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メトロノーム(仮)



1

 弥凪 祈深歌(やなぎ きみか)は年下の幼馴染の陽崎 流矢(ひざき りゅうや)の事が誰よりも好きだった。
  だが其の思いが強ければ強いほどに自分に対する不満も大きかった。

 どうして自分はこんなに背が高いのだろう。 こんなに高くちゃ流矢クンと一緒に歩けない
  どうして自分はもう二年遅く生まれなかったのだろう。 そうすれば流矢クンと一緒の学年になれたのに。
  どうして自分はこんなに引っ込み思案なのだろう。 お陰で流矢クンに私がどんなに
  好きなのかも伝えられない
  どうして、どうして……そうすれば、そうすれば幼馴染の流矢クンともっと……。
  祈深歌の心にとめどなく尽きることなく沸いてくるのは自分への不満。

 そうして自虐的であるあまり祈深歌は自分の良い点すらも見えていなかった
  確かに背丈は174と女性としてはかなりの長身であったが、其の分プロポーションも抜群だった。
  顔だって十分美人であった。だから好意を抱き告白を試みた男子も何人も居た。
  だが皆告げる前に祈深歌が脅えて逃げてしまった為想われてたことすら彼女は知らなかった。
  2歳年上なのを気にしてるが、其のお陰で流矢に姉のように慕ってもらえた
  引っ込み思案でもあったが、だからこそ流矢に何時も気遣ってもらえた
  そうした事にすら気付けないほど自虐的であった。

 特に身長に対するコンプレックスは大きかった。 ちなみに流矢の身長は163。
  祈深歌にとってこの11センチ差はとてつもなく大きく感じられた
  こんなに身長差があっては一緒に並んで歩くだけで流矢を傷つけてしまうのでは、
  そんな躊躇いの心が生じる。
  本当は誰よりも好きで何時だって一緒に居たいくせに。
  そのくせやっぱり一緒に居たくて、離れて見つめてるのを見つかって結局一緒に帰ってしまう。
  一緒に並んで歩いてるとそれだけで幸せな気持になれる。
  でも嬉しい反面膨らんでくるのはコンプレックスと自虐心。
  一緒に並ぶと否応無く其の身長差を感じてしまうから。

 

 陽崎 流矢に対し想いを寄せている女性が二人いた。
  一人は先に述べた年上の幼馴染――弥凪 祈深歌。 もう一人はクラスメイトの三河 智依(みかわ ともえ)。
  中学校の頃も同じ学校で、二年、三年の時は同じクラスだった事もあり最も気心の知れた仲同士であった。
  共に過ごした二年間は智依の流矢に対する気持を友情から恋心へと昇華させるには十分だった。
  だから高校でも同じ学校でしかも同じクラスになれことを知った時は天にも昇る心地であった。

 だが、すぐ知ることになった。智依にとって大きな壁が、障害が、邪魔者が存在する事を。
  中学の二年、三年の時には居なかった流矢の二つ年上の幼馴染――弥凪 祈深歌。
  智依にとって祈深歌はとてつもなく目障りだった。
  中学の頃、智依と流矢はいつも一緒だった。
  お昼休みの時だって机を繋げて一緒に食べ、時には智依がお弁当を作ってあげてたほどだ。
  だが高校に入り祈深歌が同じ学校に現れた途端に流矢は祈深歌にべったりになった。
  祈深歌と流矢にしてみれば小学校から繰り返してきてた当たり前の事だったのだろう。
  だが智依にしてみれば後からやってきて自分と流矢の二年間をあざ笑うかのように見えた。

 悔しくて、憎くて、恨めしくて、妬ましくてしょうがなかった。 だが押さえた。
  ココであからさまに気持をぶつけても多分悪い方向にしか働かない事が容易に想像できたから。
  だから伺った。 何か自分が付入る隙が無いだろうかと。
  そして気付いた。 祈深歌が自分の背の高さにコンプレックスを抱いている事を。
  それが原因で心の内を明かせずにいることを。
  このことを上手く使えば付け込む事が出来るのではないだろうか
  そう思った智依は暫し熟考し、やがて行動に移す事にした。

 

「弥凪先輩。 ちょっと良いですか?」
  ある日智依は祈深歌に声を掛けた。
「はい、なんでしょうか? えっと……」
「陽崎クンのクラスメイトの三河 智依と申します」
  そう言って智依はにっこり微笑んだ。 そして続けた。
「お逢いした事ありませんでしたっけ? いつも陽崎クンと一緒に仲良くさせてもらってるんですけどね」
「そうですか。 流矢クンの……。 それで私に何の御用で?」
「ハイ、お聞きしたい事があるんです。 先輩と陽崎クンってどういう間柄なのかな、って」
「え、えっと……、その……幼馴染……です……」
  祈深歌は消え入りそうな声で答えた。

「ふ〜ん、幼馴染ですか。 本当にそれだけですか?」
  笑顔で尚も訊く智依。 だが其の仕草は訊くと言うより詰め寄るかのような異質な迫力があった。
「何が……仰りたいの?」
  祈深歌は自分よりも頭一つ分程も小さな年下の少女の浮かべる不敵な笑みに思わず気圧され、
  力なく聞き返す。
「いえ、若しかしたらお付き合いしてるのかな〜なんて」
「な……! そ、そんな……」
  智依の言葉に祈深歌は驚き思わず口ごもる。 そして智依は更に畳み掛けるように口を開く。
「そんなわけ有りませんよね〜。 だって先輩と陽崎クンじゃ一緒に歩いたって不釣合いですもんね」

「な、何が仰りたいの……?」
  其の声にいくらか怒気が含まれてるかのようだった。
  当然であろう。 あからさまにヒトのコンプレックスを付いてくるような挑発的な言動。
  だが智依はそんな祈深歌にまるで怯む様子は無く尚も不敵な笑みを浮かべそして
  一枚の写真を取り出して見せた。
  それは祈深歌と流矢が二人並んでいる所を撮ったもの。
「凄い身長差ですよね〜。 こんなんで街中歩いたら好奇の的でしょうね〜」
  言われて押し黙る祈深歌。 そんな祈深歌に向かって尚も口を智依は開く。
「そんな好奇の視線で見つめられちゃ陽崎クンも可哀相ですよね〜」

 押し黙り固まってしまった祈深歌に向かって智依はもう一枚の写真を取り出して見せた。
  それは智依と流矢が中学三年の時、文化祭の後夜祭でフォークダンスを踊った時のもの。
  並んで踊る二人の身長差はこぶし一つ分ほど。 勿論低いのは智依の方だ。
「どっちがより自然かなんて言うまでも有りませんよね」
  返事は無い。 写真を見つめる其の顔は俯き、うなだれてるようでもあった。
「私の申したい事わかりますよね?」
  尚も祈深歌は沈黙したままだ。
「分かりますよね? 先輩が陽崎クンを大事と思うならどうするのが一番いいのか」
  そう言った智依の顔は勝利を確信し勝ち誇ってるかのようだった。 そして踵を返し立ち去る智依。
  悠然と立ち去る智依とうなだれる祈深歌の二人は正に勝者と敗者のそれであった。

 智依の言い放った言葉は確実に祈深歌の心に深く突き刺さり其の心を苛んだ。
  言われた次の日から目に見えてはっきりと流矢を避け始めた。
  だがそれは同時に流矢の心をも苛むことになった。
  何故なら祈深歌が流矢を好いていたのと同じように、流矢もまた祈深歌を好いていたのだから。
  そんな流矢の姿に智依も心が痛まない訳ではなかった。
  だがそれよりも邪魔者が近づかなくなった事が嬉しく其の笑をかみ殺すのに必死だった。

 だが、未だ足りなかった。 この程度では何時お互いの誤解が解けてもおかしくなかった。
  現に未だ流矢の心の中には未練と、そして自分に何か落ち度があったのだろうか、
  仲直りできないだろうか
  そんな想いで一杯だった。
  だから智依は次の手を打つ事にした。

 

 ある日の午後。
「ねぇ、陽崎クンお願いがあるんだけどいいかな?」
「いいぜ、俺に出来る事なら」
  智依の言葉に流矢は笑顔で応える。
「あのね、放課後ちょっとでいいから付き合ってくれる? 実は校舎裏に落し物しちゃったみたいなんだ」
「校舎裏? そんな所になにを?」
「実はね栞落っことしちゃったんだ。 風にさらわれてぴゅ―って飛んでいっちゃって……」
「栞? そんな栞ぐらい……」
「とってもよく出来たお気に入りの押し花の栞なの……」
  そう言った智依の沈んだ悲しそうなものだった。
「そうか……。 うん、分かったじゃぁ放課後に一緒に探しに行こう」

 そして放課後、二人は裏庭へと向かう。 そして向かった先には二人の男女が居た。
  一人は流矢が良く知る、そして心の中に秘めた思いを抱く女性――弥凪 祈深歌。
  もう一人は流矢の知らない男。
  だが祈深歌に負けないぐらいの長身で顔立ちも整っておりまるでモデルのようだった。
  一体誰なんだあの男は――そんな事を流矢が考えてると智依が小さく囁きかけてきた。
「ねぇ、若しかしてコレって告白の場面に遭遇しちゃったのかな?」
  告白――其の言葉を聞いた瞬間流矢の顔が引きつる。 そして其の変化を智依は見逃さなかった。
「二人共背が高くってまるでモデルみたいね。 そんな長身同士並んでると絵になるよね」
  其の言葉に流矢はまるでハンマーで殴られたかのような衝撃を受ける。
「どっちから告白したんだろ? でもすごくお似合いよね。 そう思わない?」
  その言葉を聞き終わるより先に流矢はその場を逃げ出すように駆け出していた。
  其の顔は今にも泣き出しそうなほど、いや既に堪えきれなくなった涙が溢れ出していた。
  すかさず其の後を追いかける智依。 智依もまた堪えていた。
  だがそれは流矢のそれとは全く正反対で、嬉しくて笑い出したいのを必死で堪えてたのだった。

 そう、あまりにも事が、謀ったことが思い通りに進んだ事が嬉しくって。

 智依は調べ上げた。 祈深歌に対し恋心を抱いてる人間を。
  其の中から選び出し告白するよう焚きつけた。
  そして其の場面を流矢に目撃させる。
  おそらく告白は間違い無く成就しない事は想像できた。
  だが二人一緒であるところを見せればそれだけで十分な効果を得られる事も予想できた。
  祈深歌が背の高さにコンプレックスを抱いてるように流矢も同じ様な悩みを抱いてるはずだ。
  加えてここ数日間避けられてると感じさせる二人の間柄。
  そんな所に
<二人共背が高くってまるでモデルみたいね。 そんな長身同士並んでると絵になるよね>
<どっちから告白したんだろ? でもすごくお似合いよね。 そう思わない?>
  そんな言葉を聞かせれば脳内で勝手に一つの答えを組み立ててくれるだろう。
  そして結果は予想通り。 おっと、未だことが全て完了したわけでない。

 裏庭から十分に離れた事を確認した智依は追いかけるスピードを上げた。
  そして流矢にしがみつくように捕まえる。 そして声色にありったけの演技を込める。
  謝罪と哀願を含んだかのような色を載せそっと囁く。
「ゴメンね……。 私が裏庭になんて誘い出しちゃったばっかりに嫌な想いさせちゃって……」
「違う! ……違うよ。 三河は何も悪くなんか……」
  そして流矢はそのまま泣き崩れた。
  智依はそんな声を上げて泣きじゃくる流矢を優しく抱きしめる。
  そして泣きじゃくる流矢からは見えない智依の顔には満面の笑顔が浮かんでいた。
  勝利者としての余韻を噛締め喜びに浸る満面の笑顔が。

2

 程なくして流矢と智依は付き合い始めた。
  失恋(したと勘違い)した流矢の心の隙に付入り交際にこぎつけるのは造作も無い事だった。
  ましてや失恋直後の一番心が脆い時にそばに居て慰めてあげたぐらいだ。
  そして完全に流矢の心を獲得する為に智依はありとあらゆる手を使って尽くした。
  やがて肉体関係を持つようにまで到った。 勿論お互い初めて同士だった。
  だがそれでも未だ完全には安心しきれなかった。
  流矢の視線に未だ未練が読み取れたから。 時折遠くからそっと祈深歌を見つめるその眼差しに。
  それが悔しかった。 体をモノに出来ても未だ完全に其の心を掌握し切れないのが腹ただしく、
  そして、妬ましかった。
  完全な確証に足るものが欲しかった。 何があっても切れず流矢を繋ぎとめられるだけの……。

 

 ある日の昼、いつものように二人仲良く昼食をとっている時だった。
  突然智依が席を立ち口元に手を当てトイレに駆け込んだ。
  暫らくして戻ってきた智依の顔は気分悪そうに蒼ざめながらも、
  どこか満足げな笑みを浮かべてるかのよう。
  其の笑みに流矢は何か空恐ろしいものを感じた。

 まさか……、イやそんなはずは無い。
  一瞬脳裏に浮かんだ妊娠の二文字。 だがそんな訳が無いと頭を振って否定する。
  何故なら流矢は其の事にはいつも細心の注意を払っていたのだから。
  必ずどんな時も避妊具の装着は怠らなかった。
  無い時はきっぱりと断わったし、今日は生でも大丈夫だと誘われた時も必ず使用を怠らなかった。
  だから妊娠などありえるわけが無かった。
  じゃぁ、他の男……? いや、それも考えられない。
  自分が見た限りではそんな様子は全く見当たらなかった。

 どう考えてもありえない。 頭の中で何度考え直しても自分の避妊対策は完璧だったはずだ。
  危険を冒す様な真似はしなかったはず。 それなのに心の中の不安は決して消えてはくれなかった。
  万全を期したつもりでも漏れがあったのではないのだろうか……。
  だからと言って直接そんな事訊く事も出来ず、それで尾行みたいに付回す真似をしてしまった。

 そしてやがてそれを確信させる場面を目撃する。 それは産婦人科から出てきた智依の姿。
  其の顔には満面の笑みを浮かべ、お腹には何か大事なものを抱えるようにそっと手を添えて。

 

 流矢の避妊に対する心がまえは非常に確固たるものだった。
  智依が危険日を安全日と偽って誘った事も一度や二度ではなかった。
  だが一度として其の誘惑には乗ってこなかった。
  それで智依は反則的ともいえる方法を用いた。
  行為を終えて流矢が帰ったあと、あるいは寝静まった後使用済みの避妊具をゴミ箱から取り出す。
  いつも使用済みの避妊具を捨てるゴミ箱の底にはあらかじめ保冷材などを敷き詰めておいた。
  そうして鮮度が十分に保たれた精子を直接自分の子宮に流し込んだ。
  奥の奥まで其の指でシッカリと擦りつけるように流し込んだ
  行為を行うたびに必ずそれを欠かさなかった。 そして努力の甲斐あって無事妊娠する事が出来た。

 

 呆然とした表情の流矢とは対照的に満面の笑みを浮かべる智依。
「い、一体何時からその、に、に……」
  口ごもりながら問う流矢に対し智依はにっこり笑って応えた。
「8週間――つまりは二ヶ月よ。 だからね私達あと八ヵ月後にはパパとママになるのよ」
  そう言った直後流矢は安堵の息を洩らし口を開いた。
「二ヶ月……。 なら未だ十分間に合うな……」
  其の言葉に智依は一瞬聞き間違えかとわが耳を疑う。
  だが次に流矢がした行動はそれが聞き間違えなどではないコトを確信させるものだった。
  流矢は両手両膝をつき額を地面に擦りつける。 そして口を開く。
「頼む! 堕ろしてくれ!」

 妊娠――其の事を知った瞬間流矢の脳裏に浮かんだのはそれは一種の恐怖にも近い感覚だった。
  確かに付き合ってる以上嫌いではない。 好きか嫌いかでとわれれば好きなのだろう。
  だがこれから先一生付き合っていくと言う覚悟を決められる程に好きなのかと問われたとして、
  其の問いに無条件でYESと応えられるほどではなかった。
  何よりココでYESと言ってしまえば祈深歌との縁が永久に切れてしまうのでは。
  確かに今は其の縁が切れかけてるようなものではあるが、でもコレで本当に完全に切れてしまうのか。
  そう思うと寂しく、悲しく、そして恐ろしくすらあった。 だから咄嗟に出てしまった。

 ――堕ろしてくれ、と。

 だが其の答えに智依が納得できるわけが無かった。
  確実にコレで流矢の心をモノに出来ると思っていたのに。
  それなのに、モノにするどころか……。
「イヤ……。 絶っっ対にイヤよ!! 何があったって絶対に産むんだから!!
  そして流矢クン、貴方には絶対に責任取って貰うんだから!!!!」
「頼む、冷静に俺の話を聞いてくれ! 俺達未だ若いんだ、若過ぎるんだよ!」
「イヤ!イヤ!イヤアアアァァァァッッッ!!!」
  錯乱気味に智依と、必死に説得を試みようとする流矢。 そんな二人の耳に甲高い音が飛び込んでくる。
  それは車のクラクションの音。 気付けばお互い激しく言い合い揉み合ううちに道路に出てたのだ。

 突然の事に硬直し動けなかった智依。 一瞬脳裏に浮かんだのは死の恐怖。
「危ない!!」
  流矢の叫び声と音に智依の体に衝撃が走る。
  だが其の衝撃は自動車の衝突によるものではなく流矢がが突き飛ばした事によるもの。
  結果自動車にはねられる事も引かれる事も無かった。 だが……
  流矢はそうはいかなかった。 智依を歩道側へ突き飛ばすのが精一杯で結果まともに車の衝突を受ける。
  凄まじい衝突音。 鳴り響く甲高いブレーキの音。 強い衝撃に吹き飛ばされ宙を舞う流矢の体。
  やがてドサリと地面に落ちた流矢の体の下からは血が溢れ出し血溜りを作る。
「イ……、イヤアアアァァァァ!!!!」

3

 急遽担ぎ込まれ数時間にわたる手術の後、流矢は一命を取り留めた。
  完治するまでは数ヶ月を要すものの幸い脳への後遺症も無い。
  リハビリも必要とされるだろうが手足も元通り動くようになると言う。

 そして流矢が身を呈して護ってくれた為智依の怪我はかすり傷と軽い打撲だけで済んだ。
  それこそ軽くバンソウ膏とシップを張る程度で済むもの。
  だが智依にとっては絶望的ともいえる状況に陥ってしまった。
  そのときの衝撃と目の前で流矢が刎ねられたのを目の当たりにしたショックで流産してしまった。
  流矢を繋ぎとめる為の切り札を失い、挙句自分のせいで大怪我を負わせてしまったと言う
  負い目まで負ってしまった。

 自分の怪我で大怪我させてしまった。 其の負い目ゆえに見舞いに向かう足が重い。
  だがそれでも智依は怯む気持を無理矢理にでも奮い立たせ病室へと向かう。
  負い目をつくり、切り札までも失った今だからこそココで怯んでしまってはいけない。
  ココで怯めば完全に失ってしまうのだから。 やはりどんな状況に陥ろうともそれでも
  諦める気持にはなれない。

 病室へ足を踏み入れるとそこには全身包帯とギブスで身を固め痛々しい姿で眠りに付いた
  流矢の姿があった。
  そしてそんな流矢の傍らには一人の女性の姿があった。 それは流矢の幼馴染祈深歌であった。
  祈深歌は智依の姿に気付くと立ち上がり軽く会釈をした。
  そのとき流矢の口から小さな声が漏れる。 おそらく寝言なのだろう。
  だがその時口から漏れた名前。 それは……。
「祈深歌――」
  智依は其の言葉を耳にした瞬間表情が凍りついた。
  そんな智依とは対照的に祈深歌は流矢の髪をそっと撫でると智依の本へ歩み寄ってきた。
「少しお話しましょうか」

 智依は祈深歌に連れられ待合室へと来た。
「わざわざお見舞いにきていただきありがとうございます。 ですが、もう来ないで下さい」
  祈深歌の言葉に思わず智依は声を上げる。
「な……! なんで先輩にそんなこと言われなきゃいけないんですか! 私は流矢クンの恋人ですよ!
  先輩の方こそ、そんな資格……」
「知ってるんですよ。 全て……ね」
「し、知ってる? な、何を知ってると言うんですか……」
  必死で言い返すも言葉には力がこもっていない。
「貴方のせいで流矢クンがこんな大怪我を負ってしまったと言う事」
  静かで穏やかな口調であるが其の声にははっきりとした非難の色がこもっている。

「ち、違う! あ、あれは私のせいなんかじゃ……。 そ、それに仮に私のせいなのだとしたら……
  だったら余計に尚の事私は見舞うべきなんです! つ、償う為にも……」
「健気ですね。 傍から見れば……ですが」
「な!? どういう意味ですか!?」
  かっては物ともしなかったのに、今は其の身長差で見下ろされる視線に呑まれそうになってしまう。
「ココで尽くしてみせれば流矢クンの気持を繋ぎとめられると思っているんでしょ。
  でもね私の目の黒いうちはそんな真似させないわ。 それに、聞いたでしょ?
  さっきの流矢クンの寝言」
「う……。 で、でも流矢クンと先輩とじゃ……!」
  遮るように祈深歌は口を開く。
「169」
「な、なんですか? 一体……」
  突然祈深歌が口にした数字が一体何を意味するのか分からず智依は戸惑いの声を発す。
「分かりません? 流矢クンの今の身長です」
  言われて智依はハっとする。

「成長期の真っ最中なのね流矢クン。 入学から数ヶ月で6センチも大きくなったなんて。
  お陰で入学時11cmもあった身長差もいまや5cm。 それも時間の問題、
  きっとまだまだこれからも伸びるわ。 そう、私以上にね……」
「そ、そんなの只の希望的観測……」
「流矢クンが私に言ってくれた言葉よ。 とっても前向きな口調でね。 それにこうも言ってくれたわ。
『生死の境を彷徨って気付いたんだ。 俺、やっぱり祈深歌が好きだ』ってね」
  祈深歌の言葉を聞き智依の顔が蒼ざめる。
「そしてそれは私も一緒。 流矢クンが大怪我を負ったと聞いて居ても立ってもいられなくなったわ」
  そう言うとにっこりと、だがどこか挑発的な笑みを浮かべて続ける。
「ご苦労だったわね。 今まで散々小ざかしい真似して来てくれたみたいだし、
  自分に自信がもてなかった私にも非があるけど、でももう私は引きませんから。
  では私は病室に戻ります。 流矢クンが起きた時私がいないと寂しがりますので」

 

 どうすれば、どうすれば、どうすれば……
  最早状況は180度変わってしまってた。 既に智依には先日までの優位性など微塵も無い。
  コンプレックスを逆手にとった優位性ももう通じない。 体に宿した切り札も流れ堕ちてしまった。
  挙句自分のせいで大怪我を負わせてしまったと言う負い目
  何か、何か、何か……何か方法は……。
  だが幾ら考えを廻らせても答えは出ない。

 あの女さえ、あの女さえ居なければ……。
  居なければ……?
  そうか。
  あの女さえ居なければ良いんだ。
  居なくなれば良いんだ。
  ……消しちゃえばいいんだ。

 

 祈深歌は最近やたらと嫌な視線を感じていた。 視線の主は――解かっている。
  かって、私から流矢クンを奪い大怪我まで負わせた憎たらしいあの女――三河 智依。
  すごく気持悪くてすごく嫌な感じ。 それに何だか寒々しくてゾッとする。
  もっとも祈深歌は其の気持分からないでもなかった。
  何故なら少し前まで全く同じ様な気持ちを抱いていたのだから。
  だから其の気持は良く解かっている。 解かっているからこそ決して遠慮や同情するつもりなど無い。

 きっと殺したいぐらい自分の事を憎んでいるのだろう。
  いや、あの女のことだ。 比揄などではなく本当に殺す機会を探しているのだろう。
  階段ですれ違った時。 駅のホームで電車を待ってるとき。 夜の帰り道。
  そんな時、殊更視線を強く感じるのだから。

 最初は祈深歌は其の事に恐ろしくなり震えもした。 だが時が立つに連れ段々腹が立ってきた。
  私から流矢クンを汚い手で奪っておきながら、挙句やっと取り戻した大切な時間。
  それを逆恨みし、挙句私を殺そうとまでしている。
  でもむざむざ殺されたりはしない。 そっちがその気なら

 ――返り討ちにしてあげる。

 忌々しい!忌々しい!忌々しい!!忌々しい!!忌々シい!!!忌々しイ!!!忌々シイ!!!!忌々シイイイ!!!!!
  あの日以来智依の心の底ではどす黒い殺意が絶えず渦巻いていた。

 あの女。 こっちが折角殺してやろうと覚悟を決めたと言うのに全然隙を見せない。
  ホームで電車を待ってるときも電車が到着するまで線路側に決して近づこうとしないし、
  他にも階段ですれ違った時、駅の踏み切り、横断歩道……。 
  まさか気付かれている?
  確実に殺る為にはもっと気配を殺さなければいけないと言う事か。でもとても無理だ。
  時や場所を弁えるだけで精一杯だ。
  でも、これ以上我慢してると爆発してしまいそうだ。 白昼人前でだろうと……。

 そんなある日のこと交通量が激しい道路、横断歩道の前に祈深歌は居た。
  智依が其の後姿を見紛う筈など無い。
  女性としては高いすらりと伸びた背、ここ数日ずっと睨み続けてきた忌々しい背中。
  いつもはもっと距離を置いてるくせに油断したのだろうか、其のマヌケさに思わず笑みがこぼれる。
  あの位置なら後ろから勢いよく突き飛ばせば――殺れる。
  おあつらえ向きに道路の向こう大型ダンプも見える。 あれに引かれれば確実に死んでくれるだろう。
  迫り来る巨大な鉄の塊。 あと20m…… 10m…… 5m……。
  今だ!
  智依は一歩踏み出し勢いよく手を突き出した。

 だが直前で其の背中が横に動いた。
  結果智依の手は目標を見失い、勢いを止められぬまま体は前のめりに宙を泳ぐ。
  加えて更に足首に払われたような軽い衝撃を感じ、一気にアスファルトの地面が目の前に迫る。
  投げ出された体は道路にうつ伏せに叩きつけられる。
  慌てて起き上がろうとした智依の目に飛び込んできたもの。
  それは凄まじい速度で回転し迫り来る黒くて大きくて硬いゴムの塊。
  智依はそれが大型ダンプのタイヤだと認識することは永久に無かった。

 何故ならそれを認識する頭は其の瞬間ダンプのタイヤによって
  原形を留めぬほどに潰されてしまったのだから。

 

 END

2006/06/29 完結

 

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