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たぬきなべ



1

 今朝も、口の周りはベトベトだった。
  寝涎がどうも出やすい体質らしい僕は、毎朝口を拭ってから大欠伸。
  その欠伸が届いたのか、キッチンの方から幼なじみの小娘が、ひょこり顔を出してくる。
「あ、たっくん。おはよう!」
  元気よく挨拶してくるそいつの唇は、やはり今朝も濡れていた。
  唇が乾きやすいとのことで、しょっちゅう自分で舐めているそうな。
  でも、幼なじみとはいえ、男の前で舌なめずりは正直勘弁して欲しい。
  これでもこちらは健康的な青少年なのだ。
  赤い舌の艶めかしさに時折前屈みになってしまうのを誰が責められようか。
  僕のそんな思惑なんて露知らず、幼なじみは朝食が出来た旨を、目の前10センチまで
  顔を近づけ伝えてきた。
  赤い舌が、ちろりと唇を舐めていた。

「「いただきまーす」」
  二人揃って手を合わせる。
  今朝のメニューは鮭の塩焼きと卵焼き。
  幼なじみは僕が食べ始めるまで食べようとしない。
  自分の作った者の評価が気になるのだろうか。
  卵焼きをひとかけら口に運ぶ。しっかり噛みしめて味わってから「美味しいよ」といつもの言葉。
  幼なじみは嬉しそうに微笑んでから、自分の食事に取りかかる。
  こんなに料理上手なのに、自信が持てないのは何故だろうか。
  ただ、ひとつ気になることとして。
  幼なじみが注視していたのが、卵焼きの方ではなかったような。
  きっと気のせいに違いない。
  だって、好きこのんで他人の箸を見つめるような人は、そうそう居ないと思うんだ。

2

 昼休みは風紀委員会の会議兼昼食。
  幼なじみに作ってもらった弁当を食べつつ、今週の報告を済ませる――という名目の下、雑談に耽る。
  会話するのは主に男子。
  縁がないのか気が合わないのか、僕は女子の委員と仲良くなったことがない。
  どうも、向こうが避けてるようで、最近は声をかけることもなくなってしまった。
  それでも委員会の活動に支障は来されないのだから、世の中は無情である。南無南無。
  まあ、そんなこんなで雑談しながらそぼろ弁当をもしゃもしゃと食べていたのだが。
「狸君、ちょっといいかな」
  唯一の例外、風紀委員の女子で僕と普通に会話してくれる先輩が、声をかけてきた。

「あ、先輩」
  先程まで女子委員と昼食を取っていたのか、可愛らしい子犬柄の包みを片手に、先輩が隣に座ってきた。
  何か話があるのかな、と慌てて箸を置こうとするが、
「あ、気にしないで。そのまま食べながらでいいよ」
  気にするなと言われましても。
  それなりの学生数を誇るこの学園でも、先輩は確実に5本指に含まれる美人である。
  そんなお方が隣に座って、こちらをにこやかに見つめていたりしたら、気になって気になって
  弁当の味もわからなくなってしまう。
  せっかく弁当を作ってくれた幼なじみには申し訳ないが、こんな状態でまともに働くほど、
  僕の舌は無神経じゃないんだよう。
  まあそれはそれとして。
  先輩は、いつものように、僕に向かって手を差し出してきた。
「はい、これ。狸君の忘れ物でしょ」
  そう言って渡してきたのは、確かに僕の腕時計だった。
  安物だけどお気に入りで、3年以上使っている代物だ。
  昨日の昼当たりから見当たらなかったのだけれども、やはり落っことしていた模様。
「狸君って、よく落とし物するよね」
「……すみません」
  うう。僕のドジっ子! 先輩にくすくすと笑われてしまったじゃないか!

 先輩の言うとおり、僕はよく忘れ物をする。
  特に昼食後に忘れることが多く、大抵昼休みに、ここ風紀委員の会議の際、何かを必ず忘れていく。
  今回は腕時計、その前はハンカチ、その前はボールペン、その前は数学のノート。
  それを毎回発見し、次の日に渡してくれるのが先輩である。
  先輩にはお世話になりっぱなしである。
  いつか恩返しをしたいとは思うものの、具体案はひとつたりとて出てこない。チキンめ。
「今日こそは、今日こそは何も忘れないようにします! 本当にごめんなさい!」
「そんな、気にしなくっていいってば。
  なんというか、ほら、忘れ物をしてこそ狸君っていうか」
「そんな情けない個人特性なんか要らんとです」
「ふふっ。……あれ? 狸君、シャンプー変えた?」
  先輩が顔を近づけて、鼻をすんすんさせてきた。
  どうやら先輩は匂いが気になる人のようで、僕はよく匂いを嗅がれている。
  うう、そんなに顔を近づけられたら、あ、息が首筋に、ぐあ、落ち着け青少年回路!

 結局しばらくの間匂いを嗅がれた後、先輩は何故かとても満足したような表情で離れていった。
  しかし、ひとつだけ気になることがある。
  先輩、離れる直前、さりげなく僕の鞄に手を入れてなかったか?
  …………。
  いや、気のせいに違いない。
  毎日僕の忘れ物を渡してくれるような先輩が、人の物を盗るなんて真似、するはずないじゃないか。
  おおかた、立ち上がるときにバランスを崩して少し触れてしまっただとか、そんなのだろう。
  おっと、それより昼飯昼飯。
  先輩によって刺激された青少年回路を必死になだめすかしつつ、そぼろ弁当の残りを一気に
  かっ込むことにした。
  うん、今度は味がわかる。
  いつも美味しい弁当を作ってくれる幼なじみに感謝感謝。

3

「先輩、この子なんてどうですか? このこんもりと丸くなりつつ見上げてくる愛らしさとか
  最高ですよね!」
  ぐわばーっと襲いかかりながら写真を目の前に差し出してきているのは、動物部の後輩である。
  動物部。それが僕の所属している部活動だ。
  生物部ではない。動物部である。
  活動内容は単純明快。
  ただひたすら動物の写真集などを持ち寄って、あれこれ講評し合うだけである。
  当然学園に認可されるはずもなく、部費はゼロである。というか同好会の域すら脱していないかも
  しれない。
  何せ、所属しているのは僕と後輩女子のたった2人。
  同好会ですら設立に3名以上の人員が必要なので、むしろ同好会ですらない。泣ける。
  まあ、部費どころか活動用の教室すら与えられない動物部は、今日も今日とて屋上手前の踊り場で
  活動していた。
  夏は暑くて冬は寒いこの場所だが、愛くるしい後輩は文句ひとつなく活動に参加してくれている。
  後輩はジャンガリアンハムスターの写真をきゃいきゃいと褒め称えているが、
  この後輩も負けないくらい可愛いと思う。
  言ったら調子に乗ると思うので絶対に言わないが。

 

「ねえねえ先輩! この子なんてどうでしょう!」
  ぎゅむ。
  うあ。
「ちょ、落ち着けってば」
「落ち着いてなんかいられますかっ! 見てくださいこの丸さ! この写真だけでこれ買った価値は
  ありますってば!」
  ぎゅうぎゅう。
  胸が。太股が。くそ、こればっかりはいつまで経っても慣れないな。
「せんぱーい? どうかしたんですか。やっぱり先輩も、この子の魅力にメロメロですかー?」
  貴方の体の柔らかさにアタフタです。
  ではなくて。
「ええい落ち着きなさい!」
  ぐい、と両手を使って押し離す。
「あん」
「そのハムスターが可愛いのはわかったから。とりあえず俺にもゆっくり見させてくれ」
  そう言って、手元の写真集に視線を落とす。
「はーい」
  うむ。素直でよろしい。

 

 さてさてそれでは、俺はこのエゾタヌキの写真集を心ゆくまで――
「先輩せんぱーいっ! これ見てくださいこれ! なんというかもう、垂涎モノですよー!」
  がばっ!
「ちょ、こら、お前は鳥か!?」
  可愛いし聞き分けのいい少女なのだが、こいつにはひとつだけ欠点がある。
  なにかと人に抱きつく癖があるのだ。
  たとえば今のように、僕に見せたい写真があった場合、
 
  目の前に回り込む→座る→写真を差し出す→見て貰う
 
  なんてプロセスを踏まずに、
 
  ダイビング→抱きつく→見せる
 
  といった感じで急がば回れを完全無視。
  しかも腕や足を器用に絡めてくるため、引きはがすのにも一苦労。
  しかも、先輩や幼なじみほどではないものの、それなりに出るところも出ているため、
  こう、後ろから抱きつかれたときは、
(うあー!? 薄い布地の感触と硬い布地の感触とその奥の柔らかい感触がががギギギ!?)
  ぐりぐりと押しつけられてくる少女の感触に、何というか、こう、身悶えせざるをえないわけで。

 

 かくして、動物部なのかプロレス部なのかよくわからない活動を終えた後、帰り支度をし昇降口へ。
「あの……先輩?」
「ん?」
「いつもいつも、ありがとうございます。私のわがままで始まった部活なのに……」
  しゅん、と下を向いてそう言ってくる後輩。
  何を今更。
  別に動物写真の鑑賞は嫌いではない。むしろ好きな方だ。
  イヌ科の動物、特にタヌキ属の写真なんて最高だね。
  まあ、抱きつかれるのには未だ慣れないが、それ以外は基本的に楽しいし。
  頭をぽんぽんと撫でてやり、「気にするなよ」と笑ってみせる。
  この後輩が落ち込んでいるところなんて見たくない。
  小動物相手にきゃあきゃあ言っている姿の方が何万倍もマシである。
  後輩は、数秒間僕の顔を凝視したかと思うと、おもむろに。
「先輩っ! ありがとうございますっ!」
「ってまたかよっ!?」
  首筋にかじりつくように、真正面から抱きつかれた。
  後輩の両腕は背中に回され、両足は僕の右足に絡みついている。
  うぎゃあ、右足の太股に、何か感じてはいけない感触が押しつけられてる気がーっ!?
  何とか引き離そうとするも、後輩はしがみついて離れない。
  うわーん。放課後の昇降口で何やってるんだ僕たちはーっ!?
  部活上がりの皆さんが、視線をずさずさと突き刺していく。
  痛いよう。痛いよう。柔らかいよう。でもやっぱり痛いよう。
  と。
  僕が後輩のオクトパスホールドから抜け出せないでいたところで。
 
「――あ。たっく、ん……?」
 
  幼なじみが現れた。
  ラッキー。ちょうどよかった。後輩を引きはがすのを手伝ってはもらえまいか。

4

 現状を再確認してみよう。
  場所は昇降口。
  時刻は放課後夕暮れどき。
  抱きつき魔の後輩に囚われて、周囲の視線がマジ痛い。
  其処へ現れた救世主、生まれた頃からのお付き合い、毎朝昼晩と美味い飯を作ってくれる幼なじみ。
  アイコンタクトなど朝飯前の間柄。
  現在の僕の困った状況、こやつなら何とかしてくれるに違いない。
 
  そう思い、幼なじみに目配せを。
 
  しばし、ぽかん、とこちらの様子を眺めていた幼なじみだったが、僕の目配せに気付いた後には、
  すぐに歩み寄ってきていた。
  つかつかつか、とつま先を叩き付けるような足音が響いたかと思うと、
 
  がつん、と。
 
  四角く硬い学校指定の黒鞄で、後輩の後頭部を殴りつけていた。

 ……はい?
  目の前で展開された光景が、さっぱり欠片も理解できない。
  いきなり人を殴ったのに、怖いくらいに無表情な幼なじみ。
  いきなり頭を殴られたのに、振り向くどころか手の力を緩めようとすらしない後輩。
  なにがなんだか、わからなかった。
 
  ぎりり、と後輩の抱きつく力が強くなる。
  息が詰まり、軽く咳き込む。
  それを見た幼なじみが、後輩の襟首を、ぐい、と掴んだ。
「ねえ、たっくんが困ってるの。離れてくれないかな?」
「…………」
「離れようよ。ほら、みんな見てるよ。恥ずかしくないの?」
「…………」
「離れてよ。離れなさい!」
  激高した幼なじみが。後輩の髪の毛を掴んで引っ張った。
  ぶちぶちぶち、と髪の毛の千切れる音がするも、後輩は一向に抱きつく力を緩めない。
  僕はといえば、天地がひっくり返ったかのような展開に、眼を白黒させるだけである。
  なんで、幼なじみはこんなに怒っているのだろうか。
  なんで、後輩はこんなにも意固地になっているのだろうか。
  僕の知る限り、幼なじみは人当たりも良く誰にでも優しく接していたはずだ。
  僕の知る限り、後輩は人見知りする方で、誰かに強く言われると断れない面があったはずだ。
  なのに。
  二人は僕を挟んで、まるで牙を剥いているかのような対立を見せていた。

 このままわけのわからない膠着が続くかと思われた。
  しかし、ふと、後輩が口を開く。
「……なんで、単なる幼なじみの貴女に、そんなことを言われなくちゃいけないんですか?」
  後輩のものとは思えない、固く尖った声がした。
「ただの幼なじみなんでしょう? 私と先輩はこういう関係なんですから、見て見ぬふりをすれば
  いいじゃないですか」
  言いながら、胸や腰をこすりつけてくる。
  普段の僕なら、その甘い感覚に腰砕けにもなりそうだが、今の僕にはそうなれない事情があった。
 
  目の前。
  幼なじみの表情が、般若のように歪められていた。
 
  今まで見たことのないその表情に、恥ずかしながら、僕は完全に凍り付いていた。
「こういう関係? ただ階段の踊り場で、写真を見せ合うだけの関係のくせに、
  そんなはしたない真似が許されると思ってるの?」
  あれ?
  幼なじみに動物部の活動内容を話した覚えはないはずだが。
「……それでも、“ただの”幼なじみの貴女よりは、私は先輩に近いですよ?」
  こんなこと、したこともないでしょう? と呟きながら、後輩は体を僕にこすりつけてくる。

 ――と。
「ただの、幼なじみなんかじゃ、ない」
  その声には、どこか陶然としたものが含まれていたような。
  幼なじみは、後輩から目を逸らし、そのまま僕の真正面に顔を合わせ、
「って、ええっ――んぷっ!?」
 
  おもむろに、唇を重ねてきた。
 
  突然のことに頭の中が真っ白に染まる。
  ぬちゃり、と舌が侵入してきた。
  とっさに頭を引こうとしても、がっちりと後頭部を押さえられていたので離れられない。
  舌先で歯茎をなぞられたかと思うと、こちらの舌を巻き込むように絡め取っていく。
  つぷ、ぷちゅ、と湿った音を響かせて、幼なじみの舌が僕の口内を蹂躙した。
  その舌使いは、とてもスムーズなもので、熟達した技術を伺わせる。
  しかし、僕の記憶が確かならば、幼なじみは異性と付き合った経験など皆無なはず。
  なのに、この接吻の慣れようは、一体何処で積み重ねられたのだろうか。
  後輩が振り向く気配がした。幼なじみの顔しか見えないので、どのような表情をしているのかは
  わからない。
「いやっ!? やめてっ!」
  悲鳴のような声と、ぐいぐいと後輩の暴れる気配。
  しかし、幼なじみの顔が離れることはなく、後頭部を固定されたまま、幼なじみの口づけは終わらない。
  後輩に抱きつかれていたかと思ったら、今度は幼なじみにキスされています。
  誰か助けて。
 
「貴方達! こんなところで何をしてるの!」
 
  願いが天に通じたのか、今度こそはの救世主が現れた。
  救世主は、風紀委員の腕章が似合う、いつも落とし物を届けてくれる先輩だった。
  やっぱり今日はラッキーだ。先輩が見回ってくれていて助かった。

2006/05/25 To be continued....

 

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