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お願い、愛して!



1

『なんで僕たちだけ……なんで……』
『キョータくん……』
『僕らだって欲しかった……だけど、そんなの決められることじゃなかったんだ!』
『…………』
『なんで、そんなことで嫌われなくちゃいけないんだよ……おかしいよ……』
『だいじょぶ、だいじょぶだよ? わたしも同じだから……わたしだけはずっと
  キョータくんの味方だから……ね?』
『……ごめん……っ』
『謝らないで。……そうだ、ねぇ約束しようよ。あなたが望むものはわたしが
  与えてあげる……だから――』

 朝の訪れと共に覚醒した意識は同時に憂鬱な色へと染まる。
  うっすらと開いた目から窓を通して青々とした空が見えた。
「変な夢……」
  気だるげに言って、頭をかきながら起き上がる。目覚めの日光はどうも好きになれない。
  まぁ、曇りの日も雨の日も雪の日も等しく憂鬱なわけだが……。
  必要以上に温度の高い僕に暖められた布の熱が恋しくなり、もう一度、ベッドに伏せようか
  という考えが頭をよぎった。
  ……あ……。
  だが、時計を見てその考えは即座に却下。
「キョータくん!」
  まずい!
「ごめん瑞奈ぁ! 今起きた!」
  姿を確認するのを省略して、ハンガーにかけた制服に手を伸ばしながら、
  二階のここからでも聞こえるように叫ぶ。
  僕のことをキョータくんと呼ぶ人間なんて一人しかいない。
  僕の名前はキョータではなく、京太(ケイタ)だからだ。
  ずっと前に間違って以来、瑞菜はずっとキョータと呼び続け、もはや今では第二の名前として
  違和感すらない。
「いいよ〜! 待ってるから」
「ごめん!」
  最後にそれだけ言って、僕は急いで少しきつい制服に袖を通した。

 別に遅刻するような時間じゃない。もしかしたらこれさえ計算づくなんじゃないかと思う程、
  始まりの予鈴にはまだ余裕がある。
  だけど想い人を長く待たせるわけにもいかない。

 こんな朝の情景を繰り返してきて、もう幾数年が経った。
  律儀にも毎朝、僕を迎えに来てくれる少女、白河瑞菜(しらかわ みずな)は
  母親代わりの叔母と一緒に暮らしている。
  両親を交通事故で亡くしてから、叔母に引き取られ、ここに引っ越してきたのだという。
  出会った頃は叔母の後ろに隠れて顔すら見せてくれなかったのを覚えている。
  幼い時分にそれだけの衝撃があれば無理はなかった。
  そんな瑞菜も今では随分と社交的になり、代わりに僕はこんな体型も災いしてか、
  瑞菜以外の人間とはすっかり疎遠になっていった。
  それに不満や孤独を感じていないわけじゃないが、正直に言うと瑞菜以外にどう思われていようと
  大した問題じゃなかった。
  瑞菜は美人だ。いや、確かに美人でもあるのだが、それより際立つのはその愛くるしさだ。
  プロポーションにはあまり恵まれていないが、故に可愛らしさをより強調している。
  それに惹かれたというのも確かだが、瑞奈と長い付き合いをしていれば、
  どう足掻いても意識してしまう。それだけの内面的魅力も兼ね揃えているのだ。
  彼女ならきっと、そのままの僕を愛してくれる。
  そう信じていた。

 わたしには、誰よりも大切な人がいる。
  恋に恋する時期を迎える前から、気付いたときには好きになっていた。
  その男の子は世間一般が言うには不細工な人間に属するらしい。
  彼を分かってない。何度聞いても、苛立ちながらそう思う。
  眼鏡をはめてて、ちょっと荒れた髪が長くて、アニメのロボットみたいなのが大好きで、
  そしてお腹がプニプニ愛らしいあの人。
  あの人は引っ越してきたわたしに優しくしてくれた。母の背中に隠れるわたしにお腹を差し出して、
  触ってみろ。って言ってくれた。柔らかくて暖かかった。
  その暖かさに涙を流したのも一度や二度じゃない。
  あぁ……キョータくん……。
  気付けば彼の熱を求めているわたしがいた。
  早く、はやく、ハヤク……早く来て。
  その姿を早く目に焼き付けて、声を頭に刻ませて、キョータくんの隣でキョータくんの息遣いを
  聞きながらキョータくんと歩きたくて……。
「キョータくん!」
  待ち望んだキョータくんが中から姿を見せてくれた。
  ――えへへ。今日もかっこいいよ……キョータくん?
  わたしは、にやけそうになる表情を必死にこらえてキョータくんに駆け寄っていった。
  この時は毎日不安なんだけど、いつもキョータくん、準備が早いから我慢できるんだ。

「おはよう、瑞菜」
「おはよ〜!」
  あぁ……キョータくんの「おはよう」は一日の原動力だよぅ……。

「いつもありがとう」
「ううん、全然だいじょぶ」
「そう? 今度は僕が早起きして迎えに行くからね」
「っっ!!」
  キョータくん優しいよぉ〜っ! 思わず抱きついちゃいそうだったよ?

 キョータくんは昔から少しも変わってない。いつも優しくて、気遣ってくれて、
  安心できる笑顔を見せてくれる。
  その笑顔を他の人にも見せてるって考えると、気が狂いそうになるけど、
  でもそんなこといって束縛して嫌われるのは絶対に嫌だから。
  だから我慢するんだ。
「それじゃ、行こうか」
「うんっ!」
  早く隣を歩くキョータくんの暖かい手を握りながら、学校に行ける日を夢見て、わたしたちは歩き出した。

「ねぇ瑞菜ぁ……あんた学園のアイドルなの分かってる? 自覚してる?」
「え?」
  わたしは突然の理恵ちゃんの言葉に首を傾げた。
  今は昼休み。たまに授業中、貧乏揺すりなんかしちゃいながらも、ずっと待っていたの。
  早くキョータくんのいるクラスに向かって、一緒にお弁当食べたいのに。
  うぅ……後にしてよぉ……。そんなキョータくん以外からのお世辞なんて聞き飽きて、
  今ではもう何も感じないよ。
「なんであんたみたいな可愛い子が、幼馴染だか知らないけどさぁ、あんなデブを飼ってるの?」

 ピクッ……。

 目の前の女の言葉に目元がひきつった。
「理恵ちゃん……酷いこと言わないで」
  あの人のことなんて何も分かってないくせに。
「まぁ、いいけどさ。でも瑞菜、今からあいつのとこ行くんでしょ?」
「そうだよ」
「今朝だってあいつと学校来たみたいだし、もう少し人付き合いは考えたほうが…………ってこらこら、
  睨むな。ごめん、ごめん。睨んでもあんたじゃ可愛いだけよ?」
  冗談じゃない。この女はなにをわたしの親友のつもりでいるんだろう。
  人間関係は上手くいってるってところをキョータくんに見せてあげるために、
  わたしはあなたたちと仲良くしてるフリをしてるだけなんだよ?
  変な娘のせいで少し、いやな想いしちゃった。早くキョータくんに会いたい。
「ってもこの前さぁ、左川ブーに見つめられて嫌がってなかった?」
「だって……」
  左川君がどうとかじゃなくて、あんなねちっこい視線で見つめられたらキョータくん以外、
  女子でもお断りだよ。
「デブはやなんでしょ?」
  もう……しつこい……!
「確かにあの人は……あんまり好きじゃないけど」
  いい加減にうんざりしてきながらも、話を早く終わらせるために肯定することにした。
  聞き分けのない子への対処は刺激しないこと……だよね?

 

「〜〜〜〜」

 瑞菜のクラスはここからでも喧騒に包まれているのが分かった。
  昼放課、僕は毎日僕のクラスまで来て一緒にお昼をとろうといってくれる瑞奈にたまにはこっちから
  行こうと思って、授業が終わると同時に教室を出たのだ。
  まぁ、それに今日は少し瑞菜を待たせてしまったからね。
  クラスに近づいて行くごとに喧騒は大きくなっていき、瑞菜の姿が見えた。
  瑞菜の席は廊下側の窓際にある。
  声をかけようかと思ったけど、瑞奈は瑞奈の友達(にしては化粧がキツイ)と話しているようだった。

「――デブはやなんでしょ?」

 身体が硬直した。
  ……僕のことだ。自覚ぐらいはある。
  瑞菜……?
  不安になって、瑞菜を凝視した。
  そして、耳を疑った。

「確かにあの人は……あんまり好きじゃないけど」
「っっ!」

 僕は、呆然とその場に立ち尽くした。
  何が「そのままの自分を好きになってくれる」だ。
『あんまり好きじゃないけど』
  控えめな瑞菜のその言葉は普通の人間の「嫌い」と同意義だった。
  信じていたものに裏切られた気がした。
  瑞菜も少なからず自分に好意を寄せてくれている。だから迎えにきたり、一緒にお昼をとったり、
  一緒に帰ってくれるんだと思っていた。
  ――だけど、違う。
  僕が言うとおかしいけど、瑞菜も年頃の娘だ。こんな容姿の幼馴染なんていやに決まってる。
  瑞菜は優しいから言わなかったけど、僕と仲良くしているせいで一時期クラスから
  疎遠気味にされた時だってあった。
  くそっ!
  今までの自分の自意識過剰ぶりに腹が立つ。
  瑞奈に無理をさせてきたということも相俟って、今すぐ自分をぶん殴ってやりたい気分だ。
「やっぱりね」
  悟ったような瑞菜の友人の声が聞こえて、僕は逃げるようにその場を後にした。
  少なくても瑞菜の隣にいても恥ずかしくないようになるまでは、瑞菜を避けよう。
  その想いとある決意を胸に抱きながら。
  この日、僕の初恋は終わった。

2

 あの後、ほとんど耳に入らなかった理恵ちゃんの話がようやく終わって、キョータくんのいるクラスに
  向かった。
  だけど、クラスの扉から中を伺っても、キョータくんの姿は見当たらなかった。
  クラスの人に訊いてみても、分からないとか、見てないとかクラスメイトなのに無責任なことばっかり
  言って。
  いつもはわたしが来るまで待つか、たまに待ちきれなくなってわたしを呼びに来るかのどっちかで、
  黙ってどこかに行ってしまうなんてこと滅多になかったのに。おかしいな、と思って昼休みの間、
  学校中まわって探したけど、結局――見つからなかった。
  放課後も、すぐにキョータくんのクラスに行って探したけどやっぱりいなくて。
  一抹の不安がよぎって、泣きそうになった。
  でも前にも何か用事があってこんなことがあったから、今回も何か用事でもあったんだ、
  って必死に思い直してあまり気にしないことにした。

 ……不安が現実になったのはその次の日だったんだ。

「キョータくん……お、おはよ〜!」
  少し不安を感じながらも、いつものように二階のキョータくんの部屋に向かって大きく
  おはようをした。いつも起こしに行くよりちょっと早い時間。わたしはゆっくり話しながら
  余裕を持って学校に行けるように、その時間をとった。
  一心にキョータくんのいる部屋の窓を見つめる。
  ――ねぇ、早く。早く姿を見せて。早く声を聞かせて。昨日一緒にご飯食べられなかっただけでね、
  一緒に帰れなかっただけでね、もうわたし、駄目になっちゃいそうなんだよ?
  キョータくんの声がないと今日一日頑張るなんて無理なんだから。ね?
  だから早く……。

「先に行ってて、今起きたんだ!」
「えへへ、そんなの待ってるからいいよぉ!」
  いつも、そうだったじゃない。
  待てって言われたら一日中だって……待ってるんだよ?
「…………」
  ……あれ?
「時間はあるんだから、ゆっくりさせてよ」
「え……?」
「急かされたくないんだ。早く行ってよ!」
  え……ぇ?
  わたしが毎日、キョータくんを急かしてたの?
「あ、ご……ごめ……! そんなつもりじゃなかったの……あのっ」
  ――シャー
  キョータくんはわたしの言葉を遮るようにカーテンをしめてしまった。
  ……。
  …………。
「キョータ……くん……」
  残された私の言葉は、小さくなって、曇天に消えた。

 

 ――最近、白河さんの様子がおかしい。
  そんなクラスの男子の噂が耳に入った。白河は瑞菜の姓だ。
  気になったが、訊いたところで教えてくれるとも思わなかったので、そのまま聞き耳をたてた。
  噂によると、元気がない。呼んでも返事をしない。睨んでくることがある。
  たまに目の下に小さなクマができている。など、普段の瑞菜からはあまり想像できない様子のものだった。
  もしかしたら、何か疲れているのかも知れない。
  様子を見に行きたかった。何とかして元気をつけてやりたかった。
  嫌われていると分かってても、今も昔も、何よりも大切な幼馴染であることには変わりないのだ。
  悩みがあったら聞いてやりたいし、辛いことがあったなら慰めてやりたい。
  いつか、あのどうしようもない苦しみの中で支えあったように……。
  だけど、僕のせいで瑞菜の評判を落とすようなことがあってはいけないから、
  今、瑞菜に会いに行くことはできない。
  幸いにも、明日には夏休みが入る。
  僕にとっても好都合だし、瑞菜もこの長期休みでゆっくり休養することができるだろう。

 授業が終わって、瑞菜が来る前にすぐに家に帰り、携帯の着信を確かめると、
  いくつもの留守電やメールが溜め込まれていた。
  宛名は全て瑞菜からだった。時間を確認すると、休み時間や昼、放課に集中している。
  僕は携帯を手に取ったまま、長い間、中身を確かめるでもなく、呆然とディスプレイを眺めていた。
  どれぐらい経ったか分からなくなった頃、胸が苦しくなる想いをしたが、結局中身は確かめず、
  返事を一通だけ送った。
  中身を読んでしまえば、この想いを抑える事ができなくなってしまいそうだったからだ。
  送った一通のメールの内容は、
『夏休みの間、留守にするよ』
  その短いたった一行だった。

 

 どうして? なんで?
  キョータくんが、わたしを避けてる……?
  おかしい、おかしいよね? そんなの絶対へん。
  そんなこと今までなかったのに。まわりの子達が思春期で男女が疎遠になってからも、
  わたしたちだけはずっと一緒だったのに。
  わたし、なにかキョータくんに失礼な事しちゃったのかな?
  あの時、お昼誘いに行くのが遅かったから? そうなんだ、そうなんだよね?
  ごめん、ごめんね……。あんな女に構っちゃったばっかりに。もうこんなこと絶対ないから。
  友達や先生に声をかけられても無視して行くよ。わたしだって本当はそうしたかったんだよ?
  もう良いよね、仲良しぶらなくても。なんか疲れちゃったし。
  それともわたしといるのが恥ずかしくなっちゃったの?
  ごめんね、わたし不細工だから……ごめんなさい。おかしいのどこかな?
  髪? 顔? 胸? お腹? 手足?
  キョータくんが気に入らないなら髪も切っちゃうし、ダイエットだっていくらでもするし、
  整形や豊胸手術だっていつでも受けてあげるよ。ううん、あげるじゃなくて、したいの。
  キョータくんが望むなら、こんな身体に未練なんかない。
  ねぇ、キョータくん……だから……一緒にいようよ。
  こんなお仕置き、耐えられないよぅ…………。他の事なら、どんなことでもしていいから……。
  キョータくん……キョータくん……っ。

 ――ピピピピピ
  うるさい着信音に、わたしはけだるさを感じる身体を起こして、丸テーブルに置かれた携帯を手に取った。
  制服の下に感じる生暖かくて、ぐちゅぐちゅと湿っぽい感触に自慰後の自己嫌悪を煽られ、
  早く寝て全部忘れたいと考えてしまう。

 宛名――キョータくん。
  え……っ?
  キョータくん……?
  キョータくんだぁ……!
  あれだけ送っても返してくれなかったのにっ。

 私は歓喜に震える手を必死に抑えて、すぐにメールを開いた。

『夏休みの間、留守にするよ』

3

 それから、わたしは自分がどう過ごしてたのか、良く覚えてない。
  どこかに出かけたのかも知れないし、一日中、家に引きこもっていたのかも知れない。
  叔母さんは職業柄、滅多に家に帰ってきたりしないから、わたしの行動を証明するものは
  自分の記憶しかなくて、だけどその記憶すら、あやふやでおぼろげ。
  キョータくんのいない世界はどこまでも希薄で存在感がない。まるで自分が幽鬼にでも
  なっているかのような気分がした。

 ある日、気付いたら近所の寂れた公園に来ていた。
  昔、夏休みになるとキョータくんと一緒に来て、遊んだ公園。
  中央にある砂場には、身体を泥まみれにして遊んだ記憶がある。
  学校の通学路のすぐ側にあるけど、最近では、一人でもほとんど来ることがなくなっちゃった場所。
  暑いぐらいに強いお日様の光が大して大きくもない木々を照らし輝いて、その綺麗さを称えるように
  ミンミン蝉が大合唱を唱える。
  砂場のほかには、シーソーもブランコも何もない公園だけど、この懐かしい場所にいるだけで、
  色褪せたキョータくんの姿が砂場に見えて、楽になった気がしたんだ。
  そういえば、親無し子ってことでクラスの子達に苛められた時も、よくここに泣きに来てたよね。
  そのたびにキョータくんがわたしの側で、ずっと慰めてくれて……。
  すっごく嬉しくて、嬉しくて……。それから、そんなに苛められてもないのに、
  ここで大泣きして、キョータくんにずっと側で何度も何度も慰めてもらったりして。
  気付けば、景色が滲んで揺れていた。
  わたしはその場にしゃがみ込むと、そのまま砂場に倒れこんだ。
  あぁ……キョータくんと遊んだ砂場……。

「……先輩?」
「っ!?」
  ――だ、だれ……!?
  ツインテールの見た事のない娘が、突然、視界に入ってきたかと思うと、わたしの顔を見下ろしてきた。
  わたしのことを先輩と呼ぶということは同じ学校の生徒なんだろう。
  わたしは慌ててすぐに立ち上がって、ツインテールの娘を条件反射的に睨みつけた。
「…………」
「…………」
  その子は、わたしの視線にしばらく怯えた様子を見せて、少し沈黙の後、おずおずと言った。
「あの、白河先輩……ですよね?」
「……そうだけど……」
  自惚れるようだけど、その娘がわたしの名前を知っていても、別に不思議じゃなかった。
  学園では名前すら知らない下級生から妙に馴れ馴れしく挨拶を受けることも日常で、珍しくなかったから。
「あ、あの……泣いてらしたん……ですか?」
  はっとして、わたしは服の裾で目じりをすった。
「……あなたには、関係ないことだよ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「…………」
「…………」
  なんなんだろ、この娘?
  キョータくん以外の人に涙を気づかれたことが、なんだか他人に弱みを見せちゃったみたいで、
  それを隠すように睨みを弱めないまま、思った。
  キョータくんじゃない人からの慰めなんて、要らないよ。
  だけど、次にその娘が言った言葉は予想外のものだった。

「その……ここには、よくいらっしゃるんですか?」
「え……?」
「この公園、寂れててあまり人も来ないですし……先客の方がいたなんて初めてです」
  女の子は、まるでいつもここに来ているような口ぶりで言った。
「……ううん、来たのは、ほんとに久しぶりだよ……」
「……ふふ、そうですよね。もしいらっしゃってたら、こんな狭い公園なんですから
  お会いになっているはずですよね」
  そう言うと、その娘は首だけを動かして、辺りを見渡した。
  この娘はどうやらこの公園の常連さんみたい。
「私、辛いことがあると、よくここに来るんですよ」
  突然、憂いを含んだ横顔でそんなことをいう女の子。
  辛いことがあると、ここに来るのに、いつも来ているってことは……辛いことが頻繁にあってる
  ってことなんだ……。
  その悲しげな姿が、昔の自分の姿に重なって映った。
「ここが……好きなんだね」
  気付いた時はそう言っている自分がいて、少し驚いた。
  演じてるわけでもなく、自分から口を開いたことに。
「はい、砂場しかないけど……凄く風が穏やかで……。小さい頃はお父さんと……来たりもしたんです」
「そうなんだ……」
  一瞬、お父さんと呟くほんの一瞬だけ、その娘はすごく儚げな表情を浮かべた。

 お父さんを亡くしてるのかも知れない。
  わたしも同じような境遇だったから、その表情の意味は何となく分かった。
  この娘も、わたしたちみたいに苦しんだんだよね――。
「あの……白河先輩」
「……なぁに?」
  言い難そうに話してくるその娘に、できるだけ優しく返事する。
「元気……出してくださいね」
「…………」
  それは、きっとできそうにない。
  ――キョータくんがわたしを避けてるのに、元気を出すことなんてできるはず、ないよ……。
  会いたくて、会いたくて、堪らないのに……。
  キョータくんの姿が強烈に頭に浮かび上がった。
「雨倉先輩も辛そうにしていましたし……。白河先輩が元気を出せば、きっと雨倉先輩も、
  元気が出ると思うんです」

 …………。
  ……え?
 
  雨倉って……。
  間違えるはずのない、間違えるなんて有り得ない……愛しいあの人の――。
  キョータくんの……姓。雨倉京太(あまくら けいた)……。
「キョー……京太くんが辛そうに?」
  異常に高まってうるさいくらいの心音を誤魔化しながら聞き返す。
「はい、とても。白河先輩は雨倉先輩の幼馴染なんですよね? どうか、雨倉先輩を元気付けて
  あげて下さい。何度か、先輩のクラスに行こうとしているのを見たことがありますし、
  きっと頼りにしていますよ」
「う、うん……うん!」
  嬉しい……うれしいうれしいうれしいうれしい!
  この娘の話が本当ならわたしは嫌われていたわけじゃなくて、何かキョータくんに事情があった
  だけなんだ……。
  それに、この娘はうそを言うような子じゃない。
  仮面を被らなくても、同姓として、生まれて初めて本当の友達になれると思えたんだもん。
  たった今、出会ったばかりだけどそう信じてる。
  もうすぐ終わる夏休みが過ぎれば、またキョータくんと一緒に登校して、一緒にお昼ご飯食べて、
  一緒に帰って……。えへへ……。
  嬉しくて、涙が出そうになる。少し前とはもう違う涙。
  わたしは精一杯の笑みを浮かべて、女の子に言った。
「ありがと……!」

 それから、わたしは女の子の名前を教えてもらって、最後にもう一度だけお礼を言って帰路についた。

 

 ――ピンポーン、ピンポーン
  歯磨きが終わって、登校する準備が全部整ったのと同時に玄関のチャイムの音が聞こえてきた。
  今日から、ずっと待ち焦がれていた二学期が始まる。
  この日のために、わたしはキョータくんのいない無意味な残りの夏休みを、ただ無為に過ごしてきた。
  だけどそれも今日で終わり。
  早く迎えになんか行って、キョータくんを急かしちゃったらいけないから、狂いそうなほど
  高揚する気持ちを必死に抑えて、ゆっくり準備をしてたんだけど……。
  ――ピンポーン
  もう一度鳴らされる玄関のチャイム。
  ……まさか……。
「瑞菜、迎えに来たぞ!」
「キョータくん……!?」
  望んで止まなかったその声……。
  思わずポロポロと涙が零れ落ちた。
  キョータくんが……迎えに来てくれてる……。
  やっぱり、あの娘……朝生凪(あさい なぎ)ちゃんの言ったことは本当だったんだ。
  わたしは、ぐいと制服の裾で涙を一拭いして、鞄を少し乱暴に掴むと、駆け足で玄関に向かった。
  やっと……やっと……。
  キョータくんに会えるんだ、キョータくんと話せるんだ!
  えへへ……。待ってた分、いーっぱい一緒にいようね? キョータくん!
  焦って上手く履けない靴をなんとか履いて、わたしは玄関のドアの取っ手に手を添えた。
「おはよ〜! キョータくん……?」
  そこにいたのは、やっぱりキョータくんだった。
  見間違えるなんて有り得ない。誰よりも愛しいキョータくん。
  だけど……。あれ?

 眼鏡と、髪の毛と、そしてお腹が……少し、変わっちゃってたキョータくんだった。

「おはよう、瑞菜」

4


  久しぶりの瑞菜の笑顔に、自分の胸が高鳴るのを感じた。
  控えめで上品に通った鼻筋、潤んだままの唇、瑞菜の性格を表しているかのような
  穏やかで綺麗な瞳、そして少しの風でも揺れる柔らかな亜麻色の髪。
  瑞菜の小柄で華奢な身体からは、日光を自分だけ受けていないんじゃないかと思うほど、
  純白の手足が覗かれていた。
  そのどれをとっても、美少女という形容は外れそうにない。
  こんな娘の隣を今まで、あの時の自分が歩いていたのかと思うと、どうしようもなく苛立った。
  瑞菜がどれだけ恥ずかしい想いをしてきたのか、何も分かってなかった。
  恋に揺れて、相手のことを思いやることも、魅力の違いを知ることもできなかったんだ。
  ……いや、それも言い訳にすぎないな。
  ただ単に、辛い時を支えあってきたこと、家族のように付き合ってきたということに執心して、
  いつまでも自分と瑞菜の間には距離など生まれないと、勘違いして来たのかも知れない。
  思わず自嘲してしまうほど愚かでバカバカしい。
  そして人の目や瑞菜のためだなんだのと理由をつけながら、結局は瑞菜に気に入ってもらえるために、
  痩せて、眼鏡をコンタクトに変えて、髪や顔を念入りに手入れして、変な趣味も止めて、
  迎えに来たりしてる。
  嫌われてるっていうのに、諦めの悪いことだ。
  実際本当に隣にいても、瑞菜が不快な気持ちを味わっていないか、さっきまで気になって
  しょうがなかった。
「えへへへ……」
  だけど、そんなものは杞憂だ。とでも告げるように、さっきから異様に上機嫌の瑞菜。
  そんな嬉しそうだとこっちまでなんか嬉しいな……。

「迎えに来てくれて、ありがと」
「いや、俺がこの前自分から言ったことだったからさ」
「え?」
  俺の言葉に瑞菜は少し驚いたように、目をぱちくりさせた。
「……キョータくん、自分のことを『俺』なんて言ってたかな……?」
「あ……えっと」
  返答に困った。確かに以前、俺は自分のことを『俺』なんて言っていなかった。
  だけど、その理由なんて瑞菜に言うようなことじゃない。
「キョータくん?」
「……なんか変か?」
  少し無愛想に言うと、瑞菜の顔が蒼白になった。
「あ、ううん! ちがっ、違うの! 全然変なんかじゃないよっ? ごめんね
  、生意気なこと言っちゃって……。ただ少し驚いただけ、ただそれだけなの。
  ほんとに、ほんとにごめんね? キョータくんのこと悪く言ったわけじゃ、全然ないんだよ?
  そんなこと言うわけないから…………」
「お、おい! 瑞菜、どうしたんだよ? 落ち着いてくれ」
  今にも泣きそうなほど不安げに俺を見つめる瑞菜の、その過剰すぎる反応。
  いったいどうしたんだ?
  俺が一人称を変えた理由は、単に、ある種の今までの自分との決別のような意味合いしかなかった。
  ただ、自分自身に自我を少し強く見せることで、ずっと瑞菜に依存してきた『僕』を
  少しでも消し去ることができるように――。
  結局は矛盾した行動をとってるわけだけど。

 でも今はそんなことより瑞菜のことが気になる。
「嫌わないで? ね?」
  嫌う? 俺が? 誰を? ……瑞菜を?
  有り得ない……。そんなことは昔も、そして今も有り得なかった。
  俺は嫌ってなんかない。嫌ったのは――。
『あの人は……あんまり好きじゃないけど』
  思いかけて、俺は頭を振った。
  瑞菜は、誰かに嫌われることを怖がってるのかも知れない。あの時のことがまだ瑞菜の中で
  傷跡となってるんだ。
「そんなことで嫌うわけないだろ……? 俺がちょっと無愛想に言ったのが悪かったんだよ。ごめん」
「キョータくん……」
  瑞菜は首を横に振って、
「違うよ。キョータくんは悪くないよ? ……えへへ、キョータくん、夏休みが終わって
  ちょっと見た目とかが変わっちゃってたから不安だったんだ。キョータくんは優しいままの
  キョータくんだったね」
  そう言って、瑞菜は少しだけ笑って見せてくれた。
  その微笑みの妖艶なまでの可愛さと綺麗さに、俺は思わず見惚れてしまっていた。

 ――変わったのは、本当に俺だけだろうか?

5

 えへへ……。
「良かった……」
  本当に良かったな、嬉しいな。

 えへへへへ……。

 変わっちゃってたのはほんの少しだけ、形だけなんだ。
  キョータくんはキョータくんなんだ。
  わたし、嫌われてなんかなかったんだ!
「ふふふ……」
  思わず顔が綻んじゃう。

「なぁに瑞菜。朝から素敵笑顔の安売り?」
「あれ、理恵ちゃん。居たの?」
「あたしあんたの席の隣なんだけど」
「あ、そうだよね。ごめんね」

 危ない危ない。いつの間にか教室に入っちゃってたみたい。
  キョータくんのことになるとすぐに周りに目がいかなくなって駄目だなぁ。
  気を取り直して鞄の中から荷物を取り出すわたし。
「瑞菜さぁ」
  すると理恵ちゃんが私の机に身を乗り出してきた。
「ん……なに?」
  返事をしながらもあんまり理恵ちゃんとはお話したくなかった。
  夏休み前もそうだったけど、ベタベタと小汚く化粧を塗りたくったその顔を見ると、
  キョータくんと登校した爽やかな朝を穢された気分になっちゃうから。

 

「久しぶりだよね、元気にしてた」
「あ、うん……」
  何だかさっきから意味ありげな笑みを浮かべている。
  なんだろう? この子……。
  社交辞令みたいなことを言いながらも、そんなことより早く何かを言い出したそうなのが
  わざとらしく伝わってくる。
  キョータくんに避けられるようになってからは、ずっと無視してきたのに、鈍感なのか、
  自分が嫌われてるって気付いてないみたい。
  本当に困った子だよ。

「でさ。訊きたいことがあるんだけど」
  さぁ、本題。といった感じで更に身を乗り出す理恵ちゃん。
「なぁに?」
  教科書類を丁寧に机の中に押し込みながら、片手間に返事する。
「今日、君と一緒に登校してた彼、誰?」
  不意に、わたしの手が止まった。

 ……また、この子はストーカーみたいに人が登校するのを見てたみたい。
  正直、凄く気味が悪い。
  でもそんなことより理恵ちゃんの言葉が気になった。

「誰って、理恵ちゃんも知ってるでしょ?」
  その事でキョータくんを悪く言うんだから。
「え! なに? あたしも知ってる人!?」
「うん」
「嘘でしょ? あたしリストに未加入よあんなカッコいい人! 名前は? クラスは?」

「え……?」

 カッコいい人……?
  聞き慣れない理恵ちゃんからのその言葉に、瞬間、わたしは呆けてしまった。
  カッコいい? キョータくんが?
  そんなこと思うのは、わたしだけだと思ってた。
  キョータくんの格好良さに気付けるのは、わたしだけなんだ。わたしだけ特別だって。
  現に理恵ちゃんはキョータくんを馬鹿にしてたし、それでなくてもキョータくんを格好良いなんて
  言う子なんて知らなかった。
  その事に憤りを感じていたし、本当の魅力に気付かない可哀想な子達として哀れんでもいた。
  少しでもキョータくんの『本当』を知ったら良いのにと思ってた。
  なのに……。

「京太君……雨倉、京太くんだよ」
「…………は?」
「だから京太くんだよ。わたしの幼馴染。わたしだけの大切な人」
「え? だって眼鏡も髪型も体型も違うじゃない」

 どうして、こんなに……。

「同じだよ。あなたが、みんなが嫌ってる、ブタちゃんのキョータくん」

 胸が……。

「ちょっと見た目が変わっちゃっただけで、キョータくんを格好良いとか言うの
  止めてくれるかな?」

 苦しんじゃうの……?

6

 学校では異常なまでの好奇の視線を受けた。
  クラスに入った時は、誰だとクラスメイトに訊かれたほどだ。
  名前を言った途端、様々な視線が返ってきた。
  驚嘆、羨望、嫉妬、侮蔑、嫌悪、興味。
  もともと瑞菜以外のクラスメイトの存在に無頓着だった俺は、クラスでもあまり
  評判が良くなかったため、それは予想通りの反応だった。
  知った途端、男子は声もかけてこなくなった。
  だけど予想と違って、女子はそうじゃなかった。急に馴れ馴れしくなった気がする。
  それが好意からのものだと、気付くのにそう時間はかからなかった。
  まさに手のひらを返したようなその態度に、内心嘲笑しながらも、愛想良く振舞った。
  疎遠な男子にも積極的に話しかけた。
  だけど男子から一度もらった不評の烙印はなかなか消えず、戸惑いや不信感が露にされていた。
  本当はそんな架空の烙印なんか俺自身はどうでも良かったのだが、その印が瑞菜にも影響するとなると
  話は別だ。

 瑞菜は誰かに嫌われるのを恐れてる。

 別にクラスメイトと友達になる必要はないし、なりたくもない。ただ悪いイメージ
  さえ消えてしまえば、それで良かったんだ。

 

 ――予鈴が鳴り、黒板に図式を残したまま数学の教師が出て行く。
  午前中のほとんどは始業式で潰れたが、この学校ではそれで放課になるなどという
  学生の立場に立った良心的なことはしてくれない。きっちり午後の授業まで挿入してくれる。
  今はその繋ぎの時間。昼放課だった。
  席を立ち、思い思いの場所へ向かい始めるクラスメイト達。
  俺はクラスメイト達の流れに逆らって、席に座ったままだった。
『キョータくん』
  そう言って、俺を呼んでくれる瑞菜を待つために。

「雨倉先輩」

 来た!
  高揚した気持ちを抑えながら俺は机に置いていた弁当を掴んで……。
  …………。
  ………………え。
  …………雨倉先輩?
  弁当を掴みながら、視線をクラスの入り口へ寄せた。

「?」
  ……誰だ?
  急速に高揚した気持ちが萎えてしまった。

 

 そこに居たのはツインテールが印象的な可愛らしい少女。
  胸につけた黄色のリボンからすると、どうやら一年生らしい。当然、面識はない。
  怪訝そうに眺めている俺に少女も気付いたようだ。
「……? ……え? ……せんぱい?」
  少女は誰だか分からないというように、一度首を傾げた後、驚いたように目を見開いた。

「……雨倉は俺だけど、何か用?」
「あっ……あの、その……ですね」
  ……いけない。また無愛想に言ってしまった。萎縮した様子の少女を見て、反省する。
  どうも、家族や瑞菜以外の人間には、意識しないと無愛想に対応してしまうのだ。
  俺は少し声を和らげながら言った。
「何か俺に用事があって呼んだんだよな?」
「え、あ……はい……」
「なに?」
「えっと……」
  口ごもる少女。随分大人しそうな娘だ。

 だけど、こうもしていられない。
  もうすぐ瑞菜が来るはずで、用事があるなら早く済ませて欲しいからだ。
  夏休み明けの、二学期最初の日の一緒の昼食。できる事なら瑞菜とゆっくり食べたい。
  それに、何故だかは分からないけど、女の子と話している姿を瑞菜には見られたくなかった。
  なのに……。

「キョータくん! ……ごは……ん?」
「あ……」
  夏休み前といい、俺って何だかいつもタイミング悪くないか?

 

 

「一年の朝生凪です。その、よろしくお願いします」
「雨倉京太。こちらこそよろしくな」
「わたしは……知ってるよね?」
  瑞菜がクスッと可愛らしく笑う。
「あ、はい。それに……」
「ん?」
「雨倉先輩の事も、知ってます」
  まぁそれはそうだ。知らなかったら俺を呼ぶこともできない。
「そういえば前に会ったときからキョータくんのこと知ってたみたいだよね?」
「えと……はい。白河先輩の幼馴染で有名ですし」
「そうなのか……」
  だとしたら、俺が瑞菜の付き合いを狭めていたのかも知れない。
  俺の不人気のせいで。
「でも良かったよ。瑞菜に良い友達ができて」
  なにせ、瑞菜が自分から友達だと紹介してくれたのは朝生が始めてだ。

 瑞奈に友達はたくさんいるはずなのに、その境遇からやはりどこか一線を置いているのを感じていた。
  だけど朝生に対してはその境界線を感じない。
  瑞菜が俺にこうして自己紹介を勧めたのも朝生が始めてだった。

 

 サンサンと夏の太陽が照りつける屋上。
  無骨で大きな配線らしき管に腰掛けながら、俺たちは三人で昼をとっている。
  朝生と一緒に昼食を食べる事を提案したのは俺でも朝生自身でもなく、瑞菜だった。
  いつどうして友達になったのかは内緒らしいが、恐らくは夏休み中だろうという予想はついた。
  そして朝生の持つ過去にも。

 俺たちは昔、自分を虐げてきた種類の人間たちに一線を置いている。
  それはとても根深いもので、今更どうする事もできない。
  そんな俺たちが自分から友達だと言える人物は同じような境遇を持った人間に限られる。
  つまり、朝生にもあるはずなのだ。

 ――――深い傷痕が。

 そうなれば、俺にとっても大事な同志だ。
  傷の舐めあいだろうとなんだろうと、俺と瑞菜はそういう生き方をしてきたのだから。
  そうして痛みを……欠けた家族の痛みを和らげてきたから。

「あの、先輩っ!」
「え……あぁごめん、なに?」
「わたしとも……その……」
  もじもじと言葉を濁す朝生。
  この控えめな性格には、きっと何か辛いことで裏づけされているのだろう。
  なら、
「明日も、三人で食べようか」
「えっ!?」
「友達……だからさ」
「! ……はいっ!」
  少しでも、辛いことが忘れられるように、舐めあっていよう。

「……………………」

 傷の舐めあいなんて、束の間のものだとしても。

7

 ――定刻。カーテンを覗いてみてもまだ淡く青白い光しか入ってこないような時間。
  枕元の目覚ましがまだ鳴っていないにも関わらず、俺はふと目を覚ました。
  だけど以前のように二度寝はしない。
  人間の慣れというものはなかなかに凄いものなんだなと思う。朝生と知り合って一週間。
  この一週間で随分と早起きが身についてしまったのだ。
  俺は、身体を起こして、半開きのままのカーテンを一気に全開にした。
  そうして部屋を出て、キッチンに向かい、昨夜仕込んでおいたおかずをレンジに入れて、
  その間、寝癖直しついでに風呂場で軽くシャワーを浴びる。終えて戻った頃には
  温まっている料理を皿に移し、その残りを弁当箱に粗雑に放り込んで、鞄に入れた。

 夏休み前なら考えられなかったな、こんな朝。

 シャワーが長かったのか、少し冷えてしまっている料理を口に運びながら、そんなことを思った。

「お、おはよ〜。はぁ、はぁ……」
  軒先で待っていた俺に、瑞菜は汗を拭いながら微笑みかけてくれた。
「おはよう。息切れするほど急がなくても良かったのに」
「で、でも、はぁ……待たせちゃったら……いけないと思って」
  急かせちゃったか……。

「ごめんね? いつも迎えに来てもらって」
「いや、こっちこそ時間余ってるのに急かせちゃってごめんな」
「ううん、わたしは全然だいじょぶだよ!」
  そう言いながらも、瑞菜の髪にはぴょこんと軽い寝癖がついていた。少し無神経だったかも知れない。
  次からは少し遅れてくるか。
  瑞菜に手間を掛けないために先に迎えに来ているのにこれじゃ本末転倒だ。

 

「ふぅ……」
  俺は瑞菜の息が落ち着いたのを確認して、
「そろそろ行こうか」
「うん!」
  瑞菜は返事すると、もう一度ふわりと柔らかく微笑んだ。

 道の脇を二人並んで、通学路に沿って歩き出すと、ゆっくりと風が頬を撫でていった。
  夏のまっ最中と言っても、他の学生が登校するより更に早い朝。もちろん、もうすぐ経てば、
  夏のあの開放的な熱でこの道路も燻されるのだろうが、この時間ならまだ夜の冷気が
  取り残されていて、涼やかだった。
「キョータくん、朝早くなったよねぇ」
「そうか?」
  歩を休めず、首だけを瑞菜に向けながら言う。
「うん。だから今度はわたしが迎えに行くからね?」
  瑞菜の言葉に、俺は思わず苦笑した。
  そんな俺の様子を不思議に思ったのか、瑞菜が「え? え?」と、大きな目を丸くする。
「あ、いや。夏休み前とは立場が逆転したなって思ってさ」
「! あ……う、うん。そうだね……」
「……?」
「…………」
  不意に、瑞菜が俯いて口を噤んでしまった。
  な、何か悪いこと聞いたかな……。
  俺なんかと一緒にされた事に怒ったとか……?

「……キョータ……くんは――――……?」

「……え? 悪い、聞こえなかった。今なんて?」
「う、ううん! なんでもないっ!」
  俯いていた顔を上げ、強くそう言った瑞菜に、俺はそれ以上追及することができなかった。

 

 

「きりつっ、れいっ」

 ――――。

 終礼後、鞄に手をかけて帰ろうとした時、ふと思い出した。
(っと、彫刻刀、朝生に返しにいかないと)
  午後に芸術で彫刻が行われることを忘れていた俺は、昼放課に朝生から彫刻刀を借りていたのだ。
  基本的に合同で行われる芸術の授業は当然、別のクラスに在籍する瑞菜も受けるため、
  瑞菜に借りる事はできない。だから学年の違う朝生に昼食を一緒にとったときにお願いし、
  放課後に屋上で返すことを約束して借りたのだった。

 屋上の扉を開けると、途端に少し蒸し暑い風と、夕焼けの紅い光が差し込んできた。
  その夕焼けを放つ太陽を手すりに身を任せ眺める少女が一人。
  ――朝生だ。
  姿を確認した俺はその影に向かって歩み寄って行った。
「危ないぞ」
  後ろから声を掛けると、瞬間、びくっと身体を震わせた。
  朝生がゆっくりとこちらを振り返る。
「……先輩」

 

 心臓が……高鳴った。
  夕焼けに髪を染めた少女の横顔が、瞳が、唇が、身体が……あまりにも儚げで。
「なにしてたんだ?」
  決まってる。彫刻刀を返してもらうために俺を待っていたんだ。
  そんなことは分かっているのに、普段と違う朝生の姿に動揺しているのか、
  そんな事を訊いてしまった。
  だけど、返ってきた答えはあまりに予想外で――。

「夕暮れがあんまり綺麗だから、自殺……しようかなって、思ってました」

 全身が震えた。

 固唾を飲み込んだ。

 自殺……?
  光の加減かも知れないけれど、その時、俺には朝生が泣いているように見えた。

8

とにかく、この状況が理解できない。
ここは屋上で、手すりに寄りかかった朝生がいて、自殺しようか考えていた。
つまり、ここから身を投げ出そうとしていたのだろうか?
……どうして?
三時間前の昼放課では、むしろ明るく俺と瑞菜と三人で弁当をつついていたはずだ。
彫刻刀を借りたときも、満面の笑みで快く「どうぞ」と貸してくれたのに。
たった三時間の内に、自殺なんて心情に至ることがあるのか?

…………。
…………ある。

少なくとも俺はそんな人間をひとり知っている。
抑えつけて、押し殺し続けて、俺が初めて辛さに泣き出したとき、やっと傷痕を見せてくれた幼馴染。
自分へのプレゼントを買いに出て両親は交通事故にあったんだと、
ぐしゃぐしゃに泣きながら打ち明け、
「死にたい」とまで叫んだあの時の瑞菜のように。
もしかしたら朝生も――。

「あははははっ!」
突然の声に驚いて、思考が途切れた。
声の主は酷く空虚な――いや、ただ嘆きだけが詰め込まれた笑みを浮かべている。
人間がどうしようもない憤りや絶望を感じたときに漏れ出す、あの笑みを。
「あはっ、あはは、くふふふ!」
「…………っ」

道化のような笑い声は虚しく響くだけで、俺はそれに応えることができずにいた。
『なんで自殺なんか? 辛いことでもあったのか? 思い直せよ』
頭に巡る言葉も、すべて咽でつぶされてしまう。
自分の一言が朝生の生死に関わっているという、その重圧だけで逃げ出したくなるのに、
イレギュラーに強いタイプの人間でもない俺が説得なんてできるはずがない。
だけど、瑞菜の大切な友達を自殺させて、あいつを悲しませるようなことは絶対にしたくなかった。
あの時のように泣いて、ただ傷を舐めあっていればよかった状況とは違うんだ。

朝生を止めるには……動けないようにすればいい!

「っ!」

一気に駆け寄って、彼女との間合いを詰める。
走り込みの練習をこの一ヶ月で散々してきた甲斐があった……のかは知らないが、
朝生が反応する前に抱きとめることに成功した。
たった一瞬、小さく悲鳴をあげて全身を強張らせる朝生。
抵抗を予想していたけど、意外にそれからは俯いたまま沈黙していた。
しばらく頃合を見計らって、静かに諭しはじめる。

「……俺は、朝生には死んでほしくない……絶対に」
「ぁ…………っ」
小さく漏れた朝生の吐息が、耳に触れて少しくすぐったい。
「自殺なんかしたら、瑞菜が悲しむから。あいつが苦しむようなことは……してほしくない」

「………………」

朝生の手がぎゅっと強く握られるのが見えた。
それが何の意思によるものか俺には分からない。
「――白河先輩のこと、好き、なんですね」
「……ただの片思いだよ」
急に、虚しさとせつなさがこみ上げてきた。

『あの人は……あんまり好きじゃないけど』
きっとこの恋は片思いのままなんだろうけど、今はそれより――。

「……先輩……あ、あの、その、えと、ですね」
「うん?」
「えぁっ……あ、ありがとう、ございます」
「うん……」
いつもの朝生に戻ったことに安堵を覚えた。

ついでに、安堵すると色々考える余裕が出てくる。
例えば、朝生の顔が真っ赤に火照ってることとか、艶やかな髪の香りとか、
華奢なのに思ったよりずっと柔らかな体とか。
ただ胸の当たる部分がいやに狭い気がするけど……まぁ、そういうことなんだろう。

「っと、いや、その……ごめん」
とりあえず手すりから離れたところまで移動して、ゆっくり朝生を開放しようとした。
なんだかよく分からないが、この状況は瑞菜への裏切りのような気がしたからだ。
しかしすぐに離した手を朝生に握られ、そのまま引き寄せられた。

「え、あれ? あ、朝生?」
「ごめんなさい、ちょっとだけ……ひっ……ちょ、ちょっとだけ、待って、くださいっ」
しゃくり声で俺の胸に顔を埋める朝生。
か細い体を震わせて、必死に声を出さないように抑えて、泣いていた。
「ほんとに、ごめ……ん、なさいっ……ひぅ、うぇぇっ」
その姿に、こんな風に泣きじゃくった昔の瑞菜を思い出して――。
「別に声抑えなくていいから。明日には、今日のこと全部忘れるよ」

「せん、ぱっ……ひっ、うぇ……ひっく……ひ、うぁ、う゛ぁぁぁああああ!!」

ほんの少しだけ、朝生が愛しく思えた。

 

夕焼けもそろそろ終わりが近づいているし、夏とはいえ夜は冷え込みもする。
そういうことで、ようやく涙も止まり始めた朝生に下校を提案したのだが……

「……あぅぅ、ご、ごめんなさいぃ」
どうやら本人は泣くのに必死で時間帯に気づいていなかったご様子。
「だから俺は平気なんだってば……それより朝生のほうが大丈夫か?」
「わ、私はそりゃもう平気ですっ!
  そ、その、どうせこの時間に帰る予定だったりしたんですから!」
「この時間に帰る予定だったって……。もう下校時刻だぞ」
「あわわ……す、すいません、私のせいで下校時刻まで……あの……」
「い、いや、そういう意味で言ったんじゃなくて。……まぁいいや」

とりあえず、朝生が嘘をつくのが苦手というのは分かった。
これは平気というのも嘘かもしれないな……。だからといって俺に何ができるわけでもないけど。
なら、せめて帰り道の安全は守るべきかな。
「帰り道は? 途中まででも一緒に帰らない?」
「い、一緒に、ですか? それはその、すごく、嬉しいんですけど……。
  そ、そうっ、ちょっと忘れ物があったので……ごめんなさい」
「そっか、分かった。それじゃまた明日な」
「あ、は、はい! また明日、お昼休みに」
なんとも不自然な断られ方に、俺は少し情けない気分になりながら朝生と別れた。

朝生がどうして自殺しようとしたかは分からなかったけど、ある程度予想はついている。
あの時の俺や瑞菜と同じ……誰にも打ち明ける相手がいなくて、
ずっと辛さを抑えつけてきたんだろう。
それももしかしたら、
昼放課から放課後までの三時間に何か思い込むきっかけがあったのかも知れない。
抑えつけてきた辛さは、思い込むことで増幅したりもする。
俺が屋上という場所で待たせたせいで、それが飛び降りという形で爆発した。
もちろん、すべて勝手な推測でしかないわけだけど。

もし、朝生が俺たちに今日の自殺の理由を教えてくれた時は。
その時は、俺と瑞菜の傷痕も打ち明けて、共有したいと思う。

 

「…………あれだけ想われておいて……っ。……白河、瑞菜…………!」

背中から、小さすぎる呟きが聞こえてきた。内容は、よく聞き取れなかった。

 

――遡って、放課直後
終礼が終わると同時に女子トイレへ駆け込んだ生徒がいた。

「え? そ、そんなに……遅くなるんですか?」
『だからそう言ってるでしょ? 残業よ、残業。一回聞いたらハイって返事しなさい、バカ女」
「は、はい……で、でも、そんなに待ってたら風邪ひいちゃいます。その……夜は冷え込みますし」
『あたしの知ったことじゃないわよっ! 文句があるなら社長に直接言ったらどう?」
「そんな……なら、家を出るときに鍵を庭に隠してくれていれば……」
『冗談じゃない! あたしがいない間にあんたに家のモノ盗まれるかもわからないのにっ」
「わ、私盗みなんて……!」
『うっざいわね! いいからあんたは公園で待ってればいいっつってんの!
  それともまた公園に野宿する?』
「い、イヤ……それだけは……イヤ、です」
『あれもいや、これもいや、いい加減にしなさいっ! いい? 公園で待ってなきゃ本当に野宿よ』
「…………は、い……」
『ほんっと、あんたと話してると苛々してくるわね……じゃあ、切るわよ』
「ごめんなさい……わざわざお電話ありがとうございました、お母様……」
――ブチッ

「…………どうして、名前を呼んでくれないの? ねぇ、お母様……」
信頼できない娘なら、産まなければいいのに――。
「……どうして…………っ?」
こんなに惨めな想いをさせて、何が楽しいの――。
「…………」
私は何も悪いことしてないのに――。
「……屋上に、行かなきゃ……」
分かった。私がいることが「ダメ」なんだね――。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」

ごめんなさい――。

9

今朝、クラスでキョータくんの噂が聞こえてきた。
「別人みたい」とか、「社交的になった」とかいう噂。
噂には良い噂と悪い噂があるわけだけど、今回は珍しく良い方。

――そう。……めずらしく。
いつもは陰口や非難ばかり囁く人たちが……
キョータくんのことを何も知らない人間たちが、
たくましくなったキョータくんを新鮮に感じて、過剰反応を起こしちゃってる。
きっとそんな感じ。そんなのすごく失礼で、とても許しちゃいけないこと。
だから、たくさんたくさん言い返しちゃった。
「あなたはキョータくんの何を知ってるのかな?」
「知らないなら軽々しくあの人の名前を口にしないで」って。
ちょっと言い過ぎたかな? とは思ったけど、
そのおかげで、わたしのクラスからは彼の噂をする人が一人もいなくなったから、
結果オーライだよね。
きっと他のクラスにもああいう人たちがいるんだろうなぁ、
って思うと気になってしょうがなくなっちゃう。
キョータくんも鬱陶しがってるかも知れないし。
夏休み前はそういう人たちの相手、わたしがしてたのにな……。

今では昼休みになっても、もうわたしに話しかけてくる人は誰もいない。
昨日の朝、キョータくんが言ってたみたいに、夏休み前とは彼の立場と完全に逆転してる。
わたしがキョータくんを守らなくちゃいけないのに……情けないなぁ……。

『キョータ……くんは、今のままがいいの……?』

何だか怖くて伝えられなかった、昨日の問いかけ。
正直に言っちゃうと、たくましくなったキョータくんに不安を感じてる……。
もうキョータくんにわたしは必要ないんじゃないか、なんて。
えへへ……そんなのあるはずないのにね。
たくましくなっても、キョータくんはあの時のままのキョータくんで。
わたしをたった一人必要としてくれた大切な人だもん。

自分が最低な里親に孕まされた母親の息子だって、他の誰も知らないことを教えてくれた、
あのときから。

キョータくんの味方はわたしだけのはずだから……。

 

 

「キョータ……? って、あぁ、雨倉のこと?」
「うん。……教室に見当たらないけど、どこに行ったか知らないかな?」
「さっき一年の女子に呼ばれてどっか行ったけど。
  そういえば最近、よくクラスに来る子だな。
  雨倉、あの子のことなんつってたっけ……?」

と、その女子の名前を思い出そうとする男子。
わたしの方は、びっくりして声も出ない。

「確か――あさい……とか」
「な、凪ちゃんが!?」

思わず声が大きくなる。男子が驚きながら短く肯定した。
そんな……いつもお昼はわたしを先に誘ってくれたはずなのに……。
今日は用事があって誘いに来ないんだと思ってたけど、
まさかわたしを置いて、勝手にキョータくんを連れ出してたなんて……。

「多分弁当食いに行ったんじゃない? 屋上にはもう行ったの?」
「……ありがとう、行ってみるね」
感謝もそこそこに、教室を離れて屋上に向かう。
「あー! それとその女の子、ずいぶん具合悪そうだったよ!」
背中からまだ声が聞こえてきたけど、これ以上構っていられる気分じゃなくて、無視した。

――いくら凪ちゃんでも、それはやっちゃいけないことだよ。
信用してないわけじゃないけど、
やっぱりキョータくんが他の女の子と二人っきりなんて、良い気分がしない。
だから少しだけ、ほんのちょっぴりだけ、後で叱らなくちゃ。

やっと屋上の扉が見えてきた。
扉は開かれていて、屋上には予想通りキョータくんと凪ちゃんがいる。
なのに入り口の目の前まで来て、一旦足が止まった。

 

――そもそも、キョータくんだけをお昼に誘ったのはどうして?
もしもキョータくんと話をしたかっただけなら、屋上じゃなくてもいい。
少しすればわたしがここに来ることなんて分かってるはずだもの。
わたしがキョータくんのこと大好きってことは、
公園で初めて会ったときから知ってるだろうから、
自分に怒りの矛先が向かうことも分かるはず。
……なら、どうして?

「朝生っ!」

びくっと体が震えて、すぐに声のした方を凝視する。
その瞬間、倒れこむ凪ちゃんとほんの少しだけ、目が合った。
そして――愕然とした。

そんな……キョータくん……。
キョータくんは、凪ちゃんを支えるように、しっかりと抱きしめていた。
それだけでわたしの全身は震え、動悸が乱れ始めた。
なのに……その残酷な光景は、まだ発展する。

「っっっっっッッ!!!!!」

生まれて初めて本当の意味で、私は自分の眼を疑った。
凪ちゃんは、あの女は、わたしの、わたしだけのキョータくんに、顔を寄せてキスをした…………。
口が勝手にパクパクってなって、そこからかすれた嗚咽が力なく漏れていく。
胸が急に痛んだ気がして、急いで手を宛がう。
少しの高揚感も心地よさもないとってもイヤなドキドキ。

「あ、あ、あ、あ…………」

それが自分の声だと気づいたとき、手のひらに痛みが走った。
爪が手のひらに食い込んで血が垂れだしたんだ。
だけど、そんな痛みより…………。

「っ!」

視界がぼやけたかと思うと、堰を切ったように一気に涙が零れ落ちる。
嫉妬と怒りと悲しみとがぐちゃぐちゃに混ざり合ったような感情が、
心の中をぐるぐると渦巻いていく。
急激な嘔吐感に襲われて、その場から走って立ち去った。

「うぁ……キョータ、くん……キョータくん……!
  …………許さない……あの女、最初からわたしが来るの分かってて……っ
  ……う、うぇぇ……女狐の、くせに……っ! 絶対に許さないっっ!!」

ただ、怨嗟の言葉だけを繰り返しながら。

10

――口に何かやわらかいものが触れた。

それが朝生の唇であることに気づいた瞬間、あまりの当惑に頭が真っ白になる。
本意でない初めてのキスは幸福や愛しさなんてなくて。唇の柔らかさや暖かさを感じる余裕もなくて。
なぜか、激しい焦燥感と喪失感に襲われただけだった。
「っ……凪!!」
その焦燥感が命じる通り、すぐに両手で朝生の肩を掴んで引き離す。
慌てふためく俺とは対照的に、朝生は艶やかな笑みを浮かべてクスクスと笑い始めた。
「今、凪って名前で呼んでくれましたね、先輩……。
  はぁぁ、やりました、やっと呼んでくれた」
「あ……。い、いや! そんなことより、何でこんなことっ」

俺はただ、朝生に「白河先輩のことで相談がある」って言われたから、
あいつを置いてまで屋上に来たのに。
最近、瑞奈がクラスで孤立しているという噂も聞いてたから余計に気になったし、
それに夏休み前のこともある。
そして、なんといっても俺自身瑞奈にはちょっとした違和感を感じていた。
自意識過剰かもしれないが、俺に嫌われたくないあまり必死になっているように見えたのだ。
全てはそんな瑞奈を心配する想いで来たはずなのに――それが、何でこんなことに?

「ふふ……何でって、先輩が私に顔を寄せてくれたんじゃないですかぁ」
「な……! だ、だいたい、お前風邪なんだろ!?
  それでふらついたから支えてやったのに……まさか、嘘だったのか?」
「そんな、先輩に嘘なんかつきませんよ。本当にフラッとキちゃったんです。
  ……なんなら触ってみます? はい、おでこ」
そう言って、朝生は俺を甘く見つめながら前髪を掻きあげた。
その仕草と覗かれる額が妙な色情を感じさせて、ドキドキと心臓が騒ぎ出す。
――ドキドキ……? 俺が、瑞奈以外の人間に?
「先輩……? …………ほら」
反応できないでいる俺に業を煮やしたのか、俺の手首をとると、自分の額へと持っていく朝生。
ぴったりと朝生の額に手が合わさると、朝生の言ったことが本当だということが分かる。
熱い。素人が触っても、これが平熱でないことが分かる熱さだ。
立っているのも辛いはずなのに、凪はうっとりとした表情を浮かべると、
掴んでいた手を俺の手と重ねた。

「あぁ……先輩の手……先輩の体温だぁ……。
  ん……はぁ……昨日といっしょ……じんじんってしちゃいます」

 

――誰だ?

 

魅惑的な声色と、妖艶な微笑。そして積極的なアプローチ。
そのいずれも、昨日までの凪からは想像もつかないものだ。
これじゃまるで目の前にいるのが朝生じゃない誰かのような――。
いや……だけど、この雰囲気は……。
「んふふ……せんぱぁい……」
この危うさは、昨日自殺しようとした朝生に似通うものがあるかもしれない。
だとしたら、どうしてまた「この」朝生が出てきたんだ。
あの時は、俺たちがそうだったように、あまりの辛さに感情が爆発した、
ただの一時的な二重人格みたいなものだと思っていたけれど……違うのか?
……やめだ。そんなこと、いくら考えても朝生にしか分かるはずない。

――それより、今は。

「……なぁ。俺をここに呼んだのは、その……キスをするため?」
俺がそれを尋ねると、朝生の手がぴくっと反応した。
「そんなに白河先輩のことが気になります?」
「気になるのは当たり前だけど、そもそもそのために屋上に来たんだろ。
  ……それとも俺をここに呼び出すための口実だったのか?」
「言ったはずじゃないですか……先輩に嘘なんかつきません。
  もちろん、白河先輩とあなたとのことでお話があったからですよ」
単刀直入に言わせてもらいます、と朝生が付け加える。
うっすらと浮かべていた笑みも消えて、真っ直ぐに俺を突き刺す視線。
気付けば俺の手は朝生の手に握られたまま、額から離されている。
さっきまでの甘い空気が嘘のように、張りつめた沈黙が流れる。
そんな中、俺は続きを催促するように朝生を見つめ返した。

「白河先輩とは、距離を置いてください」

もしかしたら、その答えを予想していたのかも知れない。
だからすぐに答えることができたんだと思う。

「それはできない」

また、朝生の手がぴくっと動いた。

「理由も……訊かないんですね」
「思い当たることが多すぎるからな」

まずは夏休み前。俺が瑞奈に嫌われてることを知って、避けだした頃だ。
あの時から、瑞奈はクラスでの様子がおかしくなった。
そして二学期。俺は「僕」を捨てて瑞奈を迎えに行った。
それから更に瑞奈はクラスから孤立してしまった。
薄々感ずいてはいたけど、これはきっと全部俺のせいだ。
だけどその原因に確信を持てなかったから、それを理由に逃げていた。

「だったら……あなたのためにも、白河先輩のためにも、距離をおくべきです」
「瑞奈は幼い頃、ずっと人に避けられてきたんだぞ……
  それなのに俺まで避けたりしたら、また瑞奈を傷つけることになってしまう」
そうだ。誰かに嫌われるのを恐れてるあいつを、もう避けたりしない。

「そうして、白河先輩がクラスで完全に一人になっちゃったら……
  先輩はどうやって責任を取るつもりですか?」
「俺も孤立するよ。……もともと瑞奈のために媚を売っていたようなもんだ。
  あいつが昔のように孤立するなら、俺も昔に戻ればいい」
それを言った途端、手に熱と圧力が伝わる。
朝生の手に力がこもったせいだ。
「……二学期に入ってから、急に先輩が変わっていたのも瑞奈さんのためなんですよね……」
短く一言だけ、同意の返事を返す。

…………。
………………。

「どうして、あなたはっ! あの人のためにそこまでするんですか!?」
今日になって、初めて取り乱したように叫ぶ朝生。
その表情には疑問よりも怒りが色濃くにじんでいた。
「いえ……分かってます……白河先輩のこと、好きなんですもんね」
「………………」

胸が、ずきんと痛む。

「でも、ダメですよ。先輩がいくら白河先輩を愛していても……」
「言うなよ……そんなの分かってる」
「分かってませんっ! あの人は……白河先輩は、そんな先輩の想いにすら……っ!」

「分かってるっ!!!」

俺は、締めつけられる胸の痛みに堪えきれず、大声を張り上げた。
それに朝生は目を見開いて驚くと、萎縮したように押し黙る。
――怒鳴るつもりはなかった。
謝ろうかと口を開くが、出た言葉は謝罪なんかじゃなかった。
「あいつは、俺の想いには応えてくれない……分かってるよ
  嫌われてる俺なんかがいくら好きでいても、無駄ってことぐらい」
「…………え?」
違う。何を言ってるんだ、俺は。
こんなことを朝生に言ってどうするつもりだ。瑞奈の、たった一人の本当の親友なんだぞ。
二人を気まずくさせるだけっていうのに。
……最低だ。

朝生の表情が、髪と曇天の陰に隠れて見えなくなる。
「……先輩。先輩はいつ、自分が白河先輩に嫌われてることを知ったんですか?」
問い詰めるような朝生の口調には有無を言わさない気迫があった。
それに気圧されてしまうが、それでも――。
「ごめん、紛らわしかったな。別に瑞奈から直接聞いたわけでもないし、
  俺が勝手にそうじゃないかって思ってるだけなんだ。はは……」
嘘をついてでも、二人の仲を壊しちゃいけない。孤立した瑞奈にはきっと朝生が必要なのだから。
悲しいけれど……瑞奈にとって、朝生は俺じゃ代えられない大切な友達だ。

 

「それでは質問を変えます。嫌われてると思っているのに、
  それでもまだあの人を好きでいるつもりですか?
  いくら想い続けても、どうしても報われない想いもあるんですよ……?」
最後、声が僅かに憂いの色を帯びていたことに気付く。
その言葉は経験したことのある者だけの重さを伴っていた。

朝生に心配までされているのに、結局俺は瑞奈を諦められない。
ダイエットして、髪を切って、コンタクトにしたのは――紛れもなく瑞奈に振り向いてほしいからだ。
俺がもう少しマシな男になれば、瑞奈も俺のこと見直してくれるかも知れない。
そんな下心があったからだ。
本当は今だって、少しは見直してくれたんじゃないかって、淡い希望に縋り続けてる。
俺たちはどんな傷も舐めあって生きてきた。
一人じゃ耐えられなかったから、依存し合うしかなかったから。
……嫌いなんて言われても、今更この依存をどうにかできるわけないんだ。

「……ありがとな、こんなやつの心配してくれて」
刹那――俺の手が痛いぐらいに握り潰された。

「お礼じゃなくて返事が聞きたいんです、私はっ!!!」
「っ……朝生……?」

「先輩はあの女に嫌われているんですよ! 脈なんて全然ないんですよ!?
  それをいつまでも女々しく想いつづけるだなんて、どうかしています!
  無駄ですっ、迷惑ですっ、キモいだけですそんなの!!
  一途なのは結構ですけど、それをあの女は知りもしませんっ! いいえ、知ろうともしませんっ!!
  ちょっと容姿が良いだけのそんな鈍感女のどこがいいんです?
  大体あの女は貴方を振り回しているだけじゃないですかっ!?
  先輩の優しさに甘えるだけ甘えておいて、その幸福が当然だと思っているから
ちょっと貴方がいなくなっただけでウダウダウダウダ……
  自分に向けられている愛を、自分がどれだけ恵まれているのかを、
全部ぜんぶ無駄にしてしまうあんなクズ女のどこがっっ!!!」

全てを言い終えた朝生は、はぁはぁと肩で息をする。
俺はといえば、言葉が出なかった。それぐらい信じられなかったのだ。
朝生が親友であるはずの瑞奈を貶めていることが。その表情が憎悪で歪められていることが。
信じられないあまり、しばらく茫然自失してしまう。

「気付いているかも知れませんが、私はあなたを愛しています。この世界の誰よりも大好きです。
  スキでスキでスキでスキでスキでスキでスキでスキでスキでドウシヨウモないぐらい……。
  私ならあなたの想いにあんな女の何倍も何十倍も何百倍も応えることができるんです。
  先輩……もう苦しまないでください。愛なら、私がいくらでも差し上げます。
  だから――――お願いします、私を愛してください」

 

告白の返事を待つ彼女の目は、いつもの弱気な朝生の目になっていた。
受け入れられるかどうか不安で、緊張に体が硬くなっているのが分かる。
俺は自分を落ち着けるために、ゆっくりと息を吐いた。

――だけど結局感情を抑えることはできなかった。

「なんだよ、それ……」
「…………え?」
ずっと握られていた自分の手を、朝生から強引に振りほどく。
「あぅっ……」
「俺はお前がクズ女呼ばわりする瑞奈に焦がれてるっていうのに。
  そんな俺にお前は告白するのか?」
「え、あ……え?」
激情が堰を切るように言葉になって流れていく。
俺は困惑する朝生を睨みつけ、続けた。
「勘違いしているようだけど、俺は瑞奈に振り回されてると思ったことなんて一度もない。
  あいつと一緒にいて、想い続けることが苦しいと思ったことなんて一度もない。
  俺とあいつのことなんて何も知らないくせに……分かった風にあいつを語るなよ」

「あ、あぁ……ごめ、なさっ……。で、でも……違うんです……私が、私が言いたかったのは……」
分かってる。
朝生は本当に俺を心配してくれて、勇気を持って告白までしてくれた。それは純粋に嬉しくもある。
想いを寄せる相手に拒絶されるのが、どれだけ辛いかも知っている。
でも、明らかな憎悪を持って瑞奈を嘲ったことが、俺には何より許せなかった。

「……俺はお前を愛せない。
  お前が瑞奈を憎むなら、俺たちの関係も終わりだ」

辺りが、一層暗くなり始めた。
ポツポツと、屋上に小さくて黒いシミができていく。

「オワ、リ……先輩と、もう……話せなくなるんですか……?
  そんな……ア、ああぁぁァァァ……やだ、イヤ……ヤです、そんなの……。
  ゴメンなさい、違うんです……ゴメンなさい、許してください……。
  もう欲張ったりしません、憎んだりしません、何でも言うこと聞きますからぁ」
穏やかだった雨は、すぐに変化を遂げる。
激しい風に運ばれて数多の雨が無情に体を打ちつけ始めた。
一瞬で強雨へと変わる雨に、体中の熱が奪われるような錯覚に陥ってしまう。

 

「…………ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
  ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
  ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
  ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
  ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
  ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
  ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――――」

俯き、震えながら自分を抱いて、うわ言のように謝り続ける朝生。
その様子があまりに悲愴だったから、強烈な罪悪感に襲われた。
たった一度でも優しく抱きしめてあげようとするのを、それでも感情が拒否する。
朝生は、今朝までは確かに俺たちの同士だったというのに……。

……雨で垂れ下がった髪が朝生の顔を見えなくさせていた。
だから朝生の風邪が酷くなっていることに、彼女が倒れるまで気付けなかったんだ。

 

 

…………。
………………。

 

 

それから、俺は朝生を保健室までおぶっていった。

幸い中に他の生徒はおらず、保険医の先生も暇していたようですぐに診てもらえた。
朝生は予想通り相当な高熱で、意識が戻るまでベッドで寝かせて早退させるとのことだった。
一時間ほど朝生の横で看病をしていたが、容態も落ち着いたのでクラスに戻るよう先生に勧められた。
俺はこのまま授業を受けられる気分じゃなくて、具合が悪いということで早退の許しをもらい、
帰宅することにした。

 

「………………」
薄手の制服が肌に張り付いて、気持ちが悪い。
一向に弱まる気配のない強雨に溜息ばかりが出てきてしまう。
こう寒い上に湿っぽい雨の中にいると、いつまでも鬱々とした気分は晴れない。

『もうお母様に愛してもらわなくてもいい、他の誰からも必要とされなくてもいいの……!
  ただ……あなただけいてくれたら、それで私は満たされるのに……っ』
俺が保健室を出る間際、目を覚ました朝生に言われた言葉だ。

――朝生 凪。
色々な闇を抱えた俺たちの同士。だった、とは……ならないことを願う。
もしかしたら俺は、あの子の傷痕を共有するどころか、広げてしまったんじゃないだろうか。
朝生に瑞奈を罵られた時、あの時は何も知らないくせにと思ってしまった。
だけど、朝生のことを何も知らないのは俺も同じなんだ。
俺たちと同じだからと分かったふりをしていても、
当たり前だけど俺たちと朝生の事情は似て異なるもの。
……昨日の自殺しようとしていた時に、俺は朝生の苦しみを聞きだすべきだったんじゃないか。
そうすれば……朝生の気持ちを理解していれば……こんなことにはならなかったかも知れない……。

「……くそっ」
何をウダウダ後悔してるんだ、俺は。
過ぎてしまったことを後悔しても何も変わらないことは、ずっと昔に思い知ったことなのに。
過去にいつまでも悩むより、これからどうするかを考えた方がよっぽど建設的だ。
……もしかしたら明日には朝生もいつも通りの姿を見せてくれるかも知れないし。
いや、先に俺がいつも通りでいなくちゃいけない。
そうすれば、きっと瑞奈も大事な親友を失わずにすむ。

だけど、雨で陰鬱になった心がそれを否定しようとする。あの関係はもう二度と帰ってこない、と。
一瞬でもそんな愚かしいことを考えた自分を叱責したとき――。
ようやく見慣れた自分の家が見えてきた。

「キョータくん……」

見えてきたのは、俺の家だけじゃない。
完全に濡れて天気のせいか黒ずんで見える亜麻色の長い髪と、
俺を真っ直ぐに見つめる輝きを失った瞳。
ところどころ透けている荒れた衣服と、そこから覗かれる血の気のひいた病的なほど白く美しい肢体。
目の前にいる少女は、どんなときも二人だった愛しい幼馴染で間違いない。
だけど――どうして……?
今はまだ、授業が行われている最中のはずなのに。

改めて瑞奈を見つめて、その異常性に気付く。
濡れていないところがどこもない。もしかしたら手もふやけているかもしれない。
ぐしゅぐしゅのずぶ濡れ。まさにそんな状態だった。
いくら雨が強いといっても、短時間でこれほど悲惨な状態にはならない。

――こんな雨の中、ずっと俺の家の前で待ち伏せていたのだろうか。

瑞奈は、そんな疑問にはまるでお構いなしに俺に駆け寄ってきた。
そしてよどんだ瞳で俺を捉えて、薄紫の唇で言葉を紡ぐ――。

 

「えへ……おかえり、キョータくん」

2007/06/11 To be continued...

 

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