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血塗れ竜と食人姫

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11

『それでは、本日の大目玉の片側!
  怪物妹 対 食人姫
  を、開始させて頂きます!』
 
『まずは東より、今は伝説のみ伝え聞く、イナヴァ村から送り込まれた対人兵器!
  ――怪物妹、セツノ・ヒトヒラッ!!!』
 
『前回の試合で、皆様度肝を抜かれたことかと存じます!
  今宵も我々に猟奇を見せてくれるのか!?
  異色少女改め、――食人姫、アトリッッッ!!!』
 
 
  う お お お お お お お お ! ! !
 
 
  歓声で空気がびりびりと震えている。
  しかし、闘技場の中心に立つ二人の少女は、欠片も動揺を覗かせずに、ただ相手のみを見据えていた。
 
  怪物妹――セツノは黒装束に身を包み、長い黒髪を首の後ろで無造作に括っていた。
  彼女本来の装備は、肌を露出させることのない完全黒ずくめだが、
  今回は主催の要望により、腕や足などを露出させた軽装となっている。
  闘技場は原則として素手のみなので、手甲や暗器の類は全て没収されていた。
  いつもとは違う戦闘着。しかし、その表情に恐れや不安は見当たらない。
 
  食人姫――アトリは、女囚のスタンダードでもある白シャツに、厚手の布のズボンである。
  帝国民に持ち得ない亜麻色の髪が、白い服と合っている。
  首もとで揃えられた短髪と、手入れされた眉や爪は、今日この日のために整えたもの。
  ぺろりと舌なめずりをして、相手の“食べやすそうな”部位を見定める。
 
  ――この試合に勝てば、姉と共に生きる道へ進める。
 
  ――この試合に勝てば、欲しいものが手に入る。
 
 
  そして。
  司会の口上も終わり。
  試合が、始まった。
 
 
 
  先に動いたのはアトリだった。
  彼女の戦い方はひとつしかない。
  相手の体のどこかを噛み千切る。それだけだ。
  故に、相手に飛びかかり、押さえ込んで動きを封じた上で噛み付くのが得策である。
  駆け出しの速度は、少女のそれとは思えない、素早いものだった。
 
  しかし。
 
  セツノは全く動じることなく、腰を落として足払い。
「――あれ?」
  すぱん、と乾いた音が響き、アトリの体は宙に浮く。
  刹那。
 
  目にもとまらぬ速度でセツノは回り込み、
  鉄槌――握り拳の小指側を、豪快にアトリの後頭部に叩き込んだ。
 
「――ぎゃっ!?」
  悲鳴を上げ、アトリが地面に叩き付けられた。
  ばふ、と砂煙が舞い上がり――セツノは即座に跳び退いた。
  同時に、がちん、と足のあった場所でアトリが歯を合わせていた。
 
 
  優れた対術を見せたセツノと、
  強撃を喰らったにもかかわらず反撃してみせたアトリ。
 
  二人の攻防に、会場が沸いた。
 
 
 
(……とにかく、顔面への攻撃は避けなきゃ駄目だ)
  間合いを維持しながら、セツノは頭の中で戦略を再確認。
  以前、背後から不意打ちした際――こちらの攻撃を事前に察知したわけでもないのに、
  相手はあっさり手甲を囓った。
  どんなに速い攻撃でも、口の近くへ放たれた場合は、苦もなく食い千切ってみせるのだろう。
  ――故に、手足や背面を攻撃するのが得策だろう。
 
(……背後に回って関節を極め、四肢を破壊した後に転がして頸椎を砕く、が最善かな)

 

 食人姫の体捌きのレベルは、大体把握できた。
  何でも噛み砕く咬合力こそ厄介だが、それさえ気を付ければ、他に怖い所などない。
  動きも素人そのもので、技術性など欠片もない。
  身体能力に頼り切った稚拙な戦い方。
  これなら――負ける方が難しい。
 
「このっ!」
 
  再び飛びかかってくる食人姫。
  それをギリギリまで引きつけてから、半身になって綺麗に避ける。
  背後を取った。
  首を180°回転できる人間が相手でなければ、噛み付かれることなど有り得ない位置。
  右の二の腕を掴み、相手の突進の勢いを利用して、そのまま地面に押し倒す。
  ――まずは右腕。
  肩と肘を固定して、普段力を加えられることのない方向へねじ曲げる。
 
 
(……あれ?)
 
 
  違和感。
  そしてそれは、すぐに確信へと変わる。
 
 
(――お、折れない!?)
 
 
  まるで、鋼の棒を捻ろうとしているかの如く。
  どんなに力を込めても、折れるどころか軋む気配すら、なかった。
  ならば――と即座に思考を切り替え、関節を外そうと持ち手を変えようとしたところで、
 
「……んっ!」
 
  絶妙なタイミングで、食人姫が体を跳ね上げた。
「くっ!?」
  そのまま跳ね飛ばされることはなかったが、衝撃で――極めていた手が外れてしまった。
 
  がりっ。

 

「――ッ!?」
  セツノは歯を食いしばった。
  激痛が脳を白く染める。
  しかし何とか動きは止めずに、そのまま背後へと跳び退いた。
 
  見ると、手首が半分ほど囓り取られている。
  赤い肉と白い骨の断面が、自分のものだと認識するのに数秒かかった。
  ――痛い。
  でも、今はそれに気を取られている場合ではない。
  こいつ……関節技が、効かない?
  いや、問題はそれほど単純ではない。
  思い返せ。
  試合が始まった直後、後頭部にいいのを一撃叩き込んだのに――平然としていた。
  立ち上がるのにはしばし時間を要していたが、頭蓋骨が割れてもおかしくない一撃を受けて、
  血の一筋すら見当たらない。
 
  まさか――
 
 
 
 
 
「……ふむ」
  かりこりと怪物妹の骨を噛みながら、アトリはこれからどうしようか考える。
  まあ、最終的には捕まえて食べるのだが、それまでが少々難しそうである。
  何せ、動きがとんでもなく、速い。
  今、手首を囓れたのも、相手がこちらの関節破壊に失敗した隙をつけたからだ。
  普通に追っかけても、捕まえるのは難しいだろう。
  左手首が壊れたことで、動きが鈍ってくれればいいのだが――
 
  しかし、怪物妹は動じることなく、今度は向こうから攻めてきた。
 
(……うわ!? 速すぎっ!)
  動きを目で捉えることができない。
  あっという間に見失い――次の瞬間、お腹にどでかい衝撃が来た。
  どーん、とあっさり吹っ飛ばされる。
  どさり、ごろごろ、と会場の端の方まで吹っ飛ばされた。
“普通の人間”なら、内臓破裂確定の強烈な蹴りだった。
 
  でも――何事もなかったかのように立ち上がる。

 あはは、驚いてる驚いてる。
 
  今の一撃を受けて、どうして平然としていられるのか。
  まあ、理由は至ってシンプル。
 
 
  ――私は、とても“壊れにくい”身体なのだ。
 
 
  人間や獣の打撃程度では傷ひとつ付かない。
  刃物なら肉をある程度切れるが、骨で確実に止まってしまう。
  大砲の直撃を受けたとしても、耐えきる自信が、ある。
 
  対衝撃に優れた筋繊維と、鋼鉄以上の頑強さを誇る骨格。
 
  これが、自分の今の身体。
  咬合力は確かに異常なまでに育てられているが――それを満足に扱えるのは、頑丈な身体があるからだ。
  弱点はあるにはあるが――いちいち思い返す必要はないだろう。
  嫌なことまで、思い出しちゃうし。
 
  さて。
  相手が、こちらの異常さに気付いたところで。
  とどめを刺しに、行きますか。
 
  ――普通の敵なら、攻撃が効かないと悟った時点で逃げてしまうのだが、
  ここは闘技場なので、相手は向かってくるしかない。
  逃げられても追う俊足がないので、アトリとしては、この闘技場ほど“勝ちやすい”場所はない。
  確実に勝ちたいのであれば、相手に好きなだけ攻めさせて、疲れたところをガブリ、だが。
 
  この試合に勝てば、ユウキさんが手に入るのだから。
 
  できるだけ、景気よく、決めておきたいところである。
  だから、私は再び飛びかかる。
  頑強な肉体は、防御に優れているだけではない。
  相手の攻撃を、わざと刃向かう形で受けてやり、逆に相手を壊すことだって可能なのだ。
 
  がつん、と胸に一撃喰らう。
  しかし、肋骨に阻まれて、相手の右拳から嫌な音が響いた。
  けほけほと咳き込みながらも、にやりと笑って見せた。
 
  ……って、あれ?
  怪物妹は痛みに表情を歪めることなく、
  少し離れたところで、何やら考え込んでいた。
 
 
 
 
 
  食人姫が、咳き込んだ
  ――この意味を、よく考えろ。
  渾身の打撃を放っても、逆に私の右拳が破壊された。
  どうやら骨の強度が異常に高いみたいだ。
  それは事実として受け止めるしかない。でも、諦めるにはまだ早い。
  効かないはずの攻撃を受けて、どうして食人姫は咳き込んだ?
 
  確認するため、再び打って出た。
  手首からの出血が酷い。できるだけ手早く済ませなければ。
  2歩で間合いを詰め、相手が反応しないうちに、鳩尾につま先を叩き込む。
  鉄を蹴るつもりで、自分の足が壊れないように威力を弱めて。
 
  するとどうだろう。
  食人姫は、動きを微かに、止めたではないか。
 
(外側は強くても――内側は、それほどでも、ない!)
 
  無論、常人よりは頑丈だろう。
  先程の蹴りでも、内臓破裂することなく、平然と立ち上がっていた。
  しかし、今の鳩尾への一撃は、呼吸機能を一瞬麻痺させる程度には効いていた。
  先程の胸への一撃も、肺へ衝撃が通っていたのだろう。
  壊すことはできなくても、やり方次第によっては、効く。
 
  ――最初にあったときの、不意打ちの一撃。
  こめかみを殴られた食人姫は。
 
  しばらく、立つのも覚束なかった。
  あれは、脳が揺れていたからだ。
 
  それだけわかれば充分だった。
  左手からは著しい出血。
  右拳はヒビが入ってしまった模様。
  ――でも、いける。

 痛みを無理矢理意識の外に追いやって、食人姫に飛びかかる。
  今度は真っ正面から。
  顎に向かって、左手を全力で突き出した。
 
「――はぐっ!?」
 
  それにそのまま、齧り付いてきた。
  左拳が、半分ほど食われてしまった。
  打撃も、顔の正面へのものだから、それほど効いた様子はない。
  ――これでいい。
  左手の先っぽは、くれてやる。
  でも――
 
  食人姫がこちらの拳を食い千切り、口を完全に閉じた瞬間。
 
  そのままの勢いで、肘を顎先に、引っかけた。
  こつん、と肘先に軽い感触。
  これで、充分だった。
 
「――あれ?」
 
  再び噛み付こうとしていた食人姫が、
  その場に膝を、付いていた。
 
 
 
 
 
  足から、唐突に力が抜けた。
  やばい。脳を揺らされてしまった。
  上半身はそれなりに動くが――如何せん、足が動かないとなると、相手の攻撃を受け放題に、
 
  がつん、ごつん、と殴られた。
 
  打撃は全て、頭部へのもの。
  まず後頭部に。そして流れるような追撃をこめかみに。
  視界が面白いように回っている。
  吐き気もしてきた。先程胃に収めた血肉を戻してしまいそうになる。
  打撃はあくまで、内側に通すためのもののようで、先程から脳を見事にかき回されている。
  なんとか首を動かして噛み付こうとするが――駄目だ。こちらの可動範囲を完全に把握された。

 ちょっと、余裕も見せすぎたかなあ。
 
  倒れ込んだところに、足を乗せられる。
  踏みつぶすつもりか? ――いや、違う。これは、
 
  どん、と一際大きい衝撃が来た。
 
  乗せた足の上から、拳を叩き付けた模様。衝撃を通す上手い攻撃だ。
  折れた拳でよくやるなあ。……まあ、効果は絶大だけど。
  やば、うまく考えられなくなってきた。
  ぐるぐる回る世界、どうしよう、と悩むだけの脳。
  もう、複雑なことは考えられなくなってきて。
  なんだか、気持ちよくなってきた。
 
  ……ああ、でも。
 
  ……ひとつだけ、はっきりとした、ものがあった。
 
  どうしても欲しいものが。
 
  あったんだっけ。
 
  絶え間なく訪れる食欲ではない。
 
  もっと暖かいもの。一緒にいたいと、思ったもの。
 
  全部いらないと思って、国を出てきたはずなのに。
 
  何も欲しいものなんてないと、思ってたはずなのに。
 
  ユウキさん。
 
  そうだ、私は、彼を欲しいと思ったんだ。
 
  手に入れるには、どうすれば、いいんだっけ――?
 
 
 
  おなか、すいたなあ
 
 
 
  しぶとい。
  このままでは、こちらが先に出血多量で倒れてしまう。
  ただ気絶されるだけでは駄目なのだ。
  確実に、殺さなくては。
  そのためには、意識を完全に攪拌させ、
  おそらくは柔らかいであろう場所から指を突っ込み、
  脳を確実に破壊しなくては。
 
  出血で、だんだん意識が薄れてきた。
  もう、いいかな。
  充分、脳をかき回したよね。
  まともに考えることすら、難しいはずだ。
  あとは、顔をこっちに向けて、眼孔に指を――
 
  足で食人姫の身体をひっくり返した、その瞬間。
 
  ゆっくりとした動きだったが、
  完璧な、足払いを、かけてきた。
  驚くべきことに、その当て方は、試合の最初に私が見せたのと同じもので。
  出血多量で朦朧としていた状態では、避けることすらままならず。
 
  どさり、とその場に倒れ込んでしまった。
 
  衝撃で一瞬、目を瞑ってしまう。
  そして目を開けたとき――そいつは、セツノの上に、乗っていた。
 
  視点は定まっておらず、左右の瞳が不安定に揺れている。
  首もガクガクと震えていて、押さえ込むというよりは、そのまま覆い被さっているようだ。
  半開きの口が、唾液をぺちゃぺちゃこぼしながら、
 
 
「つかまえたぁ」
 
 
  そう言って。
  かぶりついてきた。
 
  ――その瞬間。
  セツノは、自分が今から死ぬことを認識し。
 
  ……姉さん、ごめん。
 
  最後に、そう思った。
 
 
 
 
  闘技場の中央で繰り広げられる光景に、観衆全員が魅入っていた。
 
  気の弱い者は失禁し、特殊な性癖を持つ者はギンギンに勃起している。
  あまりの光景に、嘔吐してしまう者が続出する始末である。
  痛いほどの静寂の中、
  くちゃ……ぱきん……がりごり……ぐちゅ……、と。微かな音が、響いている。
 
 
  食人姫が、怪物妹を、喰っていた。
 
 
  肋骨にかぶりつき、べりと剥がしてバキバキと噛み砕く。
  晒された肺臓を引き千切り、押し込むように口の中へ。
  怪物妹の体は、既に2割は胃の中だ。
  頭部は半分ほどになり、そこから食い千切られた脳の欠片がこぼれている。
  残った瞳の片方は、虚ろに血の涙を流していた。
  手足も所々食い散らかされ、まともな場所など残ってない。
 
  がつがつと。
  ひたすらに、食人姫は貪っていた。
  白かった囚人服は、べっとりと血の赤が染みこんでいる。
 
 
  ――と。
  唐突に、食人姫が顔を上げた。
 
  その目が捉えたのは、貴族席に座る一人の男。
  怪物妹が食される様を見て、涎を垂らし、下着の中に何度も何度も射精している。
  そいつを視線で刺しながら、食人姫は、ぽつりと、呟いた。
 
  聞こえた者は一人もいない。
  しかし、彼女は、確実に、こう呟いていた。
 
 
 
「――これで、ユウキさんは、わたしのもの」
 
 
 
  その後、食人姫が食事を終え、係官が肉塊を運び出すまで。
  闘技場は、異様な沈黙に、包まれていた。

12
「――ゲスト後発。出番だ」
 
  係官が、私を呼びに来た。
  セっちゃんは、帰ってこなかった。
  それでも――聞かずにはいられなかった。
 
「あの……妹はどうなりましたか?」
 
「ん? 食人姫に喰い殺されたぞ。
  身体は原形を留めてないから、そのまま丸めて焼却されるだろう。
  死に顔を見るのは諦めろ」
「……そうですか」
 
  はあ、と溜息を吐いた。
  重い重い溜息は、まるで魂を吐き出してしまったかのようで。
  なにも、考えられなくなってしまう。
 
「準備は、できてます。
  いつでも、出られます」
「そうか。では、行くぞ」
 
 
  ――実のところ。
  私は、それほど悲しんでいなかった。
  自分だけでなく妹も諜報員として育てられると決まったとき、
  私は大いに悲しんで、それ以降、妹を疎ましいと思うようになっていた。
  苦労するのは、私だけでよかったのに。
  私には戦闘への適性があったから、難なく戦闘訓練もこなすことができた。
  でも、妹は普通の女の子だったから、数え切れないほど血反吐を撒き散らしたに違いない。
  ――姉さんは、私がいないと駄目なんだから。
  ――姉さんひとりじゃ、心配だし。
  鬱陶しい妹だった。いつまで経っても私を子供扱いして、何でも手伝おうとしてくるお節介焼き。
  私は、妹に普通の女の子として幸せになって欲しかったから、諜報員に志願したのに。
  そんな私の思いを裏切るかの如く、私を必死に追いかけてきた妹。
  はっきり言って、邪魔だった。元の暮らしに帰って欲しいと何度も願った。
 
  だから、妹が死んでも、悲しくなんて、ない。
  そう、自分に言い聞かせる。
 
 
 
 
 
  誰かが呼んでいる。
  暖かい声。――ああ、ユウキの声だ。
  うっすらと目を開けると、ぼんやりとした視界の中、ユウキが私の顔をのぞき込んでいた。
「……ん。ユウキ?」
「白、出番ですよ」
「ん。わかった」
  心地よいまどろみを振り払うように、頭を振る。
  今日も頑張ろう。
  頑張れば、ユウキは褒めてくれる。
 
「……白、ずいぶんと疲れているようですが、大丈夫ですか?」
「ん。平気」
  ホントは、寝不足でふらふらするが、ユウキに格好悪いところは見せたくないので強がってみせる。
 
  ――あの夜に覚えた、気持ちいいこと。
 
  それを毎晩毎晩続けてしまったせいで。
  ここのところ、とんでもなく寝不足だった。
  気を抜けば立ったまま寝てしまいそうになる。
  でも、深夜にふとユウキの顔を思い出すと、どうしようもなく体が熱くなってしまい、
  気付いたときには既に遅く、頭が真っ白になるまで気持ちいいことを繰り返してしまっていた。
 
  ユウキに見られちゃったら、嫌われるかな?
 
  なんとなくだが、あのことは、ユウキには知られてはいけない気がした。
  凄く気持ちいいことなのだから、ユウキにも教えてあげたいという気持ちはある。
  でも――何故か、知られたくないという気持ちも強く、結局、夜中にひとりでこっそり行う。
 
  ユウキも、あんなこと、するのかな?
 
「? どうかしましたか、白」
「ううん。なんでもない」
  突然頭を振った私に声をかけてきたユウキ。その顔を直視することができず、
  そっぽを向いて答えてしまう。
 
  いつか。
  ユウキには、知ってもらいたい。
  私は、ユウキのことを思って、凄く気持ちいいことをしているんだって。
  やっぱり、ユウキには隠し事はしたくないし、できれば、ユウキと一緒にしたいし。
  今は何故だか凄く恥ずかしくて教えられないけど。
 
  ずっと一緒にいるんだから、いつか、きっと。
 
 
 
 
 
『――それでは、本日の最終試合!
  大目玉のもう片方!
  血塗れ竜 対 怪物姉
  を、開始させて頂きます!』
 
 
『先ずは挑戦者!
  先程の怪物妹の奮戦ぶりは凄まじいものがありましたが、
  こちらは更に! 更に更に凄い!
  イナヴァ村より送り込まれた“攻城兵器”!!!
  ――ユメカ・ヒトヒラッッッ!!!』
 
『もはや拭い切れぬ血の薫、最強の竜は今宵も生贄を求めている!
  その身は血潮にまみれてこそ美しい!
  私たちに、最狂の惨劇を見せてくれ!
  ――王者、血塗れ竜こと、ホワイト・ラビットッッッ!!!』
 
 
  先程の食人姫への畏怖すら打ち消すような、観衆の怒号が闘技場を震わせた。
  食人姫のインパクトもかなりのものだが――彼女はあくまで二戦目の新人である。
  2年にわたり、あらゆる挑戦者を屠り続けてきた血塗れ竜への人気は、絶大なものだ。
 
  何より、血塗れ竜の戦い方はわかりやすい。
 
  手足がぶちぶちと千切れ飛ぶのだ。
  見ている側へのインパクトは、食人ですら及ばない。
  断面より溢れる鮮血を浴び、作業のように相手を殺す。
  それに心掴まれている観衆が殆どである。
 
  故に――今宵も、血塗れ竜の勝利を疑う者は、存在しない。
 
  ただ。
  紹介の際の一語が――何割かの観衆に、違和感を覚えさせていた。
 
 
  攻城、兵器?
 
 
 
 
 
  うー。眠い。
  うつらうつら、かっくんかっくん、と集中力を保てない。
  早く終わらせて、ユウキの腕の中で眠りたい。
  あ、でも、ユウキの匂いが近くにあると、またあの気持ちいいことをしたくなる。
  そろそろ普通に寝る努力をしないと、戦うことすらままならなくなってしまう。
  相手を殺さなければ、私はユウキと一緒にいられないのだから。
  頑張って殺さなければ。
 
  とりあえず、相手をさっさと殺して、今日は早めに寝るべきか。
  相手は女。長身だが、ここの東棟の連中みたいにごつごつしているわけではない。
  基本的にはすらりとしていて、一部がどかんと大きくなってる。
 
  ……でも、それは見せかけのもの。
 
  腕は細いだけに見えるが、それはとんでもない嘘っぱち。
  筋肉の一筋一筋が絞り込まれていて、内に秘める力は成人男性より強い。
  速さ・筋力共に、並の囚人を超えるだろう。
  外見で油断させて仕留めるタイプだろうか。
  ――否、外側の雰囲気からは、油断させようとしている気配が感じられない。
  自然体で、こちらを見据えている。
 
  戦法が読めない。
 
  まあ、どんな戦い方であろうとも、私はいつも通りにするだけだ。
  攻撃してきたら、その力を利用して、引き千切る。
  攻撃してこなかったら、脆い部分を破壊して、引き千切る。
  それで、殺して、ユウキに褒めてもらうんだ。
  それだけだ。
 
 
  ――そして、試合が始まった。
 
 
 
 
 
  飛びかかってくるか距離を取るかのどちらかかと思っていたら、
  怪物姉は、普通にすたすた、歩いてきた。
  殴りかかろうと駆け足になることもなければ、警戒しながらゆっくり近づいてきているわけでもない。
  言うなれば、自分と同じように。
  ただ、普通に歩み寄ってきている。
  一体どうするつもりなのか。
  そう思いつつ、こちらも同じように近づいていく。
 
  そして、怪物姉は、手を伸ばしてきた。
 
  攻撃しようと突き出してきたわけではない。
  ただ、ゆっくりと。自然に、手を前に出してきた。
  力が籠もっている様子はない。これでは、力を利用するのも難しい。
  ――何が狙いなのだろうか。
  そのまま、手は、こちらの顔に到達しようとして。
 
  ただ、触れようとしているだけにしか見えない。
  力も込められておらず、避ける必要すらなさそうだ。
 
  でも。
 
  これは危険だと。
  避けなければならないと、全身の細胞が警鐘を鳴らしていた。
 
  横に跳んで避けようとして――足下に違和感。
  いつの間にか突き出されていた相手の足に引っかかり、そのまま無様に転んでしまう。
  自分らしくもない。相手の手に注視しすぎて、足への注意が疎かになっていた模様。
  手はきっとブラフだ。恐れるべきことではない。
 
  そう思って立ち上がろうとしたら、
  再び、手を、伸ばしてきた。
 
  避ける必要なんてない。
  それより、立ち上がって、体勢を整えなければ。
 
  手が、近づいてくる。
 
  危険そうには、見えない。
  でも、違和感。これはおかしい。何かおかしい。
  何がおかしいのかはわからないが――これはきっと、危険なもの。
 
 
  そして、違和感の正体が判明した、瞬間。
 
 
「ッ!!!」
  痛めていた右腕を地面に叩き付け、
  とにかく必死に、横へと転がった。
 
  刹那。
 
 
 
 
 
 
  闘技場の観衆は、全員、何が起きたのか理解できなかった。
  血塗れ竜が何やら必死な様子で地面を転がり。
  怪物妹の手が、地面に押しつけられた。
 
  それだけなのに。
 
 
  闘技場の中央が、爆発した。
 
 
  轟音と共に、地面の砂が舞い上がる。
  闘技場の半分以上を砂煙が覆い隠し、観衆の大半は突然の轟音に耳をふさいだ。
 
  血塗れ竜が砂煙の中から背中から飛び出てきた。
 
  視線は砂煙の中に固定され――その表情は最大限の警戒を示している。
  そして、血塗れ竜を追うように、怪物姉も飛び出てくる。
  先程までのようなゆったりとした動きではない。
  鋭く、速い追い足だった。
 
  血塗れ竜の背が、闘技場端の壁にぶつかる。
  その反動を利用して、横に跳ぶ血塗れ竜。
  一瞬前まで王者が居たところに、怪物姉の掌が押し当てられ。
 
 
  再び轟音が響き渡り、
  壁が、粉々に破壊された。
 
 
  最前列で観戦していた観衆の数十人が、ばらばらと砂地の上に落ちてしまう。
  誰もがその非現実的な光景に、唖然とした。
 
  なるほど。
  ――“攻城兵器”は言い得て妙だ。
  確かにこの威力なら、単体で城壁を壊せるだろう。
  予想外の挑戦者の実力に。
  観衆全員が色めきだった。
 
 
 
 
 
  ――からくりは、既に看破していた。
  常人以上に鍛え込まれた筋力を、全身から余すところなく収束させ、零距離で炸裂させているのだ。
  天性の才能と、異常極まりない修練により生み出された、常識外の破壊力。
  それは、以前対戦したレコン・ランクラウドの攻撃すら上回る。
「……くっ!」
  とにかく、必死に距離を取る。
  仕組みを理解しても、攻略するのは、難しい。
 
  白にとっては。
  破壊力そのものは、驚異ではない。
  何より問題なのは――攻撃が零距離から為される点である。
 
  発動する直前まで、それはあくまで“手を伸ばしている”だけなのだ。
 
  相手の攻撃の勢いを利用する白の戦法では、
  ただ伸ばされた手を、破壊するのは難しい。
  かといって、攻撃が発動した瞬間を狙うには、そのタイミングはシビアすぎる。
  何せ、攻撃の助走距離がないのである。
  手を添えた瞬間、こちらの腕が吹き飛んでしまうのは間違いない。
  発動の瞬間。刹那の世界の中で、髪の毛ほどの精密さをもって、対応しなければならないのだ。
  利き腕がいつも通りなら――あるいは可能だったかもしれない。
  しかし、前回の試合で負傷していて、かつ寝不足の状態では、そんな神業的な対応は不可能だろう。
  ――状況は、窮めて不利だった。
 
 
 
 
 
  血塗れ竜は混乱している。
  今のうちに、片を付けなければ。
 
  ユメカは全速力で追いすがる。
 
  自分の攻撃は、びっくり箱のようなものだ。
  初回で決まればそれで良し、決まらなければ、相手が驚いている内に畳み掛ける。
 
  ――それに、血塗れ竜。
 
  奴が逃げ回っているのは、策が無いからではない。
  舞い上がっている砂煙。
  これを、血塗れ竜は、嫌がっているのだ。
 
  おそらく――血塗れ竜の超人的な強さの根幹は“見切り”にあるのだろう。
  相手の攻撃の流れを見切り、タイミングを完璧に見切った上で、それを破壊する。
  その神業を可能としているのが、全てを見切る“目”に違いない。
  故に、視界を酷く限定される砂煙の中を避け、今現在、後ろ跳びを繰り返して逃げているのだろう。
 
  ――だけど、こちらの方が速い。
 
  向こうは後ろ跳びで、こちらは前への直進なのだから、追いつくのは簡単である。
  しかし、絶妙なタイミングで、避けられてしまう。
  もう、こちらの発動のタイミングを見極めたか。
  腕の助走距離はゼロとはいえ、力を収束させるために、
  身体の端から捻りを一気に収束させるため、そのタイムラグを見切ったようだ。
  流石は王者。長引かせれば、どうなるかわからない。
 
  これが普通の敵だったら、素早く足技あたりを引っかけて動きを止めればいいのだが、
  血塗れ竜相手にそれをやると、あっさり足を引き千切られてしまう。
  故に、あくまでも零距離の攻撃にこだわらなければならないのが辛いところ。
 
  ――血塗れ竜が避けるのに失敗するか、
  ――それとも私が誤って甘い打撃を放ってしまうか。
 
  先に集中を途切れさせた方が、負ける。
 
 
 
 
 
  ――まずい。
  持久戦になったら自分が負けることを、白は冷静に認識していた。
  寝不足による集中力の低下。
  現状ですら、かなりギリギリの綱渡りである。
  もって、あと三度。
  それ以上避けるのは――無理だろう。
  右腕による精密な反撃は不可能で、集中も途切れがちなのを誤魔化し誤魔化し凌いでいる。
  このままでは、負ける。
 
  しかし……無事に勝てる手段も、ない。
 
  負けてしまったらどうなるのだろうか。
  敗北は死――それが、この囚人闘技場の定説である。
  万が一、運良く生き延びたとしても――
 
  王者でなくなった自分を、ユウキは見捨てないでいてくれるのか。
 
  ――私は、囚人闘技場王者の付き人です。
 
  イヤだ!
  ユウキが側にいないなんてイヤだ!
  そのためには勝たなくちゃ。
  何があっても、殺さなきゃ。
  じゃないと、ユウキに褒めてもらえない。
  ユウキが、側にいてくれない。
 
  想像するだけで背筋が凍る。
 
  ユウキの暖かさが、なくなる。
  ユウキの柔らかさを、感じられなくなる。
  ユウキの匂いを、失う。
 
  こんな、怪物姉のような“イヤなニオイ”ではなく、
  ユウキの匂いは、自分を心地よくさせてくれる――
 
 
  ……あれ?
  この、ニオイって。
 
 
 
 
 
「っ!?」
  避ける一方だった血塗れ竜が、こちらの懐に飛び込んできた。
  どん、と肺を押されて息が詰まる。
  腕の内側では、こちらも攻撃を発動させることができない。
  肩を押し込み、突き放さないと――
 
 
「あのとき、ユウキに付いていたニオイだ」
 
 
  血塗れ竜が、呟いた。
「おまえ、ユウキに、何をした」
  ……?
  ユウキさん?
  そうだ、この試合に勝てば、ユウキさんと一緒にいられるかもしれないのだ。
  セっちゃんは一緒じゃないけど――ユウキさんと一緒なら、寂しさを紛らわせられるかもしれない。
  私の横に、もう妹はいない。
  ぽっかりと空いてしまった空虚を埋められるのは、あの素敵な人だけだと思う。
  酷いことをしちゃったから、精一杯、お詫びしなければ。
  ――そのためには、血塗れ竜を、殺さないと。
  ひとつ、賭に出ることにした。
 
「何をしたかって?
  ――それは、とても、素敵なことです」
「……嘘だ」
「きっと、貴方がしてもらってないこと、です」
「……ユウキは、私に何でもしてくれる」
 
  どうやら、私は賭に勝ったようだ。
  血塗れ竜は、面白いくらい、動揺している。
  そして――おそらく、彼に抱いてもらっていない。
  生娘独特の青臭い反応を、返してきている。
 
「それこそ嘘。
  だって貴女、ユウキさんに抱かれたことなんてないでしょう?」
 
 
 
 
  ……抱か、れた?
  抱っこなら、何度でもされたことがある。
  ――でも、こいつの言っているのとは、違う気がした。
 
「私は、彼に一杯抱いてもらいました。
  奥に熱いのを何度も出してもらって――いっぱい、愛し合ったんですよ?」
 
  言ってる意味がわからない。
  こいつの言ってることは戯れ言だ。
  よくわからないことを言って、こちらを動揺させようとしているのだろう。
  わからない。全くもってわからない。
  愛し合った? ユウキと? そんなの嘘だ、だってユウキは私のことを――
 
 
  ――愛しているとは、一度も言ってくれたことが、ない。
 
 
「う、」
  背筋がぞわぞわと粟立った。
  怖い。怖い。怖い。よくわからないけど、凄く、怖い――!
  何が怖いんだろう。わからない。わからない。わからないわからないわからないわからないわからない!
「うあああああああああああああああああああ!!!!!!???」
 
「ごめんなさい」
 
  気付いたときには。
  肩が割り込んでいて。
 
  どん、と突き飛ばされていた。
 
  微妙に距離が開く。
 
  相手の手がこちらに伸びる。
  バランスを崩していて、上手く動けない。
 
  あれ?
 
 
 
  何度も行っていたことだから。
  無意識のうちに、身体が動いていた。
  相手の攻撃の流れを読み、強引に逸らして引き千切る。
  咄嗟のことだったので、怪我しているとか関係なく。
  壊れた右手で、それに刃向かっていた。
 
  ぺきん、と右手の四指がへし折れた。
 
  しかし逸らすのには成功し、急所を破壊されることは、なかった。
  粉々に砕けた右手の指から、閃光のような痛みが走る。
  咄嗟のことだったので、精密な捻りなど期待できず、当然相手の腕は無事なままだ。
 
  でも。そんなことより。
 
「ユウキは、私の」
「それは、違います」
  再び、手を伸ばしてくる。
  跳んで避けるのは間に合わない。
  左手では、引き千切るのは難しい。
  右手は骨が砕けているので、使えない。
「ユウキは、私のなんだからっ!」
「――イヤです。私だって、欲しいんです」
 
  その言葉が、引き金となった。
 
  ――ユウキは、誰にも渡さない。
 
  自分の身体なんて、どうなってもいい。
  右手がなくなっても、ちゃんと戦えれば、ユウキは私の側から離れないはずだ。
  私は囚人闘技場の王者なのだから。王者でいる限り、ユウキは一緒にいてくれる。
 
  だから、
 
 
 
 
 
 
 
 
  再び、手を差し出した。
  爪先から掌まで、全身の動きを連動させ、破壊力を一点に収束させる。
  今度こそ。
  血塗れ竜を殺してみせる。
  相手に避ける手だてはなく、あの恐ろしい引き千切りも、右腕が壊れた現状では不可能だろう。
 
  そう、思っていたら。
 
  血塗れ竜は、刹那の合間、右腕を突き出してきた。
  再び逸らすつもりだろうか。
  しかし、壊れた右手ではろくに力も入らないだろ。逸らすことすらままならないはず。
  右腕と引き替えに、数秒間の命を得ようということか。
 
  左手に、全身の力が収束する。
  これをこのまま押し出すだけで、石壁すら破壊する衝撃が繰り出される。
  そして右腕を奪った後は、左手に注意しつつ戦えば、勝てる。
 
  負けるはずない。
  そう思って、左手を突き出した。
 
  ぶちり、と血塗れ竜の右腕が飛んだ。
  自分の腕が飛ばされて、どう思ったか――と、顔を見たら。
 
  血塗れ竜は、笑っていた。
 
  獲物を捕まえた獣のように。
  にたり、と壮絶な笑みを浮かべていた。
 
  左腕に違和感。
  血塗れ竜の右腕を吹き飛ばした直後。
  そのまままっすぐ進むはずが、微妙に方向が逸れていく。
 
  まさか、と思った次の瞬間。
 
 
  血塗れ竜の左手が、こちらの左腕を、引き千切っていた。
 
 
 
 
 
 
 
  攻撃が発動した瞬間に捕らえるのは、不可能だった。
  攻撃が発動した直後は、とんでもない威力のため、触れることすらままならない。
  攻撃を避けた後では、既に捕まえられる範囲を過ぎている。
 
  だけど、攻撃が当たった直後なら。
  威力は落ち、かつ捕らえられる範囲にある。
 
  わざと当てさせて、私の右腕が衝撃で引き千切られている間に、
  左腕を走らせて、当たった直後の無防備な手を、捕らえた。
 
 
  あとは、いつもと同じように、ねじ切るだけ。
  でも、それじゃあお互い片腕を失っただけで互角のまま。
  だから、この瞬間に全てを賭ける。
 
 
  いつもは、当てて逸らしているが、
  今は、確実を期すため、掴んで逸らしていた。
  だから、こちらの手の中に、怪物姉の左腕が、残っている。
  根元の肉はボロボロになり、ねじ切れた骨の先端が覗いている。
 
 
  そして、衝撃で動けないでいる怪物姉の顔面、
 
 
  ――その眼孔に、左腕の骨を、突き刺した。
 
 
  びくん、と怪物姉の身体が痙攣し、そのまま倒れ込む。
  仰向けに寝転がる怪物姉の頭には。
 
 
  墓標のように、左腕が立っていた。
 
 
『……し、勝者、血塗れ竜!』
 
  やった。
  今日も勝った。
  これで、ユウキに褒めてもらえる。
 
  拍手と歓声を浴びながら、よたよたと歩き、控え室へとまっすぐ向かう。
  右腕が根元から吹っ飛んでしまったので、早めに手当を受けなければならない。
  でも、その前に。
  ユウキに、会いたかった。
 
  右腋に左手を押し込んで、強引に止血する。
  片腕がなくなり、バランスが極端に悪くなったため、まっすぐ歩くのも難しい。
  でも、一歩一歩確実に、控え室へと進んでいく。
 
 
  そして、控え室の扉を、体を使って押し開けて。
 
 
「――ユウキ!」
 
 
  今日も、勝ったよ。
  だから、褒めて。
  頭を優しく撫でて。
  ユウキがいるから、私は今日も頑張れたんだから。
 
 
「……あれ?
  ユウキ……?」
 
  おかしいな。
  おかしいな。
  いつもなら、ユウキが出迎えてくれるはずなのに。
  なんで。
 
 
  なんで、ユウキが、いないんだろう。
 
 
  がらんとした控え室の中。
  血塗れ竜は、呆然と立ちつくしていた。
13

 突然の辞令に、僕は当然抗議した。
  しかし、一介の監視員に発言力など欠片も無く。
  結局、白に打ち明けることもないまま、僕は血塗れ竜の付き人ではなくなった。
 
 
「ユウキさーん。ユウキさんってばー」
「……何ですか?」
「そろそろ機嫌直してよー。
  もうどうしようもないんだから、新しい仕事を頑張らないと職務怠慢だよー」
「……ちゃんと仕事はしているつもりですが」
「そんなことないー。はい、これ」
 
  テーブルの向かいに座るアトリは。
  何故かいきなり、スプーンを僕に差し出してきた。
 
「食べさせてー」
「お断りします」
 
  ――あの試合の日以来、アトリはずっとこんな感じだ。
 
  とにかく僕と四六時中一緒にいようとして、何かとベタベタ甘えてくる。
  正直、アトリのような美少女に、こう際限なく甘えられるのは悪い気分ではないのだが、
 
  怪物姉妹のことを思い出したり、
  何より、白のことが気がかりだったりして、
  素直に、アトリの好意を受け入れられない。
 
  怪物姉妹の試合の日、僕が白を送り出してから。
  僕は、一度も白の顔を見ていない。
  白の付き人になってから、こんなに長い間離れていたことはなかったので、
  何をしても身が入らなく、全てが中途半端になってしまう。
  アトリの言うことにも一理ある。
  僕の仕事は変わったのだ。
  覆せるはずがないのだから、受け入れて気持ちを入れ替えるのが筋である。
 
  でも。
  ――白のことを、忘れられない。
 
  王者のくせに何も欲しがらず。
  僕の側で微笑んでいた少女のことを。

 つまるところ。
  僕は――白の付き人だったことに、未練があるのだ。
  白は僕と一緒にいて、とても幸せそうにしていたけれど。
  きっと、こちらも彼女と同じくらい、満たされていたのだろう。
 
 
「もう、ユウキさんってば。
  食べさせてくれるくらい、いいじゃんかよー。
  どーせ、血塗れ竜にもやってたんでしょ?」
「……それは、そうですけど」
 
  アレは、ある種慣れきっていた白だったからできたことだ。
  知り合って数ヶ月しか経っていないアトリに対して、そうそうできることではない。
  ――と。
 
「……ふうん。ホントに、やってたんだ」
 
  何故か、室温が、下がった気がした。
  今日は曇りだから、冷たい風でも吹いてるのだろうか。
 
「――ユウキさん」
「うわっ!?」
  ふと目を逸らした隙に、アトリが僕の隣に来ていた。
  その手には、もはや何皿目かは忘れてしまった、アトリの夕食が皿ごと持たれていた。
「はい」
  と、皿を差し出される。
「……? もう要らないってことですか?」
  大食のアトリにしては珍しいな、と皿を受け取ろうとしたが、違う違うと首を振られた。
「あのね、」
 
「く、ち、う、つ、し、で食べさせて」
 
  微妙に頬を染めながら、そんなことをのたまった。
  恥ずかしがるくらいならそんなこと言うな、と思ったが、
  それ以上に、唐突なお願いの衝撃に僕の頭の中は真っ白で、あんぐりと口を開いて絶句する。

 

 と、そこへ。
 
「――とりゃーっ!」
「わぶっ!?」
 
  開いた口に料理を突っ込まれた。
  吹き出すわけにもいかず、数秒間口をもごもごさせて、どうしようか迷っていたら。
 
  アトリが、唇を合わせてきた。
 
  舌が口内に侵入してきて、そのまま食料を奪われていく。
  口の中が苦しいので、食料を押し出そうとすると、時折アトリの舌と僕の舌が触れ合ってしまう。
  そのたび、何故かアトリの身体はぴくりと震え、彼女の口の動きは激しくなった。
  やがて、口の中の食料は全て奪われて、アトリの唇が離される。
  くたり、とその場に脱力してしまった。
  いきなり何をするんだ、とアトリの方を見て、
 
 
「――ユウキさんは、私の付き人なんだから。
  血塗れ竜より私のことを可愛がってくれなきゃ、駄目なの」
 
 
  形容しがたい異国の瞳に、まっすぐ見つめ返された。
 
 
  その瞳の光は、何故か白を思い出させて。
  白は今頃どうしてるのか、とても気になってしまった。
  試合からそれなりに日が経っているが、怪我はちゃんと癒えたのだろうか。
  人づてに聞いた話だが、怪物姉との試合で、白は重傷を負ったらしい。
  とても――心配だった。
 
 
 
 
 
 
 
  かり……かり……。
 
  爪が、絨毯の上を幾度もなぞる。
 
  かり……かり……。
 
  五指の動きはバラバラで、見る者が見れば、それは意図的にそうしていると判断できる。
  外は曇天。薄暗い部屋の中で、絨毯を引っ掻く音だけが響いていた。
 
  かり……かり……かり……がり!
 
  静かだった引っ掻き音が、一瞬強く響き渡った。
 
「……失敗。薬指は、もう少し」
 
  呟きが漏れ、再び引っ掻き音が響き始めた。
  部屋の空気は淀んでいて、あちこちから異臭が漂っている。
  それもそのはず。
  この部屋に、綺麗な場所など、欠片もない。
 
  家具は軒並み破壊されて。
  毛布は無惨にも引き千切られ。
  壁紙には投げつけられた残飯がへばりつき。
  絨毯のあちこちでは、吐瀉物がそのままである。
 
  そんな、浮浪者ですら住みたいとは思えない、元は豪奢だった部屋の中央で。
 
 
  ――血塗れ竜が、絨毯を引っ掻いていた。
 
 
  服はこぼしたソースや吐瀉物の欠片でドロドロに汚れている。
  輝くようだった銀髪も、十数日も洗っていないため、皮脂でくすんだ鈍色にになっていた。
  右肩には包帯がきつく巻かれていて、そこに滲んだ血が黒く固まっていた。
  瞳は虚ろで、ずっと中空を眺めている。
  口は半開きで、ひたすら無言だったかと思うと、唐突に、ある単語を漏らすこともあった。
 
 
「ユウキ」
 
 
  彼女の口から出てくる単語は、これだけ。
  怪物姉に勝利してから今までずっと。
  血塗れ竜は、絶望に身を浸していた。

 

 どうして、ユウキはいなくなってしまったのだろうか。
  自分はちゃんと頑張ったのに。
  頑張って、相手を殺したのに。
  殺していれば、ユウキが側にいてくれるはずなのに。
 
  右腕を無くしたのがいけないのだろうか。
  もう戦えないと思われたのだろうか。
  そんなことないのに。
  右腕なんか無くたって、誰が相手でも殺してみせる。
  実際、左腕も、ほとんど以前の右腕と同じくらい動かせるようになった。
  右腕が無くなったことにも慣れ、五体満足だった頃と変わらない程度に、動けるようになった。
 
  もう、怪我は完治した。
  もう、いつでも戦える。
  もう、誰だって殺せる。
 
  もう、我慢できない――
 
 
「……ユウキ……ユウキ、ユウキ、ユウキ、ユウキ、ユウキ、ユウキ、
  ユウキ、ユウキ、ユウキ、ユウキ、ユウキ、ユウキ、ユウキ、ユウキ――」
  壊れたオルゴールのように。
  掠れた声を、吐き続ける。
 
  側にいて欲しかった。
  頭を撫でて欲しかった。
  優しく抱きしめて欲しかった。
 
  ついこの間まで、全部あったはずなのに。
  今はもう、暖かさの欠片もない――

「……う、う、ううう……うあああああああああああああああっっっ!!!」
 
  泣くのは一体何度目だろう。
  涙をボロボロとこぼしながら。
  ――誰が、ユウキを奪ったのか。
  そいつを、殺してやりたかった。

 

 ――こんこん、と。
  ノックの音が、響いた。
 
「……ユウキッ!?」
 
  大泣きしていた血塗れ竜は、一瞬で涙を引っ込めて、扉の方へ凄い勢いで振り向いた。
  やっぱり、ユウキは自分を見捨ててなんかいなかった!
  ちょっと用事があって来られなくなってただけなんだ。
  だから、ほら、すぐに扉を開いて、私のもとに来てくれる――
 
  こう、希望を抱いたのも何度目だろうか。
 
  それが両手両足でも数え切れないくらい裏切られたのにもかかわらず。
  血塗れ竜は、涙でぐしゃぐしゃに汚れた顔で、扉が開くのを、待っていた。
 
  しかし――
 
「失礼します。
  ――相変わらずですね、血塗れ竜」
 
  入ってきたのは、ユウキでは、なかった。
「…………」
  途端に無表情になり、血塗れ竜はそっぽを向く。
「そんなに邪険にしないでください。
  ……食事もろくに摂ってないと聞きました。
  最低限、食べるものを食べないと、治るものも治りません」
「…………」
「無視ですか。それは構いませんが、せめて身の回りは清潔にしなさい。
  疫病の温床にもなりますし――何より、汚いとユウキに嫌われますよ?」
「うるさい。消えろ」
 
  はあ、と溜息を吐く気配。
  そして。
 
「あーもう! いいからこっち向けチビガキ!
  そんなにグダグダしてっから、ユウキにも見捨てられるんだよ!」
「見捨てられてなんかない!」
「ふん、やっとこっちを向いたな」
 
  血塗れ竜が振り返って睨んだ先。
  彼女が唯一苦手な人物――“銀の甲冑”アマツ・コミナトが、
  兜を外して、不敵な笑みを浮かべていた。

14

「――とりあえず、飯は食うようになった。だから死にはしないだろ」
「……怪我の方はどうでしょうか」
「綺麗に右腕が無くなってるからな。下手に繋がってるより治りは早いだろ。
  高熱は収まったみたいだから、悪化することはないと思うぞ」
「そうですか……」
 
  仕事を定時で上がり、そのまま夜の町へと繰り出して。
  アマツさんから、酒を交えた“真面目な話”を聞き出していた。
  僕の代わりに白の付き人となってくれた近衛騎士は、僕の知りたいことを教えてくれた。
  ――白は、とりあえずは、大丈夫らしい。
  ほっと安堵の溜息を吐く。
  その隙に串焼きを追加注文されてしまったが、代償としては安いものだ。
 
「しっかし、相変わらずユウキしか見えてないな、あのチビガキは」
「……僕はもう、いないのに、ですか?」
「ああ。ありゃあ帰ってくるのを待ってるぞ。
  ……ったく、真っ直ぐな娘だとは思ってたが、まさかここまで一途になるとはねえ」
 
  やれやれ、と溜息を吐かれた。
  僕はどう反応すればいいのかわからず、無言で水割りをちびりと含む。
 
「というかだな、そんなに心配なら、どうして直接会いに行ってやらない?
  アンタの顔を見れば、あいつすぐに元気になるぞ。
  仕事中は食人姫の世話で無理だとしても、上がってからならいくらでも会えるじゃないか。
  それこそ、今こうやってアタシに会う暇があったら、血塗れ竜の所に行ってやれよ」
「それは……そうなんですが。
  何と言いますか……顔を合わせ難くて……」
「マスター。このヘタレに一番強い酒な」
「…………」
「文句は無しか。お前の方も相当参ってるみたいだな」
 
  悪いのは自分だなんて分かり切っている。
  白に予め付き人を辞めることを伝えておけば、
  あるいは白に直接会いに行って謝っておけば、
  少なくとも白は、話に聞くほどのショックを受けなかったかもしれない。
 
  だけど。
  僕の目の前で、白の信頼と好意による、嬉しそうな微笑みが崩れてしまう――それが怖くて。
  僕は、何もできなかった。

 

 俯いて黙り込む僕に対して、アマツさんはしばらく無言でいてくれた。
  やがて。
 
「まあ、しばらくしてからでいいから。
  そうだな……一月後くらいに会ってやれ。
  ひとりで行くのが怖ければ、私も立ち会ってやるから、さ」
 
  そう、言ってくれた。
「……はい。ありがとうございます。一月後に、必ず」
「ああ。――マスター、ちと早いが、お代だ」
  アマツさんは立ち上がり、カウンターの向こうへ金貨を手渡した。
  本当は僕払いだったはずだが、気遣ってくれたということだろうか。
 
  白の付き人を二つ返事で了承してくれたり、こうして色々気遣ってくれたりと、
  アマツさんには本当に世話になりっぱなしである。
  いつか、恩返しをしなければ――
 
「ほれ、行くぞ」
 
  ぐい、と襟首を掴まれた。
 
「え? え? 行くって?」
  今日はこれで終わりじゃなかったのだろうか。
  何というか、僕とアマツさんとの私的なやりとりで、はじめて感動的な終わり方が
  できると思ったのだが――
 
「ばっか、お前の恩返しが終わってないだろ。
  ここの奢りでもいいかと思ってたんだが、話を聞いてて気が変わった」
「うわ、ちょ、やめ、」
  流石は近衛騎士といったところか、力尽くでずるずると引きずられてしまう。
  というか、自分で歩くので離して欲しい。
 
 
  金髪美女に襟首を引っ張られる男という、情けない格好を晒しながら連れてこられたのは、
  ――裏通りにある、宿だった。
  旅の者がよく利用するような、素泊まりの宿とは目的を異にするもの。
 
  要は、男女の秘め事を行うための、宿である。

 

 
  ――最近さ、いい男が見つからないんだよ。
 
  アマツさんは、そう言って、唇を合わせてきた。
 
 
“街の中”では、彼女は二つの顔を持つ。
  甲冑を身に纏っているときは、冷静沈着な騎士。
  私服を纏っているときは、気さくで大らかな美女。
 
  でも、更にもう一つ持っている顔は。
  きっと、僕を含めた一部の人しか知らない顔。
 
 
  彼女の体質を知った上で、
  受け入れられる男性は限られていた。
  だから、彼女は僕を“性欲処理の道具”として、時折身体を求めてくる。
 
  アマツさんとの情事は、何というか、通常のそれとは多少異なる形になるが。
  それでも、彼女の技術は熟達されていて、僕は何度も達してしまう。
  お互いがお互いの身体をよく知っているというのもあるのだろうが、
  何より、僕たちの身体の相性は抜群であった。
  白に会いにも行かず、こんなところで何をしているんだろう、という気持ちはある。
  でも。
  近衛騎士としての仕事を続けながらも、僕の無茶なお願いを聞いてくれて。
  白のことを気遣ってくれる、アマツさんには、どんな形でもいいから、恩返しをしたかった。
  僕は知ってる。
  この人は、自分の仕事と、こちらの無茶なお願いを両立させるために、自分の全ての時間を削り、
  睡眠時間すら大幅に削って、近衛騎士と王者の付き人という二つの大役をこなしているのだ。
 
  だから、せめて、ストレス解消くらいには、付き合わないと。
 
  顔見知り二人のために、己の身を削ってまで手助けしてくれる女性騎士。
  僕は、心の底から、アマツさんを尊敬していた。
 
 
 
 
 
  隣で、ユウキが穏やかな寝息を立てている。
  可愛いなあ、と微笑みが零れてしまった。
  ――こいつは、いい奴だ。
  学院生時代からの付き合いだが、私はこいつ以上の“お人好し”を見たことがない。
  誰かを助けるのが何より好きで。
  そのくせ、現実を中途半端に受け入れている。
  だから、全員の幸せなんて願わずに、自分が助けたいと思った相手“だけ”を重視する。
  執政官を目指していた頃だって、競争相手を助けるために、自分の未来を捨ててしまったような奴だ。
 
  そんなユウキを、私――アマツ・コミナトは、好ましく思っている。
 
  私は体質のこともあり、周囲とは上辺だけの付き合いばかりになっていたが。
  ユウキとだけは、信じられないくらい、上手く付き合えていた。
  恥ずかしながら告白するが、学院生時代の私は、それはもう目を覆うような奥手だった。
  ユウキのことが凄く気になっていたのに、それを表に出すことができず、心を鎧で覆っていた。
  まあ、その影響か、甲冑を着たときの心の切り替えが、非常に上手くいってるわけだが。
  まあそれはそれとして。
  そんな奥手の私ですら、怖がることなく近づくことができたのは、ユウキの人柄としか言い様がない。
  表向きだけツンツンして、その内心ではビクビクしてたような小娘だった私だが。
  ユウキは何の抵抗もなく、私と対等に付き合ってくれた。
  他の生徒連中は、怖がるか敵対するか崇拝するかで、誰も隣に立ってくれなかったのに。
  このお人好しは、私を“ただの先輩”としか見てなくて、それがとても心地よかった。
  こいつのおかげで、私は強くなることができた。
  学院の執行部を二人で改革したときの達成感は、今でも鮮明に思い出せる。
 
  ユウキの人間性という一点において。
  長年じっくり見つめてきた私だからこそ、誰よりも理解してるつもりである。
 
  だから。
 
  学院生時代から、私の中で“一番いい奴”だったユウキだからこそ。
  ――血塗れ竜を、託すことができた。

 血塗れ竜こと、ホワイト・ラビット。
  こいつはこいつで、私とは少なからず因縁がある。
  だからこそ、適当な処遇など許せるはずがなく、私自ら中央監獄に連れてきて、
  それなりの待遇を保証させた。
 
  戦い方を教えたのも私だし、囚人闘技場で戦うことを勧めたのも私だった。
 
  最初は、あまりにもひょろっちかったので、体力を付けさせるだけのつもりだった。
  しかし――教えれば教えるほど、スポンジが水を吸い込むかのように技を覚え、
  更には、とんでもない能力があることさえ、明らかになった。
  気付けば、私を凌ぐほどの腕前になっていて。
  これなら、闘技場でも生きていけると思い、出場を推薦した。
 
 
  最初は、気まぐれだったのだ。
 
 
  少女に戦う術を教えたのも。
  誰にも心を開かなかった少女の付き人として、学院生時代の後輩を推薦したのも。
  ただの、気まぐれだったのに。
 
  少女は囚人闘技場の王者となり、“私の”後輩を手に入れていた。
 
  担当を外れた後も、血塗れ竜のことを一番に想い、私に身体を売ってまで、彼女のことを気遣っている。
  私が欲しかったものを、少女は手に入れてしまったのだ。
 
 
「……もう、いいよな」
 
  ぽつり、と呟きが漏れた。
 
  ――血塗れ竜。
  もう、充分、楽しんだだろう?
  私もそろそろ、身体だけの関係じゃ、我慢できなくなってきたんだ。
 
  食人姫なんて予想外の手合いも現れたことだし。
  もう――遠慮するのは、止めにしよう。
 
  ベッドから抜け出て、服を着込む。
  穏やかに眠っているユウキの頭を優しく撫でて、私はそのまま、外へ出た。

 

 
 
  ノックをして、部屋へと入る。
  血塗れ竜は、懲りることなく愛しい相手を期待し、また勝手に裏切られている。
  いい気味だ。
 
「……こんな夜中に、何の用?」
 
  血塗れ竜が、声をかけてくる。
  確かに、私が普段通っている時間とはかけ離れている。
  訝しく思うのも当然だろう。
 
「いえ。貴女に少し話がありまして」
「……その話し方、止めて」
「仕事上の話ですから」
 
  言いながら、一歩踏み出す。
  ――私は、これから、この少女から少なからず向けられている信頼を、壊そうとしている。
  今まで、ずっとできなかったこと。
  少女に対する罪悪感が、させてくれなかったこと。
 
「……え……?」
  血塗れ竜の表情が、困惑に歪んだ。
 
  私は、更に、一歩、踏み出す。
  何故だろう。お腹の下あたりから、熱い衝動がこみ上げてくる。
「どうして」
  血塗れ竜が、鼻をひくひくさせながら、呆然と。
 
 
「どうして……アマツから、ユウキの匂いが、するの?」
 
 
  そう、呟いた。
 
 
 
「ユウキ・メイラーは、もう来ません」
 
  だめ。耐えられない。でも、我慢しなくちゃ。
 
「貴女は、見捨てられたのです」
 
  ――笑いを堪えるのに、必死だった。

15
 ホワイト・ラビットは、生まれて5年も経っていない。
  5年前までは、全く違う名前で、全く違う生活を送っていた。
  帝国民なら一度は聞いたことのある家系、その末梢の長女。
  貴族令嬢、という表現が相応しい、花とぬいぐるみの似合う少女であった。
 
  領地は大して広くなく、執政能力も中の下程度の田舎貴族。
  本家の栄光で何とか成り立っているような、そんな貴族の娘として、10年間過ごしてきた。
 
  ただひとつ。
  他の貴族達と違うところがあるとすれば。
 
  本家を初めとする一派は、剣術に優れた家系であり。
  少女の家族は、その中でも指折りの強者だった。
 
 
  父は本家をも凌ぐほどの使い手と詠われ。
  長兄は父に次ぐ力量の剣士と持て囃され。
  次兄は単独で盗賊団を壊滅させた経験がある。
 
  権力方面には疎いため、終ぞ帝国の要職に就くことはなかったが。
  少女の家族は、皆、一騎当千の剣士であった。
 
 
  ぬいぐるみを胸に抱えながら、
  兄たちの修業を眺めているのが好きだった。
 
 
  最初は、女が剣術修業に興味を持つなんてけしからん、と家族は見せるのを躊躇ったが。
  窓からこっそり伺い続ける娘に呆れ果て、見学を許可したなんてエピソードもあったりする。
  まあそれはそれとして。
  兄たちの修業風景を眺めるのは楽しかった。
  最初は速すぎて全く見えなかったが、
  歳も7つを過ぎる頃には、大抵の動きは見て取れるようになっていた。
  もっとも、そのことを家族に言ったことはなかったが。
 
 
  ――何故なら。
  少女は生まれつき、喋ることができなかったからである。
 
 
 
 
  話すことができない娘を外に出すのは躊躇われたのか、
  少女は敷地の外へ出ることを許されなかった。
  ある時期までは、家族や使用人たちが幾度となく少女に話しかけていたが、
  何の言葉も返さない少女に対し、いつしか誰もが、少女に話しかけなくなっていた。
 
  誰とも会話することなく、少女はひとり、剣の修業を眺めるだけ。
 
  ぬいぐるみを抱きしめて、修練場の片隅にぼんやりと立っていた。
  端から見れば奇矯な小娘でしかなかったが、これはこれで、楽しいものだった。
 
  しかし。
 
  そんな生活も、齢が10を重ねる頃には、終わりを告げていた。
  中央での政権争いの折、失脚しかけた本家の尻尾として、少女の家族が選ばれた。
  父は忠誠を誓っていた皇帝陛下の前で斬首され。
  兄たちは追われる身として国外へと消えた。
 
  少女はひとり、寂れた屋敷の中でぬいぐるみを抱きしめていて。
 
  本家の使いとしてやって来た、
  アマツ・コミナトに保護された。
 
 
  名前は捨てられ、監獄で生きる白兎として囲い込まれて。
  もう、五年が経つ。
 
 
 
 
 
  監獄での生活は、特に何とも思わなかった。
“銀の甲冑”の取り計らいで、囚人生活はそれなりに満たされていたし、
  何より、欲しいと思えるものがなかったので、辛いと感じることもなかった。
  時折様子を見に訪れるアマツに、力が無くても相手を倒せる術を見せて貰い、
“見る”ことが得意だったとはいえ、それを覚えたのは、ただ単に退屈だったからだ。
 
  そして、言われるがままに、闘技場に出場することにして。
 
  ユウキと、出会った。
 
 
 
 
 
  最初は、しつこく話しかけてくる五月蠅い人としか思わなかった。
  どうせこいつも、すぐに話しかけてこなくなる。
  そう思って、無視し続けた。
 
  でも。
  ユウキは、諦めることなく、ことあるたびに、話しかけてきて。
  しかも、その目は、しっかりと少女のことを捉えていた。
  ただ闇雲に話しかけてきているわけではなく。
  少女の反応をひとつひとつ丁寧に拾って、少女と“会話”し続けた。
 
  その言葉は、あくまで少女あってのもの。
 
  例えば食事の際、スプーンが手元になくて、視線や右手を彷徨わせたら、
「あ、食器が揃ってませんでしたね、すぐ準備します」と、言ってもいない要求を的確に把握したり。
 
  例えば着替えの際、服の肩幅が合わず、むずがゆそうに腕を動かしたりしたら、
「服のサイズが合ってませんね。身長が伸びたのでしょうか」と、服を換えたりしてくれた。
 
  ユウキは、こちらの状態を把握するのが上手かった。
  言葉がなくても、相手の欲しているものがわかるのだ。
  喋ることのできない少女が相手でも、それは変わらず。
 
「おはようございます。よく眠れたみたいですね」
「こんにちは。日差しが気になるんですか? ああ、散歩しに行きたいんですね」
「食事の時間ですよ。これ、好きなメニューでしたよね」
「おやすみなさい。今日は歩き回って疲れているでしょうし、早めに寝てくださいね」
 
  どうして、この人は。
  私の思ってることが、わかるんだろう。
 
  この人と、話してみたい。
  この人に、言葉を返してみたい。
 
  いつのまにか。
  そう、思っていた。
 
 
 
 
 
  ユウキに世話してもらいながら、監獄の中で過ごす日が続いていた。
  今まで経験したことのない“会話”に戸惑う気持ちもあって、どう接すればいいかわからなかった。
  よって、今までと同じように、無視し続ける毎日だったが。
 
  初試合の日。
 
  はじめて、人を殺して。
  そのことに対しては何とも思わなくて。
 
  ただ、ユウキに嫌われちゃうのかなあ、と。
 
  ぼんやり思いながら、控え室にべたべたと戻ったら。
「頑張ったね」と、褒めてくれた。
  人を殺してしまったのに。
  喋ることもできないのに。
  こんな自分を、褒めてくれた。
  それどころか――
 
 
  優しく、頭を撫でてくれた。
 
 
  すごく、気持ちよかった。
  頭の中が真っ白になって。
  ユウキの顔を正面から見た。
 
  そして。
  彼の言葉に何かを返したい、と心の底から望んでいたら。
 
  ――うん。
 
  とてもとても小さな声が、喉を震わせていた。
 
 
 
 
  自分が喋れるようになったのは、ユウキのおかげ。
  少女はそう思い、彼と一緒にいれば、もっと話せるようになると信じて、
  いつしか、べったりとくっつくようになっていた。
  それがとても楽しくて。
  気付いた頃には、もう、離れられなくなっていた。
 
  今の自分――“白”はユウキのおかげで存在している。
  だから、“白”の全てはユウキだけのもの。
 
  そして、ユウキの全ては“白”だけのもの。
 
 
 
 
 
 
 
 
  なのに。
  今、ユウキは近くにいない。
  どれだけ望んでも、会うことすらままならない。
 
  何故だろう。
  右腕をなくしちゃったのがいけないのかな。
  それなら大丈夫。もう、前と同じように戦える。
  苦戦しちゃったのがいけないのかな。
  それも大丈夫。もう、誰が相手でも簡単に殺してみせる。
 
  だから、ユウキは、絶対に、帰ってくる。
 
 
 
「――貴女は、捨てられたのです」
 
 
 
「――嘘だ!」
 
  目の前が真っ赤になった。
  ユウキは帰ってくるはずなのに。
  ユウキは帰ってこなくちゃいけないのに。
 
「右腕も失い、貴女に闘技場で見せ物になる価値はないとのことです。
  このまま大人しく、通常の女囚として、過ごしていなさい」
 
  嘘だ。
  だって、ユウキは褒めてくれるんだから。
  相手を殺せば、ユウキは褒めてくれるんだから。
  相手を殺せるうちは、ユウキはずっと一緒にいてくれるはずだ。
 
「ユウキは、そんなこと、言わない」
「いえ、言いました」
「言わない!」
「言ったんですよ。先程、私と一緒のベッドで、はっきりと」
 
「――血塗れ竜は、もう要らない、って」
 
 
 
 
 
「私の身体から、彼の匂いがするでしょう?
  貴女が一度もしてもらってないことを、たっぷりと、私に、して頂きました」
 
  してもらってないこと?
  そういえば、あの女も、似たようなことを言っていた。
 
  ――だって貴女、ユウキさんに抱かれたことなんてないでしょう?
 
“抱かれた”っていうのが、どういうことなのかはよくわからない。
  でも、あいつやアマツの口ぶりから察するに、男女が愛し合うために行うことなのだろう。
  それを――ユウキと。
  頭の内側がふつふつと沸騰しそうになる。
  私は、してもらったことがないのに。
 
  ――否。きっと、頼めばユウキはしてくれる。
  私のことを、愛してくれる。
  ユウキが側にいれば、きっと、愛し合うのなんて簡単にできるはず。
 
  できないのは、怪物姉が、アマツが、ユウキと私を引き離したからだ。
  ユウキがこいつらと、愛し合ったのは、きっと無理矢理やらされたんだ!
 
  こいつらが――ユウキを、盗ったんだ!
 
 
 
 
 
「ユウキを、返せ」
「返せ、とは? 彼は貴女のものじゃないでしょう」
 
  何を言う。
  ユウキは私のもの。
  だから、奪われたら、取り返さなきゃ。
 
「かえせ」
 
  一歩近づく。
  左手に力を込める。
  右手はないけど、構わない。
  もう、前と同じように動けるから。
  もう、前と同じように殺せるから。
 
「……私に暴力を振るうつもりですか?」
 
「ユウキは、私の」
 
  更に一歩。
  あと3歩で、こちらの手が届く距離。
  視線はアマツを真っ直ぐ刺す。
  ユウキはこいつに捕まってるんだ。
  だから、助けてあげないと。
 
 
「付き人に対し、害意を抱いたと認識しました。
  緊急措置として、囚人番号E4−274を制圧します。
  なお、対象の能力を考慮し、武装が妥当と判断。抜剣します。
 
  ――もう、後戻りはできないぞ?」
 
  言うなり、アマツは、腰に下げていた剣を抜いた。
  構わない。
  アマツの強さは知っている。右腕があった頃の自分ですら、勝てるかどうかわからない。
 
  でも。
  待ち望んでいたユウキのニオイ。
  それがアマツから漂っているのが腹立たしくて。
  ――血の臭いで紛らわせてやりたい、と。
  心の底から、思っていた。
16

 剣を抜き、半身に構える。
  私――“銀の甲冑”本来の戦い方は、真正面に構えて一刀両断、が基本なのだが、
  血塗れ竜が相手の場合、正面に構えても利は少ない。
  敵の攻撃手段は至って単純、触れた箇所から破壊する。それだけだ。
  シンプル故に攻め手守り手に困る。
  故に、対応のしやすさだとか攻撃力だとか、そんなことは放っておき、
  とにかく、触れられないよう半身で構えるのが最善なのである。
  しかも、この小娘、壊せる箇所は身体部位のみならず、
  相手の武器すら破壊可能という化け物っぷり。
“普通の”剣なら、斬りつけた瞬間に腕ごとねじ切られるのは避けられない。
 
 
  もっとも。
 
  私の剣は、普通の剣ではないのだが。
 
 
  半歩間合いを詰める。
  互いの距離は三足ほど。
  私の間合いは二足半。血塗れ竜は一足にも満たない。
  先に攻撃する権利は、私のもの。
 
「――ふっ!」
 
  躊躇いなど欠片も持たずに。
  横からの斬撃を全力で放った。
  軌跡は敵の右脇へ真っ直ぐと。
  左腕で迎撃しにくい最良の一撃である。
 
「……っ!?」
 
  一瞬、身体を入れ替えて受けようとした血塗れ竜だが。
  咄嗟に転がって斬撃を避ける。
  大きな隙。
  当然、逃がすつもりは、ない。
 
 
  踏み込み、大上段からの一撃。
  左腕は地面に付いている。迎撃はない。
  異音を奏で、刃が血塗れ竜の脳天に――
 
 

 
  がきん、と。
  転がっていた燭台で逸らされた。
  手は着地のために付いていたのではなく、これを拾うためだったか。
  そしてそのまま方向を逸らされ、腕が有り得ない方向へねじ曲がる。
 
  しかし、その術理は私が教えたものである。
 
  手首を切り替え、刃を引く。
  火花が散って、燭台がバターのように切断された。
  勢いそのまま、剣の刃は血塗れ竜の首筋を切り裂かんと真っ直ぐ走った。
 
 
  ざしゅ、と
 
 
  鮮血が、夜闇に舞った。
  しかし、その量は、頸動脈をかき切ったにしては少なすぎる。
  それもそのはず、血塗れ竜は、この刹那、右肩で剣の腹をかち上げて、一撃を凌いでいた。
 
「――つぁっ!?」
 
  痛みからか、少女が悲鳴を微かに零した。
  癒えきってない右肩を使ったこともあるのだろうが、
 
  何より、肩の肉がこそげ落ちたことによる、激痛だろう。
 
  剣の腹が擦れただけ。
  普通なら、傷が付くかすら怪しいものだが、生憎――私の剣は、普通ではない。
 
  純度錬度共に高い黒鉄の刃に、側面部は特殊な鉱物をまぶして造られている。
  表面を素手でなぞると、皮膚がずたずたに引き裂かれる仕様であった。
  本当なら、最初の一撃を敢えて受けさせ、左手をそのまま破壊しようと思ったのだが、
  刀身の奇妙な輝きや、振った際の異様な風切り音から察せられたか、
  受けさせることはできなかった。
  しかし。一連の攻防で確信したことがひとつ。
  血塗れ竜は、この剣への対抗策を、持っていない。
 
  剣を構える。
  刀身から例の捻りを入れられる恐れはない。
  あとは、懐に入れないようにして戦えばいいだけだ。

 

 そう、思ったのだが。
  血塗れ竜は近寄ろうとはせず。
  何か考え込む素振りを見せ、己の足下を見つめていた。
 
  視線の先には、切断された燭台の欠片。
 
  銀製の柔らかいそれは、私の剣を受けて無惨にも破壊されている。
  武器にも防具にもならないただの破片。
  しかし、血塗れ竜は、それを拾い上げた。
 
  先程のように、防ぎながらこちらの剣を捻るつもりか。
  しかし、私がそれを防げることは証明済みだ。
 
  投擲するつもりだろうか?
  しかし、彼女の投擲程度なら、余裕で防げる自信があった。
  それは血塗れ竜もわかっているだろう。
  ――では、何故。
 
  疑問を裡に留めながらも、この隙を逃さず打ち込んだ。
  真一文字。
  首を胴から切り離すための、水平薙ぎを全力で。
  血塗れ竜が間に左腕を挟む。
  受けて、こちらの攻撃を逸らすつもりか。
  ――しかし、その術理は私が教えたもの。
  純粋な技術は血塗れ竜が勝っているが、原理は私も押さえている。
 
  そう、血塗れ竜に戦い方を教えたのは私。
  血塗れ竜は、私が教えた戦い方しか実行できない。
  それは何故か。
  簡単だ。体格に恵まれたわけでもなければ怪力を持つわけでもない。
  血塗れ竜が誇れるのは、相手の力の流れを見切る目と、思い通りに体を動かせる精密さだけ。
  そんな彼女は、相手の力や弱い部分などを利用しなければ、相手を傷つけることすらままならない。
 
  そう、非力なのだ。血塗れ竜は。
  故に私の教えた戦い方しかできず、
  素手の取っ組み合いならいざ知らず、剣を持ち術理を備えた私には太刀打ちできない、はず。
 
  だから、私は、この剣を、振り切っていい、はずだ。
 
 

 血塗れ竜の、見切る力は、侮れない。
  どんな奇っ怪な攻撃ですら、大抵は初回で見切ることが可能である。
  もし、血塗れ竜が一定以上の腕力を誇っていたならば。
  あるいは、彼女は軍隊にも匹敵する怪物以上の存在となりえたかもしれない。
“高度な技術だけ”では、私のような、原理を知る者を倒しにくいからだ。
  もし、それを強引に押し通せる腕力があれば、
  私は防ぐこともできずに、そのまま剣ごと腕を破壊されるだろう。
 
  血塗れ竜の身体が沈む。
  しゃがんで避けるつもりだろうか。
  しかし、絶対に間に合わないタイミングだ。
  このまま、こめかみから上半分を斬り飛ばせる。
 
 
  刹那。
 
 
  剣に側面から力が加えられる。
  燭台の破片を使って逸らそうとしているのか。
  しかし、勢いの乗った刀身は、その程度じゃ止まらない。
  剣の腹を掴むこともできないので、ろくに力を乗せられないのは分かり切っていた。
  軌道は多少変わるかもしれないが、たとえ手首が砕けようとも、
  このまま真っ直ぐ振り抜いて、頭を半分にしてやるつもりだ。
 
  そう、思ったが。
 
(――馬鹿な!?)
 
  それは、“力が加えられる”なんて代物じゃなかった。
 
 
  バキン、と。
 
 
  刀身が――砕けた。
  黒鉄の剣が。
  まるで硝子のように。
  粉々に、砕け散った。
 
 

 手首がありえない方向にねじ曲がる。
  がきり、と関節の外れる音が響いた。
  いきおい、肘までねじ曲がる。筋が痛むのを自覚した。
 
 
 
  今のは、なに?
 
 
 
  血塗れ竜の得意技を喰らったことは自覚できる。
  しかし、彼女の腕力では、ここまで強引な捻りは不可能だったはず。
  だから安心して、全力の剣撃を放ったのに。
 
  私の力を利用しつつ、
  とんでもない力を加えてきた。
 
  並の成人男性を遙かに上回る、怪力と呼ばれるような人種でないと出せない力を。
  そんなの、血塗れ竜の骨格では、全力で走り込んで叩き付けでもしない限り、不可能だ。
  渾身の一撃並みの威力を、拳ほども離れてないところから炸裂させる技術なんて――
 
  ――どこかで、見た覚えがある。
 
  そうだ。
 
  私も、見ていた。
 
  女性の体躯で、城壁すら破壊しうる零距離打撃を放った。
 
 
  ――ユメカ・ヒトヒラの技じゃないか。
 
 
  こいつ。
  まさか。
  いや、不可能ではない。
  どんな攻撃でも見切れる目があって。
  精密動作を瞬時に行える運動神経があるのなら。
  威力までは無理にしても。
 
  見たことのある技は、全て、真似ることができるのか。

 

 
  今までは、私の教えた術理が一番効率的だったから、それしか行ってこなかった。
  しかし。
  それだけでは不可能と悟った血塗れ竜は。
 
  私の教えた技と、怪物姉の技を、組み合わせた。
 
  拾い上げた破片は、防ぐためや逸らすためではなく。
  手甲のように、手を保護する“だけ”だったのか。
  怪物姉のように鍛え上げられた肉体ではないため、
  素手のままでは自身が壊れるおそれがあったのだろう。
 
 
  砕けた剣の破片が、こめかみと肩をざっくりと切り裂いた。
  鮮血が舞う。
  やられた。
  剣は完全に破壊され、右腕は痛んで動かし難い。
  流血で、視界は半分赤く染まる。
  血塗れ竜はなお健在。
  このままでは、殺される。
 
 
  殺せると確信して挑んだつもりが。
  返り討ちにあって殺されるとは。
  情けなくて、涙が出る。
  でも。泣ける一番の理由は、負けたからではない。
 
  もう、ユウキに会えなくなる。
  ユウキを、自分のものにできなくなる。
 
  これが、一番、嫌だった。
 
 
 
 
 
「……?」
  しかし。
  血塗れ竜の、トドメの一撃は訪れず。
  私は訝しげに、小さな少女を見やった。

 

「もう、いい」
 
  血塗れ竜は、淡々と。
 
「血の臭いで紛れたから。
  ユウキのニオイが消えたから。
  もう、アマツはいじめない」
 
  そう言って、ぷい、と横を向いた
 
  …………ああ。
  ……そういうことか。
  つまり、血塗れ竜にとって、私は、まだ、仲良くできる対象であり。
 
 
  それが、私との違いなのか。
 
 
  血塗れ竜が気付いたときには既に手遅れだった。
  左手。
  袖の内側に仕込んでおいた紐付き鉄球を、一挙動で振り抜いた。
 
  血塗れ竜対策として、もう一つ用意しておいた攻撃手段。
  たとえ攻撃を逸らされたとしても、自身の致命的な被害を被らない、武器。
  遠心力を利用したそれは、ねじ曲げたところで私は痛くも痒くもない。
  しかも、血塗れ竜は今、横を向いていた。
 
  かつん、と軽い感触が、あった。
 
  脳を揺らされ、床に転がる血塗れ竜。
  予想外の事態に、半ば死を覚悟していたが。
  結局、勝ったのは私だった。
 
「すまないな、血塗れ竜。
  アタシはお前のことは嫌いじゃない。
  でも――それ以上に、ユウキのことが、好きなんだ。
  ユウキのためなら何でもできる。
  ユウキを手に入れるためなら、何でも捨てられる。
  ユウキを、愛しているんだ。
 
  愛されたことのないお前には、わからないかもしれないけどな」
 
 
 
 

 さて。
  それでは、トドメを刺さなければ――
 
  そう、思ったのだが。
 
「――今の音は何事だ!?」
 
  先程の零距離打撃の音を聞きつけたのか。
  監視員が、駆け込んできていた。
  しまったな。扉が開けっ放しのままだった。
  どうするか。
  邪魔をするなら、こいつもここで殺してしまうか。
  そしてユウキを連れて帝都を出る――それも、いいかもしれない。
 
  そう思って、一瞬だけ、血塗れ竜から意識を逸らしてしまった。
 
  瞬間。
  ばちんと、若木が弾けるような音がした。
 
  全身に衝撃。
  人間大の何かが。私の身体に張り付いた。
 
 
  血塗れ竜だった。
 
 
  こいつ、脳を揺らされ足下が覚束ないとはいえ、
  ――全身をしならせて、跳ねてきやがった。
 
  ここまでくると、もはや化け物以外の何者でもない。
  そうだ。こいつは血塗れ竜。
  人間ではなく化け物なのだから、脳を揺らした程度で油断してはいけなかったのだ――
 
「私だって」
 
「ユウキに、愛してもらえる」
 
  それは、竜の咆哮だった。
  魂の奥底から吐き出された、竜の根底で燃えさかるもの。
 
「だから、ユウキを、かえせ」
 
  どんな思いで吐き出されたのか。
  竜の瞳からは雫がこぼれた。
  でも。
 
「嫌です」
 
  頷くことは、死んでもできなかった。
 
  ユウキは、わたしのものなのだから。

17

 油燈の弱々しい灯りが、豪奢な部屋を妖しく照らしていた。
  絵画の掛けられた壁に、黒い影が踊っている。
  影の元には2人の男女。
  男は激しく動いていて、女は殆ど動いていない。
  否。殆ど――ですらない。
  女は、生きているのか死んでいるのかわからないくらい。
  動いて、いなかった。
 
  それもそのはず。
  女の左腕は根元から無く。
  左目も、赤黒い肉孔を見せるのみ。
  身体の所々から異臭を醸しており、自立的な動きを欠片も見せない。
  端から見れば、生きているとは思えなかった。
 
  ただ、男の動くがままに、女は身体を揺らしていた。
  言うなれば死姦。
  その言葉が、最もしっくりくるのかもしれない。
 
  薄明るい部屋の中央で、男が女に肉を叩き付けている。
  そして、それを食い入るように見つめている、中年男性。
  その表情は恍惚としており、男女の異様な交わりに、この上なく興奮している模様である。
 
  こんこん、とノックの音が響いた。
 
  食い入るように見つめていた男――ビビスは、ノックの音にあからさまに不快そうな顔をする。
 
「――誰だ? 当分入るな、と伝えってあったはずだが」
「公爵様。至急お耳に入れたいことがありまして」
 
  扉の向こうから返ってきたのは、怜悧で高い声だった。
  氷の刃を連想させる女性の声に、ビビス公爵はふむと頷き、
「入れ」
  とだけ、告げた。
 
 
  音もなく扉が開かれる。
  入ってきたのは一人のメイド。
  髪は短く、鋭い顔立ち。背筋はぴんと伸ばされている。
  その仕草は完全に無音。目を向ければ、入ってくる様が見えるのに、足音は全く発していない。
  見た目はただのメイドだが、特殊な訓練を受けていることは容易に想像できた。
 
「貴様か、ミシア。……それで、用件は何だ?」
「はい。つい先程、中央監獄にて問題が発生したようでして」

 

 中央監獄、という単語に、ビビスの眉がぴくりと動く。
「問題、とは?」
「はい。詳細は不明ですが、銀の甲冑と血塗れ竜が私闘を行ったようです。
  両者共に負傷。今は拘束され治療を受けているとのことです」
「負傷、だと?」
 
  ビビスは、己の耳を疑った。
  囚人闘技場の王者、血塗れ竜が負傷したことも驚きだが、何より。
 
  銀の甲冑――アマツ・コミナトが負傷した。
 
  今まであらゆる修羅場をくぐり抜けてきた、凄腕の騎士。
  ビビスとて、政争の折、幾度となく仕掛けていたが、今日の今日まで、
  屈服させることの適わなかた生意気な小娘。
  隙を微塵も見せることなく、その実力を見せつけてきた“銀の甲冑”。
  それが負傷した。今までどんなに熟達された刺客でも、傷つけることすら不可能だったのに。
  ビビスは、心の底から、驚いていた。
  そして、同時に――
 
「怪我の程度は?」
「詳細は不明ですが、軽傷とのことです。ただ、当分は剣を振れない可能性が高いかと」
「剣を振れない、か。
  ――いいな。そいつは、いいな、ミシア」
「はい。しかも、囚人との私闘は、立場的にもかなり問題があると言えます」
「近衛隊隊長が、そんなことをしては、臣民に示しがつかないよなあ」
「近日中に何らかの処分が下される可能性は、高いかと」
「確実にしろ。手配はお前とティーに任せる。
  そうだな。……私がその采配を任されるのが、理想だな」
「努力します」
  メイド――ミシアは深くお辞儀をし、部屋から出ようとした。
 
  ――と。
  ふと思いついたように、ビビスは口を開いた。
「ミシア。今のアマツを仕留められるか?」
  そんな問いに、メイドは少しだけ考え込む素振りを見せる。
「……難しいです」
「ふむ。――不可能ではないのだな」
「はい。ですが、私やティーより確実な方法があります」
「言ってみろ」
 
「負傷している状態のアマツ・コミナトなら。
  ――“食人姫”の次の食事に相応しいかと存じます」
 
 
 
 
 
 
  ミシアに必要な指示を出し、ビビスは嬉しそうに顔を歪めた。
  もうすぐ。
  もうすぐで、あの生意気な田舎娘を屈服させられる。
  思えば、奴には煮え湯を飲まされ続けてきた。
  皇帝陛下の覚えも良く、帝国のために尽力してきた自分。
  そんな自分の振る舞いを、こともあろうか田舎貴族の尺度に当てはめて糾弾した馬鹿な小娘。
  ただ剣の腕が立つだけで偉くなったつもりでいて、こちらの趣味にまで干渉してくる愚かな騎士。
 
  血塗れ竜のときもそうだ。
  腕の立つ囚人を、自分が可愛がってやろうと狙っていたのに、いつもいつも邪魔をしていた。
  奴さえいなければ、血塗れ竜は自分のものになっていたかもしれないのに。
  あんな――名も知れない監視員に任せるより、きっと何倍も“幸せ”にしてやれるのに。
  アマツ・コミナトは最低だ。多くの人間を不幸にし、それを顧みようともしない。
 
  ああ、思えば思うほど腹が立つ。
  この怒りを紛らわせるには、生半可な快楽じゃ到底足りない。
 
「おい」
  中央で、片腕片目の女を犯していた男に声をかける。
「目を犯せ。……そうだ、左目だ。丁度いい穴だろう?」
 
  常人なら、何度死んでいてもおかしくない。
  ――しかし、こいつは、未だに死なない。
  血塗れ竜に腕を引き千切られ、それを顔面に突き立てられても。
 
  怪物姉は、生きていた。
 
  せっかく生き延びたのだから。
  自分が楽しむために使ってやろう。
  なんて自分は慈悲深いのか。
  存在価値の無くなった諜報員を、こうして手元に置いて丁重に扱ってやるなんて。
 
  脳を破壊され自立的な活動を見せない怪物姉。
  その眼孔に肉棒が突っ込まれるのを見て。
  ビビスは再び、胸の内より沸き上がる興奮に身を浸した。
 
 
 
  ふと。
  小さな、本当に小さな“何か”が、空気を震わせた。
 
  ゆうきさん たすけて
 
  誰にも届かない、懇願だった。
  気付いた者は居らず、狂気の眼孔姦が繰り広げられる。
 
 
 
 
 
 
  ユウキ・メイラーは、早朝の東棟通路をひとり歩いていた。
  その表情は思索に耽るもので、あるひとつの事件に、彼の心はかき乱されている。
  監視員の詰め所で、同僚からその話を聞いたときには、心の底から驚いた。
 
  白とアマツが、戦った。
 
  最初に聞いたときは、冗談だと思った。
  あの2人が殺し合うなんて、信じられなかった。
  白を監獄に入れたのはアマツだが、その後白の環境が良くなるように働きかけたとも聞いている。
  白は白で、苦手意識は持っていたようだが、特に嫌っていた気配はなかった。
  ――なのに、何故。
 
  考えても、答えが出るはずなく。
  悶々とした思いを抱えたまま、ユウキはアトリの個室へと向かう。
 
  とりあえず、業務が終了してから。
  白かアマツに会いに行こうと思う。
  どちらも拘束は朝のうちに解かれているらしく、共に軽傷なので会うのに支障はなさそうだ。
 
  そう考えながら、通路の曲がり角にさしかかったところで。
  向こうから来た人と、ぶつかりそうになってしまった。
 
「わ!? す、すみません」
  慌てて立ち止まり、頭を下げる。
  考え事をしながら歩いていたから、通路の向こうの気配に気付けなかったようだ。
  慌てて謝罪して、そのまま通り過ぎようとして――
 
 
「……ユウキ」
「あ、アマツ……さん……!?」
 
 
  ぶつかりそうになった相手が、まさしく今考えていた人だということに、気付いた。

 

「喧嘩、しちゃいました」と。
  弱々しく、彼女は呟いた。
 
  アマツの服装は、いつもの甲冑姿ではなく、昨日の夜と同じ私服に、白い包帯が映えている。
  右腕は包帯でがんじがらめ。頬にも当て布が為されている。
  軽傷とは言い難い様相だが、まっすぐ立っていて、ふらつく様子もないので、
  重傷というわけでもないのだろう。
  ユウキの中では絶対的な強さを誇っていたアマツが、ここまで傷ついている様は、
  まるで夢のようだった。
 
  でも。
  それより。
 
  今の態度が、ユウキの知るアマツとは、かけ離れていた。
 
  ユウキの中でのアマツは、何事に対しても強気で立ち向かえる、
  傲岸不遜を上手く演じられる強い人間、というものだった。
  しかし、今のアマツにそんな強さは欠片も見受けられず。
  疲れ、弱っている女性が、そこにいた。
 
 
  アマツは、多くを語らなかった。
  ただ、白と喧嘩してしまったことと。
  もう、仲直りできないであろうことを。
  淡々と、ユウキに報告した。
 
  その様子が。
  とても、弱々しく。
  ひょっとしたら、これがアマツの、ずっと隠してきた側面なのかもしれない、とユウキは思った。
  今までは、誰にも頼ることができず、仕方なく強がっていただけで。
  仲の良かった白と喧嘩したことで、その強がりが壊れてしまったのかもしれない。
 
  アマツが今までどれだけ頑張ってきたのかは。
  学院生時代からずっと世話になっている、自分がよくわかっている。
  だから、ストレス解消として身体を提供することに抵抗はなかったし、
  できることなら恩返ししたいと思い続けていた。
 
  今、この弱り切っている瞬間。
  アマツは、誰かに頼りたいのではなかろうか。
  でも、頼り方を知らず、どうしたらいいのかわからないのかもしれない。
  そう、思った。

 

 ――今が、恩返しできる瞬間じゃないのか?
 
  思えば長い間、アマツには頼り切りだった。
  自分の不甲斐ない面を、愚痴をこぼしながらも必ずフォローしてくれた心優しい先輩。
  頼り方を知らないのなら、今、自分が支えになればいいのではないか。
  自分程度では、頼りになるなんて烏滸がましいことこの上ないが、それでも、目の前の人に、
  恩返ししたかった。
 
  だから。
  気付いたときには、肩に手を置き。
 
「……ユウ、キ?」
 
  優しく、抱き寄せていた。
  身長は同じくらいなので、胸を貸すことができないのは少々悔しいが。
  アマツの暖かさを腕の内へ収め、しっかりと支えられるように力強く抱き留める。
 
「えっと……今だけ、楽にしても、いいですよ」
 
  答えはなかった。
  ただ、背中を強く掴まれた。
  アマツの額が、肩に押し当てられる。
  少しだけ、震えていた。
 
 
  これで、少しは元気を取り戻してくれればいいのだが。
  そう思って、上を向く。
  考えることはたくさんあったし、これからどうすればいいのかわからない。
  ただ、今だけは、世話になった先輩の支えになろうと。
  黙って、アマツを抱き締めていた。
 
  顔を下に向けたら、おそらくは見られたくないであろうアマツの顔を見てしまうと思って。
  ユウキはひたすら、上を向いていた。
 
 
  上を向いていたから、気付けなかった。
 
 
  アマツの唇が、笑みの形に歪められていたことに。
 
  そして。
 
  ユウキを待ちきれずに、
  通路に出て迎えに来ていたアトリが、
  正面に辿り着いていたことに。

18

 あは。
  あははは。
  あはははははははははははははははははははっっっ!!!
 
  やった。
  やったぞ。
 
  たとえ一時の気まぐれだとしても。
  優しさを利用しただけなのだとしても。
 
  ユウキの心を、掴んだ。
 
  暖かいなあ。
  やっぱり、ユウキは暖かい。
  彼の心配する気持ちが、胸にじんじんと伝わってくる。
  ユウキの胸の内は、暖かい。
  ここに比べれば、外は極寒の地以外の何物でもない。
  もう出たくない。ずっと、ユウキに抱きしめられていたい。
  一度暖かさを知ってしまったら。
  もう、外の寒さには耐えられない。
  ここが私の居場所なんだ。
 
  学院生時代から切望していた。
  身体だけでも、と思って重ね合わせていたのが遙か過去のようだ。
  今、この瞬間、ユウキの心は間違いなく私を包んでいる。
  こんなに気持ちいいところだとは思わなかった。
  知っていれば、もっと早くに手に入れようとしていただろう。
  ああ、今までの私は馬鹿だった。こんなに近くに、こんなに良いものがあったのに。
  ああ、学院生時代の私は究極の愚か者だ。出会った瞬間拉致監禁して飼っていたら、
  きっと薔薇色の学院生活だったろうに。
 
 
  そして。
  こんなに素晴らしいものを、ずっと独り占めしていた。
 
  ――血塗れ竜が、憎かった。
 
 
  今も尚、ユウキの心を捉えて離さない最強の小娘。
  ユウキを満足させられる体も持たないくせに、ただ可哀相な境遇というだけで
  ユウキの寵愛を受けていた大罪人。
  許せるはずがない。
  あんな小娘に、この場所は相応しくない。
  ここには、私がいるべきだ。
 
  掴んだユウキの心を、永遠のものにしなければ。

 

 しかし、どうすればいいのだろうか?
  なんだかんだ言いつつも、ユウキは誠実な人間だ。
  生半可な理由で、大事な人間を見捨てたりはしない。
  今回の一件は、公爵が直接手を回すなんて反則技だったから、
  為す術もなく血塗れ竜から引き剥がされただけに過ぎない。
  心は未だ血塗れ竜から離れていない。それは痛いほどわかっている。
 
  ユウキが血塗れ竜を構う理由は簡単だ。
  可哀相だから。それだけだ。
 
  シンプルであるが故に、引き剥がす理由も思いつかない。
  くそ、こんなところでも直球勝負か、あの小娘は。
 
 
  ――あれ?
  まてよ。
  ということは、つまり――
 
 
  私が、血塗れ竜より、可哀相になればいいんだ。
 
 
  もっと可哀相な子になって、ユウキに優しくしてもらう。
  ……いい。すごく、いい。
  血塗れ竜なんか目じゃないくらい、ユウキが放っておけないくらい、
  可哀相な子になればいいんだ!
  周りの目なんて気にしない。
  実家の爵位も知ったことか。
  ユウキさえ手に入れば、それでいい。
 
  じゃあ、もっと可哀相になるには、どうするべきか。
 
 
  …………。
  ……あ。
  …………ふ、ふふ。
 
  いいこと、おもいついた。
 
  血塗れ竜を、殺せばいいんだ。
  昨夜は、半ば直情的に仕掛けてしまったが、冷静に考えてみても、奴を殺すのは悪くない。
 
 
  不本意な喧嘩の末、仲の良かった少女を殺してしまった私。
 
 
  これだ。
  これなら、きっとユウキは放っておかない。
  血塗れ竜の強さはユウキもよく知っている。自分の身を守るため、やむなく、
  と言えばきっと信じてくれる。

 

 そうだ、それがいい。殺そう。殺そう。死ね。死ね。今までユウキを独り占めしやがって。
  こんな素敵な場所に居座りやがって。
  憎い。ただ殺すだけしか能のない小娘のくせに、
  私がずっと欲しかったものを独占していた糞餓鬼め。
  憎い。憎い。憎い。憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!
  あんな奴、いらない。
  家族もなく生まれたときの名前もなく薄っぺらい人生しかない小娘なんて死ねばいい。
  死ね! 死ね! 死ね、死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!
  殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――殺してやる!
 
 
  殺してやる! 今度こそ。確実に!!!
 
 
  ……少し、興奮しすぎたようだ。
  だが、この高ぶりも、ユウキによるものだと思うと心地良い。
  ああ、少しだけ待っててくれ、ユウキ。
  すぐに、あの小娘を殺すから。お前の一番になってみせるから。
  もう、誰にも渡さないんだから。
 
 
  だから、口づけをせがんでも、いいよな。
 
 
  ゆっくりと、顔を上げる。
  悔しさで滲んだ涙は、きっと瞳を潤ませている。
  ユウキは、拒まないよな?
  先約の印として、唇に、優しく口づけて欲しい。
 
  そう思って必死に上を向いているユウキに、
  今までずっと我慢し続けてきたご褒美を貰おうと、口を開いて――
 
 
 
 
「――ユウキさんから離れろ」
 
 
 
  瞬間。
  肩に閃光のような痛みを覚えた。
 
 
 
 
 
 
 
  正直、喰い殺してやりたかった。
  人が心躍らせて、愛しい相手を迎えに行こうと思ってたのに。
  その相手に抱きしめられて、嬉しそうに身を震わせていやがった。
  ああもう、ムカつく。
  試合だったら容赦なく、原形を留めないくらい囓ってやるんだけど。
  誰だかわからないし、監獄の中ということもあるので、服と皮を囓り取る程度にしておいた。
  この程度なら、変態公爵がもみ消してくれるだろうしね。
 
  さて。
  囓っただけで気が済んだかと訊かれたら、答えは否だ。
  誰だかわからないが、この雌豚をユウキさんから引き剥がさなければ。
 
  そう思って腕を強引に掴もうとして。
 
  ちゃき、と。
  目の前に、小剣の切っ先を突きつけられた。
 
 
「……誰かと思えば“食人姫”ですか。独房を抜け出すのは重罪ですよ。
  このまま、ここで緊急措置として斬られてもおかしくないくらいです」
 
  この声。聞き覚えがある。
  甲冑越しのくもぐった声ではないが、こいつは間違いなく――
 
「……へえ。あんた、女だったんだ。
  今日はあの悪趣味な甲冑は付けてないの?」
「貴女には関係ありません。それより、独房を抜け出した罰として、
  少々制裁を加えさせていただきます」
「罰? ユウキさんにひっついてたのを邪魔された腹いせじゃなくて?」
「……片目でも、今後に問題はないでしょう」
 
  ぐい、と切っ先を近づけられる。
  これで、脅してるつもりなのだろうか。
 
  ユウキさんにくっついてたことは気に食わないし。
  何より――私を見つめるその目。
  あんた、ユウキさんを、どうにかしようと思ってたでしょ。
  これでも、他人の心情を推し量るのは得意なんだから。
 
  ユウキさんは、私の付き人なのに。
  こいつ、手を出そうとしてたみたい。

 

 目が気に入らない。
  あんた、どう見ても、その目は。
 
  男を、落とそうとしてる、目じゃないか。
 
  他の誰でもないユウキさんを。
  汚らわしい身体で籠絡するつもりだったのか。
  わざとらしいくらい湿った瞳で、ユウキさんの気持ちを掠め取ろうとしたのだろうか。
 
  邪魔されて、怒りに震えてるみたいだけど。
 
  ああ、こいつ、喰い殺そうかな。
 
 
 
  そう、思ったが。
 
 
 
「――そこまでです」
 
  横合いから、冷たい声が投げかけられた。
  そのタイミングはあまりにも絶妙で、食い気が散ってしまっていた。
  憮然とした面持ちで横を見やる。
 
  そこには、ひとりのメイドがいた。
 
  デザインに見覚えがある。
  確か――変態公爵のところのメイド服だ。
  顔に見覚えは……あるようなないような。というか、メイドの顔なんていちいち覚えてない。
 
  しかし、銀の甲冑の中身はそうでもなかったようで。
 
「……暗殺侍女の片割れが何の用ですか、ミシア。
  負傷した私を始末するよう命じられたのですか?」
「いえ。私がこうやって姿を見せている時点で、そのつもりがないのは明白でしょう?」
「……今、私は忙しいのですが」
「囚人に私刑を加えることが、ですか?」
「…………」
「私はお呼びに参っただけです。
  ――アマツ・コミナト。昨晩の件で出頭命令が出ています」
 
  出頭? こいつ、騎士のくせに悪さでもしでかしたのだろうか。
  と、首を傾げていたら。
 
「――“食人姫”。貴女には私個人から少々お話があります。部屋でお待ちください」
 
  そう、言われた。

 

 
 
 
 
 
  獣のように。
  白は、暗い部屋で独り、うずくまっていた。
  昨日の夜、アマツに削られた傷がじくじくと痛む。
 
  でも、そんなことより。
 
 
  ――愛されたことのないお前には、わからないかもしれないけどな。
 
 
  この言葉が。
  棘のように、胸に残っていた。
 
  愛される、ってどういうことだろう。
  優しく抱きしめてもらうのは違うのかな。
  腕を絡ませるのとは、違うのかな。
  わからない。
  わからないが。
 
  きっと、ユウキは、自分を愛してくれる。
 
  それだけは、信じている。
  ユウキは私のものなのだから。
  お願いすれば、きっと何でもしてくれる。
  こちらが「愛して」と頼んでみれば、きっとユウキは二つ返事で“愛して”くれる。
 
  でも、ユウキはそばにいなくて。
  お願いすら、できなかった。
 
 
  もう、我慢できない。
 
 
  最後の理性に、亀裂が入り始めていた。
  今の今まで、耐えていたこと。
  ユウキに嫌われるかもしれない、と恐れていたこと。

 

 ――こちらから、ユウキに会いに行く。
 
  囚人が勝手に外を歩くのは厳禁だ。
  ユウキが自分の付き人だった頃、そう言っていたのを覚えている。
  ひょっとしたら、怒られるかもしれない。嫌われちゃうかもしれない。
  そう思って、今まで我慢し続けてきた。
 
  でも、もう駄目だ。
 
  これ以上ユウキの顔を見られないと。
  これ以上ユウキの声を聞けないと。
  これ以上ユウキに頭を撫でてもらえないと。
 
  自分は、きっと死んでしまう。
 
  だから、怒られるのを覚悟で、会いに行こう。
  怒られて、いっぱいいっぱいごめんなさいして。
 
  そして、こうお願いするのだ。
 
 
「……ユウキ。私のこと、愛して」
 
 
  願いは、滑らかに口から漏れていた
  ユウキを目の前にしたら、止める間もなくこぼれてしまうかもしれない。
  でも、これは、偽らざる思いだった。
 
  ユウキに愛してもらえるなら。
  自分はきっと、何でもできる。
  だから、ユウキに会いに行こう。
 
  誰かが途中で邪魔するかもしれない。
  それは、アマツかもしれない。
  でも、大丈夫。
 
 
  もう、躊躇わない。
  自分にはユウキだけ。
  それ以外は、要らない。
 
  ――だから、全部殺せばいい。

 

 そう思い、うずくまるのを止めて、立ち上がった。
 
  そのとき。
 
  こんこん、と。
  ノックの音が、響いた。
 
「――ユウキ!」
 
  瞳を輝かせて、扉の方に向き直る。
  今度こそ、今度こそ会いに来てくれたんだ――
 
  そう信じて、扉を見つめる。
  しかし。
 
「失礼します」
 
  入ってきたのは、知らない女。
「…………」
  即座に無表情となり、女を意識の外に追いやる。
 
  やはり、ここには来てくれない。
  自分から、会いに行かなければ。
  扉の前に立つ女は、邪魔だからついでに引き千切っていこうかな。
 
  そう思い、一歩前に進んだところで。
 
「お初にお目にかかります、血塗れ竜。
  ――私、トゥシア・キッコラと申します。気軽にティーって呼んでくれると嬉しいです」
 
  無視。
 
「今日付で、私が貴女の付き人となりました。以後よろしくお願いします」
 
  無視。
 
「付き人となったからには、貴女の希望を最大限叶えたいと思います。
  ――そうですね、まずは。
  ユウキ・メイラーのところへ、一緒に行きませんか?」
 
  無視――できなかった。

19

 とりあえず、思いっきり混乱中。
  白とアマツさんが喧嘩したと聞いた。
  落ち込んでるアマツさんを慰めようとした。
  そこへアトリが現れたと思ったらアマツさんに噛み付いていて。
  アマツさんがアトリに小剣を突きつけて。
  殺し合いが始まるかと思ったら、今度はメイドさんが現れた。
  そしてメイドさんはアマツさんに出頭指令を伝えた後、アトリには部屋で待っているように指示。
  そしてアマツさんを連れて行き、僕とアトリは通路に残された。
 
  僕はどうすればいいのかわからずに、ただオロオロしていただけだ。
  情けない。
  思わず項垂れてしまう。
 
  ――と。
  アトリが僕の脇にくっついてきた。
「ユウキさん、いこ?」
「……えっと」
  さて、どうするか。
  アマツさんのことは心配だったが、僕がどうこうできる問題でもない。
  おそらく、出頭は白との件についてだろう。
  近日中に公表されるだろうから、それを待つしかない。
「とりあえず、部屋に行きましょうか」
  そういえば、先程のメイドさんはアトリに「個人的な話がある」と言っていた。
  部屋で持っているようにとも言っていたので、アトリの部屋に行っておいた方がいいだろう。
 
 
「そういえばさ、ユウキさん。あのメイド」
  通路をアトリと並んで歩いていたら。
  先程のメイドさんが話題に出てきた。
  そういえば、アマツさんも妙に警戒していた気がする。
  ビビス公爵のところのメイドらしいので何か曰く付きなのかもしれない。
  わざわざ話に出すということは、アトリにも何か思うところがあったのだろうか。
  纏っていた空気も妙に冷たかったし、ただ者ではないのかもしれない。
 
「おっぱい大きかったよね」
「ただ者ではありませんよね――って、ええ!?」
 
  いやまあ、確かにそれなりに大きかったが。
「ユウキさん、ちらちらとおっぱい見てたでしょ」
「いやいやいや、何でそんな話になるんですか!?」

「むう。誤魔化そうとしてるってことは図星なんだ。
  ユウキさんも、やっぱり、大きいおっぱいをむにむにと揉みたいの?」
「話を聞いてください」
「私だってね、成長――は無理だけど、感度には自信があるんだからね!」
「い、意味がわかりません!」
「あーもう、照れちゃって可愛いなあ!
  こうなったらいっそ、ユウキさんが私のを揉んで大きくしてー。
  刺激を与え続ければひょっとしたら細胞が勘違いして増えてくれるかもしれないし!」
 
  よくわからないことをまくし立てながら、アトリは僕の腕を掴んで――って、うわあっ!?
「ほらほら、大きくはないけどちゃんと柔らかいでしょ? ……んっ」
「ちょ、止めてくださいってば!」
「もー。ユウキさんノリ悪いー。先っちょくらい摘んでくれてもいいじゃない」
「……っ!」
  赤面した顔を隠すため、慌ててそっぽを向いた。
  おそらくはニヤニヤしているであろうアトリに、脇腹をグリグリと指で突かれる。
 
  しかし。
  今、少しだけ、気になる言葉があった。
 
 
  ――成長は、無理?
 
 
  ちなみに。
  アトリと部屋に行った後。
  しばらく適当な雑談をして、メイドさんがやってきたかと思ったら。
 
  部屋を追い出されました。
 
  一体、どんな話をするつもりなのやら。
 
 
 
 
 
 
  ユウキさんを追い出した後。
「――ユウキ・メイラーが欲しくはありませんか?」
  メイドは、そんなことを言ってきた。
「欲しいに決まってるじゃない」
  それに、即答する。
  ビビスに私の要求を伝えた時点で、私がユウキさんを欲しているということはバレバレだろう。
  だから、隠す必要なんてない。むしろ堂々と主張してやる。
  ユウキさんが欲しい。
  あの人が、私の一番欲しいもの。

 

「欲しいのでしたら、お手伝いいたします」
 
  そう言って、メイドは小瓶を手渡してきた。
  手のひらに収まるような硝子の中には、私の髪と同じ色、亜麻色の液体が揺れていた。
 
  目的は何だと訊ねたが、メイドは無言で無表情。
  それが、妙に気に食わなくて。
 
「これが毒じゃないって保証はあるの?」
  と、意地悪な質問を投げかけてみた。
「……私たちには、それをするメリットがありません」
  貴女にはまだまだ活躍していただきたいのですから、とメイドは淡々と返してくる。
  ああもう。
  だから、その顔が気に食わないんだってば。
 
「じゃあ、あんたで試すね」
 
  そう言って、押さえ込んだ。
「なっ!?」
「毒じゃないんでしょ? じゃあ別にいいじゃない」
  じたばた暴れるメイドにのしかかりながら、小瓶の蓋を開けた。
 
  ――暴れる動作の中で、メイドの右手が、袖に隠れた。
 
  銀光。
  ばきり、と硬いものの砕ける音。
 
「――ふん。殺すつもりがないくせに、隠しモノを振るうのは躊躇わないんだね」
  言いながら、バキバキとナイフを噛み砕く。
  握りがなく、代わりに円環が付いている。どう見ても、こっそり持ち歩くための武器だった。
  それを、容赦なく私の側頭部――耳孔に向かって振るってきた。殺すつもり満々じゃないか。
「み、身の危険を感じたのですから、このくらいは当ぜ――むぐっ!?」
  何やら言い訳を吐こうとした口に、瓶をおもむろに突っ込んだ。
  液体が半分ほど入ったのを見て、引き抜く。
 
  さて――効果の程はいかがなものか。
 
 
 
 
 
 
  追い出されてから。
  することもないので、監視員の詰め所で業務連絡紙を適当に眺めていたら。
  先程のメイドさんが、やってきた。
 
「……もう、入っても、大丈夫ですよ」
 
  口調がたどたどしい。
  足下も覚束ない模様。なんだかふらふらしている。
 
「あの、大丈夫ですか?」
  そう言って、手を差し伸べようとしたら。
  ぱちん、と引っぱたかれた。
「――あ! す、すみません。……ですが、お気遣いなく。少々疲れているだけですので」
  そう言って、離れようとする。
  確かに、近づいてみれば、汗のような匂いが鼻についた。
  激しい運動でもしてきたのだろうか。
  見るからに弱っていて、手助けしたいと思ったが。
「と、とにかく近づかないでください! ……い、いまは敏感になってますから……」
  後半は妙に小声だったのでよく聞こえなかったが、どうやら近付かれたくないようである。
  汗をかいて、その匂いを気にしているのだろうか。
  女性って、そういうのは気を付けるみたいだし。
  ……でも、僕は女囚棟の監視員である。女の汗や垢の匂いなど嗅ぎ慣れていて、
  どうとも思わなかったりするのだが。
 
  ――って、危ない!
 
  足下に落ちていた雑誌を踏み、そのまま滑って転びそうになるメイドさん。
  咄嗟に身体が動いていた。
  駆け出し、手を伸ばし、何とかメイドさんを腕に収める。
 
「きゃっ……!?」
 
  冷たい印象の人だったけど、悲鳴は可愛いんだなあ、と思った。
  まあそれはそれとして。
  こんなにふらついていて、無事に帰れるのだろうか。
  なんだか震えている気がするし、驚いたのか僕の顔をとろんとした瞳で見上げている。
「あの……本当に大丈夫ですか?」
「ひゃ、ひゃいっ! だ、大丈夫でしゅ!」
  噛んでる噛んでる。
「ま、まだ薬が抜けきってないだけですから、少し経てば治ります。
  ……あんなにイかされたのに、まだ治まらないあたり、強力すぎますね、あの薬は……」
  小声でよくわからないことを呟いて、メイドさんが僕から離れる。
  ふと、僕に向けられた目に憐れみのようなものが混じっていた気がするが、気のせいだろうか。

 

「と、とにかく!」
  僕と十分に距離を取ってから、メイドさんは声を張り上げた。
「私の用事は終わりました。――食人姫が待っています。
  彼女が不機嫌になると困りますので、直ちに向かってください」
  そう言って、ふらふらした足取りで、メイドさんは詰め所を後にした。
  大丈夫かなあ。
  あ、壁にぶつかった。
 
「そんなんじゃ、表に出るのも難しいですよ。
  出口まで肩を貸しますから、そこから馬車でも使ってください」
 
  そう言いながら駆け寄った。
  アトリのところへ向かうのは後でもいいだろう。
  とにかく、今はこの危なっかしい人を放っておけなかった。
 
「だ、駄目です……!」
  しかし、メイドさんは頑なである。
  はあ。こうなったら強引に連れて行こうかな、と。考え込みつつ下を見たら。
 
  ぽたり、と雫が糸を引いていた。
 
  どこかでスカートでも濡らしちゃったのかな、と首を傾げる。
「――!?」
  そのしぐさにメイドさんも下を向き、何故か唐突に顔を上気させた。
  それはもう凄い勢いで。湯気が出てもおかしくなさそうだ。
 
「し、しっ、失礼しみゃすっ!」
 
  また噛んだ。
  と思ったら、メイドさんはどんでもない勢いで駆けだした。
「?」
  こちらは、首を傾げるしかない。何か恥ずかしいことでもあったのだろうか。
 
 
  って、ああっ!?
  ――すってーん、と。
  メイドさんが見事に転んでしまった。
  しかし今度は即座に立ち上がり、とにかく脇目も振らず走っていった。
 
 
  ……えっと。
  目の錯覚だとは思うが。
  今、はいてなかったような……。

20

 さて。案は2つある。
  ひとつは、飲み物に混ぜる。ユウキさんは農園の兎のような人だから、上手くいく可能性は高い。
  しかし、基本的に頭は良いので、ひょっとしたら勘付かれるおそれがある。
  よって、確実な策とは言い難い。
  もうひとつは、無理矢理飲ませる。身体能力は大差ないが、私の方が荒事は得意なので何とかなる。
  こちらは実力をもとにした案なので、実行すれば確実に成功するだろう。
  問題は、コトを終えた後、はたしてユウキさんの心を繋ぎ止められるかどうかである。
  ユウキさんが被虐趣味だったらよかったんだけどなあ。
  まあそれはそれとして。
 
  メイドが持ってきたこの薬。
  試したところ、やはりというか何というか、媚薬だった。
 
  これでユウキさんを手に入れろということらしい。
  身体だけ手に入れても仕方ないんだけどなあ、とは思うが、それはそれとして、
  身体だけでも欲しいと思う自分もいた。
  だって、ねえ。
  ユウキさんが私の付き人になってから、
  これでもかというくらい露骨に誘っているのにもかかわらず。
  ユウキさんは、頑なに、一線を越えようとはしなかった。
 
  不能の線も疑った。
  しかし、くっついたりしたとき、腰が引けるところを見ると、反応してないわけではなさそうだ。
  血塗れ竜に操を立てているのだろうか。
  しかし、以前囚人闘技場で見た2人の様子や、ユウキさんから聞く
  血塗れ竜の話などの印象から考えると、その線は薄そうである。
 
  強引な姿勢と、徐々に深く攻めることで、口づけ程度なら違和感なく受け入れられるように
  なってはいる。
  この関係のまま、ゆっくり、ゆっくり侵攻していくのも有効な手だとは思う。
  しかし、ビビスの側から薬まで出してくるとなると話は違う。
  あの変態公爵は、自分に得のないことは一切しないタイプだろう。
  私に“ユウキさんを落とせ”と指示してきた以上、何らかの裏があると思っていい。
  それがどんな狙いによるものかはわからないが――少なくとも、時間がたっぷりある
  というわけではなさそうだ。
 
  ――やっぱり、使うしかないか。
  嫌われないよう、しかし身体は手に入れる方針で。
 
 
 
 
 
  結局、最終案としては。
  飲み物に混ぜて、そのまま飲めばそれで良し、飲まなかったら強引に、
  という折衷案でいくことにした。
 
  メイドを追い出してからしばらくして。
  ユウキさんがやってきた。
  始まるのはいつもの会話。
  適当な雑談に始まって、気付けば互いの距離を測り合っている。
  私は近付こうとして、ユウキさんは離れようとしている。
  これはこれで緊張感があって楽しいのだが――やっぱり、もっと近付きたいよ。
 
  私は、ユウキさんがいれば、あとは何も要らない。
  こんなに誰かを欲しいと思ったことなんて――母国にいた頃ですら一度もない。
 
 
  ああ、そういえば。
  ユウキさんに、私の昔話をしたことは、なかったっけ。
 
 
  単に思い至らなかったのか、それとも気を遣ってくれたのか。
  ユウキさんが私の過去に触れようとしたことは一度もなかった。
  正直、思い出したくないこともたくさんあるし、助かっていたといえばそうである。
  でも――知って欲しいという想いも、少なからず、あった。
  ユウキさんには、私の全てを知っておいてほしい。
  だって、これから私のものに、なるんだし。
 
  正直、退かれるかもしれない。
  帝国の一般的な女の子がどのような生活をしているのかは知らないが、
  それとはかけ離れていると断言できる。
  でも、血塗れ竜みたいな変わった娘を受け入れられるのだから。
  きっと、私のことも、受け入れてくれるよね?
 
 
 
 
 
  私には、名前がなかった。
  一番古い記憶の頃から、私の呼び名は番号だった。
  大人はいつも、私のことを番号で呼んだ。それが当たり前だったので、
  疑問に思うことなどまず無かった。
  起床し、食事を取り、日課をこなし、就寝する。
  その中には名前の必然性はなく、個体の識別できる番号さえあれば、それで充分だった。
 
  帝国に比べると人口や国土は劣るものの、抜群の技術力を誇る王国。それが私の母国である。
  その技術力は、ある時期から特殊な方向に突き進み、私の所属していた研究所は、
  その最先端だったそうな。
 
 
  ――私は、そこの被験体だった。

 

 

 色々な薬を投与され、様々な手術を施された。
  私が生き残ったのは運でしかなかった。
  5歳の頃にはたくさんいた友達も、10歳のときには片手にも満たなかった。
 
 
  そんな環境で育ったにもかかわらず、私が自我を保てたのは、
  投与された薬の相性としか言えないだろう。
  他の子ども達は、廃人か植物人間か無我人間のどれかだった。
  そのみんなが、少しずつ、少しずつ数を減らしていって。
  そんな中でも、私は着実に、生き延びていた。
  13歳くらいからは、耐久実験と咀嚼訓練の繰りかえしだった。
  身体もだいぶできてきて、あらかたの刺激には耐えられるようになって。
  私は、数少ない“成功例”として、より高次の完成を目指すことになった。
 
  そこで出会った存在のせいで、色々、本当に色々あったのだけど――今は、思い出したくなかった。
 
  そんなこんなで、毎日身体を切り刻まれて、毎日色々なものを噛まされて、
  私の少女時代は過ぎていった。
  あ、今でも充分に少女だから、そこらへんは誤解しないでね。
 
  外見の成長が止まったのは14のとき。
  飢餓状態で脂肪が多少は増減するものの、筋肉や骨格が変化することはなくなった。
  身体が完全に“生き延びること”に特化されたおかげで、それ以外の機能は残らなかった。
  成長することや――子供を産むことは、私が生き延びる上では不必要なものだったらしい。
  それから2年間、変わらない身体のまま、ひたすらに身体を虐められた。
  感覚は鈍麻し、全てがどうでもよくなって。
 
  そして、ちょっぴり、嫌なことがあって。
 
  私は、国を出ることにした。
 
  研究所の所員や警備員を全員喰い殺し。
  妹分も喰い殺し。
  立ちふさがる連中全員、喰い殺して。
  私は、母国を後にした。
 
  とにかく――あの国で死にたくなくて。
  せめて、他の国で死にたいと思い。
  帝国に、密入国した。
  技術力こそ劣るものの、豊富な人口と資源を誇る帝国なら。
  私を殺せる人間が、いると思ったから。
  だから、囚人闘技場に来ることに抵抗はなかったし。
  自分から、それを望みもした。
 
  そう。私は死ぬつもりだったのだ。
  実験段階で、自殺することができない身体にされてしまい、
  自分じゃどう頑張っても死ぬことができなくて。
  燃費の悪い特殊な身体は、常に空腹を訴え続けて。
 
  囚人闘技場に来て、さあこれから、というところで。
 
  ――ユウキさんと、出会った。
 
 
 
 
「あ、でも、別に研究所で育ったことが不幸だったとか、そんな風には思ってないよ?
  あそこのおかげで、少なからず恩恵も受けられたし。
  美味しいものをたくさん食べてもお腹一杯にならないし。
  妹分も喰い殺しちゃったから、それこそ何を食べても大丈夫になることができたし。
  体も丈夫になったから、病気とも無縁だしね!
  ……それに、妊娠しない身体だから、ユウキさんも気兼ねなく中出しできるよ?」
 
  そう言って、向かいに座るユウキさんを見上げようとしたら。
 
  肩を掴まれ、半ば強引に抱きしめられた。
 
  え?
 
「……もう、いいです。それ以上は、言わなくても」
  ユウキさんの声は、何故か絞り出すような感じで。
  ……あれ? おっかしいなあ。退かれるかもしれないかとは思ったけど、
  こんな反応は予想外というか。
  そりゃあ、ユウキさんは優しいし、表向き、嫌な表情はしないとは思ってたけど。
「あ、あのさ、ユウキさん? 私、別に悲しくなんてないよ?
  だから、こう、抱きしめるのは場違いというか、えっと、その」
「……アトリ。貴女にとってはそうかもしれません。
  でも、僕がこうしたいんです。だから――許してください。
  こうすることを。――それと、貴女の決意を消してしまったことを」
 
  あ。
  そうか。
  つまり、ユウキさんは。
 
  私に、謝りたいのかな。
 
  私が、本当は死にたかったことに気付いて。
  それを、ユウキさんを求める気持ちへとすり替えてしまったことに対して。
  罪悪感を覚えているのかな。
  ……ユウキさんはお人好しだなあ。
  私が、勝手に、貴方のことを好きになっただけなのに。
  それに対しても、自分の責任にしちゃうなんて。
 
  そして、抱きしめることで、私のその想いを強くさせて。
  ――二度と、死にたいと思わせないようにするなんて。
 
  この優しさは、毒だ。
  心を甘く殺す毒。
  ユウキさんの毒に、私はもう殺されている。ああ、だから死にたい気持ちが無くなったのか。

 

 

「え、えへへ。ちょっと変な話しちゃったよね!
  ご、ごめんね、ユウキさん!」
 
  半ば強引にユウキさんの腕を振り払い、椅子から逃げるように立ち上がる。
  そしてそのまま壁際へ。
 
「な、長話して喉が乾いちゃったから、水でも飲むね。ユウキさんにも注いであげるよ!」
  そう言って、棚の上の水差しに手を伸ばす。
 
  やばい。
  もう、我慢できない。
  身体が甘く痺れている。
 
  はじめて。
  ユウキさんの方から、抱きしめてくれた。
 
  かちゃかちゃと、水差しの口が震えている。
  コップに水を入れるのが難しい。
  うああああああ。頬が緩むのを制御できない。胸の奥が熱く燃えさかっている。
  頬はきっと真っ赤なんだろうなあ。
  欲しいよ。欲しいよ。ユウキさんが、欲しいよ。
 
  ユウキさんに背を向けながら。
  懐から小瓶を取り出して、蓋を開ける。
  本当は、もっと準備を整えてから、飲ませるつもりだった。
  薬を入れた方のコップは、薄れた亜麻色が浮かんでいる。
  注視すればおかしいと気付かれてしまうだろう。
  でも、もう、我慢できない。
  多少不自然でも気にしない。
  とにかく、一刻も早く、ユウキさんにこの薬を飲ませたい。
  そして、さっきみたいに、抱きしめてほしい。
 
 
「はい、ど、どうぞ」
  目を合わせられない。視線を背けたまま、ユウキさんにコップを差し出し、
  自分はコップの中身を一気飲みする。
「ありがとうございます。……ん?」
  ユウキさんが、コップの中身を見た、やや眉をひそめる。
  ただの水のはずなのに色づいていることに疑問を覚えたようだ、。
  やっぱり、強引すぎるかもしれない。
  だけど、今更、引き返せない。
「ほ、ほら、ユウキさんもぐいっといっちゃってよ!」
  今更のように緊張してきた。上手く言葉を紡げずに、少々たどたどしく水を勧める。
  ユウキさんはこちらのコップに視線を送ったが、それは既に空である。中身の確認はしようがない。
 
  そして、こちらが慌てているのも、嫌な話をした直後だからと好意的に解釈してくれたのか。
  ユウキさんは、結局、何も異を唱えることなく。
 
  水をそのまま、飲んでくれた。
 
 
 
 
 
 
  この扉の向こうに、ユウキがいる。
  いままでずっと会えなかったユウキ。
  でも、もうすぐ、会える。
 
「それでは、入りましょうか」
 
  血塗れ竜をここまで連れてきたトゥシアが、そう言ってきた。
  ここまで来て引き返す気なんて、少女には欠片も存在しなかった。故に、無言で頷きを返す。
  もうすぐユウキに会える。
  期待と興奮で、頭に血が上っていた。轟々と耳鳴りがする。気を抜けば気絶してしまいそうだ。
  そして、トゥシアがゆっくりノックをし、扉を開けた。
 
 
「ユウキっ!」
 
 
  我慢できずに、扉に体当たりするように、部屋の中へと駆け込んだ。
  扉の正面にユウキはいない。
  直ぐさま視線を巡らせて、ユウキの姿を探した。
 
  ――いた。
  ユウキだ。
  会いたかった。
  そして、愛して欲しかった。
  ずっと会えなかった鬱積が、ようやく晴れようと――
 
 
「――え?」
 
 
  ふと、素朴な疑問が、浮かんだ。
 
  ユウキは、どうして、裸なの?
 
  ベッドの上で。
  こちらに見向きもせずに。
  誰かを、裸で、抱きしめていた。

 

 

「……ユウキ?」
 
  声をかける。しかし、返事はない。
  ユウキはひたすら、誰かを抱きしめて、身体を上下に揺らしていた。
 
  興奮で麻痺していた聴覚が、だんだんと元に戻り始める。
  聞こえてくるのは、湿った音と、女の声。
 
  あれ、この声、聞き覚え、ある。
 
  どこで聞いたんだっけ。
  頭が上手く働かず、ただ呆然と、ユウキが動く様を見る。
 
  ユウキ。ねえ、なにしてるの?
  抱きしめてるのは誰? どうして、私じゃないの?
  ずっと会いたかったのに。
  どうして、私の方を、向いてくれないの?
 
 
  よく見れば。
  ユウキ・メイラーの目は血走り、通常の状態ではないことは明らかだったが。
  それに気付けず、血塗れ竜は、目の前の睦み事を、ただ呆然と眺めていた。
 
 
  そして。
  ユウキと“誰か”が行っている現在の行為が。
“愛し合う”ことなのだと、本能的に、理解した。
 
 
  思い出した。
  こいつ、闘技場で会ったあの女だ。
  自分に向かって“貴女は、ユウキさんに見捨てられたんですよ”と妄言を吐いた女だ。
 
  こいつが。
  こいつが、ユウキを、奪ったのか。
 
 
 
 
  ――殺してやる。
 
 
 
 
 
 
 
 
  ユウキさんの肉棒が、私の肉壺を犯していた。
  粘膜が擦れ合い、死んでしまいそうな快感が響いている。
  きもちいい。
  すっと、こうしていたい。
  ユウキさんの腕が、力強く私のことを抱きしめている。
  これだけで、心臓が止まってしまいそうなくらい、嬉しかった。
 
 
  と。
 
 
  こんこん、とノックの音がしたかと思ったら。
  返事をする間もなく、扉が開いた。
 
  否。開くだなんて生やさしいものではなく。
  ぶち破らんとするかのように、勢いよく、扉が開け放たれた。
 
  入ってきたのは、2人。
  ひとりは、先程のメイドと同じ衣装のメイド。
  そして、我先にと突入してきたもう一人は。
 
「ユウキッ!」
 
  血塗れ竜だった。
 
  こちらを見て、信じられないものを目の当たりにしたかのように目を見開いている。
  浮かぶ表情は驚愕以外の何物でもなくて。
  それには少なからず、羨望も含まれていて。
 
  突然入ってきた連中への驚きや、
  情事を見られたことによる羞恥はこの際どうでもいい。
  何より。
  ひとつ、大事なことを確信できた。 
 
 
  私は、血塗れ竜より先に、ユウキさんの身体を“手に入れた”のだ。
 
 
  血塗れ竜が殺気を隠さず睨み付けてくる。
  それすらも、今は、心地よかった。
 
  私のことを殺したいの、血塗れ竜?
  でもね、私も、あんたのことを殺してやりたいの。
  身体は手に入れたけど、心はきっと、あんたに向いたままだから。
 
 
  ――だから、喰い殺してあげる。

To be continued...

 

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