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とらとらシスター



16虎

「明日?」
  パプリカタルトを口に運びながら尋ねると、青海は真剣な表情で頷いた。記憶を掘り返して、
明日の予定は何があったかなと考えるが特に予定はない。強いて言うのならば中間テストが
もうすぐ来るので勉強しようと思っていたのだが、まだ若干の余裕もあるので、
明日一日を潰しても問題ない。
「多分大丈夫だと思うけど、どうしたのさ急に」
「いや、珍しく空いたんでな」
「本当に珍しいね。じゃあ遊びにでも行こうか」
  言いたいことが伝わったのが嬉しかったのか、青海は満面の笑みを浮かべた。
そして端から見ている僕が心配になる程に勢い良く首を上下に振る。
  青海は基本的に土日は忙しいらしく、その度にお嬢様は大変だなと思っている。
そんな青海の苦労は推して測るべし、たまの休日には心の底から楽しんでほしいと思う。
こんな僕の一言でこれだけ嬉しがってもらえるのなら、いくらでも言ってあげたいと思う。
  随分と興奮していたせいなのか、青海は猫舌なのに熱い珈琲を大きく口に含み、
辛そうな表情で吹き出しながら、
「待ち合わせはどうしようか?」
「いつでもどこでも良いよ?」
  青海の口の周りを拭きながら僕は答える。こうしているといつもの気品や聡明さは
感じられないけれども、こんな子供っぽい部分や少し抜けているところも魅力的に見えてくるから
不思議なものだ。頭の悪い恋人の思考だと言われれば反論できないけれど、
それでもこうしていたいと思ってしまう。

「じゃあ、十時に駅の四番ホームで」
「え? あ、待ち合わせか」
  青海の顔を眺めるのに夢中で危うく聞き逃すところだった。僕から訊いておいて、
相手の答えを聞かないなんて失礼も良いところだ。
「虎徹君、ちゃんと聞いてるか?」
  案の定、青海の表情が暗いものになった。情緒不安定という訳でもないだろうけれど、
瞬間的に考え込んでしまう癖があるのか青海の感情の移り変わりは結構激しい。良い表現をすれば
感情豊かなその性格は、付き合い始めてから知ったものだ。僕自身もそうだったけれども、
こうなる以前は冷静沈着で理性的な部分しか知らない人が多いので青海がこうした性格の持ち主だと
言うと驚かれる。
  他にも意外な部分は多い。いつも毅然としているから殆んどの人は知らないが、
「もしかして虎徹君は、わたしのような女と居るのは嫌だろうか?」
  こんな弱い部分が幾つもある。
「そんなこと無いさ」
「しかし、二周間も経つのにキスもしていないのは、わたしの魅力が」
「違う」
  言葉を途切れさせるように、否定をした。自分で口に出せば、より実感を持って
考え込んでしまうのが人間だ。それにあまり酷いことは言いたくないが、
これは青海の悪い癖の一つで、極端な方向へと答えを出そうとしてしまう。今回のような場合は尚更だ。
  だから安心させるように笑みを作り、
「焦らなくても良い」
  一言言うと漸く落ち着いたらしく、こちらを見つめてきた。

 他の恋人達はどのくらいの時間でそうしたりするのかは分からないし、平均と比べても
あまり意味がないと思う。それこそ人それぞれで、本人の好きな速度で進めていけば良いと
僕は思っている。どんな理由かは分からないけれども、無理に焦って駄目にしてしまうよりかは
ずっと良い。
  ただ、不安にさせていたかもしれないと思い、
「ちょっと、目を閉じて」
  こちらを向いたまま、言われた通りに青海は瞼を下ろした。
  数秒。
  それだけの時間を置いて覚悟を決めた。我ながら随分と大胆な行動をしているなと思いながら
目を閉じ、青海の唇に自分のそれを重ねた。驚いたのか一瞬唇が離れたが、しかし確認するように
今度は青海の方から重ねてくる。ゆっくりとした速度でしてきた青海は、どんな表情なのだろうか。
そんな疑問も沸いたが、なんとなく目を開く気にはなれずに、相手が離すまで応え続けた。
  どれだけの時間が経ったのか、青海の唇が離れるのを確認すると目を開いた。
視界に入ってくるのは、耳までも赤く染めた青海の顔。浮かんでいる表情は照れと嬉しさが
混じったもので、こちらを直視でないのか床を向いていた。普段は過激なことを口にするのに、
実際にしてみるのとでは違うらしい。
「これは、その、凄いな」

 青海は幾らか時間を置いてから、呟くように言った。勿論視線は下に向けられたままだが、
その気持ちもよく分かる。今まで何度も、それこそここ二周間は毎日姉さんやサクラとも
していたけれども、それとは全く別物のように思えた。姉さんやサクラとしていたように
舌を絡めた訳でもないのに、鼓動が跳ね上がる。情欲を高めるそれとは方向性が違うそれは、
今までに体験したことのない感覚だった。
  互いに、言葉が出ない。
  僕は妙な沈黙を崩すように笑みを作り、
「まさか青海は、これで子供が出来るって思ってないよね?」
  言ってから、後悔した。こんな時間こんな雰囲気でこんな話題を出したら、
気不味いどころの話じゃない。余計に場の空気が悪くなってしまう。
  恐る恐る青海の表情を見てみれば、まだ少しは赤いものの幾らか落ち着きを取り戻していた。
顔を上げて僕の顔を覗き込みながら、
「大丈夫だ、いつも正しいやり方を脳内でシミュレートしている。そう、今も!!」
  冗談を言ってくれるだけありがたい。発言内容はいつも通りの直接的なもので、
苦笑を浮かべてしまうようなものだけれど無音よりは良い。実際に考えてはいないだろうけれど、
変に生々しく聞こえたのも僕が姉さんやサクラとのそういう行為に慣れすぎたせいだろう。
  自分に言い聞かせるように心の中で呟き、自然に反れていた視線を青海に向き直す。
「明日、楽しみだね」

 自分でもかなり強引だと思う流れで、無理矢理に話を変えた。青海にも気持ちが伝わったのか
笑顔で頷き、まだ少し熱いのに珈琲を口に含んだ。
「大丈夫?」
「心配ない。この程度の熱さ、明日のことを考えるだけで吹き飛んでしまう」
  熱そうな表情で言いながら、青海は再び口に含む。本当に辛そうだが青海の努力を
無駄にしてしまう気はないので敢えて触れずにおいた。誰にでも苦手なものはあるし、
それを克服しようとする人は素晴らしい。青海はもっと素晴らしい。
「どうした?」
「明日の予定を考えてたんだよ」
  熱い珈琲を飲む青海の応援をしていたとは言えずに適当に言った言葉だが、青海は嬉しそうに
笑みを強くした。だが半分は嘘ではない、僕もそれなりに考えていた。
「ありがとう、楽しい日になるだろうな」
「そうだね、一日使えるから普段では出来ないことも出来るし」
「うん。周期が合わなかったのは幸か不幸か」
「ちょっと待ちなさい」
  いきなり飛躍した。
  驚いて青海の表情を見てみれば、先程と何ら変わりない笑みを浮かべていた。
幾ら冗談だと分かっていても、一瞬本気だと思ってしまった自分が情けない。
いや、普段の発言を省みてみれば本気なのだろうか。ユキさんもそれらしい表情で僕と青海を
よく見ているし。
「ところで虎徹君」
  悩んでうなだれていると、青海が声をかけてきた。
「さっき、なんとなく気になったんだ」
「ん?」
  何だろう。
「キス」
「え? 檸檬の味じゃないのは多分珈琲を飲んでたからですよ?」
  思わず声が裏返ってしまった。そんな僕を一瞬不審そうに見ていたが、青海はすぐに顔を
笑みに変えた。おかしそうに笑い声を漏らしながら、
「そんな中学生みたいなことは思わんさ」
  一息置くと、顔を赤らめ、
「ただ、初めてだったのは本当だがな」

Side青海

 つい我慢できずに、携帯のフリップを開いた。虎徹君とお揃いで壁紙として使っている
呑助の画像の上、踊っている数字は午前9時30分を示している。待ち合わせの30分前だというのに
心臓は早鐘のように脈打ち、時間の経過を不規則に伝えてくる。
  喉が渇く。
  気分を落ち着ける為にバッグからペットボトルを取り出して、蓋を捻る。軽いけれども
快い音が響き、それだけでも少し気分が楽になった。意識をそちらに向けるだけでも
大分変わってくる。一口飲めば爽やかな酸味と炭酸の刺激が口の中に広がり、爽快感が残る。
今までに味わったことのない妙な風味だが、なかなか美味しい。商品名は何だろうと思い
パッケージを見れば、『コテツミン8000』という文字。注意して底から中身を覗いてみれば、
虎毛色の液体が泡と共に揺れていた。本人曰く自毛らしく、その証拠とばかりに傷まずに輝いている
虎徹君の髪を連想させるその色はただ純粋に美しい。
  良い出来だ。ユキが意味深な笑みで持たせてくれた理由が分かり、自然に笑みが湧いてきた。
大丈夫だ、という気分になってくる。
  完成していて良かったと思う。祖父の経営する会社の一つに開発してもらっていたもので、
今日に間に合うように急かしてしまったが彼らは見事に応えてくれた。これは祖父に
きちんと報告しなければ、と思いながらもう一口。
  美味い。

 これを見せたら、虎徹君は喜んでくれるだろうか。流石に愛用している頭身大の抱き枕や
1/1スケールフィギュアは見せられないけれども、これなら喜んでくれると思う。
いや、もしかしたら他のグッズを見せても大丈夫なのではないだろうか。
  なんとなく想像をする。
  薄暗い寝室の中、豪奢なベッドに腰掛けるわたしと虎徹君。それぞれの手には虎徹君の顔を
プリントしたグラスが握られており、中にはコテツミン8000が満たされている。軽く振り傾けると
泡が弾け、二人の仲を祝福する天使のラッパのような音が部屋に響く。乾杯の声は必要なく、
お互いの笑みを交わし合うのを合図に口に含んでまずは飲み下す。次は口付けて虎徹君はわたしの、
わたしは虎徹君の喉へと注ぎ込む。口の中でたっぷりと舌に絡ませ、唾液とブレンドされた液体が
喉を通過する感触を心地良いと思いながら視線を向ければ、そこにあるのは愛しい人の微笑。
繊細な手付きで頬を撫でられ、今度は純粋な口付けを交わす。何も混じっていない完全純度の唾液が
舌の上を滑り、自然な流れでわたしはそれを受け入れる。グラスを置く音を背景に二人は
シーツの海へと潜り込み、激しく唇を求め合いながら相手の服に手指を伸ばしていく。
  ここで、ふと気が付いた。

 もしかしたら、思考が飛躍をしすぎているのではないだろうか、そう思いながら周囲を見回した。
視線が会った人は片っ端から目を反らすが、これは仕方のないことなのかもしれない。
現代人は無関係な人間と目を合わせて話をするのが苦手な人が多いし、
わたしは苦手ではないけれど、いきなり目を合わせてくる人を好きにはなれない。
何事もバランスとマナーが大切だと再確認をする。
  周囲もおかしな様子がないし、わたしはセーフだな。
  何も問題はないと頷いた後、どのくらいの時間が経ったのか気になり再び携帯の画面に
視線を落とした。コテツミン8000を飲む前から幾らも時間が経っていない。
  素晴らしい!!
  思わず叫びそうになったが、必死に堪えた。わたしは虎徹君の姉妹のように非常識な人と違い、
常識的な人間だ。虎徹君も、そうした方が喜ぶだろう。
  しかし、不思議なものだ。
  楽しい時間は早く過ぎてゆくと言うけれど、今は楽しい上に時間の経過も遅い。
虎徹君と会っている時間が一番だけれども、こんな時間も悪くない。
だから、もう少し未来予想をしても大丈夫かと考える。
  数秒。
  大丈夫、寧ろ今の数秒間のロスの方が問題だ。
  そう結論し、無駄な数秒間のことを心の中で詫びながら続きを想像する。

 間接照明の淡い光に照らされながらお互いに愛を囁き、衣服をぬがしてゆく。
シャツのボタンを外すと見えてくるのは、普段の優しい言動からはあまり創造できない
意外と厚い胸板だ。体は細いけれども、引き締まっていると表現する方が正しいのだろう。
雄々しいそこにそっと唇を這わせると、虎徹君も同じようにわたしの胸に口付ける。顔を離すと、
そこに浮かんでいるのは桃色の斑点。愛しそうな視線を向けられ、手指でそこを撫でられると、
擽ったさに思わず笑い声が漏れた。それを嬉しそうな表情で見つめながら、虎徹君は
わたしの残りの服を脱がせてゆく。下着も外し、靴下のみを身に付けたわたしを
虎徹君は強い力で抱き締めた。
  それから。
  虎徹君はわたしの胸を擦り、絞るように揉み始める。手指の形に表面が窪み、
圧力に合わせて変形するのを楽しむように強弱をつけて弄び、時折先端の突起を甘噛みする。
舌で表面をなぞり、唾液で線を引きながら下方へと顔を移動させた。舌先で臍をこじりながら
軽く吸い、わたしが身をよじらせると更に下へと移動させる。そして最終的に辿り着いたのは、
股間の割れ目。クリトリスをねぶるように音をたてて刺激し、割れ目の周囲を舌で舐めあげる。
愛しい人にそうされると、只でさえ溢れていた蜜の量が一気に増してくる。
恥ずかしさに顔を赤く染めると、虎徹君は優しく髪を撫でてくれた。わたしは手指を絡めて、
しっかりとその手と握りあう。

 虎徹君はもう片方の空いた手でわたしの尻を撫でながら、舌を濡れそぼった割れ目に侵入させた。
それは奥の方にまで伸ばされ、はしたない水音をたてながら丹念に舐めあげていく。
今までとは比べ物にならない程の強い刺激に、さほど時間はかからずに達してしまった。
  そして虎徹君は、硬くなった彼自身のものを当てがうと馴染ませるように割れ目の入口で
軽く上下させ、押し込むように……
  轟音。
  意識を現実へと引き戻したのは、目の前を通過した列車の音だった。大事な場面で
邪魔をしてきた車体を睨みつけるが、この駅に止まらないそれは無感情に通り過ぎていく。
  いや、逆に良かったのかもしれないな。
  口に出さずに呟き、思考を切り替えた。時間を潰すのにかまけていて肝心の生虎徹君を
少しでも見失ってしまうよりは、ずっと良い筈だ。これは、神がわたしに与えた
警告なのかもしれない。そう思いながら、虎徹君がやってくるであろう入口に振り向いた。
  水音。
  どうやら恥ずかしいことに濡れてしまっていたらしい、今になって気付くのも
間抜けな話だと思う。ただ、何故か周囲の人が全員わたしから距離を取っていたのが幸運だった。
下着を変えようかとも思ったけれども、その間に虎徹君が来るかと思うと移動する気にはなれなかった。
  仕方なく電車の中で変えようと決めて、吐息を一つ。そう決まれば後は待つだけだ。
  数分。
「ごめん、待った?」
  携帯を見ると、表示されているのは9時45分。9時から待ち続けていたので都合45分
待ったことになるが、これは興奮しすぎて待ちきれなくなり早く来すぎたわたしの問題だ。
虎徹君は悪くない、それどころか感謝の言葉を伝えたいくらいだ。今回はたまたまわたしが
早く来てしまったからこうなったが、現に約束の時間より15分も早く来てくれている。
  わたしは軽く首を振ると笑みを浮かべ、虎徹君にペットボトルを差し出した。

17虎

 約束の時間の大分前に着いたつもりだったのだが、青海はもう僕を待っていた。
多分、結構な時間そうしていたんだろう、差し出されたペットボトルの温度は少し温い。
そう考えると申し訳ない気持ちになり、炭酸系は苦手だが黙って飲むことにした。
  一瞬。
  ペットボトルの蓋を開こうとして、妙なことに気が付いた。疲れているからかもしれないし、
もしかしたら只の錯覚や勘違いかもしれない。だから再確認をしようと蓋を見て、
「……青海?」
「何だ、虎徹君。あ、もしかして炭酸は苦手だったか?」
  そんな問題じゃない。
「何でキャップに僕の似顔絵が描いてあるの?」
「偶然の一致だろう、そう見える模様が描いてあるんだ。少し見せてく……
  おお何だこれは素晴らしい!!」
  嘘だ、と直感的に思った。
  言われるまで気が付いていない様子を装っていたが、僕に言われてそれを覗き込んだ後の
青海の表情は驚きよりも喜びの割合の方が遥かに多く見えた。僕に向けられた視線は
誇らしい色を浮かべ、誉めてくれと言っている。この場合、僕はどんな反応をしたら良いのだろうか。
  取り敢えず僕はこの謎ジュースと青海の間で視線を行き来させ、笑みを浮かべた。
青海は安心したのか、心の底から嬉しそうな笑顔を向けてくる。
「ところで、これを飲まないのかな? 虎徹君」
「飲むけど、その前にこのジュースの説明をしてくれないかな?」

 青海の前に突き出したことでもう一つ気が付いた、この飲み物の商品名だ。
胴体部分をパックしている薄いビニールには、『コテツミン8000』という文字がプリントされていた。
多分まだ市販されていないだろうが、キャップに描かれた絵といいラベルに書かれた商品名といい、
もし流通していたらと考えると恐ろしくなる。
  そんな僕の考えをよそに青海は堂々と、
「祖父が経営する織濱グループの系列に織濱食品というものがあるのは知っているな?」
  嫌な予感がしてきた。
「そこの清涼飲料水の試作品だ、と言ってもほぼ完成したものだが」
  的中し、片膝を着いた。一ヶ月後、僕は正気を保っていられるだろうか。流石に全国は無いとしても
この市内には絶対に、下手をしたら県内全土にこの妙なジュースが広がってしまうだろう。
そうなってしまったら僕は表を歩く度に子供に指を差され、それを母親がたしなめるという光景が
そこかしこに溢れるに違いない。家族にも、何て説明をしよう。
尊敬する殺虎さんにも申し訳が立たない。
「虎徹君、安心してくれ。これを他人などに飲ませる訳がないだろう。これは二人専用だ」
  僕の心情を察してくれたのか、青海が穏やかな目で言った。しかしもう少し贅沢を言うならば、
出来るのならこれ自体を作ってほしくなかった。こんな製品を作ってしまう程に僕を好きだというのは
嬉しいけれども、方向性が間違っていると思う。

「念の為に訊くけど、こんな具合いのやつを他にも作ってる?」
「何を言ってるんだ、虎徹君」
  確かに、こんな色物を幾つも作る程青海も身内の会社も暇ではないだろう。
いくら会長の孫娘だとはいえ、そうそう簡単に作っていたらすぐに倒産する。
世の中そんなに甘い訳がない、そう考えると幾らか気分が落ち着いてきた。
  これも飲んでも良いかもしれない、と思いなるべく絵を見ないようにしながらキャップを捻った。
ボトルの口から漏れてくる柑橘系の香りや、泡の弾ける音が快い。
「あ、虎徹君。拭かなくて良いのか?」
  昨日は直接キスをしたから今更口を付けたからといって気にすることはない、
そもそも僕はあまりそんなことを気にするタイプの人間でもない。青海の飲みかけというので
少し気恥ずかしい部分はあるけれども、一々気にして拭くのも失礼だ。
  だから大丈夫だ、と言おうとしたが思考が止まった。
「何ですか、そのハンカチは?」
  思わず倒置法と丁寧語を併用して使ってしまったが、そんなことはどうでも良い。拭う為だろうか、
青海がポケットから取り出したハンカチは四つ折り状態になっていて、何か文字が
プリントされているのが分かった。落ち着いた薄い緑色の生地の上に黄色く染め抜かれたものは
アルファベットの大文字で、見える範囲で確認できたのは、左側から『K』『O』『T』。
多分この後には『E』『T』『S』『U』と続くのだろう。
  青海は胸を張り、恥ずかしいハンカチを広げると、
「格好良いだろう、特注だ」

 格好良くはない。もしかしたら昨日のキスで青海の人としての何かが興奮したまま
落ち着いていないのかもしれない、だからこんなに面白いことをしているんだろう。
  それと、疑問が一つ沸いてきた。
「青海、もうグッズはないって言ったよね?」
「何を言ってるんだ、虎徹君。まだまだ、わたしの部屋に限っても50点以上ある」
  青海は先程僕が聞いたのと同じ答えに、更に補足するように言葉を足してきた。
日本語はとても難しい。意味をしっかりと確認しておかないと、今の僕のように誤解して
更なる悲劇を呼び起こすことになる。はっきりと確認をしなかった僕が悪いのかもしれないけれど、
普通の人間の予想を間違ったベクトルで裏切った現実も悪い。
  しかしここで青海を責めるのも酷な話だ、良かれと思って作ってくれたのだから悪気はない筈だと
思い一口飲んだ。少し妙な感じもするが普通に美味い、どこかで飲んだ気がするが思い出せない味が
口の中に広がった。強い酸味と炭酸の組み合わせは人を選ぶが、僕は結構気に入った。
  青海は小首を傾げ、
「どうだろう?」
  瞳に力を込めて訪ねてくる。
「うん、好きな味」
  僕の言葉を聞いて嬉しそうな色を浮かべた。今日は会ってから様々な青海の表情を
見ているけれども、それの全てが良い感情のものだ。
普段は意外と考え込み、落ち込みやすい青海がそうしてくれているのを見ると僕も嬉しくなってくる。

「この味の秘密は何だろう、やっぱり8000の部分かな?」
「多分そうだと思うが、開発スタッフに尋ねても教えてくれなかった。これは何かの分量だと思うが、
何が8000mg入っているんだろうな」
  青海も飲むものだから妙なものは入っていないとは思うけれど、少し気になった。
側面を見てもラベルには親近感を覚える名前が書いてあるだけなので、さっぱり分からない。
この味もどこかで飲んだことがある筈なのに思い出せないので、思考を放棄した。
  話題を変えようと青海を見ると、じっと僕の手にあるボトルを見つめている。
「青海も飲む?」
  これは元々青海のものだけれども。
  差し出すと、青海は小さな子供のようにあどけない表情で受け取った。そして意外にも
普通に飲み始める。僕が飲もうとしたときはハンカチを出したのに自分では平気らしい、
これが微妙な乙女心というものなのだろうか。
「ところで青海はどこに行きたい?」
「どこでも良い」
  どこに行くのか決めていなかった、と思いながら訊くと、アバウトな答えが返ってきた。
  当然、疑問が湧く。
  昨日の約束のときに青海は軽い予定を立てているようなことを言っていたし、
ホームや時間の指定もあったから目的地も決まっていると思っていた。
それなのに、どこでも良いとはどういうことだろう。

 視線で尋ねると、
「待ち合わせがここなのは丁度二人の家の中間くらいだからで、時間が10時なのはこれが普通だと
姉様が教えてくれたからだ」
  なら、目的は何なのだろう。
  青海は少し寂しそうな表情を浮かべ、
「恥ずかしい話だが、この町の外のことはあまり知らない。プライベートで友達と遊びに出ることも
少しはあったが、それ以外は家族の仕事に着いて行くのが殆んどでな。
だから虎徹君と二人でどこか遠くをぶらぶらしたいと思ったんだ」
  僕は聞いているだけで当事者ではないのに、心が痛む。特に何をしてあげられる訳でもない、
それでも出来ることは精一杯してあげたいと思った。家のことが大変で逃げることが出来ないのなら、
せめて休みを大切にしてあげたい。
  ふと、思い浮かんだ。
「海、行こう」
  目的地は、僕の大切な人と同じ名前の場所。少し時期が早いかもしれないけれど、
逆に考えてみれば人が少なくて落ち着けるということだ。それに、この町には海がないから、
町の外で楽しみたいという青海にも満足してもらえる筈だ。
  数秒。
「ありがとう」
  言葉と、
  笑みと、
  絡めた手指の体温と。
  三つ重なって答えが来た。

18虎

 潮の音が響く。
  押し寄せては引くのを繰り返しながら、波は浜辺を洗っていく。その度に不規則な音が
空間を埋め尽くし、透明な世界を彩ってゆく。春先という季節のせいか青海と僕の他には誰も居らず、
それはより顕著に表れていた。
「虎徹君」
  まだ海水は凍える程冷たいのにも関わらず、裸足を波間に遊ばせていた青海が振り向く。
水面が輪郭をなぞっているのが擽ったいのか、顔に浮かべているのは子供のような笑み。
しかし潮風に翻る長い黒髪や薄緑のワンピース、白いカーディガンが海の青に映えていて
大人のように見え、絶妙なバランスが青海をやけに綺麗に見せていた。名前は関係ないと
思うが、それでも青海には海がよく似合うと思った。
「虎徹君」
  もう一度、今度は悪戯が成功した悪童の笑みで呼び掛けてくる。
「どうしたの?」
  訊くと、青海は喉を鳴らして笑った。
「ここはよく言葉が届くから、なんとなく呼びたくなったんだ」
  そう言うと踊るように身を回しながら、何度も僕の名前を呼んでくる。その一言一言に
合わせるように水が跳ね、手指が空を撫で、黒髪が舞い、スカートの長い裾が翻る。
劇の一場面と言うよりも自然風景の一部と表現した方がしっくりくる、伸びやかで見る者の目を
惹き付けるような動きは、本当に美しい。
  暫くそうしていたが、疲れたのか青海はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「もう良いの?」
「あぁ、流石に足が痛くてね」
  隣に腰掛けた青海の足先を見てみれば、冷たさのせいで赤く染まっていた。綺麗な白い肌が
痛々しく色付いているのを見ると、辛そうという感情よりも、色っぽいという気持ちが先に立つ。
人間にしか存在しない形に付いたグラデーションは、それだけで価値物だと思えてしまうから
不思議なものだ。

 ずっと見ていたいと思うけれど、自分の鞄からタオルを取り出して、それを隠すように足に当てた。
そして肌を傷付けないように丁寧に先端まで拭っていく。時折青海が擽ったそうに声を漏らして
身を小さく震わせるけれども、寧ろそれが可愛らしく思えて揉むように擦った。
これは冷たさも取れる実用的なもの、幼い頃雪遊びをした後に母さんがやってくれたものだ。
どんな表情をしているかと青海の顔に視線を向けてみれば、穏やかな表情がそこにあった。
「暖かいな」
  一言告げ、足を拭く為にやや前傾姿勢になった僕の頭を掻き抱くように、自分の体を
僕の背に預けてくる。磯の香りと青海の薫りとが混じった不思議な匂いが、心臓のペースを
跳ね上げてゆく。鼓動は早くなっている筈なのに、伝わってくる体温が心を静めている。
  不思議な感覚だ。
「虎徹君」
  今日だけで何度目か分からないが、青海が僕の名前を呼んだ。肩に押し付けられて
形を柔らかく変化させた胸が、声の振動によって僅かに震える。官能的な筈なのに
少しもいやらしく思えず、ひたすら心が落ち着いてくる。
「寒いな、それに疲れた」
「じゃあ、移動する?」
  僕を抱く力が強くなる。
「潮風のせいで髪もベタベタだ、シャワーが浴びたい」
  青海が言いたいことは、なんとなく分かった。しかし、行動してしまって良いのだろうかという
気持ちが浮かんでくる。付き合い始めてからまだ二周間しか経っていない、
すぐにそんな風にする恋人も居るのだろうけれど、どうしても迷ってしまう。
手を繋いだのもごく最近、キスに至っては昨日が初めての状態だ。
それなのにペースを崩すような真似をしてしまっても良いのだろうか。
  自問する僕の心を見透かしたように、青海が目を合わせてきた。刃物のような真剣さを帯びた
その瞳はどこまでも透明で、誤魔化しの言葉は通用しないことを物語っていた。
「これ以上恥をかかせるつもりか?」
  青海はもう覚悟は出来ているらしい。ならば後はもう、僕が覚悟を決めるかどうかだ。

 十数分後。
「これは、その、何て言うか」
  僕と青海はホテルの一室に居た。お互いに衣服を脱いだ状態でシャワー室のマットの上に座り込み、
僕は垂れ流したシャワーが放つ湯気の暖かさに身を任せている。しかし青海はかなり
緊張しているようで、顔を赤く染めながら僕の股間のものを見つめていた。
言葉を選んでいるようだが、何を言いたいのかはぼんやりと分かる。僕も自分自身の物を見たときは
何とも思わないが、他人の物を見ると少しグロいと思ってしまう。
  不意に、青海が僕の目を見つめてきた。
「触っても、良いか?」
  答える前に、細い手指が伸びてきた。冷たくなっていた表面が先端を軽く撫でる。
きめの細かいそれが滑らかに移動するだけで強い快感が背筋を走り、思わず声が漏れた。
多分大きくなったものを初めて見たせいだろう、好奇心に任せてたどたどしい動きで先端や竿を、
更には袋までもを手指の先で突き、揉み、擦り上げて刺激してくる。本人には悪気はないのだろうが、
このままだと色々と危ないので取り敢えず腰を引いた。
「すまん、虎徹君。痛かったか?」
  いや、寧ろ気持ちが良かった。だからこそ腰を引いたのだ。僕は早漏ではないが
弾数があまり多い訳ではなく、二発で膝が震え、三発もすると腰が砕け、四発目は動けなくなる。
それでなくても無駄弾は撃たないに越したことはない、男の体とはそのようなものだ。
「しかし熱くて、それに固いな」
  一度手は引っ込めたものの、すぐに再び伸ばしてきた。
「これが、わたしの股間をぶち抜くのか」
  直接的な発言は控えて欲しかった。

 だがそれは僕の勘違いだったらしい、顔を見てみると赤く染まっている。
絶間なく湯が流されているせいで室温が高くなっているが、それだけが原因でないのは簡単に分かる。
今のふざけた発言も、照れ隠しなのだろう。
「青海」
  一言呼び掛けると、青海は身を小さく震わせた。だからまずはその緊張をほぐそうと、
軽い笑みを浮かべる。今からすることを考えれば多少の雰囲気は崩れてしまうかもしれないが、
寧ろその方が僕達らしい。言い訳とも取れることを考えながら青海の胸へと手指を伸ばし、
「乳、大きいね」
  揉みしだいた。
  数秒。
  失敗したかと思ったが、杞憂だったらしい。青海は強張った笑みを自然なものへと変え、
僕の手の上に掌を重ねてきた。強く押し付けるようにしているせいか、左の胸からは
強い鼓動が感じられる。それとは全く違う方向性で分かるのは、掌の中心に擦れている
二つの固くなった突起。それの感触を確かめるように擦りながら掌をずらし、双丘全体を揉んだ。
少し力を加えると簡単に手指が沈み、弾力を持つ肌は指の間から溢れるように浮き上がる。
姉さんのものも大きく柔らかかったが、大きさは敵わないもののそれ以上に柔らかな感触が
気持ち良い。面白い程に形が変わるのを楽しみつつ指先で突起をつねると、
普段の冷静なものや僕と二人きりのときに見せるおどけたものとはまた違う声が漏れてきた。
どちらにも共通している低く落ち着いた声とは異なる高い声に、興奮が高まってゆく。
「虎徹君、その、すまんな」
  謝るなんてとんでもない。

 僕は青海に追い討ちをかけるようにまだ僅かに赤みが残る足に舌を這わせ、ねぶり、
上へと舐めずらしてゆく。少し片寄っているな、と思いながらもその動きは止まらない。
舌触りが良いふくらはぎを抜け、肉感的な太股を通過し、辿り着いた先は綺麗な桃色の青海の割れ目。
既に湿っているそこを舐めると、青海の蜜とにじんだ汗の混じった味がした。
舌で掬うようにして拭うけれども、青海が身をよじらせて舐め辛い上にとめどなく
溢れてきているので、なくなる気配は全くない。今や尻まで垂れて股間全体を濡らしているそこは、
いつでも男を迎え入れても大丈夫なようになっていた。
  もう大丈夫だろうと軽くキスをして顔を離すと、
「マグロですまんな」 上から声が降ってきた。
  謝らなくても良いのに。それと、冗談でもそんな言葉は少し嫌だった。
「でも、充分に反応してる」
  フォローになっているかは分からないが、取り敢えず言葉を返す。
「エロい娘ですまん」
「いや、寧ろ大歓迎」
  言って顔を上へと向けると、嬉しそうな表情があった。
「本気を出せばもっとエロいぞ?」
  それは後で楽しませてもらおう。
  気分もほぐれているようだし、もう大丈夫だろう。そう判断し、割れ目に先端を当てがった。
いきなり侵入させても危険なので、馴染ませるように何度か表面をなぞり、
「入れるよ」
  一息に侵入させた。
  苦痛を漏らすような声と僅かな抵抗感が来て、視線を下へと向けると結合部から鮮血が
幾筋の線を描いている。湯と一緒に排水口に流れていくのをもったいないと思いつつ
青海の顔を覗き込んだ。少し眉を寄せているけれども、浮かんでいるのはまぎれもない歓喜の表情、
嬉しそうな目で結合部を眺めていた。まぁ、嬉しいのは僕も同じだ。

「青海、これで」
  青海は軽く頷き、
「双子だと良いな」
「いきなり飛躍しすぎじゃない!?」
  それに昨日は周期が合っていないと言っていた筈だ。この場合はどちらなのか、
告白は子供云々だったからもしかしたら今日は危険日なのだろうか。
「冗談だ、少し驚いただろう」
  少しどころじゃない、本気で肝を冷やした。
「だから安心してガッツンガッツン突っ込んでダバダバ出して子宮を水風船のように
虎徹君のミラクルエナジーつまりコテツミンで満たしてくれ」
  何とまぁはしたない。
「因みに今日が危険日だったらどうしてた?」
「だから安心してガッツンガッツン突っ込んでダバダバ出して子宮を水風船のように
虎徹君のミラクルエナジーつまりコテツミンで満たしてくれ」
  さっきと一字一句違わない言葉で返された。でもそれは青海がその分本気だと言うことなので、
僕はゆっくりと腰を動かし始める。体の作りもあるのだろうが、流石に初めてのせいもあって
中はかなり狭い。僕でもそう思うのだから当事者である青海は言わずもがな、
強く目を閉じ、眉を寄せ、口からは苦しそうな吐息を漏らしている。肌に浮いた大粒の汗は
多分熱気のせいではない、物理的な苦しさが殆んどだろう。姉さんやサクラはこんなに苦しそうでは
なかったが、どちらも初めては異常な状態でのものだし、
更に言うのならば個人差というものもあるのだろう。

「虎徹君、続けて、くれ」
  どうやら動きが止まっていたらしい。しかし苦しい状態を長く続けるのも、青海に悪い。
今回もゆっくりとではあるが、僕は再び腰を動かし始めた。青海も苦しい筈なのに、
僕を助けるように腰に足を絡め、自身の腰も動かし始めている。
  気持ち良い。
  よくほぐれていないせいか、まだきつく締め付けてくるだけだけれども、それでも膣内の突起が
亀頭を擦って刺激してくる感触が何とも言えない。青海の肌を珠になった汗が滑る光景が
いやらしくて、射精感は幾らも待たずにやってきた。
  一瞬。
  思考が飛び、青海の膣内に放出している感覚だけがある。続いて大きな疲労が体を襲い、
思わず青海の上に倒れ込んだ。重いだろうな、と思うが体が上手く動かない。幸運なのかどうなのか
谷間に顔が落ちたらしく、頭部を挟む乳の感触が気持ちが良い。
「これで、名実共に虎徹君の女だな」
  僕を抱き締めてきたせいで、顔を挟む乳の圧力が強くなる。少し惜しいと思いながら、
僕は顔を引き剥がし、
「そんなの、ずっと前からだよ」
  青海と唇を重ねた。

Side妹虎

 風が冷たい、物陰に隠れている私がそうなのだから兄さんはもっと寒いだろう。
いくら寒さに強い兄さんだとしても、この季節に海に行くなんてどうかしているんじゃないだろうか。
あの雌猫、いやもう猫なんて呼び方も生温いのかもしれない。はっきりとこちらに敵意を持った
青海さんはもはや雌虎と言っても過言じゃない。
その雌虎は、一体何を考えてここまで来たのだろうか。
兄さんは優しい人だから寒い思いをしているのは隠しているし、
それはまだ我慢が出来るからまだ良い。けれども、もしこれのせいで風邪などを引いてしまったら
どう責任をとるつもりなのだろうか。さっき電車に乗る前もそうだった、妙な飲み物を、
しかも飲みかけらしいものを飲ませて青海さんの中の変な病原菌が兄さんに伝染ってしまったら
私はもうどうなってしまうのか分からない。
  絞殺。
  刺殺。
  轢死。
  圧死。
  他にも色々と思い付くが、どれが一番あの泥棒虎にふさわしいだろうか。少しくらいは
慈悲の心を持って、溺死なんかも良いかもしれない。楽しそうに水辺で踊り回っているし、
海が好きなんだろう。だから、名前の示す通りに青い海に沈めてしまうのも一興だ。
青海さんもそうされるのなら本望だろう、海と思い出に溺れて死ねるなんて幸せの至りというものだ。
ひっそりと海底で私を見ていれば良い、青海さんの分まで兄さんと幸せになっているだろうから。

 数秒。
  いけない、ついその光景を想像していたら見失なってしまった。どこに居るかと視線を回せば、
すぐに見付かった。忌々しくも兄さんの隣に座り、肩を寄せあっている。
  離れて下さい!!
  思わず声を出しそうになったが、危ういところで押し留めた。実際に言えたのならば
楽になれるだろうし、そうして離れてくれたのならば最高に幸せだろう。しかし見付かってしまえば
兄さんは多分悲しむだろうし、そんな表情は見たくはない。そんな葛藤が、私の心を万力のような力で
残酷に締め付けてくる。
  どうしたら、良いんでしょう。
  口には出さずに心の中で問いかけてみるが、しかし答えは返ってこない。それこそ、私の問いに
いつでもどこでも何度でも応えてくれた人は、今は別の人の隣で微笑んでいる。
ここ最近は何度も目にした光景だが、それでも慣れることはない。
寧ろ、日を追う度に胸の痛みが強くなっていく。
  止めて下さい。
  再び心で呟くが、二人は私のことは気にせずに談笑を続けている。
  不意に、兄さんが鞄から布を出した。それは私も見慣れたもの。物を大事に扱う兄さんだが
その中でも特に気に入っているらしく、長年大事に使ってきた肉厚のタオルだ。私も何かがある度に
それで傷口を拭われたり、汚れや汗を拭き取ってもらってきたから、
それがどれだけ大事な意味を持つのかを知っている。

 いや、兄さん自身はそれを使うのが既に日常と化しているので、もしかしたら分かっていないの
かもしれない、だが少なくとも私にとっては、非常に大きな意味を持ってくる。
つまりそれは、ある意味で兄さん自身のようなものなのだ。
  兄さんはそれを青海さんの足に当てがうと、揉むように拭い始めた。その光景に、胸の痛みが
益々酷くなる。それは多分心がえぐられ、削られ、擦り減っていく痛みなのだろう。
これは何も、私だけのものだ、などと贅沢は言わない。しかし、それでも耐えきれるものではない。
今までは家族にしかしてこなかったこと、逆に言えば家族意外にしてこなかった、家族だけのものが
奪われていく感覚がそこにある。
  例えば、兄さんの体温。
  例えば、今の揉むように拭うこと。
  恋人同士だから寄り添いあって歩いている、凍えて赤く染まっているから揉んでいる、
などと言われても到底納得出来るものではない。兄さんは優しいから、誰かの辛い部分を
黙って見過ごすことが出来ない人だから、と言われても我慢が出来ない。それが可能ならとっくの昔に
しているし、今だってこうして付け回してなどいない。
  悔しいです。
  何故青海さんなんですか。
  早く戻ってきて下さい。

 

 幾つもの言葉が浮かび、しかし空気を震わせることなく私の心の中に沈んでいく。
堪える為に噛んだ唇は力を込め過ぎていたせいなのか鋭い痛みが走り、口の中に鉄のような味が
にじんで嘔吐感を沸き上がらせた。自分の耳でも分かる程に呼吸は荒くなってきていて、
血の味と相混じって酷い不快感が身体中を満たしていく。心と体の両側から責められ
限界に近い状態だったが、それでもめげずに二人を見た。辛いけれども、目を離さない。
いや、辛いのに体が視線を外してくれない。
  兄さんが前屈みになり足を世話してくれているのに、それだけでは満足できないのか、
青海さんは体を擦り付けるように兄さんを抱き締めた。顔を赤くしているが表情は
真剣なものに見える、一体何を話しているのだろうか。兄さんの顔を見ようとしても
青海さんの体が邪魔で確認出来ないし、読唇術などが出来る訳でもないので内容は分からない。
私の数少ない長所である視力だが、こんなときばかりは少し嫌いになる。中身が分からないのに
なまじ行動が分かるので、余計に辛くなってくるからだ。
  約数分。
  どれだけの時間が経過したのか正確には分からないが、漸く兄さんは体を起こした。顔には真剣な、
何かを覚悟したかのような表情が浮かんでいて、その視線は一途に青海さんの顔を見つめている。
口を開くと何かの言葉を短く発し、続いて青海さんの表情が喜びの色に染まった。
赤い顔のままで、兄さんに抱き付いている。

 嫌な、予感がした。
  立ち上がった兄さん達を追い掛けて数分、私の足は止まってしまった。場所はホテルの入口前、
横を見れば磨き抜かれた金属坂に休憩や宿泊の文字、簡単な料金の額などが彫り込んである。
つまりは、恋人同士が愛を確かめあう場所の玄関の前に居るということだ。
何故私がこんな場所に居るかと言えば理由は簡単。
  兄さんと青海さんがここに入っていったから。
  駄目です、とは言えなかった。
  黙って、適当な部屋を見上げてみた。今頃は、二人で裸にでもなっているのだろうか、
そう考えると不意に声が漏れてきた。ひ、とも、い、とも聞こえる声が他人事のように
耳に入り込んでくる。それは最初は途切れ途切れに連続していたが、
すぐに一つの大きく長い声になる。目頭が熱くなり、感情を表す雫が熱を持って頬を伝い、
泣いているのだなとそこで自覚した。
  それに引きずられるように、何故、という言葉が幾つも思考に浮かんでくる。
  何故、兄さんはここに入っていったのだろう。
  何故、私は泣いているんだろう。
  何故、私はこんな惨めな思いをしているのだろう。
  こそこそと隠れて兄さんの後を付け回し、嫉妬をして、その結果最も見たくないものを見てしまい、
更には最悪なことにその後のことを考えて絶望をしてしまっている。この上なく惨めで、
フォローの仕様がない程にどうしようもない。
  辛い、です、兄さん。
  今言葉を投げ掛けても、その相手は薄いガラスの更に向こう側に居る。それが更に辛い。
  体に力が入らずに、膝から崩れ落ちた。敷き詰めてある砂利が食い込んだせいか、
膝に鋭い痛みが走る。切ってしまったのかそこは熱を持って脳に危険と伝えてくるが、
それもどうでも良い。今の滑稽な自分の状況を彩るだけの、嫌味な飾りにしか思えなかった。
「兄さん」
  漸く声が絞り出せたが、それは細く低く、しかも泣き声にすぐに塗り潰されてしまう。
伝えたい相手には、絶対に届かない。

Side姉虎

 軽音。
  場所は虎徹ちゃんの部屋の前、ノックをしても返事は返ってこない。それも当然だろう、
今日は青海ちゃんとデートだと言っていた。先程時計を見たときは針は三時を指していた、
今頃は二人で仲良く軽食でも食べているのだろうか。駅のホームで待ち合わせと言っていたから、
どこかあたしの知らない遠くの場所で、あたしの知らない店で、あたしの知らないものを
食べているのだろう。
  軽く吐息をする。
  最近、知らないことが増えてきた。少し前までは虎徹ちゃんのことで知らないことは、
全くと言っても良い程になかった。あたし自身が色々と訊くこともあれば、虎徹ちゃんが
自分から話すことも多かったからだ。時には嬉しそうに、時には悲しそうに、様々な表情を浮かべて
たくさん話をした。しかし、その量が減ってきている。
  気遣いなのかな?
  目の前の部屋の主は今はここに居らず、言葉を吐くのは無意味だと思ったから、
口には出さなかった。だから正しい答えがどんなものなのかは分からないが、どんな答えが来るのかは
なんとなく分かる。多分虎徹ちゃんは、苦笑して首を振るだろう。これはあたし達家族に
共通することで、本当のことを伝えないようにすることで本心が相手に分かる言動をしてしまう。
矛盾で意思を汲み取るなんて、それこそ矛盾していると思う。

 おかしいね?
  足下にじゃれついてきている呑助ちゃんに視線で問掛けると、欠伸を返された。呑気に目を
細めながらもしっかりとこちらを向いているその行動は、本当に虎徹ちゃんに似ていると思う。
この仔は本能で動いているだけなのだろうけれど、それでも姿が重なって見えてくるから
不思議なものだ。
  喉を軽く撫でた後、戸を開く。視界に入ってくるのは見慣れた、それこそ何年間も見た部屋の風景。
改めて視界を回してみても、いつもと何も変化がない。虎徹ちゃんが中学に入り、
この部屋を手に入れてから使い続けているものが多く、更にあまり物を置いている訳でもないので
余計にその印象が強くなってくる。一歩踏み込んでみれば、尚更顕著だ。
  箪笥を開き、手元の籠から洗濯物をしまい込む。虎徹ちゃんは物持ちが良いから
衣服の枚数がとても多く、しかもそれは見慣れたものばかりだ。その中の一枚を手に取って
鼻に押し当てると、洗剤の薫りに混じって僅かにあたしと虎徹ちゃんの匂いがする。
普段ならここで多少妙な気分になるのだが、今は不思議とそうならなかった。
あたしはシャツを顔から離してしまい込むと、引き出しを閉じて立ち上がった。
  不意に、違和感。
  少し考えてみて、どこがおかしいのかがすぐに分かった。あたしの胸の高さ程、
棚の上にコンポが置いてある。更にその上、写真立ての役割をしているコルクボードの右上に、
見慣れない写真があった。

 殆んどの写真が虎徹ちゃんとあたしとサクラちゃん、その三人が写っているものだが、
その中で毛色が少し違うもの。写っているのは、虎徹ちゃんと、
  青海ちゃんだね。
  『極楽日記』で撮ったのだろう、見慣れた椅子やテーブルの上、少しぎこちない笑みを浮かべた
青海ちゃんとはにかんだような笑みの虎徹ちゃんが居る。仲睦まじく肩を寄せているのは
あたし達の写真と同じだけれど、意味は全然違うものだ。
  こんな写真があったのに、何で気が付かなかったんだろ。
  数秒。
  コルクボードを手に取り、ベッドに腰掛けたところで気が付いた。初めて虎徹ちゃんと
セックスをした日から、洗濯物をしまいにくるとき以外は全て夜だった。罪悪感からなのか
洗濯物を箪笥に入れた後はすぐに部屋を出ていたし、夜は行為が終わった後は
部屋へと戻っていたからだ。灯りも点けず、行為に集中して、
今までは朝まで添い寝をしていたのも止めた。そんな状況だったから、気が付かなかったのは
当然のことだろう。こんな些細なことだけれども、気が付かなかったのは心に大きな波紋が広がった。
  気が、付かなかったんだね。
  そこで、先程部屋に入る前に思い浮かんだことが蘇ってきた。
  今のこの写真も含めて、知らないことばかりになった。近付こうとして、一番近い、
隣に立とうと思って、計画を立てて、実行して、それなのに離れていっている気がする。

 夜にすることだっていつの頃からか虎徹ちゃんは怯えたりすることは少なくなってきたけれども、
逆に昼に話をすることは少なくなってきてしまった。最近はあたし達に対する態度も
以前と変わらないものになっているし、それはそれで嬉しいと思う。けれども、気を遣っているのか
青海ちゃんのことは口にしないし、そうなれば必然的に会話の量も減ってくる。
認めるのは少し悔しいけれども、実際に放課後は虎徹ちゃんの隣に青海ちゃんが居て、
それが日常になってきているからだ。責めはしない、けれども寂しい気持ちがある。
  どうなるんだろうね?
  呑助ちゃんを拾いあげてベッドに乗せ、音をたてないようにコルクボードをコンポの上へと戻す。
振り返れば、気に入っているのか呑助ちゃんは虎徹ちゃんの枕の上に頭を乗せ、
目を細めて窓の外を眺めていた。
  添い寝するようにベッドに寝そべり、軽く目を閉じる。思い浮かんでくるのは、今までの日常、
そしてここ二週間の経験だ。虎徹ちゃんの添い寝をしていたことも、セックスをしていたことも、
あたしの中に確かな経験として存在する。そしてどちらの方が気持ちが良かったのかと訊かれれば、
多分あたしは前者と答えてしまうだろう。体の快楽よりも、
側に居る心地良さの方が圧倒的に比重を占めている。

 どうなのかな。
  頭を撫でると、身を回して呑助ちゃんが擦り寄ってきた。密着状態になると体温が直に伝わり、
手指で触れるよりも遥かに強く存在を感じることが出来る。今までもそうだった、
虎徹ちゃんを抱くと安心して眠ることが出来たし、目が覚めた後も隣に居るということが
感触よりも体温で伝わってきて気持ちが良かった。
  なのに、どうしてこうなったんだろうね。
  今は家に誰も居ないので、答える人も当然居ない。しかし、答えはやってきた。
  あたしの、せいだ。
  個人の勝手な独占欲で周りを動かして、今は独りでこうしている。呑助ちゃんには
申し訳ないけれど、久し振りに日の出ているときに虎徹ちゃんのベッドに横になっている今、
隣にはやはり虎徹ちゃんが居てほしいと思ってしまう。
  自業自得だよ、とあたしの心の冷静な部分が呼び掛けてくる。その言葉はきっと正しい、
今になってやっと後悔をし始めたのだから、遅すぎたくらいだ。少し前からその気持ちがあった、
というのも多分言い訳にならない。最近はサクラちゃんが青海ちゃんに対して、
少し攻撃的になりすぎていて、それを抑えているのはあたしの役割になってきていたけれども、
それを招いたのは自分の責任だから寧ろ当然だ。今になって自分の気持ちを理解し、
やっと追い付いてきたから自分は心底馬鹿だと思う。
  ダメダメだね、本当に。
  自嘲するように考えて、枕に顔を埋めた。鼻先に虎徹ちゃんの使っているシャンプーの匂いが漂い、
改めて失いたくないと思った。しかしそれは男の人ではなく、家族としての、
大切な繋がりを失いたくないという気持ち。
「ありがとう」
  そしてごめんなさい。
  あたしの初恋は漸く終わった。
  残るのはサクラちゃん、あたしの責任だからあたしが仕切らなければいけない。

18虎

「よぅ、お二人さん。楽しかったかい?」
  ホテルから出ると唐突に声をかけられた。先程の痛みがまだ残っているのか、僕に寄り添うように
掴まり歩いている青海の頭の向こうに視線を向けると、メイド服を着た少女が立っていた。
年齢は十代前半だろうか、いや下手をしたらもう少し低い年に見える。
年齢にも場所にもふさわしくないその格好をした少女は、顔には笑みを浮かべていた。
しかしユキさんがいつも浮かべているようなものとは違い、性格が悪そうに口の端を吊り上げ、
頬を歪めたものだ。これ程外見にそぐわない表情を浮かべる人も、そうは居ないだろう。
  どのような反応をしたら良いのか困っていたが、青海が反応した。
「あぁ、セツか。どうした、こんな所で?」
  どうやら知り合いだったらしい、と言うか服装を見て大体予想はついていたが。
多分、今セツと呼ばれたこの少女も青海の家に居るメイドさんの一人なのだろう。
もしかしたら労働基準法に触れているのではないのかとも思ったが、
ユキさんという弩級の前例を見たことがある以上は簡単に外見で判断してはいけないと分かっている。
  青海はセツさんに向けていた視線を僕に向けると、
「虎徹君はまだ会ったことはなかったな、メイド長のセツだ」
「……どうも、初めまして」

 控え目に挨拶をすると、セツさんは愉快そうに笑い声を漏らした。どうでも良い話だけれど、
この人は本当にメイド長なのだろうか。青海の話を疑うつもりはないけれど、長のポジションどころか
普通の仕事も出来ないような気がする。口には出さなかったけれども表情に出てしまっていたのか、
声を出すのを止めてこちらを見つめてきた。
「疑ってるな? あたしゃこれでも結構有能なんだぜ?」
「それはわたしが保証する」
  まだ二人しか見ていないので今判断するのは早計だと思うが、青海の家のメイドさんは
全員変人なのだろうかと疑ってしまった。しかしユキさんもそうだったし、青海が言うのならば
セツさんもきっと普段は大丈夫なのだろう。
「しっかし、旦那から評判は色々きいてたけど良い男だねぇ、昔の大旦那様にそっくりだ」
  婆さん喋りや今の態度など色々と突っ込みたい部分はあったが、一番気にかかったのは
僕のことを知っているということだ。青海が言っていたのならまだ分かるが、それ以外の人が知る程に
青海の家で有名になっているのだろうか。いや、なっているんだろう。
何せ変態僕グッズが部屋に溢れているようなことを青海は言っていたし。
「勘違いするんじゃないよ、お嬢もあたしも馬鹿じゃない。ただあたしゃ自分の旦那に聞いただけ
だからさ。落ち込むこたぁないさね」
「言い忘れたが、セツはユキの妻だ。色物夫婦で通っている」

 やはり青海もおかしいということは分かっているのか。もしかしたら二人の間に価値観の違いが
あるかもしれないと思っていたので、少し安心した。
  そして、一つの疑問が沸いてきた。
「青海、これは犯罪じゃないの?」
  ロリコン、と言わないのは精一杯の気遣いだ。最初に妻子持ちだと聞かされたときの、
誇らしいような照れ臭いような、いつもの穏やかな笑みの下に隠されたそんな大切ものを
妙な言葉で汚してはいけないと思ったからだ。
  しかしセツさんはげらげらと笑いながら、
「何言ってんだい、あたしゃもう三十路だよ。肌はまだまだ水を弾くがね」
  驚いた、この世の中は不思議なことが多いがこれは許容範囲の外側だった。
外見年齢が実年齢の半分以下なのは、正直なしだと思う。しかも、よく考えてみれば
セツさんはユキさんよりも年上。こんな外見で姉さん女房なんて、神は何を考えているのだろうか。
「ところで、何かあったのか?」
  思考の海を漂っていた僕の意識を引き戻したのは、青海の声だった。話がずれていたせいで
うっかり失念してしまっていたが、確かにメイドさんがこんな場所にいるのは妙だ。
メイド長ともあろう人が直々に来たのだからもしかしたら何かあったのかもしれないと思ったが、
もしそうなら愉快そうに話をしている訳がない。本当に理由が思い当たらず青海と同様に
疑問の視線を向けると、口の端が更に吊り上がった。

「旦那の頼みでさ、お嬢が膜をブチ抜かれてたら車で送ってくれと。軽くストーキングをしてたのは
悪いと思っちゃいるけどね。あれで結構心配性なんだよ」
  兄ちゃんも乗りな、と言いながら駐車場の角に向かって歩いて行く。はすっぱ、と言うよりも
破天慌なタイプだ。全く性格の違う二人の間にどんな経緯があったのかは分からないが、
きっと一番組み合わせが良いんだろうと思った。いつもゆったりとしているユキさんと、
はすっぱなセツさんは、しっかりとバランスが取れているような気がする。
「ん、どうした?」
  青海が尋ねてくる。
「いや、ユキさんもセツさんも幸せそうだと思ってね」
「そうだな、あれも理想系の一つだ」
  三人でメルセデスに乗り、セツさんの気合いの一言と共に荒っぽく発進した。ユキさんの場合
リムジンしか運転しているのしか見たことがないが、それでも他の車を運転したとき
こうならないのは分かる。
確かに早いのはこちらの方だと思うけれど、早さ以前の大切なものが足りないと思ってしまう。
  カーブに差し掛かったが、スピードは落ちない。寧ろ加速して、ドリフトで曲がった。
「あの、セツさん?」
「ん、何さね? あぁ、すまんね。スピードを出すのは揺れて股に響くか、
あたしも初めての後はそうだった。お嬢、大丈夫かい?」
「大丈夫だ、虎徹君が隣に居る」

 愛されてるねぇ、兄ちゃん。と言いながら、セツさんは軽快にハンドルを回した。
ふと気付いたのだが、前方を殆んど見ることが出来ないような身長と、力の弱そうな細い手足で、
まともな運転が出来るのだろうか。
  運転席を覗いてみると幾らか、いやかなり小造りになっているハンドルやシフトレバー、
ペダルが見えた。特注品なのだろうか。
「いや、しかしお嬢は幸せ者だねぇ。こんなに気遣ってもらえて」
「普通ですよ」
  言うと、セツさんはおかしそうに身をよじらせた。
「気に入った、兄ちゃん泊まっていきなよ」
  それは、どうだろうか。
「あまり強引に話を進めるな、虎徹君が困るだろう」
「でも、お嬢はそっちの方が嬉しいだろ?」
「それは、そうだが」
  視線を横に向ければ、青海の複雑そうな顔があった。こちらに何かを訴えかけるような表情と
目が合い、どうしようかと一瞬悩む。普段は堂々としていて意見もはっきりと言うタイプなのに、
その中には今のような弱さがある。だからこそ隣に居たいと僕は思って、
気が付いたら手の中には携帯が握られていた。
  家の番号を呼び出して数秒、幾らもしない内に繋がった。
「もしもし」
『あ、虎徹ちゃん? どうしたの?』

 姉さんの声には、いつもの張りがない。しかし弱いというわけではなく、
どこか憑き物が落ちたと言うか、落ち着いたものという感じがする。何かがあったのだろうかと思い、
聞こうと僅かに思ったが、止めた。本当に大切なことなら相手の方から言ってくれるだろう、
昔からそうだった。最近は話も少なくなってきたけれども、それでも言うべきことはお互いに
しっかりと言う仲だ。多分それは、ずっと変わらない。
  吐息を一つ。
「今日、青海の家に泊まるけど、良い?」
  数秒、反対されるだろうなと思っていたが、
『あんまり迷惑かけちゃ駄目だよ? サクラちゃんにはあたしから言っておくね』
  意外にも許可が出た。隣の青海も、珍しいものを見たような表情で携帯を眺めている。
父さんや母さんなら兎も角、姉さんが許可を出すとは思っていなかったらしい。
しかし僕は意外と言う程に意外とは思わなかった、最近の姉さんはかなり落ち着いている。
  もう、問題解決も近いかもしれない。
  そう思うと、自然と笑みが溢れてきた。
「許可は貰ったね? それじゃあ急ぐよ」
  今度は静かな運転で、しかし先程よりも加速した。

19虎

 青海の家で一晩を明かし、今は自分の家に帰る途中。昨晩の余韻を大切にしかったからなのか、
青海の申し出により二人きりで歩いていた。僕と青海の家の距離は約6km、そう長くもないが
決して短くもない。朝の空気を楽しみながら、そんな距離を歩いていた。
「しかし本当にアレは引いた、等身大リアル僕人形はやりすぎじゃない?」
「そうだな、こうして本人もこうして隣に居るし破棄を……出来ない! 愛着もあるし、
何より人形とはいえ虎徹君が酷い目に逢うのなど出来はしないさ!!
  あぁ、わたしはどうすれば良いんだ!!!!」
  黙ってあの妙なグッズ郡をまとめて捨ててしまえば良いと思う。
「それにしても朝からテンション高いね」
「当然だろう!」
  青海は強い笑みをこちらに向け、
「虎徹君と念願の一泊をして、昨日の夜から鼓動は全開。股の痛みも何のそのだ!!」
「待て、大声で妙なことを言うな」
  これ以上の発言は色々と不味い気がする。何せ青海の場合直球で喋るのが基本、
更には異常なまでに昂っているので、どんなことを言い出すのか分からない。
普段の言葉は直球なりにも照れや自制心というものが混じっているが、
それが見事に取り払われてしまった今、その先に展開するであろう地獄を想像するのは簡単だ。
僕はこの街が大好きなので、ここを離れて暮らすようなことはしたくない。
だから青海の口から絶え間なく垂れ流されている歓喜の声を止めようと口を塞ぐが、
すぐに振り解かれた。なんという力なのだろう、
恐ろしい、これが愛の力というものなのだろうか。これならば確かに大抵の問題は片付けることが
出来る筈だ、映画や漫画などでよく見られる不自然なパワーアップもあながち嘘ではないらしい。

 そのまま青海は軽いステップで数歩前に進むと、海でしていたときのようにスカートと髪を
風に遊ばせながらこちらに振り向いた。一瞬遅れて降下し、慣性のままに長い黒髪が頬を覆う。
それを掻き上げる仕草はやけに女らしいのにどこか幼くて、不思議な気持ちが沸き上がってきた。
  しかし、
「ご近所の皆様!! わたしこと織濱・青海と!! その恋人の守崎・虎徹君は!!
  初体験を昨日の昼にめでたく行い!! 更には二人仲良く朝帰りしています!!」
「言うなァ!!」
  幻想とは儚いもの、今身をもってその事実を体験した。しかし青海は青海なのであまり気にしない、
本人なのでこれから幾らでも見る機会はあるだろう。余韻に浸らず、今存在する青海を
見ていれば良い。と格好をつけて表現すれば幾らか聞こえは良くなるのだろうが、
要は気にしている程の余裕がないということだ。先程の絶叫連発に町内のどんな反応が
返ってくるのかと怯えるが、無反応だった。
  いや、違う。
  正確には、全包囲的に無視をされていた。日曜日の十時ともなればそれなりに聞こえる
生活の音が聞こえなくなり、日曜出勤らしいスーツ姿の中年男性に笑みを向けると
無言で顔を反らされた。周囲に視線を回してみても、皆が気不味そうな苦笑で微妙に顔を背けている。
近所の方々には、何と説明したら良いのだろうか。
  数秒。
  青海は笑みをこちらに向けると腕を組んで頷き、
「見てくれ虎徹君、皆余計な言葉は要らないと判断したらしく無言で祝福してくれている」
「それは違う」
  青海は不思議そうな表情を浮かべて少し考え込むが、すぐに理解したような顔になった。
「なるほど、虎徹君の言いたいことはよく分かった。つまり、わたし達の仲の良さを妬み嫉んで
いるのだな? 相対的に見れば、わたし達はここら一帯で一番の幸せペアだ!!」

「絶対的に見てここら一帯で一番蔑まれてるんだよ、特に僕が!!」
  青海のポジティブなところは美点だと思うが、暴走は良くない。
  そんなやりとりを続けながら歩いていると、家の玄関が見えてきた。それ程時間が経過したとは
思えないのに、早いものだ。楽しい時間はあっという間に過ぎてゆくというのは
子供でも知っているような常識だが、今はその事実が少しもったいなく思える。
  不意に、人影が見えた。
  門のところに寄りかかっていたので見えなかったのだろう、小柄なため丁度柱に隠れるように
立っている。こちらに気が付いたらしく、虎毛色の長いストレートを揺らしながら数歩進んで
睨むように僕達を見つめてきた。瞼が腫れ、鋭く細められた目は赤く染まっていて、
一晩泣き続けたのが一目で分かった。
  それと同時に後悔が沸き上がってくる。青海の家に泊まったことがではない、
そのことは半ば雰囲気に流された部分があるものの自分で決めたことなので悪く思うつもりはない。
いけなかったと思うのは、サクラに直接言葉をかけて説得しなかったことだ。
もしも拒否をしたとしても、それでもちゃんと昨日の内に本人に言っておくべきだったのだ。
  サクラは口元を暗い笑みに歪め、
「お泊まりは楽しかったですか、兄さん?」
  しゃがれた声で語りかけてきた。いつも通りに抑揚は少ないものの、決定的に違うものがある。
いつも僕を癒してくれた綺麗なソプラノが、その痕跡さえも見せない程に完全に消えていた。
サクラはその枯れた声で、小さく笑い声を漏らす。
「良かったですね、青海さん。たくさん愛してもらいましたか?」
「勿論だ、至上の幸福とは正にこのことだろう」

 でしょうね、と呟くとサクラはスカートの裾を揺らしながら寄ってくる。
かなり体力を消耗しているのだろう、足取りは重くふらついていて、まるで幼児のような速度だ。
亀にすらも追い抜かれるような歩みなのに、しかし逃げ切れる気はしなかった。
有無を言わせぬ迫力が、僕の足の動きを鈍らせている。
「兄さん」
  一歩。
「早く」
  一歩。
「家に」
  一歩。
「入りましょうよ」
  一歩。
「青海さんも」
  一歩。
「どうぞ」
  一歩。
  サクラは僕のところへ到達すると、恐ろしい力で手首を掴んできた。
そして家の中へと引きずり込むように強く引いてきて、危うくバランスを崩しそうになる。
足を踏みしめて堪えると、その反動でサクラの体が腕の中へと飛びこんできた。
「一日ぶりの兄さんの匂い。邪魔なものが混じってるけど、やっぱり最高」
  言いながら、嬉しそうに僕の胸に鼻を押し付けてくる。
  数秒。
  サクラがそうしていると、雨音のようなものが聞こえた。空は曇一つない日本晴れで、
当然雨など降ってくる訳がない。しかしその音は止む様子がなく、断続的に続いている。
「おい、サクラ君。何をしている? それは、何だ?」
  震えた青海の声で、サクラへと視線を向けた。そして僕に寄り添っているサクラの頭の向こう、
サクラの足下にアスファルトに幾つかの染みが見えた。それは音が一つする度に、
同じく一つずつ増えてゆく。
「あ、私ったらはしたないですね。つい興奮して」

 粘度が高いその液体は足を伝い、細い糸を引きながら落下してゆく。
「ほら、私も着替えたいですし、青海さんからも兄さんに、家に入るよう言って下さい。
それに青海さんも兄さんと早く気持ち良いことしたいでしょう? 上手いですからね。
私も着替えたらすぐに行くので盛り上がっていて下さい」
  止めろ。
「何の、ことだ?」
  それ以上。
「あれ、聞いていないんですか? 兄さんから」
  言うな。
「やけに手慣れてると思いませんでしたか?」
  もう。
「兄さんは私や姉さんと、毎日毎晩していたんですよ」
  言わないでくれ。
「嘘だ!」
  青海が、叫ぶ。
「嘘じゃないですよ、本当です。信じるも信じないも勝手ですけど、邪魔はしないで下さい」
  青海を睨むサクラの表情は、果てしなく暗い色に満ちていた。これを見るのは三度目になる。
一度目は二年前、二度目は僕に青海が告白してきたときだ。
しかも今回はあの娘を病院送りにしたときよりも更に深い、殺意すらも読み取れない程に濁っている。
  嫌な、予感がした。
「今すぐ虎徹君から離れろ」
「……うるさいですねぇ」
  青海の言った通りにサクラは僕から離れたが、これは不味い。この状況はまるで二年前の再現だ。
姉さんが居ないことと相手の娘が違うことを除けば、寸分違わない。
場所も、立ち位置も、サクラの声も、全員の表情も。
「サクラ、止め……」
「死ね」
  トラックが迫り来る光景の中、気だるげな声と共に青海は突き飛ばされた。

Side姉虎

 虎徹ちゃんの声が聞こえてきた直後、部屋の戸が勢い良く開く音が聞こえた。
続いて、廊下を慌ただしい様子で走る音が聞こえる。その音の主が誰なのかは
確認するまでもないだろう、間違いなくサクラちゃんだ。いつもの落ち着いた歩きじゃないのは、
きっと虎徹ちゃんを待つ気持ちが抑えきれなくなったからだ。普段ならここで虎徹ちゃんが
注意をするところだけれど、肝心の虎徹ちゃんは外に居る。
そもそも、その虎徹ちゃんを出迎えるために、サクラちゃんは走っているのだ。
  あたしが注意をするべきなのかな、と一瞬思ったけれど、その考えをすぐに自分で否定をする。
こうなっている元々の原因は、あたしにある。
  昨日の電話の後、目を泣き腫らして帰ってきたサクラちゃんを上手く説得出来なかった。
やろうと思えば出来たのかもしれないけれども、出来なかったのだ。あんなにも悲痛な目をした妹に、
強い言葉を使ったりするのは無理だった。他の方法を使うことも考えたけれども、
結局は自分の意思に止められた。人の心を動かすのはそれなりに得意だけれども、
その結果泣いているサクラちゃんを作ってしまったからだ。人の心はというものは、
自分で壊れていくような弱くて脆いものではない。社会が、世間が、流れが、人が壊していくものだ。
例え悪意があってもなくても、逆に善意があってもなくてもそれは変わらない。
そして今回はあたしが、しかも悪意を持って壊してしまった。

 ごめんなさい。
  宛てのない言葉を心の中で呟いた。これは口に出すべきではない、そう思う。
行くべきところがない想いを誰かに向けるのは失礼だし、口に出したら消えていってしまうような
気がする。虎徹ちゃんか、青海ちゃんか、それともサクラちゃんか、それを確かに届けるために
もう一度心の中で呟いて立ち上がった。
  玄関の戸を開くと、門のところで隠れるようにサクラちゃんが立っているのが見えた。
多分原因は、聞こえてくる声。種類は二つ、片方は普段から聞き慣れている、男の人特有の低いもの。
長年親しんものというだけが理由ではない、好きだったからこそわかる声、虎徹ちゃんのものだ。
そしてもう片方、サクラちゃんの綺麗なソプラノとは違う、女性にしては低めで落ち着いた声。
つい最近からだけれども毎日聞いていたので、これもすぐに分かった。
虎徹ちゃんの隣で喜色を浮かべ、大きめの声を出しているのは、
  青海ちゃんだね。
  その単語を思い浮かべると、少しだけ胸が痛んだ。初恋を終わらせた原因の娘。
違う、正しく言うのなら終わらないと思っていた気持ちが終わり、
実らないと教えてくれたこの半月程の日々のきっかけになった娘の名前は、
それだけのものを持ってあたしの心の中に存在している。
以前浮かんでいた苛立ちや怒りなどの悪いものがないのは、
終わったものだと理解しているからだろう。

 しかし理性ではそうしたものとしているものの、心の奥の方ではそうではないらしい。
名残と言うのか、それとも未練と表現するのか。きちんとふっきれていない部分が、こう
した痛みを与えてくるのだろう。
  サクラちゃんは、どうなのかな。
  もしかしたら、同じようなのかもしれない。あたしが今こうして玄関の戸を中途半端に開いて
立ち止まっているように、サクラちゃんも見えないような位置で待っているのかもしれない。
そうだとするのなら、注意をすれば簡単に見付かるような立ち位置なのは
その気持ちの現れなのだろう。その気持ちはあたしのものよりも、ずっと強い筈だ。
  表にはあまり出さなかったけれど、サクラちゃんは昔から虎徹ちゃんに依存していた。
こんな表現をするのは好きじゃないけれど、はっきり言ってサクラちゃんはあまり
出来の良くない娘だった。あたしが勉強も運動もこなせる器用な部類に入るタイプの人間だったから、
それはより顕著に現れた。それだけじゃない、外見もそうだ。サクラちゃんが美人だという考えは
誰に訊いても肯定の意見が返ってくると思うけれども、体つきが幼いのもまた事実なのだ。
あたしとは二歳程年が離れているけれど、それだけの期間だけでは確実に埋められない差が存在する。
だから事あるごとに周囲に比較されてきた。されていないときでも、
きっと劣等感を持っていたに違いない。そんなサクラちゃんに対しても平等に、
寧ろやや過保護にしてきた虎徹ちゃんにべったりだった。
あたしにしか分からなかったと思うけれども、分かる人が見たらそれはもう異常とも思える程に。

 あたしが言えた義理じゃないけどね。
  自嘲気味に考える。しかし、あたしのそれよりも激しく、熱く、深くその想いがあるのは
分かっていた。それを利用して、今回の悲劇を作り出してしまう程に。
  ごめんなさい。
  再び、心の中で呟いた。今度は部屋の中で考えていたときとは違う、向かう先が明確になったもの。
虎徹ちゃんと、青海ちゃんと、そして一番の被害者であるサクラちゃんへと向けたもの。
それぞれの人に向け、それぞれの想いを持って言葉を投げる。
  数十秒。
  それだけの時間をもって終えると、まるでそれを見計らったかのようにサクラちゃんが動いた。
泣き疲れのせいなのか、心の問題なのか、それとも両方なのか。虎徹ちゃん達に近付いてゆく足取りは
弱いもので、今にも倒れそうな感じがする。辿り着いた後の横顔も弱々しいもので、
笑みを浮かべている筈なのにいつもの強さをまるで感じない。
  不意に、既視感。
  どこで見たものだっただろうかと思考し、すぐに答えがやってきた。過去に何度か見たものだ。
あるときはサクラちゃんを見て、またあるときは鏡の中で。
  それと同時に、一つの答えがやってくる。それを防ぐ為、体は勝手に動き出していた。
「死なないで!!」
  この言葉が誰に向けたものなのかも分からない。しかし意味を成す為に、自分の言葉を信じて、
明確な意思をもって身を躍らせた。走り出した後にやっと現状を理解して付いて
きた心が、強く体を動かしてくる。

 駄目。
  死んだら、駄目。
  その想いを持って踏み出した脚は、一歩目からトップスピードに入る。
間に合う為に、間に合わせる為に、誰も傷が付かないように、誰も死なないようにする為に。
それだけを願ってただひたすらに、皆のところへ疾駆する。
  もう、悲劇は起こさせない。
  今のよりもずっと小さな暴力は、過去に幾つもあった。虎徹ちゃんに近付く女の子達を
片っ端から排除していたから、その数は両手の指どころか両足の指を足しても足りない。
それこそ数えきれないくらいにある。ただの友達だという人が殆んどだったろうけれど、
中には本気で好きだった女の子が居るかもしれない。その分、悲しみが産まれてきた。
  そして今と同じくらい大きなものもあった。二年程前、虎徹ちゃんと恋人になりかけた女の子を
病院送りにしてしまった。それは事故だったということになっているし、
その娘の両親の都合で引っ越した後送られてきた手紙では健康でいるらしいことも書いてあった。
彼女にとって何の障害にもならなかったらしいけれども、あたし達自身の悪意によって
傷付けてしまったのも確かだし、そこには絶対に悪いものがあった。
  償いになるとは思わない、けれどその連鎖を断ち切ることは出来る。
  違う。
  断ち切らなければ、いけない。
  間に合って、お願い。
  声にならないものを胸の中で叫び、あたしは青海ちゃんに手を伸ばした。

終虎

 不味い。
  突き飛ばされた青海の行く先、ガードレールの向こうで大型のトラックが速度を出して走ってくる。
最悪の光景が脳裏に浮かび、僕はこちらに手を伸ばしながら倒れてゆく青海に向かって手を伸ばす。
助かってほしい、という想いをもって掴もうとしたが、
「邪魔しないで下さい」
  指先が僅かに擦れたところでサクラに引き戻され、離れてしまう。
  また、救えないのか。
  絶望が僕の意識を刈り取ろうとするが、逃げては駄目だと意思の力で抑え込む。
今までさんざん逃げてきたその代償がここに来ているのなら、それをしっかりと払わないと
全てが駄目になってしまうような気がする。
  サクラの手を振り払い、青海に向き直った直後、白い手が見えた。
続いて、翻る虎毛色のウェーブのかかった長髪が見え、それは一瞬で僕の隣を高速で通り過ぎてゆく。
  見覚えのあるその人影は、
「姉さん?」
  間違いない、見間違える筈がない。
  姉さんは青海の手を掴むと、身を回して青海の体を大きく降り、こちらに投げ飛ばす。
振り向いたことで見えたその表情は、長年見たことがなかった必死なもの。
表情が豊かな姉さんの中で、唯一あまり見なかったものだ。それとは対照的に呆然としていた青海は
勢いのままに僕の腕の中に収まり、こちらをぼんやりとした表情でこちらを見上げてくる。
青海の無事を喜びたいが、それどころではない。
「姉さん、後ろ!!」

 一瞬。
  倒れ込むように一歩踏み出したのと同時に、トラックが文句のクラクションを鳴らして
通り過ぎてゆく。僕の声に驚いたのか青海が元の表情を取り戻して、慌てて振り返った。
「うあぁ、痛いよぅ」
  僕と青海の視線の先、座り込んだ姉さんの膝は擦り剥けて血が滲んでいる。
トラックに衝突するよりずっと軽い怪我だ、まずは怪我人らしい怪我人が出ていないことに安堵した。
僕が救った訳ではないけれど、それでも嬉しかった。
「大丈夫か、虎百合さん」
「姉さん、立てる?」
「ん、大丈夫」
  そう言って立ち上がろうとするが、すぐにバランスを崩して再び腰を落とした。
ガードレールにもたれながら僕達を見上げ、照れ臭そうに頬を掻く。
相変わらず、姉さんのその表情や仕草は幼く見える。つい数秒前の真剣な表情は消え去っていて、
言われなければ、いや言われてもそんな顔をしていたのは信じられないだろう。
「あはっ、無理みたい。ごめんね、もうちょっとこのままで」
  それは良い。
「そんなのより」
  姉さんは青海の顔を見て、
「初めて、名前で呼んでくれた」
「そうだっただろうか?」
  言われてみれば、確かにそんな記憶がない。もしかしたら呼んだこともあったかもしれないが、
どんなに思い出そうとしても浮かんでこない。あったのは、喧嘩をしていたり、
いがみあったり、意地を張ったりしているような光景のような気がする。それだけ濃く、
激しかったということだろうか。

 しかし姉さんは青海の態度を気にした様子もなく、サクラの方を向いた。
「姉さん、何で」
「サクラちゃん、ちょっとこっち来て」
  脅えたような表情で姉さんの手招きに寄せられ、指示を受けてしゃがみ込む。
「サクラちゃん、メッ!」
  快音。
  幼い子供を叱るような声と共にサクラの額にデコピンを叩き込むと、
姉さんはこちらを再び見上げてきた。
「そんな訳でサクラちゃんはあたしが叱ったから、二人ともサクラちゃんを怒らないでね」
  その言葉を聞いて、額を押さえながらサクラもこちらを見上げてくる。
涙目なのは多分感動や悲しみなどではなく、純粋に物理的な痛みのせいだろう。
デコピンとは思えない程大きく激しい音がしていたが、大丈夫なのだろうか。
「あれ、痛かった? ごめんね、お姉ちゃん思わず超フルパワーでやっちゃった」
  超フルパワーて、あなた。
「兎に角、もうサクラちゃんを怒らないでね。それに、悪いのは全部あたしだし」
「姉さん、私をかばわなくても」
  姉さんは笑みを悲しげなものに変えるとサクラを抱き、青海を見つめた。
「本当にごめんね、サクラちゃんは悪くないの。だから恨むならあたしにして」
  緊張の糸が切れたのか、姉さんの胸に顔を埋めてすすり泣くサクラの背を撫でながら、
僕の顔を見る。浮かんでいたのは、限りなく優しい笑顔。
「虎徹ちゃんも、辛かったよね。本当に、ごめんね」
「そんなに気にしなくても」

 辛くなかったかと言われたら、それば絶対に否だ。しょっちゅう罪悪感や恐怖に捕われていたし、
特に最初のときなどは恐怖のあまりまともに生活出来なかった。
今でこそ青海が隣に立ってくれているから何とか耐えていられるものの、そうなるまでの期間は
地獄を体験していたと言っても過言じゃない。
  しかし姉さんを恨んでいるのかと問われれば、それもまた否なのだ。二年前にあの娘を
事故にあわせたときだって、今回の一連の出来事の黒幕だったと聞かされたって、
何故か不思議とそんな気持ちは沸いてこない。どんなになったって、どんな事をしたって、
僕の姉さんはただ一人なのだ。許すとか許さないとか、恨むとか恨まないとか、
そんなものは関係なしに僕の中に姉さんは存在している。勿論、未だ泣き続けているサクラも同じだ。
家族としての繋がりが、一番上にある。
  だから僕は吐息を一つ。
「気にしてないよ」
  殺されかけた青海としてはあまり気分の良い言葉ではないかもしれないけれど、
敢えてサクラと姉さんに告げた。こちらを振り向いたサクラは顔を酷く歪めていて、
姉さんも今にも泣きそうな顔をしている。二人とも何か言いたそうにしている様子だが、
しかし言葉が口から吐き出されることはない。
  数秒。
  無音を打ち破るように、青海が音をたてて一歩踏み出した。
「虎百合さん、あなたがしたことを聞かせてもらおうか?」
「青海」
  呼び止めると、微笑んでこちらを振り向いた。

「勘違いするなよ、虎徹君。わたしはそんなに下らない女じゃない」
  そう言って、再び姉さんを見下ろした。
「うん、ありがと。訊いてくれて。そうだね、最初に無理矢理迫って虎徹ちゃんの初めてを
強奪したのはあたし。サクラちゃんを挑発して虎徹ちゃんとエッチさせたのも、あたし。
それから、サクラちゃんを煽ってけしかけさせたのも、あたし。だから、サクラちゃんは
何も悪くないの。それだけは、分かって」
  黙って聞いていた青海は軽く頷き、
「そうか」
  と一言だけ答えた。
  数秒。
「で、それがどうした? どこに問題がある?」
  その答えに、姉さんは目を丸くした。泣いていたサクラも、一瞬声を止める。
「虎徹君の初めてを奪われたのは悔しいが、それはそのときわたしの気持ちが負けていたからだろう。
サクラ君のも同じだ、ベタ惚れなのは分かっていたしな。今のことだって、
嫉妬からついカッとなって突き飛ばしただけだろう。初対面のときに虎百合さんがわたしにしたのと
同じことだ。ほら、全然問題ない」
  それは、少し無茶じゃないだろうか。
「第一、虎徹君と恋人になって世界一、いや、この世あの世含めて最高の幸せ者になった
わたしからしてみればそんな事故など障害にもならない。世界を満たすわたし達の愛は、
そんなものは軽く超越済みだ!!」
  青海は吐息で一拍置いて、
「それに嫁になるからには家族を大切にしないとな、ギクシャクした家庭は毒にしかならないのは
最底辺の馬鹿でも分かっていることだ」
「……青海」

「惚れ直したか、虎徹君」
  そんな生易しいものじゃない、僕は青海を恋人に出来たことを心から誇りに思う。
「惚れ直したなら、乳でも何でも好きに揉んで良いぞ? いや寧ろ揉んでくれ頼む!!」
  こんなときにまで妙な発言をするなんて、やはり青海は青海だ。下らないとも思うが、
これは良い意味でのものだ。青海も期待に満ち溢れた目でこちらを見ているし、
僕もその期待に答えようと思わず青海の乳に手を伸ばしかけたとき、
「そんな」
サクラが立ち上がった。
「そんなことを言われたら、こっちも青海さんを受け入れるしかないじゃないですか」
  一瞬後、サクラは止まっていた涙を再び流しながら青海に抱きついた。胸に顔を埋め、
大きく泣き声をあげる。続いて姉さんも立ち上がるとサクラと同じように青海に抱きつき、
すすり泣き始めた。
「二人とも、気にしな……あ、こら、わたしの乳は虎徹君と将来の子供専用だ!! 揉むな、ほぐすな、
そんなに顔を押し付けるんじゃない!!」
  何だろう、この展開は。つい先程まで感動的な場面だった筈なのに、どうしてこんなに
ふざけた状況になっているんだろう。余韻も何もあったもんじゃない。
  しかし、
「悪くないね」
  漸く、いつもの日常が戻ってきたような気がした。ふざけて、笑って、楽しんで。
それは青海が加わってきても変わらない、寧ろより一層楽しいものになっている。
「すまんな、虎徹君。乳は後のお楽しみとしておこう」
「そうだね、楽しみにしておくよ」
  二人分の泣き声と二人分の笑い声が、青空に響いた。

 

追記

 

 あれから六年が経った。今では僕も社会人として働きつつ、去年はめでたく二児の父となった。
青海もサクラも姉さんも昔と変わらず、騒がしい毎日だ。
  現に今も耳を澄ますと、
「青海さん、少し塩が濃いんじゃないですか?」
「それから洗濯物、早く干してね」
  小姑がよく口にする言葉が聞こえてくる。これは聞かなかったことにした方が良かったのでは
ないだろうか。と言うか、娘達の教育に悪いのでこういった発言は控えてほしい。
  まぁ、これは我が家コントのよくある一場面なので無視をしても良いのだろう。
洒落で済んでいることを心から願う。昔のようになっては堪らない。
「虎百合さんもサクラ君も、そろそろ止めてくれ。娘達が言葉を覚え始めたし……何よりも
ちょっと目が洒落になっていない。そのどんよりと濁ったのは教育に悪い」
  ……洒落で済んでいることを心から願う。
「それよりも虎徹君、聞いてくれ。昨日虎雪と虎姫が新しい言葉を覚えたんだ」
「マジか!? さすが青海の娘だ、天才じゃないか!?」
「兄さん、すっかり親馬鹿になって」
「この娘達には伝染さないでね」
  何故か姉さんやサクラが目元を拭っているが、どうしたのだろうか。いや、冷静に考えてみれば
答えは実にシンプルだ。これはつまり、娘達のあまりの天才ぶりに感動しているのだろう。
きっとそうだ、そうに違いない。
  愛しい娘達を撫でようと視線を青海の方へと向けると、何故か距離が開いていた。
「あれ、どうした青海」

「気にしないでくれ、これも母の務めだ。それよりも、ほら、聞いてくれ」
  青海は両腕に抱いた娘達をサクラと姉さんに向け、
「この人達は誰かなぁ?」
  二人は声を揃え、
「「おばちゃん!!」」
  空気が固まった。
「落ち着け、娘達には罪はない!!」
「……そうですね」
「……うん、そうだよね」
  顔は笑みだが、額に青筋が浮かんでいる。しかし本当に怒っている訳ではのではないのが
雰囲気で分かる。既に青海も我が家の一員なのだ。そんな空気が僕はとても愛おしい。
殺虎さんは三匹の虎を殺したらしいが、ちゃんと心で近付けばこうして仲良くすることも、
幸せになることも出来るのだ。
「あなたたち、朝から元気ねえ。それより、ご飯出来たわよ」
  気が付くと、テーブルには朝食が並んでいた。それを見ると皆定位置に座る。
  ここからは昔から変わらない場面。青海と娘達、三人増えても変わらない。
  皆声を揃えて、
「「「「「「いただきます」」」」」」

『"The Double Tiger Sisters"Strike Ster Story』is END

2006/10/19 完結

 

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