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紅蓮華



前編

 私のおにいちゃんは、昔から何をやっても大した努力もせずにそれなりの評価を得ることができる人
  でした。
  天才という程ではないにしろ、勉強も運動も同年代の子達よりは少し上の結果を残し、
  だからなのか性格も道化的というか、それほど熱心に取り組んでいる姿を見た事がありません。
  ――必要がないからしないだけだ。いつか私がその事を指摘した時、おにいちゃんが言った言葉です。
  そんなおにいちゃんにも一つの非凡な才能がありました。
  人が地面に足をつけた時から備わっていた力。走ることです。
  綺麗なフォームを崩さずに地を蹴り、誰よりも疾く駆けるあの人の姿を私はずっと隣で見てきました。
  生まれつき身体が弱くて、よく病気にかかってしまい、外出できなかった私の手を引いて、
  おにいちゃんは何度も外に連れ出してくれたのです。
  今もグラウンドを駆けるあの人の姿を見る度にそのことを思い出してしまいます。

 ――真っ赤な、赤いバラと一緒に……。

 

 

 ――ピ!
(あっ!)
  あの人を眺めていた私は、突然聞こえた笛の音に我にかえりました。
  あぶない、あぶない……。思わず魅入ってしまっていたようです。
  離しかけていたストップウォッチを強く握り、走り出した先輩に視線を戻します。
  軽快でリズムに乗った駆け音。
  真っ白い運動靴が白線にその色を重ねたときが私の仕事の時間です。
  ――カチッ

「はぁ、はぁ……」
「先輩、今のが最後の一本です。お疲れ様でした」
  零コンマ単位でもずれてないだろうストップウォッチとタオルを手に、先輩に近寄ります。
「ふぅ……えぇ、お疲れ様」
  立ったまま自分の膝に手を重ねて息を切らせている先輩に、記録が見えるように
  ストップウォッチの画面を見せ、ついでにタオルも渡します。
「凄いですね。最後に今日最高のタイムが出せるなんて……」
「ふふ、長距離に転向した方がいいのかしらね」
  先輩は私の差し出したタオルを受け取りながら、微笑んでくれました。
  いつ見ても凄く笑顔が愛らしいです。彼女目当てに入部する生徒が多いのも分かる気がします。
  普通の女性なら羨ましくも感じるでしょうが、「ろくな男と付き合ったことがない」
  と嘆いていたこともあり、先輩は先輩なりに疎ましく思っているらしいです。
  そう考えると、ずっと心に決めた大好きな人がいる私は得なのかもしれません。
  そんなことを思っていた時です。

 

「よっ! お・つ・か・れ」
「ひゃうっ?」

 な、なに!? 突然私の肩から何かが出てきて声を……。
  声を…………って……。あ……。
  ――トクン
  その人の顔を確認した途端、急に心臓が高鳴り始めました。
「あら……」
「お……おにいちゃん……。男子も今終わったんですか?」
  肩から生えてきた顔は、思い切り馴染みがあるものでした。
「おう、もう汗でびしょびしょだ」
「お疲れ、桜木くん」
  返事とばかりに、おにいちゃんは私の反対側の肩から手を出して振っています。
  私から見ると、まるで本当に肩からおにいちゃんの手が生えてきたみたいです。
  しばらくボーっとその手を愛おしく眺めていたのですが、それに先輩は気が付いたのか、
  上品に口を手に当てながら笑ってきました。
  恥ずかしくなった私は急いで視線を逸らして、表情を整えます。
「それはお疲れ様でした。どうりで肩が湿ってくるはずですね」
「おお、首筋の汗が気持ち悪くて気持ち悪くて」
「つまり私の肩をタオル代わりにしてるということですか?」
「まさにその通りだぜ、マイシスター」
「退けてください」
「しかしな、マイシスター」
「退けてください」
「……あい」
  おにいちゃんは渋々といった様子で私の肩から顔を離しました。
  あ……あぁ……。おにいちゃんの熱がなくなっちゃう……。
  いつも余計なことばかりを言う自分の口に何かを突っ込んでやりたくなりました。

「ふっ、テンドンか……。我が妹ながらあっぱれ」
「なに訳の分からないこと言ってるんですか? ほら、先輩も呆れてますよ?
『なんでこんな人が長距離のエースなんだろう』って」
「お前な……時に言葉は暴力より深い心の傷痕を……」
「クスクス、華恋はお兄さんに厳しいわね」
「だって先輩……」
  はぁ……また、やっちゃいました……。どうしてこうなっちゃうんでしょう……。
  好きなのに……ううん、そんな言葉じゃ表せないぐらい、おにいちゃんのことが大好きなのに、
  素直になれない自分が凄く憎らしいです。
  自覚する前はこんなに素直じゃないわけじゃなかったのになぁ。
  おにいちゃん……ごめんなさい。
「おにいちゃんが私の肩で汗を拭うから悪いんですよ」
  この服、洗うのもったいないですよね……。うん、決めました。
  このシャツはこのまま私の部屋に飾っておきましょう。
  あはっ、これでずっとお部屋でおにいちゃんを感じることができますね。

 

「ありがとうございました〜」

 部活の終礼も終わって、陸上部の部員の人たちが様々な方向に散っていきます。
  私は真っ先におにいちゃんのところに向かいました。

 実はこの後の時間が部活中、一番の楽しみだったりします。
「おにいちゃん、グラウンド整備、行きましょう?」
  基本的に陸上用グラウンドの整備や部室掃除は一年生の仕事で、三年生である
  おにいちゃんや二年生の私がする必要などないのですが、マネージャーという立場の私が
  何もしないわけにはいきません。
  おにいちゃんはそんな私のために、毎日一緒に手伝ってくれるのです。
  今日も隣に並んでおにいちゃんを身近に眺めながら共同作業ができると、
  高揚を押し殺すことができませんでした。
  しかし、おにいちゃんは申し訳なさそうに頬をかくと、

「あ〜、行きたいのは出なんだが」
「出?」
「いや、山々なんだが……。もうすぐ定期考査のテストがあるだろ?
  受験生だし、これからちょっと友達の家に泊まりこみで勉強してくるんだ」
「え……?」
  思わず間の抜けた声をあげてしまいました。
  まさか断られるとは思ってなかったからです。
  それも……泊り込み?

「約束だし、あんまり待たせるわけにもいかないしな。……えぇっと……」
  おにいちゃんが困ったように言葉を濁らせます。
「あ、ううん。そっちの用事も知らないで、いきなりごめんなさい。……そうですよね。
  おにいちゃんは受験生なんだから私の手伝いなんてしてる場合じゃないですね」
  そう言いながらも、本当は嫌で堪りませんでした。
  本当は「そんな用事なんか放っておいて下さい」と言って、約束なんて破っても良いから、
  行って欲しくありませんでした。
  今日一日会えないなんて……寂しくて、切なくて、狂ってしまいそうです。
  そんなことを思っていたからか、少し皮肉っぽい言葉になっていることに、
  言った後で気付きました。
「悪いな」
  そう思うなら行かなきゃ良いですのに……。
  でも、遊びなんかが理由ならともかく、テストのために勉強しようとしているおにいちゃんを
  止めることなどできません。
  それにおにいちゃんは優しいから……言えば、無理にでも手伝ってくれそうです。
  おにいちゃんと一緒に居られないのは確かに凄く嫌だけど、あんまり無理を言って、
  嫌われたりしたら生きていけません。
  だから妥協案を出すことにしました。
「後日、ショッピング同伴。それで良いですよね?」
「……前向きに善処します」
「信じますよ」
「まぁ、政治家よりは信頼しててくれ」
  そこまで言って、ようやく私は笑顔を見せてあげることができました。
  おにいちゃんが私の頭をポンポン撫でつけます。私が言う事を聞いたときにいつもしてくれた
  小さい頃からのおにいちゃんの癖みたいなものです。
  少し気恥ずかしかったのですが、これだけは絶対に止めて欲しくないので、何も言わずに
  時間が許す限り撫でてもらいます。
  最後に毛並みに沿って頭を撫でてもらい、髪を整えさせると、ゆっくりとおにいちゃんの
  大きな手のひらが離れました。

「じゃ、あんまり遅くなる前に帰れよ」
「あ、うん」
  その何気ない気遣いが凄く嬉しいです。
  おにいちゃんは身を翻すと、先輩のいる正門へ走り寄って行きました。

 …………あれ? 先輩のいる?
  先輩は正門の柱を背にもたれかけ、誰かを待っていました。

 ――いえ、誰か、ではありません。
  おにいちゃんに手を振っています。
「おにいちゃん!」
  思わず少し大声になってしまいましたが、おにいちゃんは立ち止まり、特に気にした風でもなく、
  こっちに戻ってきてくれました。

「ん? どしたい」
「先輩と一緒に帰るんですか?」
「あぁ、あいつと帰り道途中まで一緒なの、お前も知ってるだろ?」
「それは知ってますけど……」
  何で先輩と帰るんですか。言いかけてすぐに口を噤みました。
  私がマネージャーとして入部してからは、私の仕事を手伝い、ずっと一緒に帰ってきた
  おにいちゃんですが、その前は同級生の人たちと帰りは一緒だったはずです。
  先輩とは同じクラスで仲も良い、ましてや同じ方向が帰路で、今日みたいに一緒に帰れる日なら、
  一緒に帰らない方が不自然かも知れません。
  お友達の家に行く前に一度私たちの家に寄るということを推測すれば、別に何もおかしいことはないです。
  でも……。

「本当に一緒に帰るだけですか?」
「馬鹿を言え。男がそんな健全な考えしか持っていないようなら人間は滅んでしまう」
「ふざけないで」
  私は冷たい笑顔を顔に貼り付けたまま言いました。
「あ〜……まぁ一緒に帰るだけだよ」
「何ですか今の間は?」
  しつこく問い続ける私におにいちゃんは悪戯っぽい微笑を浮かべます。
「冗談だって」
  それだけ言うと、さっさと正門の方へ再び走り寄っていきました。
  少し呆気にとられていた私はその後姿に聞こえないよう、ぽそりと呟きました。
「それも信じますからね」

中編

 正門まで歩み寄ったおにいちゃんは先輩に何かを話しかけています。
  声はおろか、二人の表情も良く見えませんが、楽しそうな雰囲気はここまで伝わってきました。
  その中で、おにいちゃんは私の名前を一度でも口ずさんでくれているのでしょうか。
  おにいちゃんの声が私の名前を呼ぶ度に、私の身体は愉悦に震えてしまいます。
  だけど今、私がおにいちゃんの声を聞くことはできません。おにいちゃんの隣は
  私じゃない人が占領しています。
  私じゃない人が隣でおにいちゃんの姿を見て、声を聞き、会話しているのです。
  もしもそれが先輩以外の女の人なら、あまりに気持ち悪くて寒気と吐き気を覚えてしまいそうです。
  マネージャーの仕事なんか放り出して、あの中に割り込み、そしてどんな手を使っても
  二度とおにいちゃんの近くになんか寄らせないようにしてあげます。
  それなのになぜ、先輩と一緒に帰ることを(快くではないけど)容認したかと言うと、
  答えは至極簡単、先輩は特別だからです。
  先輩は私のおにいちゃんへの想いに気付いていて、協力してくれてる唯一の人です。
  実の兄妹を好きになるということは、社会や家族という保障されたグループを
  拒絶する事に他なりません。そんな私の内の不安を先輩は何度も取り除いてくれました。
  何より、先輩は、自分にとっておにいちゃんは絶対に友達以上の存在じゃないと、
  あらかじめ私に宣告しておいてくれたのです。

 そんな先輩だからこそ、おにいちゃんが惹かれるのではないかという不安はありますが、
  そうなったらそうなったで、おにいちゃんの振られて傷ついた心を慰めてあげることができます。

 あはっ……おにいちゃん……。ふふふ、もしそうなったら、いっぱい、いっぱい、
  慰めて、慰めて、ずっと一緒に泣いてあげます。抱き締めて、お世話をして、ずっとずっと
  いつまでも一緒に居てあげます。
  ――その時に告白するのも良いかも知れませんね……。
『あなたを愛してる人はここにいますよ』って。
  あぁぁぁ……おにいちゃんの耳元でそんな事を言えたらどんなに気持ち良いんでしょう。
  それともおにいちゃんが私の耳元で『愛してる』って囁いてくれるのでしょうか?
  何度も、何度も、日が暮れるまでずっと……。
  あうぅぅ……お、おにいちゃん……そんなこと言われたら……私、駄目になっちゃいそうですよぅ……。

 おにいちゃん……大好きです、愛してます。
  こんな陳腐な言葉でしか想いが表せないのが凄く歯がゆいぐらいです。

 ねぇおにいちゃん、いつか想いが通じ合えたらすぐにでも結婚しましょうね?
  本当の結婚が出来なくても、世間が祝福してくれなくても、全然構いません。
  ううん、それどころか私以外におにいちゃんの凛々しいタキシード姿なんて絶対に
  見せたくありません。二人だけの結婚式で十分なんです。
  あ、でもやっぱり先輩だけには見せてあげても良いかも知れません。
  私たちの仲を応援してくれる唯一の人だもの。二人の幸せを見て欲しいです。
  そして最後にブーケを、真っ白いブーケを先輩に直接渡してあげるんです。
  これからの幸せと、素敵な人との出会いを願って……。

 それぐらい、先輩は特別な人でした。

 

 部室にはカレンダーが貼ってあります。
  試合や合宿日などの予定の他に、部員の個人的用事のある日にまで様々な蛍光ペンで印が付けてあり、
  もう誰の何の用事なのかも分からないほどカラフルに仕上がっているカレンダーです。
「あ……」
  部室の掃除が終わり、ふとそのカレンダーを見たとき、あることに気付きました。
  ――今日は先輩の誕生日。
  あまり自分のことを主張しない先輩は私とおにいちゃんにしか誕生日を教えてませんし、
  一軒家に一人で暮らしていて祝ってくれるはずの家族もいません。
  自分の生まれた日に誰も祝ってくれないことの悲しみは、ずっと独りで寝たきりだった私には、
  痛い程分かります。
  それに普段から先輩には、気を使っておにいちゃんと二人きりにさせてもらったり、
  相談にのってもらったりしていますし……。
  ――よし。誕生日に寂しい想いなんてしちゃいけませんよね。
  丁度、今日はおにいちゃんもお泊りですし、こうなれば私もお泊りさせてもらいましょう。
  おにいちゃんのいない家なんかに帰っても、意味がありません。
  思い立った私は、長椅子に置いていた通学用鞄を片手に握り、部室の扉を開けます。
  せっかくおにいちゃんに心配してもらったのに、結局こんなに掃除に時間がかかってしまいました。
  やっぱりおにいちゃんがいないと駄目ですね。

 外に出ると、グラウンドはもう鮮やかな夕暮れの紅から宵闇に染まり始めていました。

 

 夕食を食べた私はお父さんとお母さんに、今日はお友達の家に泊まりに行くという旨を伝え、
  純白の華を包んだ白い花束を手に、先輩の家に向かっています。
  私の家は、二階を居住スペースとして、一階を母が副業でお花屋さんを営んでいるため、
  私が今手にしている華――白いバラも即席のお祝いとして簡単に手に入れる事ができました。
  すっかり日の落ちた辺りの暗闇には、気味が悪いほど人の気配を感じません。
  それでも何とか家の前まで来た私は頼りない外灯の光を頼りに、軒先のプレートで
  先輩の苗字と名前を確認します。
  ――藍川由姫。
  確信した私は立派な作りのインターホンに手を当て、力を入れました。
  それと同時に、家の中から微かに漏れてくる小気味良い電子音。

 しかし、しばらく待っても扉が開かれることもなければ、誰かが来てくれる気配もありません。
  再度、インターホンを押します。

 同じように待っても不気味な静寂しか返ってきません。

「おかしいですね……」
  この時間までどこかに出かけているということは先輩の性格からまず有り得ません。
  考えられるとすれば、事件に巻き込まれたか、何かの理由での突然の失踪、
  もしくは買い物など一時的にどこかに出掛けた可能性ですが……。
  某探偵風に小難しく考えてみましたが、一人暮らしをしている先輩のことを考えると、
  買い物というのが一番有力です。
  こんなことなら来る前に電話をしておけば良かったのに。
  礼儀としてもそうしておくべきだったのですが、どうしても先輩を驚かせたかったのです。
  意気消沈した私は一度嘆息し、最後に開くはずもないドアノブに手をかけ……。

「あれっ?」
  予想していたはずの抵抗がありません。そのまま引いてみると軽い音をたてて、
  あっさり過ぎるほど簡単にドアが開かれました。
  視線をそこから覗かれる廊下に寄せると、奥から微かに光が漏れています。
  几帳面な先輩が鍵をかけずに外出するとは思えません。
「せんぱ〜い?」
  控えめに先輩を呼んでみますが、やはり返事はありません。
  疑問に感じた私は、失礼を承知で先輩の家に足を踏み入れ、その光に向かって歩を進めました。

 

 家の中に入ると、外では風で流されていたバラの香りが鼻腔を擽り始めました。

『ほら、華恋、しっかり手を繋いでろよ』
  こうしてバラを手にしているだけであの日の光景が、色褪せた映像となって脳裏に浮かびます。
  十年前、その日も私を連れ出したおにいちゃんは大勢の人で賑わう大通りに連れて行ってくれました。
  最初は始めて見るあまりの人の多さに、感動していましたが、気付いたらしっかり掴んでいたはずの
  おにいちゃんの手をいつの間にか離してしまっていて、私はその場にしゃがみ込んで声をあげながら
  泣いていました。
  結局は、顔を真っ青にさせたおにいちゃんがすぐに見つけて連れて帰ってくれましたが、
  私はなかなか泣き止まなくて……。
  家に着くと、おにいちゃんはお店の赤いバラを取って、私の髪に挿してくれたのです。
『ちょっとじっとしててな……目印だ』
  きっと、おにいちゃんは赤いバラの花言葉なんて全然知らなかったんだと思います。
  それでも、その時の私にとっては涙が出るほど嬉しいことで……。
  その時から真っ赤な紅い『バラ』は私の中でとても大切なものになっていました。
  あの綺麗な、綺麗な、真っ赤な、真っ赤な、紅色の…………。

 ――――血?

 ……あれ……?
  ……あれっ? あれっ? あれっ? なんで? え?
  なにこれどういうことですかおかしいよだってあれねぇほら……。
  私確かめましたよ? ここに入る前。
  絶対、間違いなく、百パーセント、ここ先輩の家ですよ?
  『藍川由姫』って軒先で確かめましたもん……。
  だから私はおかしくないです。おかしいのはそっちなんです。
  だってそうでしょ?

 ……なんで先輩のベッドで先輩とおにいちゃんが裸で一緒に寝てるんですか?

後編

 バラはその色によって様々な花言葉を持ちます。
  白、黄色、赤、ピンク。更にはバラの今の状態によっても伝わる想いは変わってしまいます。
  バラを送るときは、その花言葉を参考してみるのも良いかも知れません。

 ――さて、今夜あなたに送るバラは……何にしましょう?

「ん……ぇ……?」
「あ……目、覚めましたか?」
  先輩はパチパチと数回まばたきすると、朧気そうな意識のまま、ふわふわとした視線で
  自分を見下している存在を怪訝そうに見つめています。
  手をロープで後ろ手に組まされ、そのロープで足も椅子に固定され、私を見上げるその姿は、
  まるでこれからおろされようとしている小汚い豚みたいです。
「おはようございます……くすっ、もう真夜中ですがね」
「え……あ、え……?」
  状況を把握できず、辺りを愚かしくあたふたと見回す姿にはもう以前の凛としていて
  尊敬していた先輩の影すらありません。
「あなたのお家がそんなに珍しいですか?」
「あれ……桜木くんはぁ?」

 ――ピキ
  身分不相応にもおにいちゃんの名前を吐く雌豚に私は大きく右手の掌を掲げ、
「まだ寝ぼけてるみたいです……ねっ!」
  そのまま振り下ろし、小さな一室に軽音を響かせます。
「っっ!」

「寝ぼけ、とれました?」
  痛々しそうに頬が赤く熟れ、ようやく自分の置かれている状況に気付いた雌豚は
  信じられないといった表情で私を眺めます。
「か……れん……?」
  私は雌豚に対してただ冷たい目線を浴びせ続けながら、
「ウラギリモノ……」
  ぽそりと、静かに呟きます。
  それに面白いように反応した雌豚は、突然寒気が走ったのか、一度身体を大きく震わせました。
「かれ……っ!? ……桜木くん? 桜木くんはどこっ!?」
「ベッドに寝かせてあげたままですよ……」
  そう告げると、雌豚はほんの少し安堵の表情を見せました。
  なんのつもりですか? 雌豚がおにいちゃんを心配なんかして……。
  おにいちゃんを心に浮かべて良いのは私だけなのに。
「助けを呼ぼうとしても無駄ですよ? 少し強力な即効性の睡眠薬を飲ませてありますから、
  しばらくどんな騒音があっても起きてはこないでしょうね」
  苛立った私は無愛想に、助けを呼ぶ事ができない孤立した状況であることを説明しました。
  おにいちゃんに近付く雌豚のために用意した睡眠薬だったのに、おにいちゃんに使う事になるなんて、
  思いもよりませんでしたよ。
「まぁそれでなくても、おにいちゃんはお疲れだったみたいですし……ね?」
「ちが……っ! 違うの華恋!」
「何が、どこで、どう違うのですか?」
「それは……」

 未だ自分の立場に狼狽する雌豚に思わずくすりと笑みが零れてしまいました。

「あなたがおにいちゃんと……。私の大切な、大好きな、優しい優しいおにいちゃんと、
  セックスしたことが違うのですか? そんなこと、言いませんよね? おにいちゃんの大切なものを
  奪っておいて、なかったふりするなんて」
  もしそんなことをするつもりなら、今すぐ殺してあげます。
  まぁ、どちらにしろいずれ……ですけど。
「おにいちゃん、凄く痛かっただろうなぁ、あんなにシーツに血を染み込ませちゃって。
……あはっ、ふふふふふ……どうでした? おにいちゃんの純潔の……お・あ・じ・は?」
「さ、桜木くんの純潔? なに言って……」
「独り占めにしようだなんてズルイと思いません?」
  雌豚風情が……ねぇ?
  私は見せ付けるように雌豚の目の前に、鮮やかな紅に染まった粘着質の液体が付着した指全体を、
  糸をひかせるように擦り合わせました。
  それを見て、羞恥に震えるようにしていた雌豚を気にも留めず、そのままゆっくりと
  口にそれを持っていきます。
「あむ……んぅ……ぴちゅ」
  あぁ……おにいちゃんの純潔の血……。
  おいしい、おいしい鉄の味……。おいしくて、ちょっぴり苦くて甘い。
  ふふ、あはっ、あはははははは――!
  これがおにいちゃんの味なんだぁ……。
  これが、この味が、そうなんですね?
  この味を、目の前の、この雌豚は味わったんですね?
  ……うっ、想像しただけで気持ちが悪くなります。

「華恋……あたしは」
  雌豚は馬鹿の一つ覚えみたいに相変わらず弁解しようとしています。
  全く、本当に……。吐き気がするほど……。
「ほんとにあなたって……きたなぁい」
「……!!」
「友達面して私に接して相談に乗るふりをして内心小バカにしてたりおにいちゃんは
  友達以上の存在じゃないなんてうそ吐いて騙したりして私を信用させるなんて大した策士ですね
  それだけでもおにいちゃんに近付くための卑劣で下劣な手なのに最後にはおにいちゃんを誑かして
  襲っちゃったりして……」

 心の中では私の事なんて報われない想いをする変態妹ぐらいに思っていたんでしょうけど……。
  あはっ……誰がその程度の存在なんかで終わらせてあげるものですか!

「この薄汚れた、淫魔! 雌猿!! 雌豚!!! 泥棒猫!!!!」

 お前なんかに、おにいちゃんは渡してあげない。
  あの人の隣にいるのも、あの優しさを受けるのも、頭を撫でてもらうのも、
  髪に紅いバラを挿してもらうのも、全部、全部私だけです。

 だけど雌豚は私の言葉にいちいち大袈裟に首を振りました。

「違うわ! あたしは華恋のことをそんなふうに思ってないし、桜木くんのことを誑かしてもない!」
「言い訳はもう――」
「桜木くんは……今日やっと……あたしのこと『愛してる』って言ってくれたんだもの!」

 ――……瞬間、部屋は静寂に包まれました。

 ……………………。

「あはっ……くす、くすくす……あははははははははは!!!!」
  お腹の底からこみ上げてくる色んなものが詰まった空気を耐えることができず、
  笑いという形で噴出してしまいました。
「か、華恋……?」
「妄言も良いところですねぇ……せんぱい?」
  あなたなんかが、あなた如きが……。
  あなたがどれだけの時間、あの人と一緒にいたと言うんですか?
  あなたがどれだけの間、あの人の優しさに触れてきたと言うんですか?
  あなたがどれだけの強さで、あの人を想っているというんですか?
  どれだけ隣にいて、悩んで、苦しんで、ときめいて、幸せを感じて、愛してきたというんですか!!?
  ふざけないで下さいふざけないで下さいよあまりふざけないで下さいねまったくふざけないで
  ふざけないでふざけるなふざけるな――。
「ふざけるなっ!!!」
  あの人を本当に愛してるのは私だけ、あの人が本当に愛してるのも私だけ。他の誰でもないの、
  ましてやあなたなんかじゃ絶対ない。

 ……なんでこんな女を信用してたんだろう?
  おにいちゃんがこの女に告白して、振られて、その傷ついた心を癒してあげようと思ったのに……
  結局、心を傷つけられたのはこっちだった。
  ――それも最悪な状況で。

「あたしだって、ずっと桜木くんのことが好きだった」
  そんな言葉、反吐が出ます。
「あなたに相談されたとき、どんなにあたしが苦しんだか分かる?」
  そんなの知りたくもありません。
「それでもあたしは、諦めようとしたわよ」
  それならどうして……?
  あなたは、お前は私をウラギッタのですか?
  怒りと悲しみと憎しみと深い深い嫉妬がぐちゃぐちゃに混ざって瞳から流れ、視界が揺らめいてきます。
「だけど諦められなかった……その気持ちは、あなたにも分かるでしょう?」
「煩いです」
  雌豚を強く睨みながら、私は青いシートを敷いた床から純白の花束を拾い上げます。
「華恋……兄妹で結ばれたって……幸せになんてなれないよ」
「黙りなさい」
  そんなのあなたが決める事じゃありません。
「あなたがどんなに桜木くんを愛してても……」
「黙りなさいと言ってるんです」
「桜木君の隣に――」
「煩い……うるさい」

「あなたはいない」
「黙れっ!!!!!!!」

 私は、激昂のままに先輩に花束を『突き立て』ました

 ――――アカ
  幾数にも重なり、包み込むように蕾を中心に展開している白いバラの花びらのその一つ一つに、
  じわりじわりと、アカが染みていきます。
  それはまるで最初からアカいバラだったように――。
  私は先輩のその茫然自失した表情に、自分の顔が愉悦に歪むのを感じました。

「え……あぁ……?」
「ふふっ、あはっ、ふふっ、ふっ、ふふふっ……」
  ほんとぉに汚い――血ですね?
  おにいちゃんのとは大違い。
「かれ……な…………?」
  アカに濡れた花束から、同じアカに濡れて不気味に光る包丁を取り出してみせます。
「凄くいい包丁を使っていますね? やっぱり一人暮らしだと自炊が上手くなければ
  いけないんでしょうね」
「な……に、言って……げほっっ!!」
  あ、また血を吐いて……ほんとにシートを敷いていて良かったです。
  こんな汚い血で床を汚しちゃいけませんよね。それに――。
「あはっ、凄い量」
  花束がびしょびしょです。
「あ……あ、あ……」

 もう声も掠れ始めた先輩を尻目に、包丁を捨てて、鮮血に染まった花束を丁寧に持ち直します。

「ねぇ、先輩、おにいちゃんの隣に私はいないって言いましたけど」
  ……だからなんですか?
「隣に居られないなら……障害物を取り除いてでも走って追いつくまでです」
  あの人の隣は私のものなんですから。
「例え追いつけなくても、おにいちゃんは必ず私を見つけてくれます」
  いつ、どこにいても。
「だって、私の髪には目印があるんですから」

 ――真っ赤な、赤いバラがあなたに見えますか?

「くすっ、はい、誕生日おめでとうございます」
  言い終わって気の済んだ私は、必死の形相で私を見つめる先輩の膝に、花束を置いてあげました。
「本当は良い具合に染まったらおにいちゃんにあげようと思ったんですが……これじゃあ、
  ただ赤黒いだけですからね」
  知ってますか? こんな感じの色のバラの花言葉。
  あはっ、実は私も良く覚えてません。憎しみだとか恨み……でしたっけ。
「あれ? 先輩? 嬉しくないんですか? …………」
  あぁ、もう聞こえてないみたいですね。
  ぐったりと力尽きている先輩の手足をロープから解放してあげます。
  手足がだらんと垂れ下がり、アカに身体を染めるその姿は少しだけ……。

「綺麗ですよ、先輩」

 そう感じました――。

Epilogue

 ――意識の覚醒と共に迫り来る強烈な痛み。
  あの日から、その鈍痛は一日も休ませてくれることなく、もう習慣化し始めていた。
  どうやら今日も例外には漏れなかったようだ。
  開かれたカーテンから覗かれる空は既に夕闇に覆われ、ますます酷くなる頭痛と相俟って、
  陰鬱な気分にさせてくれる。時間の感覚が狂い始めて、今日が何日で何時なのかも、良く分からない。
  ただ、道路を歩く華恋の姿が見えることから、もう俺には縁のない陸上部が終わる時間帯なのだろう。

 由姫の消息が分からなくなって、もう十日が過ぎた。
 
  正確には、俺が行方知れずになった由姫のことを認識してから今日で八日目になる。
  実際に由姫が姿を見せなくなって二日間、俺は由姫の家のベッドで強力な睡眠薬を飲まされ、
  眠っていたらしい。
  見つけてくれたのは妹の華恋で、何の連絡も無しに二日間も家に帰らない俺を心配して
  「友達の家に泊まる」という俺の言葉から、俺のクラスメイトで仲も良かった由姫を連想して
  電話をした後、何度やっても音信不通だったので来てくれたとのことだ。
  正直、由姫の家に泊まったあの夜のことは、あまり憶えていない。
  華恋を、妹を妹として見ることができなくなってから、悩んで、苦しんで、諦めようとして、
  そんな時に由姫から告白を受けて、愛を実感できないまま惰性で付き合う事になって……あの日が、
  最初の恋人らしい恋人になろうと決意した夜だった。

 あの日、俺は何をした……?
  睡眠薬で長い間、意識を混濁された後遺症なのか、断片的な情報しか引き出せない。
  激しい律動と揺れる肢体。乱れる髪と快感に歪む表情。卑猥な水音と皺を作るシーツ。
  情事を連想させるには十分な情報。だけど――。
  真紅に揺らめく何かが、頭にこびりついて離れない。
  あの夜、何があった……?
  間違いなく、由姫の失踪には俺が関係している。
  そのことが罪の意識になって、戒めとばかりに八日間、激しい頭痛が続いている。
  横たわるベッドも、眠る度に吹き出てしまう汗の臭いが染み込んでいて気持ちが悪い。
  我慢できず、俺は大儀そうに身体を起こした。
  それとほぼ同時に部屋の扉が音をたて、開き、嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を擽る。

 それは紅い、何か……。

 ……真っ赤な……バラ……?

「おにいちゃん……」
「…………」
  入ってきたのは紅いバラの花束を手にした華恋だった。
  扉を後手に閉める。

「起きたんですね」
「……おはよう」
「おはようございます」
  俺の今の気分とは裏腹に、華恋は優しい笑みを浮かべて言ってくれた。

 あれから、華恋は特に変わった様子を見せていなかった。
  いや、変わったこともあるのだが、不自然な程、行方不明になった由姫のことを甘受し、
  いつも通りの日常を過ごしている。
  だけど、そうしながらも、こうなった俺を毎日心配して部屋に来てくれている。
  いくら睡眠薬を飲まされていたとはいえ、由姫の家のベッドで眠っていた俺を警察が疑った時にも、
  必死に庇ってくれたらしい。
  ――無理をしている。
  最初の頃はそう思っていた。俺のために、俺を心配させないために自分を殺しているのだと。
  華恋は由姫のことを慕っていたし、何より知り合いが失踪したと聞いて普通にしている方がおかしい。

 ……その「おかしい」を、俺は華恋に感じていた。

「お腹、空いていますか?」
「いや、大丈夫。それに減ったら自分で作って食べるから」
「そうですか?」
  少し残念そうに呟いて、身体を寄せてくる。

「華恋」
「はい?」
「…………」
  これが華恋の変わったことだった。

 

 必要以上に身体をすり寄らせてくる。
  素直になった……とは少し違うかも知れない。まるで今まで我慢してきたものを爆発させたように
  甘えてくる。
  その華恋の表情には悲しみの色など微塵も感じさせない、幸せそうな笑顔が映し出されていた。

「もう、何ですかぁ?」
  以前は絶対にしなかった、媚を売るような声の調子で言いながら顔を覗き込んできた華恋に、
  我にかえった俺は華恋の手にしているバラの花束に視線を寄せた。

「……それは?」
「バラです」
  見れば分かる。
「そうじゃなくて、それ、店のバラだろ。どうして持ってきたんだ?」
「ん〜、プレゼントです」
  そう言って、手にした花束を渡してきた。
  視線を寄せると、バラの深い赤が強烈に目の網膜に焼き付けられ離れず、バラの香りが
  鼻から通って脳髄を痺れさせるような刺激を感じさせた。

 ――分からない。
  最近の華恋の行動が全然理解できなかった。
  プレゼントをされるような日でもなければ、行いもしていない。

 疑問を口にしようと開く前に、先に華恋の声が聞こえてきた。

「紅いバラの花言葉……知ってますか?」

 ――あぁ、なんだ、そうか。

 自分でも驚くほど早く、華恋の言葉の意味に気がついた。
  何で気付かなかったんだ。簡単な事だったんじゃないか。
  紅いバラの花言葉、花屋の息子だ。昔のように知らないわけがない。
  いや、昔から知らないフリをしてきただけなのかも知れない。

 気付けなかった想い。
  歪みきった想い。
  間に合わなかった想い。
  許されない想い。
  だけど、何より望んでいた想い。

 もう、手遅れになってしまったけれど……それでも。
  どうやらお互い、捨て切れそうにないらしい。

 

 

「それじゃ、おにいちゃん、私部屋に行きますね」
「……待てよ」
  部屋を出ようと扉に近寄った華恋に、静止の声をあげた。
「え?」
  困惑する華恋。
  あの日から、俺から華恋を呼び止めることなんてなかった。
「こっち」
「あ、はい……?」
  手招きをする俺に、おずおずと近寄ってくる。

 俺がベッドに腰掛けるように言うと、華恋は素直にそれに従って座った。
  ご褒美とばかりにその華恋の頭をポンポンと優しく撫でつけてやる。
  昔から少しも変わってない、しなやかで柔らかい髪だ。
  華恋は小さく、「あっ」と声をあげ呼吸が荒くなったのを感じたが、抵抗はせず、
  黙って受け入れたままだった。
  最後にもう癖のようになった、流れに沿って頭を撫で、髪を整えさせる作業をすると、
  華恋の頭からゆっくりと手を離した。

「おにい……ちゃん?」
「ちょっとじっとしてろよ……」

 俺はそれだけ言って、花束からバラを一輪だけ取り出し、髪の中に挿しいれた。
  綺麗な、紅いバラを。
  いつかのように……。
  だけどあの時とは違う。後戻りのできない選択をしようとしている。
  一人の少女を犠牲にして、地獄に落とすようなことをしている。
  俺が引き金を作って、おかしくなった華恋が引いてしまった。

 でも、もうどうでも良い。
  どうせもう全部壊れてしまってるんだろう?

「目印だ」

 振り返った華恋は、誰よりも綺麗で、誰よりも幸せそうに微笑んでいた。

 

 忘れてはいけない事を忘れて。
  想ってはいけない人を想って。
  こんな結末を招いてしまった。
  どれだけ恨まれたって構わない。どんな罰でも受けるし、それだけのことをしてる。

 だけど今だけは……こいつの隣で華のように可愛らしい笑顔を見続けさせてくれ。

 華は、真っ赤な『血』をつけて、いつまでも俺に寄り添っていた。

 

 【fin】

 

『花言葉補足説明』
白いバラ  尊敬、純潔
黒赤色のバラ  深い憎しみ(?)
紅いバラ  死ぬほど恋焦がれています

2006/06/17 完結

 

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