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とらとらシスター



16虎

 電子音。
  目覚ましの代わりにしている携帯のアラームを止めて、表示されている時間を見た。
  いつもより若干遅く起きてしまったのは何故だろうかと思い、
  いつもと少し違うことに気が付いた。始めてセックスをして以来、
  姉さんが隣で寝ていないのはもう馴染んだけれど、サクラが起こしに来ないのは初めてだ。
  毎日起こしてくれたことに今更有り難みを覚えるのと共に、
  何故今日は起こしに来なかったのかということに疑問が湧いてくる。
  思い付く理由は寝坊くらいのものだが、もしそうだとしたら珍しいこともあるものだ。
  寝惚けた思考で制服に着替えると洗面所に向かった。
  何だろう、やけに居間が騒がしい。つくづく珍しいこともあるものだ。
  いつも通りに顔を洗って歯を磨き、居間に向かう。
「おはよう」
  僕が戻った頃には、もう静かになっていた。皆いつも通りに朝御飯を食べている。
「おはよう、虎徹ちゃん」
  姉さんが口の周りにご飯粒を付けながら挨拶を返してくる。昔から注意をしているのに
  治らないその癖は、きっとこれからも続いていくのだろうか。
  食事を作る立場のサクラがいつも睨んでいるので治した方が良いと思うが、
  その悲願は達成される見込みは無い。
「おはようございます、兄さん」
  続いて挨拶をしてくるのはサクラ。姉さんが汚くご飯を食べたり、僕が少し遅かったりしたので
  少し不満そうだが、それでも茶碗にご飯を盛る仕草は嬉しそうだ。これも日常の風景の一つ、
  僕の朝には欠かせない。

「おはよう、虎徹」
「おはようさん、虎徹」
  父さんも母さんも元気そうで何より、両親が健康なのは良いことだ。
「おはよう、虎徹君」
  青海は今日も可愛いなあ、その姿を見るだけで一日分の活気が湧いてくる。
  僕はいつも通りに姉さんとサクラの間に座ると茶碗を受け取り、ご飯を食べ始めた。
  僕の好みに合わせてくれているらしいおかずはとても美味しい。
  最近少し味付けが濃くなったものの、これはこれでいけるし、ご飯が進むのが幸せだ。
「あ、すまない虎徹君。醤油を取ってくれ」
  言われて僕は青海に手元の小瓶を渡す。目玉焼きに醤油をかける庶民的なところもあるのか、
  また青海の意外な一面を知ってしまった。けれども、それもまた悪くない。
  ん?
  待て。
  待て待て待て待て。
  青海!?
  気が付いたら口の中のものを吹き出してしまっていて、丁度真向かいに居る青海が
  ご飯粒まみれになっていた。どうでも良くはないと思うけれど、今はそんなことどうでも良い。
「兄さん、せっかく作った食事を粗末にしないで下さい。おまけに汚いですよ」
  眉値を寄せるサクラ、本当にすみません。
「あぁ、羨ましい!! あたしにも唾にまみれたご飯を顔にかけてぇ!!」
  もう少しオブラートに包んで言って下さい。
「コレクションに加えたいが今すぐ口にも含みたい、あぁ!! どうすれば良いんだ!!」
  どうもするな、黙って顔を拭けば良いんだ。

 僕は青海にティッシュを渡しながら両親を見た。ご飯を吹き出したことに
  少々眉を寄せてはいるものの、それ以外はまるでいつもと変わりない。
  家族ではない人間が食卓に居るのにそれに疑問を挟むことなく普通に食事を続けている。
「父さん、母さん。何で青海がここに居んのさ!?」
「そんなことより、汚いわよ、虎徹」
「そうだぞ、青海ちゃんに失礼じゃないか」
  それはそうだけと、今は違うだろ!!
「心配痛み入りますが大丈夫です、お義父様お義母様。汚くなど、寧ろ綺麗で、
  いやいや寧ろ望むところですよ? …バッチコーイ!!」
「ごめん青海は少し黙ってて」
  言うと青海は少し不満そうにしながらも、黙り込んで食事を再開した。
  こうしていれば可愛いし良い部分も沢山あるのだから、さっきの発言は聞かなかったことにする。
  人間、誰にでも過ちというものはあるものだ。
  自分に言い聞かせて心を静めると、改めて視線で両親に説明を求めた。
「いやな、俺が誘ったんだ。最初は驚いたよ、久し振りに帰ってきたら家の前にリムジンが
  停まっているし。訊けばお前を待っていると言うから連れてきたんだ、良い彼女さんじゃないか。
  それでな、朝早くから来ていてもしかしてと思ったら、やっぱり朝はあまり食べないらしいから、
  ついでと言っては難だがこうして一緒に朝飯を食うように言ったんだ。
  朝は一日の基本だし、子供が朝を抜かすのは尚更良くないからな」

「あたしは反対したんだけど、パパがどうしてもって言うから」
「私も同じく、お母さんに押し切られて」
  成程、これで全ての納得がいった。ついでに言うならサクラが起こしに来なかったのも
  多分青海のことで揉めていたからで、顔を洗いにいく途中、リビングが騒がしかったのも
  その悶着のせいなのだろう。
  僕は溜息を吐き、青海を見た。
「迷惑だったか?」
  とんでもない。
「気にしないで、寧ろだ」
「「大・迷・惑」」
  僕は左右に居る姉妹の頭にチョッピングすると軽く咳払いをし、
「大歓迎」
  その一言で青海の表情が途端に明るくなる。
「嬉しいな、虎徹君。嬉しいついでに訊きたいんだが、明日は空いているかな?」
  明日は土曜日、学校も休みだし特に予定を入れている訳でもない。強いて言うなら
  中間試験が近いから勉強しようとは思っているけれど、テスト週間はもう少し先なので
  急いでするようなことでもない。常に中の上と上の下をさまよっている僕が言うのも
  片腹痛い話だけれども、こういうものは普段の積み重ねが大事だからだ。
「なら、明日はデートしないか? 偶然予定が空いたんだ」
  今日は本当に珍しいことばかりだ。いつもの土日は予定が詰まっているらしく遊ぶことは
  あまり出来なかったので、休日デートは実質初めてになる。放課後では出来ないような
  遠出や青海の私服姿を考えると、それだけで楽しみになってくる。

「良いよ、待ち合わせは?」
「十時に駅の四番ホームで」
  青海のことだから迎えに来るとか言いそうだと思ったけれども、迎えに来るどころか
  車も使おうとしないのは完全に予想外だった。今でもまだ少し先入観が残っているのは
  青海に申し訳がないけれど、電車なんて乗らないものだと思っていたから少し驚いた。
  そのことを訊くと青海は少し顔を赤らめ、
「家とは完全に離れて、本当に二人だけで遊びたいんだ」
  照れたような表情が可愛らしく、つい頭を撫でてしまった。気持ち良さそうにしている
  青海を見て、本格的に青海のことが好きになりだしたときのことを思い出した。
  姉さんとの初めての情事のせいで弱っていた僕を助けてくれたのは、
  優しく頭を撫でてくれた青海だった。それだけじゃない、青海の笑みには何度も救われた。
  僕はそんな青海に対して、
「ちゃんと彼氏を出来てるんだろうか?」
  思わず漏れた小さな呟きだが、しっかりと聞こえてしまったらしい。青海は僕の手を取ると
  極上の笑みを顔中に浮かべて、
「もちろん、わたしにはもったいないくらいだ」
「そうよそうよ」
  大事な場面だというのに、横合いから姉さんのヤジが飛んできた。視線を声のする方へ向けると、
  高三にもなって頬を膨らませた姉さんがこちらを睨んでいた。反対側のサクラは
  気配で既に危険な状態になっているのが分かるので、敢えて見ないことにする。
  小さく聞こえてくる呪祖のような言葉も、聞こえないふりで誤魔化すことにする。
  以前はサクラが喋り、姉さんが行動を起こすということが多かったけれども、
  最近はそれが逆になってきている気がする。
  現に今も、
「昔は素直な良い子だったのに今では家族にチョップをしたり、
  親姉妹身内の前でいちゃつくようになっています。お姉ちゃん、とっても悲しい!!」
  こうしてよく喋っている。
「昔みたいに、三人に戻れたら良いのに。あはっ、あの頃は楽しかったなぁ」
「…そうですね」
  今まで会話に混ざる様子が無かったサクラが、青海を見て呟いた。
  何故だろう。
  普通の表情で、
  普通の声で、
  普通の調子でサクラは喋った筈だ。
  しかしそれは、気のせいかもしれないけれど、とても冷たい声のような気がした。

Side青海

 錆びた上に段差の急な階段を、身体を引き摺るように上がっていく。
  我ながら緩慢な動きでポケットから薬の小瓶を取り出した。蓋を開けて出した中身は数錠、
  一気に噛み砕く。それだけですーっと吹き抜けるような開放感が胸のざわめきを静めてくれた。
  歯にこびり付いた顆粒を舐め取りながら、辿り着いた古びたドアを無造作に引いた。
  ノックをしないのは、俺かどうかすぐにわからなくて焦れるそうだから。
  ――中毒にでもなってそうな発言だ。

「おかえりなさい。こ〜ちゃんっ」
  出迎えた雫は、今日も今日とて季節外れの向日葵のごとき笑顔だった。

「ただいま。……まったく、こっちがまいっちまうくらいに御機嫌だな」
  こうも熱烈な歓迎を受けると、『ただいま』ということくらい何でもないように思う。
「と〜ぜんだよ。だってこ〜ちゃんと一緒にいるんだもん」
  薄い黄緑色のフリル付きでお腹のところに無駄に大きなポケットが付いた、
  幾らか年代の低めの層を狙ったデザイン。。雫はそんな良くも悪くも
  お似合いのエプロンをひらりとはためかせて、さも当然かのように断言した。
  左手首に巻かれたグラスグリーンのリストバントが、濃淡のコントラストで映える。
  俺のサイフが痛まないギリギリの額。庶民用の弱小ブランドの品。
  傷跡を見て自傷を習慣化させることがあるということで買ってあげたものだが、
  感極まって泣くくらいに大喜びされたその時から、外したところを見たことがない。
  どうやらかなりのお気に入りにしてくれているようだ。

「ん? なあに?」
  俺の視線が一点に集まっているのに気付いたらしい。
「手首のほうはどうだ? できるなら見せてもらいたいんだけど……」
「ええと……あの……そのね? ……ごめん、こ〜ちゃん。わたし、見せたくないよ……」
  目に見えて消沈してしまった雫に、俺は二の句が告げられなくなる。
  ――別の意味では、外したところを見たことがないから、その下に傷跡が増えていても
  わからないということだ。雫が本格的に自傷症にかかっていないか確認するには、
  手首を見せてもらうのが一番なのだが、雫はそれを頑なに拒否し続けていた。
「……だってね、すごく醜いんだよ。こう、そこだけ人の肌じゃないみたいな……。
  薄気味悪い色のくっきりと残った跡がね……。消えない傷ってやつなのかな?
  だから、もしこ〜ちゃんに『こんな傷が付いてる女気持ち悪い』なんて思われたら、
  わたし……わたし……」
「……ゴメン、俺が悪かった。何度も訊いてホントにゴメンな」
  でも、女の子にとって身体に残った傷ってのは相当辛いものに違いない。
  俺が言えば頷く雫でさえ、その頼みを断るくらいに気にしている。
「違う……ちがうよ……? こ〜ちゃんが悪いわけじゃなくって……、
  わたしに傷が残ってるのがいけなくて……、もし見られたらいくらこ〜ちゃんでも
  わたしのこと嫌いになっちゃうから……」
「……気負いすぎなんだよ、雫は。俺は何があってもお前の味方だってよくわかってるだろ?」
「……うん」
  痞えがある肯定。俺を信じてくれていても、どうしても突破できない心の壁。
  身体に刻み込まれた苦痛の証。リストカットでなくとも、傷とはそういうものだ。
  それは身体・精神の両面の苦痛であり、だから俺は雫の気持ちと体調、
  どちらもなるだけ気遣いたい。
  ――それだけに、その壁は砕くには脆すぎ、越えるには高すぎるものとなっているが。
  打開策は――なかなか見つからない。

 

「それで……今日の晩飯は何を作ってくれたんだ?」
  すっかりしょぼくれてしまった雫を抱き寄せ、頭を撫でながら尋ねる。
  この流れは最初から変わっていない。左右の髪留めを外し、バラけた房を手櫛で梳いて纏める。
  ショートになった前髪を掬い上げて、砂を零すようにサラサラと流した。
「今日は山菜のおひたしとえび天丼……それにしても、こ〜ちゃんの手……大きいよね」
  声に張りが戻り、あからさまなくらいに恐怖心が薄らいでいく。
  俺は雫をちゃんと癒せている。それがこうして実感できるのが心に染み渡るくらいに嬉しい。
「そりゃお前に比べればな……。でもそれだけで、他に何の取り柄もねえよ。
  撫でるのだって未だにおっかなびっくりやってるところがあるし……」
「でも優しい動きだよ。――だからわたしこ〜ちゃんに撫でられるの好きなんだぁ」
  真っ直ぐすぎる言葉に久しぶりに照れを覚えてしまった俺は、そこで早々に雫を解放した。
  「あっ……。終わり……?」
  円らな瞳でそうも未練がましく見上げられると正直困るんだけどな……。
「……折角の飯が冷めるから、その後にな」
「うん……わかったよ。じゃあ、はい。食べよう?」
  向かい合って食べられるように位置を調整して、改めて座布団を勧めてくる。

 二部屋しかない雫の住処は、その外観を裏切らずにどちらも狭い。
  敷き詰めるように置かれた調度品もほとんどが悪い意味で年代物だ。
  当然今、雫がにこにこ叩いて客人の着座を心待ちにしているしている座布団も、
  ところどころカバーが破けている痛んだ品なのだが、座れさえすれば俺は何の文句もない。
  ただ、食卓の上の料理を見るに、家計の状況はそれほど切迫はしていないようだ。
  銀行振り込み。月一の。――何処にいるのか知らないが、雫の父親の生存は確定している。

「こ〜ちゃん、こ〜ちゃん」
「ん?」
「はやく、はやく」
  何の気兼ねもなしに口を広げ、左右の八重歯を反り立てる。
  警戒心の欠片もない。親鳥にエサを請う雛鳥そのものだ。
  怯えの感情はあっても羞恥心はないのだろうかと思いながら、
  適当に皿から箸でぜんまいを一本摘む。単純そうに見えるメニューだが、
  きっと半端なく気合を入れて作ってくれているのだろう。
「いただきまぁ〜す」
  言い終わると同時に捻じ込んだ。
  雫は至福の時間だとでも言いたげに、たかだか草一本を数十秒かけてじっくりと咀嚼して、
  咥えたままの俺の箸までベロベロに嘗め回してくれた。
「……こ〜ちゃんに食べさせてもらうと美味しさが何十倍にも感じられるなぁ。
  あっ……勿論そうでなくても美味しいと思うよ? こ〜ちゃんに満足してもらうために
  わたし頑張ったから」
「お前の料理の腕はよくわかってるって……。食べるまでもない。今日も美味いに決まってるさ」
  雫は以前俺が天野の弁当を褒めたのが余程悔しかったらしく、直接口に出しては言わないが
  晩飯の度に俺に褒められたがる。
  実際、竹沢家の家事全般を担っていたのは雫のようで、その腕は文句なしに高い。
  ならどうしてあの時それを俺に言わなかったのかといえば、
  家庭事情で俺に無駄な心配をさせたくなかったのだろう。
  その気持ちは俺も何となく理解できる。だから、それには触れず、
  今の雫を大事にしてやればいい話だ。

17虎

 時計を見ながら、少し足の動きを加速させた。体の上下に合わせて僅かに荒くなる呼吸を
  整えながら時計を見ると、表示されている時間は約束の時間の約15分前を示している。
  駅まではあと数分なので余程のことが無い限りは遅れることはないけれども、
  それでも僕としては早めに着いておきたかった。
  本当はもう少し早く家を出る予定だったのだけれども昨日の夜は姉さんがいつもより激しく、
  沢山求めてきたせいなのかうっかり寝坊をしてしまい、更に起きた後姉さんやサクラの相手を
  している内にこんな時間になってしまった。
  我ながら情けないと思うけれども、必死に引き留めようとするあの二人に対抗が可能な人間は
  そうは居ないと思う。それだけ二人は頑張っていた。もし母さんが助けに来てくれなかったら
  僕は今でも家の中に、いやそれどころか自分の部屋からも出られなかったに違いない。
  結局、母さんに追い出されたサクラは僕のデートを邪魔しないように友達と遊びにいくという
  念書の元に出かけて、姉さんといえば母さんに引き擦られながら進路の相談をしに
  学校へと向かっていった。去り際に僕に向けられた姉さんとサクラの悲しそうな目は
  僕の足を緩めるのに充分な効果を持っていて、それも家を出るのが遅れた原因の一つでもある。
  それでも青海と会うのが楽しみだったし、母さんの努力を無駄にするつもりも当然無かったので、
  今現在、僕はこうしてここに居る。

 青海はもう来ているのだろうか。
  私服の青海を見るのは、今日で二度目になる。前回は青海が家に遊びに来たときは
  普通の服装だったので、青海曰く、気合いを入れまくったという本格的なデート服を見るのが
  とても楽しみだ。
  一瞬。
  考え事をしていた上に、更に加速をしようとしていたせいだろうか。
  思わず道端の石につまずき転びそうになるのを何とかバランスを取って持ち堪え、
  のけぞるように姿勢を正した。やや不自然な直立のまま、軽く上方に向けた視界に入ってくるのは
  見慣れた電車。
  この時間帯はダイヤが殆んど狂わないので、車体を見ているだけで大体の時間が分かる。
  あれが通るのは9時45分、結構な距離を移動したと思っていたけれど先程時間を確認してから
  それほど時間は経っていなかったらしい。それに安心をして大きく息を吸い、
  改めて駆け出すべく姿勢を整える。
  不意に、高音。
  驚き、姿勢を崩した。何事かと思って視線を音が響いてきた方向へと向ければ、
  急停車したのか駅からはみ出した電車が見えた。先程の大きな音はこのときに出たものらしい。
  あれはこの駅で停車しない筈なのだが、何かあったのだろうか。
  悪い野次馬根性と言えばそれまでだが、好奇心も手伝い駅に向かって走り出す。

『初めて電車の事故ってのを見たが、嫌なものだな』
『本当にねぇ』
  青海の待っている四番ホームに向かい階段を上っていると、現場を見たらしい人と擦れ違った。
  下世話と思いながらもつい聞耳を立てていると、単語が幾つか聞こえてきた。
  端を拾いながらなので詳しくは分からないが、やはり事故があったらしい。
『それにしても酷かったわね』
『突き落とされたのかしら』
  人身事故?
  不穏な言葉が脳裏に浮かんで、心臓が一瞬高く跳ねた。
『まだ若かったのに』
  若い、人?
『デートだったのかな? あの娘、あんなお洒落してたのに』
『だとしたらかわいそうな話だな、本当に』
  デート前?
  聞こえてきた単語を並べて想像し、一つの不安な答えが思い浮かんできた。
  そんな筈は無いと思っていても、心臓は酷く乱暴に脈打ち、喉が干からびてくる。
  足が震え、吐気や頭痛、目眛が襲い掛ってくる。その場に立っていられずに、思わず膝をついた。
  大丈夫、青海は無事だ。
「……あの、大丈夫ですか?」
  不意に、肩を叩かれた。振り返って見てみれば、中年の男性が心配そうな表情をして
  僕の顔を覗き込んでいる。その人だけではない、軽く周りを見てみれば他の何人かも
  男性と同じような表情をして僕を見ていた。それほど酷い様子だったのだろうかと思ったけれど、
  すぐにそれだけではないことに気が付いた。

 怖がっている。
  突然現れた非日常に、すっかり怯えてしまっているのだろう。見覚えがあるから分かる。
  多少の色は違っているものの、僕が初めて姉さんを抱いた夜、
  その次の日に鏡で見た僕の目とそっくりだ。普通とは言えないことを体験して、
  必死にそれを否定しようとしている。
「大丈夫ですか?」
  もう一度、肩を叩かれた。
「あ、はい。大丈夫です」
  手摺に捕まって立ち上がった。
  まだ体は少しおかしいものの、今ではもう気にする程のものではない。
「それより」
  男性には悪いと思ったがどうしても訊きたかった。もしかしたらあの電車はいつもとは違い
  反対側のホームを通過する予定だったのではないか、
  四番ホームには何も来なかったのではないか、という希望を添えて。
「ホームで、何かあったんですか?」
「事故ですよ、四番線」
  男性は苦々しい表情で呟いた。
「あまり大きな声では言えませんがね、女の子が電車に挽かれたんです。悪いことは言いません、
  電車に乗りたいのなら今は止めておいた方が良いですよ」
  四番?
  女の子?
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です、連れが待っていますので。これで」
  男性にお辞儀をして、再び階段を登り始めた。いつもはそれほど長いとは思わない階段が、
  何故かとても長く感じる。それでも足の動きは止まらない、ひたすらにホームへ歩めと
  思考が命令をしてくる。止まりたくないのは結果を知りたいからなのか、
  それとも知りたくないからなのか。

 階段を抜けると、異様な光景が視界に飛び込んできた。続いてやってくるのは、
  生臭い独特の臭い。悲惨さに目を反らしても、鼻孔から侵入してくるそれだけで
  充分に人の死を想像させる。
  逃げ出したくなったが、それでも前に進んだ。
  周囲を見回してみるが、青海の姿はない。まだ来ていないのか、それとも、
「いかんいかん」
  不吉な考えを振り払い、前を見る。
  後悔した。
  粉々、という表現がふさわしい、挽き肉になった人間がそこに居た。
  いや、元人間が、そこに、あった。
「あ、おみ?」
  違う。
  口から漏れてきた言葉を、否定する。偶然似ている人だったから、
  そんな下らない想像をしてしまっただけだ。死んだと決まった訳では、
  それこそもう駅に来ていると決まった訳ではない。
  もしかしたらまだ着いていないのかもしれない、青海は車も使いたくないと言っていたから
  遅くなっているのかもしれないからだ。
  不意に、向こう側への扉が開いた。あちら側の僕が、叫んでいる。
『現実を見ろ』
  問題ない、僕は現実をしっかりと見ている。あの長くて綺麗な黒髪だって、
  絶対に青海のものだとは限らない。顔は潰れているから、
  頭部だって粉々になっているから青海だと判別できない。
  それに服装だってそうだ、気合いを入れると言っていたから
  露出がもう少し多いものを着てきているだろう。
  いつも直球な青海のことだから、派手ではなくても肌をそれなりに出したような格好で来る筈だ。
  今までの暴走から考えると、きっとそうだ。

 そうに決まっている。
「あ、携帯」
  確認するために携帯を取り出した。青海の番号はあいうえお順で一番最初に来るので、
  簡単にかけることが出来る。素早く番号を呼び出して、発信ボタンを押した。
  電子音。
  僕用に設定しているというシンフォニックパワーメタルが響いた。
  この選曲なら被る人も居ないだろう、という考えは、見事に成功した。
  彼女の好みだという激しく力強い音が、場違いな雰囲気でホームに広がっていく。
  音の元に視線を向けると、白魚のような指に捕まれた、小綺麗なバッグが目に入った。
  滑らかな手の甲も、華奢な腕も見える。
  しかし、肘から上が、無い。
  歩み寄ると、濡れた赤の他に鈍く光る色が見えた。銀色の光沢を持つそれは、
  僕が先日青海にプレゼントしたもの。常に肌身離さずに持っていると言っていたものだ。
  しゃがみ込んで触ってみると、まだ僅かに温かい。
  体温のある人間が、ついさっきまで生きていた青海がそうしていてくれたという証がここにある。
「本当だったんだな、ありがとう」
  目元が熱くなり、頬を水滴が伝う感触がある。
「ありがとう、ごめんな」
  それは連続でやってきた。
  更には、湿った声も聞こえてくる。
  僕は、久し振りに、二年振りに、泣いた。

18虎

 軽く体を揺すられて、ぼんやりと目が覚めた。薄く目を開いてみれば周囲は明るく、今
が何時なのかは判断が出来ない。携帯で時間の確認をしてみると、表示されている時間は
午後の三時、今頃僕と青海はどこかの喫茶店にでも入って軽食を楽しんでいる頃だろう。
  それとも、公園の芝生でお茶でも楽しんでいるのか。
  靄がかかった思考で浮かんでくるのは、そんな何気無い風景。
  僕と青海?
  午後三時?
  状況を整理して、まず最初に来たのは強い悲しみだった。あの悲惨な現場を、
  何よりも青海を失ってしまったという実感に目元が熱くなる。気が付けば声が漏れ、
  滝のように涙が溢れ落ちてくる。雫が頬を伝う感触を不快と思いながらも、
  しかし拭う気力さえ湧いてこない。甘えているとは思うけれども、
  ただ流れにまかせてずっと泣いていたかった。
  不意に、頬に柔らかい感触が来た。
「兄さん」
  声や感触の主はサクラだった、視線を向けると悲しそうな目をしたサクラと目が合う。
  しかしサクラは何も言わずに、僕の頬をハンカチで拭っていた。丁寧に、ゆっくりとした速度で
  布が滑り、目元までそれが移動する。それはそのまま両目に当てがわれ、僕の視界を塞ぐように
  止まった。気遣いをしてくれているのか、何も目に映らないようにしてくれているのを
  有り難いと思いつつ声を荒げた。これはきっと、泣いても良いというサクラの無言の言葉だろう。
  口にすることだけが繋がりではない。

 涙が布に吸われていくのを感じながら数分、漸く気分が幾らか落ち着いてきたのか
  目元から溢れる雫も勢いを無くし、声も収まってきた。
  数秒。
「兄さん」
  ハンカチを目元に当てたまま、再びサクラが呟いた。
「何が、あったんですか?」
  僕に遠慮してなのか、若干控え目な声で尋ねてくる。
  言っていいものなのか、迷った。本当に大切なものだから簡単に口に出してしまっても
  良いものなのかも分からないけれど、それでも誰かに言ってしまいたいという気持ちが
  心の中で渦を巻いている。それ程の矛盾を作り上げるくらいに、人の死というものは重い。
  言葉にしてしまえば陳腐なものだけれども、どうしようもない。
  数分。
「あの」
  重苦しい沈黙を先に破ったのは、サクラの方だった。僕の手を取ってハンカチに当てさせたあと、
  僅かに離れたような気配がした。
「お水、取ってきますね。何か、たくさん泣いたみたいなので」
  立ち上がる音がするのと同時、ハンカチを投げ捨てた。その勢いのまま部屋を出ようとする
  サクラの手首を掴む。見上げた視界には驚いた表情の顔があった。
「あ」
  今になって、どうしようかと思った。多分、サクラは僕が言うのかどうか考える時間を
  くれようとして部屋を出ようと思ったのだろう。それなのに引き留めて、
  しかし僕はまだ言おうという決心がついていなかった。慌てて視線を反らしても
  何も変わる訳ではなく、再び気不味い沈黙が部屋の中に降りてくる。

「あの、兄さん、痛いので、その」
「あ、ごめん」
  どうやら強く握りすぎていたらしい、掴んでいた手を離すとサクラは苦笑を浮かべて
  僕を見た。そして手指を絡めて改めて握り返してくると、ベッドに腰掛けた。それはまるで、
  どこにも行かない、と言われているようで安堵が込み上げてくる。
「何が、あったんですか?」
「うん」
「帰りはもう少し遅くなるものだと思っていたので、驚きました」
「うん」
「それなのに、帰ってきたら靴があって」
「うん」
「しかも、寝ていたので」
「うん」
「デート、しなかったんですか?」
  うん、とは言えなかった。しなかったのではない、そもそもそれ以前の問題だ。
  青海は死んでいたから、デートなんて出来なかった。そのときは混乱していたから
  比較的大丈夫だったけれども、一度寝て現状把握出来るようになってからは、余計に辛くなってきた。
  今だってサクラが居るから何とかなっているけれども、もし一人だったらあのまま
  泣いていたに違いない。
「青海さんですね。全く、あの人は!!」
  そうじゃない、と言おうとしたけれども言えなかった。駅のホームで泣き始めてからの記憶が
  殆んど無いが、相当泣いてしまっていたらしい。喉が痛くて、声もかすれ、
  言葉が上手く出てこない。しかし無理矢理絞り出すように、
「青海は」

 これ以上言ったら危険だと、日常の側の僕が叫んでいる。心の扉はもう緩みきっていて
  意味をなさなくなっている。青海と居た側も、姉さんやサクラと情事を交した側も、
  関係なくなってきていた。どちらの声も、今や筒抜け状態だ。
  青海を失った痛みが強かったから、だから楽になりたくて、
「死んだ」
  言ってしまった。
  それが合図となったように、再び声と涙が溢れ出してくる。言葉として吐き出した次は、
  涙として全て出し、流しきってしまえば良いとでも言うように。そうして全てを無くしてしまえば
  楽になる、とでも言うように、感情の流れは止まらない。
  不意に、圧迫感。
  頭を胸に押し付けられ視界が黒く染まったことで、
  それがサクラに抱き上げられたのだと理解した。
  薄いが確かに弾力のあるその感触と、もう既にかいで馴染んだ匂いに、気分が落ち着いてくる。
「サクラ?」
「遠慮しないで、泣いて下さい。さっきよりも、もっとたくさん」
  一呼吸置いて、
「そうすれば少しは楽になります。今なら私と兄さんだけですし、こうして抱いていれば
  泣き顔を誰にも見られることはありません。声も聞かれるのが嫌ならば耳も塞いでいます」
  サクラは抱く力を強くして、
「それなら私が部屋を出るのが一番なのでしょうけれども、人が隣に居るか居ないかでは
  やっぱり違いますので。それに何より、私が兄さんの側に居たいんです」
  小さな笑い声が聞こえ、
「すいません、自分勝手で」
「そんなことないさ」

 そう、サクラが今こうしてくれているだけで、僕は大分救われている。温かな体温も、
  柔らかな感触も、どれもが心地良く僕を癒してくれる。
  泣いて良いと言われたのに、いつのまにか涙は止まっていた。それでも離れたくなくて、
  細い体を抱き締め返す。腕の中に丁度収まる大きさの体は簡単に抜け出してしまいそうで、
  それを防ぐために強く力を込める。少し苦しそうに声を漏らしたけれども、
  それでも何も言わない気遣いが嬉しかった。
「サクラ」
  胸に顔を埋めている上、泣きすぎたせいで声も枯れている。そのせいか
  とても聞き取り辛いだろう声に、サクラは抱く力を変えることで応えてくれた。
  言葉で答えるよりも動きで応えてくれたのが嬉しい。
「ありがとう」
  僕の言葉に、サクラは腕の力を解いた。続けて僕の顔を手指で挟むと、軽く唇を重ねてくる。
  驚いて顔を離し、見つめてみればサクラははにかんだような笑みを浮かべていた。
「ありがとう、だなんて言うのが早いですよ。兄さん」
  今度は、顔の高さを同じにして抱き締めてくる。
「言われるのは、私が死ぬときです」
  死ぬ、という言葉が、今は重みを持って感じられた。
「死ぬなよ」
「大丈夫です。何の取り柄もないですけれど、兄さんの側に居ることぐらいは出来ます。
  それに、しぶとさには自信がありますから」
  もう一度僕に口付けて、
「私は、死にません」
  僕に温かな笑みを向けた。
「いつまでも、側に居ます」
「ありがとう」
「だから、早いですってば」
  サクラの口から、小さな笑い声が漏れる。
「あ、でも。いつまでもって言いましたけど、水を取りに行くのくらいは許して下さいね」
  僕は軽く笑って、腕の力を緩めた。

Side妹虎

 兄さんの部屋を出て、私は軽く身をよじらせた。こうでもしないとついつい笑い声が
  口から漏れてきそうになる。一言でも聞かれたくないから、足音をなるべく立てないようにして
  部屋から遠ざかる。
  何となく気になって、洗面所に寄った。
  やっぱり。
  鏡に写った私の顔は、酷く歪んでいた。堪えきれない歓喜に口の端が釣り上がり、それなのに
  瞳は鈍く光を反射している。細く鋭くとがった目はまるで、虎のように見えた。
  私は普段から無愛想な表情やキツい表情が多いと自覚しているけれども、
  それでもここまで酷いものは浮かべていないと思う。アンバランスなその色に、
  自分でも少し恐怖した。
  本当に、良かった。
  小さく安堵の吐息を吐く。
  もしこんな表情を兄さんに見られていたのなら、きっと幻滅をされていただろう。
  気合いを入れて、微笑を作ってみる。
  しかし鏡に写った私は我慢が出来ずに、すぐに先程の笑みに戻した。
  しかも、それには高い笑い声も付いてくる。最初は喉の奥から漏れる短い音だったそれは、
  次第に連続して大きなものになる。
  駄目だ、我慢が出来ない。
  頭の中で渦を巻くのは、兄さんとの幸せな時間と、あの邪魔だった薄汚い
『泥棒猫』の死の瞬間だ。いや、死んでしまった後でこのような表現をするのはおかしい
  かもしれないけれど、多少の敬意は払って『泥棒猫』から『泥棒虎』くらいは言ってあげても
  良いかもしれない。

 正直、ここまで私たちにつっかかってきたのは、二年前のあの娘以来。数えてみても、二人目だ。
  多分それなりに覚悟はしていたんだろう、最初に虎の目をして睨んできたときは少し驚いた。
  けれども、やはり覚悟も愛情も私が兄さんに持つそれには遥かに及ばなかったのだろう。
  ぽっと出の女なんてそんなものだ。
  だから、死んだ。
  思い出すだけでも笑えてくる。青海さんが死ぬ瞬間というものは、それだけ滑稽で愉快だった。
  やったことといえばとても簡単で楽しそうに兄さんを待っていた青海さんの背中を
  軽く押してあげただけ、それくらいなら非力な私でも簡単に出来る。余程驚いていたのだろう、
  突然空中に放り出された青海さんは呆けたような表情をして私を見つめていた。
  そのときの愉悦は多分永遠に忘れない。それから後も傑作だった。自分が置かれた状況を
  理解した後の顔、悔しそうな、悲しそうな表情も私に喜びを与えてくれた。
  でも。
  一番快かったのは、やはり体が粉々に砕けた瞬間だった。兄さんを横合いから奪った、
  その汚らわしい体がこの世界から消え去ったかと思うと心が途端に晴れやかになっていくのが
  実感できた。撥ねられ、挽かれた瞬間の音はまるで天井の竪琴が奏でる
  極上の音楽のようにさえ思えた。
  青海さんは、もう居ない。
  言葉に出さず、心の中で何度も噛み締めるように反復すると、その度に嬉しくなる。
  全く、あの人は馬鹿だ。

 兄さんが魅力的なのは分かるけれど、何度も頑張らなければ、それこそ虎にならなければ
  死なずに済んだのに。兄さんに色目を使わなければ悪い人ではなかったし、その部分を除けば
  嫌いではなかったのに、惜しいことをしたものだ。
  まぁ、それもこれも、自業自得なんですけどね。
  そう、私は悪くない。
  どれもこれも、殺してしまったのも、兄さんの為。
  このまま余韻に浸るのも悪くはなかったけれど、兄さんを待たせたくはないし、
  何より今は兄さんの隣に居たいので台所へと向かう。一旦部屋を出たのは、
  私が一息入れたいというのもあったけれど、純粋に兄さんが心配だったというのものが一番だ。
  青海さんの死で泣きすぎて綺麗だった声は枯れてしまっていたし、寝汗も酷かった。
  心の方は私が世話を出来るから大丈夫だけれども、そんな状態で起きているのは
  とても辛そうだった。未来の妻として、夫が辛い思いをしているときには助けなければ、
  それが良い妻というものだ。
  未来の妻。
  常日頃、日に何十度も思っている言葉が今は少し違って捕えられた。
  それはより鮮明な意味を持ちながら心の中に染み込んでくる。
  今日の朝までは目標としていたものなのに、
  今となっては実感を伴って私と兄さんの間に降りてきていた。
  兄さんが望み、
  私も望んで、
  隣に居ようとしている。
  唯一の邪魔だった人はもうこの世には居ない上に、二人の気持ちも強い。
  そこには何の問題もなく歩んでいける道がある。
  最高だ。

 いや、待て。
  私はある部屋の前を通り、もう一つの可能性に思い当たった。邪魔者がもう一人居た、
  それもかなり身近に。 姉さん。
  敵を一人殺したせいなのか、それとも兄さんの隣に居ることが嬉しかったからなのか、
  どちらにせよ高揚しすぎてうっかり失念していた。一番の邪魔は青海さんじゃない、
  長年私の邪魔をしてきた最も厄介な敵は姉さんだ。最近こそ私と兄さんが仲良くしているのを
  邪魔するようなことは少なくなってきたけれども、それでも完全になくなった訳ではない。
  方向性が変わったのか、少なくなったそれに代わってより一層兄さんに甘えるようなことが
  多くなってきている。青海さんが兄さんと仲良くしているのに、一生懸命離そうとしている私に
  反発したりとあざとい点数稼ぎなどもして、本当に油断がならない。
  そして何より、あの体だ。あまり頭の良くない私が言えるような言葉ではないけれども、
  どう考えても脳味噌の方に栄養が行っていないような下品な体型で兄さんを誘惑したあの体。
  実際兄さんはそれに初めてを捧げてしまったから、これからどうなるのか分からない。
  兄さんは馬鹿じゃないからそうそう同じ手にかかる訳はないと思うけれども、あの雌豚のことだ、
  どんな方法を使ってくるか分からない。もしかしたら、卑劣なことに弱っている
  兄さんの心に漬け込んでくるかもしれない。

 兄さんは繊細な人だから、弱っているところに救いの手が伸びてきたら掴んでしまうだろう。
  優しく伸ばされたそれがどれだけ甘美なものなのかは、昔から兄さんに救われ続けてきた
  私自身が一番良く分かっている。それに頭の良し悪しや心の強さは関係ない、
  ただ甘さを求める心だけがものを言う。だからこそ、心配になってくる。
  守らなければ。
  姉さんの毒手から兄さんを守ることが出来るのは、私だけなのだから。
  そう考えている内に、台所へと着いていた。色々考えながら歩いていたつもりだったが、
  あまり時間は経っていなかったらしい。もしかしたらゆっくり歩きすぎていたかもしれないと
  思って時計を見てみても、兄さんの部屋を出てからあまり時間は変わっていない。
  私は考え事をしてしまうと時間の経過を失念してしまうという悪癖があるので
  少し心配したけれども、今回はそれ程でもなかったようで少し安堵した。
  兄さんのことを想って、それで迷惑をかけてしまったら本末転倒だ。
  気を取り直し、冷蔵庫に常備してあるミネラルウォーターを出しながら、ふと思い付く。
  只の水よりも他に何かを入れた方が良いのではないだろうか。
  答えはすぐに浮かんできて、いつもの私特製調味料を多めに混ぜた。少し時間がかかるのを
  申し訳なく思ったけれども、兄さんが元気になることとを秤に架けたら充分にお釣りが来るから
  問題ない。
  愛情を込めながら軽くペットボトルを振り、しっかりと混ざったのを確認すると
  部屋で私を心待ちにしてくれているだろう兄さんのことを思い描いた。
「待ってて下さいね、兄さん」
  洗面所の鏡で確認をしたときのように失敗しないよう、落ち着いて笑みを作る。
  そして姉さんを排除する方法を考えながら、しかし遅くならないように少し急いで、
  私は兄さんの部屋に向かった。

19虎

 戸が開く。
「すいません、遅くなって」
  微笑みながらサクラが部屋に入ってくる。
「気にしないで」
「すいません。でも私、兄さんのそんな優しいところも好きです」
  頬を僅かに赤らめながら言うサクラの姿は、とても可愛い。たったそれだけの仕草なのに
  思わず愛しさが込み上げてきて、ベッド横のカラーボックスの上にペットボトルとコップを
  置くのと同時に抱き締めた。背後から抱き締めているにも関わらず表情まで分かるような
  慌てぶりに、つい口から笑いが漏れる。
「ちょっと、展開早いですよ?」
「ごめん、つい」
  抱き抱えたまま離さずに、ベッドへ腰掛けた。多少妙な感じがあったらしくバランスが
  少し崩れたものの、そろでも拘束は解かなかった。
  僅かに聞こえた甘い抗議の声に答えようとして、しかし止めた。
  体温が欲しくなったから、とは言わない。せっかく慰めてくれたのに自分から掘り出すような
  ことはしたくないし、それをしてくれたサクラに対しても失礼だ。だから、言葉の代わりに
  抱く力を強くする。サクラが好きだと言っていた少し強めの力に応えるように、
  頭を僕の胸板へと擦り付けてくる。普段はまるで虎のように思えるような部分が多いが、
  こうして甘えているときはまるで猫のようだ。
「兄さん」
「ん?」
  囁くような声での呼び掛けに、聞き取りやすいよう顔を下げる。
  一瞬。
  かすめるようにして唇を重ねた後、サクラははにかみ、
「言葉を出したりするのだけが、唇の役目じゃないですよ?」

 それに同意するように今度は僕の方から唇を重ねると、サクラの舌が割って入ってきた。
  口内全体を味わうように満偏なくしゃぶり、ねぶり、吸ってくる。更にそれだけでは
  満足出来ないとでも言うように、舌に絡み付いてきた。それを自分の口内へと引き寄せ、
  互いに内部を確認しあう。唾液を交換し、飲み込むとサクラは不釣り合いな程に
  艶めいた笑みを浮かべてこちらを見つめてきた。
「兄さんの、美味しいです」
  言葉に応えるようにもう一度唇を重ね、サクラの中へと唾液を流し込んだ。
  わざとらしく音をたてながら飲み、まだまだ欲しいとばかりに潤んだ瞳で顔を覗いてくるのが
  何ともいやらしい。
  気付けば僕は、シャツの中へと手を滑り込ませていた。きめ細かく滑らかな腹部を撫で、
  軽く臍の辺りをこじると擽ったそうに身をよじらせる。そのままなだらかなラインの脇腹を経て、
  肋骨の線をなぞりつつ、指先が乳頭のところまで辿り着くと甘いだけではない声が漏れてきた。
  既に硬くなり始めている乳首を転がすように擦り、耳を甘噛みすると泣くような声と共に、
  サクラは大きく身をくねらせた。
「あの、はしたない女だと思わないで下さいね? その、下も」
「何を今更」
  可愛いなぁ、と言いながらスカートの中へともう片方の手を滑り込ませる。
  下着の上から割れ目をなぞり、僅かに浮き出た突起を摘む。それだけでクロッチ部分に
  愛液が広がるのが、指先の感覚で分かった。

 初めてではないけれどそれでも、僕の愛撫で感じてくれているというのが嬉しい。
  念入りに続けていると湿った感触だけだったものが、指先に絡み付くようになってきた。
  下着をずらして中に指を差し入れるとそれで達したのか、抱く腕に強い抵抗が来た。
「挿入れても良い?」
  尋ねれば返ってくるのは、首の僅かな上下の動き。それによって胸板に打たれる頭部の弱い力で
  サクラの存在を感じながら、シーツの上に横たえらせた。そして下着を膝下まで降ろすと
  硬くなっている僕のものの先端を当て、馴染ませるように僅かに上下になぞった。
「あの、兄さん。こんなときに、しかも自分で言うのもアレですけど」
  何だろう。
「今こうしていて、青海さんはどう思うでしょうか?」
「サクラはどう思う?」
  我ながら質問を質問で返すことを卑怯だと思いながらも、訊いてみたくなった。
  青海のことを嫌っていた、と言うよりも単に敵対していただけだったサクラの意見だからこそ、
  興味を持った。今こうして名前を持ち出してきた意味が知りたかった。
  僕の言葉にサクラは少し黙り、
「正直、妬いてると思います。私がその立場なら、きっとそうですから」
  そうだろうなぁ、と僕も頷く。
「でも、最後には笑いますよ。自己肯定じゃないですけども、やっぱり最愛の人が笑っているのが
  一番ですから」
  やはり、そうなんだろうか。
「青海さんもあんな悲惨な死に方でしたけど、きっと大丈夫ですよ」
  待て。
  突然覚えた違和感に、心臓が高鳴った。

「体はバラバラに砕けても、心は綺麗なままです。きっと天国で見ていてくれていますよ」
  こいつは今、何て言った。
  何故サクラは青海があんな死に方をしたことを知っているのか。僕は青海が死んだことは話した
  けれども、それがどんな風だったのかは言っていない。それなのにこんな発言を
  出来るというのはおかしい。
「虎桜」
「何ですか、改まって」
  本人が嫌がるので普段は使わない、本当の名前で呼ばれたことに少し疑問の表情を浮かべながらも
  赤く染まったままの顔で尋ねてくる。
「何で、青海がそんな風に死んだことを知っているんだ?」
  知る方法は大きく分けて三つになる。
  一つ目は、人から聞いたりビデオなどの媒体から情報を得る方法。端的に表現すると、
  間接的に情報を仕入れることだ。だけれども、僕はサクラに言っていないのでこれは違う。
  他人がサクラに教えることもまず有り得ないので、これは該当しない。
  二つ目は、実際にその光景を目撃した場合だが、これも違う。第一、これは一つ目にも
  当てはまることだが、知っていたのなら僕の事情が察せられる筈だ。
  しかしさっきの発言の前までのことを言うのなら、サクラは何も知らなかったということが
  前提でなければ僕に事情を聞くということは成り立たない。つまり、どちらにも該当しない場合
  でなければ成り立たないのだ。
  だから、残るのは三つ目。

 自分が青海を殺した犯人だった場合だ。そうすれば知らなかったふりをせざるを得ないから、
  これまでのことにも筋道が立つ。
  僕はサクラを睨みつけるように見て、
「何故だ?」
  再度尋ねた。
「……それは」
  目を背けるサクラを見て、溜息を一つ。
「殺したな」
  底冷えするような声が漏れてきた。
「あの、兄さん」
  追いすがってくるようなサクラの声を無視して、体を離した。つい先程まで心地良いと感じていた
  サクラの体温までもが、忌まわしいものに思えてくる。股間の先端部分に付いたぬめりを
  取ろうとしてティッシュを取ろうと身を屈めたところで、弱い抵抗が来た。
「兄さん、その」
「何だ、虎桜」
  シャツの裾を掴んでいる手を振り払うように、少し距離を空けながら振り向いた。
  視界に入ってくるのは、血の気が引いて青ざめた顔。怯えているような、今にも泣きそうな色を
  浮かべたそれは何とも痛々しい。事情を知らない者が見れば誰もが庇護欲を掻き立てられる
  であろうその表情だが、僕には別のものに見えた。
「その」
  サクラは何かを言いかけ、しかし言わずに視線を床へと向ける。
  数分。
「出てけ」
  しかし、サクラは下を向いたまま動かない。
「頼むから、出ていってくれ」
  今度は少し強めに言葉を投げ掛けた。サクラは体を小さく震わせると、漸くベッドから降りて
  歩き出す。ふらつきながら僕の横を通るときに何かを呟いたようだったけれども、
  それは聞こえなかった。
  数秒。
  何かを言いた気な悲しそうな表情で僕を見ていたが、結局サクラは何も言わずに部屋を出た。
  僕一人が残った部屋は、何故かいつもより広く感じる。それは、多分芝居だったとはいえ、
  僕を慰めてくれた妹が意思を持って隣に居てくれたからだろうか。
「どうしろっつうんだよ」
  僕は溜息を吐き、ペットボトルの水を飲んだ。それは何故か、妙な味がした。

Side 姉虎

 ベッドに腰掛けて大きく息を吐き、そのまま天井を見上げた。
  計画は全て上手くいっている、順調すぎて自分でも少し恐ろしくなってしまう程に、だ。
  先程の夕食のときに聞いた話によれば青海ちゃんは死んでしまったらしい。
  楽観主義者のママでさえ沈黙したその場の空気はとても重く、あたしはそれに合わせて
  笑いを堪えるのが大変だった。下を向いて肩を震わせていたことと目尻に浮かんだ涙を
  虎徹ちゃんは上手い具合いに勘違いしてくれたから助かったけれども、それがなかったら
  本当に危なかった。
  せっかく進めてきた計画がつまらないことでおじゃんになるの程、興冷めするものはない。
  努力を無駄にされるのも嫌いだし、第一虎徹ちゃんには嫌われたくはなかったから。
  そんな思いで頑張った結果、神様はあたしを選んでくれた。正直なところ、今日一日でこんなにも
  進むなんて思ってもみなかった。早くてもあと二周間はかかると思っていたし、
  こんな状態になるのは更に先だと思っていた。
  やってみたことといえば言葉にするのもつまらない、下らないもの。虎徹ちゃんの常識を
  破壊したときとあまり変わらない。サクラちゃんの嫉妬を扇り虎徹ちゃんに関係を強要させるよう
  仕向けたときと何ら変わりはないものだ。ただ、その方向性を変えただけ。
  今度は嫉妬ではなく怒りを扇る。

 それだけのことだけれども、これは一つ目のように簡単にいくとは思ってはいなかった。
  サクラちゃんが虎徹ちゃんを想っては自慰行為をしているのは知っていたから、
  あたしと虎徹ちゃんがそういうことを見せつければ簡単に箍が外れそうなのは分かっていた。
  それを強く望んでいれば、他人が口火を切れば人は簡単に後続に着く。何も心配などせずに、
  溺れることが出来るのは二年前のことで分かりきっていたから。
  でも、二つ目はそうはいかない。
  だからゆっくりと待っていた、それこそ心が折れそうになる程に我慢や忍耐を重ねて。
  あたし自身が暴れたくなることも一度や二度ではなかった、それこそいつ怒りが爆発しても
  おかしくない状態だったのだ。最終的にはあたしのものになると分かっていても、
  痛みが完全になくなる訳ではない。それどころか、サクラちゃんの依存を増やす為に
  全て絞りとるのを我慢し、虎徹ちゃんが青海ちゃんと仲良くしていることに耐え続けるのは
  辛かった。二人の仲に対するサクラちゃんの怒りと悪意を扇る為に、自身の腹腸が
  煮えくり返るのを表に出さずなだめるのはひたすら苦痛だった。
  その結果、サクラちゃんは爆発した。
  あたしがそうなる前にしてくれて良かった、という思いがある。今のサクラちゃんの様子を
  見たときに安堵したことであたし自身もかなり危ないところまできていたと理解したときは、
  本当に肝が冷えた。だけれども結果は結果、あたしの勝利。

 青海ちゃんは死んだから。
  多分、正確に言えばサクラちゃんに殺されたんだと思う。そう考えることができる材料は、
  山程ある。まず皆が虎徹ちゃんを慰めている中、サクラちゃんはあまり積極的ではなかった。
  どんなに青海ちゃんと仲が悪くても、より近付くために優しい言葉を投げ掛けるのは当然のこと。
  それなのに虎徹ちゃんから一歩引いていた。それは家族の皆に青海ちゃんの死を知らせた
  夕食の時間よりも前に、二人の間に何かがあったということだ。
  それが何かと言えば、多分虎徹ちゃんにばれてしまったということが妥当。
  虎徹ちゃんに対して何も慰めの言わない、ともすれば冷血だと思われるような態度の
  サクラちゃんをかばうように、夕食前に慰められたと言っていたけれども、
  絶対にそれだけではないのはあたしから見てみれば一目瞭然だった。悲しみだけじゃない、
  怯えも混じったような瞳で何度も虎徹ちゃんを見ていれば簡単に理解ができる。
  虎徹ちゃん自身も多分表に出さないように頑張っていたんだろうけれど、
  それでも注意深く見ていればサクラちゃんに対する態度が少し妙なのか分かった。
  どんなやりとりが二人の間にあったのかは知らないけれど、サクラちゃんが青海ちゃんを
  殺したのは間違いなく知っていた筈だ。慰めている途中で青海ちゃんを馬鹿にしたから、
  という可能性も考えたけれど、それだけではあの態度にはならないだろう。ばれるにしても、
  やったことがそれ程酷いことではなかったのならばまだ何とかなったのに。

 つくづく救いのない話だと思う。
  まぁ、あたしには好都合だけれど。
  しかし、殺人かぁ。 心の中でその物騒な単語を、何度か呟いた。
  サクラちゃんも、随分と思いきったことをしたものだ。さっきも考えたけれど、
  例えば軽く怪我をさせる程度ならばまだ何とかなった。それは虎徹ちゃんも怒るだろうけれど、
  取り返しのつかない状態にまではならない。上手く誤魔化せば事故と言い張ることもできるし、
  謝ったりして罪を消すこともできる。けれども、殺人だけはどうにもならない。
  罪を消したりだとか償うだとかを遥かに超越した位置に存在するそれは、
  永遠に消えることなく付き纏う。誰にもばれなくても、それは変わらない。
  本当に、馬鹿な娘。
  あたし個人としては、そこまでして貰わなくても良かった。確かに、もう青海ちゃんが
  虎徹ちゃんに近寄ることはなくなったし、これ以上そちらに心がなびくこともなくなった。
  けれども狂ってしまうのだ、計画が。本来なら暴れるだけ暴れて、単に青海ちゃんを
  引き剥がしてもらうだけの役目だったのに、あろうことか殺してしまうなんて。
  普段はクールぶっているのに、中では相当熱くなっていたらしい。
  日常の中でもそんな一面を見せることも少なくなかったから実際に計画した訳だけれども、
  まさかここまでとは思いもよらなかった。煽る量を間違えたあたしのミスでもあるけれど、
  この予測は不可能だ。

 しかし今回ではっきりと分かった、切れすぎる刃はしっかりと鞘に収めなければやがて
  あたし自身もそれに切られることになりかねない。
  どうしよう、と考えたところで今の状況の滑稽さに気が付いた。
  間抜けすぎて笑えてくる。
  簡単に殺されてしまった青海ちゃんも、
  うっかり殺してしまったサクラちゃんも、
  匙加減を間違えてしまったあたし自身も。
  面白い。

 せっかく邪魔者が居なくなり、サクラちゃん自身もミスをして自分から遠ざかることに
  なったのに、幾つもフォローが必要な部分が出来たということが。
  吐息を一つ。
  これからは、大仕事だ。虎徹ちゃんの意思こちらに向けて依存させたり、
  もしかしたらあたしに向いてくるかもしれないサクラちゃんの棘を抜いたり、
  殺人が表に出ないように二人を説得したり、二人を普通の兄妹に戻したり、やることは沢山ある。
  しかし、それを終えれば虎徹ちゃんは永遠にあたしのものになる。そうして二人で築きあげるのは
  完全無欠に閉じられた、絶対無比の夢舞台。観客も立ち入らせず、役者が役者の為だけに
  踊り続ける理想郷。
  想像するだけで、体が芯の部分から震えてくる。
「あはっ。待っててね、虎徹ちゃん」
  展開が少し早いと思ったけれども、良いことをするのならば早いに越したことはない。
  込み上げてくる笑いを堪えながら、あたしはいつもの如く虎徹ちゃんの部屋へ向かった。

20虎

 三日月や星の見守る部屋の中に、粘着質な水音が響く。
「今日、は、いつ、もより、激しい、ね」
  微笑んでこちらを眺める姉さんが妙にいやらしく見えて、僕は腰の動きを加速させた。
  更に激しく獰猛に、粘膜と粘膜、性器と性器とを擦り合わせる。初めて姉さんとセックスを
  してから毎日続けているせいか驚く程それは馴染み、とろけて絡み付いてくる姉さんの性器は、
  恐ろしいくらいの一体感を僕に与えてくる。このまま溶けて混ざりあい、一つになるような、
  そんな感触が僕の性器を包む。
「姉さん、中に、出すよ」
  答えの代わりに強く抱きついてきて、僕の腰に脚を絡めてくるのはいつものこと。
  それが出してほしいという意思表示なのは分かっているので、一際深いところまで打ち込んだ。
  直後。
  姉さんの膣が痙攣して強く締め付けてくるのと同時に、子宮口を強くこじるようにして
  突いていた僕の先端から精液が出た。いつもより若干長い気がする放出時間の後、
  僕は姉さんの膣内から引き抜きながら、胸の上に倒れ込んだ。柔らかな双丘が顔に当たる。
  顔の形に合わせるように形を崩しながらも、適度な弾力で押し返してくる感触が
  何とも気持ちが良い。
  数秒。
  それだけの時間を置いて荒くなっている呼吸を調え、姉さんは小さく笑った。
「どうしたの?」
「ん、お姉ちゃん嬉しくって。何か今日、いつもより激しかったし。それに」

 割れ目から溢れてきている互いの液がブレンドされたものを、僕の指を使って掬い、
「いつもより量も多いし、濃いみたい」
  しゃぶるように舐める。
「不味いね、濃いから更にキツいかも」
  言われ、心が痛んだ。いつもよりも濃いという理由は単純、今日はサクラとしていないからだ。
  僕は元々弾数が多い方ではないので、それが顕著に表れたのだろう。
  そんなつまらないことを頭の端で考えながらも、それ以外の大部分で思うのはサクラのこと。
  愛し合う直前でそれが砕け、拒絶された痛みは本人にしか分からない。
  けれども、別れ際の痛々しい表情は誰の目にも分かる程それを訴えかけてきていて、
  それを思い浮かべると胸が強く締め付けられる。
「虎徹ちゃん、どうしたの?」
「何でもないよ、それより」
  内心を悟られないように笑みを浮かべ、無理矢理話題を代えるように、
「前から気になってたんだけど、どんな味がすんの? 不味いとか苦いとかはよく聞くけど、
  具体的にどんな感じ?」
「舐めてみる?」
  僕が首を振ると姉さんは楽しそうに笑い、
「何か生臭くてね。最初は少ししょっぱい感じなんだけど、飲み込むときに何かエグいのが
  来る感じ。しかも、喉の奥の方にその嫌な感じのがこびり付いて……」
「ごめん、もう良い」

 具体的に、と言うよりも生々しい感じの描写に具合いが少し悪くなってきた。
  それが僕の性器の中から出てきたものだということを差し引いても、絶対に飲みたくはないと思う。
  姉さんやサクラは嬉しそうに美味そうに飲んでいたから青汁のようなものだと思っていた
  けれども、方向性はかなり違うらしい。
  僕は軽く頭を下げ、
「ごめんなさい」
  それを聞いて姉さんは再び笑う。
「気にしないで、虎徹ちゃん。個人差ってものがあるらしいから、もしかしたら虎徹ちゃんのは
  他の人より飲みやすいのかもしれないし。他のは飲んだ事ないから分かんないけど」
  これは、フォローされているんだろうか。されているにしても、妙な話になったもんだ。
「それにね、あたし達は飲みたくて飲んでるんだからね」
  という訳で良質な蛋白質を頂きま〜す、と言いながら姉さんは僕のものに舌を這わせた。
  性器のものとはまた違う感触に背筋に震えが走るが、今はそれよりも大事なことがあった。
「姉さん」
「ふぇ、ふぁひ?」
  僕のものを口に含みながら喋っているせいで発音が不鮮明だが、聞くことは聞いているらしい。
  姉さんはたまに夢中になりすぎて、わざとなのかどうなのか、それとも天然なのか、
  人の話をあまり聞かないことがある。数少ない姉さんの悪癖だ。食事時もそうだけれど、
  口にものを含んだまま喋る悪癖もあり、治ってほしいと常日頃思っているのは僕だけの秘密だ。
  そんな現在進行系で悪癖を披露している姉さんに向かい、僕は吐息を一つ。

「口にものを入れたまま喋らないの、それより」
「うん」
  口からものを出したが、今度は豊かな膨らみで挟んできた。複数の種類の液が混ざった液が
  潤滑油となり、挟んでいるものの弾力と相混じって独特の快感を作っている。
  思わず声が漏れそうになるが、それを堪えて姉さんを軽く睨んだ。もしかして、
  わざとやっているのではないだろうか。
「乳から手を離しなさい」
「えぇ、じゃあお姉ちゃんどうすれば良いの!? まさか、あ、足!? 足なのね!? うん、
  少しマニアックだけどお姉ちゃん引いてるのを隠して頑張る!!」
  隠してねぇ!!
「あんまり器用じゃないから下手かもしれないけど、許してね?」
  僕は姉さんの頭にチョッピングをして黙らせ、
「姉さん、さっき言った『あたし達』の『達』って何?」
「? 複数系を表す言葉だよ?」
  そうじゃなくて!!
  睨むように姉さんの顔を覗き込むが、しかし返ってきたのは見当違いな程に優しい笑みだった。
  どうやら僕が言いたいことは分かっていて、少しからかっていたらしい。姉さんの場合、
  こんなボケをしても普段とあまり変わらないので分かり辛い。
  否、それよりも、
「知ってたの?」
「あはっ、うっかり口が滑っちゃった」

 やはり姉さんは、僕がサクラともしていたことは知っていたらしい。冷静に考えてみれば、
  当然かもしれない。夜中に姉さんとしていることをサクラが知っていたのだ、
  それに比べて格段にばれやすい夕食前という時間にサクラとしていたのだから、
  気付くのは当然かもしれない。なるべく声や音は出さないようにしていたけれども、
  分かる人には簡単に分かってしまうだろう。
「サクラともしたの、怒ってる?」
  答えは言葉ではなく動きで来た。昼間、泣いていた僕にサクラがしたように、
  顔を胸に埋めるようにして掻き抱かれる。性格は違っていてもやはり姉妹、
  同じような行動をとったり、根の部分で繋がっている。
「でも、今日はしてないんでしょ? いつもより濃いのもそれかな?」
  答えられずにいる僕に対して、言葉は続く。
「サクラちゃんと、何かあったの?」
  これで言葉は終わりだ、と言うように抱く力が強くなった。
  温かい。
  仄かに甘い香のする胸の中、言っても良いかもしれないと思った。心の中で留めておくには
  重すぎるし、こうして今、僕を受け止めてくれている姉さんならどうにかしてくれる
  かもしれない、という希望を持って。
  顔を上げると、相変わらず姉さんの笑みがある。
「サクラが」
  細く息を吸う。
「青海を」
  言ってしまえ。
「殺した」
  短いが確かに言いきり、大きく吐息をした。
「そう」

 対する姉さんの返事も短いもの、特に何を言う訳でもなくこちらを見つめている。
  人が死んだというのに、しかも身内が殺したというのに動じた様子もない。
  ただ、次の言葉を待つように僕を抱いたままだ。
  数分。
「姉さん、どうしたら良い?」
「どうしたいの?」
「分からない」
  そう、分からない。
  どちらを見ても道がない。
「許しちゃえば?」
  何を言っているんだ?
「怒りたくても怒れない、離したくても離せない、嫌いたくても嫌えないから虎徹ちゃんは
  悩んでるんでしょ? なら許しちゃえば良いんじゃない?」
  そうなのか?
「現に、晩御飯のとき何も言わないサクラちゃんをかばったでしょ?
  それは、嫌いたくないってことだよ」
  そうかもしれない。
「ここからはあたしの気持ちだけどね、サクラちゃんを嫌わないでほしいな。青海ちゃんには
  悪いと思うけど、サクラちゃんは虎徹ちゃんが好きだからやったことだし」
  姉さんの言葉は止まらない。
「あたしも、サクラちゃんには悪い人にはなってほしくないから。姉妹だし、家族だしね」
  家族、だから。
「ま、これはあたしのワガママだけどね。良かったらサクラちゃんのことや、あたしの今の言葉を
  胸に留めておいてくれると嬉しいな」
  サクラを許せば、そのまま青海を切り捨てることになる。
  だから許せない。
  許したいのに、許せない。
「おやすみ、虎徹ちゃん」
  僕が考えている間に姉さんは手早く寝間着を着ていたらしく、そう言うと僕の頬と唇のそれぞれに
  キスをして部屋を出ていった。
  数秒。
  なんとなく窓の外を見た。
「どうすりゃ良いんだよ」
  見守ってくれているだけで、月も星も答えてくれない。

Side姉虎

 いつもより遅く目が覚めた。時計で時間を確認するまでもなく、高く上がっている太陽で
  もう昼に近いことが分かる。原因は多分、昨日の夜がいつもより激しかったからだろう。
  僅かに残る倦怠感を引きずりながら居間へと向かった。
  設計上長めの廊下を歩きながら思うのは、昨日虎徹ちゃんに言ったこと。
  計画を有利に進めるために言った、サクラちゃんへの恩赦のことだ。
  そのときはあたしの安全のことを考えてあんなことを言ったけれど、あたしの本心の部分は
  どうだったかと聞かれてみれば少し答えにくいものになる。
  まずあたしの心の方について、殆んど考えていなかった。けれども思い返してみれば、
  意外に当たっているかもしれないのだ。そもそも計画は虎徹ちゃんを安全に手に入れる為に
  たてたものだった。それは裏を返してみれば、虎徹ちゃん以外の部分は何も変わらないように、
  というものがある。
  例えば、青海ちゃん。彼女が殺されたのは悪い事故だと思ったのは事実だし、厄介だと思った。
  面白いと思いながらもやりすぎだとも思ったし、そもそも殺さないようにサクラちゃんを扇る量を
  調節していたのは殺さないようにする為だった。つまりは死ななくても良い、
  寧ろ死んでほしくないと思っていたということだ。

 例えば、パパとママ。虎徹ちゃんとの行為が表に出ないようにする方法なんていうのは
  幾らでもあるし、何かあっても誤魔化すことなんて簡単だ。虎徹ちゃんと関係を持つ前は
  それこそ毎日布団に潜り込んでいたのだから、一緒に寝ていたという一言で済む。
  しかしそんなことをせずに、夜中にこそこそと誰にも分からないように虎徹ちゃんと
  セックスをして、それが終わったら自分の部屋へと逃げ帰るのはどこか滑稽な感じがする。
  そう自覚をしながらもこの方法を取り続けたのは、両親に対しての躊躇いや日常への気持ちが
  心の片隅に有ったからではないのだろうか。
  そして、サクラちゃん。サクラちゃんが虎徹ちゃんに対して持っている気持ちを知りながら
  それを利用したのは、それがサクラちゃんにとってとても大切なものだと理解をしていたから
  ではないのか。酷い話だとは自分でも思うけれども、それでも最後には日常へと戻そうと
  思っていたこと。つまりは切り捨てずに、いつものサクラちゃんに戻そうとしていたのは、
  サクラちゃんも大切に思っていたからなのではないのか。やりすぎにならないように
  仕向けていたのは、その最たるものだ。
  そこまで思い至って、不意に笑いが漏れてきた。もう計画も終盤、終わりまであと少し
  だというのにやっと気持ちが追い付いてきた。しかも自分の発言や行動を省みて、
  やっと気が付いたようなものだ。その上、それは自分の行動を少しでも良く思わせたいような、
  言い訳とも偽善ともとれるようなもの。

 逃げられない。
  何せ、昨晩から比べると気持ちは大きく違うし、やったことはどうしようもない程酷いのだから。
  逃げることなんて不可能だ。
  これが罰というようなものなのかもしれないね、と思いながら居間の襖を開いた。
  今の時間なら誰か居そうなものなのに、そこには人の影は見当たらない。
  パパは昨日の夕食のときにまた出張だとぼやいていたから分かるけれども、
  他の三人はどうしたのだろうか。
  いつもより広く感じる不思議な雰囲気で人が居ないということを思いながら、座布団に座った。
  寂しさよりも静かさをまぎらわすようにテレビを点け、お茶でも飲もうと急須に
  手を伸ばしたところで気が付いた。
  書き置き。
  お茶の葉を入れ、ポッドからお湯を注ぎながら読んでみると、青海ちゃんの家に呼ばれたので
  虎徹ちゃんと行ってくるという旨が書いてある。彼氏だった虎徹ちゃんは当然行くとして、
  サクラちゃんはどうしたのかと思ったけれど、すぐに止めた。もしサクラちゃんも呼ばれたのなら
  あたしにも声が掛る筈だし、逆に自発的に、というのは多分ありえない。
  虎徹ちゃんも今は悩んでいるだろうから、指名もきっとない。
  このまま、何事もなければ良いのに。
  つい先程確認した気持ちで考える。

 もう少し読み進めてみると、台所におむすびを置いてあると書かれていた。立ち上がり、
  数歩程歩いてみるとテーブルの上に大きめのお皿が置いてあり、握られた白飯が
  少し多めに置いてある。綺麗にピラミッド型に置かれたそれは誰も手を付けていない証拠だ。
  サクラちゃんも、食べていないのかな。
  幾つかをお皿に取り分けながら考えて、居間に戻る。最初はサクラちゃんは
  作っている途中に食べたのかと思ったけれども、それはおむすびを見て違うと分かった。
  ママが作るものとサクラちゃんが作るものは大きさが違い、今詰まれているものは
  ママが作ったときの大きさだ。背が高く、それに比例するように長い指で作られたそれは
  パパの好みに合ったもので、逆に身長と同じく小さな手で作るサクラちゃんのおむすびは
  虎徹ちゃんの好みに合わせたもの。単純なものだからこそ、それぞれの差が出てくる。
  面白い。
  気持ちを自覚したあとの目線で見てみると、色々違ったものが見えてくる。思い返してみれば、
  気が付くことも結構多いものだ。自分ではよく取り柄がないと言っていたけれども、
  料理はその辺りの店よりずっと美味しい。純粋な技術だけじゃなく、家族に合わせて
  作っていたからだ。ただ虎徹ちゃんの好みに合わせるだけじゃない、最近だと暑くなってきたから
  味付けを濃くしたりと、皆に気を遣っていた。それだけじゃない、あたしも髪や肌に
  気を遣っているけれどもサクラちゃん程に綺麗じゃない。

 良いところを一つずつ思い浮かべながら、おむすびを口に運ぶ。
  ママには悪いけれども、サクラちゃんの方が美味しい気がした。
  もう一口食べようと思ったところで、不意に襖が開く音がした。考え事に夢中になっていて
  気が付かなかったけれども、人が居たらしい。今、家に居る人は消去法で簡単に答えが出てくる。
  どうやらどこかに出掛けたと思っていたけれども、単なる寝坊だったらしい。
  そのことを少しおかしく思いつつ、これからの為にどうしようか考えながら振り向いた。
  すっかり愛しくなった妹を見て、
「サクラちゃ……」
  ん、という言葉は言えずに止まった。視界に入ってきているサクラちゃんの姿を見て、
  言葉が続けられなかった。いつも綺麗に下ろされていたストレートの髪はぼさぼさになっていて、
  一晩泣いたのか瞼は腫れ、眼球は赤く染まっている。瞳に宿る色は悲しみや諦めなど
  色々浮かべているのに、怒りなどというものは一切浮かべていない。細い体は細かく震えいて、
  今にも崩れそうになっていた。着ている寝間着に皺やよれがないせいで、それはどこか
  ちぐはぐに見えた。
  しかし、大事なのはそれだけじゃない。
  何よりあたしの視線を釘付けにしたのは薄い胸の中央、
  細かく振動している手に握られた小刀だ。元々色素が薄く、白い手指から色が
  完全に失せる程強く握られたそれの上部、鈍く太陽光を反射する刃が独特の存在感を放っている。
  あたしが何かを言おうとする前に、サクラちゃんは歩き出した。最初の一歩はゆっくりと、
  続いて速度を上げながら二歩目、三歩目を踏み出してくる。四歩目で、それは歩くと
  言うよりも走るというものになり、あたしの体に高速で向かってきた。
  ごめんね。
  青海ちゃんも、
  パパも、
  ママも、
  サクラちゃんも、
  虎徹ちゃんも。
  最後くらいは良い娘になれると思ったのに、
  良い娘になったと思ってたのに、
  最後まであたしは悪い娘でした。
  小さく心の中で呟いて目を閉じた。
  でも、悪い娘だけど、少しでもサクラちゃんが救われるのなら、サクラちゃんに殺されるのなら
  良いかもしれない。サクラちゃんに逃げ道が見付かるのならあたしの命くらいは安いものだ。
  本当に、ごめんね。
  もう一度心で呟いたところで、衝撃が来た。

Side妹虎

 掌に鈍い感触が伝わってきた。お肉を捌くときの手応えに似ているかと思っていたけれども、
全然違う。覚悟もしていたけれども、実際に刺してみれば酷く生々しいその弾力は
私に吐気を沸き上がらせた。
  だけど、ここでくじけてはいけない。
  弱る心に喝を入れて、刺す直前に閉じてしまった目を開いた。最後までやりとげると決めたのは
自分なのだから、そこから逃げてはいけない。
  一瞬。
  何が起きたのか理解出来なかった。唇に柔らかい感触が当たり、数秒してそれが離れていく。
それを名残惜しいと思いながら姉さんの顔を直視すると、そこには微笑を浮かべた顔があった。
諦めでもなく、怒りでも悲しみでもなく、純粋にこちらを包み込もうとする暖かな表情。
不純物など混じっていない、完全に純粋なものだ。
  どうして、と言おうとしたが声が出てこない。唇も舌も動かせず、機能を全く果たしていない。
それでも何かを言おうとしても、ただ喉の奥から細く空気が漏れてくる。
ドラマなどでは刺された方がこんな状態になるのに、これでは立場が全く逆だ。
  それでも、せめて何かをしたいと思い小刀から手を離した。短い時間で思考して、
まずは抱き締めようと思い腕を伸ばす。しかしそれは宙を切った。直後、重いものが床に落ちた音が
聞こえてくる。畳敷きの筈なのにやけに大きく聞こえてくるそれで、やっと思考が追い付いた。

 腕が空振ったのは急に姉さんが視界から消えたからで、それを確かめるように視線を床へ向けると
倒れた姉さんの体がある。
  再び目を閉じてしまったけれど、私の目の前で広がっている筈の光景はしっかりと
目に焼き付いていた。仰向けに横になっている姉さんの体、その脇腹から生えたように
小刀が突き刺さっている。倒れた拍子に傷口が広がったのか、その部分からまるで洪水のように
鮮血が溢れてきている。それは衣服だけでなく床までもを赤く染めていた。
  意識した瞬間、思わずむせて咳き込んだ。それのせいで大きく呼吸をする度に、
生臭い血の匂いが鼻孔から侵入してくる。
  どうしよう。
  数秒して漸く目を開いたけれども、目の前には絶望的な光景があるだけだ。足が震え、
あまりの恐怖にその場に座り込む。青海さんを殺したときとは比べ物にならない程の
後悔が沸き上がってきた。もしかしたら先程の姉さんの表情を見たからかもしれないけれど、
今更になって失いたくないと思った。
  そうだ、電話。
  救急車を呼べば、助かるかもしれない。
  ポケットから携帯電話を取り出し、開こうとしたところで腕に軽い圧力がかかる。
袖を姉さんが掴んでいた。顔を見てみれば先程のものと変わらないままで、
ゆっくりと横に振っていた。目が合い、口の端が僅かに上がったことで、呼ばないで、
ではなく呼ばなくても良いと言っていることが分かる。
  吐息を一つ。

 私はなるべく悲しく見えないような笑みを浮かべて姉さんの隣に座った。
そして負担があまりかからないように上体を重ねると、ゆっくりと唇を重ねる。
少し照れ臭かったけれども他に見ている人は居ないし、一度したのだから気にする程でもない。
続いてこのまま抱き締めたかったけれども、流石に止めた。抱いてしまったらきっと苦しむだろう。
その代わりに、長く長く口付ける。舌に血の味がにじむけれども、構わなかった。
不快だとも思わない。これが姉さんそのものだ。
  数分。
  兄さんとも数える程しかしなかった長さの口付けを終えて唇を離すと、
姉さんは子供のように笑った。言葉が無くてもなんとなく分かる。何だか照れ臭いね、
と言っているのが表情から伝わってきた。昔から何度も、それこそ数えきれないような回数で
見続けてきた笑みだからこそ、伝わるもの。
  私も同じような表情をしていたのだろう、お互いに頷いて同時に小さく笑い声を出した。
姉さんの口の端から溢れた血をハンカチで拭い、それをされた姉さんが
恥ずかしそうな表情を浮かべる。しかし、それでも笑みの形は崩さない。
  凄いな、と思う。
  今だって傷口が尋常でない痛みを訴えてきている筈なのに、それを気にしていないような態度で
接してくれている。それは気遣いかもしれないけれども、それでもそうしていられる姉さんを
誇らしく思った。そして、それをさせてしまっている私を情けない、とも。
  不意に、温かさが体を包んだ。

 私は相当酷い表情を浮かべていたらしい、慰めるように姉さんが私を抱いていた。
死ぬ間際だというのにそれはとても力強く、温もりに満ちている。人が死ぬ直前は
温度も力も弱くなると言われているけれども、それは嘘だ。現に姉さんの体は暖かいし、
腕もほどくことが出来ない。体に負担が掛るから止めてほしいのに、どれだけ頑張って
脱け出そうとしてもそれは私を捕えたままだ。
  これ以上は姉さんの負担を強くしてしまう、と私が逃げるのを諦めると、
嬉しそうに頬を寄せてきた。滑らかな肌が擦れ合う感触が気持ち良い。
  と、突然背中にぬめる感触が来た。一拍遅れて姉さんの咳き込む音がする。
驚いて体を離すと口から大量の血液が溢れ落ちてきている。襟元にできた赤い染みが勢い良く広がり、
脇腹から延びていた染みと繋がった。私を抱いたことで余計に酷い状態になったと思うと、
目元が熱くなる。目が合うと、ごめんね、というような視線が来て更に熱を持った。
  それを堪え、慌てて姉さんの上体を寝かせると、頬に指が伸びてきた。
ゆっくりとした速度で撫で、滑る指は目尻にまでやってくる。せっかく寝かせたのに
これでは意味がないと思っても、それは止められなかった。いや止めようとも思わない、
ここまできたら好きにさせてあげようと思った。昨日兄さんにしてあげたことと同じことをされ、
心地良いと感じながら、私にこうされた兄さんはどうだったのかと考える。

 嬉しかったのでしょうか。
  それも今考えても仕方のないかもしれないし、他のことを考えているのは姉さんに
少し失礼かもしれないと思い、考えることを止めた。
  数分。
  頬を撫でる手が不意に止まり、床に落ちる。
  もう、限界なんですか。
  急いでパジャマの上着を脱ぎ、傷口に当てた。すぐに黄色かった布地の色が赤に変わっていく。
そもそも、今までかなりの出血だったからあまり効果はないかもしれないと思ったけれども、
やらないよりはずっとましだと思う。何かが刺さっている場合は抜かない方が良いと
聞いたことがあったので、酷いと思いながらも刺したままにしておいた。
  これで、少しは長く生きれるだろうか。
  会話が出来なくても良い、触れ合えなくても良い、今はただ生きている姉さんの隣に居たかった。
自分でやっておいて随分と都合の良い話だと思うけれども、それでも私は隣に居たかった。
  姉さんの顔をもう一度覗き込み、軽く口付けた。目を開かないどころか何の反応もないけれど、
私の顔に軽くかかる息でまだ命を落としていないことが分かる。
  このまま姉さんの顔を見ていたかったけれども、我慢して携帯電話を開いた。呼び出す番号は、
姉さんと同じくらい大好きな人のもの。
  数コールで、相手の人は出た。
「死にます」
  一言だけ言って、通話を切った。
  私の役目はそろそろ終わる。
  兄さんは駆け付けてくれるだろうか、とは思わない。けれど、駆け付けてほしいと思い、
長い息を吐いて天井を見た。

To be continued.....

 

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