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血塗れ竜と食人姫

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1

 闘技場は、今宵も満員御礼だ。
  怒号や罵声が途切れることはなく、中央で撒き散らされる血飛沫に、誰もが興奮し没入していく。
  今日の対戦も順調に進み、ちょうど、準主戦の決着が付いた。
  砂地の闘場は存分に血を含み、照明の下で妖しい輝きを放っている。
  これで、全ての準備が整った。
  観客の目に、さらなる興奮が入り交じる。
  彼らにとって、今までの試合は“前座”に過ぎない。
  これから始まる戦いのために、観客が集っているといっても過言ではない。
 
  準主戦の敗者――その遺体が運び出され、戦場には一時、誰の姿も見えなくなる。
  奇妙な空白。
  先程まで絶叫を上げていた観客たちも、この瞬間だけは沈黙していた。
 
  そして、司会の声が高らかに響く。
 
『それでは、本日の最終試合。
  血塗れ竜 対 斬鉄巨人 
  を、開始させて頂きます!』
 
  最後の二組の通名が伝えられた瞬間。
  観客全員の口から、喉から、肺から、体全体から。
  今日一番の絶叫が、飛び出した。
 
  う お お お お お お お お お ! ! !
 
  まるで空気が唸るが如く、会場全体が揺れている。
  興奮していない者など一人もおらず、誰もが選手の入場口――その片方へと注視している。
  誰もが、今日の主役を理解していた。
  読み上げられた通名は二つ。されど、皆が期待するのは片割れの惨殺劇のみ。
  果たして、東西に分かれた入場口のうち、西の入り口から人影が現れた。

『先ずは挑戦者、今まで捻り潰した者は両手に余る、怪力無双の大男!
  ――斬鉄巨人の、レコン・ランクラウドッ!!!』
 
  現れたのは、常人の二倍はあろうかという大巨漢だった。
  ただ大きいだけではなく、腕も足も、黒鉄を流し込まれているかの如く、硬く隆起している。
  拳の一撃で、岩どころか城門さえ破壊しそうな大男――その入場に観衆が沸き立った。
  大男――レコンの表情に硬さはない。挑戦する立場であるにもかかわらず、緊張の類はないらしい。
  悠然と闘技場中央に歩んでいった。その風格は、挑戦者というよりは王者そのもの。
 
  レコンは浴びせられる観衆の大声に、手を挙げて応えようとして――ふと、違和感を覚えた。
 
  観衆の声は、自分を応援したり発破をかける類のものでは、ない。
  例えるなら――そう、憐れみ。絶叫のような怒声の殆どは、こう言っているのが聞き取れた。
 
  ――竜を満腹にさせてくれよ!
  ――でないと俺らが喰われちまうからな!
 
  意味が、わからなかった。
  しかし、自分が期待されていないということはよくわかり、レコンは歯を食いしばる。
 
  もう少しの辛抱だ。
  王者をこの手で葬り、自分が新たな王者となる。そうすれば、これからの囚人生活は薔薇色だ。
  囚人同士の殺し合い。その頂点に立つ者はあらゆる罪から解放され、満たされた生活を送ることができる。
  そう信じ、ここまで勝ち進んできた。
  殺した分だけ、確かに生活の質は向上していた。
  味気ないパンとスープは既に過去。今や貴族が食するような最高級の宮廷料理が常食である。
  服も麻から絹へと変わり、囚人の女を好きなように抱ける毎日。
  ――この上に、行けるのだ。
  王者がどれほど強いのかは知らない。しかし、どんなに強かろうと、自分の一撃を喰らって
  無事な人間など存在しない。
  10日前の試合で、屈強な異国の戦士を一度の拳撃で千切り飛ばしたことを思い返す。
  どんなに鍛え上げられていても、どんなに硬い鎧を身につけていても。
  斬鉄たる己の拳は、必ず敵を引き裂くだろう。
 
  必勝の予感を胸に、レコンは東の入場口を睨み付ける。
 
  ――そして、王者が現れた。

 

『今宵も血の薫りを纏わせて、現れるのは最強の竜!
  惨劇が幕を開けようとしている!
  その身が血潮にまみれることを、ここにいる全員が期待していることでしょう!
  ――王者、血塗れ竜こと、ホワイト・ラビットッッッ!!!』
 
  今度こそ。
  会場が、沸き立った。
 
 
  王者への挑戦にすら欠片も緊張しなかったレコンが、始めて不安そうな表情を見せる。
  それは観客の異常なまでの興奮――とは一切合切関係なく。
  ただただ、王者の風貌にのみ、戸惑わされていた。
 
 
  現れたのは。
  年端もいかない、可憐な少女。
 
 
  身の丈は、レコンの胸にも届かない。
  手を伸ばしても、首にさえ届かないであろう小柄な体躯に、指で弾いただけでも折れそうな細い手足。
  筋肉も脂肪も、年並みの少女と同じくらいにしか、付いていない。

 

 ――こんな小娘が、王者?

 

 片腕どころか小指で倒せそうな王者の登場に、レコンは数瞬戸惑った。
  しかし、すぐに気を引き締める。
  相手が誰であろうと関係ない。
  見かけはただの少女でも、王者であるからには一癖も二癖もあるに違いない。
  それに――相手がどんな存在でも、自分の戦法は変わらない。
  拳を握りしめて、叩き付ける。それだけだ。
  どんな人間でも、どんな怪物でも、どんな兵器でも、どんな構造物でさえも、その一撃で事足りる。
  故に、レコンのすべきことは、とにかく駆け寄って、懇親の一撃を叩き込むだけ。
  避けられても風圧で肉を裂き、掠っただけでも衝撃で血液が逆流し、心臓が破裂する。
  レコンの攻撃は全てが一撃必殺である。相手が城より巨大な怪物であろうとも、
  幼子の如き少女であろうとも、変わらない。

 王者が、ゆっくりと、歩み寄ってくる。
  3足離れたところで、王者は止まり、こちらを見据えた。
 
「……っ!?」
  どんな眼光に晒されようとも、怯えない自信がレコンにはあった。
  しかし、少女の眼差しは、眼光といった類のものでは、なかった。
  まるで、路傍の石を見るかのような、感情が欠片も籠もらない、物を見る目でレコンを見ていた。
  吐き気がしそうな熱気の中、こんな目ができるとは。
  震えそうになる体を押さえ。レコンは少女に対峙する。
 
 
  そして、司会の口上がしばし続いた後。
 
  戦闘が、開始された。

 

 することは単純。
  とにかく、近寄って、一撃を振るう。
  それだけだった。それだけの、はずだった。
 
  なのに。
 
「……へ? ……あれ……?」
 
  レコンの腕が、千切れていた。

 肘より先は何処にもない。ねじ切られたかの如く、皮と筋肉が捩れていた。
  間欠泉のように、びゅっびゅっと、鮮血が吹き出している。
  おかしいな、とレコンはぼんやり考える。
  自分は、懇親の一撃を放っていたはずだ。
  赤銅すら紙のように裂く攻撃を、王者の少女に向かって放っていたはず。
  避けられても、もう片方の手で同じことをするつもりだった。
  しかし。
  攻撃は、王者に当たることはなく。
  二撃目を放つ前に、肘から先が消失していた。
 
  噴水のように勢いよく放たれる鮮血に、少女の全身が濡れていく。
  なるほど、とレコンは思った。
 
  ――血塗れ竜。
 
  この少女ほど、その通名が合う者など存在しないだろう。
  ぼんやりとした頭で、残った左腕で打撃を放つ。
  こちらも、家屋を粉々に吹き飛ばしそうな攻撃だったが。
 
  当たる直前、少女が拳の脇に掌を添えたかと思うと――
 
  ぶつん、と。
  引き千切られた左腕が、舞っていた。

 

 左腕も失った。
  両腕はびゅうびゅうと血を吹き出している。
  その朱をシャワーのように浴びながら、血塗れ竜が近づいてくる。
  わけがわからなかった。わかるのは、少女が自分を殺そうとしている、そんな非現実的なことだけだった。
  何をされたのかもよくわからない。
  とにかく、無くなった両腕が、激痛と共に告げていた。
 
“殺される”
 
  とっさに逃げようと、後ろに跳ぼうとしたが、その直前に、ごきんと膝から鈍く重い感触がした。
  え、と下を向いてみると、逆側に曲がった膝と、その上に乗る血塗れ竜。
  そして小さな掌が、レコンの首に伸ばされて。
 
  最後に、視界が天地逆さになってしまった。
 
  観衆の絶叫が、雨のように降り注いでいた。

 

 観衆の膨大な歓声を浴びながら、血塗れ竜は会場を後にする。
  べしゃべしゃべしゃ、と。濡れた足が砂地を叩く。
  そのまま無言で控え室へと向かっていく。
  全身に浴びた血を拭おうともせず、床が血に汚れるのを全く構わず、ただまっすぐに通路を歩く。
  そして、通路の先――控え室の入り口にいる一人の青年を目にした瞬間、微かではあるが表情が変わった。
  べしゃべしゃべしゃ、から、べたっべたっべたっ、と足取りを軽くし、青年の胸に飛び込んでいく。
 
「うわっ!? こら、白。急に飛び込むのはやめてください」
「…………」
「ああもう、今日もこんなに血にまみれて……。
  ほら、拭いてあげるからじっとして」
「ん」
 
  わしゃわしゃわしゃ、と。
  手にした布で、青年が少女の顔を優しく撫でる。
  顔、髪、首、腕、躰、足、と順番に、丁寧に、青年は少女の体を拭いていった。
  その間、少女は言葉を発することなく。
 
  目を細めて、嬉しそうにじっとしていた。
 
  やがて全身を拭き終わり、青年が少女から一歩離れる。
「終わりましたよ」
「ん。今日も、勝った」
「はい。これからもよろしくお願いします、白」
「ん」
 
  少女の顔がほころんだ。
  言うまでもないことかもしれないが。
  血塗れ竜は、世話付きの青年に、恋をしていた。
 
  青年に世話をして貰うためだけに、今日も王者は、相手を殺す。
  それが、この囚人闘技場の、日常だった。

2

 血塗れ竜の朝は遅い。
  試合は基本的に最終だし、王者特権で囚役も免除されてるしで、昼間にやることが何もないからである。
  故に彼女はよく寝ている。
  寝相は良いのか悪いのか、ベッドから転がり落ちることはない代わりに、布団を蹴飛ばして
  腕や太股をさらけ出すのは日常茶飯事。
  こうして寝ている姿だけを見ていると、年頃の元気な少女以外の何者でもない。
  寝顔は無垢な天使のよう。血にまみれた闘技場での姿とは一致しにくい。
  幸せそうにすやすやと眠る血塗れ竜。
  起こすのは気の毒かもしれないが、生憎、彼女が二番目に大好きな時間――食事の時間なので
  起こさないわけにはいかなかった。
 
「白。白、食事の時間ですよ、起きてください」
 
  ちなみに、“白”というのは、血塗れ竜ことホワイト・ラビットに対する僕独自の愛称である。
  彼女の名前を異国風に言い換えたものである。
  本人も嬉しそうなので、普段はこう呼んでいた。
  ただ、何故かは知らないが、僕以外が“白”と呼ぶと、彼女は酷く機嫌を損ねるので、
  実質“白”と呼ぶのは僕一人だけなのだが。
  まあそれはそれとして。
  声をかけた程度じゃ白が起きてくれないのは、過去の経験からも明らかである。
  よって僕は速やかに第二段階へと移行する。
「白。起きてください。食事が冷めてしまいますよ」
  ゆさゆさゆさ、と肩に手を当てて少女を揺すった。
  むき出しになった二の腕に指先が触れる。
  吸い付くような滑らかさ、とでもいうのだろうか、この世のものとは思えない肌の触り心地に、
  一瞬陶酔してしまう。
  ……いけないいけない。白を起こさなきゃいけないのに、腕を触って喜ぶなんて変態か僕は。

 改めて、肩を掴んでゆさゆさと。
  んふう、と心地よさそうな溜息を履いた白は、ごろりと寝返ったかと思うと、そのまま僕の腕を掴んで
  引っ張った。
  踏ん張って堪えようとしても、こちらの重心移動を的確に把握し、そのまま腕を引き込まれる。
  ぼすん、と少女のベッドの上に倒れ込んだ。
  ……こういう、人の動きを操作するのに長けているところは、流石に王者といったところか。
  ではなくて。
  今日もベッドに引き込まれてしまった。ここのところ毎日である。
  引き込んだ本人は、僕の腕を抱きしめて、更なる惰眠を貪ろうとしている。
  あ、こら、足で挟まないで。手首のあたりに感じてはいけない柔らかさが……。
「んふー……」
  肩にあごを擦りつけてくる。まるで猫だ。馴れきった猫。
  慕われるのは悪い気分ではないが、この体勢は少々不味い。
  白の肌の心地よさは、並みの女性の比ではない。このまま白の柔らかい感触を押しつけられていると、
  妙な気分になってしまう。
  理性が掻き消される前に、早く白を起こさないと。
「こら、白、起きなさい。朝ご飯は抜きにしますよ?」
  第三段階。耳元で最終勧告。
  コレは流石に効いたのか、微かに首もとを震わせた後、うっすらと白の瞼が開かれた。
 
「んー……ユウキ……?」
 
  寝ぼけまなこで、僕の名前を呟く白。
  表情はとろけきっていて、緊張の欠片もない緩み顔だ。彼女に殺された対戦者は、
  王者のこんな姿なんて信じられないだろう。
  女子監獄の監視員として配属されてはや三年。
  どうしてここまで懐かれたのかはさっぱり理由がわからないが、これはこれで、悪くなかった。

 僕の名前は、ユウキ・メイラー。
  帝都に存在する巨大監獄の、東4番棟監視員である。
  主な仕事は囚人の世話。世話といっても、食事を運んだり見回りしたりといった程度の、暇な仕事である。
  しかも女子棟ともなれば、気性の荒い囚人なんて少ない方で、荒事に巻き込まれることもなく、
  ただ淡々と仕事をこなしていた。
  繰り返しのような監視員の業務。
  一時期は帝国執政官すら目指していたのだが、競争に敗れてからは見事に脱落の坂道を転げ落ち、
  気付けば監獄勤務である。
  当初のやる気のなさはずば抜けていて、殆ど無気力に仕事をしていたような記憶がある。
  それがいくらかマシになり、仕事にもだいぶ慣れてきたところで――彼女と出会った。
 
  囚人番号E4−274
  囚人闘技場選手登録者。
  囚人名:ホワイト・ラビット。
 
  元々は東3番棟に所属していたが、囚人闘技場に新規登録したとのことで、4番棟に移ってきたのが
  彼女である。
  4番棟は別段、囚人闘技場の選手のための棟とかそういうわけではない。
  そもそも東の棟は全て女子棟である。闘技場登録者など数えるほどしか存在しない。
  その、数えるほどの登録者同士で、余計な摩擦が起きないよう、一つの棟には一人か二人しか
  闘技場登録者を在籍させないのだ。
  まあそんなわけで、東4番棟に移ってきたホワイト・ラビットだったが。
  とかく気むずかしい娘で、逆らうことはないのだが、誰とも話そうとしなかった。
  女子棟の監視員には、自分の欲望の赴くままに“戯れる”監視員も数多い。
  しかし、闘技場登録者にちょっかいをかけようとする者は少なく、彼女はだんだんと
  疎まれるようになった。
  どだい、闘技場に登録される者なんて、面倒事を抱えているのが常である。
  好きこのんで関わろうとする監視員は皆無である。
  とはいえ、監視員が一人お付きの者として体調管理などを行わなければならないので、
  誰かが担当せざるをえない状況だった。
  そんなこんなで、多くの監視員の下をたらい回しにされた果てに。
 
  ――僕が、ホワイト・ラビットの担当になった。

 僕が他の監視員と違った点はただ一つ。
  彼女がどんなに無反応であろうが、毎日一生懸命に、手を抜かず彼女の世話をしたということだけである。
  仕事にも慣れてきて、以前のエリートコースにも完全に諦めがついて、
  これしかやることがないのだから、どうせだったら一生懸命やってみようと積極的になり始めた
  時期だった。
  だから、担当の小娘がどんなに無反応であろうとも、毎日声をかけ、食事の世話をし、
  時には注意したりもした。
  そして、彼女の初試合、周囲の予想に反して、相手の男を惨殺して、少女が控え室に戻ってきた際。
  全身鮮血にまみれ、湿った足音を響かせて帰ってきた彼女を見て。
 
  とても、寂しそうだったから。
  血液の生臭さをぐっと堪えて。
  濡れた髪を優しく拭きながら。
「頑張ったね」と、褒めていた。
 
  彼女はそこで、“初めて”僕の顔を見て。
  ――うん。
  と、微かに、頷いた。
 
  それから、もう2年が経つ。
 
 
「……でも、これは懐きすぎの気がするんだけどなあ」
  溜息を吐いて、少々重くなった左腕の方を見る。
「♪〜、♪」
  鼻歌を歌いながら、僕の左手を抱きしめて、通路を歩く白の姿。
  どこからどう見ても上機嫌。ただの日課の散歩なのに、どうしてここまで盛り上がれるのか不思議である。
 
  王者になっても、白は全く変わらなかった。
  僕に世話され、頭を撫でられると嬉しそうに微笑んでくる。
  王者の特権として、様々な自由を与えられるにもかかわらず、
  白は、試合の日以外は部屋でごろごろするか僕と散歩するかの二択である。
  囚人闘技場の王者がこれでいいのかなあ、と時折首を傾げてしまうが、本人が嬉しそうなのだから
  別に問題ないのかもしれない。

 白があまりにも手のかからない闘技場登録者のため、僕は暇を持て余すことが多々あった。
  何もしないのはどうも苦手なので、白がぐーすか寝ている日には、女子棟の業務を手伝うようにしている。
  今日もそんな一日で、食事の配給や、空き部屋の掃除などに一日を費やしていた。
 
「さて。あとは410号室と671号室だけか」
「お、ユウキ。いつも悪いな。本当は俺らがやらなくちゃいけないことなんだが」
「別にいいですよ。どうせ暇なんですし」
「今度、締まりのいい囚人貸してやるよ。媚びも覚えてきたところだから、具合はかなり良いぜ?」
「いえ、そういうのはちょっと……」
  空き部屋の掃除は、以外と面倒くさく、やろうとする監視員は皆無のため、僕がこうやって
  まとめて行うことが多かった。
  今日も既に20以上の空き部屋整理を済ませている。監獄の個室は入れ替わりが激しく、
  整頓も結構手間がかかる。
  そんな業務を肩代わりする僕に対して、他の監視員の目線は二種類だ。感謝しているものと
  嘲笑を含んだものである。
  声をかけてくれた人はどうやら前者だったようで、気さくに肩を叩いて、監視員の間では
  よくある誘いを持ちかけてくれた。
  それを苦笑いで断って、次の部屋に行こうとしたが――
 
「――ああ、ユウキ。410は空き部屋じゃないぞ。今日から新人が入るみたいだ」
「え? 新人?」
 
  はて、と首を傾げてしまう。
  通常の囚人なら、最初は個室ではなく相部屋に入れられることになる。
  ということは、最初から個室というのは、いわゆる“通常”の囚人ではない、ということだ。
 
「密入国者だとよ。しかも、侵入したところが例のサド公爵の領地とのことだ」
「……なるほど」
 
  大陸が帝国の独占支配になって久しいが、それでも帝国民以外の人間は存在する。
  多いのが、他国からの密入国者で、そういった輩は大抵捕縛され、収監される。
  行き先は様々だが、猟奇趣味のある貴族の領地に侵入した場合は、大抵ここ帝都中央監獄に
  連れてこられる。
 
  ――ここには、囚人闘技場があるからだ。

 屈強な戦士だけが戦うわけではない。
  ときには弱々しい人間を無理矢理戦わせて、虐殺される様を見せ物にすることが多々ある。
  そういったものに参加させるために、わざわざ帝都の監獄に入れさせるのだ。
  自分の連れてきた囚人が、見る者を楽しませるショーを展開させたとなれば、上位王族の覚えも良くなる。
  よって、そういった趣味のある者は、殺しても特に心の痛まない人種――異国の民を、
  ここに連れてくるのである。
  しかも、東棟ということは――
 
「女の子を惨殺、ってことですか」
「だろうなあ。殺される前に楽しんでおきたいが――無理矢理やって、ショーに響かせちまったら、
  首が飛んじまう」
  やれやれ、と監視員は肩を竦めた。
「ま、そんなわけだから、410号室はもう片づける必要はないぞ」
「はい。わざわざありがとうございます」
「おう。じゃあな――っと、気が向いたら新しい娘を見てみたらどうだ?
  俺もさっき覗いてみたが、これがまた、結構な美人だぜ?
  バラバラにされる前に、生きてる姿を頭ん中に納めとくのも悪くねえぞ」
「はあ」
 
  手を振って、監視員は去っていった。
  それを見送り、僕はこれからの予定を考える。
  ――白の食事の時間までは、まだ当分ありそうだ。
  残りの空き部屋もあとひとつ。その片づけは、後日に回しても問題ないだろう。
 
  特別どうこう思ったわけではない。
  ただ、なんとなく。
  これから殺されることが決まっている少女に。
 
  ――なにか、してあげられることがあれば。そう思って。
 
  僕は、410号室へ向かっていた。

「……××?」
  細々しい声が耳に届いた。
  檻の向こうには、一人の少女。
  それは、美少女と呼ぶに相応しい、線の整った見事な造形。
  白もかなり整った顔をしているが、あちらは可愛らしいという表現の方が似合っている。
  それに対して、こちらは幼さと美しさを危ういバランスで保っていて、そこに異国のものらしき
  異色の瞳が映えている。
  思わず、見とれてしまった。
「……××××、××××?」
  少女が何かを言っている。しかし、異国の言葉のようで、うまく聞き取れない。
  ――いや。
  よく耳を凝らして、発音を一つ一つ丁寧に拾えば、何とか少女の言うことが聞き取れそうな気がした。
  これでも昔は執政官を目指していたのだ。大抵の異国語は身につけている。
  ただ、この少女の言葉は、訛りが強くて、聞き取りにくい。
  訛りの特徴を少しずつ把握し、少女の言葉の意味を探る。
 
  少女は、じっと見つめる僕を訝しげに眺めながら、幾度となく言葉を投げかけてくる。
  ……うん。だいたい、わかってきた。
  やっぱり、海向こうの共通語だ。それがちょっぴり重めの訛り方をしている。
  一度把握すれば後は容易い。少女が何を言っているのか、大体わかるようになってきた。
 
  異国の少女が、溜息を吐いた。
 
「……はあ。やっぱり、通じないか。このまま誰とも話せないのが続くのかなあ」
  そう言って、視線を逸らそうとした少女に。
「いや、通じていますよ」
  そう、声をかけた。
 
「っ!?」
  少女の反応は面白かった。
  まず、びくっと飛び上がり、辺りをきょろきょろ見回した後、恐る恐る僕の方を見る。
  視線をあちこちに移動させながら、時折僕と目を合わせ、ゆっくり少女は口を開いた。
「……私の言ってること、わかるの?」
「はい。わかります」
  そう言って、微笑んでみせた。
  少女はぽかんと僕を見つめ、やがて、恥ずかしそうに、こう言った。
 
「あの……お腹、ペコペコなの。なにか、食べるもの、貰えない、かな?」

3

「あ、白、こぼしてますよ」
  ふきふき。
「んー」
「ああもう、拭いてる途中なんですから食べるのを再開しないでください。
  って、言ってるそばからもう!」
「ユウキ、くすぐったい」
「こら、大人しくしなさい」
「んーんー。はむっ」
「人の指をくわえない。食べ物ではありませ――うわわ、くすぐったいっ!?」
「むふー」
 
  ちゅぽ、と白の口から指を引き抜き、何度目かわからない溜息を吐く。
  白の食事の世話は、慌ただしいことこの上ない。
  勢いよくがっついていたかと思えば、唐突に猫のようにすり寄ってきたり。
  欠片も残さず平らげたかと思ったら、おもむろにこぼしてこちらをチラチラ伺ってきたり。
  落ち着いて食べることができないのかなあ、と毎日のように思わされる。
  まあ。
  ことごとく甘えてくる白の様子に、こちらの頬も幾度となく緩まされたりもしているのだが。
 
「……アトリみたいに上品に食べてくれれば、こちらも助かるんですけど……」
「? 誰みたいに?」
「ああ、いえ、何でもありませんよ。
  それより白、今日はこれでもう終わりですか?」
「んん。全部食べるー」
 
  再び勢いよく食事をかっ込み始める白。
  それをのんびり眺めながら、ふと、他の囚人のことを考える。
 
  ――アトリ。
  密入国者の、闘技場新規登録囚人は、そんな名前を持っていたらしい。
  とはいえ、この監獄では名前で呼ばれることなど稀なため、監視員で知っているのは僕だけである。
  初めて会った際、初めて言葉が通じた相手だからか、彼女は何かと僕を頼るようになってきた。

 異国の言葉を解せる監視員など数えるほどしかおらず、それで会話できる者は更に少ないため、
  自然と僕が彼女の世話をするようになっていた。
  もっとも、僕の第一の仕事は白の世話と決まっているため、手が空いたときに見に行って、
  軽く話をする程度だが。
  それでも、話し相手がいることは、彼女にとって少なからず救いになっているようで、
  行くたびに、とても嬉しそうな表情で出迎えられてしまう。
  異国の顔立ちとはいえ、十二分に整った造形の美少女が、喜びを全身で表すその様は、
  気を抜けば魅了されてしまいそうな程だ。
  もっとも。
  貴族の出し物になる予定の少女に、一時の気の迷いで手を出したりなんかしたら。
  それこそ比喩表現抜きで首が飛んでしまうのは目に見えている。
 
  僕がアトリの、おそらくは無意識であろう魅力の発露に負けずにいられたのは。
  きっと……いや、間違いなく。
  僕に対して、あまりにも無防備な姿を晒している、囚人闘技場王者のおかげである。
 
  余計な情報――囚人であることや、稀代の殺戮者であることを考慮に入れなければ。
  白は、きっと帝国で一番の、可憐な少女だろう。
  名前を表すかのような銀髪は、背中まで流れてなお、その輝きを失わない。
  肌は白磁のような滑らかさで、見る者全てを吸い寄せそうな色艶である。
  背はやや小柄だが、姿勢の美しさと相俟って、完成された黄金像すら連想させる。
  性格は素直の一言。一度気を許してしまえば、長年愛しんだ猫のように、甘え擦り寄ってくる。
  最近表れてきた唇の艶めかしさも、時折見せる艶のある仕草も、
  街中であればあらゆる男を魅了するに違いない。
 
  そんな白と、ずっと一緒に過ごしてきたからこそ。
  僕は、アトリの魅力には参らなかった。
  彼女と接する際に表れる気持ちはただ一つ。
 
  ――せめて最期は、楽しい記憶を。
 
  その思いがあるからこそ、僕は暇を見つけては、アトリのもとへ通っていた。
 
  ただ。
  今までは白だけだったから、特定の感情さえ抑え込んでしまえば、問題なく付き合うことができていたが。
  今のように、白と同格の美少女とも時折会話するような状況だと。
  ――どうしても、二人の差異を見つけてしまい、余計な感情が湧き起こる。
  それが例えば、食べ方の違いであったり、話すときの目の合わせ方であったり。
  ついつい、二人を比べてしまう。
  別に、どちらが上か、などといったランク付けなどする気もないが。
  今まで気付きもしなかったような、少女の「女らしさ」といったことも目についてしまうのだから
  困ったものだ。。
 
  例えば、いつものように白が擦り寄ってきている今。
  服の首もとから胸の先が見えないように、絶妙にガードしている所などに気付いてしまう。
  っていうか、見られるのが恥ずかしいならくっつくな、と。

 

 

「あっ! ユウキさん! こんばんわー!」
  白が猫ならこっちは犬かな、と。
  僕の姿を確認するなり、檻の手前まで駆け寄って、ぶんぶん手を振るアトリの姿は、
  なんというか、元気よく尻尾を振る犬の姿を連想させた。
「こんばんわ、アトリ。調子は如何ですか?」
「元気だよー。ただ、ごはんが少ないから、ちょっぴりお腹ペコペコだけど」
「そうですか。それじゃあ、後で夜食を持ってきてあげますよ」
「やったー! ユウキさん大好き!」
  鉄格子を抱きしめて、全身で喜びを表現している。
  微笑ましいことこの上ない。囚人であることすら忘れさせてしまう快活さだ。
 
 
 
「そういえば、アトリ」
「はい?」
「もう、こっちの言葉は理解できるようになりましたか?」
 
  アトリがこの監獄に移されてから一週間が経つ。
  普通の人間なら、一週間程度では、異国の言葉を理解するのは難しいだろう。
  捕まる前の期間も、ここに来た時点で言葉が不自由だったことから、習得には役立っていない様子である。
  故に、アトリが帝国の言葉を解せなくても無理はない――が、
 
「もう、聞き取る程度はできるのでしょう?
  監視員や囚人の声に対する反応が、出会った当初と変わってきていますしね」
「…………」
「違いますか?」
「……ユウキさんは凄いなあ」
  ほう、と感嘆の溜息らしきものを、アトリは吐いた。
「うん。言ってることは大体わかるようになったよ。喋るのはまだ難しいけど」
  今度はこちらが感嘆の溜息を吐く番だった。
  てっきり、発音や簡単な挨拶程度までしか聞き取れてないと思っていたが――ここまでとは。

 理解する能力が優れているのは間違いないだろう。
  だが――それ以上に、アトリは“他人の言動を観察する”のが抜群に上手いのだと思う。
  簡単な仕草や言葉遣いから、相手の状態を察知し、気持ちや雰囲気を読みとるのだろう。
  きっと祖国では、空気の読める娘として、皆から好かれていたに違いない。
  しかし――ここまで理解するのが早いとなれば。
 
「じゃあ――僕が本格的に帝国の言葉を教えましょうか?
  アトリなら、すぐに覚えることができますよ」
 
  そう、提案した。

 ――と。
  アトリは一瞬、嬉しそうな表情を見せるものの、やや考え込むそぶりを見せた後、
  何故か、にへら、と緩んだ表情を僕に向けた。
「いや、それは嬉しいんだけど、でもさ、それより今の状況も好きなんだ」
「今の状況?」
  わけがわからなくておうむ返し。
  すると、アトリは少しばかり頬を上気させながら。
 
「うん。
  ユウキさんと、私だけの、秘密の会話。
  私に話しかけてくれるのは、私の国の言葉を話せるユウキさんだけ。
  これって、なんだか、凄く胸がポカポカするんだ」
 
  なんだそりゃ、と思った。
  要は、他の人間に聞こえない会話をしている背徳に、緊張と興奮を覚えているということだろうか。
  まあ、深く考えても仕方ない。僕の言語能力だって完璧ではないのだ。
  ひょっとしたら、少しの意味の取り違えもあるかもしれないし。
  とりあえず、アトリが構わないのなら、別にいいか。
 
  ああ、でも。
  ひとつだけ、断っておかなければならないことが。
 
「でも、僕はいつもここに来られるというわけではありませんから。
  他の人とも話せた方が、何かと楽になると思いますが――」

「嫌だよ、そんなの」
 
  きっぱりと。
  アトリは僕の目を見てそう言った。
  そして、続けられた言葉に、僕の思考は停止させられた。
 
 
「だって――あと、半月もないんだよね?」
 
 
  え。
 
  なんで、知ってるんだ?
 
 
  目が。
  異国の瞳が、僕の心の裡を覗く。
  僕は言っていない――でも、考えればすぐにわかるはずだ。
  新入りの囚人にあるまじき個室待遇。
  そして、兵士たちの会話からこぼれる幾つかの単語。
  アトリほどの理解力を持つ娘なら――自分の“出番”が近いことなど、簡単に察するに違いない。
  その上で、アトリは、僕に、まっすぐ瞳を向けてきている。
 
「なら……このままでいいじゃない。
  私はこのままでも……“辛くない”よ?」
 
  駄目だ。それは、
  あと少ししかない時間なんだから、できる限り“楽しんで”欲しい。
  僕だけじゃ、それを提供できるかどうかわからない。
  だから、他の人とも話せるようになって、楽しみの種を増やした方が――
 
「でも、“試合”までに言葉をちゃんと話せなかったら、ただ習うだけで全てが終わっちゃうよね」
 
「それは、そうだけど、いや、でも……」
 
  いいのだろうか。
  この暗い監獄の中、僕一人だけを相手にして、そのまま一生を終わらせていいのだろうか。
  彼女の望むまま、僕だけが相手をしていればいいのだろうか。

 思考が上手く働かない。
  なんだか、無理矢理泥の中で泳がされているような感覚だ。
  このままではよくない。早くいつもの通りに戻らなければ。
  冷静になれ。
  そうすれば、彼女を安心させる言葉も、簡単に紡ぎ出せるはず――
 
「でも、さ」
 
  その前に。
  アトリが、顔を近づけた。
  檻に顔を押しつけるように、僕の瞳を直視する。
 
 
「私が勝てば、大丈夫だよね。
  言葉を習い続けることも、できるよね」
 
 
  …………。
  ……ああ、そうだ。
  万が一、何か奇跡が起こって、アトリが試合に勝利した場合。
  そのまま闘技場登録者として、この監獄に住まい続けることになる。
  そうすれば、言葉を教え続けることもできる。他の人とも繋がりを持つことができる。
  なんだ、それで解決じゃないか。

「だから、さ。ユウキさん」
 
  アトリは、唇だけで笑って、
 
「試合に勝つことができたら、私の付き人になるって約束して?
  そう約束してくれれば、試合まで、頑張って言葉を勉強して、他の人とも話せるようになるよ」
 
  付き人?
  でも僕は、白の――
 
「私が勝てる可能性なんてほとんど無いんだからさ。
  万が一勝ったとき、私に色々教えてよ。そのための、付き人。
  私だって、知りたいこと、いっぱいあるんだよ?」
 
  そうだ。
  アトリのような女の子が、試合で勝てる可能性なんて皆無だろう。
  ならば。
  この少女が最期まで希望を捨てないよう、形だけでも約束すればいいじゃないか。
 
  アトリの理解力なら、きっと言葉はすぐに覚えられるはず。
  最期の、本当に短い時間だが、周囲の人間と関わりを持って生きることができるだろう。
  会話できるのが僕だけだなんて歪すぎる。
  それを正すためにも、ここは、彼女と約束しておくべきだろう――
 
 
 
  頷いた後。
  ぼんやりとした頭で。
  もしアトリが勝った場合。
  白はどうなるのかな、と疑問の欠片が微かに浮かんだ。

4

 あれから。
  冷静に考えてみれば。
  アトリとの約束は、こちらの動揺に付け込んで為された稚拙な誘導によるものだ。
  後からいくらでも反故にできるし、こちらから説き伏せることも可能だろう。
  でも。
  なんだかんだで、アトリに言葉を教える約束を取り付けることができたのだから、
  そんなに悪い取引ではない。
 
  それに――彼女が試合に勝てるとは、思えないし。
 
  残酷な考えかもしれないが、アトリが死んだ場合は、当然約束はなかったことになる。
  故に、どんなに大きな約束をしても、実質的に果たす必要性はゼロになる。
  要は、悩むだけ無駄、ということだ。
 
  だから、僕は気軽にアトリの所に毎日通った。
  言葉を教えるという名目で。
  異国の見目麗しき美少女と、時折冗談を交わし合いながら、授業のような雑談を繰り返していた。
  はっきりいって、楽しかった。
  白ほどではないものの、アトリも充分素直な娘で、こちらの言うことをしっかりと吸収してくれるのが
  心地よかった。
  それに、二度と会えないであろう異国の美少女と、幾度となく笑顔を交わし、
  同じ時間を共有するのは、悪くない。
  きっと、相手が囚人というのを気にしない男であれば、垂涎モノの状況だったに違いない。
  そんなこんなで、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
 
 
 
 
 
  結局、アトリが完璧に言葉を身に付けることはなかった。
  こちらの言葉は全て理解できるようになっていたが、発音がどうも苦手らしく、喋ることは、
  終ぞままならなかった。
 
  最終的に、彼女の話し相手となったのは僕一人。
  アトリがそれで満足できていたかどうかはわからない。
  でも――少なからず、楽しんでくれていたとは思う。
 
  何故なら。
  彼女が時折向けた笑顔は。
  白のような、混じりっ気のない純粋なものだったから。
 
 
 
 
 
  そして、試合当日がやってきた。
  奇遇とでも言うべきだろうか。
  この日は、白が最終試合を務める日でもあった。
 
  試合を止めようだなんて思わない。
  でも、ありえないはずの明日を夢見て、僕との会話に喜びを見せていたアトリ。
  来るはずのない“試合の後”を約束して、彼女を自分のエゴに付き合わせたのだから。
  せめて、最期くらいは見取らなければ。
 
  白の試合が控えているので、勝手に観客席に出るのは無理だが。
  控え室から闘技場へと続く通路からなら、試合の様子を見ることはできる。
  よく知る少女が殺される様は、できることなら直視したくはないのだが。
  それでも、彼女のことをよく知る人間は僕一人なのだから。
  目を、逸らすつもりはなかった。

 

 ――アトリの相手は、彼女をここに移させたビビス公爵のお気に入りである。
  サド公爵のお気に入りだけあって、かなり加虐趣味に特化しているとのことだ。
  前回は、少年囚人を闘技場中央で犯しながら殺したそうだ。
  色物扱いされてはいるが、実力は折り紙付きで、中堅といっても差し支えない。
  最悪、アトリの公開死姦ショーを見せつけられるかもしれない。
  想像すると、胸の当たりがキリキリと痛んだ。
 
 
  さて。
  これ以上は考えるだけ無駄だろう。
  後はいつも通り、白の支度を整えるだけ。それが、僕の仕事である。
  白への挑戦者は、南棟の有望株らしい。今度こそは、と思う観客も少なからずいるとのこと。
  まあ、相手がどんなに強かろうとも、闘技場に赴く白は、きっといつも通りなのだろうが。
  相手に対して感情を欠片も抱かずに、作業のようにあっさり殺す。
  それが、囚人闘技場の王者、血塗れ竜である。
  今宵は一人の少女が死に、一人の竜が血にまみれる。それだけだ。
 
  まずは、白を起こしに行かなくては。
 
 
 
  今日も今日とて、囚人闘技場は盛況だった。
  白が出場する日は必ずといっていいほど満員御礼なのが常ではあるが、
  今日はそれに加え、ビビス公爵が大々的に宣伝した、異国の少女の初試合である。
  可憐な少女が、逃げ場のない闘技場で、戦いを強いられる。
  相手は残虐性に定評のある、変態囚人。
  何が起こるのかは、興奮しきった観衆には容易に想像できているのだろう。
  まだ試合の消化具合は半ばといったところだが。
  会場の熱気は、既に頂点近くまで、達していた。
 
 
  そして。
  司会の声が、響く。
 
 
『お待たせしました!
  それでは、本日の折り返しとして、ひとつ、奇矯な試合を御覧せしめます!』
 
  観衆全員の瞳が、期待に染まる。
 
『陵辱演出家 対 異色少女 
  皆様ご存じの大変態と、異国の美少女の、無制限勝負です!』
 
  司会が言い終わらないうちに。
  観衆が、興奮の怒号を上げた。
 
  う お お お お お お お お お ! ! !

 

 びりびりと、控え室の方にまで振動が伝わってきた。
「……大人気だなあ」
  思わず、ぽつりと呟いた。
「何が?」
  後頭部をこちらの胸に押しつけるように、白が顔を上げて訊ねてきた。
「いえ。別に」
「? そんなことより、ユウキ。……ん」
  首の角度を変え、こめかみを僕の肩に押しつけながら、目を閉じて心なし俯く白。
“撫でて欲しい”のポーズである。
  やれやれ、と溜息を吐いてから、王者の望むままに優しく撫でる。
  試合前に血塗れ竜の機嫌を損ねるわけにはいかないので、それはもう、心を込めて。
「んー」
  幸せそうに喉を鳴らし、両腕を僕の背中に回してくる。
 
  これは、東側の控え室ではよくあること。
  扉を固める監視員ですら、あまりに見慣れた光景なので、特に関心すら払わない。
  もともと白は、人目を気にすることなどないが、僕はといえばそうでもない。
  可憐な少女が、周りに人がいる状況なのに、僕の胸の中で無防備な姿を晒しているのだ。
  少々胸が高鳴ったところで、いったい誰が責められようか。
 
  ――と。
 
「出番だ、E4−934」
 
  係員に呼ばれ、一人の少女が腰を上げる。
  先程まで、隅の椅子に、ちょこんと腰を下ろしていた少女。
  今日の出場者で、白以外の唯一の東棟囚人だ。
 
  アトリ。
 
  この後、加虐趣味の変態に殺される少女。
  僕が、最期を見届けたいと思った少女。
  何故か――控え室にいる間、こちらに対して無反応を貫いた少女。
 
  彼女が、立ち上がりながら、口を開いた。

 

「――勝ったら、好きなものを貰えるの?」
 
  驚いた。
  アトリの口から紡ぎ出されたのは。
  紛う方なき、帝国の言葉だった。
 
  異国の少女の言葉に、係官は戸惑いを隠し切れぬまま、答えを返す。
「何でも、ということはない。限度は当然、あるぞ」
「わかってる。……でも、大丈夫」
 
  アトリが、こちらを見る。
 
「――約束、したから」
 
 
  そう言って、異国の少女は、控え室の外へ出た。
 
 
「……なに、あいつ?」
  自分が睨まれたと思ったのか、白がむーっと唸っている。
  そんな白の頭を優しく撫でて、
「すみませんが、白。少々席を外してもよろしいですか?」
「? ……あ、ユーキ――」
「すぐ戻ります」
 
  白に手を振って、僕も控え室を出た。
  歓声がびりびりと空気を震わせている。
  既に試合は始まったようだ。
  すぐに終わる可能性もある。急がなければ。
 
  やや駆け足で通路を進む。
  そして、闘技場の様子が見えるところまで辿り着いた。
  監視員に会釈して、試合の様子を確認しようと顔を向けて――
 
  ――そして、見た。
 
 
  陵辱演出家こと、ネオ・ホーンピースは、自らの身に何が起こったのか、しばらく理解できなかった。
  簡単で美味しい試合のはずだった。
  いつものように相手を殴り倒し、衆人環視の中で犯し尽くし、殺す。
  観衆や、自分を推薦した公爵の希望に添うように、様々な強姦プランを頭の中で練っていた。
  そして、それを実行に移すため、まずは一撃、少女を無力化させるために殴ろうとしたところで――
 
「――なんで、手が半分無くなってるんだ?」
 
  ぽつり、と。
  誰かに訊ねるかのように、疑問が口からこぼれていた。
  拳が半分、消失していた。
  赤い肉と、白い骨が露出している。
  断面は歪で、まるで、獣か何かに“囓りとられた”かのようだった。
  恐る恐る、前方の少女へ視線を移す。
 
  少女は、開始の位置から一歩下がった状態で。
  まっすぐ立って、こちらを見ていた。
  その口が。
  くちゃくちゃと。
“何か”を咀嚼しているように、見えた。
 
「う、う、うああああああああああああああああっ!!!」
 
  拳からギンギンに響く激痛を掻き消すかの如く。
  ネオは絶叫を上げながら、異国の少女に襲いかかった。
  自分の利点は長いリーチだ。安全地帯から素早い攻撃を繰り返すという戦闘スタイルである。
  絶叫しながら、幾度となく拳や足を振り回す。
  ネオの手は長いため、少女の攻撃が届くことはない。
  無我夢中に攻撃を繰り出し続け――ふと、ネオは疑問に思った。
 
  あれ?
  なんで、すぐ近くに、こいつがいるんだ?
 
  そう思った次の瞬間。
  まるで口づけをせがむように。
  少女の顔が近づいてきたかと思ったら。
 
  がり。
 
 
 
  前頭部を“喰われた”ネオ・ホーンピースが、そのまま地面に崩れ落ちた。
  ネオの手は半ばほどまで消失し、削れた肘関節が晒されている。
  闘技場すら揺るがしていた歓声は、いつの間にか全て消え去り、痛いくらいの静寂に包まれていた。
 
  誰が、この結果を予想しただろう。
  少女の惨殺劇となるはずだったこの試合、終わってみれば、結果は真逆。
  得も言われぬ悪寒に、観衆全員が苛まれているに違いない。
 
  白の戦いを見慣れている僕ですら。
  この決着は、想像の域を遙かに超えるものだった。
 
 
『……し、勝者、い、異色、少女……』
 
  司会の、半ば呆然とした声が響く。
  それを聞いたアトリは、踵を返して東側の入り口へ歩いてくる。
 
  たすたすたす、と砂地を踏むその足取りは。
  どこか、軽さを含んでいた。
  そして、アトリが入り口を通り、そのまま控え室への通路を歩いてきて。
 
 
  ――僕の目の前に、立った。
 
 
「勝ちました。
  これで、ユウキさんは、私の付き人になってくれるんですよね?」
  にっこりと。
  心の底から嬉しそうに、アトリは言った。
  僕は何も答えられない。
  そして。
 
 
「……なに、それ?」
 
 
  僕を追いかけてきていたのか。
  血塗れ竜が、そこにいた。

5

 闘技場と控え室を繋ぐ通路。
  試合に赴く囚人が、己の気を高ぶらせながら歩む道。
  生き残った囚人が、勝利の余韻に浸る道。
  それが、今は。
 
「貴女が王者の血塗れ竜ですか?
  はじめまして。アトリっていいます」
「お前なんか知らない。消えろ」
 
  二人の少女が、にらみ合っていた。
 
  アトリが白に向かって口だけ微笑み、
  白は僕の側に歩み寄る。
 
「貴女のことは、ユウキさんから“よく”聞いてますよ」
  頻繁に会っていることを強調するように。
  アトリが、僕と白を交互に見た。
「…………」
  白が、僕の顔を見上げてくる。
  ――いつなの? と、目が問いかけていた。
  暇なとき、少し話をしていただけ――と、口を開きかけて、それに上乗せするように。
 
 
「――鬱陶しい餓鬼ですって。ベタベタしてきて気持ち悪いそうですよ」
 
 
  何を言ってるんだこの娘は!?
  直ぐさま訂正するつもりだった。
  しかし、それより早く。
 
 
「ユウキはそんなこと言わない」
 
 
  アトリの嘘に対して。
  白はきっぱり言い返した。
  でも、その言葉には。不安や恐れが多分に含まれていて。
  アトリが、くすりと笑みをこぼした。

「まあ、信じる信じないは貴女の勝手ですけど。
  それじゃあ、今後ともよろしくお願いします」
「ユウキみたいな喋り方を止めろ」
「すいませんね。こちらの言葉にはまだ不慣れなものでして」
  嘘吐け。
  本当は、敬語から日常会話まで完璧にマスターしているくせに。
  おそらくは、白を挑発するためだろう。
  ……何故、アトリが白を挑発するのかはわからないが、兎に角このままぼんやりと
  眺めるわけにはいかない。
  囚人同士の私闘は厳罰だ。
  そうなる前に、何とかこの場を納めなければ。
 
「と、とにかく、白もアトリも、控え室に戻りましょう。
  アトリは試合が終わったばかりですし、白もこの後試合です。勝手な行動は――」
 
「――そうですね。
  血塗れ竜さんとユウキさんの最後の時間、別れの言葉でも交わし合っててください」
「言ってる意味がわからない」
「ユウキさんは、」
 
  まて。
  何を、言うつもりだ?
 
「明日から、私の付き人になるんですから」
 
「嘘」
「嘘じゃありませんよ。ユウキさんも、ちゃんと、約束してくれました」
「嘘だ!」
 
  白が声を張り上げる。
  彼女の叫び声なんて、初めて聞いた。
 
「ね、ユウキさん。約束してくれましたよね?」
  確かに……約束は、した。
  だが、言っちゃ悪いが――守る気なんて欠片もない約束だった。
  嘘つきの誹りを受ける覚悟で、明日にでも約束は反故にするつもりだった。
  アトリが――こんなタイミングで白の耳にさえ入れなければ、何事もなく終わるはずだったのだ。
  なのに。

「ユウキさんが約束を破るような人ではないことを、貴女は知ってますよね?」
  僕が何と言おうか迷っている隙に、アトリが更に追い打ちを。
  ――なかなかに、したたかな娘である。
  狙いがいまいち掴めないが、今、この場を支配しているのは間違いなくアトリだった。
「……だめ」
「貴女の意思は関係ありません。
  囚人と監視員。どちらの処遇が優先されるかは、考えずともわかるでしょう?」
「だめ!」
 
  駄目だ。
  このままアトリに喋らせ続けるわけにはいかない。
  でないと――きっと、よくないことになる。
  しかし、現実は非常なもので。
  僕が反論の言葉を発する前に、アトリは告げた。
 
 
「貴女は、ユウキさんに見捨てられたんですよ」
 
 
「だまれッ!!!」
 
  叫ぶと同時。
  白は目にもとまらぬ速さで、僕の制服の内ポケットに手を差し入れ。
  ひゅ、と。
  一挙動で、万年筆を投擲していた。
 
  狙いはアトリの喉。
  鋭い先端は、そのまま少女の喉を貫く――かに見えたが。
 
 
  がきり。
 
 
  硬い音が響き、万年筆は砕けて落ちた。
  ――歯で受けたのか。
  投擲の勢いと咬合力で、硬いはずの万年筆は、無惨にも粉々に砕けている。
  両者共に並ではない。もし、この二人が本気で殺し合った場合、果たして止めることはできるのだろうか。

「危ないですね。
  あんまり速くなかったとはいえ、もし刺さったらどうするつもりだったんですか?
  囚人同士の私闘は厳罰と聞いていますが」
「うるさい」
 
  苦手な投擲より、直接“手を伸ばす”方が有効だと思ったのか。
  白はそのまま、アトリに向かって歩を進め――
 
 
「――止めなさい!」
 
 
  声を張り上げ、僕は二人の間に割って入った。
  これ以上は駄目だ。
  白が触れたら全てが終わる。
  アトリは、白の強さを知らない。
  だからきっと、こんな暴挙に出ているのだ。
  それに白も、アトリの言葉で頭に血が上っているだけだ。誤解を解けば、すぐに落ち着くと思う。
 
 
「ユウキさん。貴方も言ってやってくださ――」
「黙りなさいアトリ。それ以上喋るようならこちらにも考えがあります。
  白。殺し合うのは闘技場の中でだけです。それ以外は絶対に許しません」
「…………」
「……わかった」
  強い口調で、いったん二人を黙らせる。
 
  さて。
  まずは、一番最初に言わなければならないことを。
 
 
「――私は、囚人闘技場王者の付き人です。
  これは王者が望んでいることでもあり、私も外れたくはありません」
 
  僕は、白の付き人である。
  褒められるだけで、可愛らしい微笑みを見せてくれる血塗れ竜。
  僕はこの娘を見捨てる気なんて毛頭無い。
 
「ですから、アトリとの約束は破棄します。
  話し相手としてならともかく、それ以上アトリと関わる気はありません」
 
  きっぱりと、そう告げる。
  ぎゅ、と。白が腰に抱きついてきた。
  ぐいぐいと、おでこを胸に押しつけてくる。
  安心したのか、先程までの殺気は消え失せ、いつもの甘え竜に戻っていた。
 
「……今じゃ、コレが限界かな……?」
 
  ぽつり、と。
  アトリが何やら呟いたようだが、僕にはよく聞こえなかった。

「ごめんなさーい。囚人番号E4−934、心より反省してまーす」
  先程までの真面目な口調は何処へやら。
  そっぽを向いて、ふて腐れた声を上げる。
  一体何がしたかったのか。
 
 
  ――と。
 
 
  控え室の方から、慌ただしい足音が響いてきた。
  振り返ると、数名の監視員と、甲冑を着込んだ兵士がこちらに駆け寄ってきていた。
 
「いたぞ!」
「E4−934! 直ちに我らと同行してもらう!」
 
  先程の試合を見ていたのか。
  やや及び腰で、アトリへと近づいていく。
 
「何? 貴方達?」
「いいから来い! ビビス様の命令だ!」
 

 

 ――ビビス。
  アトリをこの監獄に連れてきた公爵である。
  貴族内での発言力もそれなりで、中央の兵士もそれなりに動かせる立場の人間である。
 
「……アトリが予想以上に強かったから、か」
 
  虐殺の見せ物として連れてきたはずが、逆に相手を惨殺してしまった。
  そんな少女を、ビビス公爵はどうするつもりなのだろうか。
 
「……別に、鉄でも噛み千切れるけど」
 
  ぽつり、と。
  アトリが怖いことを呟いた。
  露骨に後退りする兵士たち。
  これじゃあ、連れて行くのは一苦労かな、と思ったが。
 
 
「素直に従いなさい、E4−934。
  ビビス公爵は、貴女を闘技場登録者として支援するようです。
  ここで無駄に暴れてみせても、損するだけでしょう」
 
 
  凛とした声が響いた。
  兵士たちの合間を縫って。
 
“銀の甲冑”が前に出た。
 
「…………」
  白が唇をへの字に曲げてそっぽを向く。
  血塗れ竜にとっては嫌な相手が来たようだ。
 

 アトリが、銀の甲冑を見つめていた。
  自分に対して怯えきっていた兵士とは違うことを悟ったのだろう。
  どう行動するのが得策か考え込んでいる模様。
 
「……はーい。わっかりましたー」
 
  溜息を吐いた後。
  両手を、銀の甲冑に向けて差し出した。
 
「手錠はかけません。そのまま付いてきてくれて結構です」
「……気前がいいんだね?」
「私がいますから」
「貴方、男? 女? 声だけじゃいまいちよくわからないんだけど」
「性別は関係ありません。行きますよ」
 
  そう言って、銀の甲冑は背を向ける。
  その背中に、一瞬アトリは目を光らせたが。
 
  ――隙が全く見当たらないのに気付いたようで、そのまま諦めて歩き始めた。
 
 
「あ、ユウキさん」
  ふと。顔はこちらに向けずに、アトリが問いかけてきた。
「――私が王者になったら、付き人になってくれますか?」
 
  答える前に。
  白の腕に力がこもった。
  腰に柔らかい感触が押しつけられる。
  結局、タイミングを逃してしまい、そのままアトリたちを見送ることになった。
 
 
  このとき。
  白の唇は僕の制服に押し当てられていて気づけなかったが。
  彼女は、小さな声で呟いていた。
 
「もっと殺すから。
  いっぱい殺すから。
  がんばって殺すから。
  ぜんぶぜんぶ殺すから。
 
  ――だから、一緒にいて」

6

 ――連れてこられたのは、東棟の端の部屋。
  囚人部屋のように殺風景な部屋ではなく、広々として豪奢な意匠の部屋だった。
  来賓者をもてなすための場所だろう。
  そしておそらくは――東棟の特産物を使って、“もてなす”ための場所。
  気を遣って消臭しているのだろうが、私の鋭敏な嗅覚は、饐えたニオイを嗅ぎ取ってしまう。
  さて。
  こんな所に呼び出したくせに。
  呼び出した本人の姿は、見当たらなかった。
 
「ビビス様はまもなく到着します。失礼の無いよう座っていなさい」
 
“銀の甲冑”が、部屋の中央の椅子を指した。
  そこに背筋を伸ばして座っていろ、ということか。
  素直に言われたことを聞くのは、何故だか妙に癪に障るが、ここで暴れても得はない。
  渋々と、豪華な椅子に腰掛ける。
  扉を背にする形なので少々落ち着かないが、まあ話の流れ的に、
  扉から突然襲撃者が現れるということもないと思うので、そのままぼんやり待つことにした。
 
 
  思い起こすのは、先程のやりとり。
  血塗れ竜が、こちらに向けていた、あの目。
  一つの意思が明確に込められた、ある意味純粋な瞳だった。
 
  ――ユウキに近づくな。
 
  笑いたくなってしまう。
  王者の滑稽さにではない。
  その願いは、むしろ自分のものだということに。

 

 控え室での、あの光景は、腑が煮えくり返るのに充分だった。
  ユウキさんの足の間に腰を下ろし、ごろごろごろごろ発情期の雌猫のように擦り寄るあの様。
  10秒に一回は己の体を彼に擦り付け、あまつさえ幾度と無く頭を撫でられているではないか。
  あんなに優しそうに、柔らかく。
  髪を撫でられている間の血塗れ竜はまさに至福といった様子で、羨ましさに奥歯が砕けそうだった。
  王者は特別待遇だとは聞いていたが、特別すぎて殺意すら覚えた。
 
  しかし。
 
  自分が王者になることができたら、アレをそのままそっくりいただけるのだ。
  ユウキさんの胸の中に収まって、頭を撫でられる自分を空想する。
 
  …………えへ。
 
  おっといけない。涎を垂らしてしまった。
  感触を想像するだけで、ごはん三杯はいける。
  最初は、話の通じる暇つぶし相手――ってだけだったのに。
  日を重ねる毎に、彼の人となりは、私の琴線に幾度となく触れてしまった。
  現状に絶望しているのに、優しさを捨て切れていないところとか。
  どんな相手でも、素直に応対してくれるところとか。
  頭はいいのに、隠し事が下手なところとか。
  気付いたときには、既に好きになっていた。
 
  彼と一緒にいたい。
  彼に甘えてみたい。
  彼と触れ合いたい。
  そして何より。
  彼を、手に入れたい。
 
  そのためにはどうすればいいか、考えた。
  結論は――至ってシンプル。
  私が、血塗れ竜になればいい。
  今の王者が居座る場所こそが、私の求めているモノなのだから。

 

 

 

「――変な顔をするのを止めなさい。
  ビビス公爵がもうじき来ますよ」
 
  銀の甲冑の声で、我に返る。
  思索に耽りすぎて、だらしない顔を晒していたらしい。
  慌てて表情を引き締めて、呼び出し主の到着を静かに待つ。
 
  ビビス公爵。
  私を、ここに連れてきた人。
  目論見が外れて私が勝ってしまい、さぞかし腹を立てていることだろう。
  呼び出した目的は何だろうか。
  こんな場所に呼び出すということは、私のことを犯すつもりなのだろうか。
  ――否。あの中年親父は不能である。
  私が最初にあいつの城に連れられたとき、それなりに整った容貌の私を前にしても、
  欠片も色めいた視線を寄越さなかった。
  後で話に聞いたところ、ビビス公爵は性的に不能で、代わりに人間が殺し合うところを
  見るのが大好きらしい。
  故に、帝都の闘技場にちょくちょく己の領地の囚人を送り込み、殺される様を見て興奮するとのこと。
 
  ……闘技場の囚人じゃ無理だから、兵士に殺させるつもりだろうか?
 
  しかし、私としては、囚人も兵士も大差ない。
  この国に来てから、私のことを殺せそうな奴といったら――せいぜい血塗れ竜くらいしか目にしてない。
  今この部屋で待機している兵士連中も、束になったところで驚異にすらならない。
  ただ――私のすぐ側にいる、銀の甲冑。
  こいつだけは、わからない。
  強いとは、思う。少なくとも弱くはないはずだ。
  しかし、実力を計れない。
  大抵の相手なら、噛み殺す様子を鮮明に想像できる。
  それはあの血塗れ竜ですら変わらない。奴の喉笛を食い千切るプランは少ないが立てられる。
  それが、この銀色だけは不可能だ。
  私がこいつに勝てる状況が想像できない。殺される気はしないが、勝てるかどうかもわからない。
  この、銀の甲冑だけが、不安要素だった。
 
 
  ――と。
  背後の扉が、開く気配。
「来ているな。まったく、よくも私の顔を潰してくれたものだ」
  聞き覚えのある、ビビス公爵の声。
  しかし、その声は――内容とは裏腹に、嬉しくて飛び跳ねているかのようだった。

 

 

 

 趣味の悪い高級そうな服を纏った中年親父が、正面の豪奢なソファーに腰を下ろす。
  ふん、と鼻息を吹いた後、私のことを見下ろすような表情で、
「まずは、私の顔を潰した罰だ。――セツノ」
「はい」
  刹那。
 
  がつん、と。
  横っ面を強打された。
 
「――ッ!? あぎっ!」
  あっさりと吹っ飛ばされて、10足以上離れた壁にぶち当たる。
  何よ今のは!?
  私は少なからず警戒していた。
  なのに、当たる直前まで、攻撃を全く察知できなかった。
  銀の甲冑がすぐに近くにいたから、気を付けていたはずなのに。
  とにかく――まずは立ち上がって、体勢を整えなければ。
 
「……あ、れ……?」
 
  ぐわんぐわん、と視界が揺れていた。
  脳がぐちゃぐちゃにかき回されている。やばい。このままじゃ戦えない。
  揺れる視界で、必死に対象を探し出す。
  ――いた。
  私が座っていた椅子の真横に、黒装束の女が立っていた。
  あいつに、殴られたのか。
  私の五感は常人のそれを上回る――が、それでも感知できなかった。
 
「安心しろ。罰はこれで終わりだ。――戻れ、セツノ」
「はい」
  中年親父の声が響くと同時、黒装束の女の姿は、かき消えた。
  衝撃でくらくらしていることを差し引いても、女の動きは私には捉えられないものだった。
 
「さて。異国の女よ。まずは名前を聞こうか。
  私の領地にいた頃では、結局聞けず終いだったからな」
  言葉が通じなかったのだから当たり前だ――と、言おうとしたが。
  ぐるぐる回る視界が気持ち悪く、うまく言葉を紡げなかった。
「彼女の名前はアトリです、公爵」
  銀の甲冑が口を開く。……何故知ってる? 私の名前は、先程までユウキさんしか
  知らなかったはずなのに。

 

 

「そうか。では、アトリよ。
  お前にはこれから、闘技場で活躍してもらう」
「……は?」
「私のお気に入りを喰い殺してくれたのだ。
  ――お前が、代わりを務めるのが筋だろう?」
  にやにやと脂ぎった笑みを晒しながら、中年親父はそう言った。
  全然筋ではない気もするが、闘技場で戦うことに異論はない。
「しかし……今の様子を見ると、それほど期待はできなさそうだがな」
  いきなり殴らせておいて、なんて言い草だろう。
  とはいえ、逆らってもいいことはなさそうなので、代わりに口の中のものを吐き出した。
 
  からん、と。
  手甲の一部が床に転がる。
 
「何だそれは? ……!? セツノ! 右手を見せてみろ!」
「……はい」
  再び、黒装束が表れた。その表情には、悔しげなものが滲んでいる。
  黒装束――セツノとやらの手をしげしげと眺めた後、中年親父は満足そうな笑みを浮かべた。

「それではアトリよ。これからお前の生活は、私が保証しよう。
  勝ち続ける限り、お前の望みのもそれなりに配慮しよう。
  好きなものをくれてやる。だから代わりに――相手を喰い殺せ。いいな?」
  中年親父の目には、ギラギラとした興奮の炎が燃えていた。
  ……なるほど。先程の私の戦いが、こいつの琴線に触れてしまったらしい。
「……別にいいけど」
  まあ、食事の量を増やしてもらえれば充分だけど。
「ただ、な」
「?」
「私は、お前がどの程度強いのかよくわからん。
  中堅どころを倒したといっても、まぐれだったのなら期待はずれだ。
  どうせなら、今の王者に近づいて欲しい」
  ……王者、ねえ。
  可笑しくて、つい笑いそうになった。
  わたしは――それになるつもりなのに。

 

「だから、お前の強さを見せてみろ。
  ちょうどいいところに、化物姉妹が手に入ったところだ。
  ――お前にはこの、セツノと戦ってもらう」
 
  姉妹?
  ということは、もう一人……?
 
「姉のユメカは、現王者の血塗れ竜と戦うことが決まっている。
  今宵、血塗れ竜が負ければ話は流れるが――そうはなるまい」
 
  へえ。
  それじゃあ、つまり。
 
「私と血塗れ竜の、戦いぶりを、比べたい、と?」
「そういうことだ。まあ、セツノもユメカも、私が見る限りでは、良い勝負をすると思うがな。
  ――そういうことだ、セツノ。
  お前かユメカ、どちらかが勝った場合は、お前の村の要望を聞き入れよう」
「はい」
 
  頷いたセツノの視線は……まっすぐ、私を射抜いていた。
  うわあ。今から殺す気満々だねえ。さっきの血塗れ竜を思い出しちゃうよ。
  事情はよくわからないけど――この状況、利用しない手はないだろう。
  向こうが条件を出してきているのだから、こちらが出しても受け入れられる可能性は高い。
 
 
「その代わり、こっちも条件を一つだけ。
  私がそこの黒いのを食べたら――ひとり、ある監視員を私の所に通わせて欲しい」
 
 
「なんだ、そんなことか。
  構わんぞ。お前が勝ったら、その監視員とやらをお前専属にしてやろう」
 
  今度こそ。
  笑いを堪えきれなかった。

7

 殺してやりたい。
  殺してやりたい。
  殺してやりたい。
  殺してやりたい。
 
  でも、ユウキが駄目って言った。
 
  だから私は我慢する。ユウキに嫌われたくないから。
  それに、ユウキは私と一緒にいてくれる。
  あんなむかつく女のことなんて、ユウキが頭を撫でてくれれば、すぐに忘れられる。
  忘れられる。
  ……はずなのに。
 
 
  ――私が王者になったら、付き人になってくれますか?
 
 
  ユウキは私の付き人だ。私と一緒にいてくれるんだ。
  じゃないとやだ。ユウキが私以外の人の頭を撫でるなんて許せない。
  もっと頑張らなきゃ。
  頑張れば、ユウキは褒めてくれる。
  はじめてここで戦った後も、ユウキは私のことを褒めてくれた。
  あのときの心地よさは、私の全てを壊してしまった。
  ユウキが私のことを起こしてくれる。
  ユウキが私の食事を手伝ってくれる。
  ユウキが私に笑顔を向けてくれる。
  ユウキが私の頭を撫でてくれる、
  ユウキがユウキがユウキがユウキがユウキがユウキが――
 
  ユウキが、私のぜんぶ。
 
  だから、ユウキがいなくならないように。
  いっしょうけんめい、殺さなきゃ。
 
 
「――白。そろそろ出番ですよ」
「うん。いってくる」
 
 
  だから、頑張った私の頭を撫でてね、ユウキ。
 
 

 

 

 今日の相手は、小柄な男だった。
  今まで色んな相手を殺してきたが、男で私と同じくらいの体格の奴は初めてだ。
  名前は、ディジー・アランチャンというらしい。
  二つ名は“手品師”。
  会場入りしてからの、体の動きを見る限り、スピードや技術で攻撃してくるタイプだろう。
  司会のよくわからない口上が長々と続き、ついつい眠りそうになってしまう。
  でも、以前居眠りしたらユウキに怒られてしまったので、何とか寝ないように目を凝らす。
  相手は、睨まれていると思ったのか、変な顔でにらみ返してきた。
  ……なんでこんな奴と睨めっこしなければならないのか。
  ユウキの顔を見たい。
  試合を早く終わらせなければ。
 
  ようやく、試合が始まった。
  いつもの通り、相手に近づく。
  ……しかし。
 
『おっと! 手品師、いきなり距離を取ったーっ!』
 
  司会の声が響く。
  試合が始まってすぐに、ディジーって人は後ろに跳んでいた。
  その様子を見て、少し立ち止まり用心する。
 
  別に、試合が始まってすぐに距離を取るのはよくあることだ。
  そんなことでいちいち警戒したりはしない。
  ――だけど、この人は、少しばかり策を弄してきた。
 
  ただの力任せな人はとても楽なのだが。
  変則的な人は、少し手こずるから嫌い。
  早くユウキのところに帰りたいのに……。
  こいつ、むかつく。
  むかつく。
  ……でも。
  いちばんむかつくのは、やっぱりあの女。

 

 

 なんで、あんな奴が、ユウキと仲良さそうに話していたんだろう。
  ユウキはわたしのなのに。
  話し相手なら、私がいくらでもなってあげるのに。
  難しい話は苦手だけど、ユウキの話なら聞いても眠くならないから大丈夫。
  私は、ユウキのためなら何でもできる。
  ユウキが褒めてくれるなら、皇帝陛下だって殺してみせる。
  だから、ユウキ。
  私だけを、見て。
 
 
  相手は、距離を取りつつ私の周りをぐるぐると回っている。
  そのリズムは独特で、じっと見ていると目眩がする。
  右足と左足の速さを、交互に変えながら歩いている。
  その変化の仕方は一定ではなく、一歩一歩で進む距離も速度も違うため、
  注視すればするほど疲れてしまう。
  相手を幻惑させて、疲れたところで仕留める戦法――と、普通の人なら思うのだろう。
 
  違う。
 
  歩く速度を独特にして、相手に足を注目させて。
  その後ろで、手に砂を握っている。
  掴んだのは、最初、派手に後ろに跳んだときだろうか。
  それに気付かせないための、変な歩き方。
  別の部分に相手の注意を向けて、その隙に他のことを仕込む、か。
 
  確かに、手品師だ。普通の人なら、引っかかっていたかもしれない。
  だけど――私は、そういうのには引っかからない。
  全部、わかってしまうから。
 
  相手の動きが、全部。
 
  それが、私の強さの秘密。
  本当は秘密でも何でもないが、ユウキが秘密にしておけって言ってるから、秘密。
 

 

 相手が、独特なリズムで飛びかかってきた。
  先程までの回っていたときとは、別の動きで。
  でも、それにも惑わされない。
  手足の動きだけではなく、肩やお腹、股間の動きなどを観察していれば。
  相手がどう動くのかなんて、すぐにわかる。
 
  振り回すような、右手の一撃。
  それと同時に、左手で砂を投げる準備。
  しゃがんで避けたら、顔に砂を浴びせられる。
  ざらざらするのは嫌いだから、そのまま、向かってきた腕に手を伸ばす。
 
  ぶち。
 
  向かってくる動きを微妙に逸らし、その後一気に力を込める。
  それだけで、相手の腕は千切れ飛んだ。
  力の流れさえ掴めていれば、こんなこと、難しいことでも何でもない。
 
  ああ、この人も。
  千切れちゃった自分の腕を見て、呆然としてる。
 
  ――あの女にも、こんな表情をさせてみたい。
 
  さっきも、そうしようと思ったのに。
  ユウキに止められてしまった。
  ずるい。ユウキに止められたら、私は何もできなくなる。
 
  止められなかったら、私は確実にあの女を殺していた。
  ユウキはそれを止めたのだ。
  あの女が殺されないように。傷つかないように。
 
  私は怪我したことなんてないが。
  もし、試合で怪我したりしたら、ユウキは私のことをもっと構ってくれるのだろうか。
  もし、私が危なくなったら、あんな風に、ユウキは守ってくれるのだろうか。
 
 

 

 
  そんなことを考えていたら。
 
「あああああああああああああああああああっっっ!!!」
 
  ごきり、と。
 
  右腕を、蹴られていた。
  破れかぶれで放たれた一撃。
  それが、運悪く、肘の脆い部分に、嫌な角度で入っていた。
 
  激痛と共に。
  右腕が、動かなくなった。
 
  痛い。
  でも、それだけだ。
  右腕が動かなくても、左腕が動くから、充分。
  こんな痛みより。
 
  負けて、ユウキを失うことの方が、きっと痛い。
 
  続けざまに放たれた左拳を、前に出て受け、そのまま押し込み肩を破壊。
  ついでに捻って、力を込める。
  肩から先が、ぶちりと千切れた。
  そのまま、こちらの左手に残った相手の左手で、腹や顎を何度も殴る。
  意識がなくなったのを確認してから――眼窩に指を突っ込んで、そのまま首を真後ろにへし折った。
  相手の口から、鮮血が吹かれる。
  それを浴びながら、私は勝利の宣言を聞いた。
 
  今日も、勝った。
  ユウキに、褒めてもらえる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  布団の中。
  心地よい暖かさが、隣にある。
 
 
  ――怪我をして控え室に戻ったとき。
  ユウキは、凄く驚いた。
  通路であの女と話したことなんて、頭の中から吹っ飛んだようで、とにかく私を気にかけてくれた。
  頭を何度も撫でてくれて、食事もユウキが直接口に運んでくれた。
  凄く嬉しかった。
  だから、少しわがままを言ってみた。
 
「一緒に寝たい」と
 
  最初は渋っていたユウキだったが、左手で服の裾を握りしめ、じっと見つめたら、了承してくれた。
  今は、ユウキが、隣で寝ている。
  ユウキは優しい。きっと、怪我した私を気遣ってくれたのだ。
 
 
  ――貴女は、ユウキさんに見捨てられたんですよ。
 
 
  ユウキが私のことを捨てるはず、ない。
  私が王者である限り、ユウキはずっと側にいてくれる。
  あんな女のところには、行かない。
  でも……。
  私が、王者じゃなかったら。
  ユウキは、優しく、してくれないのかな?
 
 
  ――私は、囚人闘技場王者の付き人です。
 
 
  怖いことを考えてしまい、一気に体が冷たくなった。
  暖かさを求めて、ユウキの腕にしがみつく。
  ユウキの腕、あったかい。
  この熱を分けてもらおうと、体をユウキに押しつけた。
 
 
 
 
 
 
  ユウキに頭を撫でられたり、ユウキにくっついたりしたときは、とても気持ちいいのだから。
  一緒に眠ることができれば、きっと、凄く気持ちよく眠れるはずだと思っていた。
 
  でも、何かおかしかった。
 
  ユウキが側にいて、凄く嬉しい。
  血流も良くなって、全身が温かい。
  ポカポカした、いい気持ちなのは間違いない。
 
  でも、眠れそうにない。
 
  何故だろう。
  胸の内側が別の生き物のように暴れ回っている。
  お腹の奥が熱くなり、同時にとても切なくなった。
  いつの間にか、息が荒れていた。湿り気を帯びて、はあはあと音を立てて呼吸している。
  熱い。熱い。体が熱い。
  我慢できなくて、身をよじった。
 
  瞬間。
 
  ユウキの腕が、足と足の間に擦りつけられ。
  全身に、電流が走った。
 
「――ッ!!?」
 
  びくん、と痙攣してしまう。
  今のは何なのだろうか。痛くもなければ苦しくもない。
  ただ、純粋に、凄かった。
  嫌なものではない。むしろ、とてもいいものだった。
  わからない。わからないけど、もう一度、同じことをしてみた。

 

 ユウキの腕を足で挟む。
  そしてそのまま腰を動かし擦りつける。
 
「ふあっ!? ……んふうっ!」
 
  思わず大きい声が出てしまい、慌ててシーツにかじりつく。
  大きい声を出してしまったら、ユウキが起きてしまう。
  ユウキはぐっすり眠っているのだ。それを起こしてしまったら気分を害してしまうに違いない。
 
  だから、これは、こっそりやらなければ。
 
  胸を締め上げられるような切なさと、火を噴きそうな熱さが、思考をどんどん奪っていく。
  腰をくいくいと動かして、ユウキの手首に、股間の熱い部分を擦りつける。
  あまりの熱さに汗をかいたか、下着がぬちゃぬちゃと濡れていた。
  声を抑えて、だけど動きは緩めずに、ひたすら腰を動かし続けた。
  そして。
 
「――ふぁぅっっっ!!!?」
 
  稲妻でも落ちたかのように。
  思考は真っ白に染まり、何も考えられなくなる。
 
  その後は、よく覚えてない。
  ただ、ぐっすり眠れたのは間違いなかった。

8

「ほら、ここはアンタのおごりだ。好きなの頼め」
「そうですか――って、あれ?」
  何かおかしくないか? と思った直後には、言い出しっぺが果実酒を頼んでいた。
「あー。それじゃあ、エールをお願いします」
  駆けつけ一杯。
  これからする話は、あくまで酒の席で出てしまった話。
  そう言われたからには、まず何かしら飲まなければ。
「なにションベンなんか頼んでるんだよ。
  あー、マスター。この店で一番強いやつ頼むわ」
「ちょ、自分は果実酒のくせに何言ってるんですか!?」
「うるせえよユウキ。とにかく飲め。いいから飲め。
  ――でないと、真面目な話を始められん」
 
  真面目な話なのにお酒を入れるのはどうかと思うが。
  まあ、それがこの人の流儀なのだから仕方がない。
 
「でも、ひとつだけいいですか?」
「あん? 何だよ」
 
「なんで、ゲイバーで真面目な話をしなくちゃいけないんですか!?」
 
 
  ――ゲイバー“ナインテイル”。
  帝都中央南部に位置するこの店は、今日も今日とて出会いを求めた同性愛者が集っていた。
 
 
「いや、だってここ、アタシの行きつけだし」
  届いた果実酒をぐい、と軽くあおってから、あっけらかんと言い放つ。
「ノーマルの僕が来ちゃ他の人に失礼な気もしますが……」
  こちらはロックをちびりと含む。うへえ、キくなあ……。
「いーんだよいーんだよ。
  だってお前、後ろは開通済みだしな」
 
  吹いた。
  ああ、お店の人、ごめんなさい。

「あらあら、ユウキさん、経験済みだったんだ。
  悔しいなあ。私がはじめてを貰いたかったんだけど」
「残念だったなマスター。こいつの尻はアタシが掘削済みだ」
「ちょ、大声で何言ってるんですか貴方は!」
「えー。でもお前の尻掘ったのは本当じゃん」
「思い出させないでください」
  グラスを一気に傾ける。かあっと顔が熱くなるが気にしない。っていうかやってられない。
 
「しっかし、帝都でも噂の美青年、ユウキ・メイラーの初めての相手が、まさか“銀の甲冑”とはねえ」
 
  ああああああああ。
  噂にならなければいいけど……。
 
「なに、しけたツラしてんだよ。
  アタシ行きつけの店なんだから、そうおしゃべりなマスターでもねえよ」
「うんうん。信用してくださいな」
 
  いや、僕は貴女の心配をですね……。
 
  って、いちいち心配する必要もないか。
  僕の先輩で、今は帝都近衛隊の隊長を務める、“銀の甲冑”ことアマツ・コミナトは、
  多少変な噂が流れたところで、その名声が曇ることなんて有り得ないだろうし。
 
  見目麗しき美女としか言い様のないこのお方。
  甲冑を着込んでいるときは、冷静沈着な近衛騎士なのに。
  ひとたび鎧を脱いでしまえば、たちまちエロ中年親父風美女になってしまうから驚きだ。
  ちなみに趣味はゲイバー通い。
  アマツさんは男性ではないが、とある事情から、ゲイバー側も拒否することはない。
 
 
  まあそれはそれとして。
 
 
「それで……いきなり仕事上がりに引っ張ってきて、用件は何なんですか?」
「ああ、それなんだがな。ちと、お前の耳に入れておきたいことがあるんだ」
 
 
 
 
 
「“怪物姉妹”、ですか?」
「ああ。姉が血塗れ竜と、妹が異色少女と、それぞれ戦うことが決まった」
「はあ。……でも、それをどうして僕に?」
  僕は白の付き人だが、対戦相手が誰であろうと大して気にならなかったりする。
  何故なら、白は、誰にも負けないだろうから。
  彼女の強さは――僕が一番、知っている。
「その姉妹なんだがな。ちと出所がよろしくないんだ。
  お前、ビビス領の、イナヴァ村って聞いたことあるか?」
「……イナヴァ? ――って、“あの”イナヴァですか!?」
 
「ああ。50年ほど前まで戦闘諜報員の名産地だった、イナヴァ村だ」
 
「でも、あの村は……もう、潰れてたはずですよね?」
「謀反の疑いを引っかけられてな。
  まあ、戦争が終わって久しいんだから、それくらいは仕方ない。
  問題は、村人は細々と生き残っていて、今でも怪物作りに余念がなかったってことだ」
「…………」
  ごくり、と唾を飲み込んだ。
「で、半年前にビビス公爵が生き残りを発見して、秘密裏に潰すことになってたらしいんだが。
  ――そこで、イナヴァ村の連中、ある取引を持ちかけたそうだ」
「取引……?」
 
『自分たちはまだまだ使える。
  この姉妹で、確かめて欲しい』
 
「だってさ。ビビス公爵のサドっ気を刺激した、いい取引だと思うぜ」
「……それは……あの方なら、断らないでしょうね……」
「で、ビビス公爵が出した条件が、最強の囚人、血塗れ竜に勝つことだそうだ。
  妹の方の相手は未定だったんだが、先日丁度いいのが現れたから、ぶつけてみることになった、と」
「なるほど……」
 
  村の存亡を賭けての試合、か。
  それは、きっと死に物狂いで挑むだろう。
 
 
「で、だ。連中としては、血塗れ竜には絶対に勝ちたい。
  しかし、その強さは嫌というほどわかってるだろう。
  だから――勝率を上げる努力をしてくる可能性が高い」
「努力?」
  首を傾げつつも、おぼろげながら、ピンときた。
 
「血塗れ竜の弱点探し、だよ。
  都合の良いことに、王者のことをよく知る付き人がいるしな」
 
「だから、気を付けろ、と?」
  確かに、僕は白の強いところも弱いところも知っている。
  そう簡単に漏らす気はないが、油断はできない。
「ああ。でもまあ、流石に王者の付き人を拷問にかけるだとか、そこまではしないだろうが――」
  と。
  アマツさんはそこで何故か、一息区切って。
 
 
「――連中、ベッドの上も達者らしいぞ。
  諜報員として、かなり仕込まれてるみたいだ」
 
 
「……はい?」
「だ、か、ら、夜の拷問だよ。ベッドの上で色々吐かせるのとかが、とんでもなく上手いらしい」
  情報とか溜まってるのとかな、と。
  エロ中年親父風美女は、ニヤニヤ笑ってのたまった。
 
  ……真面目に聞いて損した気分だ。
  でもまあ、用心に越したことはないだろう。
  手段はどんなものでも、それが白の不利益になるのであれば、絶対に避けないと。
  ただでさえ、白は右腕を負傷しているのだ。
  あの白が負けるとは思えないが――大怪我してしまうかもしれない。
 
「教えてくれてありがとうございます。
  お礼に、アマツさんの分も僕が払いますよ」
「へ? 最初からそう決まってたじゃないか」
「……まあ、いいですけど」
 
 
 
 
 
 
 
 
  外は、すっかり暗くなっていた。
 
  ――少し飲み過ぎた。
  足下がおぼつかない。
  アマツさんは、あれからいくらか飲んだ後、本当に僕払いにして、そのままさっさと帰ってしまった。
  怪物姉妹の名を聞き忘れたが、とりあえず身辺に気を付けていれば充分だろう。
 
「うー。ぐらぐらする……」
 
  しばらく夜風に当たって頭を冷やすかな。
  どこか一休みするのに良い場所はなかろうか、ときょろきょろ周囲を見回していたら。
 
  ふと。
  一人の女性が、目に付いた。
 
  髪は腰まで伸びた純粋な漆黒。
  流れるようなその美しさに、思わず息を呑んで立ち止まる。
  服も黒く、合間に見える白い肌が艶めかしい。
  高めの身長。きっと、背伸びすれば僕と同じくらいになるだろう。
 
  長身の黒髪美女が、夜の街に、一人佇んでいた。
 
  その表情は、どこか不安げなもので。
  垂れ目気味の穏やかな目元を、心許なそうに歪めている。
 
  何か困っているのかな、と。
  お酒で少々気分の良くなっていた僕は、ひょこひょこ近づき、気軽に声をかけていた。
 
「あの、何かお困りですか?」
「――っ!? わ、わたしは、お小遣いなんて持ってませんよ!」
「……はい?」
 
  …………。
  変な人に、声をかけてしまったのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
「本当にすみません!
  せっかく親切心で声をかけて頂いたのに、私ったら、追い剥ぎさんと勘違いしちゃうだなんて」
「気にしなくていいですよ。
  よくあ――ることではないと思いますが、まあ、不慣れな場所では仕方ないでしょう」
「……そう言って頂けると、助かります……」
 
  女性が、ションボリと頭を下げる。
  顔や佇まいはとても大人びているのに、出てくる言葉は子供っぽい、不思議な人だった。
  最近、帝都にやってきたらしく、入り組んだ南部の街並みに吸い込まれて、
  見事迷子と相成ったそうである。
  ……僕より年上に見えるんだけどなあ。
 
「宿は、中央西部の“オックス”でいいんですよね?」
「はい。セっちゃんが確かに、そう言ってました」
「妹さんとは、どのあたりではぐれたんですか?」
「えっと……んっと……店がですね、こうずらーっと並んでて、猫さんがニャーと鳴いていたところで」
「……迷ってないといいですね、妹さん」
「大丈夫ですよー。セっちゃん、私なんかと違って、
  迷子になったことなんて一度もないんですから。
  私は、3日に一回は迷っちゃいますけど」
「そうですか……」
  なんというか、見た目は随分美人なのに、中身は妙にアレである。
  酔った頭では上手く形容できないが――まあ、アレだ。
 
 
  そのまましばらく。
  夜道を二人で歩きながら、どうでもいい世間話を適当に繋げていた。
  しかし、見れば見るほど美人である。
  こんな人の隣を歩けるなんて、今宵の自分は運が良い。
  酒の席に誘ってくれたアマツさんに感謝せねば。
  先程から話に何度も出てくる妹――セっちゃんとやらも、姉がこれなら十二分に美人だろう。
  美人姉妹、か。世の中には色々な人がいたもんだ。
 
 
 
 
  やがて、彼女が泊まっている宿に辿り着く。
「ああ、ここですここ! 本当にありがとうございました!」
  きゃいきゃいとはしゃいでいる。無事に帰れたのがそんなに嬉しいのだろうか。
「初めてセっちゃんに連れ戻されずに帰ることができました!」
  ……妹さんには、深く同情しよう。
「じゃあ、僕はこれで」
  そう言って、帰ろうとするが。
 
「あ、お礼にお茶でも如何ですか?
  なんというか、私の感動の第一歩を手伝ってくださったのですから、
  その、何もせずに帰すというのは私の沽券に関わります!」
 
  気にする沽券があったのか、と言いそうになって慌てて口をつぐんだ。
「……いえ、お構いなく」
「いえいえ! 何もせずに帰すというのは故郷の名折れ!
  ――そうだ! でしたら今度は私がお送りします!」
「お茶を頂いていきます」
  即答した。
 
「そうですか。それではどうぞー」
  にこにこしながら、女性は宿の中に入ろうとして――そこでふと振り返った。
 
 
「そういえば、自己紹介してませんでしたよね。
  ――私、ユメカっていいます。送ってくださって、本当にありがとうございました」

9

 どたんばたん、と足音が聞こえたかと思ったら。
  勢いよく扉が開け放たれ、そこにいたのは驚き顔の女の子。
 
「――嘘!? 姉さんが一人で帰ってきてる!!」
 
  第一声がそれですか。
  というか、向かいに座っている男の姿には気付いていない模様。
  外見は、ユメカさんを少し幼くした感じ。
  こちらも漆黒の長髪で、走ってきたのか少々乱れていた。
 
「ふふふ、セっちゃん。お姉ちゃんは進化し続ける存在なのよ。
  やがては一人で下着を買ってくることもできるようになるんだから。
  この偉大なる成長の顕れを認めたら、さっそく明日の朝は甘い卵焼きを二個作ると良いわ」
「自分の下着のサイズも知らないくせに何言ってんだか。
  あと、卵焼きは一日一個。それ以上食べて太っても知らないんだから」
「……ユウキさん。妹が私を認めてくれずに虐めます……」
「えっと……」
  悲しげに顔を歪めて、ユメカさんがこっちを向く。
  そこでようやく、妹さんも僕に気付いてくれたようだ。
 
「……誰?」
「えっと、はじめまして。
  中央南部の方で、迷子になったユメカさんを発見しまして」
 
「ああ……姉さんを送り届けてくださったんですね。
  姉がご迷惑をおかけしました。ほら、頭を下げなさい馬鹿姉」
「ひどい! 姉に対してなんたる言い草!
  ユウキさん、こんな妹、夜中にお腹を壊しちゃえって呪っても許されますよね?」
「ええい、恩人に泣きついてわけわからないことをほざくな!」
  よよよ、と泣きながらひっついてきたユメカさんと、その頬をむにーっと引っ張る妹さん。
  うん。
  変な姉妹だ。

「――って、ユウキ?」
「はい?」
  唐突に。
  妹さんが、僕の名前を繰り返した。
「あ、えっと、ごめんなさい。
  ――お名前、ユウキさんっていうんですか?」
  何故か慌てた素振りを見せながら、妹さんはそう聞いてきた。
「はい。ユウキ・メイラーっていいます。
  貴女の名前を伺ってもよろしいですか?」
「わ、私は、セツノ、です。そこの馬鹿姉の、妹やってます。
  ……あ、あの、ユウキさん? つかぬ事をお伺いしますが――」
 
「――ご職業は、何を?」
「? 中央監獄で、監視員を」
 
 
  ぴきり、と。
  妹さん――セツノの動きが凍り付いた。
 
 
「……どうかしました?」
「えっと……あはは……その……。
  …………ちょっと、姉を借りますね!」
  言うなり。
  セツノは、ユメカさんの手を引いて、奥の部屋に駆け込んでしまった。
 
  そのまま、奥で何やら言い争う気配。
  はて。
  僕の名前と職業に、姉妹が口喧嘩する要素があったのだろうか。
 
  いけないこととは思いつつも。
  つい、聞き耳を立ててしまう。
 
『でも、親切で助けてくれた人なのに……』
『忘れてないよね? 私たちが負けたら、村のみんな、全員殺されちゃうんだよ!?』
『それは、そうだけど……でも、私が頑張れば、それでいいんじゃないかな?』
『一緒に見たでしょ! あいつの桁外れの強さ!
  いくら姉さんが強くたって、確実に勝てるとは思えない!
  ――あの、“血塗れ竜”には!』
 
  ちょっと、待て。

 今、聞き逃せない単語が聞こえた。
  血塗れ竜?
  何故、ここで、白の話が出てくる。
  しかも、それに勝つだとか負けるだとか……。
 
『だから、少しでも勝率を上げなきゃ!
  せっかく、血塗れ竜の付き人がホイホイ来てくれたんだから、利用しない手はないわ!』
『そ、そんな……』
 
  先程の、アマツさんとの会話を思い出す。
  ――“怪物姉妹”。
  白を殺すために、弱点を聞き出そうとするかもしれない――
 
 
  逃げなければ。
 
 
  そうと決めたら行動は素早く。
  奥の二人に悟られぬよう、逃走経路を頭の中で確認する。
  ……大丈夫だ。
  この宿の造りはそれほど複雑ではないし、この部屋は出入り口に近い方だ。
  宿を出て、路地に紛れれば逃げ切れる可能性は高い。
  向こうも試合を控えている身だ。町中で大事にするのは好まないだろう。
 
  ――よし。いける。
 
  確認が終わった次の瞬間、音はできるだけ立てないように、かつ全速力で、その場から駆けだした。
  一歩、二歩、三歩、と、目の前に扉がきたところで。
 
 
「何処に行くんですか?
  ゆっくりしていってくださいよ」
 
 
  腕を取られ、そのまま床に押さえ込まれた。
  ……そんな!?
  セツノが冷たい目でこちらを見下ろしている。
  彼女が奥から出てくる気配を、感じられなかった。いったい、いつの間に。

「や、やめようよ、セっちゃん。こんなの酷いよ」
「姉さんがそんな風に躊躇ってるから、この人が逃げようとしたんだよ」
「だ、だって……」
 
  セツノとは違い、ユメカさんはあまり乗り気ではないようだ。
  これなら、何とかなるかもしれない――そう思って、口を開こうとしたが。
  ぐい、と。喉を掴まれた。
  声が出せない。
  くそ、こちらの考えはお見通しってことか。
 
「それに、ほら。別に痛めつけようとか、そういうのじゃないし」
「……そうなの?」
「当たり前だよ! だって、姉さん、この人のこと、結構いいなあって思ってるんでしょ?」
「え、そ、そんなことはにゃいでしゅよ!?」
「バレバレだってば。
  ほら、せっかく送ってもらったんだから、お礼をする、ってことで」
「お礼?」
 
「そうだよ。すっごく気持ちよくなってもらおうよ。
  それなら、いいでしょ? 姉さんが気持ちよくしてあげれば、
  この人もきっと、自分から色々と教えてくれるって」
「私が……気持ちよくさせる……」
  ごくり、と。誰かが唾を飲み込む音がした。
 
「ユウキさん……」
  すた、すた、と足音が近づいてくる。
「ほら、お姉ちゃん。まずは逃げられないようにしないと。
  いっぱいいっぱい、気持ちよくしてあげるんでしょ?」
「少し痛いですけど……我慢してくださいね。
  その何倍も何十倍も、気持ちよくさせてあげますから……」
  湿った声が耳に届いた。
 
  肩に指が乗せられた。
  誰のものだろう。ユメカさんか?
  そう、思った瞬間。
 
  凄まじい荷重がかかって、
  ごきり。
「――ッッッ!!?」
  肩を、外された。
 
 
 
 
  両手両足の関節を外されて。
  死体のように仰向けになってる僕の上で。
  黒髪が、踊っていた。
 
「――ユウキさん、ユウキさん、ユウキさん、ユウキさん、
  ユウキさん、ユウキさん、ユウキさん、ユウキさん――」
 
  ひたすらに僕の名前を呟きながら。
  狂ったかのように、僕の体を貪っている。
 
  ぐいぐいと動く腰の奥に、一体何度放っただろうか。
  何時間も繰り返されているにもかかわらず、その腰使いと内部の締め付けは、
  実に多彩で僕を翻弄していた。
「あー、ごめんね、ユウキさん。お姉ちゃん、本気スイッチ入っちゃってるから」
  全然悪びれない様子で、セツノがそんなことを言ってくる。
  最初の1時間くらいは、姉と共にその肉壺を使っていたセツノだが、
  今は参戦せず、僕の尻の穴に指を突っ込んで遊んでいた。
  かりかりと裏側を引っかかれ、再び強制的に達せられる。
 
「あはあ……ユウキさんのが、また、きた……」
 
  とろけた笑みを浮かべながら。
  ユメカは、にちゃにちゃと腰を動かし続けている。
 
「気持ちいいですか、ユウキさん?
  私で、いっぱい、いっぱい、気持ちよくなってくださいね。
  あは、もう何度も出してるのに、まだ、硬い……!
  ユウキさん、素敵……ユウキさん、ユウキさん、ユウキさん――」
 
  ユメカさんは僕の名前を繰り返しながら、顔を近づけてきた。
  ぺちゃぺちゃと、猫がミルクを舐めるかのように、僕の顔へ舌を這わせる。
  僕とユメカさんの体は、汗や唾液やその他諸々でぐちゃぐちゃだ。
  ユメカさんが動くたびに、肌が擦れて粘性の音を立てている。

 もう思考も上手くまとまらない。
  ろくに考えることもできないまま、ただユメカさんの肉の感触に陶酔する。
  にちゃにちゃと快感の海に溺れながら。
  なんだかもう、全てがどうでもよくなってくる。
 
「……姉さん、そんなに、ユウキさんがいいの?」
「んっ。すごいよっ、もう、離れたくないっ! セっちゃんにはあげないからね!」
「……そんなにいいの? まあ、硬さも大きさも悪くはなかったし、反応も可愛いけどね」
  ぐり、と菊座の中をかき回された。意思とは無関係に体がびくんと痙攣する。
「まあ、そんなにいいならさ、試合に勝ったらこの人もらっちゃおうよ」
「え?」
「この前、私の対戦者がさ、試合に勝ったら監視員を一人欲しいって言ってて受け入れられてたから、
  ユウキさんを欲しいって言えば、何とかしてもらえるでしょ」
「そ、そうなったら、嬉しいけど……んっ」
「ユウキさんもいいよね?
  ちゃんと養ってあげるし――毎晩、気持ちよくしてあげるよ?」
 
  誰かが何かを言っている。
  でも、もう、よくわからない。
  ただ、気持ちいいだけ。
 
「あー。もう意識も殆ど飛んじゃってるか。
  ――それじゃあ、頃合いかな?
  姉さん。一旦止めて。
  ……姉さん? ちょ、こら、止まりなさい色ボケ姉!」
 
  与えられた快感が、唐突に失われた。
  なんで……やめちゃうの?
 
「ユウキさん、もっと続けて欲しいでしょ?」
 
  うん、続けて欲しい。
 
「じゃあ、ひとつだけ、教えて欲しいことがあるの。
  それを教えてくれたら、私とお姉ちゃんで、もっともっと、気持ちよくさせて上げる」
「あ、だめだよセっちゃん、ユウキさんは、わたしと」
 
  教える。教えるから。続けて。
 
 
「――血塗れ竜の、弱点、知ってるでしょ?」

 ち、まみれ、りゅう……?
  ……ああ、白のことか……。
  白の弱点……知ってる……。
 
「そう、教えて。姉さんの中、気持ちよかったでしょ?
  教えてくれたら、また、その中に、びゅーって出させてあげるから、ね?」
 
  白の、弱点は……。
  白は……。
  白……。
 
「? ユウキさん?」
「……ぼくは、しろの、つきびとだから」
「うん。だから、色々知ってるでしょ? 教えて」
 
 
「しろを、うらぎることは、できない」
 
 
  ぼんやりとした頭の中で。
  殺すことしか知らない白が。
  頭を撫でて欲しそうに、僕の顔を見つめていた。
 
  舌を突き出す。
  覚悟が決まったら、いけ。
  白のことは絶対に裏切らない。でも、この場からは逃げられそうにない。
  ――だったら、こうするしかないじゃないか。
 
 
「――ッ! 舌を噛む気!? 姉さん!」
「ユウキさん!」
  がし、と顎を押さえられ、舌を噛むのを防がれてしまった。
 
  でも、顎の痛みのおかげで、思考がいくらかクリアになった。
  両手両足は動かせないけど、動かせるところは、ちゃんとある。
 
「――んっ!」
 
  全力で。床に後頭部を叩き付けた。
 
 
 
 
 
  ――目を覚ましたとき、周りには誰もいなかった。
  寂れた裏路地。禁輸品の取引にすら使われなさそうな、そんな無人の通りだった。
  両肩と股間の関節ははめ直され、服もきちんと着せられていた。
「生きてる……か」
 
  ……後頭部を床に叩き付ける直前、誰かの手が、間に挟まっていた気がした。
 
  とはいえ、衝撃は十二分で、気絶することには成功していた。
  僕が翌日出勤しなかったりしたら、問題が外に漏れてしまう可能性が高かった。
  だから、時間を稼げば僕の勝ちだったのだ。
  一度気絶してしまえば、しばらく時間を稼ぐことができるし、何度も繰り返せば、
  それこそ何も喋れなくなる。
  それを期待して、頭を床に叩き付けたのだが――
 
「……まだ、夜ですよね」
 
  タイムリミットと思われる時間まで、まだ余裕がある。
  なのに――こうして解放されているというのはどういうことか。
  諦めてくれたのだろうか。
「……ん?」
  かさり、と。ポケットの中に、紙片が入っているのに気付いた。
 
『今日はごめんなさい。
  貴方から血塗れ竜の情報を聞き出すのは、やめます。
  今度会ったときは、普通にお喋りしたいです。
  本当に、ごめんなさい』
 
『姉さんの手前、一応謝っておき(字が唐突に乱れている)
  心の底から反省しています。
 
  私のことは嫌いになってくれてもいいから、
  もし、今度の試合で、姉さんが生き残った場合、不束な姉ですが、引き取ってやってください。
  お願いします。』
 
 
  あの後、姉妹の間でどういったやりとりがあったのかはわからない。
  でも――二人が悪い人じゃない、というのは、なんとなくわかってしまった。
 
 
 
 
 
 
  深夜の監獄は、静かである。
  大半の囚人は寝ているし、起きている囚人も、うるさくしたら懲罰を喰らうので
  静かにしているのが常である。
  私服のまま、通路を進む。
  僕は血塗れ竜の付き人なので、私的な時間でも彼女の部屋に行くことが許されていた。
 
  今の時間、きっと白は寝ているだろう。
  それでも、彼女の顔を見たくて、紙片を読み終わってからすぐ、こちらへと駆け足で向かっていた。
 
 
  こんこん、と。
 
  返事を期待せずに、静かに、ノックをする。
  しかし、予想を裏切って、部屋の中から「うわ?!」と慌てたような声が返ってきた。
「――白?」
「ユウキ!? ま、待って、待って!」
  どたばたとした気配が伝わってくる。
  何をそんなに慌てているのだろうか。こんなことは初めてである。
  もっとも、疲れ切っている僕の頭は、そんなことは欠片も気にせずに、白の準備が整うのを、待った。
  とにかく――白の顔を、見たかった。
 
  それほど待たずに、「いいよ」と声をかけられ、白の部屋にはいることを許された。
  部屋の中は特に変わったところはない。
  とりあえず、ベッドがぐちゃぐちゃに乱れていたが、まあ白の寝相はよくわかっているため、
  特におかしなことではない。
 
「……ユウキ?」
 
  どうしたの、と。こちらにてとてと駆け寄ってくる。
  そこには、僕に対する絶大な信頼があり、それを見て、心の底からほっとできた。
 
  ――僕は、白を裏切らなくて、済んだんだ。
 
  安心したら、途端に眠くなってきた。
  思いっきり体力を消耗している模様。
「ああ、すみません、白。
  少し、様子を見に来ただけです。眠りの邪魔をして、すみませんでした」
「ん。……そう」
「それでは、私はこれで」
  欠伸をしながらそう言って、部屋を出ようとしたら。
 
「ね、ねむいのなら、ここで一緒に寝て」
「……またですか」
「ユウキ……」
  ぎゅ、と。服の裾を掴まれた。
 
  まあ、僕としては、無事に自室へ辿り着けるか不安なくらい疲れてるし、別にいいか。
  そう思って了承したら、白は少し顔を赤らめモジモジして、それから嬉しそうに僕をベッドに引っ張った。
 
  ベッドに横になった途端。
  睡魔がとんでもない勢いで襲いかかり。
  泥のような眠りにずるずると引き込まれてしまう。
 
  ぼすん、と白が横に寝転がる気配。
  いつものようにスリスリと、顔を僕の胸に擦りつけてくる。
 
  それを感じながら、僕は深い眠りへと落ちていった。
 
 
  その、直前。
  白が何か、呟いた気がした。
 
 
「……ユウキから、イヤなニオイがする」

10

「――もうすぐだね、姉さん」
「そうだね、セっちゃん」
 
  闘技場の西側控え室。
  通常なら、西棟の囚人が待機するはずの場所で、美女二人が待機していた。
  どちらも長い黒髪の美女である。
  纏っているのは野暮ったい黒装束だが、それでも二人のスタイルの良さは隠しきれない。
  男子棟である西棟では、まずもってお目にかかることのできない存在に、
  他の囚人は好奇の視線を向けていた。
 
  ――あいつらが、今夜の血塗れ竜の生贄か。
  ――片方は、人食いの相手だってよ。
 
  これから死地に向かう美女二人への憐れみは何処にもなく。
  色めいた視線と嘲笑のみが、姉妹に向けられていた。
 
「嫌な空気。囚人って無駄に臭いくせに、視線まで汚いだなんて救えないよね」
「セっちゃん。満足にお風呂に入れないような人たちのことを牛糞みたいな臭いだなんて言っちゃ駄目よ」
「……いや、そこまでは言ってないから」
「あら?」
 
  周囲の空気などものともせず。
  姉妹はえらくマイペースである。
  しかし、二人の表情を、彼女らをよく知る者が見たら、強張ったものということに気付けたかもしれない。
 
「とりあえず、ここのシステムはわかってきたかな?」
「うん。勝ったら戻ってこられるのかな?」
「みたいだね。死体は帰ってきてないし」
「……試合は、セっちゃんが先だよね」
「うん。……あのさ、姉さん」
 
「「死なないでね?」」
 
  同時に放たれた互いの言葉に。
  しばしの間呆然として、堪えきれずに吹き出してしまった。

「いやいや、姉さんが血塗れ竜に勝てるわけないし。
  とにかく生き残るのを優先してよね」
「私は大丈夫だってばー。
  セっちゃんこそ、弱虫なんだから無茶しちゃ駄目よ」
 
  しばらく二人で笑いあったが。
  やがて、互いに無言になる。
 
「…………」
「…………」
  瞳は互いを見ておらず、どこか中空を眺めていた。
 
「まあ、さ」
  ふと、セツノが口を開く。
「あの変態公爵が、私たちのこと生かしておくはずがないんだよね」
「……もう、みんな、殺されちゃったしね」
「伝書鳥のトシ坊も帰ってこないしね。昨日あたりに、やられちゃったんじゃないかな」
「……だよね」
 
  違和感を覚えたのは、ほんの二日前だった。
  自分たちの勝敗によって村や姉妹の扱いが変わるはずなのに。
  ビビス公爵からは、具体的な話は何一つとして為されなかった。
  おかしいと思い、確保していた秘匿の通信手段を用いたものの――返事は無し。
  連絡文書の重要度は最大にして送ったので、
  返ってこないということは、全員死んだか見捨てられたかのどちらかだろう。
  ビビス公爵に、半ば監禁されているような村人達が、自分たちを見捨てて逃げるのは不可能である。
  故に――真実は、ひとつ。
 
「あーあ。頑張ればみんなを助けられると思ったんだけどなあ」
「……うん」
 
  やるせなさそうに、姉妹は溜息を吐いた。
 
「ユウキさんには、悪いことをしちゃったね」
  ぽつり、と。セツノが下を向きながらそう言った。
「ユウキさん……会いたいなあ」
  姉が、どこか夢見るような表情で、呟いた。
 
  そのまま、空虚な時間が過ぎる。
  控え室の人間は徐々に減っていき、やがて、二人だけになった。
 
「うわ、前の3人全滅だね。東棟って弱い奴しかいないのかな?」
「……わかんない」
「…………」
「…………」
「……姉さん?」
「なあに?」
 
「私さ……頑張るよ。
  ここで勝てれば、私たちは囚人として、ここで生きていけるんじゃないかな」
「え……?」
 
 
「私は、あの人食い娘に勝つ。
  姉さんは、血塗れ竜に勝つ。
  そして、二人でこの闘技場の王者になろうよ」
 
  どこか吹っ切れたような表情で、セツノはそう宣言した。
 
 
「……ユウキさんを、付き人にして?」
「そうそう! わかってるじゃん!」
「できる、かなあ?」
「私は、大丈夫だよ? 死にたくないし、ユウキさん欲しいしね」
「……むー。ユウキさんは私のだよ」
「はいはい。それじゃあ、二人で闘うときに決めようね。そのときは、恨みっこなしで」
「うん。ユウキさんを賭けて、勝負。王様は一人しかなれないもんね」
 
  あはは、と。姉妹同時に笑いがこぼれた。
 
 
 
「――ゲスト先発、そろそろ入場だ」
 
  係官の声に、セツノが「よし!」と立ち上がる。
「んじゃ、ちゃっちゃと、殺してくるね!
  早めに帰って、姉さんにプレッシャーかけてやるんだから」
「いってらっしゃい、セっちゃん」
 
  明るい表情を崩さずに、姉は妹を見送った。
 
  ぱたん、と扉が閉まってから。
「……無事で――ううん。生きて帰ってきて、セっちゃん……」
  姉は微かに、願いを漏らした。
 
 
 
 
 
 
 
  ――待ちに待った、試合当日がやってきた。
 
  血塗れ竜は、今日も定位置。
  ユウキさんの胸の中で、くうくうと寝息を立てていた。
  ――みしり、と。見るたび奥歯が軋んでしまう。
  悔しいのなら見なければいいのでは、とは思わないこともない。
  事実、奥歯を鳴らしてしまった直後は、慌ててそっぽを向いている。
  でも……駄目なのだ。
 
  血塗れ竜は喰い殺してやりたいくらい嫌いだけど。
  ユウキさんの顔は、私の心を暖かいもので一杯に満たしてしまうのだから。
 
  だから、ちらちらとユウキさんの横顔を見てしまう。
  まるで幼児の恋愛のようで思わず笑いそうになってしまった。
 
  胸の中で心安らかに眠っている血塗れ竜をどうすればいいのかわからず、
  起こさないようにアタフタしてるユウキさんは本気で可愛い。欲しいなあ。
  っていうか代わりやがれコンチクショウ。
  いいなあ。私もユウキさんの胸に収まりたいなあ。
  すやすや気持ちよさそうに眠ってるけど、まさしく天上にも昇る心地よさなんだろうなあ。
  ずるい。
  あの糞餓鬼、ずるい。
 
  まあ、でも。
  もうすぐ試合が始まるから、今は断腸の思いで許してやる。
 
  腸どころか全身が引きちぎれそうだけど。
  ……ん?
  ああっ!? ユウキさんってば、なに穏やかな表情で頭なんて撫でてるのよ!
  そんなことしないで、髪の毛引き千切ってやればいいのに。私ならそうする。絶対。
  うん、決めた。
  このままじゃむかつくし。
 
 
  私は立ち上がり、静かにユウキさんの元へと向かった。
 
「ユウキさん」
  血塗れ竜を起こさないよう、声を潜めて名を呼んだ。
「……なんですか」
  ユウキさんはこちらを見ない。
  その態度と、やや落ちた声色が――全てを、語っていた。
 
 
「――知ってるんだ。あのこと」
 
 
  ユウキさんが顔を背ける。
  可愛いなあ、その反応。
  私のことを半ば無視して、そのまま優しく血塗れ竜の頭を撫でる。
 
  ――今が、血塗れ竜との最後の時間。
  それをわかっているからこそ、こんな態度を取っている。
 
  でもね、ユウキさん。
  そんな態度は――挑発にしか、ならないよ?
 
 
  行動は迅速に。
  血塗れ竜が起きないよう、動きは最小限に、音は小さく。
 
  指先でユウキさんの顎を掴み。
  こちらを向かせて、口づけをした。
 
「――ッ!?」
  ユウキさんの目が見開かれる。
  ああもう、反応が可愛すぎるよ。
  口内を蹂躙する舌の動きが、ついつい激しくなってしまう。
 
  きもちいいなあ。
  明日からは、毎日しようね。
  ユウキさんは、もうすぐ私のモノになる。
  呑気に眠る血塗れ竜のモノじゃ、ない。
 
 
 
  何分くらいくちゅくちゅしていただろうか。
  ユウキさんの胸で眠る血塗れ竜が「……ん」と身じろぎして、ようやく私は口を離した。
「――ぷはっ。
  んふふ、拒否しないんですね、ユウキさん。嬉しいなあ」
「…………」
  そんなことはない、と睨まれた。でも、そんな表情を向けられることすら心地良い。
  わかっている。
  今、ユウキさんが抵抗しなかったのは、ぐっすり眠る血塗れ竜を起こさないように気を遣ったからだ。
  今日で終わりだというのにもかかわらず、ユウキさんの優しさは、あくまで血塗れ竜に向けられていた。
  気にならないといえば嘘になる。
  でも、それも今日までだ。
 
  あの初試合の日から。
  ユウキさんは、一度も会いに来てくれなかった。
  やはり、あんな強引なアプローチは、彼の気に障ったらしい。
  血塗れ竜への挑発を優先したのだから、仕方ないのかもしれないが。
  寂しくて泣いた夜だってある。
  一度心に火が灯ったら、燃料が尽きたときの寒さになんて耐えられるはずがない。
  正直、後悔したときもあった。
  私が余計に踏み込まなければ、ユウキさんと一緒の時間は、続いていたんじゃないのかと。
 
  でも。
  中途半端に会い続けるより。
  私だけを、見て欲しかった。
 
  欲しいものなんて、もう何もなかったはずなのに。
  いつの間にか、何よりも欲しいものができていた。
 
 
「出番だ、――“食人姫”」
 
 
  ――あとは、あいつを殺すだけ。
 
  黒装束の、セツノとかいう女。
  気配を全く悟らせずに、私を壁まで吹っ飛ばした女。
  手強くないといえば嘘になる。
 
  でも、負ける気なんて、欠片もなかった。

To be continued...

 

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