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疾走



1

 鼓動の音がうるさいです。
  でも簡単に抑えられる類の緊張ではないので、我慢します。
  そう――私はすごく緊張し、なおかつ興奮しちゃってます。
  ただ一言を伝える為に。
「わた、わた、し、あのその」
  壊れたラジオみたいに、意味を見出せない音声ばかりを吐き出してしまいます。
  ああちゃんと練習してきたのに。顔が熱過ぎる。俯かないで彼を見据えなきゃ。
  勇気を出さないときっと何も変わらない。頑張れ私。
「ずっと前から、その……エースケくんのこと、好きでしたっ! つ、付き合って、くださいっ!」
  そうして放課後の校舎の屋上。
  私は人生で最初の告白を終えました。

 たっぷりと空白の時間が流れる。
  俺――阿良川瑛丞は、眼前の小柄な、ポニーテールのチビッ子上級生を見ていた。
  場所は屋上。時刻は夕方。
  手紙で呼び出されて来てみれば、こんな状況なのだった。
  髪型とは裏腹に、非常に内気で頼まれると『ハーイ』としか言えないこのお方とは、
  知り合ってまだ一ヶ月ほど。
  俺は一年。彼女は二年。
  名前は瀬口至理。至理は『いたり』と読むらしい。俺はいたり先輩とお呼びしている。
  さて――確かきっかけは、大量のプリントを独りで運んでいる先輩を見たことだったか。
  今にも転倒してプリントをばらまきそうだったので、俺は運ぶのを手伝ったのだ。
  その謝礼とばかりに、弁当を作ってもらったっけ。
「あの、よ、よかったら、これからもお昼、い、一緒に食べませんかっ!?」
  なにやら切羽詰った様子でそんな提案を投げられた俺は、両目を潤ませている彼女を見て
  断れなかったのである。
  そんなこんなで今現在、毎日昼休みに会ってはお喋りするくらいには、仲良しな関係だった。
  だったのだが――。
「……あの、いたり先輩」
  のどが渇いているのを自覚しながら言葉を紡ぐ。
  言わないといけない。何かしらの答えを。
  好きですと、言われたのだから。
「その、俺、嬉しいです」
  嘘ではない。実際先輩の見た目は可愛い。抱き締めたくなる魅力を持っている。
  まあ胸は小さそうだけど……って思考が脱線しているぞ俺っ!
  今は極めて真剣な気持ちで考える場面なのに。
  つまり俺が、先輩を好きなのかどうか、という問題を。
(……どっちでもないんだけどなあ。好きでも、嫌いでも)
  というか、先輩も俺の何処が好きなんだ? わからん。
  別に顔立ちは平凡だろう。成績が抜群に良かったり、金持ちだったり……。
  俺にはどれも疎遠な要素で泣けてくる。
「けど先輩。あの、俺のどこが、良かったりするんです?」
「えと、その――。やさ、優しいところ、とか……」
  俯きながら赤面で言われると、こっちも恥ずかしいな。
「でも先輩くらい可愛いと、あのほら、誰でも優しいですよ絶対っ!」
  俺は早口に言ってしまう。
  ――正直面倒臭かったのだ。俺は好きではないのだから、早々に決着を求めた。
「だから先輩のその気持ちも、きっと錯覚かなんかですよ、うん」
  努めて精一杯の笑顔を張り付かせて、俺は言った。

「えっ……?」
  顔面の温度が低下するのを、明らかに感じてしまいます。
  彼は今、笑いながら、なにを言ったのか。
「あの、それは、つまり……?」
「俺なんかよりもいますって、もっと優しい人。だから、俺とは」
  付き合わないほうが。
  そう続けられるのが恐ろしくて、私は叫びました。
「嫌ですっ!」
  彼の言葉が止まります。
  けれど私の手足が震えるのは止まりません。
  私は俯いていた表情を持ち上げて、必死にエースケくんを見ます。
  戸惑いの色が濃厚です。私が抗議するのを考えなかったんでしょうか?
  他のことなら『ハーイ』とでも言いますけど、これだけは譲れません。
「エースケくんじゃないと、駄目なんです、私」
  というか嫌です。絶対に。
「だから付き合ってください。私を、エースケくんの彼女に、してください」
「あ、あの……先輩?」
「駄目ですか? 私何でもしますよ? 悪い所は言ってくれれば全部直しますし、
  お弁当も毎日作ってきます」
  ここで引き下がったら、もうエースケくんとはこれまでだと思えて、いつまでも喋れそうでした。
  ちゃんとエースケくんを見つめて、言います。
  ――何で後退りするんですか? まるで私を怖がってるみたいじゃないですか。
「絶対に錯覚なんかじゃありませんよっ! 勝手なこと言って、誤魔化さないでよっ!」
「す、すみませんっ。あの、そんなつもりじゃ」
「謝るくらいなら私と付き合いますって言いなさいよっ! この卑怯者っ!」
  のどを駆け上がる怒りを、そのままに吐き出した。
  そうだ、そうだ――全部エースケくんが悪いよ。
  錯覚なんて単語で、私の純粋な気持ち、歪ませて……。
「ひどいよ……。エースケくんじゃないと、駄目なのに……うっ……ひぐっ」
「……ご、ごめんなさい。あの、錯覚なんて言ったのは、ひ、酷かったですよね……」
「そうです……っひっく……酷すぎます、うっく……っ」
  涙は拭いません。この液体は、彼に同情を誘う重要な要素だから。
  けど悲しくて泣いているのは真実ですよ? わかってるんですか、エースケくんは。
「言って……くださいよぉ……」
「えっ……?」
「お願いですから……いいですよって……っひぐぅ……言って、ください」

「――無理ですよ、いたり先輩」
  先輩の足元のコンクリートが、濡れている。
  それでも、今度こそはっきり言わなければという決意が、俺を動かした。
  びくっと、まるで母親に叱られた幼子のように――俺の言葉に、先輩の体が揺れる。
  信じられないのか、両目は見開かれていた。
「な、何でですかっ!? エースケくんは、私が嫌いなんですかっ!?」
「嫌いでは、無いですけど」
「だったら――っ!」
  見ていられない。涙で濡れた表情が、酷く夕陽に映えている。
  視線をそらしながら、「でも」と続ける。
「そんな、恋人になってほしいほど……大好きでも、ないんです」
「はあ……っ!?」
「半端な気持ちで、付き合うとか、出来ませんよ……。誤魔化そうとしたのは謝ります。
  俺の本心は、それだけだったんです」
「そん、な……っ? 無理って……嘘……っ?」
  頭を抱えて、ぶつぶつと呟いている先輩が、痛々しかった。
  だけどここで余計に慰めるのは、駄目だ。背中を向けないと。
  振り返って、俺は歩き出す。
「待って、待って、くださいっ!」
  袖を掴まれて、歩みが止まる。顔だけで振り返ると、先輩だった。
  掴む力は強いが指が震えている。冬でもないのに、それは異常に。
  なんでだよ……? 俺なんかに交際断わられただけで、なんでそんなに、
  今にも死にそうな表情浮かべるんだよ……?
  思わずハンカチを差し出しそうになるくらい、泣き腫らしているし……。
「離して下さいよ」
「嫌です。絶対に離しませんっ!」
「っ……! 離せよっ」
  いい加減限界だった。俺はちゃんと断わったのに、いつまでもしつこい。
  力任せに右腕を振って、先輩の指を掃った。きゃっと、尻餅で倒れる先輩。
「俺、ちゃんと無理ですって言いましたよね?」
  見下ろしながら、言った。
  お尻をさすりながら、先輩が俺を見上げてくる。まるで死刑を宣告された罪人だ。
  絶望が表情に満ちている。
「私が、駄目なんです……。エ、エースケくんじゃないと……っ! 好きなんです、お願いですっ」
「はっきり言って……迷惑です」
  決して言うべきではなかった、最後の台詞。
  先輩から、あらゆる感情の色素が抜ける。
「――行きます。さようなら、いたり先輩」
  歩き出す。
  今日言った、さようならは……きっと、いつものさようならとは違う意味を抱いている。
  先輩にもそれは理解できるだろうと信じて、階段を降りた。

 迷惑です。
  予期せぬ一言でした。
  あの優しい……困っていた私を助けてくれたエースケくんが言うなんて、想像も出来なかった。
  涙は気付いたら止まっていました。
「あはっ……ははは、ははっ……」
  笑うしかありません。
  迷惑って、思われていた。
  告白が成功したら、色んなところをデートして……繋がって。
  馬鹿みたいに想像ばかりしていた自分は、馬鹿を超越しています。
「何か理由が……あるんです、きっと……」
  認めたくない一心で、そう呟きます。
  でも……。
  おかしいじゃ、ないですか?
  好きでもない人間を、助けたりしますか、普通。
  そうですよ。エースケくんは、好きなはずです、私を……決まってますっ!
  何か理由があって、断わったんです。何か、何か……っ!
「探さないと……そうです、調べれば、いいんです」
  諦めません、納得できるまで。
  調べましょう、そうです――例えば彼の住所とか、携帯の番号とか、彼の近辺を。
  そうしたら何か掴めます。
  もしかしたら悪い女性に騙されているのかもしれません。困っているのかもしれません。
  そう、待っているのです。
  エースケくんは――私が、助けてくれるのを。
「待って、いて、くださいね……。あははっ……今度は……」
  私が、助けてあげます。
  絶対に。

2

 見上げれば蒼穹。俺の気分とは逆転している光景に、やや辟易する。
  引き摺っているなあ。自覚出来るだけ、少し辛い。
  翌日の昼休み。場所は屋上で、いつもの時間だ。
  昨日の今頃、先輩の弁当を食べ終わって……それから手紙を貰ったっけ。
  そして放課後。夕陽を浴びながら、ここで――。
「これでよかったはずさ」
  言い聞かせるように、呟いた。
  何事も開始する地点が在って、開始した以上終了する地点もまた存在してしまう。
  それが昨日だったと。ただ、それだけの話なのだ。
  けれど、先輩の異常とも捉えられるあの必死さが……いまだに理解できない。
  確かに俺は、困っている先輩を助けたという一点だけを凝視すれば、善人かもしれない。
  そしてその行為がいたり先輩にとって、とても巨大なことだったのかも知れないけど。
  いわせてもらえば、俺にとってあれは、路傍に転がっている空き缶を拾ってゴミの箱に放り投げるのと……変わらないんだよ。
  もちろん、この一ヶ月で交わした会話は楽しかった。
  俺と同じで料理が趣味だったのが幸いして、お喋りが途絶えるなんて、皆無だったし。
  友達ならなれたのに……いや、もうきっとなっていたのに。
「……帰るか」
  終わったことを思考するのが、急に途轍もなく無為だと感じて、俺は屋上を立ち去った。
  今日からは、久々に教室での昼食なのだから。

  夕飯の買い物をようやく終えて、帰途を歩く。
  父親と俺の、二人だけの家庭。
  現在父親は長期の出張で、今や俺は一人での生活を楽しんでいる。
  もしも彼女なんかがいたりしたら、絶好の機会だったりしちゃうのだが。
(馬鹿か)
  ふと過ぎったのは、はにかんだ先輩の笑顔だった。
  確かにあそこで「いいですよ」とか言ってしまえば、俺にも彼女という存在が出来たのかもしれないけど。
  自分の、いたり先輩に対する気持ちが……酷く不安定だったのも確かで。
  だからこそいい加減な返事は出来なかったのだ。本当は、最初からはっきりしておけば、最善だったんだけど。
  考えながら人通りの激しい一角を抜け出て、閑散とした公園の歩道に変わる。
  ……うん? なんだろう、背中がかゆいというか……なにかを、感じる?
  振り返る。
  左右を植え込みと木々に囲まれた一本道だけが――見えた。
  人間は、いない。
「あれ……?」
  誰かがいたような確信を、俺は持っていた。
  確かな足音や物音、声や呼吸を耳朶が捉えたのではないけれど……。
  言ってしまえば、なんとなく。
「……?」
  首を傾げ、前方に視線を戻す。
  それから俺がマンションに辿り着くまで――俺は、振り返ることを、しなかった。

 俺の自宅は一階。エレベーターは使わないし、階段はのぼらないので、結構なことである。
  鍵を取り出して、穴にさしこんで、ぐるっと回し――。
  警戒心零で扉を開く。
「わっ!」
「っぎゃお――っ!」
  奇声が迸った。……というか俺が迸らせました。
  それほど驚愕したんだよ。――なにせ、誰もいないと思い込んで開けたのだからな。
「はははっ! エー兄面白っ! ぎゃお――っ! なんて叫ばないよ普通」
「う、うっさい……。それよりもお前、どうやって入った、有華っ」
  眼前で大笑いしやがる侵入者に、ドアを閉めながら俺は問い質す。
  こいつは俺の二つ隣に住んでいる、谷川有華という中学生だ。一応性別は、女だと思われる。
  肩口で切り揃えられた髪は、活発なこいつにとても似合っていると俺は思っている、密かに。
  親同士が知り合いで、それが原因で知り合った俺と有華だが……とにかくこいつは馴れ馴れしい。
  今も爆笑しながら俺の肩を叩いているし……。年上を敬わんか。
「どうやってって……正面からに決まってるじゃん」
「鍵はどうしたんだよっ!?」
「おじさんがね、息子のことよろしくねっ! と言いつつあたしに謙譲してくれました」
  親父の阿呆が――っ!
  一番渡してはならない輩に自分から手渡すとは、正気だったのか疑わしいぜ。
「と言うわけで、今日の夕飯はすでに準備してるんだよね」
「マジか……」
  買い物の意味が……いや食材は今度使えば問題は無いか。
  目下の最大な問題は、こいつである。正確には、こいつの料理か。
「お前の料理など食えん……。前のあれ、あれは酷かったなあ」
「きょ、今日のは大丈夫だよっ! あれから大分練習したし」
「いやでもあれは練習で補える領域の物体ではなかったような……」
「――た、食べてくれないの?」
  声から元気が抜け落ちる。
  改めて有華の全身を眺めると――可愛らしいピンクのエプロンを纏っていることに気付けた。
  視線に感づいたのか、やや頬を紅潮させて俯く。
(――やばい)
  俺も視線を斜めにそらした。
  不覚にも、ちょっと、ちょこっと、可愛いじゃん、とか……思ってしまった。
「まあ……そうだな、珍味と思えば食えんこともないし……」
「ち、珍味ってなにさ――っ! エー兄の馬鹿、死ねっ!」
「うわっ! 馬鹿はお前だ、叩くなっ!」
  ぽかぽか頭を殴られながら、しかし意識は……。
  その、のしかかってくる有華の微量の胸が、その、当たってるのだが、気付けよこいつ――っ!

 ガン――っ!

 ドアが蹴られたのは、そんな、幼馴染みとじゃれあっているときだった。

「っ――な、なんだっ!?」
  突然訪れた異音に、振り返る。
  ノブが、震えていた。
  覗くための穴から外の様子をうかがってみるが――廊下が見えるだけだった。
「近所……迷惑だったかな?」
  ぽつりと、有華が言った。
「――えっ?」
「あの、ほら、エー兄のお隣さん……敏感でしょ? 騒音とか」
「ああ……前田さんか?」
  言われて、ようやくその想像に至れた。
  前田さんか。あの人ならやりかねない……なにせ真上の部屋の人に、
  直々に文句言ってやった前科があるし。
  しかもその際の怒声はやばかった。このマンションに住んでいる人間の記憶には、
  深々と前田さんの説教が刻み込まれている。
「有華――っ! 説教されたらお前の責任だからな」
「うえ……。それはあたしもいやだなあ」
  などと、普通の空気には素早く戻れたが……。
  俺はドアを振り返る。
  ――本当に、前田さんだったのか? あの人だったら、まず怒鳴らないか?
  何も言わないで、そのまま立ち去るだろうか……。
(だけど、他に誰が蹴ったって、言える……? そもそも、理由がわからん)
  考えても、解答に到達できるとは思えない。
  それよりも有華の料理が、目下最大の問題だしな。……さて、全部食べてやりたいが、できるかな。

 ――すぐに立ち去ったから、見られていないはずです。
  即座に立ち去った判断が、間違っているとは思いません。
  そもそもあそこで自制出来なかったのが最大の間違いだったはずです。私の馬鹿。
  それにしても――誰でしょう、あの女は。
  会話から察するに料理は下手だそうですね。
  ――下手なら上達するまで引っ込め。不味い料理なんか、エースケくんじゃなくて、
  野良犬にでも食わせておけ。
  エースケくんが楽しそうに喋っていました。けれど、それは私とではない。
  何故あの馴れ馴れしい女が立っている位置に――私はいないのでしょうか。
  右手が痛いです。
  見ると、握り締めて出来た爪のあとが、はっきりと残っていました。
  いけないいけない。落ち着かなきゃ。
  呼吸を整える。
  ともかく部屋の番号は記憶しましたし。次は――郵便受け。
  駆け足で到達すると、記憶した番号を探します。――あった。そして幸運です、鍵はしていませんでした。
  中身はほとんどチラシです。そこに片手を突っ込んで、私は別のものを発掘しようと、指を蠢かす。
  やがてチラシとは感触の明らかに違うなにかを掴みました。
  取り出すと、封筒でした。
  どうやら携帯電話料金の請求書らしいですね。幸運って、重なるみたいです。
「エースケくんの……携帯の、番号……」
  知らず、笑みがこぼれました。
  エースケくんの、と言う部分が……たまりません。エースケくんの一部を入手したみたいで、もう……。
  呼吸が荒くなってきました。
  住所に携帯の番号。初日の収穫だと思えば、まあまあです。今日はこれで帰りましょう。
  色々考えないと駄目です。
  あの女が、たぶん一番重大な要素。
  きっとエースケくんは、あんな料理も下手な女と馴れ合っている内に――
  女性に絶望してしまったんだと、思うんですね、私は。
  いえ、そうですよ――あの女の、せいです、きっと……私の告白が砕かれたのは――っ!
  ぐしゃっと、握っていた封筒を潰してしまいました。
  いけません。これにはエースケくんの番号が、エースケくんの、エースケくんの――。

 ふらふらと、ふらふらと。
  少女は愛おしそうに封筒を眺めながら、歩いている。

3

 的中してしまった有華の料理の出来を思い出して、腹を撫でた。
  時刻は十時を少し回ったくらい。
  有華と言えば、飯を食ってもしばらく居ついていたが、ようやくさっき帰宅したところである。
  まったく……テレビくらいお前の家にだってあるだろうに。わからん奴だなあ。
  などと思いながら、ソファに横たわってぐったりとしている俺だった。
「あん……?」
  耳障りなメロディが……ああ、携帯が鳴ってるのか。
  こんな時間に誰かと、テーブルに俺と同じく横たわるそれを取り上げる。
  番号は――非通知?
  面倒臭いが、一応出るか……。
「もしもし」
  お決まりの台詞で、相手からの返答を待つ。
  えらく静かだった。雑音すら耳朶に届かない。
  ――おいおい。なにか喋ってくれ、かけたのはあんただろう。
  内心で見知らぬ発信者に苛立ちつつ、「もしもし、すみません、誰でしょうか」と言う。
  しかし、十秒待っても――単語の一つも言ってはくれない。
「あの――切りますよ?」
  いい加減にしろ。
  一応断わってから、俺は躊躇せずボタンを押した。――なんだったんだ、一体?
  とにかく苛立つので勘弁してくれ。
「――寝るか」
  有華の料理の影響か、眠気が濃厚である。
  ソファから立ち上がり、テレビの電源を消してから、電気も消す。
  部屋に入るともうベッドに直行するだけだ。ああ――眠い。いこう。

 早めに眠った恩恵だ、目覚めが抜群に良かった。
  朝飯の支度に弁当の支度。万事時間的にも余裕で片付いていく。ばっちりな朝である。
  どうせなら今日はちょっと早めに登校して見るか――と言う殊勝な心がけを起こした俺は、
  忘れ物はないかとチェックしていた。
  教科書入れた。弁当入れた。宿題も大丈夫だし、提出のプリントなども……。
  あとは携帯だけか。昨日テーブルに置いたまま寝たっけ。
  出発する前に何気なく開く。
「――あら?」
  また非通知で、かかっている。時刻は三時。
  これまたえらい時間に電話を――。
「……待てよ」
  思い直して、着信の履歴をチェックする。

 22:36
  22:54
  23:23
  23:38
  23:54
  24:13
  24:32
  24:46
  24:57

 ずらずらと。
  並ぶ、数字。
「なんだ……よ、これは……」
  何回かけてるんだ――変じゃないか、あまりにも、これは。
  まだ続いている……きっと、最後にかけた三時まで――かけつづけていると、俺は確信した。
  誰だよ。
  そもそも、俺になんの用事だよ?
  昨日の無言電話を思い出す。薄気味悪いほど静かだった、雑音すらない、電話の奥には――。
「――はははっ」
  とりあえず、笑っておこう。
  考えようによっては、これ――すっごい笑っちまうお話じゃないか?
  だって、馬鹿じゃないか。おかしすぎて笑えてくる。
  何時間かけてんだよって、突っ込みの入る所だろ、ここは。
「何時間、かけてんだよ」
  誰も突っ込まないから、俺が突っ込んだ。
  俺が突っ込みの役割だとしたら、なら――。
  ボケの相方は、誰なんだろうな……?

 結局いつもの時間に、家を出た。
  ちょうど隣の前田さんが、俺と同じく黒い袋を持って出てきていた。今日は、燃えるゴミの日だからな。
  白髪の、今年七十八だったか……とにかく高齢の、気難しいおじいさんだ。
  追いつくとまずは挨拶する。今朝は機嫌がよろしいのか、ニコニコと返事をしてくれた。
  昨日のこと、謝っとかないと。
「あの……昨日はやかましくしてすみませんでした。有華にも言っときますんで」
「――? はて、特にうるさくはなかったが」
  きょとんと、首を傾げられた。
  まさかその動作がかえってくるとは思わず、俺も首を傾げ返したくなる。
「だって、あの、ドア蹴ったから、怒ってるなあって思ったんですけど」
「わしがドアを、蹴った?」
  すると前田さんは、はははとお年の割にはやたらと快活に笑って。
「そんなことしてないよ、わしは。なにせもうこの体――まともに歩くだけで精一杯でね、
  お恥ずかしいが」
「――あっ」
  そうだ。前田さんは、今年で七十八……。
  あんなに、力強くドアを蹴るなんて――そもそも無理だったんだよ。気付けなかった。
「そ、そうですよね。変なこと言って、すいません」
  袋を放り投げながら、笑う。
  誰だよ。
  じゃあ誰が――あの時、俺の家のドアを、蹴ったんだよ……?
  何度も携帯を鳴らす、誰か。
  昨日ドアを蹴った、誰か。
  俺にはどうしても、この二つが、繋がってしまう。
(けど……相変わらずわからない。なにが、目的なんだ?)
  そう、それだけは、謎と言う殻に閉じ篭って、直視できない。
  それ故に俺は不安だった。
  なにか――未知は、恐怖に直結するのだ、俺の場合。
「……学校行くか」
  まあ、日常の生活してれば、忘れるか。
  こんなことも今日までだろうし、うん――。
  今日までだと、俺は信じたかった。

 考え事をしながらだと、歩みは遅くなるらしく。
「エー兄っ! 歩くの遅いぞ――っ!」
  朝っぱらからの大音量と同時に、背中を叩かれる。
「おわっ。――なんだ、有華かよ」
「なんだとはなんだよぉ」
  中学校の制服姿で、有華が俺に並んだ。顔を膨らませるな、面白いから。
「途中まで道、一緒なんだよなあ……忘れてたよ」
「そ、そだねっ!」
  何故そこで俯く。
  まあ、いいか。とにかくこいつと会話しとけば、余計なことに思考を割かなくて済むし。
「だからさ、あの、その――」
「エースケくん」
  有華の言葉が、遮られる。
  この間延びした声と、『エースケくん』という呼び方。
  振り返る。
「いたり、先輩……?」
  そう――会うのは、二日ぶりか。
  小柄な彼女が、そこにいる。

「おはよう……ございます」
「――は、はい。あの、おはようございます、先輩」
「はい。……どうしましたか? なにか、慌ててるみたいですけど」
  そりゃ慌てますって。
  もう一生会わないかも……そこまで思ってたのだからな、俺は。
  迷惑ですって、あんな酷いことも、言ってしまったし。
「ねえエー兄……。――誰だっけ、その人」
  有華の質問に、ハッとする。
  そうだな、有華は知らないに決まっている。
「ああ……えっと、俺の高校の先輩で、瀬口至理さん」
「――ふうん」
  あからさまに興味なさそうな事を言うなっ! ふうんって。
「それで先輩。こいつは俺の幼馴染みで、谷川有華って言います」
「谷川……有華、さん」
  噛み締めるように、ゆっくりと先輩は言った。
「はじめまして――よろしくお願いしますね、有華さん」
「――至理さん、でした、よね?」
「はい?」
「なんか眠そうですけど、大丈夫ですか?」
  そうは言っても、有華。お前の口調に心配の成分は微塵も混じってなさそうだが。
  しかし指摘したことは真実で、体はなにかふらついているし――くまも少しあるか?
「寝不足ですか?」
「あははっ……ちょっと、やることがあったんですよ」
  宿題とかかな。先輩ぼんやりしてるから、寝ようとしたら思い出した――っ! とかね。ありそうだ。
「あふ」
「おわっ! アブねっ!」
  ついには倒れかける始末だった。
「――眠いです。あふ、あふ」
「いつまでやってたんですか、まったく……」
「四時くらい、です」
  全然寝てないなあ、それじゃあ。
  このまま単身で学校に到達できるとは思えない。
「危ないですから、俺と一緒に行きましょう。教室まで送ります」
「でも、悪いですよ」
「いいんですよ、これくらい」
  先日の振り払い方は、酷かったし。
  これくらいさせてもらっても、償えないかもしれないけど。
「じゃあ有華。お前ここ、左だろ」
「――ああ。……うん」
  なんか元気が磨り減ってるな。
「なんだよ、お前も寝不足か?」
「ち、違うよっ! あたしは健康的に生きてるからね、うん」
「そうかい。それじゃな」
  俺たちは真っ直ぐに。
  有華はその場に立ち止まって、しばらく手を振っていた。……恥ずかしいからやめてくれ。

 見えなくなるまで、ずっと背中を見ていた。
  ――考えるべきは色々ある。あの女についてだ。
  あたしが指摘したのだから、寝不足だったのは真実。
  ただしそれを利用して、エー兄のほうに倒れこんだのは――あれは多分、演技。
  エー兄に公然と抱きつくための手段として、自分の状態を上手く使ったのだ。
  奥歯が、ぎりぎりと唸って、仕方ない。
  あの行為は、あれはあたしだけの行為だと――特権だったのに。
  それを今日。あのとろそうな女に、汚されたっ……!
(ふざけんな……。ふざけんなっ!)
  畜生が。
  べたべたと、エー兄に、触れやがって。
  朝っぱらから、気分が悪い。
(エー兄は、あの人と……付き合ってるの、かな)
  ふと、そんな恐怖に至ってしまう。
  声をかけられたときも、エー兄、ちょっと様子がおかしかったし……。
  学校が違うから、あたしはそこまで把握できていない。
  これは――まずい。
(とにかく……確かめないと)
  確認することは、大事だから。
  目視での判断は意味がない。やっぱり、エー兄に直接聞いてみるしかないだろう。
  それに確認するのは、絶好の機会かもしれないし。
「こうやって、エー兄に女の子が近寄るだけでイラつくのは、もう嫌だし……」
  そうだ。言ってしまおう。
  エー兄なら、きっと、受け止めてくれる。
「すきだって……言っちゃうんだからね、エー兄」
  ぽつりと。誓うように、あたしは呟いた。

 六月ってのは蒸し暑いよなあ。体育の後なんて、死ねる……。
  授業を終えて教室に戻ってきた我ら男子は、早々に着替えを開始する。
  ああ……。汗で脱ぎにくい。イラつくなあ。
  登校してくるので、すでにシャツは汗まみれなのに――あれ?
「シャツがないぞ」
  声に出すと、周りの奴らが反応する。
「よく探してみろよ」
「いやいや……鞄をひっくり返しても、床を見回しても、ないんだけど」
「教室は授業中、鍵かかってるんだぞ?」
  そうなんだよなあ……。
「大体誰がお前のシャツ欲しがるんだよ、馬鹿」
「そうそうっ! お前の臭いなんか嗅いでも興奮しないって」
「――うるさいなあ。わかってるから変なこと言うなっ」
  その後数分探してみるが、見つからん。
  結局諦めた俺は、下のシャツは無視して、そのままワイシャツをひっかけた。
  多少涼しいが……いつもと違う感触に、そわそわしてしまう。
(それにしても――どこに言ったんだ、俺のシャツ)
  まあいいか……たかが、シャツの一枚。
  それよりも考えるべきことがあるだろうが。次の授業に当てられたらどうしよう、とかな。

 屋上。
  いつも私と、エースケくんだけの世界だった、場所。
  今朝会ったのが偶然と思われて、本当に幸いでした。
  だって本来なら、私は、校門までずっとエースケくんの背中を見ていたはずだったのですから。
  ――ここ数日で気付いたことですけど、私は、怒りっぽいみたいです。
  私を追い越して、エースケくんの背中を気軽に叩いた、あの女。
  エースケくんに……私の大好きなエースケくんに、あんな乱暴な挨拶を、して――っ!
  殺しますよ。
  内心だけで叫んだんですけど、それが正解でした、本当に……。口塞がなかったら、
  今頃どうだったでしょうか。
  谷川有華。
  料理が下手で、エースケくんの女性の価値観を崩壊させた――諸悪の、根源です。
  中学生の分際で……エースケくんの幼馴染み、なんて。
  生意気ですよ。その椅子は、私に譲るべきだと思います。
  幼馴染みのくせに料理が下手なのは――笑えますけど。狙ってやってるんでしょうか、
  それとも本当に駄目か。
  どちらにせよ、私にとっては、邪魔にしかなりえません。
「来ないだろうなあ」
  見上げると、綺麗なまでに蒼穹が広がっています。
  一瞬携帯で呼び出そうかと考えて……私は馬鹿だなあと、自覚します。
  あれは夜中。どうしてもエースケくんの声を聞きたいときに。そう決めたじゃないですか。
  昨日はちょっと、やり過ぎちゃいましたけど……ははは。
  そうです。今日は、いいものがあるのでした。
  鞄からそれを取り出して、両手で広げます。
  シャツです。
  エースケくんのクラスが今日体育があるのは事前に把握していましたから……。
  後は、授業中体調の悪いふりをして、教室を抜け出し――エースケくんの教室まで辿り着くだけでした。
  ああ――。彼のクラスは、廊下の側の窓、ほとんど閉め忘れるそうですから、侵入するのは容易いです。
  それよりも、です。
  また一つ、エースケくんのモノが――増えましたっ。
  エースケくんがどんどん、私のモノになっていきますね……あは、はははっ。
  早く彼の全部を抱き締めたいですが、今日はこれで我慢します。
  これだって……匂い、しますし。今はまだこれでも、構いません。
  丸めます。片手で持って、鼻に押し付けます。
「ふっ……あはっ……あふ」
  もう片方の手が……知らず、あそこに伸びてしまいます。
  指を――動かして。
「あうっ……ぅ……」
  エースケくんの匂い。
  指は濡れて……音が……ぁ。
「エースケ……くん……すきぃ……すき、なのぉ……っ!」
  この蠢いている指が、彼のだったら、いいのに。
  想像するだけで、また、濡れてきて。
「すきぃ……あうっ……いく、いくのぉ……っ」
  そうして私は、果ててしまいました。
  もう――駄目です。
  一秒でも時間が経過するたび、私は――エースケくんのことが、もっと好きになってしまっていて。
  エースケくんがもっと欲しいと、願ってしまっているのです。
  シャツを鞄にしまいます。
  ぬめる指先を――ぼうっと、見つめます。
  彼がしてくれたら……私はどうなってしまうのでしょうか。
  死んでしまうかもしれません。

 たまには真面目に勉強でもしていたら、有華が訪ねてきた。
  何故わざわざチャイムを押したのだろうか。
「どうした。――もうお前は台所には入れんぞ」
「はははっ。なに必死になってんだか」
「必死だよ俺はっ!」
  なにせ生命に関わるからな。
「あの、ちょっと勉強わかんないところあってさ」
「ほう」
「エー兄。だから教えろ――っ」
「じゃあね」
  ばたんと、ドアは閉じられたのである。
  どんどんっ。響く騒音。
「お前、前田さんに怒られるからやめれっ!」
「じゃあ教えてよぅ」
「……わかったよ。わかった。さっさと入れ」
  やった、と即行にくつを脱ぎ捨てて俺の部屋に直行する有華。
  あいつめ……。靴くらい揃えんか、仮にも女の子だろう。
  それにしても、なんだか無駄に元気だなあ……いやいや、無駄に、ではなくて。
「なんか、無理矢理か」
  無理に元気を出してる感じがするのは、俺の勘違いなのか。

 中学の数学、なんて楽勝だねなどと内心自信満々だった俺なのだが、見事に撃沈している。
  ――数学嫌い。
  髪を掻き毟りながら、それでも教科書を凝視する。意地である。
「無理するなよぉ、エー兄。まあ――それくらいの問題はあたしにも解けるんだけど」
「お前はうるさいよさっさと別の問題解きなさいっ!」
  馬鹿にしやがって。
  ああ、でも今思い出したぞ……こいつ学校の成績、結構良かったような。
  じゃあ俺に教えを願うな。それとも本当に俺を馬鹿にするためにやってきたのかっ?
「お前……非通知で俺の携帯にかけまくったりしなかったろうな」
「はあっ?」
「――いや。すまん、忘れてくれ。冗談だ」
  あれは異常だからな。
  有華とあれを結びつけるのは、あまりにも有華に失礼って寸法だ。すまん。
「それよりもさ、エー兄」
「なんだ小娘。俺は今忙しいんだよっ」
  テメェの問題で。情けないなあ。
「今朝会ったじゃん、なんて言ったっけ……えっと」
「……いたり先輩」
「そうっ。その変な名前の先輩」
  変な名前って……。
「お前、もう少し言い方ってもんが――」
「付き合ってんの?」
  ――はあっ!?
  なにを質問するかと思いきや、壮絶な勘違いを……っ。
「付き合って、ない」
「本当に?」
  首を傾げて、上目で俺を見てくる有華。
「……嘘を吐く理由がないだろうが」
「まあね。――ふうん。あっそ」
  自分から聞いたくせに、やたらとそっけない。
  なんなんだ……? まあいい。あまりにこの事を深く問い質されたくないからな。
  正直屋上での告白は――あまり思い出したくない。
  俺は動転して随分と酷いことを言ってしまったし……。それでも、間違ったとは思わないけれど。
  などと思いながら、シャーペンを滑らせる。ようやくだが。
「じゃあ今ね……。エー兄って、誰とも付き合ったりとか、してないの?」
「そうだなあ」
  問題に集中しているため、生返事だ。
  厳密に言ってしまえば、今までの人生――誰とも付き合ったなんて、ないんだけど。
「じゃあ……あの、言うんだけど」
「なにを」
  うーん……また詰まったな。
  手の平でペンを回しながら思考する。なんだったかな、ここの公式……。
「――あたし、エー兄が好きなんだぁ」
「へえ……。そうか、エー兄が好きか……」
  そうかそうか。なるほど。
  ――ああっ!?
  教科書から、向かいに座っている有華に、視線を移動する。
  両目が……なんでお前、そんな潤ませて……?
「だからね……あたしと、付き合って、くれませんか……っ」
  そんな一言を。
  俺は予想できていなかったから、ただ、半口を開けて、正面を見据えるしかなかった。

4

 ――言った。
  ははは……すごいなあ、人間の顔って、こんなに熱くなるんだ……っ。
  あたし、かまずにちゃんと言えたよね?
  すきだって。
  付き合って、くれませんか――うん、言えたはず。
  時間がどれだけ経過したのか、あたしの麻痺している脳味噌は伝えてくれない。
  ただ――告白を投げてからずっと、エー兄とあたしは、見詰め合っていた。
  やばい……泣きそうだよ。
  努めて表情が崩れないようにしているけど……。
「……はははっ」
  ――えっ。
  エー兄……なに、笑ってんの……っ?
  あたしは、何かしらの答えをエー兄は与えてくれるだろうと信じていた。
  なのに――。
  おかしくないかな……っ? だって普通、告白されたら――驚くのは理解できるけど、
  笑うってのは、ない。
「うは、はははっ……! し、神妙な顔してなにを言うのかと思えばお前――っ!
  わかった、俺の負けだっ」
「あう……っ? エ、エー兄……なに、言ってるの……っ?」
  負けって――なんの勝負なの。
「いやいや、遂にお前の冗談に爆笑する瞬間が到来するとは……。
  うむ、もうお前に教えることは何もないなっ!」
  冗談。
  ――だって?
  頭蓋に氷を詰め込まれたみたいに――思考も、火照る頬も、冷えていく。
  エー兄は、うんうんと、勝手に納得したように頷いていた。
「タイミングもばっちり。真顔ってのもポイントだったな。いやいや、
  お前のお笑いのセンスには正直脱帽し――」
  渾身の力を、両腕に込めて。
  あたしはテーブルを、叩いた。

 バン――っ!

 陽気にぺらぺらと喋っていた俺を、その耳障りな騒音が停止させる。
  今までさんざん一人で笑っていたから気付けなかったが――なんだろう、なんか、空気が重苦しい。
  有華は、両手をテーブルに叩き付けた姿勢のまま、硬直していた。
「ど、どうしたんだよ、有華」
  俺は面白かったから褒めたんだけど……。なんだ、評価する部分が違ったか?
「――冗談じゃ、ないもん」
「……えっ」
「なんだ、よぉ――っ」
  教科書を持ち上げると、それを――。
「うがっ」
  投擲しやがった。
  見事顔面に直撃した。――こいつ、物は大事にしろと何度言えばっ!
「お、お前、教科書は投げるもんじゃ……」
「――ねえっ! なにがおかしいのっ!?」
  有華が、俯かせていた表情を、真っ直ぐにした。
  ――っ!?
「お前……なに、泣いてるんだ、よ」
  笑顔が似合ってるんだから、お前には……。
  だから俺は、急に地面が消え失せたみたいに……焦ったんだ。

「泣くよ、あたしだってっ!」
  狼狽する俺を尻目に、有華の逆上はエスカレートする。
  おいおい……なんなんだよ、落ち着けって。
「と、とにかく落ち着けっ。座れって」
「なによぉ……っ! あたしがエー兄のこと好きなのが、なにがおかしいのよっ!
  言ってよ、ちゃんとわかりやすくっ!」
  有華の四肢は、震えていた。
  そして――その泣き顔が……いつかの誰かと、重なる。
(いたり……先輩っ)
  そう。
  今の有華と、あの屋上での先輩が――ひどく重なって、網膜が捉える。
「すごいいっぱい、もともとからっきしな勇気振り絞って言ったのに――それがなによ、
  冗談の一言で、片付けられて……っ!」
「あ……っ」
  ――じゃあ、なんだ?
  さっきの告白は、有華の渾身の冗談などではなく――極めて真剣な、恋慕の告白だってっ?
  嘘だろう……でも、それが真実だとしたら、俺は。
(なんて……ひどいことを、言いやがったんだ……俺って、馬鹿はっ)
  有華の、勇気を。
  笑いながら踏みにじった……んだ、俺は。
「ひっ……えっ……うっく……」
  涙が、有華の顎を伝って、フローリングの床に落下しては弾ける。
  あの一つ一つが――俺の責任だ。
「ゆ、有華……。あの、その、俺は――」
「うるさい、黙ってよぉ――っ!」
  鼓動が早まる。
  馬鹿か……っ! 俺は、今にも壊れそうな、か弱い少女に怯えている。
「――もう何も、エー兄の口から、聞きたくない……っ」
  それを言うと、有華は自分の筆記用具と教科書を拾う。
  手伝おうと立ち上がりかけるが――今の俺は、気安くあいつに近付いてはいけない、と思う。
  だから黙って、有華が鼻をすする悲愴な音を聞いていることしかできなかった。
「あたし、帰る」
「あ、ああ……そ、その、有華」
  呼びかけは無視される。
  小さな背中は玄関に遠ざかっていく。歩みが停滞する様子は、微塵も、ない。
  ドアのノブに、有華の手が乗っかる。
「――エー兄の……っひぐ……うっ……あほぉっ……!」
「あっ……」

 ガン――っ!

 いつか、誰かにドアを蹴られたときのよう。
  有華はドアを思い切りに閉めて、俺の前から、消失した。

5

 初めて交わした会話は、果たしてなんだったか……もう、憶えていない。
  あいつは昔、ちょっと人見知りだったからなあ。
  今でこそ活発な性格に変貌してしまったが――まあ、結構なことである。
  やっぱりあいつには、笑顔がとても似合っていると思うからな。
「はあ……っ」
  ソファに横たわりながら、天井を凝視する。
  自分の愚行を、あれから何度も思い出しては、溜め息ばかり吐き出していた。
  有華の視点からあれを再現してみろよ……。
  俺は、時間を逆行できるなら、真っ先に己を殴りに出発するな。
  ふざけるな。状況を考えろ――先輩からの告白には、あんな反応などしなかったくせに。
「だって、な……。あの有華が、俺を」
  すきなんて。
  お前……よっぽど中学にはときめく男子はいないのか?
  俺なんか、料理が趣味の……やわな、平凡高校生だぜ。
  それに――正直言うと、俺にとっての有華って存在は、今日まで……。
  やかましい幼馴染みだとか。
  妹みたいな、感じだったんだよ……正直な。
  そんなくだらない固定的な観念が、俺の脳裏にこびりついてたから。
  冗談だろって、思っちまった……っ。
「謝らないと……」
  そして言わないと。
  俺の、有華に対する――ちゃんとした返答を。

 夕焼けが眩しい。鬱陶しい。
  あれから公園まで疾走して、一時間くらいか。
  ベンチに座り込んだら、立てなくなってしまって、ずっとこのままでいる。
  時折遊歩道を歩く男女の組み合わせが――腹立たしい。
「なんで……っ」
  あんなふうに、エー兄と歩きたいのに。
  肝心の彼は受け止めてくれなかった。
  冗談だろうと――私の勇気を、その単語だけで、払い除けた。
「エー兄の……あほぉ……っ」
  思い出したら、また泣きそうになってしまう。
  誰かにこんな脆さを見咎められるのがひどく恐ろしくて、あたしは俯いた。
  地面を睨みながら……色々考える。
(もしかして……エー兄は……)
  そうだ。
  エー兄が嘘を吐いている可能性が――ある。
  あたしの、付き合ってんの? という問いかけに、エー兄は否定を返してくれたけど。
  あれはまさか――嘘だったんじゃ、ないのかな……。
(嫌だよっ……そんなの、絶対に……っ!)
  想像するだけで死にたくなるが、逃げてはいけない。立ち向かわないと……っ!
  あの女――瀬口至理。
  仮にあいつとエー兄が付き合っていたとして……エー兄が、それを否定する必然性は、あるのかな……?
  ……なんだ。あるじゃない。そんなの、簡単だった。
「優しいから……」
  声に出して、その真実を紡ぐ。
  ――優しいから。あたしを傷つけたくなかったから……嘘を、吐いたんだ、きっと。
  この恋慕は決して届かないから――遠ざけるように、冗談だって、思ってくれた……っ?
  エー兄は……何にも、悪くない……っ?
「そうだよね……。うん。悪いのは、全部」
  涙腺が引き締まってくる。泣いている暇は無い。
  排泄すべきふしだらな悪を――あたしは見定めた。
  あの糞女が――奪い取ったっ!
  あたしの、あたしだけのエー兄を……あたしがいない領域で、かすめとったっ!
  ――消してやる。
  こんなに悲惨な状況に陥ってしまったのは、全部あの、あの――。
「こんにちわ、有華さん……。奇遇ですね」
  ハッとする。
  膝の上で握り締めていた拳を解放して、即座に見上げると。
「瀬口……さん……っ」
  諸悪の、根源。
  あたしにとっての絶対の悪が――そこにいた。

 どうにかして、エースケくんの女性への価値観を矯正しなきゃいけません。
  例えば怪我をさせる……もちろん私は間接的にしか関われませんが。
  エースケくんの家族は、エースケくんとそのお父さんの二人だけ。
  そして今。お父さんは長期の出張で帰ってこない……まさに、天啓です。今こそ、という天啓。
  怪我をすれば不安になりますよね……。しかも家では独り。
  そこで私がさりげなく、電話するんです。大丈夫ですかって。
  なんで番号を知ってるんですかって聞かれたら、エースケくんのクラスの親しい友人に
  偶然聞いたとでも言えばいいのです。
  後は駆けつけて、色々と不自由なエースケくんのお世話をして――本当の女性という在りかたを、
  見せ付けます。
  そうすればきっと、エースケくんも気づいてくれます。……あたしの、ありのままの愛に。
  それはそうと、前田さんでしたか――あのお方には感謝してもしきれません。
  私がなにを聞いてもほいほい答えてくれて……っ。
  ボケてるんじゃないですか? まあそれを狙って、高齢なあの人に聞き込んだんですけど。
  あは、はははっ。
  とにかく今後を色々と思考しながら、私はエースケくんのマンションに向かっていました。
  別に押しかけようとはしませんよ……。今はまだ、エースケくんに近付くだけで、満足ですから。
  いつまで理性が保てるか、ちょっと自信はありませんけど……。
「あれ……っ?」
  ちょうど公園に入った時です。
  忌々しい小娘の姿が……見えたのは。
  最初は無視しようと思ったんですけど、なにか様子がおかしいんですね。
  近付くとすぐにわかりました。――泣いてるんですよ、彼女。
  そこで私の直感が脳裏を走りました。
  ひどく彼女に共感したのです――そう。私がエースケくんに拒絶されたときと、
  今の有華さんは酷似します。
  吹き出しそうですっ。……はは、はははっ! そうですか……振られたんですね、有華さんっ。
  所詮はガキです。調子に乗るから、そんな負わなくてもよかったきずあとを背負うんですっ。
  ああ、滑稽だなあ。
  私はきっと、三日月みたいに口を開けて、笑っていることでしょう。
  ここは止めを渡しておきましょう。幸運です。最大の障害が取り除けそうですから。
「こんにちわ、有華さん……。奇遇ですね」
  そうして私は、諸悪の根源に、引導を渡すのです。

「どうも……。本当に、その……奇遇ですよね」
  努めて冷静に……煮えたぎる殺意を心の奥底にしまいこみながら、言葉を返す。
  にこにこと無駄に笑顔を振りまきやがって……。
  皮膚を蟻の行列が闊歩するくらいに、不愉快なんだよ……っ!
  あたしにとっての、お前って存在は……っ。
「――どうかしたんですか? 泣いているみたいに、見えたんですけど……」
「……別に。あなたに話す必要は、ありませんから」
  視線を外して、言った。
  ――嫌な、眼球だ。
  全部見透かされてるみたいで……だからあたしは、こいつの視線から逃れてしまった。
「そうですかぁ……? だったらいいんですけど。すみません、余計な質問でしたねっ」
「……用件は、それだけですか?」
  なら……さっさと失せろ。
「泣いちゃうの、仕方ないですよねっ」
「はあ……っ?」
「私もそうでしたから。……必死にお願いしたんですけど、駄目だって……。それもこれも、
  全部誰かさんのせいなんですけどね」
「なにを、言ってるんで――」

「エースケくんに、振られちゃったんですよねっ……有華さん。あはは、はははっ!」

 哄笑しながら。
  このどうしようもないコソドロは……あたしに、そう断言した。

 あはは、はははっ! はは……駄目です、おかしすぎますっ!
  だって……あまりにも、有華さんが、惨めでっ……ぷぷっ。
  一度爆笑したらなかなか止められませんね……自分の意志では、特に。
  体がくの字に曲がってしまいました。
「ははは、はは、はははっ! あはは、ははっ!」
「黙れ……っ」
  有華さんが立ち上がる気配。
  あはは……さっきまでは怯えたみたいに視線をそらしていたのに、今じゃすっごい睨んできてるって、
  わかっちゃいます。
「ご、ごめんなさいっ……。でも、あははっ……! だって、あまりにも私の直感が的中したもので、
  つい……っくく、あははっ」
「いいから、さっさと黙れっ……!」
「あはは、うは、ははっ! あははははははははははははっ!」
「この――黙れってっ!」
  ひぶっ。
  ……右のほっぺた、痛いですぅ。
  耳朶にこだまするのは、パンっ――という、皮膚が揺れる、綺麗な音。
  あはっ……ビンタ、されちゃいました……てへっ。
  ありがとう有華さん。この衝撃のおかげで、ようやく無限に連鎖する笑いが、ストップしてくれました。
「なに笑ってんのよ……っ!」
「あはは、ははっ。すみません……生来、こんな面なんです、私」
  そんな殺意メラメラの両目で睨まないでください……。
  私は抑えてるんですからね――有華さんへの、巨大な憎悪を。
「どうやってエー兄をたぶらかしたかは知らないけどね……っ! あたしは、絶対に諦めないっ!」
「ははあ……そうですか。あなたみたいな乱暴な、女の子らしくない人を……エースケくんが選ぶとは、
  思えませんけどね」
「――ぐうっ……!」
  手を出したのは、有華さん、あなたですから。
  乱暴って表現されても……どこもおかしくありませんよね?
「あたしは……絶対に、認めないからっ……! 覚悟、しときなさいよね……っ!」
「勝手にしてください。あなたがどう転んでも――私は、エースケくんと、幸せになりますから」
「……ほざけっ! 勝手に妄想してればいいのよ、馬鹿がっ!」
  言うが即座に、有華さんは反転して、走り出しました。
  あはは……まるで敗残兵ですよ。みっともないんだ……うふふっ。
「――あれ。落し物ですか」
  きらりと、何かが光を反射して、私にその存在をアピールします。
  有華さんが座っていた、ベンチの上ですか……。
  摘み上げます。
  銀色の――これは……。

6

 ああ……。気まずいだろうな、会ったら……っ。
  それにしても、俺はどうするべきだろうか。
  有華を、俺は好きなのか――どうかだ。これは、次に有華に会うまでに、
  決着しなければならない問題である。
(嫌いなわけは、ない)
  それだけはハッキリしている。
  ただ、じゃあ好きなのかと問われると……俺にとって、あいつは幼馴染みで、妹みたいな存在で……。
  長年の蓄積した関係が……明確な俺の気持ちの判断を、阻害してしまう。
「ああ、ああ……っ」
  などと悩んでいると、聞き慣れたメロディ。
  ポケットからそれを取り出す。……誰だよ、俺がめちゃくちゃ悩んでいる最中に、畜生――。
「……非、通知……っ?」
  数字の羅列を、思い出す。
  ――のどが、渇いている。……昨日かけまくってきたのと、同一の人物か……っ?
  とにかくまずは、応対するべきだろう。
「……もしもし?」
  別に怯えることはないんだ。
「あの……昨日もかけてきましたよね?」
  問いかけるが――返事が、ない。
  見事に雑音は捉えられないし……これは、昨日と同じだ。
「なんで、あんなにかけるんです……? なにか、俺に用事なんじゃ――っ」
  ぷつん。
  ……相手から、通話を、切った。
  耳から携帯を離して……見下ろす。
「なんなんだよ……っ。薄気味悪い……じゃないか」
  液晶には、十二時二十八分と、表示されている。
  もうこんな時間か……随分有華のことで思考に没頭してたな。
「もう……寝るか」
  というか……情けないが、なんだか孤独が怖かったんだ。その忘却の手段として……眠るってのは、
  手っ取り早かっただけだ。
  起きたままだとどうしても考えてしまう……昨日から続く、無言の電話。
  ……電源、切ろう。うん。目覚しの時計を用意しないと。

 繋がらない。
  ――この反応は、もう眠ったものだと、判断する。
  立ち上がる。
  ……会いに、行く。

「ふぁ……っ。くそ、眠いっ……」
  ――うん?
  なんか唇に違和感があるような……ありゃっ? 変なもんなめたかな、昨日。
  昨日と言えば――しまった、飯のタイマーを予約するの忘れてた……そもそも米を
  とぐのすらやってないけど。
  時刻は、すでに七時の三十六分……。おかずの用意も、間に合わんな、こりゃ。
「コンビニ行かないと……」
  とにかくさっさと着替えて、ちょっと早めに家を出ないと……。
  制服姿に変身してから、リビングに。少しだけくつろぐ時間はあるし――っ。

 テーブルの上には。
  ラップに包まれた幾つかのおかず。
  そして――保温になっている、炊飯器が――っ?

「――はあっ……!?」
  待て、待て、待てよ……っ! 意味が、わからないぞっ!
  俺は昨日有華の一件で参って、明日の弁当の米をとぐのすら――忘れたっ! 忘れたんだよっ……!
  ――じゃあなんで……ちゃんとたけてるんだよ……飯がっ!
  そして最大の違和感は……。
「おかずが……なんで、あるんだ……っ? あは、はは……っ」
  何故か、笑みがこぼれる。……冗談だろう?
  ラップを剥がして……卵焼きを、一つ摘んだ。
  冷めているけど……美味しいな、うん……。いや……まず見た目があまりにも綺麗だったから、
  すぐに美味だってわかる。
「はははっ……。す、すごいなあ……有華の、やつ。こんなに上達した、なんて――っ」
  ――違うだろうっ……! 阿良川瑛丞っ!
  つい先日に味わった有華の腕前は……最悪だったじゃ、ないか……っ!
  一日やちょっとで、美味と変貌するほど、マシではなかったんだ――断じて。
「じゃあ……誰が、作ったんだよ……っ?」
  昨日俺が眠ってから……。
  その誰かは、俺の家のドアを開けて……台所で、調理をした……っ? ちゃんと炊飯器の予約も完了して。
  出来上がったおかずにはラップをする。
  決して、その誰かはここの鍵を持っている有華ではない……だって、あいつは、料理が下手だから。
  そして――誰かは、まだ、この家に……いるかも、しれない――っ!?
「ひっ……! うわ、ああああっ!」
  動転して、無意識にテーブルの上の皿を、全部投げ飛ばす。
  砕け散るおかず。そして皿……っ! 全部だ、全部投げろ、俺っ!
「ああああああああああっ! だ、誰だよ、誰が、勝手に作りやがったんだよっ!」
  思い出すのは無言の電話……。
  雑音すら入りえない、通話の奥に潜む人影――。
「ひぐぅ……っ! はあ……っ! ああ……っ!」
  他人からすれば……朝のリビングに、食べ物が並んでいるのは……至極当然の光景かも、しれない。
  だけど……俺の母親は、もう、とっくの昔に……死んでるんだよっ!
  この家での家事の担当はもっぱら俺であり、その俺が作った憶えのない、数々の料理……っ。
  俺からしてみれば――恐怖の、具現でしか、ない。
「誰だよ……っ。いるんだったら、出てきやがれ、畜生――っ!」
  頭を抱えて……俺は、しばらく壁を背中にしたまま、動けなかった。
  視線を辺りに走らせたまま……震えて、いた。

 遅刻したのは……本当に、久しぶりだった。
  きちんと登校する事に関して中学の頃から非常に真面目だった俺は、
  昔からの付き合いのやつらからは、随分と驚かれた。
「おいおいどうしたエースケ。お前が遅れるなんて……なんだ、風邪でも引っ被ったかっ?」
「いや……ちょっと、な。寝坊って、ところだ」
  あんまり……俺の遅刻の理由を問い質さないで、くれよ……。
  嫌でも思い出すから……っ。
  あの――誰かが俺に用意してくれた……料理の数々をっ……。
  自分の部屋を含めて、家の全てを、俺は調べた。
  クローゼットに、ベッドの下……そんな暗闇を一つ覗くだけでも、心臓が爆発しそうに喚いた。
  ――結局。俺が調べている時間に限り……誰も存在していないことが、確認出来た。
  だが……確実に、誰かがいた。
  俺が眠った……多分一時くらいか。それ以降に侵入して、俺が目覚めるまでに、退出している。
  ベランダの窓は無傷だから、正面から――つまりドアの鍵を開けて、入ってきたのだろう。
  今朝のリビングの光景が……それを如実に物語っている。
(警察に……言ったほうが、いいよな……っ。これって)
  金銭や貴重品を盗られた訳ではないけど、誰かが確かに侵入したんだから……無許可でっ!。
  これはれっきとした、犯罪じゃないか……っ?
「日直は号令せんか――っ! 授業始めるぞ」
  二時限が始まろうとしている。
  俺だけが……教科書も取り出さず、ボケッと、座ったままだった。

 昼休みを、そうやって迎えた。
  用意されていたあれを……持ってくる気分には、とてもなれなかった。
  そもそも、投げ飛ばしたからな……っ。
  つまり、俺には昼食がないのだ。
  食欲がなかったので、それは大した問題ではない……もっと他に、考えなければいけないことが……っ。
「阿良川――っ。お前にお客さんだぜ」
「……えっ?」
  窓際の席で、青空を見上げていた俺を、呼び出す声。
  ドアの傍で手招きしている。……なんだよ。誰だ、貴重な昼休みに俺を訪問しようなんて
  呆れたお人は……っ?
  渋々立ち上がり、近付く。
「お客さんって、誰だよ」
「美人の先輩だよ……畜生。羨ましいぜ、てめえ……っ!」
  などという台詞を残して立ち去りやがる。
  そいつが退いた先には――。
「……いたり先輩?」
「エースケくんっ。こんにちわっ」
  ぺこりと、嬉しそうにお辞儀する先輩。
  ……なんだ。屋上での一件は、完璧に振り払ったみたいだな……よかった、本当に。
  やっぱり先輩は、そうやって笑ってるほうが――周囲にも、自分にも幸いだと思える。
  ああ……なんだか少し和めた。ありがとう、先輩……っ。
「あの、それで今日はなんの用件ですか?」
「――えっと。エースケくんの、席って……どこでしたっけっ?」
「……っ? 窓際の、一番後ろですけど」
  人差し指で示してやる。
  先輩はそっちを数秒見つめてから――。

「なんで、お弁当、持ってきてくれなかったんですか……っ?」

 まばたきを、忘れてしまう。
  俺は……先輩を、静かに、見下ろした。

 エースケくんの机の上は……なにものっていません。綺麗さっぱりです。
  昼休みに入ってから十分。
  エースケくんとお昼を一緒にしていた時期に――彼から、自分はちゃんと
  昼休みに弁当を食べる主義……って、聞きました。
  だから早めに平らげている可能性はないでしょう。
  なら今の時間――あの机には、お弁当の箱がのっているはずです。
  ……持ってきて、いるなら……っ!
「ちゃんと炊飯器は予約してましたし……。おかずはラップしてましたよね……っ?」
  頬を膨らませて……ちょっと拗ねたふうに、私は言います。
  だって酷いです。せっかく私が、愛情込めて作ったのに……忘れちゃう、なんて。
「もうっ。エースケくん、酷いですっ! そんな、照れなくてもいいですのにっ」
  ――あれっ?
  どうしたんですかエースケくん……そんな、私をじっと睨んで……っ? て、照れちゃいますよぉ。
「先輩……だったん、ですか……今朝の、あれは……っ?」
「はいっ。どうですエースケくん、これが女の子の本分なのですっ」
  あのガサツそうな女と比べてください。どうです、女性への見方が変わるってもんでしょうっ!
  あふ……っ。駄目です、笑みが無限に溢れてしまいます。
「――せん、ぱい……っ。あの、その……今日の、放課後ですね……屋上に、来てくれませんか……っ?
  ちょっと、話が」
「ふえっ……!?」
  これは――早くも、矯正は完了したみたいですっ。
  もちろん私は頷きました。
「じゃあ……また、放課後に、会いましょう」
「わ、わかりました……っ。待ってますね、エースケくんっ!」
  本当は、お弁当のことで色々言いたかったんだけど……思わぬ収穫があったので、許してあげます。
  もう目前です。
  エースケくんが……私のものになるのは、もう……っ。

 あはは、はははっ。ははは、ははは……っ!
  迷惑ですって言ったことは、もう、全部許しちゃいますっ。
  だから――今度はエースケくんから、付き合ってって、お願いしてくださいよっ?
  先輩の、お姉ちゃんの私に……願ってください、エースケくん。

7

 疾走する――通学路を逆に、疾走する……っ!
  とうに昼休みは終わっているだろうが、構うもんか……っ。
  放課後の屋上に備えて、俺には家に戻って回収すべきモノがある。
「はあっ……! はあ、はあ……っ」
  膝に両手を当て……酸素を貪る。
  ――はにかんだ笑みが……素敵だった……っ。
  揺れるポニーテールは、とても似合っていると、思う。
  話していて――楽しかった。
  なのに。
「いたり……っ。先輩……」
  あの屋上で、俺が拒絶してから……おかしくなったのかっ?
  じゃあ、おかしくしたのは……俺かっ……?
  だけど俺は……ちゃんと断わったじゃないかっ! 無理ですって、言ったぞ……っ!
  確かに言い方は悪かったかもしれないけど……でも、普通わかってくれるだろ。
  不法な侵入。――鍵はどうしたんだよ、おい。
  無言の電話の奥底。ドアを蹴った、誰か……っ!
(まさか……俺のシャツを、盗ったのも……っ!?)
  ――全部、全部……先輩なのか……っ?
  俺にはもう、そうとしか思えないで、いる。
「――ガツンと……言ってやる」
  それで今後、二度と先輩とは話せなくなるとしても。
  今のまともじゃないいたり先輩を、正常に戻してやるには……俺が言うしか、ない。
  乱れた呼吸を整えると、俺は再び――疾走を開始した。

 覚悟しときなさいよ、とは言ってみたが……どうすれば、最善なんだろう。
  とぼとぼと、あたしは帰途を歩いていた。
  エー兄とあの女を――どうやって、別れさせるか。
  ……今すぐにでも殺してやりたいけど――問題は、その方法。

 なにが相応しいか――そうね。
  あらゆる血肉への道筋を、思索する。
  あいつとろそうだしね……案外どうとでもなるんじゃない?
  例えば……そう、例えば。
  圧殺や轢殺、刺殺や毒殺、駅のホームに突き落としたりも痛そうだよね、あはははははは――っ。

 ――あれっ? いや……あは、ははっ。
  いけないいけない……早まっちゃ駄目だよ、あたしってばっ……!
  今の、だいぶまともじゃなかった……危ないなあ、もう。
「だって……それって、犯罪じゃんっ……? あは、ははっ」
「――有華っ!」
  ……えっ?
  この声は……思いながら、振り返る。
「エ、エー兄……っ?」
「はあっ……! はあ、はあ……よかった、追いついたっ……!」
  薄く笑って言うと、エー兄は持っていた鞄を地面に置き、両手を膝に乗っけて、呼吸を整え始める。
  ――昨日を、思い出した。
  あたしの告白を笑って、冗談と言うことにして……あたしの悲しみを軽減してくれた、エー兄。
  そんなことするから……あたしは昨日より、もっと、エー兄が愛おしかった。
「……どうしたの。あたしに、なにか用事っ……?」
  直視できなくて、地面に視線を落とした。
  あんなとろそうな女のどこがいいのよ、とか……どうしても、そんな理不尽な非難を、
  エー兄にぶつけてしまいそうで、怖かったから。
  落ち着いたのか、エー兄はすっくと直立して、あたしを見てくる。
「聞きたいんだけどさ、お前……俺の家の鍵は、どうしたっ……?」
「――鍵っ?」
  言われて、急に答えられなくなった。
  あれ……っ? 確か昨日、エー兄の家に行った時に……開けてくれなかったときのために、
  持っていったよね、あたし……っ?
  その後――帰ってから、どこにしまったっけっ?
「多分……家にあると思うけど、どうしたのっ?」
「――多分、だって……っ?」
  ど、どうしたのエー兄……眼が、怖いよ。
  瞬時に切り替わった雰囲気に、あたしは動揺してしまう。
「お前……俺の親父に、それなりに信頼されたから、鍵貸してもらったんだろうがっ!
  だったらそれなりの責任を意識しろよっ!」
「あうっ……? エ、エー兄、どうしたの……怖いって」
「俺は――っ! お前よりもずっと怖いことに――っ」
  言いかけて、エー兄は口を塞いだ。
  明らかに……吐き出しかけた言葉を、噛み砕いている、そんな様子だった。
  斜めを向いているのが、何よりの証拠だと思える。
「エー兄っ……?」
「いや――すまん。言い過ぎた、ごめん」
  もうこの話題から逃れてしまいたい……そんな意思が滲んでいる、弱々しい声だ。
  エー兄は、忘却を願うように首を数回振ってから――。
「それよりも、有華……。お前に伝えたいことが、ある」
「――えっ」
  あたしを正面から見据えて、言ったのだった。

 階段を一つ越えるたびに、脳裏を過ぎることがある。
  ――あの、よ、よかったら、これからもお昼、い、一緒に食べませんかっ!?
  なんで俺なんかと食べたいかなあ、と最初は思った。
  けど特に断わる理由がなかったから――もちろん、いいですよ……って、言った。
  その選択が間違っていたなんて当然思わない。
  先輩の可愛いところとか……優しいところとか。話していて、楽しかったこととか。
  だが――俺の記憶の中で微笑む先輩は、それが真実か否か関係なく……もういない。
  怖かった。
  純粋に――はっきりと断わったのに、それを理解せず、あまつさえ勝手に家に入った先輩が……
  俺はっ……。
  おかしいと、変だと、普通じゃないと――思っている。
「ど、どこまで行くんだよぉ、エー兄のあほぉっ……!」
  有華の不満気に満ちた声が後頭部にかかる。
  俺は有華と繋いでいる手を強めに引っ張りつつ。
「いいから、黙ってついてこい。もうちょっとだから」
「話すだけならどこでもいいと思うよっ……?」
  滅茶苦茶行きたくなさそうにしている。
  高校の校門が見えてから、ずっとこんな感じだな……まあそりゃそうだろう。
  こいつはここの生徒じゃないし。
「……ごめんな。でも頼む……あそこで話さないと、駄目なんだ」
  言うと、有華は悩むように眉間に皺を寄せて……俯いた。
  ――俺は最低だと思う。
  この気持ちが本当はどうなのか……確信もしていないのに。
  前に向き直る。
  ドアが、待ち構えていた。

8

 見上げれば曇天……一雨到来しそうな雰囲気である。
  そして。
  いつかの告白の光景と重なる――先輩は、同じ位置で立って、待っていた。
  ドアが開く物音に気付いて、ポニーテールを揺らしながらこちらを振り向く。
「あっ。エースケく……っ!?」
  ――そりゃ驚くだろうなあ。
  信じられないと言外に叫んでいるみたいに……いたり先輩の両目は、見開いていた。
  金魚みたいに、口をぱくぱくさせている。
  彼女の視線は……もちろん、俺の背後に。
「なん、で……っ? 有華さんが、いるんですか」
「――それよりも、いたり先輩。……まずは、返してくれませんか」
  有華にはしばらく動くなよと前もって言ってある。俺は、片手を差し出しながら、先輩に歩み寄った。
  質問したのに答えてくれない俺の強硬さに、いささか困惑しつつも。
「……返すって、なにをですか」
「――とぼけないでくださいよっ……! 俺の、家の鍵ですよっ!」
  息を呑む気配が、背中に響いてくる。
  有華は今どんな表情を浮かべているのか……考えながら、さらに近寄った。
「それとも、他にも返すものがありましたかっ……? 例えば、シャツとかっ!」
「――っ……うっ? エ、エースケくん……っ」
  口を塞いで、いかにも動揺した様子で後ずさる。
  今のは激情に任せたハッタリだったのだが――この反応だと、どうやら真実みたいだ。
  できればそれこそとぼけてもらいたかったです……っ。いたり先輩。
  それにしても、わからない……っ。
  何故シャツの一件に関しては明らかな動揺を滲み出すのに……鍵については、
  なんで持っていることに疑問を感じていないっ……?
  そのギャップがまた、異常とも捉えられるんだよ、俺には。
「わ、私、知りませんよっ!? シャツって、いきなり、なんなんです……っ?」
「……じゃあ、質問を変えます」
「あふっ……? エ、エースケくん……質問じゃなくて、もっとなにか、私に言うことが
  あったんじゃないんで――」
「いいから黙って聞けよ――ぉっ!」
  一喝する。
  びくっと、石化でもしたみたいに、先輩は喋るのをやめた。

 ……地面がこんにゃくみたいだ。不安定で……頭は馬鹿みたいに熱している。
  抑えが効かないっ……!
「俺は……俺の記憶違いじゃなければ、俺はっ……!
  先輩には、一言も、携帯の番号教えてないですよね……っ?」
「――知らない、ですよ」
「俺の勝手な妄想かもしれませんけど……っ。先輩は……俺の携帯に、
  何度もかけてきてませんかっ!? その……む、無言のっ!」
  これは根拠のない発言だと思う。
  けれど……いたり先輩が不法に侵入してきた事実が在る以上……俺は、この二つを
  異常と言う共通点で、繋がっていると思い込んでしまうっ……!
「そんな――はははっ。証拠もないのに、勝手なこと、言わないで……くださいよ」
「……そうですか。わかりました。――じゃあ、次です」
  俺の特に親しい友人らに問い合わせても……いたり先輩からなにか聞かれたとか、
  そんなことはなかったし……っ。
  ただ誰かに聞く事だけが手段ではない。他にも方法があったのかもしれない。
  のどが渇くのを自覚しながら、言葉をなんとか紡ぐ。
「――先輩。俺の後ろを……歩いて追いかけたこと、ありますよねっ……?」
  やや声が震えてしまう。ちくしょうっ……情けない。
  これは……ある光景をきっかけに、至れた疑問だった。
  すなわち……今朝の、光景だ。
  たぶん鍵は有華が落とした――これはもう間違いが、ない。なんなら後で有華に聞いたらいい――
  俺の家から飛び出した後に、いたり先輩に会わなかったか、って……っ。
  落とした鍵が何故俺の家の鍵だとわかったのかは……可能性として、俺の家の鍵かもしれないと
  わかる手段は、幾つかある。
  有華が言ったのかもしれないし……確か親父は、前田さんにもそんな事を笑いながら
  言っていた――一応有華ちゃんに鍵渡してますけど、なにかあったら前田さんも
  よろしくお願いします……と。
  とにかく知れたのなら……試して見ようと思えたのだ、十分に。
  鍵は手に――残るのはその鍵穴の居所……俺の、住所だ。
  もちろんこれだって知りえる手段はたくさんあるのだが……ここで思い出すのは、
  いつかの帰り道、背中を這った違和感っ……。
  だから俺は……こんな質問を、再びはったりを、先輩にふっかけている。
「私が、エースケくんを……追いかけるっ? 後ろから……こっそり、ですかっ?」
「はい――先輩だったんですね、あれ」
  道の両側は植え込みと木々に囲まれていた。……そもそも最初から、その植え込みの向こうから
  歩いていたのなら……俺が振り返っても、容易に見つけられるはずがない。
  ただしこれも目視で確認したわけではない――状況だけの早急な断定だ。
「――あはっ。はははっ……そんな、まるでストーカーじゃないですかっ、それって。
  もうっ……エースケくんってば、酷いですよっ? 怒っちゃいますよ、私」
  その笑顔が……酷く脆そうに見えるのは、俺の錯覚かっ?
  ――そうだ。そうやってとぼけるのが……この状況を切り抜ける最善だからなっ……。
  あんたが昼休みに……あんなことを言わなけりゃ、完璧だった。
「そうやって、ドアを蹴ったことも……とぼけるんですね、きっと」
「……意味がわかりませんよ。エースケくん……それよりも、もっと、私に、
  言うべきことがあるんじゃないですかっ!?」
  最後のはったりにも、語気を荒げて予想の反応をしてくれる先輩だった。
  俺は……ただ、無感動に……すがるような視線を浴びていた。
「――わかりました。もういいです……なにを言ったって、無駄だってわかりました」
「む、無駄って……なんなんですかっ!?」
  もう距離は零にすら近い。
  俺は鞄から――ビニールの袋に入れた、今朝のおかずを取り出した。

9

「そ、それは……っ」
「まずは俺から返します。――置きますから、あとで勝手に拾ってください」
  なんで、そんな……言外に、信じられないと叫んでいる表情を浮かべるんだ。
  一瞬叩きつけようかと考えたが……やめておく。屈んで、床にちゃんと置いた。
  ……錯乱して投げつけてしまったので、それらの原形はとどまっていない。それでも……持ってきた。
「次は俺の番ですよ……っ。鍵を……返して、くださいっ」
「――あ、あの、でも……返したら、エースケくんの朝ごはんとかお弁当とか、
  置いておけなくなっちゃいます、から」
  愕然とした。
  あんたは俺がついさっき置いたモノが……見えてないのかっ?
「誰がいつそんなこと頼んだんですかっ! おかしいですよ、いたり先輩はっ!」
  怒鳴ることを躊躇わない。
  例え先輩が泣きそうな表情を浮かべても……止まっては、いけない。
「なにしてるかわかってるんですかっ……? 不法に侵入したら犯罪ですよ、わかれよ、
  それくらい自分でっ!」
「ご、ごご、ごめんなさいっ! 返します、返しますから、だからっ……!」
  ポケットから即座に取り出してきたそれを、乱暴に奪い取る。
  手の平に銀色の硬い感触――それを握り締めながら、何度もぺこぺこお辞儀する先輩を、見下す。
「金輪際……俺には、話しかけるなっ……!」
「――えっ……!?」
「廊下で擦れ違っても無視するっ。家にも近付かないっ……わかり、ましたねっ!?」
  俺の言葉が……威力を伴って直撃したみたい。
  いたり先輩は冷や汗と一緒に……地面に、座り込んだ。俺を――見上げながら。
  視線をぶつけてはいけない。有華のほうへ体を反転させ、歩き出す。
「まっ……まって、まって、エースケくん、待ってっ……!」
「――本当に悪かった。ごめん……有華」
「……エー兄っ……?」
  ――止めを、さしてやる。
  背中から投げ飛ばされる悲哀の叫びは無視して――俺は、有華に頭を下げた。

 エー兄は……あの女とは、付き合って、いなかったっ……!
  次々と流れ出すエー兄の怒号に戸惑いながらも……あたしがそれを理解した瞬間、
  疑問は綺麗に砕けて散った。
  やった……っ! よかった、本当によかったっ! 嬉しすぎる誤算だよっ……!
  そして今――エー兄が、あたしに頭を下げてくれている。
「冗談なんて言葉で簡単に片付けようとして……悪かった。ごめん」
「――っ……ううんっ。それは……もう、いいの」
  本当はよくないけど……っ。ここは、きっとこんな反応を見せ付けて、
  あんなストーカー女とは違うって、アピールしないとっ……!
「あ、あたしこそ、その……散々暴れたり、あほって言って……ごめんなさい」
「い、いや……まあ、あほって言うのは、あながち間違ってないだろ、ははは……っ」
  そんなこと絶対にないよ。
  勝手に勘違いして……あんな女と付き合ってるなんて、あたしがエー兄を信じきれてなかったのが
  原因なんだし……。
  あははっ……あたしってば、ほんと、馬鹿じゃんっ……? 軽く、自己嫌悪してしまう。
「それに、お前は昔から俺にあほって言ってたからなあ……。もう慣れた、うん」
「なによそれっ……エー兄の、あほぉ」
「あははっ……。うん、でもお前に言われるのは……嫌いじゃないな」
  それって――いかん……顔が熱い。
  あれ……エー兄が、あたしに、近寄ってくるっ……?

 そのまま。
  抱き締められた。

「ごめんっ……有華。お前のこと、好きだ、俺」

 そんな一言が……っ。
  耳元で、囁かれた。

 良かれと……思って、やったんです。
  エースケくんの為にって、いつでも考えていたら……こうなったんです。
  なのに――私の愛は届きません。
「帰ろうか、有華」
  滲む目の前の光景。
  寄り添っている二人の人間が、います。
  エースケくんと――谷川、有華。
「……まって、まって……っ! エースケくん、駄目ですよっ! そんな女なんかと、
  行っちゃ駄目ですよっ……!?」」
  立ち上がることすら、今の私には辛いことでした。
  けれどここで座り込んだまま、エースケくんの背中を見送ってしまったら……終わりだと、
  思ったんです。
  エースケくんは、立ち止まって、ちゃんと振り向いてくれました。
「もうっ……! もう、勝手におうちに入ったり、しませんからっ……絶対にっ」
  あは、ははっ。
  そうです……悪い所は、全部、治しちゃうんですから、わたしっ……!
「何でも、エースケくんの言うこと、何でも聞いちゃいますよっ!?」
  ひ、ひひっ!
  胸に手を当てて……ゆっくりと、歩きます。
「それこそ、死ねと言われれば喜んで死にますしっ……お料理も、お洗濯もっ」
  あびゃ、びゃっ……。
  亀裂が……心臓に、亀裂が……。エースケくん、なんで、そんな蔑むみたいな視線なんですっ……?
「――っ! そ、そうですっ! そこの女なんかより、ずっとっ……エースケくんを
  気持ちよくできます、わたしっ」
  駆け出す。
  エースケくんの胸に飛び込んで、手を――エースケくんの、ズボンに。
  わたしが、今すぐ、出してあげます、うふ、ふふふっ……。
「いい加減にしなさいよっ!」
「――きゃうっ」
  鈍い、そして重い痛みが……頬から駆け抜ける。
  気付けば……わたしは倒れていました。
  ――あの害虫に、殴られた、みたいですね……っ?
「あぐぅっ……。邪魔しないで、くださいよっ」
「邪魔なのは、あんたじゃないのっ……! このストーカーっ!」
  さっきから、うるさいなあ。
「ストーカーだなんて……あははっ。私は、違いますよぉ……っ?」
「じゃあ……なんだって、言うの」
  頬が痛い、エースケくんに撫でてもらいたい。
  ……ゴムを外して、髪をばらします。
  この髪型やめます……普通のロングにしましょう、今日から。
「私は……エースケくんの、彼女になるべき存在です」
「はあっ……!?」
「――いたり、先輩っ……?」
「だから」
  ふらつきながら、立ち上がります。
  垂れた前髪で片目が隠れました……見にくいなあ、エースケくんが。害虫はどうでもいいですけど。
  あはっ……自然に、笑みが出ちゃいます。
「ずっと一緒です、エースケくん……っ。見てますから、私」
「――えっ」
「ずっと……見てますから。うふっ、はは、ははっ……あはは、ははっ!」
  あは、ははは、はははっ――!

 にやぁ――り。
  三日月に歪む、口元。

「これは断言……もしくは宣言。または予言、預言と思ってくださいねっ……?」

「私とエースケくんは幸せになれます」

「けれど――有華さんとは、なれませんよっ……絶対に」

 雨が――降出した。
  髪を濡らしながら、少女は告げる。

「だからエースケくん……私はいつでも見てますからっ……」

「幸せになりたかったら――いつでも、私の名前を、呼んでくださいねっ……?」

 雨足は、激しさを増していく。
  響くのは――哄笑でもない、嘲笑でもない……っ。
  何処にもゆかない……純粋な嗤いだけ。

 

 あははははははははははははははははははははははははははははははは
  はははははははははははははははははははははははははははははははは
  はははははははははははははははははははははははははははははははは
  ひゃははははははうははひゃはぐひゃははああはひゃひゃひゃっ――!

 幸せになりたかったら――いつでも、私の名前を、呼んでくださいねっ……?
  狂気を垣間見えさせる笑みを張り付かせ……雨に打たれながら、慟哭もしないで言った、先輩。
  ……振り返る。
  ドアは閉まっている。――僅かに響いて聞こえるのは……っ。
  笑い声……なのかっ……?
  なんでだよっ。有華を連れてきて、目の前で有華の気持ちに答えてまで、
  先輩の気持ちを否定したのに……っ!
  諦めるって言葉を……知らないのかよ、いたり先輩はっ……!?
「――エー兄ぃ……っ!」
「おわっ」
  有華に抱きつかれて、危うく転びかけた。
  見下ろすと、濡れた頭頂部。……震えている?
「ひっく……えぐぅ……っ。酷いこと、いっぱい……言っちゃって、ごめんねっ……」
「あ、えっと……っ」
  あほとか、うるさいとか、俺にしたら言われ慣れてるんだけどな……。
  こうやって改めて抱きつかれると、か弱いんだなって、再認識する。――こんな俺の言葉で、震えて。
「あははっ……。ら、らしくないぞ有華っ……?」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……ひぐっ」
「いいんだよ、俺が悪かったんだから」
  努めて微笑を浮かべながら、頭を撫でてやる。
「うん……っ。ありがとうエー兄……あたし、すごく嬉しいっ……」
  有華が――俺を見上げて、微笑んだ。
  ともかく……あそこまで言ったんだ。
  もうこれで終わりだ。そう信じよう……いや、きっとそうなるっ……。
  内心まだ青ざめながら……俺も、ゆっくり微笑みを返した。

10

 幸せになりたかったら――いつでも、私の名前を、呼んでくださいねっ……?

 そんな台詞を吐いた先輩の眼球が、濁っているのは、俺の錯覚なんだろうか。

 起床は最悪の一言に尽きた。
  夢なんか時々見ても、『見た』という事実だけしか憶えていなくて、その内容は
  いつも明確に記憶していない。
  なのに今日の悪夢は――酷く現実味を帯びていて、はっきりと思い出せる。
  眼前には、いたり先輩がいた。
  そして何回も、理解を求めるのではなく強制を催促しているのではないかと
  疑ってしまうくらいに、繰り返し俺に言うのだ。

 私の名前を呼ばないと、幸せには、絶対になれませんよ……エースケくん。

「いたり……っ、先輩」
  ベッドの上。上半身だけを起こした姿勢で、試しに呟いた。
  これで――こんな名前を呼ぶだけの行為で幸福に至れるのなら、
  人間は苦労なんてしないんだよ……っ。
  まるで自分の名前だけは、神聖な魔法の言葉だとでも伝えているかのよう。
「ありえないって……わかってて言ってるんですよね、先輩」
  時計は六時の二十六分。
  寝汗が酷いので、今朝はシャワーの洗礼を受けなければ。
  今日から、有華と登校だからな。

「どうもっ。エー兄の彼女のあたしです」
  チャイムに、ドアを開ければそんな第一声が飛んでくる。
  谷川有華はやたらと笑顔で、そこに立っていた。
「彼女っ……?」
  ぼんやりと、噛み締めるように呟く。
  俺は――そうだ。有華は、俺の彼女――なのだ。
(なんで俺は……いま、違和感なんか、感じて……っ?)
  ここ数日で、あまりにも周囲の状況が変化し過ぎてしまったから……疲れてるんだな、俺は。
「――エー兄。どうしたの、ボケッとしてさ」
  有華が上目に、俺の表情をうかがってきた。
「あ、ああ……っ。い、いやはや、実はちょっと悪夢見ちゃってさ、今朝は目覚めが悪かったんだよ」
「悪夢……っ? へえ……どんな悪夢だったのっ?」
  昨日の――とは続けられず。
「え、ええっと……っ」
「――あの女の妄言が、夢に出ちゃったりした……っ?」
  有華の表情から……その台詞と同時に、感情が消え失せる。
  俯いたまま、俺の返答を待っている様子だった。
「ち、違う、違うって。そんな悪夢じゃなくて、こう、その……っ」
「まさかとは思うけど、一応聞くね、エー兄」
  要領のまとまらない俺の言葉は無視して、有華はスキップするように、まずは一歩だけ後ずさる。
  そして――その、能面みたいな表情を持ち上げて、無機質の視線で俺を見据えた。
「あんな……頭のねじが十本くらいぶっ飛んでるストーカーの変態女の言葉を――欠片でも、
  信じてないよね……っ?」
「――っ」
  何故か……心臓が、爆ぜるように蠢いた。

 有華に倣うように……俺も、後ずさった。
  なんだよ……っ。非難の意思をひしひしと感じるのは……俺の自意識が、過剰なだけなのか……っ?
  俺は――有華に叱られているっ……?
「し、信じるわけ……ないじゃんか、はははっ」
「うん。私とは絶対に、幸せにはなれないなんて……っ。ほんと、自分の行動
  顧みて発言しなさいよって、感じだよね」
  露骨なまでの、悪意……っ。
  俺には、有華の背後に――漆黒の、もやもやした空間が、見えた。
「エー兄は……あたしのこと、すきって、言ってくれたよね……っ?」
  今度は、昨日の確認か……っ? 今更言わせないでもらいたかった。
「言ったよ」
「じゃあ……絶対に、誓って」
  近付いて、有華は俺の両手を自分の両手で掴んだ。
  がっしりと――万力を想起する、ありったけの力で以て。
「――あたしの手と、エー兄の手はね、指先から溶けて手首まで混ざり合っちゃったの」
「は、はあ……っ?」
「仮定の、あくまでイメージでのあたしとエー兄だよっ?」
  それくらいわかるわっ。人間同士が溶けて混ざり合うなんて……っ。
「もう……ずっと、離れないで……っ」
「ゆ、有華っ?」
「ずっと、一緒に……手が、こうやって繋がる距離で……っ。いるって、誓って」
  有華が俺を見上げてくる。
  ――ここで、安易に頷くのは簡単だろう。けれど、それを実践するのは……
  果たして絶対にと言い切れるのか。
  などと高一の分際で生意気に悩んでいると。
「離れたら……繋がってる部分の肉が千切れて、血が出ちゃうの」
「――ゆ、か……っ?」
  有華の爪が、手の甲にめり込んでくる。……痛かった。
「いっぱい、いっぱい出ちゃうよ。出血で死ぬくらいには、確実に……離れて千切れた部分から、
  迸るの……どぴゅ、どぴゅどぴゅ、って、噴水みたいに」
「有華……っ。痛い、痛いって」
「――絶対に死ぬよ。どちらか片方でも、お互いから離れたらっ……!」
  ど、どうしたんだ……っ!?
  いい加減離してもらおうと腕に力を込めるが……そうすると、肉に爪がさらに食い込んできて、
  なお痛かった。
  ついには――赤い線が、手の甲に走ってしまう。
「だから――鮮血の海に沈みたくなかったら……っ。あたしから、離れたら駄目なんだよ、エー兄」
「わ、わかった、わかったから、離してっ……!」
  俺の了解をずっと待っていたのだろう、その一言を引き金に、有華から力が抜け落ちる。
  手の甲と、有華の人差し指の爪に……同じ色が、ある。
「うんっ。あたしだって死にたくないから、もう絶対にエー兄から離れないよ……
  だから、安心してね」
「あ、ああ……っ」
「じゃあ、行こうっ。ほらほら、さっさと鍵を閉めるっ!」
  ――何かが、おかしい。
  この、有華の一変した雰囲気は……なんだったんだろう。
  それに。
  有華の誓いは……つまり、離れるという表現は、別れるという意味で捉えるのだろう。

 もしもエー兄があたしと別れるようなことがあれば……エー兄を殺して、あたしも死ぬ。

 この意訳は……あまりにも、誇大に表現しているかもしれない。
  けれど――この手の甲の痛みが……まさにその通りだと、俺に訴えているようでならない。
  鍵を閉める俺の背後に、視線を感じる。
  振り返ると――有華は微笑んだ。

 誰かに酷似したような……三日月の、口元。

To be continued...

 

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