありません。
  音に驚いた先輩の眼がパチリと開き、左右に慌ただしく首を振って状況の確認をしています。
  ……先輩が起きるまで手を握り続けるつもりだったのが……、残念でなりません。
  「……んっ? 何だ……、あれ? 麻衣実ちゃんどうしたの?」
  「私は先輩の付き添いです。ここは保健室、先輩は寝不足で倒れたんです」
  「……ああ思い出してきた。そうだったな。……まあそれはともかく今すごい音しなかった?」
  「……しましたよ。……先輩の身体を思い遣ることすらできないなんてどれほど身勝手な――」
  しかし、不満を述べようとした私の余裕は、次の瞬間には跡形もなく消し飛んでしまいました。

 何故なら――

 「こ〜ちゃんっ!!!」

 その人物と私達を遮っていたカーテンに黒い手形が付いたと思うと一気に引き放たれ、

 「ごめんなさい。ごめんなさい……。ごめん、なさい。……ごめんな、さい。ごめっ……んなさい。
  ごめんなっ……さい。ごめんっ、なさい。ごめっ……んなさい。ごっ……、ごめんなっ……さい。
  ごめんなさい。……ごめんなさい。ごめんな、さい。ごめんっ、……なさい。ごめんな……、っさい。
  ご……めっ、めんな、さいっ。ごめん……、なさい。ごめんなっ……、……ご、ごめっ、んなさい。
  ごめっ……ごめんなっ、……さい。ごめっ……ごめんなさい。ごめん……っなさい。ごめんな――」

 ――――――――壊れた懺悔と共に、血だらけの竹沢先輩がそこにいたからです。

9

 驚愕で私も先輩も完全にフリーズし、彼女から眼を逸らすことさえできずにいます。
  まさかこんなことになろうとはとは思いもしなかったんです。
  「……あっ、……あ、……ああっ、……、おい……、たけ、ざ……」
  起き抜けの先輩が受けたショックは私の何倍か、とても察することはできそうにありません。
  息も絶え絶えに喋るのがやっとの様子からはそれだけの動揺が伝わってきます。
  程度の差こそあれ私も似たようなものです。
  心臓を鷲掴みにされたかのように身動きがどれません。
  ――これは狂気です。
  純然たる狂った気質です。
  どうして……どうしてあなたはそこまでしてしまえるんですか……?

 竹沢先輩は暫らく奇怪な宗教の狂信者のように謝罪の言葉を繰り返していましたが、
  先輩が無意識にベットの上で後ずさったのを見ると、
  一際大きく叫んで先輩の上に飛び込みました。

 血に染まった身を躍らせて。

 出血部位は左手首。
  滴る血液が真紅のインクとなり、手の平をなんともおぞましいスタンプにしています。
  その身の毛もよだつ負の感情が押し当てられたカーテンは、恐らくもう二度と使えないでしょう。
  ブラウスやスカートの赤黒く染め上げられた箇所も、それで触れたに違いありません。
  しかし、床に点々と垂れている赤い液体を見る限り、さらに出血量が増すことはなさそうです。
  所謂リストカット。致命傷に至ることはまずないと見ていいでしょう。
  傷口もあまり開いておらず、カッターナイフでも使ったと思われます。
  それにより早急に処置を施すまでもなく、その周囲の血液がドロドロに固まりつつあるようで、
  後は簡単に止血して病院に行けば、入院する必要もないでしょう。
  ――ですがまだ体温を保っている命の一部が切り裂かれた肉体から地に流れ落ちていき、
  汚れた床の不純物と交じり合って汚染されていく。取り戻せなくなっていく。
  そんな生命への冒涜に対する畏怖と興奮がいやでも胸を昂ぶらせます。
  硬質の粒子を鼻の粘膜に直接吸い付かせるような鉄の臭いに気分が悪くなってきます。
  胃の内容物が逆流してしまいそうな不快感。胃酸の酸い味を舌が感じ取りました。
  吐き気を抑えようと無意識に食道の辺りに手が伸びます。
  ……自傷とはそのスケールの小ささに反して、ここまで凄惨なものなのだったのでしょうか。

 先輩も私と同じ気持ちだったようです。
  それらの要素に凄まじい嫌悪感を丸出しにし、まだ乾ききっていない血を擦り付けるように
  先輩に抱き付く竹沢先輩を力尽くで振り払いました。
  宙を舞った竹沢先輩は、今さっき私が落ちた時よりもずっと速くで床に叩き付けられます。
  背中から肺に強い衝撃を受けたことにより、彼女はくぐもった呻き声を上げてそこに蹲りました。
  さらに傷に響いたのか、左手を強く握り締めて『痛いよぉ……』と声にならない声で訴えます。
  同情を誘うものがありますが当然の流れでしょう。
  まるで返り血を浴びた殺人鬼のような様相を見せる人間に、慄かない者はいないと思われます。

 私はそこでようやく失いかけた冷静さを取り戻すことができました。
  それから床に転げたリストカッターに抱いた憐憫が嘲りに変換されていきます。
  率直に言って、私はろくでもない方法で先輩を横取りしようとしているこの人が大嫌いですし、
  こんなことを仕出かして先輩の心労を加算させる人間に共感なんて不可能なんですよ。

 しかしまあ、まったくもってあっけないフィナーレ。進んで自らに引導を渡してくれました。
  ここまで馬鹿だとその猟奇的な姿も滑稽に思えてくるから不思議です。
  滑稽すぎて可哀想です。さらにその上をいって惨めです。
  今の彼女は不良に蹴られる遊園地の着ぐるみの中の人よりも哀れで無様に思えます。

 「何で……手首なんか切ってんだよっ!」

 竹沢先輩が何をしたか、遅れて理解が追いついた先輩の怒声。
  続く責め苦はいかなるものか。頑張ってこの人を再起不能にしてくださいね。
  もともと病んでいるみたいですから多少やりすぎても許されますよ。
 
  ――そう、竹沢先輩は越えてはならない一線を越えてしまったんです。
  先輩への想いのために自傷までできてしまったことは、決してアドバンテージではありません。
  その反対の最たるところにあるものです。
  彼女は間違いなく先輩に愛想を尽かされます。拒絶されます。嫌われます。
  常識的に考えましょう。こんな厄介を引き受ける人間なんて普通いません。
  依存が許されないのと同じです。
  その愛情はあまりにも歪。
  世界の規格外。社会の許容範囲外。人格の認識外。
  倫理が否定し、道徳が諫め、理性が忌避する人間の堕落。
  外れ者は破滅の運命を辿るのみ。
  何のために今まで私が我慢を続けてきたと思ってるんですか。
  先輩に嫌われないために決まっているでしょうに。

 竹沢先輩は喘息の発作でも起こしたかのようにぜいぜいと息をしながらゆっくりと
  上半身を起こし、先輩に涙と血の不足でおぼろげになっている視線を向けました。
「ごめんよぉ……こ〜ちゃん、ゆるしてよぉ……。わたしイイ子になるから……、
  こ〜ちゃんの言うことちゃんと聞くから……。こ〜ちゃんと誰か女の子が一緒にいても
  我慢するから、笑ってるから、……だから見捨てないでよぉ……。……反省してます。
  すごくすごく反省してます。その印にこれ切ったんだよ……?
  痛くて痛くて痛いんだけどこ〜ちゃんに謝るためだから我慢してるんだぁ……、
  ねっ? わたしはちゃんと我慢できるよ。できるから……、ねぇ、こ〜ちゃん……、
  わたしを嫌いにならないでください。放っておかないでください。無視しないでください。
  好きになってくれなくても、愛してくれなくてもいいです。
  でも、わたしがこ〜ちゃんを好きでいることだけはゆるしてください。
  それでほんのちょっとでいいから優しくしてください。……それだけ……、
  わたしはそれだけでいいんだよ……。お願い……お願いだよこ〜ちゃん……。
  お願いないなんだよぉ……」
  ――ある意味で、憎悪より怨念より鬼気迫るものがありました。
  気合の入り過ぎた長口上を苦にもしていません。ただ泣き、懇願するのに懸命のようです。
  この人は、先輩に手を振り払われただけでここまで狂ってしまうのですか?
  今でこそ先輩に拒絶(どう考えても大げさですがこの人にすればそうなんでしょう)された
  ショックで私のことなど眼中から消滅しているようですが、
  もし先輩が彼女を優しく扱ったとしても、私と先輩が二人きりでいるところを見て
  こうして狂わないでいてくれたのでしょうか?
  この人の言う我慢なんて当てにできるわけもありません。
  我慢できるならまず刃物を手首に押し当てる前に我慢してくださいよ。
  不発弾では済みません、一度爆発すれば終わりのただの爆弾なら御の字です。
  そうではなく、何時、何度爆発するか知れない危険物の所持者を買って出るなんてありえないと、
  いい加減この人も気付いてもよさそうですが。

 「竹沢……」
  先輩がその重くなっていた口を開きました。
  さあ今こそ裁きを下しましょう。先輩の鉄槌でもってこの愚かな罪人を滅しましょう。
  それが唯一の真理なのですから。
  お別れです。竹沢先輩。
  恐らくショックで自殺なさるでしょうから同情くらいはしてあげます。
  でもどうせ死ぬならあまり迷惑のかからない首吊りにしておいて下さいね。
  くれぐれも線路に飛び込んで電車をストップさせたり、
  樹海に行って失踪扱いになったりしないで下さいよ。

「……わかった。そんなに恐がらなくても大丈夫だよ。許してやるさ。……だから落ち着けよ」

 

 「……えっ?」
  唐突な先輩の許しに思わず驚きの声を上げてしまいましたが、小さかったためか
  誰も反応しませんでした。
  竹沢先輩がその胡乱な眼を見開いて先輩を凝視します。
  溢れた涙が彼女自身の希望を、先輩を映し出しています。
  先輩は――先程まで恐れ慄き、竹沢先輩に拒絶という止めを刺すはずだった先輩は、
  何故だか疲れきった顔にいつもの苦笑を浮かべ、何かを悟ったかのように悠然としていました。
  ――そう悠然としているように見えるんです。
  全てを受け入れる覚悟を決めた、そんな強い意志を感じさせる迫力があるのに。
  少しこけた頬を伝う一滴。あるいは雫。

 どうして先輩が泣いているんでしょう?

 竹沢先輩を刺激しないための演技には見えません。むしろ逆効果です。
  嬉し涙? そんな馬鹿な……?
  ……違和感が、決定的な違和感があります。
  どこか……どこかがズレていませんか……?
  悟りを開いて涙を流す僧の話なんて聞いたことありません。
  それはまるで人類滅亡の瞬間を予知してしまった預言者の厭世に似ています。
  先輩は一体何が『わかった』んですか……?

「俺のためにそこまでしてくれたんだもんな……」

 諦観と喜悦と悲哀が入り混じった複雑な呟き。
  先輩は溜息を吐くと、酷く優しい動きで竹沢先輩を撫でました。
  彼女は滅多に会わない親戚に可愛がられる幼子よろしく、おどおどと
  先輩の成すがままにされますが、悲愴だった面持ちにみるみる生気がみなぎっていきます。
  先輩は今自分が撫でている相手の血液がワイシャツやシーツに染み付いているというのに、
  それを気にする気配さえもありません。
  そんな二人を眺める私は展開に着いて行けるはずもありません。
  百発百中だったはずの予言が予期せぬ方向に向かってます。
  絶対の確信が崩壊していく様に、ただ混乱を深めていくしかありません。
  くるくるくるくると思考が大回転をする最中、ふいに漠然としたイメージが見えました。
  それは並行に立った長さの等しい二本の柱。その内の一本が、もう一本へと傾きます。
  傾かれた方は真っ直ぐ立てなくなった柱を自分も傾いて押すことによって
  何とか元通りにしようとしますが、なかなか上手くいかずにくっ付いた二本は
  不安定に揺れ動きます。
  そうこうする内に傾かれた方がとうとう支えきれなくなり倒れそうになりましたが、
  そこで倒れそうな相手に驚いて傾いていた柱が反対側に反り返りました。
  どちらも倒れる直前だった二本はその動きによって再び揺れ動き、
  やがて頂点を重なり合わせて双方から等しい距離で止まります。
  お互いがお互いを支え合い、のめり込む。整然とした美しさのある逆V字型の完成。

 閃光が私を貫きました。

 ここに至ってようやく気付いたのです。その恐ろしい可能性に。
  映像を言葉にするなら――共依存――依存される内に依存者を支える側も
  その関係に依存することで安定してしまった歪な形。
  先輩の精神の限界を遥かに凌駕してしまった竹沢先輩の狂気。強過ぎる責任感の暴挙。
  もう先輩の頭に共倒れ以外の選択肢は浮かんでいません。
  私に救いを求めていた弱気な心は完全に霧散してしまいました。
  竹沢先輩を見捨てるなんて以ての外、例え死の危機に瀕しようともそれはありえません。
  何故なら二人は一蓮托生、表裏一体、離れられない己の分身同士だから。

 ――先輩が竹沢先輩にとり込まれてしまっています。

 呆然とする私に、いえ私ではなく竹沢先輩に、先輩は続けます。

「そうさ……見捨てるなんてありえない。嫌いになるなんてありえない。
  どれだけお前が厄介だろうとそれは全部俺を想ってなんだ……、俺を想ってくれているんだ……。
  ……お前ほど俺を愛してくれるヤツがこの世にどれだけいるだろう?
  誰か別の女の子といるだけで不安になって泣いてくれるヤツが、
  自我の境界を放り出してまで俺に頼ってくれるヤツが、ちょっと冷たくしただけで
  手首を切ってくれるヤツが。……それら全部が――不安定な自己を他人に依拠することで
  安定させようとする利己的な行為――だなんて思えるはずがないじゃないか……。
  そんなのお前の存在を認めたくない奴らがお前を自分勝手な人間だと
  思い込もうとしているだけだ。……だから俺もお前の気持ちに答えなきゃいけない。
  答えられるのは俺だけなんだ。俺だけがお前にそうして好きになってもらえたんだ。
  俺だけがお前を救えるんだ。ならそれは義務以外の何物でもない、……何物にもなれない。
  ……本当はずっと不思議だった。どうして俺はお前を見捨てる選択肢に選ぼうとしないのかって。
  でもわかったよ。あるいはお前に告白されたときからわかっていたのかもしれないな……。
  誰かにケチを付けられようと、世間に疎まれようと、心理学辺りに非難されようと構わない。
  俺は、俺は確かにこう思うよ――」

 深呼吸してはっきりと、

 

「――――――依存は愛だと。そしてそこまで愛されたなら責任を取らなければならないと」

 

 滑り落ちた雫はしかしなくなりはしませんでした。
  同じ名を持つ人物がそこに抱き寄せられていたからです。
  無言の抱擁。
  右腕を掴んで引っ張りあげた竹沢先輩は次の瞬間には先輩の胸の中にいました。
  そして背中に腕を回され、きつくその小柄を締められています。
  あるいはその首を絞めるような力強さは、代わりに私が悲しさで胸が締め付けられるくらいに
  慈しみに溢れていました。
  リストカット直後で痛みも引いていないだろうに、竹沢先輩は日本晴れのごとき
  清々しい笑顔になっていきます。頬に涙を溜めつつ、文字通り血の気が引いているにも
  関わらずの喜色満面。
  嬉しそうです。とてもとても嬉しそうです。

 ――対して私は顔面蒼白もいいところ。
  擬似的な有毒鉱山。血。血。血。
  身体は隅々まで毒され、その鉄の臭いに吐き気が止まりません。
  何より私を蝕むのはそんなところで愛を語り合おうとしている先輩。
  狂気の沙汰で愛を獲得してしまった竹沢先輩。
  そして歪んだ関係を受け入れようとしている二人。
  信じられません。信じたくもありません。
  どうしてどうしてどうしてこんなことになってしまったんでしょう……?
  このままじゃわたしは……わたしは……。

「だって俺はな――」

 ――やめてください……まってください……そのさきをいわないでください。
  ……私はずっとそれをのぞんでがまんにがまんをかさねてきたんですよ……。
  そんな……、そんなのひどすぎますよ……。ひどすぎますよぉ……。

 ――しかし私の心は蹂躙され、先輩の宣告で完膚なきまでに打ち砕かれました。

「雫のことが好きだから」
  身を乗り出し、その狂った小娘に口付けを。

 

 だめです……、わたしももう……――――――――――――――――――――壊れました。

 

「あはははっ、あははははははっ、あはははははははははっ、あははははっ、あはははははは
はははっっっ、あはははははははははははははははははっっっっ、あははははははははははは
はははははははははははっっっっ、あはははははははははははははははははははっっっっっ、
あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははっっっっっっっっっっ!!!!!!!」

 天にも届く高笑い。
  まるで絶叫。まるで咆哮。いいんです。それでいいんです。
  最後の勝者に狂気が要るというのなら、私も狂ってみせましょうっ!
  溜めに溜め、耐えに耐えた想いの丈はどれほどか。
  先輩がその長さを測ると言うのであれば、ここで明かして差し上げますっ!

「こーへいせんぱい」
  短く呼んで、一、二、三歩。助走を付けて迷いなく。脇目も振らずに加速します。
  背後で遠ざかる先輩が振り返る気配がしました。私の豹変への驚嘆は何故か上擦った声。
  ――ああそうか……、私がいることを忘れてキスしたんですか。
  ……それはなんていうかもう……、……あまりの切なさにそれこそ死にたくなりますよ……。
  ――でもいいです。今にもう二度と私を忘れられなくなる思い出を作ってあげます。
  私だって十分先輩に愛される資格があるんだってことを実践して見せますから。
  両手両足を振れるだけ振ったがむしゃらな短距離走。
  最高速までにはまだ至りませんが、速度はすでに初速の何倍にも跳ね上がっています。
  順番に前に来る腕のうち、引き戻されて後ろへ振られようとする左腕の肘を曲げて、
  慣性の赴くままに左の上半身ごと大きく後ろに逸らしました。
  固く拳を作ります。必殺の一撃を放つ準備の完了です。
  時間にして数秒ほど、私は目的地である保健室の端のほうへと辿り着きました。
  迫り来るのは残暑に炙られた砂塵舞うグラウンド――ではなくその前にある透明の壁。
  ――リストカットとはレベルが違いますよ。……ただ、願わくば腱が切れないでくれるといいな
  なんて、それぐらいは思ってしまうんです。……でも、先輩に好きになってもらえない
  苦しみよりは、狂ってしまうほうが断然痛みが少ないんですよっ!
「いいぃぃぃぃぃぁやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああっっ!!!」
  激突直前に、痺れるくらい勢いよく右足を床に叩きつけ、全力で踏み切りました。
  合わせて振り絞っていた拳を正面へと突き出します。
  行き場を失ったエネルギーが半身をしなった弓のように弾き、拳が空気を切り裂きながら
  全身を持っていかれそうな速力でガラスを――

 貫きました。

 高くひび割れた破砕音。
  呆気ないほど簡単にガラスを突き破った左腕は、しかしその反撃であちこちを
  深々と透けた刃に噛まれる結果になってしまいました。ですが千切れていないだけ儲け物です。
  何だかんだで恐がって踏み切りを早くし過ぎたのかもしれません。それとも短い距離ですし、
  やはり速度が足らなかったか。――まあどちらにせよ、これでも及第点は付けてもらえますよね?
  だって鮮血の蚯蚓腫れが無数に走る腕に、砕けた破片が剣山のごとく突き刺さる拳。
  噛み付かれたままで今尚その鋭い牙が突き立てられている肩口なんか肉がズタズタに裂けて
  エグイことになっていますよ。
  ――痛いイタイイタイ――……ああ激痛が――痛い痛い痛い――痛覚が神経を焼いて――
  痛いイタイイタイ痛い――腕が八つ裂きになっちゃいますよぉ……
  ――イタイイタイイタイイタイ――
  ……意識が飛んで、でも逃れられない鎖に繋ぎとめられて、地獄の釜茹でにしたって
  もっと穏やかな苛み方ではないでしょうか?――痛い痛い痛い――
  痛いですよぉぉぉぉぉぉおおおお……―
  ―痛い痛い痛い痛い――あぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……せんぱぁい、痛いです……、痛いんです……、
  たすけてくださいよぉぉぉぉおおおおおお、あいしてくださいよぉぉぉぉぉぉおおおおおおお、
  私を見てくださいよぉぉぉおぉぉぉおぉおおおぉぉぉおおぉぉぉおぉおお――
  イタイイタイ痛い痛い痛い痛いイタイイタイイタイイタイ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
  イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ――
  せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱい
  せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱい
  せんぱいせんぱいせんぱい―――――――これしきの痛みが何ですか。

 死力を振り絞って取って置きの狂気を先輩に。歪んだ愛の告白を先輩に。
  苦痛を抱え、平静を装い、憎悪に耐え、嫉妬を募らせ、殺意を肯定し、しかし最後まで
  冷静さを失わずにそれらを爆発させる。
  そんな私にお似合いの静かな狂気で先輩を虜にしてみせます。
  私は絶対に負けません。他の全てを投げ打ってでも私は先輩が一番なんです。
  だから竹沢先輩、私は徹底的にやりますよ。
  先輩に愛されるために、あなたを必ず排除します。私の先輩を奪うのならば、
  その身でもって罪を償っていただきます。今あなたが得ている幸せは私の念願なんです。
  この抑圧し過ぎて狂ってしまった愛情の向かう矛先はそこ以外に存在しないんです。
  先輩がその切っ先を受け止めてくれるというのなら、私はもう我慢なんてできません。
  必要とされたかったのは、自分から先輩を求めることができなかった葛藤の裏返し。
  拒絶を恐れるあまり理性で自分を縛ってしまった愚考。

 ――それに終止符を打ちましょう。今こそ先輩の愛を手に入れるんです。
  左腕の惨状はあえて気にせず、私は首と右半身だけで先輩に振り返ります。
  この短時間に二度ですからさすがに脳が麻痺してしまって事態の飲み込みに時間がかかるのか、
  先輩はまるで白昼の公園で殺人の目撃者になってしまったかのように瞬きすらせずに
  唖然としていました。
  先輩の拒絶の恐怖がまだ残っているのか、それとも私の凶行に怯えているのか、
  あるいは対抗意識でも燃やしているのか、竹沢先輩が先輩に抱き付きを通り越してしがみ付きます。
  そのことに小さくも鋭い苛立ちを覚えますが、腕の痛みに比べたら些細なものです。
  条件反射で人を不安にさせる高音。
  竹沢先輩が自傷するときに誰かに見られでもしたのか、近付いてくる救急車のサイレンが
  近付いてくるのが聞こえます。しかし、事後処理も今考えるべきことではありません。
  肝心なのは一つだけ。
  私は努めて無感動に、しかし真摯に先輩に言葉を紡ぎました。

「せんぱいせんぱい幸平先輩。私はあなたを愛してますよ。ここまでやれるくらい愛してますよ。
  ――だからせんぱいもわたしを愛してくれますね?」

10

 面会時間はとっくに終わり、夜の闇に包まれた病院の廊下。
  月光の薄明かりに照らされたリノリウムは、忍び寄りつつある秋季の冷気と相俟って、
  怪談めいた薄ら寒さを醸し出している。
  それは俺のいるこのフリースペースでも同様だ。
  無人の大型ソファや、客など来やしないのに健気に発行を続ける自動販売機。
  さっき隅に置いてある血圧測定器で健康チェックなどやってみたが、
  静寂に低く響くモーターの駆動音は、平均値を大きく下回ったその結果と同じく、
  要らないものでしかなかった。
  携帯を開き、時間を見る。もうすぐ日付が変わる頃合だ。
  担当した医師の話に寄れば、服用させた催眠鎮静剤
(鎮静剤とあるが、睡眠薬の正式名称だそうだ)の効果は十二時間程度、とのことだったから、
  正午を幾らか過ぎた時間に打った薬の効果が切れるまでもう暫らくの辛抱だろう。
  ナースセンターの人が差し入れてくれたコーヒーをちびちび飲んでいると、
  背後から機械的なまでに等間隔な足音が聞こえた。

「まだ起きていらっしゃったんですか」
「あんまり動くと傷が開くよ?」
  彼女が手術で打たれた麻酔はとうに効果は切れている。しっかりしているのは
  足取りだけではなくて、その感情を感じさせない表情も含めて全てがそうだ。
  精神的な心配も無用のようだが、入院服の裾や襟から覗く、
  包帯でグルグル巻きにされた左の上半身は、どうにも痛々しかった。
「多少、ジンジン痺れるような痛みはありますけどね。平気ですよ、これくらい。
  何週間か入院すれば無事退院できるそうですし。傷跡は残ってしまうそうですが、
  武勲ですからむしろ誇りです。――それよりも、先輩は誰を待っているんですか?」
  いや……あくまで心配が要らないのは上辺だけだ。あるいは必ず治癒する傷よりも、
  こっちの方がずっと性質が悪いかもしれない。
  雫にしろ、この娘にしろ、裡に抱え込むタイプが一旦暴走すると手が付けられないのは、
  日中に散々学習した。後戻りができるなんて考えを今更抱くつもりもない。
「……また暴れられたら病院の人に迷惑だと思ってね」
「結構じゃないですか。その時にはまた薬で大人しくさせればいいんです。そうですね……
  いっそのことそのまま永眠させたら如何です?」
  臆面も無く言い放つ。冗談めかした科白だが、その平淡な調子の裏に隠れた
  煮え滾るような殺意は、もう半ば透けているように思えた。
「……今日発見した麻衣実ちゃんの新たな一面は限りなくブラックだね」
「黒い娘はお嫌いですか? それとも私が先輩に牙を向くなどと、
  要らぬ心配をなさっているのでしょうか? 大丈夫ですよ、私が消すのは
  先輩に纏わり付く害虫だけですから」
「『消す』……ね」
  随分と物騒な話だ。

 何で俺はここまでこの娘に好かれてしまったのだろう。
  俺の何が、この娘を平気で片腕を犠牲にしてしまうくらいに熱烈な愛情に駆り立てたのだろう。
  疑問ほかにもある。
  それだけのことをやらかした後なのに、麻衣実ちゃんはこれといって
  情緒が不安定なってないってことだ。ポイントとしては、饒舌になり、
  自身がそういうように積極性を増したことくらいか。
  弁当を含めた荷物を教室に置いてきてしまったので、代わりの昼飯を病院の売店に
  買いに行った僅かな時間、俺が隣からいなくなったことに恐慌して騒ぎ立てた雫が
  眠らされてから消灯時間まで、その内、麻衣実ちゃんが手術を終えて目覚めた後の時間は
  彼女の独壇場だった。
  麻衣実ちゃんは、いかに自分が俺を愛しているか、いかに自分が雫より上回っているかを、
  多種多様な同義語異義語を留まるところを知らない言葉の激流に乗せ、
  さらには異文化間でも通用しそうな大げさなジェスチャーまで交じえて雄弁に語ってくれた。
  告白ならすでに『あの時』にされていたが、その理由付けということらしい。
  ご丁寧に自分が狂った理由まで滔々と話す様子を見て、『冷静に狂う』という
  彼女の言葉が理解できた気がした。
  言うなれば、冷徹に狡猾な策も、破滅的な狂気も、いかなことさえもできると言いたいのだろう。
  そして、その目的は極めてシンプル。
  俺に愛してもらうため。ただそれだけ。
  麻衣実ちゃんが持てる限りの語彙を使い果たしたと思われる弁論は、他に目的がないのだ。

「麻衣実ちゃんはさ……、その……、どうしてそこまで俺を好きになってくれたわけ?」
  余りに純粋で猟奇的、なのに理性的。
  彼女の愛情の度を過ぎた奇妙さに気おされて、聞きそびれていた疑問が、ふと口を付いた。
  異常者に何を訊いてるんだろうなと思いながらも、
  麻衣実ちゃんが真摯な答えを返してくれると疑わない自分に驚く。
  あるいは、昼間雫への好意を悟った瞬間に、もう順応してしまっていたのかもしれない。
  リストカットによる謝罪と、ガラスに腕を突っ込む対抗意識。
  二つの差を説明しろと言われたところで俺に説明できるはずもない。
  どちらもただ、破裂せんばかりの巨大な愛情表現の一部だということだけだ。
  そして、俺はそのような形の愛情にすでに堕ちてしまっているわけで、
  それだけで麻衣実ちゃんを拒絶したりはしないのだろう。
  好かれたら惹かれるのは真理。何度目の繰り返しか知らないが。
  だから嫌悪感なんて湧くはずもないし、従って取り乱したりもしない。
  事実、俺は自らが冷静と評する麻衣実ちゃん以上に冷静なのではないかと思う。

 

「先輩はどうして自傷で気を惹こうとするような陰気な女が好きになったんです?」
「陰気って……雫は我が侭言ったから俺に嫌われたかもって、ちょっと不安になっただけだよ」
  質問を質問で返されてしまった。
  麻衣実ちゃんは頭が切れるため、俺の拙い話術ではその本心を引き摺り出せそうにない。
  さりげなくフォローしまくりな自分は一先ず置いておくとしてだ。
「俺も内緒にしておこうかな。……いろいろあるんだよ。感情移入したくなるような理由がさ。
  まあ、ある意味では保健室で言ったあの言葉が俺の気持ちの全てだと思うよ」
「……そうですか」
  お互いに腹を割って話そうとしないので会話が途切れる。
  それこそ腹の探りあいになりそうな無意味な雑談ができるほど、俺は面の皮が厚くはない。
  間を持たせるために空のカップを傾ける。

「――椎名さん? ああ……やっぱり……。あなたはベットに括りつけられていなければ
  じっとしていることもできないの?」
  幸か不幸か丁度いいタイミングで、巡回の看護師さんが現れた。
  人生の酸いも甘いも知り尽くしたような壮年期の女性は、俺にコーヒーを差し入れてくれた
  婦長さんだ。
  口振りからわかるが、術後間髪入れずに俺に付きっ切りの麻衣実ちゃんに呆れているご様子。
「痛みだってまだ引いてないでしょうに、もう少し自分の身体を大切にしたらどうなの?
  そんなんじゃ何をやっても肝心な時に力が入らなくて悲惨な結果に終わるわよ」
「……すみません。……ですが、余計なお世話と言わせて下さい。私にとって先輩と話すのは
  自分の身体よりも大事なんです。――それと私は自力では生きられない
  無力な虫ごときに負けませんので」
  淡々と敵意をぶつけられた婦長さんは、俺に軽く目配せした。
  雫の事情を知っているプロの医療関係者は、
  この手の痴情の縺れが原因で引き起こされる事態を懸念してくれているらしい。
  具体的には俺の心労や雫の自傷症か。…全く、雫は幾つ『症』の字を付ければ気が済むんだ。
「……いいわ。少なくとも今日はもう遅いから後にしましょう。他の患者さんの迷惑になるから。
  用件だけ伝える事にします。――アナタのお父さんがさっきいらっしゃって、
  今、江田先生のところで説明を受けているところよ。――お父さんとお話したら、
  頭も少しは冷えるでしょう」
  やや厳しく告げて、婦長さんは巡回に戻っていった。

 見た感じ冷静とはいえ、麻衣実ちゃんもなかなかに危険な精神構造を持っているのだが、
  どうにも対応が雑じゃないだろうか。そりゃ確かに言ってることは正しいが、
  下手な刺激は向こうも気を遣うところだと思う。
  事実、俺や雫なんかとの対応に対して開きがあるような……。
「私は錯乱した竹沢先輩に突き飛ばされて怪我をしたことになってるんですよ。
  ですから、あの方も私を一般患者と同じように扱っているんでしょう。
  慇懃無礼な態度と合わせて、精神が不安定な竹沢先輩を挑発した生意気な泥棒猫、
  とでも考えていらっしゃるんじゃないですか」
  尋ねるチャンスを逸してしまい、後ろ髪を引かれる思いで
  婦長さんの消えた廊下の先を見続ける俺に、麻衣実ちゃんがその理由を教えてくれる。
「……私はあの方が私を先輩から引き剥がそうとするんで、
  そうした態度を取っただけなんですがね。いや、竹沢先輩を先輩の正規の恋人としているのに
  頭にきたのも事実ですが。――それにしても何も知らないということは、
  ネームプレートに婦長とありましたが、下っ端なんですね」
「ちょっと待って……、それってどういう……」
「……窓の外、ご覧になっていただけませんか」
  言われるままに四階からの展望を見る。
  深夜とは言えないが、一応は真夜中だ。眼下に広がる病院の駐車場は、
  電灯を除けば灯りなどほとんど見えないが……。
  ……違った。端のほうに一台目立つのが止まっている。白と黒のツートンカラーに、
  眩く光る赤色灯。サイレンこそ鳴らしてないが、良かれ悪かれ人目を惹く車ではあるだろう。
「公用車を平然と私用で使う性質の悪さからもわかると思いますが、
  どうしようもない人間でしてね。薄汚い権力者の鑑みたいな人です。
  多分学校か病院に圧力をかけて偽装工作を施したんでしょう。
  その手のパイプは下水管に負けず劣らずの本数を持っていますし。
  ――先輩、ここの医者から私と竹沢先輩が怪我をした状況を訊かれていないでしょう?」
「言われてみればそうだな……」
  概要ならあの後、事態を察知して即座に飛び込んで来た保険医に伝えたが、
  麻衣実ちゃんの意図するところでは、その詳細はかなり変わっているらしい。
「竹沢先輩は手首の切り傷ですから、見れば誰だってある種の状況に思い至ります。
  そこを利用したんでしょうね。私も手術が終わって、医者の話を聞くまで知りませんでしたよ」
  馬鹿馬鹿しい、今にもそう口に出しそうなほどの嫌悪感を露にし、麻衣実ちゃんは、
  明らかに侮蔑とわかる視線で四階下に位置する車を睨む。
  半年一緒にやってきた俺でも、彼女がそこまで鮮明に感情を向ける相手は二人しか知らない。
  一人目は言わずもがな、雫に向ける殺意の類である。俺への好意じゃないのが少し悲しい。
「どうせ、病院の先生方との辻褄合わせの仕上げでもしに来たんでしょう。
  揉み消すなら徹底的に、あの人は自分の立場を何よりも重んじますから。
  たかだか県警のお偉いさんごときで、何にしがみ付いているんだか知りませんけどね」
「……お父さん?」
「父と呼ぶのも憚られますよ。そもそも私の心配をしに来たのではありませんから、
  話が終われば即帰るはずですし。あの男こそ害悪の名に相応しい、
  存在価値零どころかマイナスの――そうでもありませんか、少しは利用価値がありましたね」
  くるりと振り向き、透き通るような瞳で見詰めてくる。
  その一瞬に完全に表情を消してみせるのが、麻衣実ちゃんの異常性なんだろう。
  そこにある狂気の奥行きが深ければ深いほどに。

         
   ・ ・  ・ ・ ・                 ・ ・ ・ ・ ・   ・ ・ ・ ・ ・
「殺人を事故死に偽装するのは無理でも、不審な事故死を、普通の事故死にするくらいなら
  恐らく可能でしょう。失敗すれば間違いなく切り捨てられて、良くて順当に檻の中でしょうが」

 絶句した俺から麻衣実ちゃんは眼を離さそうとしない。
  麻衣実ちゃんの視線は固い信念を持った槍だ。俺を貫いたきり、抜かれることを一厘だって
  疑っていない。――麻衣実ちゃんの父親のことはよくわからないが、少なくともある点では
  俺と共通している。……どうして俺はここまで俺を信じてくれる娘を
  切り捨てなきゃいけないんだろうな。
「……そういうことです。先輩の責任感が最高に素晴らしいんですよ」
  信じられないことに(失礼だけど)、麻衣実ちゃんはニッコリと笑った。
  単純にギャップの問題もあるんだろうが、その極上の笑みに俺は思わず陥落しそうになった。
  普段のクールな麻衣実ちゃんもいいけど、やっぱり笑顔のほうが可愛い。
  緩んだ口元なんて超絶レアものだぞ。
  ――三人目。麻衣実ちゃんは間違いなく俺を愛してくれている。
  そうでなければ、こんな心を躍らせるような笑顔を向けてくれるものか。

「先輩なら、例え私が檻の中に入ろうとも、先輩の愛しているならば、決して見捨てたりしないと
  信じていますから。――だから竹沢先輩を私が殺しさえすれば、
  きっと先輩は残った私を大事にしてくれるでしょう?」

 折角の笑顔が台無しになったなと、俺はそれだけを思った。それだけで十分だった。
  だってそれは予想されうる未来の形の確固たる一つだったから。
  こと恋愛関係において、責任を取れる相手は一人だけだ。
  だから俺は俺が選んだ雫を誰よりも大切にするつもりだし、殺させる気なんて毛頭ない。
  麻衣実ちゃんの好意は死ぬほど嬉しいが、それとこれとは別問題だ。
  ――だが、もし雫が死んでしまったらどうなる? 俺は死人に対して責任を果たせるのか?
  それは誠実さだと言えるのか? ……俺は死後の世界なんて信じちゃいない。
  あるのは現世、この世だけだ。
  それなら、雫と同じくらい俺を愛してくれる人に俺は惹かれるんじゃないか?
  愛されたら惹かれるのは摂理。愛してるから恋敵を殺して自分が愛されるなんて、イカレてる。

 でも、それほど愛されるってのは何ものにも変え難い至福じゃないだろうか。

 ――俺も壊れてるに違いねえな。

 どんなロジックだよ、それ。狂人と化した哲学者だって、人殺しが好きだとは言わないだろうに。

「……明日精神科に行って俺の分の精神安定剤も貰っておくとするわ。それじゃあ、
  もう一人の精神異常者がそろそろ起きる時間だから、おやすみ、麻衣実ちゃん。
  ……くれぐれも強硬手段には出ないでくれよ」

 雫の病室に歩き出す。
  麻衣実ちゃんは『お休みなさい、幸平先輩』とだけ言った。
  起伏のないトーンの裏に、どれだけの想いが秘められているのかはとても計り知れない。
  その想いを受ける俺は、抜け出せない混沌の中に嵌まり込んでいた。

To be continued....

 

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