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もし神様がいるのなら……。―完全版―



1

「前線プレス激しく!!相手にスペース与えるな!!!」
敵さんの監督が一際大きな声で指示を送る。

俺達の夢へと続く県大会決勝。
そして、これが俺達三年の最後の大会。だからどうしても勝ちたい。
だけど、後輩の中場まで来て俺の足は完全に止まってしまった。
観客からの応援や、敵の監督の怒号が遠くに聞こえる。
体か重い、滝のように流れる汗を拭き取る力さえない。

はぁはぁはぁはぁはぁ。
俺は膝に手をつきガックリとうなだれた。

―――スタミナ不足
とある事情で練習時間が限られる俺には、どうしても克服できなかった弱点。
「純也ーっ!!パスいったぞー!!」
えっ?
俺の空白を打ち破る大きな声とともに、緩やかなパスが俺の前を通りすぎていく。

いつもなら何でもないパスに反応さえできなかった。
目の前で起こった現象が信じられず、俺は呆然とそのボールを見送った。
鉛のように重い足は一歩も動けない。
コロコロと力なく転がるそれは、そのままラインの外に出ていった。
その時悟った。
俺の最後の大会はここまでだ、と。

 

突然、バシーっと呆然とする俺の背中を誰かが叩いた。
かなり強い衝撃。俺はそれに驚いて後ろを振り返った。
「大丈夫か?純也」
そこにはサッカー部キャプテン 松山 章大がいつになく真剣な顔で立っていた。

やっぱり、はたから見てもおかしいのか。
あんな、パスにも反応出来ないんだから当然と言えば当然だが。

何も言えない俺の状態を確認すると、章大はキュッと眉をしめ監督の所へゆっくりと歩いて行った。
監督と言っても形だけで、試合での事実上の決定権は全て章大にある。

交代か……。
確かにそれが一番妥当な選択だ。
攻撃のチャンスはほとんどなく、ずっと守備におわれっぱなしだ。
戦術的にも、スタミナ切れのピエロより中盤で長く走れる選手の方が効果的だろう。
悔しいけど仕方ない。弱点を克服できなかった俺が悪いんだ。

章大が監督に一言二言伝えると、タッタッタッと小走りで俺の所までやってきて、数人の仲間を集めた。

 

「選手交代だ」
章大はゆっくり俺たちを見渡した後で、まるで自分を納得させるような静かな口調でそう告げた。
………やっぱりか。覚悟していたとは言え、やはり直接口から言われるとショックはでかい。
章大はそんな俺の落胆を気にもとめずに言葉を続けた。
「交代するのは……FWの牧。代わりにDFの佐藤を入れる」

……え?
交代は俺じゃないのか?
「おい、待てよ章大。何で牧なんだ?ここはスタミナ切れの俺を交代すべきだろ?」
「いや、牧を変える。お前は残って体力を回復させろ」
「でも、俺はもうあまり走れないぞ。今は我慢の時なのに。この先十人で戦うつもりか?」
「ああ」
正気か?只でさえ限界ギリギリで戦っているはずなのに……。
「いいか、みんなもよく聞け。
残念ながらチーム力は相手が一枚も二枚も上手だ。このまま延長、PKに行ってもまず勝てない。
だから一瞬のカウンターに賭けるしかない。
そして、今それが出来るのは純也だけだ」

「でも……俺は」
「大丈夫ですよ。純也さんならきっと出来ます」
「そうだな。まぁあと、二十分くらい十人でも何とかなるだろ」
それでも反論しようとする俺の言葉を遮って、みんな章大の意見に賛成の意を唱える。

でも牧はそれでいいのか?
コイツがこの大会に向けて誰よりも努力していたのを俺は知っている。
交代には納得出来ないハズだ。
「牧はどう思う?」
一人うつ向く牧に章大が問いかける。
「俺は……俺もそれしかないと思う。悔しいけど、それが出来るのは純也しかいない」
牧はワナワナと唇を震わせて、絞りだすような声でそう言った。
相当悔しいのだろう。自分の努力が無駄になるんだから。
それでも、牧は自分の私情を押し殺しチームのための判断を下した。

 

もちろん、その作戦が成功するとは限らない。成功の可能性は極端に低いだろう。
それでも牧は……みんなは、俺に全てを賭けてくれるのか。
俺には、もう走る力さえ残ってないのに……。
そう思うと、カァーッと熱い思いが胸いっぱいに広がっていく。

「待った純也。泣くのはこの試合に勝った後にしな。今泣かれると恥ずかしいから」
みんなを元気づけるかのように、章大はいつものおどけた口調で俺をからかってきた。

すると、試合中なのにまるで花が咲くかのように、笑いが広まっていく。

みんなありがとう……。俺、ここに入学して本当に良かったよ。

 

 

あれから二十分、俺以外の十人は相手の猛攻を必死で耐えていた。
スコアはかわらず1-1。
みんな、ユニフォームを泥だらけにしながら必死でボールを追っかけてている。
俺の方はほとんど動かず休んでいたおかげで、大分足が動くようになってきた。

しかし今の所、カウンターのチャンスは一度もない。
だけど、あいつらはきっとボールを俺に届けてくれる。

だから待った。一人最前線で。みんなを信じてるから。

 

そしてついにロスタイムギリギリ、敵のコーナーキックの溢れ玉を、章大が大きく蹴りだした。
ボールは大きな弧を描き、俺の方に飛んでくる。
チラッと見た相手ゴールの守備には一人しかいない。

行けるぞ。

俺は章大からのボールを丁寧にトラップし、マークについていたDFを左右のフェイントでかわす。
足が少しフラついたが、疲れなんて言い訳にならない。牧が、みんなが作ってくれたチャンスなんだ。
絶対に決める。

俺はそのまま広大なスペースを一人で駆け上がった。
ワーッと耳を裂くような歓声が聞こえる。わずか三千人収容の小さなスタジアムだったが俺には、
ここが国立のように感じられた。

最後のDFと向き合い上半身を左右にゆする。そして、俺の動きに釣られて敵DFの重心が傾いた瞬間、
その重心とは逆方向に抜け出した。

よし、最後のDFをかわした。これでGKと一対一だ。

 

しかし、ここで俺は有り得ないミスをしてしまった。
さっきのDFをかわすとき、深く切りこみすぎてしまいボールが流れてしまったのだ。

すでに流れたボールはゴール横、シュートコース、角度ともほとんどない。かといって、
再び切り返す時間もない。
いちかばちかだ。
俺は渾身の力を込めて右足を振りきった。

……音が消えた。
さっきまで聞こえていた地なりのような歓声も、監督の怒鳴る声さえも。
それは凪だった……風の変わる、いや空気の変わる前兆。

ネットにつきささったボールが力を無くし、ゆっくりと地に落ちた時、
空白を全て埋め尽すかのような大歓声が辺りを包む。
今、空気が変わった。

俺は小さくガッツポーズを取ると、みんなの元に走った。
信じられないくらい嬉しい。間違いなく人生最高の瞬間だ。
試合に勝った事、それ以上にみんなでもっとサッカーが出来ることが嬉しかった。

 

「最優秀選手賞、並びに得点王。兵藤 純也くん」

 

「おーい、純也早く来いよ。記念写真撮るぞ」
「あー、ちょっと待ってて。今行くから」
俺はさっきもらった二つのトロフィーを置き、メダルだけもってみんなの元に向かおうとして歩きだした時、
「純也さん、遅いですよ」
二年生の女子マネージャー、唯ちゃんが少し不機嫌な模様で俺を迎えにきた。
「はは、悪ぃ」

「あれ?純也さん。トロフィーは?」
「あっ。やべ、忘れた」
「もう、何やってんですか!!どうします?今から取り行きますか?」
「いや、いいよ。みんな待たすのは悪いし」俺はポンポンと唯ちゃんの小さな背中を叩き、
未だ何か言いたそうな口を閉ざすと、そのままソイツとみんなの元に向かった。

さっき唯ちゃんにトロフィーを忘れてきたって言ったけど、アレは嘘だ。
本当はわざと置いてきた。
だってユニフォームが一番綺麗な俺が、あれを持ってたら恥ずかしいだろ?

2

初めて見た純也くんのプレーは正に妖精だった。
もちろん、純也くんの事を初めて知ったわけではない。
聞いたことくらいはある。

兵藤 純也。
天才の名を欲しいままにしている学園のヒーロー。

私は耳が聞こえない。
そして産まれてこのかた音を聞いたことがないため、音という概念がわからない。
ただ、それを今日初めてわかった気がする。

音とは空気の振動。
教科書に出てきそうな言葉だが、今の私には断言できる。
何故なら、それを今肌で感じる事が出来ているからだ。
それは、理科の実験で行われる目の前だけで起こる現象ではない。
もっと大きく、私の肌を直接刺激している。

小さな観客席が揺れている。誰も跳ねたり、飛んだりしている訳ではない。
恐らくは、声で揺れている。
私の周りでは、耳を裂くような大歓声が辺りを包んでいるはずだ。
どの程度の声量なのか、少し興味があった。でも、今は肌で感じるだけで十分だ。
音は邪魔でしかない。
誰にも邪魔されずに妖精の踊りにしばらく魅了されていたいから。

本当は嫌々きた全校応援のはずだった。
しかし、気が付くと身をのりだして、手を握り締めていた。
さっきまで死んでいた筈の妖精は蘇り、まるで水をえた魚のようにイキイキとピッチを疾走している。
音の振動とシンクロするような激しい心臓の鼓動の、言うあてのない緊張感が私を包んでいた。

ピッチの上では、純也くんが最後のDFと向き合っている。
純也くんは上体を左右に揺すり、まるでダンスを踊るかのようなステップで敵をかわしていった。

そして、そのまま角度のない所からはなったボールは、うねりをあげてゴールの中につきささった。

……その瞬間、音の振動が消えた。
さっきまでスタンドを、空気を震わせ続けた振動が、まるで神隠しにでもあったかのように……。
ただドクンドクンと高鳴る心臓だけが取り残され、私の全てを包んでいた。

 

ネットに突き刺さったボールが力を失い、地に落ちた時、再び空気が振動しだした。
まるで地なりのように揺れるスタンドは私の心臓の音も言いようのない圧迫感もすべて打ち消した。
ただ、私の胸に静かに宿っていた炎だけは、より勢いをまして燃え上がっている。

その体の熱りに身をまかせ、ふと目を瞑れば、揺れる空気の中に、私と純也くんしかいない
不思議な空間に溶けこんでいく。
まるで、溶けあうことが自然の事のように。そして、そうあるのが当然の成りいきのように。

突然ピーンと頭の中で糸が張るような戦慄が駆け抜けた。
カッと大きく目を開けて、思わず笑ってしまいそうな口を手で押さえる。

ふふふ、あはははは。
そうか、そうだったのか。
この溶けていく感覚は当然のこと。
なぜなら私と純也くんは元々一つの存在なんだから。

神様は、私に耳をくれなかった。
だから、純也くんは神様が耳の変わりに与えてくれたんだ。
それは疑うすべのない確信。

純也くんは私のもの。

家に着いてからも、私の激しく高鳴る心臓の鼓動が静まる事はなかった。
それは劇的な試合を見たからかも知れないが、恐らくは運命の人を見付けることができたからだろう。
ふふふ。
私はニヤける顔を取り繕うともせずに、そのまま誰もいない家の中を、急いで私の部屋へと向かった。
心臓の鼓動は一向に静まる様子がなかったが、またそれが心地よい高潮感を私に提供してくれる。
その高潮感が冷める前に、私は柔らかな椅子に座り、机の上のパソコンの電源を入れ、
そのままネット回線を繋げた。
回線が繋がるまでのこの時間がもどかしかったが、不思議と嫌じゃなかった。

しばらくして回線が繋がると、私は急いでキーボードに指を走らせ"兵藤 純也"で検索を開始した。

カーソルが砂時計に変わってから幾分たつと、パッと画面が変わった。

思った以上のヒット件数。
さすが、純也くんね。

 

私は大量の情報の中から、出来るだけ役にたちそうな情報を集める。

兵藤 純也。誕生日は早生まれの3月14日。ホワイトデー生まれ……もう、忘れる事は無さそうね。
身長は178センチ、体重68キロ。右利きのO型。代表歴はU-13、U-15、U-17、U-20代表候補。

あっ、家族構成までのってる。
凄いわねこのサイト……。
どこでこんな情報手に入れたのかしら?

えーと、母子家庭で母と妹との三人暮らし。
彼が二歳の頃両親が離婚し、父親に引き取られる。
今の一緒に住んでる母は再婚相手で妹も連れ子。
父親の死後も、そのまま一緒に住んでるみたい。
ちなみに、妹は聾唖で手話をマスターしている。

……手話?
その言葉を見た瞬間に、私の心臓は一際強く高鳴った。
純也くんは手話ができるの?
心臓の辺りから何とも妙な優越感が、ジワジワ全身に広がっていく。
……ふふふ、やっぱりね。私と純也くんは繋がっているみたい。
私は回転椅子をくるりと回し、丁度私の真後ろにあるベッドに飛込んだ。
枕を顔に押し当て嬉しさを噛み締める。
運命の糸って本当にあったんだ。

しばらくそのままの体勢で、暴走しそうな優越をやりすごすと、私は大きく息をついて、
ベッドに座りなおし、ぼーっと左手の小指を見つめた。
ふふふ、ここから見えない赤い糸で純也くんと繋がっているんだ。
そして、やがて二人は結ばれる。

そうだ。
思いつくやいなや、私は急いでパソコンの元に向かい、あるワードで検索をかける。
少し恥ずかしい……けど。
"兵藤 純也 高山 円香"

ヒット件数は……ゼロか。
まぁ、しょうがない。今はまだね。
でも、もうすぐヒットするようになる。最もその時は高山 円香じゃなくて、
兵藤 円香になってるかもしれないけどね。

3

神様はわたしに少しイジワルだ。
わたしに普通の生活をさせてくれず、耳と家族を奪っていった。
だから、今の生活は信じられないくらい幸せ。
大好きなお兄ちゃんとお母さんと暮らす日々はまるで夢のようにさえ思える。
わたしは、神様にたくさんのものを奪われた。
だから、今の生活とお兄ちゃんだけは奪わないでね。

昨日、お兄ちゃん達サッカー部は、ついに全国大会出場の夢を達成した。
そのためか、今朝のお兄ちゃんの機嫌はすこぶる良好のように思われる。

わたし達の通う高校ははっきり言ってサッカー弱小校だ。
それに対し、お兄ちゃんは年代別の日本代表には常に選ばれるほどサッカーが上手く、
高校サッカー界の頂点に君臨していると言っても過言ではない選手である。
だから、お兄ちゃんの中学卒業時には全国の強豪校やクラブユースからたくさんの誘いがあった。
しかし、お兄ちゃんはどんな魅力的な話にも見向きもせずに、さっさとウチの高校に進学を決めてしまった。
何故そんな事をしたのか?
その理由は、恐らくわたしにある。

わたしは生まれながらに耳が聞こえない。
そんなわたしを受け入れてくれる高校は思った以上に少なく、自宅から通える範囲で考えると
ウチの高校しかなかった。
だから、お兄ちゃんは来年のわたしの高校進学を見据えて、あえてこの高校に進学したのだ。
お兄ちゃんは、自分から進んでこの高校に進学したんだって言ってたけど、それは恐らく嘘。
だってわたしは知っているから。
去年の冬の総体をテレビで見るお兄ちゃんのひどく寂しそうな横顔を。

晴れ晴れとした顔とは対照的に、お兄ちゃんの足取りはひどく重い。
曰く、全身が油のきれたロボットのような気分らしい。
スポーツ経験のほとんどないわたしにはいまいちわからない感覚ではあったが、ひとまずつらいみたいだ。

 

こんな構成のSSを昔に書いたことがあった。
あまりに稚拙な文章だったから消してしまったという悲しい過去の話だがね。

だからわたし達は少し早めに家を出ることにした。

透き通るような青空をゆったりと泳ぐ白い雲、衣替えをはじめた遠くの山。
子供の頃から見慣れた景色だけど、こうやってゆっくり歩くと色々な新しい発見がある。
こんな朝もたまにはいいかな。
そんな事を思いながら、わたし達二人はいつもの道を通り、桂橋へと向かった。

桂橋とは、わたしの家と駅との中間あたりにある大きな橋で、駅前付近の比較的近代的な街並みと、
わたし達の家周辺の片田舎のようなのどかな街並みとを二分している。
そんな大きな橋で、わたし達と待ち合わせをしている人が一人いる。

もう、沙耶お姉ちゃんは来ているかな?
――柊 沙耶。
お兄ちゃんとわたしの幼馴染みで毎日一緒に学校に行っている。

沙耶お姉ちゃんはいつも優しく面倒を見てくれる姉のような存在で、憧れてしまう程綺麗でカッコいい人だ。
少し気の強そうな印象を受ける大きな瞳と、高く綺麗な鼻。その下にはキュッと引き締まった
クローバー型の小さな唇。
短めな髪と緩やかな曲線を描く輪郭。
その全てが彫刻のような完璧なバランスをたもっている。
その顔に、165センチの長身からスラッと延びる細くしなやかな足と、わたしとは
正反対のメリハリのきいたスタイルがあいなって、さながらファッションモデルのような成り立ちだ。

わたしと沙耶お姉ちゃんのスタイルを見比べると、くやしいけどやはり見劣りしてしまう。
やっぱりわたしより沙耶お姉ちゃんの方がお兄ちゃんと釣り合っているのかもしれない。

沙耶お姉ちゃんは二年前、まだわたしが中学生のころにお兄ちゃんと付き合っていたことがある。

はじめてその話を聞いた時は、大好きなお兄ちゃんと沙耶お姉ちゃんだったから嬉しかったし、
二人を応援しようとした。

だけど、やっぱりどうしてもそれが出来なかった。
だって、わたしもお兄ちゃんが大好きだったから。

以来、お兄ちゃんと沙耶お姉ちゃんが楽しそうに会話をしているのを見るだけで、まるでわたしだけ、
のけものになったかのような居心地の悪さを感じた。
そして居心地の悪さを感じる度に、沙耶お姉ちゃんに対するやるせなさも積もっていった。

沙耶お姉ちゃんはわたしの気持ちを知っているはずなのに、どうしてお兄ちゃんを奪っていくの?
やるせなさは、やがて沙耶お姉ちゃんに対する苛立ちに変化していった。

だから、二人が別れたと聞いた時は不謹慎だけど、少し安心した。
お兄ちゃんをとられないですんだことも大きな理由のひとつだけど、何より沙耶お姉ちゃんを
嫌いにならないですんだから。

4


純也との別れ話は、自分からきりだした。
純也は初恋の相手だったし、その時も……いや、今でも好きだ。
だけど、私達は別れた。

高校に入り私と純也が付き合い始めると、今まで、気軽に話しかけてきた茜ちゃんの態度が
急によそよそしくなった。
茜ちゃんが私を慕ってくれているのは知っていたし、純也に対して兄を越えた特別な感情を
抱いているのも知っていた。
だから茜ちゃんは自分が姉のように慕っている女性に、最愛の人をとられてものすごく辛かったんだと思う。

私もつらかった。
小学校の頃から一緒だった三人の関係に生じた歪みがどんどん大きくなっていくのが。
そして、何より怖かった。心のなかでうねりをまく黒い感情が。

初めは本当にささいな事だった。
二人でデートしている時立ち寄った喫茶店で、純也が気をきかせて紅茶を持ってきてくれた。
そして純也は二つの紅茶をテーブルに置くと、慣れた手付きで私の紅茶に砂糖を二ついれたのだ。
私は紅茶に砂糖をいれない。
砂糖を二ついれるのは甘党の茜ちゃんの飲み方だ。
その時は笑って指摘したけど、それ以来少し気を付けて純也を見てみれば、純也のいたるところに
茜ちゃん染み入っていることに気付いた。
歩道の歩き方や買ってくる飲み物、歩くペース等の本当にささいな事。
しかし、確実に純也は茜ちゃん仕様に設定されている。

私達三人はずっと一緒だったはずなのに、いつのまにか純也は茜ちゃんによって染めあげられていた。
その事実がたまらなく悔しかった。
今純也と付き合っているのは私なのに……。
自分の独占欲がこんなに強いとは思わなかった。
気が付くとそれは、黒い濁流に姿を変え、わたしを飲み込もうとしていた。
だから、純也と別れた。
茜ちゃんは私にとって大切な存在だし、嫌いになりたくなかったから。

幸いな事に、私と純也が別れた後で三人の関係はある程度元通りに戻ってくれた。

どこかすっきりしないモヤが心に残ったが、これでよかったんだと思う。

「おはよう、沙耶」
いつもの時間、いつもの橋で私は純也達と合流する。
昨日、念願の全国大会出場を決めたからであろうか、純也の声はいつもより機嫌がいいように思えた。
「おはよう」
私は純也に軽く挨拶をすると、となりに佇む小さな影にも手話で挨拶をする。
"おはよう"
私の手話を茜ちゃんが理解すると、いつものハニカミをみせて
"おはようございます"
と相変わらずどこかオドオドした態度で丁寧に挨拶を返してきた。

茜ちゃんは同性から見てもかわいいと思うし、もっと自信を持つべきだと思う。
少し頼りなげな垂れ目と綺麗に縦に並ぶ鼻と小さな口。
笑顔のさいにこぼれる白い歯は綺麗な並びをしている。
それにはっきりとした輪郭と、肩に届く程度のストレートな髪質が重なり正にアイドルのような
可愛らしい顔立ちをしている。
そしてまた、ほっそりとした体つきと、制服のスカートからとびでる白く美しい足は、色気とは違った
魅力をかもしだしている。

「何ボケッとしてんだよ。早くいかないと間に合わないぞ」
私の沈黙を打ち破る純也の声が、頭の中を舞った。
「ちょっと、まだ時間あるでしょ?」
「全身筋肉痛でうまく歩けないんだよ」

やっぱり純也はご機嫌だった。
トロトロ歩く駅までの道の上でも、不規則に揺れる電車の中でも、聞いてもいない昨日の試合の話
が止まらない。
後半バテてたくせに……。

しかし、何だかんだ言っても、純也の活躍は大きい。
ウチの高校は大量得点と大量失点を繰り返す超攻撃的チームだ。
特に前半の攻撃力は凄まじい。
その攻撃をささえているのはやはり純也だ。

 

予選の得点のほとんどが純也絡みで、シュート、パス、ドリブル等の技術面、後悪い意味で
スタミナの次元が他の選手とは明らかに違う。
少なくとも、個人の力で純也を押さえられるDFはこの県にはいない。
決勝の相手のように、ウチの高校との実力差がかなりあり、かつ何人もマークをつけないと
純也は止められない。
それほど、純也は飛び抜けている。

しかし、攻撃の中心である純也がバテた後半からウチの本性が暴かれる。
魔法の解けたチームはあっという間に崩壊し、大量失点を繰り返す。
去年の大会の準決勝はもはやギャグの領域だった。
あの時、純也のハットトリック等で前半に5点のリードを奪い、初の決勝進出確実か?
と思われた後半にドカドカ失点し、まさかの逆転負け。
失望も怒りも通りこし、もはや笑うしかなかった。
ちなみにその試合、純也はスタミナ切れで後半ピッチに立っていない。

「そしたら牧がな………」
………長い。まだ続くのか。
純也はもう十分以上マシンガンのごとく延々としゃべり続けている。
さすがに話を聞くのがしんどくなった私は、適当に相槌をうち、聞いてるフリをする。
茜ちゃんもそろそろウンザリしてきただろう。
そう思い、未だしゃべり続ける純也を横目に、チラッと茜ちゃんの顔を覗きこんだ。
しかし、私の想像とは違い、茜ちゃんはずっと純也の話を、とても楽しそうに聞いていた。
いや、純也はもはや手話を行っていない。だから茜ちゃんが純也の話を理解するのは不可能だ。
茜ちゃんは単純に純也の嬉しそうに話す姿を見るのが楽しいのだろう。

やっぱり、この娘は本当に純也が好きなんだなぁ。
つくづくそう思う。
そして、そんな純粋な気持ちがもてる茜ちゃんが、何故か少しうらやましかった。

 

 

電車が駅につくと、私達は人混みの改札をすり抜け、トロトロ学校まで歩き出した。
それでも純也はまだしゃべってる。そろそろ止めてあげようか。

「あ〜、そう言えば純也。今日、朝の全校集会にサッカー部は出るの?」
「ああ、出るよ。優勝メダルとトロフィー、あと個人賞のトロフィーが校長から与えられるらしい」
「純也は最優秀選手賞取ったんだってね。さすが"妖精"」
さっきまでたらたら話してくれたお返しに、少し嫌味をこめて言った。
"妖精"。
それはあらゆる人を魅了する華麗なプレーをするという意味だ。
しかし、純也にその名がついた理由はもうひとつある。

気まぐれ。つまり、安定してチームに貢献できないと言うこと。
だから、純也は昔からその名前を嫌っていた。
「ははは、でもあれは俺のタイトルじゃないよ。みんなが頑張ってくれたから取れたんだ」
やっぱり純也の方が一枚上手だったようで、私の挑発には乗らずに、綺麗にスルーされてしまった。
このあたりの精神的な完成度も純也の魅力なのかもしれない。

そこまで二人で話していると、ふと背中に刺さるような嫌な視線を感じた。
その視線に釣られるように慌てて後ろを振り返ると、そこにはすごく怖い顔をした茜ちゃんが
私を睨んでいた。
振り返った私と目があうと、茜ちゃんのさっきまでの表情が一変し、すまなそうな顔でうつむく。
そのすまなそうな顔の茜ちゃんの姿を確認すると、私は少しがっかりしてふーっと小さな溜め息をついた。
私と純也が付き合っていた頃から、茜ちゃんは私と純也が二人だけで話しているのを見ると、
露骨に嫌な顔をする。
また、私と純也が付き合いだすんじゃないかって不安なのだろう。
茜ちゃんには私達の会話が聞こえないから。

やっぱり私達の関係は、完全に元通りってわけにはいかないのね。
私は再び純也にも聞こえるように、大きな溜め息をついた。

5

朝の陽射しを顔に浴びて、私はむくりと起き上がると、少し眠たい目を擦りながらリビングへと向かった。
朝の光が射しこんでいるとはいえ、雨戸で閉ざされた家は薄暗く、もう朝の六時をまわった頃なのに
リビングには電気さえついていなかった。
家族はここにはいない。父の転勤に母が付いていってしまったからだ。
普通の神経をしている親なら、耳の聞こえない娘を一人おいて単身赴任などできないだろう。
要するに、彼等にとっては私はその程度の存在なのだ。
私は少し自潮気味に笑い、そのままの笑みを浮かべ、台所へと向かった。

オーブンでパンを焼き、お湯を沸かす。
そして、それらを持ってリビングへ再び戻ると、大きなテーブルに座り食事をはじめた。
三つの椅子が並べられた大きなテーブルには、私ひとりしかいない。
物寂しいように見えるが、私にとってはこれが日常。
逆にアイツ等がいると私の気分重くなるだけなので、一人の空間の方が私には心地よかった。
何よりあの無機質な、まるで空気でも見ているかのように私の存在を否定する目でみられるのが
嫌だったから。

アイツ等にとって、私は邪魔者でしかないのだ。
そのくせ、世間の目を気にして、いつもは見せない笑顔まで浮かべて、よく学校行事に参加してきた。
結局のところ、アイツ等は人の前でこそ障害児の面倒を見る優しい親を演じているだけで、
仮面の下の瞳に私は入っていない。
昔はそのことで悩んだこともあったが、今はどうでもよくなった。

私は純也くんの瞳の中に入っていればそれでいい。

 

朝焼けに染まる空と、誰もいない校門。
ずいぶんと早くついた学校のグラウンドでは、サッカー部以外が朝練をやっていた。
いつもの朝は、運動部の朝練が終わった静かなグラウンドしか見ていなかったので、
砂煙舞う今の状態に少し違和感を感じた。
しかし、これも日常。
どうやら私の知らない日常はたくさんあるみたいだ。
私は日常の多彩さに少し感心した。
そして、私はそれを横目に見ながら、朝特有のハイなテンションで下駄箱へと向かった。

 

まだ朝早く、人影のない三年校舎にある純也くんの下駄箱。
今一度辺りに誰もいないのを確認し、その中を覗いてみると、靴の上にちょこんと置かれた可愛らしい
便箋が数枚発見できた。
やっぱり。
昨日の明日だし予想していた事なので、特に驚くことはなかったが、何か許せないモヤモヤが胸に募った。
ねぇ、純也くん。こういう事は気を付けなきゃ駄目だよ?
悪い虫がついちゃったら嫌だからね。
私は下駄箱の中から手紙を乱暴に取り出すと、それをクシャクシャにまるめ、鞄の中に突っ込んだ。

やるべきことはまだある、次は教室。
私は踵を返し、朝日でピカピカ光る無人の校内に入っていった。
人一人いない校舎とは、不思議なもので、人混みがない分、いつもの階段や廊下がひどく広大な
ものに思える。
そして何より、窓から溢れる朝日も、少し埃を被った階段も、果てしなく続くのではと思わせる廊下も
とても新鮮に感じられた。
私は腕時計でまだ時間があるのを確認すると、のんびりといつもとは違う世界を満喫しながら階段を
上っていった。
私の教室は二階、でも目的は三階。
三階には純也くんの教室があるからだ。

三階階段横にある教室。ここが純也くんの教室。
私はゆっくりそこに近付くと、開けっぱなしのドアから中を覗きこんだ。
中では窓から降り注ぐ光がいくつかの机を照らしていたが、それだけで人影は見えない。
私は小さくガッツポーズをとると、その無人の教室へと入っていった。

普通のクラスの教室は私のクラスとは違い、たくさんの机がある。
私のクラスは、いわゆる特別クラスで聾唖の生徒で編成されている。
本来なら聾学校に行くべきなのかもしれないが、この近郊にはそれがない。
そのため、特例として公立学校であるウチの学校に設置したわけだ。
最も、そんな生徒は三学年合計で三十人足らず。
だから、ずっと壁一枚隔てた普通がうらやましかった。

あ〜、そう言えば純也くんの妹も特別クラスらしいわね。
茜ちゃんと言ったかしら?
もしかしたら、何度か話した事があるかもしれない。
普通クラスとの合同行事は少ないくせに、特別クラス同士の行事はやけに多いから。

 

私は教壇の中に置いてあった座席表で、純也くんの席を確認し、数ある机をすり抜けて純也くんの机へと
向かった。
窓側の後ろから三番目、せっかくの窓側のメリットを無効化する柱の横にある席で、ここからは
外は見えない。
そのくせ陽当たりは最高で、窓から斜めに降り注ぐ光により、手をのせた机の表面は木のもつ暖かさとは
違った太陽の暖かさが感じられた。

……?
加地、カカ、中村、シェフチェンコ、リケルメ……。
目を下ろした暖かい机の上にどこかで聞いた事のある外人の名前や、日本人の名前が書きこまれている。
うーん、純也くんの好きなサッカー選手の名前だろうか?

私はなんとなく机の文字をツーッとなぞり、笑った。
サッカー選手の事はよく分からないけど、純也くんの生活に少し触れた気がして、
心の中から沸き上がる嬉しさのようなものを感じたからだ。

さて、誰かが来ないうちにさっさと終らせないと。
しばし感傷ににひたっていた私は、思い出したようにゴソゴソと机のなかに手を突っ込み、
一度中のモノを全て出すと、それを机の上に広げた。
そして、一つづつ机の上に広がっているものを調べてみる。
すると国語や日本史の教科書に紛れて、明らかに不自然なほどの綺麗な便箋に包まれた手紙があった。
しかも四通も……。

私は少し苦笑いをすると、その全てをカバンにねじこんだ。
残念ながら想像以上に邪魔者は多いみたいだ。
私はひとつ大きな溜め息をついた。

まぁ、ひとまず手紙を書いた人には申し訳ないけど、全て焼却炉行きね。
純也くんはわたしのモノだから。

やるべきことを全て終らせた私は、机の上に広がるものを整理し、丁寧に机の中に戻した。
何とも言えない圧迫感がさり、事を無事にやり遂げた事による安堵の溜め息がもれた。
しかし、ここから出ようとは思わなかった。
時間はまだあるはずだ。

 

時間があるのを確認すると、私は純也くんの椅子や机をベタベタとなでまわしはじめた。

純也くんはここで学校生活を送っているんだ。
そう思うと、今まで感じたことのない暖かい気持ちが心の内からジワジワと広がってくる。

その気持ちをもっと味わいたくて机をなで続けていると、ふと机の横にかけてある布袋に気が付いた。
一端なでるのを中断し、手にとってみたそれは意外に重かった。
何だろ、これ?
私は何の気なしに袋に右手を入れ、ひとつだけ中身を取り出してみた。

出てきたのは左胸に"兵藤"と刺繍のしてある体操着。
そしてそれは心なしか湿っているような気がした。

ドキドキドキドキ。
自然と心臓が脈打つペースを上げていく。
それほど今、私の右手にあるモノは魅力的で刺激的だった。
ドキドキドキドキドキドキ。
顔がカーッと熱くなっていく。
そして、その熱い顔のままでキョロキョロと辺りを何度も確認した。
誰もいない……。

これ、もらってもいいよね?

2006/05/24 To be continued...

 

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