不味い。
突き飛ばされた青海の行く先、ガードレールの向こうで大型のトラックが速度を出して走ってくる。
最悪の光景が脳裏に浮かび、僕はこちらに手を伸ばしながら倒れてゆく青海に向かって手を伸ばす。
助かってほしい、という想いをもって掴もうとしたが、
「邪魔しないで下さい」
指先が僅かに擦れたところでサクラに引き戻され、離れてしまう。
また、救えないのか。
絶望が僕の意識を刈り取ろうとするが、逃げては駄目だと意思の力で抑え込む。
今までさんざん逃げてきたその代償がここに来ているのなら、それをしっかりと払わないと
全てが駄目になってしまうような気がする。
サクラの手を振り払い、青海に向き直った直後、白い手が見えた。
続いて、翻る虎毛色のウェーブのかかった長髪が見え、それは一瞬で僕の隣を高速で通り過ぎてゆく。
見覚えのあるその人影は、
「姉さん?」
間違いない、見間違える筈がない。
姉さんは青海の手を掴むと、身を回して青海の体を大きく降り、こちらに投げ飛ばす。
振り向いたことで見えたその表情は、長年見たことがなかった必死なもの。
表情が豊かな姉さんの中で、唯一あまり見なかったものだ。それとは対照的に呆然としていた青海は
勢いのままに僕の腕の中に収まり、こちらをぼんやりとした表情でこちらを見上げてくる。
青海の無事を喜びたいが、それどころではない。
「姉さん、後ろ!!」
一瞬。
倒れ込むように一歩踏み出したのと同時に、トラックが文句のクラクションを鳴らして
通り過ぎてゆく。僕の声に驚いたのか青海が元の表情を取り戻して、慌てて振り返った。
「うあぁ、痛いよぅ」
僕と青海の視線の先、座り込んだ姉さんの膝は擦り剥けて血が滲んでいる。
トラックに衝突するよりずっと軽い怪我だ、まずは怪我人らしい怪我人が出ていないことに安堵した。
僕が救った訳ではないけれど、それでも嬉しかった。
「大丈夫か、虎百合さん」
「姉さん、立てる?」
「ん、大丈夫」
そう言って立ち上がろうとするが、すぐにバランスを崩して再び腰を落とした。
ガードレールにもたれながら僕達を見上げ、照れ臭そうに頬を掻く。
相変わらず、姉さんのその表情や仕草は幼く見える。つい数秒前の真剣な表情は消え去っていて、
言われなければ、いや言われてもそんな顔をしていたのは信じられないだろう。
「あはっ、無理みたい。ごめんね、もうちょっとこのままで」
それは良い。
「そんなのより」
姉さんは青海の顔を見て、
「初めて、名前で呼んでくれた」
「そうだっただろうか?」
言われてみれば、確かにそんな記憶がない。もしかしたら呼んだこともあったかもしれないが、
どんなに思い出そうとしても浮かんでこない。あったのは、喧嘩をしていたり、
いがみあったり、意地を張ったりしているような光景のような気がする。それだけ濃く、
激しかったということだろうか。
しかし姉さんは青海の態度を気にした様子もなく、サクラの方を向いた。
「姉さん、何で」
「サクラちゃん、ちょっとこっち来て」
脅えたような表情で姉さんの手招きに寄せられ、指示を受けてしゃがみ込む。
「サクラちゃん、メッ!」
快音。
幼い子供を叱るような声と共にサクラの額にデコピンを叩き込むと、
姉さんはこちらを再び見上げてきた。
「そんな訳でサクラちゃんはあたしが叱ったから、二人ともサクラちゃんを怒らないでね」
その言葉を聞いて、額を押さえながらサクラもこちらを見上げてくる。
涙目なのは多分感動や悲しみなどではなく、純粋に物理的な痛みのせいだろう。
デコピンとは思えない程大きく激しい音がしていたが、大丈夫なのだろうか。
「あれ、痛かった? ごめんね、お姉ちゃん思わず超フルパワーでやっちゃった」
超フルパワーて、あなた。
「兎に角、もうサクラちゃんを怒らないでね。それに、悪いのは全部あたしだし」
「姉さん、私をかばわなくても」
姉さんは笑みを悲しげなものに変えるとサクラを抱き、青海を見つめた。
「本当にごめんね、サクラちゃんは悪くないの。だから恨むならあたしにして」
緊張の糸が切れたのか、姉さんの胸に顔を埋めてすすり泣くサクラの背を撫でながら、
僕の顔を見る。浮かんでいたのは、限りなく優しい笑顔。
「虎徹ちゃんも、辛かったよね。本当に、ごめんね」
「そんなに気にしなくても」
辛くなかったかと言われたら、それば絶対に否だ。しょっちゅう罪悪感や恐怖に捕われていたし、
特に最初のときなどは恐怖のあまりまともに生活出来なかった。
今でこそ青海が隣に立ってくれているから何とか耐えていられるものの、そうなるまでの期間は
地獄を体験していたと言っても過言じゃない。
しかし姉さんを恨んでいるのかと問われれば、それもまた否なのだ。二年前にあの娘を
事故にあわせたときだって、今回の一連の出来事の黒幕だったと聞かされたって、
何故か不思議とそんな気持ちは沸いてこない。どんなになったって、どんな事をしたって、
僕の姉さんはただ一人なのだ。許すとか許さないとか、恨むとか恨まないとか、
そんなものは関係なしに僕の中に姉さんは存在している。勿論、未だ泣き続けているサクラも同じだ。
家族としての繋がりが、一番上にある。
だから僕は吐息を一つ。
「気にしてないよ」
殺されかけた青海としてはあまり気分の良い言葉ではないかもしれないけれど、
敢えてサクラと姉さんに告げた。こちらを振り向いたサクラは顔を酷く歪めていて、
姉さんも今にも泣きそうな顔をしている。二人とも何か言いたそうにしている様子だが、
しかし言葉が口から吐き出されることはない。
数秒。
無音を打ち破るように、青海が音をたてて一歩踏み出した。
「虎百合さん、あなたがしたことを聞かせてもらおうか?」
「青海」
呼び止めると、微笑んでこちらを振り向いた。
「勘違いするなよ、虎徹君。わたしはそんなに下らない女じゃない」
そう言って、再び姉さんを見下ろした。
「うん、ありがと。訊いてくれて。そうだね、最初に無理矢理迫って虎徹ちゃんの初めてを
強奪したのはあたし。サクラちゃんを挑発して虎徹ちゃんとエッチさせたのも、あたし。
それから、サクラちゃんを煽ってけしかけさせたのも、あたし。だから、サクラちゃんは
何も悪くないの。それだけは、分かって」
黙って聞いていた青海は軽く頷き、
「そうか」
と一言だけ答えた。
数秒。
「で、それがどうした? どこに問題がある?」
その答えに、姉さんは目を丸くした。泣いていたサクラも、一瞬声を止める。
「虎徹君の初めてを奪われたのは悔しいが、それはそのときわたしの気持ちが負けていたからだろう。
サクラ君のも同じだ、ベタ惚れなのは分かっていたしな。今のことだって、
嫉妬からついカッとなって突き飛ばしただけだろう。初対面のときに虎百合さんがわたしにしたのと
同じことだ。ほら、全然問題ない」
それは、少し無茶じゃないだろうか。
「第一、虎徹君と恋人になって世界一、いや、この世あの世含めて最高の幸せ者になった
わたしからしてみればそんな事故など障害にもならない。世界を満たすわたし達の愛は、
そんなものは軽く超越済みだ!!」
青海は吐息で一拍置いて、
「それに嫁になるからには家族を大切にしないとな、ギクシャクした家庭は毒にしかならないのは
最底辺の馬鹿でも分かっていることだ」
「……青海」
「惚れ直したか、虎徹君」
そんな生易しいものじゃない、僕は青海を恋人に出来たことを心から誇りに思う。
「惚れ直したなら、乳でも何でも好きに揉んで良いぞ? いや寧ろ揉んでくれ頼む!!」
こんなときにまで妙な発言をするなんて、やはり青海は青海だ。下らないとも思うが、
これは良い意味でのものだ。青海も期待に満ち溢れた目でこちらを見ているし、
僕もその期待に答えようと思わず青海の乳に手を伸ばしかけたとき、
「そんな」
サクラが立ち上がった。
「そんなことを言われたら、こっちも青海さんを受け入れるしかないじゃないですか」
一瞬後、サクラは止まっていた涙を再び流しながら青海に抱きついた。胸に顔を埋め、
大きく泣き声をあげる。続いて姉さんも立ち上がるとサクラと同じように青海に抱きつき、
すすり泣き始めた。
「二人とも、気にしな……あ、こら、わたしの乳は虎徹君と将来の子供専用だ!! 揉むな、ほぐすな、
そんなに顔を押し付けるんじゃない!!」
何だろう、この展開は。つい先程まで感動的な場面だった筈なのに、どうしてこんなに
ふざけた状況になっているんだろう。余韻も何もあったもんじゃない。
しかし、
「悪くないね」
漸く、いつもの日常が戻ってきたような気がした。ふざけて、笑って、楽しんで。
それは青海が加わってきても変わらない、寧ろより一層楽しいものになっている。
「すまんな、虎徹君。乳は後のお楽しみとしておこう」
「そうだね、楽しみにしておくよ」
二人分の泣き声と二人分の笑い声が、青空に響いた。
追記
あれから六年が経った。今では僕も社会人として働きつつ、去年はめでたく二児の父となった。
青海もサクラも姉さんも昔と変わらず、騒がしい毎日だ。
現に今も耳を澄ますと、
「青海さん、少し塩が濃いんじゃないですか?」
「それから洗濯物、早く干してね」
小姑がよく口にする言葉が聞こえてくる。これは聞かなかったことにした方が良かったのでは
ないだろうか。と言うか、娘達の教育に悪いのでこういった発言は控えてほしい。
まぁ、これは我が家コントのよくある一場面なので無視をしても良いのだろう。
洒落で済んでいることを心から願う。昔のようになっては堪らない。
「虎百合さんもサクラ君も、そろそろ止めてくれ。娘達が言葉を覚え始めたし……何よりも
ちょっと目が洒落になっていない。そのどんよりと濁ったのは教育に悪い」
……洒落で済んでいることを心から願う。
「それよりも虎徹君、聞いてくれ。昨日虎雪と虎姫が新しい言葉を覚えたんだ」
「マジか!? さすが青海の娘だ、天才じゃないか!?」
「兄さん、すっかり親馬鹿になって」
「この娘達には伝染さないでね」
何故か姉さんやサクラが目元を拭っているが、どうしたのだろうか。いや、冷静に考えてみれば
答えは実にシンプルだ。これはつまり、娘達のあまりの天才ぶりに感動しているのだろう。
きっとそうだ、そうに違いない。
愛しい娘達を撫でようと視線を青海の方へと向けると、何故か距離が開いていた。
「あれ、どうした青海」
「気にしないでくれ、これも母の務めだ。それよりも、ほら、聞いてくれ」
青海は両腕に抱いた娘達をサクラと姉さんに向け、
「この人達は誰かなぁ?」
二人は声を揃え、
「「おばちゃん!!」」
空気が固まった。
「落ち着け、娘達には罪はない!!」
「……そうですね」
「……うん、そうだよね」
顔は笑みだが、額に青筋が浮かんでいる。しかし本当に怒っている訳ではのではないのが
雰囲気で分かる。既に青海も我が家の一員なのだ。そんな空気が僕はとても愛おしい。
殺虎さんは三匹の虎を殺したらしいが、ちゃんと心で近付けばこうして仲良くすることも、
幸せになることも出来るのだ。
「あなたたち、朝から元気ねえ。それより、ご飯出来たわよ」
気が付くと、テーブルには朝食が並んでいた。それを見ると皆定位置に座る。
ここからは昔から変わらない場面。青海と娘達、三人増えても変わらない。
皆声を揃えて、
「「「「「「いただきます」」」」」」
『"The Double Tiger Sisters"Strike Ster Story』is END |