「どうぞ、たんとお召し上がりください」
シャロンちゃんが料理を盛大に盛った皿を俺の前に置いた。
「え…と、あはは……ありがとう…」
常識を上回るその物量にどう返答すれば良いのか困ってしまい、
とりあえず苦笑しながら謝辞だけ告げる。
「おいおい!シャロンちゃん!またウィルだけエコ贔屓かよ!
その量は幾らなんでも差がありすぎだろ?」
同僚の非難の声――いや、冷やかしとしての意味合いの方が強いか――には目もくれず、
他の皆とは明らかの量の違う皿を俺の前に置いて去って行った。
……食べられるかな、こんな量。
大量に盛られた料理に、少しだけ胃が軋んだ。
新米の騎士だけを集めた訓練部隊。ここに配属されてどれくらい過ぎただろう。
とかく毎日が訓練、訓練の日々で皆の疲労もたまり気味だ。
食事の時間は数少ない心休まる時間。このときだけは皆の表情も柔らかだ。
貴重な憩いの時間をそれぞれ楽しんでいる。
もっとも俺にとって訓練が厳しいのは寧ろ有難いくらいで、自分の技が日に日に磨かれているのが
つぶさに感じ取れた。
一人でも多く隣国の奴らを殺せるのならこれくらいの苦労、なんでもない。
ただ、ひとつ欲を言えば現在戦況は睨み合いを続けている状態で、
戦闘が殆ど起こっていないのは少し心配だ。
もちろん、戦いがないのは犠牲者が出ないということなのでそれ自体はいいことなのだが。
ただ……このまま奴らとの戦争がうやむやになって休戦する、なんてのはご免こうむりたいのだ。
あの虐殺事件の責を不問にして和解などしようものなら、この国の王も殺してやる。
それくらいの腹積もりだ。
……と。このところ、どうも思考が暗い方向に行きがちだ。自重しないと。
「そういや、そろそろだな」
山盛りの料理と格闘していると、不意に隣の同僚が話しを切り出した。
さっき俺たちを冷やかしていた騎士―――エリオット=ジュダスだ。
「あーっと……いつ発表だったっけ?」
……なんの話かと思えば。
そうか。もうすぐ俺たちも正式にそれぞれの部隊に配属される。
その配属先を、近々ラモラック部隊長が発表することになっていた。
きっとその事を言っているんだろう。
「確か……この週末だった、かな?」
「あぁ、そうか。そういえば隊長がそんなこと言ってたっけか。
にしても配属先はどこになるんだろうな……。ウィル、お前はどこ志望よ?」
「んー、別に何処だっていいよ。前線に出してもらえるなら」
「……。お前、夢もなんもないのな…」
呆れが混じった声を上げるその同僚。
実際、何処だっていい。俺が騎士になろうと決めたのも、傭兵をやってるよりは
重要な配置で戦えると思ったからだ。
俺は騎士の名誉も、団員に支給される安定した給与も興味ない。大切なのはどれだけ苛烈な戦場で
戦えるか……その一点のみだ。
敵兵を一人でも多く殺せる場所なら何処だって構わない。
「うるさいな〜。じゃあ、何処がいいんだよ?」
あまりそのあたりを深く突っ込まれたくなかったので、今度はこちらから話を振った。
「んなの決まってるだろ。あの戦姫が隊長やってる、第零遊撃隊よ!」
ビシッと俺を指差しながらはっきり告げた。……ってかなんで自慢げなんだ。
「少数精鋭、一般兵が所属できない騎士のみの部隊で、数々の伝説を打ち立てた国内最強の集団!
それに騎士なら一度は戦姫と一緒に戦ってみたいだろ!」
高らかに宣言しているエリオットに苦笑しながら。
「まぁ、確かに戦姫が本当に噂どおりの強さか見てみたい気はするけど」
俺はスプーンから今日のメニューであるオートミールを口に含み、よく味わった。
「そうだろ〜、そうだろ〜。やっぱ騎士なら一度は会ってみたいよな。そして騎士以前に
男なら戦姫が美人なのかどうかも知りたい。
嗚呼…、美人なら是非顎でこき使われたいもんだ……」
人が夕飯を楽しんでる横で、何やら良からぬ妄想を始めた。
……戦姫が噂どおりの人間なら美人なわけないだろ。砦の門を素手で開けるとか言われてるんだぞ?
それが真実なら戦姫は大女に決まってる。目の前のこの夕食を賭けたっていい。
同僚の夢を壊したくはなかったので、その言葉を口にするような無粋なマネはしなかったけど。
「あ、テメ、信用してねーな!言っとくけどな、俺の知り合いが戦姫を見たって聞いたんだぞ!
すっげ可愛いって言ってたんだからな!本当だぞ!マジで!」
口に出さなくとも顔には出ていたらしい。
俺が呆れているのに気付いたエリオットは、戦姫が幼顔で綺麗な銀髪の少女だと説いて聞かせた。
『知り合いが戦姫を見たって聞いた』――つまりは知り合いが聞いたことを更にまた聞きした話
なのだろう。イマイチ信用ならない。
とりあえず確実なのは、こんな身近なところにも戦姫を崇拝している者がいたということだけだ。
「わかった、わかったから……」
捲くし立てる同僚を落ち着けようと彼の皿に少しだけ料理を移してやる。
アリマテア王国騎士団第零遊撃部隊の隊長、マリィ=トレイクネル。
戦争が始まってすぐ、噂になった女性騎士だ。勇猛果敢な戦い振り、敵を全く寄せ付けないその強さは
国内でも有名だ。
傭兵だった頃も何度か噂を聞いたが、騎士になって城内を歩いていると
彼女の話をよく耳にする機会が増えた。
だが、第零遊撃部隊は戦場をあちこち転々としているので、実際に戦姫の姿を見た者は少ない。
一月前のフォルン平野の戦いに戦姫が参加していたらしいのだが、俺が彼女に出会うことはなかった。
後で噂を聞くと、相変わらずその戦いでも笑ってしまうくらいの活躍ぶりを見せていたそうだが。
なんでも彼女の太刀を受け止めることができた者は只の一人もいないらしい。
いくらなんでもそれは眉唾だと思うが……逆に言えばそんな噂が出るくらい
強いということなんだろう。
もし会う機会があったなら、どうすればそこまで強くなれるのか是非訊いてみたいものだ。
そういえば。戦姫の血筋であるトレイクネル家はトリスタン家と双璧を成す騎士の名家だったな。
もしかしてマリカなら戦姫に会ったことがあるんじゃないか?
「なぁ、マリカ」
向かいに座っていたマリカに声を掛けた。
「……なんだ?」
……うひっ。なぜかすごい形相で睨まれた。
理由は不明だが今日はすこぶる機嫌が悪いらしい。
出しかけた質問を引っ込めようか迷ったが、このまま何も言わなかったとしても
マリカは更にヘソを曲げるだろう。
一瞬の逡巡ののち、結局マリカに尋ねることにした。
「い、いや。戦姫ってトレイクネル家の出身だろ?マリカなら会ったことあるんじゃないか?」
「知らん」
にべもない。たった三文字の返事で彼女との会話は終了した。
本当に機嫌が悪いらしい。なんでだろう?
どうにか機嫌を直してもらえないかと頭を捻った挙句。
「マ、マリカはどうなんだ?配属先にどこか志望なんてある?」
話題を変えるのが精一杯だった。
だが、思ったよりその効果は覿面だったようで。
彼女の表情から不機嫌さが消え、こちらを見つめている。
「わたしに志望先など、ない」
俺の質問が何かマズかったのか。
スプーンを持っていた手の動きが止まり、今度は自嘲ぎみに笑った。
「わたしの意志がどうだろうと配属先はとうに決まっている。……第一近衛部隊だ」
「凄いじゃないか、近衛隊ってエリート中のエリートがいくところだろ?」
やはりどの国でも一番の花形と言えば近衛隊だ。
第零遊撃隊も精鋭と言えば精鋭だが、身分や所属騎士の性格、諸々の問題を無視した
強さだけに特化した急造の部隊。
一方で近衛部隊は騎士としての忠義心や気高さも必要だと言われている。
俺では背伸びしても届かないような部隊だ。
「近衛隊か…。なんというか、マリカらしいな」
騎士としての気品や誇りを、この中の誰よりも持っているのはマリカだ。
彼女にはまさに打って付けの配属先だと思う。
そのつもりで言ったのだが。
当のマリカにはそう聞こえなかったらしい。
「馬鹿にしているのかッ!」
ビィィンと食堂に響くマリカの恫喝。
ついさっきまでざわめいていた空気が、シンと静まり返る。食事をしていた他の騎士たちも
何事かと俺たちに注目していた。
俺の方はと言うとマリカのいつもの癇癪とは違う怒りに満ちた表情を、
ぽかんと馬鹿面を下げて見つめているだけだった。
「あ、いや。……その、申し訳ない。
今日はどうも調子が悪いようだ。すまないがこれで失礼する」
いきなり怒鳴り散らしたことでバツが悪くなったのか、俺に頭を下げると早足で食堂を出て行った。
マリカを見つめていた騎士たちも彼女が去ると雑談を再開し、再び食堂内が喧騒に包まれる。
「うへぇ。いつになく機嫌悪いな、トリスタンのやつ。
……ま、あんまり気にすんなよ、ウィル」
茶化す他の同僚の言葉を聞き流しながら、俺はマリカが消えた方向をじっと眺めていた。
今日のマリカは本当に様子がおかしい。確かに彼女がカリカリしてるのはいつものことだが、
さっきのあれは違う。
たとえどれだけ怒っていても口調の端々にいつも感じられる余裕――――今回はそれが無かった。
………気になるな。
「ごめん。ちょっと俺も」
エリオットにそう断ってから、俺も食堂を後にした。
「…っておい!ウィル!待…!
―――――この三人分の食器、オレが片付けるのか…!?」
城の中庭。城中の捜せるところを探し回り、やっとそこでマリカを見つけることができた。
無心で剣を振り続ける彼女に、俺は声を掛けながら近づく。
「マリカ、ここにいたのか」
「…ケノビラック」
横目でチラリと俺の姿を確認する。やっぱり…お世辞にも機嫌がいい顔とは言えない。
食事を終えてからそう時間は経っていないはずなのに、彼女の額はびっしょりと汗ばんでいた。
「わたしに何か用か。悪いが見ての通り訓練中でな…。大した用でないなら後にしてくれ」
ドス、と土に剣を突き立て額を拭う。
「…だったら俺も付き合うよ。二人でやる方が効率的だろ?」
「いや、わたしは――――」
彼女がどう返答するかは解っていた。だから。
マリカが言い終わるよりも早く、俺は腰にぶら下げている一対の剣を抜いた。
――――………
「くっ……わたしの、負けだ…」
首筋に添えられた太刀を忌々しげに睨んで、マリカは剣を収めた。
それに倣い、俺も剣を手放す。
―――――明らかにおかしい。
さっきの手合い…マリカとは思えないくらいお粗末な剣捌きだった。
「いくら子供の頃から訓練を積み重ねていようと……所詮わたしも温室育ちのお嬢様か」
諦めに似た笑みを浮かべ、己を嘲る。全く以ってマリカらしくない。
前に手合わせしたときもそうだったが、今日はそれにも増して剣のキレが鈍っていた。
民間人に剣を握らせた方がまだマシな動きをすると思えるほどに。
「単に調子悪いだけだろ。いつものマリカならもっと善戦してたはずだよ」
と、口ではそう言いながら、実のところ俺でも解っていた。
本当にただ調子が悪いだけならここまで酷くはならない。
あの緩慢とした動きはそれだけマリカの精神が草臥れている証拠だ。
「いや…解っている、ケノビラック。これがわたしの限界なのだ」
マリカの口から出た言葉とは思えない、卑屈な返答だった。
「何言って――――」
「慰めの言葉など聞きたくないッ!」
マリカの激昂。毎日のように聞いてきたが、今日ほど覇気のないものは今まで耳にした事がない。
情緒不安定な今の精神状態と、さっきのお粗末な動き。マリカが何か隠しているのは明白だ。
「いったいどうしたんだよ…マリカ」
「……」
俺の問いから逃れるように俯くマリカ。
いずれは答えてくれるのを信じて我慢強く待っていると、
彼女はやがて根負けしたように重い口を開いた。
「……わたしが近衛隊に配属されるとさっき言ったな」
「う、うん。それは、聞いたけど…」
マリカとは一月ほどの付き合いとはいえ、今の彼女の姿を見たのは初めてだ。
こうも打ちひしがれた表情を目にするとこちらも戸惑いを隠せない。
彼女は決して自信家というわけではないが、自分を卑下するようなことは
絶対に口にしない性分のはずだ。
少なくとも――――俺たち同期の騎士の中で最も騎士たる者は何なのかを心得ている。
その彼女が「限界だ」などと……。
「お前は近衛隊がエリート集団などと言ったが、それは間違いだ」
鞘から華美な真剣―――確かトリスタン家の宝剣、だったか―――を引き抜き、刀身を晒す。
そこに映りこむマリカの瞳は酷く疲れているように見えた。
「…間違い?」
「いや、半分は確かにその通りだ。現騎士団長も近衛部隊長を兼任しているし、
隊の中にも優秀な騎士が数多く所属している。
――だがな、ケノビラック」
俺の名を呼ぶと、マリカは地面に深々と剣を突き立てた。
「優秀さを買われて配属される騎士たちとは別に、ある理由でたいして"優秀でない"連中が
入隊することがある」
「…………?」
「高貴な家柄の跡取りを戦争で失わないように、防戦以外戦場に繰り出されることのない
近衛隊に閉じ込めておく……。
そんなフザけた理由で配属先が決められる者がいるのだ」
きゅっ、と唇を結んで俯いた。
その直前、チラリと見えた彼女の目尻に、涙が浮かんで見えたのは俺の錯覚だろうか。
「…じゃあ、まさか……マリカが近衛隊に配属されるのって…」
「察しの通りだ。どうやら父上は意地でもわたしを戦争に行かせたくないらしい」
その場にしゃがみこんで、マリカはゆっくり身の上話を始めた。
「わたしの父、グレイ=トリスタンは根っからの文官でな。騎士の名家と言われてはいるが、
ここ何代かは政治的分野の椅子に席を置くことが多い。父も例に漏れず、その中のひとりだ」
「そういえば前に聞いたことがあるな…。トレイクネル家は軍務、
トリスタン家は外交に重きを置いてるって」
「……そうだ。
そのせいか、昔から父はわたしが騎士になることを反対していてな。
幼い頃から鍛錬を積むことを許していたのも、所詮子供のママゴト程度で
本気にしていなかったらしい」
突き立てた剣を眺めながら、自らの膝を抱える。
それはマリカにしては珍しい、やもすれば迷子の少女と見間違えるほどに淋しげな姿だった。
「だがな、この戦争が始まったせいで父が焦り出したのだ。
どうせ飽きると思っていた娘がいつまでもママゴトに熱中し、
おまけに戦争に駆り出されようとしている。
父としては何としても娘を妨害したいだろう?」
「……それなのによく十五で騎士になれたね」
基本的にアリマテア王国騎士団の正式な入団は十八歳からだ。
俺のように有力者の目に止まってスカウトされたり、または特殊な経緯で入団した戦姫みたいな
特定の例外を除けば、基本的に満十八を以って入団する。
マリカが若くして騎士になっているのも、父の力が影響しているのだとばかり思っていたが……。
「父への反発かな。今ここにいるのは。
ケノビラック。……出来ればこの話は内密にして欲しいことなのだが―――」
そう俺に前置きしてから、マリカは話を続けた。
「此度の戦争、どうも父が大して外交努力をしてなかったように見受けられるのだ」
「外交努力……って。無理だろ、あれじゃあ。
不意打ちで始まった戦争じゃないか。どうしようもないよ」
そう言いながら、俺もマリカの隣に座った。
今までは話題に上ることもなかった話に少しだけ俺の心がざわつく。
「……だがフォルン村の事件の後、即戦争になっただろう?隣国と何の交渉すらもせず、
それどころか、あの虐殺事件の大した調査もなしに宣戦布告したのだ。
……それ以外にも軽率な行動の数々。
それがどうにもわたしには"父は戦争を待ち望んでいた"と思えてならない。
……開戦当時のわが国の状況を知っているか?作物の不作で国力が低下していたのだぞ?
そんなときに戦争などすればどうなるか―――。
今でこそ帝国からの物資援助のおかげで何とかなりそうだが、
本来なら戦争どころではなかったはずだ」
「………」
……なんだ。
酷く。酷く喉が渇く。
「で……でも…まぁ、あんな事件があれば、国民感情としては戦争になっても仕方ない、
んじゃないかな…」
乾く喉の痛みを堪え、何とか声を絞り出す。
嗚呼。…何故。なぜ今、脳裡にキャスの顔が浮かんだんだろう。
「そうだな。確かにわたしも個人的な感情を言えば許せん。だが、理性的に考えれば
戦争をするべきではなかった。
不作で食糧がないあの状況の中戦争などすれば、民は飢えと殺戮で苦しめられることに
なっていたはずだ。
父はすべきことを怠った。わたしはそう思っている。
その父に対する嫌がらせみたいなものかな、わたしがこの時期に騎士団に入団したのは。
あ、もちろん立派な騎士になるという志は本物だぞ。この戦争がなくても何れは
入団するつもりだったから―――」
慌てて何か釈明しているマリカの声が耳に届かない。
気付けば喉の渇きだけでなく、胸ヤケまで催していた。
「じゃ、じゃあ…マリカは。
この戦争はすべきではなかったと。事件のことは堪えて、隣国と和平して、
戦争は避けるべきだったと。そう思っているんだな?」
声が震える。身体が異様なほど熱い。
―――何を考えている、ウィリアム。
今はマリカの相談に乗るつもりで話をしているんだろ。その質問は既に論点から大きく外れている。
お前がこれから言おうとしている"それ"はマリカには言わなくていいことだ。
彼女には何の関係もない。
「うん?まあ……平たく言えばな。たとえ陰惨な事件があろうと、
それだけのために全国民を危険に晒すわけにはいかない。
それが国民感情に反する結果になったとしても、だ」
マリカの言うとおりだ。
帝国の援助がなければ、いまごろ戦争は泥沼化して犠牲者の数が今の比ではなかったろう。
フォルン村だけじゃない。もっと沢山の村や町が、あの日と同じ運命を辿ったかも知れないのだ。
それを考えれば戦争は避けるべきだった。個人的な感情をドブに捨ててでも。
勝手に怒り狂って剣を振り回す俺なんかより、よっぽど先を見据えた考えだ。
――――じゃあ。それじゃあなぜ。
さっきから頭に五月蝿いほど鳴り響いてるキャスの声はなんだ?
その彼女を玩具のように犯した挙句、面倒臭そうに殺したあの男の嗤い声は、なんだ。
「たとえ事件を水に流すような結果になろうとも、戦争だけは避け―――」
「……る、な…」
よせ。
「――――ケノビラック?」
今ならマリカは何も気付いてない。
引き返すなら、今だ。彼女はあくまで政治的な立ち位置でああ言っているだけだ。
お前が今抱えているその感情とは、また別の話だろう。
「……けるな…」
やめろ。
マリカにそれをぶつけても、何の意味もない。
彼女は仇でもなければ、敵兵でもない。相手を間違えるな。
「あれだけのことを、しておいて………和平、だと……?」
だけど、止まらない。
喉の渇きも。込み上げる嘔吐感も。キャスが泣き叫ぶ声も。
気が、狂い、そうだ。
「おい、ケノビラック……。お前顔色が――――」
マリカが俺の肩に触れようと手を伸ばす。……そこまでが俺の限界だった。
「ふざけるなよッ!!」
「ぐっ…!?」
ガンッ!!
彼女の鎧の胸元を乱暴に引っ掴み、その場に押し倒す。
そのときには既に、制御できない怒りのせいで理性が完全に溶解していた。
「あれだけ殺しまくって、あれだけ犯しまくってッ!!それを許せ、だとッ…!!」
彼女の上に馬乗りになって問い詰める。……答えなど返ってくるはずがないのに。
暫く戦いがなかったせいで知らず知らずのうちに溜まった黒い感情が許容量を超えたのか。
一度吐き出した塊を元に戻しようもなく、俺は勢いに任せて恨み言を垂れ流し続けた。
「ケノビラックッ…?」
「不作でも何とかみんなで頑張ってこれたんだ!今年も乗り越えられそうだね、
って皆安心してたところだったんだ!!
それをッ…!それをたった一晩であんなにしやがって…!!」
あの日フォルン村を染めた赤、紅、朱。
時間と共に色褪せるはずの思い出は、その色だけが今も鮮明に脳裡にこびりついている。
「"あれ"を許せ!?
助けを乞う老人の首を刎ね飛ばして、子供を抱いた母親をまとめて串刺しにして、
泣き叫ぶ少女を無理矢理犯して――――
それを、水に流せって言うのかッ!?」
彼女の鎧を掴んでいる腕の筋肉が、小刻みに痙攣する。
「みんなの前で言ってみろ!!『あれは水に流すしかない』ってキャスたちの墓前で言ってみろよ!!
マリカッ!!」
ささくれ立った殺意が膨れ上がる。目の前が滲む。血が上りきった脳は沸騰して
機能を果たしていない。
師匠の言うとおりだ。"こんなもの"持っていたって良いことなんか何もない。
あれほど自戒しろと何度もきつく窘められたのに。結局マリカを傷つけてしまった。
…嗚呼。それでも。
それでも止められない。俺にはこれしかないから。
キャスを失って。村のみんなを失って。帰る場所もなくなって。
今これを捨てたら、俺はきっと生きていけない。
「なかったことになんて………できる、もんか……。許せるわけ……ないだろ」
爆発した感情は時間が経つにつれて冷却されていく。
同時に湧き上がる、「やってしまった」という後悔。
「ウィル…?お前、泣いているのか…?」
全然マリカは関係ないのに。感情を剥き出しにしてマリカに乱暴したのに。
――――彼女はまだ、俺を心配してくれていた。 |