タクシー代を立て替えてくれたユキさんにお礼を言いながら、玄関まで走った。
胸の中には何故、という気持ちが渦巻いている。何もかもが上手くいかない。
せっかく罪を持つ意味が分かったというのに、その矢先に全てが終わろうとしている。
舌打ちをして玄関の扉を開き、乱暴に靴を脱いでリビングに駆け込んだ。
一瞬、何が起きているのか分からなかった。
小刀が脇腹に刺さった姉さんが床に倒れている。衣服は赤く染まっていて、多分止血用に
その上に巻かれた布も同じ状態だ。意識がないのか目は閉じられている。刺されている
のにその表情は安らかで、まるでそのことが当然であるかのように微笑みを浮かべていた。
こんな異常な状態でなければ、ただ幸せな夢を見ながら眠っているように見える。
その隣に座っているサクラも同じだ。返り血なのか、所々が赤く染まった体だが、
それ以外はまるで普通に談笑しているかのような表情で姉さんを見つめている。上半身が
何故か裸で、しかも手に包丁を持っているということを除けば、日常と何ら変わりはない。
あまりのことに言葉を出すのを忘れ、ただ眺めているとサクラが振り返った。
露出した胸元を隠そうともせず、小さな笑みを漏らしながら、
「早かったですね」
「タクシー使ったからね」
今言うべきことはそれじゃないだろう、と自分に喝を入れるが、麻痺した思考は
まともな言葉を紡いでくれない。この場にふさわしくない、茶化すような声で、
「随分と大胆な格好だね」
「あ、これは」
今頃になってやっと自覚したのだろうか、恥ずかしそうに顔を赤らめて腕で乳を隠し、
「兄さんが予想よりもずっと早く来てくれたのが嬉しくて、すっかり失念していました。
これは、その、上着を姉さんの止血に使ったので。決して変な趣味じゃないです」
血で染まりすぎていたせいで分からなかったが、確かによく見てみれば浸透していない部分と
ズボンの色が同じものだと分かる。それだけ急ぎで、しかも自分の格好のことを忘れるくらい
一生懸命だったのだろう。僕が帰宅するまで保つように。
そこまで考えて、自分が何故急いで帰宅したのかを思い出した。
「おい、死ぬって何だよ?」
「あ、忘れてました」
サクラはまるで醤油でも買い忘れたかのような軽い調子で言うと、恥ずかしそうに
首筋に包丁を当てて、
「私、死にます」
言い終えるのと同時、横に引いた。
「な!?」
傷口から鮮血が溢れ、サクラはゆっくりと体を倒していく。
「思ってたよりも、キツいですね」
こいつは何を馬鹿なことをしているんだ、簡単に死のうとしたり人を殺そうとしたり、
しかもこんな状況なのに笑っていたり。姉さんも姉さんだ、何で脇腹を刺されているのに
笑っているんだ。全く理解が出来ない、思考が追い付いてこない。
「あの、兄さん?」
呆然としていた僕を現実へと引き戻したのは、不意に袖口にかかった弱い圧力だった。
摘むようにしてシャツを引かれる感触や、呼ぶ声に反応してサクラを見た。目が合うと、
上目遣いでサクラが顔を覗き込んでくる。
現実逃避のように可愛い、と思うが、しかし首元から流れる血によってその思考は
中断させられた。肌の上を滑る赤のラインは蠱惑的で確かに綺麗だと思うが、今はそれよりも
恐怖の方が遥かに上回っている。
「兄さん?」
「何、だよ?」
もう一度来た僕を呼ぶ声に応えたのは、かすれた声。
「死ぬのって、辛いですね」
「そうだよ!!」
今度は、大きな声が出た。
「何で、こんな馬鹿なことをしたんだよ」
数秒。
時間が経つのをもったいないと思いながら待ち、それだけの間を置いてサクラは
答えを返してきた。顔に浮かべたのは強い笑み、微笑だった口元を三日月にして、
「馬鹿、そうですね。馬鹿ですみませんでした。ただ、弱かったんですよ、私」
サクラが弱いのは知っている。だからそれに応えるように何かを言おうとしたけれども、
返す言葉が思い付かない。言葉にもなっていないただ細い息が、喉から漏れてきた。
「だから、兄さんに拒絶された後、迷って迷って、それで、こんな馬鹿な答えを、
出してしまいました。嫌われて生きるくらいなら、死のうって。姉さんが兄さんと、
この後に、ベタベタするのなら、道連れだって」
僕の、せいだ。
昨日僕が一時の感情にまかせて拒絶しなければ、こんなことにはならなかった。
姉さんも死ぬようなことにはならなかったし、サクラも自殺をせずに済んだのに。青海もそうだ、
僕に会わなければもっと生きることが出来たのに。ついさっき『極楽日記』でユキさんに
言われて自覚した罪を持つ意味は、それだけしっかりと僕にのしかかってくる。
「そんな、悲しい顔を、しないで下さい。全部、私の責任です」
苦しそうに、途切れ途切れでありながらも笑みを浮かべたまま、サクラは言葉を続ける。
しっかりと意思を込めるように、一語一語を丁寧に発音して、
「でも、やっぱり、嫌われたままって、辛いですね」
「嫌いじゃない、大切な家族を嫌ったりなんかしない」
僕の言葉に複雑そうな表情を返してくる。嬉しさと悲しさの混じったような顔を見るのは
辛いけれども、これが僕の本心だ。嘘でもサクラを女として愛していると言えれば少しくらいは
喜ばせることが出来ただろうけれど、言えなかった。必死な相手に対して嘘など吐けないし、
何よりも失礼だと思ったからだ。
僕の気持ちが伝わったのだろうか、サクラは長い息を一つ吐き、
「ありがとうございます」
「ごめん」
少し辛いだろうと思ったけれども、細い身を抱き締めた。服が血に染まるけれども、気にしない。
今はただ、手指に直接触れるサクラの暖かさが大事に思えた。
「謝らなくても、良いですよ。その代わりお願いを二つ聞いて下さい」
「あたしからもお願い、サクラちゃんのお願いを聞いてあげて?」
聞き慣れた声に振り向いてみれば、姉さんが薄く目を開いてこちらを見つめていた。
声を出す度に口の端から血が溢れ、苦しそうにしているけれども、サクラと同じように
意思がはっきりと篭った言葉で告げてくる。
「姉さん、意識、戻ったんですか?」
姉さんはサクラに笑みを向け、
「うん、虎徹ちゃんが、大きな声を出したときに、起きちゃった。そんなことよりもね、
虎徹ちゃん、サクラちゃんのお願いを聞いてあげてね」
僕はそれに頷き一つで返した。元々言われなくてもそうするつもりだったから、
覚悟はもう出来ている。どんな無茶な注文が来ても、応えてやるつもりだ。
サクラは僕の胸の辺りに視線を移動させ、
「サクラ、って呼んで下さい。いつもみたいに」
一つ目の注文は、驚く程簡単なものだった。
「昨日から、そう呼んでもらえなくて」
そう言えば、そんな気もする。拒絶したときは虎桜と呼んでいたし、夕食のときは
名前自体呼んでいなかった。夕食の後は会うこともなかったし、今日だって朝早くに家を出たので、
今日の会話をしたのもさっきが最初だ。そう考えると、かれこれ丸一日分は
サクラと呼んでいないことになる。
「恋人になれないなら、せめて最後は家族として、って。浅ましいですね、私」
「サクラ」
そんなことはない、という思いを込めて呼び掛けるといつの間にか暗くなっていた表情が、
途端に明るいものになった。幼い子供のように、ただ名前を呼ばれるだけで嬉しそうな表情を
こちらに向けてくる。
「次は何だ?」
「おむすび、食べて下さい。最後に、私の作ったものを、食べてほしくて」
指差す方向に視線を向けると、おにぎりが幾つか乗った皿があった。殆んどが
母さんの作ったものだろう、大きさを見ればすぐに分かる。
しかし、その中に一回り小さいものがあった。誰が作ったのかなんて一目で分かった。
小さな手で丁寧に固められ、綺麗な三角をしているそれは間違いなくサクラが作ったものだ。
僕が食べ慣れた、今となっては一番食べやすい大きさと形のおにぎりは、
僕の最も好きな食べ物の一つになっている。
僕はそれを手に取り、一口かじった。何故か妙なぬめりがするものの、程良い塩加減と
ご飯の甘味、丁度良い固さが合わさって最高の状態になっている。昨日の晩御飯は
珍しく母さんが作ったものだったし、朝も母さんが作ったものだったので、
一日振りにサクラの食事を食べたことになる。それのせいもあってか、
今までで食べた中で一番美味しかった。
僕はサクラに笑みを向け、
「美味いよ」
「私特製調味料がたっぷりですから」
照れ臭そうにサクラが言う。今までにも何度か聞いた単語だが、このぬめるものが
そうなのかもしれない。僅かに感じる微妙な塩気があるけれども、塩とは少し違う感じがする。
どこかで味わったことがあるような気がするけれども、どうしても思い出せない。なんと
なく気になり、もう一口食べたけれども記憶の再現は不可能だ。
「なぁ、この調味料って材料は? どこかで食べたような」
「愛液です、それと唾液も少々」
照れ臭そうに言うサクラだが、きっと冗談だろう。
僕の心を読み取ったのか、サクラは真面目な表情で、
「本当ですよ?」
「マジで?」
「マジです。多分今頃兄さんの体の70%は水分ではなく私の体液ですね? 幸せです!!」
どれだけ歪んだ幸せなんだよ!?
「サクラちゃん、ずるぅい。ふんだ、そんなこと言ったら、虎徹ちゃんの体の匂いは
十割あたしのだもん。虎徹ちゃんの服でどれだけオナってあたしの匂いを染み込ませたのか、
分かってるの!?」
香水じゃなかったのか!? しかも変態発言で返すなよ!?
今になって知った二人の秘密、と言うか衝撃の真実に僕が悲しんでいる間にも、
二人はそろぞれのやってきたことを暴露していた。やれ呑助の口に愛液を付けて
間接的にクンニを体験してみたり、僕の使用済みの箸を利用して双穴自慰をやってみたり。
その他、僕の知らないところで行われていた幾つもの悪行を次々と言い出して、
ついには口論のようになっていた。
いつものようにサクラが早口で巻くし立て、ギリギリアウトに性的な暴力を振るい、
姉さんがテンパりながら応戦する。
今まで何度も見てきた、一般家庭とは少し違うかもしれないけれども、それでも我が家では
見慣れた普通の家族の触れ合い。こうして見てみると、やっと普通に戻れた気がした。
もしかしたら僕を悲しませない為にやっているのかとも一瞬考えたけれども、
すぐにその考えを捨てた。そうするのが一番良い。
「それで、兄さんはどっちを選ぶんですか?」
「お姉ちゃんだよね?」
「黙りなさい、肉達磨。お肉屋さんに売りますよ?」
「お姉ちゃん、デブじゃないから売れないもん」
「そうですね、乳とか尻とかは脂肪ですから。脂身は売れないですね」
「え、えぇと。よく分かんないけど、お姉ちゃん駄目な娘じゃないもん」
本当に、手間のかかる。
僕は二人を抱き寄せると頭を撫で、それぞれの唇にキスをした。今までとは微妙に違う
喧嘩の治め方だけれど、こうするのが正しいと思ったからだ。予想は正しかったらしく、
二人は笑みを浮かべて腕の中でおとなしくなった。
数分。
穏やかな雰囲気の中、二人の顔を覗き込んでみるとまるで眠ったように目を閉じていた。
それぞれの顔に浮かんでいるのは、さっきまで喧嘩をしていたとは思えない微笑。
まるで二人とも、穏やかに眠っているように見える。
その気持ちの良さそうな顔を見ていたら、不意に眠気が湧いてきた。
朝早くから起こされたせいなのか、それとも緊張の糸が切れたからなのか。
理由はよく分からないけれども、とにかく眠かった。
僕は二人にキスをすると、川の字になるように体を並べ寝そべった。
「おやすみなさい、愛してる」
あれから二年、僕は何事もなく大学生になった。
結局あの後も、青海の死の真相は誰にも喋っていない。それを抱えたまま生きるという
のが、僕の選んだけじめの付け方だった。甘えている、と言われれば反論出来ないけれど、
誰に言われても曲げるつもりはない。
ただ僕は決して忘れない。
僕に対して常にひたむきで、一生懸命だった恋人のことを。
罪を重ねたまま、誰にも悲しまれることを望まずに自殺した妹のことを。
皆に対して目を背けずに、向き合おうとしていた姉のことを。
僕を取り巻いていた、まるで虎のようだった女の子たちのことを忘れない。
あの日と同じ晴れた空を見ながら、吐息を一つ。
不意に、足に柔らかい感触が幾つも来た。全部で五匹居る猫の群れ、その中の三匹は、
他の二匹よりも体は小さいが、それを補うように全力で僕の足に体を擦りつけている。
「呑助も、子宝に恵まれたもんだ」
青海と知り合うきっかけになった猫は、僕の感傷も知らずに奥さんとじゃれあっている。
呑気なものだ。
僕は立ち上がると三匹の仔猫を振り返った。
「おいで。青海、虎百合、サクラ」
ゆっくりとした速度で歩いているつもりだが、仔猫にとっては少し早いのだろう。
足をせわしなく動かしながら、小走りで着いてくる。
「愛しているよ」
「「「ニャー」」」
『"The Double Tiger Sisters" Drop Dice Game』 is END. |