――口に何かやわらかいものが触れた。
それが朝生の唇であることに気づいた瞬間、あまりの当惑に頭が真っ白になる。
本意でない初めてのキスは幸福や愛しさなんてなくて。唇の柔らかさや暖かさを感じる余裕もなくて。
なぜか、激しい焦燥感と喪失感に襲われただけだった。
「っ……凪!!」
その焦燥感が命じる通り、すぐに両手で朝生の肩を掴んで引き離す。
慌てふためく俺とは対照的に、朝生は艶やかな笑みを浮かべてクスクスと笑い始めた。
「今、凪って名前で呼んでくれましたね、先輩……。
はぁぁ、やりました、やっと呼んでくれた」
「あ……。い、いや! そんなことより、何でこんなことっ」
俺はただ、朝生に「白河先輩のことで相談がある」って言われたから、
あいつを置いてまで屋上に来たのに。
最近、瑞奈がクラスで孤立しているという噂も聞いてたから余計に気になったし、
それに夏休み前のこともある。
そして、なんといっても俺自身瑞奈にはちょっとした違和感を感じていた。
自意識過剰かもしれないが、俺に嫌われたくないあまり必死になっているように見えたのだ。
全てはそんな瑞奈を心配する想いで来たはずなのに――それが、何でこんなことに?
「ふふ……何でって、先輩が私に顔を寄せてくれたんじゃないですかぁ」
「な……! だ、だいたい、お前風邪なんだろ!?
それでふらついたから支えてやったのに……まさか、嘘だったのか?」
「そんな、先輩に嘘なんかつきませんよ。本当にフラッとキちゃったんです。
……なんなら触ってみます? はい、おでこ」
そう言って、朝生は俺を甘く見つめながら前髪を掻きあげた。
その仕草と覗かれる額が妙な色情を感じさせて、ドキドキと心臓が騒ぎ出す。
――ドキドキ……? 俺が、瑞奈以外の人間に?
「先輩……? …………ほら」
反応できないでいる俺に業を煮やしたのか、俺の手首をとると、自分の額へと持っていく朝生。
ぴったりと朝生の額に手が合わさると、朝生の言ったことが本当だということが分かる。
熱い。素人が触っても、これが平熱でないことが分かる熱さだ。
立っているのも辛いはずなのに、凪はうっとりとした表情を浮かべると、
掴んでいた手を俺の手と重ねた。
「あぁ……先輩の手……先輩の体温だぁ……。
ん……はぁ……昨日といっしょ……じんじんってしちゃいます」
――誰だ?
魅惑的な声色と、妖艶な微笑。そして積極的なアプローチ。
そのいずれも、昨日までの凪からは想像もつかないものだ。
これじゃまるで目の前にいるのが朝生じゃない誰かのような――。
いや……だけど、この雰囲気は……。
「んふふ……せんぱぁい……」
この危うさは、昨日自殺しようとした朝生に似通うものがあるかもしれない。
だとしたら、どうしてまた「この」朝生が出てきたんだ。
あの時は、俺たちがそうだったように、あまりの辛さに感情が爆発した、
ただの一時的な二重人格みたいなものだと思っていたけれど……違うのか?
……やめだ。そんなこと、いくら考えても朝生にしか分かるはずない。
――それより、今は。
「……なぁ。俺をここに呼んだのは、その……キスをするため?」
俺がそれを尋ねると、朝生の手がぴくっと反応した。
「そんなに白河先輩のことが気になります?」
「気になるのは当たり前だけど、そもそもそのために屋上に来たんだろ。
……それとも俺をここに呼び出すための口実だったのか?」
「言ったはずじゃないですか……先輩に嘘なんかつきません。
もちろん、白河先輩とあなたとのことでお話があったからですよ」
単刀直入に言わせてもらいます、と朝生が付け加える。
うっすらと浮かべていた笑みも消えて、真っ直ぐに俺を突き刺す視線。
気付けば俺の手は朝生の手に握られたまま、額から離されている。
さっきまでの甘い空気が嘘のように、張りつめた沈黙が流れる。
そんな中、俺は続きを催促するように朝生を見つめ返した。
「白河先輩とは、距離を置いてください」
もしかしたら、その答えを予想していたのかも知れない。
だからすぐに答えることができたんだと思う。
「それはできない」
また、朝生の手がぴくっと動いた。
「理由も……訊かないんですね」
「思い当たることが多すぎるからな」
まずは夏休み前。俺が瑞奈に嫌われてることを知って、避けだした頃だ。
あの時から、瑞奈はクラスでの様子がおかしくなった。
そして二学期。俺は「僕」を捨てて瑞奈を迎えに行った。
それから更に瑞奈はクラスから孤立してしまった。
薄々感ずいてはいたけど、これはきっと全部俺のせいだ。
だけどその原因に確信を持てなかったから、それを理由に逃げていた。
「だったら……あなたのためにも、白河先輩のためにも、距離をおくべきです」
「瑞奈は幼い頃、ずっと人に避けられてきたんだぞ……
それなのに俺まで避けたりしたら、また瑞奈を傷つけることになってしまう」
そうだ。誰かに嫌われるのを恐れてるあいつを、もう避けたりしない。
「そうして、白河先輩がクラスで完全に一人になっちゃったら……
先輩はどうやって責任を取るつもりですか?」
「俺も孤立するよ。……もともと瑞奈のために媚を売っていたようなもんだ。
あいつが昔のように孤立するなら、俺も昔に戻ればいい」
それを言った途端、手に熱と圧力が伝わる。
朝生の手に力がこもったせいだ。
「……二学期に入ってから、急に先輩が変わっていたのも瑞奈さんのためなんですよね……」
短く一言だけ、同意の返事を返す。
…………。
………………。
「どうして、あなたはっ! あの人のためにそこまでするんですか!?」
今日になって、初めて取り乱したように叫ぶ朝生。
その表情には疑問よりも怒りが色濃くにじんでいた。
「いえ……分かってます……白河先輩のこと、好きなんですもんね」
「………………」
胸が、ずきんと痛む。
「でも、ダメですよ。先輩がいくら白河先輩を愛していても……」
「言うなよ……そんなの分かってる」
「分かってませんっ! あの人は……白河先輩は、そんな先輩の想いにすら……っ!」
「分かってるっ!!!」
俺は、締めつけられる胸の痛みに堪えきれず、大声を張り上げた。
それに朝生は目を見開いて驚くと、萎縮したように押し黙る。
――怒鳴るつもりはなかった。
謝ろうかと口を開くが、出た言葉は謝罪なんかじゃなかった。
「あいつは、俺の想いには応えてくれない……分かってるよ
嫌われてる俺なんかがいくら好きでいても、無駄ってことぐらい」
「…………え?」
違う。何を言ってるんだ、俺は。
こんなことを朝生に言ってどうするつもりだ。瑞奈の、たった一人の本当の親友なんだぞ。
二人を気まずくさせるだけっていうのに。
……最低だ。
朝生の表情が、髪と曇天の陰に隠れて見えなくなる。
「……先輩。先輩はいつ、自分が白河先輩に嫌われてることを知ったんですか?」
問い詰めるような朝生の口調には有無を言わさない気迫があった。
それに気圧されてしまうが、それでも――。
「ごめん、紛らわしかったな。別に瑞奈から直接聞いたわけでもないし、
俺が勝手にそうじゃないかって思ってるだけなんだ。はは……」
嘘をついてでも、二人の仲を壊しちゃいけない。孤立した瑞奈にはきっと朝生が必要なのだから。
悲しいけれど……瑞奈にとって、朝生は俺じゃ代えられない大切な友達だ。
「それでは質問を変えます。嫌われてると思っているのに、
それでもまだあの人を好きでいるつもりですか?
いくら想い続けても、どうしても報われない想いもあるんですよ……?」
最後、声が僅かに憂いの色を帯びていたことに気付く。
その言葉は経験したことのある者だけの重さを伴っていた。
朝生に心配までされているのに、結局俺は瑞奈を諦められない。
ダイエットして、髪を切って、コンタクトにしたのは――紛れもなく瑞奈に振り向いてほしいからだ。
俺がもう少しマシな男になれば、瑞奈も俺のこと見直してくれるかも知れない。
そんな下心があったからだ。
本当は今だって、少しは見直してくれたんじゃないかって、淡い希望に縋り続けてる。
俺たちはどんな傷も舐めあって生きてきた。
一人じゃ耐えられなかったから、依存し合うしかなかったから。
……嫌いなんて言われても、今更この依存をどうにかできるわけないんだ。
「……ありがとな、こんなやつの心配してくれて」
刹那――俺の手が痛いぐらいに握り潰された。
「お礼じゃなくて返事が聞きたいんです、私はっ!!!」
「っ……朝生……?」
「先輩はあの女に嫌われているんですよ! 脈なんて全然ないんですよ!?
それをいつまでも女々しく想いつづけるだなんて、どうかしています!
無駄ですっ、迷惑ですっ、キモいだけですそんなの!!
一途なのは結構ですけど、それをあの女は知りもしませんっ! いいえ、知ろうともしませんっ!!
ちょっと容姿が良いだけのそんな鈍感女のどこがいいんです?
大体あの女は貴方を振り回しているだけじゃないですかっ!?
先輩の優しさに甘えるだけ甘えておいて、その幸福が当然だと思っているから
ちょっと貴方がいなくなっただけでウダウダウダウダ……
自分に向けられている愛を、自分がどれだけ恵まれているのかを、
全部ぜんぶ無駄にしてしまうあんなクズ女のどこがっっ!!!」
全てを言い終えた朝生は、はぁはぁと肩で息をする。
俺はといえば、言葉が出なかった。それぐらい信じられなかったのだ。
朝生が親友であるはずの瑞奈を貶めていることが。その表情が憎悪で歪められていることが。
信じられないあまり、しばらく茫然自失してしまう。
「気付いているかも知れませんが、私はあなたを愛しています。この世界の誰よりも大好きです。
スキでスキでスキでスキでスキでスキでスキでスキでスキでドウシヨウモないぐらい……。
私ならあなたの想いにあんな女の何倍も何十倍も何百倍も応えることができるんです。
先輩……もう苦しまないでください。愛なら、私がいくらでも差し上げます。
だから――――お願いします、私を愛してください」
告白の返事を待つ彼女の目は、いつもの弱気な朝生の目になっていた。
受け入れられるかどうか不安で、緊張に体が硬くなっているのが分かる。
俺は自分を落ち着けるために、ゆっくりと息を吐いた。
――だけど結局感情を抑えることはできなかった。
「なんだよ、それ……」
「…………え?」
ずっと握られていた自分の手を、朝生から強引に振りほどく。
「あぅっ……」
「俺はお前がクズ女呼ばわりする瑞奈に焦がれてるっていうのに。
そんな俺にお前は告白するのか?」
「え、あ……え?」
激情が堰を切るように言葉になって流れていく。
俺は困惑する朝生を睨みつけ、続けた。
「勘違いしているようだけど、俺は瑞奈に振り回されてると思ったことなんて一度もない。
あいつと一緒にいて、想い続けることが苦しいと思ったことなんて一度もない。
俺とあいつのことなんて何も知らないくせに……分かった風にあいつを語るなよ」
「あ、あぁ……ごめ、なさっ……。で、でも……違うんです……私が、私が言いたかったのは……」
分かってる。
朝生は本当に俺を心配してくれて、勇気を持って告白までしてくれた。それは純粋に嬉しくもある。
想いを寄せる相手に拒絶されるのが、どれだけ辛いかも知っている。
でも、明らかな憎悪を持って瑞奈を嘲ったことが、俺には何より許せなかった。
「……俺はお前を愛せない。
お前が瑞奈を憎むなら、俺たちの関係も終わりだ」
辺りが、一層暗くなり始めた。
ポツポツと、屋上に小さくて黒いシミができていく。
「オワ、リ……先輩と、もう……話せなくなるんですか……?
そんな……ア、ああぁぁァァァ……やだ、イヤ……ヤです、そんなの……。
ゴメンなさい、違うんです……ゴメンなさい、許してください……。
もう欲張ったりしません、憎んだりしません、何でも言うこと聞きますからぁ」
穏やかだった雨は、すぐに変化を遂げる。
激しい風に運ばれて数多の雨が無情に体を打ちつけ始めた。
一瞬で強雨へと変わる雨に、体中の熱が奪われるような錯覚に陥ってしまう。
「…………ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――――」
俯き、震えながら自分を抱いて、うわ言のように謝り続ける朝生。
その様子があまりに悲愴だったから、強烈な罪悪感に襲われた。
たった一度でも優しく抱きしめてあげようとするのを、それでも感情が拒否する。
朝生は、今朝までは確かに俺たちの同士だったというのに……。
……雨で垂れ下がった髪が朝生の顔を見えなくさせていた。
だから朝生の風邪が酷くなっていることに、彼女が倒れるまで気付けなかったんだ。
…………。
………………。
それから、俺は朝生を保健室までおぶっていった。
幸い中に他の生徒はおらず、保険医の先生も暇していたようですぐに診てもらえた。
朝生は予想通り相当な高熱で、意識が戻るまでベッドで寝かせて早退させるとのことだった。
一時間ほど朝生の横で看病をしていたが、容態も落ち着いたのでクラスに戻るよう先生に勧められた。
俺はこのまま授業を受けられる気分じゃなくて、具合が悪いということで早退の許しをもらい、
帰宅することにした。
「………………」
薄手の制服が肌に張り付いて、気持ちが悪い。
一向に弱まる気配のない強雨に溜息ばかりが出てきてしまう。
こう寒い上に湿っぽい雨の中にいると、いつまでも鬱々とした気分は晴れない。
『もうお母様に愛してもらわなくてもいい、他の誰からも必要とされなくてもいいの……!
ただ……あなただけいてくれたら、それで私は満たされるのに……っ』
俺が保健室を出る間際、目を覚ました朝生に言われた言葉だ。
――朝生 凪。
色々な闇を抱えた俺たちの同士。だった、とは……ならないことを願う。
もしかしたら俺は、あの子の傷痕を共有するどころか、広げてしまったんじゃないだろうか。
朝生に瑞奈を罵られた時、あの時は何も知らないくせにと思ってしまった。
だけど、朝生のことを何も知らないのは俺も同じなんだ。
俺たちと同じだからと分かったふりをしていても、
当たり前だけど俺たちと朝生の事情は似て異なるもの。
……昨日の自殺しようとしていた時に、俺は朝生の苦しみを聞きだすべきだったんじゃないか。
そうすれば……朝生の気持ちを理解していれば……こんなことにはならなかったかも知れない……。
「……くそっ」
何をウダウダ後悔してるんだ、俺は。
過ぎてしまったことを後悔しても何も変わらないことは、ずっと昔に思い知ったことなのに。
過去にいつまでも悩むより、これからどうするかを考えた方がよっぽど建設的だ。
……もしかしたら明日には朝生もいつも通りの姿を見せてくれるかも知れないし。
いや、先に俺がいつも通りでいなくちゃいけない。
そうすれば、きっと瑞奈も大事な親友を失わずにすむ。
だけど、雨で陰鬱になった心がそれを否定しようとする。あの関係はもう二度と帰ってこない、と。
一瞬でもそんな愚かしいことを考えた自分を叱責したとき――。
ようやく見慣れた自分の家が見えてきた。
「キョータくん……」
見えてきたのは、俺の家だけじゃない。
完全に濡れて天気のせいか黒ずんで見える亜麻色の長い髪と、
俺を真っ直ぐに見つめる輝きを失った瞳。
ところどころ透けている荒れた衣服と、そこから覗かれる血の気のひいた病的なほど白く美しい肢体。
目の前にいる少女は、どんなときも二人だった愛しい幼馴染で間違いない。
だけど――どうして……?
今はまだ、授業が行われている最中のはずなのに。
改めて瑞奈を見つめて、その異常性に気付く。
濡れていないところがどこもない。もしかしたら手もふやけているかもしれない。
ぐしゅぐしゅのずぶ濡れ。まさにそんな状態だった。
いくら雨が強いといっても、短時間でこれほど悲惨な状態にはならない。
――こんな雨の中、ずっと俺の家の前で待ち伏せていたのだろうか。
瑞奈は、そんな疑問にはまるでお構いなしに俺に駆け寄ってきた。
そしてよどんだ瞳で俺を捉えて、薄紫の唇で言葉を紡ぐ――。
「えへ……おかえり、キョータくん」 |