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スウィッチブレイド・ナイフ



1

「失礼します」

病室のスライドドアを開け、一礼。
白い病室風が漂うこの部屋に似つかわしくない、若い女性が微笑んでくれた。

「体のほうはいかがですか?
あと、これは新しい駅ビルにできた洋菓子屋のケーキです・・・よかったらどうぞ」

病室の窓際のベッド、そこに彼女は今日も座っている。
俺は花が咲いたように美しい微笑を浮かべる女性に少し照れながら、
慣れた手つきで備え付けのデスクから仕草で椅子を引っ張り出す。

「昨日左腕の包帯が取れたんですよ・・・・お医者様もあと二週間で退院できると仰っていました・・・・」

俺が花瓶の水を取り替えて椅子に腰掛けると、彼女は少し残念そうに言った。
怪我が治るのになぜ残念がるのかは不明だが、日に日に活力を取り戻す彼女の様子に、
俺は少し顔をほころばせた。

そう、俺こと幹田馨(みきた かおる)は目の前の女性、森瑞希(もり みずき)さんを
バイク事故に巻き込んで全治三ヶ月の大怪我を負わせてしまったのだ。
保険会社が事後処理はすべて順調に行ってくれたものの、俺は見目麗しい若い女性の貴重な時間を
三ヶ月も奪い去ってしまった。
当然罪の意識にさいなまれた。

それにあとから解ったことによると、森さんには身寄りがいなかったのだ。
ご両親を幼いころに同じく交通事故で亡くし、頼れる親族もいない彼女に対する贖罪の一つとして、
俺は身の回りの世話を買って出ることにした。
友人の誘いや自らの欲求を封印し、可能な限り彼女の看病をした。

俺の贖罪への献身と、想いが通じたのか。最初は心を閉ざしていた彼女は日に日に笑顔を多く
見せるようになった。
聞けば森さんは俺と同じ大学生であったが、特別奨学金で国立大学に通う成績優秀で
前途有望な特待生であるらしい。
あとで同じ法学部であることがわかったが、三流私大の俺と全国でも三本の指に入る国立大生の
彼女とでは世間に対する考え方や、法知識に対する造詣の方も深い深い隔たりがあった。

俺はがんばって彼女に話しを合わせようと、いままでおろそかにしていた法学を必死で学び始めたが、
逆に教えられてしまうという無様な形で決着がついた。
最近では学校の課題を手伝ってくれたり、教授の授業よりも的確でわかりやすい講義をしてくれたり
するのだ。
本当に感謝してもしきれないほどであるし、言葉にできないほどの恩義を感じている。
殺したいほど憎いであろう俺に、ここまで情けを掛けてくれる彼女は地獄に舞い降りた天使さながらである。

「本当ですか!!それはよかった!!」

だから俺は、包帯が消えた彼女の姿を心から喜んでいる。
手入れもロクできないはずなのに、腰まで届く彼女の髪の美しさと艶が、俺には太陽より眩しかった。
彼女も止まった時を動かすことができるのだ。当然喜んでいるものだと思っていたが、
先ほどの残念そうな顔のまま俯いていた。

「わたしが退院すれば・・・馨さんともう会うことができないんですね・・・・そう考えると、
少し寂しいです・・・・・」

俺など憎んでも憎みきれない汚らわしいゴ○ブリ以下であるはずなのに、彼女は情けを掛けてくれる。
本当に天使だ、いや、もはや神といっても過言ではない。

「寂しがることなんてないと思いますよ!!外には楽しいことがいっぱいありますし、
俺のことなんかすぐ忘れますよ」

軽口だと気づいたときにはもう遅かった。
今までの和やかな雰囲気が一瞬で消し飛んだ。

「忘れません!!!忘れることなんて・・・・できません・・・・・・」

彼女は震えながらも、強い口調で言った。おとなしくて物腰の柔らかい口調の彼女が取り乱す姿は
初めて見た。
頭を鈍器で殴られたような感覚に襲われる。
そして、大事な事を思い出した。

俺は大馬鹿野郎だ!!!!
彼女は事故のことで傷ついている。両親を事故で亡くした彼女に、更にバイク事故という形で
傷口に塩を塗りこめてしまったのは俺だ!!
今までの慈悲に満ちた彼女の笑顔に浮かれすぎていた。
俺はどんなに償っても犯罪者。
身に刻まれた罪人の烙印はいくら身を削って尽くしても、法と時間が赦してもこの身が
朽ち果てたとしても決して消えることがないのだ。当然、彼女の心の傷も同様だ!!
それなのに、なんて俺は馬鹿なことを・・・・・
今すぐ死んででも償うべきだが、それも解決にはならない。

「申し訳ありません!!今まで浮かれすぎていました。自分が赦されることのない罪を犯した
人間であることも忘れ、貴女の優しさに甘んじていました。本当にごめんなさい!!!」

俺は即座に土下座して額を地面に擦り付けた。摩擦熱で皮膚がすべて剥がれ落ちて醜い肉を曝しても、
後悔の念は消えそうにない。

「え・・・・っ・・・・・・そんな意味でいったわけじゃ・・・・」

「とにかく、今日はこれで失礼いたします。ケーキは痛まないうちに食べてください。
次回からは、失礼のないようにいたしますので」

俺は再度額を地面こすり付けてわびると、そのまま踵を返して部屋をあとにした。

「まって・・・・・・ちがうの、そういう意味じゃ、馨さん!!・・・・待って!!」

後ろで彼女が何か言っていたが後悔と不甲斐なさで噴火しそうな頭では聞き取ることができなかった。
今度からは態度を改めよう。勉強を教えてもらうのもやめよう、砕けた口調で話すのもやめよう。
俺は犯罪者に相応しい矮小な態度をとっていればよい。

そう俺は、罪人・・・・・・赦されることなど、ない。

2

馨さんは亡者のような弱々しい姿のまま、部屋を後にした。
必死で引きとめようしたが、想像以上の早足でわたしの言葉が届くことはなかった。

「そ・・・・・んな・・・・・つもり、じゃ、なかったのに・・・・」

津波のように押し寄せてくる感情。
胸が張り裂けそうなほどに痛い。
毎日のようにお見舞いに来てくれる馨さんを病室から見送るときも、同様の痛みがある。
しかし、今回のは桁違いだった。
わたしの不適切な発言が与えた誤解。
しかも最悪な方向にニュアンスを間違えてしまった。
むしろ・・・・赦されないのは、わたしの方なのに・・・・

実際、事故の原因はほとんどわたしのほうにある。
暗い夜道で、しかも横断歩道ではないところで急に飛び出したのはわたしだ。
衝突の際、バイクの操縦技術がよほど高かったのか、わたしはほとんど衝撃から逃れることができた。
そう、わたしの左腕の骨折と、全身打撲はバイクの音に驚いて立ちすくんでしまった上に、
パニック状態で自ら車体に突っ込む形になってしまった自分に原因があるのだ。
その上私の体は直りが悪く、通常の人なら二週間の入院と一ヶ月の通院ですむところを
わざわざ三ヶ月まで引き伸ばし、更にまともに歩く体力も失ってしまって、
入院期間を先送りにする形となってしまった。

このことは事故で『一応』加害者となっている馨さんも知っているはずだ。
むしろ馨さんは被害者なのに、甲斐甲斐しく身辺の世話と身寄りのいない私に毎日会いにきてくれる。
最初は罪悪感のようなものを感じていたが、想いはだんだん変容していった。
気づけば罪悪感は恋心になっていた。
彼の優しさと笑顔に触れるたびに、わたしの慕情は肥大化していく。
そして二ヵ月半経った今では自分でも抑えきれないほどになっていた。
正直彼の姿を見て、彼の呼吸を感じ、彼の優しさに触れないと生きていけそうもないし、
彼の笑顔、温もり、視線、興味・・・・すべてを自分の物にしてしまいたいとまで考えている。
なんて薄汚い女だろうか。

・・・・わたしは罪人だ。

馨さんは身長が高くて体つきも立派。
細い目と鋭い顔つきがちょっと怖い印象を与えるけど、とても心の温かい温和な人柄だ。
私のような勉強しかしらない暗い女に合わせて必要以上の知識までも学んできてくれた。
私なんかにかまっていなければ、外ではお友達がたくさんいるだろうし、
女の人にも大層もてることだろう。彼女の一人や二人いてもおかしくはない。
そう思うたびに、申し訳ない気持ちと、存在するかどうかもわからない女性の影に煮えたぎるような
嫉妬さえ覚え始めている。
彼の有意義な時間を、病室で小さくなっているのが相応しい狡猾で浅ましい女のために
使わせてしまっているのだ。
ほんとうに、本当に申し訳ない気持ちと、彼にもっと構って欲しい。他のことに感けないで
もっと私だけを見ていて欲しい。という感情が二律背反して自分でも制御できないほどになっている。
その上、彼に最悪の形で誤解まで与えてしまった。

謝らなくてはならない、誤解を解かなくてはならない。
始めにそう考えるべきなのに、私の薄汚い慕情は、

『もしかしたら、彼は明日からお見舞いに来なくなるかも・・・・』

『面倒くさい女だと思って、別の女のところにいくかもしれない・・・・』

そんな低俗で汚らわしい独りよがりな考え方をしている。

しかも、退院の日までが刻々と迫っているのだ。

どうしよう・・・・もしかしたらこのまま彼と疎遠になってしまうかもしれない・・・
もうわたしに笑顔を見せてくれないかもしれない・・・・
どうすれば、どうすれば、彼とこのままでいられるの?
どうすれば、どうすれば、彼の誤解を解いてあげられるの?

 

一晩考え抜いても、答えは出なかった。
それに考えれば考えるほど、思考は深みに落ちていく。
わたしが途方に呉れていると、コンコンっとドアをノックする音。
このリズムは馨さんのものだ。
全細胞が歓喜を告げているが誤解だと告げられなかったことが胸に引っかかっていた。

「失礼します」

何時もどおり一礼して入室する馨さん。でも今日は声が少し枯れている。

「気分はいかがですが?森さん」

いつもはここで破顔してくれるのだが、今日は表情が硬いまま。
釣られて私の声も低くなってしまう。

「へ、平気です・・・・」

「そうですか」

彼は短く告げると日課となった花瓶の水を取替え、ゴミ箱と簡単な部屋の掃除をした。
そして慣れた仕草で椅子を引っ張り出して雑談なり法律の勉強をするのだけど・・・・

「では今日はこれで・・・・それと昨日のケーキ、いかがでした?幼馴染が薦めてくれた店で
買ったものですが。お口に合えば幸いです。では」

馨さんの声がいやに冷たく感じる。そして言葉に含まれた『幼馴染』という響き。不穏だ。
不穏すぎる。
誰、誰なの?幼馴染??男の子・・・・・いや、男の子はケーキなんて・・・・でも馨さんは甘いもの
好きだって・・・・・それも私に合わせてくれたの?
・・・・馨さん・・・・
棄て・・・・ないで。

「馨さん!!!・・・・・幼馴染・・・・誰??」

気づけば大声を上げていた。
馨さんは細い目を見開いて驚いている。

「ど、どうしました?森さん」

しまった、感情が暴走していた。先に誤解を解かなくてはいけないのに・・・・

「違うの・・・・昨日の事・・・・違う・・・・」

「え?」

「忘れないってこと・・・!」

馨さんは目を見開いたまま直立していたが、また表情を曇らせると悲しそうに言った。

「解りました・・・・・・迷惑でしたら、もうお見舞いにはきませんから・・・・賠償金が少ないのでしたら、
更に上乗せしても構いません。
こんなことで赦されなんて思っていませんでしたが、目障りなら本当に消えますので・・・
今まで申し訳ありませんでした」

その言葉を最後に馨さんは退出した。
白い部屋に打ちひしがれた私だけが、残された。

今日も、誤解は解けなかった・・・
しかも新しく浮かび上がった、『幼馴染』という単語。
心が悲鳴を上げる。
黒い炎が胸を焦がしている。
灰色の怨念が脳内を渦巻く。
違う、違うの・・・・

 

独りに、しない、で・・・・

3

俺がその報せを聞いたのは、事故を起こしてから回数を増やしたバイトが終わって
部屋で無気力を楽しんでいるときだった。
あぁ、もう静かに無気力すぎて笑えない。
体は疲労で今にも倒れこんでしまいそう。シャワーも浴びる気力もなく、
そのままベッドに沈み込んでしまいたいくらいだった。
意識が残像に消えていきそう・・・・・
瞬間、狂ったように携帯電話が電子音を吐き出した。
半目で覗き込んだウィンドウに映った名前は、『病院』
嫌な予感が電流のように駆け抜ける。
疲労と眠気は奇麗に壊れた。

寝間着のスウェットの上にダウンジャケットを着込み、滅多に履かないスニーカーで家を飛び出す。
上がる息と冬なのに全身の汗腺から噴出す汗をぬぐいもせずに駅前でタクシーを拾った。
肩で呼吸しながらも必死に行き先を搾り出す俺にタクシーの運転手もびっくりした様子だったが、
熟練の技を以って最小のメーターで、しかも彼曰く最高記録という速さで病院にたどり着いた。
面会時間などとっくの昔に終っていたが、今回の電話が伝える旨は『森さんが階段から転げ落ちて重態』
というものだった。
もしかしたら昼間に言った俺の軽口で傷ついたのかもしれない。
渦巻く不安と、恐怖、後悔を必死でシバきあげてなんとか看護士さんに連れられて病室に向かった。

「長い入院生活で体力もないのに十五階から階段で降りようとしたみたいですね。
幸い直りかけていた左腕の再骨折と新たに右足の靭帯断裂ですみましたが、三ヶ月の追加入院です。
可哀想ですが・・・・」
「重態というのは・・・・?」
「どうやら間違って連絡が行っていたようですね。彼女は薬で眠ってはいますが
意識はちゃんとしていますよ」

俺は糸が切れたようにその場でへたり込んだ。

「馨・・・・さん・・・・」
目覚め眼が映したのは、顔をくしゃくしゃにして泣き出しそうなわたしが焦がれて止まない人だった。

「おはようございます、森さん。そして、本当にすいませんでした!!!森さんの気持ちも考えずに、
あんなことをいってしまって。そうですよね、忘れられませんよね。自分を殺しかけた男のことなんて。
でも俺だってそんなことで赦されるなんて思っていませんから・・・・」

「馨さん・・・・わたしの話・・・・聞いてくれるかな?」

また地面に額を擦り付けている馨さんの腕を取って、わたしはゆっくりと話し始めた。
わたしの家庭のこと、数少ないお友達、意地悪な親戚のおばさんのこと・・・・そして、
何時も独りだったわたしに初めて優しくしてくれた、馨さんのこと。

「そ、それじゃあ忘れない・・・っていうのは?」

「うん・・・こんなわたしに優しくしてくれた馨さんを忘れることはできない・・・・ってこと」

「じゃ、じゃあ俺のこと・・・・」

「うん・・・赦すよ・・・・」

馨さんは声を上げて泣き始めた。
それと同時にわたしはほっとした。
ようやく誤解を解くことができて、よかった。って。
だからこれからの入院生活も楽しくなるよね・・・・!!

まだ馨さんと一緒にいられる・・・・

そう・・・・思索に果てにたどり着いたのは、自らの体を傷付けて馨さんの視線を無理矢理固定することだった。

手首を切るのはどうか――――――――――――――――これは更に誤解を与える可能性がある、却下。

窓から飛び降りてしまうのはどうだろう――――本当に死ぬ恐れがある、却下。
それに誤解を与えるという点では一緒。

馨さんは大勘違いが大得意なようだ。
どうすれば誤解を与えずに入院期間を引き延ばして気を引くことができるだろう・・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・・・・

わたしは、最終的に自分の体を階段から突き落とした。
いや、『飛び降りた』というほうが適切だろうか。
これもすべて、馨さんと一緒にいたいため。
疎遠になってしまうことで別の女のところに行ってしまうのが恐かった私は、もはや病気だった。
怪我には馨さんの献身で打ち勝てたが、この胸に住まう病には勝てなかった。
もう独りはいや、いやなの。
こんなわたしのそばにずっといてくれたのはあなただけだよ・・・
みんな、わたしの性格を知ると離れていっちゃうの。暗い女って。
でもね、でもね。馨さんだけはちゃんと私の話を聞いてくれたんだよ?
ほら、今も言ってくれたじゃない。
『森さんが無事なら構いません、って』
だから・・・・・・・・・・・・・・・・・・責任とってね・・・・・?
馨さん馨さん
馨さん馨さん馨さん
馨さん馨さん馨さん馨さん
もっと大怪我して置けばよかった。
いっそ腕でも切り落としてしまうべきだったかなぁ。変な気を回すんじゃなかったなぁ・・・・・
馨さんならきっと受け入れてくれたのに・・・・
馨さん馨さん馨さん馨さん馨さん・・・・・
もうあなた無しでは、生きていけませんからぁ――――――――

えへへ・・・

「森さんが元気でよかったです」

これからの入院生活のことを考えると笑いが止まらない。

「うふふふふ元気ですよ、ふふふ、困るくらいに・・・・」

不気味な笑みを浮かべるわたしを訝るように見た馨さん。
いつもの鋭い横顔も素敵だけど、きょとんとした顔も素敵・・・・
もう離しませんから・・・・
ふふ
ふふふ
ふふふふふ

でもそんな甘い高揚感は長くは続かなかった。

 

カツ・・・・・・

 

 

 

 

 

「――――――――じゃあ明日から馨がお見舞いに来なくても平気よね」

カツ、カツ、カツ・・・・・
ヒールの音と共に病室の入り口から現れた長身の美女。

わたしは顔筋が凄絶に引きつるのを抑えられなかった。

4

---------森さんが眠っている、その頃_______

「馨、ちょっと」

森さんの無事を確認した後、俺は夢の世界を彷徨いつつもなんとか大学にたどり着いた。
例のごとく授業は全寝。よだれの着いた教科書を誰にも見られないように袖口で拭い、
重い気分のままちゃっちゃと教科書をしまった俺は後ろから掛けられた声に弾かれたように振り返った。

「ゆ、ゆかり・・・・どうした?」

そこには長身の美女が立っていた。それも目に見えて解る不機嫌オーラを漂わせて。
やっべ、涎拭ったのばれたか?

「どうしたのはアンタのほうよ。最近授業マジメに受け始めたと思えばサークルにも顔出さないですぐ
バイト行っちゃうし、
何でもバイクで轢いちゃった女の子のところに毎日通ってるんだって?
それにどうしたの今日は。顔、死人みたいよ?」

早口で一気にまくし立てるのは同学部で、同じサークル。そして幼稚園のときからすべて同じ
学校・クラスであった因縁の存在、浅羽ゆかりだった。
物静かでおしとやかな森さんとは対照的に、明るく活発な所謂幼馴染。
肩まで伸ばして丹念に巻かれたセミロングを明るい栗色に染め、同じく対照的にはっきりとした顔立ちの
美貌にそれを引き立てる丁寧なメイクを施している。
格好はそれほどぶっ飛んでいないものの、季節感のない露出の多いお姉風である。
森さんが谷間に咲く涼しげで可憐な百合であるならば、ゆかりは太陽の祝福を一身に受けて咲き誇る
真夏の向日葵。周りのレベルが上がるほど輝き、目立つ存在だ。
本人曰く処女であるが、裏で何をやっているかは不明だ。
まぁコイツのことだから、ヤルことはやってるだろう。

「そ、そうか・・・??ちょっと気に掛かることがあってな・・・・しかたねぇだろ。
あと、心配してくれてんのか。サンキュな」

「べ、別に心配してるわけじゃにゃいわよ・・・・」

「噛んでるぞ」

ゆかりは大きな胸を強調するように腕を組んだ。口を尖らせて不満をアピールしている。
不機嫌なときにアヒル口をするのは昔からのクセ。それを一瞬で理解してしまう自分に少しうんざりした。

「入院してる女の子のこと??」

うう、いきなり確信か。どう答えたらいいかわからねー

「ま、まぁな」

「なによぉ、その反応??もしかしてその女の子にフラれた、とかぁ?」

突き刺さる言葉。まぁ事実フラれたようなもんか。
俺が黙っていると、ゆかりは急に真剣な表情になった。

「あ、あんたねぇ・・・・仮にもバイクで轢いちゃった子と仲良くなれはしても付き合うなんてムリでしょ!!
きっと向こうの子もあんたの顔を見るたびに事故のこと思い出すのよ。
だから、もうお見舞いに行くのなんてやめて変わりに慰謝料上乗せして誠意を見せればいいのよ」

いつものように強い口調で、ゆかりはブーツのヒールを鳴らして言った。

「いや、だからそれはちが・・・・」

「言い訳はいいの。ちゃんと女の子に謝りなさい。私も着いて行ってあげるから」

「・・・わかりました」

有無を言わさないゆかりの強い視線。昔からこれだけには逆らえなかった。

・・・・・
・・・・・・・・・・・へヴィだぜ。

最近の馨はおかしい。
おかしいといえば昔からおかしいんだけど。
最近のおかしさは近年のおかしさでも群を抜いておかしい。

この男、馨は昔から『人』にモテる。
人というのは異性だけでなく同姓、年下年上邦人異人変人奇人宇宙人未来人超能力者・・・・
問答無用で惹きつけてしまう。
もはやこれは才能や生まれ持ったものだといわざるを得ない。
何しろこの私も・・・・・・・・くやしいけど・・・・・・・・・・惹きつけられてしまった一人なのだから。
大学でも馨は目立つ。高校まで野球部で鍛えられた無駄のない筋肉によく日焼けした肌。
人より頭半分飛びぬけた長身は人ごみの中にいても難なく発見できる。
硬い黒髪を短髪にまとめ、鋭さを持った顔つきはどこか近寄りがたいオーラを発しているが、
コヤツの笑顔を見ると一発でその印象は崩壊する。
そう、コイツほどギャップというものを体現している存在はいないのではないだろうか。
しかも馨の場合天然だから性質が悪い。
そしてその天然をはるかに超越した『鈍感』これはもう犯罪だ。
今まで何人もの心を気づかないうちに破壊してきたのか、エクセルで計算してメールに添付してやりたい。

きっとちょっと前にバイクで轢いてしまった女の子もそんな馨の特性にヤられてしまった子なのだろう。

病院の窓口で面会手続きを済ませ、事故に巻きこんでしまった女の子の話をききつつ長い廊下を
馨と二人で歩く。私がどんなに高いヒールを履いても、馨のほうが目線が高い。ちょっと悔しい。
夫婦同じ高さで歩くのが夢なのに。

「で、その女の子、また怪我したの?」

「ああ。階段から落ちて更に三ヶ月退院延期らしい」

「はぁ〜合計半年の入院ね・・・私なら背中にコケ生えるわ。
まぁ、それで・・・・アンタはその子が階段から転げ落ちた前の日にちょっと揉めちゃって、
その日も険悪だったのね〜そりゃ階段から飛び降りたくなる気持ちもわかるわ」

馨はお前に何がわかる。という目線で睨んでくるが、ぎろりと睨み返す。
すると馨は盛大にため息をはいた。

きっと私の推測は当たっている。
先述のとおり、こいつはダントツで天然鈍感勘違い三冠王だ。
女の子が忘れられないといったのは馨が起こした事故のことではなくて、『馨の献身と優しさ』
更にこれは推測の域をでないけど『馨に対する想い』のことだろう。
それをコイツはお得意の勘違いで大暴走してしまったわけだ。
まぁ、大変ねイロイロと。その女の子も。
そっちのほうが好都合だからいいけど。
勘違いで暴走した馨の心を繋ぎとめるためと、二人きりの時間を誰にも邪魔されたくなかったからだろう。
昔から馨にまとわりつく異性だけでなく同s(以下略 を何度も退けてきた私も今回ばかりは冷や汗が出た。
だから私も積極的に行動することにした。十五年以上馨のそばにいる私。
ここまで本気にさせた子には正直驚いたし、ライバルと認めてあげてもよい。

でも・・・・話を聞くうちに認識は変わった。
目障りだからさっさと消えてもらおう。

――――――――――――――――馨の心を占めていいのは私だけなんだから。

「それじゃあ、ゆかりはここで待ってろ」

病室の前で、馨は珍しく真剣な顔つきをした。
まあいいわ。二人きりで会わせるのはちょっと癪だけど。こっちもイロイロ聞きたいことがあったから、
大人しく了承する。

カツカツとヒールを鳴らしながら病院を歩き回り、
私は先ず始めに女の子の担当医の所へ行った。
私が馨の姉を名乗ると壮年の優しそうな医者は、しきりに首をかしげながらも真剣に話してくれた。
私は馨のことを嗅ぎ回る時、姉を名乗る。
馨の体つきは立派で大人びているように見えるが、しゃべりだすとあどけなさと少年のような輝く瞳は
隠せない。だから私のほうが不思議と大人びて見えてしまうのだ。
特にバイクのことを話すときのあいつは一番輝いていた。
だから、一番輝いていた馨の楽しみを事故で奪い。
その後の関心をすべて独占していた女の子を私は許せなかった。

『妙なんですよ・・・・今回の怪我は。いくら体力がなかったとは言え・・・受身も取らずに自分から
突っ込んでいく形でないと、この部位を痛めることはまずあり得ません。
腕の骨折ですが、こちらも折れ方も変でして・・・』

私は頷きながらも医師の言葉の端々を反芻していく。
詳しくは知らないようだが、バイク事故のこと、そして階段から落ちたときの詳細・・・・
やっぱり私の予感はほとんど的中していた。
あの子、やるじゃない。

口の端が邪悪な形で歪むのを感じる。

さぁて・・・・・

どうやって馨の心から退場していただこうかしら・・・・

 

――――――――――――――――――――――――――――――――泥棒猫さん?

5

私が病室に戻ると
華奢で白絹のような肌に、瑞々しいほどの黒髪が映える女の子が馨の腕を取って熱心に話していた。
飾らなくても十分美しさを発揮できている。そんな彼女に二重の意味で嫉妬心が隠せない。
この角度からはよく見えないけれど、馨はきっと泣いているのだろう。
膝を地面に着けて土下座するような形で女の子に腕を抱かれている。

その薄っぺらい胸で馨の気を引こうってことかしら・・・・
生意気。

私は入り口の影から暫く二人を観測することにした。
黒髪の女の子は同色のくりくりとした大きな瞳を潤ませて、ゆっくりと説くように語り掛けている。
時折馨の腕を自分の体に擦り付けるのも忘れていない。
ひとしきり話し終えたのか、馨は女の子の腕をゆっくりと解いて立ち上がった。
少し寂しそうな女の顔にイライラが募る。
本当に庇護欲を掻き立てる大した泥棒猫だ。

馨の親切心を利用して大した怪我でもないくせに全力で依存している。
気づかない馨も馨だが、いい加減下腹部を渦巻くどす黒い感情が抑えられなくなってきていた。

「うふふふふ」

黒髪の女の子は口に手を当ててお上品に笑う。
あのあどけない笑顔の裏にどれだけの策謀が隠れているのか、皮を引き剥がして馨に見せてやりたい。

―――――――――――――――本当に幸せそう。
だから、その多幸感を最大級の絶望を以ってぶち壊してやることにした。

馨に気づかれないように接近。

女の子の黒い瞳とちょうど相対するようにして、言ってやった。

「―――――――――――――――じゃあ明日から馨がお見舞いに来なくても平気よね」

しばしの沈黙の後。

女の子の笑顔が、般若の形相に歪んだ。

「ゆかり??部屋の前で待ってろって言っただろ!!」

「べつにぃ〜私がどこに行こうと勝手でしょ。それにアンタ、デレデレしすぎ。
仮にも事故を起こした加害者なのよ。もっと恭しい態度に改めなさい」

膝までのブーツの踵を鳴らしながら、背の高い少し派手な印象を与える女性が近づいてくる。
漂う香水の芳香。
馨さんに着いたわたしの匂いを打ち消すような空気。

好きじゃ・・・・・ない。

馨さんは女性の言葉に、また顔色を失った。歯噛みしているようにも見えた。

女の人はわたしを品定めするかのように見渡し、極上の笑顔を浮かべた。

「初めまして、馨の幼馴染の浅羽ゆかりです。私の馨がご迷惑おかけしたようで」

――――――――――――――幼馴染・・・・・ケーキは・・・・この人??・・・・・・
――――――――――――――ちがう・・・・・それに、あなたの、馨さんじゃ・・・・ない・・・・。

背筋を悪寒が突き抜けていく。
馨さんは、もしかしたらこの人に連れて行かれてしまうかも・・・・・
この派手な女の人が、わたしから馨さんを奪っていく・・・・・

――――――――――――――思考が急に冷えていく。
それと同時に、目の前が暗くなって全身から血の気が引いた。
女の人は白いトレンチコートの裾を揺らしながらわたしに掌を差し出した。
握手、するつもり・・・・・
そのキラキラした長い爪――――――――――――――邪魔。
へし折ってやりたい。

「は、初めまして・・・・森瑞希です・・・・」

握手するのが嫌だから、視線を外して答えた。
私の態度に浅羽さんはまた嫌な笑みを浮かべた。

「お怪我のほうも大したことなくてよかった。私の馨は大袈裟でしょ?だから貴女がそこの窓から
『飛び降り』でもしないか心配だったわ」

言葉に含まれる毒。
この人・・・・・もしかして識ってる??・・・・・・
不安が膨張した。胸が痛い。
――――――――――――――助けて、馨さん・・・・!

「ゆかり、止せよ。昨日の今日なんだから、森さんも疲れてるんだよ」

ゆかり?・・・・・森さん・・・・?どうして、浅羽さんは呼び捨てなのに、わたしは森『さん』なの?・・・・・
痛い、痛いよ・・・・

「そうかしら?さっきはあんなに元気そうに笑っていたのに。まぁいいわ。無事だってわかったでしょ?
それにこの怪我はアンタの所為じゃないんだから気に病むことないわよ。ねぇ、森さん?」

やめて・・・・やめてやめてやめてやめてやめて・・・・・・

馨さんを誑かさないで!!!

「森さん・・・・・?」

わたしを訝る馨さん。
対照的に浅羽さんは満面の笑みだ。

気分が悪い・・・・・
なんて答えればいいのだろうか。
気にしなくていい、と答えればもう馨さんはお見舞いにやってこないかもしれない。
でも、責任を取ってっていったら・・・・
馨さんはお見舞いに来てくれるだろうか。

「ねぇ、森さん?もうお見舞いに来なくていいわよね?」

黙りこくるわたしに焦れたのか、浅羽さんは少し語気を荒くしている。
それでも貼り付けたような笑顔は崩さなかった。

どうしよう、どうしよう・・・・・・

「ちょっと、森さん?」

わたしがやっと搾り出した言葉。
それは――――――

「―――――――――――――――――――――――――その・・・・・・・・・・・・・・・・・忘れ、
ません・・・・・から・・・・・・」

馨さんの表情が凍りつく。

「さっき、赦してくれるって・・・・・」

「・・・・・・赦せるわけ・・・・ありません・・・・・・忘れることもできません・・・・もう・・・・・・・・・」

「あんた!!!」

浅羽さんが怒りを露にする。そのままわたしの胸倉をつかみあげて綺麗な瞳で覗き込んでくる。

「ゆかり、止せ!!俺が、俺が・・・・悪いんだから・・・・・すいません森さん。
でもお見舞いは続けます。森さんが赦してくれなくても、俺にできることはこれくらいしかないから・・・・・」

浅羽さんを羽交い絞めにして私から引き剥がし、馨さんは疲れきった顔でそう言った。
この話をまた利用するのは卑怯だと思ったが、こうするしかなかった。
あの時も、馨さんはお見舞いを続けてくれた。
だから、今回もきっとそう言ってくれるって信じていた。

「馨、アンタは先に帰ってなさい。私は森さんと話すことがあるから」

浅羽さんは短く告げて馨さんを追い出した。
二人だけの時間を邪魔されて腹が立ったが、わたしにも言いたいことがあったので好都合だ。
馨さんは落ち着かない様子で出て行った後、なんの前触れもなく浅羽さんが切り出した。

 

「あんた、いったいどういうつもり!!散々馨を苦しめといて・・・・・まだアイツを
縛り付けるつもりなの??」

 

咲き誇る大輪の花が修羅の擬態だと見抜くのに、そう多く時間は掛からなかった。

6

さっきはアレでも猫を被っていたほうなのか。浅羽さんの剣幕は恐ろしかった。
美人なだけに青筋を立てて怒鳴るその姿は鬼のよう。

「・・・・・・そういうあなたこそ・・・・どういうつもりなんですか・・・・・・大体・・・・・
あなた馨さんの何なんですか・・・・・」

「私はねぇ、馨の幼馴染なの!!!ずっと昔からそばにいるのよ。
だからねぇ、アンタみたいなネクラ女にいつまでも縛られてる馨が気の毒でたまらないの!!!」

「幼馴染なら・・・・・いいじゃないですか。
わたしには、馨さんしかいないんです。親も、友達も、親戚もいません・・・・でも、そんなわたしを、
馨さんは見捨てませんでした・・・
だから、もう、もう、・・・・・駄目なんです・・・・・馨さんじゃないと・・・・だから、だから、
馨さんをわたしから盗っていかないで!!!」

自分でも言っていることは意味不明。
でも、ここで退いたら負けだと思った。

「ホント汚い女・・・・・そんな可愛い顔して・・・・・最初の事故だってあんたがちゃんと気をつけてれば
大したことなかったんでしょ。
それなのに、ずるい言葉で馨の良心を利用して・・・・!!昨日の怪我だってわざと階段から
落ちたんでしょ。医者が言ってたわ。どう考えてもあの怪我の仕方は変、ってね!!!」

「そんなことどうでもいいんです・・・・
馨さんが、馨さんがそばにいてくれれば!!!
私は馨さんが好きなんです。愛しているんです。
だからただの幼馴染のあなたには関係ないでしょう!!」

「ならはっきり言ったらどうよ!!!今まで自分の想いを隠すために事故のことを
利用してたってね!!!」

「!!!!!!!!!!!!!!!」

――――――――――――――――真実を抉られた。

どうしてこの人はまるで心を読むようにピンポイントで核心を突けるのか疑問に思ったが、
それ以上に心のダメージが大きい。
浅羽さんの剣幕に押されないように、恐怖で凍りつく表情で睨み返すのが精一杯だった。

「何も言い返せないのね。まぁ当たり前か〜そんなこと馨に話したらもうお見舞いに
来なくなっちゃうかもしれないし、最悪二度とあなたの前に現れないでしょうね〜
アイツ見かけによらず繊細で、素直だし。あのときだって最後まで慰めてあげたのは私なの。
そうよ、馨のことで世話を焼いたり手を繋いだりキスしたりセックスして、
アイツを愛せるのは私だけなの!!!
だから・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう二度と加害者被害者の関係以外で馨に関わらないでくれる!!!??」

この人・・・・・馨さんと、したことあるの?・・・・・
嘘よ、嘘、嘘・・・・・・

「帰って!!!帰ってよ、この薄汚い牝犬!!!性の匂いを漂わせて馨さんを誘惑して!!汚らわしい、
厭らしい、排泄物以下の病原菌!!早く消えてよ!!
貴女なんて死んじゃえばいいのよ!!馨さんが貴女なんかに手を出すはず無いじゃない!
上手く陥れたんでしょ、卑怯者!!!!」

負けたと解っても心は抵抗を続ける。
頭に浮かんだ罵詈雑言を口の回る限り垂れ流し、右腕で狂ったように枕を振り回す。

「ふん・・・襲い掛かってきたのは馨のほうよ。まるで動物みたいに息を荒くして、
私の体を力任せに組み敷いた後で狼みたいに全身舐りまわしてくれたわ。
途中で理性を取り戻して、照れながら『愛してるよ』って囁いて中に熱いのをくれたときは
ホント初めてなのに飛びそうになったわ〜オンナの悦びってヤツ?
―――――――――まぁ、安心してよ。アンタは未来永劫絶対味わうことはないでしょうから」

――――――――――――――――馨さんの照れた表情が脳をフラッシュバックする。

――――――――――――――――あの笑顔が、優しさが、ぬくもりが、指先が、吐息が・・・・

――――――――――――――――全部この女のために・・・・・・!!

目の前が真っ赤になって、頭の中を白が埋め尽くす。

 

―――――――――――――それより先は覚えていない――――――――――――

 

 

 

言い負かしてやった。
あの女、私の虚言で意図も簡単に壊れた。

私の願望を事実のように語ってやったら泥棒猫は憤怒と絶望の表情を交互に繰り返した。
絹のような穢れを知らない肌が真っ赤に染まったり死んだように青ざめるのはとても面白かった。
マンガみたい!!・・・・
今思い出すだけで噴出してしまいそう。
そして最終的には明暗順応しているわけでもないのに大きな瞳をこぼさんばかりに見開いて
瞳孔を広げたり閉じたりしていた。
徐々に暗くなっていく瞳を睨みつけていると、声も出さずに涙をぼろぼろ流して動かなくなっちゃった。

そのまま放置してきたけどまさか手首切ったりはしないわよね?
階段から飛び降りた前例があるから油断できないけど担当医が見張ってるからまぁ平気でしょ。
それに私は死んでもらったほうが嬉しいけど、馨がこれ以上傷ついたら嫌だからせいぜい
廃人程度で済ませて欲しいもんだわ。

あの女には意気揚々と語ったけど馨とはキスまでしかしたことがない。
それも彼が寝ているときにした、触れるようなキスだけ。

ずーーーっと、そばでアピールし続けているのに馨はいつまでたっても気づかない。
私の性格がいけないのかもしれないけど、来年には大学を卒業しなくてはならない。
だからそろそろ私たちの関係にも区切りをつける頃なのかも。

さぁて、今日は行きつけのブティックで目一杯買い物して帰りましょ♪

――――――――本格的に馨を陥とすにはイロイロ準備も必要だしね
あははは〜楽しみぃ〜

7

部屋を追い出された俺は、とぼとぼと駅前通りを歩いていた。
やっと赦して貰えた、と浮かれていれば次の瞬間には奈落の底に真逆様。
いったいこれを何度繰り返したかわかない。
いっそこのまま死んでしまうか・・・・・

暗い夜道、焦りに任せて単車を駆っていた光景が脳に浮かぶ。
路地から現れた一つの小さな人影。
右手を絞る、右足を全力で踏み込む。背中を突き抜けていく恐怖。
ヘッドライトに照らされた若い女性の凍り付いた顔。

いかんいかん、俺は贖罪に生きると決めたのだ。
いくら拒絶されようとも自分の胸に刻んだ決意を下らん逃避で汚すのは、あまりにもアホ臭い。
少し散歩して頭を冷やすか・・・・・

あ、そういえばゆかりを病室に残したままだった。
最近すこぶる機嫌が悪いから後でフォローしておかないと。
またヤツの一方的な教育的指導と銘打ったわがままにつき合わされるのはごめんだからな。
とりあえず携帯にメールを発射。

『久々に呑まないか??今ならアフターのカラオケつきだぞ。九時に新宿集合でどう?』

用件を短くまとめて送る。
すぐに返事が来ってきた。
いつもながらよくあの爪で早打ちできるな・・・・と感心しつつボックスを開く。
絵文字がキラキラと自己主張する長文が帰ってくるかと思ったが、本文にはあっさりと用件だけ。

『今日はバイトがあるからムリなの〜代わりといったら何だけど、よかったら明日私のアパートで
家飲みしない?ゆかりさんの特製手料理と取っておきのスペシャルメニューつきよ☆』

アイツは二週間前にバイト辞めたような・・・・・?という疑問はとりあえず端に寄せておくことにする。

先ずゆかりが怒っていないことに安心。
そしてゆかりの手料理という意外な単語に胸が躍る。
ヤツは遊んでいそうに見えて実は家庭的なのだ。
事故を起こしてからご無沙汰だったが、長い爪を気遣うようにゆっくりと作業する料理の腕は一級品。
十年来食い続けてきている俺が言うのだから間違いない。
これまでは一回ご馳走になるたびに見返りを求められたが、今回は無料奉仕でしかも
スペシャルメニュー?とやらも用意してくれるらしい。
あいつなりに励ましてくれるのだろうか。
何だが元気が沸いてきた。

もうお見舞いに行くのは止そうと思っていたが、気まずい雰囲気をものともせずに
森さんに謝りにいけそうだ。
ありがとよ、ゆかり!!!!
身を切るような十二月の寒気をものともせず、俺は少し歩調を速めた。

すると、再び携帯が鳴った。
今度は何だ??
メールじゃなくて電話。
相手は――――――――――――――――森さん?
ゆかりのおかげで元気を取り戻した心が急激に醒めていく。
妙な悪寒が全身に浸透した。
恐る恐る、通話ボタンをプッシュ。
震える手で受話口を耳に当てる。

『――――――――――――――――て、よ――――――――――――――――』

ぼそぼそと何かを言っているようだがほとんど聞き取れない。
後ろでは轟々と音が鳴っている。

『森さん?・・・・どうしました?』

反対の耳を指で塞ぎ、雑音が入らないように意識を集中させる。
電話だというのに何故か薄ら寒い狂気のようなものが伝わってくる。
本能が全力で告げている、ヤバイ!!!!!と。

「あの、森さ、
『――――――――――――――――早く――――――――――――――――き、てくださ、い
――――――――――――――――■んでやるから、来ないと、――――――――――――――――
飛■降■てやるから。――――――――――――――――ここ、
お、く、じょうだか、ら――――――――――――――――』・・・・・・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・夢なら醒めろ。

『森さん??ととととにかく今すぐ向かいますから、落ち着いて、落ち着いてくださいよ!!!』

かろうじて聞き取れた、屋上という単語。
身を投げる森さんの姿が脳裏に浮かぶ。
やっぱり、俺の態度がまずかったのか!!!
浮かれていた自分を殺したくなる。

俺は電話越しで森さんを繋ぎとめようと必死だ。
彼女は言葉の端々に不穏な響きを匂わせて、信じられないくらいに低い声で訴えてくる。
死神がツケを回収するように、容赦ない現実を目前に押し付けられた。

『わ、たし
――――――――――――――――ずっと、かおる、さんが、■きでした――――――――
――――――――■■からおち、たのも、ぜんぶ、じぶんで、やったの―――――――
―――――――――か、お、るさんが、いなく、なっちゃうの、こわ、かった、から。
――――――――――――――――■き、■き、■き、■き――――――――――――――――
ちゃんと、いえたよ。
―――――――――――――――えらい、でしょ?わたしを、みずきを、
ほめて――――――――――――――――よくやったねって、ほめて。
――――――――――――――――そしてさいごに、
やさしくウバッテ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』

この声・・・ほんとに森さんが発したものなのか?
地獄から響くような低音。
すべてを切り裂かんとする金切り音。
確かに聞いた言葉、ぜんぶ、じぶんでやった・・・・・?

嘘だろ・・・・・
いったい、どうしまったんだよ!!!!!!!!!

定期的に電話で声をかける。
さっきから全力疾走をしているために、息も絶え絶えだ。
俺が声をかけないと、受話口からは人を殺せそうなほどの呪詛が漏れてくる。

口が渇く。喉が焼ける。

『も、り、さん・・・・』

吐き出す音はほとんど言葉になっていない。
俺が息をつくたびに地獄のメロディは止むが、今度は代わりに湿った音が響く。

『ん――――――――――――――――ふ・・・・・かおるさん、すてき―――――――
―――――――――もっと、もっとんんんんん・・・・』

――――――――――――――――もう、訳がわからん。
目前は混沌を通り越した無秩序、心臓はツーバス連打、頭蓋の裏ではデスメタルが響き渡る。
俺は視界の隅に映った病院に一度冷静さを取り戻すと、予備電源を使ってラストスパートをかける。

はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・

ようやく屋上の扉にたどり着いた。
どうやって診察時間が終了した病院に入ったかなどは覚えていない。
そんなのものは『必死』の一言で全部片付いてしまう気がした。
倒れこむように重い扉を押し開け、広い屋上に視線をめぐらす。

いた!!!!!!!!!ピンクのパジャマに黒のカーディガン。
内股で地面に座り込み、顔は前髪に隠れて見えないが間違いなく森さんだ。

「森、さん・・・・・・何が、あったか、せつめい、して、もらえます、ね・・・?」

膝に手をつき、手の甲で額に浮かんだ汗を払いのける。
とにかく無事な様子の森さんに油断していた。

だから気づかなかったのだ、噛み付くように唇を奪われたことに。

 

「―――――――――んんんん」

森さんの薄い体が目一杯押し付けられ、ギプスで固定された左が後頭部に、無事な右腕が背中に
蛇のごとく絡みつく。
暫く咥内をのた打ち回る舌に思考を奪われていたが、
フェイズシフトダウンした脳でようやく現状を把握すると、俺は全力で森さんを引き剥がした。
軽い体は屋上の強風にあおられて吹き飛んでしまうかに思われたが、
怪我人とは思えない膂力で押し返された。

「馨さん・・・・・待っていましたよ・・・・」

どこか恍惚とした表情を浮かべる森さん。

一陣の強風で暗雲が晴れていく―――――――――
雄大な満月が夜の帳に大穴を明けた。

その凶光を受けて黄金色に輝く上目遣いに、俺は文字通り石化した。

8

「馨さん・・・・待っていましたよ・・・ずーーーーーっと。待ちきれなくてこんなに濡らしちゃいました、
見てください」

金色の輝きを浮かべる森さんの瞳。

「うふふ―――――――――もう準備はできてますから、早くください―――――――――」

小さな唇を吊り上げる森さん。

「正気ですか??いったいどうしたんです!!!あの森さんが!!!」

「わたしはいつもほどほどに正気ですよ・・・・まさか、あの牝犬にはできて、わたしにできない
なんてことはないですよね?」

彼女は愉悦の笑みを浮かべていたが、ふと思いついたように語気を荒くした。
見えない何かにおびえているようにも見える。

「・・・・・・・・・めす、いぬ・・・・・・?」

「あの女のことですよ、馨さん!!!!
キラキラと自己主張をして止まない目障りな狂犬が!!!!!!!
誤魔化さなくても結構ですよ、あの電柱女に手を出したのは若気の至りということで許してあげます。
本命がわたしだってことはちゃんとわかっていますから。
だからわたしのために毎日毎日毎日通ってくれたんですよね?
わたしを愛してるからでしょ??
ねぇ??―――――――――」

黄金の深淵を思わせる双眸が細められる。

まさか・・・・・ゆかりのことか??
ゆかりが牝犬??
いったいどういう・・・・・

「さぁ、早くください・・・・・もう、我慢、できません・・・・・・・」

「待って、落ち着いて!!!」

細い体をボディプレスの要領で躍らせた森さん。
対格差で何とか押し止め、もはや狂気に取り付かれた瞳に言い放つ。

 

「ゆかりとは何もありません、だから落ち着いてください・・・・・何を勘違いしているのかわかりませんが、
俺とゆかりはただの幼馴染で、それ以上は何もないですから・・・・・」

一歩後ずさる。

「だから、言い訳はいいって言ったでしょう?・・・・・・もう解ってるんですから・・・・・あの女は
嬉しそうに語りましたよ・・・・?」

「ゆかりの言ったことは嘘ですよ。俺はゆかりを抱くどころか、キスすらしたことありませんから」

徐々にうろたえていく森さん。あと少し、あと少しだ。

「え・・・・・・・・?でも、あの女は・・・・・」

「ゆかりがどんな失礼なことを言ったかわかりませんが、とにかく冷静になりましょう。
怪我に障りますから、早く病室に戻って」

まっすぐに森さんの瞳をのぞきこむ。
狂気に冒された黒い宝玉。
僅かに揺れている。
俺が眼光に力を込めるたびに、揺らぎは大きくなった。

張り詰める空気。

「俺を、信じてくれ―――――――――」

肩を掴んで、抱き寄せた。

揺らぎは、決壊した。

「あ・・・・・・・・・・・・・・え・・・・・・・・・・・・?わわわわたし・・・・あの女に、だまされたの?・・・・・・」

「よくわからないけど、とにかく部屋に戻りましょう」

何もないところを見つめる森さん。
炯炯と輝く満月はいつの間にか暗雲に隠れていた。
今度は光を失った黒曜石がそこにあった。

「わたし・・・・・・・・取り返しのつかないことを・・・・・・・」

弱弱しいその姿に一瞬思考を奪われかけたが、ここで機会を逃したら最後かもしれない。
俺は生まれて初めて、自分の感情をすべて吐露した。

「その怪我はわざとやったんですよね・・・・・俺のことを、引きとめようとして。
俺はどこにも行かないから・・・・森さんが望むまでそばにいますから。
もうこれ以上傷つかないでください・・・・」

寒さにおびえる子猫のような彼女を、更に抱きしめた。
この細いからだのどこにあんな力が隠されていたのかはわからないが、今俺が全身で感じている感触は、
病室に咲いた一輪の花―――――――――
俺が知っている―――ありのままの森瑞希その人だった。

「あ・・・・・・・・・・」

森さんの瞳が輝きを取り戻した。
俺が何時も見とれていた、天使の瞳。
忘れられない、愛らしい姿だ。

「その・・・・・ごめんなさい、馨さんの気持ちを、なんども利用して、自分だけのために・・・・・
なんてズルイおんななの・・・・・わたし・・・・・・どうやってわびれば・・・・・」

「いいんですよ、やっぱり悪いのは俺のほうなんだから。だからもう心配しないで」

「うう、ひぐっ、うっ、えぐっ・・・・・・・」

俺の胸に顔をうずめ、子供のように泣きじゃくる森さん。
小さく震える肩に触れると、確かなぬくもりを感じる。

だからこの手を、離しちゃいけないと思った。

泣き疲れて眠ってしまった森さんを部屋まで送りとどけ、引っ張り出した椅子に腰掛ける。
艶やかな黒髪と長い睫毛。
静かな寝息を立てる可憐な唇は、電話越しに感じた狂気を感じさせないほどに無邪気だった。
こんな天使のような女性が、俺ごときのために自らを傷つけ、身投げを仄めかして肉体関係を強要した・・・・
夢、といわれればそのまま信じてしまいそうだ。
しかし奪われた唇の感触を思い出すたびに、現実だと思い知らされる。
頭の中を森さんの濡れた指先がフラッシュバックする。
頬を染めて、体を掻き抱くように欲求を押し殺していた彼女。
あのときは本当にやばかったのだ。
偶然ゆかりという名前が出てこなければそのまま勢いに任せて森さんを襲っていたかもしれない。

いや、それでもよかったのかも―――――――――

安らかな寝息を立てる森さん。
穢れ無き白磁の肌。小さなくちびる。

―――――――――思考を打ち消した。

この寝顔を見ていると自分の選択は正しかったと胸を張って言うことができた。
目に掛かる前髪を除けてやりながら、布団を掛けなおす。

『・・・・・・・・・・どこにも・・・・・・いかないで・・・・・』

あの時聴いた言葉。
それが何よりも俺の胸に突き刺さる。
先ほどのことは真夜中の傷として忘れよう。
しかし、小さな胸に抱いた決意は・・・・・ずっとここにしまっておくことにした。

 

 

翌朝目覚めると、隣には馨さんの寝顔があった。
頭をよぎる自分と馨さんの姿。
急に頬が熱を持って今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。

どうしよう・・・・なんて馬鹿なことを・・・・してしまったのか。
愚かな嫉妬にとらわれた私は、屋上から自殺を匂わせて真夜中に呼び出し、関係を強要した。
正気の沙汰じゃない。
確実に嫌われて、どんな汚い言葉を使って罵られても文句は言えなかった。
そして、わたしも甘んじて受け止めるつもりでいた。

でも・・・・
―――――――――でも、馨さんはそんなわたしを受け入れてくれた。
―――――――――抱きしめてくれた。
―――――――――優しく囁いてくれた。
体が甘い幸福に震える。

『俺を、信じてくれ―――――――――』

これって、プロポーズ?・・・・
シーツを少し手繰り寄せてこそばゆさを打ち消す。

結局最後までいけなかったけど、結ばれる日は遠くないと思う。

だからこそ頭から離れない、幸せそうに馨さんのことを語った忌まわしい幼馴染が。
全身から噴き出すまばゆいばかりのオーラ。
日陰で六法を読んでいるのが相応しいわたしとは文字通り相反する、陰陽の関係。
きっと生まれながらにして相容れない存在。
どんなことがあっても認められないし、許せない。
一挙一動が逆鱗に触れる。
視界の隅に映った瞬間に本能が殺意を囁く。

あの顔、体、声・・・・・

―――――――――でも、馨さんはわたしに言った。
もうどこにも行かないって・・・
信じていいよね?―――――――――

もう一度隣の馨さんに視線を向ける。
精悍な顔つきからは想像もつかない無邪気で、純真な姿。

渡さない。触れさせない。決して視界に入れない。
この空間はわたしのモノ。

信じてるよ馨さん・・・・
硬い髪の毛を優しく撫でてみた。
なんだか恋人みたい・・・・・

「う・・・・・ゆ、か・・・・り?・・・・・」

 

甘い空気は吹っ飛んで、体がおぞましいほどの憎悪に駆られた。
思わず、頭からスムーズな動きでクビに手が伸びる。

あわてて引き戻した。

いけない、いけない。
もう馨さんはわたしのモノになったんだから・・・・・
なにも心配することなんかないんだよ、みずき。
大丈夫、大丈夫、大丈夫・・・・・

「ゆか・・・り・・・・・」

・・・・・・・・・・ぎり

我慢、我慢・・・・・・

 

「ゆ、かり・・・・・」

ぎりぎりぎりぎりぎりぎり・・・・

 

「うふふ・・・・・」

 

だんだん見開かれていく瞳を押さえられない。
シーツを掴む手の血がとまって真っ白になっている。
馨さんを殺さんばかりの視線で射抜く。

「ゆ・・・・・・・・・・」

言葉は途切れ、途中で寝息に変わった。
わたしはほっと一息。
どっと疲れが押し寄せた。

「もう」

しょうがないなぁ、馨さんは。
今回ばっかりは見逃すよ。わたしも鬼じゃないもん。

でも。
みずきの顔も三度まで。

うふふ・・・・

―――――――――つぎはないよ?

でも、もし、またわたしの前であの女の名前を出したら。

―――――■すから・・・・・・・
■すから、■すから。
■すから、■すから、■すから。
■すから、■すから、■すから、■すから。
■すから、■すから、■すから、■すから、■すから。
■すから、■すから、■すから、■すから、■すから、■すから。
■すから、■すから、■すから、■すから、■すから、■すから、■すから。

 

 

               殺すから♪

差し込む日差し。さえずる鳥達。
今日はいい一日になりそうだ。

9

俺にはやらなくてはならないことがあった。
それは、森さんをあそこまで暴走させたゆかりから事情を聞くことだった。
離れるのが厭なのか、子供のようにごねる森さんを何とか押し止めて病院から抜け出す。
その代わりといってはなんだが、肩口に思いきり歯型を頂戴した。
服の上から触れても痛みがあり、インナー一枚になったら間違いなくばれる。
そして去り際に、
『あの女のところへ行ったら―――――――わかってますよね?』
という危険な微笑まで賜ってしまった。
あまりにキレイすぎる、完璧すぎる微笑。
ここまで来て、その切欠を作ったゆかりを問い詰めずに何ができるだろうか。

真冬の風に差し込む日差しに少しの勇気をもらって、俺は携帯を握り締めた。
とにかく今はゆかりに会って問い詰めるのが先だ。
学校へと向かう電車のホームでゆかりの番号にコールする。
いつもなら3コール内に出るか留守電につながるはずなのに今日はそのどちらでもない。
胸に膨らんでいく不安と焦燥感が思考をかき乱す。
再びコールするが、出ない。
苛立ちは焦りに変わっていた。
いつものゆかりと俺の距離が違う。
更につづけようとしたが、電車がきたので断念。
車内で通話するのはさすがに気まずいので、連絡の手段をメールに切り替えてみる。
文面はゆかりを心配する旨と、森さんと何があったのかを問う内容にした。
いきなり強い態度に出ても無駄だということは重々理解しているが、そこは不撓不屈の信念で望みたい。
今すぐに連絡をよこせ、と普段からは考えもよらないほどのストロングスタイルで攻めてみる。
矢張り返事はなかった。
苛立ちを抑えるために携帯を閉じたり開いたりして玩ぶが、デジタルの時計が、
オープンのたびにすこし遅れて時の流れを伝えるだけ。

中央線の擦過音が耳を劈く。脳の位置がずれたのではないかと思うほど、
いつになっても慣れない騒音だ。
思い返してみると、ゆかりは学校を休んだことがない。
気づけば俺の隣に座っているし、食事のときも常に傍にいた。
何より人気の高い教授の講義を聴くとき、ゆかりは席取り係だった。
在校生の数に較べて収容人数の少ない食堂の座席をいつの間にか確保しているのもゆかりだ。
それが突然なくなる。
今までの苛付きはきれいさっぱり消えてしまっていた。
その感情がもっと大きな波に攫われたからだ。神経が窄まって、心臓の音だけがやけに五月蝿い。
人の匂いでいっぱいの車内。だがこの中に人間的なつながりはどれくらいあるのだろうか。
偶然同じ時刻に、同じ電車に乗り合わせただけの希薄な関係。
ここで誰かが急病で倒れても、いったい何人がすぐさま救いの手を差し伸べるだろうか。
きっと、誰かが声をかけるだろうと知らぬ顔をするのが相場だ。
実際俺もそうするだろう。ただそれだけの、薄い、薄い空間。

しかし、俺と森さん、ゆかりの関係はまったく違う。
ゆかりは大切な幼馴染。思春期を通り過ぎても弱まらなかった絆がある。
森さんは俺が事故に巻き込んでしまった人物。
被害者加害者の関係であったが、今はもっと別の形でつながっていると思いたい。
俺に見捨てられるという被害妄想に浸ってしまった森さんはいくつかの奇行に出たが、
その意図はすべて俺に繋がっている。
ゆかりとの繋がりも同様だ。どちらかがナイフで切ったとしても、相互関係である以上
片方がしっかりと相手に絡みつく。
なら、森さんとゆかりの関係はどうなのだろうか。
俺を中心に生まれたトライアングル――――
三角という以上、その二人にも糸が張っているはず。
それがどんな糸なのか・・・
俺はそれを今から追及しようとしているのだ。
すべてを捻じ曲げた二人の関係。
たとえそれが拗れて修復不可能なほどに歪んでいたとしても、俺にはそれを受け止める義務が
あるのではないだろうか。
だとしたら、俺はまっすぐ目の前を見て進むしかない。
昔からそれほど器用な人間ではないのだから。

突然ポケットに突っ込んだままだった携帯が振動した。
バックポケットでジーンズを揺らす振動は三回。メールだ。
俺は待ちわびたとばかりに携帯を開く。
はやる気持ちを抑えもせず、薬の切れた中毒者のような手つきで新着メールを確認した。

『ゆかり
題名:ごめんね
本文:電話出れなくてごめんね〜ちょっと体調崩したみたいで、今日は病院に行くから
学校は休むからよろしくね☆
夕食はちゃんと作っておくから期待して待っててね!!学校が終ったらすぐ来てよ〜』

内容は水槽の金魚に餌をやろうとしたら、鰐が飛び出して腕を持っていかれるくらいに予想外だった。
勿論、逆の意味で。
安堵感と先ほどから張り詰めていたせいか、妙な疲労感が全身を奔る。
俺は電車のドアに背中を預けてほっと一息ついた。
朝から全力で走りこんだような虚脱感で暫く呆けながら、列車の揺れに体を預けた。
あぁ・・・やべぇ・・・ここ優先席の目の前だった、電源、切らなきゃ。
アホみたいに律儀な考えだけが、浮かんでは消えていた。

 

ゆかりのいない講義というのはいやに殺風景なものだった。
何故か瞳には講堂が色あせて映り、普段なら仲間と大勢で囲む昼飯も何故か一人で摂りたくなった。
購買で買ったパンとペットボトルの緑茶。
室内から出ると、外はやはり真冬。
小春日和の太陽は早々に形を潜め、北風が乾いた悲鳴を上げていた。
キャンパス内を歩く者たちは一様にコートの襟を立て、マフラーの結びを強める。
その中でポツリとたっている自分を客観的に見ると、他人にはどう映るのだろうか。
ただの学生、その中の一人でしかないだろう。列車の中で感じたとおり、ワンオブゼムの、
すれ違うだけの関係。
仲間との繋がりを強く感じられたこの場所でも、感じるのは何故か孤独感だけだった。
あぁどうかしてんぞ、俺。頭の中だけでぼやいてみる。
学校が終れば飯だ。ゆかりの飯。そこでゆかりに話を聞けばいい。
今は、握り締めたペットボトルの人工的な暖だけが俺のぬくもりだった。

 

普段は思いつくことのない大学という場所に不釣合いな感傷に浸りながらも、
その日を滞りなく消化した俺は、講義終了後即刻電車に乗り込んだ。
流れ行く風景と夜に染まり行く都景。
電車が空気を切り裂いて進むたびに、追い越していく街の光。
一際大きな不眠街にたどり着いたかと思えば、家路に着くものであふれ帰る私鉄へ足早に乗り換える。
二十分ほど、電車の揺れに身を任せると目的の駅にたどり着く。
さっさと切符を精算して改札をくぐり、ざわめきだす黒い雲を眺めながらも俺は走り出した。

ガツガツとソールを鳴らし、俺はゆかりのマンションの階段を上っていた。
エレベーターを使うのもいいのだが、このマンションはあまりには階数が多い。
正直待つのがダルイので階段で行くことにしたのだ。
一階分上るたびに感じる焦燥感は加速していく。
自然とペースの上がる足に自分でも気づかない。
人の流れに身を任すことによって一時は抑えられていた気持ちが、フルスロットルで回転する。
心臓が大きな音を鳴らす。
今思えば、これは半鐘だったのだろう。
クラッチ盤を焦がすような感覚は、直感的な警鐘だったのだろう。

――――だが俺は、それに気づかず、ゆかりの部屋にたどり着いた。

 

荒れる呼吸を何とか整え、とりあえずインターフォンを鳴らす。
・・・・無音。
間隔を置いて、再び鳴らす。

もう一度、鳴らす。
――――無反応
今度は間隔を狭めて、鳴らす。
――――沈黙
更に早いタイミングで、鳴らす。
――――無返答
時を置いた最後は、連打していた。

何だこの違和感は?
奇妙。
奇妙だ。

俺はすぐさま体を反転させ、管理人室へ向かう。
ゆかりとは確かに夕食の約束をした。
今までそういう類の約束を破ったことのないゆかりが、家にいないはずがない。
たとえ学校を休んだとしても、そんなことはありえない。

俺は再びエレベーターホールに向かい、階段を下ろうとして、言い知れぬ不快感に足を止めた。

心臓の鳴らす半鐘と、背筋を走り抜けていく悪寒が、強くなる。
冬なのに肌と服の隙間を滑り落ちていく冷や汗に、俺は階段を下ることをためらった。

 

だが中途半端な姿勢でそうしていた所為か、不自然な衝撃に体が均衡を崩した。
気づけば緩やかな陥穽に全身を囚われているかのように。

ふらつく足元、ゆれる体。

突然の衝撃に、階段を受身も取れないまま転がり落ちていた。
ゆかりに固定されていた思考のせいか、実感がない。
思考だけがぽつりと宙を浮かんでいるよう。
手を伸ばして胸に戻すと、体を鈍い衝撃が襲う。
階段の縁に頭を打ちつけ、肘を殴打し、脇腹を打撲して、足が妙な方向に捻じ曲がっても、
心はぽっかりと穴を開けたまま。

踊り場に転げ落ちて数瞬。

ようやく追いついてきた体のコントロールに全神経が痛みのオーケストラを奏でた。

ヘッタクソな演奏だ。統一性などない。
だからこそ混ざり合った思考と、正反対の痛みをリアルに刻み付けてくれる。
ぬるりといやな熱さが額から落ちて、視界を塞ぐ。

だが、たとえ視界をふさがれようとも、この細い目は、ぽんこつな耳は、霞む風景の中で
逃してはならないものを捉えていた。

 

カツ、カツ、カツ・・・

この音は・・・

不気味なくらいに冴えていく思考。

まさか・・・
腹の辺りを這い回る、いやな、いやな感覚。

それが・・・

――――暗転した。

10

確定だった。

今まで何度も心の中で否定してきたが、終にこうやって自身の瞳で映してしまったのだ。

その、決定的な光景を。

なんといえばいいのだろう。
この気持ちを。
概念では表現できず、頭の中の抽象的な映像でしか捉えることができない。

ただひとつ簡単に言葉にしてしまうとすれば、それは一色に表すことができる。

――――黒。

私があれほど釘を刺したのに、馨はまたあの病院へ向かった。
その結果が、これ?
身を切るような寒さに体を丸めてこらえ、いつ馨がでてくるのだろうかと心待ちにしていれば、
朝日が目を焼いていた。

ふと一晩中私は何をやっているのだろうという考えにいたったが、一瞬で打ち消した。
決まっている。
馨のことを考えていた。
いつもいつも、私の心を占めているのは馨しかありえない。
どんな佳境に心を乱されようとも、結局残るのはその気持ちだけ。

少し悔しいなぁと、馨の横顔を浮かべては、思う。
でも、同時に仕方ないと思ってしまった。

それが、私の本心なんだから。
二度と来ない瞬間に後悔だけは残したくない。
中学時代からの教訓。

でも教訓に倣っているだけでは、現実は好転しない。
一度傾いていしまったバランスを正すには、それ以上の衝撃で今を転覆させるだけ。
朝の病院から足早に去っていく馨の後姿を眺め、不穏な決意を身に抱いた。

だが実のところ、どうやってあの女から馨を取り戻す?

自分の体を使って馨を惑わそうか?
これは何度も失敗している、却下。

ならばあの女みたいに自傷行動に出るか?
これも無駄。長年築き上げてこいた関係を白紙に戻してしまうだけ。

 

さてどうしようか…
胸に黒いものを抱えながら思索をめぐらせていると、先ほどまでの激昂は怖いくらいに醒めていった。
それと同時に妙なシンパシーを感じる。

きっとあの女も馨をひきつけようと、こんな策謀をめぐらせていたのだろう。
同じくして浮かび上がったのはあの女の零れんばかりの笑顔。

「■■…」

病室とあの女の顔、そして馨の後姿がかちりと音を立ててリンクした。

馨を他の存在に曝さない。

自分だけが馨を見ていられる状況を作り出す。

簡単なことじゃない…

“馨を閉じ込めてしまえばいいんだ”

そう思いついたとたん、急に胸が軽くなった。
昨晩は不安で不安で仕方がなかったけど、その気持ちがまるで夢の中の出来事みたいに消滅していた。

なんて素敵なことだろう。
ずっと馨と一緒にいられる。
あの女のところに行かない、別の女を見ない。
そしてずっと私は馨のお世話をしていられる。
十数年、心に溜めて来た想いが爆発して、私は今にも踊りだしたい感情をこらえ切れなかった。

馨…ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね。
恐くない、すぐに済むから。
すぐに二人だけになれるから。

どうして今までこうしなかったのだろう。
とても簡単で単純で、小学生でも思いつくようなことなのに…

沸き立つ気持ち。
何度も別の女に盗られた馨。それを後ろから見ていることしかできなかった私。
馨の上辺ばかりを愛した雌ども、馨の優しさだけに漬け込んできた犬ども。

悔しくて。目を覚まさせてあげたくて、何度も、何度も頼んだのに。
いつも馨は笑っていた。
どんなに傷ついても、自分がボロボロに壊れていっても…

その寂しい笑顔が、忘れられなくて、離れられなくて。

それでもずっと待ち続けた。

 

 

もう我慢は要らない。
今度の相手は今までの連中とは違う。

手段を選ばないタイプ。
自分を抑えられないタイプ。

――――私と同じ、■■■なタイプ…

 

こんなことを考えている私、どんな顔をしているのかな?

唇を吊り上げて、私は歩き出す。

 

 

学校を無断欠席した。
授業を一度もサボったことのない私が連絡もなしに姿をくらませば、馨は私の重要性に気づくはず。
困ったとき、嬉しいとき、傍に私がいない。
どう思うかしら?

馨の心(なか)に住んでいる私、馨の瞳に映る私…

嬉しくなる。
自分がいないところで、馨が私のことを考えてくれていると思うと…

一人はしたない笑みを浮かべていると、携帯が着信メロディを吐き出した。
この曲は、馨から。
神速でメールボックスを開き、新着メッセージを確認する。

内容は昨晩のこと。
私があの女に何を言ったか、何をしたか。
そして、最後に私を心配する内容が添えられていた。
とても簡潔で馨にしては乱暴な言葉遣い。
それでも嬉しい。
胸に暖かい気持ちがあふれた。

でも同時に、心の奥には冷えた部分がある。
昨日あの女が馨を呼び寄せて何をしたかだ。

私の言葉でバカみたいに踊ったあの窮鼠はどんな行動に出たのか。
おそらく、馨に関係でも迫ったのだろう。
その貧相な体を精一杯押し付けて。
そして如何なる妄言で馨を病院に呼び寄せたのか。

私が馨からの誘いに甘く震えているときに。

 

せっかく私が馨からの誘いに甘く震えているときに。


……
………引いていたはずの溶岩が腹で胎動する。

嫉妬と、焼付く様な怒りを伴い、業火で狂う。

メールは平常心を装った内容で返信した。
それでも、手が標的のない殺意に痙攣する。

それから自分が何をしていたか覚えていない。
気づけばお気に入りのぬいぐるみがボロボロに弾けていたし、綺麗に並べた香水の瓶がいつの間にか
割れて魔女の釜のような匂いを発していた。

私がようやく平常心を取り戻したのは、馨のお陰だった。

荒々しく叩かれる扉。

来た……!!
目の前に馨がいる。

今すぐ飛びつきたい。
その逞しい体に顔をうずめたいしなやかな体に抱きしめられたい。
無骨な指で、頬をなぞって欲しい。

でも、我慢…

楽園は目の前に迫っている。
ここで焦ってはだめ。

慎重に、慎重に機会を待つ。
精神を研ぎ澄まし、急降下を待つ鷹のように爪を研ぎ。
舌をちらつかせ、喰らいつく毒蛇のように呼吸を殺す。

すぐに去っていく足音。
管理人室に向かったのだろう。

さぁ・・・
はじめよう。
私が、馨を、外敵から護るための神聖な行為。
誰にも侵されない、誰にも触れさせない聖域を築くための、儀式。

優しく馨の背中に触れてあげよう。
崖の下は谷底じゃない。

私の腕の中だから。

安心していいの。

ずっとずっとずっとずっとずっと!!

傍にいてあげるからね。

 

後ろから迫る私の存在に、馨は気づかない。
襟元に狐の毛をあしらった革のブルゾンを着こなしたその背中。

いっそのこと抱きついたまま飛び降りようかと思う。
…そこは押しとどめた。

そして馨が階段を下りようとして固まった瞬間…!!

愛撫するように優しく、そして律動するように激しく、その背中を押した。

魂が中に浮かんだように呆ける馨。
自分がどうなったか、がらんどうになった心では整理がつかないのだろう。
それでも美しい。
鈍い衝撃に転がりながら階段を滑っていく馨。

踊り場の壁に背中を打ち付けてうつぶせに倒れた馨は、身を折って激しく咳き込んだ。
その体の動きに伴って、前頭部からぬるりと赤いものが滴る。
それが意外にも長い馨の睫毛を濡らしたとき、私はいよいよ我慢が利かなくなった。

色っぽい。
あまりに官能的。
普段凛々しいその姿が、雨に打たれる棄て猫みたいに震えて…!!

あぁ、こんな馨見たことないよ。

 

可愛い愛しい素敵大好き愛してる襲いかかって服を脱がしてこのまま獣みたいに交わりたい
ぞくぞくぞくぞくぞくぞくぞくするこれは寒さのせいじゃない体をおかしくさせるくらいに
こぼれた血を掬って舐めたい迸る鮮血を尖らせた唇で吸収したい馨のにおいを胸いっぱいに吸い込んで
あの女の不健康な病院と包帯と薬のにおいを私の匂いでかき消して
一生離れられないようにこのまま一つになるのもいいし■■してもあこれから監■するんだった
■禁でも私の手当てじゃ馨が死んじゃうから救急車を呼んで近くの病院に搬送してもらおう
あの女がこられないように私がずっとずっと死ぬまで傍にいてあげるから、ね?

自分の存在をアピールするように、いつも歩き方をする。
沈黙した空間に、ヒールの音だけが響く。

馨が微かに顔を上げた。
自ら突き落とし、自ら手を差し伸べる。
そんな背徳的な行為がいよいよ高揚感という猛火に油を注いでいく。
馨の閉じかけている瞼から光るのは、思考の光。
生きてる。

だから、ゆっくり休んで…

私は。
そっと…

 

うごかなくなったかおるにくちづける。

To be continued...

 

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