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疾走



11

 有華はしきりに、俺の手の甲の一件を登校中に謝った。
  俺は大丈夫を連呼していた。実際、さほど深く肉は抉れてはいなかったし……。
  出血も、すぐにおさまった。
  それよりも……俺には、こんな微量の出血なんかよりも、恐れていることがあったのだから。
  有華の――誓いだ。
  手と手が溶けて混ざり合ったイメージ。離れれば繋がった部分は千切れて、出血する。
  ……噴水が如く、鮮血が舞う。
  あまりにも強制的な……言葉の羅列。極端が過ぎる。
  狂気さえ垣間見えた今朝の有華の様子に――いつかの、誰かの姿が……一瞬だけ重なった。
「……ははっ。違うさ、違うって」
  ちょっと独占したい欲が露呈してしまうのは……人間なら、おかしいことではないのだ、別に。
  むしろ、可愛いじゃないか……っ。ははっ……俺なんかとずっと一緒にって……っ?
「あ――らかわぁ――エ――スケくぅ――んっ!」
「ぶはっ」
  昼休みの教室に、突如俺を呼ぶ誰かの叫び。
  さて弁当を征服してやろうとまずはボトルから水分を補給していた俺は、
  それらを吸収する以前に吐き出してしまう。
  そんな漫画的リアクションを催すほどに、でっかい声だったのだ。
「呼んでるぞエースケ」
「言われなくてもわかるわっ」
  口元を拭いつつ、教室のドアに視線を投げる。
  見ると――見知らぬ女子がそこに立っていた。教室のあらゆる場所に視線を這わせながら、
「お前はもう包囲されている――っ!」なんて叫んでいる。
  左右に結った髪が交互に揺れている。背丈は結構高い。
  全体的にほっそりとした印象であるが……うん、その、胸は大きかったりした。
  と、とにかくっ。落ち着きという要素が見るからに欠落していそうな感じの、そんな生徒である。
「包囲されたな、エースケ」
「ああ……っ。どうやらここまでのようだな」
  意味がわからんがな。
  喧しいその女子をさっさと追い出せというニュアンスが含まれる視線が、俺に集中する。
  ……阿良川瑛丞に、逃げ場はないようだ。
「あの、俺が阿良川ですけど」
「おおうっ。ようやく現れたねっ! そっかそっか、君がエースケくんかいっ!」
  ひたすらに快活である。耳を塞ぎたいが失礼だろうか。
「それでなんの用事で……っ」
「ちょこっと君に聞きたいことがあったりするわけさっ! ちょっと、屋上まで行こうね、うんっ」
「ええっ……? あの、質問ならここでもいいじゃないです――っ」
「問答が無用なのさ――っ!」
  なにやら意味のわからん言葉を迸らせると、有無を言わせず、そのお方は俺の手を引っ掴んで
  走り出した。
  ――走っている最中も、何故か笑っている、不思議な女子である。

 今日も今日とて、屋上である。
  嫌でも昨日のことを思い出してしまうので、正直来たくなかった。なかったのだが……っ。
「し、し、しんどっ……ぜぇ……っ……はあっ」
「体力無いのね少年っ! 駄目だよ、もっとタフネスに人生歩まないと」
  あんたはタフ過ぎる……っ!
  ようやく呼吸が落ち着いてきたところで、
「あの、ところで、あなたのお名前は……っ?」
「ああっ。名乗ってなかったね……ええっと、いたりの友達で、
  生方錯耶(うぶかた さくや)って言う者だよ」
  ――いたり先輩の、友達で、生方……っ?
  ああ、先輩から何度か聞いたな、その名前――ここ数日の出来事が過激過ぎて、
  すっかり忘れてしまっていた。
  しかしこうして会うのは初めてだった。
「呼ぶのは結構ですけど、もうちょっと静かにお願いしますよ、生方先輩っ……!」
「悪いね、ごめんごめん。一日一回はああやって叫ばないと、なんかこう、落ち着かなくてねっ!
  あははっ」
  言いながら、髪を揺らしてげらげら笑い出す。地面をばんばん足で叩きながらだ。
  ……全然落ち着いてませんよねって突っ込むところだろうか、ここは。
「それで……話ってのは、その」
「そそっ。いたりの事だよ」
  あの嗤いを、思い出してしまう。
  努めて無表情に……っ。この人は無関係なので、要らぬ心配はかけない。
「……今朝。登校して、後ろの席のいたりを見たとき、すっごい驚いたんだ」
「――何に、ですか」
「聞いてよっ! イメージ変えるためなのかよくわかんないけど、髪型変えてたんだよね、いたり」
  嬉しそうに……生方先輩は言った。
「これはあれだね……っ。わたしは直感しちゃったよ、エースケくん」
「ちょ、直感っ?」
「いたりの彼氏たる君の趣向に合わせたんだって、もうすぐに閃いたさっ!」
  ――はあ……っ!?
  ちょっと、生方先輩……いま、なんて、言った……っ?
「でえ、ちょこっと親友の彼氏を生で拝むのと、わたしの直感が正解なのか確かめるために、
  いたりに内緒で君を呼び出したって――っ」
「ま、まって、ください」
  うん――っ? などと、首を傾げられてしまう。
「俺が、いたり先輩の彼氏って……だ、誰が、そんなこと言ったんですか……っ?」
「ふい……っ? 誰って、そりゃ君ね」
  やだなあ、って、耳の裏を掻きながら。
「いたり本人に決まってるじゃんっ! もう、今朝だっていたりってば、君の話しかしなくてね――」

 一瞬地面が消失したみたいに……俺は愕然とした。
  昨日あれだけの否定を直撃させたにも、関わらず……っ。

 いたり先輩は……何も、諦めていなかった。

 

 瑛丞も生方も、気付いていない。
  きちんと閉めたはずの屋上へのドアが――僅かに開いていることを。

12

「それにしても――こう、何というか……ありがとうね、エースケくんっ」
「――え、っ?」
  途切れた会話を再び繋いだのは、生方先輩のそんな一言だった。
「な、何が……ですか」
「いたりは、ねえっ……こう、なにを言われても嫌だとは言えない、そんな子だったわけよ」
  だったとは言っても、わたしは中学の頃からしか知らないんだけどね、と付け足して。
  生方先輩は、びしっと俺を指差す。
「君が言ってあげたんでしょっ? 嫌なことは、ちゃんと嫌って断わらないと駄目ですよって」
「……っ……あ、ああっ!」
  思わずぽんと手を叩きたくなった。思い出したぞ。
  いたり先輩と出会ったきっかけ。大量のプリントを運ぶのを手伝ったときの会話だ。
  どうしてもこの虚弱な先輩一人にこれだけのプリントを運ばせているのが納得できなくて、
  誰に頼まれたのかと聞いてみた。
  てっきり教師の名前が出てくるものだとばかり思っていた俺だったのだが、
  それは見事に裏切られる。

「クラスの女子に……っ?」
「は、はい。そのっ……何か大事な用事があるそうなんです」
  しょうがないですよねって、微笑する先輩だった。
  普通は男子に頼まないだろうかと、俺はどうにも疑うことをやめられない。
  そんなに持たなくていいですと遠慮する先輩から無理矢理奪い取った八割のプリントを
  両手に抱きながら。
「駄目ですよ。そんなの嘘に決まってます」
「ふえっ……!? う、嘘なんですかっ……?」
  そんなに驚かれるとは思わず、俺は多少冷や汗を垂らしながら。
「そうですね。はい。多分には」
「た、多分ですかっ。なんだか曖昧ですね」
  証拠が無い以上断定はできないが……こうでも言わないと、この先輩はずっと駄目だと思ったのだ。
「いいですかっ! お優しいのは真に結構ですっ」
「は、はあ」
「しかし……遺憾ですが、優しくない人間ってのは、どうしたっているんですっ」
  人差し指を振り回している俺はみっともないと思われる。
「無条件に優しくするのが間違っているとは言いませんけど……自分には辛いこと、
  出来ないかもしれない事にまで、いいよって頷くのは間違ってます」
  こんな大量のプリントを、自分だけで持ち運べるとでも思えたのだろうか、先輩は。
  転びそうに……ふらふらと、必死に。
「無理なことは無理っ! 嫌なら嫌ってはっきり拒絶するっ! わかりましたね、先輩っ!」
「は、ははははいっ」
  ピシッと、背筋を伸ばしてしきりに頷く先輩だった。
  しまったっ……! 生意気にも上級生に説教をっ。
「ま、まあ今のは、その、厳しさとやらを微塵も理解していない小僧の戯言とでも
  思って頂ければ……」
「そんなこと、ありません」
  ――ぱあっと、花が咲いたような笑顔で見上げられる。
「偉いですっ。……そうやって叱られたのは、すごく久しぶりで……っ」
「い、いや、それほどでもっ!」
  ぐはっ……俺は照れやすいので、褒めるのは勘弁してっ……。
「あ、ああっ! 一つ言い忘れてましたけど」
「はいっ?」
  照れ隠しのつもりで、最後に一つ、教えてあげる。

「どうしても断われなかったりしたら……その、誰でも頼っていいんですよ」

「まあ、そうですね、俺なんかでも十分でしたら、お気軽にどうぞ」

 いつかの廊下での会話が――よみがえる。
  赤面する。俺は……っ、何という、恥ずかしい言葉の羅列を……っ!
  両手で顔面を隠してしまいたい。
「う、生方先輩は……その話は、いたり先輩から、聞いたんですよね」
「あははっ! いたりが、嬉しそうに、もう君の言葉全部を」
  全部だって――っ!?
「随分と熱血さんだねえ、君は」
「い、いや、あれはそのっ……!」
  ぶんぶんと手を振ってみるが、言い訳がどうしても思いつかん。
「ぷ、ぷぷっ……べ、別に照れることはないじゃ――んっ! わたしは好きだけどね、
  そういうの、さ」
「そうですか……っ?」
  口元を手で隠されながらいわれたって、慰めにはなりませんけどね。くうっ……!
「本当ならそうやって言ってあげるのはわたしの役割だったんだけど……気弱だから、いたりは。
  ははっ、結局君に言われるまで言えなかったさ」
「で、でも……俺が言うのと生方先輩が言うのとは、また違うんだと思いますけどね」
  根本的に、積み重ねてきた彼女との時間が違うからな。
「結局言えなかったのなら、それも今更なんだよ」
「まあ、そうですけど……っ」
「とにかぁ――くっ! ほんと、君がいたりの彼氏になってくれて、わたしは安心しつつ
  嬉しいのさっ!」
  言いながら、背中を叩かれる。
  ――なんだか……途轍もない、罪悪感が、胸中で生まれた。
  生方先輩は、とても善い人だと思う。
  いたり先輩を思いやっていたから、こうやって、俺にありがとうと言うために、
  わざわざやってきたのだから。
  この笑顔を――それは違うんですよという俺の告白で、崩したくなんか、なかった。
「君は知ってたかなっ? いたりと君って、本人曰くすごく似てるらしいよ」
「似てる……っ? 俺と、いたり先輩が、ですか……?」
「いたりも片親だからね。なんか、他人みたいじゃない、らしいよ。
  ……ほとんど家では独りみたいだし」
  それは――知らなかった。そして、確かに俺と通じる部分がある。
「ああ、これは内緒だからねっ! それに比べて私は情けないなあって、いたりがぼやいてたから」
「は、はあ……っ」
  ははは……っ。普通は、言ってしまいそうなことだけどな。
  俺も昔は寂しかったから……酷く、理解できる。
「大事にしなよ――ぉ? まあ、なんかわかんないことがあったら、お姉さんに
  何でも聞けばいいのさっ」
  言って、一つのメモを渡される。
  綺麗な文字で、携帯のメールのアドレスが、そこには記載されていた。
「あ、はい……どうも、ありがとうございます」
「うむ。それじゃあわたしはそろそろ行こうかね……ああ、そうだ」
  ぽんと手を叩いて。
「屋上でお昼食べるの、やめたんだってね」
「――っ!」
  ぎくりと、胸が痛む。
「いたりも馬鹿だよねえ……っ。付き合いだした途端、誰かにばれるのが嫌だからって」
「え、ええ……っ。はい、まあ……」
「まあ、いちゃつくなら他でやれるもんね」
  ……俺は、最低の嘘吐きだ。
  生方先輩の、快活な笑顔を勝手に守りたいからって……っ。言わなければならないことを、
  結局先送りにしてしまっている。
  ――なんて……屑じゃないか、これ。先輩には偉そうに説教垂れて……
  自分がそういう局面に瀕したら、これだっ……!
「ほいじゃ、ちゃんとやるんだよっ。泣かしたらお姉さん許さないぜ――っ? ばきゅんっ」
  ばきゅんっ。
  それは拳銃を撃つジェスチャー。
  ……本当に撃たれて死ね。俺。
「はい……っ。わかって、ますよ」
「よぉ――しっ! 君を出来る子だと信じちゃいまぁ――すっ」
  こんな野郎は信じるべきじゃないと、叫びたかった。
  俺を引っ張ってきたときと同じ速度で――生方先輩は駆け、早々に去る。
  本当に……元気な、人だと思った。俺には、とても走る気力がなかったから。

13

「さくちゃん」
  呼び止められたのは、階段を降りて、廊下を歩き出そうとした瞬間だった。
  その声の主の正体を、生方は即座に理解する。
  なにせ自分の中学からの友達であり、さっきまで屋上では、
  この少女の話題で彼と話し合っていたのだから。
「あ、あれれっ? いたり、あんたもトイレだったのかなっ?」
  すぐに振り返ると、そこには予想していた彼女の姿が。
  中学から、せめて髪型だけでも活発に、という理由でずっとポニーテールだった少女。
  それも昨日までだった。ばらした髪の毛は生方が思ったよりもずっと膨大で、
  腰の辺りまで広がっている。
  普通のロング――だが、随分と雰囲気までもが変貌していた。
  垂れた前髪で片目が若干隠れていたりなど、なんとなく、大人びた印象が強く前面に出ている。
「私は、さくちゃんを探してたんだよ……随分と、長かったから」
「あ、そ、そうなんだっ! ごめんねえ、ちょっとお腹の具合が……っ」
「その割には、走って教室出ていかなかったっけ」
「あぐぅっ……」
  困ったように、生方は耳の裏を掻く。
  彼女の行動力と快活さは美点であったが……いかんせん、根っこが純粋なのである。
  演技などは得意から縁遠い分野だったし、もとより嘘吐きの才能がからっきしだった。
「ねえ、さくちゃん。トイレって、あれ嘘でしょ」
「ううんっ? そ、そうだねえ、嘘か真かと選択を問われればまあ、えっと……そのぉ。
  あ、あははっ」
  笑うことは生方が話題をそらす手段としては、一番優れている選択だった。
  まさか黙って友達の彼氏と密会をしていたなどとは、口が空気くらい軽い彼女でも
  吐き出せぬ理由である。
  生方が誤魔化しの笑いを浮かべる、その前方。
  瀬口至理は――まるで人形ではないかと想起してしまうほど、無機質な両目で、彼女を見据え。

 

「さくちゃん、あのね……一つだけ、忠告」

 

「――の……けくんに、……したら、……す、からね」

 

 何かを、言った。

「うえっ? な、何って言った、いたり……? ごめん、聞こえなかったさ」
  生方には、至理の口が動いていたことしかわからなかった。
  至理は人形の眼球をやめると――ぱあっと、咲き誇る花が如く、微笑む。
「ううん。なんでもないよ。……それよりも、早くお昼食べよ」
「っ……そ、そうそうっ! ささ、急ぐよいたりっ」
  至理がなにを己に言ったのかはさておき、この話が流れてくれるのなら、
  生方にはどうだってよかった。
  手を引っ張って、瑛丞を連れて来たときよりは遅めに、駆け出す。
  生方に引っ張られながら……じっと、至理は生方の後頭部を睨む。

 

 ここを鈍器か何かで殴ったら。
  私のエースケくんに近寄るメスを、殺せるかな――。
  それはきっと、爽快な行動だと思えるのです。
  私には。

14

 教室に戻って最初にやったのは、昼食を口内に運ぶ作業ではなく、携帯を取り出すことだった。
  ポケットに突っ込んでおいた紙片を片手に、記載されたアドレスを入力する。
  生方先輩のメールのアドレスが、経緯は複雑だがこうして入手できたのだが……。
  どうしようという疑問が、脳内で暴れ回る。
  ――生方先輩に全ての事情を説明して……いたり先輩を説得してもらうか――っ?
  もう、阿良川瑛丞は谷川有華と付き合っているから、駄目だって。
  だがいたり先輩の『勘違い』は……異常が過ぎる。
  あれだけの罵倒と――最後の、俺から有華への告白。
  それを目前で眺めた後の……。

 

 私は……エースケくんの、彼女になるべき存在です。

 

 ずっと一緒です、エースケくん……っ。見てますから、私。

 

 ずっと……見てますから。うふっ、はは、ははっ……あはは、ははっ!

 

 

「――っ……!」
  廊下に視線を投げる。
  いたり先輩の言葉を思い出したら……寒気と同時に、『見られているかもしれない』という
  想像が生まれたのだ。
  もちろん――先輩の姿は、俺の視線が及ぶ範囲には見つけられない。
  だが……俺の席からうかがえる範囲なんて、絶対じゃないのだ。開け放たれたドアと窓からしか、
  廊下の側は見えない。
  死角は確かに存在する。

 

 死角。
  見えない……未知の範囲。

 

 その単語が、妙に恐ろしく感じられた。
  誰かが用意した料理の数々に、炊けていないはずの白米。
  まだ家にいるかもしれないから捜索した、ベッドの下に、クローゼットの奥。
  連続してよみがえる記憶が……憎たらしい。
  ――携帯の画面を、しばし睨む。
  俺が、いたり先輩の不法な侵入の一件を生方先輩に伝えたら……きっと、なにかが壊れてしまう。
  小僧の分際の俺なんかが壊しても構わないのだろうか――それは。
「駄目だ」
  首を振りながら、携帯を閉じる。
  全部が俺の問題だ。生方先輩を巻き込むなんて、間違っている。
  確かに……いたり先輩は諦めてくれなかったのかも、知れないと、それは認める。
  けれどいたり先輩なら、いつか理解できるって、信じよう。
  ――侵入されて以来神経が過敏だ。だから『見られているかもしれない』
  なんて自意識の過剰を引き起こす。
  パシッと、両の頬を手の平で叩き、気合を入れた。
「気のせいだ。きっと、うん、絶対に」
  そう。
  大丈夫だ。鍵だって取りかえした。
  これから異様に視線を感じても……それは、俺の気のせいなのだ。

 昼休みを越えた先の授業は、教室移動だった。
  音楽である。
  料理は得意だがかなりの不器用を誇る俺にとっては憂鬱だ。
  音痴だし楽器も猿のほうが上手だと言われるくらいに下手だし。
  そんな苦手な時間を乗り越えて、我らが教室に戻る途中に尿意を催す。
「おおい、エースケ。方向逆だぞ」
「トイレだよ。……ちょうど二年のが近いから、いってくる」
  あっそうと、さっさと振り返って友は立ち去る。毎度淡白な野郎である。
  まあいいや……それよりもいい加減限界だ。急ごう。

 ことを無事に済ませ、見慣れない廊下を歩いていると――。
「……っあ」
  思わず立ち止まる。声を吐き出してしまった。
  なにせ――いたり先輩と、ばったり鉢合わせてしまったのだから。
  随分と印象が変わっている。今の髪型のほうが、先輩には似合っていると素直に思えた。
  前髪でやや片目を隠している部分なんか、こうミステリアスというか……っ。
(無視だ、無視)
  胸中で首を左右に振るイメージで。
  俺が――言ったことだ。廊下で擦れ違っても、無視するって。
  痛む胸にも構う必要はない。いたって平静に俺は先輩の隣を素通りした。
「――っ……?」
  だが同時に、先輩も反転する。
  肩越しに振り返ると、じいっと、俺の背中に視線を固定したまま――ついて来ていた。
  ――正直に、苛立つ。そのまま真っ直ぐ歩いていって、俺の認識する空間から消えろよ……っ。
  とはもちろん言わずに、視線を痛いくらいに浴びながら……歩き続ける。
  時々は、俺も振り返る。どうしても先輩の行動は確認しておきたかったのだ。
  二度目の振り返り――っ。
  視線が、重なった。
  赤面して、にっこりと、微笑みを俺に返してくる、いたり先輩。

 話しかけるなと、エースケくんに命令されているので、話しかけません。
  愛しい彼の命令は破りません。
  ――っあ……っ。
  今、視線が重なりました。
  きゃ、きゃあっ……心構えが零だったので、か、顔が熱く……っ。
  顔の筋肉も一気に緩んで、だらしない笑みが勝手に浮かびます。
  こうしているだけで……結構な、幸福。
  けれど――っ。
  何処かに、確かに、物足りなさを抱いています。
  あの、女が――私の欠けている幸福を、奪ったままなのです。

 

 まあ……それもきっと今だけです。
  エースケくんは、ちゃんと気付いてくれます。
  ちゃんと、私の名前を――呼んでくれます。

 

 それに。
  最終的には――私が、気付かせてあげれば、いいだけのことですから。

 

 あは。
  はははっ……あはは。もう、本当に、駄目です。
  エースケくんが、傍にいないと。
  辛くて、辛くて――死にたくなって、きちゃうんですよ。

 知らず――俺は早足になっていた。
  なんだよ……っ。
  俺を監視するみたいに、さっきからぴったりと背後に。
  監視――っ?

 

 私はいつでも見てますから――っ。

 

 その言葉を思い出して……ぞくっと、背筋に悪寒が迸る。
  はは、ははっ。
  嘘だろう。
  まさか……実践は、しないよな。
  ――唾を、飲み下す。
  以後、一度も俺は振り返らなかったが……っ。
  俺が教室に戻るまで、確かに、先輩は俺を――っ。

 

 後ろから追って。
  じいっと、見ていた。

15

 真っ先に教室を抜け出す放課後は、初めてかもしれない。
  理由など……考えたくなかった。とにかく、すぐに帰りたかったんだ。
  走り出したい衝動は抑えて、努めて早足に。
  そのままさっさと校門を通り抜けようとして――っ。
「エー兄っ」
  という叫びと同時に、抱きつかれる。
  抱きつかれる……捕縛される――っ? あ、ああ……っ。
「ひ、ひいっ」
「きゃうっ」
  無意識に腕を振り払った。
  視線を下げる。
  ――有華が、尻餅の姿勢で、そこにいた。
「あ、ああ……有華」
  そうだよ。
  エー兄という愛称で俺を呼ぶのは……有華だけじゃないか。
  俺は……じゃあ、誰に抱きつかれるのが、悲鳴を漏らすほど恐ろしいのか。
「い、痛いなあ、エー兄……っ」
「ご、ごご、ごめんっ! すまん、ちょっと驚いて、それで……っ」
  あの反応がちょっととは、言っている自分でもおかしいと自覚できるのだが……
  有華には関係がない。
  要らぬ心配なら、教える必要はなかった。
「だ、大丈夫か。どこか怪我はっ……!?」
「ん……そんな、気負わないでよ。大丈夫だよ」
「そ、そうか」
  ほっと、安堵の吐息。俺の不注意で有華が怪我でもしてしまったら……っ。
  とにかく謝る。
「ほんとに、悪かったっ。ごめん、許して」
「――エー兄」
  両手を合わせて頭を垂らす俺を見上げながら、有華が呟く。
「……ほんとに、可愛いなあ、エー兄は」
「は、はあっ……?」
  可愛いって――俺がっ!?
「なんだよそれっ……。意味がわからん」
「だって――必死に謝ってる姿が、もう、ねえ……」
  笑いを堪えながら立ち上がり。
「その必死さが、こう……飼い主の後ろをちょこちょこ必死に追いかけてる、子犬に、
  通じる部分があったの」
「俺が子犬か――っ!?」
  いまだかつて味わったことが皆無である、その比喩はっ!
「なんだよ、なんでお前が顔赤くするんだよっ」
「え、ええっ……ちょっと、エー兄に鎖を繋いで散歩する自分を想像しちゃって……えへっ」
「えへっ♪ じゃあねえよっ!」
  いつからそんなはしたない妄想に開眼したんだ、有華よ。
  お前の彼氏として――猛烈に悲哀を抱くぞ。
「冗談だよぉ、冗談」
「本当だろうな……とりあえず、お前の嗜好はどうにも侮れない」
「さ、待っててあげたんだから。一緒にかえろっ」
  言って、手を伸ばされる。
  なんだ――今朝の有華とは、大違いじゃないか。
  そうだよ。俺が好きな有華は……この有華だ。
「うん」
  ――手を、握り合う。
  いたり先輩のことなど忘れてしまうくらいに、幸せだった。

 二人で夕飯の買出しとして、今日は少しの寄り道をする。
  その間の有華は、本当に普通の様子だった。
  手の甲の、絆創膏を眺める。傷は、すでに塞がっていた。
  ならばと考えるのは。今朝の、あの誓い――。
「今日はあたしがご飯作っちゃうからねっ。家も今日独りだから、いいよね」
「あ、そうなのか」
  話しかけれて、一旦思考が中断される。
  いや……中断されて正解だろう。
  もうあれこれと、他人の言葉の意図を、まるで疑うように深く黙考するのはやめるべきだ。
  ましてや、俺が好きな女の子と、こうして帰途を一緒に歩いている最中なのだから。
  夕暮れの公園にさしかかる。人影は、まばらだった。
「今度はちゃんと人間の味覚を意識して味付けしないとねっ。えへっ」
「えへっ♪ じゃあないよエー兄っ――! それはあまりにも酷過ぎるコメントだよぉっ」
「さっきのお返しだよ」
  人差し指で有華の額を弾いてやる。
「あうっ。っう……痛いなあ」
「あははっ。悪い、やり過ぎた」
  ここ数日は久しぶりだった、有華との、こんな会話。
  ひどく充実しているのが自分でもわかる。
「うぅ……っ――?」
  片手で額を押さえながら、可愛く呻いていた有華が、突然しゃがみこんだ。
  俺も立ち止まり、振り返る。
  ――何かを拾ってる……っ?
「どした、有華。小銭でも見つけ……」
「――エー兄」
  瞬間。
  その一声で――今朝の、玄関での雰囲気が……よみがえった。

 ゆらぁ――り。
  緩慢に立ち上がって、有華は、指で摘んだそれを俺の眼前に晒した。
「なに、これ」
  生方先輩から渡された――メールの、アドレス。
  俺は、首を傾げながら。
「何って……メールの、アドレスだよ」
「あははっ。エー兄……あたしも馬鹿じゃないんだから、そんなこと、わかってるよ」
  真っ直ぐに、睨まれる。
  そこでようやく気付いた。
  有華の視線には……非難の意思が、ありありと込められていることを。
「い、いや、だって、なにこれって聞かれたから」
「ねえ……これ、女の子の、アドレスだよね」
  確かに、男なのか女なのかと問われれば、そうなるけど。
「そうだけど……へえ、有華、よくわかったな」
「こんなに丸っこい字を見たら、誰だってわかっちゃうと思うよ……うん。それでね」
  紙片を、片手で弄びながら。
「エー兄さあ、まさかこれ登録なんか、しちゃったりしてないよね」
「――はあっ?」
  ……何が、言いたいんだろう。
  大体そんなメモを持っていること自体が、有華の質問の明確な答えだと思うのだが。
「えっと……登録したけど」
  頬を掻きながら言ってみる。
  有華は俯いて、「ふうん」と納得した感じに呟いてから。
  片手の紙片を握り潰した。

 握った拳が、震えている。
  有華は数秒――まるでその震えを俺に見せ付けるかのように、しばし待ってから……
  紙片を、地面に投げ捨てた。
  俺は……とまどいながら、それをぼうぜんと眺めている。
「ゆ、有華……っ?」
「――携帯」
  ……えっ。
「携帯、あたしに渡して」
  手が伸びる。
  俺は思わず後退りがなら、ポケットの感触を確かめた。
「ど、どうしたんだよ。お前、さっきから様子がおかし――っ」
「いいからさっさと渡せっ!」
  罵声――いや、怒声か。
  とにかく俺はすくみあがって、言い返す言葉を見失った。
  有華が……俺に、命令を、する……っ?
「わ、わかったから、落ち着け」
  元の有華に戻ってくれよ……その一心で、ポケットからそれを取り出し、有華に手渡す。
  指を颯爽と滑らせて、有華は尖った視線で問い質す。
「名前は、なに」
「あ、その……生方、先輩」
「先輩……っ。また年上から狙われてるね、エー兄」
  ね、狙われてるって……っ?
「他には――女性のアドレスは、入って、ないよね……っ!?」
「は、入ってない。うん」
  これは本当だ。他には男ばっかりの、むさ苦しいアドレスである。
  唯一の華だった生方先輩のアドレスも――今、有華の指で以て、消去された。
「名字だけじゃ判断できないけど……いいよ、はい。エー兄を信じてあげる」
  両手で、しっかりと俺の片手に携帯をおさめる有華。
  力が入り過ぎている。
  それじゃあ……今朝みたいに、また、爪で皮膚が――っ。
「ごめんね。いきなり怒鳴っちゃって」
「あ、いや……その」
  叱るべきなのか……俺には、わからない。
  大体が――生方先輩に頼ろうとした負い目が、俺には在る。
  けれど、心の何処かで……これは、『やり過ぎじゃないのか』という疑問も、もちろんあった。
  結局返答を迷う内に、有華が喋り続けてしまう。
「嫌なんだ……だってエー兄には、もうあたしがいるのにさっ……だったら、
  他の女は、いいでしょ、近付かなくて」
「お前――それは、極論じゃあ」
「ねえ、エー兄」
  ぱっと離れると、有華は弾むように歩き出す。
  やがて立ち止まり――地面を、指差す。

「これが、あたしだとすると」
  俺も倣って、地面を見る。
  蟻が――何か、餌を咥えて……歩いていた。必死に。
「他の、エー兄に近付く女の存在はね――っえい」
  有華は躊躇わずに……それを、踏み殺した。
  圧倒的な死と理不尽。
「この、蟻の視点からは巨大過ぎる足――みたいな、モノなの」
「――っ……? ゆ、有華っ?」
  点みたいな死体を数秒眺めた後で……有華が、俺を見据える。
「エー兄は……もしも、巨人に踏み潰されそうになったら、もちろん逃げるよね。回避を、行うよね」
「……そりゃ、死にたくなかったら……誰だって、逃げるだろ」
「そう。だからね、さっきのあたしの、携帯のアドレスを消去した行為は――結局、それなの。
  あたしと、エー兄との幸せの為の……危険からの回避」
  なにを……。
  お前は――さっきから、なにを。
「もちろんエー兄を、信じてる。けれど絶対なんて、ありえないから」
  じろりと……睨まれる。
「エー兄。――ごめんなさい、は」
「……あ、えっ」
「だから――これ、今朝の誓いを間接的に裏切ってるんだよ……っ?」
  心底不思議そうに、有華が首を傾げる。
  ――裏切った……っ?
  俺が、有華を。
「いや……えっと、あの」
「――エー兄。ちゃんと謝ってくれないと……叩くよ、あたし」
  濁った……眼球。
  誰かに、似ていた。
  怖かった。
「ご……ご、ごめんなさい」
「もう、しないよねっ?」
「う、うん……しない」
「その言葉――信じたからね」
  言い捨てて……有華が、隣を通り過ぎた。
「ほら、はやく帰ろう。……もう怒ってないから」
  手を握られる。
  校門で繋いだときは――とても、とても温かかったのに。

 

 今、繋いでいる手は。
  ひどく、無機質な冷たさを、俺に伝えてきている――。

16

 とある休日。
  あまりにも汚濁に包まれている俺の部屋に我慢できなくなったらしい、
  有華が掃除しちゃうもんね宣言を発令させる。
  俺の、面倒臭いという非常に説得力が満載である却下の理由は即座に撤回された。
  そして――もちろんと、言ってしまえば当然か。
「この、本棚の隅っこに何気なく置いてあったいかがわしい書物はあたしの主導で処分します。
  ……文句とか、ある?」
「ありません、ありません」
  かつての相棒たちは、今や有華の手中に収められてしまった。
  というか有華よ。怖いから、そんな、ぎらついた眼球で俺を凝視しないで……っ。
  俺は母親に叱られている子供の心境だった。
「だいたいね、もうこんなのいらないし、エー兄には」
「うえっ……?」
  どさりと、それらを床にこぼす。
  俺は正座した姿勢のまま、有華を見上げた。
  びくりと……背筋に、悪寒が迸る。
「ゆ、有華、どうした……なんか、怖いぞ」
  俺を見下す視線には、いつか繋いで帰った手を想起させる、冷淡さが垣間見える。
  おいおい。
  まさか……ほ、本気で、その、エロイ本くらいで……怒ってるっ?
  嘘だろ。ははっ……まっさか。
「あたし、怖いかなっ……? そう見えたのなら、そうだね――あたしが怒ってるって、
  理解してるの、エー兄は」
「い、いやでも、俺くらいの年頃のやつは持ってて当然って、感じで」
「うるさい」
  パンと、渇いた響きが――俺の頬から、発せられる。
  有華に平手を浴びせられたと気付けたのは、自分で数秒叩かれた箇所を撫でてから、だった。
「い、つゥ……っ」
「前は叩かないで、許してあげたけど……今日は駄目」
  しばしぼうぜんとしながら……しかし、段々とこの理不尽に、怒りを覚える。
  なんだよ。
  確かに、お前は俺の彼女なのかもしれないけど……そこまで、干渉してくるか、普通。
  あまつさえ――この体罰。
「――いたかったよね、ごめんね、エー兄」
  などと、有華の指先が頬に触れる。
  見れば――有華は、俺に目線を重ねるためか、屈んでいた。
  もう片方の手も伸ばしてきて……両手で、顔を固定される。
  有華に……この瞬間、束縛されていた。
「ゆ、有華――っう、ぁ」
「――っん」
  気付けば……俺の意思を無視して。
  有華から、強制的なキスを……されてしまっていた。

 貪るみたいに、口内で舌を蠢かす。
  あたしは、初めてのキス。
  エー兄にとってもそうであったら――あたしは、嬉しい。
「あむ……っ、んっ……ぷぁ」
「ぅあっ」
  一旦舌を抜いて……唾液だけで、エー兄の口内と繋がってみる。
  透明な糸が、エー兄の舌と、あたしの舌に。
  顔を離すと――熱に浮かされたように、ぼうっと、あたしを見据えるエー兄。
  可愛いよ。
  あたしだけの、エー兄。
「エー兄ぃ……っ、可愛いんだぁ」
「ゆ、か……ぁ、んっ」
  口を塞ぐように――また、唇を重ね合わせる。
  一心に、エー兄の舌にあたしのそれを絡めて――っ。
「んっ……あ、むぅ」
  ああ。
  エー兄も……戸惑うように、ゆっくりと、舌を動かしてきた。
  真実――混ざり合っている。
  自然に、あたし達は、お互いを抱き合っていた。
  続いて……ズボンに手が伸びる。
  ゆっくりと、優しく――盛り上がっている部分だけ、手の平でさすってあげる。
「あ、ぅあ……んっ」
「ぷぁ……っ。エー兄ぃ、気持ち、よかったの……っ?」
  キスを中断して、問いかける。
  あたしの手の平が触れている部分は……ひどく、熱くて、かたかった。
  潤んだ瞳で、エー兄があたしを見据える。よだれが垂れているのも、また、
  幼さが垣間見えて、愛らしかった。
「あ……ぅ、ん」
  赤面して頷かれると、抱き締めたくなっちゃうよ。
  同時に嗜虐の心も生まれる。
「あたしに、なにを、して、ほしいの……っ? エー兄が、ベッドの下の件を謝って、
  ちゃんとお願いしてくれたら……なんでも、してあげちゃうよ、あたし」
  ぞくりと。
  弄る快感が、背筋を疾走する。
「あ、謝る……っ?」
「そう――悪いことをしちゃったら、ちゃんと、ごめんなさいって、言わないとね」
  切なそうに、目尻にためた雫を――唇ですくう。
  エー兄の涙なら……あたしには、非常に美味だと思えたのだ。
「んっ……。ほら、言わないと……して、あげないよ……っ?」
「く――ぅ、う」
  火照った表情で俯く。
  恥ずかしいんだよね、きっと。今まで妹みたいな存在だった幼馴染みに、
  こんな、主導権を握られて……でも、快感には抗えなくて。
  だから、理解させないと。
  あたしこそが――エー兄の、女なのだと。
  先日の、メールのアドレス。
  あれで思い知ったんだ。……エー兄には、決定的に理解力が欠損してるって。
  だからこの方法を選んだ。
  最も安易で、確実で――何より、あたしも、肉体の重なりを、強く望んでいたから。
「ご、めん、なさい……っ。許して、ゆ、か」
  元々中性的な顔立ちのエー兄が、こうやって赤面して謝罪すると、
  女の子じゃないかと錯覚してしまう。
  本当に――可愛いよぅ。
「じゃあ次は……お願い、するっ?」
「あ、ぅ……っ」
  流石に躊躇してみるみたい。
  でもあからさまに拒絶しないのは――何でかな、エー兄。
「どう、するの……っ? あたしは」
  とまどうエー兄の片手を掴んで……あたしの秘所に、指を這わせた。
  びくりとして、エー兄の呼吸が――さらに、荒くなる。
  理性がとけるまで……あと、僅かだよ。
「こんなに、濡れてるけど」
  首を伸ばす。
  エー兄の耳たぶを――舌で転がしてから、甘く、噛んだ。

 もう、俺のモノを撫でられた時点で――こうなることは、決定していたのかもしれない。
  気付いたら……有華を、ベッドに押し倒していた。
  俺が、上で。
  有華が――下。
  さっきまでの構図とは……まるで、逆だった。
  呼吸も上手に整えられない俺とは違って、有華は、
  母性を感じさせる笑みで、俺を見上げてきている。
「ゆ、か……ぁ」
  休日の、昼下がり。
  なれど――外の雨足は、激しく。
「いいんだよ、遠慮しなくても」
  だらんと、四肢をベッドに投げ出しながら。
「エー兄は優しいって、知ってるし。あたしは――エー兄の、モノだから」
  あ、うぅ。
  熱い。
「滅茶苦茶に、扱ったって――構わない。大好きだから」
  本当に。
  さっきまでは、怖いと感じていたのに。
  今では……こんなにも、愛しいと、思える。
  俺は――っ。
「んぅっ……あ、ぅ」
  今度は自分から、有華の唇を貪る。
  それが――答えだった。

 髪から香る、シャンプーの、女の子の、匂い。
  それを意識しながら――濡れた茂みへと指先を蠢かす。
「あ、やぅ……っ、いい、よ……ぉ」
  初めてなので、わからないけれど。
  有華の嬌声を耳朶が受け止めるたび、ちゃんと、感じてくれているのだと、勝手に納得する。
  動作を速めると、喘ぐのも速まる。
「エー兄ぃ、あ、きもちぃ……っ、して、ぐちゃぐちゃって……し、てェっ」
  駄目だとは、どこかで思っている。
  それでも――この、動く己の肉体を抑制する理性が、有華のキスで、溶解されてしまったのか。
  指を、眼前に持ってくる。
  ぬめっている……生唾を、ごくりと、飲み込んだ。
  潤んだ両目で、有華が、両手をだらんと投げ出したまま。
「やだぁ……っ。もっと、してよぉ、エー、兄ぃ」
  もう。
  俺は、駄目だと、思う。

 無垢な領域を、俺のモノが、破壊する。
  ――血が。
「んっ、ぅ」
  有華が呻く。
  だが俺は――未知の、快楽に、溺れてしまっていて。
  動くばかりだった。

 

「あ、あんっ、うあ、あっ」

 

 欲望に流されるまま、同じ動作を繰り返す。
  有華の嬌声も――聞き慣れた。

 

「いいの、ぉっ、あはっ、あぉっ……すきぃ、エー兄ぃ、すきぃ」

 

 有華は――痛がったのは最初だけで、さっきから、快楽に沈んでいる様子だった。
  ごめん。
  あんまり、今は、構って、やれなくて。

 

「あ、ぅ……ゆ、か」
「いいよぉ、びゅって、してェ……っ。せいしぃ、せいし、ほしい、よぉ」

 

 俺は。
  流されるまま、そうして。

 

「あ、あひぃ、やあ、ああぁあぁああっ……!」

 

 有華を抱き締めたまま。
  果てる。

 上方からの物音が停止する。
  しばし荒い呼吸が耳朶をつつく――それから、数十分。
  すうすうと、寝息。
  二人の意識が睡眠に埋没しているのだと判断。
  ――待機していた場所から、這って、出る。
  見下ろす。
  ほぼ裸体で抱き合う……阿良川瑛丞と。
  谷川、有華。
  穏やかに。
  幸福を撒き散らしながら――穏やかに、眠る。
  見下ろす眼球が、ぎょろりと、収斂され。
  拳は握り締められる。
  爪が肉に食い込み、流血する。
  構わない。
  苦痛でしか、この現実のざんこくを、薄めることは、きっとできないだろうから。
  こんなに大きな歯軋りは、初めてだった。

 発声すると二人が起きる可能性があるので、口だけを動かすことに。
  部屋には三人。
  一人が、呪文を詠唱するように――口元を素早く動かした。

 

 

 

 

 死ね。
  死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねくたばれ心臓を握り潰したいひひひひひ
  その罪悪はあらゆる手段での償いで以ても決して許容はされないそれを理解しろ汚濁の豚が
  幼馴染みの分際で生意気だと気付けそして是正しろ自らの巨悪を認識してさっさと自殺しや
  がれ今度転生するときは是非に蟻という存在を選択しろこの私が思い切りに踏み潰して生前
  の清算しきれない過ちを僅かでも減少させてやるというか何回もお前を殺してやりたいんだ
  よ私はそう何回も何回もお前という存在を苦痛の海に沈ませてやる死んでも覚悟しろこの糞
  女がお前が蟻に生まれ変わるならならば踏み潰し犬ならば蹴り殺し猫ならば絞め殺しとにか
  くあらゆる殺しを実践して後悔にむせび泣けよ私のエースケくんをエースケくんをエースケ
  くんをよくもよくもよくも奪い取ったなこの外道がくたばれ消えろ呼吸を停止しろお前の位
  置を私に譲れ糞糞糞糞エースケくんのとなりとなりとなり私はそこがいいのだからお前は死
  ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死んでよ死んでよおおおおおおおおおおおおおおおお
  あはははははははははぐひゃげははははは絶対に死ぬ死ね死ね死ねお願いだから消え失せろ
  おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――っ!

 

 

 

 

 そして。
  ドアが閉まる。

 

 部屋には二人。
  一人――いなくなった。

17

 帰宅してから――日記をしたためる。
  上質なクロス素材の表紙。
  指先で丁寧に頁を繰り、今日の日付。
  まだ白紙であるそことはひどく対照的に、昨日の頁には細かい文字の羅列が跋扈している。
  彼女はペンを片手に、持った。
  さておき、今日の出来事を紡いでいる間の暇潰しとして、過去を振り返る。

 

 初日。
  まだ名前を呼んでくれない。
  私は信じていますよ、エースケくん。
  待ってますから、早く私の名前を――。

 

 初日から一週間目。
  今日も呼んでくれない。
  宿題に悩むエースケくんは、とても可愛かった。
  思わず飛び出しかけた。危ない。驚かせるところだった。
  それはそうと、久しぶりにお母さんが帰ってきた。
  相変わらずの問答には辟易する。
  なにやら仕事は順調らしい。当然のように、また長期で帰れないらしい。
  孤独。
  慣れている。
  お父さんと離れてからは、日常なのだから。これは。

 二週間目。
  私の名前は呼ばれない。
  エースケくんは、私を忘れてしまったのだろうか。
  とても、怖い。
  彼の愛らしい寝顔を眺める度に、違うと、自分に言い聞かせている。
  もう色々と限界だった。
  寂しいよ。
  孤独には慣れていたのに――エースケくんのせいで、今までの経験は、
  全て白紙になってしまった。
  寂しい。
  エースケくんのベッドに忍び込もうかと考える。
  駄目だ。
  とにかく――エースケくんが、私の名前を呼んでくれるまで、待たないと。

 

 三週間目。
  リビングから楽しそうな話し声。
  十中八九、あいつだ。
  一緒に夕食。
  ――空腹だった。
  物理的にも、精神的にも……飢えている。
  なんで。
  あの、あの忌々しい女が居座っている位置に、私は、存在しないんだろう。
  死ねよ。
  消えろ、消えろ、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね――。
(以下、延々と呪詛の言葉が荒々しい文字で綴られる)

 今日。(頁のあちこちは濡れている)
  一ヶ月が、経過しました。
  エースケくんは、とっても可愛いです。
  椅子の上で背筋を伸ばしていたらバランスを崩して転げかけたり、苦手な教科の宿題に、
  うんうん唸りながら苦戦する様子とか。
  欠伸のときの声なんか、もう……駄目です。とにかく大好きです。
  けれど、近くて、遠い。
  名前を――呼んでください。
  寂しい。
  寂しいです、死にそうなくらい寂しいです。
  いやだ、いやだいやだいやだ――。(数行、駄々っ子のように続いている)
  いやだから。
  もう、ベッドの下から這い出そうという衝動は、抑えられません。
  そうです。
  いっそのこと、占領しましょうか。
  エースケくんの四肢を封じます。
  鍵は全部閉めます。カーテンも。電話も邪魔です、断絶させましょう。
  あの女がたずねてきたら――はは、そうです。
  殺す。
  そして。
  エースケくんと、私の、二人だけの空間が。
  エースケくん。待っててくださいね。
  ちょっと、この頃体調悪いですけど……これしき、軽いです。
  エースケくん。
  待ってて、エースケくん、エースケくんエースケくん
  エースケくんエースケくんエースケくん――。
(以下、延々と彼の名前が白紙に刻まれる)

 

 パタンと。
  泣き腫らした瞳で見下ろしながら、日記を閉ざす。
「うぇっ……ひく、ぅ……っ」
  涙がどうしても、あれを見てから、止まらなくて。
  熱っぽいからだ。
  風邪かもしれない。
「ひぅっ……ぇ……ぅうっ、ふ、ふふ、っ」
  やがて。
「ふ、はは、あはは、はははっ」
  泣き声は――。

 

「あはは、ははは、はははうはは、ははぁ、ははははははははははは――っ!」

 

 哄笑に、変貌する。

18

 何事も順風で進む道理など、なかった。
  いたり先輩との接触は、ほとんど――というか、全くなくなっている。
  これは喜ぶべき事項だろう。
  先輩は俺なんか忘れてしまうべきだし、俺もこれからは意識しないのが好ましい。
  変わってしまったのは――有華だった。
  今のあいつからは、束縛という単語が容易に想起される。
  あの、有華と繋がった日から……おかしくなった。
  毎日の、携帯のメールのチェックは当然。
  一緒に外出すれば、俺が他の女性を見ていたと突然言い出して機嫌を損ねる。
  有華の過剰な反応だ。
  とにかく――最近は、疲れる。
  俺の好きだった有華は……消えてしまった。
  こうしてお互い中学と高校に登校していても、頻繁に携帯は震える。
  いっそ――電源切ろうか。
  そんな事を考えていた昼休み。
  ぼんやりと、窓の外を眺めながら友人らと昼食中に。
「あ――らかわくぅ――ん」
「ぶっ」
  また無駄にでっかく間延びした音声。
  誰かは、即座に理解できる。
「おおっ。生方先輩から二度目の指名とは――羨ましいね、エースケ」
「し、指名って……っ」
  ひらひらと、手を振っておられる。
  俺は友人達の詮索するような視線を一身に浴びながら、立ち上がった。

「ほい、これ」
「……っ? ノート、ですか」
  廊下で手渡されたのは、三冊のノートだった。
  丸っこい文字はいまだにおぼえている。生方先輩の文字。
「そうっ。いたりさあ、もう三日も風邪で休んでるからさ、テスト近いし必要だと思って」
「――っあ」
  ぼんやりとしていた意識が、定まった。
  何故生方先輩が、学年の違う俺なんかに自分のノートをと、さっきから疑問ばかりだったが。
  つまり――。
「わたしが渡すより、ほら、彼氏の君がどうせ見舞うんだろうし、一緒に持ってってよ」
「お、れが」
  どうせ見舞う。
  当然だ――彼女が風邪の一つでもこじらせたら、心配するのは当然じゃないか。
  生方先輩は……何も、間違っていない。
  むしろ俺に口実を作ってあげている――やっぱり、友達を大事にしている、善い人だと、思う。
  悪いのは。
  のらりくらりと……っ!
  親友に彼氏が出来たと聞いて、太陽みたいに微笑んだ、生方先輩の笑顔を――
  壊したくないなあと、勝手に思いやがった。
  この俺が、悪いっ……?
  違うぞ。
  俺が、悪いんだよ。
  生方先輩への嘘だけではなく――いたり先輩のことも心配だった。
  俺が原因で――もしも、体調を悪くしていたら。
  色々と、繊細そうだったし。
「うん……っ? どしたい、エースケくん」
「いえ、あの――その」
  心配そうに、覗き込まれる。
「前々から思ってたけど、君って、結構中性的な顔立ちだよね――っ。女装とかできそうっ?
  あははっ!」
「は、ははっ……。そ、そうですか……っ?」
  阿良川瑛丞。
  生方先輩の冗談に、へらへらと笑っている場合ではない。
  俺は――。

 

 A.いたり先輩が心配だ。ノートを受け取り、生方先輩にいたり先輩の住所を聞いてみる。

 B.一人でお見舞いなんて、おそろしい。さっさと教室に戻る。

 C.もう色々と限界だ。……生方先輩に嘘を謝り、これまでの事情を全て話す。

To be continued...

 

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